桜花と作歌

正月なので美しいことを書いてみたいとおもう。岩波書店の戦後五十年の『世界主要論文選』を読んでいると、大岡信の『言葉の力』の中に面白い文章があった。少々長くなるが引用したいとおもう。

 

『京都の嵯峨に住む染色家、志村ふくみさんの仕事場で話していた折、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかでしかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。「この色は何から取り出したのですか」。「桜からです」と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいゴツゴツした桜の皮からこの美しいピンク色がとれるのだという。志村さんは続けてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮を貰ってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。』

私はこれを読み乍ら、思いを短歌の創作に結び付けて行った。桜の花は雄花だけで営みではなく、木の全体生命の営みによって現はれるのである。木の全てがあの美しい花の色を創出してゆくのである。私達はよく歌の出来ない悩みを聞く。この悩みとは何なのであろうか。私は言葉が現はれんとして、言葉が全生命たらんとする内奥の努力ではないかとおもう。歌を作るものにとって出来た歌は花である。そこに私は皮膚の下から血の中迄、言葉を循らさなければならないのだとおもう。目も手も言葉と化すのである。斯くして出来るのは歌だけではなくして、その人の匂ひとか気品といったものが同時に備はってくるのであるとおもう。禅宗の坊さんは座禅を組むことによって一つの境地に達した時に、体にアルファ線とかいうものが生まれてくると言はれる。私は私達が全身を言葉とする時、表現としての言葉を持つ時、身体は新しいものを加えているのであるとおもう。身体は常に内が外に現れ、外が内を作るのである。そこから自己への信が生まれるのである。

生命は全て自己の形を実現しようとする。それが止まったとき、それは死である。私達は人間である。人間とは言語中枢を持つ動物である。言葉による新しい形を生んでゆくのが生命形成である。新しい形を生まない言葉は駄辯である。新しい形を生むためには苦悩と努力が必要である。美しい自分を作るために今年もお互いに頑張りたいとおもう。

2015年1月8日