杳、顕、響、著

先日の歌会で松尾鹿次氏が『丹生の田中義昭氏は国語学者であり、

杳の字をはるかと読み、亦とうしと読ませるものがあるがあれは間違っている。また顕つと書いてたつと言うのもいけないといはれた』と述べられた。私は斯る言葉の使用を肯定するものである。肯定するものとしていけないと言われただけで、はいそうですかと言う訳にはいかない。勿論言葉には論理がある。論理があるとは何かの根底に何故にがあるということである。私が何故に肯定するかを述べ、田中氏が何故にいけないかと述べられて、氏の論理の方が透徹していると思った時は潔く私の主張を撤回するつもりである。私はまだ氏の何故にを聞いていないので私の理由だけを申し述べることにする。

よく人間は手をもつことによって人間になったと言われる。手を持ったことは人類の祖先が敵より逃げて樹上生活を持つようになり、樹を握る行動によって指が伸びたことによると言われる。もちろん猿が何時迄も猿であるのはそれのみではないということである。人間は手の出現と同時に言語中枢の出現によって人間となったのである。掴むことによって得た屈身自在な指の操作性が言葉と結びつくことによって物を作る生命となったのである。人間が物を作る姓名となったとき、樹上は最早真に機能を発揮できる所ではなくなり、且つ又多くの敵に対峙して優位を保ち得る確信が沸き来ったのであろう。即ち地上の生活者となったのである。

言葉の発展は物の発展と共にあったと言われる。物とは製作物である。物を作ることによって人間は言葉をもったのである。物が言葉を生み、言葉が物を生んでゆくのである。人間を定義するときによく手でも動物であるとか言葉をもつ動物であると言われる。手と言葉を持つ動物として人間は社会を作り、生命を他の動物と異なった軌道に於いて発展させて来たのである。斯く物の出現を担い、社会の発展を担うものとして言葉は無限に動的なるものでなければならない。人間の生命を表現するものとして、物や社会と共に生きるものでなければならない。新しい物、新しい社会と共に新しい言葉が生まれ、古い言葉は死んでゆくものでなければならない。

私達は短歌を作る。短歌を作るとは日本が形成し来った社会の内的表象としての心象を表現するものであるとおもう。心象を表すものとしてそれはイメージの創出である。言葉によって絶えず日本のイメージを創出することが歌を作るということであると思う。言葉は斯るイメージを創出することによってわれわれの言葉なのである。ここに私はわれわれ歌を作るものの言葉であると思う。よい言葉とはより瞭らかなイメージを作り出すことが出来る言葉である。私の経験で言べ、杳をはるかともくらしとも書く。このはるかは時間的、空間的な距離であると共に、それを越えた混沌の意味を含む場合に用いるのである。原初である。くらしは物未だ分かれざるくらしである。はるかはわれわれがそこから現れ来った距離である。響(な)るは単に聴覚のみではなく、水の落つる音のような重量感を伴った、筋肉覚を混ぜた聴覚の内容である。顕(た)つは単にあきらかになったのではなく、心に大きな比重を占めた場合に用いるのである。

感性の豊かさとは、現代の世界を感覚に表す力である。感覚は様々の表象を複合することによって複雑な現在を表象しようとするのである。そこにイメージがある。われわれがもつイメージは無限の複合表象より現れ来った世界像である。私は上記の言葉は近代的な複合表象の記号として、豊かなイメージ創出力を胚胎するものであると思う。私達は捜索するものとして何よりも生命に忠実でなければならない。固定された既成観念に執するものは言葉の木乃伊を抱くものである。思いを同じくされる方は大いに使っていただきたいと思う。

2015年1月8日