何時しか電線からつばめが見えなくなっている。早いもので妻が顔をしかめ乍ら、糞受けを架けていたのがこの間のようである。最早太洋を越えたであろうか。遭難せずに着いたであろうかと思う。そしてあの小さい体の何処に、長い距離を飛ぶエネル ギーと、方向感覚があるのだろうかと思う。
而し生の不思議と言えば、人間程驚異すべきものはないように思う。その昔石に一打 を加えて、道具として手の延長として物を作ったということは、身体をもって外に対した自然のプログラムを変更したということである。身体の直立と手の獨立、大脳の発生はこれ迄の生の形態を全く変えるものである。私はそこに生を表現する生命を見ることが出来ると思う。それは時のはじめとおわりを結ぶ永遠なるものとして、石に一打を加えた生命の外的方向には、現在の櫛比する摩天楼を胚胎し、内的方向に釈迦、キリストの深大なる思想を胚胎すると思うものである。それは渡り鳥や回遊魚と次元を異にした不思議である。
私は生命は全て完結をもつと思う。完結をもつとは外と内とが一つであるということである。魚は水を切って外とする。而し水を離れて魚の生はない。泳ぐとは生のありようである。魚の器官は水に生きる器官であり、魚の生命は水との總体である。道元は以水為命という、鳥は以空為命という。つばめが太洋を渡るというのは如何なることなのであろうか、我々より見れば、餌さえあれば何も難儀して広い大海を渡らんでもと思う。而しつばめは飛んで行く、そこにつばめの以空為命はあるのであろう。
自己が自己を作り、自己が自己を知る人間に於いて斯る生命の完結は、明々白々なるものとして我々の根底に於いて働くと思う。私があるとは斯るものの働きとしてあるのである。働くとは内を外にすることである。内を外にするとは、外に見ることによって内に還ることである。明白が自己を現わすことである。
私達は論証の根底に疑って疑うことの出来ないものを求める。全てがそれに基礎をも つ明証を求める。私はそれは人間が自覚的生命として、自己の完結によらんとする欲求であると思う。物理や数理の展開の必然や、歴史的必然と言われるものも、自己明他として、明白なるものが外に露はとするところにあると思う。単に知的なるものの みならず、近代絵画が純粋視覚の発展であるとき、人間の完結へ欲求として、矢張り 明白なるものが働くのである。人間の以水為命とでも言うべきものに視覚が到達する のである。自覚とは自己が自己を見ると言う意味に於いて発展は常に回帰である。内 面的必然的である。而して内面的必然の根底には明白なるものが働かなければならないと思う。
自己があるとは、世界の中にある自己が逆に世界を内容としてもつことである。より明らかな自己になるとは、より大なる世界に歩みを進めることである。より大なる世界に歩みを進めんとするとき、我と世界は乖離する。我々は意志的自己となる。意志とは自己の中に世界を実現せんとする欲求である。そこに世界は達すべからざる深さとなり、自己は一微塵となるのである。自己が世界を自己の中に見ようとする限り、唯我々は昏迷の中を彷徨せざるを得ない。明証を見んと欲するが故に暗黒に閉ざされ るのである。我々は自己の絶対の矛盾に撞着するのである。
自己の中に世界をもつとは如何なることであるか。我々は言葉や技術をもつことによって自己となる。言葉や技術は人類がはかり知れない時間の上に築き上げたもので ある。我々は生きて百年である。そこに世界は達すべからざる所以がある。そこは単 に量的な差ではない。次元を異にするのである。越ゆべからざる懸絶をもつのである。キエルケゴールの言うごとく、死として、絶望として迫ってくるのである。世界は自 己創造的であり、我々は創造的世界の創造的要素として世界を内にもつのである。世界に運ばれてあるのである。我々が働くとは世界に呼ばれるのである。そこに翻りがある。明白とは世界の呼び声に於いて自己を見ることである。
光りは闇を照らすという言葉がある。私は前に自己が自己を作り、自己が自己を知る人間の生命の完結はと言った。そこにはすでに作る自己と作られる自己、知る自己 と知られる自己との乖離がある。我々は何処迄も世界を内にもつことによって我であ る。自己が世界ならんと働くものである。常に暗黒に生きるのである。而してその故 にそれが世界の呼び声として明白に生きるのである。明白とは世界と我を結ぶ唯一者である。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」