時局と短歌

三十年程も前になるであろうか。松本章さんがみかしほに居られた時のことである。私が「あそびと短歌」というテーマで文章を書いて出した。昔は上流社会に於いて、「遊ばせ」と言う言葉が普通であった。「お帰り遊ばせ」、「お帰り遊ばせ」と言ったものである。労働が物を作るのに対して、遊びは神の内容を創ることであったのである。それを松本章さんが「働くものの歌でないと駄目だ」と言って返された。

当時は丁度、終戦の混乱が漸く秩序を取り戻そうとしてゐる時であり、マルクス主義が新しい社会の担い手として、世界を席捲している時であった。資本主義社会をブルジョアジーとし、帝国主義として資本家と労働者、搾取者と被搾取者の階級に分ち、労働者専制の呼称の下に世界革命を実現せんとするときであった。「蟹工船」や「女工哀史」が読まれ、街には赤旗が林立し、知識人は競って「帝国主義打倒」を叫んだ時代であった。歌人の多くも自分で如何に過酷な労働に生き、搾取されるものとして、如何に悲惨な生活を送っているかを表現しようとした。貧乏・失恋・病気が短歌の三種の神器であると聞いたのもその頃である。その悲惨を新たな社会建設の起爆力にさせようとしたのである。そこに働くものの歌の時代的要請があったのであると思う。

共産主義の大本山ソ連は崩壊した。倒れてみると真にお粗末なものであった。労働者専制として無限の富を生み、地上の楽園を樹立する筈であったが見るも無残なものであった。

生産は労働ではなく、創意と工夫だったのである。筋肉と汗ではなく頭脳だったのである。ノルマではなくして競争だったのである。機械の発展は人間を労働より解放した。農業すらも園芸化したと言われる。歌会でも働く苦痛を歌うものは少ない。短歌は「神あそび」に帰っているように思われる。

2015年1月8日