歌の価値について

 大分以前に拾い読みした一挿話であるが、織田信長が足利幕府を倒した時に、将軍 の料理人を呼んで食事を作らせた。そして丹精をこめて差し出した料理を一口入れるなり吐き出して「こんな水くさいものが食えるか」と言った。二回目も「まずい」と 言った。三回目に「さすが海内無双である。生まれて初めてである」と言って褒美の品を賜った。その時に料理人が「一回目は私の腕の限りをつくした高等な料理でございます。将軍は最も好まれました。三回目は下品な田舎料理でございます。」と言ったそうである。

 何故こんな事を書いたかと言うと、最近自分の好きと思った歌がよい歌である、という幼稚な論理を持つものがいると聞いたので、下位感覚である味覚ですら内面的発展をもち、好き嫌いを越えて、味わう力が出来なければ解らないものがあると言いたいためである。もし好きな歌がよいならば一つの歌の鑑賞に於いて一人が好きだからよいと言い、一人が嫌いだから悪いと言ったら評価はあり得ないことになる。そこに作歌は無意味である。何故ならば意味は個的なるものが普遍的なるものを担うところに成立するが故である。

 芸術の起源は好き嫌いによるのではなくして、神の相を露わとするところにあった。短歌の如きもその祖型と言われる歌垣は、神の喜びの具現にあったのである。即ちかくれた超越者をこの我に於いて形あらしめることにあったのである。超越者とは世界として集団を一つならしめる力である。共感をあらしめるものである。私はよい歌とは、生きているこの我が動いている世界を如何に言表するかにあると思う。

 好き嫌いは個体に関わる。而し価値は世界に関わる。粗野な人間は粗野を好む。しかし芸術は人類が永い歴史に於いて洗練して来たものである。私は斯る見地から「美とは時代の様式的正である」という言葉に共鳴を覚えざるを得ない。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」