墨絵を見ながら

 古美術商を営む某が、或る家が曽我直庵の鷹の絵の屏風を売りたいといっているが 要るかといってきた。美術年鑑を開いて見ると桃山時代の処に重文作家と載っている。私は二つ返事で承知をした。それから二、三日すると、見るも無惨なぼろぼろの屏風を持って来た。二つ折りの中央の処の木を虫が喰って、裏打の紙がぶら下がり、殆ど二つに分離してしまっているようである。これはひどいものだと思い乍ら開いて見てあっと驚いた。にらみ合っている二匹の鷹の凄まじい気魄に圧倒されたのである。紙魚の蚕食した跡であろう。白い斑点が周辺より中央に向かって時々墨痕に迄至っている。而し九十五パーセントは原型をとどめているように思う。

 私は古美術商が帰ってから暫く絵を見つづけた。そして色彩画とは受ける感じが違 う、この違いは何から来るのであろうかと考えた。私は鷹の目を見ながら雪州の彗可断璧図を思い出していた。両者に感ずるのは共に気魄であり、力である。私は見乍ら これは対象鷹を描こうとしたのではなくして、作者が自己の内に感ずる力を描こうとしたのではなかろうかと思った。鷹を描くのであれば彩色をする方が其の真に迫り得る筈である。而し例えば今この松に止まっている絵を彩色して、松葉を緑に、幹を褐色に描いたとすれば鷹は自然の中の一羽の鷹となるのみであろう。而しこの迫力は違 うように思う。鷹が存在の力、自然の力を内包しているのである。迫力は内包の強さ である。

 大分前になるので正確には覚えていないが、彫刻に彩色するのはナンセンスである と書かれていたように思う。彫刻は三次元的である。三次元の世界は力の世界である。それは視覚と異なった、関節覚、筋肉覚の自覚の世界である。其処に視覚的なるものが極力押さえられなければならない所以があると思う。其処に素材にのみを加えるのみであって、色彩を加えない所以があると思う。彫り込んだ凹凸の陰翳が力感をもつのであり、色彩は単純な程迫力は大である。視覚内容の多様性を拒否した墨一色は、彩色画よりも力の表現の意味をもつと思う。而し彫刻の三次元の世界に対して墨絵は二次元の世界である。墨絵の表わす力は、彫刻の表わす力と自ら異ならなければならないと思う。

 墨絵が力を表すとは、立体を内にもった平面となることである。無辺の平面となることである。無始無終の時間が其の中を流れる空間である。時間の否定としての空間である。時間の否定として、時間を内に包む空間である。力を内にもつ空間である。その力は宇宙創造の初めより否定を内にもつ生命としてありつつ、自己の存在を維持 してゆく力である。自己否定的なる時間を包むものとして永遠なる空間である。私は この鷹に感ずる力は、作者が見たこの力を越えた力であると思う。この鷹の力ではな くして、時を超えて生命が生命を維持してゆく力である。其処に墨絵の表現分野があ と思う。

 墨絵を語る時、よく気韻生動と言われる。それはこの働く力が表れていなければならないことだと思う。亦静即動と言われる。この静とは動く物を超えて、動くものを一の立場より見るものとして静であると思う。この鷹の目には太初よりの創造者の力が感ぜられる。静とは見る者をして思いを太初に至らしめるものであると思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」