「死について」に於いて私は、死を外に投げ出す事によって原始の人は霊を見たと言った。そして原始人はこの霊に怖れ、この霊に仕えたのである。一体この外に見ると言う事は如何なる事であるのであろうか。
数の最初に把握されたのは2であると言われる。それは男女であり、男女が人間存 在の根源的形態であり、根源的形態の自覚より先ず目覚めはあったが故と言われている。現在でも原始生活を営む土人の中には10迄しか数を持たない者がいると言う。10と言うのは人の手の指の数である。この事は先ず人間が知ったのは存在形態としての自己自身であったと言う事が出来ると思う。知るとは自己を知る事であったのである。而しこの2とか10とか言うのは、身体の直接態であって真に外と言う事は出来ないと思う。
私は数が真に対象として外となるには、数自身の内面的発展がなければならなかったと思う。幾何学はナイルの洪水に対する土地の確定の為に見出されたと言う。而して一つの定理の発見が更に他の定理を呼んで一つの群れをなすのである。一つの形の数との結合が、更に他の形の数との結合を導き出すのである。
物理学は関節覚、筋肉覚の無限の発展の内容であると言われている。 恐らく墳墓の構築の如きが其の発端をなしたのだろうと思われる。腕や脚の延長として挺子や滑車が見出され、見出されたものが更に次のより大なる力を見出し、一つ群れをなした処より、学として体系をもつに至ったものであると思う。
即ち直接態より離れて、直接態に見出されたものが、直接態に対立するものの内容 となった時、それ自身の発展をもち初めるのである。我として把握されたものが。我 に対立するものの内容となる事によって、我を超えたものとなるのである。否直接態すらすでに見出されたものとなる時、我を超えたもの、我に対立するものの意味を有 するのである。
知ると言う事は自己が自己を超え、自己に対立するものとして初めて成立するものである。自己が自己の対象となる事によって自己を知るのである。唯直接態としての身体を超えたものとして、身体を否定して来るものとして、対立する意味を有するものの内容となった時、物は内面的必然をもち、学的体系として逆に我々を限定して来るものとなるのである。
此の事は勿論超越的なるものとして我より離れて仕舞ったと言うのではない。物理 学が関節覚、筋肉覚の無限の発展であると言われる如く。我々はこれに於いてより高い自覚に達するのである。絵画が視覚の発展であり、生理学が器官病理の発展である如く、世界はコンパスの軸を身体に於いて描かれた巨大な像とも言い得るであろう。巨大なる我の実現であると言い得るであろう。其の巨大に於いて世界は我を包み、我を限定して来るのである。外とは逆に我を限定して来るものとして外なのである。単に我に非ざるものとして外なのではなくして、我を外に見出す事によって我に非ざるものとなる事によって外なのである。
私は例を科学や芸術にとった。而しそれ等は尚感覚的部分的なるものの内容として 真に我を限定して来るものではないと思う。唯それだけに外に見ると言う事は、それ 自身の内面的必然をもつものとして、我を超えて我に対する意味が鮮明になると思っ たのである。生命は死をもつ事によって生命である。生死の外化に於いて我々は最も 具体的な外をもつと思う。「神について」に於いて言った如く、霊は絶対的な力として我々に迫るものである。モーゼの十戒に見られる如く、霊の発展としての神は我々に命令するものである。キリストに於ける如く、唯恩寵によってのみ我々はあり、啓示によってのみ世界はありとするものである。
私は斯る具体的生命の外化の現化的尖端として国家があるのではないかと思う。国 家のみ戦争を宣言し、死刑を宣告し得る、それはかつての神霊の力を承るものである。唯国家もあらゆるものを内包しつつ発展するものとして、世界国家の方向に動いているように思われる。唯私は現代史について余りにも知らなさ過ぎるので語る事が出来ない。
我々の自覚は斯く自己を外に見るものとしてあるのである。対象構成的に我々はより大る生へと歩みを進めてゆくのである。私達は最早歴史の流れをはかり知る事は出来ない。唯その波間にほんろうされるのみである。而して其の巨大こそ真個の我なのである。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」