鬼子母のごとくやはらかき肉を食うなれば僅かな塩を吾は乞ひけり 葛原妙子
短歌雑誌を読み流しているうちにふとこの作品が目にとまった。作者の感性が深く私の心にふれるものがあったのである。以下少し評釈めいたものを書いて見たいと思う。鬼子母は周知のごとく、幼児を奪って其の肉を食ったという鬼神である。奪われた親達の嘆きを見かねた釈迦が、鬼子母の留守中にその子をかくし、子のいなくなった鬼子母が狂った如くさがすのを見て、釈迦が奪われた子の親達は皆そのように悲しいのだと諭し、それより幼児の守護神になるという説話中の人である。作者は勿論幼児の肉を食ったのではない。何の肉か知らないが、やわらかい肉を食ったのである。私達ならば歯に合っておいしいなあという肉を食ったのである。而し作者は鬼子母のごとと思った。食うという行為の中にかくされた罪を感じたのである。この罪の思いは何処から来たのであろうか。
人間は知る動物であると言われる。私達は物の尊さを知ると共に、それにも増して生命の尊さを知る。自己の生命の尊さを知ると共に他者の生命の尊さを知る。限り無い自己の生命の奥底を知ることは、一本の草、一匹の虫の中に秘められた限りない時間の重さを知ることである。而して私達は生きていく為に他者の生命を食わなければならないことを知る生命である。
聖書は知恵の果実を食った時より人間は罪を背負って生きていかなければならない と説く。原罪である。原罪とは生命の尊厳を知った者がその生命を食わなければなら ない悲しみであると思う。作者はこれを知るが故に負わなければならない、何うする ことも出来ない悲しみ、努力によって離れることの出来ない宿命を、一切れの肉を食 うことの中に感じたのであろう。下旬の僅かな塩を吾は乞いけりはこれを訴えて痛切 である。
「愚人の喜びよりは、賢人の悲しみを我は求めん」という言葉がある。愚人ならばやわらかき肉に舌づつみを打って、もう一皿と思うであろう。而し作者がもったものは美味の楽しさではなかった。僅かな塩を乞いけりの中にあるものは、沈潜した静かな悲しみのひびきである。
知るとは生命の矛盾の底に入ってゆくことである。深く知るとは悲しみの深くなっていくことである。而し偉大なるものはこの矛盾の中、悲しみの中より生まれるのである。仏教の中に慈悲という言葉がある。私は慈愛という如きものも斯る中より生まれて来るのであると思う。否この内なる悲しみが、外に人と会う時おのずから慈愛であると思う。母親が子を慈しむのはもとよりその純なるものであろう。而し自分の子を慈しみ、他人の子を疎むというが如きは真の慈愛ということが出来ない。生物的、本能的と言われても仕方がないと思う。人間に於いて真にあるとは斯くの如き知性、感性をくぐって来たものでなければならないと思う。同根なるものが否み合わなければならない。この否み合わなければないのが悲しみであり、同根に還ろうとするのが慈しみである。斯くして慈しみは、生物的、本能的なるものを超えて全人類へと亘るのである。冒頭の短歌に読者は静かな悲しみと共に、限りない悲しみの心を感ぜられると思う。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」