私達は他者の言葉を語ることは出来ない。私の言うのは何処迄も自分の言葉である。私達は自分の言葉で自己を見、自己を創って行くのである。藤木さんは「私は私、人は人、歌いたいものを歌い残すしかない」と書いている。それは誰も同じであって、言葉のもつ必然としてそれしかあり得ないものである。しかし私とは何か、言葉とは何かと問う時、私も言葉も抽象的な個としてのこの我を超えたものであり、私はこの大なるものとの関連に於いて捉えられなければならないと思う。
言葉を作った人はないと言われる。言葉は我と汝の呼び交しの中からおのずと生れて来たものである。四万五千年前人類が初めて死者に花を供えたと言われるクロマニョン人の時代は言葉がまだ明白でなかったと言われる。人類は永い時間の中に、無数の人々の対話によって現在の言葉を作り上げて来たのである。私達にしてもそうである。生れた時から自分の言葉をもっていたものはない。父母を真似、友を映し、学舎に学んで今の言葉をもったのである。私達は言葉を無限の時間、無限の人々が見出した形としてもつのである。世界が世界を見るのである。私達はそれを写して自分の言葉をもつのである。世界に作られて世界を作るものとなるのである。
斯かるものとして私は我々は何処迄も世界の中に消えていく意味がなければならないと思う。学ぶとか写すというのは自分を無にして世界の中に入っていくことである。それと同時に私は世界が自分の中に流れ入り、自分の中より流れ出る意味がなければならないと思う。私達が学ぶとはより大なる生命とならんとして学ぶのである。生命は外を食物として内に身体を作る。より大なる生命となるとは、身体の目的に適合させるために環境を変革することである。それがものを製作するということである。私達はこの我の身体を除いて環境を変革し、適合させるべき身体はない。そこに私達は自分の言葉しかもち得ない所以があるのである。環境を変革することは世界を作っていくことである。而して世界は無数の人の変革としてあるのである。私達はより大なるものとならんが為に絶えず自己を消さなければならないのである。それがより大なる生命実現の方法である。
私は「私の歌」というのも絶えず世界の中に消え、世界の中に現われるという意味がなければならないと思う。私達は作るものとして世界の基底に立つのである。一首の創作は世界の実現として、歌の世界が一つの事物を介し自分の中に流れ入り、自分の中より流れ出た意味がなければならないと思う。創作に於いては世界は絶対の個に自己を表わし、絶対の個に直接世界の自己創造に参画するのである。