昨日松本貢さんよりさつきが咲いたので見に来ないかと言われて行った。庭の花を見終わって目をあげると石の祠が祀ってある。「貴方とこ地神さん祀っとってんかいな」と聞くと、「いやそれ他所のやつでなあ、神さんの横に椿の木があるやろ、その枝を切ってえろう叱られてなあ」「それ亦何でやいなあ」 「いや其の家の亡くなったったおばあさんがこの椿の木を触るときまって腹が痛うなっりょったったらしい。それで椿の木に触るなと言う遺言があったらしいねん。それを知らなんだもんやはかいなあ」との事であった。触るなとは勿論傷をつけるなと言う意味であろう。私はこの腹痛くなると言う事にふと興味をもった。それはオーストラリアの山奥の未開社会での記録を思いだしたからである。
原住民と一緒に暮らしていた其の人の記録によると、原住民の一人がトーテムしている樹が枯れ出した。そうすると其の住民は何処も身体が悪くないのに食事が喉を通らなくなってしまった。そしてその樹が枯れてゆくに随って衰弱して行った。何とか食事をさせようと医者が手をつくしたが無駄だったと言う。そして彼は樹の枯れおえるのと同時に死んだのである。
トーテム社会は我々の論理的思考をもってしては到底理解し難い。而し私は恋の如 きはトーテムに近いのではないかと思う。恋に於いては恋する人の喜び悲しみは直に 自己の喜び悲しみである。真に恋する者にとって対象の死は自己の死である。恋は 思案の外と言われる如くそれは何故であるか己も亦知らないものである。私は其処に 情念の論理、生命の自覚の原型があるのではないかと思う。
自覚とは外に自己を表す事である。外を物とし物に即して自己を見出していく。而してそれは生命の自己限定として内即外、外即内の意味をもったものでなければならない。その事は最初に外を見出した時、外も亦生命として内外末分の状態であったと思う。近代的自覚の底流にも斯るものがあると言う事が出来る。真に創造するものにとって、学者は学問に、技術者は技術に死んでゆくのである。外に即すると言う事は外の無は内の無でなければならない。
勿論おばあさんのはトーテムではない。超越者との関わりである。対象と自己が同一の霊ではなくして、我の運命を決定する大なる力としての霊である。唯祈り祭る事によってのみ宥和を乞うものである。そのおばあさんは本当に腹が痛くなったのであろう。身体があって情念があるのではなく、身体は情念の影である。生命は身体的であるより深く情念的である。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」