みかしほ八月号の『ひとこと』と題した中で山本年子さんは「歌は発表された時点で作者を離れ、読者にどう解釈されても致し方のないことと思います」と書いている。発表された時点で作者を離れるということは表現の本質の問題である。表現ということは個としてのこの我を人類普遍の中に見ることである。一瞬一瞬の現われては消えるこの我の行履に、人類が人類が時間を超えて見出した形を宿せしめることである。それを担うものが言葉である。
私は作品が作者を離れることは作者を超えることであり、それは亦読者を超えることであると思う。それは作者が独善的な作品が許されないと共に、読者の独善的な解釈は許されないものであると思う。即ち読者にどう解釈されても致し方がないということはあり得ないとことであると思う。言葉とか文字とかいうのは一語一句が特有の意味を担うのである。独自の内容をもつのである。創作とは斯かるものによるイメージの構築である。意味をもつものを素材として構築することによって更に大なる意味の実現をもつものである。一語一句が意味をもつということは、それを離れては理解することが出来ないということでなければならない。山本さんはどのように解釈されても致し方ないと言う。しかし私は一語一句が特有の意味をもつ時、作品はこのように解釈されなければならないという要求をもつと思う。そのことは亦読者が字句の意味、亦それによって構築された意味を取り違えた時に作者は訂正を要求し得るものでなければならないと思う。作品の独立とか、作者を離れるということは、字句が固有の意味をもち、作品を鑑賞評価するのはその意味に随わなければならないことであると思う。斯く随わなければならない意味が創造の内容であり、人類普遍の形象であると思う。私達は永遠の生命をそこに見出していくのである。
私は一語一句が特有の意味をもちつつ一つの文章が構成されるということは人間の身体に似ていると思う。人間は六十兆の細胞により成るという。その細胞は一々が生命の完結体である。一々の細胞が完結体であることによって多細胞動物はより高い機能をもつことが出来るのである。そしてより高い機能をもつ統一体より一々の細胞の特質が決定されるのである。或いは肝細胞となり、或いは脳細胞となるのである。そして身体は世界を知り、世界を作るものとなるのである。文章もそのように思う。一語一句が特有の意味をもつということは、文章の成立の中から決定されるのである。文章の成立は統一体である。それは世界の実現である。そして斯かる世界は一語一句によって構成されるのである。私は私達の身体は無限の陰影を宿すと思う。そして世界は斯かる陰影の実現であると思う。短歌の表現も亦そこよりであると思う。