本箱を見ていると「現代日本文学全集」の中に斎藤茂吉の名が見えたので取出した。私は茂吉を尊敬している。他の人の歌は私でも作れそうな気がする。しかし読んで氏の歌はとても出来ないと思う。そういう割に私は茂吉を知らない。歌集も読んだことがあるが忘れてしまった。覚えているのは十首程である。文章も凄く精力的だなあと思った位である。だからと言って私は氏の著書を全部読み、全部の歌を暗記している人より理解が足りないと思っていない。理解とは知識より来るのではなくして心気契合より来るのである。
その中に「予が歌を作るのは作りたくなるからである。・・・・この内部急迫から予の歌が出る。如是内部急迫の状態を古人は『歌ごころ』と称えた。『このせずには居られぬ』とは大きな力である。同時に悲しき事実である。方便でなく職業でない。かの大却運の中に有情往来し死去するが如き不可抗力である」と書いている。この大却運とは何なのであろうか。広辞苑を調べてみたが無い。しかし大体解るような気がする。曾って何かの本で印度にしゅみ山という仙人の棲む世界一の高い岩山があり、天女が年に一回降りて来て羽衣でその岩に触れ、山が磨滅するのを一却というというのを読んだことがある。大却とは天地の始まった時よりの時間ということであろう。運とはその生命の運びであると思う。茂吉は作歌へと動かすものは此処より来ると言うのである。亦「予は予等の祖先の命を尊び味わい常に感謝しているものである。予が創造という語を用いて予の信念を表わすに当って常にこの深大深遠なる因縁の上に立脚しての論である。この点は貴君とは違うのである。」と書いている。即ち歌を作るのは却初よりの生命の働きであり、それが日本民族としての我々の祖先に働き、祖先の見出したものを承けることによって自分の創作があるというのである。勿論それは歌体を模倣するのではない。精神を承け継ぐのである。彼は「私の歌は出鱈目の歌である」と言っている。出鱈目とは如何なることであろうか。私はそこに作歌に当って如何なる構えも持っていない氏を見ることが出来ると思う。対象に対面して純一であることである。純一とは対象と自己が其処より出で来ったものを掴もうとすることである。却初より働く力が形作っていくものをさながらに表現せんとすることである。したこと見たものをどのように表現しようとするかにあるのではない。行為を起さしめ、見ることを要求せしめる生命を表そうとしたのであると思う。逆白波の歌、冬原の歌、一本の道の歌等々限りない力の働きを見ることが出来ると思う。形象が時間の深さに於いてあるのである。そこに「この点は君と違うのである」と言った所以があると思う。時間に於いて全て形あるものは移っていく。移っていくとは形が現在に消え現在に生れるということである。この我に消えてこの我に生れるのである。全宇宙は現在として実現し、この我に具現するのである。彼の歌は自己の行動、亦は人間の行動に於いて捉えたものが多い。それは今のこの我が大却運によってあり、今のこの我を把握することが生命普遍の実相を明らかにすることであったのであろう。私達が捉えれば一私事になるところを全生命の韻きをもつのは天 とより言い方がないと思う。
昨日の新聞に全て金属は純粋になるという性質を一変し、鉄も純度九九点九九九%となると が出なくなり貴金属の如き輝きをもつと書いてあった。氏の脳細胞は天によって純化されていたのかも知れない。松尾鹿次さんが氏は北上川の畔に平日頭を抱えて歌一首を作ったと言われていた。我々の到底なし得るところではない。その差が氏との歌の差であると思う。