しんしんについて

みかしほ七月号で岸田玲子さんより私の作品、「しんしんと降りいる日差し萌え出て直ぐき緑にアスパラガスは」 のしんしんを指摘された。この問題に対しては辞書と同行二人と言うべき松尾さんに依頼する方が適当かも知れないと思う。併し犯人として先ず私が出頭するのが本筋と思うので釈明した。

筆を起こす必要から私は何ヶ月かぶりに重い広辞苑を棚から下ろした。津津、振振、深深、森森、蓁蓁、駸駸、私は字を知らない自分に驚いた。知っているのは津津、深深、森森、の三つだけである。この内、私の作品に当てはまるのは深深である。読むと夜の静かにふけてゆくさま。寒気の身にしみる様と書いてある。そう言うと昔夜はしんしんと更けてゆきという映画の名台詞があったように思う。それでは何故夜が静かに更けてゆくのを深々と書くのであろうか。私はそこに静けさの深まりというのがあると思う。深深は静けさの深まりゆくことであり、夜はその代表例なのであるとおもう。岸田さんが言われている次に来る名詞は雪ではないかの雪も、音無く

として降る雪が万物を一ならしめ、静けさを増幅するが故に氏のイメージとして浮かんで来たのではないかと思う。私は夜にも雪にも増して万象動かず音無き昼に静けさを感じるのである。それは私だけではないようで、俳人なんかも昼無音といった言葉で昼の深い静けさを表はしているようである。この作品は音無き昼が育ちいるアスパラカスの直ぐき緑に目を遣らしめ、アスパラガスの直ぐき緑が昼の静けさをあらしめる。そこにアスパラガスは愈愈緑の直ぐく、天地愈愈静かならしめんとしたのである。そこからしんしんと降りいる日差しという言葉が生まれてきたのである。唯下手糞のために共感を得ることが出来なかったが意とするところは諒を得たいとおもう。

私は本分を書きながらおもったのであるが、静けさの深まりゆくということは動くものを包んでゆくのがあるように思う。昼無音というとき昼は万象が明らかである。形象は対立するものである。万の音を蔵するのである。万の音を蔵してひそまり返っている、そこに限りない深まりがあると思う。雪は雪自身が動いている。故に降り始めはしんしんと言わないようである。万象を白一色に覆うて降るときにしんしんと言うのであると思う。万象を覆うとは対立を失はしめることである。対立なきことは争ひなきことである。人は

と降る姿に安らぎと清らかさを見るのである。そこにしんしんとがあると思う。それに対して夜のしんしんは違っているように思う。昔は夜は魔の棲む世界であった。台詞の夜はしんしんとふけてゆきに続いて軒下三寸下るとは、丑満時は狂宴のために全ての悪魔が屋根に集る時であり、その重さで軒が三寸まで下るというのである。私たちの小さい時に裏の八女で与平鳥というのが夜になると鳴いていた。湖内さんによればふくろうかみみずくかであった。それが「よへーもうってねんころせ」と鳴くのである。すると祖母は「与平鳥が鳴いたら皆早う寝よ」と言って寝床に入るのであった。与平鳥は悪魔の使いであり呼び集める声だったのである。夜のしんしんは息を潜めて自己を無とするしんしんであったし、その残像を引くものであると思う。夜を歓楽の時間とする現代に於いては夜はしんしん、の言葉は私語となったのではあるまいか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください