奈良に入って気のつくことは重厚な邸宅の多いことである。以前に何かの本で紀伊路から大和路に入ると、家並みが立派になるのでよく解ると書かれていたのを思い出す。其の本によると大和は天領で租税が四公六民であり、役人の数も少なくて悪辣な行為もなかったらしい。それに対し紀州徳川家では、耕地の少ない領土の上に、御三家の体面を保つために、非道いときでは八公二民という誅求を行ったらしい。そこには役人と住民の争いのあったのは当然である。家並みの差は三百年の蓄積の差であったのである。
途中車が道を間違えて進めなくなってしまった。近所の人が出て来て手を振ったり、口々に何か喋っている。私の坐っている窓の正面には四十才位の女性が、自分の家の窓から隣のコンクリートブロックの塀に足を掛けて見ている。私はそのざっくばらんな庶民性に思わずほゝえみが浮んで顔を見た。この辺の距てのない生活のありさまが見えるようである。気兼ねなく暮せるということは美徳の一つに数えてよいであろう。車は二度三度右に向きを変えようとするが曲れない、止むなく千米程歩いて行くことになった。雨が止んでさわやかであるが歩くとさすがに暑い。途中新築の豪壮な家があった。誰かが「寺よりあの家が見たい」と言っていた。登り坂の千米はややきつい。
一万株と案内に記された牡丹は大方散りはてて厚い葉が風にそよいでいた。牡丹の花は美しい丈に崩れた姿は無残である、反り返った花びらが二片三片、突き落とされるようになって下を向いている。しべは伸びて細くなり、輝くような金色は疾うの昔に忘れてしまったようである。散った花は土に埋く積っている。花体を成さない花びらは何となく疎ましいものである。その代り芍薬(しゃくやく)の花が満開であった。炎え立つような真紅の花が多かった。併しそれも広い牡丹園の一隅をのみ占めるとき、却って寂莫の感を深めるものであった。或はそれは期待に対する失望感であり、老いの深まる私の感情移入であったかも知れない。当麻寺に入って先ず目についたのは、境内に渡された長さ六七十米、巾二米ばかりの木の組橋であった。それは本日の御練りに、中将姫が西方浄土へ渡御すべく作られたものであると思わせた。私は見ながらこのような説話を作った時代的土壌に思いを馳せた。平安時代に於ける浄土欣求穢土遠離の思想は凄まじいものであったらしい。輪廻転生を信じた人々は極楽に生れんことを希い、地獄に生れることを非常に恐怖したらしい。罪を逃れんが為に当時の王侯貴族は、財と時間のゆるす限りを吉野・熊野に詣ぜたと記されている。名を忘れたが或天皇の如きは十数回も熊野行幸をされ、その内幾回かは険難な道を撰んで 御自身難路を徒歩で行かれたというのを読んだことがある。その為に朝廷の財政の逼迫もかえり見られなかったようである。
一見華かに見える平安朝の宮廷は、陰謀と奸計の渦巻く所であったらしい。父子相背き、兄弟相食むというのは常のことであったらしい。虚言と殺戮は自分が生きるための欠くべからざるものであったようである。そして彼等はその自分の罪に怖れおののいたようである。それ程怖ろしければ為なかったらよいように思う。併し当時の氏族制度に於ては、自己の意志は氏族の意志によって決定されるものではなかったかとおもう。個人を超えた大きな意志が否応なく押し流し、駆り立ててゆくのである。一族が意志としての行動単位であり、その頂点として一族の栄枯を担うものとして、罪へと入ってゆかなければならないのである。
中将姫は二十九才で夭折したと誰かが教えてくれた、小さいときは継母に非常に虐げられたらしい。それが蓮糸で曼荼羅を織る仏への帰依によって、極楽浄土へ行けることが出来たらしい。それはその時代の上下挙げての一つの救いであったであろう。上は身を苦しませ、仏への帰依によって極楽に行けるという希望をもたせ、下は今はこんなに虐げられている。併し帰依によって来世は楽が出来るんだという希望である。そして多くの人々は自分を中将姫に化して、荘厳な儀式に自分が極楽に行く幻想をもったのであろう。
おそくなった昼食を伝えてくる、奥の院の隣の中の坊へ入るようにとのことであった。 中に入ると大きな玄関の中の薄暗い所で、幾人かの僧が物を並べて売っていた。それは実に殺風景であった。併し上り所はこちらと言われて、向きを転じたときに見えた堂の桧葺きは見事であった。時代に錆びた黒褐色の重厚な屋根はよく、堂内の荘厳を閑寂に包んでいる。立札があって奈良三名園の一つと記されている。それよりも腹の虫に餌をやるのが大切である。下駄を脱ぐと立っていた女の人が「一番奥の室に行って下さい」と言った。曲った廊下を人の後についてゆくと既に半分位席がふさがっている。蓋をとると寺院の常とする精進料理である。誰かが「こんなん食どったら健康によいやろなあ」と言った。きっと糖尿病か高血圧に悩まされているのであろう、同病相憐む、同感の思いで食べる。後人々が上を向いているので見ると、天井絵が一杯貼ってある。つまらん絵だろうと思って案内を見ると、私ももっている著名な仏画家木村武山の名があり、其の他幾人か私の知っている画家の名が出ている。私達門外漢が知っているというのは、その世界に入って見ると大概大したものである。私は名前によって評価を変えてゆく自分の眼を嘲笑しながら再び見上げた。
外に出て引卒されて二、三拝観に廻った後は、時間があるので自由に行動せよとのことであった。皆はさすが歴史を知る会の会員、旺盛な学究心はたちまち四方へ散って行った。私は本日の観覧の為に、特に用意された中の坊の門上の二階へと登った。ここは普段は使わないのであろうか、莚の敷いてないところは白い乾いた埃が堆く積んでいた。窓から見下すと見物は大分増えたようである。並んだ露店商の前を往来しながら、たこやきを頬張り、焼とうもろこしを嚙っている。私は子供の頃の祭を思い出していた。服装こそ変れ同じような情景であった。私はその昔も、その昔も同じような情景が連綿として続いたのではないかと思った。人々はこの行事のもつ近代的意義を求めようとしない、繰り返されることを当然としている。それではこのような行事の意義は何なのであろうか、私はそれを過去への結びつきに求めることが出来るようにおもう。現代でもよくコミュニケーションの場として祭りが催されている。併し現代のそれは近代的生産によって引き裂かれた人々の結合の意味である。農耕を中心とした昔に於ては生産が協同体的であった。古代の祭は超越者とのコミュニケーションだったのである。過去を現在の根源として、過去への結びつきに現在を超えた大なる生命を見たのである。
日本人は歴史書に大鏡とか、増鏡とかいって鏡の字をつけたと言われる。鏡は写して自己を見るものである。日本人は理想とか、夢に自己を見ようとしたのではなく、過去に映して自己を見ようとしたのである。私達の小さい時でも一番大切なことはしきたりを守ることであった。昔の日本人はしきたりを守ることによって、社会秩序を守ってきたということが出来るとおもう。その必然として故事とか由緒とか言うことが大事がられた。浅野内匠守が殿中で刃傷の沙汰に及んだのも故事にまつわるものであった。手の引き様、足の出し様の一つ位何うだってよいと我々はおもう。併し昔時に於ては大名家断絶の一大事を孕むものであったのである。村の寄合一つにしても定められた席順というのがあった。そしてその一つを破ることも社会秩序を乱すことであった。人間陶治も亦忠孝貞信といった既成観念に素直になることであった。
人間は物を作ることによって人間になったと言われる。社会とは物の生産と配分の機構であるということが出来る。物を作るに技術が必要である。技術は歴史的に形成されてきたものである。歴史的に形成されたとは伝統的であるということである。伝統とは未来へ伝えるべきものである。新しい生命が受け継いでくれ、より合理的な新しい形が生れるのが歴史的形成ということである。伝統は未来をはぐくむものをもつことによって伝統である。技術は自覚的生命の内容として無限の発展を内にもつものである。発展とは否定が肯定であることである。今の形が否定されて、より大なる能力をもつ新しい形が生れるのが発展である。物の製作に於て過去が未来を呼び、未来が過去を呼ぶのである。技術は未来に過去を映し、過去に未来を映すことによって進歩してゆくのである。
天照大神と豊受大神を床に祀り、飯篠長威斎を剣聖とし、芭蕉を俳聖とし、柿本人麿を歌聖とした日本人は、何処迄も技術を過去への深化に求めたとおもう。過去に未来を映すのである。それに対して神の創造を終末観に捉えた西洋的生命は、未来に過去を映す方向に歩んだとおもう。日本的社会が因習に停滞したのに対して、進歩と発展の方向である。私はそれは歴史的形成の大なる流れの撰択であって、何方が善いとか悪いとかは言うことが出来ないとおもう。進歩には時の分断がある。そこに永遠の相は失われなければならない。現在問題となっている抽象的個人の、刹那的退廃の因子をそこに含んでいるとおもう。過去に映す方向は停滞の反対給付として、即天去私とか、わびさび、平常底、自然法爾に自己を見出して行った。
今や世界は一つである。そして一つの世界は進歩と発展の方向を撰択している。歴史の流れは生命の大なる自己形成の流れである。流れを決定するものは流れ自身である。個人の恣意によって流れを変えることが出来るものでない。唯われわれも意志を有する歴史形成の個として、形成の課題を洞察し、より大なる世界への誘導をもたんとするのみである。斯る意味に於て歴史的現在が持つ課題は、私はよく言われる人間喪失と人間回復にあるとおもう。喪失とは進歩による分断である。回復とは全生命への共感である。
前にも書いた如く自覚的生命の表現としての具体的なはたらきは、過去に未来を映し、未来に過去すことである。併しこの二つは相反する概念である。相反するものは同時に現れ得ないものである。歴史は何れかを優勢として動かなければならないのである。併し一方の行き過ぎは、一方の反撥として均衡をとってゆくものである。私は現在人間喪失を最も感じているのは日本人ではないかと思う。そして新しい世界観を確立するものも日本人ではないかと思う。勿論因習や停滞は許されない、進歩の分断を包むものとしてある。包むことによって真に進歩と個があるものとしてである。
私は今少し紙面を借りて私の時間についての考えを暦によって検証したいとおもう。人間は暦を作ることによって初めて時間をもったと言われる。暦とは過去を参考として一年間の予定を作るものである。暦は経験の集積であると共に、来年の必要によって作られたのである。暦は過去と未来と統一としてあるのである。去年の中に来年があるのであり、来年の中に去年があるのである。私が過去に未来を映し、未来に過去を映すというのはそうゆうことなのである。そして過去と未来が出合うということが作るということである。私達が行為する今というのは、何時も過去と未来が出合うところである。われわれは記憶と願望が結びつくことによって物を作るのである。そのことは物を作るということは、過去と未来の延長をもつということである。時間の初まるところは過去でも未来でもなくして現在であると言われる所以はここにあるのである。
訳の解らぬことを思ったり、考えたりしている内にお練りの時間が迫ったようである。 散らばっていた人々が橋のめぐりに集り、緊張に動きが止まって来たようである。四五人しかいなかった観覧席は人で溢れ、井上秀雄さんは「撮してくる」と言って出てゆかれた。「来た、来た」という声に目を凝して見ると、葉蔭の間に何か面のようなものが見える。やがて面を被った二人が現れ、其の後にやぐらのようなものを担いだ四人が過ぎ、稚児行列がすんで、仏面を被り、異様な衣裳を着けた十数人重々しい足取りで歩み去った。その後二人の仏面を被った男二人が、手を差し出し、足を踏みしめる勇壮な舞を踊って過ぎ去った。唯その一々が何を象徴しているのか知らない浅学な私は充分な鑑賞の出来ないのが残念であった。それでも日本の古代に触れ、古代の心を考え、我々の内奥に流れるものに思いを致し、思想を豊潤になし得た有意義な一日であったとおもう。
小野に着いたときは大分暗くなっていた。 どうして帰ろうかと思っていたら内藤会長さんが送って下さった。
長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」