私の書いた九月号一首抄について疑義を抱かれた方があるようである。それは岩城和子さんの歌を例に挙げ、日常の中に埋没していく自己であり、後川さんのを日常を包む自己であると言ったことについてである。以下それについて少し釈明をしたいと思う。
鯛は深海にあって人間の五千倍の明るさでものを見ることが出来ると言われる。しかし見るのは餌と敵だけであると言われる。感覚は生存のためにのみ働くのである。生物は生存すべく感覚の対象をもつのである。而して斯かる対象に反応することによって生命を形成していくのである。形成していくことが自己を持つことであり、そこに自己を持つのである。私達の身体は斯かる形成の無限の蓄積である。私達は生れて幼・少・青・壮・老と身体を形成していく。身体の形成は食物を摂り、敵と戦う日々の蓄積である。食物を獲得し、敵と戦うのが我々の日々の営みである。斯かる営みはその時その時に現われて消えていくものである。而して斯かる営みの蓄積として、時の統一として形成した身体は営みを内容とするものとなるのである。
私は人間は斯かる生命が自覚的となったものであると思う。自覚的になったとは、外に物を作り、内に意識をもつ身体となったということである。身体が言葉を持ったとき、日々の営みは日常となり、時の統一としての身体は、過去を記憶とし、未来を希望とする無限の創造として永遠となるのである。日々の営みが尚生物的なるに対して、神の自己創造の姿として、神の摸像となるのである。取上げた作品の指紋は生存の働きに無縁である。そこに純なる生命としての身体に対している作者がある。
私は自覚的生命としての人間の働きは、以上述べたような二重構造に於いて自分を見ていくのであると思う。色即是空とか、瞬間即永遠と言われる所以がここにあると思う。