感動への断想

新聞を開いていると「捨て身も完敗、感動した」という見出しが目についた。始まってまだ二日目の大相撲東京場所で、舞の海が貴乃花に負けた記事である。歌を作るものとして、感動ということに関心を持つ私はどのような事が書いてあるのだろうと思った。読むと、「捨て身の下手投げも自ら素っ飛ぶようにつぶされた」。舞の海は「感動した。強い横綱『貴乃花』とやれて良かった。やめても思い出になります」とのことであった。私は読みながら負けて感動したというのは珍しいと思った。普通負けたら口惜しい思いをするものであろう。そして励ましやら慰めの言葉に感動するものであろう。しかし私はこの記事の中には感動への真実があると思った。

感動とは何か。私は対象に触れて新しい、より大なる自分を見出すことであると思っている。この場合より大なる自分とは如何なるものであろうか。彼は負けたのである。勝負の世界で負けたということは収入を少なくし、名を低くすることである。個人的にも社会的にもプラスになるものは一つもない。亦それによって彼が開眼し、一挙に強くなった自覚もないようである。強くなることは倦まざる鍛錬の上に成るものだからである。私は彼が感動したのはそのような彼の世の中のあり方に関るものではなかったと思う。貴乃花の圧倒的な強さに力の世界の深さを感じたのであると思う。相撲は二人による格闘技である。それは筋肉覚、間接覚による身体の形の表現である。そこに力はさまざまの形を持ち、自己を深めていくのである。それが相撲の世界である。今この一点に於いて如何なる形が勝敗を決めるか、両者の力の集中が如何なる形を生むか、そこに相撲は人の興を呼ぶのである。斯く無限の形が生れるところに相撲があり、無限の形を内に持つことによって心・技・体の三位一体としての人格が生れ、人間の行為となるのであると思う。この世界に自己を映すことが自己を完成していくものとしての感動であると思う。舞の海はそれを垣間見たのであると思う。

表現は全て感動である。私達は生命として外を内とし、内を外とする。斯かるものとして私達の目や耳は絶えず外に向かっている。斯かる外として我々の対象となるのは人間が作って来た世界である。私達の欲するのは自然ではなくて物である。気にかかるのは鳥や犬ではなくして他人の目である。私達は物や他人と関ることによって生きるのである。物を作ることによって性格を作られ、自己を他人に映し、他人を自己に映して自己を作っていくのである。他人や物は自己ならざるものである。自己ならざるものに関ることによって自己があるとは、我とは自己と他者と物を包む大なるものの現われとしてあることである。而して大なるものの現われは他人に自己を映し、自己に他人を映すことによってあり、物を作り、物に作られることによってあるのである。それはこの我が働くことである。この我が働くことが大なるものが現われることであり、大なるものの現われるのは、この我が働くことであるところに生命形成があるのである。この我に大なるものを現わすのが表現であり、働くことに大なるものに出合うのが感動である。私達の心が動くということは斯かる生命形成を求めているということである。生命は常により大ならんと欲するのである。

この我と、我ならざるものとしての物や他者をつなぐものは言葉である。私達は言葉によって記憶として無限の過去を持ち、想像によって無限の未来を持つのである。大なるものとは言葉によって現われる世界である。大なるものは言葉によって自己を露わにするのである。私達は短歌を作る。短歌とは日本という特殊風土に於いて、そこに生きる人間が風土を外として言葉に見出して来た生命の相である。大なるものがここに見出した生命として、無限に働くものである。過去を持ち、未来を持つとは働き生んでいくものである。短歌は斯かる形として日本の歴史的創造の中に出現したのである。勿論環境として外は変転する。近代の交通・通信の発展は日本を一特殊風土として閉じ込めておくことを許さない。今や外は全地球上の外である。しかし内が外を作るというとき我々は何を足場にするのであるか、私は無限の歴史的創造を負う日本的性格による以外、他はないと思う。そして短歌は日本の感動の発現として多く すべき世界原理を持っていると思う。

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