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想像

 私は自分を省るとき絶えず何かを想像しているのに気が付く。併し想像とは何かと問うとき、自明のものと思っていたのが意外に茫漠としているようである。広辞苑を開くと、そうぞう〔想像〕①〔韓非子解老編〕 実際に経験していないことを、こうではないかとおしはかること、「ーを逞しくする」②現実の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を心に浮べること。と書いてある。これだけでは説明として不十分な気がする。経験していないことをどうしてこうではないかとおしはかることが出来るのか、現実の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を如何にして心に浮べることが出来るか、更に岩波哲学辞典を開くと種々の学説を列記した上、ビントの考えが比較的正確に心理的事実を捉えているようであるからとして以下の如く説いている。想像は「心像に於てする思考」で、想像活動は統覚の綜合及び分析作用の一の場合であり、本質に於て悟性活動と同じ。想像活動の動機は現実の経験或は現実に近い複合経験を作り出すにある。初め種々の表象要素及び感情要素から成立し、過去の経験の一般内容を含んでいる多少包括的な全体表象が時間・空間的に結合している多数の一定の複合体に継続的に分析せられ、最後に亦全体表象として全体が漠然意識に浮ぶ。想像活動には発達上、所動的及び能動的の二段階がある。前者は比較的動的注意状態の下に受動的の予想を主とし原印象のままに想像作用を活動せしめる場合、後者は、一定の目的、表象に従い能動的注意状態の下に表象結合に対して意志的の禁止及び撰択が著しく現われる場合である。と書かれている。これに於て私達はいささか鮮明な像をもち得るようである。以下両辞典を参考にしながら私の考究を加えてゆきたいとおもう。

 初め種々の表象要素及び感情要素より成立するとは如何なることであろうか、私はそこに人間の自覚ということがあるとおもう、生命は内外相互転換的に形成的である。環境を外として、食物を摂ることによって身体を形作り、老廃物を排出することによって自己を維持してゆくのである、自覚的とは斯る内外の転換が技術的となったことである。自然も技術的である。併し自然の技術は食物としての外を捕獲し、身体に化せしめる技術であった。それが自覚的であるとは身体の機構に擬えて外を変革することである、手の延長として外を道具と化し、脚の延長として車を作り、目の延長として望遠鏡を作ることである、斯る技術は経験の蓄積より来るのである。われわれの行為はその根源を生死にもつ、蓄積とはより大なる生を形成することである。それは一々の瞬間の行為を超えて瞬間を包むものをもったということである。内外相互転換は一瞬一瞬である、身体は斯る一瞬一瞬を内に包み統一するものとして形作って来た、瞬間を包むものをもつとは身体の斯る深奥が形をもったということである。形成作用として形は一瞬一瞬の内外相互転換としての営為を自己実現の手段としてもつのである。手段としてもつとはより高次なる生命が自己実現的にはたらくところに内外相互があるということである。蓄積は斯る高次なる生命が自己を実現してゆく形相としてあるのである。斯る高次なる生命の内容として、一瞬一瞬は外の方向に表象要素となり、内の方向に感情要素となるのである。一瞬一瞬は生死の転換として独自の表象と感情をもつのである。斯る表象・感情要素に対して高次なる生命は全体表象となるのである。それは要素がそれに於てあるものとして世界表象・宇宙表象の意味をもつものである。

 私は想像はそこより生れるとおもう、前にも述べた如くわれわれの行為の根源には生死がある。そして表象・感情はその根源を行為にもつのである。根源に生死があるとは、高次なる生命は生死に於て自己を形成し、実現してゆく生命であることである。内外相互転換とは内の方向に生を見、外の方向に死を見る生死の転換である。形成作用とは内を外に映し、外を内に映す無限のはたらきである、それは死を生に転ずるはたらきである、外としての食物の欠乏は死を意味する、それを道具をもって獲得し、栽培は飼養することによって充足するのが内外相互転換である。表象は外を内によって変革し形象化したということである。一瞬一瞬の無限の内外相互転換とは作られたものが作るものとなり、作るものが作られたものとなることである。挺子がその力の感覚に於てころと結合し、車の使用が畜力と結合するのも作られたものが作るものとしての内面的発展をもったということである。車と牛馬は別々の表象である、それが運搬という目的によって結合するのである、それは或は偶然であったかも知れない。併し一度それが結合するとき、生命は自己形成として新たな力を求めそれと結合せんとするのである。作られたものとしての車と牛馬の結合表象が作るものとして新たな力の結合を求めるのである。水の力が、火の力が新しい力として世界形成へ参加を求められるのである。私はそこにわれわれの想像が生れるのであるとおもう。ゲーテはバラの花を見ている内に花びらの中より花びらが湧き出て部屋が花びらで埋まったという。内が外を映し、外が内を映す無限の過程に於て内に蓄積された表象が一つの目的に向って結集するのである。記憶の表象が湧き出て参加するのである。そ の中から目的に合うものが撰択され、構成されて一つの形象が作り出されるのである。

 生命は内外相互転換である、それに対して想像は内的表象の展開である、そこに外としての具体性はかくされて極小の意味をもつ、内外相互転換は対立否定としての転換である。それに対して想像は対立否定の意味が極小となるのである。それだけに抵抗をもたない想像の形象は自由であり、飛躍的である。私はそこに世界形成の発展の一因由があるとおもう。物への検証が極小にされているといっても表象はもと経験の内容である。それが映し映されることによって主体的表象として凝結したものである、それは形成的世界を離れるものではない、物の残影を宿すものである。物に実現されることを予期するものである。自由とか飛躍とかいうのは世界形成を内的表象に於て拡大することである、私はここに想像の世界形成に於ける先導性があるとおもう、内と外とが相互否定的緊張であるとは内は内の世界を構成し、外は外の世界を構成するということである、身体と物は各々独自の体系をもつということである。それが否定的に一として世界は自己を露わにしてゆくということである。生命は世界を生命の形相たらしめんとし、物は世界を物の形相たらしめんとする、併しその何れに於ても内外相互転換としての世界形成はあり得ない、そこに否定的一としての世界形成はあるのである。想像は内的方向の極限として私は想像なくして世界形成はあり得ないとおもう。物質はその固定性に於て物質である、想像が物質性を極小にするとはその固定性を極小にすることである、自由とか飛躍とは変革である、新しい形はそ こから生れるのである。而して内外相互転換的に形成的であるとは常に新しい形が生れることである、そこに想像があるのである。

 斯るものとして想像は世界が世界を見るところより生れるとおもう。想像はこのわれがする、併し想像としての表象の結合は世界の形成的操作にあるのである。表象そのものが世界の具現としてあるのである、表象が生れるには表現的行為がなければ ない、表現的行為があるためには技術がなければならない、技術は一人の力より生れることは出来ない、多くの人の力の組織より生れたのである。このわれは斯る世界の中に於て汝に対するものとしてこのわれである。斯るものとしてこの我より生れる形象は世界は如何にあるべきかであり、世界を作るものとして我と汝は如何にあるべきかであり、世界に於ける我の地位は如何にあるべきかである。ビントは想像に能動と所動があるという、私はそこに上記の如く積極的な世界形成の肯定的方向に対して否定的な方向を見ることが出来るとおもう。肯定的な方向が生に向うに対して否定的な方向は死に向うのである。環境汚染、原子力破壊、更に死後の在り方などに向うのである。言う如く死には展開がない、そこには原印象の活動あるのみである。併しての想像は両方向であって離れたものではない。生命は生死に於て生命である、所動的想像あって能動的想像はあるのであり、能動的想像あって所動的想像はあるのである。希望をもつが故に悲観をもつのである。更に私は原印象の活動の中に唯一者への思索に至る萌芽があるのではないかとおもう。死への想像は生への希求を背後にもつのである、絶対の死を見ることは絶対の生を見んとすることである。そこに生死を超えて、生死を自己の影とする絶対者への回心が生れるのである。生あって死が 死があって生がある全体者に帰一するのである。私は所動的想像はその入口に立つものであり、その延長線上に斯る信の世界があるのではないかとおもう。

 想像はこの我がする、併しての我がもつ表象の結集は一々のこの我を超えたものである、表象の蓄積は限りない人類の蓄積である。われわれは斯る蓄積を歴史的形成としてもつ、表象は歴史的世界に於て蓄積され、われわれは歴史的世界の形成要素として表象をもつのである、そこに想像は世界が世界を見る所以があるのである。われわれが想像するとは歴史的世界の形成要素として想像するのである。形成要素として想像するとは、想像は歴史的世界の自己形成としてあるということである。われわれが形成要素となるとは一つの核となることである。世界の中心としてこのわれが映した外としての表象が現在の目的に結集して世界表象を構成することである。この現在の目的は世界と我との接点に於て世界がもつ現在の歴史的課題よりわれに要請してくるのである、能動的にまれ所動的にまれ想像も亦ここより来るのである。歴史は常に危機としてある、内外相互転換は生死相接するところであり、歴史はその深奥に危機をもち、危機によって動いてゆくのである。想像の最も激しくはたらくところはこの歴史的危機に面するところである。

 この我が世界の核となるとはこの我が全存在としての世界の初めと終りを結ぶものを映すということである、この我が見ることによって世界があることである。而してこの我は汝に対すことによってあるのである、対話によってあるのである。対話とは斯る世界と世界が己れの実現を目指して対することである。故に対話は内に世界をもつものによってあり得るのである、われわれが言う世界とは斯る世界と世界の無数の対話の場所である。世界は無数の小世界を内包することによって、その対話に於て動転してゆくのである。想像はこの対話に於て他者を自己とし、自己を他者とし、他者より歪められ或は他者に展開するより来るのである。世界と世界が無限に対することによって世界がある故にわれわれは希望と挫折をもつのである。世界は一々が世界を内包するものをもつことによって世界である単一なる形象は世界でも何でもない、百化斉放、百鳥争鳴が世界の形象である。一々の小世界が世界を実現せんとするところに全世界があるのである、その小世界の世界形成的意志に於てわれわれの想像があるのであり、世界が世界を見る所以があるのである。

長谷川利春

名歌評釈

 先日「みかしほ」の二、三の女人と歌を語る機会があった。そのとき近代の女人短歌の異色作とでもいうべきものを、継続して紹介してゆくことを約束した。勿論私の評釈であり、私が感銘を受けた作品であるので、一面的であるの譏りを免れ難いと思うが御了恕ありたい。そのときに葛原妙子を最初にと言ったが、今手許に取上げたいと思っている歌の載っている本が見当らないのと、先に出したい歌があったので紹介したい。

 行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ 山中智恵子

 一読その声調の美しさに心を奪われる。鳥髪というのは地名であろうか、作者は今負うべきかなしみを抱いて立つのである。そこには霏々として雪が降っている。作者はそこで明日も降りなむと言う。その結句にはかなしみを閉じこめ、かなしみを永遠に凝固させるような力がある。結像した永遠のかなしみに、作者は「マッチ売りの少女」のような陶酔を味わっているのである。そこには対象化された透明な自己像がある。私はこの声調の美しさは、このような心情の投影であるとおもう。それにしても魔術とでも言うべき言葉の構成である。

 額に汗流して坂を登るとき無数の過去世の人と行き交ふ

 私の作である。山本礼子さんが十首抄に取上げたいと思ったと言った。私は取上げられなくてほっとした。実はこの一首の核とでも言うべき四句の「無数の過去世」は、五十年代にその鬼才をもって歌壇を震撼させた、高野公彦の代表作を剽窃したのである。出すべきではないと思ったが、この頃歌を作っていないので七首にすべく入れた。私は「みかしほ」の人々の鑑賞眼を軽視していたのである。この言葉が拓いた祖霊への新しい視点を捉える人はいないと思ったのである。目にもとめないと思っていたのである。それにしても山本礼子さんが発表される作品の勝れた感覚は偶然ではないと思った。次回は葛原妙子に したい。

名歌評釈(2)

 とり落さば火とならむてのひらのひとつ柘榴の重みに耐ふ 葛原妙子

 私はこの一首を読み乍らゲーテの幼時の体験というのを思い出していた。それはバラの花を見ているうちに、はなびらの中よりはなびらが溢れ出て、室がはなびらで満たされるというものであった。

 作者は今紅く熟した柘榴を手にもつのである。そしてそれを見ているうちに、自然の成した微妙な赤が、作者の心に無限の紅を生んでゆくのである。作者の目は微妙を見究めようとする。見究めようとすることで紅は拡がりを持ち全視覚を領ずるのである。次々と現われ来る紅は、紅が紅が煽るごとく成長してくるのである。作者はそこで「とり落さば火焔とならむ」という。私は以上を捉えてまことに巧な表現であるとおもう。斯る想念の展開は非常に力の表出を伴うものである。そこに結句の「重みに耐ふ」がある。

 私は氏の作品には形が形を生んでゆく、生命の創造に深く目を据えたものがあるとおもう。人間は望遠鏡を作り、顕微鏡を作って自己の視覚を拡大深化してきた。作者は言葉の操作によって、内的自己としての情感の目を深化拡大するのである。人類は色の中に色を見、音の中に音を聞くことによって、感覚と感情を養ってきたのである。

 書き乍ら私は何だか詰らないことをしているような気がしてきた。一寸も自分の勉強になっていないように思う。それで今月で止めたいとおもう。唯これを書くために女流歌集という一人三十首ばかり歌集を読んだ、以下少しその総括とでもいうべきものを書いておきたい。

 一人三十首位では読んだと言えるであろう、併し私は多くを読んだからといって必ずしも知ったということは出来ないとおもう。各作家には特色がある。特色があるとは個性的であるということである。個性的であるとは独自の核を持つということである。知るということはその核を掴むことであるとおもう。以下そういう面から私の感じたものである。

 前月号の山中智恵子は言った如く情感の結晶作用をもつとおもう。言葉による結晶作用は透明感をもたらせる。宝石箱を開けたような氏の歌は楽しい。生方たつゑは、女の情念を業として、女がある限りの宿縁として追求しているように思う。その激しさは読んでいて疲れが出る位である。重苦しいものが胸底に溜る。併しそれも一つの真実なのであろうか。斎藤史は死の鏡に生を写すことによって、生の幾多の面を私達に見せてくれるようである。初井しづ枝も透明な情感の結晶作用をもつ、併しそれは山中智恵子のそれではない、一瞬に触れ合う物と自己の交叉を映像化するのである。一つの情感の構成をもつのである。北沢郁子の健康な自我追求は好もしい。風土としての環境と自己を真面目に凝視しているようにおもう。上田三四二賞の講演に来た馬場あき子は生と死の葛藤、連続と断絶を、呪の熔鉱に近代知性を投げ入れることによって見ようとするように思われる。俵万智は上記の人々が身体に直接するものに於て、言わば血みどろになって闘っているのに対して、銀幕に自分を映し出してそれを詠っているようである。それだけに読む者も切迫感がない。それでいて余情にひたれるものをもっているようにおもう。

 以上読みとおして感じたことである。一回読んだだけだからひとりよがりであり、読み の浅さを免れ得ないであろう。唯核を摑むという読み方があるとだけ知っていただいたらとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

初めと終わりを結ぶもの

 私は七十才になって商売を廃めた。漸く思索に全身を打ち込むことが出来た二年半の跡である。書き乍ら大きなまとまりをもつ力を失なった、老いのかなしさをつくづくと味わわざるを得なかった。不生不滅を出発点としたものである。勿論不生不滅というのが有るのではない。生命は形作るものであり、生死は形作る生命のはたらきの姿であるということである。生死を超えて始めと終りを結ぶ生命が自己自身を見てゆくところに生死があるということである。不生不滅とは、目を初めと終りを結ぶ生命に置くということである。私達の生命は私達もその中に働く歴史的形成の内容である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

ごきぶりを見乍ら

 本を読んでいると後の方で、かさかさというかすかなものの動く音が聞える。ふり返る とごきぶりが、背を光らせ乍らすべるように走っている。ごきぶりは妻にとって不倶戴天の仇にも等しいものであるらしい。見つけると大声を挙げて、行動は敏速果敢となり、たちまち打ち据えてしまう。私もその影響を受けてか、見ると殺さねばならぬような衝動が走る。私は傍にあったスリッパを掴んで電光石火の如き早業で打ち下した。実は一回失敗したのであるが、兎に角ごきぶりは動かなくなった。私は念の為にもう一度打ち下した。すると白い液のようなものを出して、脚が一本歪んだようであった。死骸は今度立った時に捨てようと思って再び本に向った。しばらくして散歩に出ようと思って振り向いて私は自分の眼を疑った。死んだ筈のごきぶりが影も形もなくなっている。見廻すと離れた壁に沿うたたみのへりを、白い液をひき、脚を一本引き摺ったごきぶりがすべるように走っている。私はその生命力というか、復原力の強さに驚嘆した。

 曽って何かの本で、ごきぶりは数千万年か数億年の生命陶汰の波を乗り越えて、生き残った生きた化石であるというのを読んだことがある。私はそれを思い出し乍ら一つの疑問をもった。それは生物が若し種族保存とか、個体保存を目的とするならば、何うして全てがごきぶりのような生体構造をもたなかったのであろうかということである。億年を維持したということは、適応力の優秀さを示すものである。生命が環境適応的にあったとすれば、そこに最もすぐれたものがあった筈である。

 併し生命は両棲類、哺乳類、人類へと進化して行った。而してそれらは時間としての年数に於て決してごきぶりにまさるものではなかった。それでも変化して行ったのは、生命の形成作用は、単に保存とか適応とかにつきるものではないのではなかろうか。

 生命の進化は機能の複雑化である。機能が複雑化するとは、生命は内外相互転換的として、外としての世界の多様に対し、外を内とする機構を創出することであるとおもう。機能ははたらくものである。はたらくものとして我々が外としての世界を見るとき、外は限りなき多様としての世界である。環境としての自然は周期的に回帰しつつ、我々は一瞬先の生命を知らないものである。機能とは斯る計ることの出来ない外界を、生命の機構の中に取入れようとする、生命の努力である。私は五感が何のようにして出来たか知らない。併し目が見、耳が聞き、鼻が嗅ぐのは、生命が外を開くと共に、未来を拓いていったのだとおもわざるを得ない。生命は空間的、時間的として、空間的なるものは時間的なるものとして見出されてゆくのである。

 複雑化が世界の多様に対する、生命の自己創出であるとすれば、私は複雑化は、より多様なる世界を自己の中に織りなすものとして、生命は保存や適応を超えて、自己の風光を創造するものではないかとおもう。風光とは豊潤なる情緒であり、情緒に対応する世界である。喜び悲しみとしての内外相互転換の関りである。既に哺乳動物は喜びや怒りをもつ、それだけに環境よりの摂受は多様であり、密度高いものをもつとおもう。私は短歌を作るものであるが、人間に於ては見られたものが見るものとして無限に創造的である。私は 界と自己とのより高い密度を目指して、生命は自己を形成しているのではないかとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

かすかなるもの

 この間ホーキングを内容とした歌を作って歌会に出した。誰もホーキングを知らないと いうので概括を話した。私は話し乍らいつかの歌会での事を考えていた。それは彼の偉大なる宇宙論は、相対性理論と量子理論の結合より見出されたということである。極微の世界の電子の運動を知ることなくして、大宇宙の運動を説くことが出来なかったということである。

 いつかの歌会で、このような小さなものに目をつけたのはつまらんという批評があった。私は意識の発展は分化と統一にあるとおもうものである。分化が愈々細かくなることによって統一は愈々大となるのである。顕微鏡と望遠鏡の極限が結びつくことによって大宇宙の秘密、然も二百億年前の秘密が解明されたのである。

 画家は私達の見ていない美しい色を見ていると言われる。勿論私達に見えていないのではない、見ていないのである。画家はそれを描くことによって見出して来たのである。私達も初夏の山に萌え出る若葉を見るとき、実に多くの浅みどりのあることを知る。私は画を描いたことがない。併し若し絵筆を持って画布の前に立ったとすれば、その微妙の前に絵の具を溶くことすら出来ないであろう。それは無限の多様に面しているのである。和辻哲郎はその著風土の中で『自分は曽って津田青風画伯が初心者に素描を教える言葉を聞いたことがある。画伯は石膏の首を指し乍ら言った。「諸君はあれを描くのだなどと思うのは大間違いだぞ。観るのだ、見つめるのだ。見つめている内にいろんなものが見えてくる。こんな微妙な影があったのかと自分で驚く程、いくらでも新しいものが見えてくる。それをあく迄見入ってゆく内に手が動き出してくるのだ。」』。見入るとは如何なることであるか、それは宿されいる陰翳の今迄見ていなかったものを見ようとする努力である。その努力によって線が線を分ち、色が色を分つのである。微妙とは無限の多様である。画家の私達の見ていない美しい色とは、見つめている中に現われてくる驚きの色である。何百号の作品の前に立って私達の覚える感動は、この無限の細分化された視覚の努力への共感であるとおもう。この無限に分つ目に於てのみ、何百号の大作を力感あらしむるものとなるのである。一輪の花の、一片のはなびらを描きつくす力があって、何百号の大作をよく仕上げ得るのである。

 泰西の詩人が「詩人たるものは地球の自転の音を聞かなければならない」と書いているのを読んだことがある。地球は大である。併し地球の自転の音は小である、と言うより筆者はあるのか無いのかを知らない。恐らく生命が誕生して以来自転の音を聞いた者はないのではなかろうか。それを詩人は聞かなければならないというのである。私は創造とはそのようなものとおもうものである。与えられた目の上に目をもつのである。耳の中に耳をもつのである。物の世界に於て望遠鏡と顕微鏡をもち、それによって物の世界を展いて行った如きものを、音に色彩に言葉に於てもたなければならないとおもう。石の独語を聞き細菌の歓声を聞くのである。

 生命は時の姿に自己を露わにしてゆく、時に於ては最も大なるものが最も小なるものである。一細肪が逆に全存在を包むところに時はある。表現とは時の中に深く入ってゆく事である。微塵に全存在が自己を見ての表現である。

 私は以上言ったことを更に明らかにするために葛原妙子の短歌の世界に入って見たいと おもう。

生みし子の胎盤を食ひし飼猫がけさ白毛となりてそよげる

 何も今朝白毛となったのではなかろう。生みし子の胎盤を食ったという異常事態が、翌朝の作者の目に白毛を意識せしめたのであろう。何が白毛を意識せしめたのであるか、私はそこに同族を食ったとゆう作者のもつ罪の意識と、何ものをも食って生きてゆくという生の原質を見たのであるとおもう。上旬の暗黒と下旬の光輝、この矛盾と相克に作者は生命の真実を見たのであろう。恐らくは変っていなかったであろう白毛への意識から、生の深淵を開いて行った力は流石であり、下旬は誰でも言えるものではない。

鬼子母の如くやはらかき肉を食ふなればわずかな塩をわれは乞ひけり

 これは前に私なりの解釈をしたのでここでの歌意の追尻は止める。唯やわらかい肉を食ったというだけのことに、生きてゆくために他の生命の肉を食わなければならない。原罪ともいうべきものへ掘り下げている。

夕雲に燃え移りたるわがマッチすなはち遠き街炎上す

 夕映えの情景に接した作者は、わがマッチを介在さすことによって、恐怖としての実存する自己に結びつける。そこにこの歌の写生ではない異質性がある。内と外とが一なるものとしてものごとがある。作者はそこに立つのである。内と外を結びつけるものは行為である。作者はわがマッチを見出すことによってそれを成立せしめている。そしてそれは作者の卓絶した才能を示すものである。作者はマッチで火を付けたのではない。或はマッチを持っていなかったのではないか。作は想念に於てマッチを擦り、表象を拡大していったのである。表象を拡大せしめたものは実存としての生の不安である。

畳まれし鯉のぼりの眼球の巨いなる扁平をふと雨夜におもひて

 球型ではなくして扁平なる眼球、その巨いなるものは拡大された死である。それを雨の音が閉す夜に思い出している。そこに巨いなる目が作者を不安ならしめ、不安が目を更に巨いならしめている。生命の一面を私達に突きつけてくれる。

ふとおもへば性なき胎児胎内にすずしきまなこみひらきにけり

 ここにも見えない胎児が出てくる。作者は無よりの創造をもとうとするのである。性なき胎児とは如何なるものであろうか。全て胎性動物は性をもつ、それを敢て性なき胎児と言ったのは何故であるか。私はそこに作者が聖なるものに向けた目があるとおもう。仏陀やキリストは性の超克者であった。妻帯を禁じ、姦する勿れというのは、存在を一者に於て捉えんとするものの必然的帰結であった。作者はそれをすゞしき眼に於て表わさんとしたのである。

 私は葛原妙子は、日常のかすかなものを顕微鏡的に拡大することによって、人間の深部を露わにする稀有の才能をもっていたとおもう。物理学も短歌も共に世界の自己創造の内容である。極微と極大が結びつく、其処に世界は自己を創造してゆくのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

一即多

 生命は無限に動的である、動的とは内に否定をもつことである、矛盾として対立するものをもつことである。対立するものが何処迄も相互否定的なることによって動いてゆくのである。私は斯く内に対立を孕んで無限に動いてゆく生命は一即多、多即一とし自己を限定してゆくのであるとおもう。一は多ならざるものであり、多は一ならざるものである。 それは絶対に相反するものである。斯る相反するものに於て生命形成はあるのであるとおもう。生命は身体的に自己を形成する、私は一即多、多即一の直証を身体に見ることが出来るとおもう。

身体は内外相互転換的に形成的である、内外相互転換的とは外を内に換えることである、外を食物としてそれを摂ることによって身体と化せしめることである、転換による摂取と排泄に於て形作ってゆくのである。

生命は物質より出来たと言われる。そして地球上に存在する物質の量に比例する組成をもつと言われる、われわれの内外相互転換とは、身体は自己を組成するものを外として内外相互転換をするのである、私は生命は斯るものとしてその形成を求めるには先ず物質を 探らなければならないとおもう。

 物理学者によればわが天体とする光り輝く無数の恒星は宇宙の物質の十分の一を占めるのみであり、十分の九は目に見えない微粒子であると言われる。その微粒子が何かの契機で集合を初め、そのエネルギーで灼熱し、光明を放つのが恒星であると言われる。宇宙に遍満し構成する微粒子とは如何なるものであろうか、遍満し構成するものは一々が他者と関り合うものでなければならない、関り合うとは他を限定すると共に、他によって限定されるものでなければならない。関係するものとは相互限定的に一なるものでなければならない、相互限定的に一であるとは、関り合うものは個物として相互限定的に自己を実現するものでなければならない。関係することによって実現するものとして、個物の限定は世界の実現であり、世界を実現するものとして個物の一々は世界の中心の意味をもつのである。遍満する微粒子は一々が宇宙の中心として宇宙を映すところに全宇宙はあるのである、そのことは一々の微粒子はその関り合いに於て全宇宙の内容となることである。一々の微粒子が宇宙を映すということが宇宙が自己を形成してゆくことである。

 生命は斯る物質の発展として、相互否定の自己実現を代謝作用にもったものである。絶えざる食物の身体への変換に於て自己を維持してゆくものである。斯る食物は身体への変換可能なものとして組成を等しくするものであり、その最も直接なものとしての他の生命である。即ち生命の食物連鎖として生命は内外相互転換を行うのである。而して前にも書いた如く、生命はその発生に於て地表の物質の組成を模するのである、その地域の生命は地域の組成を模するのである。摂食によって生命形成をもつとは食物によって形作られることである、食物によって作られるとはわれわれの生命形成は外を映すということである。食物としての他の生命は我ならざるもの、他者として我に対立するものである。他の個的生命としてそれに遭遇することは偶然であり、その獲得は努力である。山野を駆けめぐり、水中に潜らなければならないのである。そこから身体の形は生れてくるのである。宇宙の一つとして地表はあり、生命は地表を映し、食物連鎖として生命が生命を映すところに身 体があるとは、身体は宇宙の凝縮としてあるということである。宇宙の凝縮としてあると は、宇宙が自己の形として身体に見出したということである。身体は行動することによっ て宇宙を実現してゆくということである。斯る形成に於て外は無限の多となるのである。 而して転換に於て無限の多は身体として一なるのである。併しそれはまだ真に一即多、多 即一と言うことは出来ないとおもう、食物連鎖の食物獲得だけでは宇宙の内容ではあって も、宇宙を内にもつということが出来ないからである。

 私は真に一即多、多即一となるためには人間の自覚に俟たなければならないとおもう。自覚とは自己の中に自己を見ゆくことである、自己の中に自己を見るとは内外相互転換としての生命の営為を更に映すことである、それが経験の蓄積である。経験の蓄積とは一瞬一瞬の内外相互転換を統一し構成することである、それが製作である、製作に於て外が物となり内が主体となるのである。一瞬一瞬の統一に於て時間が成立し、製作としての形の出現に於て空間が成立するのである。時間の成立は空間の拡大であり、空間の拡大は時間の成立である。時間・空間の成立は世界の成立である。私達が原始生物の世界という場合 にも断る意識を投影しているのである。

 製作として物に形を見てゆく世界は最早食物的環境として、この我が身体の欲求充足に生きる世界ではない、表現に生きる世界である。表現に生きるとは、この我がそれによってあるものを表わすことである、この我は宇宙が無限に宇宙の中に映すことによって出現 したものであった、その自己の身体中にある宇宙を映し出すことである。物はわれわれに有用なものである。その限りに於て欲求充足的である。併しそれは与えられたものが、与えられたものを超えて見出したものである。もともと欲求的生命自身が、宇宙が内外相互転換的として宇宙の中に宇宙を見るものであった。それが外に形をもったということは、更にそれを超えて自己の中に自己を映したということである。食物的環境に於ての内外相互転換の転換のはたらき自身が自己を見るのである、自己の中に自己を見るとは見るものを見ることである。そこに製作としての物の形は宇宙の表現の意味をもつのである。最も深くはたらくものが形にあらわれたということである。

 製作とは宇宙が宇宙を映すところより生れ来ったのである、人類はそれを担うのである、人類が物を作るということは宇宙が宇宙の中に宇宙を見ることである。経験の蓄積として製作があり、そこから物の形が生れるということは宇宙が自己を実現したということである。そして宇宙はそれを人間が手や言葉をもつものとして実現したのである。表現としての製作は人類が内なるものを表わすのであり、人類は宇宙が内なるものを現わしたものである、断るものとして表現は何処迄も宇宙の内に入ってゆくものであると共に、製作するものとして人間は我と汝が映し合うものとなるのである、我と汝が映し合うとは、人類は最も深い宇宙の姿として、宇宙が宇宙の中に宇宙を見るということである。宇宙の実現者としてわれわれは全存在の一を自己に見るのである。

 映し合うことによってあるとはその一々が全存在であるということである。それは相互補足的なのではない、相互補足的なるところに映し合うということはない、全体の部分なのではない、全体の部分であるところに映し合うということはない、而してそれは同一と いうことではない、同一なるところにも映し合うということはない。一々の個が宇宙としての自己を表現したものとして形相を異にしつつ、宇宙がそこに自己を見たものとして全一である。製作するものも、製作されたものもそこに一々が完結をもつのである。完結をもつとは全一者の実現であるということである。最初に微塵の一々が宇宙の中心であると書いた、中心として個は一々が宇宙を映すのである、個の一々が宇宙を映すところに宇宙はあるのである。我と汝も個として宇宙を映し合うのである。映し合うところに宇宙は現前するのである。

 我と汝が映し合うところは言葉である、言葉を作った人はないと言われる、言葉は我と汝が世界形成的に出会うところより生れるのである。而して誰の言葉でもない言葉はない、私の言葉を他者は語ることが出来ない、常に語る人その人の言葉である。ということは我も汝も言葉も形成的世界に於て出会うというところにあるのでなければならない。宇宙が自己の中に自己を見てゆくというところにあるのでなければならない、そこに自分の言葉は他者が語ることが出来ないということは、宇宙はこの我に映されるのであり、この我に映すことなくして宇宙はないということでなければならない、而してそれは対話に於て映し映されるところに現前するのである。対話のないところに我の言葉も汝の言葉もない、対話に於て宇宙が現前し、我と汝が現前するということは宇宙が全一者として自己の中に自己を見るということである。

 我の言葉を他者が語ることが出来ないということは、我と汝は対立するものであるということである、言葉を作った人がないとは、言葉は生命発生以来の無限の形成の結果としてあるということである。無数の人が呼び応えることによって作ったということである。釈迦もソクラテスもその中に現われた一人ということである、われわれもその中の一人として言葉をもつのである。その中の一人として言葉をもつことによって世界を内にもつものとなるのである。世界を超えて世界を包むものとなるのである、そこに対話として映し映されるのである。映し映されるものは全てが世界の中にありつつ、世界を超えて世界を包むものとして世界は自己を形成してゆくのである。この我に現れた以外に世界はない、そこに独我論の出で来る所以があると共に、この世界は対話によってあるのである。斯かるものとして自己が世界を包み、世界を内に見るというところに唯一者があり、自己が世界の中の一人というに多を見るのであるとおもう、このわれがあるということは一即多、多即一としてあるということなのである、そしてそれが映し映されるものとして世界の存在の形なのである。そこにわれわれは自己を転ずるのである。一々の行履は宇宙が創世以来自己の中に自己を見て来たものとして確固不抜の自己を見ると共に、宇宙の動転の一塵として一朝の露命のはかなさを嘆くものとなるのである。そして一瞬一瞬の営為の織りなす生命の風光に神の姿を見、その充足に生きるものとなるのである。

長谷川利春「自覚的形成」

盗作

 露踏みて畑に通ひ来し女育つキャベツに屈みゆきたり

 先日出した未知の己の中の一首である。併し私は表題に入ってゆくために斉藤茂吉から語らなければならない。私は茂吉が好きである、一番偉大なる歌人はと問われたら、私躊躇なく氏の名を挙げるであろう。幾度も書く通り

 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

に、それ迄技巧的な表現の歌を上手いと思っていた私は魂の根より動かされたのである。下句の何れ程も離れてゐないという把握に、単に赤茄子の腐れではなく、全生命が負うている腐れに思いを運ばす力がある。私は目を開かれた思いがしたものである。

 私は氏がものを見るのは単に目で見るのではなく、全身の生死に於て見ているようにおもう。河豚を殺した歌、蚕の歌にも苦行僧の心の裡を見るような粛然としたひびきをもっているようにおもう。対象を見ると同時に自己を見ているようにおもう。

 冬原に絵をかく男ひとり来て動く煙をかきはじめたり

の歌も好きである。四句の動く煙は凡庸の出る言葉ではない、動的な生命をもつものの目によってのみ見られるものである。動的とは背後より何ものかに衝き動かされいるということである。

 ここ迄書けば賢明なる読者は既に了解されているであろう如く、初掲の私の四句育つキャベツの育つは、本首の四句動く煙の動くを発想に於て盗んだものである。

 盗作というのはどこからを言うのであろうか、余りにも言い古された言葉であるが、「学ぶ」は「真似ぶ」から来たと言われる。私達は短歌を学ぶとき先蹤を真似ぶのである。言わば盗むのである。併しそのことは先蹤を受け継ぐことである。そこに伝統が生れるのである。私はわれわれの感性は先人を受けることによって陶冶されるのであり、創造は先人の上に立つことであるとおもう。

 私は今回の「未知の己」に於て「照り出でて」を多用している。これは初井しずゑが使 っていたのを盗用しているのである。私はこの言葉に研ぎ澄まされ感覚を感じた。そしてその言葉を使うことによって、表現の野とでも言うべきものが拡大されるようにおもうのである。これからも使いたいとおもっている。併し盗作ということを意識すると心中じくじたらざるを得ない。非難さるべき盗作の範囲は何のあたりからと編集当局の松尾さんや藤木さんの御教示を賜われば有難いとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

孫の画を描くのを見乍ら

 仕事の都合上大阪に離れ住んでいる子等夫婦が、学会出席の為シンガポールに行くことになり、その間幼い孫を預ることになった。三才余りの子供は成長が早い。帰る度に見せてくれる変貌は楽しいものである。昨日も一寸抱いてやろうとしたら、「奈央ちゃんはねえ、もう赤ちゃんじゃないの、もうおねえちゃんなの。だからだっこはしてもらわないの」 と言って走り去った。私は苦笑して見送る外はなかった。併し私より妻の方に傍に置いて離し度がらない。この頃は悪戯が激しくなって手古摺ることが多いのだが、それでも傍に居ないと淋しいらしい。

 その孫が書斉にゐる私の所へ来て、「おじいちゃん一寸来て」と言う。「用事か」と聞 くと、「奈央ちゃんがねえ、画を描くから見ていて」と言う。丁度退屈していたところな ので、一度立ちるのも良いと思って従いてゆくと、妻が「昼の支度をするから、奈央ちゃんが画を描くのを見てやっとってえ」と言う。見ると描きかけの画用紙らしいものと、クレョンが散らばっている。クレヨンは私達の少年時代の六色か七色と違って、数十色もあろうかという豪華なものである。今更のように時代の推移を感じながら画用紙の方を見ると、円とも線とも角とも分ち難い線が、用紙一杯に引き散らされている。孫は新しい紙に描き初めたが図型は大同小異である。

 表現の形は手と目の協動から生れてくる。視覚と運動覚が一つになってはたらくところより生れてくる。幼児の表現はこの手と目のはたらきが未分化のようである。表われたものを見ていると、何うやら原始感覚としての運動覚の方が優先しているらしい。孫はためらわずに線を引いている。「何を描いとるのん」と尋ねると、「兎さん」と答える。併し何う見ても兎や犬と言えるものではなくして無茶苦茶の線である。幼児の頭の中の映像は何うなっているのであろうと思いながら、「上手やなぁ」と言うと、「うん」と答える。私は見ながら、やがて意識の発達に伴なって目と手が分化し、目と手が対立して目が優先となり、手を制約するときに本当の表現となるのだと思った。

 和辻哲郎はその著『風土』の中で、津田青風画伯が初心者に素描を教えているときのことを書いている。画伯は石膏の首を指しながら「諸君はあれを描くのだなどと思うは大間違いだぞ。観るのだ、見つめるのだ。見つめている内にいろんなものが見えてくる。こんな微妙な影があったのかと自分で驚く程、いくらでも新しいものが見えてくる。それをあくまで見入ってゆく内に手が動き出して来るのだ。此処では明らかに目が優先している。此処から本当の表現が初まるのであるとおもう。併し目と手が分れて対立しているあいだはまだ表現として未熟であるとおもう。目も手も一つの生命の構成としてある。表現が生命の表現となるにはそれが再び一つに還らなければならないとおもう。一旦相分れ、対立した手と目が一つにならなければならないとおもう。目が手となり、手が目となるのである。ミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言った如きである。開眼とか円熟というのは斯る渾然たる生命となったことを言うのであるとおもう。

 孫は相変らず無心に描いている。時にははげしく、時にはゆるやかに、私達には何うしても意味の分らない線を引いている。私は見ながら形の根源にあるものは、視覚よりは、運動覚にあるのではないかと思った。幼ない孫が訳の分らない線を夢中で引いているのは、そこに手の喜び運動覚の喜びがあるからであろう。そうとするとこの線は物の形以前の運動覚のよろこびの形であろう。そしてそのよろこびは表現愛の底に深く潜むのではあるまいか。私は考えながら昔読んだ本を思い出していた。それは或る芸術家が、「表現の形の根元にいくつかの幾何図型がある」というものであり、円とか、角とか、円錘等を挙げていた。併し記憶が余りに模糊としていて、何等考えを拡げることが出来なかった。

 小便がしたくなったので立上った。すると今迄私のことなど忘れたように描いていた孫 が「行っちゃ駄目」と言った。「おじいちゃん小便」と言うと肯いたが、私が外に出ると 描くのを止めて妻の傍に行ったようだった。そして私が戻って来ると描きはじめた。私は何うして私が居なくなったら描くのを止めたのであろうかと思った。私は思いながらこの問いが孕んでいる底の深さにおやとおもった。

 何故見る人がいなければならないのか、同じ行為でも飯を食うときは見ていてくれと言わない。私が居ない時に描くことを止めたということは、見ている人がいるということが表現意欲への重大な要素となるのでなければならない。それは何か。此処迄書いて私は坂田さんの言葉を思い出した。「何かやわらかい文章が欲しいのです。哲学理論は真平です」これから筆を進めるには推論しかない。真平の領域へ踏み込まなくては行き場がない。これで筆を擱いて後は読まれた方の思索に委ねたいとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

偶然

 日常を省るとき私達は余りにもその多くが偶然であるのに驚かざるを得ない。私が今此処にあるということにしてもそうである。塚本邦雄の歌に「父、母を娶らざりせばさわやかに我なし」というのがある。多くの男女の中から二人が結びつくのは偶然である。そし 若し母の腹に私が宿った日に、父に所用があったとすれば今の私はなかったと言い得るであろう。

 私は大東亜戦争に召命された。戦争は生死相接するところである。弾雨の中では一米の距離、一秒の遅速が生死を分つのである。天命に帰する外ないところである。

 二人となって以来時々近くの食料品店に買物にやらされる。目当のものがあるときや無いときがある。忘れていた好物や、外国の珍品に出合うことがある。思いがけなく声をかけられて、ふり向くと少年時代の友達だったりする。必然は食物を買いに来たということだけである。出会う人、物は全て偶然である。

 山に茸とりに行ってもそうである。一本も無かったのも、籠一杯になったのも偶然であ る。人に出会って、生えているところを教えてもらったのも、石に躓いて怪我をしたのも偶然である。偶然とは一体如何なることなのであろうか。

 私はそこに生命の営為がなければならないとおもう。私達が山登りをしているときに、 落石があって道が塞がれていた。それは偶然である。併しヒマラヤ山の山奥で、同 落石があって道を塞いだとする。それは私にとって自然現象であって、偶然でない。魚 取りに行く人にとって、そこにばったが居たことは偶然でも何でもないであろう。併し昆虫採取に行った人であったらそれは偶然であろう。

 生命は内外相互転換的である。私達は瞬時も休むことなく呼吸している。呼吸は空中の酸素を摂取して、炭酸ガスを空中に排泄することである。食物を摂取して老廃物を排泄する。食物も酸素も我ならざるものとして、外なるものである。外を内とし、内を外とすることによって、生命は自己を維持してゆくのである。外の欠乏は内の死である。私は偶然の根源を、内が外であり、外が内であり、我ならざるものが我に転換し、我が我ならざるものに転換するところに求めたいと思う。併し内外相互転換も未だ真に偶然であるということは出来ない。偶然には必然の成立がなければならない。必然の目をもって初めて、他者との転換は偶然となるのである。

 生命の営為とはより大ならんとする努力である。単細胞動物から、哺乳動物迄数十億年の生命の営為はより大なる時間、空間の保持者たらん事であったと言い得ると思う。人間の細胞は六十兆と言われる。分化と統一の下に生命は一大有機体を作り上げたのである。斯る生命の主体的構成は大なる客体の構成でなければならない。内外相互転換として、内を構成することは外を構成することでなければならない。内を組織することは外を組織することでなければならない。

 内とすべき外は、生命がそれによってあるものとして、環境の意味をもつものである。 蜘蛛や蜂は巣を営む、それは主体として組織化された生命が環境を造り、造った環境によって、より大なる集団化としての力をもち得たのである。内外相互転換とは生命の自己維持として、形相の実現として技術的である。内と外とが形成された技術に於て、形相を実現するのが必然である。而して生命が必然を内包し、環境をより大ならしめることは、内外相互転換としての外を、より大ならしめることである。偶然がなくなることではない、偶然を愈々多様ならしめることである。此処に偶然には必然の成立がなければならない所以があるのである。

 併し蜂や蜘蛛に於ては未だ必然が顕在したということは出来ない。必然が顕在する為には、意識の内容として意志による実現を俟たなければならない。即ち人間の自覚的表現的生命に於て、はじめて必然が顕在するということが出来るのである。

 自覚的生命とは時の統一者となることである。時を内にもつものとなることである。内 外相互転換としての一瞬一瞬を、内に蓄積するものとなり、著積を現在の自己限定とするものである。一瞬一瞬の異った転換を蓄積するとは、異った働きを構成することである。それを現在の自己限定とするとは、物を製作することである。物の製作に於て意志は合目的的となり、外と内とは必然の意識に於て結ばれるのである。自覚とは生命が内面的必然的となることである。人間は技術としての内面的発展によって、無辺の空間と無限の時間を見るのである。

 生命は何処迄も内外相互転換的である。内外相互転換とは内が外となり外が内となることである。他が我となり、我が他となることである。偶然は必然を生み、必然は偶然を生むのである。技術の集積である自動車は、我々に益々多くの出合いの機会と、事故死の機会を与えるのである。而して事故を媒介として車は愈々精密となり、精密となることによって普及し、事故は益々増大するのである。必然は環境を自然から歴史へと転移せしめる。自覚的生命としての人間は、歴史的環境としての、自己の製作的世界の中に生きるのである。

 自然的環境に生きる生命が与えられた身体として生きるのに対し、歴史的環境に生きる 生命は製作する身体として生きるのである。物に結合する者として社会に生きるのである。社会とは歴史的形成的世界である。

 製作する身体として生きるということは、自然として与えられた身体を超えるということである。言葉や技術は個々の身体の生死を超えて、はかり知れない伝統の上に成り立っているのである。我々は無限の過去より伝承し、無限の未来へ伝達するのである。私達が今自己というのは言葉や技術をもつものとして、無限の時の上に立っているということである。

 我々の身体が歴史的身体として、所与としての身体を超えたものであり、身体の生死を超えて伝承し、伝達する過去、現在、未来の統一者であることを知るとき、そこに我々は永遠を見るのである。永遠の相に自己が立つとき、偶然は外として、他者として主体の否定者として運命的となるのである。必然の目をもつことによって内外相互転換が偶然になるとは、偶然は運命として我々に迫って来るということである。自己の前後を俯瞰する目によって、一瞬一瞬に生死を見るとき我々は運命的にあるものとなるのである。

 蛆虫やとんぼは、離島に生れようと東京に生れようと大した差異はないであろう。併し 人間に於てはその文化度に於て、大なる運命を感ぜしめるのである。偶然ははかるべからざるものとして、理知の光りに照して運命は暗黒である。離島と東京に於てそこに出生の運命を感じるものは離島に於てより大である。

 我々は生れて、物を食って生命を維持し、そして死んでゆく限り何処迄も偶然的であると言うことが出来る。即ち運命的である。我々は常に暗黒の口の前に立っているのである。併し理知の光りに照して暗黒であるとは、理知の光りは運命の暗黒より生れ来るのでなければならない。偶然はそれ自体が機能的として、必然の母胎である。 必然は偶然に回帰することによって、新たなる形象を獲得し、無限に自己創造的となるのである。運命の暗黒 を見ることは、それ自体が理知の光明である。暗黒と知るのは、光明に照らさるべく暗黒と知るのである。私はそこに人間の営為があると思う。

 先日何でであったか忘れたが、輝く星は大宇宙の質量の10%程であり、後の90%は暗い空間に浮遊する微小物質である。そしてその微小物質の集合、拡散が宇宙創生の原動力であり、輝く星もこの微小物質の質量より生れたものである。世の中に神を惜定するとすれば、この微小物質の質量が神であると思うといった意味のことが書かれてあった。

 私は宇宙物理学については一丁字もなきものである。その真偽については何等語る資格を有しない。而して私は読み乍ら、人生の偶然と必然も亦斯くの如きではないかと思った。 我々の日常の大部分は偶然である。而して偶然は、偶然の故に意識に上ることは少ない。 併しそこに思いを致せば、偶然ははかるべからざる奥底をもつ。神が働くというのは或は斯るところからではないかと思う。運命の底に神はあるのではないかと思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

人格

 人格とは他の動植物に対する人間の生命の位置付けである。私は斯る位置付けを人間生命の自覚性に求めたいとおもう、自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは、自己の中に世界をもつことである、生命は内外相互転換的に自己形成的である、外を内とし、内を外とすることによって自己を実現してゆくのである。外を食物として、食物を身体に化してゆくのが生を営むということである、それが自覚的となるとは内によって外を作るということである 食物を摂取することに作られた身体によって外を作ることである。もともと内外相互転換とは内が外を映し、外が内を映すことであった、人間生命はそれが自覚的となったのである。内外相互転換としての生命が自己の中に自己を見たのである。無自覚としての生命に於ては相互転換が直接的であり、同一的であった。それが自覚的生命に於て否定的に対立するものとなったのである。外が物として、内が身体として否定を媒介して形成するものとなるのである。否定を媒介として形成するものとなるとは映し合うものとなることである。物は身体を映し、身体は物を映すものとなることである、食物は身体ならざるものであり、摂取に於て身体に化するものである。それをより容易に獲得し、より勝れた機能の身体に化せしめるのが物が身体を映すということである、環境適応的であった身体を、環境を身体に適応せしめるのである、外は身体に与えられたものではなくして身体が自己の延長として作るものとなるのである。内外相互転換が身体に直接なるものは未だ物ではない、製作に於て外は物となるのである。

 内外相互転換として、外を食物とする生命は欲求的である、欲求的であるとは内と外と が対立することである、我ならざるものを我となさんことが欲求である、そこに内外相互転換があるのである、そこにわれわれは身体を形作ってゆくのである。欲求やそれの充足としての行動は身体の形成のはたらきとしてあるのである、内外相互転換的に形成するとは、形成された身体は内外の統一としてあるということである。内外の統一としてあるということは、身体の形成は内にあるのでもなければ外にあるのでもない、内外相互転換的に自己を見てゆくものの自己形成としてあるということである。自覚とは自己の中に自己を見るものとして、この統一としての内外一なるものが露わとなってゆくことである。そこに製作があるのである、製作は一瞬一瞬の内外相互転換の蓄積が見出した形である、無限の経験が現在の行為にはたらくときに製作があるのである。製作は転換として内外相分れたものが一つとなることである、それは前に身体に直接なるものは未だ物ではないと言った如く初めから分れていたのではない、製作的生命として内外分れると共に一になるも のとなったのである。

 内外一なるものは物でもなければ我でもない、私はそれを宇宙的生命と言い、物を作ることによって見出してゆくのを世界と言うのである。

 生命が内外相互転換であり、物の製作が内外の統一であり、物の製作によってわれわれが自覚をもつとき、われわれの自覚は宇宙的生命の自覚と言わなければならない、宇宙的生命の自覚を映し、分有することによってあると言わなければならない。人間は手と言葉をもつことによって製作的生命となったと言われる、手と言語中枢は人間が作ったのではない、創世以来の生命の大なる形成の流れの中より出で来ったのである、生命が生命の中 に見出でた生命として現われたのである。

 斯る宇宙的自覚は宇宙がその唯一性に於て負うのではない、一人一人の人間がもつのである。内外相互転換は個個の生命が負うのである。個々の生命が欲求的自己として外を内に転換し、内を外に転換することによって自己を形成してゆくのである、それは無数の個として形成してゆくのである。単なる個は何ものでもない、言葉は対話としてあるのである、我と汝が対立するものとして一つの世界を形成するものである。対立するものとして一つの世界を形成するとは、我と汝はこの形成的世界に於て自己を見るということである。私は経験の蓄積も斯るところに於てもつとおもう、経験の蓄積としての記憶をわれわれは言葉にもつ、それは我と汝の対話に於てもつということである。物の出現に於て我と汝はあり、我と汝に於て物の出現はあるのである。そこに世界が出現するのである。対話とは世界がそこに実現するのであり、そこより我と汝が現われるとは、我と汝は世界を映すものとしてあるということである。世界を映すとは世界を我の内に在らしめることである。而して世界を内に在らしめることによって我と汝は対話をもつのである、我と汝が対話するとは我と汝が映した世界が異なるということである、我の映した世界以外に我に世界はなく、汝の映した世界以外に汝に世界はない、それが世界の形成であるとは対話とは世界実現の闘争である。我が世界を映すとはこの我の個をとうして世界を実現せんとすることである、世界実現的に世界を映したこの我が人格である。

 この我と汝は対立するものであり、対話するとは一なることである。対立するものが一であるとは、各々己が世界を実現せんとすることである。世界実現的に争うということである、斯く争うということは生命としての身体は個々として無限の陰影をもつということである。自覚的生命は直接的な本能性を超えるといっても食わずに居れるということではない、生命の中に生命を映すとはそれを包んでそれをより瞭らかにすることであって消えてなくなることではない、秩序に於てより大なる形をもつということである。食物は外としてならざるもの偶然としてあるものである、生存を至上命令とする生命の維持に我と争わなければならないものである。製作は偶然を必然ならしめるものとして、より大なる生命の形に向しめるものである、それが食糧の増大である。食糧の生産にはさまざまの技術が必要である、斯る技術は与えられた自然としての内外相互転換の条件を克服するということである、与えられた条件を克服するということは今迄以上の力が必要ということである、そこに多数の人の集合が要請されるのである、集団として多数の者が一つの力となるのである、多数の人が一つの力となるには統率者がなければならない、指揮するものと随従するものがなければならない。外の変革には内の組織が必要である、斯くして外の変革に向う内の組織に言葉が生れるのである。併しそれはまだ人格と言えるものではなかった、統率者は天の動きを見、地の動きを見、人の動きを見た、それは宇宙を映し、世界を映すものであった。併しそこには命令があって対話がなかった、人格の萌芽であって未だ実現ではなかったのである。

 自然を克服する集団の力は生産の大をもたらし、生産の増大は人口の増大をもたらした。それは更に大なる生産を要求するものであり、天変地異による災害をより悲惨ならしめるものである。それは集団と集団を闘争に赴かしめるものである。闘争は生死を賭けるものとして新たな技術を生み、勝者は敗者をれい属せしめることによって大なる地域を占有するものであった。そして新たな技術は多くの職能を生み、大なる地域は生産品の需要に於て職能を深化させていったのである。私は職能の深化は人にさまざまの徳を与えたとおもう、それは製作によって物に自己を映し、自己に物を映すものとして、宇宙的自己の把握をもったということである。普遍的人間につながるものをもったということである。私は私達の少時迄保持していた職人気質をそこに見ることが出来るとおもう。併しそれは人と物との関りであって、人と人とに関るものではなかった、私は一人の意志が万人を制するところに真に人格の成立はないとおもう。一人の意志が普遍的人間につながるとき、それは神格であって人格というべきものではなかったとおもう。人格は人として人格と人格が対するものでなければならないとおもう、人格と人格とが対するとは、統率者とその周辺のみがもっていた宇宙的生命の把握を多くの人々がもつものとなることである、言葉と手に於て自己の中に世界をもち、自己の世界を行為的に展開するものとなることである、一人一人が言葉をもつものとして、世界を映し、世界に映されるものとして、互の世界を認なる生命の形に向しめるものである、それが食糧の増大である。食糧の生産にはさまざま の技術が必要である、斯る技術は与えられた自然としての内外相互転換の条件を克服するということである、与えられた条件を克服するということは今迄以上の力が必要ということである、そこに多数の人の集合が要請されるのである、集団として多数の者が一つの力 となるのである、多数の人が一つの力となるには統率者がなければならない、指揮するも のと随従するものがなければならない。外の変革には内の組織が必要である、斯くして外 の変革に向う内の組織に言葉が生れるのである。併しそれはまだ人格と言えるものではな かった、統率者は天の動きを見、地の動きを見、人の動きを見た、それは宇宙を映し、世 界を映すものであった。併しそこには命令があって対話がなかった、人格の萌芽であって未だ実現ではなかったのである。

 自然を克服する集団の力は生産の大をもたらし、生産の増大は人口の増大をもたらした。それは更に大なる生産を要求するものであり、天変地異による災害をより悲惨ならしめるものである。それは集団と集団を闘争に赴かしめるものである。闘争は生死を賭けるものとして新たな技術を生み、勝者は敗者をれい属せしめることによって大なる地域を占有するものであった。そして新たな技術は多くの職能を生み、大なる地域は生産品の需要に於て職能を深化させていったのである。私は職能の深化は人にさまざまの徳を与えたとおもう、それは製作によって物に自己を映し、自己に物を映すものとして、宇宙的自己の把握をもったということである。普遍的人間につながるものをもったということである。私は私達の少時迄保持していた職人気質をそこに見ることが出来るとおもう。併しそれは人と物との関りであって、人と人とに関るものではなかった、私は一人の意志が万人を制するところに真に人格の成立はないとおもう。一人の意志が普遍的人間につながるとき、それは神格であって人格というべきものではなかったとおもう。人格は人として人格と人格が対するものでなければならないとおもう、人格と人格とが対するとは、統率者とその周辺のみがもっていた宇宙的生命の把握を多くの人々がもつものとなることである、言葉と手に於て自己の中に世界をもち、自己の世界を行為的に展開するものとなることである、一人一人が言葉をもつものとして、世界を映し、世界に映されるものとして、互の世界を認め合うものである。

 私は真に人格が成立するためには近代の産業革命がなければならなかったとおもう、産業革命は人間の労働を機械の生産に置き換えた、そしてそのことは専制君主より多くの 人民を解放することであった。人類は自然の暴威に一人の統率者による集合の力を必要としなくなったのである。分業による一人一人の能力こそ最大の力となったのである、さまざまの分野に個性が尊重されてきたのである。個々の分野に人々は創意をもち得たのである。勿論それは一挙になし得たのではない。機械生産には大なる投資が必要であった、それをなし得たのは支配階級であった。併し多くの人々は創意に於てそれを打破ってブルジ ョア階級を打樹てたのである。それは神権、王権に対する民権の確立であったとは多くの人の説くところである。それによって直に人権が普遍性を得たのではない、女工哀史は近々百年程以前のことであった。旧支配階級による主従関係が依然として続いたのである。これを打砕いたのは第二次世界大戦であったとおもう、私は人格形成の立場から見て、個性による世界形成への脱皮と今次大戦を位置づけたいとおもう。人類の全てが内在する能力を発揮すべくなったのである。宇宙的生命の個として世界を映し、世界に映すものとなったのである。

 人格は人格に対することによって人格であるとは対手の人格を認めることである、対手を人格として対することは我を人格とすることである、私は斯る意味に於て奴隷を認めた古代ギリシャの哲人や、帝王と民衆を是とした中国の古賢は人格というよりは神格と言うべきものであったとおもう、師の影三尺にして踏まずと言ったところには、教えはあっても対話はない、併し私はそのことは神格が人格より高いことではないとおもう。神格が内在的となったのが人格であるとおもう、内在的となるとは、言葉によって露わとなった天地の理法が人間の内なるものとしてはたらくものとなったということである。宇宙の創造を一人一人の人間が担うものとなったということである。言葉や製作として技術は本来斯るものであり、それが露わとなったということである。言葉が真に自己を露わにしない時に於ては人間は宇宙の内容であったのである。それが世界形成として逆に宇宙を内にもつものとなったのである。外に宇宙を見たことが神を見たことであり、内に宇宙を見ることが人格となったことである。全てのものは宇宙を映す、それが表現的にはたらくものとなったときに人格となり対話をもつのである。外を内として内が更に他となるの表現である。それは一々の人間が担うのである対話的に担うのである。

 胎児が形をもつ最初の時に八つ目鰻の斑点の如きものが現われると書いてあるのを読んだことがある。それは人類が未だ海中にいた時の鰓の跡だそうである、それから両棲類に似て来、哺乳類の形となり、出産の時は猿に似ているのだそうである。そして類人猿の歩行に似たる姿を経て人体となるのだそうである。私達が今この姿をもっているということは生命発生以来の全過程を体現した結果としてもつということであり、更に我々が学ぶということは、歴史的形成の全過程を内にもつことであるとおもう。われわれは意識下に魚類の、両棲類の、哺乳類の生命衝動をもち、原始人類の、縄文人の、弥生人の欲求を潜めるのであり、意識はその上に打樹てられたものである。生命は意識下と意識の綜合としてわれわれの行動はあるのである。意識は生命が自己の中に自己を見たものとしてその根源に情動を有するのである。自己の中に自己を見たとはそれを否定し、克服してきたことである。自己の中に自己を見るものとして否定し克服したとは、それが無くなったのではない、より大なる生命の内容としての機能をもったので、それが意識である、意識はより大なる時間・空間の意味をもつのである。意識としての形成が歴史的形成である、それは生物的進化しての生体的変化ではなくして、言葉による否定の努力である。身体をして言葉の内容たらしめる努力である、人格はそこに成立したのである。否定的形成として努力とは限りない克己である、克己とは生体的個としての形成的欲求を言語的普遍への形成へ転 換せしめることである、情動に理念の衣服を着せることである、肉体的形成ではなく、 界形成によろこびかなしみをもたせることである、世界形成としての汝との対話をものと なることである、他者を手段としてではなく、目的として対するところに人格はあると言われる所以である、手段とは他者を自己形成の内容とすることであり、目的とは共に宇宙形成の内容となることである。勿論生命が身体的形成である限り、共同社会を営むものと して相互手段的であるのは避けられないことである。相互手段的であるのが生きてゆくことである、それを目的とするとはお互が対手を利用してゆくことが世界の自己形成の内容となることである、自己を否定して自己も他者も世界の実現の内容とすることである、自己と他者が世界実現の内容となることが対話である、そこは他者に自己を見、自己に他者に映して自己があり、自己に映して他者があるのである、自己の存在の為に他者があるのではない、他者に生かされ、他者を生かして自己の存在があるのである、自己に映して他者があるのではない、過去・未来の無限の他者に映して自己はあるのである、われわれの生命の欲求としての無限の時間、無涯の空間は我より出ずるのではない、無限の他者に映しているということである、対話はそこより生れるのである、他者として互に無限の生命につながり合うところに対話はあるのである、そこに相互目的として人格となるのである。相互目的として手段は目的であり、目的は手段である、それは単にわれわれの意識が変ったというのみではない、手段はより大なる手段となったのである、無限の過去と無限の未来の陰影をもつものとなったのである。産業革命に人格の基盤を求める所以である。私は 産業革命以後の国家が多く正義・友愛・自由等を旗印に掲げ、建設の基本理念としたのもこれによるとおもう、人格と人格とが対話をもつ社会、そこに人格は真の自己を見、実現せんと望むのである。

 何処迄も生物的身体としての生命が他者に自己を見ることは絶えざる自己否定の努力が必要である、身体的充足は世界が自己に化すことである。食も性も自己の身体を中心に置き世界を転ぜんとする行為である、他者に自己を見るとはその根底に他者があるということである、欲求は世界や社会の中に於ての欲求であるということである。世界や社会なく して欲求は成り立たないということである。われわれの身体は生物的生命を超えて自覚的形成的生命となったということである、斯る自覚が自己否定としての努力をもつ生命である、このことはわれわれが自己否定の努力を失うとき、人はその人格性を失うということ である。身体的生命は絶えず自己充足を要求するのである、それを世界に転ずる努力に於 て人格性を保つのである、それは両者の闘争である、身体は肉体に於て絶えず利己ならんとし、言葉は絶えず利他ならんとするのである。肉体的欲求が優勢なるとき、言葉は肉体的欲求に従い、言葉の欲求が優勢なるとき、肉体は言葉の内容となるのである。それは手段と目的として、手段が目的であり、目的が手段である具体的世界に於て絶えざる対抗緊張である。斯る対抗緊張に於て人格は自己自身を見出でてゆくのである、それは生命形成の本源的形式である。目的が手段であり、手段が目的であるとは、目的は手段に自己を実現し、手段は目的によって自己を大ならしめるのである。個々の身体が自己の中に世界を見ることなくして世界はあり得ないのである。個としての身体が世界を包むということは世界を自己の意志の下におかんとすることである、斯る個的身体の根底にあるものは身体の充足的欲望である、それは反人格的なものである、手段は常に反人格的である。斯る自己が世界が世界を形成するところに見られるとするとき人格となるのである。神は反極に悪魔をもつことによって神となる、人格は神の内在である、何処迄も反人格的なものをもつことによって人格となるのである。私はキリストの原罪、親鸞の罪深重というのも斯かる人格の根源の自覚に於て成立したのであるとおもう。人格的に愈々深大となることは反人格的にも愈々深大となることである。斯る極はどうすることも出来ないものとして自己 放棄してそのままの受容に生きたところに成り立ったのであるとおもう。そのままの受容とは矛盾そのままを実在とすることである、闘うことそのままが根源的存在者の自己実現とすることである。そこに自己が摂取されることである。私は受容の世界に自己を放棄せず何処迄も世界実現的に克己に生きたところに人格があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

勿体をつける

 つぎつぎと車過ぎゆきはるかなる動かぬ山に瞳置きたり

 例によって零点の、みかしほ八月歌会の私の詠草である。内藤先生が「この歌には骨がある、長谷川さん勿体をつけなさい」とのことであった。私は本来自分の歌を語るのは嫌いである。併し考えてみると稀には自己弁護も必要のようにおもう。それで勿体をつけてみる。

 この歌にもし見るところがありとすれば四句動かぬ山であろう。山は信玄の風林火山にもある如く、通念として動かぬものである。動かぬものを動かぬというのは、写生として最も拙劣なものである。それを敢て言ったのは、そこに自己の内面を表そうとが故に外ならない。勿論そこには目のやすらぎというものがあった。而して作者は目のやすらぎの根底に、変ずるものに対する不変なるものへの心の憧憬を感じたのである。

 祇園精舎の鐘の音は諸行無常と響くなりという、それは無常に対す常住への憧憬である。一瞬一瞬の移り変りに対する、永遠なるものへの愛慕である。動かぬ山は永遠の象徴のつもりだったのである。併し表現技術拙劣にして、理解の届く言葉を撰択することが出来なかったのは申訳ないことである。以上一寸勿体をつけ過ぎたかという心配もある。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

偶然と必然

 私は前に人間が人間になり得たのは、言葉による経験の著積によってであると言った。そして経験とは生命が生死として、内外相互転換的にある事であると言った。私達は摂食と排便をもつものとして生命を維持する。その食物を取る所、排便する所が環境へしての外である。そして食物を摂るもの、排便するものが身体としての内である。そして食物が無い事は死として、我々に否定として迫って来るものが環境である。私は今食物のみを言った。その他自然の暴威、他の生物等全て我々に否定として迫って来るものが外としての環境である。死として迫ってくるものを生に転ずるのが営為である。それは常に力の表出を伴う。それは生命が本来的に宿さなければならないものである。この死生転換が人間に於て経験である。経験とは斯る様態をより高次なる立場より把握したものである。そのより高次なるものを私は人間の自覚的生命に於て捉えたいとは前にも書いた通りである。斯るものとして私は経験は偶然的であるとおもう。

 偶然とは何か。此処に石がある、それは偶然でも何でもない、唯ありのままである。 その石に私が蹴躓いたとする。その時その石は偶然其処にあったのである。私は否定に面したのである。赤犬が私を襲おうとしたとする。私がその石を掴んで投げて追っ払ったとする。私は否定を肯定に転じたのである。その時その石は偶然そこにあったのである。人に してもそうである。もし私が群集の中にゐたとする。それは偶然でも何でもない。そこで知った人に出会ったとする。するとその時、其処、知人、自分等全てが偶然となる。そして知った人とは、出会いたかった人か、出会いたくない人か、肯定か否定かの何方かの人である。その何方でもない人は知った人ではない。偶然とは生命がその時、その場所に於て死生転換する唯一点の事柄である。故に私は人間を除く生命は偶然的であり、人間も亦生命としてその多くを偶然にもつと思う。経験とは斯る偶然を把握したものである。把握するとは偶然としてあったものを繰り返すことの出来るものとするということである。言葉による蓄積である。そして言葉によって蓄積することによって偶然は経験となるのである。経験を蓄積するとは如何なることであるか。

 生命は種と個の綜合として生命である。個的生命は生死することによって個的生命であり、種的生命は個的生命の生死を内包することによって、自己を維持するものとして種的生命である。否定と肯定を内包することによって自己を維持するということは、種的生命は無限に技術的であるということである。環境との相互限定に於て、無限に適応的であるということである。如何なる小さな虫といえども、それ自身によって動くということははかり知れざる機構をもつものでなければならない。死生転換を介して種的生命はそれを構成して来たのである。偶然はその刹那に於ける外に対する内の対応があって偶然である。その対応の背後には限りない生命の技術的形成があるのである。

 死生転換に於て主体の客体化が死であり、客体の主体化が生である。環境が凛烈なる寒気をもつとき、身体がその寒気に閉さるる時は、主体の客体化として死にゆくのであり、体温を保持すべく環境を変換するときは、客体の主体化として生を見るのである。生命はその生きんとする意志に於て、常にその生の方途を見出してゆく、その方途を記憶によって再生せしめる事が出来るのが蓄積である。

 環境は我々に繰り返すものとして与えられている。日は繰り返し年は繰り返す。環境が 循環的にあるということは、方途が繰り返されるということである。再生とは繰り返し の中の無限の方途から最善の方途を撰び出せるということである。そしてその方途の上に新たな方途を積上げる事が出来るということである。

 私達は斯る蓄積を言葉に於てもつ、言葉を作った人はないと言われる。それは人間の呼び交わしの中から出で来ったと言われる。それは無限の人の交流の中より自から作られたものとして全人類の内容である。我々は世界の中に於て言葉をもつのである。言葉は内なるものを外に表わすものとして自覚的である。自覚は個を超えた全人類の内容として、世界形成的として種的生命が自覚するのである。蓄積は生死する生命を内包する種的生命に於てあり得ると思う。新たな方途も、一人の人がもつことは出来ないと思う。無数の人による無数の方途が、言葉によって結合するときに生れるのであると思う。

 環境の主体化とは物を身体の延長とすることである。環境という言葉は既に主体との交叉を意味するのである。巣を作り、塒を作るのも主体化である。それが人間に於ては自覚的である。自覚的とは本然的に具有するのではなくして、記憶と再生と他者との結合に仍て、其の時、その場所によって構図を画くことである。其処に人間の技術がある。構図を画くとは製作することである。

 私は必然とは人類が製作的、発展的となることであると思う。一つの製作としての形が 新たなる経験の形を加えることによって、より主体化されるのが必然であると思う。全人類の内容として、形が形を呼ぶのが必然であると思う。甲が作った形に、乙が自分の見出した形を附加してゆくのである。著積するとは単にあることではない。これによって生きよと呼び声をもつことである。そしてそれによって生きると共に我々は我々の製作としての経験を附加することによって、次の時代への呼び声とすることである。斯る時の連続附加が必然であると思う。

 私は偶然とは斯る必然への転化以前として偶然であると思う。偶然が言葉によって永遠の内容となることによって経験となり、経験が言葉によって統合整理されて技術的製作的として必然となるのであると思う。必然とは自覚的形成的ということである。偶然は必然の光りに照して偶然である。

 かつて何かの本で偶然は原因が複雑で究明し難い事柄であると言った意味のことを読んだ事がある。而し私は犬に吠えられた時に、其処に石があったということは、幾億光年の星の距離を測定するより複雑であるとは思われない。偶然とは言葉以前なるが故に偶然であると思う。

 勿論私は偶然が単純であると言わんとするものではない。我々が生命である限り我々の日常は偶然的である。主体化である限り主体は達すべからざる深さである。四十億年前に地球の誕生があったと言われる。その間生死を繰り返すことによって形成し来った機構は解くべからざる謎であると思う。唯生命として死生転換にその機微の一端を現わすのであると思う。我々は偶然に於て垣間見るのである。

 かつて何かの本で南方の未開人が酋長を決めるのに角力を取る所がある。その時に誰が見ても強く、酋長になると思っていた男が、偶然そこにあった木の根に躓いて負けとする。すると皆は勝った方を酋長にすべく、神がそこに木の根を置いたと信じて疑わないと書いてあるのを読んだ事がある。私はそこに偶然に対する最初の受取り方があると思う。そこは未だ偶然と必然は未分である。木の根は神の心に於て必然である。斯る必然が更に根源的な因果の必然の自覚によって、木の根は偶然となり、神の心の方向に力の必然が生れるのであると思う。木の根に躓いたということは経験となるのである。根源的なる必然の自覚は、言葉が時を内にもつことによって生れるのである。

 環境の主体化とは、環境を外的身体とすることでである。身体の延長として環境を変革することである。道具は物を手の延長とすることであると言われる。我々は道具によって対象を変革し、死としての環境を生に転じる。蓄積は身体によって、身体の外化として蓄積されるのである。外化に対応するものとして大脳の言語中枢の発展に於て蓄積するのである。故に蓄積とは無限に製作的である。而して製作の必然より見るとき、最初に道具の素材となったものは偶然である。其処に経験の蓄積がある。

 経験の蓄積は全人類的として、必然は人類の種の内容であると思う。それに対して経験は死生転換として、偶然は生死する個的生命としてあると思う。人間生命は自覚的として何処迄も必然化であると共に、個的身体的として、何処迄も偶然的であると思う。必然に於て人間の栄光をもち、偶然に於て豊潤なる質料をもつのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

 諸悪莫作、衆善奉行という言葉がある。私達はより善き世の中を作り、そのためにより善き人であらんと欲する、善とは何かは古来人間行為の基本的価値の問題として幾多の人によって求められて来た。併し浅学なる私は私の内面の要求に真に応えるものをもっていないのに気付く。以下私は私なりに自分の内面に入ってゆきたいとおもう。

 我があるとは生命としてある、この我が生きてゆくところにある、斯かるものとしてわれわれの問いの第一は我とは何ぞやであり、生命とは何ぞやである。私は善とは何ぞやの問いも断る問いの中に於て問われなければならないとおもう。生命は物質より生れたと言われる、物質は無限大のエネルギーの爆発より出現したと言われる、エネルギーより物質が出現し、物質より生命が生れたというとき、エネルギーも、物質も、生命も不可知者である。エネルギーも、物質も、生命も現存在としてあると言わなければならない。勿論現存在としてあるとはこの一瞬の現実としてあることではない、変化することによって自己を維持するものとしてあるということである。移るものとしてあるということである。力とは対立をもつことである、エネルギーはそのもつ対立に於て遷移をもつのである。対立に於て遷移をもつとは、形は常に対立するものによって限定されるということである。

 生命は三十八億年前に出現したと言われる。生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として、食物を摂取して身体を作ってゆくのである。内外は相互転換的として相互否定的である。有機体は食物を有機体にもつ、求むべき対象は個体として自己維持を図るものである。それは抵抗をもち、それに出逢うのは偶然である。生命の否定は死を意味する、内外の相互否定は死をもって対するのである、死に面して生への転換を図る努力から生命は身体にさまざまの機能を創り出すのである。人類の祖先も単細胞動物の項に、同じ単細胞動物に幾億年か食われ続け甲殻をめぐらす身体をもったと言われる、それが現在の骨格の基礎になったと言われる。新しく甲殻をもった生命の出現ということは既成の生命から考えられないことである。私は遺伝ということからも考えられないとおもう。それが考えられるのは生死を超えて、生死に自己を見てゆくものが自己自身を限定してゆくと考えられなければならない、私は突然変異が生命のより基礎的なものであるとおもう。光エ ネルギーより物質へ、物質より生命へと変じた宇宙の存在者は量るべからざる変化をもつのであるとおもう。それが生命に於て内外相互転換的に形成的として出現したのである。内外相互転換的に形成的であるとは欲求的ということである。欲求は内外が対立することであり、対立することは相互否定的として闘争することである。而して個体は斯る闘争に於てより大なる形相を実現してゆくのである、より大なる形相とは生命がその一を実現することである、宇宙的一を実現することである。個的生命は身体的形成として何処迄も欲求的であり、闘争的である、闘争的とは形相実現的として普遍的生命の実現することである。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは自己の中に自己を見るものである、本来の相が露わになることである。私はそれを形の創造に見たいとおもう、個体が何処迄も闘争的であり、闘争が形相実現的であるとは、対立は形相実現的にあるのでなければならない。形の創造とは何処迄も否定的対立としての闘争の陰にかくれ 形相を表現的に露わにすることによって内面的発展をもたしめることである。そこに私は経験の蓄積があるとおもう、経験の蓄積とは一瞬の内外相互転換を把持し、現在の行為を時の統一の内容とすることである。昔の農暦は播種、施肥、収穫等の日を経験によって定めたものであった。そこに内外は対立するものではなくして一なるものとなるのである。外は偶然的存在ではなくして内を宿すものとして必然となるのである、人と人とは闘うものではなくして協調するものとなるのである。より大なる生産の為に集合するものとなるのである。本来の相が露わとなるとは対立の根底の一が具現することであり、そこに生命の自覚があるのである。

 善への意志は私はここに生れるとおもう。自覚は経験の蓄積として一挙に現われるのではない、外を必然たらしめるとは外を変革することである。それは額に汗して働く努力で ある。力の表出は外を内とすることである、外を内ならしめるとは、自己の内にもつ力により食糧を多大ならしめることであり、それはより大くの人類を養い得ることであり、内を大ならしめることである。斯る努力の繰り返しの中に現在を未来に投影し希望をもつものとなるのである。私は希望をもつとは本来の自己を更に一歩踏み込んで露わにしたものであるとおもう。生命に具現した宇宙的生命は文に大なる形相を実現したのであり、更に大なる発展を内在せしめたのであるとおもう、善への意志は斯る希望がその形相を実現せしめんとするにあるとおもう。私はそこに善とは何かがあるとおもう、それは全身を挙げて宇宙的生命の形成に努力することである。この我は個体として無数の個体に対するものである、我は汝に対することによって我である、汝は亦我に対することによって汝である、汝に対することによって我であり、我に対することによって汝である個が全身を挙げて宇宙的生命の実現に努力するとは、宇宙的生命は我と汝が対するということでなければならない。個体の一々は宇宙的生命を担うものであり、対するということは宇宙的生命が実現したということでなければならない。一々の生命が宇宙を映す、それ以外に宇宙があるのではない、もしそれ以外に宇宙があるのであれば個が宇宙的生命の実現に全身を挙げるということはあり得ない筈である。而してそれが我と汝の対話によって実現するとは、宇宙的生命は我にあるのでもなければ汝にあるのでもない、宇宙が宇宙を見てゆくところにあるのでなければならない。個が全であり、全が個である、一即多であり、多即一である、そこに形成があり、形成は常に矛盾の自己同一である。私はそこに善への意志がある とおもう、そこは自己形成が世界形成であるところである。そこに善の直覚が生れるのであるとおもう。それは対話の底から、世界の底からこの我の自己実現として命令するものである。私はカントの無条件命令の声は宇宙創生以来の大なる形成の継承として捉えたいとおもう。良心の声は斯る形成に即するのであるとおもう、良心の声はそれによって自己がある世界形成の声である。

 善は反極に悪をもつことによって善である、単なる善というのがあるのではない、善は は悪に対することによって善である。善に対する悪とは如何なるものであろうか、私は善が世界形成から考えられる以上、悪も亦世界形成から考えられなければならないとおもう、世界形成に於て相対するのである。私達は世界を言葉によって見出す、人間が言葉をもつのは言語中枢をもつということである。言語中枢は人間のみにあると言われる、人間のみにあり、人間を万物の霊長とすることは、言葉は生命の発展の究極としてあるということである。生命は機能の複雑化とその統一として進化してゆく、後より現われたものはより大なる時間・空間の統一者として、その統轄は過去に形成された機能を従属せしめるものである、言葉は言葉によって全機能を指示するものとなるのである。言葉は己れの純なる形相を全機能に於て現前せんとするのである。 宇宙的一の形相たらしめんとするのである。それに対して従前の機能は身体的に個体保存的であり、種族保存的である。斯くして身体は二重構造的でありつつ行動的一である。二重構造でありつつ一であるとは如何にして考えられるのであるか、私はそこに個体保存的、種族保存的なものが自己の中に自己を見たところに言葉があるとおもう、自己の中に自己を見るとはより大なる空間、より大なる時間をもつものに転態したのである。言葉の内容となるとは個体保存的、種族保存的なものがなくなったのではない、より大なる力を獲得したのである。物の製作はより優れた個体、種族の具現としてあるのである。二重構造は斯るものとしてあるのである、何処迄も生命 は個体的としてこの我に見る方向と、世界の自己形成として見る方向である、それが動的 に一なるのが生命形成である。而して言葉はこれを分つものとして言葉である、分つものとして一方に世界を見、一方に自己を見るところに自覚があるのである。より大なる時間空間は分離と統一より生れるのである。分離と統一より生れるものとして、何れもそれは根源的である。この我や汝の個なくして世界はないと共に、世界なくしてこの我はない、ここに私達は個に執し、世界に執する所以があるとおもう。何れかを軸としてわれわれは行為をもつのである。そこに善と悪が生れるのであるとおもう、世界の自己形成に副うのが善であり、背くのが悪であるとおもう。

 世界は対話的形成であり、対話は我と汝である、我と汝が対話するとは、我は汝ならざるもの、汝は我ならざるものとして対話するのである。それが世界形成的であるとは、我は我の中に世界を映し、汝は汝の中に世界を映すものとして対するということである。世界を映すとは世界形成としての技術と物を自己の内容とすることである、技術と物を所有することにより我は我となり、汝は汝となるのである。対話するとは技術と物の所有に於て対話するのである、世界形成とはより大なる技術、より豊富なる物を産むことである。それは技術の蓄積が技術を産み、物の蓄積が物を産むのである。技術と物とは相互形成的に生産を増大してゆくのである、われわれは世界を映すものとしてより大なる技術と物の所有を世界より要請されるのである。要請されるとは世界を表現せんとすることである。我と汝は世界を表現するものとしてその技術と物に於て蓄積を争うものとなるのである。斯る争いが世界の要請として機能せず、この我の実現の欲求としてはたらいたときに悪が生れるのである。争いは建設の争いではなくして破壊の争いとなるのである。世界形成に背くものとなるのである。争いが世界形成に収斂されるとき和となるのである。それが善と言われるものになるのである。

 斯るものとして善悪はものの表裏である、悪なくして善はない、善なくして悪はない、 自己は何処迄も自己を見てゆくものである。而して見出でた自己は悪である、それが善であるためには見出でた自己は常に捨ててゆかねばならないのである、形の実現は常に我に見出でた世界の形であり、世界を映した我である。それは我として世界ならざるものである。それは知慧の果実を食ったことによって背負わされた人間の原罪である。形の実現は我の実現である。われわれは表現に於て自己を見るのである。而してそれは自己が世界を映したものとして世界の実現である。斯る世界の形に我を見るときそれは悪となるのである。私達は絶えず自己否定をもたねばならないのである、絶えず世界へ転ぜねばならないのである。休むことなき世界創造の内容となることが善である。世界創造は一と多、全個の否定的形成である、世界を否定して我を見るときに悪となり、その我を世界の中に転ずるときに善となるのである。斯る関係は逆説的である、私は親鸞の罪深重の自覚に真の善なる意志の成立があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

経験

 生命は身体的として、内外相互転換的である。食物を摂ることによって、細胞が増殖と死滅をもち、形相を維持してゆくのである。食物は摂取するものとして、我ならざるものであり、食物の欠乏は死として、外なるものである。食物は我々に必須なるものでありつつ、我ならざるもの、外なるものとして、その獲得に努力しなければならないものとして我々に対して環境となるのである。

 内外相互転換的として、生命は主体的、環境的である。環境は単に食物的環境として、我々に対するのみではない。食物を介して、他の生命と対するのであり、行動するものとして環境の状態と対すのである。対するとは否定し来るということである。環境は否定として、死をもって我々に迫ってくるものである。内外相互転換的とは、斯る死をもって迫ってくるものを生に転ずることである。環境は常に我々に対するものである。常に対するとは常に死をもって迫ってくることである。常に死をもって迫ってくるとは、生命は常に危機としてあるということである。

 我々の身体は幾億年前の生命発生以来、斯る否定を乗り越えて来たものとして、維持して来たのである。外を内にするとは、機能的であるということである。獲得するものとして、異質なるものを同質化するものとして、それは限りなく組織的統一体でなければならない。我々の身体には六十兆の細胞があるという。そして一日に何十億かが死滅し、新生するという。それが全て機能し、その統一的整正体に於て、死を生に転換するのである。新たな状況に対応する力となるのである。

 内外相互転換的として、環境が常に否定として迫ってくるとは、状況的として一々が新たなことでなければならない。身体が機能的であるとは、転換の経緯を身体の組織に於て蓄積することである。若し常に同じ状況がくり返されて、生の維持があるとすれば、それは危機でなくして楽園である。死は身体に内在的なものであって環境が死として迫ってくることはない。生物の身体は状況としての危機の中から無限の機能を作って来たのである 生体の進化とは、如何に多面的に危機に対応出来るかの機能を作って来たかにあるとおもう。

 一瞬一瞬に否定的転換として、機能がはたらくとき、それは反射的である。その反射作用は、その生体が数億年形成し、蓄積し来たった機能の全身的動作に於ける、死の生への転換である。私は経験とはかかる生命の営為の人間の自覚的把握であると思う。

 自覚とは生命が超越者に自己を映して、自己を見ることである。個が永遠を宿すことである。私達は斯るものを言葉にもつ、私達の先祖は、語部によって個を超えた民族の歴史を語り伝えた。言葉は時の変化を超えて、過去、現在、未来をその中に包むものである。私は、経験とは一瞬一瞬の内外相互転換の営為が、永遠に包まれたものと思う。

 一瞬一瞬の営為が包まれるということは、死生転換の機能のはたらきが蓄積されるということである。一瞬一瞬の、危機を超克した機能の技術が蓄積されるということである。

 私は前に身体が機能的であるとは、死生転換の経緯を、身体の組織に於て蓄積することであると言った。自覚とは断るものを、言葉に於て蓄積するのである。身体は生死し、亦変化する状況に対応する為に、前の事柄を忘れなければならない。身体の蓄積はその故に生得的機能の蓄積に限られて、習得的機能のはたらきは、その個体の消滅と共に消滅するのである。言葉に於て蓄積をもつとは、個体のはたらきを、個体を超えて蓄積するのである。それは限りない蓄積である。

 この頃の猫はねずみを取らないと言われる。聞くところによると、ねずみをとるのは、猫の本来的なものではなくして、親猫が教えなければいけないそうである。だから生れたすぐにもらって来た猫は、ねずみをとることが出来ないのだそうである。これが人間であったらどうであろうか。いつであったか、発見された図面によって、戦国時代の製鉄法の炉を築いたと書いてあった。幾世代を超えて過去の事物を現前せしめたのである。恐らくそれは長い経験の積み重ねであったであろう。そしてそれは言葉の延長としての文字と、図面によって伝えられたのである。そこに人間の蓄積があるのである。

 蓄積するとは、現在に於てはたらくということでなければならない。生命はどこ迄も死 生転換的である。転換の経緯が蓄積されるということは、現在の転換に応用出来るということでなければならない。

 死生転換とは、死を生に転換することである。環境としての死を生に転ずることである。それを蓄積するとは環境を変革することでなければならない。生体に於て転換は一瞬一瞬であった。其処に変革はない、状況の変化があるのみである。それを蓄積するとは持続することである。持続するとは環境を生の相に作ることである。そこに機能のはたらきの持続があるのである。はたらくとは環境を合目的的とすることである。

 環境を変革するとは技術的ということである。経験を蓄積する生命とは、多くのものを 包み、統一する生命である。無限の個の経験を一に結合する生命である。私は技術とは、無限の経験が現在に於て、一つとしてはたらくものであると思う。

 はたらくものは身体としてはたらく、身体としてはたらくとは、環境に身体の構構を投 影することによって、環境を生に転ずることである。人間は手の延長として道具を作り、道具を使うことによって物を作り、物を作ることによって人間になったと言われる。道具の使用が人間のあけぼのであると言われる。かくして経験の蓄積は、人間を表現的、製作的身体とし、経験は製作的経験となるのである。一瞬一瞬の相互転換を永遠なるものに於て包むとは、斯く製作的身体の行為としての経験である。

 湯川博士は、物理学は視覚と関節覚と綜合の発展であると言われる。斯る意味に於て音楽は聴覚の発展であり、絵画は視覚の発展であると言うことが出来ると思う。私は真理とは表現が、身体の機能のはたらきと一致したることの直覚であると思う。力とか、数とかの学の内面的必然も、数億年の組成を内として、それの外化として機能に添うものであると思う。視覚とか、関節覚の延長とは斯るところから見られるのであると思う。宇宙の大も、身体的構成の外化として、構成することによって見ることが出来るのである。最初の宇宙把握が擬人的であり、漸次身体の真に動くものへの把握はこれを証すると思う。

 蓄積するとは、はじめにおわりがあるということである。現在がはじめをもつというこ とであり、はじめが現在に働いていることである。はじめとおわりを包むものによって、 蓄積があるのである。

 而して蓄積するとは、何処迄も個が世界を破ってゆくことである。無限なる経験の著積は、金銭の貯蓄の如く、同質なるものの量的蓄積ではない。同質なる物の蓄積は、経験の蓄積の上に築かれたものである。死生転換として、環境的、主体的なる経験は一回的である。一回的なものとして過去にも、未来にも有らざるものである。一回的なるものの附加として過去の変貌を求めるものである。

 変貌を求めるとは、過去の蓄積の上に立つことである。而してそれを否定することである。永遠が現在に於てあることである。永遠の内容としての一点が、逆に永遠を内にもつことである。現在の経験が、経験の蓄積の上に立つとは、歴史的形成的ということである。我々は歴史的現在に生き、歴史状況に対する、否定即肯定として、内外相互転換として経験するのである。それは最早素朴なる自然の内外相互転換ではない。ワイルドが「自然は芸術を模倣する」と言った意味に於て、内外相互転換をもつのである。そこに永遠としての言葉が、経験を蓄積するの意味があるのである。

 経験が一回的であるとは、内外相互転換としての生命は、無限に多として自己を限定するものであるということである。内外相互転換として、否定として迫って来る環境は状況的である。否定として迫ってくる状況を、肯定に変えたということは、状況を変えたということでなければならない。即ち異った状況として、状況は我々に死として迫ってくるのである。生命は製作的主体として、環境は歴史的状況として、我々の経験はあるのである。

 個は個に対することによって個である。状況に対する主体は、無数の個として対するのである。言葉は我と汝が交すのである。此処に蓄積がはじまるのである。言葉をもつとは永遠を内にもつことである。一人一人が永遠を内にもち、永遠に於て対話するところに、経験は蓄積されるのである。変化する状況に一人一人が死生転換する。そこに蓄積があるのである。蓄積とは複雑化である。複雑なるものの統一である。そこに無限の個人が要求されるのである。

 変化する状況の中に生れて、死生転換する個人は、常に無として出現するのである。此処に無というのは、予め作るべき形相をもって生れて来たのではないということである。昔狼の中に育った少年が捉えられたことがあった。その少年は手足で走り、狼の如く吼えたそうである。即ち狠の状態に生きたのである。生れたものは生きる世界を映すのである。無として生れるとは、生れるものは現在に生れることである。現在とは生が対決すべき状況である。我々は限りない経験の蓄積としての、歴史的現在に生れたのである。而して現在の史的状況が抱える、課題の転換を担って生れたのである。

 刹那としての死生転換を、言葉として永遠の相下に捉えることは、自覚的ということで ある。自覚とは自己が自己を知り、自己が自己を見ることである。死生は我の状態である、そこに経験の蓄積は自己を知ることを要請する。知るものを知ることを要請する。

 我々は此処に不可知者に遭遇するのである。言葉に現前するのは内外相互転換に於てである。それは常に状況として、変化するものである。それを捉えるものは言葉であり、言葉をもつものである。知るものを知らんと欲することは、唯一者としての、不変なるものを知らんとする欲求である。而してそれは変化としてのみ現前するのである。内外相互転換として、状況は限りなく変じてゆくものである。その一々の否定即肯定として、言葉は常に異なった言表をもつのである。

 斯く我々の内深く、一としてありつつ、無限に変ずるものとして現われ、現在を否定よ り肯定に転じ、肯定より否定より転ずるものが神と呼ばれるものであると思う。それは現 実限定として直下に触れつつ、過去として過ぎ去り、未来として未だ来らざる、触るるべからざるものである。我々も亦一瞬一瞬の映像として、時の流れの中に没しゆくべきものである。而して没しゆきつつ、神の映像として時を超え、時を包むのである。私は経験は深く神の自己限定としてあるのであると思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

一首抄

 前にも書いた如く私は一首抄が苦手である。私は取り上げた作品が卓抜という確信がもてないのである。夫々に内容をもった歌が幾首かある。その撰択は優劣ではなくして私の好みのようなところがある。私はそれに怯むのである。

 寝ねぎはに続けて長きリハビリの吾が脚未だ人に後るる 小紫博子

 洗練された作品である。私がここに言う洗練とは文字の構成も勿論であるが、それと同時に歌境の洗練である。作者の長い作歌体験が作り上げた境地の深さである。

 本首は嘆きの歌である。作者は自分の病身に嘆息をもらす。併し下句の気息は単に嘆きに終るものではない。それを運命として大なる生命の流れに写した静けさがある。私が尊敬する西田幾多郎先生の短歌に「わが心深き底ありよろこびも憂ひの波もとどかじとおもふ」と言うのがある。観念的で作品としては優れているということは出来ない。併し内容には人生の至り着いた深さがある。静けさというのはこの深さより来るのである。私は作者がこの深さに至りついているとおもうものではない。唯その翳を宿しているとおもうのである。そして私の知る限りみかしほに於てその翳を宿す唯一人の人である。私が小紫さんの歌に魅かれるのはそこにあるとおもう。

 それは下句脚未だ人に後るるに見ることが出来るとおもう。そこには声の抑制がある。 嘆きはその抑制の中に沈んでゆく。その底に中宮寺の思惟像に見る如き、かなしみはかすかなほほえみをもつかなしみとなるのである。限りなきよろこび、限りなきかなしみは、よろこびなきよろこび、かなしみなきかなしみとなるのである。私はそのようなものの翳が見られるところに、前記の洗練があるとおもうのである。

 多くの人は声の大なるものに従いやすい。併し私は短歌表現に於て却ってそこに不毛の地が見られるのではないかとおもう。抑制することによって、抑制の背後に無限の陰翳が見られるのである。言ってしまえば読者はその言葉に対わなければならない。そこには読者は自分の個性の底に自分の言葉を組立てて作品に対するということが失われるのである。 そこに思いを述べることの不可なる所以があるとおもう。

 先日小野短歌教室の帰り道で藤木さんが「あの本論文があるかと思えば、短歌があって 何を書こうとしているか判らないと嫁が言っていた」と言われた。私の「始めと終りを結ぶもの」のことである。それから数日して三木の知人に出会ったところ「友人の大学教授が、あの本はいろいろの題があるが結局は一つのことを書いていると言っていた」と伝えてくれた。私は読む人によって正反対に分れるのだなあと思った。結局その人の力だけである。私の批評は私の力だけである。及ばぬところは御容赦たまわりたい。

 私は一首抄が苦手である。一首を描くからには一番い歌でありたい。併し私にはこれ が最も勝れていると決定出来ないのである。勿論私の力量不足による。

 クロバーの群落咲きて匂ふ道遠き記憶に花摘みしなり 井上徳二

 自覚的生命としての人間は主体と対象をもつ。そして主体的方向に生命を見、対象的方向に物を見る。詩は生命的方向に自己を見出すところに成立するのである。われわれは生命を身体としてもつ、この身体は生れ来ったものとして、百年足らずで多く死んでゆくものである。併しての身体は生命発生以来三十八億年の時間を以って作られたものである。人間は六十兆の細胞と、百四十億の脳細胞をもつという。その見事な統一がわれわれの身体である。今のこの身体は無限の時を宿すのである。われわれの一瞬一瞬の行為はこの統一の上に成立するのである。瞬間が永遠であり、永遠が瞬間であるところに身体は行為するのである。

 ゲーテはバラの花に過去を嗅ぐと言っている。詩は生命の表現として、身体の現在の一瞬に永遠を見ることである。生命がこの一瞬に自己を見るということが感動であり、美である。

 作者は今遠き記憶にクロバーの花を摘んだのであり、遠き記憶に花を摘まされたのである。花を摘む作者の手の動きは、遠き記憶が作者の手を動かすのである。ここにあるのは、遠い過去は作者の手を動かすものとして身体の現在である。そこに過去と現在を統一 した大なる現在がある。身体は新たなる自己を見る、そこに詩があるのである。上句と五句の的確な写生の間に、四句の茫漠としたものを入れたのはうまいとおもう。

 実はこの一首抄片山洋子さんの、

居並ぶを白線のあとにさがらせて特急電車がお通りになる。

を取り上げたいと思った。上手いというよりは、このようなスタイルのもつ短歌としての表現の位置を求めたかったのである。一時間程考えたがまとめ切れなかった。我な がら駄目なものである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

直観と反省

 全て生命が見るのは直観的である。直観とは生命が自己形成に於て物を見ることである。前にも書いた如く、生命は内外相互転換的である。我々は摂食と排泄に於て生きるのである。外を内とし、内を外として生きるのである。食物を摂らざることは死である。食物的世界は死として我々に対立し、対立することによって外となるのである。而してそれは単に対立するのではない。我々は外によって生きるのである。我々がそれによって生きるものとして、外は環境となるのである。死として迫ってくる外を内とするのが生である。内外相互転換とは死を生に転ずることである。そこに生命の営為があり、生命は努力によって生きるのである。

 外が死としてあり、それを常に転換して生きてゆくとは、生命は常に危機としてあるこ とである。我々が環境の中にあることは、常に死に面していることである。それを生に転ずるのが営為である。死生転換の一瞬一瞬の形相を実現せしめるのが直観である。それは偶然的である。而しそれは単に偶然的なのではない。死を生に転ずることは、対象を変貌せしめることである。それは技術的である。

 経験に於て書いた如く、我々の身体は無限に機能的である。その機能は何億年の生成の過程に於て、死生転換の経歴に於て組成されたものである。それは環境としての、自然の循環性に応じて組成されたものである。更に風土としての地理的条件に応じて組成されたものである。我々の身体は斯る基盤の上に組成された、能動的統一体である。死生転換の一瞬の偶然は、数億年の時間の背景をもつ行為なのである。

 人間の身体のみにあって、動物の身体にないもの、それは言語中枢であると言われる 言語によって経験を蓄積することによって、人間になったと言われる。昔時語部が語り継ぐことによって、先祖の事蹟を伝承したと言われる。言葉は個体を超えるのである。個体を超えることによって、個体を内にもつのが蓄積である。一瞬一瞬の内外相互転換が、永遠に映され、永遠の内容となるのが蓄積である。蓄積に於て内が主観となり、外が客観的世界となるのである。

 我々は一人一人が言葉をもつ。言葉は個体を超えたものである。個体を内にもつものである。一人一人が言葉をもつとは、個体は我を超えた世界を、逆に内にもつのでなければならない。一瞬一瞬の死生転換をもつのは個体である。経験が蓄積されるとは、個体が言葉をもつことによってはじめて成り立つのである。この我を超えたものを内にもつことによって、我々は自己の中に自己を見るのである。人間は自覚的生命である。

 言葉は語り合うことによって言葉である。独語の如きも、自己の中に他者を見、他者としての自己との対話という意味がなければならない。言葉は私の言葉という意味に於て、私の中にあり、語り合うと言う意味に於て、私は言葉の中にあるのである。言葉の中にあるとは無限の他者と連ることである。我々はそれによって、無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達するのである。私の言葉によって我々は個的生命を自覚し、語り合うことによって、種的生命としての全人類を自覚するのである。而してこの相反するものは常に一である。私の言葉は語り合う言葉であり、語り合う言葉は私の言葉をもって語り合うのである。私達は語り合うことによって世界を作る、世界とは種の生命の自覚の形相である。

 言葉が常に世界の実現でありつつ、言葉はこの我の言葉であるとは、この我に於て常に新たな世界が実現しているということである。世界は内に矛盾をもつということである。現在を否定し、自己を破ることによって、自己を維持するということである。無数の人々が対話によって生きているとは、世界が常に自己を破って、新たな世界を作っていることである。生産を背景に、それが一つの潮流をなすことが歴史の動向である。その否定と肯定が直観である。

 死生転換する生命は何処迄も生死する生命である。たかだか生きて百年の生命である。ある生命はその中に無限の蓄積をもつことは出来ない。無限の生命は、個でありつつ個を超えなければならない。私はそこに生れるということがあると思う。新しい生命が生れて新しい個性に於て死生転換をもつ、其処に蓄積をもつのであると思う。 死生転換の技術的蓄積は、死生転換の刹那刹那に於てのみ行持されるのである。技術は製作に於て維持されるのである。私は是を明らかにする為に、生れるとは如何なることであるかを立入って考えて見たいと思う。

 度々例に引くことであるが、私の若い頃狼に育てられた少年が捕えられたと、新聞に報ぜられたことがある。その少年は手足を用いて走り、狼の唸り声をもつのみであったと書かれていたように思う。記憶違いがあるかも知れないが、兎に角狼の習性に生きて、人語を教えようとしても、何うしても覚えることが出来なかったという。

 生れるとは主体的環境的としての状況の中に生れるのである。人間に於ては経験が蓄積され、形成された世界としての歴史的現在に生れるのである。史的状況に於て死生転換をもつのが生命形成である。生命は死生転換的に状況を映してゆくのである。映すとは自己の内容とすることである。生れたものは形成的世界を自己の内容として、歴史的現在の上に立ち、現在の状況としての、内外相互転換にそれ自身の言葉をもつのである。新たな状況に対する、新たな言葉をもつのである。而して言葉は個的世界的として、新しい言葉は 世界が世界自身を破り、新しく生れるのである。

 歴史はその内包する矛盾によって動いてゆく。矛盾とは世界が世界自身を破ってゆくことである。私は矛盾とは生命が自己と異なる生命を生んでゆくことであると思う。生れた生命は、生んだものならざる生命である。生んだものとは異なった主体として、異なった状況を映し、異なった言葉によって自己を形成してゆくものである。異なった世界を形成するものとして、生んだものと対立するものである。対立するとは否定関係をもつものである。生れたものが生んだものを否定するとは。新たな言葉を附加することによって、より大なる世界を形成せんとする努力である。

 此処に歴史的創造があるのである。歴史が創造であるとは、新しい個体が新しい世界を作ってゆくことである。個体と個体は否定関係として、他者としてあり、一つの世界より次の世界へは、他者の現前として飛躍である。蓄積の上に立つことは連続である。個より個は飛躍である。歴史的創造とは連続が飛躍であることである。そこに言葉に経験を見てゆく生命があるのである。

 何処迄も言葉に見てゆくものとして、歴史は世界の自己限定である。内外相互転換的として個体的である。斯るものとして、新しい個体が生れ、新しい個体が、新しい言葉をもつとは、現在ある世界を古い世界として、否定さるべき世界として見出すことであるとおもう。矛盾とは現在ある世界を新たなる個体が、より大なる創造への目をもって見るところにあるのであると思う。以下少し私の立場から歴史の矛盾を考えて見たいと思う。

 現代最も多く語られる矛盾は労使の階級的対立である。労使の対立は産業革命以後の、生産手段の工業化の所産である。而し産業革命の成立当時、果して斯る矛盾の自覚はあったのであろうか。生産手段の発展と、教会統治の矛盾の克服として生れた産業革命は、そのもつ可能性の輝きに陶酔したのではないかと思う。その中に対立を見たものは、産業革命を打樹てた当時者ではなくして、其の中に生れた新たなる個性であったと思う。新たに生れたものが、その上に立ってより大なる世界を築かんとする時、現在ある世界を克服さるべき古い世界として、克服さるべき与件として労使の対立を見出でたのであると思う。実際にも階級対立を見出したものは、抵抗するものとしての労働者の自覚ではなかったようである。階級斗争の演出者マルクス、ホロシア革命のレーニン、トロッキーは貴族の出であると聞いたことがある。フランス革命もそれを指導したものは一般大衆ではなくして有産階級としての知識人であったと聞く。 その中に生れたものが、其の状況の上に立ってより大なる世界を形成せんとする声をもったのである。

 この飛躍が直観である。故に常に新しい生命の生れ継ぐ世界は直観の世界である。 直観は生れ来った個体の担うものとして直観である。而して言葉によって露はとなるものとして、世界の自己限定である。蓄積された技術の上に言葉をもつとは、世界が世界自身を見てゆくことである。個体が言葉をもつとは、世界が自己を直観してゆくことである。その極限に天才がある。天才とは新しい言葉をもつことによって世界を過去とし、世界の中に矛盾を見出して、より大なる世界像を樹立するものである。

 世界は個体が担う直観に依て、世界自身を否定の肯定に於て維持してゆくのである。無限に動的なる歴史的世界は現在より現在へである。生死する身体の限定として、事実より 事実へである。

 直観と蓄積は相反するものである。蓄積は維持されてゆくものである。直観は否定する ことによって変革するものである。而して直観は内外相互転換として、生命の本来的なものである。斯る本来的なるものの蓄積によって人間は人間になったのである。我々の直観も前に書いた如く、蓄積の上に於て歴史的現在となるのである。斯る蓄積を直観に対する反省として、以下少し考察を加えて見たいと思う。

 私は前に人間は言語中枢をもつことによって経験を蓄積することが出来ると言った。言語は個体を超えて、個体を包むものであり、個がそれによってあるものとして、経験を内にもつものとなると言った。そしてそれは人間の身体のもつ個的性格と種的性格の二重構造の自覚にあると言った。

 人間の自覚は無限に自己を外に表わすことによって、自己が自己を見てゆくことである。無限に外に見てゆくとは、外を変革することである。生命創造と言っても、六十兆個の生滅する身体細胞と、百四十億個の不変なる脳細胞を有する身体構造は不変である。機能活動の密度が高まるのみであって、内外相互転換の蓄積は外としての環境の変革である。環境は我々がその中に生れ、営み、死んでゆく所である。内外転換として、否定として迫ってくるものであり、我々の生命は否定を否定して生くるものとして、我々は働くことによって生きるものである。働くとは言葉を生命が内外相互転換することである。

 我々は環境に於て言葉をもつ、言葉をもつとは対話をもつことである。我と汝が環境に於て関り合うところに言葉が生れるのである。言葉をもつとは、死生転換の死の方向を外とすることである。我々が内外相互転換というとき、既に言葉をもつものとして見ているのである。而して死の方向、外の方向に物を見、生の方向、内の方向に生命を見るのである。物は環境として、外として、死として迫って来るのである。斯くして我々は物の中に生れ、物の中に生き、物の中に死んでゆくものとなるのである。

 言葉を媒介したる内外相互転換としての外は物である。物は内に転換されたる外として製作物である。内に媒介されて作られた物は外として、我々はその中に生れ生き死んでゆくのである。それが世界である。そこに個を超えた言葉の、種の自覚があるのである。自覚とは世界形成的である。言葉をもつ生命がそこに働き死んでゆく処として、其処に普遍的世界があるのである。

 私は内外相互転換としての経験は物に蓄積されるのであると思う。物は自覚的生命の内外相互転換の内容として、内の外化方向に道具、機械に発展し、外の内化方向に消費物として顕現するのであると思う。斯く蓄積された世界の内容は、新しく生れ出でた生命の死生転換の立脚点となるものである。未来がその上に立つものとして、未来を限定せんとするものである。新しい言葉がその中に矛盾を見るとは、蓄積されたものが歴史的現実として、未来を決定せんとするのを、過去としてその延長を断ち切らんとすることである。反省とは斯る転換に介在して、蓄積より未来を限定せんとすることであると思う。

 蓄積より未来を限定せんとすることは、経験を組織し体系化してゆくことである。体系 化によって機能化することである。分化と統一をもつことによって合目的的となることである。斯る体系化が自覚的生命の内外相互転換である。相互転換は相互否定である。環境よりの否定は、身体が環境となることであり、身体よりの否定は、環境を身体化することである。技術的、製作的としての自覚的生命に於ては、物が人を作り、人が物を作るのである。反省は斯る形相を時間の流れを超えて樹立することである。それは何処迄も相互転 換的として、永遠が瞬間であり、瞬間が永遠である。永遠が瞬間であり、瞬間が永遠であるところに物の製作があるのである。和辻哲郎が倫理学で言っている如く、世界は人間の在り方の外化であり、ロダンが道行く一少女を指して「そこに全フランスがある」と言っ た如く、人間は環境の綜合である。斯かる綜合の立場より、一瞬一瞬の限定を綴ってゆくのが反省である。

 食うだけなら犬でもするという言葉がある。蓄積するとは余剰をもつことである。転換 しつつ転換の現在を超えることである。言葉によって蓄積するとは、言葉に映すことであり、言葉を映すことである。私は物を作るとは物は常に永遠の像の自己形成の意味をもつと思う。食物を蓄積すると言った事も、蓄積自身が時を超えると共に、超える生命が自己自身を見とする行為であると思う。例えば耕作に当って殻神を祭り、耕作行為を仮現して祈ると言ったことは常に見られた事であると言われている。それは耕作に対して必要以上の事である。而してこの必要以上の事が、必要な事よりも重要視されているように思う。勿論物を得ることが目的であろう。而し外に物を作るということは内も作られることである。物は自覚的生命の内外相互転換の一方の極に見られたものであり、一方の極に作るものの形が現前するのである。

 私は作るものの方向に、生命存在としての個と種の二つの面が見られると思う。個は生死するものとして身体維持的である。種は個を超えて個を包むものとして形相形成的である。個を超えて個を包むとは、個を成立せしめて、その統一の上に自己の形成作用をもつことである。儀礼とか、道徳とか、法律とかは、斯るものによって成立するのであると思う。芸術の如きも、身体が身体維持面を極小として、世界の形相の表象を見た処に成立するのであると思う。

 物は身体維持的である。私達は物を衣食住に必要なものとして製作する。而し製作された物は、単に身体維持的なるもの以上のものをもつのである。物は形をもつことによって物である。例えば茶碗の如きものであっても、食物を入れるという有用性の外に、安定、整正、美麗、繊細、清潔、重厚等其の他の感情を起させる。それは有用性と関りなき形の誘起する感情である。それは価値感情として、個を超えたものが、個に自己を見出でた感情である。超越者の自己表現として形はあるのである。物は常に斯る両極をもつことによって作られるのである。超越的なるものが個物的なるもの、生死するものが永遠なるものとして、稲の田植、収穫は亦神を祭ることであることによって、物の生産はあるのである。物は単に有用性によって生れたのではない。種と個、身体維持と形相顕現、永遠と瞬間の動的生命の自覚の一極として生れたのである。よく発明家が寝食を忘れて研究すると言われる。寝食を忘れるとは個体維持の否定である。彼は其処に底深き自己の、底なる自己としての人類の形相の実現を求めているのである。神の荘厳を見出さんとしているのである。而してそのことが物を作ることなのである。身体維持としての有用物を作ることである。形は永遠の内容として個を越えるのである。

 我々が自覚的生命として、環境を物として物の中に生れ、物の中に働き、物の中に死んでゆくとは、環境形成的ということである。それは製作的として世界を作る事である。而して世界は個的種的として、種の方向、永遠の方向に価値を見るのである。全て世界にあるものは、個の方向に生滅を映し、種の方向に永遠を映すのである。全て形あるものは壊れると同時に、全ての形は永遠である。我々が生死する世界は価値実現の場である。我々は世界の中に価値を見出すものとして自己である。世界は我々の価値実現を自己の創造とするのである。直観と反省は相反しつつ一つとして、世界は無限に自己を創造するのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

生命形成

 私達の身体を組成する物質は地表に存在する物質に比例するといわれる。身体の有する水分は約六十五%であり、それは地球上に占める水分の比率にほぼ等しいものであり、その他の物質も地球上に多く存在するものであり、その比率もほぼ等しいといわれる。私達の身体は外を環境として、環境を映す環境の凝縮物であるのである。私はそこに生命形成があるとおもう。外を宇宙と名付ければ身体は宇宙が自己の中に見出でた自己の形相である。生命は身体的に自己を形成してゆくのである。身体的に自己を形成し、身体は宇宙が自己の中に自己を見出した形相であるとすれば、生命は宇宙が自己の中に自己を見る無限のはたらきであると言わなければならない。生命は内外相互転換的である、内外相互転換的とは外を食物として、食物を摂取することによって身体を養うことであり、不用のものを排泄することによって身体を形成してゆくことである。斯る形成として環境は食物連鎖をもつのである、私は食物連鎖とは宇宙が自己の中に自己を見てゆく一環として捉えるべきであるとおもう。低次なる生物を捕食することによって高次なる機能を生む力を獲得するのである、否捕えるということが既に優越する力をもつということである。それは生存競争の中より生れるのである、形として生み出された生命は生存せんと欲する、生存と生存の対立するところ、対手を倒して己が生きんとするのが生存競争である。生命は常に死に取り囲まれているのである。生命の行為は対面する死を生に転ぜんとする努力である。 そこから身体により大なる機能が生れるのであり、より大なる機能による行動がより明らかな対象を生むのである。そこに宇宙の自己実現があるのである。生命に自己を実現した宇宙は生死に於て自己を発展させてゆくのである。

 生命が生死に於て自己を見出してゆくということは情緒的であるということである。生命は身体として自己を形成してゆく、それは一瞬も止まざる生死の転換としてあるのであり、転換の形象は情緒である。情緒の表出は生きている証しである。情緒は死に面し、生に面する身体の対応である。喜ばんとして喜ぶのではない、怒らんとして怒るのではない。対象に面して身体が躍り、身体が竦むのである、われわれは情動として自己をもつのである。われわれの生命が自覚的であるとは、斯る生命が自己の中に自己を見るということである。

 自覚とは生命の生死の転換による形成としての身体が、宇宙の自己形成の内容としてではなく、逆に宇宙の形成を内にもったということである、経験の蓄積をもったということである。身体が新たに手と言語中枢を加えたということである、一瞬一瞬に現われて消えてゆく生死転換の営為を統一する生命となったということである。そこに物の製作と言語がある、物の製作とは宇宙が自己の中に見出でた自己の形象としての身体が、その作られた宇宙の形象に於て逆に宇宙を作ることである。宇宙の創造をその転換に於て更に大なる創造点に立つことである。そこにわれわれの自己が成立し、世界が成立するのである、経験の蓄積として内外相互転換を統一し、宇宙を内に見るものが自己となるのである。

 製作とは内外相互転換としての生命の流れを形に表わすことである、そこに自己を確認し、世界を確認するのである。それは形より形へである、内が外を映し、外が内を映すのである。内が外を映すとは表象として世界をもつということである。外が内を映すとは物として生命を宿すということである。世界を内にもつとは、世界が内として次の世界を作る力となることである。物として生命を宿すとは、物は生命の表れとして次の形を呼ぶことである。製作することは内に力がつき、外に新たな形が生れることである。そこに自覚的生命の内外相互転換の必然があるのであり、生命の無限の形成があるのである。

 斯るものとして私は形は情緒が言葉をもつということであるとおもう。経験の蓄積は生死転換による生命形成である、それは宇宙が宇宙を見ることである。宇宙が宇宙を見ることがこの我が我を見ることである。私達の祖先が最初に見た形は宇宙としての世界表象であったとおもう。而してそれはそれによって我がある根源的存在である。私はそこに原始的イメージがあるとおもう。われわれは根源的存在の具現として存在する。併しわれわれは生死する。そこに根源的存在は超越者として絶対の力を有するものとなる。われわれはそれによってあるものとして、無限の形を生み継ぐものの内容となり、運命的となるのである。

 表象は一人一人がもつ、一人一人はその表象を生死に於てもつのである。而してその表象はわれわれに生死をあらしめ、われわれの生死に於て自己を見てゆく超越者の形象である、その形象は一人一人の生死を映すものとしてこの我に擬ふるものである。私は擬人ということが最初の世界表象であったとおもう。超越者は生と死の方向に分れて戦い、在る ものは喜び、悲しみ、怒り、怖れるものとしてあるのである。このことは私は宇宙は先ず情緒に於て自己を現わしたのであるとおもう。そして超越者としての一をあらしめるものは判断の概念的普遍ではなくして共感であるとおもう。共感は生死より来るのであり、生死は宇宙が自己の中に自己を見るより来るのである。普遍とは全てのものがそれによってあるものの自己限定ということである。私はそこに共感のもつ世界性、感情のもつ普遍性 があるとおもう。

 喜怒哀楽に時間はない、私はそこに最初の生命の形象があったとおもう、常に現在として喜び悲しみはあるのである。形は言葉より生れる、斯る言葉は生死より出るのである。死を生に転じ、生が死に転ずるところより出てくるのである。言葉は呼び応えるところにあるのである。呼びかけはより大なる生命を見んとするところより生れるのである、より大なる生命を呼びかけに於て見んとすることは、呼びかけるものと、呼びかけられるものがより大なるものの内容としてあり、呼び応えることによってそれが露わになるということであるとおもう。そこに継起はない、あるのはこの我の生死を介した超越者の姿である。生死を転換させる神の、若くは英雄の大力量の姿である。古代に於て神話は物語りではなくして現実を限定するものであったと言われるのもそこに所以をもつとおもう。神や英雄は実在した人物ではない、世界が自己矛盾的に自己を限定した姿である。それが個的行為の根底として、個的行為がそれによってあるものとして見られたのである。私は神話に生命の形成的真実があったとおもう。情緒として無時間的なる世界像は理性による我と世界の合一ではなくして、熱気と興奮の世界体験であったとおもう。

 言葉をもったときに人間が世界像をもったということは言葉によって世界像をつくったということではない、形成的生命が形象として自己を現わしたということが言葉をもったということである。ネアンデルタール人は曖昧な言葉をもったと言われる。それは情緒的表出より言語的表現に発展する過渡期としての形態であるとおもう。意味に訴えるよりも多く共感に訴えるのである。言葉は世界を自己の現れとして、更に自己の中に自己を見てゆくのである。そこに言葉が世界をつくるということが現れてくるのである、それが経験の蓄積として内外相互転換的に製作的となるということである。情緒は生命の死生転換の形成作用より来るのであり、言葉はその形の内面的発展より来るのである。情緒は既に形である。喜びは生の悲しみは死の形である。蓄積が製作であるとは、製作的生命になるということは、喜び悲しみも作られるということでなければならない。物の出現は喜びの出現と共にあったのである、そこに情緒は形である所以があるのである。情緒は既に形であるとは、形の発展は情緒が担うということである。生命が動的に形成的であるとは蓄積的であるということである。生命の形は無限の内外相互転換としての体験の蓄積をもつことによってあるということである。内外相互転換の表象が情緒であるとき、蓄積は形の発展であり、形が形を生むということは情緒が形の中に沈むということでなければならない。沈むとは形に消えて形に現われるということである。情緒が形である時は神話的であり、形の中に沈んで形に現われるとは理性的となったということである。そこに知の根底に情があるといわれる所以があるのであり、知は情に運ばれることによって生々たるのである。熱情なくして世界の如何なるものもあり得なかったと言われるのもここにあるのである。

 内外相互転換は一瞬一瞬の生命の行履であり、情緒は現われて消えゆくものである。併し単に現われて消えゆくものによろこびかなしみはない、そこにはよろこびかなしみを感じるものがなければならない、私はそこに生命の生死を見ることが出来るとおもう。生死は否定し合うものである、死は生の否定であり、生は死の否定である。 生命が内外相互転換的であるとは一瞬一瞬が死に面することであり、危機としてあるということである。それを生に転換することが形が生れるということである。形とは外が内に即するということである、無限に外を内とすることによって生命は形を維持するのである、そこに理性があるのである。理性とは真に形成するものを宇宙的生命として、内外相互転換的に宇宙的生命を露わならしめるものである。われわれの身体は宇宙的生命の自己形成として、宇宙的生命を内とするのである、全て生命の形は宇宙的生命の実現として外を転換的に統べる形 である。故に全ての動物は理性を潜在せしめるのである。唯形成が生存競争として個体維 持的であるため世界形成としての宇宙的生命の実現をもち得ないのである。対立するものは相互否定として、形の実現としての否定の肯定、対立の統一をもち得ないのである。それが人間に於ては経験の蓄積としての技術と言葉をもち、製作するものとして多の一をもつものとなるのである、私はそこに理性が出現するのであるとおもう。手が外部の理性であり、大脳が内部の理性と言われる所以であるとおもう。

 私は斯るものとして理性は外の方向に形の多様と統一をもち、内の方向に感情の抑制をもつとおもう、形の多様と統一は形が形の中に形を見るということでなければならない。見られたものが多様であり、見るものに於て一である。判断というのもそこにあるのであるとおもう。判断とは形を生んでゆくことである。新たな形が生れることである、理性とは生命が自覚的創造的となったということであるとおもう。新たな形が生れるということは、意識に於て自己ならざるものが自己になったということである。生命に於て隠れていたものが現われたということである。それは生命がより大なる自己をあらしめたということである。斯くより大なる自己の出現へ自己を運ぶものは何か、私はそこに喜び、悲しみ、 驚き畏れを見ることが出来るとおもう。感情は自己の根底の出現を指向するのである。

 内外相互転換としての生命形成は現在より現在へである。危機として死を生に転じ、生が死に転でられる生命は身体的事実として自己を形成してゆくのである。記憶も理想も身体がもち、身体が生むのである。理性も身体が危機の中より生み、危機に於て保持するものとしてはたらくものとなるのである。理性は時間・空間を超えて内にもつ、それは身体が時間・空間を超えて内にもつものとしてあるということである。時間・空間を超えた理性の内容として現在があるのではない、そこからははたらくものを見ることは出来ない、そこには理性というものも消えてしまわなくてはならない、現在ははたらくものとしてそこに形の実現するところである。形の実現として過去と未来が出合うところである。記憶と理想が否定的に一なるところにはたらくものとして現在があるのである、理性はここに生れ、ここに保持されるのである、現在に於て理性ははたらくものとして、判断として形を生み、概念として形を保持するものとなるのである。

 私は前にわれわれは形成的生命として生の方向によろこびを持ち、死の方向にかなしみをもつと言った。理性は身体に時間・空間を見出すことによってより大なる形相を見出したものとおもう。そこにはより大なるよろこびと、反面としてのより深きかなしみをもつのであるとおもう。身体のより大なる発現が理性なのである、それはより大なる身体としてより大なるよろこびである。その死はより大なるかなしみである。理性は生死を見るものとして永遠である。而して生死は如何にして見られるのであるか、私はそこに生死の自覚を見ざるを得ない、生死が生死の底に生死を超えて生死を映すのである。よろこびかなしみが自己の底に自己を映すのである。そこは全てがよろこびかなしみとして、よろこびなきよろこびであり、かなしみなきかなしみである、そこに最も深いよろこびかなしみがあると共に、永遠の形相をそこに獲得するのであるとおもう。私達は永遠を時間の無限の延長としてもつのではない、その過去と未来をもち、生れ死にゆく現在として永遠をもつのである。自覚的生命として身体を永遠の今として実現するのである。そこは生命の完結としての大なるよろこびである。永遠は理性によって把握することは出来ない、私はこのよろこびが自己に永遠の確信を与えるのであるとおもう。そこは過去と未来がそこに合い、そこに分れるところとして全てがあるところである。

長谷川利春「自覚的形成」

批評について

 先日井上徳二さんに出会ったら、九月号の私の一首抄に対する苦情が出た。その苦情が亦変っている。私の評釈によって氏の下手な作品が上手そうになったというのである。私はそんなことはないと言った。私は単に麗辞をのみ並べたのではない。評言が立脚すべき美の基準を設定して、氏の作品がそれに適合すると書いた筈である。それは併し氏が言いたかったのは、氏の作意が動いたのは、私の立脚点より次元が低かったということではないかと思う。

 昨日バスの時間に読むべく、オスカア・ワイルドの芸術論を持って出た。其の中に批 評に関する所があって、批評は作品が含んでいる世界を、作者の意図を超えて追求しなければならない。批評は評論家の創作であるといったようなことを書いている。そしてモナリザの例をあげている。それによるとダ・ビィンチは唯線と平面の或る種の按配と、青と緑の未だ曽ってなかったような配合について工夫を凝らしただけだと言っている。それは言外に永遠の微笑は評者の創作であると言っているのであるとおもう。

 全て表現は、人類が過去に創造して来た大なる生命に自己を写すことである。私達はその世界に入ることによって自己を見ることが出来るのである。作者は新たな個性として、状況は変化する歴史的状況として表現は一々異なる。併し全人類のこの大なる創造線に添うことなくして如何なる表現もあり得ないので 我々が如何なる表現にも共感をもち得るのはこの大なる生命の内容としてあるが故である。

 斯かるものとして月々のみかしほ幾百の作品の一々が深大なる世界の翳を帯びるものであその繫りに深浅がある。批評はこの深浅を明らかにすることによって次の創作の一つの礎石たらしめるものであるとおもう。以上井上徳二さんの苦情への答である。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

生命の目の出現について

 昔はクーラーが無かったと言うより扇風機のある家も稀であった。それに大方が人力に頼った労働は今よりも体のほてりが激しいものであった。夕飯がすむと大凡の家が庭前に床机を出して涼をとったものである。仰向けに寝て疲れを医しながら冷えた風が体の上を流れてゆくのは、この世ならざるところへ運ばれてゆくように快いものであった。現し身を忘れたような目に満天の星のきらめきが迫って来たものである。限りない視野に満ちた光りは少時の私達の目を奪って離さぬものであった。私達はそこで北極星や北斗七星を教わり、織女星の話を聞いたものである。昔の夕涼みは蚊との戦いであった。血をもつものの匂を嗅いだ蚊の来襲は凄いものであった。団扇で追払い、煙で退けながら私達は能う限り天恵の涼をとった。併しやがて負けて手や足のほろせを掻き乍ら暑い家内へと退散するのであった。今私の記憶には蚊との戦いは痒さと共に遠のいて、涼風の中に見た星の映像が鮮明である。それは限りない懐旧の念として私の心の中に住むものである。

 私は今目とは何か、如何にして目が出来たのであるかを問おうとしている。それは生命として生存に必要であるからであろう。それならば何故生命は生存の必要として目を形成 したのであろうか。ベルグソンは目は生命が身体より外に溢れ出る堀割であると言っているそうである。そうであるとすれば生命はどうして身体の外へ溢れ出ようとするのであろうか、目は光りによってはたらくとすれば、目は如何にして光りに関るのであろうか、目は身体に属し、光りは外界に存在する。目は光りによってはたらき、光りは目によってこの我に存在するということは、見るということは目と光りがはたらきに於て一であるということでなければならない。はたらきに於て一つであるとは、目と光りははたらきに於てあるということである、それは目からも光りからも捉えられるものではなくして、はたらきに於て一方の極に光りが見られ、一方の極に目が見られるのでなければならない。

 はたらくものは時に於てはたらくと共に、はたらくものに依って時は成立する、そこに形は生れるのである。全て形は時に於てあるものとして形である。時間とは形成作用である、私は目も亦生命の形成作用の内容として形相の成立を時の形成作用に求めなければならないとおもう。宇宙は爆発によって成り、生成の初めは超高温状態にあり、光りに満ちていたと言われる。物質は光りのエネルギーが物に転化したのであると言われる。そして生命は物質より生れたと言われる。私は全宇宙が光りであったとき如何なる様相を呈していたかを知らない。併し質を同じくするものとして全一的運動をもったであろうと想像するのは、もろもろの事象からして大して誤りではないとおもう。例えば火の如きも全一的運動をもとうとする習性をもつとおもう、断るものを前提として、物質に転化した光りのこの全一的なものは何うなったのであろうか、物質は相対的なものである。全一的なものは物質とは言い得ないものである。私は全一的なるものは相対的なるものの底に潜在したのであるとおもう。潜在する全一として物質の相対を成立さすものとなったのであるとおもう。相対を成立さすとは、相対としての運動が全宇宙一として運動をあらしめることである。全宇宙が光りとして全てが同質なるとき、個が全であり、全が個である。一の光子は全宇宙を表わすものである。私は生命も光より物質へ、物質より生命へと転じたものとしてこの原初のはたらきの上に立つとおもう。

 目は無限の遠くを見んことを欲する、それは光りが無限の運動であり、光りの運動を自己の内容とせんとすることであるとおもう、宇宙の微塵としてのこの我に全宇宙を映さんとするのである。私はそこに全宇宙が光りとして、一が全であり、全が一であったときの運動が潜在としてこの我にはたらき、潜在を顕現しようとするはたらきを見ることが出来るとおもう。私は目の形成をそこに見ることが出来るとおもう。光りから物へ、物から生命への形成は宇宙が自己を形成するということである。目は生命がもつ、併し目が生命としてのこの我が解くことが出来ないのは生命が宇宙の形成として作られたものであり、目も生命の内容として作られたものに外ならないからであるとおもう。生命が宇宙の形成であるとき、その形象は宇宙の形象を宿すのであり、宇宙の形象を実現するのでなければならない。全一体として全が個であり、個が全であった原形質を物として相対化した個に見出すのでなければならない、初めがはたらくものとして宇宙の形成はあるのである。私は目は個としてこの我が全空間と一なるところに出現したとおもう。外へ溢れ出る生命が肉体の一部を切り拓いたということは、宇宙がこの身体に於て自己を実現せんとしたことであるとおもう。私は斯る全と一との関係は単に動物のみではなく全物質にあるとおもう。よくこの頃新聞にフェライトとか水晶振動子というのを見かける、それは通信機、電子機器などに応用されて宇宙の他の物質との交渉をもつらしい。先日鉄が純分九九、九九九に精錬されると、それ迄と全然異なった性質をもってくると報じられていた。異なった性質とは他との関りに異なった性能を発揮するということであろう。純化されるとき、不純な分子によって遮られてきた性能が露わになるのであろう。私はそこに多様なる性能が現われるとは、その純なるものは原初の全と個の同一の潜在せるものが顕現すると思わざるを得ない、私はその純なるとき全ての物質は宇宙の全存在と呼応するものをもつのではないかとおもう。人間はそれを目に於てもつのであるとおもう。

 目が以上の如くあるとすれば生命は光りとして全一であった宇宙が運動に於て対立をもち、対立が常に全一に還り、全一を維持せんとするものであるとおもう。それは全物質に関るものであると言い得るであろう、唯物質と言われるものは単に宇宙の運動としてあるに対して、生命は自己の中に作用としてもつのである。作用をもつとは外に関ることによって内を変じ、内を変ずることによって外を変ずることである、生命は身体をもつものとして外を映して身体を作るのである。而して身体が外を映し作るということは外を身体を映すものとならしめることである、身体として外を映すには何等かの行動がなければならない、行動をもつとは外に身体を適応さすと共に外を変革することである。斯る外が宇宙である。私達の身体は宇宙の大より見れば一微塵に過ぎない、断るものをもってして自己の周辺を宇宙とするのはおこがましいと言われるであろう。併しそれが宇宙であり、それ以外に宇宙はないのである。外に適応し、外を変革するということは無限の展開をもつということである。人間も原初は単細胞動物であった、それが生死に於て外に適応し、外を変革することによって現在の人間を形成したのである、生死に於て外に自己を映し、自己に外を映して現在の世界を実現したのである。宇宙は身体の感官が拓いた世界である。斯る無限の展開は有限として生死する身体のよくするところではない。身体が生死に於て自 己を形成するとは、身体は生死しつつ生死を超えたものとしての二重構造をもつということである。死は消滅である、併しそれが形成であるとは実現であるということでなければならない、生死するわれわれは底に大なる生命を有するのである。私達の身体は六十兆の細胞を有すると言われる、それは単細胞としての生命が三十八億年の時間に於て生成したものである。私達は三十八億年の時間を内包するものとして、僅かな時間の中に次の生命を生んで死んでゆくのである。三十八億年の時間を内包するとは、人類が三十八億年の生死の経験をこの身体に蓄積するということである。われわれのこの一瞬一瞬は三十八億年の生命の蓄積がはたらく一瞬一瞬である、而してわれわれは生れ来ったものとしてこれを創り上げたのである、そこにわれわれは一挙手一投足に宇宙を見るのである、私はこの我を超えたところに我がはたらき、そこに宇宙が実現するということは、この我がはたらくということは宇宙が自己を実現することであるとおもう。この我も亦宇宙が自己の中に自己を見てゆくところに成立するとおもう。宇宙が光りとなり、物となり、生命が生れたということは宇宙が自己形成的であるということであるとおもう。このわれも亦宇宙の自己形成の内容としてあるのである。われわれが感ずるということも宇宙が自己を見るのであり、言葉も思考も宇宙が自己の中に自己を見ることであるとおもう。われわれが宇宙の中に現われ、現われたものが言葉をもち、思考をもつということは、私は斯く考えざるを得ないとおもう。全即個、一即多として無限の運動が形成的であるとき、其処に感覚が生れ、言葉が思考が生れるのである。目は対立する全と個、一と多を作用に於て結ぶ通路になるものであるとおもう。そこに生命の自己実現としての目の出現があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

弁明の記

 灰色に光りさへぎる雲こめて吹きくる風は耳を凍らす 長谷川利春

 一月の小野短歌会で一点であった私の作品である。下東条短歌でも一点か二点であった。 その前もその前も一点か二点であったように記憶する。採点なんかは何うでもよいのであるが、こう一点か二点が続くと、あの野郎禄な歌もよう作らんくせに文句ばかり達者だと思われそうな気がする。それで一寸弁明しておこうとおもう。

 この作品に対する第一の批評は内容がないということであった。併し私は一寸もそうは思っていないのである。内容とは何か、私は私の生命を形作っているものを言葉に表はすことであると思っている。日日の営みは私達が自分の生命を形作っているのである。よろこびかなしみは充分己を見出でたか否かにあるのである。私は斯る生命形成の最も深いものとして、環境と自己があるとおもう。私達の身体が環境適応的に作られたものであり、働くことは環境形成的に努力することであるとは、和辻哲郎が其の著「風土」で精緻な論理を展開するところである。私達の身体は環境の総計として風土的に作られ、歴史的に働くのである。雨の中を出でて田を植え、寒風をついて麦畑を打つことによって、我々の祖先は日本人の体型を作ったのである。日本の湿潤は日本人の団子鼻を作ったという。そしてそれは亦我々の嗅覚をも作ったのである。畑の土の粗々しい影は亦耕す人の心の襞である。或はそんなものは読みとることが出来ないと言われるかも知れないが、私は表しているつもりである。

 第二の批評は、光りさへぎる雲ではなくて、雲が光りをさえぎるのだから雲を上にもっ てこなくてはいけないとのことであった。併し私はこれも変えようとは思っていない。成 程物理的には雲が出て光りをさえぎるのである。併し私は照りがないとおもって空を見上げたのである。私は物の順序に従わず、心の動きの順序、動作の順序に従ったのである。そして私は日常と詩、散文と韻文の差違をそこに求めるものである。物の順序に従わないということは飛躍があるということである。非合理なものがあることである。私はそこに詩の韻律があるとおもう。勿論物から離れすぎると独善となる。而してそれは物をより明らかにするものでなければならない。何故なら物は人との関りに於て物だからである。

 私は自分の作品を語るのは嫌いである。この歌も名作などと毛頭思っていない。唯これからの歌会でたとえ〇点であっても私なりの観点をもっていると思って、妄言を容していただければ本文の目的は達したのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」