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永遠について
乙「何時であったか君は全てあるものは永遠に於いてあると言っていたね。僕にとっ て永遠はそれこそ永遠の謎なのだ。我々は死んでいくものとして、うたかたの生命で あり、この世の過客である思いを何うする事も出来ないのだ。全てあるものが永遠であるとすれば、僕も永遠の存在でなければならない筈だ。露と置き露と消えていく僕が何うして永遠なのかという事を聞かしてもらいたいと思って今日は出て来たのだ」
甲「そう改まって言われると実は僕も困るんだ。そして僕の答えが果たして君に満足 してもらえるかと言うと全く自信がないんだ。唯僕の考えが至りつかねばならなかっ たものとして考えた跡を話して見よう。期待はしないで呉れ。僕の考えの基礎になっ ているのは生命それ自信に於いて完結していると言う事なのだ。例えば鯖を買って来 て置いていると何時の間にか猫が寄って来ている。それ迄見かけなかったのに何うして来たか不思議な位だ。臭覚を通じて猫が寄ったとも言い得る。鯖に誘われたとも言 い得る。動きと言うのは此処にあるのだ。猫と鯖、それはその時の一つの生命圏とし 完結するものと思うのだ。生命がそれを維持してゆく形相として一つの相と思うのだ。僕は本能と言うのはそうゆうものだと思っている。猫が動くのでもなければ鯖が動かすのでもない。主体と食物が一つの圏をなす時自ら動くのだ。樹と土もそうだ。根を張って成長要素を吸収し、不要となった枝葉を落として栄養として土壌に蓄積してゆく。それを吸収して更に成長してゆく。それは一つの圏を作ってゆくものとして完結を持つ事だ。そして具体的な生命とはこの全体の相だと思うのだ。この圏の形成にあると思うのだ。これによって生命は内外転換し、生々発展する事が出来るのだと思うのだ」
乙「而し猫は死に、樹は枯れていく。何れも流転の相に外ならないではないか」
甲「まあ聞いて呉れ。唯人間だけは違うのだ。内と外が相対すのだ。僕達は死を知る。知ると言う事は有限者であると言う事だ。そしてこの死は何うする事も出来ないのだ。有限者として無限の時間の前に唯嗟嘆の声を上げるのみなのだ。人は唯命もつ事を悲しむのみなのだ。
而し僕は思う。死を知る悲しみそれ自身が一つの完結ではないのかと」
乙「僕はまだよく判らないのだ。其の完結と言うのが永遠と何う結びつくのかね」
甲「人間は自覚的生命として、内外相分かれる事により、自己を有限として、世界を 無限とするのだ。自己を露命とし、世界を無始無終とするのだ。永遠とはこれの統一だ。有限なるものは無限なるものであり、無限なるものは有限なるものの相だ。そしてそれはより高次なるものとして生命の相でなければならないのだ。永遠は神の内容と言われる所以であり、神は生命の深奥であるのだ。即ち永遠とはこの内外相分れたものが一つとしてそれ自身の完結を持つ事なのだ」
乙「而し君の説く所は唯問題を堂々巡りしているだけではないのか。有限なるものが 無限なるものであると言う事はこの僕が何時迄も生きていくと言う事ではないのかね。僕は何時かは死ぬのだ」
甲「そうだ。我々は永遠であると言っても、真にあるのは人間一般ではなくして君で あり、この僕であるのだ。この君、この僕が直に永遠でなければ真に永遠であると言 事は出来ないのだ。全時間、全存在がこの僕、この君の中になければならないのだ」
乙「その僕が有限であり、死ぬと言う処に問題の発端はあったのだ」
甲「勿論僕達は死ぬ。而しも一度問題を問い直さなければならないと思うのだ。猫や 樹も有限であり、死に或は枯れる。それならば彼等は有限を問い、死に悩むかね」
乙 「そりゃ問いも悩みもしないよ」
甲「それは何故かね」
乙「彼等に死はあっても死を知らないじゃないか」
甲「そうすると有限も無限も、死も永遠も知る事の中にある訳だね」
乙「そうだね。僕達も幼児の頃はこんな問題を持たなかった事を思えば知る事によっ て生まれたと言う外はないね」
甲「人間は道具を持つ事によって知識を持ったと言われる如く、何等か外に自己を表わす事によって知るのだ。今こうして君と対話しているのも一つの表現だ。こうして僕達は愈々自分を明らかに知るのだ。そうしてこの対話が僕達の影である如く、外に 見ると言う事は内の現われと思うのだ。僕達は語り合う事によってより深い自分を見 ようとしている如く、外はより深い自己として外なのだ」
乙「永遠は我々が求めるものとして或いは我々の深奥を外に見たものかも知れない。 而し我々の対話と永遠とは大変異なっているように思うのだが」
甲「我々は今永遠を問うているのだから同じである筈がないよ。ついでだから永遠へ の問いと言うものを問うて見よう。僕達は今有限者の苦悩の下に永遠を探求しようと している。而しこの問いは僕達の発見ではなくして古今東西の全人類の問いであった 訳だ。今の僕達の苦悩は全人類の負うて来た苦悩として苦悩である訳だ。そして永遠は全人類的生命の外化なのだ。個々人を超えた全人類の深奥なのだ」
乙「問題を元に戻そう。永遠が我々の内なるものの表出であり、外化であれば、永遠 は即自己として僕達の悩みの来る所はないのではないか」
甲「僕は『神について』に於いて死を外に見る所に霊魂があり、神霊は我々を死とし 絶対に否定して来るものとして、其の絶対力を前に慴伏すると言ったね」
乙「ああ覚えているよ」
甲「生命は生きているものが死ぬものとして自己矛盾的なんだ。死と言うのは徹底的 否定として絶対矛盾なのだ。神霊が超越者として絶対の外であった如く、外は我々を 否定して来るものとして、超越的として絶対の外なのだ」
乙「一寸待って呉れ給え。僕達は生命の外化として衣服や住宅を持つ。何れも我々を 保護しこそすれ否定して来るとは思えないが」
甲「衣服は破れ建物は壊れる。外は否定として我々に迫って来るのだ。そして僕達は 働く事によって新しいものを生み出してゆくのだ。働く事は内なるものを外とし、外なるものを内とする無限の創造なのだ。働く時代に対す外としての物は生々として、我なく物なき唯一生命の相を現わすのだ。真に働く者に於いて我は世界の形相であり、世界は我の示現なのだ。新しいものを生み出すものとして形相より形相へなのだ。この我に於いて前の形が新しい形を決定して来るのだ。其の意味に於いて啓示的であり 示現的なのだ」
乙「もっと具体的に言ってくれないか」
甲「我々が対き合っている外と言うのは、長い過去に於いて人類が形造って来たもの なのだ。そしてそれは死を持つ生が死を克服しようとして作って来たものなのだ。矛 盾の自覚として見出されたものなのだ。外の形が複雑になるにつれて内の構造も複雑になっていくのだ。そして外の崩壊は生の崩壊につながるのだ。僕達は働く事によってこの崩壊を新しいより大なる生へ転じていくのだ。其の時外はより大なる形相に転ぜられるものとして生々たる生命の形相をもって来るのだ。その転換の行為者として我々は逆に全世界を我の胸底に見る事が出来るのだ。其処に自覚的生命は唯一の純なる流れとなるのだ」
乙「そうとするとそれは我々の創造となるのであって、示現的、啓示的ではないではないか」
甲「その創造的なるものが啓示的なものなのだ。外としての形がこの我々の生命を媒 介として新しい形を含んでいるのだ。生の外在としてのその形によってしか我々は次 の形を見出せないのだ。生命はその意味に於いて無にして働くものなのだ。その昔仏 像を刻んだ者は一刀三拝して慈顔の顕現を祈ったと言うし、印度のヴェーダの詩は霊感の作品だと言われている。発明と言うものもそういうものだと思うんだ。偉大な発 明家は狂人に似ているのも何かの力に動かされたからではないのかね。その力と言うのは巨大なる外の力としての歴史的創造の流れではないのかね。アイデアが浮かぶと言うのも何か啓かれたものだと思うんだ。よくあの人は感覚が優れていると言うのも対象に入り得る純粋度だと思うんだ。農家が其の年の天候によって種子を蒔くのも先祖代々の農作業の中に会得したものとして、其の全体像の直観としてあると思うのだ。この我が無となる事によって啓けて来るもの、この大きなるものが僕は最初に言った世界であり、無限とか無始無終と言うのは斯る世界の抽象としての時間的形象であり、有限とか露命とするのも無とする主体的方向の抽象としての時間的形象であると思うのだ。その統一として働く事があるのだ。この啓けて来るものの時間的形相が永遠なのだ。我々を超え我々に自己を顕現するものが永遠なのだ。僕達の日々の働きは其の奥底に於いて歴史的創造的にこの啓けて来るものにつながるのだ。そしてその事が我々が自己を見出していく事なのだ。僕が言った全てあるものは永遠に於いてあると言うのはそのような意味なのだ」
乙「それならば僕達は働く時に永遠に結合している意識を持つ筈ではないのかね」
甲「そうじゃないんだ。僕達は世界の内容として働く個として目覚めるのだ。世界は我々の全体として、絶対に懸絶するのだ。永遠は世界の形相として願望に於いて見るのだ」
乙「よく判らなくなって来たよ」
甲「そうだろう。言っている僕すら手さぐりで話しているのだから」
乙「而し僕はおかしいと思うのだ。絶対の懸絶として至り得ないものならばどうして願望を持つ事が出来るのであろうか。啓示として我々は我々自身を見る事が出来るのであれば、啓示は即自己として何等かの意味でつながらなければならないと思うのだ。絶対の懸絶ならば願望すら持ち得ないのではないのだろうか」
甲「その通りだ。而し働くものは世界を逆に自己の中に見る事によって働くのだ。即 ち個的人格の成立として働くのだ。而して個は世界の中に於いて働くのだ。個が個で ある故に世界は世界なのだ。而して個が個である限り世界は外として永遠は絶対の懸絶となるのだ。永遠に際会する為に僕達は自己を絶対に否定しなければならないのだ」
乙「自覚以前に還る事ではないのか」
甲「そうだ。前にも言ったように、其処には自己も世界も永遠もない。自覚的として見出てでた自己がさらに次の自覚として自己を消してゆくのだ。宗教と言うのはそのようなのだと思うのだ。キリスト教の神の前にと言うのも、佛教の空と言うのも、この絶対自己否定であると思うのだ。君が最初に言っていたね。「僕が永遠でなければならない」と。その事は君が不死である事を望んでいるのではなくして、全存在との一体を望んでいるのだと思うのだ。自覚的として外に自己を投げ出した自己が再び内へと還るのだ。啓示と言うものもそうだ。外に投げ出した自己が自己に還る事なのだ。此処に全人類は唯一の生命となるのだ。私達の魂はこの全人類唯一なるものの中に安らうのだ」
乙「・・・・・・・・」
甲「唯僕は佛の悟りを持った事もなければ、キリストの神を見た事もない。尚魂はさ すらい続けなければならないようだ」
乙「分かったような分からないような気持ちだ。まだ疑問が一杯あるような気がする が、此処等で帰って一度整理するよ、有難う」
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」
自然
私は幼児の頃の思い出を殆んどもたないようである。目を閉じるとブリキで作って、色 を塗った太鼓を持って、坐っている自分の幼ない姿が模糊としてうかんで来る。余程長い間持っていたのか、大切なものであったのであろう。勿論年令も分らない。
母の語ってくれたところによると、私は大変喋べりであったらしい。絶えず母に「これ は何」と言って聞いたらしい。余りうるさいので「黙っとり」と母が言うと、「うん」と 肯いておとなしくなるが、暫くすると「お母さんこれ何」と言ったらしい。
近所のおじさんの話によると、毎日近くの小溝の石橋の下を覗きに行っていたそうで ある。「何をしとんのんどい」と尋ねると、「どんこ、どんこ」と答えたそうである。何でも少し前にその橋の下でどんこをみつけて取ってもらったらしい。勿論毎日といっても、 十日か長くて十五日位だろうと思うが、記憶にないので何とも言いようがない。
私の村は田舎の例にもれず、四方が山で囲まれている。私が今でも明らかに覚えているのは、その見ゆる範囲内が世界であると信じていたことである。山の向うに親類があって叔父さんが居られると言われても、その有様を想像することが出来なかった。併し時々訪ねて来られる叔父さんの存在はすこしも疑っていなかったのである。唯その叔父さんも寝起きをし、耕すところが必要だということなどを思いもしなかったのである。山の向うにも家があって、人が住んでいると判ったのは、大分大きくなって連れて行ってもらってからである。そしてその村を囲んでいる山を見て、ああ彼処迄が世界かと思ったように憶い出す。併し我が家に帰ってくると、我が家から見える範囲が矢張り世界であって、叔父さんの家から見た世界は夢のようであった。それでも歩いて行って、帰って来た疲れがなまなましい間は実感が残っていた。日が経つにつれて淡くなってゆくのであった。在るものは感覚の事実であって、思惟の内容ではなかった。
まえにも書いた如く、私は雑魚取りが天性好きだったようである。学校から帰ると、鞄を 放るのももどかしく、まえがきという網をもち出して近くの溝へと急いだ。そして草蔭や木の根の垂れ下った処などをすくった。獲れるのは三回に一回位であった。それでも鱗が銀色に光って跳ねるのを見ると、小踊りする心臓を覚えるのであった。あの頃よく替取りというのをやった。水をせき止めて替干しにして獲るのである。それはその中の魚を残らず獲れるということに於て、すこぶる満足すべきものであった。併しそれは水を替る、泥をかき分けてゆくという労力が必要であった。二時間もすると、幼ない腰が伸びない位であった。それでも泥の中で摑える、泥鰌や鮒の動く感触は私達を何時迄も飽きさせなかった。斯くして学校から帰ってから、暗くなる迄夢中になったものである。
亦よく山の斜面になった所へ辷りに行ったものである。そこは丁度県道に面した所であった。土が崩れ落ちない対策であろうか、斜面は四十五度位な勾配になり、水の流れ落ちる浅い谷が幾筋かつけてあった。その谷の上から、尻に藁の束をあてがって辷り落ちるのである。その頃の綿布は弱かった。私達はたえずズボンの尻を破っていたようである。
育ち盛りの少年にとって、自然とは躍動感を充足させてくれるところであったように思う。筋肉覚、関節覚に於て最も深く自然に関っていたように思う。幼少時の自然との交渉は楽しい思い出ばかりである。
その頃小学校には毎学期遠足というのがあった。低学年は近くの寺へ行ったり、四K程離れた駅へ汽車を見に行ったりであったが、三年生、四年生になると、三木の城跡や、朝光寺に行き、高学年になると清水寺辺りへ行ったものである。いつの頃からであるか判らないが、山で囲まれている範囲が世界であるという観念は消えていた。それのみでなく、高い山から海の涯しないものを眺めた時に起る無限なるものへの思慕が生れていた。
感覚だけではなく、地理などで教えられた世界なども、実在するのだという確信が生れて来ていた。それはコロンブスや、マゼラン等の冒険物語を読んだ、血の躍動が根源にあったように思う。血の躍動が知識を呼び、知識が血の躍動を呼んで、私の想念は果しなくふくらんでゆくのであった。
それと同じ頃であったか。それより少しおくれた頃であったであろうか、太陽が落ち、 夕闇が草木を沈めてゆくのを見ると、言いようのないさびしさに襲われた。併し私は好んでと言えば語弊があるが、夕方になるとその寂寥に襲わるるべく、門前に出でて西の空を眺めた。その頃から私の心は哲学や宗教へと急速に傾斜して行った。私はこの寂寥の奥底に、天地を司る真理の予感をもっていたのである。
亦自然科学は、自然が整正たる秩序をもつことを教えてくれた。雑然たるこの自然の動きが、全て厳密なる運動の法則によることを教えてくれた。併し私は物力の法則にあまり関心をもつことが出来なかった。私は唯一者を、生命の永遠を求めたのである。
私は今自然とは何かを問おうとしている。私にとって自然は、与えられたものでも作ら れたものでもなかった。私の行動がそこにあるものであった。血が湧き、足が歩み出る身体の外延としてあった。そこにあるのは純一なる生命の流れである。
人間とは斯る純一なる生命の流れの、初めと終りを結ぶ生命である。流れるとは矛盾をもつことによって流れ、行動とは矛盾に於て行動するのである。生命が矛盾であるとは、内外相互転換的であることである。動物に於ては、外に食物を摂ることによって、内に身体を養うことである。生命は内外相互転換的として、食物的環境と身体は動的一である。感官は身体が環境を内包するところにあり、環境が身体の外延であるところに成立する機能である。感官にとって環境とは呼ぶものであり、輝くものである。
初めと終りを結ぶ生命とは、内外相互転換を節目として、流れを一々に断ち切り、断ち切った一々を蓄積することによって、より大なる形相を実現してゆく生命である。分断し蓄積してゆくのが理性であり、理性を実現するものは言葉である。より大なる形相とは製作的生命となることである。
ここに於て生命は作るものと作られたものとの二重構造となる。人間は瞬間的なるものが永遠なるものとして、歴史的形成的となるのである。歴史的形成の世界に於て、与えられたものとして、質料として文化に対する自然が出現するのである。自然から文化が生れたのではない、純一なる生命の流れを分断されることによって、分断されたものの方向に自然が見られ、分断するものの方向に文化が見られるのである。自然とは自覚的生命の内容として見られるのである。
私は前著に於て、自然とは経験の露わなものであると言った。経験とは一瞬一瞬の内外相互転換を、永遠なるものに映す行為である。内外相互転換的に行為する生命が、一瞬一瞬を永遠に映すのが経験である。自覚的生命が二重構造的であるとは、自覚的生命は相反する二つの自己限定の方向をもつということである。一つは理性の方向であり、一つは内外相互転換としての本能の方向である。一つは言葉の秩序による混沌の把握であり、一つは混沌の中よりの言葉の創出である。秩序の創出である。経験とは身体による理念の創出への行為である。
内外相互転換としての生命の純一な流れは理性の光りに照して混沌の世界である。併し内外相互転換の世界は単に混沌ではない。外を内に転ずるというのは、機能的であり、造的であるということでなければならない。我々の身体は構造的機能的であるが故に食物を血肉化することが出来るのである。
私は自然とは、山や川や草や木というのみではなく、深くこの我の身体というものがあると思う。内外相互転換としての生命の純一な流れは、この我の身体がもつのである。自覚的生命とは、身体が本能と理性の二つの相反する二つの方向をもつということである。本能が構造的機能的であるが故に、我々は自覚としての構想力をもち得るのである。
身体は生れ出ずるものである。私はそこに自然の最も深い姿を見ることが出来るとおもう。生れ来ったものは生きようとする。身体を維持しようとする。本能とは身体維持の意志である。驚異すべき自然の精緻なる構造が理性にとって混沌であるのは、理性は他者と我の関りの秩序であるのに対して、本能は個維持の構造なるが故である。
混沌は活力である。生きんとする力と力の表出が混沌である。よく駅のポスターなどで 『自然を求めて田舎へ』、『文化を求めて都会へ』と書いてあるのを見る。私は都会の人々が自然に求めるものは、生れ出で育ちゆくものの中に漬り、自己の生命の原型に触れる ことによって、新たな活力を呼び戻したいが為であると思う。自己の手や足によって、木の枝を掴み、岩の道を走った古代人のあらあらしい血を呼び戻したいがためであるとおもう。
生命の流れとは矛盾に於て流れるのである。全て動きゆくものは否定をもつことによって動きゆくのである。併し単なる否定があるのではない。否定は常に肯定に転ぜられるものとして否定である。そこに内外相互転換としての生命がある。外は内の否定であり、内は外の否定である。内は外を内ならしめんとして内であり、外は内を外ならしめんとして外である。純一なる流れとは、生命が内外相互転換的として、内外相互転換的に一なることである。それが自覚的生命として内外相分つとき、外と内とは何処迄も否定し合うものとなるのである。
自然の暴威という言葉がある。それは仮借なく生命を奪い去る、自然の絶大なる力に与えた言葉である。純一なる生命の流れが、自覚に於て自他相分ち、内が外に面したとき、外とは斯る絶大なる否定する力であったのである。暑熱、酷寒、暴風雨、大火、猛獣、細菌等の取巻く外界であったのである。縄文人は穴に難を避け、石や木をもってこれ等に対したのである。囲繞する鬼神・悪魔に対して呪文をもって対したのである。
斯かる限りない死に対面しつつ生の営みを持ちつづけたのが我々の身体である。死に面して獲得して来た機能が創造的生命の内容である。我々の生命は一度獲得した能力を保持する性能をもつ、無限の生死の繰り返しの内に獲得し、蓄積して来た能力の集積が形相である。外が内の形を作るのである。我々の身体の形は、囲繞する外界の力の形である。身体の形は風土の投影である。生命発生以来幾十億年の否定と肯定と、死と生の闘争の中に獲得した機能の集積として、囲繞する世界を外の自然とし、身体を内なる自然として、内外相動転するのが自然である。
機能とは否定を肯定に転ずる力である。肯定に転ずるとは死を媒介として、より大なる生を見出すことである。死として迫ってくる外的世界を力の表出に於て、内なる身体の秩序に変えてゆくことである。機能とは外を内なるものに変えてゆく生体の構造である。外的世界の投影である身体は、投影であることによって、外的世界を身体に馴化せしめるのである。内外相互転換とは内と外の力の相互転換として無限の動的緊張である。此処に内の身体に対して外は環境となる。
私は自然という言葉が何時出来たか知らない。恐らく穴に住み、石を持って外敵に向った縄文時代にはなかったとおもう。自然とは人工とか文化の対概念である。人工の対概念であるとすれば、文化が余程進み、文化に疲弊症状が現れた時に、文化の基底として問われた言葉ではないかと思う。人工とは内による外の限定が製作的となったことである。製作は余剰価値という対象の肥大を招く、この肥大が文化として人間の優越であると共に、余剰によりかかることによって内と外の生命の対抗緊張を失わしめる。製作するとは、製作する生命として生れて来たということである。生れて来た生命とは幾十億年の内外相互転換を内にもつものとして生れてきたのである。時を背負う創造力として生れてきたのである。
対立概念とは否定的に一なることである。自然は文化を否定し、文化は自然を否定してあることである。それが一なるとは文化は自然によってあり、自然は文化によってあるということである。
文化とは自覚的表現的生命の形相である。表現とは何ものかが形となって表われることである。製作は身体によってなされる。私は身体によってなされるとは、身体の外化の意味をもつものであると思う。身体の外化とは幾十億年に亘って形成し来った、身体の秩序に於て構成することである。内なる自然が外の自然を変革することである。道具は手の延長であると言われる。道具は身体より見て外なるものである。それが手の延長となるとは、道具によって作られるものは、身体の外延となるものでなければならない。製作するとは、内外相互転換として相互否定としての外を、身体の秩序に随わしめることによって、内によって転じてゆくことである。
併し作る身体を作ることは出来ない。身体は生れるものである。それは意志を超えた自然の延長としてある。而して身体の外化とは、自然の時間の蓄積して来た身体の構造機能の外化である。斯る観点からは製作も亦自然の内面的発展であると言い得る。自然は克服されたものではなくして、斯る深さに於て自然である。生れたものが作るものであるところに我々の身体がある。而して生れ来ったものが包蔵するところのものを表現するのである。斯る観点からは製作としての歴史的形成も、自然の生命創造の延長線上にあるということが出来る。
身体が自然と歴史の交叉としてあるということは、歴史的形成は生命の自己形成として歴史の根底に何処迄も自然があることであり、世界は歴史的自然としてあるということである。私は自然という言葉が生れたのは、この歴史の根底としての自然の把握によるのではないかと思う。
三輪神社の御神体は三輪山であるといわれる。山が御神体である時、山は自然なのであるか、私はそこに異次元に於て捉えられている山を見ざるを得ない。歴史は内面的必然をもつことによって歴史である。歴史的自然とは斯る内面的必然の目によって見られた自然である。それは自然が歴史の中に没し去ったということではない。自然が真に自然になったということである。自然が自己の中に内面的発展をもつということが、自然が歴史的自然となったということである。自然が内面的発展をもつということは、身体の外化を呼ぶものとなるということである。神体としての山が異次元と考えられるのは、それが内なるものの外化を呼ばないが故であると思う。
内外相互転換としての生命が、主体的方向に機能的構造的であるとは、客体的方向にそれに対応するものをもつということである。それは法則的である。逆に言えば客体的方向が法則的なるものをもつが故に、主体的方向が機能的構造的であることが出来たのである。内外相互転換は対応的である。生れたものが作るものである自覚的生命に於ては、生れたものと作るものが対立する。作るものは生れたものを否定することによって作るものであり、生れたものは作るものを否定することによって生れたものである。その否定が内面的必然である。否定を介して歴史は歴史となり、自然は自然となるのである。神体としての山は、歴史と自然の未分以前としてあり、形相は歴史と自然の混融としてあるのであるとおもう。
ふるさとの山にむかひて言ふことなしふるさとの山は有難きかなと詠われた山、清冽な流れのひびく小川、たたなわる峯、そこは超越者としての神の住み給うところではない。我々の身体と連り、情感の交うところである。私は斯る自然は、自然が無限の内面的発展をもつことによって見られたものであるとおもう。即ち一方に作るものとしての、歴史の内面的を、生れ生むものとしての自然が宿すところに見られたものと思う。山や川は生むものとしての大地である。もし生命を生むという意味がなかったならば、どうして我々は情感を交すことが出来るであろうか。茸が生え、わらびが生え、小鳥や兎が繁殖する山にして初めて我々は有難き哉と言い得るのである。そこは我々のいのちを養うところである。いのちはいのちあるものを資として生きる。大地は生むものとして、植物の生えるものとして、我々は植物によって生きるものとして、母なる大地である。自然の本源はそこにある。
内面的発展とは自覚的生命となることであり、外を対象化することである。作られたも の、見られたものが逆にこの我を作るものとして包むものとなることである。無限に純一 なる流動を断ち切って、内外を対立せしめることである。内が外を作り、外が内を作るのである。私達は山や川を、我々の生死を超えた無限の時間の相に於て見る。私は斯る自然観の根底に、自覚的生命の無限の歴史的形成があり、歴史的形成の反極として見るのであるとおもう。祖先の無限の創造的努力があるのである。私達は深い山に静寂を見る、この静寂を見る目は、祖先の無限の生命創造の目を、この我の目が宿すことによって見ることが出来るのである。
生れたものが作るものであるとは、作るとは与えられたものの否定であると共に、何処迄も与えられたものの底深く入ってゆくということでなければならない。作るものは、生れたものの根底に還ってゆくのであり、歴史は自然が自己の根底に還るということにあるのでなければならない。作るとは自己を外に見ることである。自己を模してゆくのである。作られたものを内として、外に表わしてゆくのである。それは身体的に創造し来った生命が自己をより露わとすることである。
歴史的世界とは製作的であり、製作とは過去と未来が現在に於てあることである。過ぎ去ったものが現在として形相を実現してゆくことである。内外相互転換としての、無限の行為の蓄積が、現在の内外相互転換に働くのが製作である。無限の過去と未来が現在にあるものとして、永遠なるものが働くところに物は作られるのである。
併し形あるものは壊れるという言葉のある如く、物は永遠なるものではない。物に映さ れた歴史の世界は何処迄も変遷の世界である。死の深淵に参会する世界である。物に於ては過ぎ去ったものが働くということがない。壊れた機械が働くには、今一度人間の脳髄の中を通って来なければならない。
自然の世界は繰り返す世界である。日々歳々を繰り返り、生命は生死を繰り返す世界である。そこは初めなく、終りなき世界であると共に、初めが終りである世界である。私は永遠とは斯る世界が物を浮べるところにあると思う。斯る世界の自覚として、自己を外に見たものであるとおもう。内外相互転換の集積は繰り返す生命なくしてあり得ないものである。永遠の今とは変化が常に同一であるということである。それは行為的現在がくり返しの上にあるということでなければならない。自然が自己自身を見、製作的行為的に自己自身を見るのが歴史であると思う。歴史は初めなく終りなきところより出で、初めなく終りなきところに帰るときに救済をもつのである。一瞬の過去にも帰ることの出来ない時間の流れは、初めと終りを結ぶものに於て成立するのである。そこに歴史の奥底としての自然があるのである。
あるものは相互媒介的にある。歴史の奥底に自然があるとは、自然の究極に歴史があることである。自然の上に歴史があるとは、自然は歴史によって現われることである。歴史が自然によって救済されるとは、自然は歴史によって永遠を露わとすることである。相互媒介的とは否定を媒介することである。かって「死について」に於て言った如く、永遠は絶対の死をもつことによって永遠である。 永遠とは無限の時間ということではない。流れて止まない歴史的時間が、日々の行持に実現されていることである。日々の行時は自然のもつ生命の反覆に於てあるのである。禅家に日々是好日という言葉がある。それは歴史を透過した自然の深い自覚としてあるものと思う。絶対死の底に見出した深い生命であるとおもう。
文明が行き詰ると、自然に還れという声が何処からか起って来る。それは生れたものが作るものである必然の推移であるとおもう。生命としての自然は、作るものとなることによって何処迄も自己を深めてゆくものである。生れ来ったものを内として、外に表現してゆくものとして、生命に何処迄も深大なるものを見てゆくものである。作られるものの転換は作るものに求めてゆかなければならないのである。内外相互転換の原型に還らなければならないのである。
それは最早自然ではないと言い得るであろう。歴史を否定する自然は、歴史によって否定されたる自然である。併しそれによって自然は純なる自然となるのである。歴史的自然として、自覚的生命に於て自然と歴史は対立する。対立するものは否定し合うものである。対立するものを否定するにはいよいよその本性が明らかにならなければならない。女性が男性に対することによって、いよいよ女性となる如きものである。
我々があの山、この河として、踏破し水浴するのは最も表層的な自然に外ならない。 それ以前に薪する山、渇して水を飲む川があったのであり、以後に自然科学へと発展すべき自然があったのである。生存に即する自然があったのである。生存に即する自然が製作の内容へと発展し、歴史的自然となったのである。私は老子の大道すたれて仁義ありといった自然の如きも、歴史的自然に立脚点をもち乍ら、その歴史的方向を捨象したところに見られたものであるとおもう。
本文の最初に私は経験として見出した自然を叙述した。自覚的生命に於ての内外相互転換は歴史的形成的である。併しその形成は何処迄も身体を媒介するのである。それは経験的である。内外相互転換は身体なくしてあり得ないものである。生れたものとしての自然の上になり立つのである。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」
根源への問いを問う
哲学は根源への問いであると言われる。この根源が問われると言うのは如何なるこ となのであろうか。根源と言う以上全てのものがそこから出て来た筈である。而し問われるものである以上、それは未だ有り得ないものであり、求められるものでなければならない。根源への問いである以上その解答は終わりとしての全解答でなければな らない。根源への問いは、全てのものがそこより出で来ったものとしてすでにありつ つ、問われるものとして未だあり得ないものである。根源は根源として一つでなけれ ばならない。根源が二つあれば根源ではない。而し問うということは問うものと問わ れるものに距離がある事である。私はここに人間の自覚的生命を見る事が出来ると思う。
ありつつあり得ないものとは、自己の中に自己を見ていくものである。自己の中に自己を見るものに於いて、問いは根源への、始めへの問いである。始めへの問いが問 い自身の中に深まりゆくことが自己自身を見ることである。根源が自己自身を明かし ゆくのである。根源は何故に自己自身を明かさんとするのであるか。私は矛盾として の人間生命の存在形態なるが故であると思う。
根源的なるものは、始めなく終わりなきものとして自己を見るのではない。始めが終わりであるとは、始めと終わりが一つでありつつ、既に始めと終わりを分かつのである。根源を問うものは根源ならざるものでなければならない。根源ならざるものが根源を問う事が、根源が根源自身を問う事でなければならない。根源を問うものは個としてのこの我であり汝である。この我は、無数の人々の中の一人として、宇宙の一微塵である。生死するものとして無限の時間の中の一泡沫である。
而して我があるとは、一微塵として、一泡沫としてあるのではない。問うのは言葉をもってする。生きるのは技術によって物を作ることによってする。言葉、技術は一微塵、一泡沫を超えたものである。この超えたものへの問いが根源への問いである。根源が自己自身を問うとは、根源ならざるものが根源を問うことである。根源が自己自身を見るとは、生死するものが普遍的一者を見る事である。勿論根源でないものが根源を見る事は出来ない。根源的なるものが自己自身を見ることが、根源ならざるものが見るということは出来ない。そこには相互媒介的なるものがなければならない。相互媒介的とは、根源によって、根源ならざるものはあり、根源ならざるものによって、根源はあると言うことである。一者によってこの我はあり、この我によって一者はあると言うことである。そこに自覚がある。自覚はこの我の自覚である。而してこの我の自覚が根源が自己自身を見ると言うことである。
古来幾多の哲学が語られて来た。今も多くの人々によって語られている。各々が完 結しつつ、各々が内容を異にして、これからも多くの人々によって語られ問われる根源は一者である。而しそれは多くの人々によって異なった内容に於いて語られるのである。
全ての人は個性としてある。それは世界が矛盾的に自己自身を作ってゆくものとして、唯一のものとして現前する。この我は過去にあった事も、未来に現われる事もな いものである。斯る個に於いて根源への問いをもち得るのである。個としての人間は 生まれて死んでゆく、この唯一なるものの死が根源を求めるのである。生まれ来った 新しい個は、新しい状況の下で唯一の個を形成してゆく。この新しい個の根源への問 いが新しい哲学のスタイルである。哲学は個がその一々に於いて根源を問うのである。個の全への終わりなき問いである。そしてそれが始めに終わりがあり、終わりに始めがあるものの形態である。
問いが根源の自己自身の問いであり、問うものが個としてこの我であるとき、永遠は常に現在にあるのでなければならない。而してそれは無数の個を包むものとして、 無限の過去と未来を包むものでなければならない。無限の過去、未来の一瞬一瞬を現在として、この我と対話さすものでなければならない。生者必滅の悲しみに於いて、 永遠に対面しつつ、私達は滅んでゆくのであると思う。而して無限の未来に於いての 現在として、語り続けるのであると思う。其処に根源を問う所以があると思う。全ては唯一者に於いてあるのである。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」
生死
近頃は熟れた稲田の畦を歩いても、風が流れてさらさらと穂波を立てるのみである。 私達の小さい頃は、秋の稲田と言えば無数の虫の棲家であった。雑魚取りなんかで、畦にはみ出た穂を分け乍ら行くと、蝗やよこばいが縦横に跳び散ったものである。その中に混って少数乍らかまきりがゐた。あのやせたかまきりが大きな斧をふりかざして、果敢に迫ってくると、悪童どももたじろいだものであった。
秋も終りに近くなり、稲を刈る頃になるとそのかまきりの、雄が雌に食われるさまがし ばしば見られたものである。雄かまきりの大きな腹が半分程なくなって、そのなくなった処より、雌かまきりの口が続いており、雄かまきりは苦痛に耐えているのであろうか、背を反らせるだけ反らして動かずにいるのを見ると、性を同じくするものとして、悲痛の感なくして見得なかったのを思い出す。
食は個に関り、性は種に関ると言われる。生命は個的、種的である。個的方向と、種的方向をもつことによって生命は自己を維持してゆくのである。併してこの両方向は決して和平的な結合をもつのではないらしい。食われるかまきりや鈴虫がそうである。亦おたまじゃくしや蜘蛛の子は無数に生れる。それは全部が生きようと思えば、全部が死ななければならない数らしい。即ち彼等は殆んどが死んで、幾何かが残るべく生れて来たのである。種は斯る残酷をもつことによって生命を維持してゆくのである。
生きているとは自己矛盾としてあることである。生きているものは死ぬ。生は死の対極をもつことによって生である。死の対極をもつことによって生であるとは、生は死すべく生れ来ったということである。生けるものは全て、生れ来った時より死への道を急ぐ旅人である。而しそれは滅亡への道ではない。種の形相を実現したものは、新たな環境適応をもつ生命に、種の形相実現を負託して死にゆくのである。個的種的なる生命は、個の生命が死ぬことによって種の生命を維持してゆくのである。
私は自覚する生命として人間を捉えようとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己を知ることである。自己が自己を見るとは如何にして可能であるか。私は自己が自己を見るとは、自己を外に表わす事であると思う。我々は形に表わすことによって自己を見るのである。形に表わすとは物を作ることである。自己を物となすことによって我々は自己を見るのである。外部知覚の内容は形成的物でなければならない。物を作ることによって、内外相互転換としての食物的世界は外部知覚的となり、製作するものとしてのこの我は内部知覚的となるのである。
それは技術的である。技術的であるとは、長い歴史の集積であるということである。技術とは死を生に転ぜんとする本能の行為を、集積し、整理して現在の環境との対決に、生の形相を打ち樹てる力だと思う。それは始めが働き、終りが働くことである。人間はそれを言葉によってもつのである。私は人間が他の動物と異るところは、初めと終りを結ぶ力を有することであると思う。我々が今斯くあり、斯く働くということは、全人類の無限の経験の、言葉をもつことによる蓄積と整理によるのである。
湯川秀樹博士が物理学は視覚と関節覚の発展であると言われた如く、外に見るとは、身体的なるものを物に表わすことである。身体は物に自己を表わすものとして、何処迄も内なるものである。而して物に表われるものとして何処迄も外なるものである。
生命とは身体をもつことによって生命であり、身体は内外相互転換として身体である。禅宗でよく、生命は呼吸の刹那にあると言われるそうであるが、呼吸とは内を外とし、外を内とすることである。摂食と排泄も外を内とし、内を外とすることである。
内外相互転換的とは、生命は常に死に面しているということである。摂食に於て食物の欠乏は死である。呼吸に於て酸素の欠乏は死である。生命は危機としてあり、危機の克服として生きるのである。危機の克服の蓄積と構成が技術であり、製作である。
言葉をもち、物を製作する人間は、動物が食物的環境としてもつものを世界として形成する。それは最早食物としてのみの意味を有するものではない。言葉が言葉自身の展開をもち、物が物自身の発展をもつのである。それが世界を形成するということである。人間は動物が、生得的に与えられた所に生きるのに対して、瞬々環境と自己を改造するのである。創造に生きるのである。
私は此処で自覚というものに一歩立入って考察を加えなければならない。自覚とは内外相互転換の自然の流れより、人間が初めと終りを結ぶ力をもつものとして、言葉に写すことによって内と外を分ち、自己を分たれた内と外の統一者とすることである。内部知覚と外部知覚の相即者として無限に動的となることである。自然としての、所与としての内外相互転換が立体的構成的となることである。製作的表現的であるとは、何処迄も身体を離れると共に、何処迄も身体を基盤にもつのである。自覚とは空中に楼閣を見るのではない。道具は手の延長と言われ、機械は道具の延長と言われる如く、表現は身体の発展である、日々の行為の上に成立するのである。
内部知覚即外部知覚・外部知覚即内部知覚とは、生物的生命としての食物的な内外相互転換の発展として、常に死と背中合せにあり、自覚は亦危機の自覚として発展するのである。危機も亦自己形成的となるのである。
初めに生命は個的種的であると言った。自覚とは斯る個的種的なる生命が無限に自己創造的となることである。創造とは、世界形成的に自己を見てゆくことである。技術的、言表的である。而して技術的言表的であるとは、この個としての自己を越えたものである。言葉も技術も生死するこの個を超えて、無限の祖先より継承し来ったものであり、子孫に達してゆくものである。言葉と技術は個を超えて世界として自己を見してゆくものである。生命に於て個を超えるものは種としての生命であった。私は自覚とは種の発展であり、世界とは歴史的形成的世界であると思う。
生命は死をもつものであり、生物が死ぬとは種の中に死ぬのであった。種は個の生死 於て自己の連続をもつのであり、個は斯る連鎖の一環として、種の中に生れ、種の中に死ぬのである。連鎖の一環として死ぬということは、種に生きるということである。
人間に於てはこの世界の中に生れ、この世界の中に死んでゆくのである。生物が生れて種の形相を実現してゆく如く、我々が生きるとは、よりよき社会を作ってゆく事である。より豊富な言葉と、より多様な技術をもつ社会を作ってゆくことである。
生物に於て種は個に対して、残酷をもつことによって自己を維持してゆくと言ったごと く、人間に於ても世界と個は矛盾をもって対立する。個人は恣意を否定することによってのみ世界を実現するのである。世界は個人の恣意を抹消しようとするのである。 世界は法として個人にその従属を強制するのである。而して個的生命は恣意を否定してのみ、真の自己となることが出来るのである。生死する生物的生命を超えて、初めと終りを結ぶ世界に触れることが出来るのである。世界実現的として恣意は意志となるのである。斯るものとして克己を伴うことなくして、意志の実現はあり得ないと言い得るのである。
雄かまきりが雌に食われてゆくのを見ると悲痛の感を持たざるを得ない。併しそれが種に生きる道である。人間は創造的生命となることによって世界を見る。そこには私は雄かまきりにも似た捨身がなければならないと思う。死して生きなければならないと思う。勿論自覚的生命としての人間は、生物の如く身体を殺すのではない。世界形成として、生死を超えた技術・言語に純一となるのである。本能的欲求を殺して、展けゆく世界そのものとなるのである。
附記
先生から難しいことを書くなと言われた。それで私の文章の基礎となるものを記したい と思う。私は人間は生れて言葉を覚え、技術を習い、働いて物を作って、食って生きてゆき、そして死ぬ存在だと思っている。私はそれを究明しているだけである。唯それが如何なるものかと求めた時はかることの出来ない深さとなってゆくのである。残る生命を賭けて究め得るだけ究めたいと思う。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」
情としての日本的形成
古い本を引張り出して、ごろりと寝転んで読んでいると、こういう下りがあった。江戸 の或る豪商の家より出火した。折からの風に煽られて、火は見る見る内に街並へと拡がって行った。当主が茫然として火の行手を見ているところへ、息子が駆け寄って来て、「お父さん御安心下さい、土蔵の全ては完全に塞ぎました、これで大丈夫です。と言った。すると主人は、「馬鹿!!」と怒鳴って走り行き、土蔵のを全部開け放ち、塞いだ窓を尽く壊した。そして火の消え去った後、一物も残らず焼けた我家を眺めて、「これで世間様も許して下さるだろう。」と呟いた。というのである。
世間様も許して下さるだろうとは、如何なることなのであろうか。私は世間とは、所謂 社会とは異なっているように思う。社会は我々を超えて、我々と対立する意味をもつのに対して、人と人とのつながり、関り合いの意味が大変濃いように思う。今此処に我と汝が関り合って生活をしているのである。世間知らずというのは、我と汝の関り合いを、上手に処理なし得ないものである。世間が狭いというのは、関り合う人が限られて少いということであり、理解してくれる人が少ないということである。私達は社会が許してくれるとか、社会が狭いという言葉をもたない。そのことは世間とは人と人との生活空間の意味をもつと思う。
許してくれるとは、私は、それによってあるものがそれに背き、再びそれの中に容れら れることであると思う。この場合出火によって、多くの家を類焼せしめ、人々を困窮せしめたのが、世間をはみ出たことになるのであろう。そして着のみ着のままになったことによって惻隠の情をもち、怒りを少なくしてくれるであろうということであろう。
世間を世間様というのは如何なることなのか。通常前にも書いた如く、世間知らずとか、世間が狭いとか、世間という言葉で表わされる。自分も其の中の一人である以 上当然の事である。而し世間様というのは自分と一線を画した言葉である。そしてそれは許して下さるにつながる言葉である。私は世間様というのは、其処に自分の存在の根元を見た言葉であると思う。世間は我と汝の無数の関り合いである。関り合いは我を超えて、無限の過去に遡り、未来に流れてゆく。我々はその中に生き、それによって生きる。其処に法が生れ、神や仏の出で来る地盤がある。併し世間様は神や法ではない。何処迄も人と人である。我と汝である。
私は斯るものとして、世間とは心情的に形成せられた社会であるとおもう。心情と心情の結合から、新たな心情が生れる。そこに自ら全体的なものが生れる。全体とは秩序である。それは成文化されたものではない。お互いの心に流れ合うものであり、それによって我が生き汝が生きる心情のおのずからなる承認である。私は世間様とは、我々の心情の奥に出来た社会的心情とでも言うべきものではないかと思う。
私が鎌の販売をしていた頃、出張先の宮崎市に吉田喜五郎商店というのがあった。その当主は古来の慣習を頑固に守り続ける人であった。他の人から聞いた話であるが、その主人はいつも、飯を食っている所を人に見せてはならない、もし見られてお客さんより美味いものを食っていたら、お客さんにすまない、と言っていたそうである。事実私も二、三度饗ばれたことがあるが、夏の暑い日でも障子が閉め切ってあった。この家は市内でも一、二を争う資産家として、当時の市長の娘を嫁に貰った程である。かくれて食う位ならどんな美味いものを御馳走して下さるのかと思ったら、味噌汁一椀に干魚の焼いたのが一匹であった。それを手拭片手に、汗を拭き乍ら食べるのである。私は戴き乍ら、資産をもつという意味を疑ったものである。
併し彼は決して吝嗇ではなかった。寄附なんかは惜まず出していた。勿論まずいものを食うのが好みではなかったであろう。私は其処に情のつながりといったようなものが見られるのではないかと思う。客もその店に無ければ兎も角、他の店で買うことはしなかったようである。品物を通じての結合が一体感をもたらし、一体感が同一への欲求をもたらしたのではないかと思う。客よりうまいものを食っていてはいけないということも、この同一の欲求から来るのではないかと思う。
世間知らずといわれる言葉も、この同一の感覚の欠除を言っているように思う。他者の気持をおしはかり、自己と他者の間に一つの状態を作り得ないものをいうように思う。あの人はまだ苦労が足らんと言われるのも、苦難の経験をもたないということでなくして、人との関り合いに圭角があるということのようである。
私の住む田舎では、今では大分薄れてきたが裾分けという習慣がある。何か美味しいもの、珍しい食物が手に入ると近所隣へ少しずつ配るのである。貰った者は亦近所や知人に配るのである。私はそこに味覚に於て自己と他者の同一を実現しようとする、日本的あり方を見ることが出来るように思う。それは身体的であると共に、我の身体を超えて、我と汝の身体の同一をもとうとするのである。私は心情とは身体と身体が関り合う波動であるとおもう。
一つ釜の飯を食ったという言葉がある。それは人と人との最も強い結合を表わす言葉である。私は日本人の結合は理念による結合ではなくして、より多く斯る身体的なものに根底を有するのではないかと思う。
私達の若い頃、村には講というのがたくさんあった。伊勢講、お日待講、念仏講等である。それは多く血縁を基礎としているようであった。年に何回か講員が廻り持ちに講元となり、形式的な儀礼の後多くの時間を飲食に費していた。村には幾つもの講のグループがあり、大てい四、五人から七、八人位で構成されており、飲食はその紐帯を確めるものであった。盃のやりとりがはじまり、酔うて唄い、全員が体をゆすり乍ら唱和して、一同は満足して帰宅するのであった。
私は日本の生命形成の根底に断るものがあるように思う。それは同一の体験亦は官能充足によって身体的一を実現するのである。伊勢講の行事として、四年目に一回のお伊勢参りがあった。私はその帰りを浄谷の浄土寺迄迎えに行った経験しかないのであるが、寺より村迄の間、酒を煽り、声張り上げて唄い、右に左に練って歩くのであった。それは多くの人ではなくて一つの波であった。おのずから波動が形造られてゆくのであった。
波動とは多が動的に一ということである。この夏テレビで阿波踊りというのを見た。そ れは全く波であった。人の波というのではない。それは波を演出するのである。多数の人々が単純な動作を繰り返し繰り返し押し寄せて来るのである。人々は波の演出の中に陶酔してゆくのである。歌の囃しというのも斯かる波動を構成する一つの要素であった。祭りの太鼓なども波を描いて練られたようにおもう。そして私達もその練られることに興奮を覚えたものであった。
汝は我に非ざるものであり、我は汝に非ざるものである。若しも我が汝であり、汝が我であるなれば我と汝というものはない。併し我と汝は人類として、他の動物と距てる同一をもつのでなければならない。人類は同一の生命機能をもつのである。斯かる同一に於て集団をもち得るのである。私は日本人は形相形成を自他分別の方向ではなく、同一の方向に見出して行ったのではないかと思う。自他分別の理性に於て世界を築くのではなく、汝が行為を介して身体的に繋がる方向に世界を見出して行ったのである。情念的な結合である。
私は世間というのは斯るものに基盤を有するとおもう。世間様がゆるして下さるとは、 斯る結合の中に容れてもらえるということであると思う。昔私の村落でも村八分という制裁があったらしい。それは如何なる体罰でもなくて、結合の拒否だったのである。而してそれが最も苦痛を与える制裁であったということは、日本の社会構造が斯る結合の上に成り立っていたが故であると思う。世間とは斯る構造の拡散されたものであり、日本社会の特性は多く身体的結合の親縁性によるとおもう。
身体は情緒的表出をもつ、身体的結合とは情緒的結合である。情緒的結合が強固であるためには、会食に於ては声が届き合い、盃を交す手が届き合い、鉢物への箸が届き合うところでなければならない。即ち講に見られた如く、五人乃至十人の小人数でなければならない。私はそこにおのずから世間の論理がはたらいているように思う。江戸時代に社会組織の下部構成として五人組が作られたというのも斯かるものに所以するとおもう。
世間としての社会に最も尚ばれるものは当然人情であった。世間情がなきやなり立たぬと唄われ、人は情の下に棲むと言われ、情深い人は最も尊敬される人であった。逆に鋭い分別をもち、物事を組織づけてゆく人は冷たい人として敬遠された。冷たい、温いという身体感覚は、日本人にとって重要なる価値規準となったのである。私はここにも身体的なるものに基盤を有する日本的形としての、世間として展開して行ったものを見ることが出来るとおもう。
南博氏はその著日本的自我(岩波新書)に於て、日本人の自我構造の一つのきわだった特徴として、主体性を欠く「自我不確実感」の存在ということを考えて来た。と書かれている。併し私は自我不確実感という言葉そのものが、西洋的自我の思考の上に立つものであって、日本的生命の形成の場に立って考えられたものではないと思う。そこには西洋的意味に於ける自我の不確実というのは避けることは出来ない。併し人間は自覚的生命として内面的発展をもつ、私は日本的自我を論ずる場合にも、日本人が形成し来ったものとの動的関係に於て捉えなければならないと思う。内面的発展はそれ自身一つの積極的意味をもつ、それは西洋的自我を逆に包み補完する意味をもったものである。全てあるものは一つの完結性をもつ。日本的形相は一つの完結をもつのであり、西洋的なるものの欠落としてあるのではない。日本的なるものが或る意味に於て、西洋的なるものの欠落としてあるのであれば、西洋的なるものは或る意味に於て日本的なるものの欠落としてあるのでなければならない。西洋的なるものが日本の停滞の救済であるのであれば、日本的なるものは、西洋の没落の救済でなければならない。交流は興隆である。
情に於ての我とは他者との一体感である。自己があって他者と結びつくのではない。自他一なる中に自己があるのである。理性としての自己は、自己の中に世界をもつ、一体感に於ては世界の中の自己としてある。我と汝は対立するのではない。間柄として一つである。親の子、兄の弟、遊んでもらう人、教えてもらう人として一つである。理性に於ける我と汝は人格として対立する。それは一つの世界を形造るものとして対立する。それに対して結合として生命形成をもつ個我は無力である。而して一体感としての結合の燃焼は大である。そこが自己の存在根拠なるが故に身命を捨てゆくものをもつのである。私は近代日本の発展の底に斯る精神のはたらきがあったと共に、親分子分といった小さなやくざ的結合をもち易いものがあったと思う。
西洋文化の論理的構成的であるに対して、日本は独自の文化を形成して来たと思う。それは何処迄も身体的一体感の方向に深めていったと思う。身体を物に表わす方向ではない、物の中に消してゆく方向である。与えられた身体の精妙を、物との動的な関りの中に見出すのである。物を外に見るのではない。いのちの現れ、いのちの関りとして動的な身体的生命に於て見るのである。馬術に於て鞍上人なく鞍下馬なしと言われた如く、剣術に於て無想剣と言われる如く、道具として離れたものが動きに於て一つとなるのである。自他不二として見られる心地の風景が神といわれるものであり、それに至る過程が道である。日本文化は道の文化であったということが出来るとおもう。それは作る文化ではなくして、修めておのずから成る文化である。
東洋殊に日本に於ては飄逸とか無我ということを非常に重要視する。無我とか飄逸ということは、自我を捨て作為を捨てるということである。大きな宇宙的生命の中の一個として、その運びのままに生きるということである。勿論それは何も為さないということではない。我々の情熱努力も亦大なる生命の運びの中にあると観ずるのである。その実現の為に身を捨てるのである。飄逸とか無我とは遊離することではない。道の底に死するところにあるのである。死して生きたところが飄逸であり、無我である。我々の祖先は西洋的自我を小我として、相対立するものに地獄を見、解脱に極楽を見た。極楽は無我の風光である。無我は大我への参見であり、身体的一体的なるもの究極である。
近代社会は個性として、自由意志としての西洋的自我を生んだ。それは新しい生産手段の発展に伴う必然の自覚であったということが出来る。個は個に対する、それは相互否定的である。相互否定的とは無限に動的であるということである。社会は否定の変革によって動いてゆくのである。個が個に対立するとは物を媒介とするということである。物の生産に於て我々は自由意志であり、物の所有、生産技術の所有に於て個は個に対する。私はそこに西洋文明が物質文明といわれた所以があると思う。而して人間は外に自己を物として表わしたものである。物の生産なくして社会はない。社会の発展とは物の生産の発展である。発展のサイクルに入った社会はその展開を止めようがない。近代社会は我々に西洋的自我への転生を要求するのである。個性と自由意志に立脚点を求めるのである。南博氏の自我不確実感とは、波動として、一体感として形成し来った日本的形成として生命が西洋的自我に転生せんとする軌りであるとおもう。我々は新たな社会構造の主体として生きねばないのである。西洋的自我を透過しなければならないのである。自我不在感としての軌りをもつということは、西洋的自我に生きねばならないということである。
生命は永遠なるものが瞬間的なるものであり、瞬間的なるものが永遠なるものであり、全体的なるものが個的なるものであり、個的なるものが全体的なるものとして絶対の矛盾としてある。絶対の矛盾として一つの形相は行き詰らなければならない。全体的な形相はその極個的なるものを失なうことによって崩壊し、個的なる形相はその極全体的なるものを失うことによって崩壊するのである。前者に於ては無気力となり、後者に於ては無目的となるのである。物に媒介される個性として、自由意志としての西洋的自我は、自由の故に無目的的となるのである。物に対するものは身体的欲求である。そこに最大多数の最大快楽が人生の目的の如き考えが生れてくる。併し快楽は官能的瞬間的のものであり、人性の本源を見失わせるものである。瞬間的なるものは永遠に映すことによって瞬間である。永遠を見るなき瞬間は瞬間の喪失である。そこに退廃がある。私は近代社会の抱える問題とは斯る退廃であるとおもう。
私は日本的一体感の中に断るものを救済する原理があるように思う。勿論それは伊勢講の如きものを復活させよというのではない。一体感は対立矛盾の否定である。前にも述べた如くそこには発展や変革はない。情的結合の社会は停滞社会である。我々が近代としての国際社会に生きるには、どうしても西洋的自我を獲得しなければならない。併し西洋的自我は今見た如く既に終末的である。単に西洋的自我の中に入ってゆく限り、我々は徒に崩壊の中に入ってゆくことになりかねない。私達が西洋的自我を獲得するとは、日本的形成の中に西洋的自我を宿すことでなければならない。そこに新しい世界創造の原理が生れるのである。歴史は常に一つの精神が発展し完成することによって崩壊し、それを継承した新たな精神が発展し完成する繰り返しであった。今や日本は新たなる精神に於て世界を発展さすべき使命を有すと言わなければならない。
この頃よく人間性の回復とか研究とかという本が書店に見られ、絆とか出会いを大切にしようという標語が方々に掲げられている。出会いというのは刹那の交情である。我と汝の一体感の把握である。それは私達にとって忘れたものの呼び返しである。身体を直接与えられたものとして、身体と身体の関り合いに生活の基盤を据えようとするのである。そこにあるのは触れ合うぬくもりであり、情の結合の一体である。併し一度び西洋的自我の洗礼を受けた現代日本は最早再び旧に還ることは出来ない。私達はその形相の如何なるものかを知ることは出来ない。形相は世界が自己矛盾とその救済として世界自身が決定するものである。
附 記
いつであったか新聞で校内暴力の座談会があった。そのとき学生は小グループに於ては強い結束をもつが、現在の学校の大組織には白けム-ドであると書かれていた。私は今これを書き乍ら日本人には抜くべからざる情的結合の習性があるように思う。これを如何に普遍社会に結合するかに解決があるとおもう。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」
散り葉を見ながら
折柄の風に公孫樹の葉が、光りを浴びて金色に輝き乍ら散り落ちている。思わぬ美しさに、私は近寄って一葉を拾い上げた。残りなく黄色と化した葉は一種の透明感さえもっている。而して見惚れ乍ら、今更の如く感嘆の思いをもったのは、その精緻を極めた葉脈であった。繊細な筋線は、複雑に織りなし乍ら整然としている。更に二、三葉を拾っても同様である。たった半年程梢にあるだけなのに、樹はこのようなものを作っているのである。私の心は名状しがたい感動につつまれていた。私は生命の不思議へ、思いをめぐらせていった。
葉は芽吹いてたった半年梢にあっただけである。併しての複雑な構造は、半年や一年で出来たものではない。何億年、否何十億年を芽生えと枯死をくり返し乍ら形造って来たものである。乾燥に耐え、風雨と戦い、寒暑を凌いで形造って来たものである。単細胞より何十兆の細胞の構成へと成長して来たのである。
生命は一瞬より一瞬へと動いてゆく。新しき生命は次々と生れ、生れた生命は刻々と死に近づいてゆく。動くとは相反するものに移ることである。生命は死をもつことによって生命である。ギリシャ神話に、不死を願って石に化せられたというのがある。生命にとって死は避くべからざる運命である。
生命とは生きんとする意志である。生きるとは死を超克せんとする努力である。併し死は生命の竟の宿命である。如何なる苦闘をもしのび寄る老いは力を萎えしめ、黄泉へと赴かざるを得ない。追憶の中に露命の儚さを思い、槿花一朝の夢を嘆かざるを得ない。流汗浅血は唯淡き残像をもつのみである。
併し半年で散りて消えゆく公孫樹の葉は、億年の長き歳月を潜めるものであった。 堆く散り積った葉は、半年の生きんとする力の集積である。散り落ちて来年亦、新しい葉が芽吹くことが出来るのである。木は枯れることによって、新しい木が成長するのである。この限り無い繰り返しがなかったら、単細胞より何十兆への細胞の構成がどうして可能であったであろうか。そして何億年の構成の成果に一枚の葉は今有るのである。
全て生命が、主体的、環境的であるとは、環境の変化と共に変化するという事である。そこに生死がある。生死とは、環境を主体化し、主体を環境化することである。相互に否定しつつ動的一として形相を実現してゆくことである。
限りない時間の前に、朝を葉末に置く一つの露と思える我々の生命も亦、量るべからざる深さをもつのである。人間には百四十億の脳細胞と、六十兆の身体の細胞があるといわれる。それが機能的に一つのものとして働くのである。私達は鮭の稚魚が大海を回遊すること五年にして、放流された母川に回帰するという事に驚嘆し、生命の不思議を感ぜざるを得ない。併し人類が養い来ったものは更に甚妙である。我々はこの限りない時間を潜めもつものとして、死んでゆくのである。死とは、死ない命が消えてゆくといわなければならない。
私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。我々は自己を、外に物を造ることによって知るのである。自己を表わすことによって見るのである。物を作るには、内外相互転換としての、生の営みの無限の蓄積がなければならない。過去が現在であり、未来が現在でなければならない。伝統がはたらくと共に、理想が働くのでなければならない。否現在の相互転換が過去を孕み、未来をはぐくむということが物を作ることである。伝統の技術は、今物を作ることによって伝統の技術である。理想は、物がその可能性に於て未来に投げかけた形相である。技術の先取である。
人間は言葉をもつことによって人間になったと言われる。人間のみが言語中枢をもつと言われる。言葉は個の生存を超えて、過去を伝承し、未来へ伝達するのである。過去を伝承し、未来へ伝達するとは、言葉が過去と未来を内にもつということである。我々が言語中枢をもつということは、始めに終りをもち、終りに始めをもつということである。始めと終りを結び、時が現在に於てあるということである。
人間は言葉によって経験の蓄積をもったと言われる。物を作るとは、過去と未来が結合し、自己と他者が一つなることである。人間はそれを言葉の使用によって実現したのである。自己を超えた過去と未来を、はたらく現在の両つの方向としてもつということは、永遠なるものを宿すということである。過去と未来が現在に於て結合するところに物の製作があるとは、物の製作は永遠なるものがはたらくということである。聖書に、初めに言葉ありき。言葉は神と偕にありき。言葉は神なりきとある。創造はここに初まったのである。我々が言語中枢をもつとは、絶対の超越が内在であるということである。絶対の外が内であることである。神が自己であるのである。それは矛盾である。我々は深き矛盾として、生命である。そこに種と個がある。種と個は各々の方向に自己の存在を主張するものとし相容れざるものである。否定し合うものである。種の自覚としての世界と、個の自覚としてのこの我は深淵を距てて対するのである。言われる歴史の深淵とは世界と我の相互否定としての動転である。而してこの動転に於て、世界は世界となり、この我はこの我となるのである。個は世界を写し、世界は個に自己を実現するのである。
自覚的生命に於て死ぬとは、生物的身体的に死ぬのではなくして、表現的身体的に死ぬのでなければならない。言葉や技術はこの我にあるのではなくして、世界としてあるのである。我々はそれを習得することによって自己の内容とし、内容とすることによってこの我を確立するのである。名前は自己の名前である。併し他者によって名付けられたものであり、世の中に於て他者との関りの為に名付けられたものである。技術は先輩より教えられたものである。若し生れて直に無人島に捨てられたならば、我々は言葉も技術ももつことが出来なかったであろう。
我々が言葉や技術の秩序に随うということは、自己の恣意を捨てて世界になるということである。世界の自己実現の内容となることである。世界創造の一要素となることである。表現的世界に入ることである。併しそこはまだ自己の為に世界をもつのである。表現的身体的に死ぬとは、転じて世界の為に自己がある ない。自己が物を作るのではなくして物に化すのである。物そのものとなるのである。物に化すことによって、物 は歴史的物として内面的発展をもつのである。自己構成的となるのである。世界が世界を 限定するのである。
葉は幾億年を芽吹き散ることによって、精緻なる葉脈を構成した。人間は幾多の人々が世界に生れ、世界に死ぬことによって、物を多様ならしめ、文化の絢爛を実現したのである。応挙一人の絵画の世界はない。現在の世界とは、生れて死んでいった数知れない人々の努力の証跡である。
葉は半歳に散る。併しその巧緻なる構造は幾億年の営為の成果であった。我々人間も百歳に満たずして死ぬ。それは無始無終の時の前には一瞬にも比すべきものである。併し我々も限りない人類の営為の成果としてあるのである。幾億年を宿すものとして、身体文化をけてもつのである。我々の一挙手一投足は、斯る身体と文化を享けたものとしてもつのである。而して葉が半歳をその精緻なる構造に於て同化作用をなす如く、我々は歴史的現在の事実として創造作用を行うのである。物に化すとは、有限なる感性的自己が死して、自己創造としての、世界の永遠に甦るのである。このことは、永遠に生きんと欲するものは、残りなく感性的自己を放棄しなければならないということである。其処に自覚的生命としての真個に逢着するのである。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」
福山国際音楽祭2023
先日、福山で国際音楽祭が行われました。作田忠司リーデンローズ館長のご尽力により、指揮者準メルケルや尾高忠明など世界でも屈指の音楽家を呼んでこられ素晴らしい音楽祭でした。ホールの席もゆったりとしており、私が聴いた中では竹澤恭子バイオリンと江口玲ピアノの、特にアンコールで弾かれたビバルディ「四季(一部)」が分厚い響きで、あれほど感銘を受けた演奏も久しく無かったです。
(2023.6)
Chat GPT
私もいつもの拙い原稿を書く際に取り入れたいものですが、頭の中で浮かび上がるイメージについて自分でいろいろ調べ考えて文章を構成し最初の1文字から最後の文まで、一貫したストーリーを完成させるという人間の持つ「創造することの楽しさ」を、今や非生物であるAIごときに奪われてたまるか、と思う気持ちです。
(2023.6)
唯川恵「テテイスの逆鱗」
以前のドイツ人や日本人のような勤勉な集団においては、ひとつの方向に向くときは全体に大きな利益を生むことが、今回の日本における「コロナ禍での社会情勢」から勉強、再確認できました。このことは、私にとっては大きな収穫となりました。例えば流行するファッション。洋服やバッグ、髪型など(私はセンスが無いのでついていっていないですが)。雑誌やHPなどで「今年の流行は!!」と出ていたら、興味を持つ方は多いでしょう。デパートの店員さんにはこう言われます。「皆さんこの色を選らばれていますよ」。
唯川恵は小説「テテイスの逆鱗」で、美に対するあくなき欲求を抑えられずに、自分の身体のあらゆる部分を「美容整形する」4人の女性が描かれていますが、このような極端な例ではなくても、医療面においてはサプリメントや薬などを勧める時にこういうと納得される方は多いようです。「皆さんこのサプリを飲んでおられますよ!」「皆さんこの〇〇を飲んで元気になったと喜んでおられますよ!!」
(2023.6)
同調行動
5月8日から新型コロナ感染症は「2類」から「5類感染症」に法律上変更されました。これは新型コロナウイルスがいなくなったわけでも、感染力が無くなったわけでもなく、例えば担悪性腫瘍患者、免疫抑制状態にある移植後患者など、ウイルスへの易感染者が多い病棟や高齢者収容施設などでは、引き続きマスク着用や手洗いなどが推奨されています。ただ、感染した場合の重症化するリスクがかなり低下し、これまでのように社会生活を犠牲にするほど徹底的な予防は必要でない一般的な病気と同じように扱って良くなったということです。しかしながら、いまだに街中ではかなりの人がマスクをしており、街頭インタビューなどを聞くと「とりあえず今まで通りにして、周りの人の動向を見ながら徐々に外すことを検討します」という意見が多いような気がします。また以前のように「自粛警察」など他人には厳しく攻撃するような人に忠告するとの意図もあり「個人の責任にゆだねる」ようになったと思われます。
以前、このような「同調行動」は「マーマレーション(周囲の仲間の目印やシグナルを受け取ってまとまった集団行動をすること)」と呼ぶと言いました。これは我々人間を含む動物や細胞や遺伝子など、生命現象を司るものに備わっている原始的な行動形態で「コロナ感染におけるマスク非着用者に対する自粛警察」「SNSで広がる誹謗中傷」さらに「ナチスや軍事政権」など、大きな悲劇につながる可能性があるなどと言及したことで、かなりネガティブな印象を持たれたことと思います。また作田忠司リーデンローズ館長が哲学者「ハンナ・アーレント」のことを述べておられ、私も矢野久美子著の伝記を読みましたが、彼女は何故ドイツでナチスのような全体主義が台頭したかについて、詳しく分析されています。つまり「客観的な敵」を規定することが「全体主義」の本質であるとし「客観的な敵は自然や歴史の法則によって体制側の政策のみによって規定され、これらは効果的に人間の自由を奪う」としています。一旦「客観的な敵」が規定されると「望ましからぬもの」「生きる資格の無いもの」という新しい概念、グループが出来上がり、「客観的な敵」に属さない「大多数の人々」はこれに賛同し、また「同調圧力」が加わり「大虐殺」に至ったとしています。「大多数の人々」がこのような「均一性」を自覚することが最も根源的な問題と思われますが、これを阻止するためには個々人の特性を認め多様性を受け入れれることが重要と思われます。
(2023.6)
散り葉を見ながら
折柄の風に公孫樹の葉が、光りを浴びて金色に輝き乍ら散り落ちている。思わぬ美しさに、私は近寄って一葉を拾い上げた。残りなく黄色と化した葉は一種の透明感さえもっている。而して見惚れ乍ら、今更の如く感嘆の思いをもったのは、その精緻を極めた葉脈であった。繊細な筋線は、複雑に織りなし乍ら整然としている。更に二、三葉を拾っても同様である。たった半年程梢にあるだけなのに、樹はこのようなものを作っているのである。私の心は名状しがたい感動につつまれていた。私は生命の不思議へ、思いをめぐらせていった。
葉は芽吹いてたった半年梢にあっただけである。併しての複雑な構造は、半年や一年で出来たものではない。何億年、否何十億年を芽生えと枯死をくり返し乍ら形造って来たものである。乾燥に耐え、風雨と戦い、寒暑を凌いで形造って来たものである。単細胞より何十兆の細胞の構成へと成長して来たのである。
生命は一瞬より一瞬へと動いてゆく。新しき生命は次々と生れ、生れた生命は刻々と死に近づいてゆく。動くとは相反するものに移ることである。生命は死をもつことによって生命である。ギリシャ神話に、不死を願って石に化せられたというのがある。生命にとって死は避くべからざる運命である。
生命とは生きんとする意志である。生きるとは死を超克せんとする努力である。併し死は生命の竟の宿命である。如何なる苦闘をもしのび寄る老いは力を萎えしめ、黄泉へと赴かざるを得ない。追憶の中に露命の儚さを思い、槿花一朝の夢を嘆かざるを得ない。流汗浅血は唯淡き残像をもつのみである。
併し半年で散りて消えゆく公孫樹の葉は、億年の長き歳月を潜めるものであった。 堆く散り積った葉は、半年の生きんとする力の集積である。散り落ちて来年亦、新しい葉が芽吹くことが出来るのである。木は枯れることによって、新しい木が成長するのである。この限り無い繰り返しがなかったら、単細胞より何十兆への細胞の構成がどうして可能であったであろうか。そして何億年の構成の成果に一枚の葉は今有るのである。
全て生命が、主体的、環境的であるとは、環境の変化と共に変化するという事である。そこに生死がある。生死とは、環境を主体化し、主体を環境化することである。相互に否定しつつ動的一として形相を実現してゆくことである。
限りない時間の前に、朝を葉末に置く一つの露と思える我々の生命も亦、量るべからざる深さをもつのである。人間には百四十億の脳細胞と、六十兆の身体の細胞があるといわれる。それが機能的に一つのものとして働くのである。私達は鮭の稚魚が大海を回遊すること五年にして、放流された母川に回帰するという事に驚嘆し、生命の不思議を感ぜざるを得ない。併し人類が養い来ったものは更に甚妙である。我々はこの限りない時間を潜めもつものとして、死んでゆくのである。死とは、死ない命が消えてゆくといわなければならない。
私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。我々は自己を、外に物を造ることによって知るのである。自己を表わすことによって見るのである。物を作るには、内外相互転換としての、生の営みの無限の蓄積がなければならない。過去が現在であり、未来が現在でなければならない。伝統がはたらくと共に、理想が働くのでなければならない。否現在の相互転換が過去を孕み、未来をはぐくむということが物を作ることである。伝統の技術は、今物を作ることによって伝統の技術である。理想は、物がその可能性に於て未来に投げかけた形相である。技術の先取である。
人間は言葉をもつことによって人間になったと言われる。人間のみが言語中枢をもつと言われる。言葉は個の生存を超えて、過去を伝承し、未来へ伝達するのである。過去を伝承し、未来へ伝達するとは、言葉が過去と未来を内にもつということである。我々が言語中枢をもつということは、始めに終りをもち、終りに始めをもつということである。始めと終りを結び、時が現在に於てあるということである。
人間は言葉によって経験の蓄積をもったと言われる。物を作るとは、過去と未来が結合し、自己と他者が一つなることである。人間はそれを言葉の使用によって実現したのである。自己を超えた過去と未来を、はたらく現在の両つの方向としてもつということは、永遠なるものを宿すということである。過去と未来が現在に於て結合するところに物の製作があるとは、物の製作は永遠なるものがはたらくということである。聖書に、初めに言葉ありき。言葉は神と偕にありき。言葉は神なりきとある。創造はここに初まったのである。我々が言語中枢をもつとは、絶対の超越が内在であるということである。絶対の外が内であることである。神が自己であるのである。それは矛盾である。我々は深き矛盾として、生命である。そこに種と個がある。種と個は各々の方向に自己の存在を主張するものとし相容れざるものである。否定し合うものである。種の自覚としての世界と、個の自覚としてのこの我は深淵を距てて対するのである。言われる歴史の深淵とは世界と我の相互否定としての動転である。而してこの動転に於て、世界は世界となり、この我はこの我となるのである。個は世界を写し、世界は個に自己を実現するのである。
自覚的生命に於て死ぬとは、生物的身体的に死ぬのではなくして、表現的身体的に死ぬのでなければならない。言葉や技術はこの我にあるのではなくして、世界としてあるのである。我々はそれを習得することによって自己の内容とし、内容とすることによってこの我を確立するのである。名前は自己の名前である。併し他者によって名付けられたものであり、世の中に於て他者との関りの為に名付けられたものである。技術は先輩より教えられたものである。若し生れて直に無人島に捨てられたならば、我々は言葉も技術ももつことが出来なかったであろう。
我々が言葉や技術の秩序に随うということは、自己の恣意を捨てて世界になるということである。世界の自己実現の内容となることである。世界創造の一要素となることである。表現的世界に入ることである。併しそこはまだ自己の為に世界をもつのである。表現的身体的に死ぬとは、転じて世界の為に自己がある ない。自己が物を作るのではなくして物に化すのである。物そのものとなるのである。物に化すことによって、物 は歴史的物として内面的発展をもつのである。自己構成的となるのである。世界が世界を 限定するのである。
葉は幾億年を芽吹き散ることによって、精緻なる葉脈を構成した。人間は幾多の人々が世界に生れ、世界に死ぬことによって、物を多様ならしめ、文化の絢爛を実現したのである。応挙一人の絵画の世界はない。現在の世界とは、生れて死んでいった数知れない人々の努力の証跡である。
葉は半歳に散る。併しその巧緻なる構造は幾億年の営為の成果であった。我々人間も百歳に満たずして死ぬ。それは無始無終の時の前には一瞬にも比すべきものである。併し我々も限りない人類の営為の成果としてあるのである。幾億年を宿すものとして、身体文化をけてもつのである。我々の一挙手一投足は、斯る身体と文化を享けたものとしてもつのである。而して葉が半歳をその精緻なる構造に於て同化作用をなす如く、我々は歴史的現在の事実として創造作用を行うのである。物に化すとは、有限なる感性的自己が死して、自己創造としての、世界の永遠に甦るのである。このことは、永遠に生きんと欲するものは、残りなく感性的自己を放棄しなければならないということである。其処に自覚的生命としての真個に逢着するのである。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」
知的抒情について
先日大熊さんが来られて、片岡さんからと言って合同歌集を戴いた。その中で氏は 「珠」の短歌理念である「知的抒情」には到底及び難くと書いておられる。知的抒情とは一体如何なるものなのであろうか。
知は分別である。それに対して情は常に純一である。知が求めるものは普遍妥当性であり、古今を通貫し、東西に敷延するものである。不変のものである。情は純一なるものと無限の流動である。喜び悲しみの何処より来り、何処に去りゆくかを知らないといわれる。生きゆく生命の直接の現れである。斯る意味に於て知と情は、相反するものと言わなければならない。
併し知も情も我々のもつものである。我々はこの相反するものをもつことによって、人 間として行動し、生命を維持してゆくのである。
生命は唯一生命として生命である。斯る唯一なる生命が内に相反するものをもつということは、生命は矛盾として生命であり、相反するものは相互媒介的にあるということでなければならない。知は情を媒介することによって自己を愈々明らかにするのであり、情は知を媒介とすることによって自己を深めてゆくのである。
知は何によって対象を辨別するのであるか、私はそこに刹那刹那ということがなければならないと思う。大なる時間の中に刹那刹那を見てゆくのが辨別であると思う。普遍妥当性ということも、大なる時間を満たす刹那でなければならないと思う。スピノーザは知的愛を言っている。それは勿論知を愛することをもって至上の生とすることであるが、それは亦愛によって知があることでなければならないと思う。愛は情の至純なるものである。
情が知を媒介するというのは如何なることであろうか。知は普遍妥当性の要求者として刹那を越えたものである。私は刹那的なるものが普遍的なるものをもつとき、そこに永遠を見ると思う。達することの出来ない深淵をもつのである。そこに情の深まりがあると思う。生来的な喜怒哀楽に生きるのではない。不安と絶望への戦いとして生きるのである。不安の暗黒、見出でた歓喜、人間の情念はそこに形象をもつ、知的抒情とは日常の事象を借りて生死の深淵に降りてゆくことであると思う。
相互媒介としての日々の行履に於て知と情は一つである。而してその知が情を包む方向に散文があり、情が知を包む方向に詩があると言い得るであろう。知的抒情はそれが抒情である限り、情の中に知を消化しなければならないであろう。
以下片岡さんの作品を二、三例にとり乍ら具体的に追及したいと思う。
切り岸に踵を返すまひるまの海の曠野を眺めつくして
海の曠野とは何なのであろうか、私はそこに限りない生の渾沌の前に立つ作者を思うことが出来ると思う。その前に作者は無力である。五句作者のあり方を表わして遺憾ない。知的抒情の成功作である。
額あげて生きねばならぬ容赦なく朱の散剤を喉(のみど)にこぼす
生の修羅を捉えて上手い作品。併し前作より深さに於て劣ると思う。
みひらきて他人の顔のわれがゐる夜の鏡の不意におそろし
自己の中にある他者、実存的なるものに挑んだ作者の深さを思う。併し五句更に他者への突込みがないと一首として成功していると言い難いと思う。
天までも昇りつめれば雲雀子の声は堕ちくるまっさかさまに
全体が観念であり、知が露呈している。抒情の方向を逆行するものであると思う。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」
作歌に見る芸術の本質
歌は感動であると言われる。私はこれは全ての芸術に言い得ることであるとおもう。 画も感動であり、音楽も感動であるとおもう。感動は字の如く感じが動くのである。動くものは物に即して動く。この動くものが感情であり、動きそのものがリズムである。喜び悲しみが生れ消えゆくのである。歌が感動であるとは、この生れ消えゆく喜び悲しみを言語によって把握し、把握することによって、次いで来る喜び悲しみにより多様の陰翳を与えることである。
私達は喜び悲しみの何処より来り、何処に去りゆくかを知らない。喜ばんとして喜べるものではなく、悲しまんとして悲しめるものでもない。或る状況の中から思わずほゝえみの湧き来り、涙の溢れ出るのである。我が喜び悲しみをもつのでもなければ、物が喜び悲しみをもつのでもない。喜び悲しみの中から我と対象が生れてくるのである。
作歌に於て嫌われるのが観念の露出である。何故に観念の露出が嫌われるのであろうか。私はそれは我がそこから生れてくるという、生命の真実が失われるが故に外ならないとおもう。観念の露出とは一首を観念の内容とすることである。対象をして一つの観念を語らしめる道具とすることである。そのためにはその観念は既成の観念であるということが出来る。既に我の内容となったものである。既に我の内容となったものを対象に被せても、新しい我の生れる道理がない。新しい我が生れ、新しい感情が生れる為には、対象によって我が否定されなければならない。対象によって砕かれる所以のものがなければならない。感情はそこに動くのである。否定を媒介としての結合が動くということである。
観念露出と共に嫌われるのは、事実に着くとか、対象に着くとか言われることである。 事実に着くとは事柄のみを述べる事である。事柄のみを述べるのは何故に嫌われるのであろうか。私は観念の露出が真にとの我を見る所以でなかった如く、事実に着くことは、真に事実を明らかにする所以ではないのに因ると思う。事実とは何か、最も直接なる事実はこの我が生きている事実である。生命の事実である。我々は自己の行為によって、事実を決るのである。見えている山は幻覚かも知れない、震気楼かも知れない。私達はそれを足で踏み、手で摑むことによって事実とするのである。事実は今私達が働くことによって物に対するところに事実があるのである。百五十億光年先の星を事実とするのは、それを我々は操作によって捉えるが故である。主体と対象の行為的転換に於て、生きている現在を決定してゆくのが事実である。事実につくとか、事柄につくというのは、主体的行為の失われた形象のみとなることである。そのことは動きゆく力の失われた事物ということである。そこからは喜び悲しみの生れよう筈はない。
生命は主体的客体的である。 主体的方向に観念があり、客体的方向に事物がある。而して観念からも、事柄からも真に感情の生れるところを持たないということは、感情は主体と客体の交叉より生れるということでなければならない。主体は客体ではない。客体は主体ではない。それは一ならざるものである。一ならざるものが一なるところに感情は生れるのである。一が分離であり、分離が一であるところに喜び悲しみはあるのである。
一ならざるものが一であるとは、否定するものが結合するものであることである。否定 が肯定であり、肯定が否定であることである。それは世界形成的であることである。個と個の対立と相互否定が、世界が世界自身を形成することである。何処迄も個が世界を媒介し、世界が個を媒介するのである。そこに何処迄も否定より脱することの出来ない悲しみ と、世界を成就した喜びがあるのである。喜びは悲しみを媒介し、悲しみは喜びを媒介することによって、深き喜び、深き悲しみを我々はもつのである。それは亦個の深まりであり、世界の深化である。私は芸術としての感動は此処に求めなければならないと思う。単に喜びより悲しみへ、悲しみより喜びへと移るのでなくして、大なる喜び悲しみへと移るのである。そこに自己発見の感情が生れ、世界創造への感情が生れる。表現意欲はここに発するとおもう。
個が相互否定としてあり、相互否定が世界の自己形成であるとは、個は有限なるものとしてあり、世界は個を超えたものとしてあることである。有限としての生命が相互否定的に対するとは、生死に於て対するのである。否定されることが死であり、否定することが生である。而して世界はこれを超えたものとして、世界の形相は永遠である。生死に於て対立するものは永遠に於て結合するのである。仏教にも言える如く生死即涅槃である。生死即永遠である。生死即永遠とは永遠の相下に生きんとするには何処迄も生死するものでなければならないことである。永遠に写して生死はあり、生死に投影して永遠はあるのである。この一でありつつ絶対の懸絶をもつところに苦悩はあり、喜び悲しみの出で来る深淵はここにあるのである。前出の観念露出とか、 事実に着くというのは、個に執した永遠の喪失による感情の枯瘦によるとおもう。
個が世界であり、世界が個であるとは、個が世界を内にもち、世界は個を内にもつことである。而して個が世界を内にもつとは、人格となるということである。生死を超えて時を包むものとなることである。私達は言葉をもつことによって時を包む。言葉は私達の身体を超えて、過去を伝承し未来へ伝達するのである。
言葉は対話によって言葉である。対話によって言葉であるとは、対するものも人格で あるということである。人格が人格に対するとは互がその内包する世界を打樹てようとすることである。形成的世界に於て競うことである。世界に於て相互に否定せんとするのである。而して個と個が相互に否定する処に出現するのが世界である。この出現した世界によって否定された個は新たなる個として甦るのである。新たなる世界を内包する個として、世界は新たなる個を内包する世界として、自己を形成するのである。
斯る世界と個の、否定と肯定の持続が歴史である。歴史の本質は無限に動的な生命の自己限定である。それは世界と個、否定と肯定に於て動きゆくのである。過去は過ぎ去ったものではなくして、現在を限定し、現在に否定さるるものとして新たな粧いに生きるのである。未来は現在の相互否定が投げた肯定の影である。歴史は歴史的現在に於て歴史であり、歴史的現在に於て世界が生れ、我が生れるのであり、過去は現在がもつ過去であり、未来は現在がもつ未来として、時は現在より創まるのである。
何処より来り、何処へ去るか知らないと言われる喜び悲しみは、私は歴史的現在として無限に動的な生命の直截な現われであるとおもう。感情は常に今として、身体の動きとして現われる。而して涙は直にギリシャ悲劇に繋がり、西王母に繋がるのである。静御前の流した涙は直ちに私達の頬を流れるのである。感情の時は認識的時を超えて包み、知識が過去とするものも、感情に於ては今である。
私はそこに真に具体的な深大な生命があると思う。知識はこれを反省することによって知識である。
私は美とは斯る歴史的現在として、新たなる世界が生れ、新たなる自己が生れる感情の意識であるとおもう。人格と人格の相互否定が、世界形成の結合である意識とおもう。言葉をもつ人格として、新しい言葉が新しい世界を生み、新しい世界が新しい言葉を生むのである。私は短歌の表現は此処にあるとおもう。対象は新たなる自己を寓す対象であり、自己は新たなる粧いを対象にもたらす自己を謳わなければならないと思う。
斯かるものとして、人格と人格の否定的結合としての社会生活が表現すべき課題の核心となるとおもう。否定的結合とは、対立するものは何処迄も対立するものであり、対立そのものが結合であり形成であるということである。対立は苦痛である。而しそれは反面に結合をもつものとして、喜びの翳を宿す苦痛である。其処より私達は全人生に対する声をもつ、その声が詩であると思う。夕日に挙げる讃嘆の声も勿論美しい。而し手にペンを持たしめて、表現せんとする意欲をもたしめるものは、矛盾に見出た大なる生命である。
最後に花の美しさについて少し書いて見たいと思う。私は花が美しいと言い得るには、花が私達を限定してくる意味がなければならないと思う。画家は私達の見えない色を見ていると言われる。描くことによって種々な色が見えてくると言われる。赤の中に赤を見、青の中に青を分つのである。私は色が美しいというのはその微妙の感情であるとおもう。夕日の美しさもその瞬々の移りゆく茜の微妙にあると思う。そこに我々の視覚は無限の色を見るのである。私は花の美しさもこの様な視覚の発展がなければならないとおもう。花の美しさは百花撩乱にある。そこに木蓮の白、つつじの緋、藤の紫を分つのである。そして花の一つ一つの細胞が宿す色の微妙に打たれるのである。天空に映える木蓮の白さに心打たれる時、私は私の目の背後に無限の色の体系があり、視覚の自己創造があると思う。純白に讃嘆の声を挙げる背後に我々は灰白の影像をもつのであるとおもう。私は物を見て美しいと思う時、我々も亦画家の目をもって見ているのであると思う。
短歌は勿論花の美しさをうたう。而しより多く花にうたうのは、開いて散りゆく命の姿 である。どうすることも出来ない生命の、生死への共感である。花のいのちを我に宿し、我のいのちを花に宿すのである。私はこの視覚と生命の流れの、二つの異なった動きは乖離するものではないと思う。一つは空間的方向として、一つは時間的方向として補完し合うものと思う。花の美しきが故に散りゆくものは一層あわれであり、散りゆくもののあわれの故に、花の色は愈々冴え勝ってくるのであると思う。最近の技術の向上は、花よりも美しい造花を出現せしめている。而しての感情の増幅作用をもたないものは低評価されているようである。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」
時間としての歴史の本質
歴史は時間の学と言われる。時間の本質は歴史の本質と言い得ると思う。以下時 間の形相を考えそれと歴史の関聯を考えたいと思う。
通常時間は無限の過去より、無限の未来へ流れると考えられている。而し少し立ち 入って考えて見れば斯る考えの如何に素朴なるものであるかを知るであろう。過去は 流れるとき、過去は過ぎ去ったものとして無いものである。未来はまだ来らざるもの として無いものである。現在は今と言った時すでに過ぎ去ったもので掴むべからざる ものである。斯るところに時間は見ることが出来ない。時間があり得るには過去、現 在、未来を包んだものがなければならない。時間は何ものかの時間であることによっ て時間である。過去、現在、未来を自己限定として、内にもつものによって時間は成 り立つのである。日本歴史というとき、日本は時間を超えて自己の中に過去、現在、未来を内にもつものでなければならない。小野市史というとき、小野市の自己限定とし過去、現在、未来を内包するのでなければならない。
過去、現在、未来を内にもつとは個性的ということである。故に動物が親より生まれて、子を作って死ぬということは眞に時間をもったということは出来ない。過去、現在、未来をもつということは、過去を否定して新たな現在をもつということでなければならない。新しいものを作ることによって、有るものを過去とすることである。生まれて、子を生んで死んでいくというのは、既に自然のプログラムに組込まれているということである。過去を否定して新しい現在をもつとは、新しい物を作ることである。それは技術的である。環境を作り、環境に作られたものとして、今此処に物を作る処に個性はあるのである。
エジプトが暦を作ったことによって、人間は時間を捉えたと言われる。それによって我我は時間をもったのである。それ以前に時間をもっていなかったのか。私は此処で有名な言葉を引例したいと思う。光りの中に七色はあったのか、あった。而しそれは分光器に解像されることによってあったのである。時間をもっていた。暦に表されることによって持っていたのである。そして暦に表されたものは時間の内容である。時間は暦に表された如き内容をもつことによって時間である。私は此処で暦について少し考察を加えてみたいと思う。
私は経験の蓄積ということが暦が生まれるために必要であったと思う。経験とは生 命が内外相互転換的として生命圏を作っていくことである。生命は食物を外より攝っ て肉と化し、排泄して外と化す、此処に生命の原型がある。人間は自覚的、人格的と して無限に複雑である。而し何処迄も内外相互転換的に生命を形成していくのである。内外相互転換は刹那に現れ、刹那に消えていくものである。而し刹那に現れ、刹那に消えゆく処に暦はない。刹那、刹那を止めるものがなければならない。それが経験の蓄積である。刹那を永遠に映すのである。人間はそれを言葉にもち、文字に表すと思う。
私は人間を自覚的生命と考える者である。自覚的生命とは内を外に表して、自己を見るものである。私は人間が暦をもつためには、身体がすでに時間的構造をもっていなければならなかったと思う。天工は人間を時間的形態に創り上げたのであると思う。構造の外化、自覚が暦であり、時計であると思う。内外相互転換としての身体は、暦や時計に表れた如き構造で時間をもっていたのであると思う。即ち瞬間としての行動と、行動を統一する身体である。
人間は身体を外化することによって、生命圏を拡大するものとして、自覚的、技術的である。物を製作する生命である。製作とは刹那の内外相互転換を蓄積し、保持す ることによって、欲する時に同じ事象を出現せしめることである。暦とは身体の時間、 自然のプログラムに対して、自覚的、技術的なる時間、製作のプログラムである。エジプトの暦とは上述の自覚的生命の上に立った。エジプトの気象、ナイルの怒りと、恵み、植物、種族的特製の総計である。
内外相互転換は常に刹那的である。自覚的生命の内外相互転換として、製作は常に今製作するのである。而し製作は単に刹那によってあるのではない。今見て来た如く刹那的なるものが永遠なるものを宿す、永遠なるものが刹那的なるものをもつところに製作があるのである。暦とは過去を負うものである。そして現在に働くものである。 そして来年も規定せんとするものである。時が消え、時が働き、時が生まれつつ全てのものがそこにある。そこに製作の今はあるのである。私は以降刹那としての現在 と斯る自覚的現在を分つために、便宜上後者を絶対現在と名付けたいと思う。
歴史は常に斯る絶対現在が自己自身を見ていくところに成立するのである。農作業 が高度化すれば暦はいくつもの付け加えを必要としたであろう。その為に更に過去を 尋ねなければならなかったであろう。斯る意味に於いて我々は過去も亦作っていくの である。過去は過ぎ去ったものとして無いものでありつつ、絶対現在の自己限定とし 現在より作られるのである。私達は戦前と戦後の史的叙述の変化に瞠目する。勿論 そこには資料の充実といった事のあることを見逃すことは出来ない。而し資料の整備 は歴史的意味を変えることは出来ない。大なる変化の要素は絶対現在としてのイデオロギーの変化である。同じ資料を駆使しても、米国とソ連の歴史叙述はその構成を大いに異にしている。米国は米國の絶対現在より、ソ連はソ連の絶対現在より過去を作るのである。生命が内外相互転換的であるとは、生命は常に危機としてあるということである。危機としてあるということは、突破すべき課題をもつということである。斯る課題に於いて我々は過去をもつのである。突破すべき生命が世界を構成する過去 の方向に見たものが歴史である。歴史は常に書き換えられることによって歴史である。大東亜戦争は最近の事である。而して戦争の意味するものについて、戦中に書かれたものと、戦後に書かれたものを見れば変化は一目瞭然であろう。そこに歴史があるのである。
勿論絶対現在が過去を作ると言っても、任意に過去が作れるのではない。任意に作 られるものは歴史ではない。過去、未来を内包するとは、永遠なるものが働くことで ある。永遠の形相をもつということである。物を作るということは、流れるものは此処に止まり、生命は完結をもつということである。物は一つの完結をもつたものである。それは生命の一々の時の完結を映すのである。一々が時の完結として、過去の一々絶対現在としての完結をもつのである。そこに歴史的事実が成立するのである。瞬間が永遠なるものが歴史的事実である。製作として物と人とが交叉するところに事実があるのである。歴史は事実より事実へとして、その一々が完結をもつのである。貞観佛、平安佛、鎌倉佛と言われる彫刻は各々他に代える事の出来ない個性として完結をもっており、室町時代の墨絵、大和絵はそれぞれ完結をもっており、刀剣は正宗に完成され、俳句は芭蕉に完成されたと思う。芸術品のみに非ず、日常使う碗類なども、縄文弥生の昔にさかのぼって、一々が完結していたと思う。一々が完結しているということは一々が変遷したということである。一々は個性的として動かすべからざるものである。
過去は一々が完結する事実として、我々に対立し、今の我々の事実を否定してくる ものである。芭蕉は現在詩人の前に立ちはだかり、ミケランジェロは現在芸術家を叱 咤するものとして過去はあるのである。而して過去は斯るものとして現在より作られ るのである。もし過去が単に現在への過程であるならば我々は歴史を尋ねる必要をもたないであろう。対立するものに於いて対話し得るのである。否定し来るものに於い て肯定に転ずることが出来るのである。過去、現在、未来を内包するとは力をもつと いうことである。物とは力をもつことよって物である。力とは時間に於いて自己自身を維持することである。今物を作るとは既にある物を否定することである。そこに闘いがある。価値に於いて争うのである。我々はミケランジェロを超えと欲する。そのときミケランジェロは深淵の力をもつ、我々はその深淵を覗いて自己の深淵を知る。そこに対話があるのである。否定を介して対話はあるのである。絶対現在に於いて、否定されるものとして、逆に否定として迫ってくる、此処に対話があり、完結せる個性として過去は生きつづけるのである。私は歴史は絶対現在の自問的自己限定として、深く対話としてあるものであると思う。米国は米国の課題に於いて、ソ連はソ連の課題に於いて自己の過去を問う、そこに米国の史的叙述ソ連の史的叙述はあったと思う。私は歴史的にあるものは個性的であるといった。個性的にあるとは過去、現在、未来を内包し、それ自身に於いて完結するものであると言った。それ自身にあるとは連続を拒否するものでなければならない。而し時間は純なる流れであり、歴史は大なる生命の流れでなければならない。初めに書いた如く、日本史というとき、日本は過去、現在、未来を内にもつのでなければならない。日本的一者として、時に自己を限定するものでなければならない。而してその内容は一々が完結するものとして連続を拒否するものである。そのことは歴史とは完結するものは流れるものであり、流れるものは完結するものであるということである。斯るものは如何にして考えられるであろうか。
私は斯るものを表現せられたものに対する表現するものの方向に求めたいと思う。 歴史は表現されたものを見ていく、而し表現されたものは歴史ではない。表現された ものを見ることは、表現するものが自己自身を見ることであるところに歴史はあるの である。歴史は主体の学であると言われる所以である。
表現するものは身体としての生命である。身体は製作するものであると同時に生ま れ来ったものである。生まれ、大きくなり、子を生むものである。それは根源的生態である。我々が物を作るとは製作的身体として生まれたのである。何処迄も生まれた ものとして生命である。生命の自己限定として物を作るのである。私は物の個性と独 立は製作としての表現的方向に於いて、流れとしての連続は生まれるものとしての自 然的方向に於いて見られるのであると思う。生まれるものは同じ形相の反覆である。 作られるものは内外相互転換的として常に新たである。而して反覆として生まれ来っ た者は作るものとして常に新たなものである。作られたものは生まれ来ったものの表 現として反覆である。人生は日に新たにして、日々に新たでありつつ、日々は繰り返 しである。此処に完結せるものは流れるものであり、流れるものは完結する所以があ ると思う。次元を異にしつつ一つである。無限に動的である。
歴史が身体的であるとは経験の蓄積は身体がもつということである。一瞬一瞬を身 体の持続に於いて蓄するのである。身体は種的、個的である。個的方向に内外相互転換があり、種的方面に蓄積があるのである。斯るものが一つなるところに製作があるのである。歴史は身体によってあるものとして飛躍的である。一つの身体が内包し、死して亦一つの身体が内包するのである。それを蓄積としての言葉によって繋ぐのである。非連続の連続である。時間とは流れるのではなくして非連続の連続として我々は時をもつのである。
身体が種的、個的であり、刹那としての内外相互転換が永遠なるものの働きとして の、経験の蓄積によって物の製作があるということは、歴史とは個を包括するものよ り初まったということでなければならない。私は種族的、民族的なるものより表現としての製作は初まったと思う。全体が先ず自己を露はとしていくのである。個は物の蓄積、生産手段の発展の中より分化されて来たのであると思う。勿論最初より個がは たらくことなくして製作はあり得ないし、分化もあり得ない。而し最初の自覚に於いては個的契機を内包したという迄で、個の自覚は持ち得なかったと思う。民族の自覚として個はあったと思う。現在の我々の自覚も何処迄も永遠なるものに映すことによってあるのである。歴史の発展は外に物と生産手段の発展であると同時に、内に無限に分化と個の確立である。
歴史に於いてあるものが個として完結するものであるということは、歴史的時とは流れるのではなくして変遷していくのでなければならない。それを流れると見るのは永遠に生滅を映すが故であると思う。歴史は人間生命の総合的時として時代より時代へと変遷していくのである。時代とは如何なるものであろうか。
歴史は身体的として、外に物が蓄積され、生産手段が発展するということは、内に生産と配分の体制をもつということである。それは体制が生産手段をもつと共に、生産手段が体制を規定するものとして相互限定的である。斯る体制が社会組織である。 体制は常に種としての統一的方向と個としての拡散的方向をもつ、何処迄も我々の身体のあり方に於いてあるのである。而してその統一的方向に言葉としての知的なるものが成立し、個的方向に肉体としての労働が成立するのである。社会に於いて大衆とは肉体をもって生産するもののことである。生産手段が高度化し、複雑化して、従来の体制をもって最早対しきれなくなった時が時代の遷移である。生産手段はそれ自身の内面的発展をもつ、新しい言葉は管理する者ではなく生産するものが担うのである。それに伴って富の転移が行われ、大衆の中から新しい言葉をもって、新しい体制を組織する支配者が生まれるのである。時代は生成、爛熟、退廃を繰り返すという、私はそれは以上述べた如きものの人間的投影であると思うものである。
大歴史家ランケは保守と革新の対立により時代は動くと言っている。対立により動くとは両者共に力をもつものが否定し合うことである。過去は単に過ぎ去ったものとして過去ではない、過去はその蓄積に於いて過去である。記憶とは蓄積の投影に外ならない。蓄積は力である。現在を限定せんとする力である。革新は動的なる生命の、 物と人とに内在する矛盾に於いて既存の体制を否定せんとする力である。一方は物の方向に、一方は力の方向に生きる者が否定として激突する処に時代は動くのである。生きる者が否定し合うとは戦うことである。時代は流血によって遷移したのである。単に時代が流血によって遷移したと言うのみではなく、私は歴史は生きる人間の舞台として、血と汗を流した痕跡であると思う。時間の最も具体的なるものとしてその 根底に歴史的時があると言われるとき、時間とは血と汗の上に築かれた金字塔であると思う。
戦は万物の父であると言われる。我々はそこから世界を作ったのである。血風はより大なる中心へと歩を進める代償である。より大なる世界はそこから生まれるのである。より美しいもの、より善いもの、より眞なるものはこのより大なる世界への形象である。我々がもつ幾多の価値は全て過去の幾多の人が血涙をもって購ったものであ る。我々は価値の中に生まれて価値を作っていくのである。斯る意味に於いて歴史は 我々の存在の根源であり、歴史を知ることは自己の根源を知る事である。我々は自覚するものとして、歴史的創造的に永遠より生まれ、永遠の中に死にいくのである。物を作るとは永遠なるものとして働くことである。
物の製作に於いて過去、現在、未来はあり、この我が物を製作するものであるとき、 この我は絶対現在としてあるのでなければならない。無限の過去を孕み、未来を哺む ものとしてあるのでなければならない。一人一人が絶対現在として働くところに世界 の絶対現在はあるのでなければならない。この一人一人が生死すところに世界は絶対現在より、絶対現在へと働いていくのである。我々は世界の絶対現在を映して絶対現在をもつものとして、永遠に映して自己を知るのである。而して永遠は無限に歴史的動的である。矛盾として、苦悩として我々は永遠に目見えるのである。永遠として歴 史の自己顯現である。眞の時間は神の内の内容である。神は血の犠を求める事によって我々の前に現れるのである。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」
歴史と身体について
人間のみが歴史をもつ、他のものは歴史をもたないと言えば、或は鳥には鳥の歴史 があり、馬は馬の歴史をもつ、唯我々の窺い知ることが出来ないのみであると言う人 があるかも知れない。而し歴史は人間のみがもつのである。これを明らかにする為に 先ず歴史とは何かを問わなければならない。
私は歴史とは生命が自覚的であることであると思う。自覚的とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。自己が自己を見、自己が自己を知るとは、自己の形相を外に打樹てることである。外に打樹てることによって自己が自己を見、自己が自己を知ることが出来るのである。外に打樹てるとは物を作ることである。製作的生命となることである。内外相互転換的としての生命は常に欲求的である。物を作るとは欲求的生命が自己を外とすることである。外を内、内を外とする生命が、内を外として自己を見るのが物を作るということである。物に映すことによって我々は自己を見、自己を知るのである。
歴史とは斯る人類の生産と配分、生産物の所有と争奪の交叉である。生命は常に矛 盾的として生命である。生きているものは常に死を学んでいる。自己の内に自己を否 定するものをもつのが生命である。内を外とすることは外を自己の否定的要素とする ことである。外を内とすることはこの否定的要素を更に否定して自己とすることである。生産物の増加による人口の増加は自然の暴威を倍加せしめ、常に人間を危機の下に置かしめる。危機の克服へのより大なる力の結集の必要が主権者と服従者をうむ。内外相互転換はその無限なる幅輳の間に自然への対立と、人間と人間の対立をうんでいくのである。危機は生活圏と生活圏の闘争を生む。而して戦いは万物の父である。戦いの中からより大なるもの、美しいものが生まれて来る。それは戦いが生命の自覚の上にあるが故である。犬の喧嘩は歴史ではない。始と終を結び、より大なる世界への歩みをもつものとしてのみ戦いが歴史なのである。人類の闘争は常に何等かの意味に於いてるものをもつが故に歴史なのである。歴史的時は過去より未来へ流れるのではない。自己の奥底に深化していくのである。
人間のみが歴史的であるということは、人間のみが自覚的であるということである。 而して我々は自己の身体を介して物を製作する、身体を介して物を製作するというこ とは、身体は自己自身を見る身体であるということでなければならない。自覚的身体 とは如何なるものであるか、以下斯るものを考えることによって歴史の内的なるもの 幾らかでも明らかにしたいと思う。
私をして斯る考えを觸発せしめたものは祖父江孝男氏の「文化人類学入門」という本であった。以下少々長くなるが必要な処を引用させて戴いてその上に私の考えを展 開していきたいと思う。氏は第二章、人間は文化をもつに於いて斯く書かれている。
人間を他の動物に比べてみたとき、其の特色は何んな点にあるのだろうか?ふつう、 まずあげられるのは二本アシによる直立歩行が可能になったということだ。この為に 人間は両手を自由に使えるようになり、その結果、種々の道具を作ったり使ったりす ることが出来るようになったのだ。ところがこの点については、いろいろな学者から批判が出た。類人猿の場合、とくに古くから研究の行われて来たチンパンジーの場合、 天井からつり下っている手の届かないところにある餌をみつけると、いくつかの箱を つみ重ねて台とし、その上にのぼってなんなく手に入れる。あるいはまた床にころがっ ている、いくつかの短い竿をつなぎあわせて長い棒を作り、これではたき落す、これ などひじょうに原始的な段階であるとはいえ、道具の製作、道具の使用に外ならない わけで、こうした能力は人間だけのものではない事がわかるのだ。中略
そこで両者をはっきり分ける、もっと根本的で、まさに質的な相違点を探して見れば、それは人間の大脳における言語中枢(あるいは言語領域)の発生なのである。中 略、類人猿の中のチンパンジーに於いてはその萌芽的なものがみとめられるようだが、而しまだ言語中枢とまではいかず、これは矢張り人間特有のものだということになる。中略
それでは人間の言語の発生の結果として、人間の社会にはどんな変化がもたらされ ることになったのか?、人間に於ける言語の発生ということをなぜそれ程重視せなけ ればならないのだろうか?
この点をよく示してくれるのが、アメリカの心理学者クロウフォードが行ったチンパンジーについての実験だ。チンパンジーを二匹オリの中に入れ、その外に餌をのせた台をおいてロープを結びつけ、その端をチンパンジーの手の届くところにおいてやる。而しこの台は一匹では引けない位の重さにして、二匹が協力して引っぱらなければ食物が手に入らないよう台の重さを調節したのである。
ところがこの二匹は協力して引っぱることにはなかなか気がつかない。各自が自分だけで餌をとろうとして、めいめい勝手に引っぱって見るばかりだ。そのうちに二匹の引く瞬間が偶然に一致することがあり、このときは餌が手もとに引き寄せられる。こうしたことをくり返すうちに、はじめてチンパンジーも互に協力することをおぼえるにいたるのだ。この訓練がさらに進んで来ると、台の上に餌がおかれるや、一方のチンパンジーは鳴き声やジェスチュアを使ってもう一匹に合図するのであって、二匹のあいだのコミュニケーションは完全に成立することになる。
ところが次にこの二匹のうち一匹を外に出し、他の全く新しい別のチンパンジーと入れ換えてしまうとどうなるだろう?、餌が台の上に置かれると、前からいたほうのチンパンジーはいろいろと合図や身ぶりを使って、なんとか相手の注意をひき、自分といっしょにロープを引かせようとするのだが、新入りの方は少しもその意味を解さないので、協力はいっこうに行われず、食物も手に入らない。新入りの方は相棒の合図にはおかまいなしに、なんとか自分だけで餌を手に入れようとして単独でロープを引くことを何十回となくくり返す。こうしてたまたま二匹の引く瞬間が再び偶然にも一致したときに食物が手に入ることになり、ここではじめて協力ということに気がつき、食物の獲得が可能となるのである。
しかしこの実験に於いてチンパンジーのかわりに主役が二人の人間であればどういう ことになるだろう?人間の場合に於いてはなにしろ言語がある。その為に前からいる 者は新入りに事情を口で説明することができるので、二人はただちに協力してロープ を引くことが出来る。かくて食物のほうも、次の瞬間からなんなく手に入れることができるにいたるのだ。
つまりこの簡単な実験からわかるのは、人間の場合には言語があるため、新しい工 夫、新しい発明や発見を他の仲間やあとに続くものに何なく伝えることが出来るとい うこと、したがってあとに続くものは、もう一度はじめからやり直す必要は全くない。そのすぐ次の段階から出発すればよいわけだ。言いかえれば人間の場合には世代を重ねれば重ねるほど知識はどんどん蓄積されていく。文字通り加速度的に蓄積されていくのである。歴史をずっとさかのぼって、旧石器時代の人間のもつ知識や技術はきわめて乏しく、動物のそれとあまり大きく変ってもいなかった。而し人間の場合は言葉がある為、現代にいたるまでのあいだに大きく知識を増大した。それに対して動物の方は旧石器時代と比べて見ても、その知識はほとんど変わらない。人間が動物をはるかに追いぬくにいたったのは、ひとつにはこのためである。中略
而し言語の発生の結果、生まれたものとして、ある意味ではもっと重要なのが、記憶とそしてさまざまにものを考える思考能力の著しい発達なのだ。ここでもチンパンジーの実験がヒントを与えてくれるのだが、アメリカの動物心理学者として有名なヤーキースらによって研究されたものである。チンパンジーの背丈ほどに作られた機械仕掛の箱に窓が小さくついており、そこに赤か緑の枝が不規則な順序であらわれるようになっているが、赤の板が出たときにそばのレバーを押すと彩色板は消え、一定時間がたってから餌が出てくるが、緑の板が出た時にレバーを押しても彩色板が消えるだけで、いつになっても餌は出てこないのである。
この装置の前にチンパンジーをおいてみると、彩色板が消えてから餌が出て来るまでの時間を四~五秒以内であるように調節しておくと、チンパンジーは何回かの試行錯誤のあとで容易にこの仕組みをおぼえてしまい、楽に餌を手に入れるようになる。ところが餌の出て来る時間をこれより遅くすると、何回くり返しても決しておぼえられないのだ。というのは、彩色板が消えてから四秒以上たってしまうと、其処に出ていたのは何色であったか、チンパンジーは完全に忘れてしまうからなのである。
この場合でももし主人公が人間だったらどうだろう。この際においても人間なら言語があるため、彩色板に出てきた色彩を「アオ」とか「ミドリ」とかのコトバに直し頭の中におぼえておくので、相当の長期にわたって記憶を保持することが出来る。もしかりに時間がひじょうに長くなった場合には、それこそ文字に直してメモにしておくのであろうが、短時間の場合には文学に書かないだけの違いで、当人はまったく意識していなくても、コトバに直して頭のなかにメモに書きつけているのである。
以上の説はすこぶる興味深く、示唆されること多大であった。言語があるため、新しい工夫、新しい発明や発見を他の仲間やあとに続くものに何なく伝えることが出来るということ、したがってあとに続くものは、もう一度はじめからやり直す必要は全くないということは、言葉は自己と他者、前と後を超えたものであり、自己と他者、前と後を内容とするということでなければならない。内容とするということは言葉が働くことによって、自己と他者、前と後があるということでなければならない。我々が言葉をもつということは、我々を超えたものとしての言葉が働くことであり、我々を超えたものによって我々は物を作る者として製作的自己となるのである。勿論言葉が物を作ることは出来ない。生命が言葉をもつことによって物を作るのである。
而して言葉が自己と他者を超えて言葉の内容として、個としての自己と他者を包むということは、言葉をもつこの我は自己の中に自己を超えたものをもつということでなければならない。我々は自己の中に自己を超えた言葉をもつことによって、前の者の発明や発見をはじめからやり直すことなく行為し、其処を出発として其処より新しい発明や発見へと進むことが出来るのである。超えたものによって自己を見るとは超えたものが働くことによって自己があることである、我々が製作的自己となり、製作生命に於いて歴史があるとすれば、我々を超えて働くものは歴史的世界でなければならない。私は人間が言葉をもつことによって歴史をもち、我々は言葉をもつ身体であることによって歴史を担うことが出来るのであると思う。
記憶ということも、「アオ」とか「ミドリ」とかの言葉に直して色彩を長期に保存することが出来るということは、動物的感官を超えることであり、それを内容とすることでなければならない。更に言葉が自己と他者を超えて包むという意味に於いて、単にこの我の体験を記憶するというのではなく、この我を超えた全人類の過去を記憶するのでなければならない。私は過去として記憶するのみでなく、言葉によって過去を掘り起こし、過去を創造すらするのであると思う。
言葉を作った人はないと言われる。而して言葉は常に語る者其の人の言葉であると いわれる。人は自分以外の者の言葉を語ることは出来ない。そのことは、この我とは 自分も知らない深い底をもち、深い底よりの限定としてあることであると思う。言葉を言葉を作った人はないと同時に、言葉は人の作ったものである。それは個々の人間を超えた無限の関り合いの中に作られたものである。我々も亦言葉の中に生まれたのである。言葉の中に生まれ乍ら、私の言葉は私以外の何ものでもないということは、私は私を超えた無限の関り合いの中にあり乍ら逆に無限の関り合いを自己の内にもつということでなければならない。無始無終なる宇宙時間を内にもつということでなければならない。対話は世界を内にもつものが世界の中にいるものとして出合うということである。
言葉が個々の人間を超えるということは、言葉が世界として世界自身を創っていくということである。言葉の蓄積が加速度的に増大していくということは、言葉が言葉自身の内面的発展をもつことである。言葉が言葉自身の展開をもつのである。売言葉に買言葉という俗諺がある。言葉が言葉を呼ぶのである。斯るものとして私達が言葉 をもつということは言葉の内面的発展に運ばれることであり、言葉が内面的発展をも つということは私達が言葉をもつということである。
自覚は生命が内に超越的なるものをもつことである。生命は自己矛盾的である。生きるものは死をもつ、生死するものが永遠なるところに自覚がある。斯る自覚は言葉 によって成り立つのである。言葉によって成り立つ製作的生命は個々を超え、個々を うむものとして永遠である。私達の身体は言われる如く手をもつものとして技術的製 作的である。それは個々の生命の生死を超えて無限の過去より承け継ぎ、未来へと伝えゆくものである。有限なるものが無限なるものであり、生死するものが永遠なるも のとして我々の身体は自己自身を知るのである。有限なるものは無限なるものではない。生死するものは永遠なるものではない。言葉が世界として世界自身の内面的発展をもつということは、個々としてのこの我を否定して来ることである。それが一つであるとは個としての生命は無限なる努力であるということである。無限なる自己否定 として身体より汗と血を流さなければならないということである。
歴史の流れは単に直線的ではない。自然としての過去より未来への流れと、自覚的 意志としての未来より過去への流れの交叉として現在より現在へである。製作に於い 過去は与えられたものである。未来は実現すべきものである。過去も未来も製作行為が担うのである。行為的現在が担うのである。現在は過去よりと未来よりの流れが軋轢するところとして現在である。戦うところとして現在である。軋轢することによって現在より現在へと転じていくのが歴史である。
歴史が直線的な流れではなくして、現在より現在へであるということは、歴史的時間は始めと終りを結ぶものがなければならないということである。全時間が一つの意味をもたなければならないということである。私は言葉が斯る永遠の意味を担うと思う。時間は変ずるが故に時間である。それが一つとは自己撞着も甚しい。而し斯るものなくして我々は歴史をもつということは出来ない。言葉をもつ生命が製作的として無限に蓄積的であるといわれる。蓄積の多様化が生産の変転である。歴史は其の上にあるのである。
個々の人間が世界の部分であるところに歴史はない。この我も汝も言葉をもつもの である。言葉をもつとは個の中に世界をもつことである。個の中に世界をもつとは個 を介して世界が自己自身を実現することである。個々の人間が世界たらんとすることである。天下人たらんとすることである。中国に中原に覇を争うという言葉がある。自己が世界たらんとする人々が相競うのが歴史である。
言葉は内面的発展をもち、我々を超えて自己の世界を展開する。而し言葉をもつものはこの我である。言語中枢は一人一人がもつ、私はこのことは一人一人の人に現れ、一人一人の形相は歴史の形相であると思う。歴史的現在が過去と未来を含むということも、この我、汝としての個々の人々が記憶と理想をもつことであると思う。我々 を一微塵として翻弄しつくす歴史の流れははかるべからざる深淵である。而しかえり みるときこの五尺の身体に潜む限りなさに畏敬の念をもたざるを得ない。品川嘉也教 授は、人間の脳髄は宇宙の自己認識であると言われる。この我が知ることは宇宙が宇宙自身を知ることであると言われるのである。私は歴史の無限の錯綜は斯る統一の上に立つと思わざるを得ない。初めに終わりがあり、終わりに初めがある最も端的なるものはこの身体である。我々の内なる声は歴史の底より聞こえるのである。歴史の声は流れる歴史より聞こえるのではない、永遠の円環より聞こえるのである。永遠に女性的なるものわれを誘うとゲーテの言った誘いを歴史も亦其の奥底にもつのである。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」
霊魂について
何時であったか竹内ひさゑ氏より「霊魂はあると思うか」と聞かれた事がある。私が霊魂とはどんなものかと聞き返すと、それは分からないとの事であった。スナック「カ」のママは「誰がなんと言おうとも私は霊魂の存在を信じる」と言った。よく聞くと霊魂とは死後の存在であり、死後の現世のままの生活であるらしい。
昨日迄多くの人々を叱咤した人が、一本の脳血管が切れたが為に言葉も碌に言えず、食物を口に運んでもらい乍ら、唯寝ているといった姿をよく見かける。唯一本の血管が切れただけだそうである。まして死して全身が腐敗し、唯骨のみ地中に残って現世の感性生活をもつことのあり得ない事は論を俟たないと思う。而し我々が日々の生活に於いて欲望をおさえ、苦痛に耐えて業務に励むのは単にこの生命が死によって終るところよりは考えられないと思う。我々は限りない過去と、限りない未来を知る。生命は深く生死を超えたものであり、生死するこの我が直に生死を超えたものとして、我の存在を無限なるものの働きとする自覚を霊魂とするならば、私は霊魂はありと断ずるものである。
自己があるとは世界の中に生まれたこの我が逆に世界を内にもつことである。世界 とは生産と、生産物を媒介として人間が関り合う相の展開である。世界を内にもつと は我々が技術を習得することである。技術を習得することは物を作ることであり、も のを作ることは世界を作ることである。私達はそれによって他者と関り、世界と関る のである。そして他者と関り、世界と関る事によって我々は自己となるのである。
私達は最初に石を割って道具を作った人の誰なるかを知らない。火を目的的に生活 の手段としたのを何時よりかを知らない。測る事の出来ない時間の上に我々の技術はあるのである。測る事の出来ない時間の上に立つということは、我々は測ることの出来ない時間によってあることであり、測ることの出来ない時間を内にもつことによっ てあるということである。而して私達が物を作るとは単に過去を負うことによってのみあるのではない。かくありたい、赤は斯くあるべきであるという未来の先取りによってあるのである。未来よりの過去の否定が物を作ることであり、技術の進歩ということである。未来よりの過去の否定は、過去よりの未来の否定である。出来上った形は形の流動化を拒否するのである。現在は努力に於いてある。努力によって過去を未来に転ずるのである。転ずるとは無くなることではない。過去を内深く包むことである。このことは逆に過去が未来を孕んでいたということでなければならない。歴史としての動きは、動き自身の内に自己否定をもつのである。それなくして動きはあり得ない。過去は未来を孕むと共に、未来は過去を含むのである。それを転じていくのが我との努力なのである。我々が今働いているということは無限の過去と、無限の未来を内にもつということである。創造に於いて時間は無限の過去より、無限の未来に流れるのではない。努力によって現在を過去と未来に延展さすのである。現在の奥行きとするのである。其処に真の時間がある。現在は過去より未来へと、未来より過去への時間を包むものとして永遠の意味をもつのである。
しかし永遠なるものは働くものではない。働くものは何処迄も矛盾的なものでなければならない。生きるものは死をもつものであり、死をもつものが死を克服せんとするのが働きである。克服すべき外をもつものとして働くということがあるのである。克服するとは外を内とすることである。外を内として新たな生命を見出す時に以前の自己はすでに自己に非ざるものとして外となる。外を内とすることは内を外とすることである。この外を内とし、内を外とするのが技術的ということである。我々が働くとは生死するものが永遠なるところにあるのである。我々が物を作り自己を知るのは、生死するこの我が永遠なる生命であることによってあるのである。
自覚とは外に生命を見出でていくことである。自己を対象化することである。外に見るとは技術的として無限の過去と、無限の未来を内にもつことである。私達は働くものとして無限の過去と、無限の未来を内にもつ、無限の過去と未来を内にもつとは創造的として新たなものを作るということである。全ての人は個性的として独自のものを作る。過去と未来の転換は一人、一人に於いて成就するのである。それは常に独自なるものである。私達は世界を作る。そしてこの世界に於いて自己はあるのである。斯く自己の内に世界を見るものとしてあるということは、この我の死は絶対の死であるということである。眞に個としての生命をもたない犬は死への不安をもたない。其処に種的連続の一環としての犬の生命があると思う。無限の過去と無限の未来を内にもち、内外相互転換的なる自覚的、表現的生命としての人間に於いて死は絶対である。人間の不安は其処より来る。永遠なるが故に我々の死は絶対であり、絶対の死をもつ ものとして我々は永遠である。それは絶対の矛盾である。永遠は滅せざるものであり、 死するものは永遠ならざるものである。人間は斯る二律背反に於いて生きるのである。私は斯る二律背反の永遠の方向に霊魂と言わるべきものがあると思う。生死するものが永遠なるものを内にもつ、其処に自己があるのに対して、永遠なるものが生死するものを内に、其処に霊魂があるのであるとおもう。二律背反として絶対矛盾的にあるということは、働くということである。永遠なるものが働くものでないのと同じく、生死するものも働くものではない。生死するものが永遠なるものであり、永遠なるものが生死するものであるのが働くものである。働くとはこの矛盾の同一である。生死 するものが働くとは永遠なるものが働くのであり、永遠なるものが働くとは生死するものが働くのである。而してこの二者は何処迄も相反するものとして各々自己の方向 をもつのである。永遠の方向に我々は霊魂をみるのである。
私は先に死は人間に於いて絶対の死であると言った。死は働きを失なったものであ る。自己を見出すことの出来ないものである。而し生死するものが働くとは永遠なる ものが働くのであり、永遠なるものが働くとは生死するものが働くのである時、永遠 なるものが働くとは我々を超えて働くのでなければならない。霊魂は働くものであり、 生死を超えて働くものでなければならない。斯るものは如何にしてあり得るのであろ うか。
我々は我々の一々が無限の過去を孕み、無限の未来を望むのである。一人、一人が 全時間をもつのである。一々が個性的として自己の世界を創造しつつ、創造は世界の創造として全世界を内にもつのである。私はこの一々の全世界に於いて、我々は絶対に死にながら他者につながり、無限の未来に響きゆくのであると思う。歴史的社会に於いて、表現的世界に於いてつながるのである。例えば言葉は一人、一人の言う人の言葉である。私の言葉は私以外の如何なるものの言葉でもない。而し言葉を作った人はないと言われる如く、言葉は言葉をもつもの全てのものの内容である。我々は言葉をもつと同時に、言葉の働きによって自己を知るのである。そして知ることによって新たなものを生みゆくのである。一々の対話は世界の展開であり、貴き言葉は貴き世界の創造である。ゲーテは死した、而しゲーテの言葉はその包む世界の深さに於いて、我々の心底を動かして止まないのである。ゲーテを読むとはゲーテ其の人となることではない、私が私ならんとして読むのである。其処に世界があり、絶対の断絶と連続があるのである。一々を介して世界が働くのであり、言葉が働くのである。昔の人は言霊と言った。それは言葉の一面を深く捉えたものであるとおもう。勿論言葉は霊魂ではない。一人一人の働きが言葉の働きであり、一々が言葉によって露はとなる時に言葉は霊魂となるのである。言葉は人を活かしも殺しもすると言われる、この活かし自覚的生命は技術的表現的として無限の過去と未来をもつ、この過去、未来とは直線的な一つの流れを言うのではない。無数の過ぎ去った人々、無数の生れ来るべき人々をいうのである。一人、一人が生まれ、働き、死んで行った人々をいうのである。各々が喜び、悲しみをもつ数限りない人々をいうのである。我々が無限の過去と未来をもつとは、この我は斯る無数の人々の呼び声によってあるということである。永遠とはこの声を満たした世界としての一である。多の一の声である。私は霊魂はありと断ずるのは斯るものが我々の根底にあり、斯るものによって我々があると断ずるが故に外ならない。
霊魂が語られる時に多く呪詛について語られる。呪詛とは何か、死に去った人々の 一々が過去と未来を内にもったものであり、歓びと悲しみをもったものであると言った。そして過去は未来を孕み、未来は過去を含むといった。人は各々夢をもち、夢を 実現せんとする。この夢の実現が人々相対する現実に於いて他者に砕かれた者の声である。活力と活力がぶっかって砕けたものの声である。永遠なるものが生死するものを包むとは斯るものを包むことである。もとより呪詛も霊魂の一面であるというのであって、霊魂は呪詛であるということではない。男子外に七人の敵ありと言われる如く、生死するものは矛盾的にあった。生きているものが死をもつこと自身が矛盾であるのみならず、面々相対するとは争いを内包するが故に相対するのである。而して争いの中から最も美しいものが生まれると言われる如く、争いは争いをなさしめるものがあり、争うことによって争いをなさしめるものが姿をあらわにするのである。
対立は対立を包むものに於いて対立する。包むものが永遠である。眞、善、美は価 値として永遠なるものの姿である。永遠なるものが生死するものを包むものとして霊 魂は無限に価値実現的である。而して生死するものが働くものとして、価値は裏面に 争いをもって実現するのである。善、美は一面に呪詛の暗黒をもつことによって動的となるのである。永遠は生死するものを媒介として自己を実現する。この力が霊魂である。眞、善、美は顕れた霊魂の光であり、呪詛は顕はれざりし暗黒の声である。呪咀も亦生命が世界を形成せんとする自覚に於いてあるのである。顕はれざりし声の 故に顕はれんとする声は強い、其処に呪詛の多く語られる所以があると思う。顕はれ るものは少なく、顕はれざりしものは多い。顕はれし人は少なく、顕れざりし人は多い。其処に多くの人が呪詛への共感をもつ所以があると思う。呪詛の語られる深さが あるとおもう。而して呪詛は多く死者の声として語られる。私は前に死者は感性とし ての生をもたないと言った。感性としての生をもたないことは声をもたないことであ る。死者は声を発し得ないものである。呪詛が自覚的生命の一面としてある時、死者 は絶対の死であるはずである。それならば死者の声とは如何なるものであろうか。
人間は手をもつことによって人間になったといわれる。私達の身体は蛙や犬と形態 を異にする。技術をもつとは身体が技術的なのである。外に見るとは表現的身体なの である。言葉をもつとは脳構造が言語的なのである。技術が無限の過去と未来をもつ というのは、身体が無限の過去と未来をもつのである。斯る身体の無限なるものが自 己を外に見出したものが歴史的世界である。我々が社会として実現するものである。
世界は我々が生まれ、働き、死んでいくところである。而して斯る世界は我々がものをつくることによってつくっていくのである。世界は生産としてのものを介しての人と人との関り合いである。我々がものをつくるとは、逆に世界が我の内容となり、この我に包まれることである。この身体は全時間を内にもつものとして、働く身体であり、世界を作っていくのである、生まれ、働き、死んでいくところは我々を包むものとして絶対の外でなければならない。我々の身体はこの絶対の外を内にもつものとして、身体は身体自身の内に絶対の外をもつのでなければならない。我々は自己の中に生まれ、働き、死んでいくのである。私は死者の声は此処より聞え来るのであると思う。絶対の外に於いて出会うものは他者である。我々は世界に於いて他者として出会うのである。生死を超えた無限の過去と未来は絶対の外として我々に迫って来るのである。それが表現的世界として、この我が表現的生命としてこの我の内となるのである。死者の声は絶対の外として、この我の表現的生命に於いて我々に呼びかけるのであると思う。
よく祖霊の声ということがいわれる。この祖霊の声とは何処から聞こえて来るのであろうか、私は祖霊の声が聞こえて来る為には、例えばこの私がこの我の歴史的形成としての我が家の繁栄を希う心がなければならないと思う。栄えゆく時に喜びの声が聞こえ、衰えゆく時に詛いの声が聞こえるのである。それは祖霊の情念ではなくして我の情念である。而し家というものを介在さす時にそれは祖霊の情念である。家は歴 史的表現的物として我の中に祖霊を生かし、祖霊の中に我を生かすのである。我々が働くとは斯るものとして働くのである。私は若し我々が歴史的表現的形成としての働きを捨てた時は、祖霊の声を聞く事が出来ないと思う。痴呆となり、或は自暴自棄となった者に祖霊の声はあり得ないと思う。
それはひとりこの我、我が家というのみではなく、大和魂といわれるものもあるのであると思う。この国士実現的として、日本の国の興隆を希い働く人々がこの国に死んだ無数の人々、生まれ来る無数の人々と呼び交わすのが大和魂であると思う。ともあれ永遠なるが故に絶対に死する者、絶対に死するが故に永遠なるものとして我々は霊的生命であると思う。消えつつ歴史的表現的世界としての永遠の底に響きゆくの である。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」
自他平等
この間近くの家のお通夜に行った。私の地方では習慣として、西国三十三ヶ所の詠歌を上げる。そして其の後でお経らしきものを唱える。それは忍耐を必要とする退屈極まりないものである。私はそのお経らしきものの中に、「自他平等」とあるのを耳に挟んだ。平等というのは、今年の巨勢五号に「人権について」を寄稿し、自由と平等についてを論じたばかりである。私は平等についてを考えていった。
このお経らしきものが出来たのは何年程前のことであろうか。兎に角斯く言われたということは、当時は自他平等の時代ではなかったということであるとおもう。自他平等でなければならないということであるとおもう。自他平等とは、自己と他者は同一の世界にあるものとして、等しく権利をもち、義務を背負うということであろう。当時は斯る等しくということがなかったのであるとおもう。
最近読んだ本に、猿はボスが代ると、先代のボスによって生れた幼児を全部殺してしまうと書かれていた。生命は種族保存、個体保存の意志をもつのではなく、自己の遺伝子を維持しようとすると書かれていた。私は読み乍ら源平の争いに思いを馳せていた。源氏は常盤御前の美貌によって助かったが、源氏の平氏への追討は徹底したものであったらしい。今でも平氏のかくれ里と言えば人跡絶えたる所を想像する。日本では血族ということを非常に重要視した。血族を重要視するとは、自己の血族を隆盛ならしめて、他の血族を制圧することである。 「藤原氏にあらずんば人にあらず」とか、「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉がある。それは自己の一族の繁昌に努めて、他をかえり見ないことである。私はそこには、生物の遺伝子維持の本能が強くはたらいているようにおもう。生命は自己が大ならんと欲するのであり、決して自他平等をその本来とするものではないようにおもう。果してそうであるならば何故に自他平等でなければならないという要請が生れたのであろうか。
私はそれを人間の自覚に求めたいと思う。自覚とは自己が自己を知ることである。自己が自己を知るとは言葉による。言葉は我と汝の重々無尽の人と人との関りの中より生れて 来たものである。言葉を作った人はないと言われる。言葉は呼び応ふるものであり、面々相対するところにあるものである。自己を知るとは、我と汝の出会うところとしての、世界形成の社会に於て知るのである。人間が自覚的生命であるとは、本能としての生物的生命に生きることではなくして、自己が形造って来た生命としての社会に生きるということである。我々は生れたというのみによって我があるのではない。社会の中にあって習い学ぶことによって我となるのである。
我々は身体をもつことによって我である。身体は生れ来ったものとして何処迄も生物的である。而して身体は言葉をもつものとして、自覚的身体である。面々相対し、我と汝の関りに於て自己があるとは、世界が一なるものとして我があるということである。そこに平等の要請がある。身体が生物的、自覚的であるとは生物的なるものの上に自覚的なるものを打樹ててゆくことである。それは利己的なるものの上に自他同一を打樹ててゆくことである。自他平等は自覚的生命の要請として、努力によって打樹てるべきものである。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」
文化について
「砂漠の文化」という本を読み乍ら私は、オアシスとは砂漠に与えられた天恵の濕地帯ではなくして、人が砂との戦いに築き上げた歴史的産物である事を知った。用水溝を掘り、貯水池を作り、降雨の殆んど無い地域に於いての撓まざる利水への努力が 人間の生活を可能ならしめるのである。天山山脈の氷雪の融け水が河となって流れ、果てしない砂の乾きの中に消えてしまう迄の間の、利水の努力がシルクロードのオアシスとして点在したのであると言われる。
人は手を持つ事によって人間となったと言われる。手とは物を作っていくものである。物を作るとは、欲求としての生命が外に自己を露はとする事によって自己を充足していく事である。物とは生命の外在の形相であり、物質の概念も近代的自覚の所産であるという事が出来る。
物を作るという事は技術的となるという事である。我々が人類の特長とする、知るということも其処から生まれてくるのである。例えば水利の為の溝を作るとする、それがより大なる水の力の為に決壊する。すると前の技術を参考として新たな技術を案出する。技術は新しい状況の前に新しい技術が生まれて来る。技術は次の技術を呼ぶの である。それが技術の内面的発展であり、知るという事は斯る内面的発展を宿すとい うことである。前の技術と、現在の技術と、未来へ展開すべき可能としての技術を内 に持つということである。
此処に文明の発端がある。文明とは環境として我々に与えられたものを、我々の欲求の秩序に再編する事である。欲求の外化としての商品の氾濫は文明の爛熟である。物として外化する事によって我々に新たなる欲求が生まれ、新たな欲求によって新たな物が生まれる。文明は斯る無限の進行である。
而して外化はまた内化である。外に物を見るという事は内に自己を見るという事である。言葉を作ったものがないと言われる如く、技術は内外交換としての生命が人間に於いて自覚的であるところより生まれたものと思う。時間は操作の形式であると言われる如く、それは世界形成的として時間をも内に包むものであるという事が出来る。 時間を内に包むものとしてそれは伝統的である。技術的なるものは伝統的なるもので あり、伝統的なるものは技術的なるものである。それは世界形成的として歴史的なる ものである。私達は斯る世界に生まれ、技術を習得して自己となるのである。生産亦 は其の結果としての物に関る事によって世界に関り、世界に関る事によってこの我が あるのである。
伝統はこの我を超えたものであることによって伝統である。技術は其の淵源するところを知らない。強いて求むれば人間生命が自覚的であるという以外にないように思 う。我々を超えた過去からあり、我々がそれによってあり、我々を超えた未来を生み ゆくこの歴史的世界、我々がつくりつつ我々を超えてその内面的必然を持つものでな ければならないと思う。それ自身の内面的必然をもつという事は歴史的世界は我々によってつくられつつ、逆に我々を歴史的世界の自己顕現の内容とする事である。時代の流れに勝てないとよく言われる。世界は世界自身の自己限定をもつのである。我々は世界の自己顕現の内容として、我々が自己を有限として過去、現在、未来を見るのは世界本来の内容となるものでなければならないと思う、世界は過去、現在、未来を内に包むのとして自己を限定していくのである。世界の中に時は生まれ、時は消えつつ世界として一つなのである。伝統は斯るものの上に初めて成立するという事が出来る。
永遠とは過去、現在、未来を内に包み、其の中より時が生まれ、時が消えいくところである。静止しつつ無限に動きゆく永遠の形相は世界の自己限であるという事が出 来る。我々が伝統的技術的であるという事である。私は前に技術とは欲求としての生 命が外に自己をあらわにし、物を作っていく事であるといった。技術は斯る欲求的な るものに永遠なるものが働くということである。欲求的なるものが永遠の内容となり、 逆に永遠なるものを内にもつということである。時間は過去より未来への流れに対して、未来より過去への逆限定に於いて成立すると言われる。このことは永遠が働くも のであり、永遠が働くということである。
生命は形相具現的である。私は前に欲求的生命の形相的具現としての物の生産が文明であると言った。そして斯る生産の根底には技術としての世界の自己創造があると言った。生命は形相具現的であるという時、生命はこの欲求的生命よりの方向と世界よりの方向の具現をもつ事によって自己の具体的な形相を顕現していくのである。私は欲求的生命よりの方向が文明であるに対して、世界よりの方向に文化が見られると思う。文化は文明の上に咲いた仇花ではなくして同時発生的である。生命の自覚の両面である。
生命の自覚の欲求よりの方向と世界よりの方向というのは相反するものである。欲求は充足と共に消滅し、次の欲求が生まれてくるものである。物はその欲求を充たすと不用となり、次の欲求を充たすべき物が作られるのである。それに対して世界は時を包むものである。文化は時を超え、時を包む永遠の形相を志向するのである。物は技術的生産物として瞬間性と永遠性を有する。それが欲求的方向を志向する時実用 品として日々の生活を充たすものとなるのであり、世界顕現的なる時、永遠の形象と して精神を充たすものとなるのである。
相反するものは単に対立するのではない。対立するものは否定し合うものである。 文化は文明の否定の上に成立するといわれる。物としての形相の日常性を否定して、永遠性の純なる造型を求めるのである。物は欲求充足の実現として形をもつ、その形をして形相実現の根底へと還らしめるのである。根底に還るとは日常性の否定でなければならない。哲学も詩も言葉に於いて日常性を超えるのである。色彩に於いても何かの目印は生活の必要である。而し絵画は日常生活の必要を超えたものである。
日常性の否定と言えば、何か日常的なものが先ずあってそれを否定するものが現れ たと考えられるかも知れない。そうではないのである。其処からは否定の発生という ものを考える事は出来ない。物の出現という事がこの両面をもつことによってあるの である。自覚としての技術的製作は相反するものを内包することによってあるのである。物は矛盾的なる事によって形相をもつのである。その一つの方向を志向するのである。一つの方向の志向は他の方向を否定するのでなければならない。物は有限なるもの、相対的なるものとして物である。而しその具現は永遠なるもの形を超えたものが働くのである。そして形は生命の自覚的実現としてこの両面を持つのである。故に日用品も永遠の一面をもち、芸術品も商品の一面をもつ、唯その志向に於いて否定し合うのである。闘うのである。我々は日常として生活する。文明的展開に於いて生活する。文化は斯るものの否定として価値の転倒である。
文化の創造を担うものはその無関心性がよく言われる。無関心とは何事にも関心を 持たないと言う事ではなくして、通常、日常生活に於いて持つ関心を持たないという 意味である。
美衣、美食、名誉、権威等に無関心であるということである。永遠を見つめるものにとって平氏の栄華も槿花一朝の夢に外ならない。百万石も笹の露である。結ぶ草庵こそが安住の家である。価値は有るものにあるのではなくして、有るものの内深く見えて来るものである。日常生活者にとってそれは一つの狂者に外ならない。世界は日常的、有限的自己の達すべからざる深さである。世界が世界自身を限定するところに世界があるのである。この達すべからざる深さが現れる処に文化があるのである。故に文化の世界は啓示的であり、霊感的である。作ろうと思って作るのではない、現われるのである。創作は常に永遠の女神に呼ばれ招かれるのである。招かれて我々は知らざるところにいくのである。其処に世界は自己自身をあらわす、それが文化の内容である。斯る声を聞き、斯る御手を見た者が天才である。天才は努力すると言われる。而しそれは努力ではなくして斯る声、斯る御手の中にある自己が眞の自己として行かざるを得ないのである。ミケルアンジェロには鑿の先に目があると言ったという、一打が次の一打を呼ぶのである。形が次の形を見ていくのである。世界が永遠の形相を開顕していくのである。其処に何等この私を挟むものがない。絢爛たる文化の形象は斯る天才によって見出されたものである。
文化は個的、世界的としてのこの我の世界的方向に見られる。而してこの我の世界的方向に見られるということが世界が世界自身を創るということである。我々の脳髄 の働きは宇宙の自己認識であると言われる如く、我があるということは全存在に於い てあるのである。個的、世界的ということは全人類的ということである。唯一生命に 於いてあるということである。ロダンが道を行く少女を指さし乍ら「あそこに全フラ ンスがある」と言った如く、全てあるものは全存在に於いてある。
眞理を証するものは世界である。それは眞理が世界の展開なるが故に外ならない。 内なる良心の声は世界より聞こえて来る。エチオピアの飢餓より、東南アジアの虐殺より我々を呼ぶのである。美も亦我々の視覚の楽しみでなくして深く世界を表すと ころにある。我々は其処に文化を見るのである。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」
見るということ
病院に行くと友人が、「孫が出来たから見てくれ。と言う。しばらく廊下を歩くとカーテンを開けた窓があり、窓の向うに箱が並んでいる。その箱の一つ一つに赤い肉の塊を包んだようなものが入っている。その一つを指して友人が、「あれだ目を開けている。と言った。成程小さい目が開いているがその目は動こうともしない。聞くとまだ目が見えないのだそうである。
私は聞き乍ら不思議に思った。目を開いている以上、網膜にはちゃんと外の現象が映っている筈である。人間は生れてから死ぬ迄脳細胞の数は変らないという。そうすると脳の視覚領は活動している筈である。私はこの赤ん坊は見ているんだと思った。何日かすると見えてくるというのは、まだ眼筋を動かす程の結像を持っていないのであり、その結像を準備する為に視覚は猛烈な活動をしているのだと思った。
そうとすると、見るということは単に外を映すのではなくして、内が外をもち、外を内 の秩序によって構成するということがなければならない。結像とはそのようなものでありその構成されたものが見るのでなければならないと思う。
生命は創造的である。創造とは作られたものが作るものであり、見られたものが見るものであることである。そこに無限の展開をもつことである。私達は見たものを集積し、その集積に於て見るのである。
鯛は深海に於て人間の五千倍の明らかさで物が見えるそうである。併しその見えるのは餌と、襲ってくるものだけだそうである。禿鷹は三千米の高さから、地上がありありと見えるそうである。併し見るのは野鼠だけだそうである。結像は対象に随うのではなくして生存に随うのである。
目は身体の堀割であると言われる。生命は内外相互転換的である。動物は外を食物とし、食物を摂ることによって生きてゆくのである。食物を獲る為に生命の切り拓いた世界が視覚の内容である。視覚は視覚として独立するものではない。行動する全生命が自己を実現するものとしてあるのである。
私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。人間は動物が外に捜す食物を、作る物とすることによって、自己を見ることが出来たのである。物を作ることによって外を世界とし、世界を内にもつものとして人格となったのである。私は人間が見るとは、人格的製作的生命として見るのであると思う。
製作とは変革することである。与えられたものとして自然を、人間生命の秩序に再生することである。生産とは人間の秩序に構成することである。発明の目となるのである。それは目自身をも変革するのである。外へ望遠鏡、顕微鏡、レントゲン写真、赤外線写真へ視界を拡大し、内に優しさ、威厳、卑屈、軽薄等、人格の深さを見る目となるのである。
私は芸術に於て言われる純粋視覚も、斯る製作的生命から見られるのであるとおもう。作られたものが作るものえとして、世界は無限の推移である。製作的生命の目とは斯る推移を見る目でなければならない。一々の瞬間に歴史的現在を捉える目が、世界が自己を見るということである。そこに純粋視覚があり、芸術的表現があるとおもう。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」
九月号一首抄
一首抄をとの電話があって、改めて句々に目を通した。目に止まった作品は石井文子さん二首目、小寺き志江さん七首目、小紫博子さん二首目、田尻みや子さん三首目、前田清子さん一首目、藤木千恵子さん五首目等であった。他に意欲作として中北明子さん二首目、藤井みどりさん六首目は論評したい衝動に駆られる作品であった。 それぞれの持味があるがこの内石井文子さんを取り上げたいとおもう。
花火殻踏み消すさへも踊るがにをさなの遊ぶ戦争(いくさ)よあるな
この間半どんという兵庫県の文芸誌を読んでいると、上野晴夫氏が、作者が意図したものより深い内容を、読まれた方が見出して下さるのは大変嬉しいといったような事を書いておられた。私は文字という普遍的なものによる表現は、作者の見たもの感じたものの底に無限の延展をもつと思う。例えば鎌倉仏の中に鎌倉時代の心を見るが如きである。私はよい作品とは大なる延展を潜めた作品であると思う。よく歌会などで作者に聞いてみようなどと言われるのは全く無意味であると思う。
この作品は戦争ごっこをして楽しんでいるをさなの心の昂揚の中に、作者は人間の危さを感じているのである。生命が多くの個物としてあるということは、争うものとしてあるということである。ヘラクレイトスが戦いは万物の父であり、美しいものは全て争いより生れたという如く、全てあるものは競争の中より生れたのであり、闘いは生物の本性である。全て英雄譚は戦争の強者である。テレビでも視聴率の高いのは闘争ものである。平和を愛するイギリス人も、アルゼンチンとの戦勝に於て、全国民が陶酔の表情を示したものであった。クエートを占領したイラク国民が、歓呼の声を挙げたのはテレビに新しい。
近代は新しい精神の創出に於て、平和への建設に努力している。平和は世界の合言葉となっている。併し私達は前述の如く地下にマグマをもつのである。私は三句の「踊るがに」に斯る潜在への延展を見ることが出来るとおもう。五句の祈りはそこから生れきたものとおもう。
尚一首目も内容ある作品であった。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」