内面への探究という言葉がある。生命は創造的なるものであり、創造は内面的なるものの表出であると考えられている。内面的なるものの表出であるとは、内面的なるものは働くものとして、外に明らかになることは、内に深く還るということでなければならない。私達は直接働くものとして身体をもつ、身体によってものを作り外に自己を見るのである。身体によってものを作り、外に自己を見るとは、身体は創造的なものであり、創造的生命として身体があるのでなければならない。身体は何によって自己を外に現わしてゆくのであるか。
身体は内外相互転換的であり、身体が生きているとは内外相互転換をもつということである。内外相互転換とは外を内とし、内を外とすることである。外を内とするということは、内が機能的構造的ということであり、内を外とするということは、内の機能的構造的 なるものの秩序に外を変えてゆくということである。生死というものもそこにあるということが出来る。内外相互転換とは相互否定的ということである。生物的生命に於て外としての食物の欠乏は死である。死の克服の為に努力が必要である。機能によって外を変えてゆくことは外の破壊である。生体維持には常に努力と破壊がつきまとうのである。斯る相互否定としての内が身体であり、外が環境となるのである。
生命はアメーバーより初まったといわれる。その当否はしばらくおくとしても、現在こ の地上に見る複雑な生命の構造が最初からあったと考えることは出来ない。アメーバーから現在の生物の構造は如何にして出来たのであろうか、私はそこに生体と環境の限りない相互否定の闘争を思わざるを得ない。内外相互転換は状況的である。状況的とは常に新たな局面に対するということである。生命は新たな局面に対す機能をもたない限り死滅せざるを得ない。私は生命とは新たな局面に対して、対応する新たなる機能を生みゆく柔軟体であると思う。昔に於て激烈なる流行病にも人口の三分の一は残ったと言われる。人間の身体は対応する新たな物質を作ったのであるとおもう。アメーバーより現在の生物へ、それは限りない相互否定としての、生死の繰り返しの中から獲得して来た機能の集積としての形相であると思う。そのことは獲得した資質は、個体を超えた種族に於て維持されているということである。われわれの資質形相は種族の資質形相であるということである。創造とは獲得された資質形相が新たな状況に働き、新たな資質形相を獲得することである。そこに生死がある。個体に於て死とは個体の消滅である。併し種族に於て個体の消滅は、獲得した資質の遺伝に於て、新たなる資質の獲得の原動力となり、無限の底にひびきゆくものとして、新たな再生をもつのである。私は驚異すべき生物の構造と能力は、生物発生以来の環境との相互否定としての、生死の反復がもたらしたものであるとおもう。個体は形相完成的に成熟してゆく、成熟は資質獲得能力の喪失である。内外相互転換能力の完全な喪失が死である。斯くして生命的種が持続することは個体が生死することである。そしてそれが生命創造である。創造とは生死を内にもちつつ、生死を超えたものの生命の 形相である。
私は人間を自覚的生命として捉えようとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。我々は自己を外とすることによって自己を見る、物を作ることによって、物に写された自己を見るのである。技術的製作的生命となることによって我々は自己を見、自己を知るのである。
外に見るというとき、そこには見るものと見られるのがなければならない。物を作るとき、そこには作るものと作られるものがなければならない。作られたものは、外に見ら れたものとして我ならざるものである。我ならざるものとして、我に対するものである。 而してそれは我の外なるものとして、それによって自己を見てゆくものである。否定を介して肯定に転じてゆくものである。そこに於て内外相互転換は形相を内と外とに分つのである。そこに内と外との対抗緊張が生まれる。内とは見るもの作るものであり、外とは見られたもの、作られたものである。作るものとは如何なるものとして作り、作られたものは如何なるものとして作られるのであろうか。製作的生命として内外相互転換は如何なるものであろうか。
私は自覚的生命とは、生物的生命が自己自身を見、自己を外に製作的に表現するものとなったと思うものである。生物的生命に於て内外相互転換は純一である。蜜蜂は花を求めて飛ぶ。而してそれは花が蜜蜂を誘うのである。花の色か香りか知らないが蜜蜂の官能と直ちに一なるものがあるのである。蜜蜂は飛ばんとして飛ぶのではない、飛ぶべくして飛ぶのである。人間が製作的生命であるとは、斯る一なる生命が道具をもつということである。道具をもつとは例えば手で物を壊す代りに、より大なる破壊力をもつ石を利用するが如きである。道具は手の延長であると言われる。石は手の延長となるのである。
如何にして人間は道具をもったのであろうか、私はそこに内外相互転換としての偶然を集積したと思わざるを得ない。一瞬一瞬の営為をはたらくものとして蓄積したのであると思う。蓄積するとは過ぎ去ったものが現在に於てはたらくということである。内外相互転換の蓄積を生物ももつ、併しそれはいつ迄も偶然を超えることが出来ない。 製作とは偶然を時の統一に於て組織したものである。道具とは斯る組織に於て内と外を媒介するものである。
自覚的生命に於て時を統一するものは、身体ではなくして言葉や技術となる。身体が身を超えるのである。身体を包むものとなる。身体を包摂するものとして、身体を見るものとなるのである。身体を見るとは、身体を外に表現することによって見るのである。製作とは身体が表現的に自己を見てゆくことである。我々が内的生命の意味を問うのは、斯る自覚生命として表現的にはたらくものである。製作的生命が外に表わすものである。
生命は本来内外相互転換的である。内を外し、外を内とするものである。自覚的生命 とは斯る生命を自覚するものである。言葉や技術が時を統一するとは、内外相互転換的なるものを表現的に蓄積することである。蓄積するとは外を内としたものが、内として外に表われるものとなることであり、内を外としたものが、外として内に還ってゆくことである。内として外に表われるものとなるとは、未だ外ならざるもの、表われざるものとして、外と対立するということである。而してそれは表われるものとして内と外は一なるものである。斯かる対立をならしめる媒介者が道具であり、対立をならしめるものは努力である。私達は努力するものとして内面的なるものを問うのである。
よくこの頃書道教室というのを見かける。行くと手本を傍に置いて一生懸命に真似ている。そして書き上げては教師に出して朱筆を入れてもらっている。各自が幾度もそれをくり返している。私はそれを見乍ら、その一々の繰り返しがその人の能力となってゆくのだ と思った。この能力が増すとは、手本の先覚や教師の力を習うことによって得るということである。
先覚者や教師は他者である。私達は他者を学び、他者を自己とすることによって能力を得るのである。能力とは自己を外に表わし得る力である。表わす力が増したということは表わす内容が増したということである。表わす内容が増したということは他者を自己としたということである。私達は他者を自己とすることによって自己を外に表わすことが出来るのである。外に表わすものが内であるとすれば、我々の内なるものは我ならざるもの、絶対の他者にあるのでなければならない。若し私が生れたすぐに無人島に捨てられて育ったとすると、私に如何なる自己を表わすことが出来るであろうか。摂食と排泄の身体具有の本能のみであろう。そこに表わすべき内的なるものはない。
先覚も教師もかっては習ったものである。淵源は重々無尽尋ねつくすことの出来ないものである。連綿として人より人へと伝えゆきつつ、何の人も学び伝えるものとして、その人を超えたものである。大きな流れの一滴として、人々をあらしめるものである。私達をして外に表したいと思わしめるものは、この大なる表現の流れに外ならない。内とはこの大なる流れである。外が内となるのである。獲得した形が次の形を呼ぶのである。
形が形を呼ぶとは、今迄見えなかった微妙なものが見えてくることである。習字に於ては今迄見えなかった線が見えてくることであり、絵画に於ては今迄見えなかった色が見えてくることである。習熟とは無数の線、無数の色が見えてくることであり、引かれた一つの線、塗られた一つの色が、次の線或は色をその無数の線は色の中から唯一を決定してゆくことである。上手な字とか絵とかには、表わされた一つの線は色には、背後に無数の線は色をもつのであり、無数の線は色から決定された一なのである。斯る決定は形が形を呼ぶものとして決定してゆくのである。 習字に例をとれば、大の字を書くにあたっ 最初の一の線のあり方が、次の人の線のあり方を呼ぶのである。この呼びと応えのあり 方が字の完成度である。呼びと応えのあり方が内面的必然である。我々が表わすとはこの内面的必然をもつということである。
形が形を呼ぶとは、最早我々を超えて形が形自身を決定してゆくことである。我々が形を決定するのではなくして、我々は形の中に深く入ってゆくのである。勿論線や色を見出してゆくのは目である。目は私の目である。而して私の目は私の恣意なるものとしてあるのではなく、対象を見る目として、対象の真実を見る目としてあるのであり、対象の真実は形が形を作るものとしてあるのである。
線が線を呼び、色が色を呼ぶことが、形が形自身を作ることであるとは、最初から何か表現すべき形があったということではない。生命の内外相互転換の中からおのずから表れ来ったのでなければならない。死に面して生きんと努力の中から、おのずから結晶し来ったものであると思う。最初に表われた形が次の形を呼んだ時、動的生命としての無限の展開を孕んだのであると思う。
生と死、対象と自己の矛盾的同一的に表われた形を、製作的に展開させたものとして、私達の生命形成は歴史的形成である。斯る生命形成として現われた形が、形成的世界を映してゆくのが内面的発展である。無限に生死を映し、哀歓を展開してゆくのである。形より形へとして、世界が世界自身を形成してゆく世界は、無限に生死を映し、哀歓を展開してゆくものとして歴史的形成的である。生死を超えたものが生死を含むものとして、生死するものが生死を超えたものに自己を表わすものとしてそれは歴史的形成的である。
学問をし、絵を習い字を習うのは、単に形を見んとして習うのではない。形の中に深い時間の凝縮を見、我を超えた我の根底に接せんとして習うのである。そして時のもつ無限の発展に触れた思考の喜び、目の喜びに伴われていそしむのである。
私は内面的なるものが表現するものであるとき、内面的なるものを歴史的形成的世界に求めなければならないと思う。私達は自分の内に表現すべきものがあるようにおもう。併し無人島の例に挙げた如く単なる我というのは何ものでもないのである。私達の表現的欲求は無数の人々の表現的努力を承継するところより来るのである。私は表現意欲はこの我が無限の創造的世界の創造的要素となったところより来るのであるとおもう。無限の過去を背負うところに我々の表現はあり、無限の過去の形象は世界である。而して世界の形象は歴史的形成の内容である。
創造的世界の創造的要素となるということは、世界の歴史的創造の流れに入るということである。それは自己を滅して、世界に化すということである。歴史的創造の流れとは、無数の人が創造に参加したということである。ここに我と汝の呼び答えるということがあるのである。我々の表現意欲はこの我と汝の呼び答えるところより生れてくるのである。歴史的形成的世界とは、無数の他者の呼び声のこもるところである。この呼び声が死を生に転ぜんとする声である。この呼び声への我の応答が表現的努力であり、呼び声は創造線の自己形成であり、応答は創造線に添うということである。創造的生命に生きるということは永遠を見るということである。
表われたものは内外相互転換の外として形をもつ、自覚者として製作的生命に於ては物として表われる。而してそれは内外相互転換として現われるものとして、滅びるものであり、壊れるものである。それに対して表わすものは始めと終りを結ぶものとして、一瞬一瞬の内外相互転換を蓄積し、統一することによって製作的にはたらくものである。内なるものとはこのはたらくものとしての一者である。
生命は何処迄も内外相互転換的にある。内外相互転換的に一であるとは外を内とし、内を外とすることによって生きてゐるということである。外を内とし、内を外とすることが具体的一であるということである。それは一瞬一瞬に生れ滅び、作られ壊れるものが永遠であるということである。前に書いた習字の一筆一筆が永遠を宿すのである。私は今習字を例にとったが、日常の行為全てが人類の初めと終りを結ぶものに於てあるのである。内面への目とは、行為の一瞬一瞬を永遠なるものにつなぐ目である。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」