内面的なるもの

 内面への探究という言葉がある。生命は創造的なるものであり、創造は内面的なるものの表出であると考えられている。内面的なるものの表出であるとは、内面的なるものは働くものとして、外に明らかになることは、内に深く還るということでなければならない。私達は直接働くものとして身体をもつ、身体によってものを作り外に自己を見るのである。身体によってものを作り、外に自己を見るとは、身体は創造的なものであり、創造的生命として身体があるのでなければならない。身体は何によって自己を外に現わしてゆくのであるか。

 身体は内外相互転換的であり、身体が生きているとは内外相互転換をもつということである。内外相互転換とは外を内とし、内を外とすることである。外を内とするということは、内が機能的構造的ということであり、内を外とするということは、内の機能的構造的 なるものの秩序に外を変えてゆくということである。生死というものもそこにあるということが出来る。内外相互転換とは相互否定的ということである。生物的生命に於て外としての食物の欠乏は死である。死の克服の為に努力が必要である。機能によって外を変えてゆくことは外の破壊である。生体維持には常に努力と破壊がつきまとうのである。斯る相互否定としての内が身体であり、外が環境となるのである。

 生命はアメーバーより初まったといわれる。その当否はしばらくおくとしても、現在こ の地上に見る複雑な生命の構造が最初からあったと考えることは出来ない。アメーバーから現在の生物の構造は如何にして出来たのであろうか、私はそこに生体と環境の限りない相互否定の闘争を思わざるを得ない。内外相互転換は状況的である。状況的とは常に新たな局面に対するということである。生命は新たな局面に対す機能をもたない限り死滅せざるを得ない。私は生命とは新たな局面に対して、対応する新たなる機能を生みゆく柔軟体であると思う。昔に於て激烈なる流行病にも人口の三分の一は残ったと言われる。人間の身体は対応する新たな物質を作ったのであるとおもう。アメーバーより現在の生物へ、それは限りない相互否定としての、生死の繰り返しの中から獲得して来た機能の集積としての形相であると思う。そのことは獲得した資質は、個体を超えた種族に於て維持されているということである。われわれの資質形相は種族の資質形相であるということである。創造とは獲得された資質形相が新たな状況に働き、新たな資質形相を獲得することである。そこに生死がある。個体に於て死とは個体の消滅である。併し種族に於て個体の消滅は、獲得した資質の遺伝に於て、新たなる資質の獲得の原動力となり、無限の底にひびきゆくものとして、新たな再生をもつのである。私は驚異すべき生物の構造と能力は、生物発生以来の環境との相互否定としての、生死の反復がもたらしたものであるとおもう。個体は形相完成的に成熟してゆく、成熟は資質獲得能力の喪失である。内外相互転換能力の完全な喪失が死である。斯くして生命的種が持続することは個体が生死することである。そしてそれが生命創造である。創造とは生死を内にもちつつ、生死を超えたものの生命の 形相である。

 私は人間を自覚的生命として捉えようとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。我々は自己を外とすることによって自己を見る、物を作ることによって、物に写された自己を見るのである。技術的製作的生命となることによって我々は自己を見、自己を知るのである。

 外に見るというとき、そこには見るものと見られるのがなければならない。物を作るとき、そこには作るものと作られるものがなければならない。作られたものは、外に見ら れたものとして我ならざるものである。我ならざるものとして、我に対するものである。 而してそれは我の外なるものとして、それによって自己を見てゆくものである。否定を介して肯定に転じてゆくものである。そこに於て内外相互転換は形相を内と外とに分つのである。そこに内と外との対抗緊張が生まれる。内とは見るもの作るものであり、外とは見られたもの、作られたものである。作るものとは如何なるものとして作り、作られたものは如何なるものとして作られるのであろうか。製作的生命として内外相互転換は如何なるものであろうか。

 私は自覚的生命とは、生物的生命が自己自身を見、自己を外に製作的に表現するものとなったと思うものである。生物的生命に於て内外相互転換は純一である。蜜蜂は花を求めて飛ぶ。而してそれは花が蜜蜂を誘うのである。花の色か香りか知らないが蜜蜂の官能と直ちに一なるものがあるのである。蜜蜂は飛ばんとして飛ぶのではない、飛ぶべくして飛ぶのである。人間が製作的生命であるとは、斯る一なる生命が道具をもつということである。道具をもつとは例えば手で物を壊す代りに、より大なる破壊力をもつ石を利用するが如きである。道具は手の延長であると言われる。石は手の延長となるのである。

 如何にして人間は道具をもったのであろうか、私はそこに内外相互転換としての偶然を集積したと思わざるを得ない。一瞬一瞬の営為をはたらくものとして蓄積したのであると思う。蓄積するとは過ぎ去ったものが現在に於てはたらくということである。内外相互転換の蓄積を生物ももつ、併しそれはいつ迄も偶然を超えることが出来ない。 製作とは偶然を時の統一に於て組織したものである。道具とは斯る組織に於て内と外を媒介するものである。

 自覚的生命に於て時を統一するものは、身体ではなくして言葉や技術となる。身体が身を超えるのである。身体を包むものとなる。身体を包摂するものとして、身体を見るものとなるのである。身体を見るとは、身体を外に表現することによって見るのである。製作とは身体が表現的に自己を見てゆくことである。我々が内的生命の意味を問うのは、斯る自覚生命として表現的にはたらくものである。製作的生命が外に表わすものである。

 生命は本来内外相互転換的である。内を外し、外を内とするものである。自覚的生命 とは斯る生命を自覚するものである。言葉や技術が時を統一するとは、内外相互転換的なるものを表現的に蓄積することである。蓄積するとは外を内としたものが、内として外に表われるものとなることであり、内を外としたものが、外として内に還ってゆくことである。内として外に表われるものとなるとは、未だ外ならざるもの、表われざるものとして、外と対立するということである。而してそれは表われるものとして内と外は一なるものである。斯かる対立をならしめる媒介者が道具であり、対立をならしめるものは努力である。私達は努力するものとして内面的なるものを問うのである。

 よくこの頃書道教室というのを見かける。行くと手本を傍に置いて一生懸命に真似ている。そして書き上げては教師に出して朱筆を入れてもらっている。各自が幾度もそれをくり返している。私はそれを見乍ら、その一々の繰り返しがその人の能力となってゆくのだ と思った。この能力が増すとは、手本の先覚や教師の力を習うことによって得るということである。

 先覚者や教師は他者である。私達は他者を学び、他者を自己とすることによって能力を得るのである。能力とは自己を外に表わし得る力である。表わす力が増したということは表わす内容が増したということである。表わす内容が増したということは他者を自己としたということである。私達は他者を自己とすることによって自己を外に表わすことが出来るのである。外に表わすものが内であるとすれば、我々の内なるものは我ならざるもの、絶対の他者にあるのでなければならない。若し私が生れたすぐに無人島に捨てられて育ったとすると、私に如何なる自己を表わすことが出来るであろうか。摂食と排泄の身体具有の本能のみであろう。そこに表わすべき内的なるものはない。

 先覚も教師もかっては習ったものである。淵源は重々無尽尋ねつくすことの出来ないものである。連綿として人より人へと伝えゆきつつ、何の人も学び伝えるものとして、その人を超えたものである。大きな流れの一滴として、人々をあらしめるものである。私達をして外に表したいと思わしめるものは、この大なる表現の流れに外ならない。内とはこの大なる流れである。外が内となるのである。獲得した形が次の形を呼ぶのである。

 形が形を呼ぶとは、今迄見えなかった微妙なものが見えてくることである。習字に於ては今迄見えなかった線が見えてくることであり、絵画に於ては今迄見えなかった色が見えてくることである。習熟とは無数の線、無数の色が見えてくることであり、引かれた一つの線、塗られた一つの色が、次の線或は色をその無数の線は色の中から唯一を決定してゆくことである。上手な字とか絵とかには、表わされた一つの線は色には、背後に無数の線は色をもつのであり、無数の線は色から決定された一なのである。斯る決定は形が形を呼ぶものとして決定してゆくのである。 習字に例をとれば、大の字を書くにあたっ 最初の一の線のあり方が、次の人の線のあり方を呼ぶのである。この呼びと応えのあり 方が字の完成度である。呼びと応えのあり方が内面的必然である。我々が表わすとはこの内面的必然をもつということである。

 形が形を呼ぶとは、最早我々を超えて形が形自身を決定してゆくことである。我々が形を決定するのではなくして、我々は形の中に深く入ってゆくのである。勿論線や色を見出してゆくのは目である。目は私の目である。而して私の目は私の恣意なるものとしてあるのではなく、対象を見る目として、対象の真実を見る目としてあるのであり、対象の真実は形が形を作るものとしてあるのである。

 線が線を呼び、色が色を呼ぶことが、形が形自身を作ることであるとは、最初から何か表現すべき形があったということではない。生命の内外相互転換の中からおのずから表れ来ったのでなければならない。死に面して生きんと努力の中から、おのずから結晶し来ったものであると思う。最初に表われた形が次の形を呼んだ時、動的生命としての無限の展開を孕んだのであると思う。

 生と死、対象と自己の矛盾的同一的に表われた形を、製作的に展開させたものとして、私達の生命形成は歴史的形成である。斯る生命形成として現われた形が、形成的世界を映してゆくのが内面的発展である。無限に生死を映し、哀歓を展開してゆくのである。形より形へとして、世界が世界自身を形成してゆく世界は、無限に生死を映し、哀歓を展開してゆくものとして歴史的形成的である。生死を超えたものが生死を含むものとして、生死するものが生死を超えたものに自己を表わすものとしてそれは歴史的形成的である。

 学問をし、絵を習い字を習うのは、単に形を見んとして習うのではない。形の中に深い時間の凝縮を見、我を超えた我の根底に接せんとして習うのである。そして時のもつ無限の発展に触れた思考の喜び、目の喜びに伴われていそしむのである。

 私は内面的なるものが表現するものであるとき、内面的なるものを歴史的形成的世界に求めなければならないと思う。私達は自分の内に表現すべきものがあるようにおもう。併し無人島の例に挙げた如く単なる我というのは何ものでもないのである。私達の表現的欲求は無数の人々の表現的努力を承継するところより来るのである。私は表現意欲はこの我が無限の創造的世界の創造的要素となったところより来るのであるとおもう。無限の過去を背負うところに我々の表現はあり、無限の過去の形象は世界である。而して世界の形象は歴史的形成の内容である。

 創造的世界の創造的要素となるということは、世界の歴史的創造の流れに入るということである。それは自己を滅して、世界に化すということである。歴史的創造の流れとは、無数の人が創造に参加したということである。ここに我と汝の呼び答えるということがあるのである。我々の表現意欲はこの我と汝の呼び答えるところより生れてくるのである。歴史的形成的世界とは、無数の他者の呼び声のこもるところである。この呼び声が死を生に転ぜんとする声である。この呼び声への我の応答が表現的努力であり、呼び声は創造線の自己形成であり、応答は創造線に添うということである。創造的生命に生きるということは永遠を見るということである。

 表われたものは内外相互転換の外として形をもつ、自覚者として製作的生命に於ては物として表われる。而してそれは内外相互転換として現われるものとして、滅びるものであり、壊れるものである。それに対して表わすものは始めと終りを結ぶものとして、一瞬一瞬の内外相互転換を蓄積し、統一することによって製作的にはたらくものである。内なるものとはこのはたらくものとしての一者である。

 生命は何処迄も内外相互転換的にある。内外相互転換的に一であるとは外を内とし、内を外とすることによって生きてゐるということである。外を内とし、内を外とすることが具体的一であるということである。それは一瞬一瞬に生れ滅び、作られ壊れるものが永遠であるということである。前に書いた習字の一筆一筆が永遠を宿すのである。私は今習字を例にとったが、日常の行為全てが人類の初めと終りを結ぶものに於てあるのである。内面への目とは、行為の一瞬一瞬を永遠なるものにつなぐ目である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

はじめに言葉ありき

 「細胞から生命が見える」という本によると、すべての細胞が個有の生命プログラムとしてのDNAという遺伝物質をもち、そこに生物が生きてゆく上で必要な情報が書きこまれている。細胞一個の中にある全DNAの文字数は非常に多い。生物種によって異なるが、数百万から数百億文字以上に迄達する。この全文字が遺伝情報の全てである。ヒトではざっと三十億文字のDNA情報が一個の細胞の中にある。その量はどれ位かというと平凡社の大百科事典の二十五セット分である、と書かれている。生命は必要に応じてこのプログラムを利用するのである。細胞が遺伝子をもち、遺伝子が文字をもち、細胞がそれを利用し、その指令によって動くとは、文字は生命の形成として、生命そのものとしてあるということである。生命としての細胞が形として出現するものであるとき、形は文字によってあるものとして文字は細胞であり、細胞は文字である、そこに形成ということがあり、出現ということがあるのである。私は生命としての細胞の形は、外としての環境との関りに於て如何なる文字を撰択したかにあるとおもう。生物の進化とは文字の構成の複雑化ということであろう。私は単細胞動物より多細胞動物への発展は環境に対す主体としての文字の高度化の要請があり、文字が細胞の自己形成の撰択をもったのではないかとおもう。利用するとは細胞が自己を現わすことであり、現われた細胞が更に外との関りに於て利用せんとするのである。それが撰択であり、構成である。私は三十億の文字をもつとは単に並立的にあるのではなくして構成的にあるのであるとおもう。一つの生命としての細胞を環境との関りに於てより強く、より大ならしめんとするところにあったとおもう。人類は近々千万年程前に出現したと言われる、千万年程前に出現したということは、それ以前の生命体の細胞は三十億の文字をもっていなかったということであろう。文字は常に外との関りに於て分化発展をもったのであるとおもう。私は如何にして単細胞動物が多細胞動物となったかを知らない。唯外としての環境の激変が細胞の結合による機能の発展を要求したのかとおもうのみである。併し細胞は多細胞となることによって多様なる機能をもつことが出来たとおもう、そして多様なる機能は文字の数を増大せしめたとおもう。多細胞と なることなくして人類の生誕はあり得なかったのではあるまいか、而して多細胞ならしめたものは文字のはたらきであったとおもう。生命がはたらくとは文字がはたらくのであるとおもう。

私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである、自覚とは自己の中に自己を見るものである。生命は外を内とし、内を外とする無限の形成である。自己の中に自己を見るとは外を内とし、内を外とすることであり、外は内を宿した外、内は外を宿した内となることである、外は内を宿して物となり、内は外を変革するものとして技術をもつものとなるとなるのである。自覚とは世界形成的に生命が形象を顕現させてゆくことである。われわれが自覚をこのわれに於て見るのははたらくものとしてこのわれに世界の出現を見るによるのである、それが物を作るということである。私達は物を作ることによって自己を知り、更に大なる物を作らんとして自覚の意識をもつのである。私は斯る物の製作を経験の蓄積に求めるものである。経験の蓄積とは昨日と今日、過去と現在の営為を統一するものである。われわれは生れ来ったものとして自然の内容である。営むとは自然の循環に随って営むのである、それが日日の行為である、営みは日日の繰り返しである、而して状況はその日その日異るのである、その日その日はくり返しつつ新しい営みの日である。私は斯る日日の異なる状況を生命形成に於て統一するところに製作があるとおもう。例えば大古の採取経済に於ては、食糧に出合うということはその日その日の偶然であった。実の成る木を知っていたとしても、風で落ちてしまったかも知れないし、誰かが先に採ってしまったかも知れない、それを自己の管理の出来る所に植えて偶然を克服するのが製作することである。それに水をやり、肥料を与えるのも経験の蓄積である。野生の収穫物と区別してわれわれはこれを作物とするのである。製作とは偶然を必然とすることであり、外を 映すものとしての身体の秩序に逆に従わせることである。そこに経験の蓄積が必要なので ある。日日の営みの上に製作は成立するのである。私達は斯る経験の蓄積を記憶にもつ、記憶を保持するものは言葉である。われわれは記憶を言葉にもつのである。私はわれわれの斯る言葉をあらしめるものは細胞のもつ三十億の文字であるとおもう。

 記憶によって製作があるということは、製作によって記憶があるということである。 字は細胞の機能の指令としてあった、それは細胞が自己形成的としてあり、文字が形成を担うということである、文字が細胞と別にあって、その形成を指令するというのではない、細胞は自己形成的生命として文字をもったのである。それは外を内とするはたらきの必然の内容としてもったのである。而して外を内とすることは、内を外とすることとして無限のはたらきである。外を内とならしめることは外の多様に於て機能を大ならしめるものである、大なる機能に於て摂取した内を外ならしめることは機管を複雑ならしめることである。それは細胞の進化であると同時に文字の発展であるとおもう。細胞は多様の統一とし文字の発展をもつのであり、文字が発展をもつことによって細胞は多様の統一をもつのである。私は記憶とは細胞が必要に応じて文字を利用するのみではなく、文字の指令が状況を超えて状況を創造するようになったことであるとおもう。必要に応じて利用することは適応することである、而して適応することは既に主体が環境を作り、環境が主体を作ることである。創造するとはそれが発展して互が超越し合い対立するものとなったのである。対立するとは否定しあうものとして在るということである、対立するものが一つとしてあったものが顕在化したということである。生命に於て主体と環境が直に一としてあった、それが否定的に対立するということは死を以って距たるということである。環境は直に我であり、我は直に環境であったものが、環境ならざる我としてあり、我ならざるものとしての環境となったということである。勿論それは主体と環境が無関係になったということではない、主体が環境を内にもち、環境が主体を内にもつものとなったのである。環境は主体の中に消えて現われることによって真に環境となり、主体は環境の中に消えて現われることによって真に主体となるものとなったのである。私はそこに製作があるとおもう。われわれは製作したものを物としてそれを使用し消費することによって生きる、それは自然としての環境ではない、環境としての外が主体としての身体の秩序に随って変革され、構成されたものである。自然としての環境は社会としての環境となるのである、そこに環境は主体の中に消えて現われることによって真に環境となるという所以があるのである。 環境が主体の中に消えて物となって現われる為には、主体は環境の中に消えて人格として現われなければならないとおもう。斯くして外に物としての世界が現れ、内に世界を作るものとしてのこのわれが現われることが自覚することである。

 自覚は経験の蓄積として、時の統一として成立する。時の統一とは過去、現在、未来を内にもつことである。それは記憶に見た如く言葉がはたらくということである。それは三十億の文字が必要に応じて起用され、指令するものとして、生命としての細胞が現在の営為に言葉として顕現したものであるとおもう。人間は生命発生以来三十八億年の歳月の上に、六十兆の細胞の統一体として出現したと言われる。私はそれを作り上げたのは細胞の文字がはたらいたということであるとおもう。生命が細胞としてあり、生命が形成としてあるということは、生命はその根源として文字としてあるということである。それが外と内とが対立し、内が外をもつものとして、人格として対立するとき、内は主体として我と汝として対立するものとなり、我と汝は共に世界を内にもつものとして、より大なる世界を構成するものとして呼び交すものとなるのである。人格として我と汝となるとは共に製作するものとして個性となることであり、我ならざるものとしての汝、汝ならざるものとしての我として、文字は形に出でて声となり、言葉となって形作るものとなるのである。聖書に「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神なりき。と書かれている。全ての形は言葉より生れたというのである、私は断る言葉を細胞の文字に見ることが出来るとおもう。私達は人間として、人間の細胞のもつ文字に神を見ることが出来るとおもう。全ての形は細胞のもつ文字の発現としてあるのである、製作すらも文字が自己の中に自己を見る自己構成として現われたのであるとおもう。

 三十億の文字とは一体如何なるものであろうか、状況に応じ指令するものとは、人間の 遭遇するであろう一切のものに対応するものでなければならない、生命は生死するものである。呼吸し、摂食して維持し形作るということは、それを失なうということは死ぬことである。生命を維持し、形成することは我ならざるものを我とすることである。我ならざるものによって我があるとは常に死に対面しているということである。指令とは生命として斯る死を排除してゆくことでなければならない、死を排除するためにさまざまの防御をなさなければならない、それは新たな構造を作り上げることである。本書の中に「シグナルの伝達」という項目がある。その内容はとても複雑であって非力な私が理解し、自分の思考の軌道に乗せ得るものではない。併し外に応じて細胞が自己を変化させ、新たな状況に新たな構造をもって対応してゆくのがわかる。死を以って迫る外は常に異る、その都度細胞は三十億の文字の中から最善の生存を撰択してゆくのである。そして外を自己の形相に転じてゆくのである。私は千変万化の外を転じて自己の形相に転ずるものは外を内に包むものでなければならないとおもう。外を内とし、内を外として無限の転換をもち、外を転じたものを自己の形相とするものでなければならないとおもう。斯るものとして三十億の文字は外としての万象を写しつつ、現実の生の唯一形相を打てるものであるとおもう。内外相互転換の軸としてはたらくものである、それは三十八億の年月に於て外と内が作るのである、私達は無数の個性としてある、無数の個性としてあるとは、多数の人々が異なった環境と歴史を負うて生きているということである、それによって人は様々の生死転換としての体験をもつのである。対話はその体験を集積せしめるものである。私は曽って物の製作は経験の蓄積であると言った。そしてその蓄積は記憶として言葉によると言った。その言葉は対話を生み、対話より生れるものとして世界が世界を見、世界が世界を作ると ころより生れるのである。記憶も構想も、製作も世界が世界を作るものとして世界がもつのである。世界としての社会の対話が維持し創造するのである、記憶や想像をこのわれが もつと思うのは、われわれがそれを映すことによって働くが故である。そこに三十億の文字は世界が細胞に自己を見出でたという所以があるのである。細胞は生命として存在が自己を見る一つの核である。斯る核は対話的に自己を見るものとして無数の核に対するのである。対話するとは他者があるということである。そしてその他者とは言葉を有するものであるということである。それがはたらくものとして過去、現在、未来をもつということは無数の他者をもつということである。世界は斯るものの対話として自己を構成するのである。曽って西哲の言った如く「世界は至るところに中心をもつ周辺なき円である。としてあるのである。

 「はじめに言葉ありき」のはじめとは根源の意である、そこから全てが生れてくるとい うことである。それではその生むものは何処から生れたのであるか、それは言葉を絶したものである。唯内即外、外即内、一即多、多即一として出現したという他はない、それが生命としての細胞であり、そのあり方が言葉としてあるのであり、三十億の文字はそのありようが形成し来った相である。全ての人間のもつ現象が三十億の文字の現れであるとは、全てあるものは自己同一としあるということでなければならない。変ずるものは変ぜらるものの上にあるものとして、時間は同時存在の上に成立するのでなければならない。変ずるものは機に応じて利用した文字の現れであり、変ぜざるものは機に応じて現われる三十億の文字である。時間は絶えざる状況の変化に出現する形として無限の流れである。併し単に流れるものは時間ではない。時間は過去、現在、未来の一つの統一をもつものでなければならない。私は斯る統一は三十億の言葉の現れであり、言葉が自己を見、自己を現わすものとして初めて捉えることが出来るのであるとおもう。しからば斯る同時存在は如何に現われるのであるか、私は斯るものを一瞬一瞬の時の完結に於て捉えることが出来るとおもう。一瞬が全時間をもつのである、一瞬は無限の過去より無限の未来への流れの一点である。全時間をもつとは、斯る一点が逆に過去、現在、未来を内にもつことである。私は斯る一点をはたらく現在に見ることが出来るとおもう。はたらく現在とは生が死に対面して、三十億の言葉の中に利用し得るものを撰択し、死として迫ってくるものを逆に生に転ずることである。即ち製作としてはたらく一瞬一瞬である。一瞬一瞬の時が完結すると は、出現した物の形が完結することである。過去、現在、未来を包んだ永遠の形相をもつ ということである。根源の出現であるということである。根源の出現であるとは外と内、環境と主体として文字をあらしめるものが具体として実現したということである。全てが現在に流れ入り、現在より出でてゆくのである。そこに全時間があるのである。生と死を含み、生と死がこの刹那に現わした形というのは常に形の究竟であり、形の本質はそれ以外にないものとして完結をもつのである。三十億の文字は形の現われるべき全てである一瞬一瞬の形の現われは斯る根源が自己を現わした形として完結するのである。

 われわれの生活は日日に複合化され、合理化されて便利になってゆく、人はそれを進歩という。併しそのことは昨日は今日のためにあったということではない。昨日は昨日の生きる営みとしてあったのである。今日は今日の生きる務めとしてあるのである。各々死に面するかなしみと、それに打ち克つよろこびを一日の確証とするのである。三十億の文字がはたらくことによってある一日である。私はそれは唯人のみではなく物にも言い得るとおもう。土鍋は鉄鍋の未完成品ではない、何方も調理具としてそのときそのときの用を果して来たのである。生命の形成としての外と内を一に見るはたらきをして来たものである。完結とは外と内とが一としてあるということである。私はそれを武器にも見ることが出来るとおもう。那須の与一が壇の浦に扇の的を射るべく選ばれたときに、「頼光の時ならば 空飛ぶ鳥を、三羽に二羽は射ち落すものが多かった、今では波にゆれいるあの的を射ち落せるものはないであろう。と言ったという。そのことは弓矢も弓術も頼光以前に完成していたことであるとおもう。ランケは詩はホメロスを超えたということは出来ないという。私は刀剣は正宗を、剣術は塚原卜伝を超えたということは出来ないのではないかとおもう。それはそれよりよいとか悪いとか、上手とか下手であるというのではない。形は内なるものの結晶として、一つの完結として出現するとおもうのである。一々が生死としての外と内の転換として、三十億の言葉が自己を実現したとおもうのである、世界が現われたのである。現われたということは、現われたものの中に世界があるということである、そこに完結があるのである。

 対話とは斯る完結と完結との対話である、完結と完結の対話に於て新しい形が生れるのである。完結から新しい形が生れると言えば矛盾であるが、言葉は斯る矛盾としてあるのである。斯る矛盾は言葉が指令として発現し、発現によって自己を維持してゆくことによるのである。指令の文字の撰択は生死転換の危機に於てその生存を図るのである。生命が生存すべくはたらくいくつかの文字を撰択するのである。故にその文字は全文字がはたらくものとしてのいくつかの文字である。全文字がはたらくものとして現われた形は全存在を負う一つの形である。そこに一つの形が完結をもつ所以があるのである。完結とは全ての現象がそこに見られるということである。全て現われるものがそこにあるということである、全てあるものは死生転換に於て文字が形を表わしたものとしてあるということである。私は人間が歴史をもつというのも断るものを根源的形相として成立するのであるとおもう。歴史は時の形相として過去、現在、未来をもつ。それは一瞬の過去にもかえることの出来ない無限の流れである、併し単なる流れであるときには過去、現在、未来というものを見ることは出来ない。単なる一点があるのみである、それが無限の流れと言い得るためには何等かの意味に於て流れを統一するものがなければならない。過去、現在、未来を一に於て見るものがなければならない、無限の過去より未来への流れは断るものに於てのみ見ることが出来るのである。斯るものに於て見ることが出来るとは、統一するものが自己に於て自己を見るということでなければならない。私は斯る一者として無限の流れを自己の中に於て見るものを三十億の細胞の文字に見ることが出来るとおもう。流れるものは 必要に応じて指令を発し、それによって出現する形である。それは三十億の文字が自己の中に自己を見るということである。三十億の文字は個々の細胞がもつ、而して人間は六十兆の細胞をもつと言われる、個々の細胞がもつとは六十兆の細胞が各々持つことであり、地球上には六十億近い人が住むと言われる。この全ての人が細胞と文字をもつものとしてあるのである。生命に於て同じ形をもち、同じ営みをもつものは何等かの意味に於てつながりをもち、一を実現しているものであるとおもう。同じ形をもち、同数の文字を有する ということは、照らし合って形を実現してゆくものであるとおもう。そのことは生命は世 界の自己実現としてあるということであるとおもう。

 多くの生命は多細胞動物として多くの細胞の統一体である。統一体とは多くの細胞が一 つの目的的行動をもつことである。統一行動をもつためには指令は一つでなければならない。そこに神経が生れ、神経中枢が生れなければならない。各細胞に指令を発せしめる統一的指令が生れなければならない。併しこれ等の形が現われるというには、何もないところから現われることは出来ない。形が現われるには胚種とでもいうべきものがなければならない、私は細胞のもつ文字が斯る形の根源とおもうのである。根源とは、細胞の文字が自己自身を見、自己自身を構成するということである。私は多細胞ということすら細胞の文字が内外相互転換的にはたらくところに出現したのであるとおもう。そして多細胞となることによって自己構成的となり、多細胞の統一体としての身体は幾多の性能を獲得したのであるとおもう。獲得したとは文字の撰択によって身体が形をもつと共に、その身体がはたらくものとなることである。身体としての形がより大なる生命形成のために更なる新たな文字を撰ぶことである。私は人間の歴史も斯る生命形成としてあるとおもう。歴史は自覚的生命としてあり、自覚的生命とは内外相互転換の外を物の製作に見、内を製作的主体として見ることである。それがはたらくものとして一であるところに歴史があるのである。はたらくものとして一であるとは、先ずあらわれるのは一が現われることである。一が現われるとは内外が未た混沌としてあるということである。それは世界としてあらわれる。併しそれはわれに対しわれを包む世界ではない未分の世界である。外が食物として、敵として漸く識別の段階である。鯛は深海にあってわれわれの五千倍の明らかな視覚を有する、併し見るのは敵と餌だけであるといわれる。それは反射的行動として生に直接的なるものである、鯛は敵と餌による行動に於て身体を形成してゆくのである。身体形成とし 生命の純一なるはたらきである。細胞の文字は斯る形成に向って自己を撰択するのであるとおもう。言葉は斯る細胞の文字の自覚として先ずあったのは集団的形相の実現ということであったとおもう、生存としての斯る集団が血縁的であったか地縁的であったか浅学にして私は知らない。恐らく両者の綜合としてあったのであるとおもう。生命的一の実現として、最初に言葉をもつことによって見出した形相は集団の情緒的興奮であったとおもう、そして斯る興奮は敵との戦いや食料の獲得によってもたらされたのであるとおもう。私は言葉の発展もここにあったとおもう、人間は経験を蓄積するものとして集団の闘争は愈々複雑化してくる。戦術・兵器の複雑化は統率者、指導者と一般戦闘員を必然的に生むものであったとおもう、そこには戦術・兵器に関る言葉と共に、上意下達・下意上達の言葉が生れるのである。食料の獲得は更に深大である。生命は生命を食物とする、光合成によって植物が形成した細胞を、食物連鎖によって高次なる形相を実現してゆくのがわれわれ動物の生命形成である。光合成は太陽と水として天と地に関るものである。経験の蓄積とは斯る食料の生産を人間の手によって行い、食物連鎖を人間の手によってもとうとすることである。勿論人間は植物にかえることは出来ない、そこに植物の養育があるのである。食物連鎖として必要とするものの栽培があるのである。そこを基点として更に滋養に富む動物を飼育し、自己の食物連鎖の円環を完成せんとするのである。その為に人間は幾多の克服すべき障害に打当らなければならない。天の太陽と地の水によって育つ植物は先ず早魃と水害に打克たなければならない。そのために天の理、地の理に深く入ってゆかなけれ ばならない。われわれはそれを、われわれも細胞によって成る生命として、自己の根底に深く還ることによって成就してゆくのである。天や地はわれではない、併しそれは細胞の出で来ったところであり、生命の根源である。三十億の文字もそこからと考えられるものである。われわれの言葉や技術が細胞の文字に根源を有し、全てがそこよりの現われであるとき、われわれの自覚は先ず、細胞の文字に自己を見た天地が形相として現われなければならないとおもう、ということは混沌の中から先ず現われたのは根源的存在としての神でなければならないということである。そして神とは生命がそこから出でくるものとしての天地であったとおもう。そのことは歴史は神を見ることより初まったのであり、神の創造として歴史の展開があったということである。併し神の創造は歴史ではない。歴史は何処迄も人間の歴史である。そのために人間は何処かで神と離別しなければならない、神の創造を人間の内面的発展としなければならない。私はそれを細胞が必要に応じて文字を撰択し、利用するところに求めたいとおもう。そこから形が現れ言葉が生れるのである。形が現れ言葉が生れたということは、形が言葉をもち、言葉が形を生んだということである。形は生命の出現として発展の欲求をもつ、更に言葉をもたんとし、言葉は更に形を生まんとするのである。私はそこに人間を見たいとおもう、形の出現とは現在の状況に撰択された言葉が出現したということである。生命がそこに自己形成をもったことである。形成されたものが更に新しい言葉をもち、新しい形を生むということは自己を否定することである。否定するとは自己が自己でなくなることである。私は現われた形は、形を維持せんとすれ決して自己を否定しようとしないとおもう。併しそれは一つの状況に現われたものであり、外と内の転換として絶えず動く新たな状況に耐え得るものではないとおもう。私は斯く新たな形に転じてゆくには常に言葉や形の出で来った根源に還らなければならないとおもう。細胞の言葉に還らなければならないとおもう。三十億の文字の撰択と出現に俟たなければならないとおもう。ここに人間は人間は神と離別するのであるとおもう。現 われた言葉や形が人間である。それを現わすものとして根源の文字としてあるのが神である。そこに有限と無限、相対と絶対がある。昔仏像を彫る人は一刀毎に三拝して仏の示現を祈ったという。西洋にも美神という言葉がある。美の神に呼ばれ、招かれてわれわれの創作があるというのである。それは現われた形、現われた言葉からは新たなものは生れないということである。想を潜めて形の根源、言葉の根源にかえることによってのみ新たなものは生れるということである。私はそれはひとり芸術的創作にかかわるものではないとおもう。私の知り合いの技術者が、新しいものを作るために今迄の形を全部捨てて、幼児の心になってイメージの創出に努めなければならないといっていた。幼児の心とは如何なるものか知らないが、新しい状況に触れて細胞の文字の出す指令の如きものではないかとおもう。生命として身体と対象がおのずから生み出す形の如きではないかとおもう。よく発明・発見などでも寝食を忘れるということを聞く。私は人間をここに見ることが出来るとおもう。撰択として生れ、無限なるものの発現として生れ乍らその形相の故に無限の喪失者としてあるのが人間であるとおもう。神に還り、神の中に自己を殺すことによってのみ生を維持してゆくのである。生命の形として生れたものは形より形へ転ずることによってのみ自己を維持してゆくのである。身体の消耗と充足はその欲求である。形より形へ転ずることは常に自己否定をもつことであり、自己否定は自己を超えたものが自己にはたら くことによってのみあるのである。私は人間が斯くあるということは歴史が斯くあるとい うことであるとおもう。

 歴史は形より形へと転じてゆく人間の営みである、人間は自覚的生命として形より形への推移を物を製作することによってもつ、即ち人間は作ることによって形を見、その形か次の形を生んでゆくのである。私は斯る物の製作が根源的な文字のはたらきとして、物の製作と同時に神を見、神を祀り、神への祈りをもったとおもう。私は前に最初の言葉は敵に対したり、食糧の獲得にあったであろう、そこから様々のものが発展したと言った。斯かる言葉も亦根源的なる文字の現れとして、根源的なものが自己自身を見るところにあるのであり、敵対も摂食も消滅するものであるに対して根源的なるものは不変なるものであり、根源の不変なるものを表わすことが逆に変ずるものを現わすものとして形の最初は神を現わすことにあったとおもう。内的なるものが外に形をもったということは歴史が始まったということである。そして神を見たということは人間が自己をもったということである。私は歴史の始まった人間の意識は全て神につながったとおもう、神につながったとは行為は全て神を表象してゆくことである。根源的なものが自己を現してゆくときに形が現われるとき斯く考えざるを得ないとおもう。形を現わすものは三十億の文字がもつ普遍性に於てそこに住む人々である。住む人々が現われた形、現わした形に於て凝集するとき一体感として民族の原形が出来るのである。一つの神を見、一つの神を祀るとき民族の原型が出来るのである。現われた形は風土としての特殊な環境と主体が生死として否定し合うところに成立する形である。死を生に転ずるということは否定として迫ってくるを摂取するということである。私は判断が包摂判断であるのもここに由来するとおもう。対象に自己を映し、自己に対象を映すのである。対象に自己を映すとはこの我が世界となることであり、自己に対象を映すとは世界がこの我となることである。この我が世界となるとは物を作ることによって世界を作り、世界を見るものとなることである。世界がこの我となるとは、作ることは無数の人々の無限の時間の声に呼ばれてあるということである。そこに形が形を生む創造の世界があるのである。私はそこに人間の自覚が生れ、歴史がはじまったのであるとおもう。それは神より離れたのではない、神はかくれた神として底深 くはたらくものとなったのである。本来根源としての文字は状況により利用されるもので あった、それは生命が死に面して生を獲得すべく撰択するものであった。斯くして現われた形は根源的なるものの出現である、根源的なるものが自己を見出したものである。そこに形より形への無限のはたらきがあるのである。併しそれは文字の全容ではない、神の現在の状況への現れである。神は死して唯一現在に現前したのである。勿論神は死んだのではない、唯一現前したものより見て神は死んだのである。神の全容は現われたものに対してかくれたものとなったのである。現前したものが自己に生を見たとき神は死んだものとなったのである。私は現在に現われたものがわれわれが自己とする人間であるとおもう。そしてこの現われたものとかくれたる のの関係が人間と神の関係であるとおもう。前にも書いた如く現われた形は新しい形を生むものではない、常に変化する状況に対して現われた形は応ずる術を知らないものである。人間は常に自己の無力感の上に立つのである。生命は生きるものとしてそれを克服せんとする、そしてそれは危機に於て形相の出現を撰択する根源的なものに回帰するということでなければならない、かくれた神の呼び声を求めるということでなければならない。かくれた神はどこに言葉をもつのであるか、私はそれを我と汝の対話に求めたいとおもう。我と汝が対話するということは我ならざるもの、汝ならざるものとしての新たな形が生れることである。そして斯る言葉は我も汝も共に根源的文字を有するものとして、死として迫って来るものへの生への転換としてもつのであ る。斯る転換としての言葉をもつものとして対話するということは共通の死として迫ってくるものに面しているということである。そしてこの共通の死として迫ってくるものを生に転じてゆくのが世界である。世界は無数の個を抱いた無限の動転である、無限の動転として形無くして形をあらしめるものである。死と生を陰影とする無限の形を生むものであり、形より形へと転じてゆくものである。斯かる形は映したものが映され、映されたものが映すものとして過去を包み未来を開くのである。そこにかくれたるものの声があるのである。無力なるこのわれは過去を蔵し、未来を孕むものとなることによって新たないのちを得るのである。かくれたる神は形として出現したこのわれの内としてはたらくものとなるのfである。

 形より形へとは、形が無限に転じてゆくことである、今の形を否定して新たな形となる ことである。私達はこのわれとして身体の形として出現する、この形を除いてこのわれは ない。そこにこのわれとしての身体に執着する所以がある。このわれは斯る執着を排して新たな形に転じてのみ真個の自己となるのである。勿論転ずるといってもこの形がなくなるのではない、無くなるところに形より形へ転ずるということはない。新たな言葉に生きるものとなるのである。新たな言葉とは内を映した外を更に映すことである。我と汝の対話によって出現した世界を更に我と汝が映し合うのである。形が次の形を作るのである。身体が新たな状況に対応し、新たな状況をつくるものとなるのである。自覚的生命として人間が新たな形をもつとは新たな技術をもち、新たな世界を構成するということである。私は身体がかく何処迄も世界を宿すところにこの我の成立があり、歴史があるとおもう。三十億の文字は個々の細胞がもち、人間は六十兆の細胞の統一体である。三十億の文字は世界として外に展開せんとする多数である。身体の形として現われ、身体が細胞としての文字をもつということは身体に世界が現れるということである。斯る形としての身体に於て形より形へと転ずることが出来るのである、形より形へとは身体が世界を作るものとなることである。身体が世界を作るものとなるとはこの身体より全世界を見んとすることである。世界形成の意志として全世界を跪ずかせんとすることである。個と個が対するとは斯るものに於て対するのである、我と汝は相互否定的に対するのである。身体の否定とは死である。対するとは死をもって迫り合うことである、食物連鎖はその原型である、対話するとは断る個として対話するのである。我と汝はその底深く死の深淵をもって距てているのである。われわれは自覚的生命として経験の蓄積をもち、物を製作する生命として世界形成的に我と汝は一である。併しそれは斯る深淵を底にもつものである。形が転ずると は対立によって転ずるのである。対立によって転ずるとは対立することは対手の形を自己の中に帯びることである。形は対手を宿すものとして転じてゆくのである。生は死を宿し死は生を宿すのが生命が転じるということである。内外相互転換的に生が死を映し、死が生を映すということはより大なる外、より大なる内となるということである。そこに蓄積として形成があるのである。外はより大なる死として迫ってくるのであり、内はより大な生として向うのである。転ずるとはより大なる死と生が相即として形に実現するところにあるのである。それはより大なるものとして前の形を承けつつ生死を経たものとして前の形を否定したものである。私はそこに歴史が成立するとおもう。内なる主体は複雑なる技術を有するものとなり、外は多様なるものの統一となるのである。

 前に書いた如く一度出現した形は自己を保持しようとして変革を欲しない、変革のないところに形の転換はない。そこに形より形へ転ずるということはあり得ない。それなれば形の変転としての歴史の転換は何処より来るのであろうか、私はそれを天才や英雄に求めたいとおもう。形の転換は生死としての内外の相互否定にあった。転換とは外が危機として迫ってくるときに内が逆に外を自己とすることによって自己を大ならしめることである。そこには新しい技術が生れなければならない。それは物に即した技術ではなくして、主体と環境を相即せしめる技術である。私はそこに有事にはたらく根源的のはたらきがなければならないとおもう。それは世界形成の根源として、根源的文字より生れたわれがもつ言葉にはたらくのである。世界がはたらくのである。生命発生以来三十八億年の歳月に形成し来った生命が全時間の深さに於てはたらくのである。全ての人間は斯る時間の上に斯る時間を包蔵するものとして生れる。併し前にも書いた如く現われた自己としての形に捉われて我を超えた世界表象を表わすことが出来ないのである。現われたものを保持せんとして表わすものを見ることが出来ないのである。私は天才や英雄は直に根源的な文字を三十八億年の時間の深さに於て声として聞き得るものであるとおもう。それはこの我の欲求、このわれの苦悩として出でくる声ではない、世界の苦悩、世界の欲求として生れてく る声である。ここにあるわれの声ではない、このわれをあらしめる声である、あらしめるものとして絶対の声である。世界表象として世界の一を実現させるものである。世界の一を実現するとは、形として現われ個々の保持せんとする形が一つの世界として見ることが出来なくなったということであり、対話が持ち得なくなったことであり、その一を回復せんとすることである。故に英雄や天才がもつ表象は部分があって全体が構成されるのではない、先ず全体があって部分を見出してゆくのである。世界としてのイメージを現実としてゆくのである。浮んでくる世界のイメージは既存の世界ではない、それを実現せんとすることは既存の世界を破壊することである。破壊することによってのみ新しい世界は打樹てられるのである。而して新しいイメージは世界像として世界が自己の中に見出でた自己である。併し過去の世界はその世界に生きた多くの人々が背負うものである。過去の世界を形成した人々の理解し得ざる世界である。そこに天才や英雄の悲劇がある、世界を実現せんとすることはそれを構成する無数の人々をその内容とすることである。併し多くの人々はそれを理解しないのである、理解しないということとはそれ等の人々を葬るものとして新しい世界に敵対するということである。斯くして新しい世界表象の実現は時の熟するのを俟たなければならないのである。新しい世界表象は天才や英雄を介して世界が自己を表現せんとする衝動である、それは史的形成の必然としてあるものである。実現しなければ止まないものである。私はそのために新しい世界表象を自己とする新しい生命の誕生を待たなければならないとおもう。過去に生きた人が死んで新しい人の生れるのを待たなければならないとおもう。然も新旧の交代は単に人の交代によって得られるものではない、社会制度その他のものも旧世界を背負うものである。そこには多くの人がそこに働き生きるのである、そこには必然軋轢が生れなければならない。時代の変革には常に戦がつきまとった所以である。変革は常に幾度かの挫折の上に成立するのである。併し斯る変革は何もかもが変ってしまうのではない、いつも言うとおり創造的発展として変化するのである。 新しい生命の誕生といってもホモサピエンスとして、六十兆の細胞と百四十億の脳細胞を もった生命が生れるのである。それが地球上の同じ所に生れてくるのである。新しいというのは人間が製作的生命としてあり、主体は物を映して愈々複雑な技術の所有者となり、物は更に複雑な技術を映すものとして多様なる物となるということである。それは内が外を映し、外が外を映すものとして根源的な文字が指令として常にはたらき、はたらくことによって自己を見てゆくものとして一である。理性を神としたヘーゲルは、理性を直接性の超出、直接性の否定及びそれによる自己内部への復帰と言っている。経験の蓄積ということも根源的な文字が指令を出すことによって形をもち、形が危機として指令を求めるところに成立するのである。それによって生命の形が自己構成的なるところに蓄積があるのである。私はヘーゲルの理性も斯るものでなければならないとおもう。形が転ずるとは現われて消えてゆくことである。歴史の変遷は現われて消えゆくことである。斯く現われて消えてゆくことは全て根源としての文字より現れ、文字の中に消えゆくのである。現われるものは消えた中から現れ、消えゆくものは現われるものの中に消えゆくのである。全て現われたものは永遠の底に響きゆくのである。永遠の声をもつのである。そこに根源の文字としての変遷を成立せしめる同時があるのである。ここに生命の一々が自己完結をもつ所以があるのである。自己完結とは生命として自己より展開する無限の空間、無限の時間を自己の形相とすることである。現われて消ゆるものとして泡沫にも比すべきものでありつつ、そこに全生命を見るものであることである。そこに絶対に他ならざる個性がある。言葉をもつものとして一人一人が個性をもち、民族が個性をもち、時代が個性をもつ、斯るものとして声は時を超えて交し合うのである。

 全ての形が根源の文字より来ったとすれば、根源の文字は何処から来ったのであろうか、私はそれを形となるべき全てのものと考える他はないとおもう。近代科学によれば生命は物質より出で来ったという。私達は生命と物質を対立概念として峻別する。併しそこよりは生命の出で来った物質を考えることは出来ないとおもう。生命が出で来るには無限に他者に関り、他者を包み、関係と包摂に於て自己の形を現じてゆく、形なくしてはたらくものが考えられなければならないとおもう。そしてその本質は現われたものによって見てゆくべきものであるとおもう。現われたものは生命と物質である。現われたものが生命と物質であるとき、そこに自己を現わしたものは生命でもなく物質でもなく、物質が生命であり、生命が物質であるものでなければならない。自己自身を見る物質であり、物質を変革する生命である。私達の身体とは斯る意味をもったものであるとおもう。生命が物であり、物が生命であるところに身体があるとおもう。生命が物であり、物が生命であるとははたらくものである。はたらくことによって内に生命を見、外に物を見るのである。生命を内とし、外として見出されたのが宇宙であり、世界である。そこに宇宙や世界はこの身体が切り拓いて行った所以があるのである。そのことは赤身体は宇宙が自己自身を見るものとしてあるということである。私は三十億の細胞の言葉はそこより生れて来たのであるとおもう。宇宙は一つの動的なるものであり、動くものが一つのものであるとは秩序をもつものであり、秩序をもつものは一即多としてそれが自己の中に自己を映すのが文字であるとおもう。文字がこのわれの存在の根源であるとは、赤文字は形成としての宇宙の根源であるということである。われわれは文字の発現を生死に於てもつ、宇宙は生死に於て自己の運動をもつのである。そこに神の言葉に随うものは生き、背くものは死するという所以があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

表現の形

 生命は身体的にある。身体的にあるということは、生命は身体的に自己を形作ってきたということである。私は人間が見出す全ての形の基礎となるものはこの人間の身体であるとおもう。形作られたものが形作るのである。形作られたものが形作るものとして、私は形成作用の純なるものを求めるとき、生命の始源に遡らなければならないとおもう。

 生命の始源を考えるとき、私は細胞という微小物の不思議に驚異と畏敬の眼をもたざるを得ない。もとより私は細胞について多くを知るものではない。唯読んだ本に、生命の源始は単細胞であり、何かのきっかけでそれが結合して複雑なる生命を構成していったと書いてあったのを知るのみである。私が驚くのは、その結合とは如何なるものであったかと問うことに於てである。

 もしその結合が同質のものであったとすれば、その結合は量的に大となるのみであって何等飛躍的なはたらきをもつことは出来ないであろう。結合そのものが一つのはたらきであるとすれば、そこから結合というものは考えられないと思う。それが異質のものであれば、矢張りそこから結合ということが考えられないと共に、もし結合したとしても一体としての統一ある行動が出来ないとおもう。そこには死滅あるのみである。生命が自己維持の意志であるとすれば、異質なるものの結合は考えることが出来ないと思う。結合が成り得るには同質なるものが異質なるものでなければならない。同質が異質であるとは矛盾である。あり得ないものである。あり得ないものがあり得るには、細胞は自己の中に変化を含むものでなければならない。自性をもつことなくして、その場に於て形質を実現するものでなければならない。

 結合するとは生命がより大なるはたらきをもつことであり、細胞はそれを本能的に知るものをもつのであるとおもう。より大なるはたらきをもつとは機能的となることである。機能的となるとは、一つの目的を実現するために、異なったはたらきが構成的となることである。結合した細胞は、潜在する生命の形相の実現に向ってはたらくのであり、結合によって生命の形相を実現し得るものを、内在したが故に結合をもったのであるとおもう。私は原始的生命として、単細胞と単細胞が結合したということは、無限の生命形成の展望をもったということであるとおもう。

 動物の多くは五感をもつ、生命の始原に於て五感をもったものが無かったとすれば、五感は細胞が自己を変化さすことによって実現したと言わなければならない。細胞は視覚を構成することによって十里の遠くを望み、聴覚を構成することによって千の音の分別を持ち、その他千差万別の身体の機能を構成することによって、整正たる行動を実現すべきものをもっていたということが出来る。単細胞は結合によって、斯るものを実現し得るものをもっていたのである。単細胞が単細胞であるときは何等区別すべきものをもっていなかったであろう 結合したときは視覚の細胞聴覚の細胞として結合したのではないと思う。生命の行動的統一の中より自ら自己を変化させて行ったとおもう。

 私はかって蛙の胎児の形成期の記事を読んだことがある。何でも胎児の初期に形成中の視覚系細胞を壊すか取除くかしても、別の細胞が視覚系細胞を補足して、生れた蛙はちゃんと目があるという内容であったと記憶する。これから類推すると、原始動物に於ては細胞の一々が未だ完全に特化せずして、全生命の記憶をもつと思わざるを得ない。言い換えれば細胞はその結合に於て、生命の統一行動に従って自己を特化し、生命を形象化していったのである。その原初に於ては部分が全体であり、全体が部分だったのである。蛙に於ては未だ全体と部分が真に機能化していないと言い得ると思う。併し私はそこに細胞のもつ本来の相を見ることが出来るとおもう。一々が如何なるものへも変じ得るのである。一々が宇宙を宿すのである。

 生命の機能構成が高度化するに従って、細胞の本来の相は失われてゆく、鳥やけものは最早生体器官の転生をもたない。併し私はそれは単に失われたのではないと思う。敏速なる行動、鋭敏なる感覚器官に特化することによって、統一体の能力に転化したのであるとおもう。鳥の飛翔、けものの嗅覚等に転化することによって失われたのであると思う。失われるとは無くなることではなくして、本来のものが形となって現われたのであり、現われることによって、無限の可能性として本来自性なきものは、自己決定に於て可能性を失なうのである。犬や鳥は人間に比べて傷病の治癒ははやい、そのことは私は人間はより高度な身体構造をもつに所以するとおもう。細胞のもつ本来のものがより高度なる生命展開に転化したものであるとおもう。

 生命は内外相互転換的である。内を外とし、外を内とすることによって自己を形成してゆくのである。動物に於ては斯る相互転換が行動的である。外を食物的環境として、食物を得るために行動しなければならない。細胞結合としての身体は斯る内外相互転換に於て形を決定してゆくのである。行動するために種々の器官と、器官の統一が必要であり、行動を容易ならしめるために特有の形態が生れてくる。

 内外相互転換的に形作るとは、内は外に適応することであり、適応することによって外を制することである。魚は円錘形をなし、鳥は羽根をもつ、それは水や空に生きるものの必然の体型である。その魚や鳥も場所と食物によって形態が実にさまざまである。細胞は或は甲殻となり、或は鱗となり、或は粘膜をもつ皮膚となり、その撰択は驚くばかりである。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己が自己を知ることである。自己が自己を知るとは、自己の中に自己を見ることである。自己は如何にして自己を見得るのであるか、私は人間は製作的生命として、外に物を作ることによって自己を見るのであると思う。製作は技術的であり、技術は伝統的である。それが現在の欲求と衝突するところに製作があるのである。斯る製作の一方の極にこの我が見られ、一方の極に物が見られるのである。我々が通常自己というのはこの見られた我である。

 而して見られた我は真の我ではない。生命は無限に動的として、自己ははたらく自己でなければならない。製作する我でなければならない。製作とは技術的として、物と我がここに消え、ここに生れることである。物と我とがここに消え、ここに生れるところは世界形成としての社会である。真の我とは世界我としての社会にはたらく我である。かかる我として見出された物と我の形が表現である。ここに私は細胞の無自性、動的な具現性が個的統一体としての人間の身体に、物と我の絶対否定をとおして世界への無自性として転化しているのを見ることが出来るとおもう。

 表現に於て常に問われる内と外の問題も私はここに解決の端緒をもつとおもう。はたらくものは無にしてはたらくものであり、内外相互転換的に自己を形相化してゆくものである。内外相互転換的に形相化してゆくとは、一瞬一瞬の相互転換が蓄積され、構成されていくということである。蓄積され構成されていくということは、外が内となり、内が外となることである。見られたものが見るものとなることであり、作られたものが作るものとなることである。獲得された形質がはたらくものとなるのである。そこに無にしてはたらく所以があるのである。私達はよく美術館へ絵画の鑑賞に行く。絵画を鑑賞するとは秀れた形、美しい色彩を見ることによって我々の眼の内容とならしめることである。先人の描 いた作品が見るものの眼の内容となって次に作品を見るときに、見て来たものが我の眼としてはたらくのである。芸術作品を見ることによって受ける感動とは、その作品に表わされたものが自己の内容となり、はたらくものとなったということである。見られたものが我の目としてはたらくものとなり、個性をとおして社会で行なう自己の内外相互転換に世界を見るとき、その形相化への衝動が創作意欲である。

 内とは外に表れんとするものである。形相化せんとするものである。それは無なるものでなければならない。木村素衛はその著『美のかたち』に於て、「内の形のなさはそれ故このようにして形の単なる否定ではなく、却って形の欠如なのである。欠如とは在るべきものの窮乏である。それは従って形への可能性に外ならない」私はこの論理に多くの未熟なるものを思わざるを得ない。その一つは内が欠如態であるならば、外に表われたものは 完結態であるかということである。若し完形態であるならば作品の優劣は何によって決めるのであろうか。又の一つは欠如態としてあるものが表われるのは創作と言い得るかということである。創作とは線が線を呼び、色が色を分つものである。それは欠如の充足ではなくして一瞬一瞬が新たである。今一つは創作が創作を呼ぶということである。表わされた形が次の形を呼ぶのである。呼ぶということは内としてはたらくということである。内が欠如態であるならば、表わされた形は欠如としてあるということが出来る。そこからは作品の独立性ということを求めることが出来ないと思う。更に秀れた作品程見る者をして創作への意欲を駆り立てるものである。そうとすると秀れた作品程欠如する作品と言わなければならない。

 私は氏の言われることが全面的に間違っているというのではない。私は氏の斯る欠点は創作としての内と外を平面的に捉えられたところにあるとおもう。創造としての歴史的形成に求められなかったところにあると思う。我々の創作とは深く歴史的時の自己形成を背負うのである。歴史的時の一瞬として創作するのである。創作されたものが創作を呼ぶのである。創作されたものが創作を呼ぶとは、外が内となることである。それは無限の転換である。それは歴史的形成的である。間断なき動転である。

 創作を呼ぶ創作されたものとは、それは最早作者を離れたものである。世界の内容とし 世界の形相となったものである。無の自己限定として、歴史的必然の体系に入ったものである。それが内なるものであり、外に表われんとするものである。我々の表現衝動は世界の深奥より生れるのである。我々が表現せんとするのは、世界が我々を自己の内容として、我々によって自己を表わさんとするのである。内なるものとは、我々があるとは、世界の深奥を宿すことによってあるのであり、表現によって真なるものに触れ得る自覚的捕捉である。見られたものが見るものであり、作られたものが作るものである。見るものの方向、作るものの方向が内なるものである。それは内が外を含み、外が内を含むことによって無限に深まりゆくものである。そこに歴史的形成があるのである。内面への道は外を明らかにすることによってのみ至り得る道である。

 ロダンは道行く少女を指差しながら友人に「あそこに全フランスがある」と言ったとい う。内外相互転換として外を環境とする生命の形は環境の綜合である。単細胞の結合より持続して来た生命の営みは、身体は環境の密像であり、環境は身体の投影である。道元の為水為命であり、為空為命である。生命の動的空間として一つの生命圏である。我々の身体の形は、生命圏に生きるものとしての、行動的生命の形である。

 表現は斯る身体が身体を破って外に流れ出たものということが出来る。身体を破ったとははたらく生命としての身体が身体を超えてはたらくものとなったということである。一瞬一瞬が時を統一するものの内容となったということである。時を統一するものの内容となったとは、身体を超えた外としての物を身体としたということである。手の延長として道具を持ったということである。物を身体の延長として、道具をもつことによって、身体は内と外に分れたのである。前に書いた内と外は斯るものが自覚的に深化したのである。

 道具をもつということは物を製作することであり、製作するとは技術的となることであ 一瞬一瞬が時を統一するものの内容となるとは技術的となることである。技術とは一 瞬一瞬の内外相互転換が経験として蓄積されることである。我々の身体は限り無い内外相互転換によって形成されたものである。そのことは身体が機能的構成的ということであり技術的ということである。身体は大なる化学工場であると言われる如く、外を内とし、内を外とすることは測り得ざる機能をもつのである。それは六十兆と言われる細胞がはたらく技術集積である。道具をもつとは、斯る技術集積が身体より溢れ出たということである。身体より溢れ出たということは、物を身体に模するということである。製作物は先ず身体の形を模するのである。椀は掌を窪ました形であり、槌は握りこぶしの形である。鎌は握り獲る指の形であり、剣は腕を伸ばした形である。それは単に道具のみではなく、機械も亦道具よりの延長として、身体の延長の意味をもつものである。湯川博士は「物理学は視覚と関節覚の発展したものである」と言われた。コンピュータは脳を模すと言われる、共に溢れ出た身体である。身体を溢れ出るとは外としての世界を内とした身体が、身体を外として世界を見るということである。物を作るとは身体を外として世界を作るということである。そこに物の形があるのである。

 斯かるものとして私は表現の形に二つの方向があるとおもう。一つは内外相互転換としての一瞬一瞬の用に供する形の方向である。一つは一瞬一瞬を統一するものの内的矛盾としての死を克服する形の方向である。勿論これは二つのものではない。縄文土器の紋様は悪魔を調伏する呪術の意味をもっていると言われる。内外相互転換そのものが形成作用であり、時の統一なくして一瞬一瞬はない。併しそれは技術の発展と自覚の深化によりやがて相分れるものである。永遠の目より見る生死の方向に祭器となり、一瞬一瞬の用に供する方向に食器となったのである。

 私は芸術の形の根源には永遠の内容としての生死の矛盾のはたらきがあるとおもう。而してそれが初めと終りを結ぶ生命の自覚としての、人間の最も深奥を露にするものであると思う。

 前にも言った居く、生命の形は太初よりの無限の営為を蔵するものである。虎、羊、鷲、鳩、鮫、鮒等各々その形を異にする、形を異にするとはそれぞれの意志をもつということである。見るからに怖ろしいのがいる。寄って行って撫でてやりたいのがいる。それは生きて来た証跡であり、生きてゆく姿勢である。渾沌に生きた古代人にとって、形とははたらく力であり、産む力であったであろう。パスカルが葦よりも弱いといった人間が、その持てる知に於て見出したのが力としての形であったとおもう。暴風雨も獅子も宇宙の力の現れであり、病魔も亦神の怒りである。力に於て宇宙は総括されている。それを宥め、打勝つためにはより大なる力をもたなければならない。私は形としての表現衝動を断るものに求めたいとおもう。自己救済として形を見出したものであるとおもう。

 南方土人の作る怪奇なる彫像は、それが悪魔を追払うと信ぜられているという。亦面はそれを被るとき、その目、その牙、その角等の破壊力がその人に備わり、悪霊に打克つと信ぜられているのである。フランスに於て発見された先住人クロマニョンの洞窟画は、狩猟の対象の繁殖を祈って描かれたものであろうと言われる。亦鹿踊りや猿楽は、鹿や猿の生態を模倣することによって、稲作の被害を免れようとした行為であると言われる。その限りに於てそれ等の表現は未だ芸術の内容ではない。併しそれと同時に生産物は人々の意識に於て物ではなかった。水戸光圀が諸国漫遊の途次、農家に立寄って米俵に腰を下ろ たところ、老婆にお米様に腰を掛けたと言って撲られかけたという話がある。勿論これは史実ではないであろう。併し当時の人々の意識を表わしているとおもう。徳川時代に於てさえそうである。古代に於て米は神の姿であった。道具に於てもそうである。『子午線』 の十四号に、収穫の終ったコンバインを洗ってお米を供えるという歌があった。全部が渾然たる一体の行為であり、姿であったのである。我も亦渾然たるものの一内容であったのである。それが芸術的表現となったとは如何なることであろうか。

 私はそれは多くの人々が、永い時間に於て繰り返すうちにそれ自身の展開を発見したことであるとおもう。例えば鹿踊りや猿楽に於て、模倣することによって身体がそれに適合する撓やかさをもち、撓やかさがより細かな動きを持ち得るのである。身体は新たなリズムを持ち、新たなリズムは動作の展望を開くのである。模倣や稲作を守るということを離れて動作が動作を呼び、新たな動作のよろこびが生れてくるのである。純なる生命のよろこびとなるのである。それは絵画に於ても同じである。繁殖を祈った動物の形態が、線が線を呼び、色が色を分つのである。繁殖への願いを離れて形のもつ無限の深さに、視覚の発展のよろこびをもつのである。

 芸術は感覚の純なる発展である。後で作られたものはより高い構成の密度をもつ、併し それは後のものの為に前のものがあったということではない。作品は一々の時点に於ての生命の自己救済として見られたものである。無にして形成する、初めと終りを結ぶ永遠の生命の表現として、それ自身の完結をもつものである。無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達する。併しそれは過去の相を表さんとしたのでもなければ、未来を尋ねんとしたのでもない。自己の奥底に形の光を当てんとしたのである。斯る意味に於て芸術的表現は現在より現在へである。柿本人麿やミケルアンゼロは、我々の創作を呼びかけるものである。過去と現在を包む時に於て対話するものである。現在より現在へとは永遠の時間の自己限定という意味である。それは過ぎ去ると共に過ぎ去らないものであり、来ると共に来ないものである。芸術的価値が技巧の巧拙よりもふかく其の時代の心の把握に求められる所以であるとおもう。

 勿論時代の心というのは求めて求められるものではない。我々は其の中に生きるのである。時代の心を知って表現するのではない。生きるとは内外相互転換的であり、内外相互転換的とは危機としてあるということである。明日を知らない生命としてあるということである。而して無にして形作る生命としてそれは世界形成的である。世界形成的として歴史は常に危機としてあるのである。危機の克服として歴史は動いてゆくのである。我々が世界に生きるとは、好むと好まざるにかかわらず歴史的危機に触れているのである。形成とは矛盾の克服として現われるのである。時代を先取りしようとして表わす形は、浮薄な小主観にすぎない。世界として無数の人々の営為が歴史的危機に一つの動向を持ち、その動向の形象的直観に於て時代の心は表わされるのである。

 危機とはその内包する矛盾によって既成の秩序が壊されんとすることである。それは壊さんとするものが新しい秩序を打樹てようとすることである。古い形が否定されて新しい形が生れることである。新しい形は矛盾の救済として現われるのである。斯る意味に於て現れる形は常に矛盾を包む同一の意味をもつ。芸術的表現の形も斯る救済として形を表わすのである。それは製作物としての形を物を超えた世界の形として見るのである。世界が世界を表わしてゆくものとして見るのである。店頭に溢れる物の形を、世界が世界を表わしたものとして、そこに世界の歴史的現在の範型を見るのである。雑多の底に眼を潜めることによって、危機として動きゆく一つの形を見るのである。

 熱情なくして世界の如何なるものもあり得なかったという言葉がある。熱情とは生得的身体を表現的身体に転じることによってもつ情緒である。自己を捨ててゆくことによって見出される新たな生の相への活動である。作られたものから作るものへと転じることによって展ける、世界への心情の高揚である。世界の中に死んでゆくのである。製作的表現的に死すとは、自己を世界に化すということである。世界に化すということは物に化すということである。物に化すとは自己を世界に実現するということである。 世界に実現するということは、歴史的創造体系に入るということである。過去と未来より呼ばれ呼ぶものとなることである。そこに形が生れるということである。

 死して生れるとは、芸術的表現に於て如何なる形が現われるか知らないということであ る。勿論過去に呼ばれるとは既成の形があるということであり、その形の上に立つということである。そういう意味で形はあったということが出来る。併し表現の形は作者の個性を通ることによって製作されるのである。知らないというのはその個性が、歴史的現在の底に深く潜み、歴史的現在の顕れとして、線が線を呼び、色が色を呼ぶということである。過去の形をとうして歴史的現在が相をあらわすということである。それは作者を超えて世界が世界を表わすのであり、作者にとってそれは霊感的である。のみの一打、筆の一線は知らざる声に導かれるのである。そこに無にして形造る生命の形の究極があるのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

日本的形成と世界

 生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として摂取することによって身体を作り、身体の不用となったものを排出して外となすのである。斯る外としての食物を行動によって獲得するのが動物である。外を内にし、内を外にするものとして生命は全て機能的である。動物は行動的として、空間的に身体を超えた機能をもつのである。身体に運動能力をもち、外に行動圏をもつのである。断る行動圏が環境であり、そこに生命は自己を見てゆくのである。

 内外相互転換的として、外を転じて身体を作ってとは身体は環境を映すものとしてあるということである。身体が環境を映すとは、環境は身体的にあるということである。動物は行動的に生命を形成するものとして、身体が作られるということは、身体が環境を作ってゆくということである。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは内外相互転換が蓄積的となることである。蓄積とは一瞬一瞬の相互転換が結びつくことである。無限の生命の営為としての経験が現在の行為に於て結びつくことである。私達はそれを記憶にもつ、記憶は現在の行為を成立させると共に、現在の行為によって維持されるのである。一瞬一瞬の内外相互転換として経験の結合とは物が生れるということである。木の皮などの間に魚が入って動けなくなっているのを捕えたとすると、動けなくなった構造を模擬するのが経験の蓄積であり、その構造を更に発展さすのが形の成立であり、形の発展である。形とはわれわれの意識に於て物が成立したということである。物は営為の蓄積として、生命形成の内容として現われるのであり、次の形を生むべき必然をもつのである。それは一面に主体の形を表わすものとして、一面に環境の象を表わすものとして、綜合的具体の意味を有するものである。そこに人間が見られ、環境が見られるものとして世界の意味を有するのである。物の生産に於てわれわれは世界をもつのである。

 私は斯るものとして世界形成に二つの方向を見ることが出来るとおもう。一つは環境的 方向であり、一つは主体的方向である。環境は身体に転化さすことによって身体があるものとして死を距てて対するものである。死をもって迫ってくるものとして大なる力である。われわれの機能はそれを転化さすべく現れ来ったのである。環境的方向とは死をもって迫ってくる大なる力を機能によって転化すべく捕捉解明する方向である。機能によって捕捉解明するとは、身体に適応さすべく環境としての生の対象を変革することである。機能によって対象を変革するとは、機能と対象は相即するものであり、対象の中に深く入ってゆくことが、主体による対象の捕捉解明であり、それによって環境を作るというのが変革するということである。そこにわれわれが持つ絢爛たる物質文明があるのである。

 主体的方向とは機能と対象の相即を機能の方向に徹底させてゆく方向である、機能が見出した対象を生命の影とする方向である、機能は対象との相即として生死に於て生命が作り出したものである。そこから対象が見出されるということは、対象は生命に回帰すべきものである。対象の多様は生命の一に収斂さるべきものである。そこに対象の多は生命の一に克服されなければならない。欲求は対象の奴隷である、それを殺して世界を自分の内容として見るのである。私は禅家の現成の如き斯る方向に成立するのであるとおもう。

 私は対象的方向に成立する世界形成を知的、主体的方向に成立する世界形成を情的と言い得るとおもう。物質の発展は何処迄も分別してゆくことである。新しい特性の発見が知的創造である。その統一は法則的・公理的である。それに対して身体に自己を現わしてゆく生命は世界を一としてあらしめるものであるとおもう。身体は行動的に自己形成的である。行動は不可分的である、不可分的とは一であるということである。身体は多くの機能を有する。それは行動体として一なのである。斯る一としての身体の表出は情緒である。斯るものとしてわれわれの世界形成は対象的知的方向に拡散し、生命的情緒的方向に収斂することによって無限の発展をもつのである。

 斯かるものとして私は文化の形成に二つの方向があるとおもう。一つは対象的方向であり、一つは主体的方向である。一つは物の方向であり、一つは生命の方向である。そして方向を決定するものは、対象としての環境と主体の関り方にあるとおもう。それは地理的歴史的である。苛酷なる気象、温順なる気象はそれぞれの生命の形象を生み出し、海洋、山岳、異民族との交叉はさまざまの形象を生み出してゆくのである。四方を海に囲まれて他民族と隔絶し、豊富なる食糧資源によって完結せる生活圏をもったと言われる日本民族は独自の生命形成をもったとおもう。

 日本経済新聞に連載の徳川吉宗の小説に、狩場で特に目立った者に着ている羽織を与え、もらった者は直に着込んだということが書いてあった。有名な菅原道真の御賜の御衣も帝が着ておられたものであるというのを読んだことがある。そこには身に着けているものはその人の生命を宿し、それを持ったり着けたりすることは、その生命を共有する思想があったと言われている。芝居や角力興行に於て贔の者に羽織や入れを投げたり、死者の形見分けとして身に着けていたものを遺族がもらうのも共通するものであるとおもう。生命を宿すものとして我と汝がそれによってつながり、そこに同一を実現するのである。そこに於ては世界は生命としての身体の拡大としてあるのである。

 私は短歌を作るものであるが、短歌も亦基盤を等しくするものの上に立つとおもう。曽って何かの本で「万葉集の中の見ても見飽かぬという表現は、作者はそれを見ていても見飽きないということではなくして、それは自分の生命の姿に接しているのである」と言った意味のことを書いてあるのを読んだことがある。私はそこには景色は対象としてあるのではなくして自分の生命の展開としてあるのであるとおもう。私は現代の短歌創作に於ても斯る原理が根元的にはたらいているとおもう。以下現在の代表的作歌と言われる小中英之と高野公彦を数首宛取り上げてみたいとおもう。

 小中英之

射たれたる鳥 食みて身の闇にいかばかりなる脂のきらめくや

月射せばすすきみみづく薄光りほほえみのみとなりゆく世界

遠景をしぐれいくたび明暗の創の如くに水動きたり

花びらはくれなゐうすく咲き満ちてこずえの重さはかりがたしも

 高野 公彦

あかあかと天ののみどを下りゆく落暉に向ひつつしみどする

喪の列はさみしく長し橋に出てひとびとの耳夕日に並ぶ

なきがらのほとりに重きわがからだ置きどころなく歩くなりけり

わが生と幾つかの死のあはひにて

 私達はここに短歌の創作とは、対象を如何に身体に於て見、身体との同一を実現するかにあることを見ることが出来るとおもう。対象を身体に於て捉えるということは、身体を対象に拡大してゆくことである。世界をこの我の実現とすると共に、この我を世界の実現とすることである。そしてこの我と世界の展開を根底に身体を置き、身体の延長に於て見たところに日本的特殊があるとおもう。

 身体は情緒に於て自己を露わにする、他と関る身体は情緒に具現するのである。身体に具現するとは情によってつながるということである。対象を身体の延長とし見るということは情に於て包むということである。私は私達の人間関係の根底に断るものがはたらくとおもう。我と汝は相対するものである。相対するものは否定し合うものである、否定しあうことが関係的同一をもつものである。併し私達の祖先は徹底的な否定をもたなかったと おもう。敦盛に哀れを感じた熊谷直実の如きものがあったとおもう。対立よりも深く情の一なるものがあるのである。我の延長として汝があり、汝の延長として我があるのである。我の身体の延長、汝の身体の延長が重なるのである。私は日本の社会は斯るものの無尽の 重なりであったとおもう。日本の社会は世間として成立した。私は世間とは法律や制度によって成立したものではなく、情誼によって結ばれたものであるとおもう。それは「頼めば越後から米を搗きにくる」と言われ、「渡る世間に鬼はない」と言われ、「世間情がな きや成り立たぬ」と言われた世界であるとおもう。

 理知の世界は判断の世界であり、情の世界は共感の世界である。共感の世界は涙を等しくし、ほほえみを等しくするものとして身体に即する、それだけに日本人は大なる形相を 生まなかったとおもう。身体を養うは日々の営みである。私は日本の形はそこより生れたとおもう。よく日本文化の形を言われるときに、生花・茶湯・盆栽が挙げられる。何れもその形の出現には海外渡来の理念がはたらいているとおもう。併しそれは日本的なものを渡来の理念によって洗練したものとして、日本の形と言ってよいとおもう。生花は体・用・相として、天・地・人を表わすと言われている。天・地・人は恐らく中国の概念であろう。そうとすると生花は草木に見出した宇宙の表象である。併し活けている人は果して花の形に宇宙を感得しているのであろうか。私は逆に形に花の命を感じているようにおもう。花の命を見、この我の命を見ているようにおもう。壮大なる形而上的形象を見ているのではなくして、花との一体感を楽しんでいるようにおもう。茶は私達の生活で最も一般化されているものの一つである。日常のことを喫茶喫飯という、その内茶は腹に軽いだけに飯よりも更に一般的である。よく人が来ると「お茶でも飲んでゆけ」と言う、茶湯とは斯るものに内面的なるものを見出した形であるとおもう。よく茶禅一味といわれる。併し禅が何処も我の底に徹して宇宙との結合を体験せんとするのに対して、茶湯は主客の動作である。主は客に応じ、客は主に応じる。そこに所作としての形を生み、世界を作ってゆくものである。その所作の内容が和敬静寂である。私はそこに日本的なものの表れを見ることが出来るとおもう。和敬は主客の内容であり、静寂は世界の内容である。敬は互が生命が延長としての世界をもつことを認めることであり、和はそれが一つの世界を実現することである。私はそのようなものを情としての身体の延長が重なり合うというのである。静寂そこから生れるのである。静寂とは音がなくなったことではない、対立するものが大きな形に包まれたということである。私は茶湯が禅につながるのはそこにあるとおもう。私は茶湯の如き身体によって見出して行った世界の典型であるとおもう。盆栽について私は 殆んど知るところがない。併しあの小さな盆景の中に古木の相を見るのだと言って、端然たる姿を作り出しているのは、時の壮厳としての老いのあるべき姿を写しているようにおもう。

 身体の延長として外をもったということは製作としての形をもたなかったことであるとおもう。製作としての形が成り立つためには外としての環境よりの否定がなければならない。否定を肯定に転ずるのが製作である、死として迫ってくる環境を生に変革するのが製作である。そこより形が生れるのである。勿論環境に生きることは環境と闘うことである。唯それが受動的であったのである。単一民族であり、豊葦原瑞穂の国と言われた環境に於て、それは闘争的よりもより多く親縁的であったのである。寒暑や飢餓もその時を過せば快適な恵みを与えてくれたのである。受動的とは身体を維持してゆく最小限の変革ということである。自然の恵みを享受するのは身体である。親縁的とは身体と環境が和合することである。ここに身体の延長として形を見出してゆく日本民族の基盤があったとおもう。

 斯るものとして祖先が見出した形は身体に即するものであったとおもう。身体に即するものとして歌唱や舞踊であったとおもう。今に残る田植唄や酒造りの唄、船頭の唄は働きが唄と共にあったことを物語るものである。私達の小さい頃伊勢参りの下向というのを見たことがある。私達が迎えに行ったのは浄谷の浄土寺の八幡神社の境内であった。そこで一旦落着きの飲食をして、それから四軒程の帰路を酒を飲み、大声に唄い踊り乍ら帰るのであった。私はその陶酔が神との一体感であったのであろうとおもう。身体は情緒に自己を露わにする、唄や踊りは情緒の自ずからな表れである。環境と身体の和合離反のそのままの現れである。そして身体としてのそのあり方は韻律的である。私はそれ等が今もわれわれの生命形成の底にはたらいているとおもう。情的・リズム的なるものが形成の根元と してあるとおもう。

 日本の文化を縮みの文化と言って一時よく語られていた。縮みとは小さく表わされているということらしい、私はそこにも身体を媒介とした形があるとおもう。理性によって把握された世界概念に対して、身体の及ぶ範囲は狭い、人間関係に於ても生れ来った結合の延長となって来たようにおもう。親分子分兄貴分弟分親方弟子と言った名称はそれを端的に現わしているようにおもう。それは他者を容れ得ないものである。私はそこからは真に世界への展開をもち得ないとおもう。縮みというとき盆栽などが典型として語られていた。併し私は天地を縮めて見ようとした気持があったと思うことは出来ない。手に触れて作ることによって生命の姿を感じようとしたのであるとおもう。居住空間としての家も私達の祖先にとって宇宙を現わすべきものであったようにおもう。飲食・起臥・糞便の用の室の外に、奥の間を設けて神仏を祀り貴賓の用に供し、庭園を作って天地を配したのはそこに存在の一つの完結の空間をもったということである。私はそこに身体に捉えた日本の形があるようにおもう。併しそのことは世界を世界、宇宙を宇宙の拡がりに於て見ること が出来なかったということである。

 日本人は摸倣に巧であると言われている。模倣に巧であるとは独創を持たないということである。私はそこに日本的創造があるとおもう。模倣が創造であるとはおかしいが、日本人が形に自己を見てゆくということである。身体は生れ来ったものとして、それにつながるものは所与としての自然である。そこからは自己を見る形というのは生れて来ない。私は日本人が製作としてもつ形は農耕をも含めて殆んどが渡来したものではないかとおもう。文物に驚異し崇拝して受入れたのではないかとおもう。それでは模倣が巧であるとは何ということなのであろうか。物の製作は道具を媒介とする。道具は手の延長といわれる。手は身体の一部として道具は身体の延長である。私は斯る意味に於て渡来文化も日本的形成もその根元を等しくするとおもう。唯その方向が対立するものとしての外の方に向うものと、包み合うものとしての内の方に向う差違があったのであるとおもう。身体は生命であると共に物質である。内外相互転換的に形成的であるとは、対立的で一であるということである。外食物として摂取するものとして内外は対立するのであり、それによって身体が作られるとして内外は一である。動物は行動することによって食物を獲得するもして対立が顕著である、対立が顕著であるものとして一も顕著である。私は斯る対立の方向に物が見られ、一の方向に生命が見られるのであるとおもう。対立の方向に於ては身体も物であり、一の方向に於ては食物も生命である。対立の方向に於て身体の延長は物としての道具となるのであり、一の方向に於て身体の延長は衣食も生命となるのである。私は西洋はその形成に於て外への方向を持ち、東洋は内への方向をもったとおもう。そして日本はその内への方向の純なものであったとおもう。而して対立するものは一をあらしめんが為に対立するのである。食物を獲るのは身体をあらしめんが為である。西洋文物の絢爛たるは、絢爛たるが故に尊いのではない、より深大なるよろこびかなしみを見せてくれるが故に尊いのである。私は内的なるものとして心情の方向に身体を見出して行った祖先は豊かな情緒の陰影を持ったとおもう。彩り豊かな四季の移りの中に鋭敏な調和の感覚をもったとおもう。奈良時代に仏教儒教等の高度なる文化を受入れた日本にはそれだけの素地がなければならなかったと言われる。私は身体的方向に重ね合う情として一つの世界形成をもっていたとおもう。それは物としての世界形成の方向を極小にした。併しそれは世界形成として軌を一にするものであるとおもう。而してそこには形の至り着くべきものがあるとおもう。私は前に対立の方向に物が見られ、 の方向に生命が見られるといった。物が形として実現するということは相対するものが一となったということである。それは生命の実現の意味を有するものである。その意味に於て如何なる形も芸術性をもつのである。私はわれわれの祖先が外来文化を受入れたとき斯る日本的形成の素地に於て受入れたのであるとおもう。それは物に生命を映す方向である。何処迄も分析と抽象を求める方向ではない、感覚の快適に於て身体との結合を求める方向である。直観の方向である。一刀三拝して形相の降臨を祈った残影を曳くのである。模倣が上手いとは単に伝来物と同じ物を作ることではないとおもう。更にそれを発展させ、物の出で来った本来の指向するものを完成させんとすることであるとおもう。それは新たな形に見出すことに於て二次的創造というべきものであるとおもう。ゲーテの創作を受胎的創造と呼んだ人があったが、私は日本のあり方をそこに見たいとおもう。自覚的製作的といっても生命が内外相互転換的であることを失なったのではない。内外相互転換的に自覚的なのである。製作は内外相互転換の行為的現前である。生命を身体的形成として、物に身体を映し、身体に物を映すところに新しい形が生れるのである。物は身体ではない、身体は物ではない。それが物に身体を映し、身体に物を映すということは、身体は物に消えることによって現われ、物は身体に消えることによって現われるということがなければならない。絶対否定を媒介するものとしてそれは直観的である。直観とはこの我が見るということが、この我と物を包んだものが自己を見るということである。この我が世界の内容として、世界が世界を見ることがこの我が見るということである。そこにわれわれは物となることが出来るのである。物を作るという行為をもつことが出来るのである。身体としてのこの我が物となり、物がこの我となるということは、物はこの我の身体に転ずることによって真の相をもつということである。この我の身体を媒介とすることによってより大なる形を実現し得るということである。私はそこに日本の模倣があったとおもう。日本人は繊細なる感覚に於て物の姿を見出して行ったのである。その行住坐臥に於てより相応する形を見出していったのである。

 私達は今や好むと好まざるとに関わらず世界に面している。世界に面しているとは世界歴史の中にあるということである。世界形成的にあるということである。日本の模倣は成 熟し切ったとおもう。成熟し切ったとは最早摸倣によっては展開をもち得ないことである。模倣の底から新しい形を見出さなければならないとおもう。外を転じて内とするということは、そこより形が生れ、形が来るものとして外は無限なるものである。それに対して身体は生れ来ったものとして形作られたものである。身体の延長として形を見るということは、身体に同化させることである。それは既にある形より脱け出せないということである。日本文化の因循姑息性はそこにあったということが出来る。それを打ち砕いたのは明治以来の西洋文物の輸入である。日本はそこに一応の世界性をもった。日本は飛躍的な国力の充実をもち、豊かな展望をもった。併しそれは西洋的なるものの追随の上に打建てたものであった。それは世界の近代を作ったのが西洋文物であるとして仕方のないことであった。西洋の模倣なくして近代の建設はあり得なかったからである。私は今転換点に立っているとおもう。一つは日本は近代化を完成したということであり、模倣によっては将来の展望をもてなくなっているということである。一つは西洋主導の歴史が行き詰っているということである。そして私は前者が後者に収斂されるものであるとおもう。西洋的なるものに随順するものが、西洋的なるものが行詰るときに共に行き詰るのは当然である。

 前にも書いた如く西洋文化は物として対象的方向に発展した。物は何処迄も相対的である、対立するものとして形をもつのである。対立するものは相互否定的である。物が対立するとは物を製作するものが対立することである。内外相互転換的として、外が死として迫ってくるとき、死を生に転ずるのが製作であり、物の出現である。物は死を生に転ずるものとして力である。製作するものは自己の生存をその力によって獲得するのである。物は外を内に転ずる努力によって出現するのである。断る努力は自己に世界を見、世界を実現しようとする意志より出で来るのである。自己に世界を実現しようとする意志は、自己が世界たらんとする意志である。生命は一つ一つが世界を映すところにあるのである。それが相対的方向に自己を見るとき、対立するものを否定して自己が世界たらんとするのである。私は物質に世界を見出した西洋が帝国主義に至り着かねばならなかった必然はここにあるとおもう。それを打破ったのは第二次世界大戦であった。二次大戦は帝国主義の先頭に立つものと遅れたものとの戦いであった。遅れたものは全体主義の名の下に、力の結集に於て立上った。併しそれは表面上のことであって、その裏には生産手段が帝国主義的対立を超えた世界を要請するべく発展していたのである。その世界性が各民族の自立への自覚を促していたのである。大戦は斯る矛盾に於て世界エネルギーが爆発したのである。この頃よく今次大戦に於ける日本の侵略と謝罪ということが新聞に載る。それは恐らく対戦国の政治運営の技術に関るのであろう。併しそのような目で見ることは正しい歴史認識 を誤るものであるとおもう。誤るとは未来への世界史的展望をもち得ないということである。世界は世界エネルギーの消長に於て捉えらるべきである。その消長に於て日本は如何なる位置を占めてゐたかが問われるべきである。私は謝罪しなくてもよいというのではない。お互いを巻き込んだ大なる流れがあると言うのである。そしてそれは向後もわれ等を押し流すであろうというのである。それは常に危機と救済に於て形より形へと転じてゆくのである。

 物の生産が世界性を要請するということは世界は運命的に一となったということである。私達はロンドンで今起っている事件を知ることが出来る。イギリスの服を着、イタリヤの靴をはく。地球の温暖化、砂漠化の防止を集って協議する。国家間の紛争を国連によって調停する等は、物の生産が一国の内容としての富国強兵を超えて人類の内容となったということである。ここに帝国主義の崩壊という歴史的必然があったということが出来るとおもう。世界は最早力の対立と均衡によって維持すべき世界ではなくなったのである。私は現在の矛盾は物の斯る世界性へ要求に対して主体としての人間の対応態勢のおくれにあるとおもう。われわれ人間は無限の過去を背負うことによって現在があるものである。過去の努力を財として現在の生活を営むものである。われわれの思考は斯る生活より生れるのである。そこに社会意識、ひいては社会態勢の遅れるべき理由がある。領土・民族・宗教等に絡まる紛争の多発は、物の生産の発展による世界自覚の要請に対して依然たる帝国主義的意識の矛盾の修正であるとおもう。地域的エゴが修正を迫られているのであるとおもう。勿論問題はこれに要約するには余りにも複雑であろう。併し世界の形成エネルギーは矛盾を自己を転ずる力として新しい形を生んでゆくのである。

 対立が否定されたとは、世界は新しい一の主体として実現するべく要請されたということである。世界は多くの主体の対立する世界ではなくして完結するものとなったということである。主体が対立する世界とは、民族とが国家とかが外との相互転換に於て自己の中に自己を見てゆく世界であったということである。発展を民族とか国家に置く世界であったということである。完結するものになったとは、それが地球的規模に於て為されなければならなくなったということである。民族や国家は狭溢なるものとして発展の障害となってきたということである。滔々たる国際化という言葉の氾濫は斯る流れを表わすものであるとおもう。内外相互転換として斯る物としての外の変化は、内としての主体の変化を求めるものである。民族的感覚・国家的思考を超えた世界人が要請されるのである。それは新しいタイプの創造である。私は現代の若人が落ち入っていると言われる虚無感・無力感・白けムードと言われるものも、世界の流れを把握し切れない主体の乖離にあるのではないかとおもう。私は斯る新しい人間像・世界観の形成に日本的なるものが要請される余地があるのではないかとおもう。

 私は前に日本は海を距てた島国として一つの完結せる生命体をもったと言った。そこに世界が地球的に一つの完結的営為を持たねばならないときに、日本的形態がモデルとして考慮さるべきではないかとおもうのである。それは生命形成として我と汝が重なり合うということである。重なり合うとは我が汝を包み、汝が我を包むことである。私はそこに新しい世界が見出されるのではないかとおもう。勿論私は日本が近代に於て克服した祖形を復活せよというのではない。見直すとは現在の矛盾を包むものとしてである。対立が否定されるとは、対立によって現在の形が作り出されたということである。その形の発展の内面的必然によって対立を超えようとするのである。見出すとは対立の成立する根底としてである。対立したものが一としてあるものとしてである。

 地球は地理的に無限の多様をもつ、そのことは地球上に住むものは各々異なる環境をもつということである。環境を映し、環境に映される生命形成は異質なるものをもつということである。そのことは地球は多様なる生命の形を生んだということであり、異質なるものの綜合として人類はあるということである。生命は環境と主体の相互限定として、映し映されることによって形をもつ、形は主体に対象を映し、対象に主体を映すことによって見られたものとして、主体と対象の相互限定を要求し、その内面的発展に於て自己を見るものである。そこに自己の相があるということは自己の内面的発展にあらざるものは理解出来ないということである。異質なるものは相互に懸絶し合うということである。環境と主体が内面的発展として、努力して築いたものに世界を見るとき、それが唯一の世界として全地球上に敷延し、実現せんとするのは意志の必然である。懸絶に於て否定し合うことは闘争である。懸絶するものは対手を仆すことに自己を拡大し発展させてゆくのである。人類が地球的に一になるとは斯るものを超克することでなければならない。私はその為に対立する形を超えて、形の根底に還らなければならないとおもう。形の根底に還るとは形を成り立たしめるものに還るということである。形を成り立たしめているものは内面的必然である。内面的必然に於て相互の接点を見るのである。お互が内面的発展に於て形を見出したものとして人類の同一を見るのである。私はそこに日本の重なり合いが見直されなければならないものを見るのである。勿論それは素朴なものであり、歴史的陶冶を経ていないものである。併しそのことは逆に還るべき原点であるとも言い得るとおもう。重なり合うとは如何なることであるか、私はそこに言われる出合いの如きものを見ることが出来るとおもう。我と汝があって出会うというのは日本的な出合いではない、重なり合いではない、我と汝がそこから見られるのである。出合いは事であり、事の内容として我と汝が あるのである。我の延長として汝を包み、汝の延長として我が包まれるとは事としてあるということである。我と汝を超えたものも動的として我と汝を見るということである。我と汝がつながり、動くところに我と汝があるのである。そこに頼まれば越後から米搗きに来るというのがあるのであり、茶の湯に主が客の心になり、客が主の心になるというのがあるのである。対立が調和としての生命形成がその完結性に於て対立が極小となり、調和が露わとなったのである。併しそれがそのまま世界に通用しないのは言う迄もなく、日本に於ても明治以降克服し来ったものとして、そこに還り得ないのは言う迄もない。

 世界が一つとなるとは一つの主体となることであり、環境が一つの環境としてそこに世界形成の内面的発展をもつことである。それが曽っての帝国主義的膨張の時代にあっては一つの特殊としての国家が他を征服し、従属せしめることによって実現せんとしたのであった。併しそれは真の世界の実現ではなかった。一つの特殊の拡大であった。覇道であり、覇権として他を失わしめるものであった。そこに帝国主義は世界の発展の実現であると共に発展の中に解消してゆかなければならない所以があったのである。世界が一つとして要請されるのは全人類の力の実現である。力の実現とは内在する力の遺憾なき発揮である。内在する力とは各民族が環境と主体の相互限定に於て内面的発展に努めた力であり、実現した形の中に蓄積し来った力である。世界理念は民族が各々の主体と環境の相互転換に於て実現し来った理念としての形相のより大なる発展を自己の理念とするのである。私は斯る世界形成の方向に於て日本の重なるというあり方が世界論理の基礎となり得るのではないかとおもうのである。重なり合うとは並存とか共存とかいうものではない、包み合うものである。我の延長として汝を見、汝の延長として我を見るとは、汝との出合いによって我は汝を摂取した新たな形をもち、汝は我を摂取した新たな形をもつことである。そのことは世界が新たな形をもったということである。

 歴史は常に危機とその克服と歴史である。世界が一つになったとは危機と克服を世界が担うということである。一部族の紛争も砂漠の拡大も、水の汚染も、酸性雨も世界の危機として世界が克服せんとすることである。そのために世界の学識者の必要なるは言う迄もない。併し更に必要なのは当面する人々の更なる努力であるとおもう。その地域に生きる人の身体は主体が環境を映し、環境が主体を映したものとして地域の綜合の意味をもつものである、時間・空間の相を宿すものである、身体はその環境よりの否定に耐えて生を維持してきたものである、それは独り人間のみではなく、草木禽獣全て生きるもののもった営みである。技術は身体の延長である。私は各地域の人がその環境との照応に於て更に深く近代科学を身につけるとき、技術は新たな展望をもち、地球は生々たる姿をもつのであるとおもう。包み合うとは各々の地域が環境と主体の内面的発展をもち、それが人類の危機に於て結合するということである。危機が地球的に捉えねばならなくなった現在に於てその結合が要請されるということである。私は断るものとしてこれからの世界形成は、その主体的方向に異質なるものとして理解を拒んできた特殊としての内面的発展を、内面的発展の普遍性に於て理解し合い、特殊理念を世界理念の一環として、新たな世界理念を作らなければならないとおもう。理念とは主体に環境を映し、環境に主体を映すことによって見出してきた形である。それは我と環境がそこにあるものとして世界である。全ての生命の声はそこから聞えるものである。全てがそこから出ずるものとして、全てに光被せ んとするものである。日本が曽って世界に進出せんとしたとき、八紘一宇の皇道理念をも って世界を光被せんとした、中国も自国を中華として四囲を未開視し礼楽の理念を宣布せんとした、近代に於ては西洋の科学の理念が世界理念であった、斯る理念が地域理念として否定されたのである。それは理念の世界性が地域性を遍狭として打破ったのである。世界の発展は地域を世界とすることを拒否したのである。併し世界は何処迄も主体が環境を映し、環境が主体を映すものとしてあるのである。そのことは新たな世界理念は地域の世界理念の上に打樹てられなければならないということである。地域の世界理念より新たなる世界理念へとは、理念ははたらくものとして自己を深化させたということである。私は日本の包み包まれるものに異質なるものを結合さすものがあるとおもうのである。

長谷川利春「自覚的形成」

形成作用

 生命の形とは何か、生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外として生命はあるのである。動物に於ては食物を摂り、酸素を吸い、老廃物を排泄する。外を内とし、内を外とすることは変化せしめることである。変化せしめるには変化せしめるはたらきがなければならない。はたらきをあらしめるには身体は機構的でなければならない。我々の有する臓器は精密なる化学工場であると言われる如く、機構的なることによって外なるものを内とすることが出来るのである。私は生命の形とはより早く、より確かに、より強く内外相互転換を行う。機構を作ってゆく生命の相であるとおもう。我々は一瞬一瞬内外相互転換的に生きるものとして、無限に生命形成的であり、形相形成の過程である。而してそれは終局なき過程である。斯る形成作用としての生命は如何なるものであろうか。

 内外相互転換は一瞬一瞬である。 この文字を書いている今も、胃は空腹に向って絶えざるはたらきをもっているのである。呼吸を止めれば数分にして死に至るのである。而して斯る一瞬一瞬の内外相互転換によって作られたものとして、内外相互転換を行う機構は一瞬一瞬をあらしめるものとして、一瞬一瞬を超えたものでなければならない。

 一瞬一瞬に形はない、それは何処より来り何処に去りゆくかを知らないものである。 に超越的なるものにも形はない。形は空間的、時間的制約をもたなければならない。瞬間的なるものが永遠なるもの、永遠なるものが瞬間的なるものにして、初めて形作るものとなるのである。瞬間的なるものは永遠なるものではない。永遠なるものは瞬間的なるものではない。それは何処迄も相反するものである。はたらくとはこの相反するものが直に一つということである。そこに瞬間的なるものと永遠なるものがあるのではない。はたらきの両方向に瞬間的なるものと、永遠なるものが見られるのである。内外相互転換とは斯る相反するものの一として、何処迄も自己を維持しはたら いてゆくのである。行為することによって形作るとは、斯く矛盾するものが一なるものであることによってのみよく能うことが出来るのである。

 相反するものとは何処迄も結びつかないものである。それが結びつくには媒介者がなければならない。直に一であるとは斯る媒介がはたらくものの自己媒介であるということである。自己媒介とは両方向が相互に媒介的であるということである。永遠なるものが瞬間的なるものを媒介し、瞬間的なるものは永遠なるものを媒介することである。永遠なるものは瞬間的なるものに自己を写すことによって、自己の形を実現し、瞬間的なるものは永 遠なるものに自己を写すことによって自己の形を実現することである。そこに直に一なるものがあるのである。生命が形作るとは斯る直に一なるものの純なる持続である。純なる持続とは、相反する方向に永遠なるものと、瞬間的なるものをもつものがはたらくという ことである。

 直に一なるものとして、相反する方向を相互媒介的に自己自身を限定するものは無にしてはたらくものである。永遠なるものが瞬間的なるものによって自己を露はとすることは、自己を否定して瞬間的となることである。瞬間的なるものが、永遠なるものに写して自己を見るとは、瞬間的なるものを否定して永遠の形相をもつことである。而して否定することが肯定することである。永遠なるものが瞬間的なるものとなることによって自己を露はにするとは、瞬間的なるものになることによって自己を見るということである。瞬間的なるものが永遠なるものに写し自己を見るとは、瞬間的なるものは永遠なるものによってあるのであり、自己の根源に還ることである。永遠なるものを求めるとき、何処にも永遠なるものはない、唯空を摑むのみである。瞬間的なるものに実在を求めるとき、それは唯現れて消える虚幻にすぎない。それが実在として形相をもつのは、相互媒介としての無限の動転に於てである。自覚的生命としての人間に於ては、それは制作的行為に於てである。何処迄も相反するものの中に消えゆくことによって、自己を実現してゆくものとして自性なきもの、無にしてはたらくものとしてものの形はあるのである。

 無にしてはたらくとは無いものがはたらくということではない。相反するものの中に己を見るということである。自己を消すことによって自己を見るということである。内外 相互転換としての自覚的製作的生命に於ては、外が作られたもの見られたものとなり、内ははたらくものとなる。作られたもの見られたものは、はたらくものの中に消えることによって、新たなものに生れるのである。はたらくものは、作られたものはたらくものの中に消えることによって、より大なるはたらく力を得るのである。外は内外相互転換の外として、より大なる内を孕む愈々明らかな形となるのである。

 外が内になるとは見られたものが見るものとなることであり、作られたものが作るもの となることである。それは形の持続、形の発展の世界である。内外相互転換としての内は無限の欲求としてあり、無限の欲求によって形作られる外は、その一々に於て完結しつゝ未完の形である。見られたものが見るものとなるとは、池大雅の画を見ることによって、大雅の目が、私達が物を見るときにはたらくということである。作られたものが作るものとなるとは、作られた二条離宮が家を建てるときに、その様子が構想の中に入ってくるということである。個物より個物へと転じつゝより複雑なる内容をもつ、より高度な形を作ってゆくのである。一つの形がより複雑なものを内包するということは、より機能的ということであり、内外相互転換としての形の進化ということである。

 見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなるとは、歴史的ということであり、形は内面的必然をもつということである。内面的必然をもつとは、形はそれ自 身が展開をもつということである。形が斯く内面的必然をもつということは、相互転換と しての内と外は、変じつつ変ぜざるものでなければならない。内に変化をもちつゝ 変化を統一するものでなければならない。それは時に於て変化を周期的にもちつゝ 周期を内にもつものとして不変なるものでなければならない。周期的とは繰り返すものであるということである。はたらくものも個性として一人一人異なりつゝ、ホモサピエスとしての同一をもつものでなければならない。変化の根底に同一があることによって形が生れ、変化と個性によって無限の進歩発展をもつことが出来るのである。堂々めぐりであることによって無限の多様をもつことが出来るのである。

 形の根底に同一があるとは、形は決定せられたものとしてあるということである。斉藤 茂吉という個性と、彼が学んで来た言葉、そして北上川の白浪を見たということの中に、詠わるべき内容はすでに決定していたということが出来る。茂吉は唯決定していたものを取出しただけだということが出来る。併し松尾鹿次さんによれば、茂吉は畔にうづくまって半日頭を抱えていたという。そこに可能性と現実性があるのである。可能性は如何に豊富な内容をもつとも次の形を呼ぶものとなることは出来ない。事実として実現したもののみが次の形を呼ぶことが出来るのである。彼の呻吟は過去が其処に没して、新たな現在が生れる陣痛だったのである。創造は回帰であり、回帰は創造である。根底としての同一が無限の個性を宿し、新たな個性に呼びかけるところに創造はあるのである。形成とは創造である。

 同一が個を宿し、新たな個に呼びかけるということは個が個を呼ぶということである。 個が個を呼ぶということが、同一がはたらくということである。斯るものとして個を呼ぶ 個は、創造としての世界を逆に内にもつものでなければならない。同一として無辺の空間と、無限の時間を内にもつものでなければならない。無辺の空間と無限の時間を内にもつものにして、はたらくものとして個が個を呼ぶことが出来るのである。製作的生命として個は製作するものである。製作するとは無限の過去と未来が現在に消えて生れることである。即ち個が世界を包むことなくして製作はあり得ないのであり、個が製作するとは世界を内に包むことである。製作に於てあるものは事実となり、個は製作に於て呼び交すものとなり、同一を実現するものとなることが出来るのである。勿論無辺の空間と無限の時間を内にもつということは、無辺の空間と無限の時間が身体にあらわれるということではない。製作とは無辺の空間と無限の時間が現在としてはたらくということである。それは個物を含んだものである。世界が個物を内にもつということが、個物が世界を内にもつことであり、個物が世界を内にもつということが、世界が個物を内にもつことであるところに製作があるのである。

 見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなる世界は初めなく終りな き無限の形成的世界である。而して見られたものが見るものとなるということは、初めがはたらくということでなければならない。初めが終りをもつということでなければならな い。それと共に見られたものが見るものとなることは、見られたものは一つの形を維持することではない。見るものとなるとは新しい形が生れることでなければならない。そこに は新しい形が見られたものを限定する意味がなければならない。未来が過去を作るという意味がなければならない。初めが終りをもつということは、終りが初めをもつということである。我々は初めと終りを結ぶものをもつものとして製作することが出来るのである。初めなく終りなきものは、初めと終りを結ぶものの自己限定としてあるのである。初めと終りを結ぶものは、自己の中に初めなく終りなきものをもつことによって、初めと終りを結ぶものとなるのである。

 製作とは新たな物を作ることである。それは無限の技術の蓄積の上に立つのである。技術の蓄積の上に立つとは、過去がここに消えて新たなものが生れることである。それは時がここに死んで新たな時が生れることである。それが現在である。内外相互転換として、人と物が否定的に転換することが物を作ることであり、現在として生きているということである。斯る製作が初めと終りを結ぶものをその根底にもつとは、現在の奥底は初めと終りを結ぶものであるといわなければならない。製作は永遠の今がはたらくといわなければならない。

 私達はここに絶対の矛盾の前に立つのである。永遠なるものは動かないもの、はたらかないものでなければならない。動くもの、はたらくものは変じゆくものとして永遠なるものではない。而して現在は転換として、製作として、無限に動きゆくものである。初めと 終りを結ぶものは、作りも作られもしないものでなければならない。而して初めと終りがあるということはその中間に無限の過程があることでなければならない。

 自己の形相を尋ねるとき、我々の推論はそこに至りつく、併しての矛盾は推論によって突破することの出来ない鉄壁である。全て相対的なるものは此処にあり、思考は此処より生れる。而して相対を絶し、思考の達すべからざるところである。それは相対は斯るものの形相であり、思考は斯るものの秩序であると言わざるを得ないものである。

 斯るものとして私は、生命は無にしてはたらき、無にして成就するものであると思う。 無にして成就するとは消すことによって実現してゆくことである。形成して来た全空間と 全時間は、内外相互転換としての今の一事にあるということである。このことを言い換えれば、我々の一瞬一瞬の行履は、全人類の生命がはたらいているということである。果てなきもの、底なきものにつながることによってあるということである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

呪いについて

 塚本国雄は曽って「斎藤茂吉の歌には呪力があると書いていた。また何時、誰が言ったのか忘れたが「柿本人麿の歌には呪がある」と書かれいるのを読んだことがあり、「源実朝の歌には呪がある」というのも読んだことがある。今日本棚から昭和五十年代の歌誌『短歌』を引っ張り出して開いたところに、山本健吉、岡野弘彦、前登志夫の鼎談の如きがあ り、冒頭に、

前「吉野万葉の根源というのは、呪なんですね。近代というのは、歌の根源に呪があるということを忘れているんですよ。呪だと、僕は思いますね、言問・聖なるもの。

山本「マジックね。

前 「バシュラールがそれを言ってるんですよ。」

山本「それは折口先生が言ってますよ。歌の根源は呪歌だということはね。」

前 「それはもう、折口説の一番根源ですね。」

山本「呪力というのは魔なんですよ。」

前 「ヨーロッパの偉い奴というのは、リルケにしても、ヘルダーリンにしても、全部東方のある根源みたいなものに触れていますね。」

―五行省略 –

山本「私の言っているのは魂論だもの。魂論をやらなくちゃ、死ねないわけだ。以下略。大歌人の創作の根底に呪力があり、作歌の根源に呪があるといわれる。呪とは一体如何なるものであろうか。

 広辞苑には、1.のろうこと。「一咀」 2.まじない。 「一文」 「-術」「巫ー」 3.[仏] 陀羅尼。真言。神呪。 と書いてある。更に陀羅尼の項には、だらに(陀羅尼)(梵語、総持、能持と漢訳。よく善法を持して散せず、悪法をさえぎる力の意) 梵文の呪文を翻訳しないで、そのまま読誦するもの。一字一句に無辺の意味を蔵し、これを誦すればもろもろの障害を除いて種々の功徳を受けるといわれる。私は以上から推して山本健吉氏の「呪力というのは魔なんですよ」と一概に言われないようにおもう。成程1の呪咀から言えば魔である 併し3の陀羅尼から言えば仏であるようである。両方にとれるということは私は両者を超えて両者を統一するものとして捉えなければならないとおもう。それは神として出現すると共に魔として出現するものであるとおもう。そこに短歌の根源となるべきものがあるようにおもう。短歌は神でもなければ魔でもない。相克の中から神の相貌が出現し、魔の相貌が出現するものである。私はそれを生命形成に求めたいとおもう。生命が自己の中に自己を見、自己を形作ってゆくところに呪があるとおもう。

 生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として、食物を摂ることによって身体を作ってゆくのが生命形成である。私達は斯る食物を有機体に求める。而してその有機体も他の有機体を食物として求める生命である。生命は食物連鎖として生命に対するのである。そこは弱肉強食の世界であり、自然淘汰の世界である。生命と生命は相互否定的に、生死をもって対するのである。斯く死を以って距てるものが他者であり、外である。生命が外としての環境をもつということは死に囲まれていることである。生命が内外相互転換的であるとは斯る死を生に転ずることである。死として迫ってくるものを生に転ずるのである。食物を摂るとは対手に打ち勝ち、対手を食物として食うことである。死として迫ってくる対手に打ち勝つことは、より大なる能力をもち、より大なる生命の形相をもつことである。そこに生命が内外相互転換的に形成的である所以があるのである。形とは死の底から見出した生の相である。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。われわれの自己とは形成し来った力であり、形である。斯る自己が自己の中に自己を見る生命であるのである。形や力は死生転換の中より生れてくるのであった。 斯るものが自己の中に自己を見るとは、一々の死生転換が蓄積的となることである。蓄積的となるとは昨日と今日、去年と今年の死生転換が一つの形に於て捉えられることである。昨日と今日を一の形に於て捉えるとは、例えば大水で木が倒れ魚が逃げ場を失って集っていたのを獲ったとする。すると今度は木を倒して魚を獲るが如きである。一々の内外相互転換が経験として蓄積されるのである。斯る経験の蓄積が製作である。倒した木から魚の逃亡を防ぐとか様々の工夫が生れるのである。そこからわれわれは形をもち、物を作るのである。そこから自己が生れ、対象を見るのである。

 私はそこにわれわれの生命は大なる飛躍をもつのであるとおもう。われわれの生命は身体的形成として一瞬一瞬の内外相互転換的である。斯る一瞬一瞬の内外相互転換を超えて昨日と今日を統一する生命となるとは、与えられた身体的生命を超えるということである。一瞬一瞬に消えていった生命が、一瞬一瞬をあらしめるものとして形をもつのである。製作は経験の蓄積として、形の中に形を見る内面的発展となるのである。より緊密なる内と外との形による一の実現として、外を内に映し、内を外に映して無限に自己を形成するものとなるのである。そこに生命は自己の存在の根源に還るのである。生命は前にも書いた如く生死する生命である。而して生死によって自己を形作ってゆく生命である。生死に於て形作ってゆくとは、生死は、生死を超えたものの現れとしてあるということである。私は製作に於て一瞬一瞬の営為を超えて時の統一をもつことは、斯る生命の根源がこの我に於て形に露わとなったということであるとおもう。斯くして私は製作は我をあらしめる宇宙を我とならしめることであるとおもう。製作は常に我を超えた大なる力をあらしめるものであり、大なる展望をもたしめるものであるとおもう。私は呪というものもここにあるとおもう。限りなき過去から限りなき未来へ我をあらしめるものが、今の我に対するときに呪があるとおもう。

 製作は生死する生命が生きんとして死を克服する努力より生れるのである。より大なる生命は外を内に転ずるところより来るのである。そのときわれわれはより大なる力を転ずべき外に見るのである。私は自覚としての製作に於て人類が無限の力を獲得することは、一面に於てこの我が無限に小さくなることであるとおもう。自覚としての内外相互転換に於て内と外は何処迄も対立するものである。有機的生命としての内外相互転換に於ては、外が内に転ずることは直に外が身体に転ずることである。併し製作に於ては物として、我ならざるものとして、我ならざるものが我の影を帯びるものとして出現させるのである。外が身体に転ずるとき、われわれの生命は身体を超えることが出来ない。製作は我ならざる物を作ることによって、われがその中に生きる世界を作るのである。而して身体的形成が時の統一であるとき、身体的形成はその根源に深く製作的生命をもつのである。製作はこの驚異すべき生命の根源を開示するのである。而してその開示が物として、世界として展開するとき、無限の空間・無限の時間の中に立つわれは宇宙の一塵の嘆き、うたかたの生命のかなしみをもつのである。

 生命は自覚に於て超越的なるものと内在的なものが対立するものとなるのである。 命が内外相互転換として形成的であるとは、本来外を超越として、身体を内在として断絶をもつものの交叉としての無限の運動であった。製作としての自覚はそれが顕在化したものである。死として、否定として迫ってくるものに無限の力を感じ、その力を映すことによって自己を見、自己の力をもつのが製作である。われわれは否定されるもの、殺されるものとして自己を何処迄も小さき存在とするのである。自己を小さき存在とするものは大なる存在を知るものであり、それは否定的転換に於て無限に大なる自己を見出させてくれるものである。私は呪とは斯る生命形成の自己直観であるとおもう。

 私はまじないとか、のろいというものも斯かるところに成立するのであるとおもう。原始社会の生態を求めて、ペルーの田舎に住み、其の土地の人々と深く交った佐藤信行氏は其の著『呪術の帝国』の中で「部落境の山道の峠や村境の山頂は、村へ災が入りこむ危険な場所である。アンデス山岳の山道を旅行すれば、処々に小石を積んだ塔を見かける。ときにはその上に十字架が立てかけてある。これはアバシュータと呼ばれるもので、峠には必ずといっていいほどである。旅人はここで精霊たちを拝んで道中の安全を祈願する。インディオは小石を一つその上に置き、「アベ・マリア」を唱える。これをおこたったり、積んであった石にけつまずいてけちらしたりすると天候が悪くなる。しかしこうしたことよりも村境の峠を聖なる場所としているのは、じつは、村に災の入るのを、ここで未然に防ぐための村の神、部落の神への奉斎の場所なのだ。と書いている。ここでは小石を積むことがまじないとなっている。小石とは一体何なのであろうか、私は小石に見出した力があるとおもう。山中にあって食物連鎖的に対立するけものなどに逢ったとき、最も素速く対応出来た武器は小石であったであろう。つい最近迄印字打ちといって礫は有力な戦いの武器であった。祝して他に木片位しか太古に於ては一撃よく敵を倒す礫は最も大なる武器であったとおもう。私はそこに古代人はわれわれを超えた石のもつ力を感じたのであるとおもう。それはわれわれをして死を生に転じさせる力であり、われわれの生死を支配する力である。われわれはその力によって生きるものとなるのである。われわれはそれによって生きるものとしていと小さきものとなり、石の力はいと大なるものとなるのである。われを超えてしめるいと大なるものは聖なるものである。石を積むとはその大なるめることである。積むという行為によって力のイメージを喚起し、悪魔退散のイメージを構成するのである。そして湧き出てくるイメージによってこの微小なる自己が大なる力と同一なることを感応し、そこに自己の生存を見るのである。

 私は前に呪の根底に製作的生命の自己形成があると言った。製作は経験の蓄積であり、経験の蓄積は外を内とすることである。敵に向って石を投げることは石を手の延長とし、拳の延長とすることである。無限の力は自己に環境を映し、環境を自己に映すところより生れ来るのである。石を積むということは単に石を集めたということではなくして、動きゆく全存在の自己形成力を見たということである。よく田舎に行くと『除蝗之害』といった貼紙がしてあったものである。いくら田舎だといっても、その貼紙によって蝗の害が除けると思っているものは居なかった。それでも貼っていたのは何によるのであろうか。私は文字を作り、文字に見出した大なる生命の一つとしての我が家、この我をそこに感じ、存在の根源に接する安心をもったのではないかとおもう。勿論自己の思考よりずれているものを何時迄も抱いているのは邪道であり迷信である。それなれば正しい思惟というのは何処から来たのであるか、私は内外相互転換としての生命が自己の中に自己を見たのであると思わざるを得ない、外を映したということは物として外を作ったということである。われわれが技術をもつ自己となったということである。作られた物を外として、技術的自己を内とするのである。斯くして作られた物と技術は相互否定的に無限に発展するものである。斯る無限の形成的発展は外としての偶然を必然に変えてゆく、そこに因果律が成立する。偶然としての内と外との転換は技術に於て必然となるのである。外を内に転ずることによって、外としての我ならざるものが、内としての我の秩序の内容となるのである。身体の秩序を宿すものとなるのである。斯く外を内に転じ、身体の生命形成の秩序に随わしめることは、経験の蓄積として時を包むことである。過去・現在・未来を包むことである。時の体系をもつことである。それが因果律である。正しい思惟とは製作的生命として因果の道理に随うことである。随わざるものを迷信とするのである。

 しからば斯る迷信というのは何処から来たのであろうか、生命に於て内外相互転換は休むなき無限のはたらきである。それを失なうことは死である、それによって自己を形成してゆくのである。製作的生命に於ては自覚的として無限に自己の中に自己を見てゆくのである。外を無限に自己の中に蓄積して新しい形を見出してゆくのである。製作したものを外として、それを映すことによって更に新しい形を見出してゆくのである。私は迷信とは未だ因果律の体系とならざる最初の内と外との転換が、必然としての因果の目より見られたときに成立するのであるとおもう。最初に於ては時としての過去・現在・未来の体系が未分化である。未分化であるとは内として身体の秩序が外化していないということである。生命の本能的欲求がそのまま露わになっているということである。身体の直接の表出は情緒である。喜怒哀楽に於てはその一々が完結して分つべからざるものである。情緒的表象に於てあるものは同時存在的である。 そこでは未だ現れざるものを現われた形に於て規定してしまうのである。時は無限の否定である、時に於て形が生れるとは前の形を否定して新たな形が生れることである。この新たに生れた形が既に未来の形として先取された形と対立するとき、先取された形は迷信となるのである。新しく生れた殺虫剤が『除蝗之害』 と書かれた守護札と対立するとき、守護札は迷信となるのである。

 迷信や咀いは克服されたものとして最早あるべきものではない。併し私はそれが曽って有ったものとして、克服さるべくあったものとしてその根源的なるものははたらきつづけ現在をもあらしめるものであるとおもう。それが克服されることによって新しい形が生れたということは、古い形が死んで新しい形が生れたということである。製作としてのそれは自己の中に自己を見たということである。生命は何処迄も内外相互転換的である。自己の中に自己を見たということは、内を媒介した外はいよいよ大なる外となるということであり、外を媒介した内はいよいよ大なる内となるということである。いよいよ大なるものとはそれを包んだ形が生れることである。私は合理的なるものは迷信の中より生れたのであるとおもう。それを貫くものは共に生命が内外相互転換的に自己の形を見出したものであるということである。そこに合理的なるものが迷信より生れ、迷信は合理的なるものに包まれる所以があるとおもう。私は断るものとしてまじないに現れ、咀いに現われ、芸術の創造的根源に現われる呪を求めたいとおもう。

 内外相互転換的に形成的であるとは、生死を超えて生死に自己の形を見てゆくものである。形は生死しつつ生死を内に包むものである。そこに生命の形がある、全ての生命の形は、生命発生以来の三十八億年の生死の上に成り立つものである。生死の上に成り立つとは生死を内に包むことである。生死の上に成り立つものとして、絶えず生死しつつ維持してゆくのである。維持してゆくとは三十八億年の上に現在を加えて包んでゆくということである。生死に於て自己の形を見るということは生に死を映し、死に生を映すことである。死は何処迄も我ならざるものとなることである。今生きているこの我が否定されることであり、無くなることである。而して死に生を映すということはそこに真個の生があるということでなければならない。死が絶対の無となることならば、そのことは絶対の形が現れるということでなければならない。私はそこにこの我の転回がなければならないとおもう。それは生死の矛盾を自己とするものである。それは今の喫茶喫飯を三十八億年の営為の上になす自己である。環境と主体、偶然と必然を自己となすことである。世界が世界を創り、宇宙が宇宙を見るのである。太初よりの無限の力がはたらくのである。そこに自己となるとは、このわれはその大なるものの現れであり、大なるものの現れとしてわれがはたらくということは大なるものがはたらくことである。このわれの生死をこの大なるものの現れと知るとき、絶対の無は絶対の有となるのである。道元は木も一時の位、灰も亦一時の位という。私は彼は斯る立場から語ったのであるとおもう。生も一時の位であり、死も一時の位であるのである。生を死に映し、死を生に映すときに形成があるのである。そこに生命は自己を見ゆくのである。

 外は何処迄も内ならざるものである。若し外が直に内であるならば内外相互転換のはたらきはなく、そこに形成作用を見ることは出来ない。内を映した外は内となるのではない、いよいよ大なる外となるのである。われわれが死を生に転ずべく努力した外はいよいよ大なる死をもって迫ってくるものとなるのである。矢は弾丸となり、重火器となり、爆弾となり、原子爆弾となるのである。敵を殺すものは自分をも殺すものである。そこに相互転換的世界があるのである。環境として否定して来るものを変革することは、亦われの変革を要求するものを作ることである。そこに技術としての無限の形の展開があるのである。よく言われる時代が違うという言葉はここより出てくるのである。外が何処迄も内ならざるものとして、環境が我ならざるものとあるということは、内と外、我と物との出合いは偶然ということでなければならない。太古に獲物を求めて山野を歩いた人々にとって木の実やけものに出逢うか出逢わないかは全く偶然であった。それはたまたまという言葉に言い表わされるものであった、経験の蓄積とはそれの蓄積である。私達は経験の蓄積によって自己の行動の体系の中に組込んでいった。内を外に映したのである、身体の秩序に随わしめたのである、そこに偶然が必然となったのである。併しそのことは偶然がなくなったのではない、偶然は必然に対するものとしていよいよ大なる偶然となったのである。生命は何処迄もわれならざるものに対するのである。

 われわれは単にわれならざるものに対するのみではない。われの出で来るところもまたわれならざるものである。私達は親より生まれる。親はわれならざるものである、われならざるものより生れ来ったものとしてこのわれの出生は偶然である。父と母の結婚も偶然である。私が母に受胎された日に若し父が所用があったとすれば、他日父母の間より生れたのはわれならざるものである、われと言えるものの存在は斯るあやうさの上にあるのである。偶然として、われならざるものとしてこのわれがあるということは、このわれはわれならざるものの現れとしてあるということである。われならざるものとしてこのわれをあらしめるものは、このわれを超えた大なるものでなければならない。このわれがそれによってあるものとして見るべからざるものでなければならない。併しそれが見るべからざるものであるとき、その現れとしてのこのわれはあり得ないものとならなければならない。そこに見るべからざるものが見られるという意味がなければならない。私はそこにこのわれの自覚があるとおもう。大なるものの現れとして、このわれが自己を見ることが大なるものを見るということなのである。このわれは生命として出現する、生命として出現したものとして生命維持の欲求をもつ、併しそこには未だ自己を見るということはない。自己を見るというには大なる生命に自己を映すということがなければならない。このわれがそれによってあるものとして見るべからざるものであるというのは、そこに自己を映し見るということがないからである。自己を見るということは大なるものに映したということであり、大なるものが現われたということである。それが前に書いた製作的生命である。製作的生命としての経験の蓄積はわれをあらしめるものが自己実現的にはたらくものとなったということである。このわれが見るのではない、大なる生命が自己を見るものとして、このわれに現われたのである。而してこのわれを大なる生命の現れとして、大なる生命が自己を見ることは、このわれが自己を見るものとして現われるのである。私はわれわれの自覚はそこに成り立つとおもう。自覚は大なる生命が自己を見るところに成立するのであり、それはこのわれの自己実現として、われわれは無限の努力をするのである。努力とはこのわれの欲求を超えて大なる世界を実現せんとする営みである。身を捨てて根源的なる ものを出現させんとするのである。そこに内外相互転換はあり、蓄積があるのである。 自覚的生命としてわれわれの営為は無限に自己の中に自己を見るはたらきである。自己の中に自己を見るとは見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなることである。私は曽って刃物を商うものであったが、作られた刃物は更に鋭利なる力能を呼ぶのである、更なる硬度を、更なる研磨を求めるのである。勿論一片の鉄が呼ぶのではない。人間がおれの生命の形相を発展させる営為としての、截断の能力に於て呼ぶのである。刃物の能力は生命の形相実現としてのこのわれの能力であり、その力が、力の中に更なる力を求めるのである。そこに刃物の呼び声があり、われわれはその所有する技術を切磋しそれに応えんとするのである。そこに作られたものが作るものとなり、見られたものが見るものとなるのである。私はわれと物はそこから現われるのであるとおもう。我というものがあるのではない、我は物によって現われるのであり、物というのがあるのでもない。物は我によって現われるのである。物が我によって現われ、我が物によって現われるということは、我と物はより大なるものの現われとしてあり、物と我はより大なる形相としてあり、より大なるものの形相実現的にはたらくものとしてあるということである。斯るものとしてより大なるものは全存在ということでなければならない。われわれの意識の上にあるもの、現れてくるものはより大なるものの形であり、より大なるものが自己の中に見た自己の姿でなければならない。自己の中に自己を見るとは、見られたものが見るものとなることとして、より大なるものが自己を見るとは全存在が自己を見ることである。全存在がはたらくものとなるのである。色が色の中に色を見、音が音の中に音を開くのである。距離が、土が、硬さが、重さが、森羅万象悉く自己の中に自己を見るものとなるのである。勿論土や鉄が内面的発展をもつのではない、われわれの製作を媒介として潜在す るものを露わにするのである。色彩は画家の目を通じて自己を露わにし、音響は音楽家の耳を通じて自己を露わにするのである。土は農夫によって、鉄は鍛冶工によって、木は大工によってそれぞれ自己を露わにしてゆくのである。世界は爪楊子のようなものから航空機のようなものまで数知れない種類の物があり、それを作る職業人がいる。それによって形が生れるのであり、それは全てより大なるものが自己を露わにしてゆく姿としてあるのである。この全存在がより大なるものによって統一されてゐるのが世界であり、より大なるものは世界が世界を見、世界が世界を作るものとして自己を実現してゆくのである。われわれもそこに見られるのである。私は呪とは斯くこのわれがはたらく根底に世界としてのより大なるものの自己実現のはたらきを見ることであるとおもう。

 このわれの根底により大なるもののはたらきがあるということは、このわれはより大なるものの現れとしてあり、現れとしてあるとは自己の中に見出でた自己として、このわれがはたらくことがより大なるもののはたらくということでなければならない。形成作用はそこにあるのである。自己の中に見出でた自己が、更に自己の中に自己を見るのである。そこにより大なるものは自己の形相を鮮明ならしめるのである。一本の爪楊子を削り、一 枚の鎌を鍛えることは、より大なるものが自己を実現する行為として世界を形作ることである。このわれは世界を実現するものとして、はたらくことは世界を内にもち、世界を見るものとなることである。このわれが世界を現わすものとなることである。前に書いた如く、このわれは宇宙の一塵にも比すべきものである。併しこの一塵ははたらくことによって全存在を自己の現れとするものである。

 併し全存在を一塵の現れとなすことは一塵が全存在となることではない。一塵は何処迄も一塵として、全存在の現れとなることが出来るのである。死するものが生きんとする努力に於て出現するのである。うたかたの命の悲しみの中より転ずるのである。生死する身体に具現するのである。生死する身体の具現として、絶対現在として具現するのである。内外相互転換としての生命形成に於ては、内外は常に対立しつつ一である。一即多・多即一として生命は形成してゆくのである。一の方向に世界が成立し、多の方向にこのわれが成立するのである。而して形成とは世界にこのわれを現し、このわれに世界を現わすことである。内外相互転換的に世界とわれが現われるのが今であり、今が生命形成の形として無限の過去と未来をもつのが絶対現在であり、永遠の今である。一を見るのでもなければ多を見るのでもない、一即多・多即一を見るのである。消えてゆくことが現われることである一と多を超えて包むものを見るのである。生死として自己を現わしてゆくものを見るのである。生死するこの我が一瞬一瞬の営に於て、生死として自己を現わしてゆくものに触れるのが絶対現在である。生死として自己を現わすものは全存在である。今に於て全存在がこのわれに現われるのである。私はそこに呪の実現があるとおもう。呪とは内と外、世界とわれとが動転しつつ絶対現在としての形を実現することであるとおもう。般若心経にも「故知般若波羅密多。是大神呪。是大明呪。是無上呢。 是無等等呪。」と説く。 色即是空としての有限が無限、刹那が永遠としての形相実現に呪を見るのである。それは対立するものが一として無限のはたらきであり、一なるものが自己を見るものとして形より形へである。そこに創造の根源があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

自由と必然

 生命は形成としてあり、形成は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とする限り ないはたらきによって、生命は自己を形作ってゆくのである。我々が物を作るのは斯る内外相互転換が自覚的となったということである。

 動物に於ては斯る内外転換が直に一である。直に一であるとは、生れ来った身体の機能のはたらくままということである。内外相互転換が一つの生命の機能として、無媒介的に はたらくということである。それに対して自覚的生命に於ては、内と外とが対立するもの となるのである。内は外を否定するものとなり、外は内を否定するものとなるのである。否定を媒介する一となるのである。もともと動物に於ても、内と外とは否定的契機をもつ対立するものである。食物を得るために努力と争闘をもたなければならない。それは苦患的である。併し動物に於てはそれは身体に具有的である。本能的動作の中に含まれている。それに対して製作に於ては、内と外とが対立するものとし学習的である。

 学習とは過去の内外相互転換を、現在の内外相互転換に応用することである。そこには無限の過去の内外相互転換の著積がなければならない。外を内に変じ、内を外に変ずるとは技術的ということである。身体は転換の実現者として無限に機構的である。製作は一瞬一瞬の内外相互転換の生命の営為を、一瞬一瞬を超えて、一瞬一瞬を包む生命の内容とすることである。学習は時を超えて時を包むものの、生産手段としての技術の確立がなければならない。我々は学習的に技術を蓄積し、新たなより大なる生産力とするのである。

 学習とは新たな個性が世界を内にもつことである。新たな個性が世界を内にもつとは、世界は無数の個性によって作られていることであり、無数の個性によって常に新たな転化をもつことである。個性と個性が製作を介して呼び応えるのである。内外相互転換の外は 学ばれるものとして、一瞬一瞬を超えた形相となるのである。一瞬一瞬としての内外相互転換が、一瞬一瞬を超えた形相となるとは、世界の無数の個性によって作られたものが、この我に於て作るものとして、はたらくものとなることである。新たな個性が世界を内にもつとは、作られたものとしての無限の過去の形が此の我の中に消え、新たに世界創造の力として生れることである。学習とは内外対立したものが、外としての凝固した形相を再び流動化せしめることである。見られたものが見るものに転生することである。

 過去として作られたものが、はたらくものとして作るものとなるとは、形相が形相を作 り生んでゆくことである。新たなる内外相互転換に自己を投影してゆくことである。無限の内外相互転換に於て外とは内の転じたものである。内の転じたものが外となるとは、転じるとは我に対立するものとなり、我を否定し来るものとなることである。形相としての物は我に死をもって迫ってくるものである。外が転じて内となり、はたらくもの作るものとなるとは、死として迫ってくるものが、新たな個性に於て自己自身を否定し、新たな生命の形相として装いを新たにすることである。死として迫ってくるものが生に転じる、そこに生命の創造があるのである。

 生が死に転じ、死が生に転ずるものとして世界は形より形へである。世界は物として自己を実現し、物は物が生んでゆくのである。そこに世界の必然がある。私は元鎌の販売業を営んでいたが、鎌は収穫器として、大古に於ては木の股の如きが使用されていたのではないかと言われている。それが鉄となり、鉄と鋼の接合物となり、現在は草刈機、稲刈機に転化している。それは一つの形としての物が死して、新たな形の物が生れた大なる流れである。 過ぎ去った形としての物は死んだものとして、捨ててかえり見られないものである。而して新たな形は過去の形が内包するものより生れ来ったものである。内包するものより生れ来ったとは、形が内包するものは無限の転化の呼び声をもつということである。内外相互転換の内容としてあるということである。必然とは形が次の形を呼んでゆくということである。

 内を身体とし、外を環境とすることによって内外相互転換はある。内を身体とし外を環 境とするものの転換として、身体は環境の凝縮したものであり、環境は身体の拡散したものである。身体は環境を映し、環境は身体を写すのである。写す行為は否定的転換より生れるのである。身体は死と対面することによって物を作ってゆくのである。外を内とするのである。製作的生命は製作物の中に生きてゆく、物の中に生きてゆくとは、物を環境とすることである。そこに物が物を生み、形が形を呼ぶのである。自覚的生命が生きるとは必然の世界に生きるのである。

 物の形は物が物を生み、形が形を呼ぶことによってあるとは、物の中に物を見、形の中に形を見ることである。初めに終りがあることである。新しい物を作るとは、何もないところに物が生れることではない。何もないところからは何物も生れることは出来ない。物を作るとは過去に現在を映すことである。内外相互転換としての現在の状況を過去に映すことである。伝統の上に製作はあるのである。過去に映すことによってあるとは初めがはたらくことである。はじめがはたらくことによって新たなものが作られるとは、物ははじめとおわりを結ぶものが、自己の中に自己を見てゆくことによってあるということである。必然もそこにある。はじめとおわりを結ぶものが自己の中に自己を見てゆくのが必然である。全ての物はそこより見られ、そこより作られたのである。我々はその究極に神を見るのである。

 内外相互転換をもつものは個体的である。個の生存に於て内外相互転換はある。個が内外相互転換をもつということは機構的であり、機構的であるとは身体的であるということである。我々は製作を身体に於てもつ、身体に於てもつと 内外相互転換的に物を作るということである。内外相互転換は外が内となり、内が外となることである。外が内となるとは、物が消えて身体となることであり、内が外となるとは、身体が消えて物となることである。外は内に消えることによって外であり、内は外に消えることによって内である。そこに無限の形成作用はある。形造るとは単に直線的にあるのではない。死して生れるところにあるのである。単に一つの形は何ものでもない。形は形成作用に於て形であり、形成作用は次の形を生むことによって形成作用である。次の形が生れることは、前の形が死して新たな形が生れることである。

 製作も亦斯る形成作用の延長として物を作るのである。作るとは、外を与えられたものとしてもつのではなく、言葉を介し意志によって変革することである。それは技術的である。意識することによって、身体を使うことによって、内を外とし、外を内とするのである。身体は意識的身体であり、技術的身体である。製作に於ては斯る意識的、技術的なる身体が死して物に生れゆくのである。製作は自覚的生命の死生転換としての内外相互転換である。

 死して生れるとは現在に生れるのである。現在が新たな生命であることである。製作に於て物が死ぬとは未来によって否定されることであり、生れるとは否定の底に甦るということである。死するとは無に帰することであり、生れるとは形が出現することである。自覚的生命に於てこの転換は意志によって行為的に実現するのである。それは無よりの構築である。そこに意志の自由がある。己れの生を構築してゆくのである。生死するものは個物であり、はたらくものはこの我であり、汝である。物の製作はこの我、汝が死生転換として自己を見出てゆくのである。

 自覚的生命に於て個とは全を内に包むものである。自己は世界を内にもつことによって自己である。私は前に学習によって自覚的生命を自己となると言った。学習とは世界を内とせんとする努力である。世界とは斯る我と汝によって作られているのである。世界を作る我と汝の死生転換は、亦同時に世界の死生転換でなければならない。この我の意志は亦同時に世界の意志でなければならない。我々の行為は世界の自己形成である。世界の自己形成はその一面に個の無よりの形成として、個の自由意志をもつのである。

 形より形への必然は、形の転換の断絶に於て自由意志の行為をもつのである。個は世界の中に死して生れる程より大なる個となり、世界は個の中に死して生れる程より大なる世界となる。必然がより大なる世界を形成するほど、意志は愈々自由となり、意志が自由となるほど、世界は愈々大なる形成をもつのである。死して生れるとは、死ぬことが生れることである。死ぬことは無となることであり、無となることが有となることである。無が有であるとは生命形成の初めにかえることである。無始無終の時に於て初めにかえるとは形成の根底にかえることである。そこに初まって、そこに終るもの、初めと終りを包むものにかえることである。自己が自己を見るが故に絶対の自由であり、自己の中に自己を見るが故に絶対の必然である。根底にかえることが死であり、そこより形造ることが生である。現在とは斯る創造点であり、世界は斯る生命形成の形象である。父母未生以前の自己として我々は無限の形成をもつのである。神は絶対の自由と必然である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

眼晴

 正法眼蔵の第五十八、眼晴の中に天童和尚の「秋風清く、秋月明らかなり、大地山河露眼睛なり。」という言葉がある。私はこの言葉は見るとは何ういうことかという問いの解明に深い示唆を与えるものであるとおもう。眼睛とは瞳である。瞳とは光りを介してこの我が他と関るところである。斯る関りが見るということである。見るとは如何なることであるか、私は私達の見るということは生命の自己形成を背後にもつとおもう。生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とする無限の形成である。外を食物的環境として身体を形作ってゆくのである。内外相互転換とは摂取と排泄である。絶えざる摂取と排泄によってわれわれは身体を形成してゆくのである。斯る食物は食物連鎖的である、有機物は有機物を食うことによって栄養とするのである。光合成をもたざる動物は他の生命を捕獲することによって生長と生存を維持するのである。動物はその食の獲得に行動するものとして動物であり、その行動圏を自己の空間とするのである。目は斯る行動圏を空間とする機能として成立するのである。禿鷹は三千米の高所より地上をありありと見ることが出来るという。併し見るのは餌としての野鼠だけであると言われる。そこに動物の目があり、空間があるのである。食物連鎖は弱肉強食の世界である。それは常に生死を賭けた世界である。生命は斯る生死の中からより大なる機能を見出してゆくのである。捕えんとし、逃げんとするところより機能を発展させてゆくのである。感覚はより精緻となり、より大となるのである。私は生命は食物連鎖を内的矛盾としてより大なる形相を見出してゆく一大体系として把握したいとおもう。視覚というものも斯る生命形成の発展の内容として捉えるべきであるとおもう。生存競争は修羅の世界である。而して闘争なくして生命の形相はあり得ないとおもう。修羅に於て生命は自己を見出でてゆくのである。目は内外相互転換の外を拓いてゆく尖端として修羅の中に発展をもつのであるとおもう。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは見出した形が見るものとなることである。見出でた形がより大なる機能を有するものとして次の形を見出してゆくことである。そこに経験の蓄積があるのである。経験の蓄積とは過去と現在と未来を現在の行為に於てもつこ とである。外としての偶然を内としての必然に転化せしめることである、探すものより、作るものとなるのである。生命はここに百八十度の転回をもつのである、食物をもって距てられた個体は製作に於て協同するものとなるのである。人間が最初に作ったのは食物としての栽培であった。それは自然の力を人間が駆使しなければならないものであった。墾し、耕耘し、水利をもたなければならなかった。然も天災は人間の努力を絶えず無にしたのである。中国の王権は水利事業の上に成立したと言われる。そこには大なる集団の力が必要であった。多くの人々が一つの力となったのである。製作の発展はより大なる力を必要とした、そこに人類は個を超えた一として生存し、人類一の自覚をもったのである。私はそこに目も亦製作的生命の目とならなければならなかったとおもう。降雨、寒暖のために天文を知り、水利の為に地理を見る目となるのである。人類一の実現の為に鋭さの奥に柔和を湛えた目となるのである。

 生命が内外相互転換的に形成的であるとは内外をあらしめるものが自己を実現してゆくということである。枝穴にすむ蟹は偏平であり、泥中に生きる鰻に鱗が無い。空中と羽根は鳥に於て不可分である。形成的生命として形は機能であり、機能は形である。生命は内外相互転換的に内外一として自己を形成してゆくのである。自覚的生命とは斯るものが製作的になったということである。人間は手と言葉をもつことによって製作的となった、製作的となったとは表現的となったということである。外を物として、物の形に身体を見てゆくことである。製作とは物に自己を実現してゆくことである。物を作ることによって自己を見てゆくのである。物を作ることによって自己を見てゆくということが世界形成的ということである。

 物を作るとは如何なることであるか、物は私達が作る、併し私達は物の法則に随うこと なくして一物を動かすことは出来ない。物を作るとは物の中に深く入っていって物の性質を知ることによって可能である。物の性質に随って私達の生活に合う如く形を変じてゆくのが作るということである。私は鎌の販売に携わったものであるが、鉄というものは人間の製作的生命の翳を宿すとき無限の性質の奥行きをもつものである。鎌を作るというのは鍛造の温度、焼入れの温度によって千変万化する鉄の性質の中から、切味という唯一点を見出すことである。その為に作るものは切れるということを目指して鉄の化身となるのである。それは切れるという目的の実現としてこの我の実現であると共に、鉄の化身として鉄自身が何処迄も自己を展開してゆくものである。外が開けてゆくことが自己が展けてゆくことであり、自己がけてゆくことが外が開けてゆくことである。私は芸術の創造の如きも斯かるところから考えられるとおもう。画家は通常の人が見ることの出来ない美しい色を見ると言われる。描くことによってさまざまの色が現れてくるのである。さまざまの色が現われてくるとは、今迄見えていなかったものが見えてくることである。描くことによって目の中に色が色を分つのである。赤や緑が自己の中に無限の色の系列を見、画布にその一点を決定するのである。画家の目は色彩と化し、色彩の中に消えてゆくのである。色彩が色彩を見、色彩が内面的発展をもってくるのである。而して斯る色彩の内面的発展は画家が描くことによってあるのである。描く手を動かすものは作者の生命である。描くとは作者の生命の表出である。色彩が色彩を見るとは画家が自己を見ることであり、描かれたものは作者が見出でた自己の形象である。作者が対象に消えることは、対象が作者に消 えることである。形はそこに新たな形として生れるのである。そしてその形から対象が見 られ自己が見られるのである。生れ継ぎ、生み継ぐことによって対象があり、自己があるのである。そこは自己が対象の中に消えることによって自己があり、対象が自己の中に消えることによって対象があるのである。形が形を見、世界が世界を限定するのである。われわれの自己が対象の中に消えてゆくということは、製作する世界として開かれてゆく対象に招かれるということである。色彩が色彩を見る無限の深さに呼ばれるのである。そこにわれわれの行為があるのである。われがあるのでもなければ、対象があるのでもない。表現的世界の中から自己が見られ、対象が見られるのである、そして見られたものが見るものとして自己と対象があるのである。故にわれわれは表現的世界に還ることによって真個の自己に接するのである。自覚的生命として全てあるものは表現的にあるのである。私は斯るものを宇宙的生命が自己を見るというのである。目は見るものであり、対象は見られるものであるというところからは物の内面的発展ということは考えることは出来ない。目は製作の目として、宇宙的生命が視覚的に自己を露わにする器官である。絵画の如きはその最も純なる内容であるとおもう。

 「秋風清く、秋月明らかなり。大地山河露眼睛なり。」という言葉も斯るところより出てくるのであるとおもう。大地山河露眼晴とは大地山河が自己自身を見ることによってあるということであるとおもう。私はそれを尋ねるためにわれわれにとって山河とは何かを問いたいとおもう。私は生命は内外相互転換として、外があるためには内がなければならないとおもう。外の形が生れるためには内の形が生れなければならないとおもう。そこに生命の形成があるのであるとおもう。斯る形成の外の方向に物があり、内の方向に生命としての身体があるのである。その意味に於て空を飛ぶ鳥や、地を這う虫は山や河をもたないとおもう。人間にとって山や河は、行路を遮る山や河であり、幸としての生命を養う物を生み出し、恵んでくれる山や河である。行路の難渋はわれわれに強靭な四肢を育くんでくれるものであり、恵みの食物は豊かな身体を作ってくれるものである。それは同時に私達の情緒である。獲得した強靭な脚にとって峻険な山に登ることは喜びである。私達は大なる山に尊厳の情をもつ、私はそれは山を登る力の表出と無縁ではないとおもう。私達は雲に対して尊厳の情を抱かないのは力の表出を伴わないところにあるとおもう。

 全てあるものは生命の自己形成としてあり、生命の自己形成は宇宙の自己形成としてあるのである。山や河は生命形成の自覚の露わなものとしてあるのである。眼睛も亦そこより生れ、そこに働くのであるとおもう。木の実や薪、茸やけものを獲る山、脚力と山、魚を追う河、水浴をする河、我と山河は斯るものの自覚として出現するのであり、出現は我と山河が形成として自己自身を見ることである。「秋風清く、秋月明らかなり。は斯く見ることが成立する純なる情緒であるとおもう。純なる情緒とは、形成が形成自身を見ることである。茸やけものを獲ることや、魚を追い水浴することを離れて、山河と我が形に於て映し合うことである。欲求や生死を超えて形成の永遠の相に目を移すことである。山河の形に我を見、我の形に山河を見るのである。そこには我があるのでもなければ山河があるのでもない。山河は我であり、我は山河である。秋風清しは映し合う我と山河がそこに透明にしてありのままに一なるのである、月明らかなりは我と山河が明らかな形に映し出 されるのであり、その明らかな形は山河が山河を見るのであり、我が我を見るのであり、 生命が生命を見るのであり、宇宙が自己を露わにするのである。

長谷川利春「自覚的形成」

鑑賞、批評

 黄熟した柿の実が澄みとおった晩秋の光に輝いている。それを見ると時間は単に過ぎ去るものではなく、一日一日の一年一年のみのりをもつものであるとおもう。みかしほ一年の歌誌を積上げると分厚い。それは私達会員の哀歓と精進の蓄積である。一月余をもって平成三年を終る。私はこの充足の中から山本礼子氏の作品を取り上げて、本年の収穫の一つとしてふり返りたいとおもう。

 北斗星射たむばかりに夜の樹々の秀に水を打つ男孫生れたり

 高揚した心気を密度高く表現された作品、北斗星と個有名詞を出されたからには、北斗星の含むものを勿論意識されているのであろう。古来北斗星は天の中央にあり、宇宙の運行を司どるものとして星の中でも最も尊崇されたものである。作者は今男孫が生れた喜びを抱いて庭樹に水をやっている。併し作者の目は庭樹を越えて遥かに天に輝く北斗星に向いている。はるかなものに目を向けさせたものはよろこびによる心の高まりである。外は内にあり、内は外にある。この生命の真実を捉えて表現に過不足がない。生命は動的なるものである。動的とは内が外となり、外が内となることである。二句うまいとおもう。

 いねがたき宵を車の通り過ぐる音の変りて雨となるらし

 私達は環境を作るとともに、環境によって作られる。感覚が鋭いとは作り作られる営為がより微細となることである。より細かく見得るということは、より深い立場に立っているということである。作者は今車と雨の音に時の移りを見ている。それは車と雨に見出でた天地の移りである。そこに大きな静けさがある。作者の真質の遺憾なく表れた作品であるとおもう。

 野ぼたんが明日咲く色覗かせる娘よゆっくり大人におなり

 おのずからなるものへの信頼と、娘への愛情を渾然としてうたい上げた作品、人間も亦生れ来ったものである。草木が華麗な花を潜ませるように、無限の可能性を潜ませるものである。ゆっくり大人におなりには、生れもった豊かさを残らず表わしなさい。それにはあわててはいけませんという親心がある。ともあれ上句と下旬の自然と人間を結合させた力は非凡である。

 裸木に百舌の鋭く啼き声奈落の如き空に涯てたり 井上徳二

 心象詠。奈落は地獄であり、出でることのない地の底である。作者はそれを百舌の啼く 声によって空に見たのである。鋭きが故に絶望の声を聞いたのである。生きる者が必ずもつ死、真摯である程人間は底に奈落をもつ。作者はふと深淵の翳に怯えたのであろう。五句涯てたりは果てたりか?

 伽耶院を長く守護せし仁王尊露はなる木目に痩せておはしぬ 岡田みさゑ

 憤怒像なるが故に、木目が浮き出て痩せた姿は力の喪失を感じるのであろう。移りたりゆくものの寂穆が感じられる。作者は老いの共感をもったのであろうか。

 ガードルに腰しめつけぬもう楽にしてやったっていいのぢゃないの 片山 洋子

 一連を読み乍ら私は情念の解放ということを感じた。それは五常五倫によってがんじ搦めにされた封建的情念よりの脱出である。氏の韻律は軽快である。俵万智と一脈相通ずるようである。一首目、五首目、後にのこるものがないが読んでたのしい。この一首まだ腰をしめつけている自分を嘲けっていると共に、その嘲けりを楽しんでいる。こういうような自分を対象化出来るのは余程頭が良いのであろう。

 雲間より時折洩れくる冬の陽を裸木分け合ふひそやけくして 岸本艶子

 四句の把握を評価したい。五句息が切れているのが惜しい。

 深々と吸ひたる息がすぼめたる唇出づる時細く鳴りたり 小紫博子

 呼気の間に出た生命の証し。このかすかなものに自己の生存を捉えた目は深い。禅家に生命は呼吸の間にありというのがある。日常の哀歓はこの上を浮遊するのである。

 霧晴るる中すたすたと歩む人見えて冬野の午近きなり 服部かずゑ

 万物枯れて荒穆とした冬の日々、二、三句そこに見出でた健かな歩みは作者の、そして冬の救いである。五句一首を冗漫にしたのは惜しい。

 不注意をさとせば素直にあやまりて厨の孫は亦コップ割る 服部 徳子

 五句普通なら怒るところを作者はほゝえんでいる。哀歓を超えて枯淡の境に入った透明感がある。

 おだてあい男は酒をくみかはす互に傷を舐め合ふごとく 藤井みどり

 おだて合うことによって互の生の確認している。併し作者はおだて合わなければ見ることの出来ない生の基盤をふんでいるのである。言葉を止めれば崩れ去るようなもろさを見ているのである。

 「水をもうかへられないから切り花は要らない」と言ひて友の今日泣く 松本君代

 力の萎えた友の嘆きが切々として迫ってくる。五句の今日泣くを泣き伏すとでもしたいが、それでは類型的となるのでこれでもよいのであろうか。

 カラカラと音する豆木引きゆきぬ今年は大豆やや多めなり 藤井早苗子

 作るもののすこやかな歓びがある。大地への感謝の感じられる作品。下句転結の妙。末筆多年なじんで来た二部会員の方々の精進を祈って筆を擱きたい。

 病める今は妻が頼りと読み返し夫のはがきをポストに落す 岩城 和子

 頼られている自分、恐らく夫は頑固な人であったのであろう。それが今病に気が折れている。作者の複雑な心の動きがよく表われている。そして徹底した写生はそれを超えて作者の心は静である。岩城さんの病の歌、徳恵さんの牛飼の歌、一つのテーマを追求して透明度を増して来たようにおもう。透明を増したとは感覚の多彩な展開をもったということである。

 隅植ゑや箱洗ひ終え湯上りを孫に軟膏を貼りて貰ひぬ 岸本艶子

 ここに日々の暮しがある、それは取立ていう喜びや悲しみではない。併しここに人は作られてゆくのである。私は斯る充足感を捉えた目は深いとおもう。

 草のしきりに飛ばす風ありてひかる五月の野となりにけり 小紫 博子

 光りと草と風が展開する五月の風光は作者の感情の生動である。ここに詩がある。これを二首目「この顔が見たくて内職する吾と孫の笑顔にこづかひ渡す」と比較すると、後者の方が完成度も高いし、喜びの振幅も大きかったとおもう。併しそこに見出した自己というものがない、一般的な祖母像しか見ることが出来ない。そこに作品の質の差があるとおもう。尚五句窮屈である、「原となりたり」か。

 働ける人等帰りて工事場の足場の奥に闇が生れる 高橋史江

 闇を見る目は光りを見る目である。作者の目は深奥に向いている。簡潔な表現は手練である。

 カンボジアの浮浪児は軒に重なりて眠りゐるなり雨降り止まず 富田久子

 五句適切、限りない哀憐の心を誘う。

 風圧のかかりて重きドア押せば否応なしにあの記憶もどる 中北 明子

 情念の世界は混沌の世界である。それは終局なき動転の世界である。併し生命はそれによって自己を形作ってゆくのである。臆せず見つめるところに作者の高貴な精神がある。

 不順なる寒さ漸く過ぎ去りて家族の絆纏並び干されぬ 服部美千代

 繰り返しの中に惰性となり無意識の中に埋没した日常を堀起すには犀利な目が必要である。併しそこに目を置くことによって真に自己を作ってゆくものを見得るのである。この一首上旬と下句置き換えた方がよいのではないかとおもう。

 跳びそこね腹をかへせし雨蛙姿勢なおしてソロリと歩く 藤井早苗子

 生物の本能のもつ撰択、面白い。

 反抗期終えたるか子は命令を聞かざる犬に反抗期かと言う

 特異な素材、一挙手一投足にも子を見守る親の心が覗かれる。

 お土産と嫁の呉れたる鯛焼の掌に温かく文化祭終る 小紫博子

 四句迄嫁との交情の一首である。受取った鯛焼の温さは嫁の温さである、満たされた一瞬の幸せである。併し私はこの一首がそれだけで終っているならば平凡な詰らない作品であるとおもう。それが五句によって救われているとおもう。文化祭終るによって、鯛焼を呉れた嫁と、その温さを意識する自分も亦過ぎゆく時間の一駒となるのである。勿論それによって交情がうすれるのではない、深まりゆくのである、限り無い時間のひと時の故に縁の不思議の前に立つのである。有名な中宮寺の思惟像はよろこびなきよろこび、かなしみなきかなしみの姿をもつと言われる。

 私は以前に氏の作品を批評し乍ら、尼僧のようなしずけさがあると言ったことがある。 作品を読んで感じることは小主観と言われる思い入れのないことである。宗教家の言葉を借れば己れのはからいの少ないことである。これがはからいを捨てたときにあるのは我を包んだ大なる生命の流れである。私は氏のしずかさはこの流れに目を置くところにあるとおもう。掲出の歌のよろこびもしずかである。

 私は表現とは個体としてのこの我が世界の姿を表わしてゆくことであるとおもう。以前 に書いた如くわれわれの生命は瞬間的なるもの永遠なるものであり、永遠なるものが瞬間的なるものである。生死としてのよろこびかなしみの陰翳が永遠なるものに映されるときに芸術はあるとおもうものである。しずけさは永遠の影としてあるのであり、氏の歌の魅力は斯るものを宿すところにあるとおもう。

 勿論私は歌は斯るもののみとおもうものではない。瞬間を映す永遠が静なれば、永遠を映す瞬間は動である。近代は個性の発見にあると言われる。それは小紫さんの方向と逆の方向である、世界の中にあるのではない、世界を内にもつのである。個は対立としてある、対立するものは闘うものである。他者を否み己れを否むものである。そこに地獄を見、悪魔をもたなければならない。私はわれわれは歴史的現在に生きるものとして、現代短歌はその方向に生面を拓かなければならないと思うものである。併しそれは亦瞬間を映す永遠に即するものとして大なる静けさに至るのでなければならないとおもう。創造は常に否定を介しての肯定であり、死を介しての生である。

 尚この他に藤井早苗子さんの

 雨の降る休日は居場所なしといひ畑が一人一人来る

を取り上げたかった。下句の一人一人の言葉のふくらみがよい。それによる情感の奥

きを味わいたい。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

感情について

 生きているとは外を内とし、内を外とすることである。私達は呼吸をし、食物を摂るこ とによって生きているのである。呼吸とは空中の酸素を摂取することであり、体内の炭酸ガスを排泄することである。食うとは他の生命を奪うことによって、自己の生命とすることである。併して不用なるもの、死滅した自己を排泄するのである。

 斯るものとして生命は絶えざる内外相互転換である。内外相互転換として、内の働きの欠乏も死であると共に、外の物の欠乏亦死である。

 空気は常に与えられている。そこには我々の労力を要するものはない。併し食物は他の生命の奪取として、他者を殺すことによって自己が生きるのである。自己の身体に対する他者の身体を否定することによって、自己を維持してゆくことである。

 自己の身体に対する他者の身体として、この我が個有の内容を有する如く、他者も亦生命として個有の内容を有するのでなければならない。否定することは否定されることであり、生きるとは常に力の表出を伴う努力である。

 生命が常に力の表出を伴って自己を維持してゆくとは、生命は常に創造的であるということである。瞬間、瞬間が創造点として、新たな形相を作ってゆくのである。

 感情は通常快、不快に分けられている。私は快とは形相実現的としての身体がその肯定的方向として、充実してゆくときにもつ感覚的反応であると思う。不快は否定的方向として欠乏の感覚的反応であると思う。斯るものとして快、不快の感情は身体的であるとおもう。而してそれが身体的である限り私は真の感情とは言い得ないと思う。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは、自己が見る自己と見られる自己に分れることである。見る自己と見られる自己が分れるということは、見る自己は見られる自己を絶対に超越するということである。内外相互転換的として一瞬一瞬に生死の分岐点を歩む生命を包む生命をもつということである。永遠が瞬間であり、瞬間が永遠なる生命となることである。

 瞬間が永遠であるとは、現在の瞬間が無限の瞬間の統一としてあるということである。過去の時間を内包した瞬間であるということである。瞬間は内外相互転換として、死生転換として瞬間である。瞬間が時を包むとは、相手を否定する力の表出は技術的ということでなければならない。身体の否定の肯定としての、内外相互転換は技術的でなければならない。生命の営為とは斯る転換の無限の連続である。斯る転換は内的に一でありつつ外は無限の変化である。一瞬一瞬状況を異にするのである。この異なる一瞬一瞬の技術を体系化をし、蓄積するのが時を包むということである。これが自己の中に自己を見ることである。

 無限の内外相互転換としての技術の集積によって外に対するということは外を変革することである。生命は自然的生命を脱却して、製作的生命となることである。斯る累積は個人を超えた人類的なるものとして、歴史的に形造られることによって可能なるものであると思う。我々は斯る集積を言葉によってもつのである。ここに外なるものは食物的環境として対するのではなくして表現的物となり、主体的他者は人格として我に対するのである。世界形成的である。

 私は感情のよって来るものを断る人格的世界に求めたいと思う。ここに於て喜び悲しみは快不快とその様相を画然と截断する。快不快が身体の肯定的方向と否定的方向であるに対して、喜び悲しみは人格としての自己と他者の結合に最も深い根源を有するのである。歴史的創造的世界の内的方向として、我と汝の一の実現が最も深い喜びとなるのである。喜びはこの我を消しての世界の実現に見るのである。

 人格的となるということは、他の人格に対することであり、個的身体的なるものを超え たものとして、世界が世界自身を作ってゆくことである。この我を消して世界の実現に見るのは、この我の奥底に世界が世界自身を実現してゆくものがあるのでなければならない。身体は個と世界の矛盾的同一として、自己自身を限定するものでなければならない。自覚として自己の中に自己を見るとは、世界の中に自己を見出でてゆくのである。私は感情は此処より出でてくるのであると思う。我々の情熱は自己の中に世界を見んとする意志である。少女が昏れてゆく空に向って涙を流すのも、三蔵法師が死を決して印度に渡ったのも同一なる生命の噴出に外ならない。

 幼児のほほえみは直に我々のほほえみとなり、その昔ギリシャに流した悲劇の涙は我々の頬を伝って流れ落ちる。私は喜び悲しみは、古今東西を超えて直に一なるものがあると思う。世界が働くとは、多くの人が直に一なるものによって結ばれている事である。個的多が一である。そこに感情の現われ来る所以があると思う。

 喜び悲しみの何処より来り、何処に去りゆくかを知らないと言われる。それは我より出 ずるのでもなければ、汝より来るのでもない。我と汝の出合いの中より、我と汝に湧き来るのである。人とか物とかとの一々の出合いに如何なる表情をもつべきか、我々は予定するのではなくして、出合いに於ておのずかなる姿勢をもつのである。そこに感情は世界が世界自身を見る所以があると思う。

 世界が世界自身を見ると言っても一般としての世界が喜び悲しみをもつのではない。喜び悲しみをもつのは個としてのこの我であり汝である。個としてのこの我、汝が喜び悲しみをもち、喜び悲しみが世界が世界自身を見る所以である為には、この我亦は汝は内に世界をもつものでなければならない。

 個は個に対することによって個である。対するとは相否定することである。我と汝は否 定し合うものとして我と汝である。而してこの否定し合うことが結合することとして我と 汝はあるのである。例を国技としての角力に取れば、取組んでいる二人の内一人が勝って一人が負けなければならないのである。何方も相手を倒すべく渾身の力を振わなければならないのである。相手を倒そうとすることが角力をとるということである。否定し合うということが結合するということである。而してそれが角力の世界が世界自身を作ってゆくということなのである。喜び悲しみはこの否定し合うことが結合することであるところより出でてくるのである

 取り組む二人はそれぞれ習練と、習練より得た技術をもつものである。個的自己として内包をもつものである。個的なるものとして内包をもつということが人格的であるということである。人格的であることによる否定と結合が感情を生むのであると思う。友愛も憎悪も尊敬もここから生れるのである。

 技術も亦否定と結合の中より生れる。それは歴史的形成的である。自己の中に自己を見るとは過去が現在であるということである。無限の過去が現在の中に蓄積されているということは伝統的であるということである。伝統を踏まえていることである。踏まえるとは新たなるものを生むことである。新たなるものが生れるとは未来より呼ばれることである。過去を含み、過去を超えて新たなるものを見出すところに自己があり、自己を見出すことが自覚である。自覚とは歴史的形成的自覚である。

 私は感情も歴史的形成的であると思う。勿論何処より来り、何処に去りゆくかを知ら ない感情は形をもたない。それは瞬々に現はれて消えゆくものである。形のないところに形成ということはない。唯私は歴史的創造としての無限の世界の構築は、一瞬一瞬の喜び悲しみに無限の陰翳を宿すと思うものである。喜び悲しみは深まりゆくのである。我々は世界の深さに於て、深い喜び、深い悲しみをもつのである。よろこびという字に喜歓悦慶がある。これはそれぞれ個有の内容をもつ、私はこれは歴史的形成としての、世界の陰翳を宿すことなしには考えられないとおもう。感情は生命の結合が世界として、否定が個として、世界と個の無限に動的なる全存在の表出であると思う。生命は感情に於て全体像を現わすのである。我々は生命限定の深奥に感情をもつのである。感情に因て動きゆくのである。

 真は知に、善は意志に、美は感情に因ると言われる。感情が美であるとは如何なることであろうか。私は矢張り歴史的形成的生命を宿す感情の陰翳の中に求めなければならないと思う。否定が結合であり、結合が否定である生命創造を宿し、喜び悲しみが自己の中に新たなる陰翳を宿すこと自身が美なのである。生命形成は常に形相的である。而してその形相は動的である。形より形へである。感情はその動的方向として形をもたないのである。而してそれは形に即して形をもたないのである。形に即して形をもたないとは、形に即して現われることである。身体が時間と空間の矛盾的同一としてある時、空間が時間を宿す方向に物としての身体があり、時間が空間を宿す方向に感情があるのである。斯るものとして芸術の形相は常に韻律の翳である。韻律とは生命が自己の中に自己を見てゆく身体のあり方である。感情が物に即した形である。身体の中に見出でた身体が舞踊であり、色彩の中に見出でた色彩が絵画であり、音の中に見出でた音が音楽である。而してそれは各々即した物のあり方によって韻律を異にするのである。一々が歴史的現在の形相に結びつきつつ、それぞれの韻律をもつのである。

 私は前に古代ギリシャの人の流した涙は直に我々の頬に流れると言った。ホモ、サンピエスとして、身体の構造を等しくする我々は、古今東西を越えて直に結ぶ涙、響き合う血潮をもつのである。一瞬一瞬の歴史的形相は此処に陰翳を宿すのである。一瞬一瞬に異なる涙は其の深奥に大なる同一をもつのである。此処に我々は芸術的表現の衝動をもつのである。自己の生をこの大なる同一を通じて他者に呼びかけ、呼びかけられるのが表現である。芸術は永遠であると言われる。それは書いたものも、書かれたものも永遠であるのではなくして、それはこの大なる同一に宿された影として永遠なのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

魅力

 知れば知る程人間ほど不思議なものはないとおもう。この間も本を読んでいると人間の脳細胞は百四十億あり、その情報容量は百四十億の百四十億乗である。それは全宇宙の電子の数に匹敵すると書いてあった。一寸ぴんと来ない話である。兎に角途方もない数字である、一寸考えただけでも私達の身体は六十兆の細胞をもつと言われている、その細胞の一々が数多の電子をもつのである。人類の数は六十億に近いと言われる。その全人類をもってしても日本海を埋めることは出来ないであろう。人類は地球の極一部に過ぎない、その地球は太陽系の一微小物である。銀河系には太陽系のようなものが約一兆個あると言われている。更に宇宙には銀河系のようなものが約一兆系統あるそうである。その恒星が宇宙に占める質量は約10%であり、後の90%は目に見えない星間物質と言われるものだそうである。私の貧弱な頭では唯混絡むばかりであるがその電子量に匹敵するということは、私達の頭脳は宇宙にこれ迄起きたこと、これから起きるであろうことを内容とし得るということである。唯人の生涯にはたらくのはその十数%であるらしい。

 先日井上徳二さんが「以前は歌会に若い人が多数出席していたが今は殆んど見ない」と述懐していた。若い人を見ないということは、若い人を魅きつける力がないということであろう。それでは魅力とは何なのか、私は深大な力を宿す頭脳は世界を自分の内容としようとする要求をもつとおもう。世界を知り、世界を表現しようとするのである。私達は生命としてそれを生死に於て宿すのである。田を耕し、布を織り、家を建てる。それらは全て生きるために環境を適応さす努力である。努力とは環境を変化さすことであり、私達はそこに新しい力を獲得したものとなるのである。このように環境を作り、環境に作られるのが世界である。私達はその力を人類としてもつのである。私達ははたらくものとして自分の世界をもつ、それは人類の世界を分有するものである。分有するものとして絶えず世界に自己を映し、より大なる自己の世界を作ろうとするものである。私は魅力はそこから来るとおもう、自分の展いた世界から全世界を見、全世界に自分の世界を映す、そこに生命の躍動があるのである。生命の躍動は生命の実現である。

 歌が出来ないという嘆きをよく聞く。創作とは現われて消えてゆく日日の営みを、祖先以来の言葉の中に表現するということである。自分の営みを日本人が無限の過去から伝承し、無限の未来へ伝達する言葉の体系の中に入籍するということである。荒野を美田にするということである。努力を必然とするのである。ましてそれが自己の世界の表現を超え世界の表現となるには大なる力能が必要である。併し大なる世界を自己の表現に見出し、世界に自己を映してこそ他人を呼ぶことが出来、他人も応えることが出来るのである。

 生命は危機としてある、危機とは死と背中合せにあるということである。人間は物を作って生きるものとしてそれは常に課題をもつということである。よく新聞などで脱サラという記事を見る。それは自分の生に問題をもったということである。国家も世界も問題をもつことによって新しい形へと転じてゆくのである、それが世界を創るということである。世界を映し、世界に映さるとは危機と克服に於て世界が転じてゆく処に自己も亦転じてゆく処である。私はわれが表現すべきものは、世界と自分がそこから見られるものでなければならないとおもう。

 私は大正生れである。私の作品は大正的ロマンの残像を引摺っているようにおもう。みかしほの中には浪花節的情愛を多く見かける。それが悪いというのではない、唯未来を指呼する若い人を招き得ないだろうとおもうのみである。

長谷川利春「自覚的形成」

創造について

 近頃何処へ行っても書道教室とか、陶芸教室とかいうのが目につく。そしてそれは失われた人間性を、創作を通じて回復しようとすることらしい。私達はもともと人間である。それを失なったということは、人間は自分の中に自分を否定するものをもっていたということである。而して人間は自己の中に自己を否定し、自己を失なうものをもつことによって人間であるということが出来る。犬や鳥はその本性を失なうということはない。

 人間性の喪失が叫ばれてから久しい。人間性を失わしめたものは生産手段の発展である。巨大なる機械は分業を細分化し、人々はコンベア・ベルトの前に並べられた。そこにあるのは単調なる動作の繰り返しであった。製作する生命として人間はその背後に灰色の憂愁を宿していたのである。製作によって人間は、街頭に輝く商品を溢れしめた。而してその代償は単調な繰り返しによる感情の枯瘦であり、私有財産の争奪による精神の荒廃であった。巨大化する生産手段の中に人間は埋没したのである。 生命は本来創造的であり、創造に於て自己を充足してゆくのである。そこに人間性回復の声が生れ、書道教室や、陶芸教室の生れて来た所以があると思う。斯る創造とは如何なるものであるか。

 この間永井さんから葉書が届いて、家族で足立美術館に行った。素晴しい一日であった。子供等も何か得たようであると書いてあった。何か得たとは何ういうことなのであろうか。私は子供が次に画を見るときに、見て来たものが、見る目の中にはたらくものとなることであるとおもう。見て来たものが、見るものとなるのである。先覚の目が子供の目となるのである。色や形が子供の内部として、次のものを見るのである。それは書道や陶芸の製作に於て愈々明らかとなる。

 よく所用で内藤先生の書道教室を訪れるのであるが、多くの生徒が手本をそばに置いてたっぷりと墨を含んだ筆を慎重に動かしている。そして書き了ると朱筆で直してもらっている。直してもらい、次に書くということは、今書いたものが目の内容となって働いているということである。これ迄の書き上げた一枚一枚が力として、次の形を呼んでいるということである。作られたものが作るものとして、無限の内面的発展をもつ、それが創造である。そこに生命は自己を見、自己を充足するのである。見られたものが見るものとしてそこに形は常に新たである。

 毛筆を習う人は師をもち、空海とか良寛とかいった手本をもつ。習うとはこれ等先覚と の格闘である。それは他者として、習うものの前に立ちはだかるものである。而して格闘とは相対するものが否定に於て一つなることである。闘うことによって習うものの内面的発展があるとは、内面的発展は習う人を超えたより大なる世界の内容であると考えられなければならない。私はそれを歴史的形成的世界に求めたいと思う。

 足立美術館の画家も、空海も良寛も師を持ち、古蹟に学んだのである。見られたものが見るものとして、人類発生以来相伝して来たのである。人類の大なる創造線の一点として歴史的現在はあるのである。和歌を作り、土をひねり、墨書するとはこの創造線に添うということである。そこは見られたものが見るものとして、初めに終りがあるのである。芸術が永遠であるとは、ここに所以をもつのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

自然について

乙「この頃駅のポスターなんかでよく、自然を求めて田舎へ、文化を求めて都会へと か、森林浴とか、青い空、澄んだ水とか言った、自然への誘いの言葉を見かけるんだ。そこに都会人の精神の衰弱のようなものを感じるんだが、さて自然とは何かと問うと釈然としないんだ。それで君に問いたいと思って来たんだ。」

甲「大きな問題だね。昔から問い続けられ、僕等も問い、そして未来の人々も問いつ づけるのだろうね。限りなき謎かも知れない。而し、言葉をもつものとして、僕等は僕等の言葉で表してゆくべきなのだろうね。その意味で考えただけ語ってみるよ。」

乙「僕も具体的な問いを用意せず、自然とは何かといった問いでは恐縮なんだが、君 の答えの中から新たな問いが生まれてくると思うから頼むよ。」

甲「和辻哲郎であったように思うんだが、昔読んだ本に、自然とは経験の露はなものであるといった意味のことが書いてあったと思うんだ。そのときはよく分からなかったんだが、そこに秘密の扉を開く鍵があるような気がしたんだ。君の問いに対してもそこから出発したいと思うんだ。」

乙「あの山や川が経験なんかね。」

甲「僕達の小さい時に兎を追いし山とか魚をとりし川とか言う歌があったね。水は渇 きを癒すものとして飲む水なんだ。歩み耕すところとして大地があるんだ。山は薪を 取り、登り越えるところなんだ。川は魚を追い、泳ぎ体を洗うところなのだ。山や川が自然であるのはこのような生の対応をとうして自然であると思うんだ。」

乙 「而し、生の対応が全て自然であると思えないが、」

甲「そうだね。経験は身体を経るということが必要だが、僕は人間の身体は相反する 二つのものをもっていると思うんだ。一つは物を作るものとしての方向だ。一つは生 まれ来たったものとして、作られたものの方向だ。君が前にポスターのスローガンに、 文化を求めて都会へ、自然を求めて田舎へ、というのがあると言っていたね。それはこの二重構造の表れであると思うんだ。生まれ来った生の対応として自然があると思うんだ。」

乙「生の対応関係というのを少し説明してくれないか。」

甲「僕達が生きてゆくには身体に攝食と排泄というはたらきがあるんだ。生きている ということは攝食と排泄をもつということなんだ。それは何故にあるかという問いを超えた、直接に与えられたものだ。食うというのは外を内とすることだ。排泄というのは内を外とすることだ。外というのは我でないもの、身体を離れたものだ。生きているということは、内外相互転換的にあるということだ。内は自宅ではない外を得るために、外へのはたらきをもたなければならない訳だ。そこに動物の行動というのがある。行動とは外を内にしようとするはたらきだ。そこに生命圏というのが生まれる。よく貴方の行動半径は広いですねと言われるとき、この生命圏を基準にしていると思うんだ。この生命圏に於いては生命は外と内をもつんだ。動物が行動をもつ生命であるとき、生命はこの生命圏に於いて具体的となるんだ。そして身体を内とし、外を環境とするんだ。外を内とするのは力だ。全て生命あるものは力の表出によって、努力によって生きるのだ。力の表出によって外を内にするとは、外は我々の否定としてあることだ。環境は死として迫って来るのだ。」

乙「環境は我々がそこに生きるところではないのかね。」

甲「そうだ。死として迫って来るのは、身体は努力しなければ生きていけないということなんだ。生命は生命を否定してくるものによって生きてゆくのだ。水や火が恐怖であると共に、恵みであるとはよく言われるところだ。生きる所であるが故に、それによってあるが故に死として迫ってくるのだ。」

乙「それではその内外相互転換が経験であり、死として迫ってくるものが自然なのか。」

甲「経験は内外相互転換的だ。而し死として迫ってくるもののみが自然ではない。カ の表出に於いて生を獲得した時、自然は恵みであるのだ。」

乙「経験があらわとなるとはどういうことなのか。」

甲「人間は言葉をもつことによって、自覚者として人間だ。言葉によって自己を外にし、外にすることに自己が自らを見るのが自覚だ。我々は言葉によって内に自己を見、外に環境を見るんだ。而して環境は既に人間の自覚的内容を含むものだ。人間が作って来たものだ。その作って来た方向に歴史が成立し、作られた方向、生まれ来った方向に自然があるのだ。あらわになるとは外に形に見ることだ。その形の極限に、相互転換を失った処に我等を包む山や川があるのだ。その相互転換を失うというのは、人間の自覚構造の内容としてあるのだ。そして相互転換の動的な方向に喜怒哀楽の情緒があるのだ。主体の方向が動的、客体の方向が静的だ。生命は否定に面した時、死の方向を向いた時に怒り悲しみ、肯定の方向、生の方向を向いた時に喜び楽しむんだ。静と動とは一つの形相の両面として、あの山、あの川と唄われる如く、山や川は我々の哀楽を住まわせることによって山や川なのだ。而し哀楽はその山や川によって具現したものとして哀楽なのだ。山や川も、喜怒哀楽も作られたものの方向にではなく、生まれ来ったものの方向にあるものとして、主体的、客体的な生命圏の形相が自然なのだ、あらわになるとは斯く捉える事だ。」

乙「君は前に経験は身体を経なければならないと言ったね。そうとすると経験は身体 がするんだね。」

甲「そうだ、生命圏の主体として、身体が経験するのだ。」

乙「身体は生まれて死んでゆく有限なものだ。それに対して自然は悠久なものだ。もし自然が経験の内容であるならば身体の死と共になくならなければならないと思うが。」

甲「死と共に感覚はなくなる。そこに経験のあり得る余地はない。而し自然はある。而し僕達はここで考えなければならないと思うんだ。君が死んだと仮定して、君の自然は何処にあるのだろう。あの山もこの川も君には存在しない筈だ。それがあると思うのは、君は君を超えた目で見ていると思うんだ。悠久の目なくして自然を見ることは出来ないと思うんだ。」

乙 「君のよく言う種的、個的なるものかね。」

甲「そうだ生命形成は種的形成だ。種は個的に形成するものとして、我々の目や耳は 人類の目や耳であるのだ。我々は我々を越えた目で見るのだ。そして前に言った如く言葉によってあらわとなる時、対象を悠久として見るのだ。」

乙「人類は限りないものかね。」

甲「人類の発生は何百万年か前だと言われているのを読んだことがあるが、その限り に於いて有限なものだ。而しその前の生命があった筈だ。僕はこの我を生の全体系から考えたいのだ。生命は炭素から生まれたといわれているが、その炭素から考えたいのだ。」

乙「それは大変な事で、とても田舎の片隅にいては出来難いのではないか。」

甲「勿論如何にして出現したかというような大それたことは思っていないよ、生命とは何かを問いたいのだ。」

乙 「どのようなものとして考えているのかね。」

甲「自己形成的であるということだ。アメーバより人間へと言われるが、機能を分化 せめてより大なる時間と空間の形相を創り上げてゆくということだ。自己形成的として、生命はそれ自体が技術体系であるということだ。人間も斯るものとしてあると思うんだ。時間は技術的として形相形成的なるときに見られるものだ。それ自体が技術的であるとは絶えず新たな形を創ってゆくことだ。今の形を否定してゆくことだ。生命が時間的であるとは、技術内在的であるということだと思うんだ。僕達は技術を介して無限の未来を見るね、それと同時に技術を介して無限の過去を見ると思うんだ。僕はね人間が物を作る技術も斯る生命の自己形成の自覚としてあると思うんだ。経験を蓄積することによって、自然の技術を言葉によって体系化することによって人間は技術をもち、文明を築き上げたと思うんだ。人間がその上に立って我々の現在を築き上げたものとして、僕は単細胞に迄自分の過去を求めなければならないと思うんだ。生命が現れてから四十億年とか言われているがそれは見る事の出来ない深さであると思うんだ。人間はその頂点に立つものとして、無限の時間を孕んでいるのだ。僕達の身体を形造っている何兆という細胞の機構は、四十億年の時間の集計なのだ。成程人 間は生まれて百年足らずで死ぬ、而しそれは四十億年の生命形成の集計の身体として死ぬのだ。経験は身体の斯る二重構造に於いてあるのだ。形成は常に生命圏的だ。悠久なる自然は、悠久なる生命の外的方向としてあるのだ。」

乙「自然は最大の教師なりとは、生命のその自己形成の上に立つということなのか。」

甲「僕はそう思うんだ。 生命圏的に自己を形成する生命は、外に悠久なるものをもつ と共に、内に変じて止まないものなのだ。身体は内外相互転換的として、両方向をも つものだ。内的、外的として身体はあるのだ。よく言われる如く、人間の自覚は表現 として、身体の外化であると思うんだ。内外相互転換的としての身体は自覚に於いて、外を身体を維持する食物的環境から、身体を外に表す表現的世界とするのだ。道具は手の延長と言われ、機械は道具の延長と言われるね。 湯川秀樹博士は、物理学は関節 覚と視覚の自覚であると書いておられたが、我々の技術は身体の外延的方向への形成としてあると思うんだ。極論すれば世界は人類の自覚的身体なのだ。身体はあくまでも生まれ来ったものだ、その延長として世界があるということは、自然の技術として生まれ来った生命が自己を見る生命であるということだ。人間社会の文明は空中に築かれた楼閣ではなくして、単細胞より形成して来た生命の技術の自覚としてあると思うのだ。自然はそこから出て来る母胎なのだ。四十億年の時の深さを思うとき、ニュー トンの言った如く、真理の海の浜辺にあって、一握りの小石を拾うものに過ぎないのではないか、最大の教師というよりは自然の底に入ることなくして新しい物を生むことが出来ないのではないか。自覚とは底に入ることによって、上に築くことだと思うんだ。」

乙「よく自然にかえれと言われるね。最初に言ったポスターなんかもそれに類すると 思うんだ。而し人間は自然の底に入り、上に築いて世界を作ったとすれば自然にかえ る必要はないのではないか。」

甲「いやそうではないよ、底に入り、上に築いたからこそ自然にかえる必要があると 思うんだ。例えば動物に於いては食物と動物は生命圏として一つだ。昔こういうこと を読んだ事があるよ、馬の左右に、等しい距離に同じ量と質の食物を置いたとすると、馬は何方も食うことが出来ず餓死しなければならないと。馬が求めるとは食物が誘うことであると。それに対して人間が自覚的であるとは物を作るということだ。自己を外にすることだ。自己を外にするとは、物が外なる自己となって、この我と否定し合 うことだ。歴史の無限なる闘争はここにあるのだ。物に重圧される主体、ここに文明 社会の生命の衰弱があるのだ。而し自己を外にするとはより深大なる生命圏の創造なのだ。生命は内外相反するものから生命圏としての一を回復しなければならないのだ。そこに自然にかえらなければならない意味があるのだ。」

乙「生命圏の一を回復するとはどのようなことなのか。」

甲「何処迄も僕はそう思うという答えなんだからそう思って聞いてくれ、いつであったかこうゆうのを読んだことがあるんだ。 大脳が欠損して鳥のような頭をした少女が いた。その少女は判断力は殆ど持たなかったが、全身をもって笑い怒り、情動は非常 豊かであったと、前にもいったが作られたもの、生まれたものとしての生命圏の内外相互転換は情緒的であると思うんだ。生命は情緒的に自らを現し、我々は情動に於 いて生命を感じると思うんだ。そこに働く力の根源があると思うんだ。或る人が浜田 庄次の処へ縄文時代の土器を持って来て、その複製を頼んだところ、氏はじっと見ていたがやがて、僕にはとても作れないと言って返したそうだ。それに対して著者は縄 文時代は体格がよくて、土器を作ったのは女性であるが、女性といえども六尺豊かな 浜田氏より力が強かったので、氏はその力の表現に及ばないものを感ぜられたので ろう、と書いていたが、僕はそうではなくて、原始人の情動の激しさが力となって現れたのではないかと思うんだ。ゴーガンがタヒチに行ったのも、生命の純なるものを求めてではないかと思うんだ。僕達は最早原始にかえることは出来ない。そこで理知と情念のバランスが必要となってくるんだ。情緒は活力だ。理性はその普遍性の故に活力を枯死せしめる。そこに山や川の野の声に呼ばれる所以があると思うんだ。生命は常に今を生きているのだ。そこに理性によって衰弱させられる所以があるのだ。大地を歩み、水に手を浸すのが生命の賦活につながる所以がそこにあるのだ。」

乙「それではある時間を理性に、ある時間を自然に使うのが自然にかえることか。」 甲「僕は残念ながら十八世紀の自然にかえれの大合唱につい殆ど知らないのだ。だから僕自身の考えをいうと、今言ったのは君の駅のポスターの意味だ。自然にかえれというのは既に自然ではないのだ、自然の否定として、自然の上に築かれた文化があった。更にこの文化を否定する深い自覚としてあるものだ。十八世紀の自然主義は単なる自然にかえろうとした錯誤に於いて挫折したのではなかろうかと思うよ。人間の自覚に於いて内外相分かれたのは、より大なる時間空間の創造だ。人間の自覚が自然の上に立った如く、文化を包んだ自然を見なければならないと思うんだ。僕は自然にかえれの奥底に、禅家の日日是好日のようなものがあると思うんだ。そこに生まれ来った時間と、創ってゆく時間の統一のようなものがあるように思うんだ。勿論深大な宗教的体験をもたない僕は、もやを距てて地平を見るようなものだがね。」

乙「そうすると我々人間は自然に対してどうすべきなんだろうね。」

甲「生命が身体的である以上、一つの生態系の発展は他の生態系の衰亡を意味するんだ。人間も亦身体的として、他の生態系を駆逐して生きて来たのだ。而し一つの生態系が無限に繁殖してよいというものではないのだ。地球的規模に於いて生態系は相互否定的であると共に相互肯定的なのだ。闘うものであると共に、依存し合うものだ。

四十億年の自然の技術はそこに均衡をとって来たのだ。他の生態系を全部駆逐したとしよう。そのとき人間はどうして生きてゆくのか、それは攝食のみではなく、排泄に 於いてもそうだ。均衡のとれた生態系の共存に於いては、排泄物は植物の成長を促し、水や空気は自浄作用をもつ、而し過剰な排泄は他の生態体系の死をもらすのだ。それははね返って人間の死でもあるのだ。新聞、テレビによく報ぜられる汚染がそれだ。而して生めよ、殖やせよ、地に満てよは生命の意志なのだ。他に打ち勝ち、己が生態系を拡大すべく生命はあるのだ。」

乙「そうすると知りつつ地獄への道を歩まなければならないのか。」

甲「いや僕はそう思わないんだ。人間が他の生態系に対して卓越したのはその技術 於いてだ。技術は経験の蓄積に於いてあると思うんだ。仮説と実験が物理学の基礎となっているのも、経験の延長線上にあると思うのだ。経験は自然にあり、技術は自然の把握だ。そして自然は闘いを媒介としつつ調和を保って来たのだ。僕は斯るものと して技術は必ず調和を志向すると思うのだ。人間も亦一生態系として、他の生態系を駆逐するだろう。そのことは人間の死として迫ってくるのだ。その危機に於いて人 間は調和へと目覚めるのだ。そこに自然の深さがあるのだ。四十億年があるのだ。技 術とは常に危機の超克であったのだ。生命は何処迄も自己限定的だ、自愛としてあるのだ。自己が世界によってあると知った時に愛他となるのだ。僕は必ず生命としての地球は救済されると思っているんだ。ある人から琵琶湖の汚染は元にかえらないと問いたことがあるんだ。恐らく現在の延長線からはそうであろう。而し危機をバネとし 技術は変革だ。生の快適なる姿になると信じるんだ。これは僕の詩的空想ではない と思っているんだ。本当の事を言えば僕は今の地上の生態体系を覆して、人間が自己の底につながる自然の相に作り変えるべきであると思っているんだ。人間が技術をもつ生命であることも自然が生んだものだ。人間の創造に於いて自然は自己を完成するのではないかと思うのだ。」

乙「それは大きな問題で簡単に結論は出せないだろうね、而し人間が技術をもって自 然に対するときそうならざるを得ないのだろうね。それはそうとしてよく自然は美しいと言われるが、それに対する君の考えを言ってくれないか。」

甲「幾回もいうとおり僕は自然を経験に於いて捉えようとするものだ。そこには美も 醜もない、あるとすれば快、不快のようなものだろう。美は価値として人間の創造の 内容だ。それは自然ではなくして歴史の世界に属するものだと思うよ。例に引くのだ が、今尚呪術社会に生きるペルーの山奥を尋ねられた佐藤信行氏の著書の一節にこういうのがあるんだ。悪霊が山の上に棲むと言はれ、後にこうした観念から、万年雪をいただくアンデスの白嶺も、インディオにとっては美しい姿として目に映じているのではなく、悪魔の棲家としておそれられているのだ。たかが村境の峠ですら百鬼横行しているのであるから、あの雄大なアンデスの白嶺には、この世のありとあらゆる悪霊の親玉がたむろしていると思いおそれられているのは、無理からぬことである。我々が絶景を賞でる白嶺の輝きもそこでは恐怖の対象に外ならないと言うのだ。而しそれを笑ってはいけないと思うんだ。若しそこに生まれ、そこに住んでいたなら我々も恐怖の目で見上げるのだ。我々がそれを美しいと思うのは限りない先人の創造の努力があったのだ。我々の目は無限の時によって創られた歴史的現在の目なのだ。今住んでいる社会が自覚的生命の形相として、無限の過去を孕んでいるんだ。我々が物を見るとはこの社会の奥から見ているんだ。未開人は未開社会の奥から見ているのだ。自然の形相は斯る主体との対応関係として、何処迄も経験的なのだと思うよ、ワイルドの言う如く自然は芸術を模倣するのだ。」

乙「有難う、僕は自然を聞きながら人間の底の深さをしみじみと感じたよ。」

甲「僕も君に答える事によって、考えを明らかに出来たよ、亦来給え。」

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

不生不滅

 寄せて来る波が砂に伸びて消え、新たな波が寄せては消える。目を上げると重々無尽、視野果つる所より千万の波がたゆたい寄せている。私はそれを見ながら思いを過ぎゆくものに移した。太古より幾多の波が生れ消えている。それは人生の生死にも擬え得るものである。併し思えば太古の波も、今寄せている波も同じ海の水のたゆたいである。起伏変遷があるということは大なる同一をもつことである。人間に於ても同じである。生死を見るものは生死を超えたものをもつことでなければならない。全ての生死を自己のたゆたいとする如き、生命の海に於て生死を見ることが出来るのである。

 私はかかるものの端的な表れを言葉に見ることが出来ると思う。言葉を作った人はないと言われる。言葉は太古よりの人と人との関り合いの中から生れたものである。而して生んだ言葉によって私達は私となったのである。私達は他人の言葉を語ることは出来ない。私の言葉は何処迄も私個有のものである。人と人との間から生れたもの、私ならざるものによって私は私となるのである。

 私は今ゲーテを読んでいる。ゲーテは既に死んでいない。いない人の本を読むということは、ゲーテの言葉は私の中に生かされ、私の中に生きることによって生命を持続することである。併し私の中に生きるということは、私がゲーテに生かされるということである。読むことによってゲーテの言葉は私の言葉と化す。併し私に化した言葉は私の言葉であって、ゲーテの言葉は依然としてゲーテの言葉である。

 言葉は普遍のものである。一人のみがもつ言葉というのは言葉ではない。我々は解続することによって、六千年前のスメル人の思想行動を知ることが出来る。それは古今を通貫し、東西に敷延するものである。併し言葉一般というものはない。言葉は何処迄も私の言葉であり、君の言葉である。私達は自分の言葉をもつことによって、対話するものとなり、人類の一員となるのである。個が一般であり、個が一般であることは、一般が個であることである。

 人間の身体のみにあって他の動物にないもの、それは言語中枢であると言われる。 言語中枢は人類が、生命創造の究極に見出でたものである。それによって我々は言葉をもち、他の動物に卓越することが出来たのである。その言語中枢は一人一人がもつ、人類という抽象的普遍がもつのではなくして、今この字を書ける我、田を耕せる君がもつのである。而してそれはこの我や君がつくったのではない。人類の壮大な生命の流れがつくったのである。

 言葉は既に述べた如く、無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達するものである。身体の生死を超えたものである。而して言語中枢は生死するこの身体がもつのである。生死する身体は生死を超えたものをもつ身体である。生死する身体が生死を超えたものをもつとは、語られる言葉は生死に関るということである。そこに人間の懊悩がある。

 人間が言語中枢によって人間であるとは、我々の自己は我々を超えたものによって自己であることである。身体が身体を超えたものをもつとは、超えたものによって身体が見られているということである。私達は初見の人に自己紹介として名刺を出す。その名刺には住所氏名職業が記されている。これ等は全て身体の存在を超えたものである。住所は祖先が拓いた土地にあり、氏名は血脈の連続の上にあるものであり、職業は限りない技術の伝統の上に立つのである。それを言葉が写したものが自己である。

 不生不滅は周知の如く般若心経の中に書かれている言葉である。心経は五蘊は皆空なりと照見して一切苦厄を渡すと書く。五蘊は生死する身体の欲求として、ここに書く身体に比すべきものである。照見された世界を色即是空と説く。即とは相反するものが一ということである。色は何処迄も空ならざるものであり、空は何処迄も色ならざるものである。それが直に一ということである。相反するものが一であるとは、相互媒介的ということである。色は空によってあり、空は色によってあるのである。

 色が何処迄も空ならざるものであるとき、色が見ることの出来るものであれば、空は見ることの出来ないものでなければならない。見ることの出来ないものが、見ることの出来るものと一であるとは、見えないものははたらくものであり、見えるものは、はたらくことによって見出されたものでなければならない。前に言った如く一般が個であり、個が一般である。それは矛盾である。併して生命は矛盾として動きゆくのであり、矛盾は時間の論理である。

 言葉をもつということは自覚的ということである。自覚とは自己の中に自己を見ること である。空がはたらくものであり、色が見られたものであるとは、自己の中に見出でた自己として、空がはたらくとは色がはたらくことである。人間生命がはたらくものであるとは、この我、汝がはたらくことであり、この我、汝がはたらくことは、普遍的人間生命がはたらくことである。

 色は相対するものである。全て見出されたものは相対するものとして見出されたものである。右は左に対し、求心力は遠心力に対す、 我と汝があるということは、我と汝は相対するものとしてあるのである。相対するものは相互否定として相対するのである。右は左の否定としてあり、求心力は遠心力の否定としてある。我と汝も否定し合うもの、相争うものとして我と汝なのである。

 斯く否定し合うところが空である。空がはたらくものであることによって、空に於て我と汝は否定し合うのである。お互が身体を超えた世界をもつものとして、世界に於て我と汝は相対し、相はたらくのである。この我を色身として、この我と汝がはたらく処として、世界が空の意味をもつのである。

 はたらくとは否定し合うことである。否定し合うことは、はたらく世界が自己自身を見 ることとして否定し合うのである。世界は競争の場であり、人は競争に打勝たんとするのである。それは実業界であろうと、芸能界であろうと、人と人との関り合うところ例外はあり得ないものである。而してその競争をなすところとして必ず業界があるのである。我と汝の競争は業界の発展として、競争の裡に業界は新しい自己の相をもつのである。個が普遍であるとは常に斯る形に於て、現実として実現してゆくのである。否定し合う我と汝は業界の発展に於て結びつくのである。はたらくとは世界を内にもつことであり、世界を内にもつことによって、否定し合う我と汝は、お互に内にもつ世界によってつくられたものとして肯定し合うのである。否定が肯定であり、肯定が否定である。それは生死するものが超越的である我々の身体より出でるのである。

 生死する身体に写した超越的なるものが業界である。我々はことではたらくものとして 物を作るのである。それに対して超越的なるものに身体を映すとき、身体がそこにはたらく業界があると共に、業界がそれによってある世界があるのである。業界が自己自身を創っているものである如く、それは自己自身をつくってゆくものである。業界が生死する個を包むものとして、時の内容としてあるのに対して、時を包むものである。業界が個人の否定を媒介として自己創造をもち、自己創造に於て否定を肯定に転じた如く、業界の創造を、創造あらしめるものとして絶対普遍に転ずるものである。

 そこは究極的一として顕れも隠れもしないものである。一瞬一瞬にあらわれて消えつつあらわれ消えるものを自己の陰とする存在者である。それは恰も大海の水の如く、万波を自己の揺曳とするものである。業界は一つの湾に、個人は一つの波にも比せられるであろう。水は大なる力として、現われて消えるのは全て自己の中である。初めも終りもその中 のたゆたいである。

 般若心経は知見の書と言われる。知見とは言葉によって見ることである。言葉はそれによって我と汝を見、過去と未来を見るものとして超越的なるものである。我と汝、過去と未来はその中に見られるものとして、超越者のたゆたいの起伏に外ならないものである。この我がそれによってあるものとして、我をあらしめる超越者の大なる目となってこの我を見たのが不生不滅である。

 不生不滅の世界は一者として静寂である。併しそれは何もなき静寂ではない。無限の動きをもつものとしての一者であり静寂である。全てのものがそこに生れ、そこに消えゆく 一者として動乱と混迷を超えた大知見の静寂である。全存在への思量底の静寂である。

 色は空ならざるもの、空は色ならざるものとして相互媒介的にあるとき、色身としての この我が空に媒介されるとは、空によって否定されることでなければならない。空によって否定されるとは、色身がなくなることではない。無くなるところに相互媒介はない、 身が空の形相となることでなければならない。それは色身としての欲求的行動が言葉の内容となり、言葉によって新しき形相を得ることである。

 相互媒介的に否定されるとは死して生れることである。我々は日々の行々歩々、大なる生命の中に死ぬことによって生きるところに自覚があるのである。生き切るとは、死に切ることである。愛語よく回天の力を有すと、道元は言う。愛も慈悲もそこより生れるのである。

 色身の死に切ったところが、自覚的生命の生き切るところとして不生不滅はある。自覚的生命の大なる表現的世界は色身の生死を超絶するのである。自覚的生命としての人間はそこに生きるのである。 ロダンも道元も二宮尊もそこに生きるのである。不生不滅は冷岩枯木となることではない。言葉をもつことによって真に熱き血潮となるのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

人間回復としての文化

 文化とは生命がその形成作用に於て内面的必然をもったということである。私はその例を一番卑近なる食文化の中の漬物にとりたいとおもう。漬物は野菜の塩による保存食である。私はそれが塩と野菜の間は文化とは言われないとおもう。それが文化となるためには糠とか糀とかが加わらなければならないとおもう。糠とか糀とかが加わったということは 新しい形が生れ、新しい味が生れたということである。そしてその形が次の形を生むということが文化の創造ということであるとおもう。次の形を生むとは形の関り合いの中から新しい形が生れることである。或る家の漬物に昆布が加えてあったとする。或る家の漬物には柿の皮が加えてあったとする。その二つを関り合せることによって、新しい味の新しい漬物を作り出すことが、形の中より次の形が生れるということである。食物は一々が異なった味をもつ、それを組合せることによって無限の形が生れてくるのである。無限の形が漬物の世界であり、形の中から形を作ってゆくのが漬物の創造である。そして生れた形と、更に形が形を生んでゆくのが食文化の中の漬物の文化である。そしてこの文化を生んでゆくものは舌のよろこびである。

 何故に塩と野菜の食物としての結合は文化ではないのか、私はそこに生命形成があるとおもう。生命は内外相互転換的に形成的である。外とは我ならざるものである、我ならざるものとしてその獲得は偶然である。虎は一夜に千里を走ると言う、それはそれだけ走らなければ獲物に出会わないということであろう。人間はそれを経験の蓄積に於て必然に転ずるのである。蓄積するとは再現することである。例えば稲を山野に発見して持ち帰り、その時に忘れたか落とした統が芽生えたとする、それを播種することによって芽生えをもつのである。それは必然の原点である、併しそれだけに終るならば私は稲作文化とは言い得ないとおもう。生育の為に溝渠を作り、保水の為に曲を作り、収穫保存の為に容器を作ってゆくところに稲作文化があるとおもう。多くの経験を一つの行為的体系としてまとめるのである。偶然が形の内面的要求に於て必然となるのである。

 私は私達が偶然としてもつ対象は本来生命として主体となるものであったとおもう。 生命が内外相互転換的であるとは、転換的に一なることである。米は我ではない、我は米ではない、併し有機質として一つである。鉄分や燐分が無機質であるとしてもわれわれの身体の組成物質として一なるものである。われわれの身体が断る組成であるとは、われわれの形とは宇宙の見出でた宇宙の形であるということである。私は私達の内外相互転換とは、宇宙が見出してゆく宇宙の形としてあるとおもう。斯る宇宙を形成する一々の要素が宇宙を形成するものとして、宇宙の中心の意味を有し、一々が宇宙を映すところに一々は否定し合うものとして絶対の他となるのである。斯る一々の他者が形成するものとして一なるところに内外相互転換はあるのである。一々の他は多として、一即多、多即一なるところに形はあるのである。一即多、多即一とは形成的ということである。

 形成が一即多、多即一として、一々が世界を映すことが露わとなったのが生命である。多としての一々が世界を宿すのである。そこに身体が成立するのである。身体は無数の他者との関りを自己の中に蓄積し、統一するものである。無数の一々の関り合いが宇宙の姿である。その関りを多としての個が内容としてもつのが身体である。それは一瞬一瞬の関り合いの統一である。斯る統一が時間であり、身体は時間をもつものとして身体である。原子と原子の関り合いが宇宙の姿として、それを蓄積し統一することが宇宙を写すことであり、宇宙を写すとは宇宙がそれによって自己自身を見てゆくことである。

 身体が斯く宇宙の自己形成として、宇宙を写すことが身体の形成であるとは、身体は欲求的であるということである。身体は無限に他者に関ることによって宇宙を写し、自己が小宇宙たらんとするのである。他者と関ることが自己形成であるために、他者と関ることによって自己を作る機能が生れなければならない、生れた機能は更に他者を欲するのである。食本能と食物環境は斯る形成として見られるのであるとおもう。そして生物は如何なるものも宇宙を写すのである。

 宇宙を写すものとして生命が自己形成的であるとは自己維持的であり、自己保存的であ る。自己保存に於て一瞬一瞬の内外相互転換を蓄積し統一して自己であり続けることが出来るのである。自己保存とは宇宙の形成的意志である。而して多としての万物の一々が世界を写すことによって個があるということは、他としての個と個の関り合いはその一々が内包する世界と世界が衝突することである。食物的世界は奪い合う世界であり、本能の世界は闘争の世界である。個的身体は宇宙が一即多として自己を見、自己を実現した小宇宙としての世界である。併しそれが相互否定として闘争の世界であるとき未だ真に一即多、多即一の世界が現われたということは出来ない。世界形成的に一即多、多即一とは、一が多を成じ、多が一を成じる世界でなければならない。対立するものは相互に生かし合う世界でなければならない。多の対立は根底に一をもち、その一にかえることによって真個の自己を見るのである、それが相互に生かし合うことであり、多即一ということである。

 私は斯かるものを生命の自覚に求めたいとおもう、自覚とは自己を知るものとしてはたらくということである。自己を知るものとしてはたらくとは写されたものがはたらくものとなることである。身体はもともと宇宙を写し写されたものがはたらくものとして形成されたものであった。そして写されたものがはたらくとは内外相互転換的であった。内外相互転換的とは食物を摂ることによって身体に化すということである。併しそれは生来的として与えられたものである。身体に化すとは外が内となることである。自覚するとは斯く外を単に食物として対するのではなく、広く食物がそれに、よってある食物的環境に拡大するものである。それが写されたものがはたらくものとなることであり経験の蓄積である。それは無限に内と外とが写し合うものである。外的表象として環境に物が生まれ、内的表象として身体に記憶とか想像が生れるのである。そして記憶や想像は物を写し、物は記憶や想像を写すのである。斯る発展の内的表象の方に必然が生れ、外として物の偶然と対すのである。生命の形成的展開の肯定面に必然が生れ、否定面に偶然が生れるのである。故に必然の発展によって偶然がなくなるのではない、一つの偶然を必然の内容とすることはより多くの偶然を生むことである。私は偶然を必然の母胎と見たいとおもう。必然との交叉の底には必然によって達することの出来ないものがあるようにおもう。それは暗黒が同時明光なるものである。星は目に見えない暗黒の微粒子が集まり、集団となったエネルギーによって灼熱し光り輝く存在になったと言われる。私は偶然と必然に斯るものにも似た関係があるようにおもう。

 私は文化とは斯る必然としての内面的発展の形象であるとおもう。内面的発展は外と内とが映し合う無限の発展である。形が形を生んでゆくのである。外に物が形をもち、内によろこびが形をもつのである。記憶や想像は外に物を見出した内のよろこびの形である。そしてかなしみは外に物の消えた内の形である。私は前に漬物のさまざまの形を生んでゆくのは舌のよろこびであると言った。私は漬物のみではなくして全て人類が見出でた食物の形は舌が見出でたよろこびの形であるとおもう。そしてその形は記憶と想像が生み出したのである。よろこびかなしみは単一なる一つの感情ではなくして、外に形を見ることによって無限に深まりゆくものである。生命は無限の形成作用であり、それは内と外に無限の形を見てゆくものである。而して斯く二方向に形を見るということは形成的に一でありつつ異なった方向をもつということでなければならない。私はそれを一つは環境の方向に見、一つは身体の方向に見たいとおもう。一つを物の方向に、一つをよろこびかなしみと しての生命の方向に見たいとおもう。そしてよく言われる文明と文化もそこに分ちたいとおもう。勿論それは前に言った如く根幹に於いて一である。

 全ての生命は身体形成的であり、生命発生以来三十八億年の内外相互転換に於て作り出した形である。その内言語中枢をもつのは人間だけであると言われる。人間だけがもつということは、生命が内外相互的に宇宙を表わす最大最深のものとしての出現をもったということであるとおもう。それは三十八億年の生命形成を一望に見、形成的に操作する力をもったということである。私は生命はその三十八億年の内外相互転換に於て無限の層をなし、その層に於ておのずから表現に深さ、高さを異にするとおもう。後から出現するものは前の矛盾を克服したものとしてより大なるものである。

 形成としての感覚には二つの質の異なったものがあると言われる。一つはくり返すことによって鈍磨してゆくものであり、一つはくり返すことによって鋭敏となってゆくものである。前者の方向に嗅覚・味覚があり、後者の方に聴覚・視覚があると言われる。味覚は身体に対象が直接するものであり、嗅覚は近縁するものである。それに対して聴覚・視覚は遠くの対象に関るものである。事実私達はいくら美味しいてんぷらでも五日も続けて食わされると見たくもなくなる。好いにおい、悪いにおいでも時間が経つにつれて感覚が 鈍ってくる。それに対して聴覚・視覚は何の音・何の姿であるかを判別しようとする。それを持続することは微細精緻なるものに分け入ってゆくことである。

 生命の原初の状態に於て、内外相互転換としての外は身体と接触するものにあったとおもう、触覚が全ての感官であったとおもう。それが生命の発展により他の生命を捕捉して食用とするようになって行動が必要になり、さまざまの機能が生れたのであるとおもう。行動の拡大が空間の獲得であり、それに至る無限の内外相互転換が時間の創出である。より大なる時間・空間は生命の発展の様相であるとおもう。私は目や耳が何時如何にして出来たか知らない。併しそれは生命の形成的発展に於て機能し続けた感官であるとおもう。それに対して舌や鼻は生命形成の時間・空間の発展より取り残された感官であるとおもう。そこに質の異なる感覚系統が出来たのであるとおもう。

 芸術として表現される感覚はこのくり返すことによって鋭敏となってゆく内容であると言われる。見ることによって鋭敏になるとは形の中に形を見ることである。画家は私達の見ることの出来ない美しい色を見ていると言われる。色の中に色を見るのである。赤の中に赤を見るのである。色彩が色彩を分ってゆくのである。そこにわれわれの見ることの出来ない美しい色彩が生れるのである。そこに色彩の群が生れ、色彩が色彩を生む体系が生れるのである。目が色彩の中に色彩を見たとき、このわれの生命が生命の相を見たものとして、生命の中より溢れ出た生として表現衝動をもつのである。それが絵画である。音であるとき音楽である。

 目は最も広く対象に接するものとしてものの形は最も多く目が決定する。而してものの形は前にも言った如く無限の内外相互転換によってなるものである。無限の内面的発展を潜めるものである。生命はものの形を目をとうして決定するのである。併し目は対象を変革することは出来ない。目が形の中に形を見るとは手を加えた目となることである。そこに物の製作があり、生命の自覚的発展があるのである。形は斯る製作に於て自己の中に自己を見るのである。目は斯る製作的生命として形の中に形を見るのである。手を加えた目となるとは全身的となることである。それに於て対象を変革するとは自己を変革することである。物を作るとは自己を作ることである。そこに目は内面的発展を見る目となるのである。目は自己自身を見る目となるのである。私はそこに味覚・嗅覚のもつ表現内容と、視覚・聴覚のもつ表現内容が異なるとおもう。味覚は舌のよろこびであり、嗅覚は鼻のあらわれである。視覚は目のよろこびであり、聴覚は耳のよろこびである。共にその形の展開として文化である。併し視聴覚は自己の根底に還ってゆくのである。形の中に形を見るもの自身を見るものとして永遠の形相をもってくるのである。味覚・嗅覚が時間・空間の中に現われて消えてゆくのに対して時間・空間を包むものとなるのである。否味・嗅覚も形が形を生むものとして永遠を宿すものであった。併しそれは永遠を表わすものではなかった。それに対してくり返すことによって鋭敏になるものとは、永遠が自己の形を表わすということである。そこに絵画・音楽がより大なる文化とされる所以があるとおもう。絵画は内面を表わす形となり、音楽は創造の律動を表わすものとなるのである。そこに文化は真の具体をもつのであるとおもう。

 色彩が色彩を見ると言っても最初から色彩の中に色彩を見るものとして形が表われるのではない、製作的生命として形が表現されるのは物を写すということである。物を写すことによってわれわれは内なる力を見るのである。人間が最初に描いたものは狩猟の豊饒を祈っての鹿や猪等の姿でと言われる。それは必ずしも美しい色彩、微妙なる線を見ようとするがためではなかったであろう。併し一つの形は更に確かな形を要求する。最初は単純な色彩であり、単純な線であったであろう、それが更に鹿らしく、猪らしい色彩と線を要求するのである。それは描くことによって獲得した目によって次のイメージを創出することである。それは新しい色彩であり、新しい線である。そこに作者は新しい形と共に新しい自己を見るのである。そこに視覚は内面的発展をもつのである、目は深くものを見る目となるのである。それは更に的確に対象を把握することである。自己は新しい色彩、新しい線を見ることによって力をもつのである。斯くして目のよろこびは新しい色彩、新しい線へと向うのである。食文化が舌のよろこびに止まるのに対して、目のよろこびは全自我のよろこびとなるのである。描かれたものを視覚の世界として、描く力を世界の創造力とするのである。視覚は描くことによって無限の対象を自己に映し、自己を対象に映し、世界の自己形成を出現せしめるものとなるのである。

 併し絵画は尚真に自己を把握せしめるものではない、絵画に於ても自己はその表現力にあった、自我の把握はその表現力をあらしめたものを見るのでなければならない。私は斯るものを言葉に見ることが出来るとおもう、言葉は我と汝が意志の交換をするものである。意志の交換は何のためにあるのか、それは意志が世界を志向し、世界実現的に交換するのであると言わなければならない。世界の自己実現の手段として言葉はあると言わなければならない。我と汝は世界の自己実現として言葉をもち、言葉を交すのである。我と汝があって言葉があるのではない、言葉があって我と汝があるのである。太初にことばありき、ことばは神と共にありきである。言葉は世界の自己実現としてあり、われわれは世界の実現の中に我を見るのである。唯名論者は名をもつことにあるという。名の無いところは唯混沌の世界であるという。われわれは言葉によって自己を知るのである。そして知ることがあるということである。

 言葉は道具の使用と共に初まり、物の製作と共に発展してきたと言われる、内外相互転換の発展が新たな意志表示を求めたのである。道具の使用はこの我を主体として、対象を変革することである。一瞬一瞬の内外相互転換を生命の営みとして、一瞬一瞬を統一するものとなることである。経験の蓄積として道具の出現はあるのである。言葉がそれと初まるということは、蓄積は言葉に於て蓄積されるということである。叫びやその他の記号で動作していたものが言葉によって動作するものとなるということである。

 言葉が蓄積をもち、我と汝が対するところに言葉があるとは、蓄積は我と汝をつなぐものがもち、そこより我と汝が見られることによって我と汝があるということである。私はそこに社会があるとおもう。舌も目も耳もこの我がもつのである。この我がそれによってあるものは最も具体的なものである。最も具体的なものとは形がそこから現われる根源的なものである。私はそれを言葉が形の中に形を生む社会に見たいとおもう。言葉は我と汝がその中に見られ、我と汝がその中より作り出すものとて文化が担う究極のものであるとおもう。言葉は他の文化がそれによってあるとでも言うべき深大なるものをあらはすものであるとおもう。

 言葉が形の中に形を見出す社会とは歴史的形成的ということである、歴史は時間の形相として形の中に形を見たものである。私は文化とは歴史的形成の内容であるとおもう。而して形成は内外相互転換として、形成は外的方向と内的方向をもつのである。一つは内を映した外の方向であり、一つは外を映した内の方向である。生命を物に映す方向であり、物を生命に映す方向である。私は前者の方向に制度・法律等が成立し、後者の方向に詩・民話・小説等が成立するとおもう。前者が人間疎外の方向であり、後者が人間回復の方向である。勿論それは相即するものである。疎外があって回復があり、回復があって疎外があるのである。それは一つの形成運動である。而してそれは単に一つではない、疎外は疎外の方向に内面的発展をもち、回復は回復の方向に内面的発展をもつのである。法律は愈々法体系を整備し、詩や小説は愈々心の動きを深化してゆくのである。相即的に一であるとは法律は人間の幸福を内容とし、文芸は背反・矛盾の疎外を内容とするということである。法律は勧善懲悪に立脚し、文芸は悲劇に於てより深く表わされると言われる如く、対立・否定をより深く抉ってゆくのである。それでは何故に人間を内容とするのが疎外であるか、私はそこに法という一般観念に個性が収斂されるところにあるとおもう。没個性的なところにあるとおもう。それに対して文芸が見る矛盾は流す血潮であり、そそぐ涙である。生命に直接するものであり、身体に於てあるものである。

 このごろよく言われる文化都市の建設というのは、文化の形成運動を後者の方向より捉えんとするものであるとおもう。明治維新以来の積極的な近代化社会の建設はその機械化に於て無限の未来を拓くものであった。生産の増大によって全ての苦痛に終止符を打つものであった。併し生産の増大は欲望を充足さすものではなかった。生産の増大は亦欲望を肥大させるものであった。人々は斯くして無限に生産の増大を求めたのである。量産の結果人はコンベアベルトの前に並べられ、流れてくる物に自分の工程の責を果すべく思考と感情の余裕を失ったのである。出来上った品はその計算された劃一性に於て人々に、一の形の家に住み、相似たる服を着ることを強制するのである。人は暖衣飽食の一面に、自己の中に世界を見る心の要請を喪失したのである。ここに人々が求めたのは昔にかえることであった。短歌・俳句・茶の湯・生花・書道・陶芸・詩吟・歌謡・舞踊等々、今や文化活動の名に於て日本中それ等のことに励まぬ所はないと言っても過言ではないであろう。私はこれら文化といわれるものはその一々が完結をもつとおもう。完結をもつとは作者が全体像をもっているということである。例えば短歌に於て一字一句に苦しむことはその全体のもつ意味を実現せんがためである。書道に於ても今引きつつある線は既に書いた線と、これから書く線と如何なる形に於て関るかのイメージの創出に於て引くのであろう。そしてそのイメージの浮んで来ない線はその書を捨てる他ないであろう。形は無限の過去より生れ、無限の未来を生んでゆくものである。表現に於て無限とは、形がそこに消えてゆき、形がそこより生れるものとして形の創造面であり、永遠の意味を有するものである。 私達はその永遠に自己を映すことによって真個の自己を見るのである。そこによろこびがあるのである。勿論形の中に形を見るということは既成の形を変革して新たな形を見ることであり、公民館活動の如き先蹤の跡を習うのがやっとというものによって見得るものではない。それに上記の日本文化は高い形の完成をもつものであり、混沌の熔炉の中に投げ込んで新しい形を見出し得るものではないようである。併し斯く多くの人々がそれに向うということは巨大な力である。この巨大なるエネルギーが天才によって突然凝結することもないではないとひそかにおもうものである。勿論われわれの創作も過去に招かれて、未来に語りかけるものである。唯形の変革の自覚が呼びさまされる程強烈ではないということである。そしてそれは全ての人にそれを望み得ないということである。

 人間性の喪失と回復ということは文化内容によって見ることの出来ないものである。否文化内容に於ても言葉によってのみ見られるものである。言葉の形は前にも言った如く感覚の形を超えたものである。我と汝が其の中に見られる形である。我と汝がそこに成立する形である。世界が世界を見てゆくのである。感覚も亦世界限定の我の内容として世界を映すものとなるのである。そこに言葉による表現の根源性があるのである。言葉によって人間性の喪失と回復が見られ、さまざまの文化の形が呼び起されたということは、さまざまの形は言葉に根源をもつということである。

 私は文化の形は全て身体より生れるとおもう。内外相互転換は身体が形作ることである。言葉も亦言語中枢として身体がもつのである。言葉が他の感覚と異るところは言葉は自己の全存在を表現するということである。言葉が身体を深め、身体が言葉を深めるとき、それは単に身体を深めるのではなくして、世界を内にもつ我としての身体を深めるのである。併し短歌や俳句は直に身体を作るものではない、身体を作るには動作がなければならない。私は断るものとして日本の心を最も深く表現するといわれる能楽を例にとりたいとおもう。能は猿楽から発展したと言われる。猿楽は農作物を猿に荒されるのを防ぐために、祭りなどで猿を追い払う真似をした呪術に初まると言われる。併し私は唯真似をするだけでは能楽への発展の可能性をもたないとおもう。それが文化となるためには身振り手振りが人間のよろこびかなしみの翳としてさまざまの形が生れて来なければならないとおもう。感情の翳を宿すとは動作を誇張することである。誇張するとは感情による動作をもつことである。感情を映す動作となることによって感情は自己を明らめ、自己を作ってゆくのである。感情と動作が映し合うところよりさまざまの形が生まれるのである。それは恋のよろこび、死のかなしみの表現へとつながってゆくのである。恋や死につながってゆくとき、動作を主導するものは言葉となる。動作は言葉を表わす動作となるのである。能楽は幽玄の世界を表現すると言われている。私は斯る幽玄の世界は日本人が形の中に形を見ることによって見出した世界であるとおもう。言葉と動作を繰り返す中から現われて来たのであるとおもう。洗練によって身体の深奥が表れたのであるとおもう。幽玄の世界というのが別にあるのではない、表わすことによってあるのである。それは日本の生命形成の深奥として、私達はそこに自己の深奥を覗くのであるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

神について

 乙 「大分前から神について考えたいと言っていたがその後どうなったかね。」

 甲「何しろ問題が大きくて、資料も少ないし、概観だけに止まっている状態なのだ。」

 乙「丁度僕も絶対と相対と言った問題に悩んでいるところなんだ。考えただけ話してくれないか」

 甲「いいだろう僕自身の考えをまとめるという意味で、考えながら話をしよう。」

 乙「では君は神をどういうものとして捉えようとしているのかね」

 甲「それは我々の存在の根源として、この我がそこから見られ、それによって成立し、 全ての価値がそこから出てくるようなものとして捉えたいと思っているのだ。」

 乙「根源へ要求というのはどういうところから生まれて来るのだろう。」

 甲「君が先に絶対と相対の問題に悩んでいると言っていたね、その根底には相対とし ての自己が、絶対として世界と一つになろうとする意志があると思うんだ。生死する 生命は永遠を求める生命なのだ。そこに根源を求める所以があると思うんだ。悩むと は自己が真個の自己ではないということなんだ。個と種として内に乖離をもつのが生 命なんだ。それが一として、その乖離を埋めようとするのが問いなんだ。」

 乙「我々の根源と言う時、それは我々より大きな、我々を越えた存在でないといけな いのではないのか。」

 甲「そうだ。」

 乙「そうすると君がかねがね言っている、人間が自覚的創造的として、自己が自己を作っていくというのと矛盾しないのかね。」

 甲「それは矛盾しないのだ。自分が自分を知る事が、自分を越えたものをもつことに よって初めて成立するのだ。」

 乙「具体的に言ってくれないか。」

 甲「生命は身体的にあるのだ。身体のない生命というのはない。自覚的創造というの も、この身体の活動に於いてあるのだ。内とか外とか、超越とか内在と言われるのも この身体を基準として言われるのだ。超越というのはこの身体を越えているというこ とだ。五尺の体と言われる如く、僅かな空間を有し、人生五十年と言われる如く、我々 の身体は生死する生命なのだ。而し我々が私という時、それは斯る事実的存在として の生命ではないのだ。何という名前の、何処に住み、どのような仕事をしているかと いう私なのだ。姓名は血族の無限の連続の上に成り立っているのだ。住所は先人が血と汗で拓いた処だ。職業は歴史の伝承を基礎としているのだ。それは何れもこの生死する身体を越えたものだ。そして私達は言葉と技術を用いてこの世の中で暮らすのだ。そして言葉も技術も我々を超え、我々がそれによってあるものだ。そして斯る越えたものに自分を見出してゆくのが自己創造ということなのだ。」

 乙「それでは世界が神なのか、」

 甲「そうとも言えるし、そうでないとも言えるね。」

 乙「というのは、」

 甲「普通考えているように、単に世界が我々の住む処、我々を包むものである時は、 それはまだ神とは言えないのだ。世界が自覚的創造者として、この我の自覚的創造に対する時に世界は神となるのだ。」

 乙「それはどういうことだろう。」

 甲「うん、ここは難しいところで、僕自身苦しんでいるんだ。而しここを抜いては前に進む事が出来ないので敢えて言うと、この我があるということは、何処迄も生死する身体を超えたものとしてあると同時に、何処迄も身体的にあるものとして生死するものなのだ。生きているものは死をもつものとして常に死に面しているものなのだ。生きているとは常に危機にあるということなのだ。我々は危機の克服に於いて生きているのだ。先に我々がそれによってあると言った言葉や技術も、人間が死を生に転ずる手段なのだ。この死として迫って来る力、我々の全てを一挙に無とする力に人は最初の神を見たのだ。」

 乙「それと自覚的創造とは何の関係があるのかね。」

 甲「我々が自己を見るというのは、自己を外に表して見るのだ。手の延長として物を 道具とし、道具を握って物を製作して、欲求を外に表した時から自己はあるのだ。前に言葉や技術によって自己となったという所以はそこにあるのだ。この製作的生命の 無限の発展が自覚的創造なのだ。人は製作に於いて死を超えようとして初めて世界を見たのだ。而し生きるものは死ぬのが宿命である以上、それはどうすることも出来ない巨大なものだ。そこでこの力の庇護を受けようとしたのが最初の神なのだ。」

 乙「而し人間がこの巨大な力を知るということは、何らかの意味でこの巨大な力をもっ ているということではないのか。」

 甲「そうだ、何等かの意味で持たない限り、驚く事も怖れる事も出来ないだろう。それは後で詳しく話す場合があると思うが、前にも言った如く、我々が見るというのは外に表して見るのだ。表したものの力を自己として見るのだ。」

 乙「そうとすると神は生産力の向上につれて変わってゆかなければならないと思う が。」

 甲「そうだ、新しい状況、新しい世界と共に古い神々は死に、新しい神が誕生するんだ。」

 乙「少し説明してくれないか。」

 甲「うん資料もないので僕の周辺を見ながら説明をしよう。その前に言っておかなけ ればならないのは、我々は生命としてあるということだ。生命が見るものは生命であ るということだ。作られた物も、生命の影として物であるということだ。そして生命が生命に於いて自己を見るとは生死に於いて見る事だ。世界を生死として、自己に於いて生を見、自己をとりまくものに於いて死を見たのだ。生は力だ、そして死はそれを否定するより大きな力だ。而し自覚が未だ初歩の時代は、生命が自己外化をなしていない。物も亦生命をもつものだ。物も亦生命である時、物が我々に死をもたらす所以がない。そこで死の使者として考えられたのが死んで行った人々であると思うんだ。死者がこの世に残した怨念によって、この世を亡くそうとするのだ。」

 乙「どうして死んで行った者が、この我々を否定する力をもつと思ったのだろう。」

 甲「僕はそこにも言葉や技術といったものが介在するのではないかと思うんだ。言葉 や技術をもったものとして、後世に伝えた者、そしてそのもった言葉や技術の超越的 力が死者に力をあらしめたと思うんだ。言葉や技術は物に関る。そこに死者と物力 が関る地盤があったと思うんだ。菅原道真が雷になったのも、根底にこのようなもの もあったと思うんだ。それで初めに還るのだが、一挙に人口の三分の二を奪い去る流 行病、あらゆるものを破壊し去る暴風雨、洪水その他兇事は死霊と結びついて最初の神となったと思うんだ。勿論死を運ぶものを拝むのは、拝むことによって死を免れんとしてだ。昔僕の家の近くに地神さんを祀る処があった。竹が密生していて、人々の通る道の反対側に切り込みがあり、その奥に何かがあるようであった。夕方になると祀る家の人が灯りを上げていた。竹群をとおして、小さな灯りが見えるのは宛ら幽鬼のようであった。村の人はそこを大変怖れていて、少し暗くなると通らないようであった。僕がその竹群に小便をした時、祖母は僕を連れて祀る家に行き、なにがしかの金を払っていたのを思い出すよ、今思えばあれはきっと拝み料を払って謝ってもらったのだろうと思うよ。或る日誰もいないのを見定めて、中に入って見たら、丸い石が二、三ヶとその上に瓦のようなものが置いてあった、僕はなんだと思ったのを記憶しているよ。而し今にして思えば石器時代は石が武器であり、生産の媒介者であった訳だ。戦国時代でも、印字打ちは闘争の有力な手段だったからね、大古にはそこに大なる霊力を見たのであろうと思うよ。その外、田の中や山に稲荷さんとか秋葉さんというのがあった。それはそんなに薄暗い処にあるのではなく、人々もそんなに怖れていな いようだったよ。夏の草取りの時なんか、稲荷さんの木陰でよく休んでいたものだ。恐らく地神さんは呪術に関係し、稲荷さんや秋葉さんは物そのものに関係するのでは ないかと思うよ。そして其処には生産手段の大きな変革があったと思うんだ。亦家の 中には神棚というのがあって、種々の神が祀られて鼠の巣となっていたものだ。その 中で一番力のあったのが三宝荒神であったように思うよ。飯をこぼしたり、残したりすると祖母から、荒神さんが睨んどってやと言われたもんだ。稲荷さんなんかと共に農耕社会の最初の神であったと思うよ、一番親しまれていたのが恵比須大黒の神だったよ、何しろあの笑顔だからね、而し僕は二神の本質は陸と海の生産と収穫の技術を司るものであると思うんだ。俵と鯛、そこに相当な生産手段の発展があったと思うんだ。それからあったのが氏神さんだ。それは勿論拝む神であったけれども、氏子が寄ってお祭りする神様だったんだ。そこには意志疎通と意志統一があったと思うよ、一緒に笑ったり、歓声を挙げたりする中から一体感が生まれて来るのだ。その背景に は水利とか開拓とか大規模な土木なんかが必要ではなかったかと思うんだ。」

 乙「君の言ったことは僕にも覚えがあるよ、而しそれは日本以外の国にも当てはまる」

 甲「うんそれを言われると弱いんだ。最初に資料が乏しいと言った中の一つでね。そ れでもいつか読んだ、ギリシャ、ローマの宗教、法律及び制度の研究という本には、 家族神より民族神、都市神へと新たな神が生まれてく過程が書いてあったよ、そして 後から生まれて来る神がより高次なる神として以前の神に優越するのだ。それは何も 神が優越するのではなくして、氏族は家族に優越し、都市は氏族に優越するのだ。優 越するとは内包してゆくことなのだ。外の国も同じような過程を踏んだのではなかろ うかとしか今では言いようがないんだ。」

 乙 「それで最初の死霊というのは氏神さんになってどうなったのかね。」

 甲「うんお祭りには神楽なぞというのがあってね、そこで悪霊としての大蛇退治など があったものだよ。それに祭神としての氏の上が死霊の意味をもち、その鎮めとして の面もあったようだよ。神の発展は結局生と死の弁証法的展開と言えるんではないか と思うよ。生を否定する死、死を否定する生、環境と主体の相互限定の形相が神の形相であると思うよ。」

 乙「農耕社会に於いては太陽崇拝が大変旺んであったと聞いているが、太陽神は矢張り死霊の意味をもっていたのだろうか。」

 甲「うん僕達の周辺には余り祀っているのを見かけないが、それは皇室が天照皇太神を祀られ、天皇自身が天っ日嗣として、現人神であらせられた処に原因があると思うのだが。古代文明には太陽の国と言われるところが多いね。そしてそれは恵みの神として崇敬を受けていたようだ。而し恵みとは何なんだろうか、僕は死を生に転ずる意 味がなければならないと思うんだ。死に面する我々に生を与えてくれるのが恵みであ ると思うんだ。」

 乙 「そうすると太陽神の巨大なる力も結局死霊の力ということかね。」

 甲「そう思うんだ。勿論太陽神が死霊ではなく、死霊に打克つものとしてだ。而し死は逃れる事は出来ない、そこに祈りがあるんだ。この永久に逃れる事の出来ないもの から逃れんとするところに巨大な力が生まれるのだ。時々内藤先生の古典を読む会に顔を出すのだが、その中に物忌みで外出を止めたといった記事の多いこと、古代人は死霊との関りに明け暮れたのではないかと思われる位だ。王権の巨大な力も、この死霊との関りから説明出来るのではないかと思うんだ。」

 乙「キリストの神もその延長線上にあるのかね。」

 甲「生死の問題なくして神はあり得ないと思うよ、キリストも悪鬼よ去れと言っているところから見ると、延長線上にあると言えなくもないよ、而し汝の敵を愛せよと言ったキリスト教は過去の神と截然と一線を劃しているんだ。過去の神は祀るものの神だったんだ。それは敵を滅して自分が生きる神だったんだ。キリストに於いて神は人類普遍の神となったのだ。」

 乙「そこには矢張り生産の発展があったのかね。」

 甲「あったと思うよ。」

 乙「その普遍の神とはどういう神なんだ。」

 甲「僕はキリスト教について多くを知らないし。殊に二千年に亘って数知れない人が、祈り考えた神をごうも説明する力がないよ。唯僕自身が求めた普遍なる神をあてはめて話をするだけだ。」

 乙「兎に角言ってくれないか。」

 甲「ヨハネ伝であったと思うが冒頭に、『太初(はじめ)に言(ことば)ありき、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。』とあったと思うんだ。これは前にも言った如く僕の出発点でもあるのだ。人間だけにあって他の動物に無いもの、それは言語中枢であると言われているが、人間は言葉をもつことによって人間になったのだ。昔語部によって歴史を伝承したという如く、言葉は生死するこの身体を超えたものだ。この言葉によって蓄積された経験が技術なのだ。この蓄積が世界であり、我々は自己の底に全人類を見るのだ。蓄積は世界としての社会によってなされるのだ。ここに全てがあるのだ。」

 乙「そうすると死霊はどうなったのかね。」

 甲「経験は生が死に面するものとして経験なのだ。生と死は常に闘いだ。それは常に 勝敗をもつ、その勝った集積が技術なのだ。だから逃れることの出来ない死をバネとして、言葉や技術はより大なるものとなってゆくのだ。死霊は否定として、神いよいよ大なれば、悪魔いよいよ大なるものとして、神の自己創造は亦悪魔の自己創造とし てあるんだ。」

 乙 「そうするとこの人間の行履の蓄積された世界、死をバネとして無限に創造してゆ く世界が神ということかね。」

 甲「僕はその深大なる世界に眩めく時、それが神だと思うんだ。無限の過去と未来が その中にあるもの、草木瓦礫もその目をとおしてあるもの、前に書いた言葉と技術を もつことによってこの我があるということも、斯る世界の前に立つと言うことなんだ。この底から汝斯く為さざるべからずという声が聞こえてくるんだ。」

 乙「そうすると普遍なる神というのは世界のことかね。」

 甲「神というのはこの世界の前にこの我が立つということなんだ。それによってあるもの、造られるものとして立つというとき、世界は神となるのだ。そしてこの我から世界を見るとき、氏神とか、福神とか、民族神が成立し、世界からこの我を見るとき、普遍なる神があると思うんだ。」

 乙「もう少し説明してくれないか、」

 甲「世界が経験を蓄積するといっても、世界が記憶機能をもっている訳ではないんだ。記憶をもっているのはこの僕であり君であるのだ。言語中枢は一人一人がもっているのであって、社会という普遍者がもっているのではないのだ。そして一人一人のもつ言語が生死する身体を超えて世界を構成するのだ。言語中枢も亦身体であるとき、我々の身体は生死する生命であると共に、永遠なる生命であるのだ。自己より見るとは、世界に生死する身体を見ることだ。世界より見るとは、自己に永遠なる生命を見る事だ。」

 乙「それはどう異なるのかもう少し具体的に言ってくれないか。」

 甲「世界に生死する身体を見るとは、欲求としての身体を世界に実現しようとするこ とだ。より長く生きたい。他人よりよい生活がしたいと願うことだ。民族神や都市神が戦う神であったのはそこに原因をもつんだ。俗神と言われるのは生死の相を超えないということだ。世界より見るとは、生死を超えたものによってこの我があるものとして、言葉や技術に自己を見るものだ。それは自己を消して物そのものとなり、世界となる欲求否定の世界だ。世界の声に呼ばれるのだ。物に自己を見ることによって世界によみがえるのだ。」

 乙「ものそのものになることによってよみがえるというのはどういうことなんだ。」

 甲「物は言葉と技術の所産として、言葉と技術をふくんだものだ。永遠の内容として それ自身の展開をふくんだものだ。我々は物自身の展開によって社会を形成してゆく んだ。科学も斯る地盤に於いて成立するんだ。例えば物理学なんかでも、物の中に無眼の秩序をふくんでおり、物理学者はその秩序に招かれて体系を打樹てると思うんだ。そしてそれこそが言葉の秩序なのだ。事業でもそうだ。一つ見ることによって次が見えるのだ。その呼声が神の声なのだ。僕は若い頃、名を忘れたが西洋の著名な物理学者が、有神論者であると聞いて奇異に感じた事があるんだが、彼は無限に展けてゆく 物の秩序に神を見たのであろうと思うよ。僕がよみがえると言ったのは官能的身体から創造的身体になったということなんだ。」

 乙「それでは物の内面的発展を見るのが、神に前に立つということかね。」

 甲「いや、それは神に於いてあることなんだ。神の前に立つとは、物や数や事業とし てではなく、生命として、生死の根源として、永遠として、全てをそこよりあらしめるものとして、言葉に於いて向はなければならないのだ。我をあらしめるものとして向はなければならないのだ。言葉が神であるとは、言葉によって自己を現わすものということだ。」

 乙「君は前に古い神は死んで、新しい神が生まれると言っただろう。それは俗神にの みあてはまるものなのかね。それとも普遍神も生まれ死んでゆくかね。」

 甲「そう思うよ。言葉は歓び悲しみから生まれてくるのだ。歓び悲しみは今の他者と の関りにあるのだ。永久不変の何処に言葉があるだろう。前に物自身の秩序の展開と言っただろう。展開とは古いものが死んで新しいものが生まれてくるんだ。キリスト 教神学は大きな曲線を描いて変化している筈だ。聖書という骨格だけ残して、肉も被服も変わっている筈だ。記憶があいまいなので確かなことは言えないが、ドストエフ スキーの小説だったと思うよ、再生したキリストをなじっているところがあるんだ。何しに来たんだ今頃、君はもう必要ないんだ。君がいたら邪魔になるんだ。帰ってくれと言った風にね、僕はこの中に深い洞察があると思うんだ。佛教にも刹那生滅というのが禅にあるが、これは釈迦も達摩も免れることが出来ないと思うんだ。そればかりでなく釈迦も達摩も殺すのが刹那生滅の本当の意味だと思うんだ。もし釈迦の言葉のみでよかったら道元や親鸞の出現はあり得なかっただろう。言葉は生きているものの対話だ、そこに何時も新たな神が生まれなければならない理由がある。

 乙「そうすると全ての神も佛も生まれて死んでいくものか。」

 甲「そうだ、死なない神は神ではない、今時分に千年前の経を繰り返しているような佛は博物館の隅に埃を被るべきだ。」

 乙「而し君は言葉は生死する身体を超えて永遠だと言ったね。」

 甲「そうだ、言葉は永遠の具現であり、神は永遠だ。」

 乙「永遠は生死を超えたものであり、キリストの言う如く、始めに終わりがあるものではないのかね。」

 甲「そうだ、始めに終わりがあるものとして、永遠なるものだ。」

 乙「それは矛盾ではないのか。」

 甲「そうだ矛盾だ、そこに神の本質があるのだ。それは何処までも深く神は生命としてあるということだ。生きているものは死をもつのだ。そして永遠の中に死んでゆくのだ。永遠の中に死ぬとは前にも言った如く、人間が言葉や技術で作り上げた世界の 中に死ぬのだ。国土、習俗その他諸々のものは言葉を持ち技術をもつものとしての我々の祖先が築き上げたものだ。我々は他の動物と異なって死を知り、死を悲しむ。それはこの人間が作り上げた世界に写して知るのであり、自分の見出した世界が消えることを悲しむのだ。そのことは未だ世界をもたない嬰児は死を悲しまないし、世界を失った痴呆は死を悲しまないのでも明らかであろう。僕はこの永遠と生死、世界と自己を人間生命の種と個の形相と見るのだ。種は個を超えて個に形相を維持してゆく。個は種によって形相を与えられる。この種と個の関係が、動物に於いては個は種より与えられたままに行動するのだ。自然のプログラムのままに生きるのだ。それに対して人間は言葉をもつ。言葉をもつとは自覚的ということだ。自覚的ということは作ることによって見るということだ。そして種的個的なる生命が作るということは、種的個的なる自覚として、種的個的に作るのだ。種的方向に世界を見、個的方向にこの我を見るのだ。自覚は種的個的として一つでありつつ、相反するものとして相対する所に成立するのだ。我々は世界の方向に永遠を見、自己の方向に生死を見るのだ。この矛盾に於いて世界は自己自身を創造していくのだ。この我は世界の中にあると共に世界を作っていくものだ。世界を作るとは、世界を自己の内にもつことだ。我々は世界としての言葉や技術をもつことによって世界を作るのだ、世界をもつことによって世界を作るとは、世界を自己の性格の相にあらしめようとすることだ。自己が神であろうと することだ。そこに我々の意志があり、意志は世界を自己の下にあらしめようとするのだ。そこに意志の自由がある。個は世界を否定することによって個なのだ。而し生死するものとして、人と人と相対し、世界によってある我々はどうしても世界となることは出来ない。世界とは絶対の懸絶をもつ、そこにキリスト教の躓きがあり、キエルケゴールの絶望があるのだ。世界は個の否定としてあるのだ。世界は到達することの出来ない唯一者としてあるのだ。世界は自己の中に自己を包むもの、自己を否定するものとしての個をもつことによって自己を突き破り、自己を創造するのだ。動的として変容してゆくのだ。而して唯一者としての神は変容に於いて自己を見るものとして、見るべからざるものとなるのだ。キリスト教のかくれたる神であり、佛教の空であるのだ。而してそれは自己の中に矛盾をふくむことによって自己を創造するものとして絶対の力なのだ。世界の形相として現れた神は否定をふくむものとして、すでにある形が死して、新たな形が生まれるのだ。単なる一は一でもなんでもないんだ。一は多の否定に於いて一なのだ。多は一の否定に於いて多なのだ。一は多の否定として多を維持する力なのだ。この力に於いて我々はゲーテや達摩と対話出来るのだ。斯る一者がはたらくところに我々の言葉や技術は成立することが出来るのだ。僕は数学の一については知らないが、生命の一者はかかるものでなければならないと思うんだ。かくれたる神であり、空であるのは時間の統一者だからだ。そこに見えざるもの、形なきものが絶対有である所以があるんだ。はじめに終わりがあり、終わりにはじめがあるんだ。我々は世界を否定して自己が世界であろうとして、世界より否定されて絶対の無となったときに、見るべからざる永遠を見、触るるべからざる神に触れるのだ。」

 乙「空として、かくれたるものとして絶対者があるとき、生まれて死ぬ神は最早いら ないのじゃないのか。」

 甲「いやそうじゃないんだ。自己の中に否定をふくみ、否定を媒介として自己を創造 する神は、現在に於いて働く神だ。形なき神は、形に現われることによって、形なき 神なのだ。否定を媒介として、形より形へと転ずるが故にかくれたる形なのだ。無限 に動的なるものの一として、時は現在より現在へだ。永遠なるものは常に働く現在が 担うのだ。二十一世紀を担う者は二十世紀の神を滅ぼして、担うもの等の神を打樹て ねばならないんだ。かくれたる神は働く神だ。」

 乙「はじめに終わりありとは、君の言うとおり現在が過去と未来をもつことであろう。 而し現在が過去と未来をもつことは過去が現在をもつことではないのかね。」

 甲「そうだ。釈迦の言葉の中に歎異抄や正法眼蔵がふくまれていたと言い得るし、聖 書は辯証法的神学を孕んでいたと言い得るんだ。而しそれは親鸞や道元が著はして あったんだ。彼等の苦節に於いてあったんだ。その意味に於いて最初に言葉があった 時に、既に現在の言葉の海があったと言い得るし、地上に初めて生命が現われた時に、既に現在の我々があったと言い得るんだ。生命ははかり知る事の出来ない深さだ。」

 乙「それは神の深さなのかね。」

 甲「そうだ、我々が知るとは自己が自己を見ることだ。無限の時間は我々の時間とし て、我々の身体であるが故に今我々は言葉に出し得たのだ。而し言葉となり得た自己は解っている。言葉を出している自己は永遠の謎だ。そのはかるべからざる謎に於いて我々は神の前に立つのだ。」

 乙「神が永遠の謎であれば、神のみちびきというのは何処から来るのか。」

 甲「それは交し合う言葉の中から出てくるのだ。今こうして君と話している、話しているうちに疑問が生まれ、解答が生まれる。ここにみちびきがあるのだ。そして深大なるものへの問い、根源への問いに於いて神の存在を知るのだ。神の声を聞くのだ。神の声を聞くことによって、全てが神のみちびきであったと知るのだ。」

 乙「君は前に個の否定を内にもつことによって神は自己を創造すると言っていただろう。そうとするとキリストの原罪というのはおかしいのではないのか。」

 甲「いや、その故に我々は罪をもつのだ。神が自己の内にもたない否定だったらどう して罪になるだろう。内なるが故に神を否定するものを、神は否定するのだ。個は救 済を求めるものだ、今の自己を真実ならざるものとして、奥底に真実の声を聞かんと するものだ。奥底に聞くとは、この我が死んで生きることだ、罪とは真実ならざることだ。自己否定をなさなければならないことだ。我々は言葉をもった時に罪人として神の前に立つのだ。そこに一切我今皆懺悔があるのだ。悔い改めがあるのだ。そして神の前に立つと知ることによって甦るのだ。言葉としての神は、言葉によって我々を救済するのだ。我々が知るということは神の救済なのだ。」

 乙「僕が絶対を何故求めるかということが解ったような気がするよ。まだいろいろ聞 きたいような気がするけれども、何を聞くか判らないのだ、今日はどうも有難う。」

 甲「僕もいろいろ言い足りないように思うのだが、何を言っていいのか判らないのだ。 亦来給え。」

長谷川利春「満70才記念、随想・小論集」

無について

 日本文化が問われるとき、常に出てくるのが無ということである。それは幾百年間問い直され、答え直された問題のようである。而して現在も尚、書店の棚に無を問う文字が背を並べている。私はそのことは無は西洋的な概念的定義をもち得ないことに由るのではないかと思う。

 無を問うということは、それ自身が矛盾である。無が単に無いということならば、そこ から問いの生れてくる所以があり得ない。問いが生れてくるのはそれが相反するものを含むが故である。有が無であり、無が有である、そこに無への問いが生れてくるのである。無が有であり、有が無であるとは、有も無も無いということである。併し有も無も無いところには有が無であり、無が有であるということは出来ない。あくまで有は現前するものであり、現前するものは無としての現前でなければならない。而してそれが人間生命のこの我の存在のしかたであるところに問いが生れるのである。

 生命は内外相互転換的である。生きているとは、外を内とし、内を外とすることによっ て形作ってゆくことである。斯る内と外とが転換的に純一であるということが、生命が内外相互転換的であるということである。動物は外として食物的環境をもち、内として身体機能をもつ、それは相互否定的である。動物は労力を費して食物を求めなければならない、それは苦である。併し動物はその特にすぐれていると言われる嗅覚に於て食物的環境と一体である。

 犬を散歩に連れて行っていると、突然草むらの中にかくれて何かを咥えてくることがある。どうして探したのであろうと思う。そこには犬とそのものの間に特殊な関りがなければならないと思う。咥えて来たものが、犬の嗅覚をとおして呼ぶということがなければならないとおもう。求められるものと求めるものが、誘い誘われる関係としてあるのである。私の家の裏庭の、コンクリートの裂目に咲いた二、三輪の小さな花に、密蜂の来ているのを見たことがある。花と言えばそれのみである。しかも家に囲まれているのである。そこには我々の思考を超えた生命空間とでも言うべきものがあると思わざるを得ない。それは花のにおいを介して、蜂と蜜が一なる動的空間である。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己が自己を見ることである。自己が自己を見るとは、自己を外に形に表わすことである。外に形に表わすことによって我々は自己を見るのである。外に形に表わすとは、内外相互転換としての動的一なる生命が、内的なるものと外的なるものに分れることである。それは外なるものを物として、内なるものをはたらくものとして、技術的製作的となることである。自覚的生命とは、技術をもって物を作ることによって自己を実現してゆく生命である。我々の自己とははたらく自己である。

 我々の自己がはたらく自己であり、外に物を作るとは、内と外とが分れることである。 分れることは対立することである。対立するとは相互否定的としてあるということである。動物に於ても内外相互転換的に一であるとは、相互否定的に一であるということであった。それが自覚に於て否定面が露はとなったのである。

 物を作るとは、外としての我ならざるものを、我の表われとすることである。外を否定 することである。それは同時に、物を作るとは我を外とすることである。この我が物に 化すことであり自己を否定することである。物に自己が表われることは生であり、自己が物に化すことは死である。斯くして表現的世界は生即死、死即生として無限の動転である。我の表われたものは我の化したものとして、外に我に対立するものとなるのである。我々は我の表現物を外として、更にその底に我を表はすべく努力するのである。外として死として迫ってくる物を生ずべく努力するのである。我々日常の営みとはる無限の経緯である。

 我と物が対峙するということは、生が死に対峙することであり、それは苦痛である。生 即死として外より自己が否定されるとき、そこに我々は自己を見る。死する自己、有限なる自己として我々は自己に目覚めるのである。斯る自己が死即生としての、有限なるものを超克せんとする、内よりのはたらきに自己を写すとき、無限の苦悩となるのである。死即生の方向に永遠なるものを見て、己れの生命の朝露のはかなさに悶えるのである。

 自覚的生命とは製作的表現的に自己を見てゆく生命であり、製作とは物を作ってゆくことである。物は内外相互転換の形相的実現として、何処迄も変転してゆくものである。我々が製作的生命として物を作ってゆくとは、物に自己を表わすことであり、物に自己を映すことである。何処迄も物に自己を映してゆくのが自覚的生命に生きることである。それは変転し生死しゆく有限相対の世界である。自己が物に即して自己を見る限り離れることの出来ない世界である。生きるとは苦悩に生きるのである。

 併し分れたものは一つのものが分れたのであり、対立するものはそれを包摂するものに於て対立するのである。苦悩は克服すべく我々に努力を強いるのである。そこに無の問わるべき所以がある。有限として変転し、生死するものの否定を問わなければならないのである。有の否定は無である。

 ここに如何に否定すべきかの問題がある。我々は生きるものとして、それはあく迄生命の営為に即して否定されるのでなければならない。自覚的生命の内外相互転換に即して否定されるのでなければならない。物は我の表われとして、自己を見るとは物に着すること である。物に着するとは、見出でた我に着することである。物に執し、自己に執するところに物と我とは相対し、有限として相互否定的となるのである。私は純一なる内外相互転換の自覚として見出でた物と我は、再び純一なる転換にかえるのでなければならないとおもう。否定したものによって否定されるのである。

 自覚的生命としての内外相互転換は製作であった、製作に於ては最早原始的生命の如く内と外と感官的に一であることは出来ない。物と我の対立するものが一なのである。人格的に一である。製作するとは、物と我とが行為に於てそこに消えるのである。消えて現われるのである。そこに有の否定がある。それは創造的否定である。我と物が無くなるのではない。我と物の根底に、我と物の消えゆく更に大なる生命の流れを見、我も物も断る 大なる生命の影と見るのである。

 ミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言ったとき、そこには自己も物もない 唯実現してゆく彫像あるのみである。発明家は寝食を忘れる。寝食を忘れるとは自己がそこに没することである。自己が没するとは無我であることであり、我のないところに物もない。そこに製作的生命の内外相互転換の純一がある。有限として相対するものはここに否定されるのである。而してここより物も我も生れるのである。無となるところより生れるのである。

 併しここよりまだ無への問いは生れない。製作的自己としての無我は、大なる流れの中にあるというのみである。無への問いとは斯る自己を無とならしむる大なる生命を真の自己として、その消息を問わんとすることである。行為するのではなくして、行為の根底を言葉によって捉えんとすることである。見られた自己を見るのではなくして、見る自己自身を見るのを真の自覚とせんとすることである。

 それによって我と物のある世界とは、物でもなければ我でもない世界でなければならない、その世界は物によって見られるのでなければ、我によって見ることの出来ない世界でなければならない。それは物と我とに自己を露わとしつゝ、否定的転換的に露わにするものとして見ることの出来ないものでなければならない。 我と物が否定転換的に露わとなることが、自己を露わとするものとして、私はそこに生命の初めと終りを結ぶものを見ることが出来るとおもう。

 初めと終りを結ぶ生命が内外相互転換的であるとは、創造的であるということである。創造的とは技術的に自己の中に自己を見てゆくことである。自己の中に見られた自己として、内外相互転換的に露わとなった自己が、初めと終りを結ぶ生命の表れとして、始めと終りを結ぶ生命に触れるとき、製作的自己を無我ならしめた絶対の無に接するのである。それは自己の中に自己を見るものとして、無限の活動であるとともに、見られたものは自己の中に見られたものとして無限の静止である。相互転換的に自己を限定するものとして、常に現前すると共に、一瞬も捉えることの出来ないものである。

 禅家に大死一番という言葉がある。見ることが出来ないということは、知見によって捉 えることが出来ないということである。物を捨て、自己を捨てて唯現前そのままとなるところに見られるものである。現前そのままとなることは原始的生に還ることではない。あく迄も製作的努力に生きるところである。製作的生命が真の自覚をもつのである。製作的努力の過程を経ずして至り得ない世界である。我と物なくして、我と物を捨てることはあり得ない。自覚的生命として、自己の中に自己を見るとは死して生きる道である。我と物がそこに死ぬとは、我と物が始めと終りを結ぶ永遠なるものの風景となることである。そこに我と物の真の姿が現前するのである。そこは我と物の相対的知見を捨て切ったところに見られるものとして絶対の無である。そこは全てのものがそこより生れるところとして絶対の有である。

 私は日々是好日と言った如きに斯る風景を求めたいと思う。これは我や物を介在させてもつことの出来ない世界である。知見によって捉えることの出来ない世界である。それは唯在る一日一日である。併しこれは大力量の士によってのみもち得る日々である。一瞬一瞬を常に大死出来るもののみが維持出来る日々である。悲しみ痛みを永遠なるものの影とし得るもののみがもち得る風景である。

 始めと終りを結ぶものが、自己の中に自己を見ることによって我と物があるとは、我と 物は始めと終りを結ぶものであることである。そこに無が自己の奥底への参見である所以がある。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

死について

 甲「やあよく来たね、今此の間の話をした神についての歴史的現在の側面として、死について考えていたところなんだ」

 乙「是非聞きたいね、昔からの最も大きな問題だからね。それでよく肉体は死ぬが霊 魂は不滅だと言われるが君はそれを何う思うかね」

 甲「うんそれはこの間も言ったように、初めて死を知った時に見出した不死なるものの相だね。時間を超越したものとして、兇時の根源としての巨大な力として、原始社会が見出したものだね。僕はそれは原始社会のトーテム意識に対応して生まれたもの だと思うんだ。近代の因果律は最早それを受け入れる事は出来ないと思うんだ。考え て見給え、頭を一寸打っただけで言葉に障害が起こり、脳内の血管が一本切れただけで記憶を失う人間が、肉体が全然腐乱して尚地下や天上に我々と同じ生活を続けると言う事がどうしてあり得るかね」

 乙 「それでは霊媒者なんかは何うなるんかね」

 甲「僕は霊媒なんか信じないが、若しあったとしてもそれは霊媒者の能力であって、 向こうが直接語りかけて来ない限り同じ生活をしているとは考えられないんだ」

 乙「それでは霊魂と言うのは他愛ない想像の産物と言う事かね」

 甲「いやそうじゃないんだ。何うして他愛ない想像が人類幾千年の行動を規定し、支 配する事が出来るかね。人間はそれ程馬鹿ではないよ。僕は人間は自覚的として、存在するものは全て存在の自己限定としてあると思うんだ。不滅の霊魂は、人間は本来永遠なるものであり、人間の本質の具現であったが故によく現実社会を支配する事が出来たと思うんだ」

 乙 「それでは霊魂を認める事ではないのか」

 甲「うん唯肉体を離れて霊魂があり得ないと言うのだ。霊魂が永遠なるものの別名で あれば霊魂こそ人間存在の根源的なものだよ。唯肉体が死したる後に遊離して地下や天上にあると言う事はないと言うのだ」

 乙「それではよく言われるエネルギー恒存律とか、物質不滅とかの如く一分子に霊魂 が宿り、生死は波の高低の如きものと言うのかね」

 甲「いやそうじゃないんだ。我々は一つの統一体として其の瓦解が死なのだ。一分子 に瓦解して、感覚も思考も持たないものが何うして自己を限定する事が出来るだろう。自己限定のないところに如何なる霊魂があると言うのだ。永遠と言うのは統一体それ自身が永遠でなければならないのだ」

 乙「それでは遺伝因子によって親から子へ、子から孫へと連続してゆく事かね」

 甲「いやそうじゃないんだ。遺伝因子による連続は草や虫にもあるからね。それは自 然現象として、自然の流転の変化の相に外ならないのだ。勿論草は枯れ、虫は死ぬ。併しそれはまだ本当の死ではないのだ。少なくとも今我々が一大事として問題にする死ではないのだ」

 乙「それでは本当の死と言うのは何ういうものかね」

 甲「それは不死なるものを見たものが自己の死に面した死なのだ」

 乙「もっと具体的に言ってくれないか」

 甲「それは自己が自己を知ったものの死なのだ。自己が自己を知るとは対象形成的に外に自分を投げ出し、外に自分を見出してゆく事なのだ。たとえば鏡に映して初めて自分の顔を知るようなものだ。世界を創ってゆくのだ。丁度鏡に映してより美しい自 分を創ってゆくように、世界を創る事によってより大きな自分を創っていくのだ。その事は世界の中にある我々は逆に世界を自分の中に持つと言う事なのだ。自然の連鎖 を断ち切って個的人格として個的人格が生まれる事なのだ。この我が成立する事なのだ。そしてこの前「神について」に言ったように世界は超越的として永遠の相を持つ のだ」

 乙「その個的人格の死が本当の死なのかね」

 甲「そうだ。自然現象を超えてこの我この君となった時、死は単なる流転を超えて絶 対の死となるのだ。我々は死を知るのだ。最早帰らないこの僕そして君として死ぬの だ。自然的なものが種と個が即自的なのに対して、我々は世界と個我として分離する ことによって死は絶対となるのだ」

 乙「それでは自覚以前は人間でも本当の死ではないのかね」

 甲「そうだ。今でも呪術社会以前の未開人がいるそうだが、生死に対して如何なる感 情も如何なる儀式も持たないそうだ。死を知らない処に本当の死はないのだ。現在で も植物人間と言われる人には本当の死はないのだ」

 乙「君はいつも呪術社会は人間の自覚の原初の状態だと言っているが、死んでから地下に生活すると言う考えも絶対の死と言い得るのかね」

 甲「うんその自覚の深さに対応して種々の現象が見られると思うんだ。その意味で呪 術社会はまだ本当の個的人格の自覚が生まれていないと思うんだ。真の自覚は種族的であり、家族、氏族的であり、其の対応として悪霊であり、祖霊であると思うんだ。 而し其の中にすでに絶対の死の影はあると思うんだ。君考えて見給え、霊魂が分れて地下は天上に同じ生活をすると言う事は、我々は本来の永遠の生活に入る事であり望ましい生活ではないのかね。それを何故に悪霊として恐怖の対象にしたのか。それに絶対の力を付与して、地上の制約者としたのか。それは絶対の死の背景なくして考えられないのではないのかね。」

 乙「うんそのとおりだと思うよ。而し君の言う事にはもっと深い矛盾があると思うよ。 君は人間は本来永遠なるものであると言っていたね。そして死は絶対の死と言うのは 何ういう事なのかね」

 甲「前にも言ったように我々は自覚的として対象形成的に世界を創っていく。我々が 人生のはかなきを思い、無常を嘆くのはこの世界を限りなきものとして、其の中に自己の泡沫を見るが故なのだ。其処に絶対の死があるのだ。我々が有限なるものとして無限なるものへ持つ憧憬と希求の無限は数学的な連続ではなくしてこの世界なのだ。神についてに於いて言ったように悪霊、祖霊を始祖とする神は世界の内容なのだ。其処に恐怖と祈祷があった。而し今我々が面している世界は人間の相互限定として内在的なものなのだ。人間の自己創造として歴史的なものなのだ。我々が内に真に人格になる事によって外に歴史的となったと言い得るのだ。そして歴史的世界こそ真に永遠なるものの相を現わすと思うのだ。西田先生がこれ迄の哲学の中心問題は神であった。これからは歴史となるであろうと言われた所以は此処にあると思うんだ。そして我我は尚素朴な連続性の残滓を持つ「死して護国の鬼とならん」と言った霊魂から解き放たれて絶対の死となるのだ」

 乙「そうすると我々は古代人が怖れた絶対の死の実現者としていよいよ不幸になったのではないのかね」

 甲「そうだ。我々は虚無と絶望の魂の放浪の旅へ出るべく余儀なくされたのだ」

 乙「而し古代人が祈りに於いて絶対への帰一をなしたように、我々が自己を他に見た ものが世界であるならば、何処かで世界と自己の一体が見られそうなものだと思うが ね」

 甲「うん相即的なるものは常に唯一者の自己限定でなければならないんだ。内と外は 一つでなければならないんだ。その意味で我々はこのまま救済されていなければなら ないんだ。而し我々は自覚的存在としてこれを知らなければならないとする時、この 乖離は無限の距離を持って来るのだ」

 乙「それについて君はどう言うふうなものを考えているのかね」

 甲「深い宗教的体験を持たない僕は此処迄は進んで来てもこの超越者と自己について本当に確信を持って語る事は出来ないのだ。唯僕は僕なりに考えていることがあるので語ってみよう。自覚について最も深く考えた一人と言われるアウグスチヌスの神の現前の唯一局面としての永遠の今の如きものを考えているのだ。唯一局面としての歴史的現前を永遠の今として捉えたいと思うのだ。無限の過去を含み、未来をはぐくんでゆく歴史的現在を、この僕、そして君、数多くの彼の創造として捉えたいと思うのだ。歴史は常に生きている人間が創っていくものとして、現在より現在へ動いてゆく ものとして、歴史的現在は全存在の意味を持つものとして、永遠の顕現として捉えた いと思うのだ。前にも言ったように我々は自覚的として対象限定的であり、世界形成 的である。世界の中の一微塵にすぎない我々は、其の形成者として世界を内にもつのだ。世界は逆に我々の胸底にあるが故に我々は世界を見る事が出来るのだ。斯る意味に於いて我々は全存在に直接するのだ。」

 乙「そうとすると絶対の死の意味がなくなるのではないだろうか」

 甲「うん世界の面より見ればあるものは全て永遠の風景なのだ。而し見るものと見ら れるものが分れる時、死は絶対として我々は限りない悲しみとあきらめをもつのだ」

 乙「而見るものと見られたものに分れたものが世界に直に一つなのだろう」

 甲「うんその意味で生命は矛盾であり、自覚は絶対の矛盾の自覚だと思うんだ。而し 生命は一つだ、絶対の矛盾は絶対の一でなければならないんだ。世界に永遠を見ると言う事は本来永遠なるもの自己顕現でなければならないんだ。そうとすると絶対の死 そのものが永遠でなければならないん だ」

 乙「それは何ういう事かね」

 甲「僕は其処にキリストの復活とか、禅家の死の断崖に身を絶して絶後に蘇ると言っ たものに深い意味があると思うのだ。 刹那生滅、心身脱落、脱落心身だね。唯僕は観 念としてそう思うだけで言った通り深い体験を持たないので心地の風光につい語る事 が出来ないのだ」

 乙 「そうかね」

 甲「うん、西田先生が無人島へ行くならば歎異抄と臨済録を持って行くと言っておら れるので臨済録を読んだが一行もわからなかったよ」

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

客観的世界

 生命は身体的であり、身体の維持発展は内外相互転換的である。外を食物として、摂取 した食物を身体と化し、無用となったものを排泄して、外となすのが身体の営みである。身体が内外相互転換的に自己を維持してゆくとは、身体は内的なるものを内包とし、外的なるものを外延とする、内外の統一としてあるのでなければならない。 求心的方向に意志をもち、遠心的方向に世界に生きるものでなければならない。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは自己が自己を知る生命である。自己を知るとは、自己が自己の中に自己を見るのである。内外相互転換としての生命が、内外相互転換を見るのである。内外相互転換は一瞬一瞬である。一瞬を包む一瞬となるのである。

 外が内になり、内が外になる。物が身体となり、身体が物となる。それは技術的という ことである。内外相互転換は技術的であり、身体は構成的である。一瞬を包む一瞬とは、現在が斯る技術的構成的な一瞬を包むものとなることである。現在は一瞬より一瞬へと移ってゆく、移ってゆく現在が移るものを蓄積してゆく、そこに自己の中に自己を見る自覚があるのである。現在が時の初めと終りをもつものとなるのである。我々は永遠に映した刹那として自己を知るのである。

 技術的構成的としての一瞬が一瞬を包むとは如何なることであるか、現在の相互転換に以前の相互転換が働くのである。それは前の相互転換の記憶によって、現在の相互転換の無駄が省かれるということである。合目的的となり、合理的となることである。構成的としての身体が愈々機能的となることである。投げつけた石によって偶然に胡桃の殻が割れたとする。次は殻を割るために石にてたたくのである。一瞬が一瞬を包むとは斯る生命となることである。胡桃を割るという現在の行為の中に、過去を重ねることによって偶然を必然に転換さすのである。私は物の製作を偶然の必然への無限の転換に求めたいとおもう。自覚的生命とは外に物を作ることによって、物に自己を見てゆく生命である。技術的製作的生命である。自己が自己を表わしてゆく生命である。

 内外相互転換が自覚の内容となることは、内と外とに分れることである。生命が内外相互転換的であるとは、内と外とが一であることである。若し馬に等質等量の餌を左右等距離に置いたとする。その馬は何方も食うことが出来ず、遂に飢死しなければならないということを何時か読んだことがある。馬の欲求は餌の誘いでもあるのである。 欲求と餌が感覚に於て一なのである。馬は嗅覚に誘われて行動を起すのである。内外相互転換に於て、内外はなるところに行動があるのである。自覚的生命に於ては過ぎ去ったものが現在として、現在の相互転換を限定してくるのである。現在は過去の相互転換と、現在の相互転換を包むものとなるのである。自覚とは高次なる現在をもつことである。過去と現在の対立を包むということが思考することである。ここに与えられたものを外として、欲求するものを内として内外相分れるのである。内外相分つことによって、馬なれば飢死するところを自由に撰択することが出来るのである。

 無限の内外相互転換を内包しつつ、現在の相互転換としての唯一生命を決定する。それは現在の唯一生命は無限に構成的であるということである。外としての物を構成することが技術的ということであり、技術によって唯一現在を決定することが製作する事である。内外相分れるとは、分れたものが一に回帰することによって現在の唯一形相を実現するものとなることである。一に回帰するとは、分れたものは何処迄も対立するものでなければならない。対立するものでなければ、それは単なる一であって、一に回帰すると言うこ とは出来ない。

 対立するとは各々が内面的発展をもつことである。外は外自身の自己構成をもち、内は内自身の自己構成をもつことである。物は物自身の構成として体系的発展をもち、内は身体的欲求を離れて創造的自由人格となることである。

 対立するものが一であるとは相互媒介的となることである。相互媒介的とは、内と外は絶対に対立しつゝ外は内によってあり、内は外によってあることである。物は人によってあり、人は物によってあることである。物は自由人格の創造によって構成をもち、人は物の内面的必然を見ることによって愈々自由な人格となるのである。物は人の中に消えゆくことによって、新たな物となり、人は物の中に消えゆくことによって新たな人となるのである。自覚的生命の内外相互転換は、物と人がそこに消えて新たに生れる刹那として製作的である。製作は過去がここに消え、未来がここに生れる行為的現在であり、過去は死して生れるものとしてここに働き、未来は形を呼ぶものとしてここに働くのである。対立する外と内、物と我が一となることが製作することである。

 対立するものは相互否定として対立するのである。物と我が分れるとは、否定し合うものとして分れるのである。物はわれを否定してくるものとして外である。否定とは生きるものとしての我に死をもって迫ってくることである。もともと内外相互転換が相互否定的であった。食物がないということは我の死として無に帰することであり、物を食うということは物が無に帰することである。物を得物を否定する我が力をもち、否定的転換に於て形相を実現するものとして、内容をもつものである如く、我を否定する物も、自己の形相を実現するものとして力をもつものでなければならない。斯る力によって我々は殺されると共に、生かされるのである。

 外は我を殺すものとしてはかり知ることの出来ない力である。それを我を生かす力として転ぜめるためには、物と我と相分れた自覚的生命に於ては、何処迄も物の中に消え、物となってはたらかなければならない所以がある。而して物となってはたらくことが、物を生むところに相互転換としての生命の営為があるのである。

 物に消え、物になって働くとは如何なることであろうか。生命は何処迄も内外相互転換 的一である。内が外を作り、外が内を作るのである。内は外を作るものとして内であり、外は内を作るものとして外である。 生命が風土的、歴史的に把握される所以である。自覚的生命に於て物と我が絶対の懸絶であるとは死することによって生きることである。それが転換に於て一なることである。

 我ははたらくものとして我であり、物は形あるものとして物である。物に消え、物とな ってはたらくとは形に実現してゆくことである。はたらくものは露はとなると共に、はた くものは消えてゆくのである。意志は遂行と共に消えるのである。而して形造られたも のの呼び声から、新たな決意が生れてくるのである。物ははたらくものに新たな決意を呼ぶと共に滅びゆくものとなるのである。そこに技術の発展があると共に、自覚的生命の内外相互転換があるのである。

 私は客観的世界をこの自覚的生命の内外相互転換的一に求めたいと思う。それは生命が物の中に没し、物が生命の中に没してゆく世界であると共に、物が形より形へとしてそれ自身の内面的発展をもち、生命は世界を形造るものとして絶対の自由を自覚するものである。物は何処迄も物でありつゝ、生命の翳を宿すことによって物であり、生命は何処迄も自由でありつつ、物に見出すことによって生命である。それは無限に動的である。

 私は斯る世界を歴史的世界に求めたいとおもう。無限に動的とは、現在より現在へと自己を形成することである。技術的とは時間を内包するものとして、歴史的時に於て技術はあるのである。伝統なくして技術はあり得ないと言われる所以である。歴史的世界とは生れ働いて死んでゆく世界である。無数の人が生れ、相対し死んでゆく世界である。我々がこの我というのも、この世界にあることによって言い得るのであり、物はこの世界に於て作られるのである。無限の過去より無限の未来へ流れつつ、無限の過去と無限の未来を現在とする世界である。

 客観的世界はそれに於てあるものとして、於てあるものの価値の決定者である。価値とは世界を実現しているということである。斯るものとして私は価値の決定者は歴史的現在に求めたいとおもう。人も物も世界形成に如何に働いているかによって決定されるとおもう。宝の持ち腐れという言葉がある。世界形成に参加し得るものが参加していないという ことである。

 自覚的生命の内外相互転換として、歴史は無限の推移である。歴史的現在は内包する外と内との矛盾によって、現在より現在へと移ってゆくのである。矛盾によって動くとは否定することである。動くものは相反する方向に動くと言われる如く、価値は絶えず変遷してゆくのである。昨日迄大なる人類の意志であったものが、明日は忘れられたる者となるのである人の魂を魅了した蓄音器は、今は古物商の店頭に見るのみである。

 併しそれは単に否定されたのではない、新しいものを産むことによって死んでいったのである。産むものとして永遠の底にひびきゆくのである。製作に於て無限の過去と未来が現在であるとは、形の変遷を超えてはたらくものとして一であるということである。我々の根底には全人類一なるものがあるのである。無数の過去の人、現在の人、未来の人が一なるものがあるのである。それは恰も大古の波も現在の波も同一の海の水のはたらきによるが如きものである。自覚的生命としての製作はここに見られるのである。私は仏教の弥陀の本願とか、キリスト教の最後の審判は斯る地盤に成立するものであり、歴史的現在は深く斯かるものをもつことによって、過去、現在、未来を包み得るのであるとおもう。いわば歴史的現在は一瞬一瞬に弥陀の本願をもち、最後の審判をもつのである。

 私は斯かるものの端的な表れが言葉であるとおもう。言葉を作った人はないと言われる。しかも言葉は常に語る人の言葉である。私達は言葉を解することによって、六千年前のスメル人の心や行動を知ることが出来るのである。言葉は現在によって生かされる。道元の言葉は我等に生かされてのみ言葉である。併し道元の言葉はこの我の中に消えるのではない。奪うべからざる道元の言葉として、我々に対するのである。対話するのである。我等に生かされるとは、我等を生かすものである。私は言葉は太初と終末を結ぶ生命の表れであると思う。意識の最深なるものは、言葉が太初と終末を結ぶことを知ることであるとおもう。

 初めと終りを結ぶとは、初めと終りがあるとゆうことである。一とは多ということであ る。大なる生命は我々を内に包みつつ、それ自身の動転をもつのである。我々はこの大なる生命の中に自己を消すことによって生かされるのである。私は客観的世界とは、はたらくものとしてのこの我が、我がその中にあり、それによって生かされるものとしての大なる世界に対し、大なる世界を見ることであるとおもう。

 対するとは否定することである。反逆することである。単なる内容は何ものでもない、対することによって偉大を知り、反逆することによって深淵を知るのである。内外相互転換するのはこの身体であり、製作するものはこの我であり、汝である。この我は逆に世界を包み、世界を作るものである。唯一世界といっても単なる唯一は何ものでもない。動転は否定するものによって動転するのである。

 我々が物を作るとは個性を媒介として、新たなものを作ることである。新たな状況を創 り出すことである。世界を否定して新たな世界を作ることである。世界の内容であるものが世界を内容とする。そこに客観に対する主観があるのである。そしてそこに小主観とか論理学に主語不当拡大と言われる、主観の誤謬が生れるのである。永遠に動転するものの前に生死するものは全て誤謬である。そこに我々の自己を死して生れさせなければならない所以があるのである。自覚的生命としての内外相互転換は常に努力である客観的世界は我々の主観がそこに成立するものとして、根源的主観の意味をもつものである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

おのずからとみずから

 坂田書店の本棚で『「無」の思想・老荘思想の系譜』という本を見出した。私は漢字の中に育ちながら中国思想に弱い。それなら何に強いかと言われると困るが、隣国であり乍ら殆んど知らないと言ってよい。特に老荘は何だか反文化的な感じがして拒絶反応というたものをもっていたようにおもう。所謂日進月歩とか、未来への展望とかいったものが欠除しているように思って、路傍の石として見ていたように思う。併し最近時間が成立するには時間を包むものがなければならないということ、即ち文化が発展し、未来への展望をもつには、初めと終りを結ぶものがなければならないということに考えが及んで、無の問題は非常に重大な意味をもって来た。私は一つは老荘、ひいては中国が自己の根底として見出した思想を学ぶためと、一つは私の思考の中から必然的に現われた、無の問題の検証と明確化のためにその書を買った。併しここに書くのは無についてではない。その上部構造としての自然についてである。老荘は知られる如く世界の大本を自然に見た人である。私は彼等を尋ねることによって私自身の自然を見たいとおもう。

 本書は最初に自然は「自」が主格であり「然」は助辞にすぎないと書いて、「自」には オノズカラとミズカラの二つの意味があると書いている。そしてミズカラのほうは、自分 で手を下して何ごとかをする場合に使う。これに対してオノズカラは、自分が手を下さないでも、そのことが自動的に運ぶ場合に用いられる。もう少し詳しくいえば、ミズカラには意識や努力がともなうのに対して、オノズカラはそうした意識や努力を必要としないことをさす。もしそうだとすれば、ミズカラとオノズカラは正反対の意味をもつことになる。ところが、この自はミズカラかオノズカラかという質問を中国人にすると、いくら日本語のうまいものでも、何のことやらさっぱりわからないのが普通である。つまり中国人はそのような区別をしていないのである。いや、中国人でなくても、少し広く漢文をよんでいると、ミズカラとよんでも具合が悪く、オノズカラとよんでも具合の悪いような「自」に出会うのである。つまりそれはミズカラでもなく、オノズカラでもないわけである。

 それでは「白」の本来の意味は、どのようなものであるのか。いちばん手っ取り早いの は、その反対語である「他」という言葉をおいてみることである。つまり自とは「他者で はない」ということである。もう少し親切にいえば、自とは「他者の力を借りないで、そ れ自身に内在する働きによること」であるはずである。これが自の第一義にほかならない。ひるがえって、さきのミズカラとオノズカラを、この自の第一義から見るとどうなるか、実はミズカラオノズカラも、自の第一義を共通の地盤としているのである。唯異なるのはミズカラでは自身に内在する働きがあらわれるときに意識や努力が伴い、オノズカラでは同じことが意識や努力を伴わないのである。もし意識や努力の有無ということを除外するならば、両者の区別はなくなってしまう。漢語の 「自」というのは、本来このような意味 のものである。 中略

 しかしここにあげた自然の第一義だけで、実際に使用されている自然という語の意味を完全に説明出来るかと言えば、それはそうではない。実は「他者の力を借りないで」というが、その他者が具体的に何であるかは、その場その場で異なっている。したがって自然の具体的な内容は、何を他者としておくかによって決定され、他者が変れば、自然の内容もそれにしたがって変わる。自然が多義であるのは、実はこれに対応する他者が動くためである。と書いてその多義として、無為自然と有為自然をあげ、各々其の中に見出でた諸家のさまざまの意見をあげている。

 私は読み乍ら、第一義があるのにその中に包摂出来ないというのは何うゆうことであろうかと思った。派生したものを統一することが出来ないのは第一義ではない。第一義は多義をして関聯あらしめ、それを結合してこそ第一義である。第一義は多義に対して根本義の意味を有するのでなければならない。私は第一義によって、多義が説明出来ないということは、第一義への徹底的な追求に欠けているのではないかとおもう。斯る観点から第一義を掘り下げることによって、無為自然と有為自然、オノズカラとミズカラの接点を求めてみたいとおもう。

 「他者の力を借りないで、それ自身に内在するはたらきによること」とは如何なること であろうか、はたらくとは形作ることである。形に実現してゆくことがはたらくことである。オノズカラもミズカラも形に出するということでなければならない。形に出するのに ミズカラとオノズカラとがあるのである。即ちオノズカラとミズカラは、形に出ずるあり 方が異っているということでなければならない。

 自身に内在するものによって、自己の展開をもつものは生命である。はたらくとは、生 命が自己の形を作ってゆくことである。ミズカラのはたらきが意識や努力をともない、オノズカラのはたらきが意識や努力をともなわないということは、ミズカラとしてはたらくものは、意識や意志をもつ生命であり、オノズカラとしてはたらく生命は、意識や意志をもたない生命でなければならない。

 生命が形作るとは時間的である。時間とは操作の形式であるといわれる。形作るとは無限の否定と肯定である。生命が育つとは一瞬も止むことのない摂取と排泄である。否定と肯定に於て生命は自己を形作ってゆくのである。生命形成が時間的であるとき、生命の形は時に於て現われるのでなければならない。ミズカラがオノズカラに対して、意識と努力をもつというとき、ミズカラはオノズカラに対して、時間的に後であらわれたということでなければならない。そこで私は先ず生命形成に於てオノズカラとは如何なるものであるか究明したいとおもう。

 生命は内外相互転換的である。動物に於て環境は、食物的環境であるといわれる如く、外を内とし、内を外とすることに自己を形作ってゆくのである。外を内とすることは物を身体とすることである。自己ならざるものを自己とすることである。変化せしめることである。変化せしめるということは、技術的ということである。技術的なるものが内在的であるとは、身体は機構的である。生命が形作るとは、機構的身体として形作るのである。機構的身体に於て、外と相互否定的に結びつくのである。環境と相互転換的に結びつくのである。

 動物の生態の本を読むと、動物と環境の結びつきは驚異的である。その動的なるものに於て、環境は動物の外であり、動物は環境の内である。私はそこにオノズカラがあるとおもう。環境が主体を作り、主体が環境を作る。そこに寸分のすきを見ることも出来ない。それ自身に内在するはたらきとは、身体がそれ自身機構的として、外を内に変化せしめ、自己を維持する営為をもつことである。オノズカラとは、生命形成に於て環境と主体の相互転換が純粋持続として、直に一なるものとしてあることであるとおもう。

 ミズカラが意識や努力をもつとは、生命形成の直に一なる転換が内と外に相分れることである。内と外とが対立するものとなるのである。直に一なるものがオノズカラであるとすれば、それはオノズカラの否定である。本書の最初にも「もしそうだとすれば、ミズカラとオノズカラは正反対の意味をもつことになる」と書いている。意識とは外を写すことであり、努力とは意識が写した外を、力の表出に於て変ぜんとすることである。直に一なるところに意識はない。内外相分れるとは、内外を相分つのである。それはオノズカラとしてはたらく生命に新しい生命が加わったのである。ミズカラは新しい生命の誕生としてオノズカラとしての生命のあり方を否定したのである。

 内外相対立するとは、純一なる内外相互転換の流れを断ち切ることである。断ち切るとは否定をもって相距てることである。外は主体を否定するものとして物となり、内は外を否定するものとして生命となるのである。物は生命の否定として、死として迫ってくるものとなり、生命は物の否定として、死を生に転ずるものとなるのである。そこに意識と努力が生れる。即ちミズカラとなる。

 物が我々に死として迫ってくるものであり、主体が物を否定して、死を生に転ずるとは 製作的生命となることである。物が死として迫ってくるとは、純一なる流れが断たれて固定することであり、死を生に転ずるとは、固定としての物を、新たな物を産む物として流動化せしめることである。そこに物の製作があるのである。生命とは内外相互転換としての、形成作用の純一なる流れであり、物とは外としての純一なる流れの停止の形相である。絶対否定を媒介しての流動をもつところにミズカラがあるのである。ミズカラとは外を製作としてもつことである。

 それでは製作とは如何なるものであろうか。製作とは技術によって、外を生命の内容に変革することである。斯る技術は何処から来たのであろうか。私は前に生命は内外相互転換的であり、外を内に転ずるのは技術的であるといった、技術的として身体は機構的であるといった。断る機構的なるものが、対立として、否定的として迫ってくる外に向ふとき道具となるのである。手は摑むもの、打つものとして、外の物を媒介するとき、延長として斧を見出し、槌を見出すのである。稲はそこにあったものではなく、水を引き、草を除いて作られるものとなったのである。斯くしてミズカラとしての生命は、転換としての外を飛躍的に大ならしめ、内を豊潤化していったのである。

 動くとは相反するものの方向に動くのであり、否定は相反するものとなることである。 オノズカラとミズカラとは正反対である。併し見て来た如くミズカラは、オノズカラより 出で来ったものである。出で来ったとは、出で来る前のものではないことであり、否定として正反対のものである。而して否定をもつとはその根底に深い同一をもつことである。ミズカラがオノズカラから出で来ったとは、ミズカラはオノズカラの否定であると共に、ミズカラはオノズカラの自己否定として出で来ったのである。即ち形成的飛躍として出で来ったのである。

 ミズカラはオノズカラの否定として、オノズカラが自然であるとき、ミズカラは自然であるということは出来ない。オノズカラは成るのであり、ミズカラは作るのである。そこには異った形成的系譜が成立する。オノズカラは生れ来ったものとしての身体に形成をもち、ミズカラは道具によって変革してゆく物に形成をもつのである。オノズカラは内在的なるものの発展であり、ミズカラは対象的として、世界形成的である。

 而してミズカラはオノズカラより出で来ったものとして、何処迄もオノズカラに即してあるのであり、オノズカラは、ミズカラが自己の内在的なるものより出で来ったものとし て、ミズカラを己れの飛躍的展開として、ミズカラを自己のより明らかな形相として、 ズカラより展望されるものとしてあるのである。それは動的生命の展開であり、形成としての否定が肯定であり、肯定が否定としてあるものである。そこに自然の多義性があり、多義性を摂取する一義性があるとおもう。

 非連続の連続である。非連続の連続とは生命が個体的であるということである。生命は生れることによって連続する。生れたものは親と異なったものである。それは其の中より生れたものとして同一でありつつ、それ自身の行動をもつものとして異なったものである。生命が自己形成的であるとは進化をもつことであり、進化は斯かる異なった個体を生むことによってもつことが出来たのである。その極限に成る生命より、作る生命があらわれたのである。多義性とは、否定が肯定であり、肯定が否定である否定の肯定の何処に視点をおくかにあると思う。

 ミズカラはオノズカラに対して、時間的に後に現れたものとして、形成的進化に於て優 越をもつものである。それなれば老子は何故に無為自然を唱えたのであろうか。その理由として老子の生きた殺伐たる千才の時代が言われる。それなれば何故その時代が過ぎ、平和を謳う時代が来ても読まれ続けたのであろうか、私はそこに単なる時代を越えた、人生の深奥への問いがあったとおもわざるを得ない。普遍なるものへの問いがあってこそ何時迄も読みつがれ、問い直されることが出来るのである。

 ミズカラとして、人為としての製作の世界は対立の世界である。ミズカラとは個体とし てのこの我である。個体が個性として技術をもつところに製作があるのである。技術は伝統に於て成立するものである。我々は何かの技術をもつ、その技術は師匠、教師亦は親より伝承したものである。師匠はその師匠その師匠へと無限にさかのぼるものであるそれは究めつくすことの出来ないものである。私がオノズカラとしての生命が技術的であり、構造的として、ミズカラの技術はそこより生れ来ったと言う所以である。ミズカラが製作的生命であるとは、斯る無限なるものによってある生命であることである。

 技術が無限なるものであるのに対して、技術をもつものとしての個体は生来ったもの である。それは死を対極に有する、死すべく生れ来ったものである。技術を有するものとして、無限なるものによって存在するミズカラは、露の生命として死んでゆく有限なるものである。即ち製作的生命としてのこの我は、我ならざるものとしての我なのである。矛盾として、苦悩としての生命なのである。それはこの我によって突破することの出来ない矛盾である。キェルケゴールの虚無や絶望につながるものである。

 私はそこにオノズカラの否定としてのミズカラが、ミズカラを否定しなければならない 所以があるとおもう。老子は斯る否定をふたたびオノズカラに帰ることに求めたのであると思う。ミズカラの有限性に対して、オノズカラ成るものは無窮の時間の上にある。否無為にして化すものは時なきものである。無為なるが故に、変じつつ変ぜざるものである。時の初めと終りをつつむものである。初めと終りをつつむものとして、永遠なるものである。而して前にも述べた如くオノズカラ成ったものは、環境と主体の寸分のすきもない一体としてあるものであった。そこにはオノズカラ成るとか、無為にして化すものに対する厚い信頼があったとおもう。文明の未だ幼稚なる時代に於ては、人間の製作の如きは、自然の大なる力の前に笑うべき一煩事であったであろう。

 併し老子の回帰した自然とは如何なるものであったであろうか。生命が形成的なる限りあるものは全て技術的にあるのである。オノズカラ成るも、無為にして化すも自然の技術である。人間が言葉をもち、手をもつのは物を製作すべく生れて来たのである。私は老子の無為にして化すという言葉も、人間の製作的生命を自然に投影したところより生れたものであると思わざるを得ない。そこに見出された無窮なるものも、製作としての操作的時を媒介として見出されたと思わざるを得ない。私は物を製作すべく生れて来たものが製作を放棄するのは真に生きる所以でないとおもう。オノズカラ成るものも、外を変革して内を形成するのである。製作がオノズカラなるものをミズカラに転じたとすれば、ミズカラはオノズカラの完成の意味をもつのでなければならない。製作する生命が額に汗して働かなければならなないのであれば、我々は惜しみなく汗を流すべきであるし、思考に沈面して苦悩しなければならないのであれば、我々は夜深く頭を抱えて机に呻吟すべきであるとおもう。そこからのみ新たな世界の光輝は生れてくるのである。

 私の言わんとするが如きは、老子は百も承知であろう。私は老子の無為自然の思想が、忽然として天に掛るが如く生れて来たとおもうことは出来ない。それ相当の苦悩と鍛練を経て来たものであるとおもう。そしてその結論であるとおもう。ミズカラとしての言語と思考の上に打樹てたものであるとおもう。ミズカラの個の相対性と有限性を、ミズカラの底に超えたのであるとおもう。唯私はミズカラを超えんがために、ミズカラとしての作為を捨ててかえり見ないところに釈然としないものをもつのである。オノズカラを超えたミズカラはオノズカラを踏まえてある。ミズカラを超えたオノズカラは、ミズカラを踏まえてあるべきだとおもうのである。

 我々は何処迄も生命としてある。親より生れたことによってあり、子を生んでゆくものである。製作的生命といっても生命を製作するのではない。生れた生命が物を作る生命であるのである。我々が製作として道具をもち機械をもつというも、生れ来った身体の機能を外としたのである。我々は時計をもつ、併し時計を、身体が時計を内にもち、内にもつ時計を外としたものである。斯る意味に於てオノズカラはミズカラを包むものである。併し時計を外とすることによってより正確なものとなるのである。オノズカラとしての身体が時計をもつことを知るのも、ミズカラとしての身体が時計を外につくることによってである。斯る意味に於てミズカラはオノズカラを包むということが出来る。

 オノズカラはミズカラの個としての相対性と有限性を包み、ミズカラはオノズカラの形 成作用に愈々明らかな形を与える。併しオノズカラによるミズカラの包摂は、ミズカラが製作する個性として、相対性と有限性をもつことによってあるのであり、ミズカラが愈々明らかな形を得るのは、オノズカラの始めと終りを包む無窮の形成作用に負うのである。老子の無為自然も言語による表現である限り、それは意識の内容でなければならない。それは自己の生としての自然を愈々明らかな形に於て捉えたものである。本書の中に無為自然と有為自然というのがある。恐らく人為の加わったというは、製作的生命の立場から見たとおもうが、真に対立したものとしてとらえず、オノズカラに摂取された人為としてとらえられている。そこに思考の甘さがあったとおもう。ともあれ正反対にあるとは否定的にあることであり、否定的にあることは相互媒介的にあることであり、相互媒介的にあるとは対者によってあることである。オノズカラはその底にミズカラに転じ、ミズカラはその底にオノズカラに転ずるのである。

 オノズカラがミズカラに転じ、ミズカラがオノズカラに転じるとは、元のオノズカラとなり、ミズカラとなることではない。オノズカラはミズカラの形相に生き、ミズカラはオノズカラの形相に生きることである。オノズカラがミズカラの形相に生きるとは、製作した物を生命の形象とすることである。生れて生むオノズカラなる生命のあらわれとする のである。物が情を宿すものとなるのである。ミズカラがオノズカラの形相に生きるとは始めも終りもなくして、始めと終りを包むものとなることである。始めも終りもなくして とは、無限に形成的であることであり、始めと終りを結ぶとは、第一義のそれ自身のはたらきによることである。それはミズカラとしての自己に、永遠を現前せしめんとすることである。

 私達はミズカラとしての自己であるとき、永遠なるものを愛して止まない。私はそれ はミズカラの基底にオノズカラがあり、それは絶対しつゝ相互媒介的にあるが故であるとおもう。相互媒介的にあるとは対立するもの動的に一であることである。形成的であることである。私はオノズカラがミズカラに転ずるときにこの我があり、ミズカラがオノズカラに転ずるとき、摂取するものとしての神が見られるとおもう。そしてそれは形成的尖端 に見られるのである。私達はミズカラとして、製作的生命として限りない努力をするところに、背後としての、転じるものとしての神が現われるのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」