乙「何時であったか君は全てあるものは永遠に於いてあると言っていたね。僕にとっ て永遠はそれこそ永遠の謎なのだ。我々は死んでいくものとして、うたかたの生命で あり、この世の過客である思いを何うする事も出来ないのだ。全てあるものが永遠であるとすれば、僕も永遠の存在でなければならない筈だ。露と置き露と消えていく僕が何うして永遠なのかという事を聞かしてもらいたいと思って今日は出て来たのだ」
甲「そう改まって言われると実は僕も困るんだ。そして僕の答えが果たして君に満足 してもらえるかと言うと全く自信がないんだ。唯僕の考えが至りつかねばならなかっ たものとして考えた跡を話して見よう。期待はしないで呉れ。僕の考えの基礎になっ ているのは生命それ自信に於いて完結していると言う事なのだ。例えば鯖を買って来 て置いていると何時の間にか猫が寄って来ている。それ迄見かけなかったのに何うして来たか不思議な位だ。臭覚を通じて猫が寄ったとも言い得る。鯖に誘われたとも言 い得る。動きと言うのは此処にあるのだ。猫と鯖、それはその時の一つの生命圏とし 完結するものと思うのだ。生命がそれを維持してゆく形相として一つの相と思うのだ。僕は本能と言うのはそうゆうものだと思っている。猫が動くのでもなければ鯖が動かすのでもない。主体と食物が一つの圏をなす時自ら動くのだ。樹と土もそうだ。根を張って成長要素を吸収し、不要となった枝葉を落として栄養として土壌に蓄積してゆく。それを吸収して更に成長してゆく。それは一つの圏を作ってゆくものとして完結を持つ事だ。そして具体的な生命とはこの全体の相だと思うのだ。この圏の形成にあると思うのだ。これによって生命は内外転換し、生々発展する事が出来るのだと思うのだ」
乙「而し猫は死に、樹は枯れていく。何れも流転の相に外ならないではないか」
甲「まあ聞いて呉れ。唯人間だけは違うのだ。内と外が相対すのだ。僕達は死を知る。知ると言う事は有限者であると言う事だ。そしてこの死は何うする事も出来ないのだ。有限者として無限の時間の前に唯嗟嘆の声を上げるのみなのだ。人は唯命もつ事を悲しむのみなのだ。
而し僕は思う。死を知る悲しみそれ自身が一つの完結ではないのかと」
乙「僕はまだよく判らないのだ。其の完結と言うのが永遠と何う結びつくのかね」
甲「人間は自覚的生命として、内外相分かれる事により、自己を有限として、世界を 無限とするのだ。自己を露命とし、世界を無始無終とするのだ。永遠とはこれの統一だ。有限なるものは無限なるものであり、無限なるものは有限なるものの相だ。そしてそれはより高次なるものとして生命の相でなければならないのだ。永遠は神の内容と言われる所以であり、神は生命の深奥であるのだ。即ち永遠とはこの内外相分れたものが一つとしてそれ自身の完結を持つ事なのだ」
乙「而し君の説く所は唯問題を堂々巡りしているだけではないのか。有限なるものが 無限なるものであると言う事はこの僕が何時迄も生きていくと言う事ではないのかね。僕は何時かは死ぬのだ」
甲「そうだ。我々は永遠であると言っても、真にあるのは人間一般ではなくして君で あり、この僕であるのだ。この君、この僕が直に永遠でなければ真に永遠であると言 事は出来ないのだ。全時間、全存在がこの僕、この君の中になければならないのだ」
乙「その僕が有限であり、死ぬと言う処に問題の発端はあったのだ」
甲「勿論僕達は死ぬ。而しも一度問題を問い直さなければならないと思うのだ。猫や 樹も有限であり、死に或は枯れる。それならば彼等は有限を問い、死に悩むかね」
乙 「そりゃ問いも悩みもしないよ」
甲「それは何故かね」
乙「彼等に死はあっても死を知らないじゃないか」
甲「そうすると有限も無限も、死も永遠も知る事の中にある訳だね」
乙「そうだね。僕達も幼児の頃はこんな問題を持たなかった事を思えば知る事によっ て生まれたと言う外はないね」
甲「人間は道具を持つ事によって知識を持ったと言われる如く、何等か外に自己を表わす事によって知るのだ。今こうして君と対話しているのも一つの表現だ。こうして僕達は愈々自分を明らかに知るのだ。そうしてこの対話が僕達の影である如く、外に 見ると言う事は内の現われと思うのだ。僕達は語り合う事によってより深い自分を見 ようとしている如く、外はより深い自己として外なのだ」
乙「永遠は我々が求めるものとして或いは我々の深奥を外に見たものかも知れない。 而し我々の対話と永遠とは大変異なっているように思うのだが」
甲「我々は今永遠を問うているのだから同じである筈がないよ。ついでだから永遠へ の問いと言うものを問うて見よう。僕達は今有限者の苦悩の下に永遠を探求しようと している。而しこの問いは僕達の発見ではなくして古今東西の全人類の問いであった 訳だ。今の僕達の苦悩は全人類の負うて来た苦悩として苦悩である訳だ。そして永遠は全人類的生命の外化なのだ。個々人を超えた全人類の深奥なのだ」
乙「問題を元に戻そう。永遠が我々の内なるものの表出であり、外化であれば、永遠 は即自己として僕達の悩みの来る所はないのではないか」
甲「僕は『神について』に於いて死を外に見る所に霊魂があり、神霊は我々を死とし 絶対に否定して来るものとして、其の絶対力を前に慴伏すると言ったね」
乙「ああ覚えているよ」
甲「生命は生きているものが死ぬものとして自己矛盾的なんだ。死と言うのは徹底的 否定として絶対矛盾なのだ。神霊が超越者として絶対の外であった如く、外は我々を 否定して来るものとして、超越的として絶対の外なのだ」
乙「一寸待って呉れ給え。僕達は生命の外化として衣服や住宅を持つ。何れも我々を 保護しこそすれ否定して来るとは思えないが」
甲「衣服は破れ建物は壊れる。外は否定として我々に迫って来るのだ。そして僕達は 働く事によって新しいものを生み出してゆくのだ。働く事は内なるものを外とし、外なるものを内とする無限の創造なのだ。働く時代に対す外としての物は生々として、我なく物なき唯一生命の相を現わすのだ。真に働く者に於いて我は世界の形相であり、世界は我の示現なのだ。新しいものを生み出すものとして形相より形相へなのだ。この我に於いて前の形が新しい形を決定して来るのだ。其の意味に於いて啓示的であり 示現的なのだ」
乙「もっと具体的に言ってくれないか」
甲「我々が対き合っている外と言うのは、長い過去に於いて人類が形造って来たもの なのだ。そしてそれは死を持つ生が死を克服しようとして作って来たものなのだ。矛 盾の自覚として見出されたものなのだ。外の形が複雑になるにつれて内の構造も複雑になっていくのだ。そして外の崩壊は生の崩壊につながるのだ。僕達は働く事によってこの崩壊を新しいより大なる生へ転じていくのだ。其の時外はより大なる形相に転ぜられるものとして生々たる生命の形相をもって来るのだ。その転換の行為者として我々は逆に全世界を我の胸底に見る事が出来るのだ。其処に自覚的生命は唯一の純なる流れとなるのだ」
乙「そうとするとそれは我々の創造となるのであって、示現的、啓示的ではないではないか」
甲「その創造的なるものが啓示的なものなのだ。外としての形がこの我々の生命を媒 介として新しい形を含んでいるのだ。生の外在としてのその形によってしか我々は次 の形を見出せないのだ。生命はその意味に於いて無にして働くものなのだ。その昔仏 像を刻んだ者は一刀三拝して慈顔の顕現を祈ったと言うし、印度のヴェーダの詩は霊感の作品だと言われている。発明と言うものもそういうものだと思うんだ。偉大な発 明家は狂人に似ているのも何かの力に動かされたからではないのかね。その力と言うのは巨大なる外の力としての歴史的創造の流れではないのかね。アイデアが浮かぶと言うのも何か啓かれたものだと思うんだ。よくあの人は感覚が優れていると言うのも対象に入り得る純粋度だと思うんだ。農家が其の年の天候によって種子を蒔くのも先祖代々の農作業の中に会得したものとして、其の全体像の直観としてあると思うのだ。この我が無となる事によって啓けて来るもの、この大きなるものが僕は最初に言った世界であり、無限とか無始無終と言うのは斯る世界の抽象としての時間的形象であり、有限とか露命とするのも無とする主体的方向の抽象としての時間的形象であると思うのだ。その統一として働く事があるのだ。この啓けて来るものの時間的形相が永遠なのだ。我々を超え我々に自己を顕現するものが永遠なのだ。僕達の日々の働きは其の奥底に於いて歴史的創造的にこの啓けて来るものにつながるのだ。そしてその事が我々が自己を見出していく事なのだ。僕が言った全てあるものは永遠に於いてあると言うのはそのような意味なのだ」
乙「それならば僕達は働く時に永遠に結合している意識を持つ筈ではないのかね」
甲「そうじゃないんだ。僕達は世界の内容として働く個として目覚めるのだ。世界は我々の全体として、絶対に懸絶するのだ。永遠は世界の形相として願望に於いて見るのだ」
乙「よく判らなくなって来たよ」
甲「そうだろう。言っている僕すら手さぐりで話しているのだから」
乙「而し僕はおかしいと思うのだ。絶対の懸絶として至り得ないものならばどうして願望を持つ事が出来るのであろうか。啓示として我々は我々自身を見る事が出来るのであれば、啓示は即自己として何等かの意味でつながらなければならないと思うのだ。絶対の懸絶ならば願望すら持ち得ないのではないのだろうか」
甲「その通りだ。而し働くものは世界を逆に自己の中に見る事によって働くのだ。即 ち個的人格の成立として働くのだ。而して個は世界の中に於いて働くのだ。個が個で ある故に世界は世界なのだ。而して個が個である限り世界は外として永遠は絶対の懸絶となるのだ。永遠に際会する為に僕達は自己を絶対に否定しなければならないのだ」
乙「自覚以前に還る事ではないのか」
甲「そうだ。前にも言ったように、其処には自己も世界も永遠もない。自覚的として見出てでた自己がさらに次の自覚として自己を消してゆくのだ。宗教と言うのはそのようなのだと思うのだ。キリスト教の神の前にと言うのも、佛教の空と言うのも、この絶対自己否定であると思うのだ。君が最初に言っていたね。「僕が永遠でなければならない」と。その事は君が不死である事を望んでいるのではなくして、全存在との一体を望んでいるのだと思うのだ。自覚的として外に自己を投げ出した自己が再び内へと還るのだ。啓示と言うものもそうだ。外に投げ出した自己が自己に還る事なのだ。此処に全人類は唯一の生命となるのだ。私達の魂はこの全人類唯一なるものの中に安らうのだ」
乙「・・・・・・・・」
甲「唯僕は佛の悟りを持った事もなければ、キリストの神を見た事もない。尚魂はさ すらい続けなければならないようだ」
乙「分かったような分からないような気持ちだ。まだ疑問が一杯あるような気がする が、此処等で帰って一度整理するよ、有難う」
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」