般若心経私観

 何時であったか、ライオン藤本に般若心経について問われた事がある。また、ライオン林幸男が般若心経の本を取り出して、何時か解釈をしてくれと言われた事がある。書店の本棚にも最近心経の本がたくさん並んでいるように思う。並ぶと言う事は売れるという事であり、そこに一つの現代の要請があると言う証拠であると思う。もとより私は佛教について全くの門外漢である。而し佛教といえども人生如何に生くべきかの問より出でたものに外ならないと思う。以下私は私の立場から心経を考えて見たいと思う。

 手を持ち、物を作る事によって人間が誕生したと言われる如く私達は働くものである。働く事によって自分を見出してゆくものである。私は刃物を商う者であるが、刃物を作るには先ず鍛冶工に入門し、技術を取得しなければならない。その技術と言うのは数百年、祖先が研鑽し伝え来ったものである。即ち世界を自分の内容とする事によって我々は働くものとなるのである。そして鉄の性質に随って切るという目的にいそしむのである。私達はここで生命が一つの不思議な相を現すのに気付くであろう。昔職人気質と言うのがあった。何よりも自分の技術を自慢するのである。悪い品が出来た時或いは出来そうな時は仕事をしないのである。食う米がなくてもしないのである。よい品を作るには鉄と火に自己を忘れなくてはならない。無心にならなければならない。そしてそれが自慢となるのである。自己を忘れ無心となる所に、他人に示すべき確固たる自己が現れるのである。発明家とか芸術家とかはこの極限に見られると言い得るであろう。彼等は寝食を忘れて自己をあらわとするのである。確信は単なる自己にあるのではなくして、世界にあるのである。世界を自己の内容とする事によって、自己が世界を持つ事によって私達は他者に自己を示す事が出来るのである。今は職人気質と言うのは消えて仕舞った、しかしよい腕前が生きる自信となり、世間の尊敬を受けるのに変わりはない。

 睡眠欲、食欲、性欲は三大本能であると言われる。生命が自己を維持していく本源的欲求である。寝食を忘れると言う事はそれを否定する事であり、本源的欲求を超え た欲求を我々が持つと言う事である。そしてそれは人間が自分の世界を作ろうとする 欲求である。それはひとり芸術家、発明家にとどまらず、商人が早朝に仕入れに行き、役員が深夜に及ぶ会議を持つのも全てその現れである。シュバイツバー博士がアフリカの辺地へ行ったのも、僧が食を断って樹下石上に結跏趺坐を組むのもその現れである。

 心経に色即是空と言う。私は色とは本能を基体とするこの個的身体であり、空とは我々がその中に生き、それを実現すべき世界であると考えるものである。それは相反 するものである。芸術家、発明家に端的に示される如く、世界は自己の実現の為に固 体の徹底的な否定を要求するものである。仮借なく私心を排撃するものである。而し固体は斯る世界の否定の要求を退けて自分が世界を制覇し、世界の王者とならんと するものである。自己が世界の全てであろうとする者である。色と空は絶対に相反す るのである。而して自己であろうとするのも自己であり、世界であろうとするのも自己である。人間はその両端に神とけものを持つと言われる所以である。私達の生とは 斯る相反するものの対抗緊張をもつものとして生きるのである。それは単に私達は世 界に面してそのように生きねばならないと言うのみではない、私達の身体が相反する ものを内包するのである。細胞がそうなのである。身体が矛盾的である故に人間は働 くのである。苦しみと悩みはあるのである。即と言うのはこの相反するものが一つで あると言う事である。而し相反するものは一つならざる事によって相反するものであ る。これが一つであるとは如何なる事であろうか。

 自己が世界であろうとするこの我を根底より砕くものは死である。死は一切の栄華を露の命のはかなさとするものである。諸行無常と言う言葉がある。無限の世界の前に、死す身のはかなさを嘆いたものである。而し私達はパスカルも言う如く死を知るものである。私は前に我々はこの我を否定して世界に生きようとするものであると言った。世界に生きるとは既に述べた如く数百年の技術的過去を自己の内容とする事である。その技術的過去は亦限り無い技術的過去を持つのである。自然の生成をも技 術とすればそれは宇宙創成の始めまでさかのぼるのであろう。そしてそれは亦無限の未来へ伝えいくものである。世界に生きるとは永遠の一点として、永遠を内に持つと言う事である。知る事は働く事によって知る。かって日本経済新聞に品川嘉也教授が 「我々の脳髄は宇宙の自己認識である」と書いていた。私はその卓れた見解に感嘆したものである。知るとは永遠の鏡に映して見る事である。世界が世界を映すが故に我々は見た事もない豊臣秀吉の実在を信ずるのである。死を知るとは永遠の我が有限の我を映す事である。私は前に自己であろうとする我と、世界であろうとする我の矛盾的統一がこの我であると言った。世界であろうとする我に自己であろうとする我を映すのである。それを自己であろうとする我より見る時、それは悲嘆であるのである。而し我を永遠の一点とする時永遠は我々を超えたものでなければならない。達すべからざる深さでなければならない。而してこの達すべからざる深さが働く事によってこの我があるのである。其処に私達の回心が生まれるのである。色身としてのこの我を断じて世界としての空身に摂取されるのである。もとより色身を断ずると言っても色身がなくなるのではない。回心と言ってもこの我が消えるのではない。この我なくして世界はない。この我の苦しみ悩みが永遠の相として、世界の働きと悟る事である。世界となって働く事である。色即是空、空即是色とは諦観の論理ではなくして身を断じて働く創造の論理である。

 真理と言うも世界に証されて真理である。正義の声と言うも世界の底から聞こえて来るのである。エチオピアの飢餓から、東南亜細亜の虐殺から聞こえて来るのである。美も世界を見る事から生まれるのである。通常世界は我々の外にあると思われている。近代科学は物とし世界を示現した。物によって外と世界は引き離された。而し世界は深くモーゼがエホバの声を聞いた如き、佛師が一刀三拝した如きものの働きがあるのである。永遠の過去より永遠の未来へ唯一のものが働くのである。我の来る所は永遠であり、帰る所は永遠である。それを現するのは身の働きである。それは不生不滅である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

剝落の美

 この度はじめて、歴史を知る会の旅行に参加させていただいた。生憎の雨であったが、顔見知りの方も四、五人居られ、殊に歌友の藤井早苗子さん、山本礼子さんも一緒であったことは、何となく気持を明るくさせてくれるものがあった。

 確か秋篠寺であったと思う。山本さんに「歌が出来ましたか」とたずねると、「仏像の 塗りの剥落した美しさに感動して、歌を作ったのですが、この剥落が自然に出来たものではなくて、このように作ったものであると聞いてがっかりしました。とのことであった。私は古物店などに並べてある、剥落した新作の仏像を思い浮べ乍ら、このような権威ある寺にもそのようなことがあるのだろうかと、ちらと思い乍ら聞き流した。

 それから一週間程経って、司馬遼太郎の『歴史を考える』という本を読んでいると、そ れに関連した記事が出ていたので、あらためて剥落の美について考えた。以下少々ながくなるが、要点のみを引用したいと思う。氏は言う。「中国や中国文化の影響下にあった国へ行きますと、よく寺院や道教の観、或は何とか廟といったものがありますね。そうゆうお寺の装飾性にびっくりさせられてしまうんです。よくもこんな下手な仏像や神像をつくり、建物に青や赤を塗りたくってと思うてしまう。 中略  日本の場合もむろん、はじめに入ってくるのは「青丹よし」のお寺で金ピカの仏像なんですね。ところがそれが剥落していっても、そのままにしておくでしょう。法隆寺だって 薬師寺だって唐招提寺だって、実に清々しくなって、とても絵具ではあらわせないようないい色になっている。剥落の美しさ、これこそが美なんだということを、誰いうとなしに古いころから知っていて、ついには桂離宮のように最初からああいう感じで作るようになる。朝鮮でも中国でもそうですが、お寺の建物の塗りが剥落してくると、必ず亦青丹を塗り替える。」と。日本の美を代表すると言われる桂離宮は、其の基底に剥落の感覚をもつの であり、既に意図されて建造されたということは、如何に我々の心の奥深く住むものであるかを証せられたものと思う。山本さんの感動は、日本の美意識の奥底の波動として表出したものであるということが出来る。

 剥落とは古りである。それは時間に於ける喪失としての変容である。喪われたものは如何なるものであろうか。塗り替えるとは一つの形を維持してゆくことである。時の変容を超えた形の維持である。私はそこに理念の超越を見ることが出来ると思う。そこにあるのは超越者の像であると思う。時に於て変容をもつとは、時に於てあるということである。時に於てあるとは生命的であるということである。内在的であるということである。私は剥落とは、理念としての超越の剥落であると思う。超越者としての絶対の懸絶が、この我と同じ息吹の通いをもつのである。時の内にあるものとして、我々は自己の哀歓の底に見るのである。そこにあるのは親愛の情であり、体温の通いである。剥落に見るのは古りゆくものの悲哀である。超越者に悲哀はない。我々は自己のいのちの投げた影を見るのである。

 生命は超越的なるものが内在的なるものであり、永遠なるものが瞬間的なるものとして無限に動的である。私は断るものとして、文化の発展には二つ方向があると思う。一つは永遠なるものよりであり、一つは瞬間的なるものよりである。一つは理念として超越的方向に展開する知的文化であり、一つは生命として内在的方向に展開する情的文化である。一つは分別的方向であり、一つは共感的方向である。一つは客体的方向であり、一つは主体的方向である。

 仏像は之、永遠なる表象の具現としてあるものである。それは理念としての超越者である。金剛不壊の形相である。併し私達は、時の中に壊れゆくものとして、より深い形を見る。より深い形を見るとは、より深い自己の内部を見るということである。

 我々は永遠を見るが故に死の悲しみをもつ。永遠を見ること愈々深くして、悲しみは愈々深い。悲哀は悲哀の故に表現さるべく美しいのではない。背後に宿す永遠の故に表現さるべく美しいのである。滅びの美しさというのもそこにある。どうしようもない運命を介在させて持続してゆく人間の生命、運命を知ることによって、運命を超える覚悟のしずけさ、そこに滅びの美しさがあるのである。

 時に古るとは一つの滅びである。私は剥落を介在さすことによって、日本人はよい深い永遠を見出したのであると思う。時の推移を宿すことによって、我々に対立する永遠の理念ではなく、情が映す永遠になったと思う。情が永遠を映すとは、一瞬一濃が永遠の影となることである。生命が永遠なるものが瞬間的なものであり、瞬間的なものが永遠なるものである時、理念として知に映された永遠より、情に映された永遠の方が深いと言わなければならない。私は日本の心の底にふかく断るものがあり、剥落の美とはふかく斯る心がはたらいているのであると思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

みかしほの現況

 文明の発生は、都市の発生と共にあり、都市の発展は文明の発展であり、文明は文明と表裏一体の関係にあると思う私は、地方文化の存在の否定者である。勿論私は地方に文化がないというのではない。唯私は、それは中央文化の波及して来たものであり、独自の発展体系をもったものではないと思うのである。地方独自の文化のスタイルは、派及してきた文化が、その地方の風土に相を現わしたものであり、その発展は常に中央よりの刺戟によると思うのである。そして波及してきた文化は情念の中に沈澱し、習性化して維持して来たと思うのである。私はその典型を祭りとその行事に見ることが出来るとおもう。神の言葉は型式化して、そこには飲食と放歌の陶酔があった。アポロ的ではなくしてディオニソス的である。

 短歌が生存の声の表白であるとすれば、それは生きる場所を抜きにあり得ないということが出来る。みかしほはその多くを旧加東郡の人々によって構成されている。旧加東郡は兵庫県の中央部の山間にある小都市の集合地帯である。国際化も未だ及ばず、家族の核分裂化も未だ充分でない。農と零細企業を主体とする家が殆んどである。

 斯かる状況の必然として、謳われている多くは親子、夫婦、祖父母と孫の関り合いの情緒であり、土、亦は手工業に生きる喜びと苦しみである。それは既に封建的感情として、中央に於て克服されたものであると思う。克服されたものとして、うたいつくされた抒情の質であり、発想の類型は否むことが出来ないと思う。私は地方の歌人は殆んど同じ宿命を負うのではないかとおもう。

 生きるとは状況的である。私は封建的残滓を有する社会構造、家族構成からは、血縁、地縁のもつ愛憎から抜け出ることは出来ないと思う。言葉はそこに交され、喜び悲しみはそこに生れるのである。その上に立つことが生きている真実である。そこに自己がある。私は短歌とは自己発見の詩であるとおもうものである。そこに短歌が悟性でなく、理念でなくして、日常生活に地盤を有する所以があるとおもうものである。私達は類型化された世界に執念く対し、言表してゆかなければならないのである。

 人間は言葉をもつ動物である。それによって我々は他の動物を超えたということが出来る。言葉に表わすことは動物的生命よりの、人間の新生である。一極に動物的本能を有し、一極に神的理念を有するものとして、言葉に自己を見ることは慰藉であり、救済である。みかしほは今下部組織として幾つかの小集団をもつ。そしてみかしほは勿論各々月に一回の歌会をもつ。それは勿論作歌修練の場であり、感性陶冶の場であると共に、小地域に生きる共通の情況を確かめ、相互の結合を認め合う場である。それはそのことが封建的であると言い得るであろう。併し私はそれでよいと思っている。それが我々のあり方の露呈なのだからである。私達はそれによって慰藉と救済をもち、五百号出版の偉業をもち得たのである。

 以上述べた所はみかしほの主潮である。而して時代の波は浸々呼々として寄せてくる。新しい感性の芽が幾人かによって萌しつつあるのは頼もしい限りである。それは例えば個を孤独として捉えず、個性として捉えようとする発想である。孤独には世界を失なってゆくものの悲哀と静寂がある。個性には世界に対し、世界を創ってゆく苦しみと歓びがある。併しそれがみかしほを変えるかというと、私は悲観的である。それは中央よりの流入の模倣であって、我々の生活基盤より生れたものではないからである。幾人かが洗練された感性によって、誌面に清新の風を吹かせてくれて、新しい視野を楽しませてくれたらよいと思っている。

 現況を一言で言えば、一小雑誌を囲んでお互いが相手に存在確認を求める場と言い得るであろうか。そして強烈と言えない迄も特異な個性をもった者が幾人か居り、人の目を魅いていると言った所か、それも大枠を出てないように思う。但し取材角度とか発想の清新を外にして、表現的技巧を言えば多士済々である。東京の大短歌集団に対して一歩も引けをとらないと思う。

 一々氏名を挙げ、例を挙げたら所論は更に明確になったと思うが長くなるので省略し た。ともあれ日本歌壇の周辺としての平均的一集団であると思う。

 以上大雑把すぎて現況というのに相応しくないかもしれない。私は報告文を書くのに不適当な人間なのである。私は私の粗文を恥じる。而し指名された方も、自分の不明の責を多少感じて諒とされたい。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

コーヒーを飲みながら

 坂田書店の主人が珍らしくコーヒーを飲みましょうかと言われた。近くのコーヒー店に 行って、氏の郷土の中世史の膨大なる資料をまとめることが出来ない嘆きなどを聞いていると、御父君の坂田三郎氏が入って来られ、私の顔を見られて近寄って来られ、「長谷川さん貴方の短歌をよく拝見しています」との事であった。私が「この頃短歌から少し離れたいと思っているのですが、何分この夏は暑かったので読書を止めて、八月に六百首ばかり作りました」と言うと、「ほうそれは大変な数ですなあ、私も年に一、二首作るのですがどうしてそんなに作れるのですか」と言われた。私は「物を見て言葉にするというのは、言葉が物を見ているのです。ですから物に触れて出て来た言葉を、歌の形式に紡いでゆくのです」と言った。それから暫く描いておられる洋画のことなど話されて帰られた。私はコーヒーを飲み乍ら、言ったことの如何に説明不充分であるかに気がついた。そして如何に説明すべきであったかを考えた。

 コーヒーを飲んでいるのは舌のよろこびである。全て食物は身体を養うために食べる。その感覚として身体は味覚をもつ。舌のよろこびは味覚の充足である。人間は自然に与えられたものを食べるのではなくして調理して食べる。調理は材料を人間の身体に適合さすと共に、美味なるものの追究である。舌は更なるよろこびを求めて味覚の陰翳を無限に作り出す。全てものがあるとは自然として、与えられたものとしてあるのではない。作られたものとして、よろこびの陰翳をもつものとしてあるのである。コーヒー豆はコーヒーの材料として物なのである。坂田三郎氏は洋画を描かれる。そのとき色彩は目のよろこびである。私達はこのいのちのよろこびに導かれて、限りなく深い世界に歩みを入れてゆくのである。

 人間のみが言語中枢をもつと言われる。人間のみが言葉をもつのである。言葉は無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達する。初めと終りを結ぶ生命に於て言葉はある。言葉によって人間は人間となったのである。言葉は言語中枢のよろこびである。言語中枢のよろこびに導かれて、言葉は無限に自己を構築してゆくのである。斯るよろこびは何処から来るのであろうか。

 味覚のよろこびを作る調理人は自分の食物を作るのではない。他人のよろこびを作るのである。今は亡き母などもよく「食べてくれる者がいるから美味しいものを作るが、自分一人だったら何ででもすます」と食事作りの事を言っていた。病人の為に殿様のために昔の人は美味しいものを作って来たのである。舌のよろこびとは人と人との関り合いの翳を宿すことによって生れて来たものである。絵画が目のよろこびであるのも同様であるとおもう。若し見る人がなかったら、無限の他者に繋ることがなかったなら、描く意欲は何処から湧いて来るであろうか。而して描くということは、過去の画家の目を自己の目とすることによってあり得るものである。

 言葉は直に他者との関りに於てあるものである。言葉の本来は対話である。一瞬一瞬の関りが永遠の翳を宿すのである。人間が作るよろこびは全て永遠なるものが自己自身を見てゆくより生れるのである。料理も絵画も人類の内容として無限の展開をもつのであり、作るよろこび、出来たよろこびがあるのである。言葉は直に他者に関り、永遠の顕現として全てのよろこびの根底にあるということが出来る。言語中枢が人間のみにあるとは、全て人間的なるものは言語を媒介としてあるということである。料理も絵画も言葉によって見出されたものを写す意味があるのであるとおもう。

 作るとは無限の過去と未来が現在として一つであることであり、瞬間的なるものが永遠なるものであることである。瞬間的なるものが永遠なるものであるとは、言葉によって表わされたものであるということである。前にも書いた如く物は作られたものとして物であり、作られたものは名をもったものである。我々は言葉をもつことによって技術をもち、製作的自己となったのである。作られたものとは我々の生命を宿すものであり、生命を宿すものとして物は無限の発展を孕むのである。斯る生命がはたらく言葉である。はたらく生命がそこに自己を見るとき、物は物となるのである。

 既に書いた如く物は我と汝の関りより生れる。はたらくとは無数の人々のかかわりである。無数の人々の関りとして物を作ることは世界を作ることである。世界を作るものとしそれは歴史的形成である。全て技術は時の蓄積として、物は時の影を宿すことによって物である。無数の人の関りとして、物は歴史の内容として物である。而して人と人との関りあらしめるものが言葉である。

 人間生命の表れとして、言葉によって見出され物はその内包する言葉によって、更に大なる生命の表れへの呼びかけをもつ。物が無限の発展をもつとは、言葉を宿すものとして、主体への呼びかけをもつということである。そこに主体と客体、物と人間が分れる。人間が物を作ると共に、物は人間に作るべく命令し来るのである。物と言葉は乖離するとともに、物は既に言葉を宿すものとして次の言葉を拒否するものとなる。人間は関り合いの対立と否定からより大なる言葉を実現せんとする。斯る対抗緊張の中に於て物が言葉を生み、言葉が物を生んでゆくのである。ここに世界は個々の生命を翻弄する自己自身の発展をもつと共に、我々の自己は真の自己となり、物は真の物となるのである。

 短歌とは斯る対立として対抗緊張する世界を言葉の方向に突抜けて、一の相下に表わさんとしたものである。物が言葉を宿すことによって物となるとは、言葉は物を宿すことによって言葉となるということである。言葉が物を宿すとは、我と汝の関り合いの中に物を宿すことである。物をよろこびかなしみの襞に於て見ることである。物は生命を宿すことによって物でありつつ、宿すものとして逆に生命に対立する。それを純一なる生命に捉え直すのが短歌の表現である。よろこびかなしみは生命の純なる表れである。

 物が言葉を生み、言葉が物を生んでゆくとは物と言葉が混融することではない。物は愈々物となり、言葉は愈々言葉を明らかにしてゆくことである。物は物の内面的発展をもち、言葉は言葉の内面的発展をもつものとなるのである。斯るものの一つの表れとして情感による言葉の内面的発展が短歌の表現である。内面的発展とは一つの情感による言語的表現が、次の言語的表現を生んでゆくことである。物を宿すものとしての言語の情感的発展である。物を宿すものとしてそれは世界の言表である。

 言葉は対話である。短歌を作るということも亦、無数の歌人の創作との対話である。歌を作るものはうるしの紅葉を見るとき、先人のうたった感動に於て見るのである。その感動に於て見るとき、紅葉はいよいよ赤いのである。私はそれを言葉が見るというのである。言葉がいよいよ明らかとなり、物がいよいよ明らかとなるという所以である。

 他者の言葉は私の言葉ではない。他者の作った短歌は私の短歌ではない。言葉によって見るとは、他者の感動がはたらきつつ今この我が当面する事実を如何に言表するかということである。他者の呼び声と我の応えはこの異なった状況を介して成立するのである。異なった状況は、異った言葉とスタイルを要求する。他者の作品の言葉とスタイルから、その状況に応じた言葉とスタイルを見出すのが対話であり創作である。他者の無数の作品を自分の目として、言葉とスタイルを設定するのが直観である。それは物が宿す言葉と、言葉が宿す物との対話である。

 興に乗るという言葉がある。創造的直観が自由にはたらき出したということである。短 歌に於ては行往坐臥、言葉が物となり、物が言葉になるということである。あるもの全てが言葉の相をもち、ものに触れて言葉が表われることである。故に私は多く作ったから内容が悪いと思っていない。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

晩年作

 先日古美術商を営む某が、関雪の晩年作だと言って掛軸をもってきた。その話を沢近食堂で酒を呑み乍ら、主人の蕩翁と三人でしている裡に晩年作とは何かということ になった。晩年とは老境だ。死ぬ前だなぞ言い合った末、青くささのとれた円熟した境地だということに落ち着いた。

 私は別れてから青くささがとれるとは何ういうことかと考えた。たしか武者小路実篤氏も、鉄斎の六十才の頃の作品は見られない、而し八十頃の作品は驚く作りである、といったような事を書いておられたように思う。その円熟とは何ういうことなのであろうか。

 私達は目によって物の形を見る。而し目によって物の形があるのではない。物の形は目を超えたものである。私達は見る前から物があったと信ずる。目と物の形は相互に超越的である。而して物の形は目で見られる事によってあるのであり、目は物の形に対して働くのである。このことは目と物の形が更に高次なるものの内容としてあると言うことでなければならない。目を一方の極とし、物の形を一方の極として自己自身を創造してゆくものの内容としてあることでなければならない。私は断るものを我々の歴史的形成に求める事が出来ると思う。

 アンデスの山深く、今も原始的生活を営む人々は、白く輝く雪嶺を見ても、悪魔の棲家として恐怖の表情をもつそうである。我々はそれを壮麗と見る。この相違は何処から来るのであろうか。目に映るものは同じである。私はこの相違は、その背負う歴史の相違であると思う。私達の目は鳥羽僧上の目が、雪州の目が、応挙の目が、池大 雅の目が潜んで働くのである。私達の言葉には人麿の言葉が、紫式部の言葉が、芭蕉の言葉が潜んで働くのである。郷土が、祖国が創って来たものが働くのである。

 高次なるものとは、我々を超えたものであり乍ら、我々の目として働くこの生命であると思う。この生命が働くことによってこの私はあり、私の目はあり、そして物の形はある。ワイルドが「自然は芸術を模倣する」と言った如く、我々は作ることによって物の形を見てゆくのである。目と物の形が対立するのはこの限り無い歴史的時間より、生死するこの我を抽象して見るが故に外ならないと思う。物の形は人類的生命の見出でた形として、この我の目を超えるのである。而して目の奥底に還ることによって唯一生命に結び付くのである。生死するこの我を超えて、形が形を作ってゆく大なる生命の流れが真に働くものであり、大なる生命そのものとなることによって真個の自己はあるのである。

 形が形を作る大なる生命と言っても、生命一般というものがあるのではない。働くものはあく迄も個としてのこの我であり、汝である。私は青くさいとは、この我が自己の中に世界を見ようとする意志にあると思う。芭蕉が世界を見出だした如く、この我が世界を見ることなくして世界はない。而し自己は世界ではない。其処に創造者の苦闘はある。真に光を見んとする者程闇は深い。物の形をこの目で見なければならない。だがこの目は物の形ではない。而しこの苦闘は大なる生命が自己自身を実現せんとする意志である。深き生命の自己純化である。そして或る日、生命は自己純化を成し遂げ、この目は深大なるもの自身の目となるのである。私は晩年作はこの転換の日より としたいと思う。故に晩年作は人によって異なる。鉄斎は八十にして晩年作である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

心経私観補遺

 何時であったか、長野県の旅館に泊まった時に、箸袋に色即是空、空即是色と印刷 してあり、その横にこの世界は仮の世であり、苦しみや悩みは迷いに過ぎないと書い てあった。よく空や無という時に世界は無常であり、生まれては消えていくものであり、本来無いものであると言われる。

 果たしてこの世は仮のものであり、私達は本来無いものであろうか。本来無いものならば今この文字を書いている私の存在を如何に説明するのであろうか。仮の世に生きて本来無いものに何処から苦しみや悩みが来るのであろうか。心経にも五蘊皆空(ごおんかいくう)なりと照見して一切苦厄をし給うと書いてある。本来無いものならば皆空なりと照見する事はない筈である。五蘊はあるものであり、あるものは矛盾的にあり、苦を内包するが故に空と照見して苦厄を済したというのである。五蘊はあるものであり、空と照見する事によって自己自身を超越するものでなければならないと言い得ると思う。

 苦とは何か、それは有るものが無くなる事であり、かく有りたいと思う事が実現しない事である。生者必滅、会者定離であり、病、老、死である。生命は常に死と対面しているものである。斯る死を生に転換するのが私達の働きである。例えば稲に水をやらなかったら稲は枯死する。稲の枯死は亦農作者の死である。池を掘り、溝を作り、水を導入するのは生への転換である。生命が死を内包する事は矛盾であり、働く事は苦である。限り無い生死の転換は苦の海である。後の世であり、本来無いものであるならばこのように苦しむ必要はないであろう。

 斯る苦を救済するものは生命の永遠の自証でなければならない。私の苦しみは不死 であると知る事によって済度(さいど)されるのである。老、病は死の淡き影であり、亦然りである。働く事の苦も限り無い生死の転換としてではなく、永遠なるものの現れとなる時に歓びとなるのである。五蘊の無常の苦を度す空とは斯る永遠の形相を持つものでなければならないと思う。

 生死するものは永遠なるものではない。永遠なるものは生死するものではない。それは相反するものである。相反するが故に苦悩はあるのである。而し相反し、対立する処に救いはない。皆空なりと照見して一切苦厄をし給うには、生死するものが永遠なるものと一つとならなければならない。対立したものが寄り合うと言うのではなく、直に一つであるのでなければならない。色即是空である。この色と空は私達が日常使う身と心という言葉を使ってもよいと思う。身即心、心即身である。心は身に現れ、身は心を現わすのである。この言葉によっても明らかな如く、この相反するものが一つであるとは空が色を摂取する事によって一つとなるのである。それは捨身行に於いて一つとなるのである。佛陀五年の苦行によって人類はこれを得る事が出来たのである。

 私観に於いて言った如く永遠は世界として自己自身を実現する。而して世界は自己自身の動きを持つ、時代の流れという言葉がある如く世界の動転は我々を微塵の微少とするものである。無限の過去を含み、無限の未来を孕んで、この過去と未来の激突によって動いていくものである。而して無限の過去と未来を持つが故に世界史的現在として、永遠の今を実現するのである。歴史の本質は過去より未来へではなくして現在より現在へであると言われる所以である。捨身行とはこの我がこの永遠の今の具現者となる事である。私達は自分の中に永遠の過去、永遠の未来を照見して救われるのである。

 世界は全存在の具現者として世界である。それならばなぜ空というのであろうか。世界は自身形を持たない、色としてのこの我や汝が世界を作っていくのである。レーガンや中曽根は何処までも世界の流れに随う。而し中曽根、レーガン会談は世界を作っていくのである。リーダーは世界の目となる事によってリーダーである。リーダーの みではない、全ての人は世界の目となり、世界の身体となる事によって自己を持ち生きていく事が出来るのである。世界が自己を具現していくとは斯く具現していくのである。形なくして形を実現していく故に空と言うのである。形なくして形を実現していくが故に全存在たる事が出来るのである。

 心経の冒頭に観自在菩薩と書いてある。私達が宇宙の一微塵とも言うべき身に永遠 の全存在を持つ事が出来るのはこの観に於いてであると思う。人生観、世界観、宇宙 観、観に於いて私達は雑多なる世界を唯一者の相下に見る事が出来るのである。そしこの観とは無常なるものが永遠なるものを内に持つ処に成立するものである。迷い なくして悟りはない。迷いはまだ世界となっていないこの身が世界となろうとする陣痛である。

 もとより永遠を見る者も死ななければならない。生きる限り槿花一朝の悲しみを持たざるを得ない。而してこの悲しみが常に永遠への回心を呼ぶのである。色即是空、 空即是色の最も深い意味を私はここに見る事が出来ると思う。其処にあるのは哀歓を超えた静かな微笑である。ともあれ私は人間生命の深さ、不思議さに驚嘆の念を禁じ得ないものである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

般若心経について

 この間、内藤先生から、正法眼蔵を読むから来いと言われて二、三回お邪魔した。その前にも歎異抄や般若心経に招かれた事がある。私はその題目を聞いて意欲の凄まじさに驚いたものである。勿論史上稀有の大天才が全生涯を賭けたものばかりである。三月や半年の輪読位で解ける筈がない。而しその無謀と言える挑戦に敬意を表せざるを得ないと思う。

 宗教は存在の根源への生命の要求である。三者その表現が異なると言ってもその帰 する所は一つでなければならないと思う。歎異抄は他力と言っても悪人正機に於いて 自力の媒介を説き、眼蔵は現成公案に於いて、「自己をはこびて、万法を修証するは迷なり」と言っている。その根源と言えるものを心経によって私の尋ねた跡を少し述べて古来心経の要諦は五蘊は皆空なりと照見して一切苦厄をし給うに尽きると言われ ている。このことは心経の眼目は苦厄済度に外ならないと言い得ると思う。苦とは生 命が自己の否定に面することである。四苦と言われる生死老病が釈迦出家の契機と なったことは人の知る処である。生は他者の否定に面することであり死老病は生きて いることへの否定である。生まれて来たものは逃れる事の出来ない宿命として背負っ ているのである。その中で死が要約される最大の苦であると思う。死によって一切の 自己が無に帰するのである。五蘊とは必竟斯る苦をもつ身体の内容に外ならないと思う。これを皆空なりと照見して済度したと言うのである。

 人はよく全て形あるものは壊れる。生命あるものは死ぬと観念することによって救われると言う。而し生命あるものは死ぬというのは如何なる救済であるのか、それは救済ではなくして放棄であると言わざるを得ない否定が苦であればその救済は肯定で ある。死の救済は不死であり永遠の生でなければならない。一切が無に帰するのが苦であれば、その救済は一切有でなければならない。照見された空とは一切有として生命の不滅の形相でなければならない。そしてそれは死もそれによってある底のもの でなければならない。私はこれを解明するために自己は如何にあるかを把握しなければならないと思う。

 巨勢二号にも書いた如く私達はこの社会の中に言葉をもち技術をもって、人に交わ り物を作って生きていくものである。そして言葉も技術もこの我を超えた無限の過去 より、無数の人によって作られ、蓄積され、伝承されて来たものである。そして我々は未来へと伝達するのである。私達は言葉や技術の始まるところを知らない。言葉は過去を孕み未来を哺むものである。そして我々がそれによってあるものとして永遠の形相であると思う。そして私は前にも書いた如く、この形相を実現するものは全人類としての人間の種の生命であると思う。人類は世界として自己を実現するのである。私は色即是空とは斯る世界が世界自身を形造ってゆく論理であると思う。般若とは論理の意である。

 即とは相反するものが一である事である。相反するものが一であるとは相互媒介的 であることである。色即是空という時、色は空によってあり、空は色によってある事である。私は今言葉や技術をもつことによって自己があると言った。そして言葉や技術は世界の形相であると言った。この事は世界の中にある我々は逆に世界を内にもつ ことによって自己があることである。而してこのことは逆にこの我によって世界があるということである。誰の言葉でもない言葉はない。言葉は誰かの言葉である。相対する色身の苦しみ喜びが言葉となるのである。技術もまたこの腕の覚によって技術である。生死の関頭に立って、死を生に転ずるのが技術である。我々を超えたものは何処迄も我々の内容となることによって我々を超えるのである。それは矛盾である。而しこの矛盾的自己同一に於いて生命は無限に自己を創造してゆくのである。

 苦悩はまたここより生まれるのである。我々の苦悩は無窮の世界の前の朝露のはか なさにある。而してこの無窮の世界とは、超越として言葉や技術の歴史的形成を介し て見たものである。このことは死への苦悩は人間のみがもつことによってもあきらかである。而し今見た如く超越としての永遠はこの我の苦悩に於いてあるのである。空 とは超越者は自己の形相をもつのではなく、この生死する色身にのみ形相を表わし得るが故に空である。五蘊皆空とは生死するものが生死するままに永遠であるということでなければならない。この知見が救済なのである。

 私達は言葉を習い、技術を修めるのに努力する。この努力するということは世界が働くことである。それによって世界が世界自身を形成してゆくことである。それは常に我々に課題として迫って来るのである。世界は自身を形成する働くものとして世界である。時の流れとは世界が自己自身を見出してゆく相である。時の流れを自己の相とするものは時を超えたものである。それは過去現在未来を統一する絶対的一者でな ければならない。それは始めに終わりをあらしめ、終わりに始めをあらしめるものでなければならない。言葉と技術の無限の蓄積は斯る絶対的一者に於いて初めて可能で あると思う。絶対的一者に於いて全ての人生の価値は生まれて来るのである。我々の努力とはこの唯一者の声に呼ばれてあるのである。其処に全人類の生命がある。

 身体なくして生命はない。この我があるとは何処迄も知覚的として色身としてあるのである。斯る色身が世界を内にもつことによって自己を自覚する。永遠を見るものとなる。而し身体的である限り生死する生命である。有限なる生命である。世界の中の一人として宇宙の一微塵としての生命である。唯一者によりてありつつ唯一者たり得ないのは勿論、唯一者を見ることさえも出来ないのである。而して唯一者によりてのみ救済される、私は此処にこの我と唯一者の関係があると思う。この我の生きる姿勢が問われる根拠があると思う。

 無限なるものの内容として有限なるものはある。而し有限なるものより無限なるものに至る道はない。存在が無限と有限の綜合である時、無限への道は有限の放棄のみである。道元は、佛道をならうというは自己をならうなり、自己をならうというは自己 をわするるなり、自己をわするるというは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるいうは、自己の心身、および他己の心身をして脱落せしむるなりと言っている。心身を放棄して萬法としての存在そのものに純一になれと言うのである。親鸞は阿弥陀の名を唱えて全てを任せよと言う。任せてたとえ地獄に連れて行かれても気にかけるな と言う。其処に生死の救済としての永遠はあるというのである。私は五蘊皆空の至り つくところはここではないかとおもう。而し色身なくして生命はない。この時色身は如何にあるのであろうか。ルターは斯く言っているそうである。信仰は、人々がこれをもって信仰だと思うような、人間的な妄想や夢幻ではない。寧ろ信仰は、我々の内に働き給う神の業であり、我々を更えて新しく神から生まれらせ、古いアダムを殺し、我々を全く他の人となし、更に聖霊を伴い来らすことであると。禅家に於いても死の断崖に身を絶するとか、大死一番ということが言われる。脱落した心身は世界の呼び声に甦るのであると思う。官能の欲求を抹殺するのである。言葉と技術の導きに違うのである。救済とは本来の相の具現であり、色即是空は此処に完結すると思う。色即是空の世界は自己形成的であり、無限に動的である。日日是好日とは斯る心地の風景 である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

不安について

 心電計のかた、かた、かた、かたと言う音が聞こえて来る。手や、足や、胸なぞに貼りつけられている蛸の吸盤のようなものが信号を送り、それを受けて作動しているらしい。

 俺の心臓に何か異状があるのではなかろうかと思う、あれば仕方がないと思う。心臓麻痺、心筋梗塞の可能性も聞いて置こうと思う。

 やがて吸盤のようなものが外される。起き上がって機械の方を見ると、紙の上に波のようなものが描かれている。「どうですか」と聞くともう一度目をとおしてにっこり笑いながら「先生に読んでもらって下さい」と言って渡される。身体は私其のものである。而し私達はその身体について何も分かっていないのを今更のように思う。身体だけではない。商売についても、人の心についても私達は何も分かっていないように思う。

 不安は人間のみが持つと言われている。生命をもつと言っても植物や、外の動物は 不安を持たない。動物も死をもつ、而して死に直面して恐怖する。而し健康な時に不 安をもつ事はない。私はそれは植物や、動物が生命として一つの完結をもつが故であると思う。

 植物は芽生え、成長、開花、結実の循環が必然である。動物の生命も種族的である。種族保存として本能的である。種族的として固体の行動は生得的である。生死は種族の自己維持の循環としてある。自己完結を持つ、其処に生の不安はあり得ないと思う。それに対して人間は自覚するものとしての意識をもつ、意識を持つとは世界の中にあるものが逆に世界を自己の内容とする事である。生命が外に、対象的に自己を作っていく事である。世界として我と汝が相見え、相対する個的生命として、自己の個性の尖端に世界を作って行く、それが何処迄も表現的世界に於いて、歴史的表現的なるものを媒介するが故に世界の自己実現となるところに我々の意識が成立する。自覚とはこの働くもの、行為的表現的主体としての自己把握である。我々の自己とは、この働く事によって得た世界を内包するものとして自己である。私達は自己紹介をする時に、住所氏名と共に業務地位を言う。前者の自然的、所与的なのに対して、後者は世界に於いて、働く事によって如何に世界を内包せるかを示すものである。自己を明確に示すものはこの職業、地位であり、我々が通常自己と言う場合後者の立場に於いて言うのであると思う。而して斯る自己が生まれるのは表現としての歴史的世界である。ここに於いては子も親から生まれるのではない。各々が伝統的技術の中から生まれるのである。而しこの事は我々が身体的なるものから離れる事ではない。否それは何処迄も身体的なものである。手を持つ事によって人間が生まれたと言われる如く身体的なるものを外に表出するのが、働く事であり意識を持つ事がある。この個としての身体の表出によって自己がある。自己の中に世界を見るものとして我々の死は、動物 的、種的連続の意味を超えて絶対の断絶である。我々は無に帰しいくのである。其処は限り無く深い暗黒である。

 相対するものは相互否定的として相対するのである。物と我、汝と我は否定し合うものとして物と我、汝と我である。田園を耕さなかったら忽ち飢餓として我々に死を迫って来る、牧歌的として歌われる田園は決して我々に友好的ではない。汗の代償として我々に穀物を恵むのである。日々の新聞はあらゆる事業界の激烈な闘いを報ずる。 繁栄の裏には喰うか喰われるかの争いがある。それが現実の相である。そこは羨望と、嫉妬と、怨恨の渦巻く所である。我と汝は笑顔によってのみ相見えるのではない。ひきつる顔が常にかくされているのである。

 私は先に自己の意識は世界の自己実現の内容となる処にあると言った。この自己と しての個的生命は歴史的表現的なるものを媒介としてのみ自己を実現する事が出来るのである。この事はこの我が何処迄も自己実現的である事は、歴史的世界が自己実現的である事でなければならない。而して海に棲む魚が海を知らない如く、我々にとって歴史的世界の動きは知るべからざる深淵である。内容にとって形式は不可知者である。単なるこの我と言うのはない。我はあく迄汝に対する事によって我である。而してこの我は個の尖端に見出でた世界に於いてこの我である。この事は亦汝は汝の個の尖端に見出でた世界に於いて汝でなければならない。斯く各々の世界を持つ事にあるものとして、我と汝は絶対の深淵を距てるのである。唯歴史的表現的世界に於いて出合うものとして知る事が出来るのである。而して世界は無数の個的生命を内包するものとして、それ自身の限定を有するのである。

 喜怒哀楽を内包しつつ、喜怒哀楽を超えて動転するのである。この中に我々は無に 帰するのである。表現的世界に於いて限りなく深い暗黒があると言ったのは斯る歴史 の世界である。表現的なるものは歴史的なるものであり、歴史的なるものは表現的な るものである。而して斯く自己を超えたものの内容として、我々の存在は運命的である。物と我、汝と我の出会いも運命である。運命は自覚的表現的世界の底に見られるものであり、それは底知れぬ暗黒を潜めるものである。我々は運命的存在として日々の行行、歩歩は不安である。斯るものとして我々がこの我として歴史的世界に遭遇する時、唯虚無と絶望の鉄壁があるのみである。歴史的表現的世界に於いて、生は限りなき喜びであり、死は限りなき悲しみである。

 而し歴史は暗黒に於いてのみ歴史であるのではない。暗黒は明白に於いて見られる。表現的世界は展かれゆく光輝の世界である。不安は神に至る道であり、無常は涅槃に入りゆく道である。真にあるものは今この字を書ける我であり、語りいる汝であり、人間一般と言うのは何処にも有り得ない如く、世界も亦個的生命なくしてあり得ないものである。この我、かの汝が歴史的形成的として有する無限の底が、歴史の無限の底となるのである。限り無い暗黒は我の死である。我の死なくして歴史の深淵はあり得ない。而してこの我が伝統的技術の中に生まれ、其の上に新たな技術を展き、次代に伝える歴史的創造者となる時、人格としての生命は身体的生死を超えた所になり立つものとして、永遠の意味を持つのである。我々はこの永遠の目に於いて、生死する自己を有限と見るのである。自己が自己を見るのである。而して自己の中に見られた自己が自己である時、我々は絶望の淵に逢着せざるを得ないのである。目は目自身を見る事が出来ないと言われる如く、見るものは形象的に無である。而して見られるものとしてではなく、見るものとしてこの我はある。真個の我は見る我である。自覚的、表現的に自己があると言う事は歴史的形成の目として見ると言う事である。

 我々が自己自身を知るのは単にこの我が知るのではないと思う。我々は自己を知る ものとして生まれ来ったのである。人類の一人として、人間として知るのである。我を超えたものの内容として知る。この我が知ると言う時この我は我を超えたものとして知る事が出来るのである。この我を超えた我の見るはたらきが歴史的形成なのであ る。我々が真実の自己を求めるのはこの歴史的世界に於いてであり、真実の自己が重々無盡なのは自己を超えたものの内容としての自己が超越的根底に還らんとするが故に外ならないと思う。全歴史は自覚の内容であると言う事が出来る。我々は自覚するものとして、何等かの意味に於いて歴史は我の裡にあるのでなければならないと思う。歴史の内なるこの我の胸底に全歴史は流れるのである。斯るものなくして自覚的、表現的としての歴史的形成はあり得ないと思う。超越者としての永遠の目によって我々は自己を知る事が出来るのである。

 而し超越的無なるものは何処にも存在する事が出来ない。存在する自己は生死し、喜怒哀楽を持つこの我である。この我が生存せんとして働くのである。この身体の表 出として見るのである。この事は絶対の矛盾である。この身より出ずるものがこの身 ならぬものである。此処に我々の存在は無限の不安と迷妄となる。而し絶対の矛盾なるが故に廻心があるのである。其処に無明はそのままに生の完結を持つものとなるのである。知るものとして、身体的有としての我が、直に無として超越的自己としてある。世界の中の一人が、世界の底より働くものである時、そこに自覚的生命は初めと終わりを結ぶのであると思う。

 しかしこの事は言うは易くして、行うは難い。直に無となる事は、生きつつ死ぬ事で なければならない。佛教で言う大死する事でなければならない。有りつつ無くなる事 でなければならない。其は生の究極の世界である。

 世界の底より働くものとしての宗教の世界である。此処にあるものとあるべきものとが一つとなるのである。我々の不安は、ある我があるべき我でない処にあった。動物に於いて個体が直に種的生命である処に本能的欲求的生の完結がある如く、此処に 自覚的生の完結があると思う。見るもの働くものとして、この我が無となる時、外としての世界が我となるのである。そこに廻心がある。草木瓦礫悉皆成佛となるのであ る。世界は我を呑み込む処ではなく、我の内となり、深淵の暗黒は我の形相として無 限の光輝となるのである。

 完結を持つ動物に不安のあり得ない如く、我々は此処に不安なき生命を持つ事が出 来るのであると思う。種的生命として動物の個体が完結する如く、全人類として我々 の生は完結するのである。唯、「死の断崖に身を絶して絶後に蘇る、」と言った深大な 体験を持たない私は、その間の消息を語る資格を持たない。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

自覚的表現としての力

 小野短歌会の歌会に中央公民館に行くと、書道展が小ホールであったので覗いた。墨書というと年末の年賀状や、文化祭に色紙を出展する位の私には、どれがどれ程上手なのかさっぱり判らない。併し構築された線の力の統一を見ることは楽しいことである。私達にはとてもああゆう線が引けるものではない。一つの字がまあまあ書けたなあと思うと、次の字がひ弱くなったり、跳ねすぎたりしている。筆力の違いというものであろう。このような力はおそらく天性と修練の賜であろう。私は見ながら力というものを考えた。

 ベルグソンは物を軽く摘むとき、指の第一関節のみが働いており、更に強い力が要求されるときは第二関節、第三関節が働くのであって、第一関節の働きは変らないという。手首の関節、肘の関節、肩の関節と働いて、最も強い力は全身の関節を動かすという。指の第一関節は、全身の関節覚が集中することによって強い力をもち得るのである。事実私達が親指と人差指で紐を摘んで引っ張り合いをすると、上記の過程を経てには腰を引き足を奮張る。

 物事を軽蔑するのに小手先の業という言葉がある。小手先というのは何の部分かはっきり知らないが、剣道で小手というのは手首のことらしいから、おそらく手首から先ということであろう。それはまだ僅かな力しか働いていないということであり、全身の力を働かすことが出来ないということであろう。

 私は修練とは力を養うことであり、力を養うとは身体の部分の力より初まって、全身の 力を使い得るようになることであると思う。墨書するときに手先の力で書いていたのが腕の力となり、腰を据えた力となることであると思う。昔の剣客の本を読むと、木剣にかくれて姿が見えないというようなことが書かれている。あの小さな木剣に姿が見えないということは物理的にあり得ないことである。それは恐らく木剣に潜められた干の変化が、外のものに目を移す余裕を与えないということであろう。そのとき木剣をもつ身体の、何処一つにもゆるみがあってはいけないと思う。それは毛髪迄が自在に動く力の張りがなければならないと思う。表わす形の尖端に全身の力が凝縮する、その一点に集中する、それは修練することによって養われるのであり、修練するとはこの力を養うことであると思う。ミケランジェロは「私の眼はのみの先にある」と言っている。それは小手先の業によってあるものではなく、全身の力が流れ出てのみの先に凝縮し、大理石に視覚の形相を刻んでゆくのであると思う。力とは内面的なるものを、外に形に実現してゆく働きである。

 考えるということは頭を使うことである。併しそれも力の表出なくしてあり得ない。ロダンの名作「考える人」は、筋骨逞しい男が体を二つに折曲げ、両手で頭を抱えている。それは全身的な苦悶である。松尾さんはよく「斉藤茂吉は、半日北上川の畔に頭を抱えこんで歌一首を作った」と言われる。力は通常動くものである。併し私はこの時半日動かなかったのも力であると思う。思考の働きが全身を縛ったのである。ゲーテは「初めに行為ありき」と言った。その当否は兎も角人間生命は自覚的表現的としてあり、表現は無限に動的として力の表出をもつ、斯かる力は無限に深まりゆく力として修練によって養われるのであり、修練とは部分より全身の力を凝縮し得る営為であると思う。

 表現とは物に自己を表わすことである。外に表わすことによって自己を見ることである。物に表わすとは自己が物になることである。墨書に表現するとき、手が毛筆となり、腕が毛筆となり、全身毛筆となるのである。手が毛筆となるとは、手が手を無にすることであり、全身が毛筆となるとは、全身が無となることである。無となるとは墨書に表われることである。自覚的表現とは死して生きる道である。

 表現は技術的製作的である。技術は世界が世界を限定する形式であり、それは歴史的形成的である。無数の人々が、無限の過去より伝承し、無限の未来へ伝達するものである。その内容は世界の形相である。私達は技術をもつことによって世界の一員となるのである。物を作ることは世界を作ることであり、私達は作った世界の中に生きるのである。技術は世界の中に生きるものが世界を作るのである。世界の中に生きるものが、世界を作るものとしてそれは全身的である。世界の中に全身を投げこんでゆかねばならないものである。全身を投げ込んでゆくとは自己が無となることであり、世界が現われてくることである。世界が現れてくるとは、この如く個的生命の尖端に自己を露にしてくるのである。

 全身無となり、動きが全て世界の形相を露にするものであるとき、我々は自由とか、自在の感覚をもつのである。そこに真個の生命に接するのである。我々の生命は愛憎する五尺の生命に尽きるのではなくして、全存在の自己実現としてあることを知るのである。修練の道は自己を無にして道であり、それは苦しい道である。併し一たびその道に入ったものは、苦しみを乗り超えて進むべき心の要請をもつ、斯る要請は永遠なる全存在としての真個の自己の呼び声である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

苦悩について

 生、病、老、死は苦ではない。鯉は背に庖丁を入れられても騒がない。犬は老いの 不安を持たない。かまきりの雄は雌に食われて死ぬのを当然とする。生物にとって生・老・死は形相維持の循環であって本然の姿である。其処に苦悩のあるべき余地はない。それが苦悩であるのは永遠の鏡に映して有限なるが故である。何故に永遠に映す事によって苦悩があるか、それは自己の来所が永遠であり、永遠は自己本来の面目なるが故である。苦悩とは自己か自己ならざる事である。努力とは自己が自己であろうとする事である。苦悩は生、死、老、病にあるのではなくして我々が自覚的自己である処によるのである。私達はよく脳溢血となって中風になり、生の意欲も死の恐怖もなく、よだれを垂らして唯其の日、其の日を生きているのを見る、自覚の喪失は赤苦悩の喪失である。

 しかし永遠が永遠である処も苦悩はない。苦悩は何処迄も生、病、老、死にかかわる のである。生、病、老、死なくして我々の苦悩はあり得ないと言っても過言ではない。槿花一朝の嘆きは文芸の素材となり、老醜無惨は老いゆくものの悲しみである。我々 は生、病、老、死をもつものとして苦悩するのである。壮健不死ならんと欲してならざるが故に苦悩するのである。

 自己が自己ならざる事が苦悩である時、苦悩をもつとは自己矛盾的にあると言う事 でなければならない。私が苦悩すると言う時、私は生死する生命と永遠なる生命とし ての相反するものの統一としてあるのでなければならない。それは二つの生命が合 さって一つとなったのではない。直に一つである。永遠なるものが生死し、生死する ものが永遠なるものである。生死を見るのは永遠より見るのである。永遠は生死する ものが見るのである。其処に自己が自己ならざる苦悩が生まれるのである。自己の中に絶対の懸絶を持つのである。我々の自覚は其処より生まれるのである。自覚に於いては、見るものが見られるものであり、見られるものが見るものである。自覚は単に知るのではなくして相反する自己が限定し合うのである。自覚は苦悩より生まれ来るのである。

 自己とは世界の中にあるこの我が逆に世界を自己の内容とする事である。世界とは この我が生まれ働き死んでゆく処である。それは我々が現れ来り、消え去る処として この我を絶対に超えたところである。斯る世界に於いて我々は働くものとして自己と なるのである。私達は名刺を刷る時に住所、氏名と共に職業、地位を記入する。其処 に私達の具体的な自己はあるのである。私達は職業に於いて限り無く関り会う、其処 に社会があるのである。そして社会は限り無い過去と未来を負う、それが世界である。私は鎌を商うものであるが、その淵源は遠く鉄の発見に遡り、更に石器、木器と遡らなければならないであろう。私は其の無限の時間を内容とする事によって私なのである。今商っているのはこの無限の時間を負う事によってあるのである。今此処に住むのも氏名を持つのも重々無盡の過去を持つのである。私が鎌を商うと言うのはこの無限の過去を内に持つと言う事である。そして現在に於いて働き、未来を望むと言う事である。

 我らの自己は斯く生死する生命を超えた処に成立するのである。生死する生命は斯 る世界に映す事によって生死はあるのである。若し私が生まれて直ぐに野犬の中に 育ったとすれば、私は私の死を知らないであろう。生物本然の死をもつのみであろう。 無限の時間に映して我々は無常の嘆きを持つのである。而して無限の時間とは全宇宙が、そして全宇宙の尖端として全人類が行為的に創造し来ったものである。世界は全人類の内容として、この我を超えたものとして無限に自己創造的である。時代の流れには勝てないという言葉がある。世界は個人を超えるのである。

 しかし亦個人なくして世界はない。あるものはこの我、汝として個々の人々である。個々の人々に背負はれる事によって世界はあるのである。個人とは身体的に行為するものである。世界の自己創造と言うも身体的行為な してはあり得ない。この事は身 体が無限の過去、現在、未来を内容として持つとゆう事でなければならない。身体は 生、死する身体である。生死する身体が無限の過去、現在、未来を持つのである。それは相反するものである。而して身体は一つである。相反するものが一つであるとは 身体に於いて一つであると言う事である。細胞そのものが自己矛盾的であるところに 無限に動的な生命があるのであり、我々の自己があるのである。身体の中に時間が生まれ、時間の消えゆく全存在があるのである。

 私達は世界の中にありつつ世界を内に持つものとして自分が世界であろうとする。全能と永生と自由を望んでそれを実現せんと欲する。而し生死するものとして我々は何処迄も有限である。あろうとする我とある我とは深淵を距てて乖離する。自己が自己ならざるとはこの乖離である。あろうとする我は世界よりの声として実現を迫るのである。自己の所在として実現を迫るのである。苦悩は此処に生まれるのである。人間にとって肉体的な死よりも社会的な死こそ真の死である。よく社会に参与し得ざるものが自殺するのはこれに因由すると思う。犬が死の不安を持たず、人間が不安をもつのは世界の実現として無限なるべきものが死によって絶たれるが故に外ならないと 思う。我々は苦悩を離脱せんと欲する、而し有限的、無限的としての矛盾的存在である限りそれは不可能である。離脱せんと欲する事愈々深くして、苦悩は愈々深まるば かりである。キエルケゴールの死に至る病は此処にあると言えるであろう。

 しかし翻って考へれば苦悩こそが永遠であると言う事が出来る。永遠は現前に於い 永遠である。形なきものは何ものでもない。生命に於いて現前するとは一瞬一瞬に 消えつつ現れる事である。單に個とゆうものはない。單に世界とゆうものはない。あるものは個と世界の矛盾としてあるのである。この事は世界の自己創造は刹那現成的 にある事である。生死するものに現前する事である。個と世界の矛盾の中に苦悩はあった。それは離脱せんとして離脱する事の出来ないものであった。而し斯る矛盾の中に世界は現前するのである。世界が現前する事は、世界を内にもつ事によってある自己も亦現前する事である。私達は自己が苦悩をもつのではなく。苦悩の中より現前し来るのである。唯現前し来った自己が世界を内包するものとして苦悩はあるのである。絶望は有限に於ける無限の喪失と、無限に於ける有限の喪失の二つがあると言われる。苦悩とは抽象的立場に立つ事である。永遠とは無限なるものと有限なるものが相互限定的に一つになる事である。生命が生命として自己完結を持つ事である。

 私達の苦悩は自己が世界たらんとして世界となり得ない処にあった。而し苦悩に於いてこの我と世界が現前する時、この我は直に世界であり、世界は直にこの我でなければならない。この我と世界の出で来る処として、この我と世界を離れて苦悩に直接する時、苦悩は苦悩を離れて一大生命の具現となり、大歓喜えと転ずるのであると思う。苦悩は自己ならざる自己が自己であろうとする努力であった。而して斯る努力は超える事の出来ない断崖に面せざるを得なかった。而し努力自身が本来の相として、行きつくべきものとしてあったのである。苦悩の克服ははるか彼方にあるのではなく、苦悩自身を観る所にあったのである。

 この我に世界を見る事によって自己であろうとする努力は、世界がその内容としての個的生命に於いて世界自身を実現しようとする事であるという事が出来る。若し野犬の中に育ったならばこの我の意識をもたないであろうという事は、この我は世界を映す事によって自己となると言う事である。この我が世界を映すとは、世界は個的生命に於いて顕はとなる事である。苦悩は其の接点にあるのでる。生命は矛盾としてあり、矛盾は苦悩である。この我の苦悩は世界の自己実現の形相である。自己ならん と欲して自己ならざる苦悩は、直ちにそのまま世界の実現である。

 私達は何処迄もこの我として生きる。死の悲しみは逃れ得ぬ運命である。而しこの 悲しみは永遠が自己自身を見ている相である。苦悩は、苦悩が世界の自己形相とし て苦悩を離脱するのである。其処に最も深いよろこびが生まれる。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

人権について

 鍼灸医の葛野さんに「巨勢五号の原稿依頼が来たでしょう、貴方は人権を書かれますか」 と言ったら、「人権は言い尽くされていますので書きません」との事であった。事実人権問題は言い尽くされている。何でこんなタイトルを出されたのであろうと思いながら、いざペンを執って見ると案外茫漠としているのに気が付いた。勿論それは私の不勉強による。やむなく傍の辞書を開いて見ると『人間が生れながらにもっている自由、平等の権利』と書いてあった。他に適当な文献もないので、これを基本においてペンを進めることにする。人間は果して生れながらに自由であり、平等なのであろうか。「人間何ぞ貴種あらんや」と言ったのは福沢諭吉である。明治迄は貴人は貴種より生れるというのが常識であった。貴種の血統は常民の覗い得ない尊いものであった。貴人が地方へ下向した時には、その足を洗った水を争って奪い合い、病気の患部に塗ったと伝えられている。その何処に自由と平等があるのであろうか。

 「君笑はれれば臣死す」 鍋島藩の葉隠れの言葉である。武士にあっては「君、君たらずとも臣、臣たるべし」であった。無法な手討であろうとも、家来は甘んじて受けた。君は手討したものの家族の悲嘆を思うことはなかった。それは「貴人に情なし」という言葉を生む程であった。併し君臣共にそのことを当然とした。それはひとり武士のみではない。武士と農夫、地主と農奴、その他使用人と被使用人の間にも全くの理不尽が通った。徳川幕府の階級制度の制度は、斯る人間関係の制度化であったということが出来る。私は明治時代迄辞書にあるような人権というのはなかったとおもう。意志の自由という言葉さえなかったのではなかろうか。

 それは外国に於ても変りはない。印度のカースト制、中国の苦力それは日本よりも甚 い、無人権的社会であったということが出来る。古代ローマに於ても、家族の生殺与奪の権は父親にあったと言われる。フランス大革命の前に王女に対して、「その様に浪費をされますと、国民はパンを食うこと出来ません」と言うと、王女が「パンが無ければケーキを食べさせなさい」と言ったのは有名な実話である。それは全ての権利が王室にあったことを物語るものである。

 日本は欧米より、人権、自由、平等の精神を輸入した。それは活字と講壇より獲得したものである。併しその何れも人間本来のものとして、種子の芽生えるごとく得られたものではなかったのである。イギリス人民が、議会政治制度獲得の為に如何に多くの流血の闘争を繰り返したか、人民の人民による政治獲得のために、大フランス革命以下幾度の戦いに、如何に多くの人々が死んでいったか、人権は闘い取られたものだったのである。それは幾多の挫折の後に人民のものとなったのである。私は人権とは、神権、王権に対し、それに打克つことによって得た言葉であるとおもう。

 斯る神権、王権を打倒する力は何処から来ったのであろうか。私はそれを産業革命に求めたいとおもう。産業革命とは生産手段の革命であった。人類は道具による生産より、機械による生産へと転じたのである。物は天恵より、人間の製作へと転じたのである。人々は生物のエネルギーのみではなく、宇宙のエネルギーを利用しだしたのである。生産は飛躍的に増大した。それを愈々増大さす為に、人々は分業のシステムを見出した。分業は適材適所を要求すると共に、働くものの方向に個性を目覚めさせた。分業の要求するものは個性の方向に可能性を追究し、実現してゆくことである。自由意志とは個性の方向に可能性を展開させんとする世界の必然的欲求である。人格とは個性が世界を内に包み、個性であることが世界を創造することである生命の自己形成である。個性であることによって世界を作るものとして、全ての人間は世界に於て平等である。私は人権とは人間の製作的生命の自覚であると思う。それは農耕、牧蓄、漁撈といった自然の生産に依拠する間はもつことが出来なかったとおもう。マルクスの言える如く思考は生産手段によって決定されるのである。人権は近代的工業生産社会が生み出した、世界の主体的自己形成であるとおもう。アメリカの奴隷解放は、北部の工業地帯と、南部の農業地帯の戦争であった。それは共に生産手段の精神の闘争だったのである。

 日本に於ては明治維新と共に自由、民権の声が澎湃(ほうはい)として起って来た。それは立ちおくれた欧米列強に比肩するには、資本主義国家となるより外ないとする危機感より出で来ったものであった。憲法を発布して、議会政治制度を作り、一応自由、平等は成文化されるに至った。併し依然として農業に経済の基盤をもつ我国に於ては、真に人権の意識の確立はなかったと思う。人権の意識は第二次大戦後に俟たなければならなかったと思う。

 戦争は当事国に膨大な物資の消耗を強要した。消耗を充足する為に、兵以外の働けるものは生産に従事せざるを得なかった。而して大なる生産は工業生産である。工場は拡張され、人々は徴用工として生産に従事せしめられた。その挙句の敗戦である。総力戦の敗戦は殆んどが廃墟として残った。私は当時零番地、零地帯、零メートルといった、零の文字が氾濫したのを覚えている。虚脱より漸く脱却したとき、生きる道は戦時の延長としての工業生産であった。人々は生きるために自己のもつ技術に頼らざるを得なかったのである。政治も多くの人を養うために、工業生産を指向せざるを得なかったのである。而して零よりの出発は、全てが新しきものの建設である。そこに最も合理化された設計と、能率的な人員配置をもつことが出来た。それは旧態依然たる欧米に対して、生産性に於て上廻ることが出来たのである。私は斯る工業化の成熟と共に、日本人の人権意識は骨肉化してきたとおもう。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚は歴史的形成的である。歴史は通常過去の叙述と考えられている。併しそこに歴史はない。歴史は常に歴史的現在の、過去への延展に於て歴史である。過去は生きているものとして未来と激突し、そこに新しい世界が生れる。そこに現在がある。歴史的現在とは無限の過去を蔵し、未来を孕んで過去と未来が動転するところである。そこに時が初まり、そこに時が終るところである。大歴史家ランケの言える如く現在は常に保守と革新の闘うところである。人間は自覚的生命として、我々の生れるところは斯る歴史的現在である。私は人間が生れながらにもつ権利とは、斯るところから捉えられなければならないと思

 我々は工業生産的社会にあるものとして、何処迄も個性の尖端に、技術を展いてゆくと ころに世界の進運をもつものである。それは主体的方向に自由と平等を、純化徹底してゆかなければならない道である。斯る世界に生れたものとして、我々は生れながらに人権をもつのである。人権尊重は歴史的現在の無条件命令の声であうとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

新聞を読みながら

 十日程前になるであろうか、新聞を読んでいると、「フセインはアラブ世界不世出の英 雄である」という記事があった。勿論イラクが報道したというのである。私は読みながら懐旧の思いににやりとした。思えば私達の少年時代は英雄伝記の氾濫であった。プルターク英雄伝は必読の書の中に数えられ、ナポレオンや豊臣秀吉などを、文字通り肉躍らせて読んだものである。

 いつ頃からであっただろうか、英雄とゆう言葉が私の意識より薄れ、隠れていったのは、思い出が模糊としているのは既に久しいようである。思えば最近は書店の本棚にも英雄の文字を見かけないようである。私は書店の本棚は時代を映す鏡であると思っている。時代が何を求め、何に苦悶しているかが最も明らかに現われる所であると思っている。そこから姿を消したということは、英雄は最早現代に於て求められる人間像ではないが故であるとおもう。私の意識のうすれも抹殺される世界の人間像を写したものであろう。私がフセインの英雄ににやりとしたのは、その時代錯誤的なナンセンスとでもいうべきものを感じたが故であるように思う。アラブとはそれを真直目に掲げる程後進的なのであろう。英雄が否まれるとは、世界が如何なる質的変化をもったということであろうか。

 英雄の評価は人を何人殺したかで定まるという言葉がある。英雄とは大量の殺人者である。その大量の人命は版図の拡大に費されたのである。ドストエフスキーの罪と罰は、この大量の殺人者が賞讃されて、一人を殺した者が何故罰せられるかということへの問いから初まった。何故に賞讃を受けるか、私は版図の拡大の中に人類の意志とでもいうべきものが見ることが出来ると思う。人類が一つのものとして凝結しようとする意志が働いているようにおもう。

 言葉をもつ人間は、言葉を交し意志を疎通することによって、密度高い世界を築き上げることが出来るのである。大なる疎通は大なる文明を築き上げることが出来るのである。私は英雄は止むに止まれぬ人類の意志によってはたらいたのであり、止むに止まれぬ人類の意志は、斯るより大なる世界の展望にあったのであるとおもう。流血は人間が生きるものとして、身体をもつものとしての一つならんとする軌みであったと思う。英雄の殺人は斯る人類の意志の具現者として賞讃されるのであると思う。

 私は英雄伝が書店の棚より消え、英雄の時代が過ぎ去ったということは、地球的規模に於て人類の意志の疎通が出来るべき基盤が出来たということであると思う。よく街の辻で「暴力を止めて話合おう」といった標語を見かける。それは世界が力による角遂の時代が終り、対話による構築の時代に入ったということであるとおもう。

 対話による構築とは、お互が内にもつ力を引き出し合うことである。競争がなくなるの ではない。競争がより大なるものを作り出し合う競争となるのである。抹殺し合う競争ではなくして、共存する競争である。尖端に立つものは英雄ではなくして、天才である。ロゴスによる密度高い世界を作ることである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

自覚について 其の2

 よく私の書いたものが解らないといわれる。而しそう言われる人は生命が矛盾であることを考えられたことがあるのだろうか。矛盾とは相反するものが一つということである。般若心経に於いて色即是空という如く何処迄も相反するものが一つということである。

 よく人は俺は大工の腕は誰にも負けない、庖丁を使えば俺は誰にも負けないという。 そしてその腕前を自己の支点とする。彼の存在を支えるものはその腕前である。彼等 が俺はという技術とは如何なるものであろうか。

 彼等はその技術を師匠は先輩より習ったのである。その師匠、先輩はその師匠、先輩えとさかのぼるものである。其処に俺と言うべきものはない。無限なる技術形成者の影があるのみである。而しその故にこの俺はと言い得るのである。一人だけの技 術であればどうして誰にも負けないと言い得るであろうか。一人だけの技術はあり得 ないものであるし若しあっても価値のないものである。何故ならば人類が必要とする ものであればすでに歴史の初めに其の萌芽があった筈である。技術は技術の上に築かれるのである。

 我々はこの自己が技術をもち、知識をもち、意志として世界を実現しようとする。行為者として自己から全てを律しようとする。而し上に見た如く自己とは無限なる人間連鎖の中の一つの輪に外ならない。世界の中の自己として、自己の腕前を誇ろうと思えば逆に自己を捨て行かなければならない。料理の腕を誇ろうと思へば自分の今迄の技術を捨てて古往の秘伝を尋ね、東西の味覚を較べて其の上に技術を築かなければ ならない。更に評価は客が定めるのである。

 自覚という時通常はこの我が自己を知ると思う。勿論この我なくして自己を知るものはない。而しこの我が知るという背後には更に深大なる生命の働きがあるのである。技術に於いて見た如く、師匠、先輩えと限りなくさかのぼるということは人類が限り無い年月に技術を築いて来たということである。言葉にしてもそうである。神代人は今のように豊饒な言葉をもっていなかった。それは永い間の多くの人の関り合いの中から生まれて来たものである。

 自覚とは人間生命が自覚的生命であるということである。生物の生命には個体保存 種属保存の二つの本能があると言はれる。人間も亦生物である。自覚的とは斯る生 命が自覚的ということである。犬は犬より生まれて犬を生んでゆく、個を超えて個に 形相を維持してゆくのが種の生命である。人間は自覚者として個人を超えた技術や言葉を内にもつ世界を形造ってゆくのである。世界とは人間の種の自覚的形相である。我々の自覚は世界を形造るものとしてあるのである。それでは矛盾とは何か。

 我々の生命は身体的として生まれて死んでゆく。有限なるものである。それに対し世界は個人がそれによってあり、それによって成り立つものとして永遠なるものである。而してこの生まれ死んでゆく身体は手をもち、言語中枢をもつ、技術をもち、言語をもつ。技術、言語は前に見た如く世界の形相である。世界の形相を身体がもつとゆうことは、この身体に於いて世界を実現せんとすることである。人はこの自己をして世界たらしめんとするのである。王者となって一切を自己の意志の下に統率せんと欲し、永遠の生命を得んと欲するのである。自己が神たらんとするのである。

 而し技術は環境に対する事によってあり、言葉は隣人に対する事によってもち得る ものである。環境に相対し死を生に転ずるのが技術であり、隣人に相対し、喜び、悲 しみをもつ処より言葉は生まれるのである。而してそれは人間は生死するものなると ころより生まれるのである。世界であろうと欲し、永遠たらんと欲するのは生死する生命であるところよりあるのである。我と世界とは絶対の深淵をもって距てるのである。超えることの出来ない懸絶をもつのである。

 矛盾とは一つたらんとするものが相否定し合うものである事である。前にも書いた如く環境の否定を肯定に転ずるのが技術である。相対する隣人と一つたらんとするのが言葉である。生命は矛盾に於いて生命である。矛盾によって無限に動的となるのである。而して最大の矛盾はこの我と世界との懸絶である。自己と神とを距てる深淵である。それは我々がそれによってあり、それの実現としてありつつ、達すべからざる彼岸である。我々は永遠なるものの形相としてありつつ、何処迄も生死するもの、有限なるものである。

 この問題は関心をもたざる人にとっては単なる閑人の遊戯とも見えるであろう。而しこれこそは自覚的生命にとっての生死の問題なのである。我々の自己成立の根源の問題なのである。身体は生死するものでありつつ、言語中枢をもつものとして永遠なるものである。そのことは世界と我、神と我との絶対の懸絶を身体がもつということである。而して身体は一つである。身体が一つであるとはこの相反するものが各々の自己を主張することでなければならない。生死する身体はその官能の充足に於いて自己を維持せんとするのであり、永遠の生命はその形相の実現の為に寝食を忘れることを要求するのである。相剋とは一つが身体を統べんとすることである。

 人間生命が自覚的生命である限り斯る相剋は永遠が自己を実現せんとするものであ る。それが絶対の懸絶である限り生死する身体としての目や耳によっては見ることも聞くことも出来ないものでなければならない。斯る意味に於いてそれは何処迄も否定されなければならない。斯る否定の深さが自覚の深さである。その極限に全てを失う時、大死一番とか、百尺竿頭更に一歩を進めるとか言われるものがあるのである。死の断崖に身を絶して絶後に蘇るといわれる如く、そこに於いて目は永遠を見る目とな り耳は永遠を聞く耳となってよみがえるのである。そこに自覚は完成するのである。全ての自覚は斯る自覚を分有するのである。

 生死するものが永遠なるものであり、永遠なるものが生死するものである時その限定の形式は歴史的形成でなければならない。我々は歴史の流れの一点として、全時間 としての永遠に面するのである。絶対の懸絶は歴史的時間としての懸絶である。一微 塵としての存在が限りない過去を承け、限りない未来をはぐくむものとして、今、此処に働くものとして神に面するのである。技術、言葉に於いて絶対に接するのである。 私は自覚の最も深いものを日常底に置いた東洋の先覚者に深甚なる敬意をもたざるを得ない。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

心敬「真実の歌道」

 「真実の歌道は大虚の如く、個々円成の上なり、もとより証は他を俟たず」 和辻哲郎の 続日本精神史を読んでいると、上記のような心敬という人の文言に出合った。私は昔の人達も、真剣に文字の表現をもったのだと思って嬉しくなった。和辻哲郎によると、心敬は三井寺の僧であり、連歌の名手で禅に参じたらしい。

 大虚とはおおぞらとも読まれ、万物がそこに有り、それぞれがそのところを得る場所である。そこに於て個々円成しなければならないというのである。個々円成とは如何なることであろうか。円は禅僧の好んで描く図形である。円は描くのに初めと終りを結ぶ空間である。私はそこに無数のものを包むと共に、時間としての存在の初めと終りを結ぶものを表わしたものであるとおもう。

 我々は無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達する。それは技術的である。無数の過去の人々の努力の形象を自己の目として、自己の手として新たな形象を創造してゆくのが、自覚的としての人間の生命である。それは世界を作ってゆくことである。個々とはこの我である。天地間唯一個としてのこの我である。人類は唯一個としてのこの我を生んだ。そのことは唯一個としてのこの我は、逆に世界を内に包むものでなければならない。それでなければ唯一個の生れて来る所以があり得ない。ここに我々の目は無数の過去の目が自己の目となるのである。個々円成とは、この我の目は無限の過去のはたらきを宿し、この我の個性をとおして世界の新しい形が生れてくるということであるとおもう。限りない努力によって、自己を世界の自己実現の中に純化せしめることであるとおもう。

 他の証を俟たずとは、自己の中に見出でた自己の形象は、世界が世界自身に見出でた形象として確信をもてということであるとおもう。自己の目は世界の目であり、自己の底に展けてくる世界に生命の真実を見よということであるとおもう。それは他人に讃められてある世界でもなければ、けなされて無価値になる世界でもない。それは過去が我をとおして未来へ流れる生命である。それは作るときに自己を動かす強さによって、自己が把握出来るものである。展けてくる目が確信を与えるものである。内面的発展が信をもつのである。

 藤原彊氏が昔投稿歌人になるなと言われたことがある。私は氏の真意は展けてくる目への確信にあったと思う。個々円成にあったとおもう。勿論それは氏の如く深い歌境にはいり、内面的発展の目をもつ人に言い得る言葉であって、選者にとり上げられること喜びとし、作歌の励みとする初歩の人々は域を異にすると言わなければならないであろう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

ある対話より、自己えの考察

 「あいつはじきに自分を失なうでのう。」「うん気の短い奴やさかいんのう。」「どない言うても堪えてくれへんねんやがい、困って仕舞うたがい。」聞くともなしに聞いていると、冗談に名前を呼び捨てにしたのを、怒ってからんで来て困った話らしい。私は聞き乍ら、自己という問題に対してこの話がもっている内容に興味をもった。怒りは言われる如く自己防衛の感情である。自己の一部は全てが奪われようとするときに現れる情緒である。恐らくその男が怒ったのは、呼び捨てにされることによって、自己の名誉が失われるのを感じたのであろう。相手が自分を同等以下に見ていると思い、猛然として同等の復元を要求したのであろう。

 私が此処で興味を感じたのは、この自己防衛が何故に、あいつはじき自己を失うでのうという自己喪失となるかということである。自己を保持しようとする行為が自己を失う行為であることは矛盾でなければならない。而してそのことが日常に於いて何の疑うこともなく対話されているのである。それはそのことが世の中に於いて自明の事として認められているということであると思う。血迷うといわれるのはそのような状態であり、怒りは常にこの様な状態を指向しているのであると思う。そうであるならば斯のような矛盾としての自己とは如何なるものであろうか。

 自己が自己であろうとすることが逆に自己を失うことであれば、自己が自己であるためには、自己であろうとする自己を捨てなければならない。何処え捨てるか、それは眞に自己であらしめてくれる処でなければならない。自己が自己の中に捨てるのである。自己ならしめるのも亦自己である。そのことは我々は自己の底により大なる自己をもつことでなければならない。このより大なる自己に映して、自己であろうとする自己は自己を失なった自己であり、血迷った自己なのであると思う。私達が読書するのも斯るものであると思う。読書するとは自己ならざるものの中に歩みを進めることによって自己を見出さんとするものである。歩みを進めるとは自己を否定して、自己をその中へ投げ込んでゆくことである。投げ込んでゆくところは我々を超えて、我々に否定を要求し、その呼び声によって、自己が露はとなり、眞個の自己となるのでなければならない。私は斯かるものを我々が生まれ働き死んでゆく全人類が形成し来った 歴史的世界に求めたいと思う。我々はこの世界に生きものとして、日常自己転換を行っているのである。この世界に生き、この世界を生かすべく我々の行為はあるのである。そこに自己を保持せんとすることが、自己を失うことの自明なる所以があると思う。我々は一人生きるのではない。全人類の連鎖の中に生きるのである。それが我々の平常底である。

 歌人は何処迄も歌の世界にこれを投げ入れて、他の歌人と面々相接することによって眞個の自己となるのである。全人類が作る世界とは個と個が相対する世界である。象徴主義と現実主義は相否定する。浪漫と写生は相争う。一つは未来よりの限定であり、一つは過去よりの限定である。而して争うことによって写生と浪漫は自己を明らかにするので瞬々止むことなき自己発展はここより生まれるのである。他者との相互否定を媒介とするのである。自己の停滞はマンネリ化として、自己の喪失である。自己をよしとするものは生ける屍である。而して相互否定を媒介として展開してゆくのが歴史的世界である。斯るものによって歴史は事実より事実へと転じてゆくのである。我々は歴史的世界の一要素として、各々が歴史的創造の創造的尖端に立つのである。それが否定を媒介するということである。我々は創造的尖端として世界を否定し、世界の一要素として世界に回帰するのである。私が写生の立場から浪漫を否定 することは、すでにある世の形を否定することであり、否定することによって写生を打ち樹てることは、新たな写生を見出すこととして世界を創造することである。斯くして世界は内に深まり、外に形を露はとするのである。否定と回帰は一つである。世界を否定することは努力である。相互媒介的として、否定することは否定されることであり、否定されることは苦痛である。世界に生きることは苦痛であり、努力である。我々は苦しむべく努力すべく生まれて来たのである。力の表出に於いてより大なる空間と時間をもつ。そこに我々は全人類と結合し、自己を見るのである。血迷うた自己は斯る自己から抽象された自己に外ならない。自己があるとは、他者の抵抗として、力の表出としてあるのである。私は今高遠な論理を語っているのではない。日常に於いて私がと言う時斯るものとしてあるのである。

 ロゴスとはこの自己に現れた世界の相に外ならない。世界は我々を超えた深さをもつ、我々を超えた深さに我々が生きるとは、我々は世界の呼び声に生きることである。ロゴスは我々に汝かくなせと命ずるのである。良心も真実も美もこの呼び声の中より生まれるのである。呼び声に生きるとは、眞個の自己は世界であるということである。そこに我々は回心をもつのである。平常底に翻るのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

自己があるということ

 物理学は筋肉覚、関節覚の無限な自覚的発展であると言はれる。科学の発展は巨大なる一人の人間の成長に例える事が出来ると言った人がいる。人間は世界を創っていく、それは内的なるものの外他として、人間に擬えて作っていくという事が出来る。世界とは人間の自己像であるという事が出来る。

 而し物理的法則に随う事なくして一塵をも動かす事が出来ないといわれる如く、我々は恣意によって世界を創る事は出来ない。内的なるものの外他として、筋肉覚、関節覚が自覚的発展をもつとは、我々が筋肉覚、関節覚を媒介として世界の奥深く入っ てゆく事である。この自己を否定して世界自身となる事によって我々は物理学をもつ のである。無限の自覚的発展とは自己の恣意を否定して世界そのものとなる事である。

 単一なる自己とゆうものは何ものでもない。例えば一人の生まれたすぐの子を無人島に捨てたとする、其処に如何なる自己があり得るであろうか、唯走り、唸る一つの動物があるのみであろう、食欲と性欲をもち、眠っては醒めるのみであろう。私達が今此処にこの如くあるとゆうのは限りない過去を背負うのである。無数の人々と関り合うとゆうことである。

 言葉を作った人はないと言われる。而して言葉によって我々は関り合い、自己となるのである。斯る言葉は何処から来たのであろうか、私は其処に生命の外他としての 物の生産があると思う。外に物を作るとゆう事は内に技術的となるとゆうことである。言葉は単なる音声ではない、表現的なるものである。意味を補うものである。その為 には言葉をもつものは創造的なるものでなければならない。価値の創出者でなければならない。価値の創出ということは、生命の外他ということである。物を作るという 事である。関り合うものには何かの媒介がなければならない。私達は物を介し、物を 作るものとして呼び、答えるのであると思う。

 斯るものとして言葉がその肇まる所を知らないとゆう事は、技術もはじまるところを知らないといわなければならない。はじまるところを知らないとゆうことは、我々は我々の知らない生命の具現としてあるとゆうことである。はじめを知るところに創造はない、知らざる生命の深さが自己を具現してゆくところに限りない創造はあるのである。無限の過去がよく、無限の未来を生むのである。

 何日であったか、人間の胎児の最初は幾つかの点があらわれている。それは人間が 大古水中で生活した頃の鰓の痕跡であると書いてあったのを読んだ事がある。そして 胎児の成長は両棲類に似、哺乳動物の姿となり、生まれて来た時は猿に似ている。歩き初めは類人猿に似、やがて人間の姿を完成するとあったと記憶する。私達は成長過程に於いて人類の全歴史を繰り返すのである。人間は無始、無終なるものを内蔵すると共に、個体も亦無始、無終なるものを内蔵するのである。人間は宇宙的生命の創造的発展の結実である共に、その結実は個体に於いて実現するのである。

 私達は生まれ働いて死んでゆく、せいぜい七十年か八十年の生命である。而しこの 生、死、する身体は無限なるものを蔵する身体として生死するのである。そして私は 我々の技術はこの無始無終なる生命の創造的発展の自覚としてあるのであると思う。斯るものとして我々の自覚も与えられたものである。作られたものである。作るものとして作られたのである。

 私は鎌を商うものであるが、この鎌を作る為には先ず熟練工の下に弟子入をしなけ ればならない。そして幾年間かの技術習得の後に一つの製品を作る事が出来るようになるのである。それを幾世代も繰り返して来たのである。技術をもつという事は私達 の生死を超えたものを自己の内容とするという事である。それによって私達は世界に関り、自己となるのである。生死を超えたものを内容とするということは世界を内にもつという事である。全時間がこの我の胸底を流れるということである。私達はこの全存在を内容としてもつ直覚が動かす事の出来ない自己の確信となるのである。

 世界は我々が其の中に生まれ、働き、死んでいく処である。何処迄もこの我を超えたものとして世界である。我々が其の中にあるものとして世界である。私達は世界の中にある事によって、逆に世界を内に持つ事が出来るのである。我々を超え、我々が其の中にあって技術的展開を持つという事は、技術は世界の自己創造としてあるということでなければならない。我々が技術的に世界を作っていく事は世界が世界自身を作っていくということでなければならない。誰も言葉を作った者はない、而して言葉によって我とは自己を見、世界を見ていくのは斯る世界が自己創造的としてあるが故に外ならないと思う。それなれば我々が世界を作っていく事が世界が世界自身を創っていく事であるとは如何なることであろうか。

 単なる世界というものはない。世界は我々が働く事によって世界である。私は前に個体は無始、無終なる宇宙的生命を宿すと言った。我々の働く事が世界の自己実現であるとは個体の斯る面が自己実現的であるのでなければならないと思う。個体の一々が無始、無終なるものをもつものでありつつ現在の対立、矛盾に於いて形相を実現していくのである。一々が時を生み、時が消えいくものをもちつつ自己が其の中に生まれ、消えていくのである。一人、一人が全宇宙的なるものを内包する、其処に一々が働く事が世界が働く事があり、世界が一つである所以があるのである。

 時を包み、其の中に時が生まれ、消えゆくものは永遠なるものである。形相は斯る永遠なるものが自己矛盾的であるところにあらわれる。矛盾とは個が全であるという事である。個が全であるとは個と個が対立するということである。これを言いかえれば個が対立することは個が全を担う事である。斯るものとして形相は常に永遠なるものの自己顕現であるということである。個が全を担うということは表現的であるということである。斯るものとして時は単に流れるものではない。一々が永遠として現在より現在へ動いていくのである。過去と未来を包むものとして、一瞬一瞬が完結をもつのである。

 矛盾するものとは闘うものである。対立するものは否定し合うものである。個物的なるものが全存在的なるものを内包するということは、我々は内に闘うものをもつということである。個が全を見るということは表現的ということである。私達は表現的世界に生きた人々が凄惨な霊肉闘争を体験したのを知る。技術的ということは世界形成的ということであり、世界が働く事によってこの我が見られる時、ある我は、あるべき我に否まれなければならない。我々は今ある我を否定することによって自己を見出していくのである。物を作る自己として、技術をもつ自己として我々はある。それは世界実現的として無限の自己否定である。其処に我々は生まれる。否定の肯定である。自己否定なくして自覚はない。瞬々の否定によってのみ、瞬々に新たな肯定は生まれる。無限に動的なるものとして世界が働くのである。この我より見れば否定は苦悩であり、否定の肯定は努力である。自己を忘じて我々は眞個の自己となる。永遠として具現するのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

作歌の根底にあるもの

 歌を作るとは対象を、五七五七七の定型文字に捉えることである。定型によって見るということである。併し対象は三十一文字の定型としてあるのではない。若し対象が定型としてあるのであれば、自由詩や散文はあり得ないことになるし、同じく見られたものとしての絵画的表現は不可能である。

 私達短歌を作るものは、歌を作ることによって対象を明らかにし、対象に深く入ってゆ くと感じ考えている。作ることによって対象を明らかにしてゆくとは、対象は言葉に構成せられることによってあるという意味がなければならない。言葉の構成が対象の自己構成の意味がなければならない。対象が明らかになるとは、対象はそれ自身の自己明化をもち、展開をもつのである。斯る自己明化が言葉に拠るところに、我々の作歌があり、対象を明らかにする所以があるとおもう。

 私達は歌を作るとき多く目をもって見、見たものを言葉にする。断る目をもって見ると いうことは如何なることであろうか。犬や猫は同じく目をもって見る。併し歌を作ること は出来ない。犬や猫の見るものは多く餌と敵に関るものである。原始人は歌を作る。併し文明人の如く複雑な心の動きを宿すことが出来ない。目は深く主体の生命形成の表出としてあるのである。目の構造は同じである。併しそのはたらきは犬は犬の、烏は鳥の生命 成によるのである。

 他の動物になくて、人間だけにあるもの、それは言語中枢であると言われる。私達は言葉をもつことによって、壮大なる人類の文化の殿堂を打ち樹てることが出来たのである。多くの古文書に過去を見る如く、言葉は個々の生死を超えて、個々を包むものである。個々を包むとは、人類の初めと終りを結ぶものである。初めと終りを結ぶとは、無数の個々の営為がその中に蓄積されているということである。私は言葉によって人間が人間となったということは、言葉がはたらくことによって、我々は我々の目をもったということが出来るとおもう。言葉が見るということが出来るとおもう。

 言葉を作った人はないと言われるごとく、私達は言葉が何時初まったかを知らない。私というとき既に私は言葉の中にあるのである。淵源を求めるとき、それは生命の初まりと共にあったと思わざるを得ない。生命が機能的構造的であり、形成的であるとき既に言葉がはたらいていると考えざるを得ない。聖書に言える如く、太初に言葉があったのである。人間のみが言語中枢をもつとは、別の生命が現われたのではない。斯る生命が自覚的表現的となったのである。はたらいていたものが、働き自身を具現するものとなったのである。働きを具現することが製作することであり、製作は言葉が働くことによってあるのである。聖書は更に、「この言葉は太初に神とともにあり、萬の物これによりて成り、成りたるもの一つとして之によらで成りたるはなし。」と言う。言葉とは無限に動的なる生命の初めと終りを結ぶものである。全て生命は初めが終りを あり、人間はそれが自覚的である。

 我々が今もつ言葉とは、人類初まって以来無数の人々が、怒り悲しみ喜びつつ対話したものの綜合である。物は名をもつと言われる。名とは人間が製作物につけた符号である。言葉によって見出したもの、変革したものである。言葉が作り、作ったものに言葉が作られる。客体的方向に物があり、主体的方向に喜び悲しみがある。形成的世界の現在として我々は今の言葉をもつのである。言葉が見るというのは、斯る形成的生命の目として見るということである。

 私達はバラの花を美しいと見る。併し手にとっては唯食えるか食えないかを分るのみであろう。自覚的とは自己構成的ということである。バラの花の中にバラの花を見るのである。髪に挿し、胸に飾り、限りない人々の嘆賞に培われて美しいのである。詩人が唄い、画家が描いたものをとおして、美しいのである。此の間生花展を見に行った。私は踏み捨てていた野草の美しさに目を瞠らされた。その美しさは生花という構成によって見出され生命の美しさである。単に我々が見る目に無限に重ねられた野の草のいのちの形である。先人の表現したものが我の目となってはたらく、生花展に見たものが我の目となって野の草を見る。そこに自覚的生命としての人間の目があるのである。生花を習うとは斯る視覚の無限の創造的世界に入ることである。

 この表現されたものが自己の目となってはたらくときに言葉が生れるのである。新しい目となって、新しいものが見られるときに言葉が生れ、次の者にその目を伝えるときに言葉が生れるのである。それは単に目のみではなくして、全ての製作にはたらくものである。製作は無数の人々の交叉より生れる。交叉とは無数の人々が一なることである。無数の異なる人々を一ならしむるものが言葉であり、言葉をあらしめるものが物を作るということである。それは言葉が物を作り、物が言葉を作ってゆくことによって、人と人が限りない交叉をもつ世界である。斯るものとして私達がものを見るのは働く言葉が見るのである。はたらく言葉の目として見るのである。

 短歌を作るとは見たもの触れたものを言葉によって構成するということである。言葉に よって構成するとは、言葉によって見ることである。そのことは既に対象が言葉をもったものでなければならない。言葉によって構成される対象は名をもったものである。名をもったものとは、作られたものとして言葉によって見られたものである。言葉によって見られたものとして、対象は言葉をもつものである。対象が言葉をもつものであるとは、我々に呼びかけるものであることである。我々が春の野の光りを歌に作る時、春の野の光りが我々に呼びかける反面があるのでなければならない。我々は呼び応えるものとして表現をもつのである。

 言語中枢は人のみが言われる如く、言葉は人のみがもつものである。対象が言葉をもつとは、対象は無数の人々の呼び交しを担うものとしてあるということでなければならない。古今東西の人々が、それによって呼び交しを持つものでなければならない。私達は桜の花を見るとき、幾多詩人の喜び哀しみを見、幾多画人の色と形を見るのである。画人の目、詩人の情が我々に憑依するのである。我々の歌はそこから生れる。対象が呼ぶとは斯る無限の人々の声を宿すことによってである。私達は斯る呼び声によって、無限の形を見、無限の色彩を見るのである。対象の中に対象を見る。そこに我々の自己の底に触れた美意識が生れるのである。

 短歌作品の批評が行われるとき、よく観念的であるとか、物につき過ぎていると言われる。観念的とは言葉が物を作るはたらきを失なっているということであり、物につくとは物が言葉を生む力をもっていないということである。それは何方も真に生命を表現していないということである。生命は無限に動的である。動きを失なうことは死である。何方も真でないとは生命の自己限定力が失われているということである。言葉が物を作り、物が言葉を生むところは、言葉と物が其処に消えて新たな言葉と物がそこより生れるところである。この我が見るのではない。新たな物が見られるところは、新たなこの我の生れるところである。新たな言葉が見る目の自己となるのである。勿論新たなものが生れると言っても突然空中に楼閣が現われるのではない。新たな状況を介して、過去の無数の人々の呼び声にこの我が応答するのである。あるものは生命の自覚的営為であり、言葉と物はその両極に現われた形である。

 生命は形成作用であり、形に自己を見てゆくものである。その両極に言葉と物があるということは、形成作用とは言葉と物がはたらくということでなければならない。両極とは相反するものである。相反するものがはたらくとは相互媒介的ということでなければならない。私は斯るものとして作歌するものは、物か言葉か、何れか一つの形の立脚をもたなければならないとおもう。無数の先人の努力は言葉亦は物として結晶しているのである。この形がはたらくことが新たな製作である。我々が作るとはその形がはたらくことである。それは相互媒介的として一つのものである。而して相互媒介的にはたらくとは両者がせめぎ合うことである。私は短歌表現に於て物が言葉を介する方向に写生があり、言葉が物を介する方向に象徴があるとおもう。リアリズムとロマンチズムである。それは相互媒介的として、何方も世界を表現する。而しそれは一方は写生が象徴を哺むものとし、一方は象徴が写生を包むものとして何処迄も相対立するのである。何方も世界の自己表現としてありつつ、相否定し合うものである。斯る否定に於て表現は愈々多様となり、言葉は愈々豊潤となって、世界は自己自身を創造するのである。

 争うとは優劣を決することである。ロマンチズムとリアリズムは、何方かの優勢として 時は流れる。而して一方の優勢は相互媒介の喪失である。相互媒介の喪失は、自覚的生命の自己喪失であり、創造の衰退である。其処に自覚的生命は劣者の反逆を起す。ここに世界は革(あらた)まり、劣勢なるものは優勢となるのである。言葉が物を含み、物が言葉を含む具体的生命は、自己の中に無限に否定し合うものをもつことによって自己を実現してゆくのである。而してそこに実現するのは常に無限に動的な自覚的生命としての人間の形相である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

日常の言表としての短歌について

クロバーの茂れる堤釣る人の踏みたる跡の一すじ低し

 ながい間御無沙汰していたけるかも会に、先日たまたま行った私の作品である。このときの井上氏の評と、私の動機に食い違いがあるので少し述べて見たいと思う。

 井上氏によれば踏まれた草は低くなってゆくのは当然である。このように当り前のこと を表現したのはつまらない。もっと作者の目が働かなければならないとのことであった。尤もである。当り前のことは初歩的な意識であり、表現として価値の低いものである。併し私にとって踏まれた草が低くなってゆくのは当り前ではなかったのである。例えば茂ったクロバーを、わらび採りなんかで人が踏み初めると、踏まれた草は莖が曲り葉は萎えて伏す。そして次に出て来る草丈は低くなり、茎や葉は表皮を厚くして踏まれることへの耐性をもつ。それが繰り返されると遂に地にへばりつく。私はこの次に出てくる葉が低くなることに、生命のはかり知ることの出来ない微妙を感ぜざるを得ないのである。単に変化ということがある筈がない。それはいのちのはたらきである。いのちのはたらきには機能がなければならない。その機能はどのような組成をもち、どれほどの年月を経たのであろうか、私はそこに気の遠くなるような思いを抱かざるを得ないのである。

 私達の日常の世界は当り前の世界である。この当り前の世界とは如何なる世界であろうか、そこに奇異なるものはない。併し私はそこに深大なるものがないのではないと思う。日々の繰り返しの中に意識が埋没し、当然として深大なるものを安易ならしめているのであるとおもう。ニュートンはリンゴの落ちるのを見て、宇宙を統括する大なる力の体系を見出した。人の呼び声に人が答える。それは当り前のことである。併し人類の壮大なる文化の世界はその上に樹立されているのである。我々の日常は日々の繰り返しである。その繰り返しは如何にして可能であるか、私達は繰り返する為に昨日と今日、去年と今年、親と子、祖先と我を結ぶものを持たなければならない。無限の過去と未来を結ぶものがなければならない。日常とは永遠の今としてあるということである。

 泰西文芸はその究極に崇高なるものの表現をもつと言われる。そこに悲劇の尚ばれる所以があるといわれる。そこにあるのは強大なる英雄の精神である。それに対して短歌の見出すものは日常であり、常民の営為である。ありなれた心の流れである。併し私はそれだからと言って、西洋詩より短歌が劣ると思うことは出来ない。

 詩の価値は如何に深く存在の根底を言表し得るかにあるのでなければならない。在るものとは個が全体であり、全体が個であり、瞬間が永遠であり、永遠が瞬間としてある。全体より個を見るところに、法則や公理としての理性があり、瞬間が永遠を孕むところに、芸術としての美がある。詩の評価は一瞬より一瞬への具象の流れの中に、如何に深く永遠を宿すかにあるのであるとおもう。

 永遠なるものは如何にして表現出来るのであろうか、私はそこに言表があるとおもう。我々の行々歩々は無限の過去と未来をもつことによってあるのである。現在の我を言葉によって捕捉するということは、斯る無限の時を捉えるということである。言葉は斯るものの表現手段として我々を超えたものである。日常を言表するとは、一瞬一瞬の生れて消えるものを捉えるのではなくして、一瞬一瞬を見るものとして、時を統括するものとして、永遠を捉えることである。私は短歌とは、存在の根底に至らんとする表現の日本的方向であるとおもう。日常を言表するとは、日常の根底に至ることである。

 斯く言うことは頭書の私の歌が佳い歌であるということではない。と言うよりは表現の 未熟の故に、意図に反して内藤先生、小紫博子さん等の集中砲火を浴びた作品である。唯私は日常の奥底にあるものを言いたいのである。けるかも会の諸氏は未練がましいと思われずに諒とされたい。

 尚禅家に日々是好日という言葉がある。私はこれは永遠の目によって捉えられた日々であるとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

名刺(神の存在の証明)

 歌会の後で雑談に耽っていると、一老婦人より突然「貴方は神があると思われます か。」と尋ねられた。私は「神は我々があるとかないとか言うものではなく、私達がそれによつてあるものです。」と答えた。そして後日私の考へを明にすると約束した。一体私達があるというのは何うゆうことであろうか。私達は初対面の人に自己紹介をする時に大い名刺を差出す。その名刺には住所、氏名、職業が記載されているのが通常である。この住所、氏名、職業とは如何なるものであろうか。住所とは私達の祖先が汗を流して拓いた土地である。そして住居を作った処である。氏名とは、はるかな過去より血の神秘に於いて連綿として一統を維持し来ったものである。限り無き栄辱を潜めるものである。職業は技術として、人間を人間ならしめたものとして、無限の過去より承継し来ったものである。私は鎌を商うものであるが、鎌は収穫器として石器時代以前より木の股になった処をうすくして、木や草の実などを採取したところに初まるであろうと言われている。私達が今手にもつ鎌は、幾万年の技術の承継と発展の成果である。

 私達が名刺を受け取って読むとき、はかり知れない時間の上に作られた一人の生命 を見ているのである。自己とはこの生死する身体としての生命を超えたものとして、無限の過去を孕むものとしてあるのである。この感情的自己を絶対に超えるものとして自己なのである。勿論この生死する身体なくして生命はない、生命なきところに自己はない。而して自己とは生死する身体を超えたものであるとは、生死するこの身体が生死するものを超えた無限なる時間を内にもつと考えられなければならない。永遠なるものを宿すと考えられなければならない。名刺は生死するこの我の名刺である。而してこの我を生死を超えたものとして呈示するのである。斯るものは如何なるものであろうか。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。生命は能く知られている如く、種的なるものと個的なるものとの綜合として成立する。種とは個を超えて個によって形相を維持してゆく力である。個とは種の要素として種の形相を実現してゆくものである。故に個は個に対するものとして集団し、出産、死亡によって連続する。人間は斯る生命の自覚として、種の方向に世界が形成され、個の方向にこの我があるのである。

 種と個とは単に共存するのではない。生死するものは永遠なるものではない、永遠なるものは生死するものではない。我々の身体は一つである。この一つの身体に於いて、生死するものと永遠なるものは各々の形相を実現せんとするのである。それは否 定し合うものである。私達の小さい頃、よく秋の稲田で雌に食われる雄かまきりを見たものである。背を反らして耐え乍ら、それでも抵抗することなく腹の半ば迄食われ た姿をみると、悲傷の思いに耐えられなかったものである。種が種を維持する為には、個への斯る惨虐を内包するのである。蜘蛛は無数の子を産む、それは殆んどを死なしめることによって、幾匹かを残すべく産むのである。それは死としての環境と闘い来った生命の摂理である。

 人間とは斯る生命の自覚的なるものである。世界とは常に我々に否定として迫って くるものである。而して斯る否定をとうして我々は生きるのである。我々は世界を作 ることによって生きるのである。世界を作るには努力しなければならない。努力する とは今の自己を否定してゆくことである。動物に於いても個の死が種属の生であった。我々は世界を作る為に官能的欲求を超えなければならないのである。暖衣飽食は人間の敵である。世界を作るとは身体的欲求的自己を殺すことによって、より大なる生命に生きることである。私は名刺に記載する自己とは斯かる自己であるとおもう。

 自覚とは自己が自己を見てゆくことである。種は個を超えて個を包むものとして、種の自覚とは人類の初めと終りを結ぶものでなければならない。私は言葉とは斯るものをもったものであると思う。私達は言葉によって自己を知る。それと共にスメル文字を解読することによって六千年前の人の生き態を知るのである。そこには全人類一なるものがあるのでなければならない。無限の過去と未来を包むものがあるのでなければならない。我々が種的、個的としてあるということは、斯るものとしてあるのでなければならない。名刺は永遠の上に記された文字としてこの我なのである。

 全人類一にして、我々に死を命じ、死を介して我々を甦らせるもの、その上にのみこの我があるもの、私はこれを神とするものである。眞、善、美とは永遠を実現したこの我に外ならないと思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」