何時であったか、ライオン藤本に般若心経について問われた事がある。また、ライオン林幸男が般若心経の本を取り出して、何時か解釈をしてくれと言われた事がある。書店の本棚にも最近心経の本がたくさん並んでいるように思う。並ぶと言う事は売れるという事であり、そこに一つの現代の要請があると言う証拠であると思う。もとより私は佛教について全くの門外漢である。而し佛教といえども人生如何に生くべきかの問より出でたものに外ならないと思う。以下私は私の立場から心経を考えて見たいと思う。
手を持ち、物を作る事によって人間が誕生したと言われる如く私達は働くものである。働く事によって自分を見出してゆくものである。私は刃物を商う者であるが、刃物を作るには先ず鍛冶工に入門し、技術を取得しなければならない。その技術と言うのは数百年、祖先が研鑽し伝え来ったものである。即ち世界を自分の内容とする事によって我々は働くものとなるのである。そして鉄の性質に随って切るという目的にいそしむのである。私達はここで生命が一つの不思議な相を現すのに気付くであろう。昔職人気質と言うのがあった。何よりも自分の技術を自慢するのである。悪い品が出来た時或いは出来そうな時は仕事をしないのである。食う米がなくてもしないのである。よい品を作るには鉄と火に自己を忘れなくてはならない。無心にならなければならない。そしてそれが自慢となるのである。自己を忘れ無心となる所に、他人に示すべき確固たる自己が現れるのである。発明家とか芸術家とかはこの極限に見られると言い得るであろう。彼等は寝食を忘れて自己をあらわとするのである。確信は単なる自己にあるのではなくして、世界にあるのである。世界を自己の内容とする事によって、自己が世界を持つ事によって私達は他者に自己を示す事が出来るのである。今は職人気質と言うのは消えて仕舞った、しかしよい腕前が生きる自信となり、世間の尊敬を受けるのに変わりはない。
睡眠欲、食欲、性欲は三大本能であると言われる。生命が自己を維持していく本源的欲求である。寝食を忘れると言う事はそれを否定する事であり、本源的欲求を超え た欲求を我々が持つと言う事である。そしてそれは人間が自分の世界を作ろうとする 欲求である。それはひとり芸術家、発明家にとどまらず、商人が早朝に仕入れに行き、役員が深夜に及ぶ会議を持つのも全てその現れである。シュバイツバー博士がアフリカの辺地へ行ったのも、僧が食を断って樹下石上に結跏趺坐を組むのもその現れである。
心経に色即是空と言う。私は色とは本能を基体とするこの個的身体であり、空とは我々がその中に生き、それを実現すべき世界であると考えるものである。それは相反 するものである。芸術家、発明家に端的に示される如く、世界は自己の実現の為に固 体の徹底的な否定を要求するものである。仮借なく私心を排撃するものである。而し固体は斯る世界の否定の要求を退けて自分が世界を制覇し、世界の王者とならんと するものである。自己が世界の全てであろうとする者である。色と空は絶対に相反す るのである。而して自己であろうとするのも自己であり、世界であろうとするのも自己である。人間はその両端に神とけものを持つと言われる所以である。私達の生とは 斯る相反するものの対抗緊張をもつものとして生きるのである。それは単に私達は世 界に面してそのように生きねばならないと言うのみではない、私達の身体が相反する ものを内包するのである。細胞がそうなのである。身体が矛盾的である故に人間は働 くのである。苦しみと悩みはあるのである。即と言うのはこの相反するものが一つで あると言う事である。而し相反するものは一つならざる事によって相反するものであ る。これが一つであるとは如何なる事であろうか。
自己が世界であろうとするこの我を根底より砕くものは死である。死は一切の栄華を露の命のはかなさとするものである。諸行無常と言う言葉がある。無限の世界の前に、死す身のはかなさを嘆いたものである。而し私達はパスカルも言う如く死を知るものである。私は前に我々はこの我を否定して世界に生きようとするものであると言った。世界に生きるとは既に述べた如く数百年の技術的過去を自己の内容とする事である。その技術的過去は亦限り無い技術的過去を持つのである。自然の生成をも技 術とすればそれは宇宙創成の始めまでさかのぼるのであろう。そしてそれは亦無限の未来へ伝えいくものである。世界に生きるとは永遠の一点として、永遠を内に持つと言う事である。知る事は働く事によって知る。かって日本経済新聞に品川嘉也教授が 「我々の脳髄は宇宙の自己認識である」と書いていた。私はその卓れた見解に感嘆したものである。知るとは永遠の鏡に映して見る事である。世界が世界を映すが故に我々は見た事もない豊臣秀吉の実在を信ずるのである。死を知るとは永遠の我が有限の我を映す事である。私は前に自己であろうとする我と、世界であろうとする我の矛盾的統一がこの我であると言った。世界であろうとする我に自己であろうとする我を映すのである。それを自己であろうとする我より見る時、それは悲嘆であるのである。而し我を永遠の一点とする時永遠は我々を超えたものでなければならない。達すべからざる深さでなければならない。而してこの達すべからざる深さが働く事によってこの我があるのである。其処に私達の回心が生まれるのである。色身としてのこの我を断じて世界としての空身に摂取されるのである。もとより色身を断ずると言っても色身がなくなるのではない。回心と言ってもこの我が消えるのではない。この我なくして世界はない。この我の苦しみ悩みが永遠の相として、世界の働きと悟る事である。世界となって働く事である。色即是空、空即是色とは諦観の論理ではなくして身を断じて働く創造の論理である。
真理と言うも世界に証されて真理である。正義の声と言うも世界の底から聞こえて来るのである。エチオピアの飢餓から、東南亜細亜の虐殺から聞こえて来るのである。美も世界を見る事から生まれるのである。通常世界は我々の外にあると思われている。近代科学は物とし世界を示現した。物によって外と世界は引き離された。而し世界は深くモーゼがエホバの声を聞いた如き、佛師が一刀三拝した如きものの働きがあるのである。永遠の過去より永遠の未来へ唯一のものが働くのである。我の来る所は永遠であり、帰る所は永遠である。それを現するのは身の働きである。それは不生不滅である。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」