も一度とふりかへり見る運動場の桜あえかなりではさようなら
艶もあり動きもある仲々の作品、結句別離の意識を絶えずもつものの悲しみが見えて好もしい。一首の構成もさらりとしている。
独り居の室のテレビも消しているこの静寂は今日のたまもの
至りつきたる境地をしずかに受容している好感のもてる作品、下句言いたい言葉だけに言ってはいけないのではないだろうか。
ニトロ含ませ夫の呼吸の治まるを見届け入院準備急げり
てきぱきとした処理は作者の知性の高さを示す。而し知的な面が前面に押出されて余情を失わしめているとおもう。嘆き、不安といったものへの傾斜が欲しい。
交錯せる電波もあらむ滑空の鳩たのしげに隊列を組む
仲々の着想、鳥に塒ありされど人の子の休むときなし、知恵の果実を喰べた人間は、輳する世界に苦しまなければならない。連想に遊び勝な作者にあって、内容のある一首。
家族等の手足となれぬ老もどかし己が身めぐり整へ置かむ
死は避け得ない宿命である。老いて死に面せんとする作者は、日常の行履の中にしずかに見ている。そのしずけさは作者の知性である。
肌寒き朝を辛夷白く咲く浮き出でて見ゆる塀の内側
すぐれた観察が見事な対象の切り取りとなっている。塀の内側は作者の内側である。 他の六首も破綻なく詠まれている。
大津王子の嘆きや吐ける二上の花しんしんと散りとゞまらぬ
優れた資性の故に、悲劇的な死をもたなければならなかった王子への作者の悲傷が、散りゆく桜と渾然一体になっている。二、三句作者の力量を示す作品である。
逆はぬ癖いつよりか性として会話乏しき老となりゆく
嘆きに似て二、三句嘆きを超えて、深い自己凝視の作品となっている。尼僧のような静かな諦観は作者の魅力である。
空と海見分け得ざる日暮れ易く家々早く灯りを点す
作者は自然と人間のみを見ているのではない。それによって生れる自己の心のかげりを見ているのである。抒情豊かな香気ある作品。
至難とゞ想ひし原稿書き終へし瞬間にして目の上を押す
結句の把握鋭い。安堵にゆるんだ気持が、忘れていた目の疲れを覚えたようすが見えるようである。躍動感のある作品。
生卵忌みおりし子が嫁と共に飯にかけてはかきこみており
嫁によって変質してゆく子への、淡い複雑な気持が過不足なく表わされている。
裏山に残し置きたる幼杉が延びて吾家の日差し遮る
幼杉の伸びは自分達の老であろう。それを日差し遮るという対象に捉えたのはよい。 時の移りを静かな目で受止めている。斯く静かな目で捉え得るということも一つのちからである。
靴履けぬ程に酔ひます吾が上司家に送れば亦送るる
平凡ではあるが、互が築いた信頼の強さが一首を捨てがたいものにしている。それは情念の深さであり、作者の深さである。
遅れたる人等を呼べばこだまする山の茶店に甘酒たのむ
こだまに日常の喧騒を離れた自然の静けさ、大きさを捉えたのはよい。甘酒たのむにも自然に同化している作者が見える。滋味ある作品。
電線の下に建てたる鯉のぼりゆるる尾先が児の手に届く
下句児童の生態がいきいきと想像されてたのしい。一、二句捨てたい。
永平寺へ再度来られぬと云ふ畑を時々待ちて階段めぐる
一期一会という言葉がある。出会いを大切にする作者の豊かさが見えてすがすがしい一首となっている。結句の階段めぐるは他の言葉の撰択が欲しい。例えば僧堂とか。
土を出でし草花の芽の浅黄色例へば三月の少年のすね
作者の才能を思わせる作品。ともすれば寄木細工となりそうなのを、よく溌剌とした生命の表現とならしめている。さわやかさを味う作品で、三月のすねとは何かと問うべきではない。抒情詩の新しい面を切り拓いたものとして、高く評価すべきである。
枕辺のあかりが作るわが影は巨人となりて服をつけゐる
私達は自己の底に限り無い未知なるものを潜めている。その故に人間は不安としての存在である。作者は影に見出でた我ならぬ我に束の間走った不安と怯えを捉えている。常自己を凝視する目は深い。結句の収束よく一首を引きしめて老練である。
ちるものを撩乱と咲かす桜木のあはれ渾身の生としあふぐ
表現とは対象に自己を見、自己に対象を見ることである。下句よく桜を自己とし、自己を桜となさしめている。下句作者の歌境の高さを示すものである。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」