外科希望の学生教育

 以前から外科の領域では若手医師を育もうという試みが全国的に行われています。こちらでは年に2回山陰外科集談会が行われ山陰地方の外科施設から発表されます。今回は昨年12月に島根大学医学部で開催され、一般演題以外に島根大学と鳥取大学の学生や研修医からなるセッションが組まれ、両大学の外科系教授で当日出席した6名で評価しました。その内容として、研究を行うに至った「背景」、対象の選び方、研究の方法と分析方法が妥当かどうか、結果とそれを支持、或いは相反する他の研究との比較、今後の診療にどのように役立てるか、など的確に発表できたかどうかを採点するのです。また幾つかの質問に適切に回答できたか、現役の医師でも難しいと思われます。このような試練の中、当消化器小児外科に研究室配属で来ていた医学部3年の学生が表彰されました。

3年生と言えばやっと基礎医学の講義が終わり臨床医学の講義が始まったばかりというところですが、「消化器癌の予後を左右するCachexia(悪液質)Index」というテーマで、実際の手術患者のデータを解析し、現役外科医よりも堂々と立派に発表していました。その他医局内で行った抄読会では「Science」という一流の雑誌から「大腸がん発生に関係する腸内細菌」についての論文を紹介してくれ、実験や研究解析の手法の説明も詳しく、私の学生時代と比べて遥かに優秀であると思われました。

2022年12月に島根大学医学部で行われた「山陰外科集談会」 優秀賞にて表彰される鳥取大学医学部3年生

芸術や医学に限らず、スポーツ、ビジネスなど色んな分野でこのような「若い力」を育成し、その成長を見届けるのは楽しく嬉しいものです。(2023.1)

記憶

「記憶」をどのように人間は獲得するのでしょうか。未だに明確には解明されていなのですが、コンピュータでは二進法「0」「1」に暗号化された情報がそれぞれ指定された場所に磁気や化合物の変化として永久に保存・記憶されます。ところが人間などの生体内ではこのようなメカニズムは無く「記憶物質」も発見されていません。アセチルコリンやノルアドレナリンなどの神経伝達物質がシナプスを介して情報を伝達することは分かっていますが、そこから記憶がどのように保存されるのか。おそらくシナプスが変化して情報の伝わり方を調節しているようですが、人間が誕生してから意識が自分の中にどのように発達してくるのかなども詳しくは分かりません。胎生期から脳は最も著しく発達し、生まれてからはいつの間にか自意識が芽生え、色んな行動や学習をするようになっているのですが・・・・・。(2022.12)

国際学会

 先日、大阪で国際学会があり久しぶりに出席しました。

 2020年からのコロナ禍のためこの3年間多くの学会はWEB会議となっていました。国内学会はまだ良いのですが、国際会議では時差があるためアメリカやヨーロッパなどでは昼間に開催されているのが、日本では早朝や夜間、ひどい時には深夜になることがあります。

 そういう時に英語を聞き取るのは大変で、ましてや質疑・応答など円滑に出来ようはずはありません。今回の内容は、小児外科における困難な病気の原因や新しい治療に関する話題が多く、3年間でかなり多くの進歩が感じられました。

 とりわけ新しい領域である分子生物学や再生医療を使った新たな治療法の開発などが目を引きました。学会発表においては演者がスライドを使って画像やビデオで実験の方法や結果について発表し、演者同志、或いは聴衆と討論するわけですが、発表手法によっては微妙な解釈の違いなどがあります。

 つまり発表する時は意気揚々としゃべっていても会場を離れて休憩中やレセプションの場などでFace to faceで話すと、「自信が持てない仮説」や「まだ確信的でない結果」など、微妙なニュアンスが伝わってくることがあります。

 やはり医学の進歩にはお互いに徹底的に討論し合う場が必要なのです。また同じような実験をやっていたり興味のある分野においてその権威者と親しくなってメールアドレスを交換して今後の研究に役立てることがあります。私は今回北米やヨーロッパ、イスラエルから来られていた、論文でしか名前を知らなかった数人の権威者と知り合いになりました。またカナダに留学中の日本人の若い医師から早速私宛に「非常に重要な指摘を頂きご指導いただいたことに感謝します」というメールを頂きました。こういうことがあると嬉しいですね!!

 コロナウイルス感染を広げないことは確かに重要なことですが、医学の世界では日進月歩の新たな展開があり、対面での学会は医療者や研究者にとっては極めて重要なことです。英国のチャーチル元首相は第二次世界大戦で最初英国が参戦しなかった根拠として、「目的と手段のバランスが重要である」と言っていました。また私の友人が毎年行っていた健診での内視鏡検査を昨年コロナ蔓延のために自粛したところ、この夏に食道がんが見つかり手術を受けました。幸い治癒切除が可能でしたが、毎年健診を行っていたら化学療法や手術からの回復など、もう少し楽であったかも知れません。

ハワイ現地でのコロナ感染対策

 ハワイ現地での感染対策については、私は1日3回の鼻うがいと飛行機内などではマスクを着用していましたが市内では殆どの人はやはりマスクをしていませんでした。呼吸がしにくく息苦しい、熱中症になりやすい以外に言葉が聞き取れない、表情が分からないなどの問題が指摘されており、少しだけ話したアメリカ人も「何故日本人はマスクを抵抗なくするのか」と不思議に語っていました。日本語は母音が強調されるため、マスク越しでも声が良く通りますが、英語などは子音が主になるため紙や布を通すと伝わりにくいのです。また欧米人は口から発する言葉とともに口許で感情を表現するのに対し、日本人は目で感情を表すと言います。よく小説などで契約が済んだ後「双方談笑し合っていたが、目だけは笑っていなかった」とは良く目にするところです。ANAの客室乗務員(CA)さんの顔は大きなマスクで覆われ、髪型や目元だけでは誰か判断できず常に胸元を視て名札を確認しましたが、私の視線はスレスレであったかも知れません。面(おもて)を使用した芸術、「能」を大成させた世阿弥は「風姿花伝」で「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」と言いましたが、隠していた方が価値があるのだという、日本人の感性を表しております。帰りの便の機内でビールの入ったコップを倒し、辺りにぶちまけてCAさんを呼んだ時には「良いですよ。大丈夫ですよ」とにこやかに言ってくれましたが、あの目は明らかに怒っていました。物事の本質が隠されることを「マスクされる」とも言い、良い意味にも悪い意味にもとられるようです。(2022.10)

  

マスク
能の面(おもて)(Wikipediaより)

文献 検索

 最近では何でもネット環境が発達し簡単に調べることができます。我々が文献を調べる時、昔は図書館に行って重たい書物を台に載せてコピー機まで運んでいましたが、今では机上のコンピューターで直近に出た雑誌を閲覧することができます(図)。鳥取大学消化器・小児外科教室では毎週抄読会を行っていますが、大学院生たちは「Nature」「Cell」などを競って紹介しており私は赴任当初から驚いております。また私と共同研究して頂いている「生化学教室」で行われる時にはあらかじめ読むJournalが紹介されるのですが、ある時事前に回ってきた「Nature」のURLをクリックすると原文とともに少し拙い「和訳」が出てきたのです。うちの大学院生が和訳を読んでいるかは知りませんが、携帯で簡単に電車の中でも一流雑誌が読めることは素晴らしいことです。若い人たちにどんどん良い論文を読んで書いていって欲しいものです。また、原稿を書く際にも以前は指導者に真っ赤に直されて返って来たものをまた1から手書きで直す必要がありました。かつて大阪大学第一外科教室生化研のM先生の論文指導は厳しいことで有名で30回以上の書き直しは当たり前と聞きました。今でも私は科研費の申請書などは20-30回くらい手直ししていますが、前の文章が残るので昔の研究者と比べると努力ははるかに小さいのです。(2022.10)

雑誌「Nature」最新号電子版。「Cell」「Science」とともに3大自然科学雑誌とされる

細胞の死

 今回細胞の死について考えたいと思います。細胞の死にはネクローシス(壊死)とアポトーシス(プログラム死)の2つがあります。まずネクローシスとは外的な要因によって細胞が受動的に崩壊するもので、虚血や低栄養、感染症、外傷、毒素など高度の障害により急激で制御不能な細胞死を指します。広範な部位に生じ最終的には周辺組織に炎症をひき起こします。これに対して、アポトーシスは遺伝子レベルで内在性にプログラムされた自滅命令にもとづくもので、散発的に生じ通常は短時間で終了。細胞内物質を分解する酵素が活性化します。語源は「木の葉が枯れ落ちる」から来ており炎症反応はなく制御された細胞死と言えます。おたまじゃくしの尾が取れて手足が生える、種々の器官の発生(図)、性周期によって子宮内膜が剥がれ落ちるなどもこれに当たります。個体が多数の細胞からなる1つの社会であるという見方をすれば、①細胞分裂とアポトーシスの協調によってバランスのとれた細胞数が維持される、②不要となった細胞を選択的に除去する、③細胞社会にとって好ましくない異常を来たした細胞を抹殺する役割を持っています。アポトーシス細胞などがマクロファージ(貪食細胞)に「私を見つけてください」「私を食べてください」信号(シグナル)を発して「自ら死亡して静かに埋葬される」ことを選択し、個体という細胞社会の秩序の維持に適応するのです。象は死期を感じると自ら死に場所を求めていくと言われますが、細胞死にもこのような機構がもともと備わっているのです。何と「健気(けなげ)な」細胞ではありませんか!(2022.9)

ニワトリ胚発生中の肢芽先端部。胎生初期には手足の先端部は「うちわ」のような形態をしているが(左)、後に指と指の間の部分がアポトーシスによって死滅することにより指が形成される(右)。

私のコロナウイルス水際対策:鼻うがい

 私はコロナウイルス感染がまん延してきた2020年当初より「鼻うがい」による「水際対策」を行って来ました。最初は毎日真面目にしていましたが、状況が緩和するとサボり気味になりました。しかし今年の7月頃から周りの知り合いが多く感染するようになると、最近では勤務中と帰宅後の2回きっちりするように心がけています。結果、今のところは明らかな感染には至っていないようです。我々が呼吸をするとき、激しい運動などで口呼吸に頼る以外、通常外界の空気を鼻から吸って鼻腔、咽頭、喉頭を経て肺に取り込みます。鼻呼吸により吸い込まれる空気にはウイルスや細菌、花粉や塵埃などの異物が多く含まれ、殆どが上咽頭から体内に取り込まれます(図)。上咽頭とはPCR検査の時に鼻の奥に突っ込まれて検体採取される、あの痛い嫌な部分のことです。喀痰などの飛沫、接触感染よりも空気(エアロゾル)感染が主な経路であることが分かってきたコロナウイルスは鼻腔から吸い込まれこの上咽頭での接触が感染のきっかけになります。ただ、たとえ陽性になった時でも上咽頭にウイルスが付着しているだけで、1-14日の間に身体に侵入して初めて発熱や喉の痛みなどの症状が出てきます。これらのことから、咳やくしゃみ、会話や呼吸などで放出される飛沫ではなく、空気に漂う細かい粒子は、容易に鼻腔から上咽頭に至るためこの部分を頻回に洗浄することが重要であると言うことができます。通常の喉のうがいだけでは不十分ということです。但し、実際に鼻に水を入れると、プールで水を吸い込んだ時やワサビや辛子を食したときのように鼻に「ツーン」とくることが想像され皆さん嫌がられるのですが、これは浸透圧の差から来るもので、生理食塩水のような濃い液では殆ど痛みや副作用はありません。私は「ハ〇ノ〇」というのを使っています。(2022.9)

鼻腔の解剖図
鼻うがい専用容器(小林製薬HP) 

新型コロナウイルス濃厚接触者

 先日、私は遂に「新型コロナウイルス濃厚接触者」に認定されてしまいました。

 認定と言っても「○○学会認定医」「△△認定看護師」などと異なり認定証もなく、メリットどころか犯罪者の烙印を押されたような印象があります。

 感染まん延以来当初より山陰地方の陽性者は少数を誇っていたのですが、7月に入ってから急増し何か嫌な予感はしていました。病院には小さなお子さんがいる看護師さんが多く勤務されており、そのうち1人が感染され全員濃厚接触者と認定され「早く家に帰って、ウロウロしないように」という命令が来ました。歯科受診など予定していた計画は全てキャンセル、この日予約していた4回目ワクチン接種も延期となりました。翌日PCR検査をして全員陰性が確認された後、夜になってようやく放免されたのです。最近のデータで、コロナウイルス陽性が確認された人との濃厚接触者のうち、いつも一緒にいる家族の約半数が陽性と判明するみたいですが、職場などでは陰性のことが多いようです。

 一般に手術においてはサージカルマスクの上にガウンのマスクをして対策をします(上図)。それで穿孔性腹膜炎で細菌だらけの腹部、消化管の手術や移植後でエプシュタイン・バーウイルス、サイトメガロウイルスに罹っている臓器の手術、時にエイズウイルスや肝炎ウイルス、RSウイルス肺炎を併発している時にも対処していますが、これで罹患したということは殆ど聞いたことはありません。これ以上対処するならN95マスク以上の防護マスクが必要になるでしょう(下図)。

 今回の検査や自宅待機なども「念のため」という理由が大きく、日本人が好む「念のため」に多くの労力が割かれており、必要な人に治療が及ばない、かなりの人が仕事に行けないという現実もあります。これを是正するために「必要が無かったら救急車を使わないように」「軽症者はなるべく病院に来ないで自宅で検査をしてください」或いは「濃厚接触者の認定をしない」など、代替案が出ています。(2022,8)

手術室の模様
防毒マスク

何故1つの細胞から色んな組織ができていくのか

 最初1つであった受精卵は細胞分裂を起こし(上図)、体細胞がそれぞれ決められた運命をたどって(プログラミング)色んな細胞、組織、器官に分化、発達していきます。つまり内胚葉からは肺や消化管、中胚葉からは心臓や筋肉、腎臓や赤血球、外胚葉からは皮膚、脳神経などが発生するのですが(中図)、この時最初からあるゲノムDNAの遺伝子は変更せず、後から起きる変化によって遺伝子が発現してそれぞれの細胞、組織に分化するわけです。これをエピジェネティクスといいます。ちょっと難しいですが、要するに最初受精卵が有するゲノムDNAは終生変わらないのに対し、少しだけ修飾されて(DNAのメチル化、ヒストンのアセチル化など)性質がかわっていくというものです(下図)。これによって様々な現象が理解できるようになった新しい分野です。(2022.8)

受精卵から卵割。(新発生学より)
体細胞分裂により三胚葉に分化していく
染色体を構成するゲノムDNAとエピジェネティク変化(仲野徹「エピジェネティクス」より)

音楽の訓練

 何故音楽家は年少から楽器を始める方が良いのか、について疑問が湧きました。一般に脳には神経細胞(ニューロン)があり情報の伝達と処理に特化した細胞と考えられ、それらが手を伸ばして連結してシナプスという回路を形成します。胎児期には脳の発達が大きく、複雑な回路網が出来上がっていきます。その後胎外に生まれると環境によって様々な刺激に遭遇するとその時に使われる回路は強く太くなりますが、使われない回路は消滅していき人間は出生後様々な世界に順応していくわけです。すなわち、英語圏で育った子供は英語を覚えて理解ししゃべり出しますが、日本語は全くわからないといった状況になり、ある人は小さい時からの訓練で超絶的なバイオリンを難なく弾けるようになる。ある人は空中に張られた細いロープの上を逆立ちで歩いたりするようになります。図に出生後の年令ごとの脳波の発達状況と脳重量の推移を示します。勿論指の関節が曲がりやすいといった身体的な柔軟性は考えられますが、いずれにしても胎児期からの延長として生後急激に脳が発達し、この増加は乳幼児期に極めて著しくこの時期の訓練が重要だということが分かります。中学生くらいからその速度はほぼプラトー(平坦)に達し成人になっても発達する余地は十分あるのですが、どうも梁さんや磯邉さんと私の違いは練習を真面目にしたか、サボり気味にいい加減にやっていたかにあるようです。(2022.7)

在胎12週時の胎児:殆どの器官が形成される時期であるが、脳の発達が急激である(ムーア発生学)

脳波の発達と脳重量の変化

Lindsleyによる脳波の周波数(点線…)と脳重量(実線―)、正常下限の脳波(点鎖線―-―)を示す。脳の発達は乳幼児期までが著しい。(馬場一雄:小児生理学)

演奏家医学

 クラシック音楽は演奏家によって再現され、我々はその演奏の時間と空間を共有するわけですが(私は一方的に聴いているだけです)、演奏家の抱える様々な身体的、精神的な苦労はあまり理解できていないのが現実と思われます。今回、そのような演奏家を取り巻く医学的な問題を取り上げてみたいと思います。まずピアノや弦楽器を扱う演奏家は手や肩などの運動器に関与する整形外科的、神経学的問題として、手の腱鞘炎、付着部炎、筋肉痛、関節痛、神経障害やフォーカル・ジストニア(意志に反して手が勝手に動いてしまう)が挙げられます。私は大学に入ってからバイオリンを始めたのですがしばらくすると頸椎ヘルニアを患い、神経ブロックや牽引療法などを長年必要とし、その後も長い手術後には首や腕が痛くて困りました。トランペットなどの金管楽器、クラリネット奏者では口唇の損傷や乾燥、歯科的問題が出てきます。声楽では声帯の炎症やポリープ、年令による声域の変化や発声障害が生じます。また全ての音楽家に共通するものにストレスに伴う突発性難聴、メニエール病、過大な音響による耳鼻科的問題や絶対音感のずれ、その他精神的な問題など合併症は数え切れません。ベートーベンが晩年に難聴になったのはおそらく耳硬化症といって鼓膜から伝わった音刺激を伝える内耳にある耳小骨のあぶみ骨と蝸牛管の卵円窓の付着部が骨化して動かなったことによるものですが、音楽との関係や明確な原因は分かりません。また同じ芸術家で画家のゴッホはゴーギャンとの共同生活が破綻し、その結果自分の耳を切り落とす「耳切事件」を起こしていますが、時代の先進をいく激しい芸術家に共通する問題かもしれません。バレエのダンサーはつま先で立って踊るので全体重による負担がピンポイント的に足の指にかかっており、疲労骨折や関節炎、靭帯損傷、アキレス腱の障害などが起こります。以前「ブラックスワン」という映画で主役のナタリー・ポートマン(映画「レオン」でデビューし「スターウオーズ」でアミダラ女王を演じた)がプレッシャーにより徐々に精神が崩壊するバレリーナを演じていましたが、その中でバレエシューズが血に滲んでいくという悲惨なシーンがありました。「1日練習を休めば自分に分かり、2日休めば教師に、3日休めば観衆に分かる」といわれるくらいシビアな世界に身を置いている演奏家は、このような体に不調をきたしても病院にいくと「医師に練習を休めと言われるだけ」と病院にかかりたくなくなり、ますます治療から遠ざかり不調を繰り返す、という悪循環が生まれてしまいます。(202.5)

頸椎に負担がかかるバイオリニスト(ウイキペディア)

つま先立ちで演技するバレリーナたち(「白鳥の湖」ウイキペディア)

 このような演奏家の立場に立った医療が10年以上前から欧米を中心に「演奏家医学Performing Artist Medicine」または「音楽家医学Musician’s Medicine」という学会が開かれており、国際的な医学雑誌「Medical Problems of Performing Artists」も刊行されています。本邦では2004年に「日本演奏家医学シンポジウム」という医療関係者と音楽関係者が一堂に会し演奏者の健康問題を議論する研究会が初めて開かれました。これは日本医事新報(No.4197号:29-31頁、2004年)で詳しく紹介されています(表1)。そして今年の4月から医療関係者と音楽関係者が組織的に議論する場が「日本演奏芸術医学研究会」として発足し、7月に研究会が開かれる予定で興味のある方は参加されたら如何でしょうか(ホームページ参照)。また実際の診療の場として東京女子医大で「音楽家専門外来」が開かれているようです。

留学中の病気

    NIH(米国国立衛生研究所)に留学中の福山医療センター消化器外科加藤卓也先生が、米国の医療事情で困った経験を述べられていたので、私も辛かった経験をお話します。私が留学していたピッツバーグは加藤先生がおられる東海岸のメリーランド州ベセスダからシカゴ方向の内陸部に少し入ったところにあります。先生の手記を読むと私が留学していた30年前と事情はそれほど変わっていないことに今さらながら驚きます。1例を挙げますと、私の長男が当時1才ちょっとでやっと歩き始めた頃に、手足口病にかかってしまったのです。この年代に多く、コクサッキーウイルスなどによる水疱の多発する感染症です。喉や口腔内の炎症がひどくかなり痛く、ミルクは勿論、ご飯(といってもパン食)が食べれないのです。私が勤めていたピッツバーグ小児病院に最初連れて行って知り合いの感染症小児科の医師に診てもらったのですが、キシロカインゼリーのような局所麻酔剤を投与するだけでした。なかなか飲み食いできるようにならず、1-2日後には脱水のため眼球が陥凹し、皮膚もかさかさし始めたのです。それで私が当直している夜に病棟に来させ、看護師さん達に抑えつけてもらってNGチューブ(鼻から胃の中まで通す栄養カテーテル)を入れて、リンゴジュースやミルクなどを注入しやっと改善しました。この時は正規のルートを通さず、勝手に病棟の処置室でチューブや注射器などを使い、看護師さん達に相談すると「Toshi。Never Mind。We saved your kid。(トシさん。気にせんでええよ。赤ちゃんが助かったから、それでええやん)」と言ってくれ、医療費を払わずにヤミ診療をしたというものです。というか、看護師さん達の精算など手続きが邪魔くさかっただけのようでしたが(笑笑)。 加藤先生は同じアパートに耳鼻科の日本人医師が耳鏡を持っておられ助かったと書いておられますが、私は向こうのライセンス番号を持っていたので、病院のPriscription(処方箋)に薬の名前(例えばTylenol:解熱鎮痛薬アセトアミノフェン)とサインをして家で発行していました。ピッツバーグに住んでいる日本人の駐在員さん(SONYやSharpなど)や子供たちが日本人学校で知り合ったご家族の方がひっきりなしに、夜や休日には私のところに来ておられました。病院であればひょっとしたら処方作成料がもらえたかもしれませんが、代りに鹿児島の芋焼酎や青森の地酒、手作りのお寿司を頂き今となってはその方が数段良かったと思います。ある時名前は言えませんが有名な彫刻家が夜中に急にお腹が痛くなってのたうち回っていると電話があり、駆け付けてみると腹部全体が板状に硬く反跳痛があり(腹膜刺激症状)、急いで大学病院のERで知り合いのレジデントにレントゲンを撮ってもらうと、フリーエアーがあり十二指腸潰瘍の穿孔で緊急手術をしてもらったこともあります。個展の前でストレスが高じておられたようですが、ご自慢の彫刻作品を頂き今も大阪の家に置いております。(2022.3)

2022年の大学入試共通テスト

 2022年1月に全国で大学入試共通テストが行われ、鳥取大学でも雪の中試験監督に教官が何人か借りだされていました。東京大学の試験会場では名古屋の私立T高校2年生が、他の人を切りつけるという事件が起こりましたが、犯人は医学部を目指しているとのことです。翌日試験速報が新聞掲載されており、実際に出題された生物基礎の試験問題を見て吃驚しました。図のように光学式血中酸素飽和度計(コロナ肺炎で最近有名になったパルスオキシメーター)や酸素解離曲線を扱った問題が出ていたのです。その他、植物からのDNAやRNA量の測定、地球温暖化、細菌感染の防御や皮膚移植の拒絶反応など多岐にわたり、実際の実験方法を問う問題も出ていました。医学部の学生でも解けないと思われるものもみられます。多くの医学部入試の理科では、物理、化学、生物の中から2科目を選択しますが、生物は高得点を狙えないので、かなりの受験生は選択しません。私も実は物理や化学を選んだのですが、理由として解答をシンプルに割り出すことが出来るため勉強し易かった印象があります。物理学や数学ではまず基本的な理論と法則があり、それにのっとって色んな事象を解決するというものですが、生物学は「生命現象」を研究する分野で、まず詳細な観察に基づいて基礎となる事象を明らかにすることが求められます。実際私たちは医学部では「発生学」「解剖学」「病理学」などの基礎医学分野で人体の発生現象や細胞の形態などを勉強し、臨床医学では病気の診断法や治療など膨大な情報を吸収して「医学体系」を構築することになっています。ところが、受験勉強でゼロかイチかをきっちり判別する方法に慣れていた私たちは最初曖昧とも思われる「生物学」には大きな違和感を覚えたものです。確か大学医学部1年生の時に「生物学序説」という授業があり、最初の試験で「体内環境のホメオスタシス(恒常性)」や「生態系」等に関する問いでしたが、私も含めて同級生の成績は惨憺たるものでした。進化論の権威、分子古生物学者更科功氏は、東京大学教養学部に在籍中同級生が「数学や物理は良いけど、生物学ってアホみたいだな」と言っていたことを著書で書いておられます。我々の頃は高校授業で理科には物理、化学、生物、地学全てが必修でしたが現在では必須ではない高校もあります。私の大学の同級生で現在大阪大学医学部病理学教授をしている仲野徹先生は著書の中で「一部の超エリート進学校では生物の授業を受けない生徒もいるとのことで、生物学は医学の基本でありますがこのような状況で医学部を目指して来る学生が多いのはこれで良いのでしょうか。このような学生が医学部に入って興味が持てるのでしょうか。」と嘆いています。

2022年度大学入試共通テスト生物基礎から

 また、先の事件に関して思うことですが、実際の医療現場では多職種の人とのチーム医療が大きなウエイトを占め、医師の資質形成に関して人とのコミュニケーション能力を学生生活で養うことが重要となります。大学医学部に入る前の高校生活や入学してからの「人との付き合い」が大事であったと今さらながらに感じています。大学受験時代に私が神戸の予備校に通っていたころは、予備校で知り合ったN高校やK学院高校の気の合う5人の友人達と模擬試験の後食事に行って、将来の夢や現在の悩みなど語ったもので、うち3人は医師になっておりいまだに交流があります。大学に入ってもクラブや実習仲間との交流が良かったと思います。ところが今や高校生活はコロナ対策で人間関係が分断され、授業はWEBを通して行われ直接の友達との触れ合いは出来ない状況です。もっと初期に人格形成を行うべき小学校や幼稚園では「おしゃべりはダメ」など、あまりにも非生物のウイルスを攻略することのみを重視し、現在は人との交流を摘み取るような対策が公然と受け入れられています。このような人的な交流の無い社会で個々人は試験の成績、偏差値のみを重視し、偏差値が将来の全てを支配すると考えるようになり、絶望につながる衝動と自分を抑えきれなかった上記の高校2年生も、ある意味コロナ禍の犠牲者といえます。(2022.2)

医学生物学研究の手法

 医学研究の手法について簡単に触れます。薬の効果や治療の結果が有意であるかどうか、信頼するに足りるかどうかの「テスト」方法です。図は「究極の食事」の著者カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)内科学助教授の津川友介先生によるエビデンス(科学的根拠)のレベルを示すものです。最も信頼度が高いのはメタアナリシスという文献のシステマティックレビューにて解析したものです。この手法は最近の薬剤師国家試験にも出題されており、「ある患者さんに薬剤を投与するのに、どれが最も有効かを論文検索によって調査する」のに応用することへの出題です(図)。この解析法の元となるデータは、研究方法の正確さや妥当性など、何人かの専門家によって査読された医学系雑誌に掲載された論文を多数集積して取りまとめ、特殊な統計的手法を使った研究内容になります。これに対し最も信頼性の薄いのが個人の体験談や専門家であっても患者さんのデータの統計学的解析に基づかない意見で客観的な研究ではないものです。一般に臨床試験ではまず仮説を立て、データを集積して統計学的に有意差を検定します。例えば「県境を越えた人の移動はコロナ感染のリスクとなる」という仮説を証明するためにはある一定期間内に十分な人数を集め①県境を越えて移動した群と②越えていない群に分けて、感染発症や検査陽性率の差を検定して行われます。2群をくじ引きなどによりあらかじめランダムに割り当てるのが「ランダム化試験」で、ある治療をしているグループを沢山集め、その結果を論じるだけの「観察研究」では他の因子が一定にそろっていないため患者さんのデータに偏りが生じ本当の効果が分かりにくいのです。特定の国や集団による偏りを削除するために複数個の研究結果をまとめたメタアナリシスが最も信頼度が高くなります。また比較試験では比較する元のデータ(対照群)が直近のものやかなり以前のものでは、例えば「水曜日としては過去最高である」とか、ピーク時を超えた時点と比べ「感染者数が10倍以上になっている」など正確な変動が分かりにくいものがあります。さらに得られたデータを故意に操作する「恣意性」なども気を付けなくてはいけなく、街頭インタビューなどで極端な例だけをピックアップしたり順番を変えたりなど、やろうと思えば簡単に操作できるところに落とし穴があります。 最後に、「新型コロナウイルス感染力の強さと毒性」について、ウイルスは自分の遺伝子を残す(細胞や核を持つ生物である細菌と異なりウイルスはDNAかRNAのみを持つ原始的な非生物)ことが最大の使命であります。そのために毒性を下げて感染力を高めて世界中に広がることを目論んでいるというのが本当のところかなという気がしますが、感染力が高いからと言って毒性が弱いとも言えないようです。絵の具の一滴を水に落とすと、勢いよく分散していきますが、最後は薄くなって分からなくなるように、コロナの脅威も消えていくことを祈りたいです。(2022.2)

津川友介氏による「エビデンスの階層」

第99回薬剤師国家試験問題:メタアナリシスの結果を示すフォレストプロットに関する出題

感染症文学序説

 小説は人生の喜び、愛、欲望、憎しみ、悲しみ、死、戦争、革命、事件などあらゆる事柄をテーマにしておりますが、有吉佐和子の「恍惚の人」のように認知症を扱った医学的な小説もあります。前月号でリーデンローズ館長の作田忠司氏が「音楽小説」のことを書いておられたので医学の中でも感染症に関する面白い本が出たので紹介します。今の流行に因み2021年5月に発行された「感染症文学序説」という本で、著者は国文学者・民俗学者で東京学芸大学教授の「石井正巳」氏です。

 多くの文豪たちが「感染症」を重大なテーマとして書き残していますが、時代とともに作品は埋没し評価も一定ではないとし、石井氏は「それでもやはり、感染症の実態をリアルに伝えるのは公的な統計や記録ではなく、文学ではないかという思いを深くする。

 文学は確かに虚構に過ぎないが、月並みな言い方をすればそこにこそ真実があると言ってみたい。」と序文で述べています。

 私は読んだことのない原著がありますので、本文中からの引用として紹介させていただきます。

 まず1918-20年頃新型コロナ以上に多くの死者を出したスペイン風邪については、島村抱月が無くなり、その恋人の女優松井須磨子が後追い自殺をしましたが(渡辺淳一「女優」)、この時前述の与謝野晶子は感染がかなり拡大してから対策を立てた学校や政府の遅い対応を「日本人の目前主義、便宜主義」と鋭く批判しています(与謝野晶子「感冒の床から」)。

 第1子をスペイン風邪で無くしていた志賀直哉は小説「流行感冒」にて冒頭「最初の児が死んだので私達には妙に憶病が浸み込んだ」から始まり、感染した主人公(志賀直哉自身)は感染経路や症状の描写、家庭内感染に至る様子などを細かく書き、感染症予防に過敏な人と全く気にしない人がいることを強調しています。菊池寛は短編「マスク」で「自分は世間や時候の手前やり兼ねているが、マスクの着用をしている人が勇敢である」など、社会の状況と人間の心理の関係、予防行為の表象であるマスクに対する感受性をリアルに描いています。

 芥川龍之介もスペイン風邪にかかりしかも重症であったようですが、「コレラと漱石の話」で漱石はある日の明け方嘔吐下痢が起こり、コレラに違いないと飛び起きたが、結局はコレラの予防のために豆を食べすぎたことによるものだったそうです。芥川もコレラに感染するのを怖がり予防策として煮たものやレモン水ばかり飲んでいたのですが、「臆病」と揶揄されるのに対し「臆病は文明人のみ持っている美徳である。」と反論しています。

 尾崎紅葉は「青葡萄」でコレラではないかと怯える人間の心理をうまく表現し、弟子が水を嘔吐する音を聞かれ密告されることを危惧し「自分は伝染病を隠蔽するごとき卑怯の男ではないが、吐いただけでコレラというわけではない。」として「コレラの疑いありときっぱり言われるよりは、腸胃加答児(カタル)と曖昧に濁された方が虚妄(うそ)でもうれしい。

 それが人情(ひとごころ)である。」と率直に述べています。この時から存在していた「自粛警察」の恐怖が如実に想像されます。また断定的なことを言うのを避け、他の医師や機関に責任転嫁する医師のことも描かれています。

 文学作品で最も多く取り上げられる感染症は「結核」で、亡くなった文豪は二葉亭四迷、正岡子規、樋口一葉、国木田独歩、石川啄木、宮沢賢治、梶井基次郎、堀辰雄など、枚挙にいとまがありません。細井和喜蔵「女工哀史」で劣悪な労働環境が結核の原因であったこと、死期が迫る苦しみを正岡子規は「病床六尺」で鬼気迫る文章にて遂に「貪欲な知識欲が生きる力になった」と述べ、石川啄木は「一握の砂」で貧困・戦争・暴力とともに結核に対する人間の無力さを淡々と描写しています。

 同じく感染することへの絶望感は内田百聞が「疱瘡神」(天然痘)「虎列刺」(コレラ)にて、感染による生命の恐怖だけでなく世間の噂によるダメージが大きな要因であることを、目がゆき届いた文章で記述されています。

 このように隅々まで行き届いた文学表現は医学書より感染症などの実態の多くを語っているように思われます。(2022.1)

体温調節

 急に寒くなりました。山陰では季節の変わるのが早く10月末からすでにストーブを出しております。

 今回熱の産生や体温調節について考えたいと思います。寒い環境でじっとしていると「ふるえ」が起こります。つまり骨格筋が細かい周期で律動的に収縮する現象でこれにより熱が発生して体温が保持されるのです。しかし冬眠をする動物などではふるえによらない基礎代謝量を増加させる熱産生があり、特に褐色脂肪細胞がその役割を果たし人間では新生児でのみこれをもっています。肥満などで中性脂肪をため込む白色脂肪組織とは異なり、褐色脂肪細胞は両肩甲骨の間、頸部、大動脈周囲に多く、ミトコンドリアに富み、血管が豊富、交感神経支配が極めて密であり、交感神経系の興奮によりノルアドレナリンが放出され脂肪酸が代謝されて熱を産生します(図)。赤ちゃんは自由に動けないので、いわば天然ダウンベストをまとっているわけです。が、これでは十分ではなく生まれて間もない新生児に手術をした後などは保育器で体温保持を行います(図)。先日NHK、Eテレビ番組「ダーウインが来た」で「カワイイ!動物赤ちゃん大集合SP」を放映しており、西表山猫やハリネズミの親子などを見ていて、同じ遺伝子を持つとここまでフェノタイプ(姿や形)がそっくりになり、親が子を、子が親を識別する能力ができるものだと感心しました。赤ちゃんは親の庇護を受けないと到底生きていくことができず、栄養、外敵からの保護、保温などすべて親に依存し、他からの助けが必須なのです。(2021.12)

白色脂肪細胞と褐色脂肪細胞

体温保持のための新生児保育器、ラジアントウオーマー
 

地球温暖化

 2021年10月初旬。寒いはずの山陰でも30度を超える日が続いております。地球温暖化が影響するのかとぼんやりと考えていたら、ノーベル物理学賞を取られた真鍋淑郎教授のニュースが飛び込んできて、何とその仕事は「温暖化対策につながる気候変動のシミュレーションとなる予測モデルを物理学的な手法を用いて行った」というものらしいです。詳しい内容は理解できませんが、当初世界初の汎用コンピュータを用いて気象を予測したというもので、画期的であったことは専門外の私でも容易に想像できます(図)。

2021年ノーベル物理学賞を受賞された真鍋淑郎先生(Wikipediaより)

 地球温暖化とは太陽からの熱エネルギーを地表から逃がさない二酸化炭素などの温室効果ガスが、石油や石炭などの燃料の大量燃焼により増え続け、地表での熱が放出されないで気温が上昇することです。その影響は①海面の上昇、②気象災害の頻発、③健康被害、④生態系の破壊などが挙げられます(図2)。このうち③健康被害について、最も分かりやすい例では「熱中症」があります。脱水症状や付随する腎機能低下、心肺疾患、皮膚がん、アレルギ―、熱帯感染症、精神衛生上の異常、妊娠合併症も増えるとされています。

全国地球温暖化防止活動推進センターHPより

 真鍋先生は愛媛県の医師の家庭に生まれ一旦今の大阪市立大学医学部に入学されたようですが、ご自身の言葉を借りれば「理科の実験で失敗し、緊急時に頭に血が上る性格だから医師には向かない」と判断されたということです。私の周りには「緊急時に頭に血が上る」医師は数え切れない程おりますが(特に外科医に抜きんでて多い)それぞれに立派に活躍されていますので、真鍋先生のこの判断が正しかったかどうか私の口からは何とも言えません。が、純粋な学問である「地球物理学」や「気象学」の方により興味があったのでしょうね。当時の理系精鋭が集まる東京大学理学部大学院で理学博士号を取得されたのですが、日本では進路に恵まれることは少なくアメリカ国立気象局からプリンストン高等研究所(アルバート・アインシュタインやロバート・オッペンハイマーが在籍していた)に招聘されました。この時に呼ばれたのはジョセフ・スマゴリンスキー教授で、アメリカでIBM社製の最新コンピュータを自由に使い潤沢な資金で研究に没頭されました。その後一旦日本に帰国され「地球温暖化予測研究」の主任研究員に就任されましたが、他の研究機関との共同研究が科学技術庁の官僚から難色を示され、日本の縦割り行政が学術研究を阻害していることを不満に思い再度渡米しプリンストン大学に戻られています。当時「頭脳流出」として報じられたようです。この時の年令は何と70才。ノーベル賞を受賞された今年は90才。かつて伊能忠敬は55才で現職を定年退職した後、全国行脚をして亡くなるまでの17年間に「日本地図作製」という偉業を達成されました(図3)。偉人と呼ばれる人はこのあたりの活躍がすごいですね!!

伊能忠敬氏の伝記(講談社文庫表紙)

 真鍋先生は日本に帰らずにアメリカ国籍を取得した理由として、日本人は調和を重んじ周りが何を考えるかを気にして他人に迷惑をかけずにうまく付き合うことが最も重要で「アメリカ人は他人がどう受け止めようが気にせず自分の思う通りのことをやる。私は調和に生きる人間ではない。」とジョークにもとれる口調でマスコミからのインタビューに答えておられました。日本人の1番の弱点は「世間体」であるとよく指摘されます。つまり周囲の目を意識させる言葉や態度をとられるとその目を遠ざけることに意識が向けられます。「我々の県内では絶対にクラスターを発生させないように」など「不必要なまでに規制をかけようとする」のは1つの例です。ただ、アメリカでの自己主張に裏打ちされる競争世界はかなり熾烈であり、「周りが考えてくれる」日本が最も居心地良いと思っている私なんかはやはり「小物」なんでしょうね。それとアメリカでは後進に対する「教育」「指導」意識がしっかりしており、自分らも苦労してきた分後輩には惜しげもなく手を差し伸べる姿は我々日本人も見習うべき点であります。事実真鍋先生のアメリカでの指導者であったスマゴリンスキー教授もソ連のボグロム(大虐殺)を逃れてアメリカにやってきた科学者であったようです。(2021.11)

低出生体重児

2 021年9月10日に厚生労働省より発表された2020年の人口動態統計(確定数)によれば、日本の出生数は過去最低の84万835人(前年より2.8%減)でありました。また、新型コロナ感染の流行によって妊娠を先送りするカップルや経済的困窮におかれた若い世代の増加、外出を規制する政府や自治体の政策により結婚を希望する人たちの出会いの場が少なくなっているため、2021年以降の出生数はさらに減少することが予想されます。一方、日本小児外科学会の集計によれば、人口の微増に対し出生数は減少していますが、新生児期に手術を受ける患児の数は確実に増加しているという事実が示されております(図)。この理由として、職業を持つ女性が多くなったことなどで結婚や妊娠年齢が高くなり、高齢妊娠やハイリスク出産が増えているため、早産の傾向となり低出生体重児が多くなっていることが指摘されています。過度のダイエットによる「痩せ」やストレス、喫煙もリスク因子になります。

 人口(橙色■)、出生数(緑●)、新生児外科症例数(青■)の推移 (日本小児外科学会全国集計)

 低出生体重児に多い小児外科疾患として消化管穿孔があげられ、これが予後を最も不良にしております。口から食べ小腸の管腔内に入った栄養素(例、グルコース)にはそれぞれ特異的な輸送蛋白(例、Na依存性グルコース輸送体)が上皮細胞膜に存在し能動的に細胞内に取り込み、その後血液中に運ばれます。これに対し小腸内にいる細菌や異物は、腸管上皮のバリアによって血中に入るのを妨げられる機構があり、その1つとして上皮細胞間の間隙にあるタイトジャンクション(密着結合)があげられます(図)。隣り合う1つ1つの細胞自体を密着させるのがタイトジャンクションにおける接着因子と呼ばれる「クローデイン」になります。つまり小腸内には栄養素と細菌叢や異物など、良いものと悪いものが「玉石混交」状態で混在し、生体はその分子をうまく見分け、栄養素を取り入れ不要な物質をシャットダウンする機構が出来ているわけです。ところが、最近の研究によると、低出生体重児では、低酸素症や低血糖、酸化ストレス等の「小胞体ストレス」のためにこのクローデインが正常に機能せず、タイトジャンクションに穴が開いたり安定化するのが妨げられ、結果的にバリア機能が破綻して小腸粘膜の透過性が高まって細菌叢が血中に入り全身感染に至るとされています(FASEB journal, 2021)。

小腸上皮細胞ではグルコースなどの栄養素は細胞膜にある特異的な輸送蛋白を介して吸収されるが、腸内細菌叢や異物はタイトジャンクション(密着結合)などにより血中に侵入するのが防御されている。「細胞の分子生物学」より

 出生動向における上記の日本の状況に関する某新聞の記事によると、イスラエルにおける出生数は多く、1人の女性が生涯に産む子供の数である、合計特殊出生率は過去40年3.0とほぼ一定で世界的に最も高く、2位のメキシコ(2.1)以下を大きく離しています(日本は1.36)。この理由として、ユダヤ民族は長い間離散していた歴史があること、ナチスやソ連での大量虐殺の経験などで、自分と類似のDNAを持つ家族を残そうとする「長年培われた民族の知恵」であるとの指摘があります。またユダヤ系親族の結束の強さで、子供の世話を両親のみに集中するのではなくお互いに助け合うという、昔の日本のように「地域の年寄りが子供たちを集めて遊んだり教育をする」コミュニテイーが基本にあるようです。また新型コロナワクチンを開発したファイザー製薬のアルバート・ブーラCEOは、ナチスによるホロコーストを生き延びた両親を持つということですが、両親からはナチスに対する怒りや復讐心を持つのではなく、どうやって生き延びることを考えたか、その幸運と人生の喜びを常に教えられていたと言っています。失った機能を嘆くのではなく、残った器官や臓器を最大限活用して他の人にできないことにチャレンジするパラリンピックの選手の姿勢に通じるものがあると思われます。(2021.10)

東京オリンピック・パラリンピック

 2021年夏、東京オリンピック・パラリンピックを観ていて、医療者の立場から幾つか感動する場面がありました。まず急性リンパ性白血病を克服してオリンピックに出場した水泳の池江璃花子選手。骨肉腫にて足を切断し義足にてトライアスロンに出場した谷真海選手。小児期におこる癌は成人に比べ極めて稀ですが、白血病や骨肉腫を扱った山口百恵、三浦友和主演のテレビドラマ「赤い疑惑」や阪大病院がモデルとなった吉永小百合主演の映画「愛と死をみつめて」が放映された半世紀前では、致死率が高い悲惨な病気という印象が強かったことと思います。しかしその後、化学療法や骨髄移植、幹細胞移植などの医療が進歩し、今では小児がんの70%は完治する時代になっておりますが、治療中の身体への負担と抗がん剤の副作用との戦いは熾烈なもので、これを克服して大会に臨んだ選手たちの努力には敬服したします。また、先天性四肢欠損症による運動機能障害の部でいくつものメダルを取った水泳の鈴木孝幸選手、戦争の爆撃で四肢を失ったイラクの選手など。視覚障害のサッカー選手は音の出るボールを頼りにプレーをします。音楽の世界では先天性小眼球症で聴覚だけで楽譜を暗記していたピアニストの辻井伸行さんは若干20歳の時にアメリカ、クライバーン音楽祭で優勝されました。我々小児外科医は新生児~小児期に器官や臓器の形成不全のために手術を行いますが、その後の患児の成長や発達能力の凄まじさに目を見張るものがあり、逆に彼らから「元気」をもらい小児外科医のモチベーションになります。さらにパラリンピックで活躍する選手を見ていて、失った機能を他の器官・臓器で代償する人間の能力は計り知れないものがあることが実感できます。いまだに水泳のクロールが全くできない私は、彼らの爪の垢でも煎じて飲みたいです。(2021.9)

京大 おどろきのウイルス学講義

 新型コロナウイルスはなかなかその勢いを止めてくれず、ウイルスは昨今一番の悪者にされていますが、病気を起こすウイルスはごく一部で殆どは非病原性ウイルスで中には哺乳類の進化を促進した有用ウイルスも多く存在し、我々にとって必要なものであるという趣旨の本が最近出版されたので紹介したいと思います。2021年4月に獣医師で京都大学ウイルス・再生医学研究所の宮沢孝幸准教授によるPHP新書「京大 おどろきのウイルス学講義」です(図)。地球上に酸素が過剰であった時代に酸素を消費してエネルギー源であるATPを産生していた細菌を、多くの生物の祖先である原始真核細胞が後にミトコンドリアとして内部に取り込みますが、同じように哺乳類がウイルスの1種であるレトロウイルスの機能を拝借したというのです。

 生物の細胞の増殖は、核の中にあるDNA上の情報がメッセンジャーRNAに写し取られ(転写)、切り取られた(スプライシング)ものから生存に必要な蛋白質が合成(翻訳)されます。これをセントラルドグマ(中心教義)と言い、全ての細胞に共通する掟(おきて)になります。ウイルスにはDNAかRNAしか持たない原始的な寄生体で、このうちレトロウイルスはRNAを持っているのですが、細胞内に入るときにセントラルドグマの掟を破って自分のRNAを核内に持ち込みDNAに変換(逆転写)して、細胞のゲノムDNAに割り込んで自分のDNAを付け加え設計図自体を書き換えてしまうという厄介なウイルスで、エイズをひき起こすHIVや成人T細胞白血病のHTLVが含まれます。その後自分が書き換えた部分だけをコピーして工場である細胞質内のリボソームに運んで蛋白質を作り増殖していくのです(図)。ウイルスは自分自身では増殖できず宿主の細胞内に入って常に感染し続けないと生き残れないのですが、生体にはウイルスに対する免疫を作ってしまうので変異を繰り返さないと生き残れないのです。単に複製ミスによる変異だけでなく、別のウイルスとの組み換え、文節の交換、まったく別系統のウイルスの遺伝子や宿主の遺伝子を拝借して生き残り、筆者はウイルスへの思い入れがあるのか、原文を引用すると「ウイルスも生き残りに必死なんです」ということです。

京大 おどろきのウイルス学講義 より

 本書の最初の方の章で新型ウイルスは様々な動物の細胞に数多く寄生・棲息しており、無防備なところからいきなりやってくるという警告が述べられているのですが、後半からはウイルスが人間などの哺乳類に貢献した明るい話題にうつり、宮沢先生の研究業績が紹介されます。哺乳類の胎盤形成にレトロウイルスが関与していたというものです。2000年にイギリスの科学雑誌Naure に、「シンシチン1」というレトロウイルス由来の細胞融合蛋白質が人間の胎盤形成に関与していることが発表されています。さらに胎児の細胞には父親の遺伝子が含まれるため、母親の細胞が異物として攻撃するのですが、もう一つの蛋白質「シンシチン2」が免疫抑制性の配列を含んでいることが分かり、免疫抑制作用を有しているというのです。これらは過去に宿主の生殖細胞に感染して固定化するとその配偶子から発生した全ての体細胞に入り込むという、内在性レトロウイルスに含まれます。宮沢先生らは牛の胎盤形成に使われる因子を発見し、Fematrin-1と名付けられました(図)。これは2500万年くらい前に牛に感染したレトロウイルス由来のBERV-1がDNA遺伝子を書き換えたものです。彼らの説によると、通常細胞が分裂する時には1個の核が分裂して2個の細胞に分かれますが、牛の場合胎児の栄養膜細胞が着床する時には、核が2個になったのに細胞は分裂しないで2核細胞(BMC)になるものがあり、母親の細胞(子宮内膜細胞)と融合して3核細胞(TMC)になるのです。これにより母親の子宮壁側に移動することが出来妊娠関連ホルモンを母親の血中に効率よく届け「私はあなたの子供ですよ。守ってね。」というシグナルを出すというものです。

宮沢ら、Nature. com, 2013より

 その他、皮膚やその他進化に関与する内在性レトロウイルス以外にも、ヘルペスウイルスのある種のものは特定の感染や病気にかかりにくいといったこと、癌に抵抗するウイルスや癌抑制性マイクロRNAを発するウイルスなど、遺伝子操作を駆使して治療につなげようとされております。

 病原性ウイルス、有用性ウイルス、いずれにも負けたくないものです。(2021.9)