乙「先日君が神についての考えを少し進め得たとおもうと言っていたので、娘にも聞かしてやりたいとおもって連れて来たのだが」
甲「うん、進めたというより幾分整理が出来たと言った方が妥当かも知れないがね。前回は混沌とした想念を言葉にするのが精一杯だったんだ。読み返してみて根底になるものが出来ていないのに気が付いたのだ。神を超越的なものに見ながら、この我の自覚の上に立っていたことに気がついたのだ。あれではこの我が成立することが出来ないし、絶対の出で来ったものを明らかにすることが出来ないとおもうんだ。いきおい一つ一つがこま切れのようになったと思うんだ。その根底へ一歩でも進め得たように思うんだ」
乙「一歩を進め得たということは、どんな展開をもち得たということかね」
甲「具体的になったということだろうね」
乙「では一つ解り易くたのむよ」
甲「僕はね、我々の問いは必竟自己とは何かにあるとおもうんだ。数を問い、美を問うのも自己との関りに於て問うのだと思うのだ。神を問うのも、神と自己との関りに於て問うと思うのだ。具体的とは自己は生きるものとして、自己の生の姿に関ってくること だとおもうのだ。対象と自己が近付いてくる程具体的であるということだと思うのだ。そして言葉に於て一体となるということが、完全なる説明であるとおもうんだ」
乙「それで近付いたのかね」
甲「いや近付けてみたいと思ったのだ。何しろこの問題は僕が解ける問題ではなくして、人類が言葉をもってから問い続けられ、恐らく向後も問い続けられるであろう問題だからね。唯僕はこう思うとしか答えられないのではないかとおもうのだ。そしてその言葉が今迄人類が問うて来たものをどれだけ内容としているか、そこに価値の決定があるとおもうんだ。勿論これは一般論で、まだ五里霧中としか言えないね。併しいい機会だから出来るだけ近付けた答を出すように努力をしたいとおもうよ」
乙、娘に「お前から聞いてごらん」
娘「それでは私が疑問に思っていることを御聞きしたいとおもいます。先ずその初めと して神とは何かということを御伺いしたいのですが」
甲「大変難しい問題ですね、これが解れば恐らく神の問題の大半が解決されたということではないでしょうか。それで初めに申上げて置きますが、お答えするのは私の立場から、私はこの様に考えていると申上げるのでありまして、如何なる学説にもこれで対応出来ますというものではありませんので予め御了承下さい。僕が神と考えるのは全てのものがそれによってあり、それによって動いてゆくものなのです。一切の形、一切の力の源泉となるものなのです。それは何かということは話が進んでゆくに随って明らかにしてゆかなければならないとおもいます。」
娘「よく神はあるとか、無いとか言われますが、何うして反対のことが言われるのでしょうか」
甲「それは神が目に見えないものだからだと思います。今申し上げました一切の形、一切の力というのはあり得ないものです。形は全て個々の形としてあるのです。一切の形は観念としてあるものです。神は対立する個々の形の統一として要請されたものです。個々の形は対立するものとして、否定し合うものです。否定し合うところには形はあり得ないものとなります。それがあり得るためには、全ての形を生み、全ての形を自己の影として、それ自身は形を超えて動かないものがなければなりません。神が要請されたものというのはそういうことなのです。神がないと言われるのもそこから考えられるのであるとおもいます。神がないということは、物は神によってあるのではなく、物自身によってあるということなのです。対立や否定は物の形成運動であり、その運動を通じて物は自己完結をもつというものです。自己完結をもつとは、物はその内在するものによって動きを説明することが出来、動きの全体を統一体に於て見ることが出来るということです。その証明が近代の物理学、数学等の見事な体系的把握であるとおもいます。物は物自体によって解かれるものであり、神によって解かれるものではないということです。
娘「それでは神はないということになりますか。」
甲「一応物の所在を説くということからはそうなるとおもいます。併し私はそれはあく 迄一応の問題であって、物の所在は更に深いところにあるのだとおもうのです。例えば物力の問題なんかでも、力学的体系が出来る以前の問題があると思うのです。初めから我々に物は神が作ったか、物自身の自律的なものであったかの問いがあったのではなかったとおもいます。襲いかかるけものに石を投げつけたり、物を動かすのに挺子を用いたりする、ながいながい経過があったとおもうのです。物理学の見事な体系というのはこのようなものの上に、このようなものの発展として成立したのだとおもうのです。色彩についても同じことが言えると思います。画家は無限に豊富な色彩を見ていると言われます。併しこの無限に豊富な色彩とは何なのでしょうか。私はこの瓶に挿した花の紅、そこの松の葉の緑を見た目の発展だとおもうのです。襲いかかってくるけものに石を投げるという行為をあらしめたものは一体なんでしょうか。けものでしょうか、私でしょうか、石でしょうか、私はそこに事実として動いてゆく世界を見るより仕方がないとおもいます。画家の無限の色彩は、抽象的な色彩一般の発展ではなくして、花や松という事実の世界に於ける対面より生れて来たとおもうのです。何故この花は紅く、松は緑なのか、それは思考を超えた世界です。我があり、花がある世界なのです。それが事実の世界なのです。私を超えて私とけものと石の事実として動いてゆく世界、花と私がある世界、私は神を事実として実現するものに見たいのです。
乙、娘に「何うだ解ったか。
娘「解ったような気もしますけど、さて何んなもんだ言ってみよと言われたらちんぷんかんぷんです。」
乙「そうだろうね、お父さんもお前と大して変らないよ。それでは今から私が質問して みよう。事実としてけものも石も我もあらしめるというとき、けものや石はともかくとしてこの我は神を見、神を問うものであるとおもうんだ。神を見問うものが神の内容であるとき、神は見ることも問うことも出来ないものではないのか。」
甲「そうだ、神は見ることも問うことも出来ないものだ。」
乙「そうすると僕達が今神を問うているのは矛盾ではないのか。」
甲「そうだ矛盾だ。事実が動いてゆくとは、事実より事実へとして動いてゆくのだ。そこに我々の思考の入るべき余地はない。併し僕は此処で更に深く考えなければならないとおもうんだ。それは僕達も亦事実より事実へと動いて中に出来たということだ。そして僕達は考えるものとして作られたのだ。僕達が考えるということは、事実より事実へと動いてゆくものの形相であるということだ。神を問うことが矛盾であるのは、われわれが問うことにあるとおもうのだ。われわれも作られたものであるとき、われわれが問うとは事実が事実自身を問うことであるとおもうんだ。更に言えば問うこと自身も実より事実へであるとおもうんだ。我が問うのではなくして神の自己限定として、神が神自身を問うことであると思うんだ。僕はそう考えることによって初めて僕達が問いを持ち得るということも明らかに出来るとおもうんだ。それなくして何うして何故であるかという問いをもつことが出来るだろうか、或は言葉をもつ動物であるからというかも知れない。併し言語中枢を人間がもつには何十億年の経過が必要であったし、問いの依 って来る疑いは対立と相剋としての事実がなければならないとおもうんだ。序に前に娘さんが問われた神があるとないの問題だが、ないというは物の自己完結性に於て正しいとおもうんだ。併しそれは事実という絶対限定によってあるものとして、事実に包摂されるものとして、有るというのも正しいと思うんだ。それは立脚点の相違として把握されると思うんだ。」
乙「併しそれはより大なる立場から包摂するものが真にあるとすべきではないのか。」 甲「そうだ、そうゆう意味で僕は神の存在を認めるものだ。認めるというよりは認める ことなくして僕は思考の立脚点を失なうと言った方が正しいかも知れないがね。僕が双方が正しいと言うのは、無神論をよく知らないので説得することが出来ないだろうという意味なんだ。真実は一つという命題から言えば、詭辨を弄すると言われても仕方がな いがね。」
乙「事実が神とすると、よく言われる神の絶対性と言われるものも事実よりかね。僕等 が見ると相対と矛盾こそ事実と思えるが。」
甲「僕は事実が事実である所以はその絶対性にあると思うんだ。君の言う通り事実は相対と矛盾である。併し僕はここで相対と矛盾とは何かと問わなければならないと思うんだ。僕は相対と矛盾を我々の知見に求めたいと思うのだ。無限と有限、永遠と瞬間、我と汝、物と生命、内と外全ては我々が自己を知らんとするところより来ると思うんだ。知見は自己が自己を見るところより来るんだ。苦しみは見る自己と見られた自己との乖離より来るのだ。永遠を望んだ目に見えるものは死滅ばかりであるところに悩みはあるのだ。斯く見る自己は何処から来るのか。見られた自己は解る。併し見る自己というとき、われわれは鉄壁をもって目前を塞がれざるを得ない。禅家の自己本来の面目は永久に解け得ない謎なのだ。そこに我々は思量を捨てなければならない。禅家は冷暖自知といい、庭前の柏樹子という。氷に手を触れ、火に手をかざすのだ。身体に於て対象と一なるのだ。火と手という思量の分別を持つ以前に、冷えた身体は行為に於て火と一なる結合をもつのだ。火が呼び、身体が招かれるのだ。事実とは生命の生存の世界なのだ。それは生命が己れを運ぶ世界なのだ。それは生命の純な流れなのだ。絶対とはこの純な流れなのだ。」
乙「併し常に君が言うように、絶対は相対によって絶対であり、相対は絶対によって相対ではないのかね。知見といえども知見がある以上ある所以が説明されなければならないとおもうんだ。君の絶対としての事実からどうして相対を導き出すことが出来るのかね。」
甲「問題はそこにあるのだ。僕は今事実は生命の生存の世界であり、生命が己れを運ぶ世界だと言ったね。けものを石で撃つのも、冷暖自知も生命が自己を運ぶところにあるんだ。運ぶとか流れるというのは内外相互転換的ということなのだ。内外相互転換的とは形成的ということだ。形に実現してゆくことなのだ。知見とか認識とかはその極限に見られるのだ。僕は事実が事実を見るということがそこにあるとおもうんだ。」
乙「われわれが自己が自己を見るというのと、事実が事実を見るというのとどう違うの か、事実が事実を見るといっても石や花が自己を見るのではないし、結局われわれが自己を見るということではないのか。」
甲「そうだ見るものは言語中枢をもつものとしてのわれわれが見るのだ。唯僕が言うのはこのわれというとき、石や花はこの我ではないということだ。知るということは言われる如く、自己の中に自己を見ることだ。併し単にこの我であるとき自己の中に如何なる自己を見るのか、私達は目があるから見るという。併し生命が初めて生れたとき如何なる目があったのか、目とは生命が内外相互転換に於て、他との関りをもつべく出来た身体の亀裂なのだ。他者との関りから形が生れてくるのだ。見るということは他者と我とがそこに出会うということだ。花と我が出合うところに色の世界があり、物と我が出合うところに力の世界があり、こうして君達と出合うところに人倫の世界があるんだ。僕達が知るということは、斯る事実の中のわれとして知るのだ。私達が知るとは構成的となることだが、構成とは対象構成ということだ。対象を構成するためには、われと対象を包んだものがなければならないとおもうんだ。その我と対象を包んだものが事実なのだ。」
乙「それがわれわれが知るというのは事実が自己を見るということなのか。
甲「僕はそう思うんだ。
乙「よく解らないがもう少し説明してくれないか。
甲「僕も手探りで答えているのでね。でも出来るだけ考えてみるよ。われは生きているものとして、度々言うとおり事実とは生命の事実なのだ。生命は動的なものとして生命なのだ。動的なものは形作るものだ。自己が自己によって動くとは形作ることだ。そして形が生れるということは動きがそこに止まるということだ。而して止まるということが動くことであるところに、物と異なった生命があるのだ。生命が生きるとは死ぬことによって生きることなのだ。止まるということが動くことであるとは、作られたものが作るものとなるということだ。現在の一瞬一瞬の内外相互転換が、その転換を加えた力 として次の転換にはたらくのだ。そこに生命が無限に創造的である所以があるのだ。形成とは蓄積なのだ、作られた自己が作るものとなる。それが究極に於て知見をもつときわれわれは自己を見るのだ。故に我々の自己は作られたものとしての身体の上に成立するのだ。作られた身体としてはたらくものとしてわれわれの自己はあるのだ。私達は自覚的生命として物を作る。そのときこの作られた身体としての自分が作ったとおもう。例えばこの茄子を作ったのは自分であるとおもう。事実その人が作らなければこの茄子は無いのだから思って当然である。併し既に君も気がついているであろうように、種子も技術も人間の永き歴史がなければならないのだ。その歴史の中の一人として作るのだ。その種子を伝えられ、技術を教えられた、作られた一人として作るのだ。生と死、世界と我の間断なき流れの一人として作るのだ。生死を超えた間断なき流れを事実として、この我は形をもつ身体として、形に世界を写すものとして、身体的に写すとは作るものとして、われわれは事実が事実を見る一要素としてあるのだ。斯るものとして我も世界も全て事実に作られ、事実を形作るものとして、あるとは事実より事実への動きの投射によってあるものとして、事実は絶対の意味を帯びてくるのだ。」
乙「少し解ったような気がするよ。併しそのように考えるときよく言われる神の声とは自分の声に外ならないのではないのか。形あるものとして現前したとき、声を出すものはこの形ある己に外ならないのではないのか。」
甲「そうだわれわれの声が神の声だ。事実より事実への動きによってあるものとして、神が自己の中に自己を写したものの声としてそれは神の声なのだ。併し私達はここで考えなければならないのだ。それは私達が見るとは形によって見るということだ。形によって見るとは、動くとは形より形へということであり、形より形へとは形が形を作ってゆくことなのだ。そこに形として現前したこのわれが作るものとしてある所以があるのだ。作るものとは神を宿すものだ。而して形によって見るわれわれは、形を実在として、背後の大なるものを失うことだ。形として現前するこの我を神とすることだ。宿しているものを忘れて抽象的なこの我を神とすることだ。そこに神の声は失われて小さき我の声とならざるを得ないのだ。形より形へと転じてゆくことは、常に形が形を失なってゆくことだ。我々の身体は生死に於て現前するのだ。この生死する身体より発する声は死の悲鳴のみだ。それは絶対より抽象されたものとして相対的であり、永遠より抽象された瞬間である。形が形を生むものとして、そこに見えるのは相対であり、瞬間である。そこに神の声はない。それが神の声であるためには、形としての身体的生命を捨てなければならないのだ。殺さなければならないのだ。勿論本当に殺すのではない、意識に於て殺すのだ。意識に於て殺すと言えば君は知的遊戯の如く思うかも知れない。それは大きな誤りなのだ。言語中枢は人間のみがもつと言われる如く、意識は生命の究極としてあるのだ。それを殺すとは現在の全生命を殺すことだ。釈迦や空海の苦行はそこにあったのだ。そして殺された自己は殺したもののところに甦るのだ。全身が絶対者の風光を浴びるものとなるのだ。それが回心なのだ。君がこの自己の声が神の声でなければならないと言ったのはこのような世界を言ったのだ。僕達はこの回心に於て、自己の生命を朝露のはかなさとする嘆きより超えるのだ。不滅の自己となることが出来るのだ。或は不滅の生命といえばそれは唯の観念にすぎないというかも知れない。併し朝露のはかなきを見るのも観念なのだ。朝露のはかなさの嘆きは何処から来たのか、それは不滅の生命が自己の相を意識の中にはに出来得ない嘆きなのだ。回心とは観念が自己の奥底へ転ずることだ。自ら動き、自ら転ずるものとして、観念は事実自身なのだ。われわれは自己の奥底へ転ずることによって確固たる自己となるのだ。仏教の言う金剛知とか不動知とか言うのになるのだ。ここにわれわれの声はこのわれの声ではなくして、 事実の自己形成としての世界の声となるのだ。」
乙「それはわれわれが神となったということではないのか。」
甲「神になったということではないのだ、神の内容となったということだ。神の被造物になったということだ。私達が言葉をもつ為には幾多の人を神は創った。君に僕その他無数の他者を作った。僕達はそれによって対話をもつことが出来るようになった。併し 僕は今日君等親子と出会って、このような話をするということを出会う迄知らなかった。これは唯事実自身として自己を限定する神のはたらきとしか言いようがないのではないか、われわれはこの瞬間に於て神に触れるのだ。地球上には六十億近い人が住んでいるといわれる、事実とはその人々の生の営みなのだ。君はその総体を何うして自己の内容とするのだ。それだけではない事実の根底には無限の過去と未来の人々の営みがあるのだ。われわれはその大なるものの一端に触れている。その一端に触れることが全存在に触れることであるのだ。そこに神の恩寵とか言われるものがあるのだ。如何にして一端に触れることが全存在に触れるかではない。それは問いを許されないものだ。われわれはその如くあるのだ。それは事実の直証としてわれわれはもつのだ。
乙「よく神は知によって見ることは出来ない。神を見るものは信であり、信ずることに よってのみ神を見得る信とはその直証のことかね。」
甲「僕はそう思うんだ。僕は信というとき私達が感じる何か盲目的なもの、唯情念の肯 定のようなもの、それは真に信としてわれわれの接するものではないと思うのだ。信は最も明白なものに於て信であるとおもうのだ。一端としてわれわれが全存在に触れるとは、われわれは大なる明白の光りに照らされているということなのだ。信じることによってあるのではないのだ。ひらかれた世界を自分の根源と直観するのが信なのだ。仏教の悟りやキリスト教の啓示として現われるのだ。それによって抽象的自己が自己の根拠 を得るのが信なのだ。だから僕は言われる如き知と信の乖離についても、知の根底として信があるとおもうのだ。知の明白は信の明白に裏付けられてあるとおもうのだ。それを乖離となすのは知が抽象的自己の内容として捉えられているが故に外ならないとおもうのだ」
乙「事実が事実を見、事実が事実を限定するということを更に深く聞きたいのだが、君 は前著で神は死ななければならないと言ったね。今でもそのように思っているのか。」 甲「うんおもっているよ、それは神の存在の根本条件だと思っているんだ。前にも言っ 如く事実とは生命の事実なのだ。事実より事実へということは、生命が形成作用であ るということだ。生命は形作ることによって自己を見てゆくのだ。そうゆう意味に於て 身体が事実の基礎をなすのだ。事実より事実へというのは、一つの形が滅んで次の新しい形が生れるということだ。それが生死というものだ。勿論神は斯るはたらきの全体として、個々によって見ることの出来ないものだ。併し事実は何処迄も身体として形にあらわれることを要求するものだ。即ち見ることによってあるものとして形の実現が要請されるのだ。全体者として身体に現われる形が欲せられるのだ。全体者とは生産によって結合されるその時々の姿なのだ。そこに家族神より氏族神へ、氏族神より国家神へ、国家神より普遍神への発展があるのだ。それはその時時の全体像なのだ。そしてその全体像とは、自己がそこに生かされている世界の具象化なのだ。そのような具象化をもつということは、個々の構成要員がそれによってそこに結合するということなのだ。神の姿を現わすということは、生産としての世界の求心力なのだ。そこに神の形の実現が要請される所以があるのだ。神を祭るということは生産の増大と不可分離的であるのだ。家族神、氏族神、国家神というのは、生産手段の発展に伴う形相の変化なのだ。事実より事実へは、現在より現在として、事実は否定されることによって、新たな事実を生んでゆくんだ。否定されることが死なのだ。神が死ななければならないとは、新しい生産手段による世界の求心力が生れなければならないということなのだ。」
乙「そうとすると神の永遠性と生死は君のよく言う身体の永遠性と瞬間性によって捉えてよいように思うのだが。」
甲「そうだ身体の永遠性と瞬間性は神を写すことによってあるのだ。身体は生命として瞬間は永遠によってあり、永遠は瞬間によってある。瞬間とは内在する否定によって次の形に移ることだ。形より形へと移るものを超越者として内在せしめるもの、それが永遠なのだ。瞬間として形に内在する否定は神のはたらきだ。神があるとははたらくことであり、はたらくことは形にあらわすことだ。僕はわれわれに神があるとは祀られたときにはじまるとおもうんだ。人類が出現したはじめのころ、不意に襲ってきたけものに石を投げつけたとする。そのとき石は偶然そこにあったのだ。追うことによってその石の力を知り、石を祀ってけものの来襲の無きことを祈ったとする。そこに神は生れたのだ。」
乙「君は最初に神は事実より事実へとして、事実が事実を見るところに神があるといったね、そうとすると神を祀るということが事実より事実へということなのかね。僕にと って神を祀るということは、それこそ人間の行為に外ならないように思うのだが。」
甲「その通りだ。人間がそれによってあるものが人間によってある。それは矛盾だ。併 しあるということはそのような矛盾によってあるのだ。それが事実ということなのだ。僕はこの問題を意識とは何かと問うことから入ってゆきたいとおもうのだ。何故ならば 君が問うているのも、僕が答えているのも意識のはたらきとしてあるのだからね。僕は意識はわれわれの生涯の行動を統一するものだと思うんだ。その行為は身体によるものとして、意識は身体の統一としてあるのだ。そしてこの身体は生命が三十八億年の時間に於て形作ってきたものだ。われわれの意識は三十八億年の統一としてあるのだ。而して身体がはたらくとは現在に於てはたらくのだ。意識が今はたらいているのは、三十八億年の綜合としてはたらいているのだ。われわれの今というのは無限の深さがあるのだ。われわれが神を見るというのは、現在の底の無限に触れるということなのだ。意識の現在の奥底を見るということなんだ。僕が事実より事実へというのは僕が見た自己の奥底なのだ。僕達がはたらくというのはこの奥底よりの働きである。而してこの奥底よりのはたらきというのは、現実の当面する矛盾に於てはたらくのだ。矛盾に於てはたらくとは、形あるもの、見られたものとして身体がはたらくことなのだ。身体がはたらくとは死を生に転ずるものとして、一々の転換を蓄積するものとして、我と汝、物と生命の相対するものとしてはたらくのだ。身体の奥底は自己の中に形の推移をもったものとして奥底なのだ。奥底が自己を形に表わすとは、推移が奥底であるということなのだ。一々の時の形が永遠であるということなのだ。祀るとは一々の時の形が永遠であることを露わにすることなのだ。創造的世界に於いて一つの形が表われて一つの形が消える。それが新しい神が生れて、古い神が死ぬということなのだ。事実より事実へとして、事実を負うものとして神は死ななければならないのだ。かまどの神や、氏神さんは我々の意識に於いて忘れ去られた所以がそこにあるとおもうのだ。
乙「最近の生産物は余り神として祀られていないようだね。
甲「うんそれは生産手段の急激な発展ということに原因があるんだろうね。何しろ採取 生活数万年、農耕生活数千年という歴史に対して、余りにも目まぐるしいからね。狩の獲物を神に供えるとか、収穫の米を神に供えるとかした、一つの形に生命のはたらきを見る時間が乏しくなって来たのではないのだろうか。併しそのことは決して近代人に幸福をもたらしたものではないとおもうよ。祀るということが生命と物の統一としてはたらいていたからね。事実の自己形成の具体的なものが失われて、物と生命が乖離したということは、形成する生命の自己喪失ということだからね。」
乙「それなら何故新しい神を祀らないのだ。自己喪失というのは混乱による破滅をもたらすものではないのか。併し現在の世界は歴史上の何時の時代よりも整正としているように見えるが。」
甲「うん世界は形成作用として、現在の瞬間と永遠の結合を見なければならないとおもうのだ。そうゆう意味で現代の神をもたなければならないのだ。最初に言った物自身の自己完結性、制度による社会の整正は曽って祀られた神の如きものを拒否しているということが出来る。僕達が持たなければならない神は過去のイメージを超えた神であるとおもうんだ。キリスト教の隠れた神、仏教の絶対の無が徹底されたものとしてだ。」
乙「隠れた神や、絶対の無は形の拒否ではないのかね。そこに祀るということはあり得ないのではないのか。」
甲「そうだそこに近代に於て神が見失われた理由があるとおもうよ。祀られることによ って見られた神、見られることによってあった神、それが見えない神を真の神とすると き、それは過去よりの目を断絶することだからね。併し生命に於て死ぬとは自己矛盾の中に死んでゆくのだ。神は生命の根底として、死ぬことは生れることでないと神ではないのだ。僕が事実より事実へとして、事実の自己創造に神の相を求めたのも僕なりの解答なのだがね。併し明らかな映像が生れて来ないので僕自身焦っているのだ。」
乙「君はこの前われわれが神を見たのは、死との対面に於て、危機の克服としてであったと言っていたね。今もそう思っているのか。」
甲「そうだ事実より事実へとして、生命の形成作用は死なくしてあり得ないとおもって いるのだ。生命に於て外があるということは、内があるということだ。より豊富な外を 見るということは、より高度な機能をもつということだ。この間読んだ木村賢生氏の『生物進化を考える』という本の中に、アメリカの有名な古生物学者のローマ氏がわれわ れは大古の祖先の敵ウミサソリに感謝せねばならないと述べておられるというのがあったよ。四億年から五億年程前われわれの祖先はミミズのようなものであったらしい。数センチから五〇センチ程のものだったらしいが、ウミサソリという大きなのは二米五〇センチもある動物の餌になっていたらしい。それが何千万年か何億年か喰われている内に蟹の甲羅のようなものが出来たらしい。それが肉の中に入って骨格になったというのだ。そして骨格なしに脊椎動物の進歩はあり得なかったというのだ。そしてその硬骨のお陰でウミサソリは絶えたらしい。それからローマ氏は『われわれは恐竜の意図もしない援助に感謝しなければならない』と言っているそうである。これもわれわれの祖先の哺乳動物は恐竜の餌であったということらしい。何千万年も何とか逃れようとして智能が発達したらしい。目を逃れるために夜に行動することによって温血動物になったらしい。これによって見るかぎり、人間が現在の生命を形作り候たのは、他者による無数の死であったとおもうのだ。否定されることによって生命は新たな形質を獲得するのだ。僕達の小さい頃、よく祖母は山の神さん、水の神さん、便所の神さん、地神さんなどと言ったものだ。お宮さんに行くと木や石に縄を張って神として祀ってあったものだ。それらは全て内外相互転換としての外の意味をもつものだ。内外相互転換の外とは死として迫ってくるものだ。死を距てて対立するところに外はあるのだ。而してそれは内外相互転換として、内に転じてより大なる形質をもたらせてくれるものだ。考えて見給え、万物の生ずる大地、多くのけものを殖やし、焼畑農法による生産力をもつ山、それなくして生命のあり得ない水、火の本となる樹木、最初の道具となった石、それは生命にとって測り得ない力なのだ。そしてその力こそ生命の直接の事実なのだ。生命の内外相互転換に直接するものだ。僕はこの化石とも言うべき素朴なる神に、神の原型を見ることが出来るとおもうのだ。生死はわれわれを超えて何うすることも出来ないから生死だ。生死は唯事実より事実へとしての生命の運びだ。併しその転換の繰り返しの内に、生命はより密度の高い転換をもってゆくのだ。事実より事実へとして事実の示顕があるのだ。僕はウミサソリに喰われてゆくうちに、甲羅が出来たなどというのは事実の示顕とより言いようがないとおもうのだ。斯のようなはたらきが言葉によって捉えられるとき僕は神を見るとおもうのだ。上記の神々は死として迫って来ながら、祈りによって生に転じ得るものなのだ。祈りとは現在の奥底としての未来が現在を限定せんとすることであり、祀るということは言葉によって、事実の示顕を露わにしたということなのだ。常に生命が発展してゆくというのは否定を介しての肯定なのだ。われわれ人間は自覚的生命として、他の動物と截然として分つものだ。自覚的生命とは表現的に自己を見てゆくということだ。外を物として自己を表わしてゆくことだ。表現的に自己を見てゆくとき、或は他者による死はないというかも知れない。併し僕は自覚的としてより深化された形に於て死の媒介をもたなければならないとおもうのだ。それは表現的他者として表現的世界の中に死んでゆくことだ。実業家は物に、芸術家は美に、学者は真理に生命を賭けることが要求されるのだ。全てその世界に入ったものは、その世界の犠牲になることが要求されるのだ。芥川龍之介の『地獄変』は余りにも拡大された露わの故に、読むものをして嫌悪感を催させる。併し私達は深くかえり見るとき、自己の内奥に棲むあのような心を否定することが出来ないのだ。最愛の娘が殺される苦痛の歪み、美神の饗応による恍惚への変化、そこには深い真実があるとおもわざるを得ないのだ。それは人間世界の荘厳はそれらによって実現されたのだということだ。ここに明らかに死は生であるすがたが現われるのだ。現在の人間世界の栄光の実現のために、如何に多くの世界形成の為に生命を賭けた人があったか考えて見給え、そしてその世界の中に死することによって見出でた形相こそ、自覚的生命としての身体なのだ。表現的世界に死ぬとは、表現的に生れることなのだ。表現的世界の事実より事実は創造ということだ。創造は死んで生れることだ。そこに神は世界実現としての事実として自己を露わとするのだ。禅家の言う大死一番も断るところから考えられるとおもうんだ。回心ということも今迄の自己が死んで、新たな自己が生れるという意味がなければならないとおもうんだ。
乙「創造というのは成程人類の荘儼を生んでゆくものであるとおもうよ。併し事実より 事実へというとき、人類は悪の方向、罪の方向にも愈々大となってゆくのではないのかね。例えば言葉をもったが故に詐欺をもち、技術をもったが故に大量の殺人兵器を作ると言った如きも、神の内容とならなければならないのではないかとおもうよ。そしてそれを神が裁かなければならないというとき、一体神とは何かと思わざるを得ないがね。」
甲「そうだ、事実はその内包する矛盾に於て事実より事実へと動いてゆくのだ。肯定の方向が大になることは否定の方向が大になることだ。大なる神を見ることは、反面に大なる悪魔を見ることだ。それは善とか悪ではなしに、社会が大となり複雑となっているということだ。善とか悪、神とか悪魔として捉えられるのはその表裏ということだ。表が大となれば裏も大となるのだ。事実が事実を限定するのを絶対とし、絶対に神を見るとき、この表裏、この矛盾が事実として神の相でなければならないのは当然だ。併し戦争の悲惨、暴力、殺人鬼、強姦魔、これ等を神の相に組み込もうとすれば、神の映像は如何にもつべきであるか、僕が前に神の映像を捉えきれないと言ったのは実にここにあるのだ。ここで僕がもち得る解答は、神ははたらくもので矛盾そのものだということだ。矛盾として動いてゆくことが形成作用であり、初めと終りを結ぶということだ。形成作用とは形の一々が矛盾の救済としてあるのだ。矛盾は苦痛であり、形の実現は救済なのだ。神は自己を極悪となすことによって極悪を救うのだ。救うものは何か、極悪も事実より事実へとして永遠の顕現であることだ。事実は自己の中に悪をもつことによって自己洗浄をしてゆくのだ。僕は言われる懺悔とはそのようなものだとおもうのだ。行為に永遠の照射が浴びせられたということだ。」
乙「それでは懺悔しないものは何うなるのかね。」
甲「仏教にも女と小人は度し難しという言葉があったように思うね。僕はここで解答す
る力がないと告白せざるを得ないのだ。唯僕が手探りで考えると、事実が事実を限定するということは、世界が世界を限定するということなんだ。事実として直接するものはこのわれだ。而してこの我があるとはこうして君と対話することによってあるのだ。君は僕ではない絶対の他者として対話はあるのだ。それが世界だ。対話をもつとは世界が世界自身を実現していることなのだ。救済は事実としての世界の自己救済ではないかと思うんだ。極悪人を殺す、それが世界の自己救済ではないかとおもうんだ。」
乙「殺されたものは何うなるんかね。」
甲「うん事実より事実へとして見られる世界は、そのような人本主義的な神ではないのではないかとおもうんだ。一切の人間的な感傷は拒否されるんだ。唯矛盾の実現が救済なのだ。世界が世界を実現してゆくことが救済なのだ。われわれはそこに帰一するのみなのだ。悪人われが事実としてこの世に生れた。そして矛盾の中に殺される。永遠の運びの中に殺される。われを殺し、運ぶ大なる力の現れとしてわれはある。ここに救済があるのではないのかとおもうのだ。唯尚人間的なものを捨て切れない僕は、その深淵を覗く力はないようだ。僕がそのようにおもうのはエホバの命によって、アブラハムは自分の子を殺したということを聞いている故なのだ。」
甲「僕もそれ以上聞いても唯混乱するだけだとおもうよ。それで問題を変えたいとおも うのだが、この頃よく本なんかに書かれているインカの文明や、マヤの文明にも祭壇の遺跡なんかがあって神を祀ったようだが、今は祭る人もいないし、祈りもないようだ。その神は滅んだのか、それともまだ生きているのか、それとも幻覚のようなものだったのかね。」
乙「うんそれも確に神の本質に関る問題だね。これも僕はこう思うんだという解答しか 出せないがね。前にも言った如く事実として直接するものはこの我なのだ。この我の身体なのだ。民族の神といっても、それが神である以上民族を超えたものなのだ。何によって超えるか、それは一々の身体が生死を超えた永遠を宿すことによってあるということだ。そして祀るということは、その宿された永遠を見るということなのだ。民族の神というのは永遠が民族的に現われたということだ。人間の自覚としての、言葉や技術が民族的に現われたということなのだ。それで何時でも神との交感は個人が担うので、式が担うのではないのだ。それで僕は神は滅んだとか、まだ生きているとか言って見られるべきものではないとおもうのだ。生きていた人々がそこに自己の奥底としての永遠を見ていた。僕は神殿の崩れを見るのではなしに、そこに祈った人々の神を見る目を見ればよいとおもうのだ。そして僕達もこうして自己の奥底として永遠を語り合う。時とところを超えて同じいのちのはたらきがある。永遠の今としてわれわれのいのちのはたらきがあると感ずるべきだとおもうのだ。」
乙「神にはいろいろの神があるね。それも事実の自己形成としての、事実より事実へとして見るべきなんだろうね。」
甲「そうだとおもうよ。内外相互転換として、人類はさまざまの外をもつからね。転換 としての外は環境として、地理的、歴史的に無限の多様だからね。山に生きるもの、海に生きるもの、酷寒に生きるもの、猛暑に生きるもの、砂漠に生きるもの、それ等と闘うことなくして生存のあり得ないのが生命の事実だからね。和辻哲郎が言っている如く、『生命は風土としての環境の綜合として自己を形作ってゆく』からね。山の神、海の神、火の神、木の神、米の神、日本の神、印度の神、農の神、砂漠の神、牧蓄の神、数え切れないよ。何しろ日本だけでも八百万の神と言うからね。僕は多様であるということ、その土地土地の神をもつということが、事実より事実へとして、生命が自己の中に自己を見た結果であるとおもうんだ。その上に神が見られたのだとおもうんだ。」
乙「事実より事実へと言うとき僕は歴史と質を同じくしているように思えるんだがね。歴史的形成を考えるとき、神と歴史は同じものと考えていいのではないのかね。」
甲「そうだ事実より事実へというのは歴史的ということだ。神は歴史的に自己を実現し てゆくのだ。歴史の深淵という言葉があるね。前に言った善と悪、神と悪魔の辨証法的深化は、神の内容であると同時に歴史の内容であるのだ。唯歴史は変遷の推移を叙述するものだ。神を見るということはその変遷を同一に於て捉えることなのだ。一瞬一瞬の還ることなき流れを、初めと終りを結ぶものに於て捉えることなのだ。神は歴史的に自己を実現するとは、歴史は神の内容としてあるということなのだ。神の内容としてあるということは、歴史はそれ自身に成立の根拠をもたないということなのだ。単に過去より未来より流れる時間は、時間ではないということなのだ。時間が過去、現在、未来をもつとは、過去、現在、未来を統一するものがなければならないのだ。それは過去より未来へ流れるものによって見られないものであり、唯それを自己の実現とするものによってのみ見られるのだ。動くものは対立と矛盾によって動いてゆく、その一々の事件の意味といったものも、単なる現象から見ることが出来ないものだ。初めと終りを結ぶものの自己実現として意味は生れてくるのだ。過去から未来へというとき、歴史は唯盲目的だ。勿論対立と矛盾は盲目である。併し形と現われてくる、そこは明光なのだ。われわれは 自覚的生命として外に形に表わす、それは明光を確めたということだ。そしてその明光は初めを終りを結ぶものとしての神からくるのだ。
乙「聖書に『はじめに言葉ありき、言葉は神と偕にありき、言葉は神なりき』と書いて あるね。それについての君の考えを聞きたいのだが。」
甲「はじめとは根源ということだろうね。存在の根底に何があるのか、知恵をもった人間が必然的に負わされた問いだね。それに対してファストは「はじめに意ありき」とし、次いで「はじめに力ありき」とし、最後に「はじめに行為ありき」としたね。一番目の意というものから形が生れるというのは考えにくいからね。問題とすべきは二番目からだろうね。世界が対立的に動いてゆくということから力は非常に重大な要素だとおもうよ。併し力ということから形成ということを導き出すのは無理だとおもうのだ。そこで行為が見出されただろうが、行為は力と言葉が結びついたもののように思うよ。それで僕は矢張り『はじめに言葉ありき』だとおもうよ。僕は全てのあるものは形成的にあるとおもうのだ。はじめに言葉ありきとはどうゆうことなのだろうか、生命は人間が言語中枢をもつことによって初めて言葉をもった。天地創造のときには言葉の使用は存在していなかったと言ってもいいとおもうのだ。併しはじめに言葉ありきという。それは今僕達が使っている言葉ではなくして、言葉のもっている原質的なものとおもうのだ。それは形成作用として、形より形へとして、機能的に発展させてゆくものだとおもうのだ。存在は形成として力を含むのだ。形成として力を含むことが行為だ。言葉のもっている原質的なものとしての必然とか秩序、それなくして存在はあり得ないとおもうのだ。われわれが言葉をもつのも斯る根源的なものが、人間に於て全く現れたと言い得るようにおもうのだ。運動や習字の如く持っている根源的な力は時間を経て現れるように、生命発展の究極に於て言葉が現われたのだ。人間は言葉をもつことによって物を作り、無限に自己を形成してゆく、それは存在が自己自身を完成して行っているとおもうんだ。」
乙「君が存在というのは全存在としての宇宙ということだろうね。」
甲「もちろんそうだよ。併し僕がここで宇宙を語る前に宇宙の定義をしておきたいのだ。例えばみみずの宇宙とは一体如何なるものだろうか。それは運動覚の及ぶ限りのものではないだろうか。道元は魚は以水為命、鳥は以空為命と言っているね。僕は其処に宇宙を見たいのだ。僕達は果て知らない広大な宇宙をもつ、併しそれは目を物に拡大することによって、望遠鏡を自己の視覚とすることによって開いて来たものだ。以水為命というとき、魚はその生命の初まりより無数の生死をもって形作ってきたのだ。われわれの広大な空間は、自覚的生命として物に自己を見る生命が、無限の生死に於て形の中に形を見ることによって見出してきたものだ。宇宙は事実としてわれを超えてあるものだ。併しわれわれにあるとは見ることによってあるのだ。われわれは今仰いで天の星を眺める。而してこの目には無数の過去の人々の目が棲むのだ。それなくしてわれわれは何して無限の深さ、永遠の光りを感ずることが出来ようか。僕はそのような立場から宇宙を生命形成の全体像として定義したいのだ。そして僕は宇宙を宇宙的霊性として捉えたいのだ。霊性とは無限の過去の生命が其の中に宿されているということだ。そういう意味に於て水は魚にとって一つの霊性の意味をもつとおもうのだ。だから僕は昔の人が宇宙を神とし、天に存在を司るものを見たのは或る点で正しいとおもうんだ。勿論天帝とか、天道とか、天子というのは近代科学によって変容されなければならないがね。唯僕には我々の行為の根源としての絶対矛盾と、宇宙とを結びつけることが出来ないのだ。それで神の影であっても真にはたらく神として捉えることは出来ないのだ。」
乙「どうも有難う。結局神のふかさはわれわれの存在のふかさだね。」
甲「そうおもうよ。考えれば考える程人間の深さは底知れないからね。仏家の言う不思量底の上で思量していると思う外ないからね。不思量底を事実として捉えたといっても事実を問うとき事実は不思議窮りなものだからね。思索なんて結局問いを増やして先に送っていくことかも知れないよ。それにしても君に答えている内に、解っていたと思っていたものが、実は解っていないことがたくさんあることに気が付いたのは収穫だったよ。亦来てくれたまえ。」
長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」