初めと終わりを結ぶもの

 私は七十才になって商売を廃めた。漸く思索に全身を打ち込むことが出来た二年半の跡である。書き乍ら大きなまとまりをもつ力を失なった、老いのかなしさをつくづくと味わわざるを得なかった。不生不滅を出発点としたものである。勿論不生不滅というのが有るのではない。生命は形作るものであり、生死は形作る生命のはたらきの姿であるということである。生死を超えて始めと終りを結ぶ生命が自己自身を見てゆくところに生死があるということである。不生不滅とは、目を初めと終りを結ぶ生命に置くということである。私達の生命は私達もその中に働く歴史的形成の内容である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

ごきぶりを見乍ら

 本を読んでいると後の方で、かさかさというかすかなものの動く音が聞える。ふり返る とごきぶりが、背を光らせ乍らすべるように走っている。ごきぶりは妻にとって不倶戴天の仇にも等しいものであるらしい。見つけると大声を挙げて、行動は敏速果敢となり、たちまち打ち据えてしまう。私もその影響を受けてか、見ると殺さねばならぬような衝動が走る。私は傍にあったスリッパを掴んで電光石火の如き早業で打ち下した。実は一回失敗したのであるが、兎に角ごきぶりは動かなくなった。私は念の為にもう一度打ち下した。すると白い液のようなものを出して、脚が一本歪んだようであった。死骸は今度立った時に捨てようと思って再び本に向った。しばらくして散歩に出ようと思って振り向いて私は自分の眼を疑った。死んだ筈のごきぶりが影も形もなくなっている。見廻すと離れた壁に沿うたたみのへりを、白い液をひき、脚を一本引き摺ったごきぶりがすべるように走っている。私はその生命力というか、復原力の強さに驚嘆した。

 曽って何かの本で、ごきぶりは数千万年か数億年の生命陶汰の波を乗り越えて、生き残った生きた化石であるというのを読んだことがある。私はそれを思い出し乍ら一つの疑問をもった。それは生物が若し種族保存とか、個体保存を目的とするならば、何うして全てがごきぶりのような生体構造をもたなかったのであろうかということである。億年を維持したということは、適応力の優秀さを示すものである。生命が環境適応的にあったとすれば、そこに最もすぐれたものがあった筈である。

 併し生命は両棲類、哺乳類、人類へと進化して行った。而してそれらは時間としての年数に於て決してごきぶりにまさるものではなかった。それでも変化して行ったのは、生命の形成作用は、単に保存とか適応とかにつきるものではないのではなかろうか。

 生命の進化は機能の複雑化である。機能が複雑化するとは、生命は内外相互転換的として、外としての世界の多様に対し、外を内とする機構を創出することであるとおもう。機能ははたらくものである。はたらくものとして我々が外としての世界を見るとき、外は限りなき多様としての世界である。環境としての自然は周期的に回帰しつつ、我々は一瞬先の生命を知らないものである。機能とは斯る計ることの出来ない外界を、生命の機構の中に取入れようとする、生命の努力である。私は五感が何のようにして出来たか知らない。併し目が見、耳が聞き、鼻が嗅ぐのは、生命が外を開くと共に、未来を拓いていったのだとおもわざるを得ない。生命は空間的、時間的として、空間的なるものは時間的なるものとして見出されてゆくのである。

 複雑化が世界の多様に対する、生命の自己創出であるとすれば、私は複雑化は、より多様なる世界を自己の中に織りなすものとして、生命は保存や適応を超えて、自己の風光を創造するものではないかとおもう。風光とは豊潤なる情緒であり、情緒に対応する世界である。喜び悲しみとしての内外相互転換の関りである。既に哺乳動物は喜びや怒りをもつ、それだけに環境よりの摂受は多様であり、密度高いものをもつとおもう。私は短歌を作るものであるが、人間に於ては見られたものが見るものとして無限に創造的である。私は 界と自己とのより高い密度を目指して、生命は自己を形成しているのではないかとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

かすかなるもの

 この間ホーキングを内容とした歌を作って歌会に出した。誰もホーキングを知らないと いうので概括を話した。私は話し乍らいつかの歌会での事を考えていた。それは彼の偉大なる宇宙論は、相対性理論と量子理論の結合より見出されたということである。極微の世界の電子の運動を知ることなくして、大宇宙の運動を説くことが出来なかったということである。

 いつかの歌会で、このような小さなものに目をつけたのはつまらんという批評があった。私は意識の発展は分化と統一にあるとおもうものである。分化が愈々細かくなることによって統一は愈々大となるのである。顕微鏡と望遠鏡の極限が結びつくことによって大宇宙の秘密、然も二百億年前の秘密が解明されたのである。

 画家は私達の見ていない美しい色を見ていると言われる。勿論私達に見えていないのではない、見ていないのである。画家はそれを描くことによって見出して来たのである。私達も初夏の山に萌え出る若葉を見るとき、実に多くの浅みどりのあることを知る。私は画を描いたことがない。併し若し絵筆を持って画布の前に立ったとすれば、その微妙の前に絵の具を溶くことすら出来ないであろう。それは無限の多様に面しているのである。和辻哲郎はその著風土の中で『自分は曽って津田青風画伯が初心者に素描を教える言葉を聞いたことがある。画伯は石膏の首を指し乍ら言った。「諸君はあれを描くのだなどと思うのは大間違いだぞ。観るのだ、見つめるのだ。見つめている内にいろんなものが見えてくる。こんな微妙な影があったのかと自分で驚く程、いくらでも新しいものが見えてくる。それをあく迄見入ってゆく内に手が動き出してくるのだ。」』。見入るとは如何なることであるか、それは宿されいる陰翳の今迄見ていなかったものを見ようとする努力である。その努力によって線が線を分ち、色が色を分つのである。微妙とは無限の多様である。画家の私達の見ていない美しい色とは、見つめている中に現われてくる驚きの色である。何百号の作品の前に立って私達の覚える感動は、この無限の細分化された視覚の努力への共感であるとおもう。この無限に分つ目に於てのみ、何百号の大作を力感あらしむるものとなるのである。一輪の花の、一片のはなびらを描きつくす力があって、何百号の大作をよく仕上げ得るのである。

 泰西の詩人が「詩人たるものは地球の自転の音を聞かなければならない」と書いているのを読んだことがある。地球は大である。併し地球の自転の音は小である、と言うより筆者はあるのか無いのかを知らない。恐らく生命が誕生して以来自転の音を聞いた者はないのではなかろうか。それを詩人は聞かなければならないというのである。私は創造とはそのようなものとおもうものである。与えられた目の上に目をもつのである。耳の中に耳をもつのである。物の世界に於て望遠鏡と顕微鏡をもち、それによって物の世界を展いて行った如きものを、音に色彩に言葉に於てもたなければならないとおもう。石の独語を聞き細菌の歓声を聞くのである。

 生命は時の姿に自己を露わにしてゆく、時に於ては最も大なるものが最も小なるものである。一細肪が逆に全存在を包むところに時はある。表現とは時の中に深く入ってゆく事である。微塵に全存在が自己を見ての表現である。

 私は以上言ったことを更に明らかにするために葛原妙子の短歌の世界に入って見たいと おもう。

生みし子の胎盤を食ひし飼猫がけさ白毛となりてそよげる

 何も今朝白毛となったのではなかろう。生みし子の胎盤を食ったという異常事態が、翌朝の作者の目に白毛を意識せしめたのであろう。何が白毛を意識せしめたのであるか、私はそこに同族を食ったとゆう作者のもつ罪の意識と、何ものをも食って生きてゆくという生の原質を見たのであるとおもう。上旬の暗黒と下旬の光輝、この矛盾と相克に作者は生命の真実を見たのであろう。恐らくは変っていなかったであろう白毛への意識から、生の深淵を開いて行った力は流石であり、下旬は誰でも言えるものではない。

鬼子母の如くやはらかき肉を食ふなればわずかな塩をわれは乞ひけり

 これは前に私なりの解釈をしたのでここでの歌意の追尻は止める。唯やわらかい肉を食ったというだけのことに、生きてゆくために他の生命の肉を食わなければならない。原罪ともいうべきものへ掘り下げている。

夕雲に燃え移りたるわがマッチすなはち遠き街炎上す

 夕映えの情景に接した作者は、わがマッチを介在さすことによって、恐怖としての実存する自己に結びつける。そこにこの歌の写生ではない異質性がある。内と外とが一なるものとしてものごとがある。作者はそこに立つのである。内と外を結びつけるものは行為である。作者はわがマッチを見出すことによってそれを成立せしめている。そしてそれは作者の卓絶した才能を示すものである。作者はマッチで火を付けたのではない。或はマッチを持っていなかったのではないか。作は想念に於てマッチを擦り、表象を拡大していったのである。表象を拡大せしめたものは実存としての生の不安である。

畳まれし鯉のぼりの眼球の巨いなる扁平をふと雨夜におもひて

 球型ではなくして扁平なる眼球、その巨いなるものは拡大された死である。それを雨の音が閉す夜に思い出している。そこに巨いなる目が作者を不安ならしめ、不安が目を更に巨いならしめている。生命の一面を私達に突きつけてくれる。

ふとおもへば性なき胎児胎内にすずしきまなこみひらきにけり

 ここにも見えない胎児が出てくる。作者は無よりの創造をもとうとするのである。性なき胎児とは如何なるものであろうか。全て胎性動物は性をもつ、それを敢て性なき胎児と言ったのは何故であるか。私はそこに作者が聖なるものに向けた目があるとおもう。仏陀やキリストは性の超克者であった。妻帯を禁じ、姦する勿れというのは、存在を一者に於て捉えんとするものの必然的帰結であった。作者はそれをすゞしき眼に於て表わさんとしたのである。

 私は葛原妙子は、日常のかすかなものを顕微鏡的に拡大することによって、人間の深部を露わにする稀有の才能をもっていたとおもう。物理学も短歌も共に世界の自己創造の内容である。極微と極大が結びつく、其処に世界は自己を創造してゆくのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

孫の画を描くのを見乍ら

 仕事の都合上大阪に離れ住んでいる子等夫婦が、学会出席の為シンガポールに行くことになり、その間幼い孫を預ることになった。三才余りの子供は成長が早い。帰る度に見せてくれる変貌は楽しいものである。昨日も一寸抱いてやろうとしたら、「奈央ちゃんはねえ、もう赤ちゃんじゃないの、もうおねえちゃんなの。だからだっこはしてもらわないの」 と言って走り去った。私は苦笑して見送る外はなかった。併し私より妻の方に傍に置いて離し度がらない。この頃は悪戯が激しくなって手古摺ることが多いのだが、それでも傍に居ないと淋しいらしい。

 その孫が書斉にゐる私の所へ来て、「おじいちゃん一寸来て」と言う。「用事か」と聞 くと、「奈央ちゃんがねえ、画を描くから見ていて」と言う。丁度退屈していたところな ので、一度立ちるのも良いと思って従いてゆくと、妻が「昼の支度をするから、奈央ちゃんが画を描くのを見てやっとってえ」と言う。見ると描きかけの画用紙らしいものと、クレョンが散らばっている。クレヨンは私達の少年時代の六色か七色と違って、数十色もあろうかという豪華なものである。今更のように時代の推移を感じながら画用紙の方を見ると、円とも線とも角とも分ち難い線が、用紙一杯に引き散らされている。孫は新しい紙に描き初めたが図型は大同小異である。

 表現の形は手と目の協動から生れてくる。視覚と運動覚が一つになってはたらくところより生れてくる。幼児の表現はこの手と目のはたらきが未分化のようである。表われたものを見ていると、何うやら原始感覚としての運動覚の方が優先しているらしい。孫はためらわずに線を引いている。「何を描いとるのん」と尋ねると、「兎さん」と答える。併し何う見ても兎や犬と言えるものではなくして無茶苦茶の線である。幼児の頭の中の映像は何うなっているのであろうと思いながら、「上手やなぁ」と言うと、「うん」と答える。私は見ながら、やがて意識の発達に伴なって目と手が分化し、目と手が対立して目が優先となり、手を制約するときに本当の表現となるのだと思った。

 和辻哲郎はその著『風土』の中で、津田青風画伯が初心者に素描を教えているときのことを書いている。画伯は石膏の首を指しながら「諸君はあれを描くのだなどと思うは大間違いだぞ。観るのだ、見つめるのだ。見つめている内にいろんなものが見えてくる。こんな微妙な影があったのかと自分で驚く程、いくらでも新しいものが見えてくる。それをあくまで見入ってゆく内に手が動き出して来るのだ。此処では明らかに目が優先している。此処から本当の表現が初まるのであるとおもう。併し目と手が分れて対立しているあいだはまだ表現として未熟であるとおもう。目も手も一つの生命の構成としてある。表現が生命の表現となるにはそれが再び一つに還らなければならないとおもう。一旦相分れ、対立した手と目が一つにならなければならないとおもう。目が手となり、手が目となるのである。ミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言った如きである。開眼とか円熟というのは斯る渾然たる生命となったことを言うのであるとおもう。

 孫は相変らず無心に描いている。時にははげしく、時にはゆるやかに、私達には何うしても意味の分らない線を引いている。私は見ながら形の根源にあるものは、視覚よりは、運動覚にあるのではないかと思った。幼ない孫が訳の分らない線を夢中で引いているのは、そこに手の喜び運動覚の喜びがあるからであろう。そうとするとこの線は物の形以前の運動覚のよろこびの形であろう。そしてそのよろこびは表現愛の底に深く潜むのではあるまいか。私は考えながら昔読んだ本を思い出していた。それは或る芸術家が、「表現の形の根元にいくつかの幾何図型がある」というものであり、円とか、角とか、円錘等を挙げていた。併し記憶が余りに模糊としていて、何等考えを拡げることが出来なかった。

 小便がしたくなったので立上った。すると今迄私のことなど忘れたように描いていた孫 が「行っちゃ駄目」と言った。「おじいちゃん小便」と言うと肯いたが、私が外に出ると 描くのを止めて妻の傍に行ったようだった。そして私が戻って来ると描きはじめた。私は何うして私が居なくなったら描くのを止めたのであろうかと思った。私は思いながらこの問いが孕んでいる底の深さにおやとおもった。

 何故見る人がいなければならないのか、同じ行為でも飯を食うときは見ていてくれと言わない。私が居ない時に描くことを止めたということは、見ている人がいるということが表現意欲への重大な要素となるのでなければならない。それは何か。此処迄書いて私は坂田さんの言葉を思い出した。「何かやわらかい文章が欲しいのです。哲学理論は真平です」これから筆を進めるには推論しかない。真平の領域へ踏み込まなくては行き場がない。これで筆を擱いて後は読まれた方の思索に委ねたいとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

偶然

 日常を省るとき私達は余りにもその多くが偶然であるのに驚かざるを得ない。私が今此処にあるということにしてもそうである。塚本邦雄の歌に「父、母を娶らざりせばさわやかに我なし」というのがある。多くの男女の中から二人が結びつくのは偶然である。そし 若し母の腹に私が宿った日に、父に所用があったとすれば今の私はなかったと言い得るであろう。

 私は大東亜戦争に召命された。戦争は生死相接するところである。弾雨の中では一米の距離、一秒の遅速が生死を分つのである。天命に帰する外ないところである。

 二人となって以来時々近くの食料品店に買物にやらされる。目当のものがあるときや無いときがある。忘れていた好物や、外国の珍品に出合うことがある。思いがけなく声をかけられて、ふり向くと少年時代の友達だったりする。必然は食物を買いに来たということだけである。出会う人、物は全て偶然である。

 山に茸とりに行ってもそうである。一本も無かったのも、籠一杯になったのも偶然であ る。人に出会って、生えているところを教えてもらったのも、石に躓いて怪我をしたのも偶然である。偶然とは一体如何なることなのであろうか。

 私はそこに生命の営為がなければならないとおもう。私達が山登りをしているときに、 落石があって道が塞がれていた。それは偶然である。併しヒマラヤ山の山奥で、同 落石があって道を塞いだとする。それは私にとって自然現象であって、偶然でない。魚 取りに行く人にとって、そこにばったが居たことは偶然でも何でもないであろう。併し昆虫採取に行った人であったらそれは偶然であろう。

 生命は内外相互転換的である。私達は瞬時も休むことなく呼吸している。呼吸は空中の酸素を摂取して、炭酸ガスを空中に排泄することである。食物を摂取して老廃物を排泄する。食物も酸素も我ならざるものとして、外なるものである。外を内とし、内を外とすることによって、生命は自己を維持してゆくのである。外の欠乏は内の死である。私は偶然の根源を、内が外であり、外が内であり、我ならざるものが我に転換し、我が我ならざるものに転換するところに求めたいと思う。併し内外相互転換も未だ真に偶然であるということは出来ない。偶然には必然の成立がなければならない。必然の目をもって初めて、他者との転換は偶然となるのである。

 生命の営為とはより大ならんとする努力である。単細胞動物から、哺乳動物迄数十億年の生命の営為はより大なる時間、空間の保持者たらん事であったと言い得ると思う。人間の細胞は六十兆と言われる。分化と統一の下に生命は一大有機体を作り上げたのである。斯る生命の主体的構成は大なる客体の構成でなければならない。内外相互転換として、内を構成することは外を構成することでなければならない。内を組織することは外を組織することでなければならない。

 内とすべき外は、生命がそれによってあるものとして、環境の意味をもつものである。 蜘蛛や蜂は巣を営む、それは主体として組織化された生命が環境を造り、造った環境によって、より大なる集団化としての力をもち得たのである。内外相互転換とは生命の自己維持として、形相の実現として技術的である。内と外とが形成された技術に於て、形相を実現するのが必然である。而して生命が必然を内包し、環境をより大ならしめることは、内外相互転換としての外を、より大ならしめることである。偶然がなくなることではない、偶然を愈々多様ならしめることである。此処に偶然には必然の成立がなければならない所以があるのである。

 併し蜂や蜘蛛に於ては未だ必然が顕在したということは出来ない。必然が顕在する為には、意識の内容として意志による実現を俟たなければならない。即ち人間の自覚的表現的生命に於て、はじめて必然が顕在するということが出来るのである。

 自覚的生命とは時の統一者となることである。時を内にもつものとなることである。内 外相互転換としての一瞬一瞬を、内に蓄積するものとなり、著積を現在の自己限定とするものである。一瞬一瞬の異った転換を蓄積するとは、異った働きを構成することである。それを現在の自己限定とするとは、物を製作することである。物の製作に於て意志は合目的的となり、外と内とは必然の意識に於て結ばれるのである。自覚とは生命が内面的必然的となることである。人間は技術としての内面的発展によって、無辺の空間と無限の時間を見るのである。

 生命は何処迄も内外相互転換的である。内外相互転換とは内が外となり外が内となることである。他が我となり、我が他となることである。偶然は必然を生み、必然は偶然を生むのである。技術の集積である自動車は、我々に益々多くの出合いの機会と、事故死の機会を与えるのである。而して事故を媒介として車は愈々精密となり、精密となることによって普及し、事故は益々増大するのである。必然は環境を自然から歴史へと転移せしめる。自覚的生命としての人間は、歴史的環境としての、自己の製作的世界の中に生きるのである。

 自然的環境に生きる生命が与えられた身体として生きるのに対し、歴史的環境に生きる 生命は製作する身体として生きるのである。物に結合する者として社会に生きるのである。社会とは歴史的形成的世界である。

 製作する身体として生きるということは、自然として与えられた身体を超えるということである。言葉や技術は個々の身体の生死を超えて、はかり知れない伝統の上に成り立っているのである。我々は無限の過去より伝承し、無限の未来へ伝達するのである。私達が今自己というのは言葉や技術をもつものとして、無限の時の上に立っているということである。

 我々の身体が歴史的身体として、所与としての身体を超えたものであり、身体の生死を超えて伝承し、伝達する過去、現在、未来の統一者であることを知るとき、そこに我々は永遠を見るのである。永遠の相に自己が立つとき、偶然は外として、他者として主体の否定者として運命的となるのである。必然の目をもつことによって内外相互転換が偶然になるとは、偶然は運命として我々に迫って来るということである。自己の前後を俯瞰する目によって、一瞬一瞬に生死を見るとき我々は運命的にあるものとなるのである。

 蛆虫やとんぼは、離島に生れようと東京に生れようと大した差異はないであろう。併し 人間に於てはその文化度に於て、大なる運命を感ぜしめるのである。偶然ははかるべからざるものとして、理知の光りに照して運命は暗黒である。離島と東京に於てそこに出生の運命を感じるものは離島に於てより大である。

 我々は生れて、物を食って生命を維持し、そして死んでゆく限り何処迄も偶然的であると言うことが出来る。即ち運命的である。我々は常に暗黒の口の前に立っているのである。併し理知の光りに照して暗黒であるとは、理知の光りは運命の暗黒より生れ来るのでなければならない。偶然はそれ自体が機能的として、必然の母胎である。 必然は偶然に回帰することによって、新たなる形象を獲得し、無限に自己創造的となるのである。運命の暗黒 を見ることは、それ自体が理知の光明である。暗黒と知るのは、光明に照らさるべく暗黒と知るのである。私はそこに人間の営為があると思う。

 先日何でであったか忘れたが、輝く星は大宇宙の質量の10%程であり、後の90%は暗い空間に浮遊する微小物質である。そしてその微小物質の集合、拡散が宇宙創生の原動力であり、輝く星もこの微小物質の質量より生れたものである。世の中に神を惜定するとすれば、この微小物質の質量が神であると思うといった意味のことが書かれてあった。

 私は宇宙物理学については一丁字もなきものである。その真偽については何等語る資格を有しない。而して私は読み乍ら、人生の偶然と必然も亦斯くの如きではないかと思った。 我々の日常の大部分は偶然である。而して偶然は、偶然の故に意識に上ることは少ない。 併しそこに思いを致せば、偶然ははかるべからざる奥底をもつ。神が働くというのは或は斯るところからではないかと思う。運命の底に神はあるのではないかと思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

偶然と必然

 私は前に人間が人間になり得たのは、言葉による経験の著積によってであると言った。そして経験とは生命が生死として、内外相互転換的にある事であると言った。私達は摂食と排便をもつものとして生命を維持する。その食物を取る所、排便する所が環境へしての外である。そして食物を摂るもの、排便するものが身体としての内である。そして食物が無い事は死として、我々に否定として迫って来るものが環境である。私は今食物のみを言った。その他自然の暴威、他の生物等全て我々に否定として迫って来るものが外としての環境である。死として迫ってくるものを生に転ずるのが営為である。それは常に力の表出を伴う。それは生命が本来的に宿さなければならないものである。この死生転換が人間に於て経験である。経験とは斯る様態をより高次なる立場より把握したものである。そのより高次なるものを私は人間の自覚的生命に於て捉えたいとは前にも書いた通りである。斯るものとして私は経験は偶然的であるとおもう。

 偶然とは何か。此処に石がある、それは偶然でも何でもない、唯ありのままである。 その石に私が蹴躓いたとする。その時その石は偶然其処にあったのである。私は否定に面したのである。赤犬が私を襲おうとしたとする。私がその石を掴んで投げて追っ払ったとする。私は否定を肯定に転じたのである。その時その石は偶然そこにあったのである。人に してもそうである。もし私が群集の中にゐたとする。それは偶然でも何でもない。そこで知った人に出会ったとする。するとその時、其処、知人、自分等全てが偶然となる。そして知った人とは、出会いたかった人か、出会いたくない人か、肯定か否定かの何方かの人である。その何方でもない人は知った人ではない。偶然とは生命がその時、その場所に於て死生転換する唯一点の事柄である。故に私は人間を除く生命は偶然的であり、人間も亦生命としてその多くを偶然にもつと思う。経験とは斯る偶然を把握したものである。把握するとは偶然としてあったものを繰り返すことの出来るものとするということである。言葉による蓄積である。そして言葉によって蓄積することによって偶然は経験となるのである。経験を蓄積するとは如何なることであるか。

 生命は種と個の綜合として生命である。個的生命は生死することによって個的生命であり、種的生命は個的生命の生死を内包することによって、自己を維持するものとして種的生命である。否定と肯定を内包することによって自己を維持するということは、種的生命は無限に技術的であるということである。環境との相互限定に於て、無限に適応的であるということである。如何なる小さな虫といえども、それ自身によって動くということははかり知れざる機構をもつものでなければならない。死生転換を介して種的生命はそれを構成して来たのである。偶然はその刹那に於ける外に対する内の対応があって偶然である。その対応の背後には限りない生命の技術的形成があるのである。

 死生転換に於て主体の客体化が死であり、客体の主体化が生である。環境が凛烈なる寒気をもつとき、身体がその寒気に閉さるる時は、主体の客体化として死にゆくのであり、体温を保持すべく環境を変換するときは、客体の主体化として生を見るのである。生命はその生きんとする意志に於て、常にその生の方途を見出してゆく、その方途を記憶によって再生せしめる事が出来るのが蓄積である。

 環境は我々に繰り返すものとして与えられている。日は繰り返し年は繰り返す。環境が 循環的にあるということは、方途が繰り返されるということである。再生とは繰り返し の中の無限の方途から最善の方途を撰び出せるということである。そしてその方途の上に新たな方途を積上げる事が出来るということである。

 私達は斯る蓄積を言葉に於てもつ、言葉を作った人はないと言われる。それは人間の呼び交わしの中から出で来ったと言われる。それは無限の人の交流の中より自から作られたものとして全人類の内容である。我々は世界の中に於て言葉をもつのである。言葉は内なるものを外に表わすものとして自覚的である。自覚は個を超えた全人類の内容として、世界形成的として種的生命が自覚するのである。蓄積は生死する生命を内包する種的生命に於てあり得ると思う。新たな方途も、一人の人がもつことは出来ないと思う。無数の人による無数の方途が、言葉によって結合するときに生れるのであると思う。

 環境の主体化とは物を身体の延長とすることである。環境という言葉は既に主体との交叉を意味するのである。巣を作り、塒を作るのも主体化である。それが人間に於ては自覚的である。自覚的とは本然的に具有するのではなくして、記憶と再生と他者との結合に仍て、其の時、その場所によって構図を画くことである。其処に人間の技術がある。構図を画くとは製作することである。

 私は必然とは人類が製作的、発展的となることであると思う。一つの製作としての形が 新たなる経験の形を加えることによって、より主体化されるのが必然であると思う。全人類の内容として、形が形を呼ぶのが必然であると思う。甲が作った形に、乙が自分の見出した形を附加してゆくのである。著積するとは単にあることではない。これによって生きよと呼び声をもつことである。そしてそれによって生きると共に我々は我々の製作としての経験を附加することによって、次の時代への呼び声とすることである。斯る時の連続附加が必然であると思う。

 私は偶然とは斯る必然への転化以前として偶然であると思う。偶然が言葉によって永遠の内容となることによって経験となり、経験が言葉によって統合整理されて技術的製作的として必然となるのであると思う。必然とは自覚的形成的ということである。偶然は必然の光りに照して偶然である。

 かつて何かの本で偶然は原因が複雑で究明し難い事柄であると言った意味のことを読んだ事がある。而し私は犬に吠えられた時に、其処に石があったということは、幾億光年の星の距離を測定するより複雑であるとは思われない。偶然とは言葉以前なるが故に偶然であると思う。

 勿論私は偶然が単純であると言わんとするものではない。我々が生命である限り我々の日常は偶然的である。主体化である限り主体は達すべからざる深さである。四十億年前に地球の誕生があったと言われる。その間生死を繰り返すことによって形成し来った機構は解くべからざる謎であると思う。唯生命として死生転換にその機微の一端を現わすのであると思う。我々は偶然に於て垣間見るのである。

 かつて何かの本で南方の未開人が酋長を決めるのに角力を取る所がある。その時に誰が見ても強く、酋長になると思っていた男が、偶然そこにあった木の根に躓いて負けとする。すると皆は勝った方を酋長にすべく、神がそこに木の根を置いたと信じて疑わないと書いてあるのを読んだ事がある。私はそこに偶然に対する最初の受取り方があると思う。そこは未だ偶然と必然は未分である。木の根は神の心に於て必然である。斯る必然が更に根源的な因果の必然の自覚によって、木の根は偶然となり、神の心の方向に力の必然が生れるのであると思う。木の根に躓いたということは経験となるのである。根源的なる必然の自覚は、言葉が時を内にもつことによって生れるのである。

 環境の主体化とは、環境を外的身体とすることでである。身体の延長として環境を変革することである。道具は物を手の延長とすることであると言われる。我々は道具によって対象を変革し、死としての環境を生に転じる。蓄積は身体によって、身体の外化として蓄積されるのである。外化に対応するものとして大脳の言語中枢の発展に於て蓄積するのである。故に蓄積とは無限に製作的である。而して製作の必然より見るとき、最初に道具の素材となったものは偶然である。其処に経験の蓄積がある。

 経験の蓄積は全人類的として、必然は人類の種の内容であると思う。それに対して経験は死生転換として、偶然は生死する個的生命としてあると思う。人間生命は自覚的として何処迄も必然化であると共に、個的身体的として、何処迄も偶然的であると思う。必然に於て人間の栄光をもち、偶然に於て豊潤なる質料をもつのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

経験

 生命は身体的として、内外相互転換的である。食物を摂ることによって、細胞が増殖と死滅をもち、形相を維持してゆくのである。食物は摂取するものとして、我ならざるものであり、食物の欠乏は死として、外なるものである。食物は我々に必須なるものでありつつ、我ならざるもの、外なるものとして、その獲得に努力しなければならないものとして我々に対して環境となるのである。

 内外相互転換的として、生命は主体的、環境的である。環境は単に食物的環境として、我々に対するのみではない。食物を介して、他の生命と対するのであり、行動するものとして環境の状態と対すのである。対するとは否定し来るということである。環境は否定として、死をもって我々に迫ってくるものである。内外相互転換的とは、斯る死をもって迫ってくるものを生に転ずることである。環境は常に我々に対するものである。常に対するとは常に死をもって迫ってくることである。常に死をもって迫ってくるとは、生命は常に危機としてあるということである。

 我々の身体は幾億年前の生命発生以来、斯る否定を乗り越えて来たものとして、維持して来たのである。外を内にするとは、機能的であるということである。獲得するものとして、異質なるものを同質化するものとして、それは限りなく組織的統一体でなければならない。我々の身体には六十兆の細胞があるという。そして一日に何十億かが死滅し、新生するという。それが全て機能し、その統一的整正体に於て、死を生に転換するのである。新たな状況に対応する力となるのである。

 内外相互転換的として、環境が常に否定として迫ってくるとは、状況的として一々が新たなことでなければならない。身体が機能的であるとは、転換の経緯を身体の組織に於て蓄積することである。若し常に同じ状況がくり返されて、生の維持があるとすれば、それは危機でなくして楽園である。死は身体に内在的なものであって環境が死として迫ってくることはない。生物の身体は状況としての危機の中から無限の機能を作って来たのである 生体の進化とは、如何に多面的に危機に対応出来るかの機能を作って来たかにあるとおもう。

 一瞬一瞬に否定的転換として、機能がはたらくとき、それは反射的である。その反射作用は、その生体が数億年形成し、蓄積し来たった機能の全身的動作に於ける、死の生への転換である。私は経験とはかかる生命の営為の人間の自覚的把握であると思う。

 自覚とは生命が超越者に自己を映して、自己を見ることである。個が永遠を宿すことである。私達は斯るものを言葉にもつ、私達の先祖は、語部によって個を超えた民族の歴史を語り伝えた。言葉は時の変化を超えて、過去、現在、未来をその中に包むものである。私は、経験とは一瞬一瞬の内外相互転換の営為が、永遠に包まれたものと思う。

 一瞬一瞬の営為が包まれるということは、死生転換の機能のはたらきが蓄積されるということである。一瞬一瞬の、危機を超克した機能の技術が蓄積されるということである。

 私は前に身体が機能的であるとは、死生転換の経緯を、身体の組織に於て蓄積することであると言った。自覚とは断るものを、言葉に於て蓄積するのである。身体は生死し、亦変化する状況に対応する為に、前の事柄を忘れなければならない。身体の蓄積はその故に生得的機能の蓄積に限られて、習得的機能のはたらきは、その個体の消滅と共に消滅するのである。言葉に於て蓄積をもつとは、個体のはたらきを、個体を超えて蓄積するのである。それは限りない蓄積である。

 この頃の猫はねずみを取らないと言われる。聞くところによると、ねずみをとるのは、猫の本来的なものではなくして、親猫が教えなければいけないそうである。だから生れたすぐにもらって来た猫は、ねずみをとることが出来ないのだそうである。これが人間であったらどうであろうか。いつであったか、発見された図面によって、戦国時代の製鉄法の炉を築いたと書いてあった。幾世代を超えて過去の事物を現前せしめたのである。恐らくそれは長い経験の積み重ねであったであろう。そしてそれは言葉の延長としての文字と、図面によって伝えられたのである。そこに人間の蓄積があるのである。

 蓄積するとは、現在に於てはたらくということでなければならない。生命はどこ迄も死 生転換的である。転換の経緯が蓄積されるということは、現在の転換に応用出来るということでなければならない。

 死生転換とは、死を生に転換することである。環境としての死を生に転ずることである。それを蓄積するとは環境を変革することでなければならない。生体に於て転換は一瞬一瞬であった。其処に変革はない、状況の変化があるのみである。それを蓄積するとは持続することである。持続するとは環境を生の相に作ることである。そこに機能のはたらきの持続があるのである。はたらくとは環境を合目的的とすることである。

 環境を変革するとは技術的ということである。経験を蓄積する生命とは、多くのものを 包み、統一する生命である。無限の個の経験を一に結合する生命である。私は技術とは、無限の経験が現在に於て、一つとしてはたらくものであると思う。

 はたらくものは身体としてはたらく、身体としてはたらくとは、環境に身体の構構を投 影することによって、環境を生に転ずることである。人間は手の延長として道具を作り、道具を使うことによって物を作り、物を作ることによって人間になったと言われる。道具の使用が人間のあけぼのであると言われる。かくして経験の蓄積は、人間を表現的、製作的身体とし、経験は製作的経験となるのである。一瞬一瞬の相互転換を永遠なるものに於て包むとは、斯く製作的身体の行為としての経験である。

 湯川博士は、物理学は視覚と関節覚と綜合の発展であると言われる。斯る意味に於て音楽は聴覚の発展であり、絵画は視覚の発展であると言うことが出来ると思う。私は真理とは表現が、身体の機能のはたらきと一致したることの直覚であると思う。力とか、数とかの学の内面的必然も、数億年の組成を内として、それの外化として機能に添うものであると思う。視覚とか、関節覚の延長とは斯るところから見られるのであると思う。宇宙の大も、身体的構成の外化として、構成することによって見ることが出来るのである。最初の宇宙把握が擬人的であり、漸次身体の真に動くものへの把握はこれを証すると思う。

 蓄積するとは、はじめにおわりがあるということである。現在がはじめをもつというこ とであり、はじめが現在に働いていることである。はじめとおわりを包むものによって、 蓄積があるのである。

 而して蓄積するとは、何処迄も個が世界を破ってゆくことである。無限なる経験の著積は、金銭の貯蓄の如く、同質なるものの量的蓄積ではない。同質なる物の蓄積は、経験の蓄積の上に築かれたものである。死生転換として、環境的、主体的なる経験は一回的である。一回的なものとして過去にも、未来にも有らざるものである。一回的なるものの附加として過去の変貌を求めるものである。

 変貌を求めるとは、過去の蓄積の上に立つことである。而してそれを否定することである。永遠が現在に於てあることである。永遠の内容としての一点が、逆に永遠を内にもつことである。現在の経験が、経験の蓄積の上に立つとは、歴史的形成的ということである。我々は歴史的現在に生き、歴史状況に対する、否定即肯定として、内外相互転換として経験するのである。それは最早素朴なる自然の内外相互転換ではない。ワイルドが「自然は芸術を模倣する」と言った意味に於て、内外相互転換をもつのである。そこに永遠としての言葉が、経験を蓄積するの意味があるのである。

 経験が一回的であるとは、内外相互転換としての生命は、無限に多として自己を限定するものであるということである。内外相互転換として、否定として迫って来る環境は状況的である。否定として迫ってくる状況を、肯定に変えたということは、状況を変えたということでなければならない。即ち異った状況として、状況は我々に死として迫ってくるのである。生命は製作的主体として、環境は歴史的状況として、我々の経験はあるのである。

 個は個に対することによって個である。状況に対する主体は、無数の個として対するのである。言葉は我と汝が交すのである。此処に蓄積がはじまるのである。言葉をもつとは永遠を内にもつことである。一人一人が永遠を内にもち、永遠に於て対話するところに、経験は蓄積されるのである。変化する状況に一人一人が死生転換する。そこに蓄積があるのである。蓄積とは複雑化である。複雑なるものの統一である。そこに無限の個人が要求されるのである。

 変化する状況の中に生れて、死生転換する個人は、常に無として出現するのである。此処に無というのは、予め作るべき形相をもって生れて来たのではないということである。昔狼の中に育った少年が捉えられたことがあった。その少年は手足で走り、狼の如く吼えたそうである。即ち狠の状態に生きたのである。生れたものは生きる世界を映すのである。無として生れるとは、生れるものは現在に生れることである。現在とは生が対決すべき状況である。我々は限りない経験の蓄積としての、歴史的現在に生れたのである。而して現在の史的状況が抱える、課題の転換を担って生れたのである。

 刹那としての死生転換を、言葉として永遠の相下に捉えることは、自覚的ということで ある。自覚とは自己が自己を知り、自己が自己を見ることである。死生は我の状態である、そこに経験の蓄積は自己を知ることを要請する。知るものを知ることを要請する。

 我々は此処に不可知者に遭遇するのである。言葉に現前するのは内外相互転換に於てである。それは常に状況として、変化するものである。それを捉えるものは言葉であり、言葉をもつものである。知るものを知らんと欲することは、唯一者としての、不変なるものを知らんとする欲求である。而してそれは変化としてのみ現前するのである。内外相互転換として、状況は限りなく変じてゆくものである。その一々の否定即肯定として、言葉は常に異なった言表をもつのである。

 斯く我々の内深く、一としてありつつ、無限に変ずるものとして現われ、現在を否定よ り肯定に転じ、肯定より否定より転ずるものが神と呼ばれるものであると思う。それは現 実限定として直下に触れつつ、過去として過ぎ去り、未来として未だ来らざる、触るるべからざるものである。我々も亦一瞬一瞬の映像として、時の流れの中に没しゆくべきものである。而して没しゆきつつ、神の映像として時を超え、時を包むのである。私は経験は深く神の自己限定としてあるのであると思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

直観と反省

 全て生命が見るのは直観的である。直観とは生命が自己形成に於て物を見ることである。前にも書いた如く、生命は内外相互転換的である。我々は摂食と排泄に於て生きるのである。外を内とし、内を外として生きるのである。食物を摂らざることは死である。食物的世界は死として我々に対立し、対立することによって外となるのである。而してそれは単に対立するのではない。我々は外によって生きるのである。我々がそれによって生きるものとして、外は環境となるのである。死として迫ってくる外を内とするのが生である。内外相互転換とは死を生に転ずることである。そこに生命の営為があり、生命は努力によって生きるのである。

 外が死としてあり、それを常に転換して生きてゆくとは、生命は常に危機としてあるこ とである。我々が環境の中にあることは、常に死に面していることである。それを生に転ずるのが営為である。死生転換の一瞬一瞬の形相を実現せしめるのが直観である。それは偶然的である。而しそれは単に偶然的なのではない。死を生に転ずることは、対象を変貌せしめることである。それは技術的である。

 経験に於て書いた如く、我々の身体は無限に機能的である。その機能は何億年の生成の過程に於て、死生転換の経歴に於て組成されたものである。それは環境としての、自然の循環性に応じて組成されたものである。更に風土としての地理的条件に応じて組成されたものである。我々の身体は斯る基盤の上に組成された、能動的統一体である。死生転換の一瞬の偶然は、数億年の時間の背景をもつ行為なのである。

 人間の身体のみにあって、動物の身体にないもの、それは言語中枢であると言われる 言語によって経験を蓄積することによって、人間になったと言われる。昔時語部が語り継ぐことによって、先祖の事蹟を伝承したと言われる。言葉は個体を超えるのである。個体を超えることによって、個体を内にもつのが蓄積である。一瞬一瞬の内外相互転換が、永遠に映され、永遠の内容となるのが蓄積である。蓄積に於て内が主観となり、外が客観的世界となるのである。

 我々は一人一人が言葉をもつ。言葉は個体を超えたものである。個体を内にもつものである。一人一人が言葉をもつとは、個体は我を超えた世界を、逆に内にもつのでなければならない。一瞬一瞬の死生転換をもつのは個体である。経験が蓄積されるとは、個体が言葉をもつことによってはじめて成り立つのである。この我を超えたものを内にもつことによって、我々は自己の中に自己を見るのである。人間は自覚的生命である。

 言葉は語り合うことによって言葉である。独語の如きも、自己の中に他者を見、他者としての自己との対話という意味がなければならない。言葉は私の言葉という意味に於て、私の中にあり、語り合うと言う意味に於て、私は言葉の中にあるのである。言葉の中にあるとは無限の他者と連ることである。我々はそれによって、無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達するのである。私の言葉によって我々は個的生命を自覚し、語り合うことによって、種的生命としての全人類を自覚するのである。而してこの相反するものは常に一である。私の言葉は語り合う言葉であり、語り合う言葉は私の言葉をもって語り合うのである。私達は語り合うことによって世界を作る、世界とは種の生命の自覚の形相である。

 言葉が常に世界の実現でありつつ、言葉はこの我の言葉であるとは、この我に於て常に新たな世界が実現しているということである。世界は内に矛盾をもつということである。現在を否定し、自己を破ることによって、自己を維持するということである。無数の人々が対話によって生きているとは、世界が常に自己を破って、新たな世界を作っていることである。生産を背景に、それが一つの潮流をなすことが歴史の動向である。その否定と肯定が直観である。

 死生転換する生命は何処迄も生死する生命である。たかだか生きて百年の生命である。ある生命はその中に無限の蓄積をもつことは出来ない。無限の生命は、個でありつつ個を超えなければならない。私はそこに生れるということがあると思う。新しい生命が生れて新しい個性に於て死生転換をもつ、其処に蓄積をもつのであると思う。 死生転換の技術的蓄積は、死生転換の刹那刹那に於てのみ行持されるのである。技術は製作に於て維持されるのである。私は是を明らかにする為に、生れるとは如何なることであるかを立入って考えて見たいと思う。

 度々例に引くことであるが、私の若い頃狼に育てられた少年が捕えられたと、新聞に報ぜられたことがある。その少年は手足を用いて走り、狼の唸り声をもつのみであったと書かれていたように思う。記憶違いがあるかも知れないが、兎に角狼の習性に生きて、人語を教えようとしても、何うしても覚えることが出来なかったという。

 生れるとは主体的環境的としての状況の中に生れるのである。人間に於ては経験が蓄積され、形成された世界としての歴史的現在に生れるのである。史的状況に於て死生転換をもつのが生命形成である。生命は死生転換的に状況を映してゆくのである。映すとは自己の内容とすることである。生れたものは形成的世界を自己の内容として、歴史的現在の上に立ち、現在の状況としての、内外相互転換にそれ自身の言葉をもつのである。新たな状況に対する、新たな言葉をもつのである。而して言葉は個的世界的として、新しい言葉は 世界が世界自身を破り、新しく生れるのである。

 歴史はその内包する矛盾によって動いてゆく。矛盾とは世界が世界自身を破ってゆくことである。私は矛盾とは生命が自己と異なる生命を生んでゆくことであると思う。生れた生命は、生んだものならざる生命である。生んだものとは異なった主体として、異なった状況を映し、異なった言葉によって自己を形成してゆくものである。異なった世界を形成するものとして、生んだものと対立するものである。対立するとは否定関係をもつものである。生れたものが生んだものを否定するとは。新たな言葉を附加することによって、より大なる世界を形成せんとする努力である。

 此処に歴史的創造があるのである。歴史が創造であるとは、新しい個体が新しい世界を作ってゆくことである。個体と個体は否定関係として、他者としてあり、一つの世界より次の世界へは、他者の現前として飛躍である。蓄積の上に立つことは連続である。個より個は飛躍である。歴史的創造とは連続が飛躍であることである。そこに言葉に経験を見てゆく生命があるのである。

 何処迄も言葉に見てゆくものとして、歴史は世界の自己限定である。内外相互転換的として個体的である。斯るものとして、新しい個体が生れ、新しい個体が、新しい言葉をもつとは、現在ある世界を古い世界として、否定さるべき世界として見出すことであるとおもう。矛盾とは現在ある世界を新たなる個体が、より大なる創造への目をもって見るところにあるのであると思う。以下少し私の立場から歴史の矛盾を考えて見たいと思う。

 現代最も多く語られる矛盾は労使の階級的対立である。労使の対立は産業革命以後の、生産手段の工業化の所産である。而し産業革命の成立当時、果して斯る矛盾の自覚はあったのであろうか。生産手段の発展と、教会統治の矛盾の克服として生れた産業革命は、そのもつ可能性の輝きに陶酔したのではないかと思う。その中に対立を見たものは、産業革命を打樹てた当時者ではなくして、其の中に生れた新たなる個性であったと思う。新たに生れたものが、その上に立ってより大なる世界を築かんとする時、現在ある世界を克服さるべき古い世界として、克服さるべき与件として労使の対立を見出でたのであると思う。実際にも階級対立を見出したものは、抵抗するものとしての労働者の自覚ではなかったようである。階級斗争の演出者マルクス、ホロシア革命のレーニン、トロッキーは貴族の出であると聞いたことがある。フランス革命もそれを指導したものは一般大衆ではなくして有産階級としての知識人であったと聞く。 その中に生れたものが、其の状況の上に立ってより大なる世界を形成せんとする声をもったのである。

 この飛躍が直観である。故に常に新しい生命の生れ継ぐ世界は直観の世界である。 直観は生れ来った個体の担うものとして直観である。而して言葉によって露はとなるものとして、世界の自己限定である。蓄積された技術の上に言葉をもつとは、世界が世界自身を見てゆくことである。個体が言葉をもつとは、世界が自己を直観してゆくことである。その極限に天才がある。天才とは新しい言葉をもつことによって世界を過去とし、世界の中に矛盾を見出して、より大なる世界像を樹立するものである。

 世界は個体が担う直観に依て、世界自身を否定の肯定に於て維持してゆくのである。無限に動的なる歴史的世界は現在より現在へである。生死する身体の限定として、事実より 事実へである。

 直観と蓄積は相反するものである。蓄積は維持されてゆくものである。直観は否定する ことによって変革するものである。而して直観は内外相互転換として、生命の本来的なものである。斯る本来的なるものの蓄積によって人間は人間になったのである。我々の直観も前に書いた如く、蓄積の上に於て歴史的現在となるのである。斯る蓄積を直観に対する反省として、以下少し考察を加えて見たいと思う。

 私は前に人間は言語中枢をもつことによって経験を蓄積することが出来ると言った。言語は個体を超えて、個体を包むものであり、個がそれによってあるものとして、経験を内にもつものとなると言った。そしてそれは人間の身体のもつ個的性格と種的性格の二重構造の自覚にあると言った。

 人間の自覚は無限に自己を外に表わすことによって、自己が自己を見てゆくことである。無限に外に見てゆくとは、外を変革することである。生命創造と言っても、六十兆個の生滅する身体細胞と、百四十億個の不変なる脳細胞を有する身体構造は不変である。機能活動の密度が高まるのみであって、内外相互転換の蓄積は外としての環境の変革である。環境は我々がその中に生れ、営み、死んでゆく所である。内外転換として、否定として迫ってくるものであり、我々の生命は否定を否定して生くるものとして、我々は働くことによって生きるものである。働くとは言葉を生命が内外相互転換することである。

 我々は環境に於て言葉をもつ、言葉をもつとは対話をもつことである。我と汝が環境に於て関り合うところに言葉が生れるのである。言葉をもつとは、死生転換の死の方向を外とすることである。我々が内外相互転換というとき、既に言葉をもつものとして見ているのである。而して死の方向、外の方向に物を見、生の方向、内の方向に生命を見るのである。物は環境として、外として、死として迫って来るのである。斯くして我々は物の中に生れ、物の中に生き、物の中に死んでゆくものとなるのである。

 言葉を媒介したる内外相互転換としての外は物である。物は内に転換されたる外として製作物である。内に媒介されて作られた物は外として、我々はその中に生れ生き死んでゆくのである。それが世界である。そこに個を超えた言葉の、種の自覚があるのである。自覚とは世界形成的である。言葉をもつ生命がそこに働き死んでゆく処として、其処に普遍的世界があるのである。

 私は内外相互転換としての経験は物に蓄積されるのであると思う。物は自覚的生命の内外相互転換の内容として、内の外化方向に道具、機械に発展し、外の内化方向に消費物として顕現するのであると思う。斯く蓄積された世界の内容は、新しく生れ出でた生命の死生転換の立脚点となるものである。未来がその上に立つものとして、未来を限定せんとするものである。新しい言葉がその中に矛盾を見るとは、蓄積されたものが歴史的現実として、未来を決定せんとするのを、過去としてその延長を断ち切らんとすることである。反省とは斯る転換に介在して、蓄積より未来を限定せんとすることであると思う。

 蓄積より未来を限定せんとすることは、経験を組織し体系化してゆくことである。体系 化によって機能化することである。分化と統一をもつことによって合目的的となることである。斯る体系化が自覚的生命の内外相互転換である。相互転換は相互否定である。環境よりの否定は、身体が環境となることであり、身体よりの否定は、環境を身体化することである。技術的、製作的としての自覚的生命に於ては、物が人を作り、人が物を作るのである。反省は斯る形相を時間の流れを超えて樹立することである。それは何処迄も相互転 換的として、永遠が瞬間であり、瞬間が永遠である。永遠が瞬間であり、瞬間が永遠であるところに物の製作があるのである。和辻哲郎が倫理学で言っている如く、世界は人間の在り方の外化であり、ロダンが道行く一少女を指して「そこに全フランスがある」と言っ た如く、人間は環境の綜合である。斯かる綜合の立場より、一瞬一瞬の限定を綴ってゆくのが反省である。

 食うだけなら犬でもするという言葉がある。蓄積するとは余剰をもつことである。転換 しつつ転換の現在を超えることである。言葉によって蓄積するとは、言葉に映すことであり、言葉を映すことである。私は物を作るとは物は常に永遠の像の自己形成の意味をもつと思う。食物を蓄積すると言った事も、蓄積自身が時を超えると共に、超える生命が自己自身を見とする行為であると思う。例えば耕作に当って殻神を祭り、耕作行為を仮現して祈ると言ったことは常に見られた事であると言われている。それは耕作に対して必要以上の事である。而してこの必要以上の事が、必要な事よりも重要視されているように思う。勿論物を得ることが目的であろう。而し外に物を作るということは内も作られることである。物は自覚的生命の内外相互転換の一方の極に見られたものであり、一方の極に作るものの形が現前するのである。

 私は作るものの方向に、生命存在としての個と種の二つの面が見られると思う。個は生死するものとして身体維持的である。種は個を超えて個を包むものとして形相形成的である。個を超えて個を包むとは、個を成立せしめて、その統一の上に自己の形成作用をもつことである。儀礼とか、道徳とか、法律とかは、斯るものによって成立するのであると思う。芸術の如きも、身体が身体維持面を極小として、世界の形相の表象を見た処に成立するのであると思う。

 物は身体維持的である。私達は物を衣食住に必要なものとして製作する。而し製作された物は、単に身体維持的なるもの以上のものをもつのである。物は形をもつことによって物である。例えば茶碗の如きものであっても、食物を入れるという有用性の外に、安定、整正、美麗、繊細、清潔、重厚等其の他の感情を起させる。それは有用性と関りなき形の誘起する感情である。それは価値感情として、個を超えたものが、個に自己を見出でた感情である。超越者の自己表現として形はあるのである。物は常に斯る両極をもつことによって作られるのである。超越的なるものが個物的なるもの、生死するものが永遠なるものとして、稲の田植、収穫は亦神を祭ることであることによって、物の生産はあるのである。物は単に有用性によって生れたのではない。種と個、身体維持と形相顕現、永遠と瞬間の動的生命の自覚の一極として生れたのである。よく発明家が寝食を忘れて研究すると言われる。寝食を忘れるとは個体維持の否定である。彼は其処に底深き自己の、底なる自己としての人類の形相の実現を求めているのである。神の荘厳を見出さんとしているのである。而してそのことが物を作ることなのである。身体維持としての有用物を作ることである。形は永遠の内容として個を越えるのである。

 我々が自覚的生命として、環境を物として物の中に生れ、物の中に働き、物の中に死んでゆくとは、環境形成的ということである。それは製作的として世界を作る事である。而して世界は個的種的として、種の方向、永遠の方向に価値を見るのである。全て世界にあるものは、個の方向に生滅を映し、種の方向に永遠を映すのである。全て形あるものは壊れると同時に、全ての形は永遠である。我々が生死する世界は価値実現の場である。我々は世界の中に価値を見出すものとして自己である。世界は我々の価値実現を自己の創造とするのである。直観と反省は相反しつつ一つとして、世界は無限に自己を創造するのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

内面的なるもの

 内面への探究という言葉がある。生命は創造的なるものであり、創造は内面的なるものの表出であると考えられている。内面的なるものの表出であるとは、内面的なるものは働くものとして、外に明らかになることは、内に深く還るということでなければならない。私達は直接働くものとして身体をもつ、身体によってものを作り外に自己を見るのである。身体によってものを作り、外に自己を見るとは、身体は創造的なものであり、創造的生命として身体があるのでなければならない。身体は何によって自己を外に現わしてゆくのであるか。

 身体は内外相互転換的であり、身体が生きているとは内外相互転換をもつということである。内外相互転換とは外を内とし、内を外とすることである。外を内とするということは、内が機能的構造的ということであり、内を外とするということは、内の機能的構造的 なるものの秩序に外を変えてゆくということである。生死というものもそこにあるということが出来る。内外相互転換とは相互否定的ということである。生物的生命に於て外としての食物の欠乏は死である。死の克服の為に努力が必要である。機能によって外を変えてゆくことは外の破壊である。生体維持には常に努力と破壊がつきまとうのである。斯る相互否定としての内が身体であり、外が環境となるのである。

 生命はアメーバーより初まったといわれる。その当否はしばらくおくとしても、現在こ の地上に見る複雑な生命の構造が最初からあったと考えることは出来ない。アメーバーから現在の生物の構造は如何にして出来たのであろうか、私はそこに生体と環境の限りない相互否定の闘争を思わざるを得ない。内外相互転換は状況的である。状況的とは常に新たな局面に対するということである。生命は新たな局面に対す機能をもたない限り死滅せざるを得ない。私は生命とは新たな局面に対して、対応する新たなる機能を生みゆく柔軟体であると思う。昔に於て激烈なる流行病にも人口の三分の一は残ったと言われる。人間の身体は対応する新たな物質を作ったのであるとおもう。アメーバーより現在の生物へ、それは限りない相互否定としての、生死の繰り返しの中から獲得して来た機能の集積としての形相であると思う。そのことは獲得した資質は、個体を超えた種族に於て維持されているということである。われわれの資質形相は種族の資質形相であるということである。創造とは獲得された資質形相が新たな状況に働き、新たな資質形相を獲得することである。そこに生死がある。個体に於て死とは個体の消滅である。併し種族に於て個体の消滅は、獲得した資質の遺伝に於て、新たなる資質の獲得の原動力となり、無限の底にひびきゆくものとして、新たな再生をもつのである。私は驚異すべき生物の構造と能力は、生物発生以来の環境との相互否定としての、生死の反復がもたらしたものであるとおもう。個体は形相完成的に成熟してゆく、成熟は資質獲得能力の喪失である。内外相互転換能力の完全な喪失が死である。斯くして生命的種が持続することは個体が生死することである。そしてそれが生命創造である。創造とは生死を内にもちつつ、生死を超えたものの生命の 形相である。

 私は人間を自覚的生命として捉えようとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。我々は自己を外とすることによって自己を見る、物を作ることによって、物に写された自己を見るのである。技術的製作的生命となることによって我々は自己を見、自己を知るのである。

 外に見るというとき、そこには見るものと見られるのがなければならない。物を作るとき、そこには作るものと作られるものがなければならない。作られたものは、外に見ら れたものとして我ならざるものである。我ならざるものとして、我に対するものである。 而してそれは我の外なるものとして、それによって自己を見てゆくものである。否定を介して肯定に転じてゆくものである。そこに於て内外相互転換は形相を内と外とに分つのである。そこに内と外との対抗緊張が生まれる。内とは見るもの作るものであり、外とは見られたもの、作られたものである。作るものとは如何なるものとして作り、作られたものは如何なるものとして作られるのであろうか。製作的生命として内外相互転換は如何なるものであろうか。

 私は自覚的生命とは、生物的生命が自己自身を見、自己を外に製作的に表現するものとなったと思うものである。生物的生命に於て内外相互転換は純一である。蜜蜂は花を求めて飛ぶ。而してそれは花が蜜蜂を誘うのである。花の色か香りか知らないが蜜蜂の官能と直ちに一なるものがあるのである。蜜蜂は飛ばんとして飛ぶのではない、飛ぶべくして飛ぶのである。人間が製作的生命であるとは、斯る一なる生命が道具をもつということである。道具をもつとは例えば手で物を壊す代りに、より大なる破壊力をもつ石を利用するが如きである。道具は手の延長であると言われる。石は手の延長となるのである。

 如何にして人間は道具をもったのであろうか、私はそこに内外相互転換としての偶然を集積したと思わざるを得ない。一瞬一瞬の営為をはたらくものとして蓄積したのであると思う。蓄積するとは過ぎ去ったものが現在に於てはたらくということである。内外相互転換の蓄積を生物ももつ、併しそれはいつ迄も偶然を超えることが出来ない。 製作とは偶然を時の統一に於て組織したものである。道具とは斯る組織に於て内と外を媒介するものである。

 自覚的生命に於て時を統一するものは、身体ではなくして言葉や技術となる。身体が身を超えるのである。身体を包むものとなる。身体を包摂するものとして、身体を見るものとなるのである。身体を見るとは、身体を外に表現することによって見るのである。製作とは身体が表現的に自己を見てゆくことである。我々が内的生命の意味を問うのは、斯る自覚生命として表現的にはたらくものである。製作的生命が外に表わすものである。

 生命は本来内外相互転換的である。内を外し、外を内とするものである。自覚的生命 とは斯る生命を自覚するものである。言葉や技術が時を統一するとは、内外相互転換的なるものを表現的に蓄積することである。蓄積するとは外を内としたものが、内として外に表われるものとなることであり、内を外としたものが、外として内に還ってゆくことである。内として外に表われるものとなるとは、未だ外ならざるもの、表われざるものとして、外と対立するということである。而してそれは表われるものとして内と外は一なるものである。斯かる対立をならしめる媒介者が道具であり、対立をならしめるものは努力である。私達は努力するものとして内面的なるものを問うのである。

 よくこの頃書道教室というのを見かける。行くと手本を傍に置いて一生懸命に真似ている。そして書き上げては教師に出して朱筆を入れてもらっている。各自が幾度もそれをくり返している。私はそれを見乍ら、その一々の繰り返しがその人の能力となってゆくのだ と思った。この能力が増すとは、手本の先覚や教師の力を習うことによって得るということである。

 先覚者や教師は他者である。私達は他者を学び、他者を自己とすることによって能力を得るのである。能力とは自己を外に表わし得る力である。表わす力が増したということは表わす内容が増したということである。表わす内容が増したということは他者を自己としたということである。私達は他者を自己とすることによって自己を外に表わすことが出来るのである。外に表わすものが内であるとすれば、我々の内なるものは我ならざるもの、絶対の他者にあるのでなければならない。若し私が生れたすぐに無人島に捨てられて育ったとすると、私に如何なる自己を表わすことが出来るであろうか。摂食と排泄の身体具有の本能のみであろう。そこに表わすべき内的なるものはない。

 先覚も教師もかっては習ったものである。淵源は重々無尽尋ねつくすことの出来ないものである。連綿として人より人へと伝えゆきつつ、何の人も学び伝えるものとして、その人を超えたものである。大きな流れの一滴として、人々をあらしめるものである。私達をして外に表したいと思わしめるものは、この大なる表現の流れに外ならない。内とはこの大なる流れである。外が内となるのである。獲得した形が次の形を呼ぶのである。

 形が形を呼ぶとは、今迄見えなかった微妙なものが見えてくることである。習字に於ては今迄見えなかった線が見えてくることであり、絵画に於ては今迄見えなかった色が見えてくることである。習熟とは無数の線、無数の色が見えてくることであり、引かれた一つの線、塗られた一つの色が、次の線或は色をその無数の線は色の中から唯一を決定してゆくことである。上手な字とか絵とかには、表わされた一つの線は色には、背後に無数の線は色をもつのであり、無数の線は色から決定された一なのである。斯る決定は形が形を呼ぶものとして決定してゆくのである。 習字に例をとれば、大の字を書くにあたっ 最初の一の線のあり方が、次の人の線のあり方を呼ぶのである。この呼びと応えのあり 方が字の完成度である。呼びと応えのあり方が内面的必然である。我々が表わすとはこの内面的必然をもつということである。

 形が形を呼ぶとは、最早我々を超えて形が形自身を決定してゆくことである。我々が形を決定するのではなくして、我々は形の中に深く入ってゆくのである。勿論線や色を見出してゆくのは目である。目は私の目である。而して私の目は私の恣意なるものとしてあるのではなく、対象を見る目として、対象の真実を見る目としてあるのであり、対象の真実は形が形を作るものとしてあるのである。

 線が線を呼び、色が色を呼ぶことが、形が形自身を作ることであるとは、最初から何か表現すべき形があったということではない。生命の内外相互転換の中からおのずから表れ来ったのでなければならない。死に面して生きんと努力の中から、おのずから結晶し来ったものであると思う。最初に表われた形が次の形を呼んだ時、動的生命としての無限の展開を孕んだのであると思う。

 生と死、対象と自己の矛盾的同一的に表われた形を、製作的に展開させたものとして、私達の生命形成は歴史的形成である。斯る生命形成として現われた形が、形成的世界を映してゆくのが内面的発展である。無限に生死を映し、哀歓を展開してゆくのである。形より形へとして、世界が世界自身を形成してゆく世界は、無限に生死を映し、哀歓を展開してゆくものとして歴史的形成的である。生死を超えたものが生死を含むものとして、生死するものが生死を超えたものに自己を表わすものとしてそれは歴史的形成的である。

 学問をし、絵を習い字を習うのは、単に形を見んとして習うのではない。形の中に深い時間の凝縮を見、我を超えた我の根底に接せんとして習うのである。そして時のもつ無限の発展に触れた思考の喜び、目の喜びに伴われていそしむのである。

 私は内面的なるものが表現するものであるとき、内面的なるものを歴史的形成的世界に求めなければならないと思う。私達は自分の内に表現すべきものがあるようにおもう。併し無人島の例に挙げた如く単なる我というのは何ものでもないのである。私達の表現的欲求は無数の人々の表現的努力を承継するところより来るのである。私は表現意欲はこの我が無限の創造的世界の創造的要素となったところより来るのであるとおもう。無限の過去を背負うところに我々の表現はあり、無限の過去の形象は世界である。而して世界の形象は歴史的形成の内容である。

 創造的世界の創造的要素となるということは、世界の歴史的創造の流れに入るということである。それは自己を滅して、世界に化すということである。歴史的創造の流れとは、無数の人が創造に参加したということである。ここに我と汝の呼び答えるということがあるのである。我々の表現意欲はこの我と汝の呼び答えるところより生れてくるのである。歴史的形成的世界とは、無数の他者の呼び声のこもるところである。この呼び声が死を生に転ぜんとする声である。この呼び声への我の応答が表現的努力であり、呼び声は創造線の自己形成であり、応答は創造線に添うということである。創造的生命に生きるということは永遠を見るということである。

 表われたものは内外相互転換の外として形をもつ、自覚者として製作的生命に於ては物として表われる。而してそれは内外相互転換として現われるものとして、滅びるものであり、壊れるものである。それに対して表わすものは始めと終りを結ぶものとして、一瞬一瞬の内外相互転換を蓄積し、統一することによって製作的にはたらくものである。内なるものとはこのはたらくものとしての一者である。

 生命は何処迄も内外相互転換的にある。内外相互転換的に一であるとは外を内とし、内を外とすることによって生きてゐるということである。外を内とし、内を外とすることが具体的一であるということである。それは一瞬一瞬に生れ滅び、作られ壊れるものが永遠であるということである。前に書いた習字の一筆一筆が永遠を宿すのである。私は今習字を例にとったが、日常の行為全てが人類の初めと終りを結ぶものに於てあるのである。内面への目とは、行為の一瞬一瞬を永遠なるものにつなぐ目である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

表現の形

 生命は身体的にある。身体的にあるということは、生命は身体的に自己を形作ってきたということである。私は人間が見出す全ての形の基礎となるものはこの人間の身体であるとおもう。形作られたものが形作るのである。形作られたものが形作るものとして、私は形成作用の純なるものを求めるとき、生命の始源に遡らなければならないとおもう。

 生命の始源を考えるとき、私は細胞という微小物の不思議に驚異と畏敬の眼をもたざるを得ない。もとより私は細胞について多くを知るものではない。唯読んだ本に、生命の源始は単細胞であり、何かのきっかけでそれが結合して複雑なる生命を構成していったと書いてあったのを知るのみである。私が驚くのは、その結合とは如何なるものであったかと問うことに於てである。

 もしその結合が同質のものであったとすれば、その結合は量的に大となるのみであって何等飛躍的なはたらきをもつことは出来ないであろう。結合そのものが一つのはたらきであるとすれば、そこから結合というものは考えられないと思う。それが異質のものであれば、矢張りそこから結合ということが考えられないと共に、もし結合したとしても一体としての統一ある行動が出来ないとおもう。そこには死滅あるのみである。生命が自己維持の意志であるとすれば、異質なるものの結合は考えることが出来ないと思う。結合が成り得るには同質なるものが異質なるものでなければならない。同質が異質であるとは矛盾である。あり得ないものである。あり得ないものがあり得るには、細胞は自己の中に変化を含むものでなければならない。自性をもつことなくして、その場に於て形質を実現するものでなければならない。

 結合するとは生命がより大なるはたらきをもつことであり、細胞はそれを本能的に知るものをもつのであるとおもう。より大なるはたらきをもつとは機能的となることである。機能的となるとは、一つの目的を実現するために、異なったはたらきが構成的となることである。結合した細胞は、潜在する生命の形相の実現に向ってはたらくのであり、結合によって生命の形相を実現し得るものを、内在したが故に結合をもったのであるとおもう。私は原始的生命として、単細胞と単細胞が結合したということは、無限の生命形成の展望をもったということであるとおもう。

 動物の多くは五感をもつ、生命の始原に於て五感をもったものが無かったとすれば、五感は細胞が自己を変化さすことによって実現したと言わなければならない。細胞は視覚を構成することによって十里の遠くを望み、聴覚を構成することによって千の音の分別を持ち、その他千差万別の身体の機能を構成することによって、整正たる行動を実現すべきものをもっていたということが出来る。単細胞は結合によって、斯るものを実現し得るものをもっていたのである。単細胞が単細胞であるときは何等区別すべきものをもっていなかったであろう 結合したときは視覚の細胞聴覚の細胞として結合したのではないと思う。生命の行動的統一の中より自ら自己を変化させて行ったとおもう。

 私はかって蛙の胎児の形成期の記事を読んだことがある。何でも胎児の初期に形成中の視覚系細胞を壊すか取除くかしても、別の細胞が視覚系細胞を補足して、生れた蛙はちゃんと目があるという内容であったと記憶する。これから類推すると、原始動物に於ては細胞の一々が未だ完全に特化せずして、全生命の記憶をもつと思わざるを得ない。言い換えれば細胞はその結合に於て、生命の統一行動に従って自己を特化し、生命を形象化していったのである。その原初に於ては部分が全体であり、全体が部分だったのである。蛙に於ては未だ全体と部分が真に機能化していないと言い得ると思う。併し私はそこに細胞のもつ本来の相を見ることが出来るとおもう。一々が如何なるものへも変じ得るのである。一々が宇宙を宿すのである。

 生命の機能構成が高度化するに従って、細胞の本来の相は失われてゆく、鳥やけものは最早生体器官の転生をもたない。併し私はそれは単に失われたのではないと思う。敏速なる行動、鋭敏なる感覚器官に特化することによって、統一体の能力に転化したのであるとおもう。鳥の飛翔、けものの嗅覚等に転化することによって失われたのであると思う。失われるとは無くなることではなくして、本来のものが形となって現われたのであり、現われることによって、無限の可能性として本来自性なきものは、自己決定に於て可能性を失なうのである。犬や鳥は人間に比べて傷病の治癒ははやい、そのことは私は人間はより高度な身体構造をもつに所以するとおもう。細胞のもつ本来のものがより高度なる生命展開に転化したものであるとおもう。

 生命は内外相互転換的である。内を外とし、外を内とすることによって自己を形成してゆくのである。動物に於ては斯る相互転換が行動的である。外を食物的環境として、食物を得るために行動しなければならない。細胞結合としての身体は斯る内外相互転換に於て形を決定してゆくのである。行動するために種々の器官と、器官の統一が必要であり、行動を容易ならしめるために特有の形態が生れてくる。

 内外相互転換的に形作るとは、内は外に適応することであり、適応することによって外を制することである。魚は円錘形をなし、鳥は羽根をもつ、それは水や空に生きるものの必然の体型である。その魚や鳥も場所と食物によって形態が実にさまざまである。細胞は或は甲殻となり、或は鱗となり、或は粘膜をもつ皮膚となり、その撰択は驚くばかりである。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己が自己を知ることである。自己が自己を知るとは、自己の中に自己を見ることである。自己は如何にして自己を見得るのであるか、私は人間は製作的生命として、外に物を作ることによって自己を見るのであると思う。製作は技術的であり、技術は伝統的である。それが現在の欲求と衝突するところに製作があるのである。斯る製作の一方の極にこの我が見られ、一方の極に物が見られるのである。我々が通常自己というのはこの見られた我である。

 而して見られた我は真の我ではない。生命は無限に動的として、自己ははたらく自己でなければならない。製作する我でなければならない。製作とは技術的として、物と我がここに消え、ここに生れることである。物と我とがここに消え、ここに生れるところは世界形成としての社会である。真の我とは世界我としての社会にはたらく我である。かかる我として見出された物と我の形が表現である。ここに私は細胞の無自性、動的な具現性が個的統一体としての人間の身体に、物と我の絶対否定をとおして世界への無自性として転化しているのを見ることが出来るとおもう。

 表現に於て常に問われる内と外の問題も私はここに解決の端緒をもつとおもう。はたらくものは無にしてはたらくものであり、内外相互転換的に自己を形相化してゆくものである。内外相互転換的に形相化してゆくとは、一瞬一瞬の相互転換が蓄積され、構成されていくということである。蓄積され構成されていくということは、外が内となり、内が外となることである。見られたものが見るものとなることであり、作られたものが作るものとなることである。獲得された形質がはたらくものとなるのである。そこに無にしてはたらく所以があるのである。私達はよく美術館へ絵画の鑑賞に行く。絵画を鑑賞するとは秀れた形、美しい色彩を見ることによって我々の眼の内容とならしめることである。先人の描 いた作品が見るものの眼の内容となって次に作品を見るときに、見て来たものが我の眼としてはたらくのである。芸術作品を見ることによって受ける感動とは、その作品に表わされたものが自己の内容となり、はたらくものとなったということである。見られたものが我の目としてはたらくものとなり、個性をとおして社会で行なう自己の内外相互転換に世界を見るとき、その形相化への衝動が創作意欲である。

 内とは外に表れんとするものである。形相化せんとするものである。それは無なるものでなければならない。木村素衛はその著『美のかたち』に於て、「内の形のなさはそれ故このようにして形の単なる否定ではなく、却って形の欠如なのである。欠如とは在るべきものの窮乏である。それは従って形への可能性に外ならない」私はこの論理に多くの未熟なるものを思わざるを得ない。その一つは内が欠如態であるならば、外に表われたものは 完結態であるかということである。若し完形態であるならば作品の優劣は何によって決めるのであろうか。又の一つは欠如態としてあるものが表われるのは創作と言い得るかということである。創作とは線が線を呼び、色が色を分つものである。それは欠如の充足ではなくして一瞬一瞬が新たである。今一つは創作が創作を呼ぶということである。表わされた形が次の形を呼ぶのである。呼ぶということは内としてはたらくということである。内が欠如態であるならば、表わされた形は欠如としてあるということが出来る。そこからは作品の独立性ということを求めることが出来ないと思う。更に秀れた作品程見る者をして創作への意欲を駆り立てるものである。そうとすると秀れた作品程欠如する作品と言わなければならない。

 私は氏の言われることが全面的に間違っているというのではない。私は氏の斯る欠点は創作としての内と外を平面的に捉えられたところにあるとおもう。創造としての歴史的形成に求められなかったところにあると思う。我々の創作とは深く歴史的時の自己形成を背負うのである。歴史的時の一瞬として創作するのである。創作されたものが創作を呼ぶのである。創作されたものが創作を呼ぶとは、外が内となることである。それは無限の転換である。それは歴史的形成的である。間断なき動転である。

 創作を呼ぶ創作されたものとは、それは最早作者を離れたものである。世界の内容とし 世界の形相となったものである。無の自己限定として、歴史的必然の体系に入ったものである。それが内なるものであり、外に表われんとするものである。我々の表現衝動は世界の深奥より生れるのである。我々が表現せんとするのは、世界が我々を自己の内容として、我々によって自己を表わさんとするのである。内なるものとは、我々があるとは、世界の深奥を宿すことによってあるのであり、表現によって真なるものに触れ得る自覚的捕捉である。見られたものが見るものであり、作られたものが作るものである。見るものの方向、作るものの方向が内なるものである。それは内が外を含み、外が内を含むことによって無限に深まりゆくものである。そこに歴史的形成があるのである。内面への道は外を明らかにすることによってのみ至り得る道である。

 ロダンは道行く少女を指差しながら友人に「あそこに全フランスがある」と言ったとい う。内外相互転換として外を環境とする生命の形は環境の綜合である。単細胞の結合より持続して来た生命の営みは、身体は環境の密像であり、環境は身体の投影である。道元の為水為命であり、為空為命である。生命の動的空間として一つの生命圏である。我々の身体の形は、生命圏に生きるものとしての、行動的生命の形である。

 表現は斯る身体が身体を破って外に流れ出たものということが出来る。身体を破ったとははたらく生命としての身体が身体を超えてはたらくものとなったということである。一瞬一瞬が時を統一するものの内容となったということである。時を統一するものの内容となったとは、身体を超えた外としての物を身体としたということである。手の延長として道具を持ったということである。物を身体の延長として、道具をもつことによって、身体は内と外に分れたのである。前に書いた内と外は斯るものが自覚的に深化したのである。

 道具をもつということは物を製作することであり、製作するとは技術的となることであ 一瞬一瞬が時を統一するものの内容となるとは技術的となることである。技術とは一 瞬一瞬の内外相互転換が経験として蓄積されることである。我々の身体は限り無い内外相互転換によって形成されたものである。そのことは身体が機能的構成的ということであり技術的ということである。身体は大なる化学工場であると言われる如く、外を内とし、内を外とすることは測り得ざる機能をもつのである。それは六十兆と言われる細胞がはたらく技術集積である。道具をもつとは、斯る技術集積が身体より溢れ出たということである。身体より溢れ出たということは、物を身体に模するということである。製作物は先ず身体の形を模するのである。椀は掌を窪ました形であり、槌は握りこぶしの形である。鎌は握り獲る指の形であり、剣は腕を伸ばした形である。それは単に道具のみではなく、機械も亦道具よりの延長として、身体の延長の意味をもつものである。湯川博士は「物理学は視覚と関節覚の発展したものである」と言われた。コンピュータは脳を模すと言われる、共に溢れ出た身体である。身体を溢れ出るとは外としての世界を内とした身体が、身体を外として世界を見るということである。物を作るとは身体を外として世界を作るということである。そこに物の形があるのである。

 斯かるものとして私は表現の形に二つの方向があるとおもう。一つは内外相互転換としての一瞬一瞬の用に供する形の方向である。一つは一瞬一瞬を統一するものの内的矛盾としての死を克服する形の方向である。勿論これは二つのものではない。縄文土器の紋様は悪魔を調伏する呪術の意味をもっていると言われる。内外相互転換そのものが形成作用であり、時の統一なくして一瞬一瞬はない。併しそれは技術の発展と自覚の深化によりやがて相分れるものである。永遠の目より見る生死の方向に祭器となり、一瞬一瞬の用に供する方向に食器となったのである。

 私は芸術の形の根源には永遠の内容としての生死の矛盾のはたらきがあるとおもう。而してそれが初めと終りを結ぶ生命の自覚としての、人間の最も深奥を露にするものであると思う。

 前にも言った居く、生命の形は太初よりの無限の営為を蔵するものである。虎、羊、鷲、鳩、鮫、鮒等各々その形を異にする、形を異にするとはそれぞれの意志をもつということである。見るからに怖ろしいのがいる。寄って行って撫でてやりたいのがいる。それは生きて来た証跡であり、生きてゆく姿勢である。渾沌に生きた古代人にとって、形とははたらく力であり、産む力であったであろう。パスカルが葦よりも弱いといった人間が、その持てる知に於て見出したのが力としての形であったとおもう。暴風雨も獅子も宇宙の力の現れであり、病魔も亦神の怒りである。力に於て宇宙は総括されている。それを宥め、打勝つためにはより大なる力をもたなければならない。私は形としての表現衝動を断るものに求めたいとおもう。自己救済として形を見出したものであるとおもう。

 南方土人の作る怪奇なる彫像は、それが悪魔を追払うと信ぜられているという。亦面はそれを被るとき、その目、その牙、その角等の破壊力がその人に備わり、悪霊に打克つと信ぜられているのである。フランスに於て発見された先住人クロマニョンの洞窟画は、狩猟の対象の繁殖を祈って描かれたものであろうと言われる。亦鹿踊りや猿楽は、鹿や猿の生態を模倣することによって、稲作の被害を免れようとした行為であると言われる。その限りに於てそれ等の表現は未だ芸術の内容ではない。併しそれと同時に生産物は人々の意識に於て物ではなかった。水戸光圀が諸国漫遊の途次、農家に立寄って米俵に腰を下ろ たところ、老婆にお米様に腰を掛けたと言って撲られかけたという話がある。勿論これは史実ではないであろう。併し当時の人々の意識を表わしているとおもう。徳川時代に於てさえそうである。古代に於て米は神の姿であった。道具に於てもそうである。『子午線』 の十四号に、収穫の終ったコンバインを洗ってお米を供えるという歌があった。全部が渾然たる一体の行為であり、姿であったのである。我も亦渾然たるものの一内容であったのである。それが芸術的表現となったとは如何なることであろうか。

 私はそれは多くの人々が、永い時間に於て繰り返すうちにそれ自身の展開を発見したことであるとおもう。例えば鹿踊りや猿楽に於て、模倣することによって身体がそれに適合する撓やかさをもち、撓やかさがより細かな動きを持ち得るのである。身体は新たなリズムを持ち、新たなリズムは動作の展望を開くのである。模倣や稲作を守るということを離れて動作が動作を呼び、新たな動作のよろこびが生れてくるのである。純なる生命のよろこびとなるのである。それは絵画に於ても同じである。繁殖を祈った動物の形態が、線が線を呼び、色が色を分つのである。繁殖への願いを離れて形のもつ無限の深さに、視覚の発展のよろこびをもつのである。

 芸術は感覚の純なる発展である。後で作られたものはより高い構成の密度をもつ、併し それは後のものの為に前のものがあったということではない。作品は一々の時点に於ての生命の自己救済として見られたものである。無にして形成する、初めと終りを結ぶ永遠の生命の表現として、それ自身の完結をもつものである。無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達する。併しそれは過去の相を表さんとしたのでもなければ、未来を尋ねんとしたのでもない。自己の奥底に形の光を当てんとしたのである。斯る意味に於て芸術的表現は現在より現在へである。柿本人麿やミケルアンゼロは、我々の創作を呼びかけるものである。過去と現在を包む時に於て対話するものである。現在より現在へとは永遠の時間の自己限定という意味である。それは過ぎ去ると共に過ぎ去らないものであり、来ると共に来ないものである。芸術的価値が技巧の巧拙よりもふかく其の時代の心の把握に求められる所以であるとおもう。

 勿論時代の心というのは求めて求められるものではない。我々は其の中に生きるのである。時代の心を知って表現するのではない。生きるとは内外相互転換的であり、内外相互転換的とは危機としてあるということである。明日を知らない生命としてあるということである。而して無にして形作る生命としてそれは世界形成的である。世界形成的として歴史は常に危機としてあるのである。危機の克服として歴史は動いてゆくのである。我々が世界に生きるとは、好むと好まざるにかかわらず歴史的危機に触れているのである。形成とは矛盾の克服として現われるのである。時代を先取りしようとして表わす形は、浮薄な小主観にすぎない。世界として無数の人々の営為が歴史的危機に一つの動向を持ち、その動向の形象的直観に於て時代の心は表わされるのである。

 危機とはその内包する矛盾によって既成の秩序が壊されんとすることである。それは壊さんとするものが新しい秩序を打樹てようとすることである。古い形が否定されて新しい形が生れることである。新しい形は矛盾の救済として現われるのである。斯る意味に於て現れる形は常に矛盾を包む同一の意味をもつ。芸術的表現の形も斯る救済として形を表わすのである。それは製作物としての形を物を超えた世界の形として見るのである。世界が世界を表わしてゆくものとして見るのである。店頭に溢れる物の形を、世界が世界を表わしたものとして、そこに世界の歴史的現在の範型を見るのである。雑多の底に眼を潜めることによって、危機として動きゆく一つの形を見るのである。

 熱情なくして世界の如何なるものもあり得なかったという言葉がある。熱情とは生得的身体を表現的身体に転じることによってもつ情緒である。自己を捨ててゆくことによって見出される新たな生の相への活動である。作られたものから作るものへと転じることによって展ける、世界への心情の高揚である。世界の中に死んでゆくのである。製作的表現的に死すとは、自己を世界に化すということである。世界に化すということは物に化すということである。物に化すとは自己を世界に実現するということである。 世界に実現するということは、歴史的創造体系に入るということである。過去と未来より呼ばれ呼ぶものとなることである。そこに形が生れるということである。

 死して生れるとは、芸術的表現に於て如何なる形が現われるか知らないということであ る。勿論過去に呼ばれるとは既成の形があるということであり、その形の上に立つということである。そういう意味で形はあったということが出来る。併し表現の形は作者の個性を通ることによって製作されるのである。知らないというのはその個性が、歴史的現在の底に深く潜み、歴史的現在の顕れとして、線が線を呼び、色が色を呼ぶということである。過去の形をとうして歴史的現在が相をあらわすということである。それは作者を超えて世界が世界を表わすのであり、作者にとってそれは霊感的である。のみの一打、筆の一線は知らざる声に導かれるのである。そこに無にして形造る生命の形の究極があるのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

形成作用

 生命の形とは何か、生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外として生命はあるのである。動物に於ては食物を摂り、酸素を吸い、老廃物を排泄する。外を内とし、内を外とすることは変化せしめることである。変化せしめるには変化せしめるはたらきがなければならない。はたらきをあらしめるには身体は機構的でなければならない。我々の有する臓器は精密なる化学工場であると言われる如く、機構的なることによって外なるものを内とすることが出来るのである。私は生命の形とはより早く、より確かに、より強く内外相互転換を行う。機構を作ってゆく生命の相であるとおもう。我々は一瞬一瞬内外相互転換的に生きるものとして、無限に生命形成的であり、形相形成の過程である。而してそれは終局なき過程である。斯る形成作用としての生命は如何なるものであろうか。

 内外相互転換は一瞬一瞬である。 この文字を書いている今も、胃は空腹に向って絶えざるはたらきをもっているのである。呼吸を止めれば数分にして死に至るのである。而して斯る一瞬一瞬の内外相互転換によって作られたものとして、内外相互転換を行う機構は一瞬一瞬をあらしめるものとして、一瞬一瞬を超えたものでなければならない。

 一瞬一瞬に形はない、それは何処より来り何処に去りゆくかを知らないものである。 に超越的なるものにも形はない。形は空間的、時間的制約をもたなければならない。瞬間的なるものが永遠なるもの、永遠なるものが瞬間的なるものにして、初めて形作るものとなるのである。瞬間的なるものは永遠なるものではない。永遠なるものは瞬間的なるものではない。それは何処迄も相反するものである。はたらくとはこの相反するものが直に一つということである。そこに瞬間的なるものと永遠なるものがあるのではない。はたらきの両方向に瞬間的なるものと、永遠なるものが見られるのである。内外相互転換とは斯る相反するものの一として、何処迄も自己を維持しはたら いてゆくのである。行為することによって形作るとは、斯く矛盾するものが一なるものであることによってのみよく能うことが出来るのである。

 相反するものとは何処迄も結びつかないものである。それが結びつくには媒介者がなければならない。直に一であるとは斯る媒介がはたらくものの自己媒介であるということである。自己媒介とは両方向が相互に媒介的であるということである。永遠なるものが瞬間的なるものを媒介し、瞬間的なるものは永遠なるものを媒介することである。永遠なるものは瞬間的なるものに自己を写すことによって、自己の形を実現し、瞬間的なるものは永 遠なるものに自己を写すことによって自己の形を実現することである。そこに直に一なるものがあるのである。生命が形作るとは斯る直に一なるものの純なる持続である。純なる持続とは、相反する方向に永遠なるものと、瞬間的なるものをもつものがはたらくという ことである。

 直に一なるものとして、相反する方向を相互媒介的に自己自身を限定するものは無にしてはたらくものである。永遠なるものが瞬間的なるものによって自己を露はとすることは、自己を否定して瞬間的となることである。瞬間的なるものが、永遠なるものに写して自己を見るとは、瞬間的なるものを否定して永遠の形相をもつことである。而して否定することが肯定することである。永遠なるものが瞬間的なるものとなることによって自己を露はにするとは、瞬間的なるものになることによって自己を見るということである。瞬間的なるものが永遠なるものに写し自己を見るとは、瞬間的なるものは永遠なるものによってあるのであり、自己の根源に還ることである。永遠なるものを求めるとき、何処にも永遠なるものはない、唯空を摑むのみである。瞬間的なるものに実在を求めるとき、それは唯現れて消える虚幻にすぎない。それが実在として形相をもつのは、相互媒介としての無限の動転に於てである。自覚的生命としての人間に於ては、それは制作的行為に於てである。何処迄も相反するものの中に消えゆくことによって、自己を実現してゆくものとして自性なきもの、無にしてはたらくものとしてものの形はあるのである。

 無にしてはたらくとは無いものがはたらくということではない。相反するものの中に己を見るということである。自己を消すことによって自己を見るということである。内外 相互転換としての自覚的製作的生命に於ては、外が作られたもの見られたものとなり、内ははたらくものとなる。作られたもの見られたものは、はたらくものの中に消えることによって、新たなものに生れるのである。はたらくものは、作られたものはたらくものの中に消えることによって、より大なるはたらく力を得るのである。外は内外相互転換の外として、より大なる内を孕む愈々明らかな形となるのである。

 外が内になるとは見られたものが見るものとなることであり、作られたものが作るもの となることである。それは形の持続、形の発展の世界である。内外相互転換としての内は無限の欲求としてあり、無限の欲求によって形作られる外は、その一々に於て完結しつゝ未完の形である。見られたものが見るものとなるとは、池大雅の画を見ることによって、大雅の目が、私達が物を見るときにはたらくということである。作られたものが作るものとなるとは、作られた二条離宮が家を建てるときに、その様子が構想の中に入ってくるということである。個物より個物へと転じつゝより複雑なる内容をもつ、より高度な形を作ってゆくのである。一つの形がより複雑なものを内包するということは、より機能的ということであり、内外相互転換としての形の進化ということである。

 見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなるとは、歴史的ということであり、形は内面的必然をもつということである。内面的必然をもつとは、形はそれ自 身が展開をもつということである。形が斯く内面的必然をもつということは、相互転換と しての内と外は、変じつつ変ぜざるものでなければならない。内に変化をもちつゝ 変化を統一するものでなければならない。それは時に於て変化を周期的にもちつゝ 周期を内にもつものとして不変なるものでなければならない。周期的とは繰り返すものであるということである。はたらくものも個性として一人一人異なりつゝ、ホモサピエスとしての同一をもつものでなければならない。変化の根底に同一があることによって形が生れ、変化と個性によって無限の進歩発展をもつことが出来るのである。堂々めぐりであることによって無限の多様をもつことが出来るのである。

 形の根底に同一があるとは、形は決定せられたものとしてあるということである。斉藤 茂吉という個性と、彼が学んで来た言葉、そして北上川の白浪を見たということの中に、詠わるべき内容はすでに決定していたということが出来る。茂吉は唯決定していたものを取出しただけだということが出来る。併し松尾鹿次さんによれば、茂吉は畔にうづくまって半日頭を抱えていたという。そこに可能性と現実性があるのである。可能性は如何に豊富な内容をもつとも次の形を呼ぶものとなることは出来ない。事実として実現したもののみが次の形を呼ぶことが出来るのである。彼の呻吟は過去が其処に没して、新たな現在が生れる陣痛だったのである。創造は回帰であり、回帰は創造である。根底としての同一が無限の個性を宿し、新たな個性に呼びかけるところに創造はあるのである。形成とは創造である。

 同一が個を宿し、新たな個に呼びかけるということは個が個を呼ぶということである。 個が個を呼ぶということが、同一がはたらくということである。斯るものとして個を呼ぶ 個は、創造としての世界を逆に内にもつものでなければならない。同一として無辺の空間と、無限の時間を内にもつものでなければならない。無辺の空間と無限の時間を内にもつものにして、はたらくものとして個が個を呼ぶことが出来るのである。製作的生命として個は製作するものである。製作するとは無限の過去と未来が現在に消えて生れることである。即ち個が世界を包むことなくして製作はあり得ないのであり、個が製作するとは世界を内に包むことである。製作に於てあるものは事実となり、個は製作に於て呼び交すものとなり、同一を実現するものとなることが出来るのである。勿論無辺の空間と無限の時間を内にもつということは、無辺の空間と無限の時間が身体にあらわれるということではない。製作とは無辺の空間と無限の時間が現在としてはたらくということである。それは個物を含んだものである。世界が個物を内にもつということが、個物が世界を内にもつことであり、個物が世界を内にもつということが、世界が個物を内にもつことであるところに製作があるのである。

 見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなる世界は初めなく終りな き無限の形成的世界である。而して見られたものが見るものとなるということは、初めがはたらくということでなければならない。初めが終りをもつということでなければならな い。それと共に見られたものが見るものとなることは、見られたものは一つの形を維持することではない。見るものとなるとは新しい形が生れることでなければならない。そこに は新しい形が見られたものを限定する意味がなければならない。未来が過去を作るという意味がなければならない。初めが終りをもつということは、終りが初めをもつということである。我々は初めと終りを結ぶものをもつものとして製作することが出来るのである。初めなく終りなきものは、初めと終りを結ぶものの自己限定としてあるのである。初めと終りを結ぶものは、自己の中に初めなく終りなきものをもつことによって、初めと終りを結ぶものとなるのである。

 製作とは新たな物を作ることである。それは無限の技術の蓄積の上に立つのである。技術の蓄積の上に立つとは、過去がここに消えて新たなものが生れることである。それは時がここに死んで新たな時が生れることである。それが現在である。内外相互転換として、人と物が否定的に転換することが物を作ることであり、現在として生きているということである。斯る製作が初めと終りを結ぶものをその根底にもつとは、現在の奥底は初めと終りを結ぶものであるといわなければならない。製作は永遠の今がはたらくといわなければならない。

 私達はここに絶対の矛盾の前に立つのである。永遠なるものは動かないもの、はたらかないものでなければならない。動くもの、はたらくものは変じゆくものとして永遠なるものではない。而して現在は転換として、製作として、無限に動きゆくものである。初めと 終りを結ぶものは、作りも作られもしないものでなければならない。而して初めと終りがあるということはその中間に無限の過程があることでなければならない。

 自己の形相を尋ねるとき、我々の推論はそこに至りつく、併しての矛盾は推論によって突破することの出来ない鉄壁である。全て相対的なるものは此処にあり、思考は此処より生れる。而して相対を絶し、思考の達すべからざるところである。それは相対は斯るものの形相であり、思考は斯るものの秩序であると言わざるを得ないものである。

 斯るものとして私は、生命は無にしてはたらき、無にして成就するものであると思う。 無にして成就するとは消すことによって実現してゆくことである。形成して来た全空間と 全時間は、内外相互転換としての今の一事にあるということである。このことを言い換えれば、我々の一瞬一瞬の行履は、全人類の生命がはたらいているということである。果てなきもの、底なきものにつながることによってあるということである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

自由と必然

 生命は形成としてあり、形成は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とする限り ないはたらきによって、生命は自己を形作ってゆくのである。我々が物を作るのは斯る内外相互転換が自覚的となったということである。

 動物に於ては斯る内外転換が直に一である。直に一であるとは、生れ来った身体の機能のはたらくままということである。内外相互転換が一つの生命の機能として、無媒介的に はたらくということである。それに対して自覚的生命に於ては、内と外とが対立するもの となるのである。内は外を否定するものとなり、外は内を否定するものとなるのである。否定を媒介する一となるのである。もともと動物に於ても、内と外とは否定的契機をもつ対立するものである。食物を得るために努力と争闘をもたなければならない。それは苦患的である。併し動物に於てはそれは身体に具有的である。本能的動作の中に含まれている。それに対して製作に於ては、内と外とが対立するものとし学習的である。

 学習とは過去の内外相互転換を、現在の内外相互転換に応用することである。そこには無限の過去の内外相互転換の著積がなければならない。外を内に変じ、内を外に変ずるとは技術的ということである。身体は転換の実現者として無限に機構的である。製作は一瞬一瞬の内外相互転換の生命の営為を、一瞬一瞬を超えて、一瞬一瞬を包む生命の内容とすることである。学習は時を超えて時を包むものの、生産手段としての技術の確立がなければならない。我々は学習的に技術を蓄積し、新たなより大なる生産力とするのである。

 学習とは新たな個性が世界を内にもつことである。新たな個性が世界を内にもつとは、世界は無数の個性によって作られていることであり、無数の個性によって常に新たな転化をもつことである。個性と個性が製作を介して呼び応えるのである。内外相互転換の外は 学ばれるものとして、一瞬一瞬を超えた形相となるのである。一瞬一瞬としての内外相互転換が、一瞬一瞬を超えた形相となるとは、世界の無数の個性によって作られたものが、この我に於て作るものとして、はたらくものとなることである。新たな個性が世界を内にもつとは、作られたものとしての無限の過去の形が此の我の中に消え、新たに世界創造の力として生れることである。学習とは内外対立したものが、外としての凝固した形相を再び流動化せしめることである。見られたものが見るものに転生することである。

 過去として作られたものが、はたらくものとして作るものとなるとは、形相が形相を作 り生んでゆくことである。新たなる内外相互転換に自己を投影してゆくことである。無限の内外相互転換に於て外とは内の転じたものである。内の転じたものが外となるとは、転じるとは我に対立するものとなり、我を否定し来るものとなることである。形相としての物は我に死をもって迫ってくるものである。外が転じて内となり、はたらくもの作るものとなるとは、死として迫ってくるものが、新たな個性に於て自己自身を否定し、新たな生命の形相として装いを新たにすることである。死として迫ってくるものが生に転じる、そこに生命の創造があるのである。

 生が死に転じ、死が生に転ずるものとして世界は形より形へである。世界は物として自己を実現し、物は物が生んでゆくのである。そこに世界の必然がある。私は元鎌の販売業を営んでいたが、鎌は収穫器として、大古に於ては木の股の如きが使用されていたのではないかと言われている。それが鉄となり、鉄と鋼の接合物となり、現在は草刈機、稲刈機に転化している。それは一つの形としての物が死して、新たな形の物が生れた大なる流れである。 過ぎ去った形としての物は死んだものとして、捨ててかえり見られないものである。而して新たな形は過去の形が内包するものより生れ来ったものである。内包するものより生れ来ったとは、形が内包するものは無限の転化の呼び声をもつということである。内外相互転換の内容としてあるということである。必然とは形が次の形を呼んでゆくということである。

 内を身体とし、外を環境とすることによって内外相互転換はある。内を身体とし外を環 境とするものの転換として、身体は環境の凝縮したものであり、環境は身体の拡散したものである。身体は環境を映し、環境は身体を写すのである。写す行為は否定的転換より生れるのである。身体は死と対面することによって物を作ってゆくのである。外を内とするのである。製作的生命は製作物の中に生きてゆく、物の中に生きてゆくとは、物を環境とすることである。そこに物が物を生み、形が形を呼ぶのである。自覚的生命が生きるとは必然の世界に生きるのである。

 物の形は物が物を生み、形が形を呼ぶことによってあるとは、物の中に物を見、形の中に形を見ることである。初めに終りがあることである。新しい物を作るとは、何もないところに物が生れることではない。何もないところからは何物も生れることは出来ない。物を作るとは過去に現在を映すことである。内外相互転換としての現在の状況を過去に映すことである。伝統の上に製作はあるのである。過去に映すことによってあるとは初めがはたらくことである。はじめがはたらくことによって新たなものが作られるとは、物ははじめとおわりを結ぶものが、自己の中に自己を見てゆくことによってあるということである。必然もそこにある。はじめとおわりを結ぶものが自己の中に自己を見てゆくのが必然である。全ての物はそこより見られ、そこより作られたのである。我々はその究極に神を見るのである。

 内外相互転換をもつものは個体的である。個の生存に於て内外相互転換はある。個が内外相互転換をもつということは機構的であり、機構的であるとは身体的であるということである。我々は製作を身体に於てもつ、身体に於てもつと 内外相互転換的に物を作るということである。内外相互転換は外が内となり、内が外となることである。外が内となるとは、物が消えて身体となることであり、内が外となるとは、身体が消えて物となることである。外は内に消えることによって外であり、内は外に消えることによって内である。そこに無限の形成作用はある。形造るとは単に直線的にあるのではない。死して生れるところにあるのである。単に一つの形は何ものでもない。形は形成作用に於て形であり、形成作用は次の形を生むことによって形成作用である。次の形が生れることは、前の形が死して新たな形が生れることである。

 製作も亦斯る形成作用の延長として物を作るのである。作るとは、外を与えられたものとしてもつのではなく、言葉を介し意志によって変革することである。それは技術的である。意識することによって、身体を使うことによって、内を外とし、外を内とするのである。身体は意識的身体であり、技術的身体である。製作に於ては斯る意識的、技術的なる身体が死して物に生れゆくのである。製作は自覚的生命の死生転換としての内外相互転換である。

 死して生れるとは現在に生れるのである。現在が新たな生命であることである。製作に於て物が死ぬとは未来によって否定されることであり、生れるとは否定の底に甦るということである。死するとは無に帰することであり、生れるとは形が出現することである。自覚的生命に於てこの転換は意志によって行為的に実現するのである。それは無よりの構築である。そこに意志の自由がある。己れの生を構築してゆくのである。生死するものは個物であり、はたらくものはこの我であり、汝である。物の製作はこの我、汝が死生転換として自己を見出てゆくのである。

 自覚的生命に於て個とは全を内に包むものである。自己は世界を内にもつことによって自己である。私は前に学習によって自覚的生命を自己となると言った。学習とは世界を内とせんとする努力である。世界とは斯る我と汝によって作られているのである。世界を作る我と汝の死生転換は、亦同時に世界の死生転換でなければならない。この我の意志は亦同時に世界の意志でなければならない。我々の行為は世界の自己形成である。世界の自己形成はその一面に個の無よりの形成として、個の自由意志をもつのである。

 形より形への必然は、形の転換の断絶に於て自由意志の行為をもつのである。個は世界の中に死して生れる程より大なる個となり、世界は個の中に死して生れる程より大なる世界となる。必然がより大なる世界を形成するほど、意志は愈々自由となり、意志が自由となるほど、世界は愈々大なる形成をもつのである。死して生れるとは、死ぬことが生れることである。死ぬことは無となることであり、無となることが有となることである。無が有であるとは生命形成の初めにかえることである。無始無終の時に於て初めにかえるとは形成の根底にかえることである。そこに初まって、そこに終るもの、初めと終りを包むものにかえることである。自己が自己を見るが故に絶対の自由であり、自己の中に自己を見るが故に絶対の必然である。根底にかえることが死であり、そこより形造ることが生である。現在とは斯る創造点であり、世界は斯る生命形成の形象である。父母未生以前の自己として我々は無限の形成をもつのである。神は絶対の自由と必然である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

感情について

 生きているとは外を内とし、内を外とすることである。私達は呼吸をし、食物を摂るこ とによって生きているのである。呼吸とは空中の酸素を摂取することであり、体内の炭酸ガスを排泄することである。食うとは他の生命を奪うことによって、自己の生命とすることである。併して不用なるもの、死滅した自己を排泄するのである。

 斯るものとして生命は絶えざる内外相互転換である。内外相互転換として、内の働きの欠乏も死であると共に、外の物の欠乏亦死である。

 空気は常に与えられている。そこには我々の労力を要するものはない。併し食物は他の生命の奪取として、他者を殺すことによって自己が生きるのである。自己の身体に対する他者の身体を否定することによって、自己を維持してゆくことである。

 自己の身体に対する他者の身体として、この我が個有の内容を有する如く、他者も亦生命として個有の内容を有するのでなければならない。否定することは否定されることであり、生きるとは常に力の表出を伴う努力である。

 生命が常に力の表出を伴って自己を維持してゆくとは、生命は常に創造的であるということである。瞬間、瞬間が創造点として、新たな形相を作ってゆくのである。

 感情は通常快、不快に分けられている。私は快とは形相実現的としての身体がその肯定的方向として、充実してゆくときにもつ感覚的反応であると思う。不快は否定的方向として欠乏の感覚的反応であると思う。斯るものとして快、不快の感情は身体的であるとおもう。而してそれが身体的である限り私は真の感情とは言い得ないと思う。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは、自己が見る自己と見られる自己に分れることである。見る自己と見られる自己が分れるということは、見る自己は見られる自己を絶対に超越するということである。内外相互転換的として一瞬一瞬に生死の分岐点を歩む生命を包む生命をもつということである。永遠が瞬間であり、瞬間が永遠なる生命となることである。

 瞬間が永遠であるとは、現在の瞬間が無限の瞬間の統一としてあるということである。過去の時間を内包した瞬間であるということである。瞬間は内外相互転換として、死生転換として瞬間である。瞬間が時を包むとは、相手を否定する力の表出は技術的ということでなければならない。身体の否定の肯定としての、内外相互転換は技術的でなければならない。生命の営為とは斯る転換の無限の連続である。斯る転換は内的に一でありつつ外は無限の変化である。一瞬一瞬状況を異にするのである。この異なる一瞬一瞬の技術を体系化をし、蓄積するのが時を包むということである。これが自己の中に自己を見ることである。

 無限の内外相互転換としての技術の集積によって外に対するということは外を変革することである。生命は自然的生命を脱却して、製作的生命となることである。斯る累積は個人を超えた人類的なるものとして、歴史的に形造られることによって可能なるものであると思う。我々は斯る集積を言葉によってもつのである。ここに外なるものは食物的環境として対するのではなくして表現的物となり、主体的他者は人格として我に対するのである。世界形成的である。

 私は感情のよって来るものを断る人格的世界に求めたいと思う。ここに於て喜び悲しみは快不快とその様相を画然と截断する。快不快が身体の肯定的方向と否定的方向であるに対して、喜び悲しみは人格としての自己と他者の結合に最も深い根源を有するのである。歴史的創造的世界の内的方向として、我と汝の一の実現が最も深い喜びとなるのである。喜びはこの我を消しての世界の実現に見るのである。

 人格的となるということは、他の人格に対することであり、個的身体的なるものを超え たものとして、世界が世界自身を作ってゆくことである。この我を消して世界の実現に見るのは、この我の奥底に世界が世界自身を実現してゆくものがあるのでなければならない。身体は個と世界の矛盾的同一として、自己自身を限定するものでなければならない。自覚として自己の中に自己を見るとは、世界の中に自己を見出でてゆくのである。私は感情は此処より出でてくるのであると思う。我々の情熱は自己の中に世界を見んとする意志である。少女が昏れてゆく空に向って涙を流すのも、三蔵法師が死を決して印度に渡ったのも同一なる生命の噴出に外ならない。

 幼児のほほえみは直に我々のほほえみとなり、その昔ギリシャに流した悲劇の涙は我々の頬を伝って流れ落ちる。私は喜び悲しみは、古今東西を超えて直に一なるものがあると思う。世界が働くとは、多くの人が直に一なるものによって結ばれている事である。個的多が一である。そこに感情の現われ来る所以があると思う。

 喜び悲しみの何処より来り、何処に去りゆくかを知らないと言われる。それは我より出 ずるのでもなければ、汝より来るのでもない。我と汝の出合いの中より、我と汝に湧き来るのである。人とか物とかとの一々の出合いに如何なる表情をもつべきか、我々は予定するのではなくして、出合いに於ておのずかなる姿勢をもつのである。そこに感情は世界が世界自身を見る所以があると思う。

 世界が世界自身を見ると言っても一般としての世界が喜び悲しみをもつのではない。喜び悲しみをもつのは個としてのこの我であり汝である。個としてのこの我、汝が喜び悲しみをもち、喜び悲しみが世界が世界自身を見る所以である為には、この我亦は汝は内に世界をもつものでなければならない。

 個は個に対することによって個である。対するとは相否定することである。我と汝は否 定し合うものとして我と汝である。而してこの否定し合うことが結合することとして我と 汝はあるのである。例を国技としての角力に取れば、取組んでいる二人の内一人が勝って一人が負けなければならないのである。何方も相手を倒すべく渾身の力を振わなければならないのである。相手を倒そうとすることが角力をとるということである。否定し合うということが結合するということである。而してそれが角力の世界が世界自身を作ってゆくということなのである。喜び悲しみはこの否定し合うことが結合することであるところより出でてくるのである

 取り組む二人はそれぞれ習練と、習練より得た技術をもつものである。個的自己として内包をもつものである。個的なるものとして内包をもつということが人格的であるということである。人格的であることによる否定と結合が感情を生むのであると思う。友愛も憎悪も尊敬もここから生れるのである。

 技術も亦否定と結合の中より生れる。それは歴史的形成的である。自己の中に自己を見るとは過去が現在であるということである。無限の過去が現在の中に蓄積されているということは伝統的であるということである。伝統を踏まえていることである。踏まえるとは新たなるものを生むことである。新たなるものが生れるとは未来より呼ばれることである。過去を含み、過去を超えて新たなるものを見出すところに自己があり、自己を見出すことが自覚である。自覚とは歴史的形成的自覚である。

 私は感情も歴史的形成的であると思う。勿論何処より来り、何処に去りゆくかを知ら ない感情は形をもたない。それは瞬々に現はれて消えゆくものである。形のないところに形成ということはない。唯私は歴史的創造としての無限の世界の構築は、一瞬一瞬の喜び悲しみに無限の陰翳を宿すと思うものである。喜び悲しみは深まりゆくのである。我々は世界の深さに於て、深い喜び、深い悲しみをもつのである。よろこびという字に喜歓悦慶がある。これはそれぞれ個有の内容をもつ、私はこれは歴史的形成としての、世界の陰翳を宿すことなしには考えられないとおもう。感情は生命の結合が世界として、否定が個として、世界と個の無限に動的なる全存在の表出であると思う。生命は感情に於て全体像を現わすのである。我々は生命限定の深奥に感情をもつのである。感情に因て動きゆくのである。

 真は知に、善は意志に、美は感情に因ると言われる。感情が美であるとは如何なることであろうか。私は矢張り歴史的形成的生命を宿す感情の陰翳の中に求めなければならないと思う。否定が結合であり、結合が否定である生命創造を宿し、喜び悲しみが自己の中に新たなる陰翳を宿すこと自身が美なのである。生命形成は常に形相的である。而してその形相は動的である。形より形へである。感情はその動的方向として形をもたないのである。而してそれは形に即して形をもたないのである。形に即して形をもたないとは、形に即して現われることである。身体が時間と空間の矛盾的同一としてある時、空間が時間を宿す方向に物としての身体があり、時間が空間を宿す方向に感情があるのである。斯るものとして芸術の形相は常に韻律の翳である。韻律とは生命が自己の中に自己を見てゆく身体のあり方である。感情が物に即した形である。身体の中に見出でた身体が舞踊であり、色彩の中に見出でた色彩が絵画であり、音の中に見出でた音が音楽である。而してそれは各々即した物のあり方によって韻律を異にするのである。一々が歴史的現在の形相に結びつきつつ、それぞれの韻律をもつのである。

 私は前に古代ギリシャの人の流した涙は直に我々の頬に流れると言った。ホモ、サンピエスとして、身体の構造を等しくする我々は、古今東西を越えて直に結ぶ涙、響き合う血潮をもつのである。一瞬一瞬の歴史的形相は此処に陰翳を宿すのである。一瞬一瞬に異なる涙は其の深奥に大なる同一をもつのである。此処に我々は芸術的表現の衝動をもつのである。自己の生をこの大なる同一を通じて他者に呼びかけ、呼びかけられるのが表現である。芸術は永遠であると言われる。それは書いたものも、書かれたものも永遠であるのではなくして、それはこの大なる同一に宿された影として永遠なのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

創造について

 近頃何処へ行っても書道教室とか、陶芸教室とかいうのが目につく。そしてそれは失われた人間性を、創作を通じて回復しようとすることらしい。私達はもともと人間である。それを失なったということは、人間は自分の中に自分を否定するものをもっていたということである。而して人間は自己の中に自己を否定し、自己を失なうものをもつことによって人間であるということが出来る。犬や鳥はその本性を失なうということはない。

 人間性の喪失が叫ばれてから久しい。人間性を失わしめたものは生産手段の発展である。巨大なる機械は分業を細分化し、人々はコンベア・ベルトの前に並べられた。そこにあるのは単調なる動作の繰り返しであった。製作する生命として人間はその背後に灰色の憂愁を宿していたのである。製作によって人間は、街頭に輝く商品を溢れしめた。而してその代償は単調な繰り返しによる感情の枯瘦であり、私有財産の争奪による精神の荒廃であった。巨大化する生産手段の中に人間は埋没したのである。 生命は本来創造的であり、創造に於て自己を充足してゆくのである。そこに人間性回復の声が生れ、書道教室や、陶芸教室の生れて来た所以があると思う。斯る創造とは如何なるものであるか。

 この間永井さんから葉書が届いて、家族で足立美術館に行った。素晴しい一日であった。子供等も何か得たようであると書いてあった。何か得たとは何ういうことなのであろうか。私は子供が次に画を見るときに、見て来たものが、見る目の中にはたらくものとなることであるとおもう。見て来たものが、見るものとなるのである。先覚の目が子供の目となるのである。色や形が子供の内部として、次のものを見るのである。それは書道や陶芸の製作に於て愈々明らかとなる。

 よく所用で内藤先生の書道教室を訪れるのであるが、多くの生徒が手本をそばに置いてたっぷりと墨を含んだ筆を慎重に動かしている。そして書き了ると朱筆で直してもらっている。直してもらい、次に書くということは、今書いたものが目の内容となって働いているということである。これ迄の書き上げた一枚一枚が力として、次の形を呼んでいるということである。作られたものが作るものとして、無限の内面的発展をもつ、それが創造である。そこに生命は自己を見、自己を充足するのである。見られたものが見るものとしてそこに形は常に新たである。

 毛筆を習う人は師をもち、空海とか良寛とかいった手本をもつ。習うとはこれ等先覚と の格闘である。それは他者として、習うものの前に立ちはだかるものである。而して格闘とは相対するものが否定に於て一つなることである。闘うことによって習うものの内面的発展があるとは、内面的発展は習う人を超えたより大なる世界の内容であると考えられなければならない。私はそれを歴史的形成的世界に求めたいと思う。

 足立美術館の画家も、空海も良寛も師を持ち、古蹟に学んだのである。見られたものが見るものとして、人類発生以来相伝して来たのである。人類の大なる創造線の一点として歴史的現在はあるのである。和歌を作り、土をひねり、墨書するとはこの創造線に添うということである。そこは見られたものが見るものとして、初めに終りがあるのである。芸術が永遠であるとは、ここに所以をもつのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

不生不滅

 寄せて来る波が砂に伸びて消え、新たな波が寄せては消える。目を上げると重々無尽、視野果つる所より千万の波がたゆたい寄せている。私はそれを見ながら思いを過ぎゆくものに移した。太古より幾多の波が生れ消えている。それは人生の生死にも擬え得るものである。併し思えば太古の波も、今寄せている波も同じ海の水のたゆたいである。起伏変遷があるということは大なる同一をもつことである。人間に於ても同じである。生死を見るものは生死を超えたものをもつことでなければならない。全ての生死を自己のたゆたいとする如き、生命の海に於て生死を見ることが出来るのである。

 私はかかるものの端的な表れを言葉に見ることが出来ると思う。言葉を作った人はないと言われる。言葉は太古よりの人と人との関り合いの中から生れたものである。而して生んだ言葉によって私達は私となったのである。私達は他人の言葉を語ることは出来ない。私の言葉は何処迄も私個有のものである。人と人との間から生れたもの、私ならざるものによって私は私となるのである。

 私は今ゲーテを読んでいる。ゲーテは既に死んでいない。いない人の本を読むということは、ゲーテの言葉は私の中に生かされ、私の中に生きることによって生命を持続することである。併し私の中に生きるということは、私がゲーテに生かされるということである。読むことによってゲーテの言葉は私の言葉と化す。併し私に化した言葉は私の言葉であって、ゲーテの言葉は依然としてゲーテの言葉である。

 言葉は普遍のものである。一人のみがもつ言葉というのは言葉ではない。我々は解続することによって、六千年前のスメル人の思想行動を知ることが出来る。それは古今を通貫し、東西に敷延するものである。併し言葉一般というものはない。言葉は何処迄も私の言葉であり、君の言葉である。私達は自分の言葉をもつことによって、対話するものとなり、人類の一員となるのである。個が一般であり、個が一般であることは、一般が個であることである。

 人間の身体のみにあって他の動物にないもの、それは言語中枢であると言われる。 言語中枢は人類が、生命創造の究極に見出でたものである。それによって我々は言葉をもち、他の動物に卓越することが出来たのである。その言語中枢は一人一人がもつ、人類という抽象的普遍がもつのではなくして、今この字を書ける我、田を耕せる君がもつのである。而してそれはこの我や君がつくったのではない。人類の壮大な生命の流れがつくったのである。

 言葉は既に述べた如く、無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達するものである。身体の生死を超えたものである。而して言語中枢は生死するこの身体がもつのである。生死する身体は生死を超えたものをもつ身体である。生死する身体が生死を超えたものをもつとは、語られる言葉は生死に関るということである。そこに人間の懊悩がある。

 人間が言語中枢によって人間であるとは、我々の自己は我々を超えたものによって自己であることである。身体が身体を超えたものをもつとは、超えたものによって身体が見られているということである。私達は初見の人に自己紹介として名刺を出す。その名刺には住所氏名職業が記されている。これ等は全て身体の存在を超えたものである。住所は祖先が拓いた土地にあり、氏名は血脈の連続の上にあるものであり、職業は限りない技術の伝統の上に立つのである。それを言葉が写したものが自己である。

 不生不滅は周知の如く般若心経の中に書かれている言葉である。心経は五蘊は皆空なりと照見して一切苦厄を渡すと書く。五蘊は生死する身体の欲求として、ここに書く身体に比すべきものである。照見された世界を色即是空と説く。即とは相反するものが一ということである。色は何処迄も空ならざるものであり、空は何処迄も色ならざるものである。それが直に一ということである。相反するものが一であるとは、相互媒介的ということである。色は空によってあり、空は色によってあるのである。

 色が何処迄も空ならざるものであるとき、色が見ることの出来るものであれば、空は見ることの出来ないものでなければならない。見ることの出来ないものが、見ることの出来るものと一であるとは、見えないものははたらくものであり、見えるものは、はたらくことによって見出されたものでなければならない。前に言った如く一般が個であり、個が一般である。それは矛盾である。併して生命は矛盾として動きゆくのであり、矛盾は時間の論理である。

 言葉をもつということは自覚的ということである。自覚とは自己の中に自己を見ること である。空がはたらくものであり、色が見られたものであるとは、自己の中に見出でた自己として、空がはたらくとは色がはたらくことである。人間生命がはたらくものであるとは、この我、汝がはたらくことであり、この我、汝がはたらくことは、普遍的人間生命がはたらくことである。

 色は相対するものである。全て見出されたものは相対するものとして見出されたものである。右は左に対し、求心力は遠心力に対す、 我と汝があるということは、我と汝は相対するものとしてあるのである。相対するものは相互否定として相対するのである。右は左の否定としてあり、求心力は遠心力の否定としてある。我と汝も否定し合うもの、相争うものとして我と汝なのである。

 斯く否定し合うところが空である。空がはたらくものであることによって、空に於て我と汝は否定し合うのである。お互が身体を超えた世界をもつものとして、世界に於て我と汝は相対し、相はたらくのである。この我を色身として、この我と汝がはたらく処として、世界が空の意味をもつのである。

 はたらくとは否定し合うことである。否定し合うことは、はたらく世界が自己自身を見 ることとして否定し合うのである。世界は競争の場であり、人は競争に打勝たんとするのである。それは実業界であろうと、芸能界であろうと、人と人との関り合うところ例外はあり得ないものである。而してその競争をなすところとして必ず業界があるのである。我と汝の競争は業界の発展として、競争の裡に業界は新しい自己の相をもつのである。個が普遍であるとは常に斯る形に於て、現実として実現してゆくのである。否定し合う我と汝は業界の発展に於て結びつくのである。はたらくとは世界を内にもつことであり、世界を内にもつことによって、否定し合う我と汝は、お互に内にもつ世界によってつくられたものとして肯定し合うのである。否定が肯定であり、肯定が否定である。それは生死するものが超越的である我々の身体より出でるのである。

 生死する身体に写した超越的なるものが業界である。我々はことではたらくものとして 物を作るのである。それに対して超越的なるものに身体を映すとき、身体がそこにはたらく業界があると共に、業界がそれによってある世界があるのである。業界が自己自身を創っているものである如く、それは自己自身をつくってゆくものである。業界が生死する個を包むものとして、時の内容としてあるのに対して、時を包むものである。業界が個人の否定を媒介として自己創造をもち、自己創造に於て否定を肯定に転じた如く、業界の創造を、創造あらしめるものとして絶対普遍に転ずるものである。

 そこは究極的一として顕れも隠れもしないものである。一瞬一瞬にあらわれて消えつつあらわれ消えるものを自己の陰とする存在者である。それは恰も大海の水の如く、万波を自己の揺曳とするものである。業界は一つの湾に、個人は一つの波にも比せられるであろう。水は大なる力として、現われて消えるのは全て自己の中である。初めも終りもその中 のたゆたいである。

 般若心経は知見の書と言われる。知見とは言葉によって見ることである。言葉はそれによって我と汝を見、過去と未来を見るものとして超越的なるものである。我と汝、過去と未来はその中に見られるものとして、超越者のたゆたいの起伏に外ならないものである。この我がそれによってあるものとして、我をあらしめる超越者の大なる目となってこの我を見たのが不生不滅である。

 不生不滅の世界は一者として静寂である。併しそれは何もなき静寂ではない。無限の動きをもつものとしての一者であり静寂である。全てのものがそこに生れ、そこに消えゆく 一者として動乱と混迷を超えた大知見の静寂である。全存在への思量底の静寂である。

 色は空ならざるもの、空は色ならざるものとして相互媒介的にあるとき、色身としての この我が空に媒介されるとは、空によって否定されることでなければならない。空によって否定されるとは、色身がなくなることではない。無くなるところに相互媒介はない、 身が空の形相となることでなければならない。それは色身としての欲求的行動が言葉の内容となり、言葉によって新しき形相を得ることである。

 相互媒介的に否定されるとは死して生れることである。我々は日々の行々歩々、大なる生命の中に死ぬことによって生きるところに自覚があるのである。生き切るとは、死に切ることである。愛語よく回天の力を有すと、道元は言う。愛も慈悲もそこより生れるのである。

 色身の死に切ったところが、自覚的生命の生き切るところとして不生不滅はある。自覚的生命の大なる表現的世界は色身の生死を超絶するのである。自覚的生命としての人間はそこに生きるのである。 ロダンも道元も二宮尊もそこに生きるのである。不生不滅は冷岩枯木となることではない。言葉をもつことによって真に熱き血潮となるのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

無について

 日本文化が問われるとき、常に出てくるのが無ということである。それは幾百年間問い直され、答え直された問題のようである。而して現在も尚、書店の棚に無を問う文字が背を並べている。私はそのことは無は西洋的な概念的定義をもち得ないことに由るのではないかと思う。

 無を問うということは、それ自身が矛盾である。無が単に無いということならば、そこ から問いの生れてくる所以があり得ない。問いが生れてくるのはそれが相反するものを含むが故である。有が無であり、無が有である、そこに無への問いが生れてくるのである。無が有であり、有が無であるとは、有も無も無いということである。併し有も無も無いところには有が無であり、無が有であるということは出来ない。あくまで有は現前するものであり、現前するものは無としての現前でなければならない。而してそれが人間生命のこの我の存在のしかたであるところに問いが生れるのである。

 生命は内外相互転換的である。生きているとは、外を内とし、内を外とすることによっ て形作ってゆくことである。斯る内と外とが転換的に純一であるということが、生命が内外相互転換的であるということである。動物は外として食物的環境をもち、内として身体機能をもつ、それは相互否定的である。動物は労力を費して食物を求めなければならない、それは苦である。併し動物はその特にすぐれていると言われる嗅覚に於て食物的環境と一体である。

 犬を散歩に連れて行っていると、突然草むらの中にかくれて何かを咥えてくることがある。どうして探したのであろうと思う。そこには犬とそのものの間に特殊な関りがなければならないと思う。咥えて来たものが、犬の嗅覚をとおして呼ぶということがなければならないとおもう。求められるものと求めるものが、誘い誘われる関係としてあるのである。私の家の裏庭の、コンクリートの裂目に咲いた二、三輪の小さな花に、密蜂の来ているのを見たことがある。花と言えばそれのみである。しかも家に囲まれているのである。そこには我々の思考を超えた生命空間とでも言うべきものがあると思わざるを得ない。それは花のにおいを介して、蜂と蜜が一なる動的空間である。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己が自己を見ることである。自己が自己を見るとは、自己を外に形に表わすことである。外に形に表わすことによって我々は自己を見るのである。外に形に表わすとは、内外相互転換としての動的一なる生命が、内的なるものと外的なるものに分れることである。それは外なるものを物として、内なるものをはたらくものとして、技術的製作的となることである。自覚的生命とは、技術をもって物を作ることによって自己を実現してゆく生命である。我々の自己とははたらく自己である。

 我々の自己がはたらく自己であり、外に物を作るとは、内と外とが分れることである。 分れることは対立することである。対立するとは相互否定的としてあるということである。動物に於ても内外相互転換的に一であるとは、相互否定的に一であるということであった。それが自覚に於て否定面が露はとなったのである。

 物を作るとは、外としての我ならざるものを、我の表われとすることである。外を否定 することである。それは同時に、物を作るとは我を外とすることである。この我が物に 化すことであり自己を否定することである。物に自己が表われることは生であり、自己が物に化すことは死である。斯くして表現的世界は生即死、死即生として無限の動転である。我の表われたものは我の化したものとして、外に我に対立するものとなるのである。我々は我の表現物を外として、更にその底に我を表はすべく努力するのである。外として死として迫ってくる物を生ずべく努力するのである。我々日常の営みとはる無限の経緯である。

 我と物が対峙するということは、生が死に対峙することであり、それは苦痛である。生 即死として外より自己が否定されるとき、そこに我々は自己を見る。死する自己、有限なる自己として我々は自己に目覚めるのである。斯る自己が死即生としての、有限なるものを超克せんとする、内よりのはたらきに自己を写すとき、無限の苦悩となるのである。死即生の方向に永遠なるものを見て、己れの生命の朝露のはかなさに悶えるのである。

 自覚的生命とは製作的表現的に自己を見てゆく生命であり、製作とは物を作ってゆくことである。物は内外相互転換の形相的実現として、何処迄も変転してゆくものである。我々が製作的生命として物を作ってゆくとは、物に自己を表わすことであり、物に自己を映すことである。何処迄も物に自己を映してゆくのが自覚的生命に生きることである。それは変転し生死しゆく有限相対の世界である。自己が物に即して自己を見る限り離れることの出来ない世界である。生きるとは苦悩に生きるのである。

 併し分れたものは一つのものが分れたのであり、対立するものはそれを包摂するものに於て対立するのである。苦悩は克服すべく我々に努力を強いるのである。そこに無の問わるべき所以がある。有限として変転し、生死するものの否定を問わなければならないのである。有の否定は無である。

 ここに如何に否定すべきかの問題がある。我々は生きるものとして、それはあく迄生命の営為に即して否定されるのでなければならない。自覚的生命の内外相互転換に即して否定されるのでなければならない。物は我の表われとして、自己を見るとは物に着すること である。物に着するとは、見出でた我に着することである。物に執し、自己に執するところに物と我とは相対し、有限として相互否定的となるのである。私は純一なる内外相互転換の自覚として見出でた物と我は、再び純一なる転換にかえるのでなければならないとおもう。否定したものによって否定されるのである。

 自覚的生命としての内外相互転換は製作であった、製作に於ては最早原始的生命の如く内と外と感官的に一であることは出来ない。物と我の対立するものが一なのである。人格的に一である。製作するとは、物と我とが行為に於てそこに消えるのである。消えて現われるのである。そこに有の否定がある。それは創造的否定である。我と物が無くなるのではない。我と物の根底に、我と物の消えゆく更に大なる生命の流れを見、我も物も断る 大なる生命の影と見るのである。

 ミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言ったとき、そこには自己も物もない 唯実現してゆく彫像あるのみである。発明家は寝食を忘れる。寝食を忘れるとは自己がそこに没することである。自己が没するとは無我であることであり、我のないところに物もない。そこに製作的生命の内外相互転換の純一がある。有限として相対するものはここに否定されるのである。而してここより物も我も生れるのである。無となるところより生れるのである。

 併しここよりまだ無への問いは生れない。製作的自己としての無我は、大なる流れの中にあるというのみである。無への問いとは斯る自己を無とならしむる大なる生命を真の自己として、その消息を問わんとすることである。行為するのではなくして、行為の根底を言葉によって捉えんとすることである。見られた自己を見るのではなくして、見る自己自身を見るのを真の自覚とせんとすることである。

 それによって我と物のある世界とは、物でもなければ我でもない世界でなければならない、その世界は物によって見られるのでなければ、我によって見ることの出来ない世界でなければならない。それは物と我とに自己を露わとしつゝ、否定的転換的に露わにするものとして見ることの出来ないものでなければならない。 我と物が否定転換的に露わとなることが、自己を露わとするものとして、私はそこに生命の初めと終りを結ぶものを見ることが出来るとおもう。

 初めと終りを結ぶ生命が内外相互転換的であるとは、創造的であるということである。創造的とは技術的に自己の中に自己を見てゆくことである。自己の中に見られた自己として、内外相互転換的に露わとなった自己が、初めと終りを結ぶ生命の表れとして、始めと終りを結ぶ生命に触れるとき、製作的自己を無我ならしめた絶対の無に接するのである。それは自己の中に自己を見るものとして、無限の活動であるとともに、見られたものは自己の中に見られたものとして無限の静止である。相互転換的に自己を限定するものとして、常に現前すると共に、一瞬も捉えることの出来ないものである。

 禅家に大死一番という言葉がある。見ることが出来ないということは、知見によって捉 えることが出来ないということである。物を捨て、自己を捨てて唯現前そのままとなるところに見られるものである。現前そのままとなることは原始的生に還ることではない。あく迄も製作的努力に生きるところである。製作的生命が真の自覚をもつのである。製作的努力の過程を経ずして至り得ない世界である。我と物なくして、我と物を捨てることはあり得ない。自覚的生命として、自己の中に自己を見るとは死して生きる道である。我と物がそこに死ぬとは、我と物が始めと終りを結ぶ永遠なるものの風景となることである。そこに我と物の真の姿が現前するのである。そこは我と物の相対的知見を捨て切ったところに見られるものとして絶対の無である。そこは全てのものがそこより生れるところとして絶対の有である。

 私は日々是好日と言った如きに斯る風景を求めたいと思う。これは我や物を介在させてもつことの出来ない世界である。知見によって捉えることの出来ない世界である。それは唯在る一日一日である。併しこれは大力量の士によってのみもち得る日々である。一瞬一瞬を常に大死出来るもののみが維持出来る日々である。悲しみ痛みを永遠なるものの影とし得るもののみがもち得る風景である。

 始めと終りを結ぶものが、自己の中に自己を見ることによって我と物があるとは、我と 物は始めと終りを結ぶものであることである。そこに無が自己の奥底への参見である所以がある。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

客観的世界

 生命は身体的であり、身体の維持発展は内外相互転換的である。外を食物として、摂取 した食物を身体と化し、無用となったものを排泄して、外となすのが身体の営みである。身体が内外相互転換的に自己を維持してゆくとは、身体は内的なるものを内包とし、外的なるものを外延とする、内外の統一としてあるのでなければならない。 求心的方向に意志をもち、遠心的方向に世界に生きるものでなければならない。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは自己が自己を知る生命である。自己を知るとは、自己が自己の中に自己を見るのである。内外相互転換としての生命が、内外相互転換を見るのである。内外相互転換は一瞬一瞬である。一瞬を包む一瞬となるのである。

 外が内になり、内が外になる。物が身体となり、身体が物となる。それは技術的という ことである。内外相互転換は技術的であり、身体は構成的である。一瞬を包む一瞬とは、現在が斯る技術的構成的な一瞬を包むものとなることである。現在は一瞬より一瞬へと移ってゆく、移ってゆく現在が移るものを蓄積してゆく、そこに自己の中に自己を見る自覚があるのである。現在が時の初めと終りをもつものとなるのである。我々は永遠に映した刹那として自己を知るのである。

 技術的構成的としての一瞬が一瞬を包むとは如何なることであるか、現在の相互転換に以前の相互転換が働くのである。それは前の相互転換の記憶によって、現在の相互転換の無駄が省かれるということである。合目的的となり、合理的となることである。構成的としての身体が愈々機能的となることである。投げつけた石によって偶然に胡桃の殻が割れたとする。次は殻を割るために石にてたたくのである。一瞬が一瞬を包むとは斯る生命となることである。胡桃を割るという現在の行為の中に、過去を重ねることによって偶然を必然に転換さすのである。私は物の製作を偶然の必然への無限の転換に求めたいとおもう。自覚的生命とは外に物を作ることによって、物に自己を見てゆく生命である。技術的製作的生命である。自己が自己を表わしてゆく生命である。

 内外相互転換が自覚の内容となることは、内と外とに分れることである。生命が内外相互転換的であるとは、内と外とが一であることである。若し馬に等質等量の餌を左右等距離に置いたとする。その馬は何方も食うことが出来ず、遂に飢死しなければならないということを何時か読んだことがある。馬の欲求は餌の誘いでもあるのである。 欲求と餌が感覚に於て一なのである。馬は嗅覚に誘われて行動を起すのである。内外相互転換に於て、内外はなるところに行動があるのである。自覚的生命に於ては過ぎ去ったものが現在として、現在の相互転換を限定してくるのである。現在は過去の相互転換と、現在の相互転換を包むものとなるのである。自覚とは高次なる現在をもつことである。過去と現在の対立を包むということが思考することである。ここに与えられたものを外として、欲求するものを内として内外相分れるのである。内外相分つことによって、馬なれば飢死するところを自由に撰択することが出来るのである。

 無限の内外相互転換を内包しつつ、現在の相互転換としての唯一生命を決定する。それは現在の唯一生命は無限に構成的であるということである。外としての物を構成することが技術的ということであり、技術によって唯一現在を決定することが製作する事である。内外相分れるとは、分れたものが一に回帰することによって現在の唯一形相を実現するものとなることである。一に回帰するとは、分れたものは何処迄も対立するものでなければならない。対立するものでなければ、それは単なる一であって、一に回帰すると言うこ とは出来ない。

 対立するとは各々が内面的発展をもつことである。外は外自身の自己構成をもち、内は内自身の自己構成をもつことである。物は物自身の構成として体系的発展をもち、内は身体的欲求を離れて創造的自由人格となることである。

 対立するものが一であるとは相互媒介的となることである。相互媒介的とは、内と外は絶対に対立しつゝ外は内によってあり、内は外によってあることである。物は人によってあり、人は物によってあることである。物は自由人格の創造によって構成をもち、人は物の内面的必然を見ることによって愈々自由な人格となるのである。物は人の中に消えゆくことによって、新たな物となり、人は物の中に消えゆくことによって新たな人となるのである。自覚的生命の内外相互転換は、物と人がそこに消えて新たに生れる刹那として製作的である。製作は過去がここに消え、未来がここに生れる行為的現在であり、過去は死して生れるものとしてここに働き、未来は形を呼ぶものとしてここに働くのである。対立する外と内、物と我が一となることが製作することである。

 対立するものは相互否定として対立するのである。物と我が分れるとは、否定し合うものとして分れるのである。物はわれを否定してくるものとして外である。否定とは生きるものとしての我に死をもって迫ってくることである。もともと内外相互転換が相互否定的であった。食物がないということは我の死として無に帰することであり、物を食うということは物が無に帰することである。物を得物を否定する我が力をもち、否定的転換に於て形相を実現するものとして、内容をもつものである如く、我を否定する物も、自己の形相を実現するものとして力をもつものでなければならない。斯る力によって我々は殺されると共に、生かされるのである。

 外は我を殺すものとしてはかり知ることの出来ない力である。それを我を生かす力として転ぜめるためには、物と我と相分れた自覚的生命に於ては、何処迄も物の中に消え、物となってはたらかなければならない所以がある。而して物となってはたらくことが、物を生むところに相互転換としての生命の営為があるのである。

 物に消え、物になって働くとは如何なることであろうか。生命は何処迄も内外相互転換 的一である。内が外を作り、外が内を作るのである。内は外を作るものとして内であり、外は内を作るものとして外である。 生命が風土的、歴史的に把握される所以である。自覚的生命に於て物と我が絶対の懸絶であるとは死することによって生きることである。それが転換に於て一なることである。

 我ははたらくものとして我であり、物は形あるものとして物である。物に消え、物とな ってはたらくとは形に実現してゆくことである。はたらくものは露はとなると共に、はた くものは消えてゆくのである。意志は遂行と共に消えるのである。而して形造られたも のの呼び声から、新たな決意が生れてくるのである。物ははたらくものに新たな決意を呼ぶと共に滅びゆくものとなるのである。そこに技術の発展があると共に、自覚的生命の内外相互転換があるのである。

 私は客観的世界をこの自覚的生命の内外相互転換的一に求めたいと思う。それは生命が物の中に没し、物が生命の中に没してゆく世界であると共に、物が形より形へとしてそれ自身の内面的発展をもち、生命は世界を形造るものとして絶対の自由を自覚するものである。物は何処迄も物でありつゝ、生命の翳を宿すことによって物であり、生命は何処迄も自由でありつつ、物に見出すことによって生命である。それは無限に動的である。

 私は斯る世界を歴史的世界に求めたいとおもう。無限に動的とは、現在より現在へと自己を形成することである。技術的とは時間を内包するものとして、歴史的時に於て技術はあるのである。伝統なくして技術はあり得ないと言われる所以である。歴史的世界とは生れ働いて死んでゆく世界である。無数の人が生れ、相対し死んでゆく世界である。我々がこの我というのも、この世界にあることによって言い得るのであり、物はこの世界に於て作られるのである。無限の過去より無限の未来へ流れつつ、無限の過去と無限の未来を現在とする世界である。

 客観的世界はそれに於てあるものとして、於てあるものの価値の決定者である。価値とは世界を実現しているということである。斯るものとして私は価値の決定者は歴史的現在に求めたいとおもう。人も物も世界形成に如何に働いているかによって決定されるとおもう。宝の持ち腐れという言葉がある。世界形成に参加し得るものが参加していないという ことである。

 自覚的生命の内外相互転換として、歴史は無限の推移である。歴史的現在は内包する外と内との矛盾によって、現在より現在へと移ってゆくのである。矛盾によって動くとは否定することである。動くものは相反する方向に動くと言われる如く、価値は絶えず変遷してゆくのである。昨日迄大なる人類の意志であったものが、明日は忘れられたる者となるのである人の魂を魅了した蓄音器は、今は古物商の店頭に見るのみである。

 併しそれは単に否定されたのではない、新しいものを産むことによって死んでいったのである。産むものとして永遠の底にひびきゆくのである。製作に於て無限の過去と未来が現在であるとは、形の変遷を超えてはたらくものとして一であるということである。我々の根底には全人類一なるものがあるのである。無数の過去の人、現在の人、未来の人が一なるものがあるのである。それは恰も大古の波も現在の波も同一の海の水のはたらきによるが如きものである。自覚的生命としての製作はここに見られるのである。私は仏教の弥陀の本願とか、キリスト教の最後の審判は斯る地盤に成立するものであり、歴史的現在は深く斯かるものをもつことによって、過去、現在、未来を包み得るのであるとおもう。いわば歴史的現在は一瞬一瞬に弥陀の本願をもち、最後の審判をもつのである。

 私は斯かるものの端的な表れが言葉であるとおもう。言葉を作った人はないと言われる。しかも言葉は常に語る人の言葉である。私達は言葉を解することによって、六千年前のスメル人の心や行動を知ることが出来るのである。言葉は現在によって生かされる。道元の言葉は我等に生かされてのみ言葉である。併し道元の言葉はこの我の中に消えるのではない。奪うべからざる道元の言葉として、我々に対するのである。対話するのである。我等に生かされるとは、我等を生かすものである。私は言葉は太初と終末を結ぶ生命の表れであると思う。意識の最深なるものは、言葉が太初と終末を結ぶことを知ることであるとおもう。

 初めと終りを結ぶとは、初めと終りがあるとゆうことである。一とは多ということであ る。大なる生命は我々を内に包みつつ、それ自身の動転をもつのである。我々はこの大なる生命の中に自己を消すことによって生かされるのである。私は客観的世界とは、はたらくものとしてのこの我が、我がその中にあり、それによって生かされるものとしての大なる世界に対し、大なる世界を見ることであるとおもう。

 対するとは否定することである。反逆することである。単なる内容は何ものでもない、対することによって偉大を知り、反逆することによって深淵を知るのである。内外相互転換するのはこの身体であり、製作するものはこの我であり、汝である。この我は逆に世界を包み、世界を作るものである。唯一世界といっても単なる唯一は何ものでもない。動転は否定するものによって動転するのである。

 我々が物を作るとは個性を媒介として、新たなものを作ることである。新たな状況を創 り出すことである。世界を否定して新たな世界を作ることである。世界の内容であるものが世界を内容とする。そこに客観に対する主観があるのである。そしてそこに小主観とか論理学に主語不当拡大と言われる、主観の誤謬が生れるのである。永遠に動転するものの前に生死するものは全て誤謬である。そこに我々の自己を死して生れさせなければならない所以があるのである。自覚的生命としての内外相互転換は常に努力である客観的世界は我々の主観がそこに成立するものとして、根源的主観の意味をもつものである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

おのずからとみずから

 坂田書店の本棚で『「無」の思想・老荘思想の系譜』という本を見出した。私は漢字の中に育ちながら中国思想に弱い。それなら何に強いかと言われると困るが、隣国であり乍ら殆んど知らないと言ってよい。特に老荘は何だか反文化的な感じがして拒絶反応というたものをもっていたようにおもう。所謂日進月歩とか、未来への展望とかいったものが欠除しているように思って、路傍の石として見ていたように思う。併し最近時間が成立するには時間を包むものがなければならないということ、即ち文化が発展し、未来への展望をもつには、初めと終りを結ぶものがなければならないということに考えが及んで、無の問題は非常に重大な意味をもって来た。私は一つは老荘、ひいては中国が自己の根底として見出した思想を学ぶためと、一つは私の思考の中から必然的に現われた、無の問題の検証と明確化のためにその書を買った。併しここに書くのは無についてではない。その上部構造としての自然についてである。老荘は知られる如く世界の大本を自然に見た人である。私は彼等を尋ねることによって私自身の自然を見たいとおもう。

 本書は最初に自然は「自」が主格であり「然」は助辞にすぎないと書いて、「自」には オノズカラとミズカラの二つの意味があると書いている。そしてミズカラのほうは、自分 で手を下して何ごとかをする場合に使う。これに対してオノズカラは、自分が手を下さないでも、そのことが自動的に運ぶ場合に用いられる。もう少し詳しくいえば、ミズカラには意識や努力がともなうのに対して、オノズカラはそうした意識や努力を必要としないことをさす。もしそうだとすれば、ミズカラとオノズカラは正反対の意味をもつことになる。ところが、この自はミズカラかオノズカラかという質問を中国人にすると、いくら日本語のうまいものでも、何のことやらさっぱりわからないのが普通である。つまり中国人はそのような区別をしていないのである。いや、中国人でなくても、少し広く漢文をよんでいると、ミズカラとよんでも具合が悪く、オノズカラとよんでも具合の悪いような「自」に出会うのである。つまりそれはミズカラでもなく、オノズカラでもないわけである。

 それでは「白」の本来の意味は、どのようなものであるのか。いちばん手っ取り早いの は、その反対語である「他」という言葉をおいてみることである。つまり自とは「他者で はない」ということである。もう少し親切にいえば、自とは「他者の力を借りないで、そ れ自身に内在する働きによること」であるはずである。これが自の第一義にほかならない。ひるがえって、さきのミズカラとオノズカラを、この自の第一義から見るとどうなるか、実はミズカラオノズカラも、自の第一義を共通の地盤としているのである。唯異なるのはミズカラでは自身に内在する働きがあらわれるときに意識や努力が伴い、オノズカラでは同じことが意識や努力を伴わないのである。もし意識や努力の有無ということを除外するならば、両者の区別はなくなってしまう。漢語の 「自」というのは、本来このような意味 のものである。 中略

 しかしここにあげた自然の第一義だけで、実際に使用されている自然という語の意味を完全に説明出来るかと言えば、それはそうではない。実は「他者の力を借りないで」というが、その他者が具体的に何であるかは、その場その場で異なっている。したがって自然の具体的な内容は、何を他者としておくかによって決定され、他者が変れば、自然の内容もそれにしたがって変わる。自然が多義であるのは、実はこれに対応する他者が動くためである。と書いてその多義として、無為自然と有為自然をあげ、各々其の中に見出でた諸家のさまざまの意見をあげている。

 私は読み乍ら、第一義があるのにその中に包摂出来ないというのは何うゆうことであろうかと思った。派生したものを統一することが出来ないのは第一義ではない。第一義は多義をして関聯あらしめ、それを結合してこそ第一義である。第一義は多義に対して根本義の意味を有するのでなければならない。私は第一義によって、多義が説明出来ないということは、第一義への徹底的な追求に欠けているのではないかとおもう。斯る観点から第一義を掘り下げることによって、無為自然と有為自然、オノズカラとミズカラの接点を求めてみたいとおもう。

 「他者の力を借りないで、それ自身に内在するはたらきによること」とは如何なること であろうか、はたらくとは形作ることである。形に実現してゆくことがはたらくことである。オノズカラもミズカラも形に出するということでなければならない。形に出するのに ミズカラとオノズカラとがあるのである。即ちオノズカラとミズカラは、形に出ずるあり 方が異っているということでなければならない。

 自身に内在するものによって、自己の展開をもつものは生命である。はたらくとは、生 命が自己の形を作ってゆくことである。ミズカラのはたらきが意識や努力をともない、オノズカラのはたらきが意識や努力をともなわないということは、ミズカラとしてはたらくものは、意識や意志をもつ生命であり、オノズカラとしてはたらく生命は、意識や意志をもたない生命でなければならない。

 生命が形作るとは時間的である。時間とは操作の形式であるといわれる。形作るとは無限の否定と肯定である。生命が育つとは一瞬も止むことのない摂取と排泄である。否定と肯定に於て生命は自己を形作ってゆくのである。生命形成が時間的であるとき、生命の形は時に於て現われるのでなければならない。ミズカラがオノズカラに対して、意識と努力をもつというとき、ミズカラはオノズカラに対して、時間的に後であらわれたということでなければならない。そこで私は先ず生命形成に於てオノズカラとは如何なるものであるか究明したいとおもう。

 生命は内外相互転換的である。動物に於て環境は、食物的環境であるといわれる如く、外を内とし、内を外とすることに自己を形作ってゆくのである。外を内とすることは物を身体とすることである。自己ならざるものを自己とすることである。変化せしめることである。変化せしめるということは、技術的ということである。技術的なるものが内在的であるとは、身体は機構的である。生命が形作るとは、機構的身体として形作るのである。機構的身体に於て、外と相互否定的に結びつくのである。環境と相互転換的に結びつくのである。

 動物の生態の本を読むと、動物と環境の結びつきは驚異的である。その動的なるものに於て、環境は動物の外であり、動物は環境の内である。私はそこにオノズカラがあるとおもう。環境が主体を作り、主体が環境を作る。そこに寸分のすきを見ることも出来ない。それ自身に内在するはたらきとは、身体がそれ自身機構的として、外を内に変化せしめ、自己を維持する営為をもつことである。オノズカラとは、生命形成に於て環境と主体の相互転換が純粋持続として、直に一なるものとしてあることであるとおもう。

 ミズカラが意識や努力をもつとは、生命形成の直に一なる転換が内と外に相分れることである。内と外とが対立するものとなるのである。直に一なるものがオノズカラであるとすれば、それはオノズカラの否定である。本書の最初にも「もしそうだとすれば、ミズカラとオノズカラは正反対の意味をもつことになる」と書いている。意識とは外を写すことであり、努力とは意識が写した外を、力の表出に於て変ぜんとすることである。直に一なるところに意識はない。内外相分れるとは、内外を相分つのである。それはオノズカラとしてはたらく生命に新しい生命が加わったのである。ミズカラは新しい生命の誕生としてオノズカラとしての生命のあり方を否定したのである。

 内外相対立するとは、純一なる内外相互転換の流れを断ち切ることである。断ち切るとは否定をもって相距てることである。外は主体を否定するものとして物となり、内は外を否定するものとして生命となるのである。物は生命の否定として、死として迫ってくるものとなり、生命は物の否定として、死を生に転ずるものとなるのである。そこに意識と努力が生れる。即ちミズカラとなる。

 物が我々に死として迫ってくるものであり、主体が物を否定して、死を生に転ずるとは 製作的生命となることである。物が死として迫ってくるとは、純一なる流れが断たれて固定することであり、死を生に転ずるとは、固定としての物を、新たな物を産む物として流動化せしめることである。そこに物の製作があるのである。生命とは内外相互転換としての、形成作用の純一なる流れであり、物とは外としての純一なる流れの停止の形相である。絶対否定を媒介しての流動をもつところにミズカラがあるのである。ミズカラとは外を製作としてもつことである。

 それでは製作とは如何なるものであろうか。製作とは技術によって、外を生命の内容に変革することである。斯る技術は何処から来たのであろうか。私は前に生命は内外相互転換的であり、外を内に転ずるのは技術的であるといった、技術的として身体は機構的であるといった。断る機構的なるものが、対立として、否定的として迫ってくる外に向ふとき道具となるのである。手は摑むもの、打つものとして、外の物を媒介するとき、延長として斧を見出し、槌を見出すのである。稲はそこにあったものではなく、水を引き、草を除いて作られるものとなったのである。斯くしてミズカラとしての生命は、転換としての外を飛躍的に大ならしめ、内を豊潤化していったのである。

 動くとは相反するものの方向に動くのであり、否定は相反するものとなることである。 オノズカラとミズカラとは正反対である。併し見て来た如くミズカラは、オノズカラより 出で来ったものである。出で来ったとは、出で来る前のものではないことであり、否定として正反対のものである。而して否定をもつとはその根底に深い同一をもつことである。ミズカラがオノズカラから出で来ったとは、ミズカラはオノズカラの否定であると共に、ミズカラはオノズカラの自己否定として出で来ったのである。即ち形成的飛躍として出で来ったのである。

 ミズカラはオノズカラの否定として、オノズカラが自然であるとき、ミズカラは自然であるということは出来ない。オノズカラは成るのであり、ミズカラは作るのである。そこには異った形成的系譜が成立する。オノズカラは生れ来ったものとしての身体に形成をもち、ミズカラは道具によって変革してゆく物に形成をもつのである。オノズカラは内在的なるものの発展であり、ミズカラは対象的として、世界形成的である。

 而してミズカラはオノズカラより出で来ったものとして、何処迄もオノズカラに即してあるのであり、オノズカラは、ミズカラが自己の内在的なるものより出で来ったものとし て、ミズカラを己れの飛躍的展開として、ミズカラを自己のより明らかな形相として、 ズカラより展望されるものとしてあるのである。それは動的生命の展開であり、形成としての否定が肯定であり、肯定が否定としてあるものである。そこに自然の多義性があり、多義性を摂取する一義性があるとおもう。

 非連続の連続である。非連続の連続とは生命が個体的であるということである。生命は生れることによって連続する。生れたものは親と異なったものである。それは其の中より生れたものとして同一でありつつ、それ自身の行動をもつものとして異なったものである。生命が自己形成的であるとは進化をもつことであり、進化は斯かる異なった個体を生むことによってもつことが出来たのである。その極限に成る生命より、作る生命があらわれたのである。多義性とは、否定が肯定であり、肯定が否定である否定の肯定の何処に視点をおくかにあると思う。

 ミズカラはオノズカラに対して、時間的に後に現れたものとして、形成的進化に於て優 越をもつものである。それなれば老子は何故に無為自然を唱えたのであろうか。その理由として老子の生きた殺伐たる千才の時代が言われる。それなれば何故その時代が過ぎ、平和を謳う時代が来ても読まれ続けたのであろうか、私はそこに単なる時代を越えた、人生の深奥への問いがあったとおもわざるを得ない。普遍なるものへの問いがあってこそ何時迄も読みつがれ、問い直されることが出来るのである。

 ミズカラとして、人為としての製作の世界は対立の世界である。ミズカラとは個体とし てのこの我である。個体が個性として技術をもつところに製作があるのである。技術は伝統に於て成立するものである。我々は何かの技術をもつ、その技術は師匠、教師亦は親より伝承したものである。師匠はその師匠その師匠へと無限にさかのぼるものであるそれは究めつくすことの出来ないものである。私がオノズカラとしての生命が技術的であり、構造的として、ミズカラの技術はそこより生れ来ったと言う所以である。ミズカラが製作的生命であるとは、斯る無限なるものによってある生命であることである。

 技術が無限なるものであるのに対して、技術をもつものとしての個体は生来ったもの である。それは死を対極に有する、死すべく生れ来ったものである。技術を有するものとして、無限なるものによって存在するミズカラは、露の生命として死んでゆく有限なるものである。即ち製作的生命としてのこの我は、我ならざるものとしての我なのである。矛盾として、苦悩としての生命なのである。それはこの我によって突破することの出来ない矛盾である。キェルケゴールの虚無や絶望につながるものである。

 私はそこにオノズカラの否定としてのミズカラが、ミズカラを否定しなければならない 所以があるとおもう。老子は斯る否定をふたたびオノズカラに帰ることに求めたのであると思う。ミズカラの有限性に対して、オノズカラ成るものは無窮の時間の上にある。否無為にして化すものは時なきものである。無為なるが故に、変じつつ変ぜざるものである。時の初めと終りをつつむものである。初めと終りをつつむものとして、永遠なるものである。而して前にも述べた如くオノズカラ成ったものは、環境と主体の寸分のすきもない一体としてあるものであった。そこにはオノズカラ成るとか、無為にして化すものに対する厚い信頼があったとおもう。文明の未だ幼稚なる時代に於ては、人間の製作の如きは、自然の大なる力の前に笑うべき一煩事であったであろう。

 併し老子の回帰した自然とは如何なるものであったであろうか。生命が形成的なる限りあるものは全て技術的にあるのである。オノズカラ成るも、無為にして化すも自然の技術である。人間が言葉をもち、手をもつのは物を製作すべく生れて来たのである。私は老子の無為にして化すという言葉も、人間の製作的生命を自然に投影したところより生れたものであると思わざるを得ない。そこに見出された無窮なるものも、製作としての操作的時を媒介として見出されたと思わざるを得ない。私は物を製作すべく生れて来たものが製作を放棄するのは真に生きる所以でないとおもう。オノズカラ成るものも、外を変革して内を形成するのである。製作がオノズカラなるものをミズカラに転じたとすれば、ミズカラはオノズカラの完成の意味をもつのでなければならない。製作する生命が額に汗して働かなければならなないのであれば、我々は惜しみなく汗を流すべきであるし、思考に沈面して苦悩しなければならないのであれば、我々は夜深く頭を抱えて机に呻吟すべきであるとおもう。そこからのみ新たな世界の光輝は生れてくるのである。

 私の言わんとするが如きは、老子は百も承知であろう。私は老子の無為自然の思想が、忽然として天に掛るが如く生れて来たとおもうことは出来ない。それ相当の苦悩と鍛練を経て来たものであるとおもう。そしてその結論であるとおもう。ミズカラとしての言語と思考の上に打樹てたものであるとおもう。ミズカラの個の相対性と有限性を、ミズカラの底に超えたのであるとおもう。唯私はミズカラを超えんがために、ミズカラとしての作為を捨ててかえり見ないところに釈然としないものをもつのである。オノズカラを超えたミズカラはオノズカラを踏まえてある。ミズカラを超えたオノズカラは、ミズカラを踏まえてあるべきだとおもうのである。

 我々は何処迄も生命としてある。親より生れたことによってあり、子を生んでゆくものである。製作的生命といっても生命を製作するのではない。生れた生命が物を作る生命であるのである。我々が製作として道具をもち機械をもつというも、生れ来った身体の機能を外としたのである。我々は時計をもつ、併し時計を、身体が時計を内にもち、内にもつ時計を外としたものである。斯る意味に於てオノズカラはミズカラを包むものである。併し時計を外とすることによってより正確なものとなるのである。オノズカラとしての身体が時計をもつことを知るのも、ミズカラとしての身体が時計を外につくることによってである。斯る意味に於てミズカラはオノズカラを包むということが出来る。

 オノズカラはミズカラの個としての相対性と有限性を包み、ミズカラはオノズカラの形 成作用に愈々明らかな形を与える。併しオノズカラによるミズカラの包摂は、ミズカラが製作する個性として、相対性と有限性をもつことによってあるのであり、ミズカラが愈々明らかな形を得るのは、オノズカラの始めと終りを包む無窮の形成作用に負うのである。老子の無為自然も言語による表現である限り、それは意識の内容でなければならない。それは自己の生としての自然を愈々明らかな形に於て捉えたものである。本書の中に無為自然と有為自然というのがある。恐らく人為の加わったというは、製作的生命の立場から見たとおもうが、真に対立したものとしてとらえず、オノズカラに摂取された人為としてとらえられている。そこに思考の甘さがあったとおもう。ともあれ正反対にあるとは否定的にあることであり、否定的にあることは相互媒介的にあることであり、相互媒介的にあるとは対者によってあることである。オノズカラはその底にミズカラに転じ、ミズカラはその底にオノズカラに転ずるのである。

 オノズカラがミズカラに転じ、ミズカラがオノズカラに転じるとは、元のオノズカラとなり、ミズカラとなることではない。オノズカラはミズカラの形相に生き、ミズカラはオノズカラの形相に生きることである。オノズカラがミズカラの形相に生きるとは、製作した物を生命の形象とすることである。生れて生むオノズカラなる生命のあらわれとする のである。物が情を宿すものとなるのである。ミズカラがオノズカラの形相に生きるとは始めも終りもなくして、始めと終りを包むものとなることである。始めも終りもなくして とは、無限に形成的であることであり、始めと終りを結ぶとは、第一義のそれ自身のはたらきによることである。それはミズカラとしての自己に、永遠を現前せしめんとすることである。

 私達はミズカラとしての自己であるとき、永遠なるものを愛して止まない。私はそれ はミズカラの基底にオノズカラがあり、それは絶対しつゝ相互媒介的にあるが故であるとおもう。相互媒介的にあるとは対立するもの動的に一であることである。形成的であることである。私はオノズカラがミズカラに転ずるときにこの我があり、ミズカラがオノズカラに転ずるとき、摂取するものとしての神が見られるとおもう。そしてそれは形成的尖端 に見られるのである。私達はミズカラとして、製作的生命として限りない努力をするところに、背後としての、転じるものとしての神が現われるのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

自然

 私は幼児の頃の思い出を殆んどもたないようである。目を閉じるとブリキで作って、色 を塗った太鼓を持って、坐っている自分の幼ない姿が模糊としてうかんで来る。余程長い間持っていたのか、大切なものであったのであろう。勿論年令も分らない。

 母の語ってくれたところによると、私は大変喋べりであったらしい。絶えず母に「これ は何」と言って聞いたらしい。余りうるさいので「黙っとり」と母が言うと、「うん」と 肯いておとなしくなるが、暫くすると「お母さんこれ何」と言ったらしい。

 近所のおじさんの話によると、毎日近くの小溝の石橋の下を覗きに行っていたそうで ある。「何をしとんのんどい」と尋ねると、「どんこ、どんこ」と答えたそうである。何でも少し前にその橋の下でどんこをみつけて取ってもらったらしい。勿論毎日といっても、 十日か長くて十五日位だろうと思うが、記憶にないので何とも言いようがない。

 私の村は田舎の例にもれず、四方が山で囲まれている。私が今でも明らかに覚えているのは、その見ゆる範囲内が世界であると信じていたことである。山の向うに親類があって叔父さんが居られると言われても、その有様を想像することが出来なかった。併し時々訪ねて来られる叔父さんの存在はすこしも疑っていなかったのである。唯その叔父さんも寝起きをし、耕すところが必要だということなどを思いもしなかったのである。山の向うにも家があって、人が住んでいると判ったのは、大分大きくなって連れて行ってもらってからである。そしてその村を囲んでいる山を見て、ああ彼処迄が世界かと思ったように憶い出す。併し我が家に帰ってくると、我が家から見える範囲が矢張り世界であって、叔父さんの家から見た世界は夢のようであった。それでも歩いて行って、帰って来た疲れがなまなましい間は実感が残っていた。日が経つにつれて淡くなってゆくのであった。在るものは感覚の事実であって、思惟の内容ではなかった。

 まえにも書いた如く、私は雑魚取りが天性好きだったようである。学校から帰ると、鞄を 放るのももどかしく、まえがきという網をもち出して近くの溝へと急いだ。そして草蔭や木の根の垂れ下った処などをすくった。獲れるのは三回に一回位であった。それでも鱗が銀色に光って跳ねるのを見ると、小踊りする心臓を覚えるのであった。あの頃よく替取りというのをやった。水をせき止めて替干しにして獲るのである。それはその中の魚を残らず獲れるということに於て、すこぶる満足すべきものであった。併しそれは水を替る、泥をかき分けてゆくという労力が必要であった。二時間もすると、幼ない腰が伸びない位であった。それでも泥の中で摑える、泥鰌や鮒の動く感触は私達を何時迄も飽きさせなかった。斯くして学校から帰ってから、暗くなる迄夢中になったものである。

 亦よく山の斜面になった所へ辷りに行ったものである。そこは丁度県道に面した所であった。土が崩れ落ちない対策であろうか、斜面は四十五度位な勾配になり、水の流れ落ちる浅い谷が幾筋かつけてあった。その谷の上から、尻に藁の束をあてがって辷り落ちるのである。その頃の綿布は弱かった。私達はたえずズボンの尻を破っていたようである。

 育ち盛りの少年にとって、自然とは躍動感を充足させてくれるところであったように思う。筋肉覚、関節覚に於て最も深く自然に関っていたように思う。幼少時の自然との交渉は楽しい思い出ばかりである。

 その頃小学校には毎学期遠足というのがあった。低学年は近くの寺へ行ったり、四K程離れた駅へ汽車を見に行ったりであったが、三年生、四年生になると、三木の城跡や、朝光寺に行き、高学年になると清水寺辺りへ行ったものである。いつの頃からであるか判らないが、山で囲まれている範囲が世界であるという観念は消えていた。それのみでなく、高い山から海の涯しないものを眺めた時に起る無限なるものへの思慕が生れていた。

 感覚だけではなく、地理などで教えられた世界なども、実在するのだという確信が生れて来ていた。それはコロンブスや、マゼラン等の冒険物語を読んだ、血の躍動が根源にあったように思う。血の躍動が知識を呼び、知識が血の躍動を呼んで、私の想念は果しなくふくらんでゆくのであった。

 それと同じ頃であったか。それより少しおくれた頃であったであろうか、太陽が落ち、 夕闇が草木を沈めてゆくのを見ると、言いようのないさびしさに襲われた。併し私は好んでと言えば語弊があるが、夕方になるとその寂寥に襲わるるべく、門前に出でて西の空を眺めた。その頃から私の心は哲学や宗教へと急速に傾斜して行った。私はこの寂寥の奥底に、天地を司る真理の予感をもっていたのである。

 亦自然科学は、自然が整正たる秩序をもつことを教えてくれた。雑然たるこの自然の動きが、全て厳密なる運動の法則によることを教えてくれた。併し私は物力の法則にあまり関心をもつことが出来なかった。私は唯一者を、生命の永遠を求めたのである。

 私は今自然とは何かを問おうとしている。私にとって自然は、与えられたものでも作ら れたものでもなかった。私の行動がそこにあるものであった。血が湧き、足が歩み出る身体の外延としてあった。そこにあるのは純一なる生命の流れである。

 人間とは斯る純一なる生命の流れの、初めと終りを結ぶ生命である。流れるとは矛盾をもつことによって流れ、行動とは矛盾に於て行動するのである。生命が矛盾であるとは、内外相互転換的であることである。動物に於ては、外に食物を摂ることによって、内に身体を養うことである。生命は内外相互転換的として、食物的環境と身体は動的一である。感官は身体が環境を内包するところにあり、環境が身体の外延であるところに成立する機能である。感官にとって環境とは呼ぶものであり、輝くものである。

 初めと終りを結ぶ生命とは、内外相互転換を節目として、流れを一々に断ち切り、断ち切った一々を蓄積することによって、より大なる形相を実現してゆく生命である。分断し蓄積してゆくのが理性であり、理性を実現するものは言葉である。より大なる形相とは製作的生命となることである。

 ここに於て生命は作るものと作られたものとの二重構造となる。人間は瞬間的なるものが永遠なるものとして、歴史的形成的となるのである。歴史的形成の世界に於て、与えられたものとして、質料として文化に対する自然が出現するのである。自然から文化が生れたのではない、純一なる生命の流れを分断されることによって、分断されたものの方向に自然が見られ、分断するものの方向に文化が見られるのである。自然とは自覚的生命の内容として見られるのである。

 私は前著に於て、自然とは経験の露わなものであると言った。経験とは一瞬一瞬の内外相互転換を、永遠なるものに映す行為である。内外相互転換的に行為する生命が、一瞬一瞬を永遠に映すのが経験である。自覚的生命が二重構造的であるとは、自覚的生命は相反する二つの自己限定の方向をもつということである。一つは理性の方向であり、一つは内外相互転換としての本能の方向である。一つは言葉の秩序による混沌の把握であり、一つは混沌の中よりの言葉の創出である。秩序の創出である。経験とは身体による理念の創出への行為である。

 内外相互転換としての生命の純一な流れは理性の光りに照して混沌の世界である。併し内外相互転換の世界は単に混沌ではない。外を内に転ずるというのは、機能的であり、造的であるということでなければならない。我々の身体は構造的機能的であるが故に食物を血肉化することが出来るのである。

 私は自然とは、山や川や草や木というのみではなく、深くこの我の身体というものがあると思う。内外相互転換としての生命の純一な流れは、この我の身体がもつのである。自覚的生命とは、身体が本能と理性の二つの相反する二つの方向をもつということである。本能が構造的機能的であるが故に、我々は自覚としての構想力をもち得るのである。

 身体は生れ出ずるものである。私はそこに自然の最も深い姿を見ることが出来るとおもう。生れ来ったものは生きようとする。身体を維持しようとする。本能とは身体維持の意志である。驚異すべき自然の精緻なる構造が理性にとって混沌であるのは、理性は他者と我の関りの秩序であるのに対して、本能は個維持の構造なるが故である。

 混沌は活力である。生きんとする力と力の表出が混沌である。よく駅のポスターなどで 『自然を求めて田舎へ』、『文化を求めて都会へ』と書いてあるのを見る。私は都会の人々が自然に求めるものは、生れ出で育ちゆくものの中に漬り、自己の生命の原型に触れる ことによって、新たな活力を呼び戻したいが為であると思う。自己の手や足によって、木の枝を掴み、岩の道を走った古代人のあらあらしい血を呼び戻したいがためであるとおもう。

 生命の流れとは矛盾に於て流れるのである。全て動きゆくものは否定をもつことによって動きゆくのである。併し単なる否定があるのではない。否定は常に肯定に転ぜられるものとして否定である。そこに内外相互転換としての生命がある。外は内の否定であり、内は外の否定である。内は外を内ならしめんとして内であり、外は内を外ならしめんとして外である。純一なる流れとは、生命が内外相互転換的として、内外相互転換的に一なることである。それが自覚的生命として内外相分つとき、外と内とは何処迄も否定し合うものとなるのである。

 自然の暴威という言葉がある。それは仮借なく生命を奪い去る、自然の絶大なる力に与えた言葉である。純一なる生命の流れが、自覚に於て自他相分ち、内が外に面したとき、外とは斯る絶大なる否定する力であったのである。暑熱、酷寒、暴風雨、大火、猛獣、細菌等の取巻く外界であったのである。縄文人は穴に難を避け、石や木をもってこれ等に対したのである。囲繞する鬼神・悪魔に対して呪文をもって対したのである。

 斯かる限りない死に対面しつつ生の営みを持ちつづけたのが我々の身体である。死に面して獲得して来た機能が創造的生命の内容である。我々の生命は一度獲得した能力を保持する性能をもつ、無限の生死の繰り返しの内に獲得し、蓄積して来た能力の集積が形相である。外が内の形を作るのである。我々の身体の形は、囲繞する外界の力の形である。身体の形は風土の投影である。生命発生以来幾十億年の否定と肯定と、死と生の闘争の中に獲得した機能の集積として、囲繞する世界を外の自然とし、身体を内なる自然として、内外相動転するのが自然である。

 機能とは否定を肯定に転ずる力である。肯定に転ずるとは死を媒介として、より大なる生を見出すことである。死として迫ってくる外的世界を力の表出に於て、内なる身体の秩序に変えてゆくことである。機能とは外を内なるものに変えてゆく生体の構造である。外的世界の投影である身体は、投影であることによって、外的世界を身体に馴化せしめるのである。内外相互転換とは内と外の力の相互転換として無限の動的緊張である。此処に内の身体に対して外は環境となる。

 私は自然という言葉が何時出来たか知らない。恐らく穴に住み、石を持って外敵に向った縄文時代にはなかったとおもう。自然とは人工とか文化の対概念である。人工の対概念であるとすれば、文化が余程進み、文化に疲弊症状が現れた時に、文化の基底として問われた言葉ではないかと思う。人工とは内による外の限定が製作的となったことである。製作は余剰価値という対象の肥大を招く、この肥大が文化として人間の優越であると共に、余剰によりかかることによって内と外の生命の対抗緊張を失わしめる。製作するとは、製作する生命として生れて来たということである。生れて来た生命とは幾十億年の内外相互転換を内にもつものとして生れてきたのである。時を背負う創造力として生れてきたのである。

 対立概念とは否定的に一なることである。自然は文化を否定し、文化は自然を否定してあることである。それが一なるとは文化は自然によってあり、自然は文化によってあるということである。

 文化とは自覚的表現的生命の形相である。表現とは何ものかが形となって表われることである。製作は身体によってなされる。私は身体によってなされるとは、身体の外化の意味をもつものであると思う。身体の外化とは幾十億年に亘って形成し来った、身体の秩序に於て構成することである。内なる自然が外の自然を変革することである。道具は手の延長であると言われる。道具は身体より見て外なるものである。それが手の延長となるとは、道具によって作られるものは、身体の外延となるものでなければならない。製作するとは、内外相互転換として相互否定としての外を、身体の秩序に随わしめることによって、内によって転じてゆくことである。

 併し作る身体を作ることは出来ない。身体は生れるものである。それは意志を超えた自然の延長としてある。而して身体の外化とは、自然の時間の蓄積して来た身体の構造機能の外化である。斯る観点からは製作も亦自然の内面的発展であると言い得る。自然は克服されたものではなくして、斯る深さに於て自然である。生れたものが作るものであるところに我々の身体がある。而して生れ来ったものが包蔵するところのものを表現するのである。斯る観点からは製作としての歴史的形成も、自然の生命創造の延長線上にあるということが出来る。

 身体が自然と歴史の交叉としてあるということは、歴史的形成は生命の自己形成として歴史の根底に何処迄も自然があることであり、世界は歴史的自然としてあるということである。私は自然という言葉が生れたのは、この歴史の根底としての自然の把握によるのではないかと思う。

 三輪神社の御神体は三輪山であるといわれる。山が御神体である時、山は自然なのであるか、私はそこに異次元に於て捉えられている山を見ざるを得ない。歴史は内面的必然をもつことによって歴史である。歴史的自然とは斯る内面的必然の目によって見られた自然である。それは自然が歴史の中に没し去ったということではない。自然が真に自然になったということである。自然が自己の中に内面的発展をもつということが、自然が歴史的自然となったということである。自然が内面的発展をもつということは、身体の外化を呼ぶものとなるということである。神体としての山が異次元と考えられるのは、それが内なるものの外化を呼ばないが故であると思う。

 内外相互転換としての生命が、主体的方向に機能的構造的であるとは、客体的方向にそれに対応するものをもつということである。それは法則的である。逆に言えば客体的方向が法則的なるものをもつが故に、主体的方向が機能的構造的であることが出来たのである。内外相互転換は対応的である。生れたものが作るものである自覚的生命に於ては、生れたものと作るものが対立する。作るものは生れたものを否定することによって作るものであり、生れたものは作るものを否定することによって生れたものである。その否定が内面的必然である。否定を介して歴史は歴史となり、自然は自然となるのである。神体としての山は、歴史と自然の未分以前としてあり、形相は歴史と自然の混融としてあるのであるとおもう。

 ふるさとの山にむかひて言ふことなしふるさとの山は有難きかなと詠われた山、清冽な流れのひびく小川、たたなわる峯、そこは超越者としての神の住み給うところではない。我々の身体と連り、情感の交うところである。私は斯る自然は、自然が無限の内面的発展をもつことによって見られたものであるとおもう。即ち一方に作るものとしての、歴史の内面的を、生れ生むものとしての自然が宿すところに見られたものと思う。山や川は生むものとしての大地である。もし生命を生むという意味がなかったならば、どうして我々は情感を交すことが出来るであろうか。茸が生え、わらびが生え、小鳥や兎が繁殖する山にして初めて我々は有難き哉と言い得るのである。そこは我々のいのちを養うところである。いのちはいのちあるものを資として生きる。大地は生むものとして、植物の生えるものとして、我々は植物によって生きるものとして、母なる大地である。自然の本源はそこにある。

 内面的発展とは自覚的生命となることであり、外を対象化することである。作られたも の、見られたものが逆にこの我を作るものとして包むものとなることである。無限に純一 なる流動を断ち切って、内外を対立せしめることである。内が外を作り、外が内を作るのである。私達は山や川を、我々の生死を超えた無限の時間の相に於て見る。私は斯る自然観の根底に、自覚的生命の無限の歴史的形成があり、歴史的形成の反極として見るのであるとおもう。祖先の無限の創造的努力があるのである。私達は深い山に静寂を見る、この静寂を見る目は、祖先の無限の生命創造の目を、この我の目が宿すことによって見ることが出来るのである。

 生れたものが作るものであるとは、作るとは与えられたものの否定であると共に、何処迄も与えられたものの底深く入ってゆくということでなければならない。作るものは、生れたものの根底に還ってゆくのであり、歴史は自然が自己の根底に還るということにあるのでなければならない。作るとは自己を外に見ることである。自己を模してゆくのである。作られたものを内として、外に表わしてゆくのである。それは身体的に創造し来った生命が自己をより露わとすることである。

 歴史的世界とは製作的であり、製作とは過去と未来が現在に於てあることである。過ぎ去ったものが現在として形相を実現してゆくことである。内外相互転換としての、無限の行為の蓄積が、現在の内外相互転換に働くのが製作である。無限の過去と未来が現在にあるものとして、永遠なるものが働くところに物は作られるのである。

 併し形あるものは壊れるという言葉のある如く、物は永遠なるものではない。物に映さ れた歴史の世界は何処迄も変遷の世界である。死の深淵に参会する世界である。物に於ては過ぎ去ったものが働くということがない。壊れた機械が働くには、今一度人間の脳髄の中を通って来なければならない。

 自然の世界は繰り返す世界である。日々歳々を繰り返り、生命は生死を繰り返す世界である。そこは初めなく、終りなき世界であると共に、初めが終りである世界である。私は永遠とは斯る世界が物を浮べるところにあると思う。斯る世界の自覚として、自己を外に見たものであるとおもう。内外相互転換の集積は繰り返す生命なくしてあり得ないものである。永遠の今とは変化が常に同一であるということである。それは行為的現在がくり返しの上にあるということでなければならない。自然が自己自身を見、製作的行為的に自己自身を見るのが歴史であると思う。歴史は初めなく終りなきところより出で、初めなく終りなきところに帰るときに救済をもつのである。一瞬の過去にも帰ることの出来ない時間の流れは、初めと終りを結ぶものに於て成立するのである。そこに歴史の奥底としての自然があるのである。

 あるものは相互媒介的にある。歴史の奥底に自然があるとは、自然の究極に歴史があることである。自然の上に歴史があるとは、自然は歴史によって現われることである。歴史が自然によって救済されるとは、自然は歴史によって永遠を露わとすることである。相互媒介的とは否定を媒介することである。かって「死について」に於て言った如く、永遠は絶対の死をもつことによって永遠である。 永遠とは無限の時間ということではない。流れて止まない歴史的時間が、日々の行持に実現されていることである。日々の行時は自然のもつ生命の反覆に於てあるのである。禅家に日々是好日という言葉がある。それは歴史を透過した自然の深い自覚としてあるものと思う。絶対死の底に見出した深い生命であるとおもう。

 文明が行き詰ると、自然に還れという声が何処からか起って来る。それは生れたものが作るものである必然の推移であるとおもう。生命としての自然は、作るものとなることによって何処迄も自己を深めてゆくものである。生れ来ったものを内として、外に表現してゆくものとして、生命に何処迄も深大なるものを見てゆくものである。作られるものの転換は作るものに求めてゆかなければならないのである。内外相互転換の原型に還らなければならないのである。

 それは最早自然ではないと言い得るであろう。歴史を否定する自然は、歴史によって否定されたる自然である。併しそれによって自然は純なる自然となるのである。歴史的自然として、自覚的生命に於て自然と歴史は対立する。対立するものは否定し合うものである。対立するものを否定するにはいよいよその本性が明らかにならなければならない。女性が男性に対することによって、いよいよ女性となる如きものである。

 我々があの山、この河として、踏破し水浴するのは最も表層的な自然に外ならない。 それ以前に薪する山、渇して水を飲む川があったのであり、以後に自然科学へと発展すべき自然があったのである。生存に即する自然があったのである。生存に即する自然が製作の内容へと発展し、歴史的自然となったのである。私は老子の大道すたれて仁義ありといった自然の如きも、歴史的自然に立脚点をもち乍ら、その歴史的方向を捨象したところに見られたものであるとおもう。

 本文の最初に私は経験として見出した自然を叙述した。自覚的生命に於ての内外相互転換は歴史的形成的である。併しその形成は何処迄も身体を媒介するのである。それは経験的である。内外相互転換は身体なくしてあり得ないものである。生れたものとしての自然の上になり立つのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

生死

 近頃は熟れた稲田の畦を歩いても、風が流れてさらさらと穂波を立てるのみである。 私達の小さい頃は、秋の稲田と言えば無数の虫の棲家であった。雑魚取りなんかで、畦にはみ出た穂を分け乍ら行くと、蝗やよこばいが縦横に跳び散ったものである。その中に混って少数乍らかまきりがゐた。あのやせたかまきりが大きな斧をふりかざして、果敢に迫ってくると、悪童どももたじろいだものであった。

 秋も終りに近くなり、稲を刈る頃になるとそのかまきりの、雄が雌に食われるさまがし ばしば見られたものである。雄かまきりの大きな腹が半分程なくなって、そのなくなった処より、雌かまきりの口が続いており、雄かまきりは苦痛に耐えているのであろうか、背を反らせるだけ反らして動かずにいるのを見ると、性を同じくするものとして、悲痛の感なくして見得なかったのを思い出す。

 食は個に関り、性は種に関ると言われる。生命は個的、種的である。個的方向と、種的方向をもつことによって生命は自己を維持してゆくのである。併してこの両方向は決して和平的な結合をもつのではないらしい。食われるかまきりや鈴虫がそうである。亦おたまじゃくしや蜘蛛の子は無数に生れる。それは全部が生きようと思えば、全部が死ななければならない数らしい。即ち彼等は殆んどが死んで、幾何かが残るべく生れて来たのである。種は斯る残酷をもつことによって生命を維持してゆくのである。

 生きているとは自己矛盾としてあることである。生きているものは死ぬ。生は死の対極をもつことによって生である。死の対極をもつことによって生であるとは、生は死すべく生れ来ったということである。生けるものは全て、生れ来った時より死への道を急ぐ旅人である。而しそれは滅亡への道ではない。種の形相を実現したものは、新たな環境適応をもつ生命に、種の形相実現を負託して死にゆくのである。個的種的なる生命は、個の生命が死ぬことによって種の生命を維持してゆくのである。

 私は自覚する生命として人間を捉えようとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己を知ることである。自己が自己を見るとは如何にして可能であるか。私は自己が自己を見るとは、自己を外に表わす事であると思う。我々は形に表わすことによって自己を見るのである。形に表わすとは物を作ることである。自己を物となすことによって我々は自己を見るのである。外部知覚の内容は形成的物でなければならない。物を作ることによって、内外相互転換としての食物的世界は外部知覚的となり、製作するものとしてのこの我は内部知覚的となるのである。

 それは技術的である。技術的であるとは、長い歴史の集積であるということである。技術とは死を生に転ぜんとする本能の行為を、集積し、整理して現在の環境との対決に、生の形相を打ち樹てる力だと思う。それは始めが働き、終りが働くことである。人間はそれを言葉によってもつのである。私は人間が他の動物と異るところは、初めと終りを結ぶ力を有することであると思う。我々が今斯くあり、斯く働くということは、全人類の無限の経験の、言葉をもつことによる蓄積と整理によるのである。

 湯川秀樹博士が物理学は視覚と関節覚の発展であると言われた如く、外に見るとは、身体的なるものを物に表わすことである。身体は物に自己を表わすものとして、何処迄も内なるものである。而して物に表われるものとして何処迄も外なるものである。

 生命とは身体をもつことによって生命であり、身体は内外相互転換として身体である。禅宗でよく、生命は呼吸の刹那にあると言われるそうであるが、呼吸とは内を外とし、外を内とすることである。摂食と排泄も外を内とし、内を外とすることである。

 内外相互転換的とは、生命は常に死に面しているということである。摂食に於て食物の欠乏は死である。呼吸に於て酸素の欠乏は死である。生命は危機としてあり、危機の克服として生きるのである。危機の克服の蓄積と構成が技術であり、製作である。

 言葉をもち、物を製作する人間は、動物が食物的環境としてもつものを世界として形成する。それは最早食物としてのみの意味を有するものではない。言葉が言葉自身の展開をもち、物が物自身の発展をもつのである。それが世界を形成するということである。人間は動物が、生得的に与えられた所に生きるのに対して、瞬々環境と自己を改造するのである。創造に生きるのである。

 私は此処で自覚というものに一歩立入って考察を加えなければならない。自覚とは内外相互転換の自然の流れより、人間が初めと終りを結ぶ力をもつものとして、言葉に写すことによって内と外を分ち、自己を分たれた内と外の統一者とすることである。内部知覚と外部知覚の相即者として無限に動的となることである。自然としての、所与としての内外相互転換が立体的構成的となることである。製作的表現的であるとは、何処迄も身体を離れると共に、何処迄も身体を基盤にもつのである。自覚とは空中に楼閣を見るのではない。道具は手の延長と言われ、機械は道具の延長と言われる如く、表現は身体の発展である、日々の行為の上に成立するのである。

 内部知覚即外部知覚・外部知覚即内部知覚とは、生物的生命としての食物的な内外相互転換の発展として、常に死と背中合せにあり、自覚は亦危機の自覚として発展するのである。危機も亦自己形成的となるのである。

 初めに生命は個的種的であると言った。自覚とは斯る個的種的なる生命が無限に自己創造的となることである。創造とは、世界形成的に自己を見てゆくことである。技術的、言表的である。而して技術的言表的であるとは、この個としての自己を越えたものである。言葉も技術も生死するこの個を超えて、無限の祖先より継承し来ったものであり、子孫に達してゆくものである。言葉と技術は個を超えて世界として自己を見してゆくものである。生命に於て個を超えるものは種としての生命であった。私は自覚とは種の発展であり、世界とは歴史的形成的世界であると思う。

 生命は死をもつものであり、生物が死ぬとは種の中に死ぬのであった。種は個の生死 於て自己の連続をもつのであり、個は斯る連鎖の一環として、種の中に生れ、種の中に死ぬのである。連鎖の一環として死ぬということは、種に生きるということである。

 人間に於てはこの世界の中に生れ、この世界の中に死んでゆくのである。生物が生れて種の形相を実現してゆく如く、我々が生きるとは、よりよき社会を作ってゆく事である。より豊富な言葉と、より多様な技術をもつ社会を作ってゆくことである。

 生物に於て種は個に対して、残酷をもつことによって自己を維持してゆくと言ったごと く、人間に於ても世界と個は矛盾をもって対立する。個人は恣意を否定することによってのみ世界を実現するのである。世界は個人の恣意を抹消しようとするのである。 世界は法として個人にその従属を強制するのである。而して個的生命は恣意を否定してのみ、真の自己となることが出来るのである。生死する生物的生命を超えて、初めと終りを結ぶ世界に触れることが出来るのである。世界実現的として恣意は意志となるのである。斯るものとして克己を伴うことなくして、意志の実現はあり得ないと言い得るのである。

 雄かまきりが雌に食われてゆくのを見ると悲痛の感を持たざるを得ない。併しそれが種に生きる道である。人間は創造的生命となることによって世界を見る。そこには私は雄かまきりにも似た捨身がなければならないと思う。死して生きなければならないと思う。勿論自覚的生命としての人間は、生物の如く身体を殺すのではない。世界形成として、生死を超えた技術・言語に純一となるのである。本能的欲求を殺して、展けゆく世界そのものとなるのである。

附記

 先生から難しいことを書くなと言われた。それで私の文章の基礎となるものを記したい と思う。私は人間は生れて言葉を覚え、技術を習い、働いて物を作って、食って生きてゆき、そして死ぬ存在だと思っている。私はそれを究明しているだけである。唯それが如何なるものかと求めた時はかることの出来ない深さとなってゆくのである。残る生命を賭けて究め得るだけ究めたいと思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」