朝凪の庭は風鈴より下っている紙も止まったままである。私は思考を持たない目で見るともなくそれを見ていた。そしてふと動きのない庭が、動きのない私をあらしめているのではないかと思った。世界は一つであるという言葉がある。それは普通に考えられている以上に深いところをもつのではないかとおもった。そして傍を見るとみかしほ六月号があった。ぱらぱらとめくり乍ら、私の評のところへ来てその粗雑さに愕然とした。今書き改 めて陳謝の意を表したいとおもう。
永平寺へ再度来られぬと言う畑を時々待ちて階段めぐる
私は評として、「一期一会という言葉がある、出会いを大切にする、作者の豊かさが見えてすがすがしい一首となっている。」と書いた。私はその大意を改める気はない。併し階段めぐるとは如何なることであろうか。階段はのぼるかおりるものである。めぐるとすると階段の周りをめぐることになる。階段は僧堂とか、堂塔とかにすべきではないか。
大津王子の嘆きや吐ける二上の花しんしんと散りとゞまらぬ
私は古往今来変らぬ生のかなしみと書いた。併してこの一首このような一般的な言葉で捉えるべきものではなかった。優れた資性の故に悲劇的な死を遂げた王子への、作者の感慨が二句の悲傷の言葉を生んでいる。そこを突込んで作者の力量を賞むべきであった。快々たる思いで六月号を捨て、七月号を手にとった私はそこでやや明るい気持をもつこ とが出来た。
天敵のゐぬ水族館の魚たちの顔おだやかに近づきて来ぬ
詩人は見えないものを見なければいけないと言われる。見えないものとは何か。我々の視覚を構成する重々無尽の過去と未来である。記憶と願望である。追憶と憧憬である。一、二句作者は眼前にないものを見ている。それによって読む者にいきいきと魚が迫ってくる。六月号で取り上げた作品の電波も見えないものであった。併し電波と鳥の繋りが観念的である。今回のは魚に即している。私はこの作の方が数段すぐれているとおもう。
ベルグソンは意識の強度を説く中で「初めは全てが同じように見える。併し目が深くな るに随ってそれが奥行きをもって見えてくる」と言っている。私達も個々の作品を奥行きに於て見る目を養わなければならないと思う。孫がもの呉れたや、老母の手が細くなったなどとの差異を知るべきである。四首目、六首目等未熟という外ないが天恵の凛質を伸ばして欲しいものである。
コーヒーは混ぜないで思ひ出はスローモーションがいいから
中北さんが喻を核とする口語体にもどって来た。暗喩は近代の錯輳した内面的なるものを表現しようとして、塚本、岡井なんかが取り上げて多くの追従者をもち、斉藤史や葛原妙子等に飜転しつゝ今や歌壇に定着したかに思われる。内藤先生が前衛を無視して現代短歌が語れないといわれる所以である。作者は多く内面の屈折をもつようである。私はそれを表現するのは喩による方が適切であるとおもう。田舎という故息なところ、それに自分が学んだものを金科玉条とする人々の住むところでは或は抵抗があるかも知れない。恐れずに進んで欲しいものである。
尚初心者の人々の為に暗喩について少し説明しておきたいとおもう。喻はたとえである。喩はたとえるものの形だけが表わされてたとえられるものが見えないことである。具体例をあげたいとおもう。
夏の葉のなす蔭ふかきガラス戸に眼のにごり写していたり
私の作品で恐れ入る。病院の待合室にいたときの作である。ガラスの向うの闇が深いときには、此方の姿をより明らかに映すものである。これはガラス戸がもつ葉蔭の闇ににごった目を写したのを詠ったのである。この作品がもし目のにごりというあらわれに、葉蔭の闇が生命の深淵という意味を帯びているととれるとすれば、二句のなす蔭ふかきは暗喻となるのである。
中北さんの一首、あらゆる外の煩いを捨てて思い出に浸りたいというのであろう。そう すると一首全部が暗喩になるのである。それだけに暗喩として作品は、作るものも鑑賞するものも難しいとおもう。七月号も成功しているのはこの一首だけであるとおもう。一首目もいのであろうが片仮名に私は弱い。三首目面白い着想であるが今少しすっきりしたい。六首目ペルシャの迷宮のように多い素材は適せないのではないか。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」