自覚について

自覚とは自己が自己を見ることである。自己が自己を見るとは、見られたものものも亦見るものでなければならない。見られたものものも亦自己が自己を見るものであることによって自己が自己を見ると言い得るのであるとおもう。私達の自覚とは斯る無限の創造的形成の上に成立するのであるとおもう。

見られたものとは何か、それは森羅万象としてのわれわれを取り巻く環境である。草木瓦礫であり、虫類鳥獣であり、人類社会である。見られたものも亦自己が自己を見るものであるとは、斯るものの全てが自己が自己を見るものでなければならない。われわれ人間の自覚は斯るものの上に成立するのでなければならない。併し私達は瓦礫が自己を見るものであるとおもうことは出来ない。草木も亦意識をもつとおもうことは出来ない、意識なき処に自己が自己を見ることが出来るとおもうことは出来ない。而してそこには見られたものが見るものであるわれわれの自覚は成立することが出来ないと言わなければならない。見られたものが見るものであるとは如何にして成立するのであるか、草木瓦礫が自己を見るとは如何なることであるか。私はその為に深く自己の根源に還ってみなければならないとおもう。

生命は幾つかの元素の結合によって出来たと言われる。斯る元素は宇宙の爆発により、 最初素粒子が出来、素粒子から原子、原子から分子が出来たと言われるその分子であり、 その分子が集合して宇宙を構成すると言われるものである。 それによって宇宙が出来たとすれば、われわれの淵源も亦遠く此処に存すると言わなければならない。われわれも亦宇宙の一塵として、宇宙生成の一要素として、その内容としてあるのでなければない。即ち宇宙生成の中に人間生命の出現の胚種があったと言わなければならない。最初に全てが素粒子であったときに、素粒子は生命を胚胎すべきものをもっていたと言わなければならない。斯る素粒子が分子化の過程に於て気体となり液体となり、固体となり、岩石とな り、金属となり、空気となり、水となったのである。 それで生命も斯る中に生れたのである。斯る中に生れたとは宇宙生成の力動的関係の中に生れたということである。力動的関係の中に生れたとは、力として他者と相対立することである。他者と相対立するということは、他者によって否定されると共に、他者を否定せんとすることである。他者によっ て否定されるとは自己の消滅を意味すると共に、他者を否定するとは、自己が宇宙の全存在たらんとすることである。而して他者の否定として自己の肯定があるとき、全ての他者の消滅は否定すべきものの消滅として自己の消滅でなければならない。他者の消滅が自己の消滅であるとは、他者も亦消滅と全存在を両極としてもつものでなければならない。対立するとは消滅と全存在を両極にもつことによって対立し、そこに力動的関係が生れる のである。そして宇宙は自己の形を見出でてゆくのである。力動的関係とは宇宙の自己形成なるが故に、宇宙の一要素としてあるものは、否定の対象を失なうことは亦自己を失なうこととなるのである。力動的関係とは宇宙の生成運動である。生命は斯る宇宙生成の中より生れたものとして、常に対立が統一であり、統一が対立である。対立の方向に個の形成があり、統一の方向に宇宙の形成があるのである。

三菱化成生命化学研究所の柳川弘志氏は「生命は入れ物をもち、自己複製、自己増殖が出来、自己維持機能をもち、進化する能力をもつものである。すなわち細胞膜をもち、外界から自己を維持するのに必要な素材やエネルギーを取り込み、DNAの遺伝情報にしたがってタンパク質を合成し、その触媒作用によって種々の構成成分を合成、分解することの出来る進化する分子機械であるといえる」と言っておられる。入れ物をもつとは個体として成立するということであろう。細胞膜は必要とするものはどんどん取り入れ、いらなくなったものを外に排出するといわれる。それは外としての他者と対立するということであろう。取り入れるとは自己ならざるものでなければならない。他者を否定して自己となすことでなければならない。そしてそれは亦他者によって作られるものとして、他者によって作られるものである。自己複製が出来、自己増殖が出来るとは生命は形相実現的であるということであろう。形を高密度化することによって自己を見出してゆくということであろう。自己維持機能をもつとは生命が何等かの意味で不滅なるものを持つことであろう。維持機能をもつと言われるには、生命は滅するものであり、滅することを克服して生を保つものでなければならない。その根底には全体者が時間を超えて自己自身を見てゆくものがなければならないとおもう。進化するとは機能のより高い実現を目指しているということであろう。

生命の単位は細胞であるといわれる。無数にある細胞の一々が斯る生命の条件を具備するのである。細胞が無数にあってその各々が生存せんとすることは一々の細胞が他の無数の細胞に対するということである。恰も素粒子が他の素粒子に対する如きものである。それが細胞に於てはその特性に於て持続的形成的となり、はたらくものとその対象として主体と環境となるのである。生命の否定とは死である。対するとは相互否定的なることであり、相互否定的とは死をもって相対することである。環境とは生命にとって死をもって囲繞するものとして環境である。それは単に細胞が細胞に対するのみではない。細胞は細胞が出来った生命以前をも背負うのである。宇宙の力動的関係をも背負うのである。否細胞も亦力動的関係の宇宙の生成運動の中より出で来ったものとして、宇宙の生成の内容としてあるのである。斯るものとして私は環境の二重構造を見ることが出来るとおもう。一つは素粒子より生命出現迄の根元的な力である。一つは其の中より出で来った生命として生命が他の生命に対するものである。そして私は後者が環境としてより深大なるものをもつのであるとおもう。われわれは生命創造の尖端に立つのであり、単細胞動物より多細胞動物へ、水棲動物より両棲動物、更に爬虫類、哺乳類、霊長類、人類へと進化して来たものである。高度化したものは高度化したものに対するのである。 そして私は最も高度化したものとして人が人に対すところに最も高度なものがあるとおもう。環境として最も深大なるものは人間環境であり、社会環境であるとおもう。

生命が生命の環境となるとは、生命が食物連鎖としてあることであるとおもう。植物は 光合成に於て自己の必要とする物質やエネルギーを獲得する。併し動物に於ては植物が形成した細胞を獲得し、更にその動物を獲得することによって必要な物質やエネルギーを補給するのである。その世界は殺し合いの世界であり、弱肉強食の世界であり、自然陶汰の世界である。併し対立は形成であるところに世界形成はあるのである。対手を食べようとし、或は逃れようとするところより生命は様々の機能を創出するのである。桑原万寿太郎氏はその著「動物の本能」に於て驚異とも言うべき動物の本能の生態を紹介し、「本能行動の先生は自然陶汰であったようである」と言っておられる。以前にも書いたことがあるが、我々人間の祖先がまだ無顎類動物であった頃、同じ無顎類の巨大で獰猛なウミサソリに食われ続け、遂に背中に甲羅が出来てウミサソリが食うことが出来なくなって絶滅し、やがてその甲羅が身体の中に入って骨格となり、現在のわれわれの形体の基礎となってアメリカの著名な生物学者が「われわれはウミサソリに感謝しなければならない」と言ったというのを読んだことがある。同書には亦一億五千万年程前から六千五百万年程前の恐竜の時代に住んでいたわれわれの祖先が恐竜に食われ続け、それより逃れんが為に夜行性動物となり、脳量が他の動物と体積比四、五倍となり、同学者は「われわれは恐竜に感謝しなければならない」と言ったと書かれていた。食われることによって新たな機能と身体をもったのである。万の生命は食物連鎖であることによってより大なる能力を獲得したのである。生命はそこに自己創造をもつのである。人間は斯る自然陶の克服の上にあるのである。祖先の限りない闘争と死の上に今日のわれわれの生命をもつのである。

自然陶汰の世界は適者生存の世界である。適者生存とは環境を映し、環境に映されることである。環境を作り、環境に作られるのである。蟹は甲羅に似せて穴を掘ると言われる。併しその甲羅は生棲の条件によって作られたのである。映し映されるものとして生命の形は常に環境の総和の意味をもつのである。水中に棲む魚が鱗をもち、泥中に棲む魚がぬめりをもつ如く、棲むために気温、地形に適応した身体とならなければならない。斯る形態に於て他者との生存競争をもつのである。生死に於て新たな形態を獲得するとは、より大きく環境を映し、環境に映されるものとして、身体の環境の総和の意をより明めるものである。生命は死をもつことによってより大なる自己を見出でてゆくのである。内に否定をもち否定を媒介することによってより明らかな自己を見出でてゆくのである。それは全生命としての宇宙的生命とでも言うべきものである。生命と生命が生死をもって対立するものを内にもつものとして自己を見てゆくものは生死するものではない。それはより大なる生命でなければならない。それは形に見てゆく形なき生命として全生命というより他なき生命である。

数万年前ネアンデルタール人が墳墓を作り、花を供えた時より人間は人間になったというのを何かで読んだことがある。私はその事に深い共感をもつものである。墳墓を作ったとは死者と我とをつなぐのをもったということである。過去によって現在があるということである。生命の営みは一瞬一瞬の内外相互転換である。外を内とし、内を外とする止まることなき流れである。死者とわれをつなぐものをもったということは一瞬一瞬を超えるものをもったということである。内外相互転換を内に包むものとなったということである。花を供えたということは、過去と現在をつなぐいのちが死者によって喪われということであり、喪われたものを死者とわれが共に愛したものによってつなぐということである。

人間のみにあって他の動物にないものは言語中枢であると言われる。人間は言葉をもつことによって人間になったと言われる。言葉とは何か、言葉を作った人はないと言われる。作った人がないとは、誰のものでもなくて誰のものでもあることである。呼び交すところにあり、応答の内容であることである。限りない人々が呼び交すところより生れ来たったのである。誰のものでもなくて誰のものでもあるとは全ての人を包むということである。昔わが国に語部というのが有って民族の伝承を語り継いだと言われる。語り継ぐとは過去を未来へ伝達することである。それは過去と未来が呼び交すことであると同時に、言葉が過去と未来を包むということである。また人間は手をもつことによって人間になったと言われる。手とは物を製作的にはものである、製作するとは技術をもつことである。かかる技術は天より来たのでもなければ地から湧いたのでもない。環境と身体の闘いから出で来たったものである。而して単なる闘いから技術は出て来ない。そこに経験の蓄積がなければならない、無数の人々の無限の経験が行為的現在の一点に結合する時、新たな環境と身体の形が現われるのである。それが外の方向に物の製作であり、内の方向に技術である。技術の発展と言葉の発展は軌を一にすると言われる。私はそこに共に瞬間的な生命限定を超えてそれを包んだより大なる生命の自己限定が見られなければならないとおもう。私は人間が人間になったとはこの超越としてのより大なる生命の現れをもったことにあるとおもう。墳墓を作ることも、言葉をもつことも、技術をもつことも共に対立するものを超えたところに見られるものである。それは逆に言えばより大なる生命がそこに自己を露わにしたということである。より大なる生命とは何か、それは素粒子の対立を内容として宇宙が自己形成をもつ如き一者の成立である。勿論それは突然現われたのではない、初めからあったのである。それが対立の底に露わとなったのである。形成作用としての生命の底に翻ったのである。底から対立を写すもの、見るものとなったのである。私はそこにわれわれの自覚を見ることが出来るとおもう。自覚とは自己が自己を見ることである。この我が我を知るのが自覚である。併しての我から自己が何処より来たったかを知ることは出来ない。唯斯る自己があるというだけである。それは真に我の知的要求を満たす自己ではない、われわれの自己は自己を全人類に写し、全生命に写し、宇宙に写すことによってあるのである。無限の時間の中に高々百年未満で生死する生命はうたかた以外の何ものでもない。自分を馬鹿だと思っているものはないと言われる。斯る確信は自己を永遠に映すところよりくるのである。勿論永遠の自覚をもつというのではない。言葉をもち、技術的にはたらくとき、言葉や技術のもつ超時間性が意識下に生れるのである。真の自覚はこの意識下に現われたものが言葉に現われることである。旧約聖書の創世紀のはじめに神の霊水があったというのがある。太初に胚胎していた生命と物質に分れるべきものが、素粒子の中に分子を生み、分子の中に生命を生み、単細胞動物より多細胞動物、そして遂に言葉をもつ生命に達した時の深さがわれわれの確信を生むのである。道元は「此生、他生の最善最勝の生なり」という。宇宙形成の中核の感情より確信は生れるのである。

宇宙一なる生命がはたらくといっても、宇宙一なる生命があるのではない。あるのはこの我であり汝である。我と汝は個体として対い合うものである。それは動物の自然陶汰の流れを汲むものである。対立は相互否定であり、闘争である。われわれも亦相互否定と対立を失うものではない。動物の中より出で来ったものとして何処迄も闘争をもつのである。唯その闘争の意味が変質するのである。それは個体保存にのみ生きるのではない、われわれの身体が宇宙を写したものとして、写し返すものとなるのである。身体は宇宙が形成し 来った最後のものとして、身体より逆に宇宙を作るものとなるのである。そこに真に宇宙が宇宙を見るものとなろうとするのである、身体は創造的身体となるのである。技術をもっと斯る生命となることである。外に世界を作るということは、身体が内に世界をもつということである。身は外に物を作ることによって内に世界をもつものとなるのである。ここに生命は世界形成的となり、自己保存、種族保存本能は郷土愛となり、愛国心となり、人類愛となるのである。闘争は世界形成的自己の闘争となるのである。個体は世界を内にもつものとして個性となり、世界を内にもつものとして、己れの内なる世界を外に実現せんとするのである。人々はこれが世界の中心たらんとして争うのである。而して世界形成的に争うことは、世界が益々自己の形を露わにすることである。

かかる形成は何処迄も否定的形成である。世界を内にもつとは自己が世界になるということである。世界の中に消えてゆくことである。世界の中に死することによって世界を実現してゆくことである。そして斯る実現が世界を作ることである。而して世界を作ることは世界が我の中に消えることである。自己が世界を否定して自己が世界となることである。我が世界となることは世界が我となることであり、世界が我となることが我が世界となることである。この我が自己の中に見る世界を他にして世界があるのではない。併しての我は世界ではない。世界の中の一個物である。個物として個物と対立するものである。ということは無数の個物が自己の中に世界をもつものとして対立するということでなければならない。この我は無数の汝と対立するのである。斯る世界と世界が対立するところより言葉は生れるのである。而して対立は関り合うものとして一である。斯るより高次なる一が生れるのも我や汝の中である。我と汝が対立と統一の中から生れた新たな言葉をもち、対話するというのがより高い世界が出現したということである。われわれは人類として 無数の汝に対するのである。対するとは対話するのである。それは言葉に生きるものとし無限の過去と未来を結ぶものである。われわれが死ぬとは斯る中に死ぬのである。われは無数の中の一として、無数の人々の言葉の中に言葉をもつものとして、その言葉によってあらしめられるものとして、無数の他者によってあるものとして自己を殺すのである。自己を殺すとは無数の他者の言葉を自己の内容とすることである。自己によってあるのではなく、無数の他者によってあらしめられることである。而して無数の人々によってあり、その言葉を内にもつものとして、われわれは生死を超えて確固たる自己となるのである。

生死の問題は複雑である。それは我々が死を知るところより来るのである。死を知るとは死を自己の中にもつことである。死ぬ自己としてわれわれは死をもつと共に、死ぬ自己を知るものとして死を超えたものである。而して死ぬとは生死する自己が死んで死を知る自己が残るというものではない。死を知る自己が死ぬから死である。死を知る者にとって、死を知らないものの死は真の死ではない、死を知るものの死は絶対の死である。死を知るものはそれを生れたときよりもつ避くべからざる運命として知るのである、そこに不安と恐怖、死の限りなき悲しみがある。而してこの絶対の死こそが絶対の生へ転ぜしむるものなのである。限りない悲しみが己が存在の根源へと回帰せしめるのである。不安、恐怖、限りない悲しみは死を知るものの現在である。そこに言葉をもついのちに転ずるのである。転ずるとは言葉によってあらわれ、言葉によって生かされるわれとなるのである。無限の他者との対話が一なる中にあらわれ、そしてそれは無限の他者を自己の中にもつわれとして生きるものとなるのである。それは以前の生命が死して新たに生れることである。併しそれは生死がなくなったのではない、新たに生れたものとは以前の中より生れつつ以前のものを包むものとして新たなのである。死は依然として深いかなしみである。これを包むとは死へのかなしみをより大なる生へ転ずる契機と見ることである。生死のよろこび、かなしみを底深く湛えたものとなるのである。言葉は生死の中より生れたのである、それが逆に生死を包むものとなったのである。ここに宇宙的生命の開顕があるのである。宇宙的生命という特別のものがあるのではなくして、この我に即して開顕してゆくのである。対立が一として開顕してゆくのである。われわれの自己はそれによってあり、それによって生きるものとなるのである。自己がそれによってあり、それによって生きるのが客観的事実の世界である。われわれの自覚は客観的事実の形成としての自覚である。客観的事実とは宇宙の自己開顕である。

客観的世界は歴史的形成的である、その中に於てわれわれは対象を作り、対象に作られるものとなるのである。対象を作るとは、世界の中に作られたものが作るものとして世界に対し、世界を再構築せんとすることである。対象に作られるとは、われがあるとはどこも世界を写すことによってあるのであり、作った世界はわれの影を宿すものであり乍ら、世界としてわれわれはその中に生きるのであり、他者として外として対立し、否定し来るものとしてそれを自己の内容としてのみ生存をもち得るものとなることである。自己の内容とすることが写すことであり、作られることである。何処迄も写し写されるものとして形造ってゆくのである。作られた世界は写されて写すものとして更に密度の高い世界となるのである。作るものとしてのこの我は密度の高い世界を写すものとしてより大なる能力をもつものとなるのである。化学者ノーベルは対象の中から火薬という大なる力を人類の為にとり出した。併しその力はより大なる殺傷をもつものとして外として対立するものとなった。ものを作るとは自己の生存を対象に映すのであり、対象はより密度高い外としてより大なる危機として迫ってくるのである。縄文時代に入って大なる戦乱が多発したと言われるのも道具の発明に関るものとおもう。更に写し映され、作り作られるものとして、われわれは原子力機器を作り、化学製品を作り、電子機器を作った。それは飛躍的な生活の向上と共に、戦争として、環境破壊として人類滅亡の危機を孕むものである。私は歴史は常に危機と危機の救済としてあるとおもう。歴史的発展とは斯る危機の増大とその救済としての克服の無限の過程であるとおもう。生命は危機と救済として自己を形成してゆくのである。歴史とは斯る生命形成である。

作られたものが作るものになるとは、世界の中にあるものが世界に対立するものとなることである。対立するとは逆に世界を内にもつことによって、内の世界と外の世界が対立するのである。生命がその自己保存としての営為の経験を蓄積することである。自然の生命の流れを堰き止めて時の統一者として、自然の営為を自己の目的に構築することである。斯る蓄積を言葉によってもつのである。言葉とは語り合うものであり、それは無数の人々の間より出で来ったものである、即ち経験の蓄積は無数の人々によってあり、無数の人々によって担われるものである。実言葉は生産の発展、道具の増大と共に複雑化したと言われる。そのことは言葉によって道具の発展、生産の増大があったということである。経験の蓄積として歴史があり、無数の人々が対話するものとして蓄積を担うとは、対話をもつ無数の人々が歴史的主体となるということである。斯る歴史的主体が対象を作り、対象に作られるものとして危機を担うものである。危機は物と生命、主体と客体、我と汝の対立の中に必然的に潜むものであり、斯る対立を通じて世界が自己を形成するとは、世界は危機を媒介として自己を形成するものであり、危機は救済をもつということでなければ ならない。

世界が形成的世界として、対象がより大なる力を見出したということは物がより大なる言葉を孕んだということである。内と外に言葉の均衡が破れようとすることである。この救済は歴史的主体が新たな言葉を孕むことでなければならない。そしてそれはより大なる物の力の中より聞えてくるのである。われわれは危機としての呼び交しの中からその言葉 を聞き出すのである。それに従うものは生き、それに背くものは死ぬのである。そこに神の声がある。その声を聞くときわれわれは真個の自己となるのである。それは危機の世界よりの声を聞いたものとして大なる力であると共に、世界によってあるものとして絶対に無力である。世界が世界を運ぶ影として無なると共に、運ぶ世界を担うものとして絶対の有である。善も美もここより生れるのである。われわれは力の究極に神を置く、併し神とは外より大なる力がはたらくのではない、単に外にはたらく力は知りようがない。それはわれわれの根底としての我ならざるのである。無数の声の一が神の声であった如く、無数の力の一として、力の究極はあるのである。われも亦声をもつもの、力をもつものとして、われと汝の関りは深く神の大いなるものにつながるのである。神の中にあるわれは逆に自己の深奥に神をもつのである。超越的なるものは内在的なるものとなるのである。われわれはそこに大いなる言葉、大いなる力を得ると共に世界に運ばれるものとして、言葉が言葉を運び、力が力を運ぶものとして、それによってあるものとして絶対の無知無力となるのである。宇宙は言葉に満ち、力に満ちたものとなるのであり、われわれはそれによってあるものとして、それを返照するものとなるのである。

知るということもここからくるのである。田辺元博士はその著哲学通論に於て「肯定的 判断主観は自己に対立する否定者を予想し、自己の内に否定者としての汝を含む社会的な我としてのみ成立する。即ち直接なる肯定者としての個人的我に対し否定者としての汝を媒介として超個人的なる我に高められたる社会我が判断の主観となり、其内に於て個人的なる我と汝が相対立すると言っていい。而して我は汝に対してのみ我があるから、直接なる概念の統一に対応する主観は我として具体化せられた主観ということは出来ない。判断に至って始めて我というものが現れる。」と言っておられる。個人的我に対して否定者としての汝を媒介として超個人的なる我に高められるとは如何なることであろうか。低次なるものから高次に至る道はない、われわれは自己によって対立するものをもつことは出来ない、我と汝が対立するとは我と汝を包んだものの内容として対立するのでなければならない。即ち超個人的なるものに高められるとは、我と汝が対立することが我と汝を包んだ超個人的なるものが自己を露わにすることでなければならない。超個人的なるものに照されてわれわれは高められるのである。判断は超個人的なるものが自己を露わにしてゆく内容であり、判断に至って始めて我というものが現れるとは、超個人的なるものに照されて我は真の我となるのでなければならない。その我は判断の中より生れたものとして判断する我でなければならない。超個人的なるものが自己を露わにするとは、我と汝の対立が超個人的なるものに照らされたものとして照り返すことである。我をあらしめるものによって出で来る言葉に、我をあらしめるものを映し出すことである。そこに思惟があるのである。自覚として自己が自己を知るということもここより来るのである。」と書いておられる。博士も推論によって社会我が自覚せられると言っておられる。われわれが考えるとは世界が世界を運ぶ形としてわれわれにはたらくのである。われわれは考えることによって常にわれより出でて世界の中に入ってゆくのである。それは世界が世界を見る内容として世界が実現してゆくことである。

世界が自己の中に自己を見るとき見られたものは世界が実現したということでなければならない。そして実現した世界が更に自己の中に自己を見るところに世界がはたらくということがあるのでなければならない。私は歴史的形成というものも斯るはたらきとしてあるのであるとおもう。われわれの自己も亦歴史的世界に於て真にはたらく自己となるのである。以下私は歴史の様相を見ることによって自己を尋ねてみたいとおもう。前にも書いた如く歴史を成立せしめるものは主体と環境の相互転換を構成的ならしめる主体の技術の獲得であり、技術の具現としての道具の使用である。道具の使用によって内に転換すべき外としての物を飛躍的に増大せしめたのである。而してそのことは環境と主体の対立、我と汝の対立を解消せしめたのではない、否逆に飛躍的に増大せしめたのである。食糧の増産は人口の増大を招いた、人口の増大は生産の増大をもたらすと共に、凶作に於ける飢餓の増大をもたらすものである。生産が大となるに随って自然の暴威は大となるのである。治山治水に大なる労力を要求するのである。我と汝は生産物、生産手段の争奪をなすものとなるのである。伝えられる卑弥呼の項の天下大乱は斯る現れの第一段階であるとおもう。そこに強大なる力が要求される、その力は人間の結束であり、集団である。そしてその統率者は矛盾対立の増大につれて力を増してくるものとなるのであり、大王が出現するのである。大王の出現は亦奴隷の出現である。戦に敗れたものは単なる生産力として勝者に隷属 し、勝者の生活に奉仕するものとなるのである。戦乱は曽って経験しなかった酸鼻をもたらし、奴隷は勝者のあらゆる苦痛を押し付けられる悲惨の生涯をもつものとなったのである。集団のより大なる力への進展は組織が要求され、組織の進展はその頂点に立つ統率者を益々大ならしめて、遂には全ての力を統率者の所有とするのである。勿論統率者は個人として所有するのではない、全体表象として、集団の威厳として所有するのである。組織は組織の論理の要請をもつ、それは多数のものを一ならしめるものである。そこから新しい行為の基準が求められ倫理としての道徳が生れる。その内容は全体表象の状況によって決定されるのである。大王の統率の下に於ては統率者の仁慈と服従者の忠誠が要求されるのである。多数が一としての大なる力はその力の表象をもとうとする、それが表われるのは先ず衣食住である。衣は位階を表わすものとなるのであり、食は典礼の基礎となるのである。住は統率者の生涯を托するものなるが故に威厳を表わすものとなるのである。そこからは自己保存、種族保存を超えた形が要求せられる。斯る要求の中から生れた様々の形が芸術へと発展してゆくものである。併し衣食住は尚全体を表象するものではない、全体を表象するものは個々の生滅を超えたものでなければならない。先祖と現存する者と未来に生きるものを一ならしめるものでなければならない。それは例えば農耕生活に於て田や道具が祖先を負い、子孫を予測するものとしての必然である。そこに全てがそれによってあるものとしての超越者が要請される。それは最早感覚の対象としての形に於て見る べきものではない。言葉によって見るべきものである。併しそれには言葉を宣べる所が必要である。そこに神殿、仏閣、教堂の作られる所以があったとおもう。而してそれが形として現われた以上権威の表象とならなければならない必然をもつ、それは過去現在未来 を包む表象を要求するものとなるのである。そこに人類の栄光は打ち樹てられる。併し私がここで言いたいのは大なる栄光は常に大なる悲惨をまとうことによってあったということである。エヂプトのピラミッドは十万の奴隷が何十年かかかって作ったと言われる。私はその作業の間に牛馬以上に加えられた箸の数を思うものである。恐らく骨と皮に細った背に血を噴き乍ら石を運ぶ綱を引いたのであろう。我国の大仏殿も仏教に国家理念を見出した天皇が象徴として建立したと言われる。而してその失費は巨額を要し、ために苛斂誅求に苦しんだ民衆の路上に餓死するもの数知れず、強盗がはびこり、怨嗟の声国中に満ちたというのを読んだことがある。

歴史が対立が統一として矛盾的に動いてゆくとは対立が統一の中に解消することではない。対立即統一として矛盾が顕在化してゆくことである。対立が愈々対立することが統一がより大なる統一をもつことである。技術による生産の拡大と蓄積は人類の力の増大であると同時に、消費と安逸をもたらすものとして力を削減するものである。人は物の争奪に於て対立を尖鋭化し、消費に於て頽廃の淵に沈んでゆくのである。大なる文化の輝く都市はその裏面に悪徳の渦巻く都市である。われわれはホモ・サンピエスとして六十兆の細胞と百四十億の脳細胞をもつ有機体と言われる。この生命が生れては死に生れては死に乍ら環境を写し環境を形成してゆくのが歴史である。 生れてくるものは環境を映すものとして白紙として生れてくるのである。環境を映したものが生きてゆく事が環境を作るということである。争ひに生れたものは争ひを 育て、和に生れたものは和を育てるのである。光明に生れたものは光明を育て、闇に生れたものは闇を育てるのである。生れ来ったものは善を求め、或は悪を求めて生きるのではない、自己の生存を求めて生きるのである。生存は外を内とし、内を外とするものとして環境の中に生れ、環境を作るものとして生を営むのである。環境と生の相互限定として、悪にまれ、善にまれ一度生れた形は自己を肥大化させてゆくのである。斯くして世界は無数の個の対立としてある限り栄光と悲惨、善と悪の紋様を織りなして動転してゆくのである。われわれの自覚が歴史的形成的であるとは斯る構図の上に自己を見出してゆくことに外ならない。否定と肯定、対立の緊張の上に自覚はあるのである。

われわれは歴史を知るものである。歴史を知るとは、歴史の中にあるものが逆に歴史を内にもつことである。時の中にあるものが時を内にもつことである。無限の時間はこの我の中を流れるものとなるのである。而して時の中にあるものが時を内にもつとは矛盾である、そこに於て歴史を知るものとは生死に自己を露わにする永遠なるものでなければならない、ここに於て歴史を知るとは単に無限の経過去の知識をもつことではない。絶対の矛盾を絶対の同一として生死を永遠に包摂することである。併しそれは風呂敷が物を包む如 く包摂するのではない。生死するもの、対立するものが飜るのでなければならない。一々が世界の内容でありつつ、世界を構成するものとして対立するものが一なるものへと飜転するのである。私は断るものとして全ての人間が自覚の可能性を孕みつつ真の自覚をもつものは世界の底に宇宙的生命の声を聞いたもののみのであるとおもう。生死するものと永遠なるものの矛盾の葛藤に生きたわれわれはここに真の在処に参見するのである。歴史は常に危機と救済として動転する、而して救済は常にここより来るのである。

自覚者は宇宙的生命の実現者として、生死の淵に苦しむものの救済者として自覚者である。故にそれは善悪の審判者の世界ではない、全ては宇宙的生命の実現として「誰か罪なきものこの者を石もて打て」の世界である。「善人尚もて救わる、況んや悪人をや」の世界である、それ等の人の為にこそ涙を流すべき世界である。そこに善悪の価値判断が入るとき対立の世界へ堕するのである。それは我と汝の対立世界の判断であって真に自己の中に世界を見る所以であることは出来ない。

われわれは宇宙的生命の内容として、宇宙的生命の如何なるものかを知ることは出来ない、唯現れとしてあるのみである。それが対立の苦としてあり、一者の救済としてあるとき神の恩寵の世界、仏の大慈大悲の世界となるのである。われわれはその前に絶対の無となるのである。併しそれは世界がなくなることではない、否世界はそこより生れるのである。対立が統一として自己自身を見ゆく神は力の神であり、無限に創造する神である。われわれは無となることによって世界に現われるのである。無に生きるとは自己を捨てて世界に生きんとする無限の努力である。

長谷川利春「自覚的形成」

 

 

 

宇宙

 先日の新聞にローマ法皇がガリレオ・ガリレイの罪を赦免して、彼の肖像入りの切手を発行するという記事が載っていた。何を今更とおもう。多くの人は宗教のもつ体質に幻滅を感じたのではなかろうか、併し考えて見ればそれ迄の人類は天動説を不抜の真理と信じていたのである。斯る信は何処から来たのであろうか、亦最近の天体物理学によれば、宇宙は約二百億年前に爆発し、そのエネルギーは無限大であり、そのエネルギーによって膨張を続けていると言われる。それは果して誤りなき真実なのであろうか、仮説によって構成されたものとして、次の仮説によって修正されてゆくものなのであろうか、そうとすれば信ずべき宇宙というのはないのであろうか、信ずべき宇宙がないとすればわれわれは何故に宇宙への探求に駆り立てられるのであろうか、宇宙とは一体如何なるものであり、われわれは何を尋ねるのであろうか。広辞苑によれば「宇宙、(淮南子の斉俗訓によれば、「宇」は天地四方、「宙」は古往今来の意。一説に「宇」は天の覆ふ所、「宙」は地の由る所。すなわち天地の意) ①世界または天地間。万物を包容する空間。 風流志道軒伝「論語は第一の書②〔哲〕時間・空間内に存在する事物の全体。また、それら全体を包む ひろがり。 ③〔理〕すべての時間と空間およびそこに含まれている物質とエネルギー。〔天〕すべての天体を含む空間。特に、地球の気圏の外。以下略」と記されている。通常私達が言う宇宙とは天文学的宇宙であり、宇宙とはそれ等を一分野として包む全存在であるということらしい。それでは宇宙とは如何なるものであろうか。

 宇宙が時間・空間内に存在する事物の全体というとき、事物は時間・空間の内容であると共に、時間・空間は事物の形式であるということでなければならない。すなわち時間・空間としての全存在は事物の存在の様相でなければならない。空間とは形をもつものであり、時間とは形が変じてゆくものである。時間は過去、現在、未来をもつ、過去は現在ならざるものであり、未来は現在ならざるものである。時は一瞬の過去にも還り得ないと言われる如く、無限に変じてゆくものでなければならない。併し変じてゆくとは過去、現在、未来として変じてゆくのである。過去なくして現在はなく、現在なくして未来はない、そこに於て変化するものは一なるものでなければならない。変化を超えて不変なるものがなければならない。空間が形をもつとは形と形が対するということである。一つの形というのは何ものでもない、形というのは他と区別することによってあるのである。他と区別するものは対立するものである。対立するものとは否定し合うものである。否定し合うとは対立するものを変ぜんとすることである。相互否定の中から新しい形が生れる。前の形は否定された形として、新しい形は現在の形として形より形へ空間は自己を維持してゆくのである。時間が変化を超えた不変なるものがなければならないとは、時間は空間の中に消えてゆくのであり、空間の形が対立するものとして変化によって自己を維持してゆくとは 空間は時間の中に消えてゆくことである。そのことは時間・空間を超えて時間・空間的に 自己を限定してゆく一者があるということでなければならない。宇宙が時間・空間内に存在する事物の全体というとき、宇宙は時間的・空間的に自己を限定してゆくということでなければならない。変ずるものが不変なるものであり、不変なるものが変ずものであるとは宇宙は時間・空間的に自己を形成してゆくということでなければならない。宇宙とは自己形成的であり、時間・空間は形成の両極としてあるのである。全てあるものは時間・空間的にあるのであり、あるものとは宇宙が自己の中に見出でた自己である、そこに宇宙とは時間・空間的に存在する事物の全体ということが出来るのである。われわれ人間も亦時空間的にある、即ち宇宙の内容として、宇宙が自己の中に自己を見たものとしてあるということである。私はそこに宇宙の現われとして、この我の中に深く入ることが宇宙と は何かを明らかにする所以であるとおもう。

 宇宙は無限大のエネルギーの爆発に初まり、初めは素粒子のみがあったと言われる。一斯かる素粒子がヘリウムと水素を作り、更にヘリウムと水素から種々の分子が出来、分子から生命が生れたと言われる。最初素粒子のみがあったとき、素粒子と宇宙の関りは如何なるものであったであろうか、私はそこに一々の素粒子が宇宙の本質を担うものであったということが出来るとおもう。本質を担うとは、一つの素粒子を知ることは全宇宙を知ることが出来ることである。素粒子が原子を作り、原子が分子を作ったということは、原子・分子の一々が宇宙を宿し宇宙を構成するものであるとおもう。一々が宇宙の構成要素であることが自己の中に世界を持つことである。生命はその中に生れた新しい形として更にそれを鮮明たらしめたものであるとおもう。生命は宇宙の更に鮮明な形としてあるのである。宇宙は生命として自己を明らかにするのである。

 生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とすることによって形作ってゆくものである。摂取と排出によって形相を転換してゆくのである。斯る転換が形成作用である。植物の光合成作用を基幹として、それが動物に於て食物連鎖となるのである。食物連鎖の世界は動物に於て自然陶汰の世界である。動物にとってそれは死との対面の世界である。食われるものは勿論死である、食うものもそれが獲得出来ないときは死である。そこに 生死をかけた闘争がある、而して動物はそこによりすぐれた新しい機能をもつ生命となるのである。如何にして遁れとし、如何にして捉えんとする所より、より大なる能力が生れるのである。生存として獲得したより大なる能力は遺伝にまれ、学習にまれ個体を超えて種族の内容として維持してゆくのである。より大なる能力を獲得するとは、より大なる時間と空間を自己の内容とすることである。より広く、より永く行動し得る身体となることである。宇宙が生命に於て自己を明らかにするとは身体に於て明らかにするのである。一々の身体はその内包に於て宇宙に対応するのである。この我の身体を除いてこの我の宇宙があるのではない、この我の宇宙なくして宇宙一般があるのではない。若しみみずに意識があると仮定してその宇宙像は如何なるものであろうか、みみずはそのもつ行動能力に従って宇宙像を描く以外にないであろう、それはわれわれと著しく異ったものと思わざるを得ない。ふくろうは目が殆んど見えず、遠近をわれわれよりはるかに優れた聴覚に於てもつと言われる、斯る感覚によって構成される宇宙像もわれわれより異っていると思わざるを得ない。併し私達は、宇宙が自己の身体に即するといっても私達の恣意によって宇宙があるとおもうことは出来ない。任意に作れるものは宇宙ではない、普遍妥当性として万人が肯わなければ宇宙ではない、われわれは宇宙の中に存在するものである。斯る宇宙は 如何にして考えられるのであろうか。

 私はそこに人間生命の自覚があるとおもう。生命は身体的形成として摂取と消耗の絶えざる転換である、一瞬一瞬の絶えざる動きである、自覚とは斯る転換が蓄積的となることである。動物として行動によって食物を求め、獲得することは技術的である。蓄積的であるとは斯る技術に於て以前と現在が結合することである。例えば昨日獲物が穴に落ちて動けなくなっているのを捉えたとする。すると今回は穴を作ってそこに追い込み動けなくして捕えるというごときである、昨日と今日が捕獲に於て結びつくのである。内外相互転換としての技術はここに製作的技術となるのである。前肢は手として外を変革するものとなるのである。作られたものとし生れ来った身体は作るものとなるのである。われわれは記憶によって過去をもつ、言葉によって蓄積し、手によって製作するのである。製作とは新しい形を生み出すことである。新しい形とは与えられた本能的なものによってはあり得ない形である。経験の蓄積によって死を生に転ずところより生れる形である、勿論本能的なものが無くなったのではない、それが構成的となったのである。無限の時点が現在の生死に於て新たな形として結びつくものとなったのである。

 製作はわれわれの身体の延長である。身体は宇宙の自己形成の内容として作られたものであった。宇宙の内容として作られたものが宇宙の形相として、逆に宇宙の形相を実現するのが製作である、そこに形を内にもつものとなるのである。斯る製作によって見出される形に空間はあるのであり、製作の力の表出に時間はあるのである。われわれは宇宙の一微塵として生れた、併し製作するものとして宇宙を内にもつものとなるのである。ここにわれわれは自己の自覚をもつのである。製作によって時間・空間があることは、時間・空間の中に存在する事物の全体とは、技術によって製作された事物でなければならない。作ることによって見られたものの外延と内包が宇宙でなければならない。内外相互転換の蓄積によって描かれてゆく世界が宇宙でなければならない。

 技術的・製作的世界は歴史的形成の世界である。人間が技術保持者として、歴史は何処迄も人間の生命形成である、手と言葉を有する製作的身体の表現として製作はあるのであり、人間は製作的身体として歴史的に自己を形成してゆくのである。併しその製作的身体は何処から来たか、如何なるものであることによって言葉をもち、手をもつことが出来たか、私達はここに私達を超えた生命を見ざるを得ない、知るべからざる深さの底に、われわれがそれによってあるものに触れざるを得ない。この我の現前を直証としてこの我に表われるものによらざるを得ない、私は製作もその根源をここに有するとおもうのである。経験の蓄積ということも断るものによってあることが出来るのである。蓄積が過去・現在・未来をもつということは無限の時をもつということである、存在の初めと終りを結ぶものをもつということである。初まる時を知らず終る時を知らないものが現在に現われているということである。私達は作ることによって見、見ることによって作るのである。その底には大なる生命の自己実現のはたらきがあるのである。人類が感覚に捉え得るものは全て斯る生命の表れである。私達が時間・空間の内に存在する事物の全体というとき、存在する事物は斯る生命の表れであるとおもう、私達はここに宇宙を見るのである。人間が歴史的形成的に自己を見でてゆくすがたは、宇宙が自己を見出てゆくすがたである。

 宇宙というとき私達は直に天体を含む無辺の空間に想到する、私は斯る空間とは上記の宇宙より空間的方向に抽象されたものであるとおもう。斯る空間も歴史的形成の内容としてあるのであるとおもう。先日の新聞にローマ法王廟ではガリレオ・ガリレイの罪を赦免した記念として切手を発行するということが報ぜられていた。これを読んだ多くの人は 恐らく失笑したことであろう、何を今更とおもう、併し古代に於て多くの人は太陽が地球をめぐると信じて疑わなかったのである。私も学ばなければ天動説を信じているであろう、そこに観測技術の進歩があったのである。内に数理論の発達があり、外に観測器具の発達があったのである。更に思いを及ぼせば人間が未だ猿の如く樹上生活を行っていた頃には、天体とは一体如何なるものであったであろうか。星座は放牧の民によって見出されたという、彼等はそこに自分の位置を知り、時刻を知り、行くべき方向を知ると同時に美しく統一された天の運行を知ったのである。 天体も、人間の生存の自覚的行為としての牧畜の中に見出されたのである。恐らく生存の自覚的行為としての技術をもたなかった樹上生活当時にとって天体は如何なるものでもなかったのであろう。天体としての宇宙の像は日進月歩とでも言うべき激しさで変化しているようである。私達の幼少時、天には十万個の恒性があると教えられた、それが今では一兆個の一兆倍と書かれている。宇宙は数多くの星が規則正しく運行する所と教えられた、それが今では発生と死滅を繰り返す、爆発に初まり、膨脹を続ける体系と書かれている。それらは全て観測器具と統一理論の技術発展のもつ展開である、斯る技術の発展は単に天体物理学の単独の発展にもつものではない、 歴史的形成の発展を分有するのである。望遠鏡の精度の向上には素材の発展から始まるのである。更に科学は仮説と実証によって成立すると言われる。私は仮説には人間の夢とでも言うべきものがなければならないとおもう。この我の内に、与えられた空間・時間より更に大なる時間・空間を構成する可能性と、意志をもつのでなければならないとおもう。この我が見ることが宇宙が宇宙を見ることであり、この我が見ることは宇宙が宇宙を超えて更に深大なるものを露わにしてゆくということである。私がわれわれが通常もつ宇宙の概念は宇宙の空間的方向に抽象されたものであるというのは斯る立場からであり、その根底に歴史的形成があり、宇宙の真の相をその根底に見んと欲するのである。

 私は宇宙的生命というのは何処迄も見るべからざる深さであるとおもう。自己の中に対立を含み、自己の中に自己を見るということは何処迄も見るべからざるものをもつということである。自己の中に自己を見るということは根底に還ってゆくことである、現在われわれに現前する世界の事物は人類が無限に自己の根底に還った表れである。斯る事物が見られたものとして、更に自己の根底に還ってゆくのが自覚的生命がはたらくということである。見るものが見られたものとして、見られたものが見るものとして、自己の中に自己を見てゆくのである。それは無限の形の現前である。私はそれを宇宙の現前とするのである。天体物理学に於ける仮説の如きも、それが仮説として真と言うべきものに非ざるものながら、宇宙が自己の中に見出でた自己として、現在の自己現前として真なるものでなければならない、自己の底に見出でた自覚的生命の実現としての実在性をもつのである。自己の中に自己を見てゆく無限の線の一点として、歴史的現在を構築するものとしての真である。天動説も、宇宙が宇宙を形成してゆく時の一点としての真実をもつのである。一点は自覚的形成の一点として無限の過去を担い、無限の未来を孕む一点である。太古牧童が天を仰いだ時より、未来に見出されるであろう天体像を内蔵する一点である。宇宙はわれわれの内にあるのでもなければ外にあるのでもない、宇宙が宇宙を見てゆくところにあるのである。自己の中に自己を見てゆくとき如何なる時点も抽象された時点としては誤謬である、移りゆく一点として否定さるべき一点である、現在は否まれるべくあるのである。自己の中に自己を見るということが既に否むべく見るということである。併しそれは形成的全体を蔵するものとして真である。形成的全体は初めと終りを結ぶものである。一々の点は自己の中に自己を見るものとして初めと終りを蔵するのである。そこに於ては立 所皆真である、嘘言も真である。

 ホモ・ サピエンスとして現代の人類は全て六十兆の細胞と、百二十億の脳細胞をもつと言われる。私は全ての人が等しい構造をもつということは、一人一人の人が社会構成の特殊点を担うということではなくして、一人一人が世界を映すということであるとおもう。機械の部品の如きではなくして、必要に応じて部署に着くのである。一人一人が形成的に世界を映すものとして特殊点に立つのである。鍛冶工も、清掃婦も世界を形成するものとして工場の隅、病院の廊下にはたらくのである。それははたらく世界の一員であることを知るものである。世界を映すものとして一事に従事するのである。一に従事することは世界を形成することである。証上に万法をあらしめて出路に一如を行ずるのである。斯かる世界形成が、宇宙が自己の中に自己を見ることなのである。宇宙が自己の中に自己を見ることによってある人間が、自己形成的に自己の中に自己を見てゆくことがはたらくことである。われわれのはたらきの一々は宇宙的生命のはたらきとして宇宙に即するのである。形成作用として初めと終りを結ぶものに対応するのである。対応するとは映し合うことである。そこにわれわれは小宇宙となるのである。小宇宙となるとは形成的に参加することによって、われが宇宙を映し宇宙が我を映すことである。内としてもつ表象と外としても表象は常に等しいのである。そこに形成作用はあるのである、外として見る世界は脳細胞の中に宿されているのである、それは宇宙の自己形成として宿されているのである。対応するとは、対面する全宇宙を小宇宙として内的表象としてもつということである。形成ということは絶えず形を生み出してゆくことである、形を生み出すとは現在の形を破ってゆくことである。現在の形を破るということが新しい形が生れることである。現在の形を破ってゆくものはこの我であり、汝である。それは全宇宙を内にもつ小宇宙がはたらくことに よってあり得るのである。一々の小宇宙が、内が外を映し、外が内を映すというは内が外を破り、外が内を破る形成作用ということである。斯る形成作用を除いて宇宙というものがあるのではない、而して小宇宙として宇宙の形を破ってゆくとは宇宙の形成要素として破ってゆくことである。宇宙は自己の内容の一々が自己を超え、自己を包む要素として自己を形成してゆくということである。十億の人が居れば十億の内的宇宙像があるのである。宇宙像に於て人々は宇宙に即し、宇宙に対応するのである、人々は斯る宇宙像が過去の無数の人々の作り上げた宇宙像を受け、それを映し、それを破ると知るのである、即ち 無数の人々が作り破って行った宇宙像が現在として一の像をもち、斯る像を映し破ることがわれわれが宇宙に対応することと知るのである。われわれが内的表象として宇宙像をもつのも、斯る無限の時間の上に構築された宇宙像に依ると知るのである。人類はその人間的同一を以って同一像を見、個人的差異をもって差異像をもつのである、そして個人の生死に於て人類の同一像に牧斂されてゆくのである。

 私は歴史的形成と宇宙的形成を分つものはその時間的差異にあるとおもう。歴史とは人間が人間として物の製作を始めたときからであり、所有の葛藤の限りない変遷にあるようにおもう。それに対し宇宙的形成をいうとき、宇宙創世よりの問いであり、人類が出で来ったものを包まなければならないとおもう。歴史は対立するものの否定と肯定である。果てしない治乱興亡である。併し歴史が成立するには治乱興亡を俯瞰するものがなければならない。古代と現代を一つに於て見るものがなければならない。併しそれは既に歴史を逸脱するものである。私はそこに歴史的形成は宇宙的形成を背景にもたなければならないとおもう。時の統一が成立するには自己の中に自己を見るということがなければならない。存在が自己自身を見るということがなければならない。それは相対的軋轢としての歴史より見ることの出来ないものである。勿論歴史もそれが形成である限り自己の中に自己を見ることによって成立するものである。一つに於て見るものがなければならないとは、斯かるものによって成立するということである。そこに私は歴史は宇宙的形成の上に成り立つとおもうのである。歴史的身体として製作するわれわれは製作に於て絶対に触れる、この触れる絶対は初めと終りを結ぶものとしての宇宙的形成にあるのである。宇宙的生命を根底として、歴史的形成はそれ自身の完結をもつのである。

 禅家に「父母末生以前の己を問え」というのがあるそうである。この我の来所が問われているのである。われわれは父母によって生れた。併し考えて見ればこの我が生れたというも実に偶然である。父と母が結婚したというのも偶然である。若し母が妊娠の日に父が旅にでも出ておればこの我はなく、他日異った者が出生したとおもう。まして父母未生以前といえば無というの他なき我の所在である。斯く問うときこの我の所在は濃霧の中の如きものである。併しての我は出現したのである。六十兆の細胞と百四十億の脳細胞の見事な統一として、世界を映し、世界を形成するものとして現前したのである。更に世界形成的に無限の過去と未来を結ぶものを内にもつものとして、小宇宙として宇宙と映し合うものとして、はたらくものとして現前したのである。私は私の来所をここに求めたいとおもう。この我は宇宙が宇宙の形相を更に深く実現すべく、宇宙的意志とでも言うべきものによって生れたのである。われわれは自覚的として自己自身を知る生命である。併し斯る自己を知るということも生得である。言語中枢はこの我が作ったのではない、もって生れたのである。もって生れたということはこのわれを作ったものが自覚的であるということである。私は宇宙が自覚的であり、われわれは宇宙の自覚の体現として自覚的であるとおもう。宇宙は物質でも精神でもないのである、無限に自己の中に自己を見てゆくものなのである。自己の中に自己を見てゆくものとして生命があり、自覚があるのである。言語中枢は斯る限定の果に宇宙が見出した自己のすがたである。そうゆうことは宇宙は自己を知ることによって自己を形成してゆくものであるということである。言語中枢に自己を見出したものとして、われわれの意識に現われたものが宇宙の相である。知らざる我の来所は宇宙の形成はこの我の出現の如く形成するということである。於世出現としてわれわれの一々は宇 宙と対応するのである。われわれは宇宙の形成的要素として、其の中に生死するものとして宇宙は量り得ざるものである。併しそれに対応するものとしてわれわれの自己は量り知るべからざるものをもつのである。

長谷川利春 

生命は本能的であり、本能は衝動的である。生命が衝動的であるとは如何なることであろうか、広辞苑によれば衝動とは人の心や感覚をつき動かすこと。反省や抑制なしに行動すること。また、その際の心の動き。と書いてある。生命は無限に動的である。私は生命が動的であるとは断るつき動かすものを内にもつことであるとおもう。つき動かすものはつき動かされるものを超えたものでなければならない。超えたものとは動かされるものは動かすものによってあるということである。生命は形作るものである、形作るとは生長としての変化をもつことである。変化をもつとは自己の中に否定を含んだものである、否定するものはより大なるものでなければならない。変化を超えて変化を自己の現れとするものでなければならない。即ちつき動かすものは、つき動かされるものを自己の現れとして生長と死滅に於て形作るものでなければならない。つき動かすものは生命を生長と死滅に於て形作るものとしてつきうごかすのである。

私達は個体として人類の如きが断るものを担うのではないかとおもう。併し人類も生命形成の中より現われたものである。生命形成の三十八億年の中の近々数百万年以前に現はれたものである。変化の中に現われたものであって変化を現わすものではない。私は更に深く根底に還らなければならないとおもう。宇宙は爆発によって初まったと言われ、最初は素粒子のみであったと言われる。それからヘリウムと水素が生じ、やがて分子が出来、分子から生命が発生したと言われる。斯る新たな形が次々と生れたということは宇宙は形成作用としてあるということであるとおもう。形成作用とは、素粒子は分子となるべきものをもち、それを実現していったということである。更に生命となるべきものを胚胎していたということである。それらは全て可能性としてあったものが実現したということである。内に見出したということである。自己の中に自己を見出したということである。

斯る自己の中に自己を見るということが新たな形が生れるとは如何なることであろうか、私はそこに対立と統一の矛盾関係を見ることが出来るとおもう。先に言った如くわれわれは個体としてある。個体としてあるとは個体と個体が対立するものとしてあるということ である。対立するとは相互否定的としてあるということである、相互否定的とは対立するものを変革するものである、そこは常に新たな形の生れるところである。併し個体は対立するものとして、対者によって変革されるものとして自己の中に自己を見るものではない、自己の中に自己を見るものは対立を包んで対立を自己とするものでなければならない。私は斯るものを宇宙的生命に求めたいとおもう。創成のときより自己の中に自己を見ることによって今日のこの我をあらしめたものに求めたいとおもう。私は衝動というものも斯る所にあるとおもう、宇宙の始めより宇宙の動き来った力がつき動かすのである。本能は斯る形成力としてわれの知らざるところよりわれを動かすのである。

私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは突然異質なる生命が出現することではない、衝動的、本能的に生を営む生命が自己を見、自己を知る生命となることである。自己が自己を見るとは見る自己と見られる自己に自己が分れることである。そこに私は経験の蓄積があるとおもう。生命は生死としてある、生死とは内外相互転換的に形成することである、外を食物としてこれを身体に転換することである。生命は食物的環境と身体の綜合としてあるのである。綜合として生れるとは、食物的環境の中に生れるのである。食物的環境を外としてこれを内に転換するとは労することである。斯かる労力を少なくせんとするのが経験の蓄積である、少くするとは同じ労力をもって多くのものを獲得することである。獲得は時空を異にするものとして一回一回手段を異にする。蓄積するとはそれを前回獲った手段を今回に応用することである。例えば川があった為に獲物が逃げられず捕えたとする、すると次回は川の方へ獲物を追い立てる如きである。木の枝で打ったら獲物が仆れたので次は棒をもって行く如きである。

それは時間を超えて時間を包むものとなることである、衝動は一瞬一瞬の内外相互転換としてはたらくのである。本能は現在の身体の欠乏と充足に於てはたらくのである。時間は一瞬より一瞬へと転じてゆく、時間を超えて時間を包むとは斯る一瞬を内容として統一するものとなることである。一瞬一瞬は衝動として、本能として生命形成的である。斯かる生命形成を外にして単なる時間があるのではない。統一するとは外を内によって変革し、内外によって変革することによってより密度高い内と外とすることである。棒をもつとは棒を手の延長とすることである、延長とすることによって身体の機能をより大ならしめることである。それと同時に木を身体の内容とすることは外を変革したことである。それは更に外を身体の延長として利用せんとすることであり、環境を身体化せんとすることである。ここに私は見る我と見られる我の生れるところがあるとおもう。時を統一するものが見るものとなり、一瞬一瞬の形成が見られるものとなるのである。私は人間の身体を斯るものに於て見たいと思う。人間は言語中枢と手をもつことによって人間になったと言われる。言語中枢をもつことによって一瞬一瞬の経過を蓄積し、過去として記憶をもち、未来として理想をもつのである。手によってそれを実現するのである。身体は個体として対立するものである。併しそれは形成するものである。私は言語中枢をもち手をもつということは本能衝動の個体保存的身体より世界形成的身体に転じたものであるとおもう。自他の対立が形成的統一に向う身体となったのである。それは否定が奥底にもっていた統一が自己を現わさんとすることである。否定と闘争を内に見るものとして世界形成的となることである。私はわれわれの自覚はそこより来るとおもう。世界形成的として世界を映し、世界に映されるところより来るとおもう。人間が自覚的生命として、私は愛も亦生命が自己自身を見るところにあるとおもう。対立的に相互否定し合う生より、統一に自己を現わさんとする生命になったということが愛をもつ生命になったのである。言葉をもち、手をもったということが愛する生命となったということである。身体が世界形成的に転じたということは、対立する我と汝が世界を内にもつものとして相対するということである。そして斯る対立が世界であるということである。我と汝は世界の中にあるものとして世界を自己の中にもつのである。それは我と汝が世界を内にもつものとして対立することが世界が世界を形成してゆくということである。世界を内にもつものとして我と汝が対立し、世界実現的に争うことが世界が形成をもつということである。世界が形成されるということは世界を内にもつものとして自己を形成してゆくことである。我と汝が対立し、汝によって我が否定されることが我が生かされるということなのである。その逆も真である、そこは他者の中に自己を見、自己の中に他者を見るところである。そこに愛があるのである。

情緒とは身体が形成的に衝動的であることである。斯る衝動は先にも書いた如く世界の自己形成より来るのである。身体は個体として出現する、そこに於て情緒は世界に対する個体保存的である。斯る身体はその形成に於て世界関連へと成熟してゆくのである。根源的なるものが現われてくるのである。言葉と手をもつ身体となるのである。形成の根源的なるものの内容となるのである。そこに自覚がある。愛とは世界へと転じた身体の根源的情緒である。身体的形成の根源としての世界形成の情緒である。それは根源的情緒として原始的情緒に新たな陰翳を与えるものである。喜怒哀楽の如く特有の表出があるのではなくして、それに世界形成の陰翳を与えるのである。身体の衝動的形成の深化として愛は更に深く衝動的である。愛せんとして愛するのではない、愛せざるを得ないものとして愛するのである。知らざる声に呼ばれるのである。それはわれわれがそれによってあるものの深さより聞こえてくるのである。愛は惜しみなく与えるという言葉がある。それは自己保存の欲求的自己より見れば百八十度の転換をもつものである。喜怒哀楽はそこより来る喜怒哀楽となるのである。喜びは与うる喜びであり、怒りは与えざりし自己への怒りである。哀しみは与うるものなき哀しみであり、楽しさは与え切ったものの楽しさである。そこに世界に生きる姿があるのである。そこに世界が現われるのである。惜しみなく与えるとは自己を滅して対象の中に生きることである。他者を明らかにすることである。他者と我との世界として、他者を明らかにすることは世界を明らかにすることであり、世界を明らかにすることは我を明らかにすることである。 愛は世界実現的である。

私は斯るものとして愛は人格的でなければならないとおもう。人格とは世界の中にあるものが逆に世界を内にもつことである。世界が自己の内容として自己を形成することは逆に内容が世界を現わすことである。われわれは世界形成の内容として世界を表現するのである。斯る人格は個性的でなければならない、全てのものが同一なるところに世界はない。異なったものが世界をもつものとして、自己の世界を実現せんとするところに対立があり、それが対話に於て一なるところに世界形成があるのである。対立が一であるとはわれわれは社会生活を営むものとして、社会の無限の分化によって生きているということである。衣を作るもの、食を作るものを作るものと特化し、それが更に無数に特化し、それによってこのわれは生を保っているということである。無数の人々との関連によって一人一人が生きているということである。個性とは斯る世界連関の中に自己の最も良く生き得る所をもつことである。われわれは職業をもつことによって人格となるのである。世界を内にもつとは製作物が流通連鎖によって世界に関ることである。製作するものとしてわれわれは世界を内にもつのである。前にも言った如く世界を内にもつとは世界がこのわれによって実現しているということである。われわれが職をもち、物を作るということは無限の過去と未来が現在に於て実現したということである。素粒子よりはじまり、無限の未来へ転じてゆく宇宙的生命の現在点としてわれわれは物を作るのである。永遠の実現として、無限の時間を内にもつものとして人格はあり、人格の尊厳はあるのである。禅家に平常底という言葉がある。平常とは日日の営みである、服を着け、飯を食うことである。伝票に記入することであり、野菜に肥料を与えることである。底とは、その根底に至ることである。日日のはたらきをあらしめるものを把握することである。言葉によって表現し、体現に於て行動することである。

世界とは人類の表現的空間である。世界を作るものは無数の我と汝である、斯るものとして私は愛が最も深く表われるは我と汝に於てであるとおもう。我と汝というのがそもそも一つの世界に於て見られるのである。形成的世界に於て対立が一として我と汝があるのである。斯る世界の自己実現として互に相対するものの個性を認め、互の世界を育て合うのが愛の実現である。私達は自己の生れ来った所以を知らない。斯く生れんとして生れたのでもなければ、親は斯の産まんとして産んだのでもない、言われる如く神の授りものと して生れたのである。それが斯る個性を以って生れたのである。そのことは神が自己の姿を顕わすものとして生れたのである。個性をもつとはその性格的方向に世界を表すべく行動するものということである。世界は個性に於て自己を露わにしてゆくのである。個性的に世界は自己を実現してゆくのである。

対立が統一の内容となるといっても対立が無くなるのではない、否統一を内にもつ対立 として、愈々大なる対立となるのである。 受験競争、開発競争、企業間競争は世界を内にもつもの、言葉を内にもつものとしての対立である、対立は質的転換をもつのである。そ れは絶えざる競争である。形成はどこ迄も対立の統一である。世界を内にもつということ は力である。単に本能に生きるより、自己を世界の中に消して新たな形を見出すことはよ 大なる力を必要とするのである。私はそこに祖母の孫に対する愛、亦は肉親愛と言わる るものの真の愛でない所以があるとおもう。男女、母子、祖母と孫の愛は完結的であり、閉鎖的である、それは外へ出でることを拒否するものである。独占を要求するものであるそれは言葉のもつ世界性と相反するものである。それは本能の残滓を濃くもつものである。勿論本能も宇宙的生命の自己形成の内容として出現したものである。併し自覚的生命はその上に自己を見出したものである。自己完結的なるものは欲求と充足としてある、そこにあるのは繰り返しである。言葉は創造的形成である。自覚的として言葉をもつ生命はその成長に伴って自己完結的世界に耐えられるものではない、ここに私は転換が要請されるとおもう。対抗と緊張によって形成する世界へと転ぜなければならないのである。世界形成は力であり、個性を打ち樹てるとは力の所有者となることである、世界を内にもつとは努力である。私はここよりわれわれの愛の形は来るとおもう。世界の自己形成の内容としての我と汝として、我は汝に、汝は我に何処迄も深く自己の中に世界を見ることを要請しなければならないのである。本能的欲求的残滓を捨てて内に獲得した世界を以って対話することを求めるのである。既成の安易を捨てて新たな展望への努力を求めるのである。「可愛い子には旅をさせ」という言葉があった。昔旅をさすということは他者の中に放り出 ことであった。庇護なき所に生きてゆくことであった、そこに生きることは世の中の体得であった。そしてそれを子を愛する真の道と教えたのである。私はここに自覚的生命の自己形成があるとおもう。旅に出すとは豺狼の中に入れるようなものであった。それは肉親の情として忍び難いものである。併しそれを超えて出すべく世界が要求するのである。一個の人間が世界の形成要素として、世界がより大なる自己の形相を見ようとするところより要求するのである、そしてそれに応えるのがその人の成長である。そこに愛は自己の深層を具現するのである。

私は前に愛せんとして愛するのではない、愛せざるを得ないものとして愛するのであると言った。そのことは愛せんとすることが空虚であるということではない、愛せんとするものの根底に愛せざるを得ないものがあるということである。世界を内にもつものとなるとは意志をもつものとなることである。意志をもつものとなるとは内にもつ世界を実現せんとするものとなることである、そこに自己がある、われわれは行為するものとなり意志決定者となるのである。そこに於て愛せざるを得ないものは愛するものとなるのである。宇宙的自覚がこの我に於て実現するとき、愛せざるを得ない衝動は愛することによって実現するのである。世界形成としての我と汝は何迄も対立するものである、対立するものは否定し合うものである。それは何処迄も憎しみである。愛は生命の自覚的出現として純一である、併しそれを実現する身体は形成的として過去を背負うものである。われわれが母の胎内に於て最初に現れるのは水棲動物の形態の残痕であると言われる。それから両棲類の形をもち、哺乳類の形となり、生れたときは類人猿に似ると言われる。生命発生より人類が辿ってきた発展の系譜を全部体現すると言われる。身体が斯る系譜を内蔵するとき、情動は無限の過去の熔炉としてあると言わなければならない。愛が自覚的形成の情緒であるとは、斯る混沌の光被として出現したということである。それは過去を内容として形相を転換することである。本能は理性に照して混沌である。本能を新たな光りに照し出すことなくして愛の内容はない、内容のないものは何ものでもない、実現する愛とは対立するもの、憎しみ合うものの形を転ずるものである。

生命は一々が完結的である、完結とは外と内とが対立しつつであるということであ る。蛙の形は内外相互転換的に見出して来た時空を包む形である。道元は魚を以水為命と言い、鳥を以空為命という。そこは生きるものの自らなし来ったものである、内外相互転換の生命の表出が情緒である、情緒は身体の営みの表れである、犬の情緒は犬の生の表れである。その表れをなくしたとき、犬は死せるものとして犬ではなくなっているのである。乳幼児が類人猿に似た形をもつということは乳幼児は尚類人猿に似た情緒に生きるということである、本能的ということである。乳幼児の生命の完結は肉親との関りということである、肉親の情緒に生きるのである人間のみがもつと言われる言語中枢は遺伝であろう、併し言語は遺伝ではない、学習である。成長するとは学ぶことである、学ぶとは個として生死するこの我を超えた形相を我の内容とすることである、理性的となることである、秩序を学ぶのである、技術的構成的となるのである。ここに自覚的形成が本能に対して光被となる所以があるのである、自覚的となるとは本能的なるものが秩序的構成的となることである、本能的行動をより大なる生命形相に組織するのが自覚的形成である。

学ぶことが技術的構成的であることは最早遺伝的伝達を超えたということである。学ぶ者に対して教えるものがあるということである。本能の本に築かれたものとして、言葉そのものが生の形態として最初それは肉親が担う、併しそれはやがて生産体系としての技術に長じた者が師とし教えるものとなるのである。そこに肉親を超えた社会人としての我の確立を見るのである。そこに師弟愛が生れる、それは技術に生きるものとして世界を内にもつものとしての意志実現であり、世界を介して結ぶ愛である。技術は世界の自己形成として無限に深い、それを学ぶことは努力であり、苦痛である。師の愛は習得せしめんが為に叱る愛となり、鞭打つ愛となるのである。学ぶものの愛は師の中に潜められた世界の深さへの尊敬の情となるのである。世界を内にもつものとして、人格として、意志として愛するものとなるのである。私はここにより大なる生命としての愛の発現があるとおもう、愛するものとしての愛の深化があるとおもう。人格愛に於て愛は本来の相を現わすのであ る。肉親の愛も人格愛となることによって愛を完成するのである。それは親の子、子の親 でありつつ世界を内にもつものとして世界形成的な対話をもつものとなるのである。

神は万物を愛によって創ったと言われる。愛によって創ったとは如何なることであろう か、私はそこに万物の一々が宇宙を映すことによってあるということが言えるとおもう。全てあるものは対立するものとしてあるのであり、対立するものは否定し合うものとしてあるのである、否定し合うとは対手の形を変革するものである。変革するとは新たな形が生れることである。新たな形が生れることが宇宙の形成作用である、対立するものが変革し合うことは、対立するものが互に相手を映し合うことである。互に他を自己の内容とすることによって密度高い形が生れるのである。密度高いとは秩序をもつということである。生命の世界に於ては生存競争による新たな機能の獲得をもつ、新たな機能をもつとはより大なる行動力をもつことである、そこにより大なる時間・空間が生れる。それが宇宙が自己の中に自己を見ることであり、宇宙の創造である。われわれは機能をもつもの、行動するものとして常に内と外はこの我に消え、この我より出ずるのである。そこに我は宇宙を映し、宇宙は我を映すのである。一瞬一瞬は我をあらしめるものと一体である。斯る生命がわれわれに於て自覚的である。それは宇宙的生命の自覚が我の自覚であり、我の自覚が宇宙的生命の自覚である、われわれはそこに宇宙の無限の時間に生きる自己を知るのである、そこに大きなる愛に抱かれた感情をもつのである。斯る感情は何処迄も我と汝の対立として作られたものとして、我は汝に感じ、汝は我に感じるのである。更に我と汝をあらしめたものとして全人類に感じ、人類をあらしめたものとして全生命に感じ、生命をあらしめたものとして全宇宙に感じるのである。

みみずの宇宙はその行動の及ぶところの、感覚の受容する範囲である。その感覚の受け取ったものが宇宙の様相である、それはわれわれ人間の多様より言えば言うに足りないも のである。併しそれによって他を変じ、自己を変じてゆくのは宇宙の自己形成としてあるのである。みみずの形態は宇宙の自己形成の一つの完結としてあるのである。それはわれわれの身体が宇宙の一つの完結であるのと同じである。みみずは勿論その解剖的結果から 押して愛の感情を持たないであろう、併しわれわれ人間は自己の中に大なる時間・空間の 完結に感じる神の愛より押して、みみずの持つ宇宙の完結に神の愛を見るのである。西洋の人は天なる星と、内なる道徳律という、天の整正と、我の整正、そこに万物を作った神の愛を知るのである。

我と汝の対立が一として宇宙的生命の自覚的形成があるとは、この我、汝の一々が宇宙に対応するということでなければならない。対応するとは全宇宙が自己に現れるということである。宇宙の自覚はこの我の自覚にあるということである、ここに自愛が生れる、われわれは宇宙的生命の表れとして自己を尊敬するのである。断る表れは対立するものとして、汝を我に映し、我を汝に映すことによってあるものとして、同時に汝を我の成立の根底として愛するということでなければならない。それは何処迄も宇宙が宇宙自身を見るものとして同時である、併し対立するものとしてこの我より見るとき、汝によって我を見るものとして汝への愛がより根底となるのでなければならない。道元は利他を先とすべしという。この我の生命の成立は宇宙が自己を見るところにあり、この我は宇宙的生命の内容として他者を根底にもつところに利他を先とすべしという命題は現れるのであるとおもう。利他を先にすべしとはこの我の利益が失われることではない。汝はこの我の利益を先とするのである、愛に於て相互が自己を捨てて自己の根底に還るのである、そこに世界が実現するのである、世界が世界を見るのである。宇宙的生命は人類に於て世界として実現するのである。われわれはそこに神の愛を知るのである。

長谷川利春 「自覚的形成」

想像

 私は自分を省るとき絶えず何かを想像しているのに気が付く。併し想像とは何かと問うとき、自明のものと思っていたのが意外に茫漠としているようである。広辞苑を開くと、そうぞう〔想像〕①〔韓非子解老編〕 実際に経験していないことを、こうではないかとおしはかること、「ーを逞しくする」②現実の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を心に浮べること。と書いてある。これだけでは説明として不十分な気がする。経験していないことをどうしてこうではないかとおしはかることが出来るのか、現実の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を如何にして心に浮べることが出来るか、更に岩波哲学辞典を開くと種々の学説を列記した上、ビントの考えが比較的正確に心理的事実を捉えているようであるからとして以下の如く説いている。想像は「心像に於てする思考」で、想像活動は統覚の綜合及び分析作用の一の場合であり、本質に於て悟性活動と同じ。想像活動の動機は現実の経験或は現実に近い複合経験を作り出すにある。初め種々の表象要素及び感情要素から成立し、過去の経験の一般内容を含んでいる多少包括的な全体表象が時間・空間的に結合している多数の一定の複合体に継続的に分析せられ、最後に亦全体表象として全体が漠然意識に浮ぶ。想像活動には発達上、所動的及び能動的の二段階がある。前者は比較的動的注意状態の下に受動的の予想を主とし原印象のままに想像作用を活動せしめる場合、後者は、一定の目的、表象に従い能動的注意状態の下に表象結合に対して意志的の禁止及び撰択が著しく現われる場合である。と書かれている。これに於て私達はいささか鮮明な像をもち得るようである。以下両辞典を参考にしながら私の考究を加えてゆきたいとおもう。

 初め種々の表象要素及び感情要素より成立するとは如何なることであろうか、私はそこに人間の自覚ということがあるとおもう、生命は内外相互転換的に形成的である。環境を外として、食物を摂ることによって身体を形作り、老廃物を排出することによって自己を維持してゆくのである、自覚的とは斯る内外の転換が技術的となったことである。自然も技術的である。併し自然の技術は食物としての外を捕獲し、身体に化せしめる技術であった。それが自覚的であるとは身体の機構に擬えて外を変革することである、手の延長として外を道具と化し、脚の延長として車を作り、目の延長として望遠鏡を作ることである、斯る技術は経験の蓄積より来るのである。われわれの行為はその根源を生死にもつ、蓄積とはより大なる生を形成することである。それは一々の瞬間の行為を超えて瞬間を包むものをもったということである。内外相互転換は一瞬一瞬である、身体は斯る一瞬一瞬を内に包み統一するものとして形作って来た、瞬間を包むものをもつとは身体の斯る深奥が形をもったということである。形成作用として形は一瞬一瞬の内外相互転換としての営為を自己実現の手段としてもつのである。手段としてもつとはより高次なる生命が自己実現的にはたらくところに内外相互があるということである。蓄積は斯る高次なる生命が自己を実現してゆく形相としてあるのである。斯る高次なる生命の内容として、一瞬一瞬は外の方向に表象要素となり、内の方向に感情要素となるのである。一瞬一瞬は生死の転換として独自の表象と感情をもつのである。斯る表象・感情要素に対して高次なる生命は全体表象となるのである。それは要素がそれに於てあるものとして世界表象・宇宙表象の意味をもつものである。

 私は想像はそこより生れるとおもう、前にも述べた如くわれわれの行為の根源には生死がある。そして表象・感情はその根源を行為にもつのである。根源に生死があるとは、高次なる生命は生死に於て自己を形成し、実現してゆく生命であることである。内外相互転換とは内の方向に生を見、外の方向に死を見る生死の転換である。形成作用とは内を外に映し、外を内に映す無限のはたらきである、それは死を生に転ずるはたらきである、外としての食物の欠乏は死を意味する、それを道具をもって獲得し、栽培は飼養することによって充足するのが内外相互転換である。表象は外を内によって変革し形象化したということである。一瞬一瞬の無限の内外相互転換とは作られたものが作るものとなり、作るものが作られたものとなることである。挺子がその力の感覚に於てころと結合し、車の使用が畜力と結合するのも作られたものが作るものとしての内面的発展をもったということである。車と牛馬は別々の表象である、それが運搬という目的によって結合するのである、それは或は偶然であったかも知れない。併し一度それが結合するとき、生命は自己形成として新たな力を求めそれと結合せんとするのである。作られたものとしての車と牛馬の結合表象が作るものとして新たな力の結合を求めるのである。水の力が、火の力が新しい力として世界形成へ参加を求められるのである。私はそこにわれわれの想像が生れるのであるとおもう。ゲーテはバラの花を見ている内に花びらの中より花びらが湧き出て部屋が花びらで埋まったという。内が外を映し、外が内を映す無限の過程に於て内に蓄積された表象が一つの目的に向って結集するのである。記憶の表象が湧き出て参加するのである。そ の中から目的に合うものが撰択され、構成されて一つの形象が作り出されるのである。

 生命は内外相互転換である、それに対して想像は内的表象の展開である、そこに外としての具体性はかくされて極小の意味をもつ、内外相互転換は対立否定としての転換である。それに対して想像は対立否定の意味が極小となるのである。それだけに抵抗をもたない想像の形象は自由であり、飛躍的である。私はそこに世界形成の発展の一因由があるとおもう。物への検証が極小にされているといっても表象はもと経験の内容である。それが映し映されることによって主体的表象として凝結したものである、それは形成的世界を離れるものではない、物の残影を宿すものである。物に実現されることを予期するものである。自由とか飛躍とかいうのは世界形成を内的表象に於て拡大することである、私はここに想像の世界形成に於ける先導性があるとおもう、内と外とが相互否定的緊張であるとは内は内の世界を構成し、外は外の世界を構成するということである、身体と物は各々独自の体系をもつということである。それが否定的に一として世界は自己を露わにしてゆくということである。生命は世界を生命の形相たらしめんとし、物は世界を物の形相たらしめんとする、併しその何れに於ても内外相互転換としての世界形成はあり得ない、そこに否定的一としての世界形成はあるのである。想像は内的方向の極限として私は想像なくして世界形成はあり得ないとおもう。物質はその固定性に於て物質である、想像が物質性を極小にするとはその固定性を極小にすることである、自由とか飛躍とは変革である、新しい形はそ こから生れるのである。而して内外相互転換的に形成的であるとは常に新しい形が生れることである、そこに想像があるのである。

 斯るものとして想像は世界が世界を見るところより生れるとおもう。想像はこのわれがする、併し想像としての表象の結合は世界の形成的操作にあるのである。表象そのものが世界の具現としてあるのである、表象が生れるには表現的行為がなければ ない、表現的行為があるためには技術がなければならない、技術は一人の力より生れることは出来ない、多くの人の力の組織より生れたのである。このわれは斯る世界の中に於て汝に対するものとしてこのわれである。斯るものとしてこの我より生れる形象は世界は如何にあるべきかであり、世界を作るものとして我と汝は如何にあるべきかであり、世界に於ける我の地位は如何にあるべきかである。ビントは想像に能動と所動があるという、私はそこに上記の如く積極的な世界形成の肯定的方向に対して否定的な方向を見ることが出来るとおもう。肯定的な方向が生に向うに対して否定的な方向は死に向うのである。環境汚染、原子力破壊、更に死後の在り方などに向うのである。言う如く死には展開がない、そこには原印象の活動あるのみである。併しての想像は両方向であって離れたものではない。生命は生死に於て生命である、所動的想像あって能動的想像はあるのであり、能動的想像あって所動的想像はあるのである。希望をもつが故に悲観をもつのである。更に私は原印象の活動の中に唯一者への思索に至る萌芽があるのではないかとおもう。死への想像は生への希求を背後にもつのである、絶対の死を見ることは絶対の生を見んとすることである。そこに生死を超えて、生死を自己の影とする絶対者への回心が生れるのである。生あって死が 死があって生がある全体者に帰一するのである。私は所動的想像はその入口に立つものであり、その延長線上に斯る信の世界があるのではないかとおもう。

 想像はこの我がする、併しての我がもつ表象の結集は一々のこの我を超えたものである、表象の蓄積は限りない人類の蓄積である。われわれは斯る蓄積を歴史的形成としてもつ、表象は歴史的世界に於て蓄積され、われわれは歴史的世界の形成要素として表象をもつのである、そこに想像は世界が世界を見る所以があるのである。われわれが想像するとは歴史的世界の形成要素として想像するのである。形成要素として想像するとは、想像は歴史的世界の自己形成としてあるということである。われわれが形成要素となるとは一つの核となることである。世界の中心としてこのわれが映した外としての表象が現在の目的に結集して世界表象を構成することである。この現在の目的は世界と我との接点に於て世界がもつ現在の歴史的課題よりわれに要請してくるのである、能動的にまれ所動的にまれ想像も亦ここより来るのである。歴史は常に危機としてある、内外相互転換は生死相接するところであり、歴史はその深奥に危機をもち、危機によって動いてゆくのである。想像の最も激しくはたらくところはこの歴史的危機に面するところである。

 この我が世界の核となるとはこの我が全存在としての世界の初めと終りを結ぶものを映すということである、この我が見ることによって世界があることである。而してこの我は汝に対すことによってあるのである、対話によってあるのである。対話とは斯る世界と世界が己れの実現を目指して対することである。故に対話は内に世界をもつものによってあり得るのである、われわれが言う世界とは斯る世界と世界の無数の対話の場所である。世界は無数の小世界を内包することによって、その対話に於て動転してゆくのである。想像はこの対話に於て他者を自己とし、自己を他者とし、他者より歪められ或は他者に展開するより来るのである。世界と世界が無限に対することによって世界がある故にわれわれは希望と挫折をもつのである。世界は一々が世界を内包するものをもつことによって世界である単一なる形象は世界でも何でもない、百化斉放、百鳥争鳴が世界の形象である。一々の小世界が世界を実現せんとするところに全世界があるのである、その小世界の世界形成的意志に於てわれわれの想像があるのであり、世界が世界を見る所以があるのである。

長谷川利春

一即多

 生命は無限に動的である、動的とは内に否定をもつことである、矛盾として対立するものをもつことである。対立するものが何処迄も相互否定的なることによって動いてゆくのである。私は斯く内に対立を孕んで無限に動いてゆく生命は一即多、多即一とし自己を限定してゆくのであるとおもう。一は多ならざるものであり、多は一ならざるものである。 それは絶対に相反するものである。斯る相反するものに於て生命形成はあるのであるとおもう。生命は身体的に自己を形成する、私は一即多、多即一の直証を身体に見ることが出来るとおもう。

身体は内外相互転換的に形成的である、内外相互転換的とは外を内に換えることである、外を食物としてそれを摂ることによって身体と化せしめることである、転換による摂取と排泄に於て形作ってゆくのである。

生命は物質より出来たと言われる。そして地球上に存在する物質の量に比例する組成をもつと言われる、われわれの内外相互転換とは、身体は自己を組成するものを外として内外相互転換をするのである、私は生命は斯るものとしてその形成を求めるには先ず物質を 探らなければならないとおもう。

 物理学者によればわが天体とする光り輝く無数の恒星は宇宙の物質の十分の一を占めるのみであり、十分の九は目に見えない微粒子であると言われる。その微粒子が何かの契機で集合を初め、そのエネルギーで灼熱し、光明を放つのが恒星であると言われる。宇宙に遍満し構成する微粒子とは如何なるものであろうか、遍満し構成するものは一々が他者と関り合うものでなければならない、関り合うとは他を限定すると共に、他によって限定されるものでなければならない。関係するものとは相互限定的に一なるものでなければならない、相互限定的に一であるとは、関り合うものは個物として相互限定的に自己を実現するものでなければならない。関係することによって実現するものとして、個物の限定は世界の実現であり、世界を実現するものとして個物の一々は世界の中心の意味をもつのである。遍満する微粒子は一々が宇宙の中心として宇宙を映すところに全宇宙はあるのである、そのことは一々の微粒子はその関り合いに於て全宇宙の内容となることである。一々の微粒子が宇宙を映すということが宇宙が自己を形成してゆくことである。

 生命は斯る物質の発展として、相互否定の自己実現を代謝作用にもったものである。絶えざる食物の身体への変換に於て自己を維持してゆくものである。斯る食物は身体への変換可能なものとして組成を等しくするものであり、その最も直接なものとしての他の生命である。即ち生命の食物連鎖として生命は内外相互転換を行うのである。而して前にも書いた如く、生命はその発生に於て地表の物質の組成を模するのである、その地域の生命は地域の組成を模するのである。摂食によって生命形成をもつとは食物によって形作られることである、食物によって作られるとはわれわれの生命形成は外を映すということである。食物としての他の生命は我ならざるもの、他者として我に対立するものである。他の個的生命としてそれに遭遇することは偶然であり、その獲得は努力である。山野を駆けめぐり、水中に潜らなければならないのである。そこから身体の形は生れてくるのである。宇宙の一つとして地表はあり、生命は地表を映し、食物連鎖として生命が生命を映すところに身 体があるとは、身体は宇宙の凝縮としてあるということである。宇宙の凝縮としてあると は、宇宙が自己の形として身体に見出したということである。身体は行動することによっ て宇宙を実現してゆくということである。斯る形成に於て外は無限の多となるのである。 而して転換に於て無限の多は身体として一なるのである。併しそれはまだ真に一即多、多 即一と言うことは出来ないとおもう、食物連鎖の食物獲得だけでは宇宙の内容ではあって も、宇宙を内にもつということが出来ないからである。

 私は真に一即多、多即一となるためには人間の自覚に俟たなければならないとおもう。自覚とは自己の中に自己を見ゆくことである、自己の中に自己を見るとは内外相互転換としての生命の営為を更に映すことである、それが経験の蓄積である。経験の蓄積とは一瞬一瞬の内外相互転換を統一し構成することである、それが製作である、製作に於て外が物となり内が主体となるのである。一瞬一瞬の統一に於て時間が成立し、製作としての形の出現に於て空間が成立するのである。時間の成立は空間の拡大であり、空間の拡大は時間の成立である。時間・空間の成立は世界の成立である。私達が原始生物の世界という場合 にも断る意識を投影しているのである。

 製作として物に形を見てゆく世界は最早食物的環境として、この我が身体の欲求充足に生きる世界ではない、表現に生きる世界である。表現に生きるとは、この我がそれによってあるものを表わすことである、この我は宇宙が無限に宇宙の中に映すことによって出現 したものであった、その自己の身体中にある宇宙を映し出すことである。物はわれわれに有用なものである。その限りに於て欲求充足的である。併しそれは与えられたものが、与えられたものを超えて見出したものである。もともと欲求的生命自身が、宇宙が内外相互転換的として宇宙の中に宇宙を見るものであった。それが外に形をもったということは、更にそれを超えて自己の中に自己を映したということである。食物的環境に於ての内外相互転換の転換のはたらき自身が自己を見るのである、自己の中に自己を見るとは見るものを見ることである。そこに製作としての物の形は宇宙の表現の意味をもつのである。最も深くはたらくものが形にあらわれたということである。

 製作とは宇宙が宇宙を映すところより生れ来ったのである、人類はそれを担うのである、人類が物を作るということは宇宙が宇宙の中に宇宙を見ることである。経験の蓄積として製作があり、そこから物の形が生れるということは宇宙が自己を実現したということである。そして宇宙はそれを人間が手や言葉をもつものとして実現したのである。表現としての製作は人類が内なるものを表わすのであり、人類は宇宙が内なるものを現わしたものである、断るものとして表現は何処迄も宇宙の内に入ってゆくものであると共に、製作するものとして人間は我と汝が映し合うものとなるのである、我と汝が映し合うとは、人類は最も深い宇宙の姿として、宇宙が宇宙の中に宇宙を見るということである。宇宙の実現者としてわれわれは全存在の一を自己に見るのである。

 映し合うことによってあるとはその一々が全存在であるということである。それは相互補足的なのではない、相互補足的なるところに映し合うということはない、全体の部分なのではない、全体の部分であるところに映し合うということはない、而してそれは同一と いうことではない、同一なるところにも映し合うということはない。一々の個が宇宙としての自己を表現したものとして形相を異にしつつ、宇宙がそこに自己を見たものとして全一である。製作するものも、製作されたものもそこに一々が完結をもつのである。完結をもつとは全一者の実現であるということである。最初に微塵の一々が宇宙の中心であると書いた、中心として個は一々が宇宙を映すのである、個の一々が宇宙を映すところに宇宙はあるのである。我と汝も個として宇宙を映し合うのである。映し合うところに宇宙は現前するのである。

 我と汝が映し合うところは言葉である、言葉を作った人はないと言われる、言葉は我と汝が世界形成的に出会うところより生れるのである。而して誰の言葉でもない言葉はない、私の言葉を他者は語ることが出来ない、常に語る人その人の言葉である。ということは我も汝も言葉も形成的世界に於て出会うというところにあるのでなければならない。宇宙が自己の中に自己を見てゆくというところにあるのでなければならない、そこに自分の言葉は他者が語ることが出来ないということは、宇宙はこの我に映されるのであり、この我に映すことなくして宇宙はないということでなければならない、而してそれは対話に於て映し映されるところに現前するのである。対話のないところに我の言葉も汝の言葉もない、対話に於て宇宙が現前し、我と汝が現前するということは宇宙が全一者として自己の中に自己を見るということである。

 我の言葉を他者が語ることが出来ないということは、我と汝は対立するものであるということである、言葉を作った人がないとは、言葉は生命発生以来の無限の形成の結果としてあるということである。無数の人が呼び応えることによって作ったということである。釈迦もソクラテスもその中に現われた一人ということである、われわれもその中の一人として言葉をもつのである。その中の一人として言葉をもつことによって世界を内にもつものとなるのである。世界を超えて世界を包むものとなるのである、そこに対話として映し映されるのである。映し映されるものは全てが世界の中にありつつ、世界を超えて世界を包むものとして世界は自己を形成してゆくのである。この我に現れた以外に世界はない、そこに独我論の出で来る所以があると共に、この世界は対話によってあるのである。斯かるものとして自己が世界を包み、世界を内に見るというところに唯一者があり、自己が世界の中の一人というに多を見るのであるとおもう、このわれがあるということは一即多、多即一としてあるということなのである、そしてそれが映し映されるものとして世界の存在の形なのである。そこにわれわれは自己を転ずるのである。一々の行履は宇宙が創世以来自己の中に自己を見て来たものとして確固不抜の自己を見ると共に、宇宙の動転の一塵として一朝の露命のはかなさを嘆くものとなるのである。そして一瞬一瞬の営為の織りなす生命の風光に神の姿を見、その充足に生きるものとなるのである。

長谷川利春「自覚的形成」

人格

 人格とは他の動植物に対する人間の生命の位置付けである。私は斯る位置付けを人間生命の自覚性に求めたいとおもう、自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは、自己の中に世界をもつことである、生命は内外相互転換的に自己形成的である、外を内とし、内を外とすることによって自己を実現してゆくのである。外を食物として、食物を身体に化してゆくのが生を営むということである、それが自覚的となるとは内によって外を作るということである 食物を摂取することに作られた身体によって外を作ることである。もともと内外相互転換とは内が外を映し、外が内を映すことであった、人間生命はそれが自覚的となったのである。内外相互転換としての生命が自己の中に自己を見たのである。無自覚としての生命に於ては相互転換が直接的であり、同一的であった。それが自覚的生命に於て否定的に対立するものとなったのである。外が物として、内が身体として否定を媒介して形成するものとなるのである。否定を媒介として形成するものとなるとは映し合うものとなることである。物は身体を映し、身体は物を映すものとなることである、食物は身体ならざるものであり、摂取に於て身体に化するものである。それをより容易に獲得し、より勝れた機能の身体に化せしめるのが物が身体を映すということである、環境適応的であった身体を、環境を身体に適応せしめるのである、外は身体に与えられたものではなくして身体が自己の延長として作るものとなるのである。内外相互転換が身体に直接なるものは未だ物ではない、製作に於て外は物となるのである。

 内外相互転換として、外を食物とする生命は欲求的である、欲求的であるとは内と外と が対立することである、我ならざるものを我となさんことが欲求である、そこに内外相互転換があるのである、そこにわれわれは身体を形作ってゆくのである。欲求やそれの充足としての行動は身体の形成のはたらきとしてあるのである、内外相互転換的に形成するとは、形成された身体は内外の統一としてあるということである。内外の統一としてあるということは、身体の形成は内にあるのでもなければ外にあるのでもない、内外相互転換的に自己を見てゆくものの自己形成としてあるということである。自覚とは自己の中に自己を見るものとして、この統一としての内外一なるものが露わとなってゆくことである。そこに製作があるのである、製作は一瞬一瞬の内外相互転換の蓄積が見出した形である、無限の経験が現在の行為にはたらくときに製作があるのである。製作は転換として内外相分れたものが一つとなることである、それは前に身体に直接なるものは未だ物ではないと言った如く初めから分れていたのではない、製作的生命として内外分れると共に一になるも のとなったのである。

 内外一なるものは物でもなければ我でもない、私はそれを宇宙的生命と言い、物を作ることによって見出してゆくのを世界と言うのである。

 生命が内外相互転換であり、物の製作が内外の統一であり、物の製作によってわれわれが自覚をもつとき、われわれの自覚は宇宙的生命の自覚と言わなければならない、宇宙的生命の自覚を映し、分有することによってあると言わなければならない。人間は手と言葉をもつことによって製作的生命となったと言われる、手と言語中枢は人間が作ったのではない、創世以来の生命の大なる形成の流れの中より出で来ったのである、生命が生命の中 に見出でた生命として現われたのである。

 斯る宇宙的自覚は宇宙がその唯一性に於て負うのではない、一人一人の人間がもつのである。内外相互転換は個個の生命が負うのである。個々の生命が欲求的自己として外を内に転換し、内を外に転換することによって自己を形成してゆくのである、それは無数の個として形成してゆくのである。単なる個は何ものでもない、言葉は対話としてあるのである、我と汝が対立するものとして一つの世界を形成するものである。対立するものとして一つの世界を形成するとは、我と汝はこの形成的世界に於て自己を見るということである。私は経験の蓄積も斯るところに於てもつとおもう、経験の蓄積としての記憶をわれわれは言葉にもつ、それは我と汝の対話に於てもつということである。物の出現に於て我と汝はあり、我と汝に於て物の出現はあるのである。そこに世界が出現するのである。対話とは世界がそこに実現するのであり、そこより我と汝が現われるとは、我と汝は世界を映すものとしてあるということである。世界を映すとは世界を我の内に在らしめることである。而して世界を内に在らしめることによって我と汝は対話をもつのである、我と汝が対話するとは我と汝が映した世界が異なるということである、我の映した世界以外に我に世界はなく、汝の映した世界以外に汝に世界はない、それが世界の形成であるとは対話とは世界実現の闘争である。我が世界を映すとはこの我の個をとうして世界を実現せんとすることである、世界実現的に世界を映したこの我が人格である。

 この我と汝は対立するものであり、対話するとは一なることである。対立するものが一であるとは、各々己が世界を実現せんとすることである。世界実現的に争うということである、斯く争うということは生命としての身体は個々として無限の陰影をもつということである。自覚的生命は直接的な本能性を超えるといっても食わずに居れるということではない、生命の中に生命を映すとはそれを包んでそれをより瞭らかにすることであって消えてなくなることではない、秩序に於てより大なる形をもつということである。食物は外としてならざるもの偶然としてあるものである、生存を至上命令とする生命の維持に我と争わなければならないものである。製作は偶然を必然ならしめるものとして、より大なる生命の形に向しめるものである、それが食糧の増大である。食糧の生産にはさまざまの技術が必要である、斯る技術は与えられた自然としての内外相互転換の条件を克服するということである、与えられた条件を克服するということは今迄以上の力が必要ということである、そこに多数の人の集合が要請されるのである、集団として多数の者が一つの力となるのである、多数の人が一つの力となるには統率者がなければならない、指揮するものと随従するものがなければならない。外の変革には内の組織が必要である、斯くして外の変革に向う内の組織に言葉が生れるのである。併しそれはまだ人格と言えるものではなかった、統率者は天の動きを見、地の動きを見、人の動きを見た、それは宇宙を映し、世界を映すものであった。併しそこには命令があって対話がなかった、人格の萌芽であって未だ実現ではなかったのである。

 自然を克服する集団の力は生産の大をもたらし、生産の増大は人口の増大をもたらした。それは更に大なる生産を要求するものであり、天変地異による災害をより悲惨ならしめるものである。それは集団と集団を闘争に赴かしめるものである。闘争は生死を賭けるものとして新たな技術を生み、勝者は敗者をれい属せしめることによって大なる地域を占有するものであった。そして新たな技術は多くの職能を生み、大なる地域は生産品の需要に於て職能を深化させていったのである。私は職能の深化は人にさまざまの徳を与えたとおもう、それは製作によって物に自己を映し、自己に物を映すものとして、宇宙的自己の把握をもったということである。普遍的人間につながるものをもったということである。私は私達の少時迄保持していた職人気質をそこに見ることが出来るとおもう。併しそれは人と物との関りであって、人と人とに関るものではなかった、私は一人の意志が万人を制するところに真に人格の成立はないとおもう。一人の意志が普遍的人間につながるとき、それは神格であって人格というべきものではなかったとおもう。人格は人として人格と人格が対するものでなければならないとおもう、人格と人格とが対するとは、統率者とその周辺のみがもっていた宇宙的生命の把握を多くの人々がもつものとなることである、言葉と手に於て自己の中に世界をもち、自己の世界を行為的に展開するものとなることである、一人一人が言葉をもつものとして、世界を映し、世界に映されるものとして、互の世界を認なる生命の形に向しめるものである、それが食糧の増大である。食糧の生産にはさまざま の技術が必要である、斯る技術は与えられた自然としての内外相互転換の条件を克服するということである、与えられた条件を克服するということは今迄以上の力が必要ということである、そこに多数の人の集合が要請されるのである、集団として多数の者が一つの力 となるのである、多数の人が一つの力となるには統率者がなければならない、指揮するも のと随従するものがなければならない。外の変革には内の組織が必要である、斯くして外 の変革に向う内の組織に言葉が生れるのである。併しそれはまだ人格と言えるものではな かった、統率者は天の動きを見、地の動きを見、人の動きを見た、それは宇宙を映し、世 界を映すものであった。併しそこには命令があって対話がなかった、人格の萌芽であって未だ実現ではなかったのである。

 自然を克服する集団の力は生産の大をもたらし、生産の増大は人口の増大をもたらした。それは更に大なる生産を要求するものであり、天変地異による災害をより悲惨ならしめるものである。それは集団と集団を闘争に赴かしめるものである。闘争は生死を賭けるものとして新たな技術を生み、勝者は敗者をれい属せしめることによって大なる地域を占有するものであった。そして新たな技術は多くの職能を生み、大なる地域は生産品の需要に於て職能を深化させていったのである。私は職能の深化は人にさまざまの徳を与えたとおもう、それは製作によって物に自己を映し、自己に物を映すものとして、宇宙的自己の把握をもったということである。普遍的人間につながるものをもったということである。私は私達の少時迄保持していた職人気質をそこに見ることが出来るとおもう。併しそれは人と物との関りであって、人と人とに関るものではなかった、私は一人の意志が万人を制するところに真に人格の成立はないとおもう。一人の意志が普遍的人間につながるとき、それは神格であって人格というべきものではなかったとおもう。人格は人として人格と人格が対するものでなければならないとおもう、人格と人格とが対するとは、統率者とその周辺のみがもっていた宇宙的生命の把握を多くの人々がもつものとなることである、言葉と手に於て自己の中に世界をもち、自己の世界を行為的に展開するものとなることである、一人一人が言葉をもつものとして、世界を映し、世界に映されるものとして、互の世界を認め合うものである。

 私は真に人格が成立するためには近代の産業革命がなければならなかったとおもう、産業革命は人間の労働を機械の生産に置き換えた、そしてそのことは専制君主より多くの 人民を解放することであった。人類は自然の暴威に一人の統率者による集合の力を必要としなくなったのである。分業による一人一人の能力こそ最大の力となったのである、さまざまの分野に個性が尊重されてきたのである。個々の分野に人々は創意をもち得たのである。勿論それは一挙になし得たのではない。機械生産には大なる投資が必要であった、それをなし得たのは支配階級であった。併し多くの人々は創意に於てそれを打破ってブルジ ョア階級を打樹てたのである。それは神権、王権に対する民権の確立であったとは多くの人の説くところである。それによって直に人権が普遍性を得たのではない、女工哀史は近々百年程以前のことであった。旧支配階級による主従関係が依然として続いたのである。これを打砕いたのは第二次世界大戦であったとおもう、私は人格形成の立場から見て、個性による世界形成への脱皮と今次大戦を位置づけたいとおもう。人類の全てが内在する能力を発揮すべくなったのである。宇宙的生命の個として世界を映し、世界に映すものとなったのである。

 人格は人格に対することによって人格であるとは対手の人格を認めることである、対手を人格として対することは我を人格とすることである、私は斯る意味に於て奴隷を認めた古代ギリシャの哲人や、帝王と民衆を是とした中国の古賢は人格というよりは神格と言うべきものであったとおもう、師の影三尺にして踏まずと言ったところには、教えはあっても対話はない、併し私はそのことは神格が人格より高いことではないとおもう。神格が内在的となったのが人格であるとおもう、内在的となるとは、言葉によって露わとなった天地の理法が人間の内なるものとしてはたらくものとなったということである。宇宙の創造を一人一人の人間が担うものとなったということである。言葉や製作として技術は本来斯るものであり、それが露わとなったということである。言葉が真に自己を露わにしない時に於ては人間は宇宙の内容であったのである。それが世界形成として逆に宇宙を内にもつものとなったのである。外に宇宙を見たことが神を見たことであり、内に宇宙を見ることが人格となったことである。全てのものは宇宙を映す、それが表現的にはたらくものとなったときに人格となり対話をもつのである。外を内として内が更に他となるの表現である。それは一々の人間が担うのである対話的に担うのである。

 胎児が形をもつ最初の時に八つ目鰻の斑点の如きものが現われると書いてあるのを読んだことがある。それは人類が未だ海中にいた時の鰓の跡だそうである、それから両棲類に似て来、哺乳類の形となり、出産の時は猿に似ているのだそうである。そして類人猿の歩行に似たる姿を経て人体となるのだそうである。私達が今この姿をもっているということは生命発生以来の全過程を体現した結果としてもつということであり、更に我々が学ぶということは、歴史的形成の全過程を内にもつことであるとおもう。われわれは意識下に魚類の、両棲類の、哺乳類の生命衝動をもち、原始人類の、縄文人の、弥生人の欲求を潜めるのであり、意識はその上に打樹てられたものである。生命は意識下と意識の綜合としてわれわれの行動はあるのである。意識は生命が自己の中に自己を見たものとしてその根源に情動を有するのである。自己の中に自己を見たとはそれを否定し、克服してきたことである。自己の中に自己を見るものとして否定し克服したとは、それが無くなったのではない、より大なる生命の内容としての機能をもったので、それが意識である、意識はより大なる時間・空間の意味をもつのである。意識としての形成が歴史的形成である、それは生物的進化しての生体的変化ではなくして、言葉による否定の努力である。身体をして言葉の内容たらしめる努力である、人格はそこに成立したのである。否定的形成として努力とは限りない克己である、克己とは生体的個としての形成的欲求を言語的普遍への形成へ転 換せしめることである、情動に理念の衣服を着せることである、肉体的形成ではなく、 界形成によろこびかなしみをもたせることである、世界形成としての汝との対話をものと なることである、他者を手段としてではなく、目的として対するところに人格はあると言われる所以である、手段とは他者を自己形成の内容とすることであり、目的とは共に宇宙形成の内容となることである。勿論生命が身体的形成である限り、共同社会を営むものと して相互手段的であるのは避けられないことである。相互手段的であるのが生きてゆくことである、それを目的とするとはお互が対手を利用してゆくことが世界の自己形成の内容となることである、自己を否定して自己も他者も世界の実現の内容とすることである、自己と他者が世界実現の内容となることが対話である、そこは他者に自己を見、自己に他者に映して自己があり、自己に映して他者があるのである、自己の存在の為に他者があるのではない、他者に生かされ、他者を生かして自己の存在があるのである、自己に映して他者があるのではない、過去・未来の無限の他者に映して自己はあるのである、われわれの生命の欲求としての無限の時間、無涯の空間は我より出ずるのではない、無限の他者に映しているということである、対話はそこより生れるのである、他者として互に無限の生命につながり合うところに対話はあるのである、そこに相互目的として人格となるのである。相互目的として手段は目的であり、目的は手段である、それは単にわれわれの意識が変ったというのみではない、手段はより大なる手段となったのである、無限の過去と無限の未来の陰影をもつものとなったのである。産業革命に人格の基盤を求める所以である。私は 産業革命以後の国家が多く正義・友愛・自由等を旗印に掲げ、建設の基本理念としたのもこれによるとおもう、人格と人格とが対話をもつ社会、そこに人格は真の自己を見、実現せんと望むのである。

 何処迄も生物的身体としての生命が他者に自己を見ることは絶えざる自己否定の努力が必要である、身体的充足は世界が自己に化すことである。食も性も自己の身体を中心に置き世界を転ぜんとする行為である、他者に自己を見るとはその根底に他者があるということである、欲求は世界や社会の中に於ての欲求であるということである。世界や社会なく して欲求は成り立たないということである。われわれの身体は生物的生命を超えて自覚的形成的生命となったということである、斯る自覚が自己否定としての努力をもつ生命である、このことはわれわれが自己否定の努力を失うとき、人はその人格性を失うということ である。身体的生命は絶えず自己充足を要求するのである、それを世界に転ずる努力に於 て人格性を保つのである、それは両者の闘争である、身体は肉体に於て絶えず利己ならんとし、言葉は絶えず利他ならんとするのである。肉体的欲求が優勢なるとき、言葉は肉体的欲求に従い、言葉の欲求が優勢なるとき、肉体は言葉の内容となるのである。それは手段と目的として、手段が目的であり、目的が手段である具体的世界に於て絶えざる対抗緊張である。斯る対抗緊張に於て人格は自己自身を見出でてゆくのである、それは生命形成の本源的形式である。目的が手段であり、手段が目的であるとは、目的は手段に自己を実現し、手段は目的によって自己を大ならしめるのである。個々の身体が自己の中に世界を見ることなくして世界はあり得ないのである。個としての身体が世界を包むということは世界を自己の意志の下におかんとすることである、斯る個的身体の根底にあるものは身体の充足的欲望である、それは反人格的なものである、手段は常に反人格的である。斯る自己が世界が世界を形成するところに見られるとするとき人格となるのである。神は反極に悪魔をもつことによって神となる、人格は神の内在である、何処迄も反人格的なものをもつことによって人格となるのである。私はキリストの原罪、親鸞の罪深重というのも斯かる人格の根源の自覚に於て成立したのであるとおもう。人格的に愈々深大となることは反人格的にも愈々深大となることである。斯る極はどうすることも出来ないものとして自己 放棄してそのままの受容に生きたところに成り立ったのであるとおもう。そのままの受容とは矛盾そのままを実在とすることである、闘うことそのままが根源的存在者の自己実現とすることである。そこに自己が摂取されることである。私は受容の世界に自己を放棄せず何処迄も世界実現的に克己に生きたところに人格があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

 諸悪莫作、衆善奉行という言葉がある。私達はより善き世の中を作り、そのためにより善き人であらんと欲する、善とは何かは古来人間行為の基本的価値の問題として幾多の人によって求められて来た。併し浅学なる私は私の内面の要求に真に応えるものをもっていないのに気付く。以下私は私なりに自分の内面に入ってゆきたいとおもう。

 我があるとは生命としてある、この我が生きてゆくところにある、斯かるものとしてわれわれの問いの第一は我とは何ぞやであり、生命とは何ぞやである。私は善とは何ぞやの問いも断る問いの中に於て問われなければならないとおもう。生命は物質より生れたと言われる、物質は無限大のエネルギーの爆発より出現したと言われる、エネルギーより物質が出現し、物質より生命が生れたというとき、エネルギーも、物質も、生命も不可知者である。エネルギーも、物質も、生命も現存在としてあると言わなければならない。勿論現存在としてあるとはこの一瞬の現実としてあることではない、変化することによって自己を維持するものとしてあるということである。移るものとしてあるということである。力とは対立をもつことである、エネルギーはそのもつ対立に於て遷移をもつのである。対立に於て遷移をもつとは、形は常に対立するものによって限定されるということである。

 生命は三十八億年前に出現したと言われる。生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として、食物を摂取して身体を作ってゆくのである。内外は相互転換的として相互否定的である。有機体は食物を有機体にもつ、求むべき対象は個体として自己維持を図るものである。それは抵抗をもち、それに出逢うのは偶然である。生命の否定は死を意味する、内外の相互否定は死をもって対するのである、死に面して生への転換を図る努力から生命は身体にさまざまの機能を創り出すのである。人類の祖先も単細胞動物の項に、同じ単細胞動物に幾億年か食われ続け甲殻をめぐらす身体をもったと言われる、それが現在の骨格の基礎になったと言われる。新しく甲殻をもった生命の出現ということは既成の生命から考えられないことである。私は遺伝ということからも考えられないとおもう。それが考えられるのは生死を超えて、生死に自己を見てゆくものが自己自身を限定してゆくと考えられなければならない、私は突然変異が生命のより基礎的なものであるとおもう。光エ ネルギーより物質へ、物質より生命へと変じた宇宙の存在者は量るべからざる変化をもつのであるとおもう。それが生命に於て内外相互転換的に形成的として出現したのである。内外相互転換的に形成的であるとは欲求的ということである。欲求は内外が対立することであり、対立することは相互否定的として闘争することである。而して個体は斯る闘争に於てより大なる形相を実現してゆくのである、より大なる形相とは生命がその一を実現することである、宇宙的一を実現することである。個的生命は身体的形成として何処迄も欲求的であり、闘争的である、闘争的とは形相実現的として普遍的生命の実現することである。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは自己の中に自己を見るものである、本来の相が露わになることである。私はそれを形の創造に見たいとおもう、個体が何処迄も闘争的であり、闘争が形相実現的であるとは、対立は形相実現的にあるのでなければならない。形の創造とは何処迄も否定的対立としての闘争の陰にかくれ 形相を表現的に露わにすることによって内面的発展をもたしめることである。そこに私は経験の蓄積があるとおもう、経験の蓄積とは一瞬の内外相互転換を把持し、現在の行為を時の統一の内容とすることである。昔の農暦は播種、施肥、収穫等の日を経験によって定めたものであった。そこに内外は対立するものではなくして一なるものとなるのである。外は偶然的存在ではなくして内を宿すものとして必然となるのである、人と人とは闘うものではなくして協調するものとなるのである。より大なる生産の為に集合するものとなるのである。本来の相が露わとなるとは対立の根底の一が具現することであり、そこに生命の自覚があるのである。

 善への意志は私はここに生れるとおもう。自覚は経験の蓄積として一挙に現われるのではない、外を必然たらしめるとは外を変革することである。それは額に汗して働く努力で ある。力の表出は外を内とすることである、外を内ならしめるとは、自己の内にもつ力により食糧を多大ならしめることであり、それはより大くの人類を養い得ることであり、内を大ならしめることである。斯る努力の繰り返しの中に現在を未来に投影し希望をもつものとなるのである。私は希望をもつとは本来の自己を更に一歩踏み込んで露わにしたものであるとおもう。生命に具現した宇宙的生命は文に大なる形相を実現したのであり、更に大なる発展を内在せしめたのであるとおもう、善への意志は斯る希望がその形相を実現せしめんとするにあるとおもう。私はそこに善とは何かがあるとおもう、それは全身を挙げて宇宙的生命の形成に努力することである。この我は個体として無数の個体に対するものである、我は汝に対することによって我である、汝は亦我に対することによって汝である、汝に対することによって我であり、我に対することによって汝である個が全身を挙げて宇宙的生命の実現に努力するとは、宇宙的生命は我と汝が対するということでなければならない。個体の一々は宇宙的生命を担うものであり、対するということは宇宙的生命が実現したということでなければならない。一々の生命が宇宙を映す、それ以外に宇宙があるのではない、もしそれ以外に宇宙があるのであれば個が宇宙的生命の実現に全身を挙げるということはあり得ない筈である。而してそれが我と汝の対話によって実現するとは、宇宙的生命は我にあるのでもなければ汝にあるのでもない、宇宙が宇宙を見てゆくところにあるのでなければならない。個が全であり、全が個である、一即多であり、多即一である、そこに形成があり、形成は常に矛盾の自己同一である。私はそこに善への意志がある とおもう、そこは自己形成が世界形成であるところである。そこに善の直覚が生れるのであるとおもう。それは対話の底から、世界の底からこの我の自己実現として命令するものである。私はカントの無条件命令の声は宇宙創生以来の大なる形成の継承として捉えたいとおもう。良心の声は斯る形成に即するのであるとおもう、良心の声はそれによって自己がある世界形成の声である。

 善は反極に悪をもつことによって善である、単なる善というのがあるのではない、善は は悪に対することによって善である。善に対する悪とは如何なるものであろうか、私は善が世界形成から考えられる以上、悪も亦世界形成から考えられなければならないとおもう、世界形成に於て相対するのである。私達は世界を言葉によって見出す、人間が言葉をもつのは言語中枢をもつということである。言語中枢は人間のみにあると言われる、人間のみにあり、人間を万物の霊長とすることは、言葉は生命の発展の究極としてあるということである。生命は機能の複雑化とその統一として進化してゆく、後より現われたものはより大なる時間・空間の統一者として、その統轄は過去に形成された機能を従属せしめるものである、言葉は言葉によって全機能を指示するものとなるのである。言葉は己れの純なる形相を全機能に於て現前せんとするのである。 宇宙的一の形相たらしめんとするのである。それに対して従前の機能は身体的に個体保存的であり、種族保存的である。斯くして身体は二重構造的でありつつ行動的一である。二重構造でありつつ一であるとは如何にして考えられるのであるか、私はそこに個体保存的、種族保存的なものが自己の中に自己を見たところに言葉があるとおもう、自己の中に自己を見るとはより大なる空間、より大なる時間をもつものに転態したのである。言葉の内容となるとは個体保存的、種族保存的なものがなくなったのではない、より大なる力を獲得したのである。物の製作はより優れた個体、種族の具現としてあるのである。二重構造は斯るものとしてあるのである、何処迄も生命 は個体的としてこの我に見る方向と、世界の自己形成として見る方向である、それが動的 に一なるのが生命形成である。而して言葉はこれを分つものとして言葉である、分つものとして一方に世界を見、一方に自己を見るところに自覚があるのである。より大なる時間空間は分離と統一より生れるのである。分離と統一より生れるものとして、何れもそれは根源的である。この我や汝の個なくして世界はないと共に、世界なくしてこの我はない、ここに私達は個に執し、世界に執する所以があるとおもう。何れかを軸としてわれわれは行為をもつのである。そこに善と悪が生れるのであるとおもう、世界の自己形成に副うのが善であり、背くのが悪であるとおもう。

 世界は対話的形成であり、対話は我と汝である、我と汝が対話するとは、我は汝ならざるもの、汝は我ならざるものとして対話するのである。それが世界形成的であるとは、我は我の中に世界を映し、汝は汝の中に世界を映すものとして対するということである。世界を映すとは世界形成としての技術と物を自己の内容とすることである、技術と物を所有することにより我は我となり、汝は汝となるのである。対話するとは技術と物の所有に於て対話するのである、世界形成とはより大なる技術、より豊富なる物を産むことである。それは技術の蓄積が技術を産み、物の蓄積が物を産むのである。技術と物とは相互形成的に生産を増大してゆくのである、われわれは世界を映すものとしてより大なる技術と物の所有を世界より要請されるのである。要請されるとは世界を表現せんとすることである。我と汝は世界を表現するものとしてその技術と物に於て蓄積を争うものとなるのである。斯る争いが世界の要請として機能せず、この我の実現の欲求としてはたらいたときに悪が生れるのである。争いは建設の争いではなくして破壊の争いとなるのである。世界形成に背くものとなるのである。争いが世界形成に収斂されるとき和となるのである。それが善と言われるものになるのである。

 斯るものとして善悪はものの表裏である、悪なくして善はない、善なくして悪はない、 自己は何処迄も自己を見てゆくものである。而して見出でた自己は悪である、それが善であるためには見出でた自己は常に捨ててゆかねばならないのである、形の実現は常に我に見出でた世界の形であり、世界を映した我である。それは我として世界ならざるものである。それは知慧の果実を食ったことによって背負わされた人間の原罪である。形の実現は我の実現である。われわれは表現に於て自己を見るのである。而してそれは自己が世界を映したものとして世界の実現である。斯る世界の形に我を見るときそれは悪となるのである。私達は絶えず自己否定をもたねばならないのである、絶えず世界へ転ぜねばならないのである。休むことなき世界創造の内容となることが善である。世界創造は一と多、全個の否定的形成である、世界を否定して我を見るときに悪となり、その我を世界の中に転ずるときに善となるのである。斯る関係は逆説的である、私は親鸞の罪深重の自覚に真の善なる意志の成立があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

生命形成

 私達の身体を組成する物質は地表に存在する物質に比例するといわれる。身体の有する水分は約六十五%であり、それは地球上に占める水分の比率にほぼ等しいものであり、その他の物質も地球上に多く存在するものであり、その比率もほぼ等しいといわれる。私達の身体は外を環境として、環境を映す環境の凝縮物であるのである。私はそこに生命形成があるとおもう。外を宇宙と名付ければ身体は宇宙が自己の中に見出でた自己の形相である。生命は身体的に自己を形成してゆくのである。身体的に自己を形成し、身体は宇宙が自己の中に自己を見出した形相であるとすれば、生命は宇宙が自己の中に自己を見る無限のはたらきであると言わなければならない。生命は内外相互転換的である、内外相互転換的とは外を食物として、食物を摂取することによって身体を養うことであり、不用のものを排泄することによって身体を形成してゆくことである。斯る形成として環境は食物連鎖をもつのである、私は食物連鎖とは宇宙が自己の中に自己を見てゆく一環として捉えるべきであるとおもう。低次なる生物を捕食することによって高次なる機能を生む力を獲得するのである、否捕えるということが既に優越する力をもつということである。それは生存競争の中より生れるのである、形として生み出された生命は生存せんと欲する、生存と生存の対立するところ、対手を倒して己が生きんとするのが生存競争である。生命は常に死に取り囲まれているのである。生命の行為は対面する死を生に転ぜんとする努力である。 そこから身体により大なる機能が生れるのであり、より大なる機能による行動がより明らかな対象を生むのである。そこに宇宙の自己実現があるのである。生命に自己を実現した宇宙は生死に於て自己を発展させてゆくのである。

 生命が生死に於て自己を見出してゆくということは情緒的であるということである。生命は身体として自己を形成してゆく、それは一瞬も止まざる生死の転換としてあるのであり、転換の形象は情緒である。情緒の表出は生きている証しである。情緒は死に面し、生に面する身体の対応である。喜ばんとして喜ぶのではない、怒らんとして怒るのではない。対象に面して身体が躍り、身体が竦むのである、われわれは情動として自己をもつのである。われわれの生命が自覚的であるとは、斯る生命が自己の中に自己を見るということである。

 自覚とは生命の生死の転換による形成としての身体が、宇宙の自己形成の内容としてではなく、逆に宇宙の形成を内にもったということである、経験の蓄積をもったということである。身体が新たに手と言語中枢を加えたということである、一瞬一瞬に現われて消えてゆく生死転換の営為を統一する生命となったということである。そこに物の製作と言語がある、物の製作とは宇宙が自己の中に見出でた自己の形象としての身体が、その作られた宇宙の形象に於て逆に宇宙を作ることである。宇宙の創造をその転換に於て更に大なる創造点に立つことである。そこにわれわれの自己が成立し、世界が成立するのである、経験の蓄積として内外相互転換を統一し、宇宙を内に見るものが自己となるのである。

 製作とは内外相互転換としての生命の流れを形に表わすことである、そこに自己を確認し、世界を確認するのである。それは形より形へである、内が外を映し、外が内を映すのである。内が外を映すとは表象として世界をもつということである。外が内を映すとは物として生命を宿すということである。世界を内にもつとは、世界が内として次の世界を作る力となることである。物として生命を宿すとは、物は生命の表れとして次の形を呼ぶことである。製作することは内に力がつき、外に新たな形が生れることである。そこに自覚的生命の内外相互転換の必然があるのであり、生命の無限の形成があるのである。

 斯るものとして私は形は情緒が言葉をもつということであるとおもう。経験の蓄積は生死転換による生命形成である、それは宇宙が宇宙を見ることである。宇宙が宇宙を見ることがこの我が我を見ることである。私達の祖先が最初に見た形は宇宙としての世界表象であったとおもう。而してそれはそれによって我がある根源的存在である。私はそこに原始的イメージがあるとおもう。われわれは根源的存在の具現として存在する。併しわれわれは生死する。そこに根源的存在は超越者として絶対の力を有するものとなる。われわれはそれによってあるものとして、無限の形を生み継ぐものの内容となり、運命的となるのである。

 表象は一人一人がもつ、一人一人はその表象を生死に於てもつのである。而してその表象はわれわれに生死をあらしめ、われわれの生死に於て自己を見てゆく超越者の形象である、その形象は一人一人の生死を映すものとしてこの我に擬ふるものである。私は擬人ということが最初の世界表象であったとおもう。超越者は生と死の方向に分れて戦い、在る ものは喜び、悲しみ、怒り、怖れるものとしてあるのである。このことは私は宇宙は先ず情緒に於て自己を現わしたのであるとおもう。そして超越者としての一をあらしめるものは判断の概念的普遍ではなくして共感であるとおもう。共感は生死より来るのであり、生死は宇宙が自己の中に自己を見るより来るのである。普遍とは全てのものがそれによってあるものの自己限定ということである。私はそこに共感のもつ世界性、感情のもつ普遍性 があるとおもう。

 喜怒哀楽に時間はない、私はそこに最初の生命の形象があったとおもう、常に現在として喜び悲しみはあるのである。形は言葉より生れる、斯る言葉は生死より出るのである。死を生に転じ、生が死に転ずるところより出てくるのである。言葉は呼び応えるところにあるのである。呼びかけはより大なる生命を見んとするところより生れるのである、より大なる生命を呼びかけに於て見んとすることは、呼びかけるものと、呼びかけられるものがより大なるものの内容としてあり、呼び応えることによってそれが露わになるということであるとおもう。そこに継起はない、あるのはこの我の生死を介した超越者の姿である。生死を転換させる神の、若くは英雄の大力量の姿である。古代に於て神話は物語りではなくして現実を限定するものであったと言われるのもそこに所以をもつとおもう。神や英雄は実在した人物ではない、世界が自己矛盾的に自己を限定した姿である。それが個的行為の根底として、個的行為がそれによってあるものとして見られたのである。私は神話に生命の形成的真実があったとおもう。情緒として無時間的なる世界像は理性による我と世界の合一ではなくして、熱気と興奮の世界体験であったとおもう。

 言葉をもったときに人間が世界像をもったということは言葉によって世界像をつくったということではない、形成的生命が形象として自己を現わしたということが言葉をもったということである。ネアンデルタール人は曖昧な言葉をもったと言われる。それは情緒的表出より言語的表現に発展する過渡期としての形態であるとおもう。意味に訴えるよりも多く共感に訴えるのである。言葉は世界を自己の現れとして、更に自己の中に自己を見てゆくのである。そこに言葉が世界をつくるということが現れてくるのである、それが経験の蓄積として内外相互転換的に製作的となるということである。情緒は生命の死生転換の形成作用より来るのであり、言葉はその形の内面的発展より来るのである。情緒は既に形である。喜びは生の悲しみは死の形である。蓄積が製作であるとは、製作的生命になるということは、喜び悲しみも作られるということでなければならない。物の出現は喜びの出現と共にあったのである、そこに情緒は形である所以があるのである。情緒は既に形であるとは、形の発展は情緒が担うということである。生命が動的に形成的であるとは蓄積的であるということである。生命の形は無限の内外相互転換としての体験の蓄積をもつことによってあるということである。内外相互転換の表象が情緒であるとき、蓄積は形の発展であり、形が形を生むということは情緒が形の中に沈むということでなければならない。沈むとは形に消えて形に現われるということである。情緒が形である時は神話的であり、形の中に沈んで形に現われるとは理性的となったということである。そこに知の根底に情があるといわれる所以があるのであり、知は情に運ばれることによって生々たるのである。熱情なくして世界の如何なるものもあり得なかったと言われるのもここにあるのである。

 内外相互転換は一瞬一瞬の生命の行履であり、情緒は現われて消えゆくものである。併し単に現われて消えゆくものによろこびかなしみはない、そこにはよろこびかなしみを感じるものがなければならない、私はそこに生命の生死を見ることが出来るとおもう。生死は否定し合うものである、死は生の否定であり、生は死の否定である。 生命が内外相互転換的であるとは一瞬一瞬が死に面することであり、危機としてあるということである。それを生に転換することが形が生れるということである。形とは外が内に即するということである、無限に外を内とすることによって生命は形を維持するのである、そこに理性があるのである。理性とは真に形成するものを宇宙的生命として、内外相互転換的に宇宙的生命を露わならしめるものである。われわれの身体は宇宙的生命の自己形成として、宇宙的生命を内とするのである、全て生命の形は宇宙的生命の実現として外を転換的に統べる形 である。故に全ての動物は理性を潜在せしめるのである。唯形成が生存競争として個体維 持的であるため世界形成としての宇宙的生命の実現をもち得ないのである。対立するものは相互否定として、形の実現としての否定の肯定、対立の統一をもち得ないのである。それが人間に於ては経験の蓄積としての技術と言葉をもち、製作するものとして多の一をもつものとなるのである、私はそこに理性が出現するのであるとおもう。手が外部の理性であり、大脳が内部の理性と言われる所以であるとおもう。

 私は斯るものとして理性は外の方向に形の多様と統一をもち、内の方向に感情の抑制をもつとおもう、形の多様と統一は形が形の中に形を見るということでなければならない。見られたものが多様であり、見るものに於て一である。判断というのもそこにあるのであるとおもう。判断とは形を生んでゆくことである。新たな形が生れることである、理性とは生命が自覚的創造的となったということであるとおもう。新たな形が生れるということは、意識に於て自己ならざるものが自己になったということである。生命に於て隠れていたものが現われたということである。それは生命がより大なる自己をあらしめたということである。斯くより大なる自己の出現へ自己を運ぶものは何か、私はそこに喜び、悲しみ、 驚き畏れを見ることが出来るとおもう。感情は自己の根底の出現を指向するのである。

 内外相互転換としての生命形成は現在より現在へである。危機として死を生に転じ、生が死に転でられる生命は身体的事実として自己を形成してゆくのである。記憶も理想も身体がもち、身体が生むのである。理性も身体が危機の中より生み、危機に於て保持するものとしてはたらくものとなるのである。理性は時間・空間を超えて内にもつ、それは身体が時間・空間を超えて内にもつものとしてあるということである。時間・空間を超えた理性の内容として現在があるのではない、そこからははたらくものを見ることは出来ない、そこには理性というものも消えてしまわなくてはならない、現在ははたらくものとしてそこに形の実現するところである。形の実現として過去と未来が出合うところである。記憶と理想が否定的に一なるところにはたらくものとして現在があるのである、理性はここに生れ、ここに保持されるのである、現在に於て理性ははたらくものとして、判断として形を生み、概念として形を保持するものとなるのである。

 私は前にわれわれは形成的生命として生の方向によろこびを持ち、死の方向にかなしみをもつと言った。理性は身体に時間・空間を見出すことによってより大なる形相を見出したものとおもう。そこにはより大なるよろこびと、反面としてのより深きかなしみをもつのであるとおもう。身体のより大なる発現が理性なのである、それはより大なる身体としてより大なるよろこびである。その死はより大なるかなしみである。理性は生死を見るものとして永遠である。而して生死は如何にして見られるのであるか、私はそこに生死の自覚を見ざるを得ない、生死が生死の底に生死を超えて生死を映すのである。よろこびかなしみが自己の底に自己を映すのである。そこは全てがよろこびかなしみとして、よろこびなきよろこびであり、かなしみなきかなしみである、そこに最も深いよろこびかなしみがあると共に、永遠の形相をそこに獲得するのであるとおもう。私達は永遠を時間の無限の延長としてもつのではない、その過去と未来をもち、生れ死にゆく現在として永遠をもつのである。自覚的生命として身体を永遠の今として実現するのである。そこは生命の完結としての大なるよろこびである。永遠は理性によって把握することは出来ない、私はこのよろこびが自己に永遠の確信を与えるのであるとおもう。そこは過去と未来がそこに合い、そこに分れるところとして全てがあるところである。

長谷川利春「自覚的形成」

生命の目の出現について

 昔はクーラーが無かったと言うより扇風機のある家も稀であった。それに大方が人力に頼った労働は今よりも体のほてりが激しいものであった。夕飯がすむと大凡の家が庭前に床机を出して涼をとったものである。仰向けに寝て疲れを医しながら冷えた風が体の上を流れてゆくのは、この世ならざるところへ運ばれてゆくように快いものであった。現し身を忘れたような目に満天の星のきらめきが迫って来たものである。限りない視野に満ちた光りは少時の私達の目を奪って離さぬものであった。私達はそこで北極星や北斗七星を教わり、織女星の話を聞いたものである。昔の夕涼みは蚊との戦いであった。血をもつものの匂を嗅いだ蚊の来襲は凄いものであった。団扇で追払い、煙で退けながら私達は能う限り天恵の涼をとった。併しやがて負けて手や足のほろせを掻き乍ら暑い家内へと退散するのであった。今私の記憶には蚊との戦いは痒さと共に遠のいて、涼風の中に見た星の映像が鮮明である。それは限りない懐旧の念として私の心の中に住むものである。

 私は今目とは何か、如何にして目が出来たのであるかを問おうとしている。それは生命として生存に必要であるからであろう。それならば何故生命は生存の必要として目を形成 したのであろうか。ベルグソンは目は生命が身体より外に溢れ出る堀割であると言っているそうである。そうであるとすれば生命はどうして身体の外へ溢れ出ようとするのであろうか、目は光りによってはたらくとすれば、目は如何にして光りに関るのであろうか、目は身体に属し、光りは外界に存在する。目は光りによってはたらき、光りは目によってこの我に存在するということは、見るということは目と光りがはたらきに於て一であるということでなければならない。はたらきに於て一つであるとは、目と光りははたらきに於てあるということである、それは目からも光りからも捉えられるものではなくして、はたらきに於て一方の極に光りが見られ、一方の極に目が見られるのでなければならない。

 はたらくものは時に於てはたらくと共に、はたらくものに依って時は成立する、そこに形は生れるのである。全て形は時に於てあるものとして形である。時間とは形成作用である、私は目も亦生命の形成作用の内容として形相の成立を時の形成作用に求めなければならないとおもう。宇宙は爆発によって成り、生成の初めは超高温状態にあり、光りに満ちていたと言われる。物質は光りのエネルギーが物に転化したのであると言われる。そして生命は物質より生れたと言われる。私は全宇宙が光りであったとき如何なる様相を呈していたかを知らない。併し質を同じくするものとして全一的運動をもったであろうと想像するのは、もろもろの事象からして大して誤りではないとおもう。例えば火の如きも全一的運動をもとうとする習性をもつとおもう、断るものを前提として、物質に転化した光りのこの全一的なものは何うなったのであろうか、物質は相対的なものである。全一的なものは物質とは言い得ないものである。私は全一的なるものは相対的なるものの底に潜在したのであるとおもう。潜在する全一として物質の相対を成立さすものとなったのであるとおもう。相対を成立さすとは、相対としての運動が全宇宙一として運動をあらしめることである。全宇宙が光りとして全てが同質なるとき、個が全であり、全が個である。一の光子は全宇宙を表わすものである。私は生命も光より物質へ、物質より生命へと転じたものとしてこの原初のはたらきの上に立つとおもう。

 目は無限の遠くを見んことを欲する、それは光りが無限の運動であり、光りの運動を自己の内容とせんとすることであるとおもう、宇宙の微塵としてのこの我に全宇宙を映さんとするのである。私はそこに全宇宙が光りとして、一が全であり、全が一であったときの運動が潜在としてこの我にはたらき、潜在を顕現しようとするはたらきを見ることが出来るとおもう。私は目の形成をそこに見ることが出来るとおもう。光りから物へ、物から生命への形成は宇宙が自己を形成するということである。目は生命がもつ、併し目が生命としてのこの我が解くことが出来ないのは生命が宇宙の形成として作られたものであり、目も生命の内容として作られたものに外ならないからであるとおもう。生命が宇宙の形成であるとき、その形象は宇宙の形象を宿すのであり、宇宙の形象を実現するのでなければならない。全一体として全が個であり、個が全であった原形質を物として相対化した個に見出すのでなければならない、初めがはたらくものとして宇宙の形成はあるのである。私は目は個としてこの我が全空間と一なるところに出現したとおもう。外へ溢れ出る生命が肉体の一部を切り拓いたということは、宇宙がこの身体に於て自己を実現せんとしたことであるとおもう。私は斯る全と一との関係は単に動物のみではなく全物質にあるとおもう。よくこの頃新聞にフェライトとか水晶振動子というのを見かける、それは通信機、電子機器などに応用されて宇宙の他の物質との交渉をもつらしい。先日鉄が純分九九、九九九に精錬されると、それ迄と全然異なった性質をもってくると報じられていた。異なった性質とは他との関りに異なった性能を発揮するということであろう。純化されるとき、不純な分子によって遮られてきた性能が露わになるのであろう。私はそこに多様なる性能が現われるとは、その純なるものは原初の全と個の同一の潜在せるものが顕現すると思わざるを得ない、私はその純なるとき全ての物質は宇宙の全存在と呼応するものをもつのではないかとおもう。人間はそれを目に於てもつのであるとおもう。

 目が以上の如くあるとすれば生命は光りとして全一であった宇宙が運動に於て対立をもち、対立が常に全一に還り、全一を維持せんとするものであるとおもう。それは全物質に関るものであると言い得るであろう、唯物質と言われるものは単に宇宙の運動としてあるに対して、生命は自己の中に作用としてもつのである。作用をもつとは外に関ることによって内を変じ、内を変ずることによって外を変ずることである、生命は身体をもつものとして外を映して身体を作るのである。而して身体が外を映し作るということは外を身体を映すものとならしめることである、身体として外を映すには何等かの行動がなければならない、行動をもつとは外に身体を適応さすと共に外を変革することである。斯る外が宇宙である。私達の身体は宇宙の大より見れば一微塵に過ぎない、断るものをもってして自己の周辺を宇宙とするのはおこがましいと言われるであろう。併しそれが宇宙であり、それ以外に宇宙はないのである。外に適応し、外を変革するということは無限の展開をもつということである。人間も原初は単細胞動物であった、それが生死に於て外に適応し、外を変革することによって現在の人間を形成したのである、生死に於て外に自己を映し、自己に外を映して現在の世界を実現したのである。宇宙は身体の感官が拓いた世界である。斯る無限の展開は有限として生死する身体のよくするところではない。身体が生死に於て自 己を形成するとは、身体は生死しつつ生死を超えたものとしての二重構造をもつということである。死は消滅である、併しそれが形成であるとは実現であるということでなければならない、生死するわれわれは底に大なる生命を有するのである。私達の身体は六十兆の細胞を有すると言われる、それは単細胞としての生命が三十八億年の時間に於て生成したものである。私達は三十八億年の時間を内包するものとして、僅かな時間の中に次の生命を生んで死んでゆくのである。三十八億年の時間を内包するとは、人類が三十八億年の生死の経験をこの身体に蓄積するということである。われわれのこの一瞬一瞬は三十八億年の生命の蓄積がはたらく一瞬一瞬である、而してわれわれは生れ来ったものとしてこれを創り上げたのである、そこにわれわれは一挙手一投足に宇宙を見るのである、私はこの我を超えたところに我がはたらき、そこに宇宙が実現するということは、この我がはたらくということは宇宙が自己を実現することであるとおもう。この我も亦宇宙が自己の中に自己を見てゆくところに成立するとおもう。宇宙が光りとなり、物となり、生命が生れたということは宇宙が自己形成的であるということであるとおもう。このわれも亦宇宙の自己形成の内容としてあるのである。われわれが感ずるということも宇宙が自己を見るのであり、言葉も思考も宇宙が自己の中に自己を見ることであるとおもう。われわれが宇宙の中に現われ、現われたものが言葉をもち、思考をもつということは、私は斯く考えざるを得ないとおもう。全即個、一即多として無限の運動が形成的であるとき、其処に感覚が生れ、言葉が思考が生れるのである。目は対立する全と個、一と多を作用に於て結ぶ通路になるものであるとおもう。そこに生命の自己実現としての目の出現があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

はじめに言葉ありき

 「細胞から生命が見える」という本によると、すべての細胞が個有の生命プログラムとしてのDNAという遺伝物質をもち、そこに生物が生きてゆく上で必要な情報が書きこまれている。細胞一個の中にある全DNAの文字数は非常に多い。生物種によって異なるが、数百万から数百億文字以上に迄達する。この全文字が遺伝情報の全てである。ヒトではざっと三十億文字のDNA情報が一個の細胞の中にある。その量はどれ位かというと平凡社の大百科事典の二十五セット分である、と書かれている。生命は必要に応じてこのプログラムを利用するのである。細胞が遺伝子をもち、遺伝子が文字をもち、細胞がそれを利用し、その指令によって動くとは、文字は生命の形成として、生命そのものとしてあるということである。生命としての細胞が形として出現するものであるとき、形は文字によってあるものとして文字は細胞であり、細胞は文字である、そこに形成ということがあり、出現ということがあるのである。私は生命としての細胞の形は、外としての環境との関りに於て如何なる文字を撰択したかにあるとおもう。生物の進化とは文字の構成の複雑化ということであろう。私は単細胞動物より多細胞動物への発展は環境に対す主体としての文字の高度化の要請があり、文字が細胞の自己形成の撰択をもったのではないかとおもう。利用するとは細胞が自己を現わすことであり、現われた細胞が更に外との関りに於て利用せんとするのである。それが撰択であり、構成である。私は三十億の文字をもつとは単に並立的にあるのではなくして構成的にあるのであるとおもう。一つの生命としての細胞を環境との関りに於てより強く、より大ならしめんとするところにあったとおもう。人類は近々千万年程前に出現したと言われる、千万年程前に出現したということは、それ以前の生命体の細胞は三十億の文字をもっていなかったということであろう。文字は常に外との関りに於て分化発展をもったのであるとおもう。私は如何にして単細胞動物が多細胞動物となったかを知らない。唯外としての環境の激変が細胞の結合による機能の発展を要求したのかとおもうのみである。併し細胞は多細胞となることによって多様なる機能をもつことが出来たとおもう、そして多様なる機能は文字の数を増大せしめたとおもう。多細胞と なることなくして人類の生誕はあり得なかったのではあるまいか、而して多細胞ならしめたものは文字のはたらきであったとおもう。生命がはたらくとは文字がはたらくのであるとおもう。

私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである、自覚とは自己の中に自己を見るものである。生命は外を内とし、内を外とする無限の形成である。自己の中に自己を見るとは外を内とし、内を外とすることであり、外は内を宿した外、内は外を宿した内となることである、外は内を宿して物となり、内は外を変革するものとして技術をもつものとなるとなるのである。自覚とは世界形成的に生命が形象を顕現させてゆくことである。われわれが自覚をこのわれに於て見るのははたらくものとしてこのわれに世界の出現を見るによるのである、それが物を作るということである。私達は物を作ることによって自己を知り、更に大なる物を作らんとして自覚の意識をもつのである。私は斯る物の製作を経験の蓄積に求めるものである。経験の蓄積とは昨日と今日、過去と現在の営為を統一するものである。われわれは生れ来ったものとして自然の内容である。営むとは自然の循環に随って営むのである、それが日日の行為である、営みは日日の繰り返しである、而して状況はその日その日異るのである、その日その日はくり返しつつ新しい営みの日である。私は斯る日日の異なる状況を生命形成に於て統一するところに製作があるとおもう。例えば大古の採取経済に於ては、食糧に出合うということはその日その日の偶然であった。実の成る木を知っていたとしても、風で落ちてしまったかも知れないし、誰かが先に採ってしまったかも知れない、それを自己の管理の出来る所に植えて偶然を克服するのが製作することである。それに水をやり、肥料を与えるのも経験の蓄積である。野生の収穫物と区別してわれわれはこれを作物とするのである。製作とは偶然を必然とすることであり、外を 映すものとしての身体の秩序に逆に従わせることである。そこに経験の蓄積が必要なので ある。日日の営みの上に製作は成立するのである。私達は斯る経験の蓄積を記憶にもつ、記憶を保持するものは言葉である。われわれは記憶を言葉にもつのである。私はわれわれの斯る言葉をあらしめるものは細胞のもつ三十億の文字であるとおもう。

 記憶によって製作があるということは、製作によって記憶があるということである。 字は細胞の機能の指令としてあった、それは細胞が自己形成的としてあり、文字が形成を担うということである、文字が細胞と別にあって、その形成を指令するというのではない、細胞は自己形成的生命として文字をもったのである。それは外を内とするはたらきの必然の内容としてもったのである。而して外を内とすることは、内を外とすることとして無限のはたらきである。外を内とならしめることは外の多様に於て機能を大ならしめるものである、大なる機能に於て摂取した内を外ならしめることは機管を複雑ならしめることである。それは細胞の進化であると同時に文字の発展であるとおもう。細胞は多様の統一とし文字の発展をもつのであり、文字が発展をもつことによって細胞は多様の統一をもつのである。私は記憶とは細胞が必要に応じて文字を利用するのみではなく、文字の指令が状況を超えて状況を創造するようになったことであるとおもう。必要に応じて利用することは適応することである、而して適応することは既に主体が環境を作り、環境が主体を作ることである。創造するとはそれが発展して互が超越し合い対立するものとなったのである。対立するとは否定しあうものとして在るということである、対立するものが一つとしてあったものが顕在化したということである。生命に於て主体と環境が直に一としてあった、それが否定的に対立するということは死を以って距たるということである。環境は直に我であり、我は直に環境であったものが、環境ならざる我としてあり、我ならざるものとしての環境となったということである。勿論それは主体と環境が無関係になったということではない、主体が環境を内にもち、環境が主体を内にもつものとなったのである。環境は主体の中に消えて現われることによって真に環境となり、主体は環境の中に消えて現われることによって真に主体となるものとなったのである。私はそこに製作があるとおもう。われわれは製作したものを物としてそれを使用し消費することによって生きる、それは自然としての環境ではない、環境としての外が主体としての身体の秩序に随って変革され、構成されたものである。自然としての環境は社会としての環境となるのである、そこに環境は主体の中に消えて現われることによって真に環境となるという所以があるのである。 環境が主体の中に消えて物となって現われる為には、主体は環境の中に消えて人格として現われなければならないとおもう。斯くして外に物としての世界が現れ、内に世界を作るものとしてのこのわれが現われることが自覚することである。

 自覚は経験の蓄積として、時の統一として成立する。時の統一とは過去、現在、未来を内にもつことである。それは記憶に見た如く言葉がはたらくということである。それは三十億の文字が必要に応じて起用され、指令するものとして、生命としての細胞が現在の営為に言葉として顕現したものであるとおもう。人間は生命発生以来三十八億年の歳月の上に、六十兆の細胞の統一体として出現したと言われる。私はそれを作り上げたのは細胞の文字がはたらいたということであるとおもう。生命が細胞としてあり、生命が形成としてあるということは、生命はその根源として文字としてあるということである。それが外と内とが対立し、内が外をもつものとして、人格として対立するとき、内は主体として我と汝として対立するものとなり、我と汝は共に世界を内にもつものとして、より大なる世界を構成するものとして呼び交すものとなるのである。人格として我と汝となるとは共に製作するものとして個性となることであり、我ならざるものとしての汝、汝ならざるものとしての我として、文字は形に出でて声となり、言葉となって形作るものとなるのである。聖書に「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神なりき。と書かれている。全ての形は言葉より生れたというのである、私は断る言葉を細胞の文字に見ることが出来るとおもう。私達は人間として、人間の細胞のもつ文字に神を見ることが出来るとおもう。全ての形は細胞のもつ文字の発現としてあるのである、製作すらも文字が自己の中に自己を見る自己構成として現われたのであるとおもう。

 三十億の文字とは一体如何なるものであろうか、状況に応じ指令するものとは、人間の 遭遇するであろう一切のものに対応するものでなければならない、生命は生死するものである。呼吸し、摂食して維持し形作るということは、それを失なうということは死ぬことである。生命を維持し、形成することは我ならざるものを我とすることである。我ならざるものによって我があるとは常に死に対面しているということである。指令とは生命として斯る死を排除してゆくことでなければならない、死を排除するためにさまざまの防御をなさなければならない、それは新たな構造を作り上げることである。本書の中に「シグナルの伝達」という項目がある。その内容はとても複雑であって非力な私が理解し、自分の思考の軌道に乗せ得るものではない。併し外に応じて細胞が自己を変化させ、新たな状況に新たな構造をもって対応してゆくのがわかる。死を以って迫る外は常に異る、その都度細胞は三十億の文字の中から最善の生存を撰択してゆくのである。そして外を自己の形相に転じてゆくのである。私は千変万化の外を転じて自己の形相に転ずるものは外を内に包むものでなければならないとおもう。外を内とし、内を外として無限の転換をもち、外を転じたものを自己の形相とするものでなければならないとおもう。斯るものとして三十億の文字は外としての万象を写しつつ、現実の生の唯一形相を打てるものであるとおもう。内外相互転換の軸としてはたらくものである、それは三十八億の年月に於て外と内が作るのである、私達は無数の個性としてある、無数の個性としてあるとは、多数の人々が異なった環境と歴史を負うて生きているということである、それによって人は様々の生死転換としての体験をもつのである。対話はその体験を集積せしめるものである。私は曽って物の製作は経験の蓄積であると言った。そしてその蓄積は記憶として言葉によると言った。その言葉は対話を生み、対話より生れるものとして世界が世界を見、世界が世界を作ると ころより生れるのである。記憶も構想も、製作も世界が世界を作るものとして世界がもつのである。世界としての社会の対話が維持し創造するのである、記憶や想像をこのわれが もつと思うのは、われわれがそれを映すことによって働くが故である。そこに三十億の文字は世界が細胞に自己を見出でたという所以があるのである。細胞は生命として存在が自己を見る一つの核である。斯る核は対話的に自己を見るものとして無数の核に対するのである。対話するとは他者があるということである。そしてその他者とは言葉を有するものであるということである。それがはたらくものとして過去、現在、未来をもつということは無数の他者をもつということである。世界は斯るものの対話として自己を構成するのである。曽って西哲の言った如く「世界は至るところに中心をもつ周辺なき円である。としてあるのである。

 「はじめに言葉ありき」のはじめとは根源の意である、そこから全てが生れてくるとい うことである。それではその生むものは何処から生れたのであるか、それは言葉を絶したものである。唯内即外、外即内、一即多、多即一として出現したという他はない、それが生命としての細胞であり、そのあり方が言葉としてあるのであり、三十億の文字はそのありようが形成し来った相である。全ての人間のもつ現象が三十億の文字の現れであるとは、全てあるものは自己同一としあるということでなければならない。変ずるものは変ぜらるものの上にあるものとして、時間は同時存在の上に成立するのでなければならない。変ずるものは機に応じて利用した文字の現れであり、変ぜざるものは機に応じて現われる三十億の文字である。時間は絶えざる状況の変化に出現する形として無限の流れである。併し単に流れるものは時間ではない。時間は過去、現在、未来の一つの統一をもつものでなければならない。私は斯る統一は三十億の言葉の現れであり、言葉が自己を見、自己を現わすものとして初めて捉えることが出来るのであるとおもう。しからば斯る同時存在は如何に現われるのであるか、私は斯るものを一瞬一瞬の時の完結に於て捉えることが出来るとおもう。一瞬が全時間をもつのである、一瞬は無限の過去より無限の未来への流れの一点である。全時間をもつとは、斯る一点が逆に過去、現在、未来を内にもつことである。私は斯る一点をはたらく現在に見ることが出来るとおもう。はたらく現在とは生が死に対面して、三十億の言葉の中に利用し得るものを撰択し、死として迫ってくるものを逆に生に転ずることである。即ち製作としてはたらく一瞬一瞬である。一瞬一瞬の時が完結すると は、出現した物の形が完結することである。過去、現在、未来を包んだ永遠の形相をもつ ということである。根源の出現であるということである。根源の出現であるとは外と内、環境と主体として文字をあらしめるものが具体として実現したということである。全てが現在に流れ入り、現在より出でてゆくのである。そこに全時間があるのである。生と死を含み、生と死がこの刹那に現わした形というのは常に形の究竟であり、形の本質はそれ以外にないものとして完結をもつのである。三十億の文字は形の現われるべき全てである一瞬一瞬の形の現われは斯る根源が自己を現わした形として完結するのである。

 われわれの生活は日日に複合化され、合理化されて便利になってゆく、人はそれを進歩という。併しそのことは昨日は今日のためにあったということではない。昨日は昨日の生きる営みとしてあったのである。今日は今日の生きる務めとしてあるのである。各々死に面するかなしみと、それに打ち克つよろこびを一日の確証とするのである。三十億の文字がはたらくことによってある一日である。私はそれは唯人のみではなく物にも言い得るとおもう。土鍋は鉄鍋の未完成品ではない、何方も調理具としてそのときそのときの用を果して来たのである。生命の形成としての外と内を一に見るはたらきをして来たものである。完結とは外と内とが一としてあるということである。私はそれを武器にも見ることが出来るとおもう。那須の与一が壇の浦に扇の的を射るべく選ばれたときに、「頼光の時ならば 空飛ぶ鳥を、三羽に二羽は射ち落すものが多かった、今では波にゆれいるあの的を射ち落せるものはないであろう。と言ったという。そのことは弓矢も弓術も頼光以前に完成していたことであるとおもう。ランケは詩はホメロスを超えたということは出来ないという。私は刀剣は正宗を、剣術は塚原卜伝を超えたということは出来ないのではないかとおもう。それはそれよりよいとか悪いとか、上手とか下手であるというのではない。形は内なるものの結晶として、一つの完結として出現するとおもうのである。一々が生死としての外と内の転換として、三十億の言葉が自己を実現したとおもうのである、世界が現われたのである。現われたということは、現われたものの中に世界があるということである、そこに完結があるのである。

 対話とは斯る完結と完結との対話である、完結と完結の対話に於て新しい形が生れるのである。完結から新しい形が生れると言えば矛盾であるが、言葉は斯る矛盾としてあるのである。斯る矛盾は言葉が指令として発現し、発現によって自己を維持してゆくことによるのである。指令の文字の撰択は生死転換の危機に於てその生存を図るのである。生命が生存すべくはたらくいくつかの文字を撰択するのである。故にその文字は全文字がはたらくものとしてのいくつかの文字である。全文字がはたらくものとして現われた形は全存在を負う一つの形である。そこに一つの形が完結をもつ所以があるのである。完結とは全ての現象がそこに見られるということである。全て現われるものがそこにあるということである、全てあるものは死生転換に於て文字が形を表わしたものとしてあるということである。私は人間が歴史をもつというのも断るものを根源的形相として成立するのであるとおもう。歴史は時の形相として過去、現在、未来をもつ。それは一瞬の過去にもかえることの出来ない無限の流れである、併し単なる流れであるときには過去、現在、未来というものを見ることは出来ない。単なる一点があるのみである、それが無限の流れと言い得るためには何等かの意味に於て流れを統一するものがなければならない。過去、現在、未来を一に於て見るものがなければならない、無限の過去より未来への流れは断るものに於てのみ見ることが出来るのである。斯るものに於て見ることが出来るとは、統一するものが自己に於て自己を見るということでなければならない。私は斯る一者として無限の流れを自己の中に於て見るものを三十億の細胞の文字に見ることが出来るとおもう。流れるものは 必要に応じて指令を発し、それによって出現する形である。それは三十億の文字が自己の中に自己を見るということである。三十億の文字は個々の細胞がもつ、而して人間は六十兆の細胞をもつと言われる、個々の細胞がもつとは六十兆の細胞が各々持つことであり、地球上には六十億近い人が住むと言われる。この全ての人が細胞と文字をもつものとしてあるのである。生命に於て同じ形をもち、同じ営みをもつものは何等かの意味に於てつながりをもち、一を実現しているものであるとおもう。同じ形をもち、同数の文字を有する ということは、照らし合って形を実現してゆくものであるとおもう。そのことは生命は世 界の自己実現としてあるということであるとおもう。

 多くの生命は多細胞動物として多くの細胞の統一体である。統一体とは多くの細胞が一 つの目的的行動をもつことである。統一行動をもつためには指令は一つでなければならない。そこに神経が生れ、神経中枢が生れなければならない。各細胞に指令を発せしめる統一的指令が生れなければならない。併しこれ等の形が現われるというには、何もないところから現われることは出来ない。形が現われるには胚種とでもいうべきものがなければならない、私は細胞のもつ文字が斯る形の根源とおもうのである。根源とは、細胞の文字が自己自身を見、自己自身を構成するということである。私は多細胞ということすら細胞の文字が内外相互転換的にはたらくところに出現したのであるとおもう。そして多細胞となることによって自己構成的となり、多細胞の統一体としての身体は幾多の性能を獲得したのであるとおもう。獲得したとは文字の撰択によって身体が形をもつと共に、その身体がはたらくものとなることである。身体としての形がより大なる生命形成のために更なる新たな文字を撰ぶことである。私は人間の歴史も斯る生命形成としてあるとおもう。歴史は自覚的生命としてあり、自覚的生命とは内外相互転換の外を物の製作に見、内を製作的主体として見ることである。それがはたらくものとして一であるところに歴史があるのである。はたらくものとして一であるとは、先ずあらわれるのは一が現われることである。一が現われるとは内外が未た混沌としてあるということである。それは世界としてあらわれる。併しそれはわれに対しわれを包む世界ではない未分の世界である。外が食物として、敵として漸く識別の段階である。鯛は深海にあってわれわれの五千倍の明らかな視覚を有する、併し見るのは敵と餌だけであるといわれる。それは反射的行動として生に直接的なるものである、鯛は敵と餌による行動に於て身体を形成してゆくのである。身体形成とし 生命の純一なるはたらきである。細胞の文字は斯る形成に向って自己を撰択するのであるとおもう。言葉は斯る細胞の文字の自覚として先ずあったのは集団的形相の実現ということであったとおもう、生存としての斯る集団が血縁的であったか地縁的であったか浅学にして私は知らない。恐らく両者の綜合としてあったのであるとおもう。生命的一の実現として、最初に言葉をもつことによって見出した形相は集団の情緒的興奮であったとおもう、そして斯る興奮は敵との戦いや食料の獲得によってもたらされたのであるとおもう。私は言葉の発展もここにあったとおもう、人間は経験を蓄積するものとして集団の闘争は愈々複雑化してくる。戦術・兵器の複雑化は統率者、指導者と一般戦闘員を必然的に生むものであったとおもう、そこには戦術・兵器に関る言葉と共に、上意下達・下意上達の言葉が生れるのである。食料の獲得は更に深大である。生命は生命を食物とする、光合成によって植物が形成した細胞を、食物連鎖によって高次なる形相を実現してゆくのがわれわれ動物の生命形成である。光合成は太陽と水として天と地に関るものである。経験の蓄積とは斯る食料の生産を人間の手によって行い、食物連鎖を人間の手によってもとうとすることである。勿論人間は植物にかえることは出来ない、そこに植物の養育があるのである。食物連鎖として必要とするものの栽培があるのである。そこを基点として更に滋養に富む動物を飼育し、自己の食物連鎖の円環を完成せんとするのである。その為に人間は幾多の克服すべき障害に打当らなければならない。天の太陽と地の水によって育つ植物は先ず早魃と水害に打克たなければならない。そのために天の理、地の理に深く入ってゆかなけれ ばならない。われわれはそれを、われわれも細胞によって成る生命として、自己の根底に深く還ることによって成就してゆくのである。天や地はわれではない、併しそれは細胞の出で来ったところであり、生命の根源である。三十億の文字もそこからと考えられるものである。われわれの言葉や技術が細胞の文字に根源を有し、全てがそこよりの現われであるとき、われわれの自覚は先ず、細胞の文字に自己を見た天地が形相として現われなければならないとおもう、ということは混沌の中から先ず現われたのは根源的存在としての神でなければならないということである。そして神とは生命がそこから出でくるものとしての天地であったとおもう。そのことは歴史は神を見ることより初まったのであり、神の創造として歴史の展開があったということである。併し神の創造は歴史ではない。歴史は何処迄も人間の歴史である。そのために人間は何処かで神と離別しなければならない、神の創造を人間の内面的発展としなければならない。私はそれを細胞が必要に応じて文字を撰択し、利用するところに求めたいとおもう。そこから形が現れ言葉が生れるのである。形が現れ言葉が生れたということは、形が言葉をもち、言葉が形を生んだということである。形は生命の出現として発展の欲求をもつ、更に言葉をもたんとし、言葉は更に形を生まんとするのである。私はそこに人間を見たいとおもう、形の出現とは現在の状況に撰択された言葉が出現したということである。生命がそこに自己形成をもったことである。形成されたものが更に新しい言葉をもち、新しい形を生むということは自己を否定することである。否定するとは自己が自己でなくなることである。私は現われた形は、形を維持せんとすれ決して自己を否定しようとしないとおもう。併しそれは一つの状況に現われたものであり、外と内の転換として絶えず動く新たな状況に耐え得るものではないとおもう。私は斯く新たな形に転じてゆくには常に言葉や形の出で来った根源に還らなければならないとおもう。細胞の言葉に還らなければならないとおもう。三十億の文字の撰択と出現に俟たなければならないとおもう。ここに人間は人間は神と離別するのであるとおもう。現 われた言葉や形が人間である。それを現わすものとして根源の文字としてあるのが神である。そこに有限と無限、相対と絶対がある。昔仏像を彫る人は一刀毎に三拝して仏の示現を祈ったという。西洋にも美神という言葉がある。美の神に呼ばれ、招かれてわれわれの創作があるというのである。それは現われた形、現われた言葉からは新たなものは生れないということである。想を潜めて形の根源、言葉の根源にかえることによってのみ新たなものは生れるということである。私はそれはひとり芸術的創作にかかわるものではないとおもう。私の知り合いの技術者が、新しいものを作るために今迄の形を全部捨てて、幼児の心になってイメージの創出に努めなければならないといっていた。幼児の心とは如何なるものか知らないが、新しい状況に触れて細胞の文字の出す指令の如きものではないかとおもう。生命として身体と対象がおのずから生み出す形の如きではないかとおもう。よく発明・発見などでも寝食を忘れるということを聞く。私は人間をここに見ることが出来るとおもう。撰択として生れ、無限なるものの発現として生れ乍らその形相の故に無限の喪失者としてあるのが人間であるとおもう。神に還り、神の中に自己を殺すことによってのみ生を維持してゆくのである。生命の形として生れたものは形より形へ転ずることによってのみ自己を維持してゆくのである。身体の消耗と充足はその欲求である。形より形へ転ずることは常に自己否定をもつことであり、自己否定は自己を超えたものが自己にはたら くことによってのみあるのである。私は人間が斯くあるということは歴史が斯くあるとい うことであるとおもう。

 歴史は形より形へと転じてゆく人間の営みである、人間は自覚的生命として形より形への推移を物を製作することによってもつ、即ち人間は作ることによって形を見、その形か次の形を生んでゆくのである。私は斯る物の製作が根源的な文字のはたらきとして、物の製作と同時に神を見、神を祀り、神への祈りをもったとおもう。私は前に最初の言葉は敵に対したり、食糧の獲得にあったであろう、そこから様々のものが発展したと言った。斯かる言葉も亦根源的なる文字の現れとして、根源的なものが自己自身を見るところにあるのであり、敵対も摂食も消滅するものであるに対して根源的なるものは不変なるものであり、根源の不変なるものを表わすことが逆に変ずるものを現わすものとして形の最初は神を現わすことにあったとおもう。内的なるものが外に形をもったということは歴史が始まったということである。そして神を見たということは人間が自己をもったということである。私は歴史の始まった人間の意識は全て神につながったとおもう、神につながったとは行為は全て神を表象してゆくことである。根源的なものが自己を現してゆくときに形が現われるとき斯く考えざるを得ないとおもう。形を現わすものは三十億の文字がもつ普遍性に於てそこに住む人々である。住む人々が現われた形、現わした形に於て凝集するとき一体感として民族の原形が出来るのである。一つの神を見、一つの神を祀るとき民族の原型が出来るのである。現われた形は風土としての特殊な環境と主体が生死として否定し合うところに成立する形である。死を生に転ずるということは否定として迫ってくるを摂取するということである。私は判断が包摂判断であるのもここに由来するとおもう。対象に自己を映し、自己に対象を映すのである。対象に自己を映すとはこの我が世界となることであり、自己に対象を映すとは世界がこの我となることである。この我が世界となるとは物を作ることによって世界を作り、世界を見るものとなることである。世界がこの我となるとは、作ることは無数の人々の無限の時間の声に呼ばれてあるということである。そこに形が形を生む創造の世界があるのである。私はそこに人間の自覚が生れ、歴史がはじまったのであるとおもう。それは神より離れたのではない、神はかくれた神として底深 くはたらくものとなったのである。本来根源としての文字は状況により利用されるもので あった、それは生命が死に面して生を獲得すべく撰択するものであった。斯くして現われた形は根源的なるものの出現である、根源的なるものが自己を見出したものである。そこに形より形への無限のはたらきがあるのである。併しそれは文字の全容ではない、神の現在の状況への現れである。神は死して唯一現在に現前したのである。勿論神は死んだのではない、唯一現前したものより見て神は死んだのである。神の全容は現われたものに対してかくれたものとなったのである。現前したものが自己に生を見たとき神は死んだものとなったのである。私は現在に現われたものがわれわれが自己とする人間であるとおもう。そしてこの現われたものとかくれたる のの関係が人間と神の関係であるとおもう。前にも書いた如く現われた形は新しい形を生むものではない、常に変化する状況に対して現われた形は応ずる術を知らないものである。人間は常に自己の無力感の上に立つのである。生命は生きるものとしてそれを克服せんとする、そしてそれは危機に於て形相の出現を撰択する根源的なものに回帰するということでなければならない、かくれた神の呼び声を求めるということでなければならない。かくれた神はどこに言葉をもつのであるか、私はそれを我と汝の対話に求めたいとおもう。我と汝が対話するということは我ならざるもの、汝ならざるものとしての新たな形が生れることである。そして斯る言葉は我も汝も共に根源的文字を有するものとして、死として迫って来るものへの生への転換としてもつのであ る。斯る転換としての言葉をもつものとして対話するということは共通の死として迫ってくるものに面しているということである。そしてこの共通の死として迫ってくるものを生に転じてゆくのが世界である。世界は無数の個を抱いた無限の動転である、無限の動転として形無くして形をあらしめるものである。死と生を陰影とする無限の形を生むものであり、形より形へと転じてゆくものである。斯かる形は映したものが映され、映されたものが映すものとして過去を包み未来を開くのである。そこにかくれたるものの声があるのである。無力なるこのわれは過去を蔵し、未来を孕むものとなることによって新たないのちを得るのである。かくれたる神は形として出現したこのわれの内としてはたらくものとなるのfである。

 形より形へとは、形が無限に転じてゆくことである、今の形を否定して新たな形となる ことである。私達はこのわれとして身体の形として出現する、この形を除いてこのわれは ない。そこにこのわれとしての身体に執着する所以がある。このわれは斯る執着を排して新たな形に転じてのみ真個の自己となるのである。勿論転ずるといってもこの形がなくなるのではない、無くなるところに形より形へ転ずるということはない。新たな言葉に生きるものとなるのである。新たな言葉とは内を映した外を更に映すことである。我と汝の対話によって出現した世界を更に我と汝が映し合うのである。形が次の形を作るのである。身体が新たな状況に対応し、新たな状況をつくるものとなるのである。自覚的生命として人間が新たな形をもつとは新たな技術をもち、新たな世界を構成するということである。私は身体がかく何処迄も世界を宿すところにこの我の成立があり、歴史があるとおもう。三十億の文字は個々の細胞がもち、人間は六十兆の細胞の統一体である。三十億の文字は世界として外に展開せんとする多数である。身体の形として現われ、身体が細胞としての文字をもつということは身体に世界が現れるということである。斯る形としての身体に於て形より形へと転ずることが出来るのである、形より形へとは身体が世界を作るものとなることである。身体が世界を作るものとなるとはこの身体より全世界を見んとすることである。世界形成の意志として全世界を跪ずかせんとすることである。個と個が対するとは斯るものに於て対するのである、我と汝は相互否定的に対するのである。身体の否定とは死である。対するとは死をもって迫り合うことである、食物連鎖はその原型である、対話するとは断る個として対話するのである。我と汝はその底深く死の深淵をもって距てているのである。われわれは自覚的生命として経験の蓄積をもち、物を製作する生命として世界形成的に我と汝は一である。併しそれは斯る深淵を底にもつものである。形が転ずると は対立によって転ずるのである。対立によって転ずるとは対立することは対手の形を自己の中に帯びることである。形は対手を宿すものとして転じてゆくのである。生は死を宿し死は生を宿すのが生命が転じるということである。内外相互転換的に生が死を映し、死が生を映すということはより大なる外、より大なる内となるということである。そこに蓄積として形成があるのである。外はより大なる死として迫ってくるのであり、内はより大な生として向うのである。転ずるとはより大なる死と生が相即として形に実現するところにあるのである。それはより大なるものとして前の形を承けつつ生死を経たものとして前の形を否定したものである。私はそこに歴史が成立するとおもう。内なる主体は複雑なる技術を有するものとなり、外は多様なるものの統一となるのである。

 前に書いた如く一度出現した形は自己を保持しようとして変革を欲しない、変革のないところに形の転換はない。そこに形より形へ転ずるということはあり得ない。それなれば形の変転としての歴史の転換は何処より来るのであろうか、私はそれを天才や英雄に求めたいとおもう。形の転換は生死としての内外の相互否定にあった。転換とは外が危機として迫ってくるときに内が逆に外を自己とすることによって自己を大ならしめることである。そこには新しい技術が生れなければならない。それは物に即した技術ではなくして、主体と環境を相即せしめる技術である。私はそこに有事にはたらく根源的のはたらきがなければならないとおもう。それは世界形成の根源として、根源的文字より生れたわれがもつ言葉にはたらくのである。世界がはたらくのである。生命発生以来三十八億年の歳月に形成し来った生命が全時間の深さに於てはたらくのである。全ての人間は斯る時間の上に斯る時間を包蔵するものとして生れる。併し前にも書いた如く現われた自己としての形に捉われて我を超えた世界表象を表わすことが出来ないのである。現われたものを保持せんとして表わすものを見ることが出来ないのである。私は天才や英雄は直に根源的な文字を三十八億年の時間の深さに於て声として聞き得るものであるとおもう。それはこの我の欲求、このわれの苦悩として出でくる声ではない、世界の苦悩、世界の欲求として生れてく る声である。ここにあるわれの声ではない、このわれをあらしめる声である、あらしめるものとして絶対の声である。世界表象として世界の一を実現させるものである。世界の一を実現するとは、形として現われ個々の保持せんとする形が一つの世界として見ることが出来なくなったということであり、対話が持ち得なくなったことであり、その一を回復せんとすることである。故に英雄や天才がもつ表象は部分があって全体が構成されるのではない、先ず全体があって部分を見出してゆくのである。世界としてのイメージを現実としてゆくのである。浮んでくる世界のイメージは既存の世界ではない、それを実現せんとすることは既存の世界を破壊することである。破壊することによってのみ新しい世界は打樹てられるのである。而して新しいイメージは世界像として世界が自己の中に見出でた自己である。併し過去の世界はその世界に生きた多くの人々が背負うものである。過去の世界を形成した人々の理解し得ざる世界である。そこに天才や英雄の悲劇がある、世界を実現せんとすることはそれを構成する無数の人々をその内容とすることである。併し多くの人々はそれを理解しないのである、理解しないということとはそれ等の人々を葬るものとして新しい世界に敵対するということである。斯くして新しい世界表象の実現は時の熟するのを俟たなければならないのである。新しい世界表象は天才や英雄を介して世界が自己を表現せんとする衝動である、それは史的形成の必然としてあるものである。実現しなければ止まないものである。私はそのために新しい世界表象を自己とする新しい生命の誕生を待たなければならないとおもう。過去に生きた人が死んで新しい人の生れるのを待たなければならないとおもう。然も新旧の交代は単に人の交代によって得られるものではない、社会制度その他のものも旧世界を背負うものである。そこには多くの人がそこに働き生きるのである、そこには必然軋轢が生れなければならない。時代の変革には常に戦がつきまとった所以である。変革は常に幾度かの挫折の上に成立するのである。併し斯る変革は何もかもが変ってしまうのではない、いつも言うとおり創造的発展として変化するのである。 新しい生命の誕生といってもホモサピエンスとして、六十兆の細胞と百四十億の脳細胞を もった生命が生れるのである。それが地球上の同じ所に生れてくるのである。新しいというのは人間が製作的生命としてあり、主体は物を映して愈々複雑な技術の所有者となり、物は更に複雑な技術を映すものとして多様なる物となるということである。それは内が外を映し、外が外を映すものとして根源的な文字が指令として常にはたらき、はたらくことによって自己を見てゆくものとして一である。理性を神としたヘーゲルは、理性を直接性の超出、直接性の否定及びそれによる自己内部への復帰と言っている。経験の蓄積ということも根源的な文字が指令を出すことによって形をもち、形が危機として指令を求めるところに成立するのである。それによって生命の形が自己構成的なるところに蓄積があるのである。私はヘーゲルの理性も斯るものでなければならないとおもう。形が転ずるとは現われて消えてゆくことである。歴史の変遷は現われて消えゆくことである。斯く現われて消えてゆくことは全て根源としての文字より現れ、文字の中に消えゆくのである。現われるものは消えた中から現れ、消えゆくものは現われるものの中に消えゆくのである。全て現われたものは永遠の底に響きゆくのである。永遠の声をもつのである。そこに根源の文字としての変遷を成立せしめる同時があるのである。ここに生命の一々が自己完結をもつ所以があるのである。自己完結とは生命として自己より展開する無限の空間、無限の時間を自己の形相とすることである。現われて消ゆるものとして泡沫にも比すべきものでありつつ、そこに全生命を見るものであることである。そこに絶対に他ならざる個性がある。言葉をもつものとして一人一人が個性をもち、民族が個性をもち、時代が個性をもつ、斯るものとして声は時を超えて交し合うのである。

 全ての形が根源の文字より来ったとすれば、根源の文字は何処から来ったのであろうか、私はそれを形となるべき全てのものと考える他はないとおもう。近代科学によれば生命は物質より出で来ったという。私達は生命と物質を対立概念として峻別する。併しそこよりは生命の出で来った物質を考えることは出来ないとおもう。生命が出で来るには無限に他者に関り、他者を包み、関係と包摂に於て自己の形を現じてゆく、形なくしてはたらくものが考えられなければならないとおもう。そしてその本質は現われたものによって見てゆくべきものであるとおもう。現われたものは生命と物質である。現われたものが生命と物質であるとき、そこに自己を現わしたものは生命でもなく物質でもなく、物質が生命であり、生命が物質であるものでなければならない。自己自身を見る物質であり、物質を変革する生命である。私達の身体とは斯る意味をもったものであるとおもう。生命が物であり、物が生命であるところに身体があるとおもう。生命が物であり、物が生命であるとははたらくものである。はたらくことによって内に生命を見、外に物を見るのである。生命を内とし、外として見出されたのが宇宙であり、世界である。そこに宇宙や世界はこの身体が切り拓いて行った所以があるのである。そのことは赤身体は宇宙が自己自身を見るものとしてあるということである。私は三十億の細胞の言葉はそこより生れて来たのであるとおもう。宇宙は一つの動的なるものであり、動くものが一つのものであるとは秩序をもつものであり、秩序をもつものは一即多としてそれが自己の中に自己を映すのが文字であるとおもう。文字がこのわれの存在の根源であるとは、赤文字は形成としての宇宙の根源であるということである。われわれは文字の発現を生死に於てもつ、宇宙は生死に於て自己の運動をもつのである。そこに神の言葉に随うものは生き、背くものは死するという所以があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

日本的形成と世界

 生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として摂取することによって身体を作り、身体の不用となったものを排出して外となすのである。斯る外としての食物を行動によって獲得するのが動物である。外を内にし、内を外にするものとして生命は全て機能的である。動物は行動的として、空間的に身体を超えた機能をもつのである。身体に運動能力をもち、外に行動圏をもつのである。断る行動圏が環境であり、そこに生命は自己を見てゆくのである。

 内外相互転換的として、外を転じて身体を作ってとは身体は環境を映すものとしてあるということである。身体が環境を映すとは、環境は身体的にあるということである。動物は行動的に生命を形成するものとして、身体が作られるということは、身体が環境を作ってゆくということである。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは内外相互転換が蓄積的となることである。蓄積とは一瞬一瞬の相互転換が結びつくことである。無限の生命の営為としての経験が現在の行為に於て結びつくことである。私達はそれを記憶にもつ、記憶は現在の行為を成立させると共に、現在の行為によって維持されるのである。一瞬一瞬の内外相互転換として経験の結合とは物が生れるということである。木の皮などの間に魚が入って動けなくなっているのを捕えたとすると、動けなくなった構造を模擬するのが経験の蓄積であり、その構造を更に発展さすのが形の成立であり、形の発展である。形とはわれわれの意識に於て物が成立したということである。物は営為の蓄積として、生命形成の内容として現われるのであり、次の形を生むべき必然をもつのである。それは一面に主体の形を表わすものとして、一面に環境の象を表わすものとして、綜合的具体の意味を有するものである。そこに人間が見られ、環境が見られるものとして世界の意味を有するのである。物の生産に於てわれわれは世界をもつのである。

 私は斯るものとして世界形成に二つの方向を見ることが出来るとおもう。一つは環境的 方向であり、一つは主体的方向である。環境は身体に転化さすことによって身体があるものとして死を距てて対するものである。死をもって迫ってくるものとして大なる力である。われわれの機能はそれを転化さすべく現れ来ったのである。環境的方向とは死をもって迫ってくる大なる力を機能によって転化すべく捕捉解明する方向である。機能によって捕捉解明するとは、身体に適応さすべく環境としての生の対象を変革することである。機能によって対象を変革するとは、機能と対象は相即するものであり、対象の中に深く入ってゆくことが、主体による対象の捕捉解明であり、それによって環境を作るというのが変革するということである。そこにわれわれが持つ絢爛たる物質文明があるのである。

 主体的方向とは機能と対象の相即を機能の方向に徹底させてゆく方向である、機能が見出した対象を生命の影とする方向である、機能は対象との相即として生死に於て生命が作り出したものである。そこから対象が見出されるということは、対象は生命に回帰すべきものである。対象の多様は生命の一に収斂さるべきものである。そこに対象の多は生命の一に克服されなければならない。欲求は対象の奴隷である、それを殺して世界を自分の内容として見るのである。私は禅家の現成の如き斯る方向に成立するのであるとおもう。

 私は対象的方向に成立する世界形成を知的、主体的方向に成立する世界形成を情的と言い得るとおもう。物質の発展は何処迄も分別してゆくことである。新しい特性の発見が知的創造である。その統一は法則的・公理的である。それに対して身体に自己を現わしてゆく生命は世界を一としてあらしめるものであるとおもう。身体は行動的に自己形成的である。行動は不可分的である、不可分的とは一であるということである。身体は多くの機能を有する。それは行動体として一なのである。斯る一としての身体の表出は情緒である。斯るものとしてわれわれの世界形成は対象的知的方向に拡散し、生命的情緒的方向に収斂することによって無限の発展をもつのである。

 斯かるものとして私は文化の形成に二つの方向があるとおもう。一つは対象的方向であり、一つは主体的方向である。一つは物の方向であり、一つは生命の方向である。そして方向を決定するものは、対象としての環境と主体の関り方にあるとおもう。それは地理的歴史的である。苛酷なる気象、温順なる気象はそれぞれの生命の形象を生み出し、海洋、山岳、異民族との交叉はさまざまの形象を生み出してゆくのである。四方を海に囲まれて他民族と隔絶し、豊富なる食糧資源によって完結せる生活圏をもったと言われる日本民族は独自の生命形成をもったとおもう。

 日本経済新聞に連載の徳川吉宗の小説に、狩場で特に目立った者に着ている羽織を与え、もらった者は直に着込んだということが書いてあった。有名な菅原道真の御賜の御衣も帝が着ておられたものであるというのを読んだことがある。そこには身に着けているものはその人の生命を宿し、それを持ったり着けたりすることは、その生命を共有する思想があったと言われている。芝居や角力興行に於て贔の者に羽織や入れを投げたり、死者の形見分けとして身に着けていたものを遺族がもらうのも共通するものであるとおもう。生命を宿すものとして我と汝がそれによってつながり、そこに同一を実現するのである。そこに於ては世界は生命としての身体の拡大としてあるのである。

 私は短歌を作るものであるが、短歌も亦基盤を等しくするものの上に立つとおもう。曽って何かの本で「万葉集の中の見ても見飽かぬという表現は、作者はそれを見ていても見飽きないということではなくして、それは自分の生命の姿に接しているのである」と言った意味のことを書いてあるのを読んだことがある。私はそこには景色は対象としてあるのではなくして自分の生命の展開としてあるのであるとおもう。私は現代の短歌創作に於ても斯る原理が根元的にはたらいているとおもう。以下現在の代表的作歌と言われる小中英之と高野公彦を数首宛取り上げてみたいとおもう。

 小中英之

射たれたる鳥 食みて身の闇にいかばかりなる脂のきらめくや

月射せばすすきみみづく薄光りほほえみのみとなりゆく世界

遠景をしぐれいくたび明暗の創の如くに水動きたり

花びらはくれなゐうすく咲き満ちてこずえの重さはかりがたしも

 高野 公彦

あかあかと天ののみどを下りゆく落暉に向ひつつしみどする

喪の列はさみしく長し橋に出てひとびとの耳夕日に並ぶ

なきがらのほとりに重きわがからだ置きどころなく歩くなりけり

わが生と幾つかの死のあはひにて

 私達はここに短歌の創作とは、対象を如何に身体に於て見、身体との同一を実現するかにあることを見ることが出来るとおもう。対象を身体に於て捉えるということは、身体を対象に拡大してゆくことである。世界をこの我の実現とすると共に、この我を世界の実現とすることである。そしてこの我と世界の展開を根底に身体を置き、身体の延長に於て見たところに日本的特殊があるとおもう。

 身体は情緒に於て自己を露わにする、他と関る身体は情緒に具現するのである。身体に具現するとは情によってつながるということである。対象を身体の延長とし見るということは情に於て包むということである。私は私達の人間関係の根底に断るものがはたらくとおもう。我と汝は相対するものである。相対するものは否定し合うものである、否定しあうことが関係的同一をもつものである。併し私達の祖先は徹底的な否定をもたなかったと おもう。敦盛に哀れを感じた熊谷直実の如きものがあったとおもう。対立よりも深く情の一なるものがあるのである。我の延長として汝があり、汝の延長として我があるのである。我の身体の延長、汝の身体の延長が重なるのである。私は日本の社会は斯るものの無尽の 重なりであったとおもう。日本の社会は世間として成立した。私は世間とは法律や制度によって成立したものではなく、情誼によって結ばれたものであるとおもう。それは「頼めば越後から米を搗きにくる」と言われ、「渡る世間に鬼はない」と言われ、「世間情がな きや成り立たぬ」と言われた世界であるとおもう。

 理知の世界は判断の世界であり、情の世界は共感の世界である。共感の世界は涙を等しくし、ほほえみを等しくするものとして身体に即する、それだけに日本人は大なる形相を 生まなかったとおもう。身体を養うは日々の営みである。私は日本の形はそこより生れたとおもう。よく日本文化の形を言われるときに、生花・茶湯・盆栽が挙げられる。何れもその形の出現には海外渡来の理念がはたらいているとおもう。併しそれは日本的なものを渡来の理念によって洗練したものとして、日本の形と言ってよいとおもう。生花は体・用・相として、天・地・人を表わすと言われている。天・地・人は恐らく中国の概念であろう。そうとすると生花は草木に見出した宇宙の表象である。併し活けている人は果して花の形に宇宙を感得しているのであろうか。私は逆に形に花の命を感じているようにおもう。花の命を見、この我の命を見ているようにおもう。壮大なる形而上的形象を見ているのではなくして、花との一体感を楽しんでいるようにおもう。茶は私達の生活で最も一般化されているものの一つである。日常のことを喫茶喫飯という、その内茶は腹に軽いだけに飯よりも更に一般的である。よく人が来ると「お茶でも飲んでゆけ」と言う、茶湯とは斯るものに内面的なるものを見出した形であるとおもう。よく茶禅一味といわれる。併し禅が何処も我の底に徹して宇宙との結合を体験せんとするのに対して、茶湯は主客の動作である。主は客に応じ、客は主に応じる。そこに所作としての形を生み、世界を作ってゆくものである。その所作の内容が和敬静寂である。私はそこに日本的なものの表れを見ることが出来るとおもう。和敬は主客の内容であり、静寂は世界の内容である。敬は互が生命が延長としての世界をもつことを認めることであり、和はそれが一つの世界を実現することである。私はそのようなものを情としての身体の延長が重なり合うというのである。静寂そこから生れるのである。静寂とは音がなくなったことではない、対立するものが大きな形に包まれたということである。私は茶湯が禅につながるのはそこにあるとおもう。私は茶湯の如き身体によって見出して行った世界の典型であるとおもう。盆栽について私は 殆んど知るところがない。併しあの小さな盆景の中に古木の相を見るのだと言って、端然たる姿を作り出しているのは、時の壮厳としての老いのあるべき姿を写しているようにおもう。

 身体の延長として外をもったということは製作としての形をもたなかったことであるとおもう。製作としての形が成り立つためには外としての環境よりの否定がなければならない。否定を肯定に転ずるのが製作である、死として迫ってくる環境を生に変革するのが製作である。そこより形が生れるのである。勿論環境に生きることは環境と闘うことである。唯それが受動的であったのである。単一民族であり、豊葦原瑞穂の国と言われた環境に於て、それは闘争的よりもより多く親縁的であったのである。寒暑や飢餓もその時を過せば快適な恵みを与えてくれたのである。受動的とは身体を維持してゆく最小限の変革ということである。自然の恵みを享受するのは身体である。親縁的とは身体と環境が和合することである。ここに身体の延長として形を見出してゆく日本民族の基盤があったとおもう。

 斯るものとして祖先が見出した形は身体に即するものであったとおもう。身体に即するものとして歌唱や舞踊であったとおもう。今に残る田植唄や酒造りの唄、船頭の唄は働きが唄と共にあったことを物語るものである。私達の小さい頃伊勢参りの下向というのを見たことがある。私達が迎えに行ったのは浄谷の浄土寺の八幡神社の境内であった。そこで一旦落着きの飲食をして、それから四軒程の帰路を酒を飲み、大声に唄い踊り乍ら帰るのであった。私はその陶酔が神との一体感であったのであろうとおもう。身体は情緒に自己を露わにする、唄や踊りは情緒の自ずからな表れである。環境と身体の和合離反のそのままの現れである。そして身体としてのそのあり方は韻律的である。私はそれ等が今もわれわれの生命形成の底にはたらいているとおもう。情的・リズム的なるものが形成の根元と してあるとおもう。

 日本の文化を縮みの文化と言って一時よく語られていた。縮みとは小さく表わされているということらしい、私はそこにも身体を媒介とした形があるとおもう。理性によって把握された世界概念に対して、身体の及ぶ範囲は狭い、人間関係に於ても生れ来った結合の延長となって来たようにおもう。親分子分兄貴分弟分親方弟子と言った名称はそれを端的に現わしているようにおもう。それは他者を容れ得ないものである。私はそこからは真に世界への展開をもち得ないとおもう。縮みというとき盆栽などが典型として語られていた。併し私は天地を縮めて見ようとした気持があったと思うことは出来ない。手に触れて作ることによって生命の姿を感じようとしたのであるとおもう。居住空間としての家も私達の祖先にとって宇宙を現わすべきものであったようにおもう。飲食・起臥・糞便の用の室の外に、奥の間を設けて神仏を祀り貴賓の用に供し、庭園を作って天地を配したのはそこに存在の一つの完結の空間をもったということである。私はそこに身体に捉えた日本の形があるようにおもう。併しそのことは世界を世界、宇宙を宇宙の拡がりに於て見ること が出来なかったということである。

 日本人は摸倣に巧であると言われている。模倣に巧であるとは独創を持たないということである。私はそこに日本的創造があるとおもう。模倣が創造であるとはおかしいが、日本人が形に自己を見てゆくということである。身体は生れ来ったものとして、それにつながるものは所与としての自然である。そこからは自己を見る形というのは生れて来ない。私は日本人が製作としてもつ形は農耕をも含めて殆んどが渡来したものではないかとおもう。文物に驚異し崇拝して受入れたのではないかとおもう。それでは模倣が巧であるとは何ということなのであろうか。物の製作は道具を媒介とする。道具は手の延長といわれる。手は身体の一部として道具は身体の延長である。私は斯る意味に於て渡来文化も日本的形成もその根元を等しくするとおもう。唯その方向が対立するものとしての外の方に向うものと、包み合うものとしての内の方に向う差違があったのであるとおもう。身体は生命であると共に物質である。内外相互転換的に形成的であるとは、対立的で一であるということである。外食物として摂取するものとして内外は対立するのであり、それによって身体が作られるとして内外は一である。動物は行動することによって食物を獲得するもして対立が顕著である、対立が顕著であるものとして一も顕著である。私は斯る対立の方向に物が見られ、一の方向に生命が見られるのであるとおもう。対立の方向に於ては身体も物であり、一の方向に於ては食物も生命である。対立の方向に於て身体の延長は物としての道具となるのであり、一の方向に於て身体の延長は衣食も生命となるのである。私は西洋はその形成に於て外への方向を持ち、東洋は内への方向をもったとおもう。そして日本はその内への方向の純なものであったとおもう。而して対立するものは一をあらしめんが為に対立するのである。食物を獲るのは身体をあらしめんが為である。西洋文物の絢爛たるは、絢爛たるが故に尊いのではない、より深大なるよろこびかなしみを見せてくれるが故に尊いのである。私は内的なるものとして心情の方向に身体を見出して行った祖先は豊かな情緒の陰影を持ったとおもう。彩り豊かな四季の移りの中に鋭敏な調和の感覚をもったとおもう。奈良時代に仏教儒教等の高度なる文化を受入れた日本にはそれだけの素地がなければならなかったと言われる。私は身体的方向に重ね合う情として一つの世界形成をもっていたとおもう。それは物としての世界形成の方向を極小にした。併しそれは世界形成として軌を一にするものであるとおもう。而してそこには形の至り着くべきものがあるとおもう。私は前に対立の方向に物が見られ、 の方向に生命が見られるといった。物が形として実現するということは相対するものが一となったということである。それは生命の実現の意味を有するものである。その意味に於て如何なる形も芸術性をもつのである。私はわれわれの祖先が外来文化を受入れたとき斯る日本的形成の素地に於て受入れたのであるとおもう。それは物に生命を映す方向である。何処迄も分析と抽象を求める方向ではない、感覚の快適に於て身体との結合を求める方向である。直観の方向である。一刀三拝して形相の降臨を祈った残影を曳くのである。模倣が上手いとは単に伝来物と同じ物を作ることではないとおもう。更にそれを発展させ、物の出で来った本来の指向するものを完成させんとすることであるとおもう。それは新たな形に見出すことに於て二次的創造というべきものであるとおもう。ゲーテの創作を受胎的創造と呼んだ人があったが、私は日本のあり方をそこに見たいとおもう。自覚的製作的といっても生命が内外相互転換的であることを失なったのではない。内外相互転換的に自覚的なのである。製作は内外相互転換の行為的現前である。生命を身体的形成として、物に身体を映し、身体に物を映すところに新しい形が生れるのである。物は身体ではない、身体は物ではない。それが物に身体を映し、身体に物を映すということは、身体は物に消えることによって現われ、物は身体に消えることによって現われるということがなければならない。絶対否定を媒介するものとしてそれは直観的である。直観とはこの我が見るということが、この我と物を包んだものが自己を見るということである。この我が世界の内容として、世界が世界を見ることがこの我が見るということである。そこにわれわれは物となることが出来るのである。物を作るという行為をもつことが出来るのである。身体としてのこの我が物となり、物がこの我となるということは、物はこの我の身体に転ずることによって真の相をもつということである。この我の身体を媒介とすることによってより大なる形を実現し得るということである。私はそこに日本の模倣があったとおもう。日本人は繊細なる感覚に於て物の姿を見出して行ったのである。その行住坐臥に於てより相応する形を見出していったのである。

 私達は今や好むと好まざるとに関わらず世界に面している。世界に面しているとは世界歴史の中にあるということである。世界形成的にあるということである。日本の模倣は成 熟し切ったとおもう。成熟し切ったとは最早摸倣によっては展開をもち得ないことである。模倣の底から新しい形を見出さなければならないとおもう。外を転じて内とするということは、そこより形が生れ、形が来るものとして外は無限なるものである。それに対して身体は生れ来ったものとして形作られたものである。身体の延長として形を見るということは、身体に同化させることである。それは既にある形より脱け出せないということである。日本文化の因循姑息性はそこにあったということが出来る。それを打ち砕いたのは明治以来の西洋文物の輸入である。日本はそこに一応の世界性をもった。日本は飛躍的な国力の充実をもち、豊かな展望をもった。併しそれは西洋的なるものの追随の上に打建てたものであった。それは世界の近代を作ったのが西洋文物であるとして仕方のないことであった。西洋の模倣なくして近代の建設はあり得なかったからである。私は今転換点に立っているとおもう。一つは日本は近代化を完成したということであり、模倣によっては将来の展望をもてなくなっているということである。一つは西洋主導の歴史が行き詰っているということである。そして私は前者が後者に収斂されるものであるとおもう。西洋的なるものに随順するものが、西洋的なるものが行詰るときに共に行き詰るのは当然である。

 前にも書いた如く西洋文化は物として対象的方向に発展した。物は何処迄も相対的である、対立するものとして形をもつのである。対立するものは相互否定的である。物が対立するとは物を製作するものが対立することである。内外相互転換的として、外が死として迫ってくるとき、死を生に転ずるのが製作であり、物の出現である。物は死を生に転ずるものとして力である。製作するものは自己の生存をその力によって獲得するのである。物は外を内に転ずる努力によって出現するのである。断る努力は自己に世界を見、世界を実現しようとする意志より出で来るのである。自己に世界を実現しようとする意志は、自己が世界たらんとする意志である。生命は一つ一つが世界を映すところにあるのである。それが相対的方向に自己を見るとき、対立するものを否定して自己が世界たらんとするのである。私は物質に世界を見出した西洋が帝国主義に至り着かねばならなかった必然はここにあるとおもう。それを打破ったのは第二次世界大戦であった。二次大戦は帝国主義の先頭に立つものと遅れたものとの戦いであった。遅れたものは全体主義の名の下に、力の結集に於て立上った。併しそれは表面上のことであって、その裏には生産手段が帝国主義的対立を超えた世界を要請するべく発展していたのである。その世界性が各民族の自立への自覚を促していたのである。大戦は斯る矛盾に於て世界エネルギーが爆発したのである。この頃よく今次大戦に於ける日本の侵略と謝罪ということが新聞に載る。それは恐らく対戦国の政治運営の技術に関るのであろう。併しそのような目で見ることは正しい歴史認識 を誤るものであるとおもう。誤るとは未来への世界史的展望をもち得ないということである。世界は世界エネルギーの消長に於て捉えらるべきである。その消長に於て日本は如何なる位置を占めてゐたかが問われるべきである。私は謝罪しなくてもよいというのではない。お互いを巻き込んだ大なる流れがあると言うのである。そしてそれは向後もわれ等を押し流すであろうというのである。それは常に危機と救済に於て形より形へと転じてゆくのである。

 物の生産が世界性を要請するということは世界は運命的に一となったということである。私達はロンドンで今起っている事件を知ることが出来る。イギリスの服を着、イタリヤの靴をはく。地球の温暖化、砂漠化の防止を集って協議する。国家間の紛争を国連によって調停する等は、物の生産が一国の内容としての富国強兵を超えて人類の内容となったということである。ここに帝国主義の崩壊という歴史的必然があったということが出来るとおもう。世界は最早力の対立と均衡によって維持すべき世界ではなくなったのである。私は現在の矛盾は物の斯る世界性へ要求に対して主体としての人間の対応態勢のおくれにあるとおもう。われわれ人間は無限の過去を背負うことによって現在があるものである。過去の努力を財として現在の生活を営むものである。われわれの思考は斯る生活より生れるのである。そこに社会意識、ひいては社会態勢の遅れるべき理由がある。領土・民族・宗教等に絡まる紛争の多発は、物の生産の発展による世界自覚の要請に対して依然たる帝国主義的意識の矛盾の修正であるとおもう。地域的エゴが修正を迫られているのであるとおもう。勿論問題はこれに要約するには余りにも複雑であろう。併し世界の形成エネルギーは矛盾を自己を転ずる力として新しい形を生んでゆくのである。

 対立が否定されたとは、世界は新しい一の主体として実現するべく要請されたということである。世界は多くの主体の対立する世界ではなくして完結するものとなったということである。主体が対立する世界とは、民族とが国家とかが外との相互転換に於て自己の中に自己を見てゆく世界であったということである。発展を民族とか国家に置く世界であったということである。完結するものになったとは、それが地球的規模に於て為されなければならなくなったということである。民族や国家は狭溢なるものとして発展の障害となってきたということである。滔々たる国際化という言葉の氾濫は斯る流れを表わすものであるとおもう。内外相互転換として斯る物としての外の変化は、内としての主体の変化を求めるものである。民族的感覚・国家的思考を超えた世界人が要請されるのである。それは新しいタイプの創造である。私は現代の若人が落ち入っていると言われる虚無感・無力感・白けムードと言われるものも、世界の流れを把握し切れない主体の乖離にあるのではないかとおもう。私は斯る新しい人間像・世界観の形成に日本的なるものが要請される余地があるのではないかとおもう。

 私は前に日本は海を距てた島国として一つの完結せる生命体をもったと言った。そこに世界が地球的に一つの完結的営為を持たねばならないときに、日本的形態がモデルとして考慮さるべきではないかとおもうのである。それは生命形成として我と汝が重なり合うということである。重なり合うとは我が汝を包み、汝が我を包むことである。私はそこに新しい世界が見出されるのではないかとおもう。勿論私は日本が近代に於て克服した祖形を復活せよというのではない。見直すとは現在の矛盾を包むものとしてである。対立が否定されるとは、対立によって現在の形が作り出されたということである。その形の発展の内面的必然によって対立を超えようとするのである。見出すとは対立の成立する根底としてである。対立したものが一としてあるものとしてである。

 地球は地理的に無限の多様をもつ、そのことは地球上に住むものは各々異なる環境をもつということである。環境を映し、環境に映される生命形成は異質なるものをもつということである。そのことは地球は多様なる生命の形を生んだということであり、異質なるものの綜合として人類はあるということである。生命は環境と主体の相互限定として、映し映されることによって形をもつ、形は主体に対象を映し、対象に主体を映すことによって見られたものとして、主体と対象の相互限定を要求し、その内面的発展に於て自己を見るものである。そこに自己の相があるということは自己の内面的発展にあらざるものは理解出来ないということである。異質なるものは相互に懸絶し合うということである。環境と主体が内面的発展として、努力して築いたものに世界を見るとき、それが唯一の世界として全地球上に敷延し、実現せんとするのは意志の必然である。懸絶に於て否定し合うことは闘争である。懸絶するものは対手を仆すことに自己を拡大し発展させてゆくのである。人類が地球的に一になるとは斯るものを超克することでなければならない。私はその為に対立する形を超えて、形の根底に還らなければならないとおもう。形の根底に還るとは形を成り立たしめるものに還るということである。形を成り立たしめているものは内面的必然である。内面的必然に於て相互の接点を見るのである。お互が内面的発展に於て形を見出したものとして人類の同一を見るのである。私はそこに日本の重なり合いが見直されなければならないものを見るのである。勿論それは素朴なものであり、歴史的陶冶を経ていないものである。併しそのことは逆に還るべき原点であるとも言い得るとおもう。重なり合うとは如何なることであるか、私はそこに言われる出合いの如きものを見ることが出来るとおもう。我と汝があって出会うというのは日本的な出合いではない、重なり合いではない、我と汝がそこから見られるのである。出合いは事であり、事の内容として我と汝が あるのである。我の延長として汝を包み、汝の延長として我が包まれるとは事としてあるということである。我と汝を超えたものも動的として我と汝を見るということである。我と汝がつながり、動くところに我と汝があるのである。そこに頼まれば越後から米搗きに来るというのがあるのであり、茶の湯に主が客の心になり、客が主の心になるというのがあるのである。対立が調和としての生命形成がその完結性に於て対立が極小となり、調和が露わとなったのである。併しそれがそのまま世界に通用しないのは言う迄もなく、日本に於ても明治以降克服し来ったものとして、そこに還り得ないのは言う迄もない。

 世界が一つとなるとは一つの主体となることであり、環境が一つの環境としてそこに世界形成の内面的発展をもつことである。それが曽っての帝国主義的膨張の時代にあっては一つの特殊としての国家が他を征服し、従属せしめることによって実現せんとしたのであった。併しそれは真の世界の実現ではなかった。一つの特殊の拡大であった。覇道であり、覇権として他を失わしめるものであった。そこに帝国主義は世界の発展の実現であると共に発展の中に解消してゆかなければならない所以があったのである。世界が一つとして要請されるのは全人類の力の実現である。力の実現とは内在する力の遺憾なき発揮である。内在する力とは各民族が環境と主体の相互限定に於て内面的発展に努めた力であり、実現した形の中に蓄積し来った力である。世界理念は民族が各々の主体と環境の相互転換に於て実現し来った理念としての形相のより大なる発展を自己の理念とするのである。私は斯る世界形成の方向に於て日本の重なるというあり方が世界論理の基礎となり得るのではないかとおもうのである。重なり合うとは並存とか共存とかいうものではない、包み合うものである。我の延長として汝を見、汝の延長として我を見るとは、汝との出合いによって我は汝を摂取した新たな形をもち、汝は我を摂取した新たな形をもつことである。そのことは世界が新たな形をもったということである。

 歴史は常に危機とその克服と歴史である。世界が一つになったとは危機と克服を世界が担うということである。一部族の紛争も砂漠の拡大も、水の汚染も、酸性雨も世界の危機として世界が克服せんとすることである。そのために世界の学識者の必要なるは言う迄もない。併し更に必要なのは当面する人々の更なる努力であるとおもう。その地域に生きる人の身体は主体が環境を映し、環境が主体を映したものとして地域の綜合の意味をもつものである、時間・空間の相を宿すものである、身体はその環境よりの否定に耐えて生を維持してきたものである、それは独り人間のみではなく、草木禽獣全て生きるもののもった営みである。技術は身体の延長である。私は各地域の人がその環境との照応に於て更に深く近代科学を身につけるとき、技術は新たな展望をもち、地球は生々たる姿をもつのであるとおもう。包み合うとは各々の地域が環境と主体の内面的発展をもち、それが人類の危機に於て結合するということである。危機が地球的に捉えねばならなくなった現在に於てその結合が要請されるということである。私は断るものとしてこれからの世界形成は、その主体的方向に異質なるものとして理解を拒んできた特殊としての内面的発展を、内面的発展の普遍性に於て理解し合い、特殊理念を世界理念の一環として、新たな世界理念を作らなければならないとおもう。理念とは主体に環境を映し、環境に主体を映すことによって見出してきた形である。それは我と環境がそこにあるものとして世界である。全ての生命の声はそこから聞えるものである。全てがそこから出ずるものとして、全てに光被せ んとするものである。日本が曽って世界に進出せんとしたとき、八紘一宇の皇道理念をも って世界を光被せんとした、中国も自国を中華として四囲を未開視し礼楽の理念を宣布せんとした、近代に於ては西洋の科学の理念が世界理念であった、斯る理念が地域理念として否定されたのである。それは理念の世界性が地域性を遍狭として打破ったのである。世界の発展は地域を世界とすることを拒否したのである。併し世界は何処迄も主体が環境を映し、環境が主体を映すものとしてあるのである。そのことは新たな世界理念は地域の世界理念の上に打樹てられなければならないということである。地域の世界理念より新たなる世界理念へとは、理念ははたらくものとして自己を深化させたということである。私は日本の包み包まれるものに異質なるものを結合さすものがあるとおもうのである。

長谷川利春「自覚的形成」

呪いについて

 塚本国雄は曽って「斎藤茂吉の歌には呪力があると書いていた。また何時、誰が言ったのか忘れたが「柿本人麿の歌には呪がある」と書かれいるのを読んだことがあり、「源実朝の歌には呪がある」というのも読んだことがある。今日本棚から昭和五十年代の歌誌『短歌』を引っ張り出して開いたところに、山本健吉、岡野弘彦、前登志夫の鼎談の如きがあ り、冒頭に、

前「吉野万葉の根源というのは、呪なんですね。近代というのは、歌の根源に呪があるということを忘れているんですよ。呪だと、僕は思いますね、言問・聖なるもの。

山本「マジックね。

前 「バシュラールがそれを言ってるんですよ。」

山本「それは折口先生が言ってますよ。歌の根源は呪歌だということはね。」

前 「それはもう、折口説の一番根源ですね。」

山本「呪力というのは魔なんですよ。」

前 「ヨーロッパの偉い奴というのは、リルケにしても、ヘルダーリンにしても、全部東方のある根源みたいなものに触れていますね。」

―五行省略 –

山本「私の言っているのは魂論だもの。魂論をやらなくちゃ、死ねないわけだ。以下略。大歌人の創作の根底に呪力があり、作歌の根源に呪があるといわれる。呪とは一体如何なるものであろうか。

 広辞苑には、1.のろうこと。「一咀」 2.まじない。 「一文」 「-術」「巫ー」 3.[仏] 陀羅尼。真言。神呪。 と書いてある。更に陀羅尼の項には、だらに(陀羅尼)(梵語、総持、能持と漢訳。よく善法を持して散せず、悪法をさえぎる力の意) 梵文の呪文を翻訳しないで、そのまま読誦するもの。一字一句に無辺の意味を蔵し、これを誦すればもろもろの障害を除いて種々の功徳を受けるといわれる。私は以上から推して山本健吉氏の「呪力というのは魔なんですよ」と一概に言われないようにおもう。成程1の呪咀から言えば魔である 併し3の陀羅尼から言えば仏であるようである。両方にとれるということは私は両者を超えて両者を統一するものとして捉えなければならないとおもう。それは神として出現すると共に魔として出現するものであるとおもう。そこに短歌の根源となるべきものがあるようにおもう。短歌は神でもなければ魔でもない。相克の中から神の相貌が出現し、魔の相貌が出現するものである。私はそれを生命形成に求めたいとおもう。生命が自己の中に自己を見、自己を形作ってゆくところに呪があるとおもう。

 生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として、食物を摂ることによって身体を作ってゆくのが生命形成である。私達は斯る食物を有機体に求める。而してその有機体も他の有機体を食物として求める生命である。生命は食物連鎖として生命に対するのである。そこは弱肉強食の世界であり、自然淘汰の世界である。生命と生命は相互否定的に、生死をもって対するのである。斯く死を以って距てるものが他者であり、外である。生命が外としての環境をもつということは死に囲まれていることである。生命が内外相互転換的であるとは斯る死を生に転ずることである。死として迫ってくるものを生に転ずるのである。食物を摂るとは対手に打ち勝ち、対手を食物として食うことである。死として迫ってくる対手に打ち勝つことは、より大なる能力をもち、より大なる生命の形相をもつことである。そこに生命が内外相互転換的に形成的である所以があるのである。形とは死の底から見出した生の相である。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。われわれの自己とは形成し来った力であり、形である。斯る自己が自己の中に自己を見る生命であるのである。形や力は死生転換の中より生れてくるのであった。 斯るものが自己の中に自己を見るとは、一々の死生転換が蓄積的となることである。蓄積的となるとは昨日と今日、去年と今年の死生転換が一つの形に於て捉えられることである。昨日と今日を一の形に於て捉えるとは、例えば大水で木が倒れ魚が逃げ場を失って集っていたのを獲ったとする。すると今度は木を倒して魚を獲るが如きである。一々の内外相互転換が経験として蓄積されるのである。斯る経験の蓄積が製作である。倒した木から魚の逃亡を防ぐとか様々の工夫が生れるのである。そこからわれわれは形をもち、物を作るのである。そこから自己が生れ、対象を見るのである。

 私はそこにわれわれの生命は大なる飛躍をもつのであるとおもう。われわれの生命は身体的形成として一瞬一瞬の内外相互転換的である。斯る一瞬一瞬の内外相互転換を超えて昨日と今日を統一する生命となるとは、与えられた身体的生命を超えるということである。一瞬一瞬に消えていった生命が、一瞬一瞬をあらしめるものとして形をもつのである。製作は経験の蓄積として、形の中に形を見る内面的発展となるのである。より緊密なる内と外との形による一の実現として、外を内に映し、内を外に映して無限に自己を形成するものとなるのである。そこに生命は自己の存在の根源に還るのである。生命は前にも書いた如く生死する生命である。而して生死によって自己を形作ってゆく生命である。生死に於て形作ってゆくとは、生死は、生死を超えたものの現れとしてあるということである。私は製作に於て一瞬一瞬の営為を超えて時の統一をもつことは、斯る生命の根源がこの我に於て形に露わとなったということであるとおもう。斯くして私は製作は我をあらしめる宇宙を我とならしめることであるとおもう。製作は常に我を超えた大なる力をあらしめるものであり、大なる展望をもたしめるものであるとおもう。私は呪というものもここにあるとおもう。限りなき過去から限りなき未来へ我をあらしめるものが、今の我に対するときに呪があるとおもう。

 製作は生死する生命が生きんとして死を克服する努力より生れるのである。より大なる生命は外を内に転ずるところより来るのである。そのときわれわれはより大なる力を転ずべき外に見るのである。私は自覚としての製作に於て人類が無限の力を獲得することは、一面に於てこの我が無限に小さくなることであるとおもう。自覚としての内外相互転換に於て内と外は何処迄も対立するものである。有機的生命としての内外相互転換に於ては、外が内に転ずることは直に外が身体に転ずることである。併し製作に於ては物として、我ならざるものとして、我ならざるものが我の影を帯びるものとして出現させるのである。外が身体に転ずるとき、われわれの生命は身体を超えることが出来ない。製作は我ならざる物を作ることによって、われがその中に生きる世界を作るのである。而して身体的形成が時の統一であるとき、身体的形成はその根源に深く製作的生命をもつのである。製作はこの驚異すべき生命の根源を開示するのである。而してその開示が物として、世界として展開するとき、無限の空間・無限の時間の中に立つわれは宇宙の一塵の嘆き、うたかたの生命のかなしみをもつのである。

 生命は自覚に於て超越的なるものと内在的なものが対立するものとなるのである。 命が内外相互転換として形成的であるとは、本来外を超越として、身体を内在として断絶をもつものの交叉としての無限の運動であった。製作としての自覚はそれが顕在化したものである。死として、否定として迫ってくるものに無限の力を感じ、その力を映すことによって自己を見、自己の力をもつのが製作である。われわれは否定されるもの、殺されるものとして自己を何処迄も小さき存在とするのである。自己を小さき存在とするものは大なる存在を知るものであり、それは否定的転換に於て無限に大なる自己を見出させてくれるものである。私は呪とは斯る生命形成の自己直観であるとおもう。

 私はまじないとか、のろいというものも斯かるところに成立するのであるとおもう。原始社会の生態を求めて、ペルーの田舎に住み、其の土地の人々と深く交った佐藤信行氏は其の著『呪術の帝国』の中で「部落境の山道の峠や村境の山頂は、村へ災が入りこむ危険な場所である。アンデス山岳の山道を旅行すれば、処々に小石を積んだ塔を見かける。ときにはその上に十字架が立てかけてある。これはアバシュータと呼ばれるもので、峠には必ずといっていいほどである。旅人はここで精霊たちを拝んで道中の安全を祈願する。インディオは小石を一つその上に置き、「アベ・マリア」を唱える。これをおこたったり、積んであった石にけつまずいてけちらしたりすると天候が悪くなる。しかしこうしたことよりも村境の峠を聖なる場所としているのは、じつは、村に災の入るのを、ここで未然に防ぐための村の神、部落の神への奉斎の場所なのだ。と書いている。ここでは小石を積むことがまじないとなっている。小石とは一体何なのであろうか、私は小石に見出した力があるとおもう。山中にあって食物連鎖的に対立するけものなどに逢ったとき、最も素速く対応出来た武器は小石であったであろう。つい最近迄印字打ちといって礫は有力な戦いの武器であった。祝して他に木片位しか太古に於ては一撃よく敵を倒す礫は最も大なる武器であったとおもう。私はそこに古代人はわれわれを超えた石のもつ力を感じたのであるとおもう。それはわれわれをして死を生に転じさせる力であり、われわれの生死を支配する力である。われわれはその力によって生きるものとなるのである。われわれはそれによって生きるものとしていと小さきものとなり、石の力はいと大なるものとなるのである。われを超えてしめるいと大なるものは聖なるものである。石を積むとはその大なるめることである。積むという行為によって力のイメージを喚起し、悪魔退散のイメージを構成するのである。そして湧き出てくるイメージによってこの微小なる自己が大なる力と同一なることを感応し、そこに自己の生存を見るのである。

 私は前に呪の根底に製作的生命の自己形成があると言った。製作は経験の蓄積であり、経験の蓄積は外を内とすることである。敵に向って石を投げることは石を手の延長とし、拳の延長とすることである。無限の力は自己に環境を映し、環境を自己に映すところより生れ来るのである。石を積むということは単に石を集めたということではなくして、動きゆく全存在の自己形成力を見たということである。よく田舎に行くと『除蝗之害』といった貼紙がしてあったものである。いくら田舎だといっても、その貼紙によって蝗の害が除けると思っているものは居なかった。それでも貼っていたのは何によるのであろうか。私は文字を作り、文字に見出した大なる生命の一つとしての我が家、この我をそこに感じ、存在の根源に接する安心をもったのではないかとおもう。勿論自己の思考よりずれているものを何時迄も抱いているのは邪道であり迷信である。それなれば正しい思惟というのは何処から来たのであるか、私は内外相互転換としての生命が自己の中に自己を見たのであると思わざるを得ない、外を映したということは物として外を作ったということである。われわれが技術をもつ自己となったということである。作られた物を外として、技術的自己を内とするのである。斯くして作られた物と技術は相互否定的に無限に発展するものである。斯る無限の形成的発展は外としての偶然を必然に変えてゆく、そこに因果律が成立する。偶然としての内と外との転換は技術に於て必然となるのである。外を内に転ずることによって、外としての我ならざるものが、内としての我の秩序の内容となるのである。身体の秩序を宿すものとなるのである。斯く外を内に転じ、身体の生命形成の秩序に随わしめることは、経験の蓄積として時を包むことである。過去・現在・未来を包むことである。時の体系をもつことである。それが因果律である。正しい思惟とは製作的生命として因果の道理に随うことである。随わざるものを迷信とするのである。

 しからば斯る迷信というのは何処から来たのであろうか、生命に於て内外相互転換は休むなき無限のはたらきである。それを失なうことは死である、それによって自己を形成してゆくのである。製作的生命に於ては自覚的として無限に自己の中に自己を見てゆくのである。外を無限に自己の中に蓄積して新しい形を見出してゆくのである。製作したものを外として、それを映すことによって更に新しい形を見出してゆくのである。私は迷信とは未だ因果律の体系とならざる最初の内と外との転換が、必然としての因果の目より見られたときに成立するのであるとおもう。最初に於ては時としての過去・現在・未来の体系が未分化である。未分化であるとは内として身体の秩序が外化していないということである。生命の本能的欲求がそのまま露わになっているということである。身体の直接の表出は情緒である。喜怒哀楽に於てはその一々が完結して分つべからざるものである。情緒的表象に於てあるものは同時存在的である。 そこでは未だ現れざるものを現われた形に於て規定してしまうのである。時は無限の否定である、時に於て形が生れるとは前の形を否定して新たな形が生れることである。この新たに生れた形が既に未来の形として先取された形と対立するとき、先取された形は迷信となるのである。新しく生れた殺虫剤が『除蝗之害』 と書かれた守護札と対立するとき、守護札は迷信となるのである。

 迷信や咀いは克服されたものとして最早あるべきものではない。併し私はそれが曽って有ったものとして、克服さるべくあったものとしてその根源的なるものははたらきつづけ現在をもあらしめるものであるとおもう。それが克服されることによって新しい形が生れたということは、古い形が死んで新しい形が生れたということである。製作としてのそれは自己の中に自己を見たということである。生命は何処迄も内外相互転換的である。自己の中に自己を見たということは、内を媒介した外はいよいよ大なる外となるということであり、外を媒介した内はいよいよ大なる内となるということである。いよいよ大なるものとはそれを包んだ形が生れることである。私は合理的なるものは迷信の中より生れたのであるとおもう。それを貫くものは共に生命が内外相互転換的に自己の形を見出したものであるということである。そこに合理的なるものが迷信より生れ、迷信は合理的なるものに包まれる所以があるとおもう。私は断るものとしてまじないに現れ、咀いに現われ、芸術の創造的根源に現われる呪を求めたいとおもう。

 内外相互転換的に形成的であるとは、生死を超えて生死に自己の形を見てゆくものである。形は生死しつつ生死を内に包むものである。そこに生命の形がある、全ての生命の形は、生命発生以来の三十八億年の生死の上に成り立つものである。生死の上に成り立つとは生死を内に包むことである。生死の上に成り立つものとして、絶えず生死しつつ維持してゆくのである。維持してゆくとは三十八億年の上に現在を加えて包んでゆくということである。生死に於て自己の形を見るということは生に死を映し、死に生を映すことである。死は何処迄も我ならざるものとなることである。今生きているこの我が否定されることであり、無くなることである。而して死に生を映すということはそこに真個の生があるということでなければならない。死が絶対の無となることならば、そのことは絶対の形が現れるということでなければならない。私はそこにこの我の転回がなければならないとおもう。それは生死の矛盾を自己とするものである。それは今の喫茶喫飯を三十八億年の営為の上になす自己である。環境と主体、偶然と必然を自己となすことである。世界が世界を創り、宇宙が宇宙を見るのである。太初よりの無限の力がはたらくのである。そこに自己となるとは、このわれはその大なるものの現れであり、大なるものの現れとしてわれがはたらくということは大なるものがはたらくことである。このわれの生死をこの大なるものの現れと知るとき、絶対の無は絶対の有となるのである。道元は木も一時の位、灰も亦一時の位という。私は彼は斯る立場から語ったのであるとおもう。生も一時の位であり、死も一時の位であるのである。生を死に映し、死を生に映すときに形成があるのである。そこに生命は自己を見ゆくのである。

 外は何処迄も内ならざるものである。若し外が直に内であるならば内外相互転換のはたらきはなく、そこに形成作用を見ることは出来ない。内を映した外は内となるのではない、いよいよ大なる外となるのである。われわれが死を生に転ずべく努力した外はいよいよ大なる死をもって迫ってくるものとなるのである。矢は弾丸となり、重火器となり、爆弾となり、原子爆弾となるのである。敵を殺すものは自分をも殺すものである。そこに相互転換的世界があるのである。環境として否定して来るものを変革することは、亦われの変革を要求するものを作ることである。そこに技術としての無限の形の展開があるのである。よく言われる時代が違うという言葉はここより出てくるのである。外が何処迄も内ならざるものとして、環境が我ならざるものとあるということは、内と外、我と物との出合いは偶然ということでなければならない。太古に獲物を求めて山野を歩いた人々にとって木の実やけものに出逢うか出逢わないかは全く偶然であった。それはたまたまという言葉に言い表わされるものであった、経験の蓄積とはそれの蓄積である。私達は経験の蓄積によって自己の行動の体系の中に組込んでいった。内を外に映したのである、身体の秩序に随わしめたのである、そこに偶然が必然となったのである。併しそのことは偶然がなくなったのではない、偶然は必然に対するものとしていよいよ大なる偶然となったのである。生命は何処迄もわれならざるものに対するのである。

 われわれは単にわれならざるものに対するのみではない。われの出で来るところもまたわれならざるものである。私達は親より生まれる。親はわれならざるものである、われならざるものより生れ来ったものとしてこのわれの出生は偶然である。父と母の結婚も偶然である。私が母に受胎された日に若し父が所用があったとすれば、他日父母の間より生れたのはわれならざるものである、われと言えるものの存在は斯るあやうさの上にあるのである。偶然として、われならざるものとしてこのわれがあるということは、このわれはわれならざるものの現れとしてあるということである。われならざるものとしてこのわれをあらしめるものは、このわれを超えた大なるものでなければならない。このわれがそれによってあるものとして見るべからざるものでなければならない。併しそれが見るべからざるものであるとき、その現れとしてのこのわれはあり得ないものとならなければならない。そこに見るべからざるものが見られるという意味がなければならない。私はそこにこのわれの自覚があるとおもう。大なるものの現れとして、このわれが自己を見ることが大なるものを見るということなのである。このわれは生命として出現する、生命として出現したものとして生命維持の欲求をもつ、併しそこには未だ自己を見るということはない。自己を見るというには大なる生命に自己を映すということがなければならない。このわれがそれによってあるものとして見るべからざるものであるというのは、そこに自己を映し見るということがないからである。自己を見るということは大なるものに映したということであり、大なるものが現われたということである。それが前に書いた製作的生命である。製作的生命としての経験の蓄積はわれをあらしめるものが自己実現的にはたらくものとなったということである。このわれが見るのではない、大なる生命が自己を見るものとして、このわれに現われたのである。而してこのわれを大なる生命の現れとして、大なる生命が自己を見ることは、このわれが自己を見るものとして現われるのである。私はわれわれの自覚はそこに成り立つとおもう。自覚は大なる生命が自己を見るところに成立するのであり、それはこのわれの自己実現として、われわれは無限の努力をするのである。努力とはこのわれの欲求を超えて大なる世界を実現せんとする営みである。身を捨てて根源的なる ものを出現させんとするのである。そこに内外相互転換はあり、蓄積があるのである。 自覚的生命としてわれわれの営為は無限に自己の中に自己を見るはたらきである。自己の中に自己を見るとは見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなることである。私は曽って刃物を商うものであったが、作られた刃物は更に鋭利なる力能を呼ぶのである、更なる硬度を、更なる研磨を求めるのである。勿論一片の鉄が呼ぶのではない。人間がおれの生命の形相を発展させる営為としての、截断の能力に於て呼ぶのである。刃物の能力は生命の形相実現としてのこのわれの能力であり、その力が、力の中に更なる力を求めるのである。そこに刃物の呼び声があり、われわれはその所有する技術を切磋しそれに応えんとするのである。そこに作られたものが作るものとなり、見られたものが見るものとなるのである。私はわれと物はそこから現われるのであるとおもう。我というものがあるのではない、我は物によって現われるのであり、物というのがあるのでもない。物は我によって現われるのである。物が我によって現われ、我が物によって現われるということは、我と物はより大なるものの現われとしてあり、物と我はより大なる形相としてあり、より大なるものの形相実現的にはたらくものとしてあるということである。斯るものとしてより大なるものは全存在ということでなければならない。われわれの意識の上にあるもの、現れてくるものはより大なるものの形であり、より大なるものが自己の中に見た自己の姿でなければならない。自己の中に自己を見るとは、見られたものが見るものとなることとして、より大なるものが自己を見るとは全存在が自己を見ることである。全存在がはたらくものとなるのである。色が色の中に色を見、音が音の中に音を開くのである。距離が、土が、硬さが、重さが、森羅万象悉く自己の中に自己を見るものとなるのである。勿論土や鉄が内面的発展をもつのではない、われわれの製作を媒介として潜在す るものを露わにするのである。色彩は画家の目を通じて自己を露わにし、音響は音楽家の耳を通じて自己を露わにするのである。土は農夫によって、鉄は鍛冶工によって、木は大工によってそれぞれ自己を露わにしてゆくのである。世界は爪楊子のようなものから航空機のようなものまで数知れない種類の物があり、それを作る職業人がいる。それによって形が生れるのであり、それは全てより大なるものが自己を露わにしてゆく姿としてあるのである。この全存在がより大なるものによって統一されてゐるのが世界であり、より大なるものは世界が世界を見、世界が世界を作るものとして自己を実現してゆくのである。われわれもそこに見られるのである。私は呪とは斯くこのわれがはたらく根底に世界としてのより大なるものの自己実現のはたらきを見ることであるとおもう。

 このわれの根底により大なるもののはたらきがあるということは、このわれはより大なるものの現れとしてあり、現れとしてあるとは自己の中に見出でた自己として、このわれがはたらくことがより大なるもののはたらくということでなければならない。形成作用はそこにあるのである。自己の中に見出でた自己が、更に自己の中に自己を見るのである。そこにより大なるものは自己の形相を鮮明ならしめるのである。一本の爪楊子を削り、一 枚の鎌を鍛えることは、より大なるものが自己を実現する行為として世界を形作ることである。このわれは世界を実現するものとして、はたらくことは世界を内にもち、世界を見るものとなることである。このわれが世界を現わすものとなることである。前に書いた如く、このわれは宇宙の一塵にも比すべきものである。併しこの一塵ははたらくことによって全存在を自己の現れとするものである。

 併し全存在を一塵の現れとなすことは一塵が全存在となることではない。一塵は何処迄も一塵として、全存在の現れとなることが出来るのである。死するものが生きんとする努力に於て出現するのである。うたかたの命の悲しみの中より転ずるのである。生死する身体に具現するのである。生死する身体の具現として、絶対現在として具現するのである。内外相互転換としての生命形成に於ては、内外は常に対立しつつ一である。一即多・多即一として生命は形成してゆくのである。一の方向に世界が成立し、多の方向にこのわれが成立するのである。而して形成とは世界にこのわれを現し、このわれに世界を現わすことである。内外相互転換的に世界とわれが現われるのが今であり、今が生命形成の形として無限の過去と未来をもつのが絶対現在であり、永遠の今である。一を見るのでもなければ多を見るのでもない、一即多・多即一を見るのである。消えてゆくことが現われることである一と多を超えて包むものを見るのである。生死として自己を現わしてゆくものを見るのである。生死するこの我が一瞬一瞬の営に於て、生死として自己を現わしてゆくものに触れるのが絶対現在である。生死として自己を現わすものは全存在である。今に於て全存在がこのわれに現われるのである。私はそこに呪の実現があるとおもう。呪とは内と外、世界とわれとが動転しつつ絶対現在としての形を実現することであるとおもう。般若心経にも「故知般若波羅密多。是大神呪。是大明呪。是無上呢。 是無等等呪。」と説く。 色即是空としての有限が無限、刹那が永遠としての形相実現に呪を見るのである。それは対立するものが一として無限のはたらきであり、一なるものが自己を見るものとして形より形へである。そこに創造の根源があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

眼晴

 正法眼蔵の第五十八、眼晴の中に天童和尚の「秋風清く、秋月明らかなり、大地山河露眼睛なり。」という言葉がある。私はこの言葉は見るとは何ういうことかという問いの解明に深い示唆を与えるものであるとおもう。眼睛とは瞳である。瞳とは光りを介してこの我が他と関るところである。斯る関りが見るということである。見るとは如何なることであるか、私は私達の見るということは生命の自己形成を背後にもつとおもう。生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とする無限の形成である。外を食物的環境として身体を形作ってゆくのである。内外相互転換とは摂取と排泄である。絶えざる摂取と排泄によってわれわれは身体を形成してゆくのである。斯る食物は食物連鎖的である、有機物は有機物を食うことによって栄養とするのである。光合成をもたざる動物は他の生命を捕獲することによって生長と生存を維持するのである。動物はその食の獲得に行動するものとして動物であり、その行動圏を自己の空間とするのである。目は斯る行動圏を空間とする機能として成立するのである。禿鷹は三千米の高所より地上をありありと見ることが出来るという。併し見るのは餌としての野鼠だけであると言われる。そこに動物の目があり、空間があるのである。食物連鎖は弱肉強食の世界である。それは常に生死を賭けた世界である。生命は斯る生死の中からより大なる機能を見出してゆくのである。捕えんとし、逃げんとするところより機能を発展させてゆくのである。感覚はより精緻となり、より大となるのである。私は生命は食物連鎖を内的矛盾としてより大なる形相を見出してゆく一大体系として把握したいとおもう。視覚というものも斯る生命形成の発展の内容として捉えるべきであるとおもう。生存競争は修羅の世界である。而して闘争なくして生命の形相はあり得ないとおもう。修羅に於て生命は自己を見出でてゆくのである。目は内外相互転換の外を拓いてゆく尖端として修羅の中に発展をもつのであるとおもう。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは見出した形が見るものとなることである。見出でた形がより大なる機能を有するものとして次の形を見出してゆくことである。そこに経験の蓄積があるのである。経験の蓄積とは過去と現在と未来を現在の行為に於てもつこ とである。外としての偶然を内としての必然に転化せしめることである、探すものより、作るものとなるのである。生命はここに百八十度の転回をもつのである、食物をもって距てられた個体は製作に於て協同するものとなるのである。人間が最初に作ったのは食物としての栽培であった。それは自然の力を人間が駆使しなければならないものであった。墾し、耕耘し、水利をもたなければならなかった。然も天災は人間の努力を絶えず無にしたのである。中国の王権は水利事業の上に成立したと言われる。そこには大なる集団の力が必要であった。多くの人々が一つの力となったのである。製作の発展はより大なる力を必要とした、そこに人類は個を超えた一として生存し、人類一の自覚をもったのである。私はそこに目も亦製作的生命の目とならなければならなかったとおもう。降雨、寒暖のために天文を知り、水利の為に地理を見る目となるのである。人類一の実現の為に鋭さの奥に柔和を湛えた目となるのである。

 生命が内外相互転換的に形成的であるとは内外をあらしめるものが自己を実現してゆくということである。枝穴にすむ蟹は偏平であり、泥中に生きる鰻に鱗が無い。空中と羽根は鳥に於て不可分である。形成的生命として形は機能であり、機能は形である。生命は内外相互転換的に内外一として自己を形成してゆくのである。自覚的生命とは斯るものが製作的になったということである。人間は手と言葉をもつことによって製作的となった、製作的となったとは表現的となったということである。外を物として、物の形に身体を見てゆくことである。製作とは物に自己を実現してゆくことである。物を作ることによって自己を見てゆくのである。物を作ることによって自己を見てゆくということが世界形成的ということである。

 物を作るとは如何なることであるか、物は私達が作る、併し私達は物の法則に随うこと なくして一物を動かすことは出来ない。物を作るとは物の中に深く入っていって物の性質を知ることによって可能である。物の性質に随って私達の生活に合う如く形を変じてゆくのが作るということである。私は鎌の販売に携わったものであるが、鉄というものは人間の製作的生命の翳を宿すとき無限の性質の奥行きをもつものである。鎌を作るというのは鍛造の温度、焼入れの温度によって千変万化する鉄の性質の中から、切味という唯一点を見出すことである。その為に作るものは切れるということを目指して鉄の化身となるのである。それは切れるという目的の実現としてこの我の実現であると共に、鉄の化身として鉄自身が何処迄も自己を展開してゆくものである。外が開けてゆくことが自己が展けてゆくことであり、自己がけてゆくことが外が開けてゆくことである。私は芸術の創造の如きも斯かるところから考えられるとおもう。画家は通常の人が見ることの出来ない美しい色を見ると言われる。描くことによってさまざまの色が現れてくるのである。さまざまの色が現われてくるとは、今迄見えていなかったものが見えてくることである。描くことによって目の中に色が色を分つのである。赤や緑が自己の中に無限の色の系列を見、画布にその一点を決定するのである。画家の目は色彩と化し、色彩の中に消えてゆくのである。色彩が色彩を見、色彩が内面的発展をもってくるのである。而して斯る色彩の内面的発展は画家が描くことによってあるのである。描く手を動かすものは作者の生命である。描くとは作者の生命の表出である。色彩が色彩を見るとは画家が自己を見ることであり、描かれたものは作者が見出でた自己の形象である。作者が対象に消えることは、対象が作者に消 えることである。形はそこに新たな形として生れるのである。そしてその形から対象が見 られ自己が見られるのである。生れ継ぎ、生み継ぐことによって対象があり、自己があるのである。そこは自己が対象の中に消えることによって自己があり、対象が自己の中に消えることによって対象があるのである。形が形を見、世界が世界を限定するのである。われわれの自己が対象の中に消えてゆくということは、製作する世界として開かれてゆく対象に招かれるということである。色彩が色彩を見る無限の深さに呼ばれるのである。そこにわれわれの行為があるのである。われがあるのでもなければ、対象があるのでもない。表現的世界の中から自己が見られ、対象が見られるのである、そして見られたものが見るものとして自己と対象があるのである。故にわれわれは表現的世界に還ることによって真個の自己に接するのである。自覚的生命として全てあるものは表現的にあるのである。私は斯るものを宇宙的生命が自己を見るというのである。目は見るものであり、対象は見られるものであるというところからは物の内面的発展ということは考えることは出来ない。目は製作の目として、宇宙的生命が視覚的に自己を露わにする器官である。絵画の如きはその最も純なる内容であるとおもう。

 「秋風清く、秋月明らかなり。大地山河露眼睛なり。」という言葉も斯るところより出てくるのであるとおもう。大地山河露眼晴とは大地山河が自己自身を見ることによってあるということであるとおもう。私はそれを尋ねるためにわれわれにとって山河とは何かを問いたいとおもう。私は生命は内外相互転換として、外があるためには内がなければならないとおもう。外の形が生れるためには内の形が生れなければならないとおもう。そこに生命の形成があるのであるとおもう。斯る形成の外の方向に物があり、内の方向に生命としての身体があるのである。その意味に於て空を飛ぶ鳥や、地を這う虫は山や河をもたないとおもう。人間にとって山や河は、行路を遮る山や河であり、幸としての生命を養う物を生み出し、恵んでくれる山や河である。行路の難渋はわれわれに強靭な四肢を育くんでくれるものであり、恵みの食物は豊かな身体を作ってくれるものである。それは同時に私達の情緒である。獲得した強靭な脚にとって峻険な山に登ることは喜びである。私達は大なる山に尊厳の情をもつ、私はそれは山を登る力の表出と無縁ではないとおもう。私達は雲に対して尊厳の情を抱かないのは力の表出を伴わないところにあるとおもう。

 全てあるものは生命の自己形成としてあり、生命の自己形成は宇宙の自己形成としてあるのである。山や河は生命形成の自覚の露わなものとしてあるのである。眼睛も亦そこより生れ、そこに働くのであるとおもう。木の実や薪、茸やけものを獲る山、脚力と山、魚を追う河、水浴をする河、我と山河は斯るものの自覚として出現するのであり、出現は我と山河が形成として自己自身を見ることである。「秋風清く、秋月明らかなり。は斯く見ることが成立する純なる情緒であるとおもう。純なる情緒とは、形成が形成自身を見ることである。茸やけものを獲ることや、魚を追い水浴することを離れて、山河と我が形に於て映し合うことである。欲求や生死を超えて形成の永遠の相に目を移すことである。山河の形に我を見、我の形に山河を見るのである。そこには我があるのでもなければ山河があるのでもない。山河は我であり、我は山河である。秋風清しは映し合う我と山河がそこに透明にしてありのままに一なるのである、月明らかなりは我と山河が明らかな形に映し出 されるのであり、その明らかな形は山河が山河を見るのであり、我が我を見るのであり、 生命が生命を見るのであり、宇宙が自己を露わにするのである。

長谷川利春「自覚的形成」

魅力

 知れば知る程人間ほど不思議なものはないとおもう。この間も本を読んでいると人間の脳細胞は百四十億あり、その情報容量は百四十億の百四十億乗である。それは全宇宙の電子の数に匹敵すると書いてあった。一寸ぴんと来ない話である。兎に角途方もない数字である、一寸考えただけでも私達の身体は六十兆の細胞をもつと言われている、その細胞の一々が数多の電子をもつのである。人類の数は六十億に近いと言われる。その全人類をもってしても日本海を埋めることは出来ないであろう。人類は地球の極一部に過ぎない、その地球は太陽系の一微小物である。銀河系には太陽系のようなものが約一兆個あると言われている。更に宇宙には銀河系のようなものが約一兆系統あるそうである。その恒星が宇宙に占める質量は約10%であり、後の90%は目に見えない星間物質と言われるものだそうである。私の貧弱な頭では唯混絡むばかりであるがその電子量に匹敵するということは、私達の頭脳は宇宙にこれ迄起きたこと、これから起きるであろうことを内容とし得るということである。唯人の生涯にはたらくのはその十数%であるらしい。

 先日井上徳二さんが「以前は歌会に若い人が多数出席していたが今は殆んど見ない」と述懐していた。若い人を見ないということは、若い人を魅きつける力がないということであろう。それでは魅力とは何なのか、私は深大な力を宿す頭脳は世界を自分の内容としようとする要求をもつとおもう。世界を知り、世界を表現しようとするのである。私達は生命としてそれを生死に於て宿すのである。田を耕し、布を織り、家を建てる。それらは全て生きるために環境を適応さす努力である。努力とは環境を変化さすことであり、私達はそこに新しい力を獲得したものとなるのである。このように環境を作り、環境に作られるのが世界である。私達はその力を人類としてもつのである。私達ははたらくものとして自分の世界をもつ、それは人類の世界を分有するものである。分有するものとして絶えず世界に自己を映し、より大なる自己の世界を作ろうとするものである。私は魅力はそこから来るとおもう、自分の展いた世界から全世界を見、全世界に自分の世界を映す、そこに生命の躍動があるのである。生命の躍動は生命の実現である。

 歌が出来ないという嘆きをよく聞く。創作とは現われて消えてゆく日日の営みを、祖先以来の言葉の中に表現するということである。自分の営みを日本人が無限の過去から伝承し、無限の未来へ伝達する言葉の体系の中に入籍するということである。荒野を美田にするということである。努力を必然とするのである。ましてそれが自己の世界の表現を超え世界の表現となるには大なる力能が必要である。併し大なる世界を自己の表現に見出し、世界に自己を映してこそ他人を呼ぶことが出来、他人も応えることが出来るのである。

 生命は危機としてある、危機とは死と背中合せにあるということである。人間は物を作って生きるものとしてそれは常に課題をもつということである。よく新聞などで脱サラという記事を見る。それは自分の生に問題をもったということである。国家も世界も問題をもつことによって新しい形へと転じてゆくのである、それが世界を創るということである。世界を映し、世界に映さるとは危機と克服に於て世界が転じてゆく処に自己も亦転じてゆく処である。私はわれが表現すべきものは、世界と自分がそこから見られるものでなければならないとおもう。

 私は大正生れである。私の作品は大正的ロマンの残像を引摺っているようにおもう。みかしほの中には浪花節的情愛を多く見かける。それが悪いというのではない、唯未来を指呼する若い人を招き得ないだろうとおもうのみである。

長谷川利春「自覚的形成」

人間回復としての文化

 文化とは生命がその形成作用に於て内面的必然をもったということである。私はその例を一番卑近なる食文化の中の漬物にとりたいとおもう。漬物は野菜の塩による保存食である。私はそれが塩と野菜の間は文化とは言われないとおもう。それが文化となるためには糠とか糀とかが加わらなければならないとおもう。糠とか糀とかが加わったということは 新しい形が生れ、新しい味が生れたということである。そしてその形が次の形を生むということが文化の創造ということであるとおもう。次の形を生むとは形の関り合いの中から新しい形が生れることである。或る家の漬物に昆布が加えてあったとする。或る家の漬物には柿の皮が加えてあったとする。その二つを関り合せることによって、新しい味の新しい漬物を作り出すことが、形の中より次の形が生れるということである。食物は一々が異なった味をもつ、それを組合せることによって無限の形が生れてくるのである。無限の形が漬物の世界であり、形の中から形を作ってゆくのが漬物の創造である。そして生れた形と、更に形が形を生んでゆくのが食文化の中の漬物の文化である。そしてこの文化を生んでゆくものは舌のよろこびである。

 何故に塩と野菜の食物としての結合は文化ではないのか、私はそこに生命形成があるとおもう。生命は内外相互転換的に形成的である。外とは我ならざるものである、我ならざるものとしてその獲得は偶然である。虎は一夜に千里を走ると言う、それはそれだけ走らなければ獲物に出会わないということであろう。人間はそれを経験の蓄積に於て必然に転ずるのである。蓄積するとは再現することである。例えば稲を山野に発見して持ち帰り、その時に忘れたか落とした統が芽生えたとする、それを播種することによって芽生えをもつのである。それは必然の原点である、併しそれだけに終るならば私は稲作文化とは言い得ないとおもう。生育の為に溝渠を作り、保水の為に曲を作り、収穫保存の為に容器を作ってゆくところに稲作文化があるとおもう。多くの経験を一つの行為的体系としてまとめるのである。偶然が形の内面的要求に於て必然となるのである。

 私は私達が偶然としてもつ対象は本来生命として主体となるものであったとおもう。 生命が内外相互転換的であるとは、転換的に一なることである。米は我ではない、我は米ではない、併し有機質として一つである。鉄分や燐分が無機質であるとしてもわれわれの身体の組成物質として一なるものである。われわれの身体が断る組成であるとは、われわれの形とは宇宙の見出でた宇宙の形であるということである。私は私達の内外相互転換とは、宇宙が見出してゆく宇宙の形としてあるとおもう。斯る宇宙を形成する一々の要素が宇宙を形成するものとして、宇宙の中心の意味を有し、一々が宇宙を映すところに一々は否定し合うものとして絶対の他となるのである。斯る一々の他者が形成するものとして一なるところに内外相互転換はあるのである。一々の他は多として、一即多、多即一なるところに形はあるのである。一即多、多即一とは形成的ということである。

 形成が一即多、多即一として、一々が世界を映すことが露わとなったのが生命である。多としての一々が世界を宿すのである。そこに身体が成立するのである。身体は無数の他者との関りを自己の中に蓄積し、統一するものである。無数の一々の関り合いが宇宙の姿である。その関りを多としての個が内容としてもつのが身体である。それは一瞬一瞬の関り合いの統一である。斯る統一が時間であり、身体は時間をもつものとして身体である。原子と原子の関り合いが宇宙の姿として、それを蓄積し統一することが宇宙を写すことであり、宇宙を写すとは宇宙がそれによって自己自身を見てゆくことである。

 身体が斯く宇宙の自己形成として、宇宙を写すことが身体の形成であるとは、身体は欲求的であるということである。身体は無限に他者に関ることによって宇宙を写し、自己が小宇宙たらんとするのである。他者と関ることが自己形成であるために、他者と関ることによって自己を作る機能が生れなければならない、生れた機能は更に他者を欲するのである。食本能と食物環境は斯る形成として見られるのであるとおもう。そして生物は如何なるものも宇宙を写すのである。

 宇宙を写すものとして生命が自己形成的であるとは自己維持的であり、自己保存的であ る。自己保存に於て一瞬一瞬の内外相互転換を蓄積し統一して自己であり続けることが出来るのである。自己保存とは宇宙の形成的意志である。而して多としての万物の一々が世界を写すことによって個があるということは、他としての個と個の関り合いはその一々が内包する世界と世界が衝突することである。食物的世界は奪い合う世界であり、本能の世界は闘争の世界である。個的身体は宇宙が一即多として自己を見、自己を実現した小宇宙としての世界である。併しそれが相互否定として闘争の世界であるとき未だ真に一即多、多即一の世界が現われたということは出来ない。世界形成的に一即多、多即一とは、一が多を成じ、多が一を成じる世界でなければならない。対立するものは相互に生かし合う世界でなければならない。多の対立は根底に一をもち、その一にかえることによって真個の自己を見るのである、それが相互に生かし合うことであり、多即一ということである。

 私は斯かるものを生命の自覚に求めたいとおもう、自覚とは自己を知るものとしてはたらくということである。自己を知るものとしてはたらくとは写されたものがはたらくものとなることである。身体はもともと宇宙を写し写されたものがはたらくものとして形成されたものであった。そして写されたものがはたらくとは内外相互転換的であった。内外相互転換的とは食物を摂ることによって身体に化すということである。併しそれは生来的として与えられたものである。身体に化すとは外が内となることである。自覚するとは斯く外を単に食物として対するのではなく、広く食物がそれに、よってある食物的環境に拡大するものである。それが写されたものがはたらくものとなることであり経験の蓄積である。それは無限に内と外とが写し合うものである。外的表象として環境に物が生まれ、内的表象として身体に記憶とか想像が生れるのである。そして記憶や想像は物を写し、物は記憶や想像を写すのである。斯る発展の内的表象の方に必然が生れ、外として物の偶然と対すのである。生命の形成的展開の肯定面に必然が生れ、否定面に偶然が生れるのである。故に必然の発展によって偶然がなくなるのではない、一つの偶然を必然の内容とすることはより多くの偶然を生むことである。私は偶然を必然の母胎と見たいとおもう。必然との交叉の底には必然によって達することの出来ないものがあるようにおもう。それは暗黒が同時明光なるものである。星は目に見えない暗黒の微粒子が集まり、集団となったエネルギーによって灼熱し光り輝く存在になったと言われる。私は偶然と必然に斯るものにも似た関係があるようにおもう。

 私は文化とは斯る必然としての内面的発展の形象であるとおもう。内面的発展は外と内とが映し合う無限の発展である。形が形を生んでゆくのである。外に物が形をもち、内によろこびが形をもつのである。記憶や想像は外に物を見出した内のよろこびの形である。そしてかなしみは外に物の消えた内の形である。私は前に漬物のさまざまの形を生んでゆくのは舌のよろこびであると言った。私は漬物のみではなくして全て人類が見出でた食物の形は舌が見出でたよろこびの形であるとおもう。そしてその形は記憶と想像が生み出したのである。よろこびかなしみは単一なる一つの感情ではなくして、外に形を見ることによって無限に深まりゆくものである。生命は無限の形成作用であり、それは内と外に無限の形を見てゆくものである。而して斯く二方向に形を見るということは形成的に一でありつつ異なった方向をもつということでなければならない。私はそれを一つは環境の方向に見、一つは身体の方向に見たいとおもう。一つを物の方向に、一つをよろこびかなしみと しての生命の方向に見たいとおもう。そしてよく言われる文明と文化もそこに分ちたいとおもう。勿論それは前に言った如く根幹に於いて一である。

 全ての生命は身体形成的であり、生命発生以来三十八億年の内外相互転換に於て作り出した形である。その内言語中枢をもつのは人間だけであると言われる。人間だけがもつということは、生命が内外相互的に宇宙を表わす最大最深のものとしての出現をもったということであるとおもう。それは三十八億年の生命形成を一望に見、形成的に操作する力をもったということである。私は生命はその三十八億年の内外相互転換に於て無限の層をなし、その層に於ておのずから表現に深さ、高さを異にするとおもう。後から出現するものは前の矛盾を克服したものとしてより大なるものである。

 形成としての感覚には二つの質の異なったものがあると言われる。一つはくり返すことによって鈍磨してゆくものであり、一つはくり返すことによって鋭敏となってゆくものである。前者の方向に嗅覚・味覚があり、後者の方に聴覚・視覚があると言われる。味覚は身体に対象が直接するものであり、嗅覚は近縁するものである。それに対して聴覚・視覚は遠くの対象に関るものである。事実私達はいくら美味しいてんぷらでも五日も続けて食わされると見たくもなくなる。好いにおい、悪いにおいでも時間が経つにつれて感覚が 鈍ってくる。それに対して聴覚・視覚は何の音・何の姿であるかを判別しようとする。それを持続することは微細精緻なるものに分け入ってゆくことである。

 生命の原初の状態に於て、内外相互転換としての外は身体と接触するものにあったとおもう、触覚が全ての感官であったとおもう。それが生命の発展により他の生命を捕捉して食用とするようになって行動が必要になり、さまざまの機能が生れたのであるとおもう。行動の拡大が空間の獲得であり、それに至る無限の内外相互転換が時間の創出である。より大なる時間・空間は生命の発展の様相であるとおもう。私は目や耳が何時如何にして出来たか知らない。併しそれは生命の形成的発展に於て機能し続けた感官であるとおもう。それに対して舌や鼻は生命形成の時間・空間の発展より取り残された感官であるとおもう。そこに質の異なる感覚系統が出来たのであるとおもう。

 芸術として表現される感覚はこのくり返すことによって鋭敏となってゆく内容であると言われる。見ることによって鋭敏になるとは形の中に形を見ることである。画家は私達の見ることの出来ない美しい色を見ていると言われる。色の中に色を見るのである。赤の中に赤を見るのである。色彩が色彩を分ってゆくのである。そこにわれわれの見ることの出来ない美しい色彩が生れるのである。そこに色彩の群が生れ、色彩が色彩を生む体系が生れるのである。目が色彩の中に色彩を見たとき、このわれの生命が生命の相を見たものとして、生命の中より溢れ出た生として表現衝動をもつのである。それが絵画である。音であるとき音楽である。

 目は最も広く対象に接するものとしてものの形は最も多く目が決定する。而してものの形は前にも言った如く無限の内外相互転換によってなるものである。無限の内面的発展を潜めるものである。生命はものの形を目をとうして決定するのである。併し目は対象を変革することは出来ない。目が形の中に形を見るとは手を加えた目となることである。そこに物の製作があり、生命の自覚的発展があるのである。形は斯る製作に於て自己の中に自己を見るのである。目は斯る製作的生命として形の中に形を見るのである。手を加えた目となるとは全身的となることである。それに於て対象を変革するとは自己を変革することである。物を作るとは自己を作ることである。そこに目は内面的発展を見る目となるのである。目は自己自身を見る目となるのである。私はそこに味覚・嗅覚のもつ表現内容と、視覚・聴覚のもつ表現内容が異なるとおもう。味覚は舌のよろこびであり、嗅覚は鼻のあらわれである。視覚は目のよろこびであり、聴覚は耳のよろこびである。共にその形の展開として文化である。併し視聴覚は自己の根底に還ってゆくのである。形の中に形を見るもの自身を見るものとして永遠の形相をもってくるのである。味覚・嗅覚が時間・空間の中に現われて消えてゆくのに対して時間・空間を包むものとなるのである。否味・嗅覚も形が形を生むものとして永遠を宿すものであった。併しそれは永遠を表わすものではなかった。それに対してくり返すことによって鋭敏になるものとは、永遠が自己の形を表わすということである。そこに絵画・音楽がより大なる文化とされる所以があるとおもう。絵画は内面を表わす形となり、音楽は創造の律動を表わすものとなるのである。そこに文化は真の具体をもつのであるとおもう。

 色彩が色彩を見ると言っても最初から色彩の中に色彩を見るものとして形が表われるのではない、製作的生命として形が表現されるのは物を写すということである。物を写すことによってわれわれは内なる力を見るのである。人間が最初に描いたものは狩猟の豊饒を祈っての鹿や猪等の姿でと言われる。それは必ずしも美しい色彩、微妙なる線を見ようとするがためではなかったであろう。併し一つの形は更に確かな形を要求する。最初は単純な色彩であり、単純な線であったであろう、それが更に鹿らしく、猪らしい色彩と線を要求するのである。それは描くことによって獲得した目によって次のイメージを創出することである。それは新しい色彩であり、新しい線である。そこに作者は新しい形と共に新しい自己を見るのである。そこに視覚は内面的発展をもつのである、目は深くものを見る目となるのである。それは更に的確に対象を把握することである。自己は新しい色彩、新しい線を見ることによって力をもつのである。斯くして目のよろこびは新しい色彩、新しい線へと向うのである。食文化が舌のよろこびに止まるのに対して、目のよろこびは全自我のよろこびとなるのである。描かれたものを視覚の世界として、描く力を世界の創造力とするのである。視覚は描くことによって無限の対象を自己に映し、自己を対象に映し、世界の自己形成を出現せしめるものとなるのである。

 併し絵画は尚真に自己を把握せしめるものではない、絵画に於ても自己はその表現力にあった、自我の把握はその表現力をあらしめたものを見るのでなければならない。私は斯るものを言葉に見ることが出来るとおもう、言葉は我と汝が意志の交換をするものである。意志の交換は何のためにあるのか、それは意志が世界を志向し、世界実現的に交換するのであると言わなければならない。世界の自己実現の手段として言葉はあると言わなければならない。我と汝は世界の自己実現として言葉をもち、言葉を交すのである。我と汝があって言葉があるのではない、言葉があって我と汝があるのである。太初にことばありき、ことばは神と共にありきである。言葉は世界の自己実現としてあり、われわれは世界の実現の中に我を見るのである。唯名論者は名をもつことにあるという。名の無いところは唯混沌の世界であるという。われわれは言葉によって自己を知るのである。そして知ることがあるということである。

 言葉は道具の使用と共に初まり、物の製作と共に発展してきたと言われる、内外相互転換の発展が新たな意志表示を求めたのである。道具の使用はこの我を主体として、対象を変革することである。一瞬一瞬の内外相互転換を生命の営みとして、一瞬一瞬を統一するものとなることである。経験の蓄積として道具の出現はあるのである。言葉がそれと初まるということは、蓄積は言葉に於て蓄積されるということである。叫びやその他の記号で動作していたものが言葉によって動作するものとなるということである。

 言葉が蓄積をもち、我と汝が対するところに言葉があるとは、蓄積は我と汝をつなぐものがもち、そこより我と汝が見られることによって我と汝があるということである。私はそこに社会があるとおもう。舌も目も耳もこの我がもつのである。この我がそれによってあるものは最も具体的なものである。最も具体的なものとは形がそこから現われる根源的なものである。私はそれを言葉が形の中に形を生む社会に見たいとおもう。言葉は我と汝がその中に見られ、我と汝がその中より作り出すものとて文化が担う究極のものであるとおもう。言葉は他の文化がそれによってあるとでも言うべき深大なるものをあらはすものであるとおもう。

 言葉が形の中に形を見出す社会とは歴史的形成的ということである、歴史は時間の形相として形の中に形を見たものである。私は文化とは歴史的形成の内容であるとおもう。而して形成は内外相互転換として、形成は外的方向と内的方向をもつのである。一つは内を映した外の方向であり、一つは外を映した内の方向である。生命を物に映す方向であり、物を生命に映す方向である。私は前者の方向に制度・法律等が成立し、後者の方向に詩・民話・小説等が成立するとおもう。前者が人間疎外の方向であり、後者が人間回復の方向である。勿論それは相即するものである。疎外があって回復があり、回復があって疎外があるのである。それは一つの形成運動である。而してそれは単に一つではない、疎外は疎外の方向に内面的発展をもち、回復は回復の方向に内面的発展をもつのである。法律は愈々法体系を整備し、詩や小説は愈々心の動きを深化してゆくのである。相即的に一であるとは法律は人間の幸福を内容とし、文芸は背反・矛盾の疎外を内容とするということである。法律は勧善懲悪に立脚し、文芸は悲劇に於てより深く表わされると言われる如く、対立・否定をより深く抉ってゆくのである。それでは何故に人間を内容とするのが疎外であるか、私はそこに法という一般観念に個性が収斂されるところにあるとおもう。没個性的なところにあるとおもう。それに対して文芸が見る矛盾は流す血潮であり、そそぐ涙である。生命に直接するものであり、身体に於てあるものである。

 このごろよく言われる文化都市の建設というのは、文化の形成運動を後者の方向より捉えんとするものであるとおもう。明治維新以来の積極的な近代化社会の建設はその機械化に於て無限の未来を拓くものであった。生産の増大によって全ての苦痛に終止符を打つものであった。併し生産の増大は欲望を充足さすものではなかった。生産の増大は亦欲望を肥大させるものであった。人々は斯くして無限に生産の増大を求めたのである。量産の結果人はコンベアベルトの前に並べられ、流れてくる物に自分の工程の責を果すべく思考と感情の余裕を失ったのである。出来上った品はその計算された劃一性に於て人々に、一の形の家に住み、相似たる服を着ることを強制するのである。人は暖衣飽食の一面に、自己の中に世界を見る心の要請を喪失したのである。ここに人々が求めたのは昔にかえることであった。短歌・俳句・茶の湯・生花・書道・陶芸・詩吟・歌謡・舞踊等々、今や文化活動の名に於て日本中それ等のことに励まぬ所はないと言っても過言ではないであろう。私はこれら文化といわれるものはその一々が完結をもつとおもう。完結をもつとは作者が全体像をもっているということである。例えば短歌に於て一字一句に苦しむことはその全体のもつ意味を実現せんがためである。書道に於ても今引きつつある線は既に書いた線と、これから書く線と如何なる形に於て関るかのイメージの創出に於て引くのであろう。そしてそのイメージの浮んで来ない線はその書を捨てる他ないであろう。形は無限の過去より生れ、無限の未来を生んでゆくものである。表現に於て無限とは、形がそこに消えてゆき、形がそこより生れるものとして形の創造面であり、永遠の意味を有するものである。 私達はその永遠に自己を映すことによって真個の自己を見るのである。そこによろこびがあるのである。勿論形の中に形を見るということは既成の形を変革して新たな形を見ることであり、公民館活動の如き先蹤の跡を習うのがやっとというものによって見得るものではない。それに上記の日本文化は高い形の完成をもつものであり、混沌の熔炉の中に投げ込んで新しい形を見出し得るものではないようである。併し斯く多くの人々がそれに向うということは巨大な力である。この巨大なるエネルギーが天才によって突然凝結することもないではないとひそかにおもうものである。勿論われわれの創作も過去に招かれて、未来に語りかけるものである。唯形の変革の自覚が呼びさまされる程強烈ではないということである。そしてそれは全ての人にそれを望み得ないということである。

 人間性の喪失と回復ということは文化内容によって見ることの出来ないものである。否文化内容に於ても言葉によってのみ見られるものである。言葉の形は前にも言った如く感覚の形を超えたものである。我と汝が其の中に見られる形である。我と汝がそこに成立する形である。世界が世界を見てゆくのである。感覚も亦世界限定の我の内容として世界を映すものとなるのである。そこに言葉による表現の根源性があるのである。言葉によって人間性の喪失と回復が見られ、さまざまの文化の形が呼び起されたということは、さまざまの形は言葉に根源をもつということである。

 私は文化の形は全て身体より生れるとおもう。内外相互転換は身体が形作ることである。言葉も亦言語中枢として身体がもつのである。言葉が他の感覚と異るところは言葉は自己の全存在を表現するということである。言葉が身体を深め、身体が言葉を深めるとき、それは単に身体を深めるのではなくして、世界を内にもつ我としての身体を深めるのである。併し短歌や俳句は直に身体を作るものではない、身体を作るには動作がなければならない。私は断るものとして日本の心を最も深く表現するといわれる能楽を例にとりたいとおもう。能は猿楽から発展したと言われる。猿楽は農作物を猿に荒されるのを防ぐために、祭りなどで猿を追い払う真似をした呪術に初まると言われる。併し私は唯真似をするだけでは能楽への発展の可能性をもたないとおもう。それが文化となるためには身振り手振りが人間のよろこびかなしみの翳としてさまざまの形が生れて来なければならないとおもう。感情の翳を宿すとは動作を誇張することである。誇張するとは感情による動作をもつことである。感情を映す動作となることによって感情は自己を明らめ、自己を作ってゆくのである。感情と動作が映し合うところよりさまざまの形が生まれるのである。それは恋のよろこび、死のかなしみの表現へとつながってゆくのである。恋や死につながってゆくとき、動作を主導するものは言葉となる。動作は言葉を表わす動作となるのである。能楽は幽玄の世界を表現すると言われている。私は斯る幽玄の世界は日本人が形の中に形を見ることによって見出した世界であるとおもう。言葉と動作を繰り返す中から現われて来たのであるとおもう。洗練によって身体の深奥が表れたのであるとおもう。幽玄の世界というのが別にあるのではない、表わすことによってあるのである。それは日本の生命形成の深奥として、私達はそこに自己の深奥を覗くのであるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」