自然について

乙「この頃駅のポスターなんかでよく、自然を求めて田舎へ、文化を求めて都会へと か、森林浴とか、青い空、澄んだ水とか言った、自然への誘いの言葉を見かけるんだ。そこに都会人の精神の衰弱のようなものを感じるんだが、さて自然とは何かと問うと釈然としないんだ。それで君に問いたいと思って来たんだ。」

甲「大きな問題だね。昔から問い続けられ、僕等も問い、そして未来の人々も問いつ づけるのだろうね。限りなき謎かも知れない。而し、言葉をもつものとして、僕等は僕等の言葉で表してゆくべきなのだろうね。その意味で考えただけ語ってみるよ。」

乙「僕も具体的な問いを用意せず、自然とは何かといった問いでは恐縮なんだが、君 の答えの中から新たな問いが生まれてくると思うから頼むよ。」

甲「和辻哲郎であったように思うんだが、昔読んだ本に、自然とは経験の露はなものであるといった意味のことが書いてあったと思うんだ。そのときはよく分からなかったんだが、そこに秘密の扉を開く鍵があるような気がしたんだ。君の問いに対してもそこから出発したいと思うんだ。」

乙「あの山や川が経験なんかね。」

甲「僕達の小さい時に兎を追いし山とか魚をとりし川とか言う歌があったね。水は渇 きを癒すものとして飲む水なんだ。歩み耕すところとして大地があるんだ。山は薪を 取り、登り越えるところなんだ。川は魚を追い、泳ぎ体を洗うところなのだ。山や川が自然であるのはこのような生の対応をとうして自然であると思うんだ。」

乙 「而し、生の対応が全て自然であると思えないが、」

甲「そうだね。経験は身体を経るということが必要だが、僕は人間の身体は相反する 二つのものをもっていると思うんだ。一つは物を作るものとしての方向だ。一つは生 まれ来たったものとして、作られたものの方向だ。君が前にポスターのスローガンに、 文化を求めて都会へ、自然を求めて田舎へ、というのがあると言っていたね。それはこの二重構造の表れであると思うんだ。生まれ来った生の対応として自然があると思うんだ。」

乙「生の対応関係というのを少し説明してくれないか。」

甲「僕達が生きてゆくには身体に攝食と排泄というはたらきがあるんだ。生きている ということは攝食と排泄をもつということなんだ。それは何故にあるかという問いを超えた、直接に与えられたものだ。食うというのは外を内とすることだ。排泄というのは内を外とすることだ。外というのは我でないもの、身体を離れたものだ。生きているということは、内外相互転換的にあるということだ。内は自宅ではない外を得るために、外へのはたらきをもたなければならない訳だ。そこに動物の行動というのがある。行動とは外を内にしようとするはたらきだ。そこに生命圏というのが生まれる。よく貴方の行動半径は広いですねと言われるとき、この生命圏を基準にしていると思うんだ。この生命圏に於いては生命は外と内をもつんだ。動物が行動をもつ生命であるとき、生命はこの生命圏に於いて具体的となるんだ。そして身体を内とし、外を環境とするんだ。外を内とするのは力だ。全て生命あるものは力の表出によって、努力によって生きるのだ。力の表出によって外を内にするとは、外は我々の否定としてあることだ。環境は死として迫って来るのだ。」

乙「環境は我々がそこに生きるところではないのかね。」

甲「そうだ。死として迫って来るのは、身体は努力しなければ生きていけないということなんだ。生命は生命を否定してくるものによって生きてゆくのだ。水や火が恐怖であると共に、恵みであるとはよく言われるところだ。生きる所であるが故に、それによってあるが故に死として迫ってくるのだ。」

乙「それではその内外相互転換が経験であり、死として迫ってくるものが自然なのか。」

甲「経験は内外相互転換的だ。而し死として迫ってくるもののみが自然ではない。カ の表出に於いて生を獲得した時、自然は恵みであるのだ。」

乙「経験があらわとなるとはどういうことなのか。」

甲「人間は言葉をもつことによって、自覚者として人間だ。言葉によって自己を外にし、外にすることに自己が自らを見るのが自覚だ。我々は言葉によって内に自己を見、外に環境を見るんだ。而して環境は既に人間の自覚的内容を含むものだ。人間が作って来たものだ。その作って来た方向に歴史が成立し、作られた方向、生まれ来った方向に自然があるのだ。あらわになるとは外に形に見ることだ。その形の極限に、相互転換を失った処に我等を包む山や川があるのだ。その相互転換を失うというのは、人間の自覚構造の内容としてあるのだ。そして相互転換の動的な方向に喜怒哀楽の情緒があるのだ。主体の方向が動的、客体の方向が静的だ。生命は否定に面した時、死の方向を向いた時に怒り悲しみ、肯定の方向、生の方向を向いた時に喜び楽しむんだ。静と動とは一つの形相の両面として、あの山、あの川と唄われる如く、山や川は我々の哀楽を住まわせることによって山や川なのだ。而し哀楽はその山や川によって具現したものとして哀楽なのだ。山や川も、喜怒哀楽も作られたものの方向にではなく、生まれ来ったものの方向にあるものとして、主体的、客体的な生命圏の形相が自然なのだ、あらわになるとは斯く捉える事だ。」

乙「君は前に経験は身体を経なければならないと言ったね。そうとすると経験は身体 がするんだね。」

甲「そうだ、生命圏の主体として、身体が経験するのだ。」

乙「身体は生まれて死んでゆく有限なものだ。それに対して自然は悠久なものだ。もし自然が経験の内容であるならば身体の死と共になくならなければならないと思うが。」

甲「死と共に感覚はなくなる。そこに経験のあり得る余地はない。而し自然はある。而し僕達はここで考えなければならないと思うんだ。君が死んだと仮定して、君の自然は何処にあるのだろう。あの山もこの川も君には存在しない筈だ。それがあると思うのは、君は君を超えた目で見ていると思うんだ。悠久の目なくして自然を見ることは出来ないと思うんだ。」

乙 「君のよく言う種的、個的なるものかね。」

甲「そうだ生命形成は種的形成だ。種は個的に形成するものとして、我々の目や耳は 人類の目や耳であるのだ。我々は我々を越えた目で見るのだ。そして前に言った如く言葉によってあらわとなる時、対象を悠久として見るのだ。」

乙「人類は限りないものかね。」

甲「人類の発生は何百万年か前だと言われているのを読んだことがあるが、その限り に於いて有限なものだ。而しその前の生命があった筈だ。僕はこの我を生の全体系から考えたいのだ。生命は炭素から生まれたといわれているが、その炭素から考えたいのだ。」

乙「それは大変な事で、とても田舎の片隅にいては出来難いのではないか。」

甲「勿論如何にして出現したかというような大それたことは思っていないよ、生命とは何かを問いたいのだ。」

乙 「どのようなものとして考えているのかね。」

甲「自己形成的であるということだ。アメーバより人間へと言われるが、機能を分化 せめてより大なる時間と空間の形相を創り上げてゆくということだ。自己形成的として、生命はそれ自体が技術体系であるということだ。人間も斯るものとしてあると思うんだ。時間は技術的として形相形成的なるときに見られるものだ。それ自体が技術的であるとは絶えず新たな形を創ってゆくことだ。今の形を否定してゆくことだ。生命が時間的であるとは、技術内在的であるということだと思うんだ。僕達は技術を介して無限の未来を見るね、それと同時に技術を介して無限の過去を見ると思うんだ。僕はね人間が物を作る技術も斯る生命の自己形成の自覚としてあると思うんだ。経験を蓄積することによって、自然の技術を言葉によって体系化することによって人間は技術をもち、文明を築き上げたと思うんだ。人間がその上に立って我々の現在を築き上げたものとして、僕は単細胞に迄自分の過去を求めなければならないと思うんだ。生命が現れてから四十億年とか言われているがそれは見る事の出来ない深さであると思うんだ。人間はその頂点に立つものとして、無限の時間を孕んでいるのだ。僕達の身体を形造っている何兆という細胞の機構は、四十億年の時間の集計なのだ。成程人 間は生まれて百年足らずで死ぬ、而しそれは四十億年の生命形成の集計の身体として死ぬのだ。経験は身体の斯る二重構造に於いてあるのだ。形成は常に生命圏的だ。悠久なる自然は、悠久なる生命の外的方向としてあるのだ。」

乙「自然は最大の教師なりとは、生命のその自己形成の上に立つということなのか。」

甲「僕はそう思うんだ。 生命圏的に自己を形成する生命は、外に悠久なるものをもつ と共に、内に変じて止まないものなのだ。身体は内外相互転換的として、両方向をも つものだ。内的、外的として身体はあるのだ。よく言われる如く、人間の自覚は表現 として、身体の外化であると思うんだ。内外相互転換的としての身体は自覚に於いて、外を身体を維持する食物的環境から、身体を外に表す表現的世界とするのだ。道具は手の延長と言われ、機械は道具の延長と言われるね。 湯川秀樹博士は、物理学は関節 覚と視覚の自覚であると書いておられたが、我々の技術は身体の外延的方向への形成としてあると思うんだ。極論すれば世界は人類の自覚的身体なのだ。身体はあくまでも生まれ来ったものだ、その延長として世界があるということは、自然の技術として生まれ来った生命が自己を見る生命であるということだ。人間社会の文明は空中に築かれた楼閣ではなくして、単細胞より形成して来た生命の技術の自覚としてあると思うのだ。自然はそこから出て来る母胎なのだ。四十億年の時の深さを思うとき、ニュー トンの言った如く、真理の海の浜辺にあって、一握りの小石を拾うものに過ぎないのではないか、最大の教師というよりは自然の底に入ることなくして新しい物を生むことが出来ないのではないか。自覚とは底に入ることによって、上に築くことだと思うんだ。」

乙「よく自然にかえれと言われるね。最初に言ったポスターなんかもそれに類すると 思うんだ。而し人間は自然の底に入り、上に築いて世界を作ったとすれば自然にかえ る必要はないのではないか。」

甲「いやそうではないよ、底に入り、上に築いたからこそ自然にかえる必要があると 思うんだ。例えば動物に於いては食物と動物は生命圏として一つだ。昔こういうこと を読んだ事があるよ、馬の左右に、等しい距離に同じ量と質の食物を置いたとすると、馬は何方も食うことが出来ず餓死しなければならないと。馬が求めるとは食物が誘うことであると。それに対して人間が自覚的であるとは物を作るということだ。自己を外にすることだ。自己を外にするとは、物が外なる自己となって、この我と否定し合 うことだ。歴史の無限なる闘争はここにあるのだ。物に重圧される主体、ここに文明 社会の生命の衰弱があるのだ。而し自己を外にするとはより深大なる生命圏の創造なのだ。生命は内外相反するものから生命圏としての一を回復しなければならないのだ。そこに自然にかえらなければならない意味があるのだ。」

乙「生命圏の一を回復するとはどのようなことなのか。」

甲「何処迄も僕はそう思うという答えなんだからそう思って聞いてくれ、いつであったかこうゆうのを読んだことがあるんだ。 大脳が欠損して鳥のような頭をした少女が いた。その少女は判断力は殆ど持たなかったが、全身をもって笑い怒り、情動は非常 豊かであったと、前にもいったが作られたもの、生まれたものとしての生命圏の内外相互転換は情緒的であると思うんだ。生命は情緒的に自らを現し、我々は情動に於 いて生命を感じると思うんだ。そこに働く力の根源があると思うんだ。或る人が浜田 庄次の処へ縄文時代の土器を持って来て、その複製を頼んだところ、氏はじっと見ていたがやがて、僕にはとても作れないと言って返したそうだ。それに対して著者は縄 文時代は体格がよくて、土器を作ったのは女性であるが、女性といえども六尺豊かな 浜田氏より力が強かったので、氏はその力の表現に及ばないものを感ぜられたので ろう、と書いていたが、僕はそうではなくて、原始人の情動の激しさが力となって現れたのではないかと思うんだ。ゴーガンがタヒチに行ったのも、生命の純なるものを求めてではないかと思うんだ。僕達は最早原始にかえることは出来ない。そこで理知と情念のバランスが必要となってくるんだ。情緒は活力だ。理性はその普遍性の故に活力を枯死せしめる。そこに山や川の野の声に呼ばれる所以があると思うんだ。生命は常に今を生きているのだ。そこに理性によって衰弱させられる所以があるのだ。大地を歩み、水に手を浸すのが生命の賦活につながる所以がそこにあるのだ。」

乙「それではある時間を理性に、ある時間を自然に使うのが自然にかえることか。」 甲「僕は残念ながら十八世紀の自然にかえれの大合唱につい殆ど知らないのだ。だから僕自身の考えをいうと、今言ったのは君の駅のポスターの意味だ。自然にかえれというのは既に自然ではないのだ、自然の否定として、自然の上に築かれた文化があった。更にこの文化を否定する深い自覚としてあるものだ。十八世紀の自然主義は単なる自然にかえろうとした錯誤に於いて挫折したのではなかろうかと思うよ。人間の自覚に於いて内外相分かれたのは、より大なる時間空間の創造だ。人間の自覚が自然の上に立った如く、文化を包んだ自然を見なければならないと思うんだ。僕は自然にかえれの奥底に、禅家の日日是好日のようなものがあると思うんだ。そこに生まれ来った時間と、創ってゆく時間の統一のようなものがあるように思うんだ。勿論深大な宗教的体験をもたない僕は、もやを距てて地平を見るようなものだがね。」

乙「そうすると我々人間は自然に対してどうすべきなんだろうね。」

甲「生命が身体的である以上、一つの生態系の発展は他の生態系の衰亡を意味するんだ。人間も亦身体的として、他の生態系を駆逐して生きて来たのだ。而し一つの生態系が無限に繁殖してよいというものではないのだ。地球的規模に於いて生態系は相互否定的であると共に相互肯定的なのだ。闘うものであると共に、依存し合うものだ。

四十億年の自然の技術はそこに均衡をとって来たのだ。他の生態系を全部駆逐したとしよう。そのとき人間はどうして生きてゆくのか、それは攝食のみではなく、排泄に 於いてもそうだ。均衡のとれた生態系の共存に於いては、排泄物は植物の成長を促し、水や空気は自浄作用をもつ、而し過剰な排泄は他の生態体系の死をもらすのだ。それははね返って人間の死でもあるのだ。新聞、テレビによく報ぜられる汚染がそれだ。而して生めよ、殖やせよ、地に満てよは生命の意志なのだ。他に打ち勝ち、己が生態系を拡大すべく生命はあるのだ。」

乙「そうすると知りつつ地獄への道を歩まなければならないのか。」

甲「いや僕はそう思わないんだ。人間が他の生態系に対して卓越したのはその技術 於いてだ。技術は経験の蓄積に於いてあると思うんだ。仮説と実験が物理学の基礎となっているのも、経験の延長線上にあると思うのだ。経験は自然にあり、技術は自然の把握だ。そして自然は闘いを媒介としつつ調和を保って来たのだ。僕は斯るものと して技術は必ず調和を志向すると思うのだ。人間も亦一生態系として、他の生態系を駆逐するだろう。そのことは人間の死として迫ってくるのだ。その危機に於いて人 間は調和へと目覚めるのだ。そこに自然の深さがあるのだ。四十億年があるのだ。技 術とは常に危機の超克であったのだ。生命は何処迄も自己限定的だ、自愛としてあるのだ。自己が世界によってあると知った時に愛他となるのだ。僕は必ず生命としての地球は救済されると思っているんだ。ある人から琵琶湖の汚染は元にかえらないと問いたことがあるんだ。恐らく現在の延長線からはそうであろう。而し危機をバネとし 技術は変革だ。生の快適なる姿になると信じるんだ。これは僕の詩的空想ではない と思っているんだ。本当の事を言えば僕は今の地上の生態体系を覆して、人間が自己の底につながる自然の相に作り変えるべきであると思っているんだ。人間が技術をもつ生命であることも自然が生んだものだ。人間の創造に於いて自然は自己を完成するのではないかと思うのだ。」

乙「それは大きな問題で簡単に結論は出せないだろうね、而し人間が技術をもって自 然に対するときそうならざるを得ないのだろうね。それはそうとしてよく自然は美しいと言われるが、それに対する君の考えを言ってくれないか。」

甲「幾回もいうとおり僕は自然を経験に於いて捉えようとするものだ。そこには美も 醜もない、あるとすれば快、不快のようなものだろう。美は価値として人間の創造の 内容だ。それは自然ではなくして歴史の世界に属するものだと思うよ。例に引くのだ が、今尚呪術社会に生きるペルーの山奥を尋ねられた佐藤信行氏の著書の一節にこういうのがあるんだ。悪霊が山の上に棲むと言はれ、後にこうした観念から、万年雪をいただくアンデスの白嶺も、インディオにとっては美しい姿として目に映じているのではなく、悪魔の棲家としておそれられているのだ。たかが村境の峠ですら百鬼横行しているのであるから、あの雄大なアンデスの白嶺には、この世のありとあらゆる悪霊の親玉がたむろしていると思いおそれられているのは、無理からぬことである。我々が絶景を賞でる白嶺の輝きもそこでは恐怖の対象に外ならないと言うのだ。而しそれを笑ってはいけないと思うんだ。若しそこに生まれ、そこに住んでいたなら我々も恐怖の目で見上げるのだ。我々がそれを美しいと思うのは限りない先人の創造の努力があったのだ。我々の目は無限の時によって創られた歴史的現在の目なのだ。今住んでいる社会が自覚的生命の形相として、無限の過去を孕んでいるんだ。我々が物を見るとはこの社会の奥から見ているんだ。未開人は未開社会の奥から見ているのだ。自然の形相は斯る主体との対応関係として、何処迄も経験的なのだと思うよ、ワイルドの言う如く自然は芸術を模倣するのだ。」

乙「有難う、僕は自然を聞きながら人間の底の深さをしみじみと感じたよ。」

甲「僕も君に答える事によって、考えを明らかに出来たよ、亦来給え。」

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

神について

 乙 「大分前から神について考えたいと言っていたがその後どうなったかね。」

 甲「何しろ問題が大きくて、資料も少ないし、概観だけに止まっている状態なのだ。」

 乙「丁度僕も絶対と相対と言った問題に悩んでいるところなんだ。考えただけ話してくれないか」

 甲「いいだろう僕自身の考えをまとめるという意味で、考えながら話をしよう。」

 乙「では君は神をどういうものとして捉えようとしているのかね」

 甲「それは我々の存在の根源として、この我がそこから見られ、それによって成立し、 全ての価値がそこから出てくるようなものとして捉えたいと思っているのだ。」

 乙「根源へ要求というのはどういうところから生まれて来るのだろう。」

 甲「君が先に絶対と相対の問題に悩んでいると言っていたね、その根底には相対とし ての自己が、絶対として世界と一つになろうとする意志があると思うんだ。生死する 生命は永遠を求める生命なのだ。そこに根源を求める所以があると思うんだ。悩むと は自己が真個の自己ではないということなんだ。個と種として内に乖離をもつのが生 命なんだ。それが一として、その乖離を埋めようとするのが問いなんだ。」

 乙「我々の根源と言う時、それは我々より大きな、我々を越えた存在でないといけな いのではないのか。」

 甲「そうだ。」

 乙「そうすると君がかねがね言っている、人間が自覚的創造的として、自己が自己を作っていくというのと矛盾しないのかね。」

 甲「それは矛盾しないのだ。自分が自分を知る事が、自分を越えたものをもつことに よって初めて成立するのだ。」

 乙「具体的に言ってくれないか。」

 甲「生命は身体的にあるのだ。身体のない生命というのはない。自覚的創造というの も、この身体の活動に於いてあるのだ。内とか外とか、超越とか内在と言われるのも この身体を基準として言われるのだ。超越というのはこの身体を越えているというこ とだ。五尺の体と言われる如く、僅かな空間を有し、人生五十年と言われる如く、我々 の身体は生死する生命なのだ。而し我々が私という時、それは斯る事実的存在として の生命ではないのだ。何という名前の、何処に住み、どのような仕事をしているかと いう私なのだ。姓名は血族の無限の連続の上に成り立っているのだ。住所は先人が血と汗で拓いた処だ。職業は歴史の伝承を基礎としているのだ。それは何れもこの生死する身体を越えたものだ。そして私達は言葉と技術を用いてこの世の中で暮らすのだ。そして言葉も技術も我々を超え、我々がそれによってあるものだ。そして斯る越えたものに自分を見出してゆくのが自己創造ということなのだ。」

 乙「それでは世界が神なのか、」

 甲「そうとも言えるし、そうでないとも言えるね。」

 乙「というのは、」

 甲「普通考えているように、単に世界が我々の住む処、我々を包むものである時は、 それはまだ神とは言えないのだ。世界が自覚的創造者として、この我の自覚的創造に対する時に世界は神となるのだ。」

 乙「それはどういうことだろう。」

 甲「うん、ここは難しいところで、僕自身苦しんでいるんだ。而しここを抜いては前に進む事が出来ないので敢えて言うと、この我があるということは、何処迄も生死する身体を超えたものとしてあると同時に、何処迄も身体的にあるものとして生死するものなのだ。生きているものは死をもつものとして常に死に面しているものなのだ。生きているとは常に危機にあるということなのだ。我々は危機の克服に於いて生きているのだ。先に我々がそれによってあると言った言葉や技術も、人間が死を生に転ずる手段なのだ。この死として迫って来る力、我々の全てを一挙に無とする力に人は最初の神を見たのだ。」

 乙「それと自覚的創造とは何の関係があるのかね。」

 甲「我々が自己を見るというのは、自己を外に表して見るのだ。手の延長として物を 道具とし、道具を握って物を製作して、欲求を外に表した時から自己はあるのだ。前に言葉や技術によって自己となったという所以はそこにあるのだ。この製作的生命の 無限の発展が自覚的創造なのだ。人は製作に於いて死を超えようとして初めて世界を見たのだ。而し生きるものは死ぬのが宿命である以上、それはどうすることも出来ない巨大なものだ。そこでこの力の庇護を受けようとしたのが最初の神なのだ。」

 乙「而し人間がこの巨大な力を知るということは、何らかの意味でこの巨大な力をもっ ているということではないのか。」

 甲「そうだ、何等かの意味で持たない限り、驚く事も怖れる事も出来ないだろう。それは後で詳しく話す場合があると思うが、前にも言った如く、我々が見るというのは外に表して見るのだ。表したものの力を自己として見るのだ。」

 乙「そうとすると神は生産力の向上につれて変わってゆかなければならないと思う が。」

 甲「そうだ、新しい状況、新しい世界と共に古い神々は死に、新しい神が誕生するんだ。」

 乙「少し説明してくれないか。」

 甲「うん資料もないので僕の周辺を見ながら説明をしよう。その前に言っておかなけ ればならないのは、我々は生命としてあるということだ。生命が見るものは生命であ るということだ。作られた物も、生命の影として物であるということだ。そして生命が生命に於いて自己を見るとは生死に於いて見る事だ。世界を生死として、自己に於いて生を見、自己をとりまくものに於いて死を見たのだ。生は力だ、そして死はそれを否定するより大きな力だ。而し自覚が未だ初歩の時代は、生命が自己外化をなしていない。物も亦生命をもつものだ。物も亦生命である時、物が我々に死をもたらす所以がない。そこで死の使者として考えられたのが死んで行った人々であると思うんだ。死者がこの世に残した怨念によって、この世を亡くそうとするのだ。」

 乙「どうして死んで行った者が、この我々を否定する力をもつと思ったのだろう。」

 甲「僕はそこにも言葉や技術といったものが介在するのではないかと思うんだ。言葉 や技術をもったものとして、後世に伝えた者、そしてそのもった言葉や技術の超越的 力が死者に力をあらしめたと思うんだ。言葉や技術は物に関る。そこに死者と物力 が関る地盤があったと思うんだ。菅原道真が雷になったのも、根底にこのようなもの もあったと思うんだ。それで初めに還るのだが、一挙に人口の三分の二を奪い去る流 行病、あらゆるものを破壊し去る暴風雨、洪水その他兇事は死霊と結びついて最初の神となったと思うんだ。勿論死を運ぶものを拝むのは、拝むことによって死を免れんとしてだ。昔僕の家の近くに地神さんを祀る処があった。竹が密生していて、人々の通る道の反対側に切り込みがあり、その奥に何かがあるようであった。夕方になると祀る家の人が灯りを上げていた。竹群をとおして、小さな灯りが見えるのは宛ら幽鬼のようであった。村の人はそこを大変怖れていて、少し暗くなると通らないようであった。僕がその竹群に小便をした時、祖母は僕を連れて祀る家に行き、なにがしかの金を払っていたのを思い出すよ、今思えばあれはきっと拝み料を払って謝ってもらったのだろうと思うよ。或る日誰もいないのを見定めて、中に入って見たら、丸い石が二、三ヶとその上に瓦のようなものが置いてあった、僕はなんだと思ったのを記憶しているよ。而し今にして思えば石器時代は石が武器であり、生産の媒介者であった訳だ。戦国時代でも、印字打ちは闘争の有力な手段だったからね、大古にはそこに大なる霊力を見たのであろうと思うよ。その外、田の中や山に稲荷さんとか秋葉さんというのがあった。それはそんなに薄暗い処にあるのではなく、人々もそんなに怖れていな いようだったよ。夏の草取りの時なんか、稲荷さんの木陰でよく休んでいたものだ。恐らく地神さんは呪術に関係し、稲荷さんや秋葉さんは物そのものに関係するのでは ないかと思うよ。そして其処には生産手段の大きな変革があったと思うんだ。亦家の 中には神棚というのがあって、種々の神が祀られて鼠の巣となっていたものだ。その 中で一番力のあったのが三宝荒神であったように思うよ。飯をこぼしたり、残したりすると祖母から、荒神さんが睨んどってやと言われたもんだ。稲荷さんなんかと共に農耕社会の最初の神であったと思うよ、一番親しまれていたのが恵比須大黒の神だったよ、何しろあの笑顔だからね、而し僕は二神の本質は陸と海の生産と収穫の技術を司るものであると思うんだ。俵と鯛、そこに相当な生産手段の発展があったと思うんだ。それからあったのが氏神さんだ。それは勿論拝む神であったけれども、氏子が寄ってお祭りする神様だったんだ。そこには意志疎通と意志統一があったと思うよ、一緒に笑ったり、歓声を挙げたりする中から一体感が生まれて来るのだ。その背景に は水利とか開拓とか大規模な土木なんかが必要ではなかったかと思うんだ。」

 乙「君の言ったことは僕にも覚えがあるよ、而しそれは日本以外の国にも当てはまる」

 甲「うんそれを言われると弱いんだ。最初に資料が乏しいと言った中の一つでね。そ れでもいつか読んだ、ギリシャ、ローマの宗教、法律及び制度の研究という本には、 家族神より民族神、都市神へと新たな神が生まれてく過程が書いてあったよ、そして 後から生まれて来る神がより高次なる神として以前の神に優越するのだ。それは何も 神が優越するのではなくして、氏族は家族に優越し、都市は氏族に優越するのだ。優 越するとは内包してゆくことなのだ。外の国も同じような過程を踏んだのではなかろ うかとしか今では言いようがないんだ。」

 乙 「それで最初の死霊というのは氏神さんになってどうなったのかね。」

 甲「うんお祭りには神楽なぞというのがあってね、そこで悪霊としての大蛇退治など があったものだよ。それに祭神としての氏の上が死霊の意味をもち、その鎮めとして の面もあったようだよ。神の発展は結局生と死の弁証法的展開と言えるんではないか と思うよ。生を否定する死、死を否定する生、環境と主体の相互限定の形相が神の形相であると思うよ。」

 乙「農耕社会に於いては太陽崇拝が大変旺んであったと聞いているが、太陽神は矢張り死霊の意味をもっていたのだろうか。」

 甲「うん僕達の周辺には余り祀っているのを見かけないが、それは皇室が天照皇太神を祀られ、天皇自身が天っ日嗣として、現人神であらせられた処に原因があると思うのだが。古代文明には太陽の国と言われるところが多いね。そしてそれは恵みの神として崇敬を受けていたようだ。而し恵みとは何なんだろうか、僕は死を生に転ずる意 味がなければならないと思うんだ。死に面する我々に生を与えてくれるのが恵みであ ると思うんだ。」

 乙 「そうすると太陽神の巨大なる力も結局死霊の力ということかね。」

 甲「そう思うんだ。勿論太陽神が死霊ではなく、死霊に打克つものとしてだ。而し死は逃れる事は出来ない、そこに祈りがあるんだ。この永久に逃れる事の出来ないもの から逃れんとするところに巨大な力が生まれるのだ。時々内藤先生の古典を読む会に顔を出すのだが、その中に物忌みで外出を止めたといった記事の多いこと、古代人は死霊との関りに明け暮れたのではないかと思われる位だ。王権の巨大な力も、この死霊との関りから説明出来るのではないかと思うんだ。」

 乙「キリストの神もその延長線上にあるのかね。」

 甲「生死の問題なくして神はあり得ないと思うよ、キリストも悪鬼よ去れと言っているところから見ると、延長線上にあると言えなくもないよ、而し汝の敵を愛せよと言ったキリスト教は過去の神と截然と一線を劃しているんだ。過去の神は祀るものの神だったんだ。それは敵を滅して自分が生きる神だったんだ。キリストに於いて神は人類普遍の神となったのだ。」

 乙「そこには矢張り生産の発展があったのかね。」

 甲「あったと思うよ。」

 乙「その普遍の神とはどういう神なんだ。」

 甲「僕はキリスト教について多くを知らないし。殊に二千年に亘って数知れない人が、祈り考えた神をごうも説明する力がないよ。唯僕自身が求めた普遍なる神をあてはめて話をするだけだ。」

 乙「兎に角言ってくれないか。」

 甲「ヨハネ伝であったと思うが冒頭に、『太初(はじめ)に言(ことば)ありき、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。』とあったと思うんだ。これは前にも言った如く僕の出発点でもあるのだ。人間だけにあって他の動物に無いもの、それは言語中枢であると言われているが、人間は言葉をもつことによって人間になったのだ。昔語部によって歴史を伝承したという如く、言葉は生死するこの身体を超えたものだ。この言葉によって蓄積された経験が技術なのだ。この蓄積が世界であり、我々は自己の底に全人類を見るのだ。蓄積は世界としての社会によってなされるのだ。ここに全てがあるのだ。」

 乙「そうすると死霊はどうなったのかね。」

 甲「経験は生が死に面するものとして経験なのだ。生と死は常に闘いだ。それは常に 勝敗をもつ、その勝った集積が技術なのだ。だから逃れることの出来ない死をバネとして、言葉や技術はより大なるものとなってゆくのだ。死霊は否定として、神いよいよ大なれば、悪魔いよいよ大なるものとして、神の自己創造は亦悪魔の自己創造とし てあるんだ。」

 乙 「そうするとこの人間の行履の蓄積された世界、死をバネとして無限に創造してゆ く世界が神ということかね。」

 甲「僕はその深大なる世界に眩めく時、それが神だと思うんだ。無限の過去と未来が その中にあるもの、草木瓦礫もその目をとおしてあるもの、前に書いた言葉と技術を もつことによってこの我があるということも、斯る世界の前に立つと言うことなんだ。この底から汝斯く為さざるべからずという声が聞こえてくるんだ。」

 乙「そうすると普遍なる神というのは世界のことかね。」

 甲「神というのはこの世界の前にこの我が立つということなんだ。それによってあるもの、造られるものとして立つというとき、世界は神となるのだ。そしてこの我から世界を見るとき、氏神とか、福神とか、民族神が成立し、世界からこの我を見るとき、普遍なる神があると思うんだ。」

 乙「もう少し説明してくれないか、」

 甲「世界が経験を蓄積するといっても、世界が記憶機能をもっている訳ではないんだ。記憶をもっているのはこの僕であり君であるのだ。言語中枢は一人一人がもっているのであって、社会という普遍者がもっているのではないのだ。そして一人一人のもつ言語が生死する身体を超えて世界を構成するのだ。言語中枢も亦身体であるとき、我々の身体は生死する生命であると共に、永遠なる生命であるのだ。自己より見るとは、世界に生死する身体を見ることだ。世界より見るとは、自己に永遠なる生命を見る事だ。」

 乙「それはどう異なるのかもう少し具体的に言ってくれないか。」

 甲「世界に生死する身体を見るとは、欲求としての身体を世界に実現しようとするこ とだ。より長く生きたい。他人よりよい生活がしたいと願うことだ。民族神や都市神が戦う神であったのはそこに原因をもつんだ。俗神と言われるのは生死の相を超えないということだ。世界より見るとは、生死を超えたものによってこの我があるものとして、言葉や技術に自己を見るものだ。それは自己を消して物そのものとなり、世界となる欲求否定の世界だ。世界の声に呼ばれるのだ。物に自己を見ることによって世界によみがえるのだ。」

 乙「ものそのものになることによってよみがえるというのはどういうことなんだ。」

 甲「物は言葉と技術の所産として、言葉と技術をふくんだものだ。永遠の内容として それ自身の展開をふくんだものだ。我々は物自身の展開によって社会を形成してゆく んだ。科学も斯る地盤に於いて成立するんだ。例えば物理学なんかでも、物の中に無眼の秩序をふくんでおり、物理学者はその秩序に招かれて体系を打樹てると思うんだ。そしてそれこそが言葉の秩序なのだ。事業でもそうだ。一つ見ることによって次が見えるのだ。その呼声が神の声なのだ。僕は若い頃、名を忘れたが西洋の著名な物理学者が、有神論者であると聞いて奇異に感じた事があるんだが、彼は無限に展けてゆく 物の秩序に神を見たのであろうと思うよ。僕がよみがえると言ったのは官能的身体から創造的身体になったということなんだ。」

 乙「それでは物の内面的発展を見るのが、神に前に立つということかね。」

 甲「いや、それは神に於いてあることなんだ。神の前に立つとは、物や数や事業とし てではなく、生命として、生死の根源として、永遠として、全てをそこよりあらしめるものとして、言葉に於いて向はなければならないのだ。我をあらしめるものとして向はなければならないのだ。言葉が神であるとは、言葉によって自己を現わすものということだ。」

 乙「君は前に古い神は死んで、新しい神が生まれると言っただろう。それは俗神にの みあてはまるものなのかね。それとも普遍神も生まれ死んでゆくかね。」

 甲「そう思うよ。言葉は歓び悲しみから生まれてくるのだ。歓び悲しみは今の他者と の関りにあるのだ。永久不変の何処に言葉があるだろう。前に物自身の秩序の展開と言っただろう。展開とは古いものが死んで新しいものが生まれてくるんだ。キリスト 教神学は大きな曲線を描いて変化している筈だ。聖書という骨格だけ残して、肉も被服も変わっている筈だ。記憶があいまいなので確かなことは言えないが、ドストエフ スキーの小説だったと思うよ、再生したキリストをなじっているところがあるんだ。何しに来たんだ今頃、君はもう必要ないんだ。君がいたら邪魔になるんだ。帰ってくれと言った風にね、僕はこの中に深い洞察があると思うんだ。佛教にも刹那生滅というのが禅にあるが、これは釈迦も達摩も免れることが出来ないと思うんだ。そればかりでなく釈迦も達摩も殺すのが刹那生滅の本当の意味だと思うんだ。もし釈迦の言葉のみでよかったら道元や親鸞の出現はあり得なかっただろう。言葉は生きているものの対話だ、そこに何時も新たな神が生まれなければならない理由がある。

 乙「そうすると全ての神も佛も生まれて死んでいくものか。」

 甲「そうだ、死なない神は神ではない、今時分に千年前の経を繰り返しているような佛は博物館の隅に埃を被るべきだ。」

 乙「而し君は言葉は生死する身体を超えて永遠だと言ったね。」

 甲「そうだ、言葉は永遠の具現であり、神は永遠だ。」

 乙「永遠は生死を超えたものであり、キリストの言う如く、始めに終わりがあるものではないのかね。」

 甲「そうだ、始めに終わりがあるものとして、永遠なるものだ。」

 乙「それは矛盾ではないのか。」

 甲「そうだ矛盾だ、そこに神の本質があるのだ。それは何処までも深く神は生命としてあるということだ。生きているものは死をもつのだ。そして永遠の中に死んでゆくのだ。永遠の中に死ぬとは前にも言った如く、人間が言葉や技術で作り上げた世界の 中に死ぬのだ。国土、習俗その他諸々のものは言葉を持ち技術をもつものとしての我々の祖先が築き上げたものだ。我々は他の動物と異なって死を知り、死を悲しむ。それはこの人間が作り上げた世界に写して知るのであり、自分の見出した世界が消えることを悲しむのだ。そのことは未だ世界をもたない嬰児は死を悲しまないし、世界を失った痴呆は死を悲しまないのでも明らかであろう。僕はこの永遠と生死、世界と自己を人間生命の種と個の形相と見るのだ。種は個を超えて個に形相を維持してゆく。個は種によって形相を与えられる。この種と個の関係が、動物に於いては個は種より与えられたままに行動するのだ。自然のプログラムのままに生きるのだ。それに対して人間は言葉をもつ。言葉をもつとは自覚的ということだ。自覚的ということは作ることによって見るということだ。そして種的個的なる生命が作るということは、種的個的なる自覚として、種的個的に作るのだ。種的方向に世界を見、個的方向にこの我を見るのだ。自覚は種的個的として一つでありつつ、相反するものとして相対する所に成立するのだ。我々は世界の方向に永遠を見、自己の方向に生死を見るのだ。この矛盾に於いて世界は自己自身を創造していくのだ。この我は世界の中にあると共に世界を作っていくものだ。世界を作るとは、世界を自己の内にもつことだ。我々は世界としての言葉や技術をもつことによって世界を作るのだ、世界をもつことによって世界を作るとは、世界を自己の性格の相にあらしめようとすることだ。自己が神であろうと することだ。そこに我々の意志があり、意志は世界を自己の下にあらしめようとするのだ。そこに意志の自由がある。個は世界を否定することによって個なのだ。而し生死するものとして、人と人と相対し、世界によってある我々はどうしても世界となることは出来ない。世界とは絶対の懸絶をもつ、そこにキリスト教の躓きがあり、キエルケゴールの絶望があるのだ。世界は個の否定としてあるのだ。世界は到達することの出来ない唯一者としてあるのだ。世界は自己の中に自己を包むもの、自己を否定するものとしての個をもつことによって自己を突き破り、自己を創造するのだ。動的として変容してゆくのだ。而して唯一者としての神は変容に於いて自己を見るものとして、見るべからざるものとなるのだ。キリスト教のかくれたる神であり、佛教の空であるのだ。而してそれは自己の中に矛盾をふくむことによって自己を創造するものとして絶対の力なのだ。世界の形相として現れた神は否定をふくむものとして、すでにある形が死して、新たな形が生まれるのだ。単なる一は一でもなんでもないんだ。一は多の否定に於いて一なのだ。多は一の否定に於いて多なのだ。一は多の否定として多を維持する力なのだ。この力に於いて我々はゲーテや達摩と対話出来るのだ。斯る一者がはたらくところに我々の言葉や技術は成立することが出来るのだ。僕は数学の一については知らないが、生命の一者はかかるものでなければならないと思うんだ。かくれたる神であり、空であるのは時間の統一者だからだ。そこに見えざるもの、形なきものが絶対有である所以があるんだ。はじめに終わりがあり、終わりにはじめがあるんだ。我々は世界を否定して自己が世界であろうとして、世界より否定されて絶対の無となったときに、見るべからざる永遠を見、触るるべからざる神に触れるのだ。」

 乙「空として、かくれたるものとして絶対者があるとき、生まれて死ぬ神は最早いら ないのじゃないのか。」

 甲「いやそうじゃないんだ。自己の中に否定をふくみ、否定を媒介として自己を創造 する神は、現在に於いて働く神だ。形なき神は、形に現われることによって、形なき 神なのだ。否定を媒介として、形より形へと転ずるが故にかくれたる形なのだ。無限 に動的なるものの一として、時は現在より現在へだ。永遠なるものは常に働く現在が 担うのだ。二十一世紀を担う者は二十世紀の神を滅ぼして、担うもの等の神を打樹て ねばならないんだ。かくれたる神は働く神だ。」

 乙「はじめに終わりありとは、君の言うとおり現在が過去と未来をもつことであろう。 而し現在が過去と未来をもつことは過去が現在をもつことではないのかね。」

 甲「そうだ。釈迦の言葉の中に歎異抄や正法眼蔵がふくまれていたと言い得るし、聖 書は辯証法的神学を孕んでいたと言い得るんだ。而しそれは親鸞や道元が著はして あったんだ。彼等の苦節に於いてあったんだ。その意味に於いて最初に言葉があった 時に、既に現在の言葉の海があったと言い得るし、地上に初めて生命が現われた時に、既に現在の我々があったと言い得るんだ。生命ははかり知る事の出来ない深さだ。」

 乙「それは神の深さなのかね。」

 甲「そうだ、我々が知るとは自己が自己を見ることだ。無限の時間は我々の時間とし て、我々の身体であるが故に今我々は言葉に出し得たのだ。而し言葉となり得た自己は解っている。言葉を出している自己は永遠の謎だ。そのはかるべからざる謎に於いて我々は神の前に立つのだ。」

 乙「神が永遠の謎であれば、神のみちびきというのは何処から来るのか。」

 甲「それは交し合う言葉の中から出てくるのだ。今こうして君と話している、話しているうちに疑問が生まれ、解答が生まれる。ここにみちびきがあるのだ。そして深大なるものへの問い、根源への問いに於いて神の存在を知るのだ。神の声を聞くのだ。神の声を聞くことによって、全てが神のみちびきであったと知るのだ。」

 乙「君は前に個の否定を内にもつことによって神は自己を創造すると言っていただろう。そうとするとキリストの原罪というのはおかしいのではないのか。」

 甲「いや、その故に我々は罪をもつのだ。神が自己の内にもたない否定だったらどう して罪になるだろう。内なるが故に神を否定するものを、神は否定するのだ。個は救 済を求めるものだ、今の自己を真実ならざるものとして、奥底に真実の声を聞かんと するものだ。奥底に聞くとは、この我が死んで生きることだ、罪とは真実ならざることだ。自己否定をなさなければならないことだ。我々は言葉をもった時に罪人として神の前に立つのだ。そこに一切我今皆懺悔があるのだ。悔い改めがあるのだ。そして神の前に立つと知ることによって甦るのだ。言葉としての神は、言葉によって我々を救済するのだ。我々が知るということは神の救済なのだ。」

 乙「僕が絶対を何故求めるかということが解ったような気がするよ。まだいろいろ聞 きたいような気がするけれども、何を聞くか判らないのだ、今日はどうも有難う。」

 甲「僕もいろいろ言い足りないように思うのだが、何を言っていいのか判らないのだ。 亦来給え。」

長谷川利春「満70才記念、随想・小論集」

死について

 甲「やあよく来たね、今此の間の話をした神についての歴史的現在の側面として、死について考えていたところなんだ」

 乙「是非聞きたいね、昔からの最も大きな問題だからね。それでよく肉体は死ぬが霊 魂は不滅だと言われるが君はそれを何う思うかね」

 甲「うんそれはこの間も言ったように、初めて死を知った時に見出した不死なるものの相だね。時間を超越したものとして、兇時の根源としての巨大な力として、原始社会が見出したものだね。僕はそれは原始社会のトーテム意識に対応して生まれたもの だと思うんだ。近代の因果律は最早それを受け入れる事は出来ないと思うんだ。考え て見給え、頭を一寸打っただけで言葉に障害が起こり、脳内の血管が一本切れただけで記憶を失う人間が、肉体が全然腐乱して尚地下や天上に我々と同じ生活を続けると言う事がどうしてあり得るかね」

 乙 「それでは霊媒者なんかは何うなるんかね」

 甲「僕は霊媒なんか信じないが、若しあったとしてもそれは霊媒者の能力であって、 向こうが直接語りかけて来ない限り同じ生活をしているとは考えられないんだ」

 乙「それでは霊魂と言うのは他愛ない想像の産物と言う事かね」

 甲「いやそうじゃないんだ。何うして他愛ない想像が人類幾千年の行動を規定し、支 配する事が出来るかね。人間はそれ程馬鹿ではないよ。僕は人間は自覚的として、存在するものは全て存在の自己限定としてあると思うんだ。不滅の霊魂は、人間は本来永遠なるものであり、人間の本質の具現であったが故によく現実社会を支配する事が出来たと思うんだ」

 乙 「それでは霊魂を認める事ではないのか」

 甲「うん唯肉体を離れて霊魂があり得ないと言うのだ。霊魂が永遠なるものの別名で あれば霊魂こそ人間存在の根源的なものだよ。唯肉体が死したる後に遊離して地下や天上にあると言う事はないと言うのだ」

 乙「それではよく言われるエネルギー恒存律とか、物質不滅とかの如く一分子に霊魂 が宿り、生死は波の高低の如きものと言うのかね」

 甲「いやそうじゃないんだ。我々は一つの統一体として其の瓦解が死なのだ。一分子 に瓦解して、感覚も思考も持たないものが何うして自己を限定する事が出来るだろう。自己限定のないところに如何なる霊魂があると言うのだ。永遠と言うのは統一体それ自身が永遠でなければならないのだ」

 乙「それでは遺伝因子によって親から子へ、子から孫へと連続してゆく事かね」

 甲「いやそうじゃないんだ。遺伝因子による連続は草や虫にもあるからね。それは自 然現象として、自然の流転の変化の相に外ならないのだ。勿論草は枯れ、虫は死ぬ。併しそれはまだ本当の死ではないのだ。少なくとも今我々が一大事として問題にする死ではないのだ」

 乙「それでは本当の死と言うのは何ういうものかね」

 甲「それは不死なるものを見たものが自己の死に面した死なのだ」

 乙「もっと具体的に言ってくれないか」

 甲「それは自己が自己を知ったものの死なのだ。自己が自己を知るとは対象形成的に外に自分を投げ出し、外に自分を見出してゆく事なのだ。たとえば鏡に映して初めて自分の顔を知るようなものだ。世界を創ってゆくのだ。丁度鏡に映してより美しい自 分を創ってゆくように、世界を創る事によってより大きな自分を創っていくのだ。その事は世界の中にある我々は逆に世界を自分の中に持つと言う事なのだ。自然の連鎖 を断ち切って個的人格として個的人格が生まれる事なのだ。この我が成立する事なのだ。そしてこの前「神について」に言ったように世界は超越的として永遠の相を持つ のだ」

 乙「その個的人格の死が本当の死なのかね」

 甲「そうだ。自然現象を超えてこの我この君となった時、死は単なる流転を超えて絶 対の死となるのだ。我々は死を知るのだ。最早帰らないこの僕そして君として死ぬの だ。自然的なものが種と個が即自的なのに対して、我々は世界と個我として分離する ことによって死は絶対となるのだ」

 乙「それでは自覚以前は人間でも本当の死ではないのかね」

 甲「そうだ。今でも呪術社会以前の未開人がいるそうだが、生死に対して如何なる感 情も如何なる儀式も持たないそうだ。死を知らない処に本当の死はないのだ。現在で も植物人間と言われる人には本当の死はないのだ」

 乙「君はいつも呪術社会は人間の自覚の原初の状態だと言っているが、死んでから地下に生活すると言う考えも絶対の死と言い得るのかね」

 甲「うんその自覚の深さに対応して種々の現象が見られると思うんだ。その意味で呪 術社会はまだ本当の個的人格の自覚が生まれていないと思うんだ。真の自覚は種族的であり、家族、氏族的であり、其の対応として悪霊であり、祖霊であると思うんだ。 而し其の中にすでに絶対の死の影はあると思うんだ。君考えて見給え、霊魂が分れて地下は天上に同じ生活をすると言う事は、我々は本来の永遠の生活に入る事であり望ましい生活ではないのかね。それを何故に悪霊として恐怖の対象にしたのか。それに絶対の力を付与して、地上の制約者としたのか。それは絶対の死の背景なくして考えられないのではないのかね。」

 乙「うんそのとおりだと思うよ。而し君の言う事にはもっと深い矛盾があると思うよ。 君は人間は本来永遠なるものであると言っていたね。そして死は絶対の死と言うのは 何ういう事なのかね」

 甲「前にも言ったように我々は自覚的として対象形成的に世界を創っていく。我々が 人生のはかなきを思い、無常を嘆くのはこの世界を限りなきものとして、其の中に自己の泡沫を見るが故なのだ。其処に絶対の死があるのだ。我々が有限なるものとして無限なるものへ持つ憧憬と希求の無限は数学的な連続ではなくしてこの世界なのだ。神についてに於いて言ったように悪霊、祖霊を始祖とする神は世界の内容なのだ。其処に恐怖と祈祷があった。而し今我々が面している世界は人間の相互限定として内在的なものなのだ。人間の自己創造として歴史的なものなのだ。我々が内に真に人格になる事によって外に歴史的となったと言い得るのだ。そして歴史的世界こそ真に永遠なるものの相を現わすと思うのだ。西田先生がこれ迄の哲学の中心問題は神であった。これからは歴史となるであろうと言われた所以は此処にあると思うんだ。そして我我は尚素朴な連続性の残滓を持つ「死して護国の鬼とならん」と言った霊魂から解き放たれて絶対の死となるのだ」

 乙「そうすると我々は古代人が怖れた絶対の死の実現者としていよいよ不幸になったのではないのかね」

 甲「そうだ。我々は虚無と絶望の魂の放浪の旅へ出るべく余儀なくされたのだ」

 乙「而し古代人が祈りに於いて絶対への帰一をなしたように、我々が自己を他に見た ものが世界であるならば、何処かで世界と自己の一体が見られそうなものだと思うが ね」

 甲「うん相即的なるものは常に唯一者の自己限定でなければならないんだ。内と外は 一つでなければならないんだ。その意味で我々はこのまま救済されていなければなら ないんだ。而し我々は自覚的存在としてこれを知らなければならないとする時、この 乖離は無限の距離を持って来るのだ」

 乙「それについて君はどう言うふうなものを考えているのかね」

 甲「深い宗教的体験を持たない僕は此処迄は進んで来てもこの超越者と自己について本当に確信を持って語る事は出来ないのだ。唯僕は僕なりに考えていることがあるので語ってみよう。自覚について最も深く考えた一人と言われるアウグスチヌスの神の現前の唯一局面としての永遠の今の如きものを考えているのだ。唯一局面としての歴史的現前を永遠の今として捉えたいと思うのだ。無限の過去を含み、未来をはぐくんでゆく歴史的現在を、この僕、そして君、数多くの彼の創造として捉えたいと思うのだ。歴史は常に生きている人間が創っていくものとして、現在より現在へ動いてゆく ものとして、歴史的現在は全存在の意味を持つものとして、永遠の顕現として捉えた いと思うのだ。前にも言ったように我々は自覚的として対象限定的であり、世界形成 的である。世界の中の一微塵にすぎない我々は、其の形成者として世界を内にもつのだ。世界は逆に我々の胸底にあるが故に我々は世界を見る事が出来るのだ。斯る意味に於いて我々は全存在に直接するのだ。」

 乙「そうとすると絶対の死の意味がなくなるのではないだろうか」

 甲「うん世界の面より見ればあるものは全て永遠の風景なのだ。而し見るものと見ら れるものが分れる時、死は絶対として我々は限りない悲しみとあきらめをもつのだ」

 乙「而見るものと見られたものに分れたものが世界に直に一つなのだろう」

 甲「うんその意味で生命は矛盾であり、自覚は絶対の矛盾の自覚だと思うんだ。而し 生命は一つだ、絶対の矛盾は絶対の一でなければならないんだ。世界に永遠を見ると言う事は本来永遠なるもの自己顕現でなければならないんだ。そうとすると絶対の死 そのものが永遠でなければならないん だ」

 乙「それは何ういう事かね」

 甲「僕は其処にキリストの復活とか、禅家の死の断崖に身を絶して絶後に蘇ると言っ たものに深い意味があると思うのだ。 刹那生滅、心身脱落、脱落心身だね。唯僕は観 念としてそう思うだけで言った通り深い体験を持たないので心地の風光につい語る事 が出来ないのだ」

 乙 「そうかね」

 甲「うん、西田先生が無人島へ行くならば歎異抄と臨済録を持って行くと言っておら れるので臨済録を読んだが一行もわからなかったよ」

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

永遠について

 乙「何時であったか君は全てあるものは永遠に於いてあると言っていたね。僕にとっ て永遠はそれこそ永遠の謎なのだ。我々は死んでいくものとして、うたかたの生命で あり、この世の過客である思いを何うする事も出来ないのだ。全てあるものが永遠であるとすれば、僕も永遠の存在でなければならない筈だ。露と置き露と消えていく僕が何うして永遠なのかという事を聞かしてもらいたいと思って今日は出て来たのだ」

 甲「そう改まって言われると実は僕も困るんだ。そして僕の答えが果たして君に満足 してもらえるかと言うと全く自信がないんだ。唯僕の考えが至りつかねばならなかっ たものとして考えた跡を話して見よう。期待はしないで呉れ。僕の考えの基礎になっ ているのは生命それ自信に於いて完結していると言う事なのだ。例えば鯖を買って来 て置いていると何時の間にか猫が寄って来ている。それ迄見かけなかったのに何うして来たか不思議な位だ。臭覚を通じて猫が寄ったとも言い得る。鯖に誘われたとも言 い得る。動きと言うのは此処にあるのだ。猫と鯖、それはその時の一つの生命圏とし 完結するものと思うのだ。生命がそれを維持してゆく形相として一つの相と思うのだ。僕は本能と言うのはそうゆうものだと思っている。猫が動くのでもなければ鯖が動かすのでもない。主体と食物が一つの圏をなす時自ら動くのだ。樹と土もそうだ。根を張って成長要素を吸収し、不要となった枝葉を落として栄養として土壌に蓄積してゆく。それを吸収して更に成長してゆく。それは一つの圏を作ってゆくものとして完結を持つ事だ。そして具体的な生命とはこの全体の相だと思うのだ。この圏の形成にあると思うのだ。これによって生命は内外転換し、生々発展する事が出来るのだと思うのだ」

 乙「而し猫は死に、樹は枯れていく。何れも流転の相に外ならないではないか」

 甲「まあ聞いて呉れ。唯人間だけは違うのだ。内と外が相対すのだ。僕達は死を知る。知ると言う事は有限者であると言う事だ。そしてこの死は何うする事も出来ないのだ。有限者として無限の時間の前に唯嗟嘆の声を上げるのみなのだ。人は唯命もつ事を悲しむのみなのだ。

而し僕は思う。死を知る悲しみそれ自身が一つの完結ではないのかと」

 乙「僕はまだよく判らないのだ。其の完結と言うのが永遠と何う結びつくのかね」

 甲「人間は自覚的生命として、内外相分かれる事により、自己を有限として、世界を 無限とするのだ。自己を露命とし、世界を無始無終とするのだ。永遠とはこれの統一だ。有限なるものは無限なるものであり、無限なるものは有限なるものの相だ。そしてそれはより高次なるものとして生命の相でなければならないのだ。永遠は神の内容と言われる所以であり、神は生命の深奥であるのだ。即ち永遠とはこの内外相分れたものが一つとしてそれ自身の完結を持つ事なのだ」

 乙「而し君の説く所は唯問題を堂々巡りしているだけではないのか。有限なるものが 無限なるものであると言う事はこの僕が何時迄も生きていくと言う事ではないのかね。僕は何時かは死ぬのだ」

 甲「そうだ。我々は永遠であると言っても、真にあるのは人間一般ではなくして君で あり、この僕であるのだ。この君、この僕が直に永遠でなければ真に永遠であると言 事は出来ないのだ。全時間、全存在がこの僕、この君の中になければならないのだ」

 乙「その僕が有限であり、死ぬと言う処に問題の発端はあったのだ」

 甲「勿論僕達は死ぬ。而しも一度問題を問い直さなければならないと思うのだ。猫や 樹も有限であり、死に或は枯れる。それならば彼等は有限を問い、死に悩むかね」

 乙 「そりゃ問いも悩みもしないよ」

 甲「それは何故かね」

 乙「彼等に死はあっても死を知らないじゃないか」

 甲「そうすると有限も無限も、死も永遠も知る事の中にある訳だね」

 乙「そうだね。僕達も幼児の頃はこんな問題を持たなかった事を思えば知る事によっ て生まれたと言う外はないね」

 甲「人間は道具を持つ事によって知識を持ったと言われる如く、何等か外に自己を表わす事によって知るのだ。今こうして君と対話しているのも一つの表現だ。こうして僕達は愈々自分を明らかに知るのだ。そうしてこの対話が僕達の影である如く、外に 見ると言う事は内の現われと思うのだ。僕達は語り合う事によってより深い自分を見 ようとしている如く、外はより深い自己として外なのだ」

 乙「永遠は我々が求めるものとして或いは我々の深奥を外に見たものかも知れない。 而し我々の対話と永遠とは大変異なっているように思うのだが」

 甲「我々は今永遠を問うているのだから同じである筈がないよ。ついでだから永遠へ の問いと言うものを問うて見よう。僕達は今有限者の苦悩の下に永遠を探求しようと している。而しこの問いは僕達の発見ではなくして古今東西の全人類の問いであった 訳だ。今の僕達の苦悩は全人類の負うて来た苦悩として苦悩である訳だ。そして永遠は全人類的生命の外化なのだ。個々人を超えた全人類の深奥なのだ」

 乙「問題を元に戻そう。永遠が我々の内なるものの表出であり、外化であれば、永遠 は即自己として僕達の悩みの来る所はないのではないか」

 甲「僕は『神について』に於いて死を外に見る所に霊魂があり、神霊は我々を死とし 絶対に否定して来るものとして、其の絶対力を前に慴伏すると言ったね」

 乙「ああ覚えているよ」

 甲「生命は生きているものが死ぬものとして自己矛盾的なんだ。死と言うのは徹底的 否定として絶対矛盾なのだ。神霊が超越者として絶対の外であった如く、外は我々を 否定して来るものとして、超越的として絶対の外なのだ」

 乙「一寸待って呉れ給え。僕達は生命の外化として衣服や住宅を持つ。何れも我々を 保護しこそすれ否定して来るとは思えないが」

 甲「衣服は破れ建物は壊れる。外は否定として我々に迫って来るのだ。そして僕達は 働く事によって新しいものを生み出してゆくのだ。働く事は内なるものを外とし、外なるものを内とする無限の創造なのだ。働く時代に対す外としての物は生々として、我なく物なき唯一生命の相を現わすのだ。真に働く者に於いて我は世界の形相であり、世界は我の示現なのだ。新しいものを生み出すものとして形相より形相へなのだ。この我に於いて前の形が新しい形を決定して来るのだ。其の意味に於いて啓示的であり 示現的なのだ」

 乙「もっと具体的に言ってくれないか」

 甲「我々が対き合っている外と言うのは、長い過去に於いて人類が形造って来たもの なのだ。そしてそれは死を持つ生が死を克服しようとして作って来たものなのだ。矛 盾の自覚として見出されたものなのだ。外の形が複雑になるにつれて内の構造も複雑になっていくのだ。そして外の崩壊は生の崩壊につながるのだ。僕達は働く事によってこの崩壊を新しいより大なる生へ転じていくのだ。其の時外はより大なる形相に転ぜられるものとして生々たる生命の形相をもって来るのだ。その転換の行為者として我々は逆に全世界を我の胸底に見る事が出来るのだ。其処に自覚的生命は唯一の純なる流れとなるのだ」

 乙「そうとするとそれは我々の創造となるのであって、示現的、啓示的ではないではないか」

 甲「その創造的なるものが啓示的なものなのだ。外としての形がこの我々の生命を媒 介として新しい形を含んでいるのだ。生の外在としてのその形によってしか我々は次 の形を見出せないのだ。生命はその意味に於いて無にして働くものなのだ。その昔仏 像を刻んだ者は一刀三拝して慈顔の顕現を祈ったと言うし、印度のヴェーダの詩は霊感の作品だと言われている。発明と言うものもそういうものだと思うんだ。偉大な発 明家は狂人に似ているのも何かの力に動かされたからではないのかね。その力と言うのは巨大なる外の力としての歴史的創造の流れではないのかね。アイデアが浮かぶと言うのも何か啓かれたものだと思うんだ。よくあの人は感覚が優れていると言うのも対象に入り得る純粋度だと思うんだ。農家が其の年の天候によって種子を蒔くのも先祖代々の農作業の中に会得したものとして、其の全体像の直観としてあると思うのだ。この我が無となる事によって啓けて来るもの、この大きなるものが僕は最初に言った世界であり、無限とか無始無終と言うのは斯る世界の抽象としての時間的形象であり、有限とか露命とするのも無とする主体的方向の抽象としての時間的形象であると思うのだ。その統一として働く事があるのだ。この啓けて来るものの時間的形相が永遠なのだ。我々を超え我々に自己を顕現するものが永遠なのだ。僕達の日々の働きは其の奥底に於いて歴史的創造的にこの啓けて来るものにつながるのだ。そしてその事が我々が自己を見出していく事なのだ。僕が言った全てあるものは永遠に於いてあると言うのはそのような意味なのだ」

 乙「それならば僕達は働く時に永遠に結合している意識を持つ筈ではないのかね」

  甲「そうじゃないんだ。僕達は世界の内容として働く個として目覚めるのだ。世界は我々の全体として、絶対に懸絶するのだ。永遠は世界の形相として願望に於いて見るのだ」

 乙「よく判らなくなって来たよ」

 甲「そうだろう。言っている僕すら手さぐりで話しているのだから」

 乙「而し僕はおかしいと思うのだ。絶対の懸絶として至り得ないものならばどうして願望を持つ事が出来るのであろうか。啓示として我々は我々自身を見る事が出来るのであれば、啓示は即自己として何等かの意味でつながらなければならないと思うのだ。絶対の懸絶ならば願望すら持ち得ないのではないのだろうか」

 甲「その通りだ。而し働くものは世界を逆に自己の中に見る事によって働くのだ。即 ち個的人格の成立として働くのだ。而して個は世界の中に於いて働くのだ。個が個で ある故に世界は世界なのだ。而して個が個である限り世界は外として永遠は絶対の懸絶となるのだ。永遠に際会する為に僕達は自己を絶対に否定しなければならないのだ」

 乙「自覚以前に還る事ではないのか」

 甲「そうだ。前にも言ったように、其処には自己も世界も永遠もない。自覚的として見出てでた自己がさらに次の自覚として自己を消してゆくのだ。宗教と言うのはそのようなのだと思うのだ。キリスト教の神の前にと言うのも、佛教の空と言うのも、この絶対自己否定であると思うのだ。君が最初に言っていたね。「僕が永遠でなければならない」と。その事は君が不死である事を望んでいるのではなくして、全存在との一体を望んでいるのだと思うのだ。自覚的として外に自己を投げ出した自己が再び内へと還るのだ。啓示と言うものもそうだ。外に投げ出した自己が自己に還る事なのだ。此処に全人類は唯一の生命となるのだ。私達の魂はこの全人類唯一なるものの中に安らうのだ」

 乙「・・・・・・・・」

 甲「唯僕は佛の悟りを持った事もなければ、キリストの神を見た事もない。尚魂はさ すらい続けなければならないようだ」

 乙「分かったような分からないような気持ちだ。まだ疑問が一杯あるような気がする が、此処等で帰って一度整理するよ、有難う」

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

根源への問いを問う

 哲学は根源への問いであると言われる。この根源が問われると言うのは如何なるこ となのであろうか。根源と言う以上全てのものがそこから出て来た筈である。而し問われるものである以上、それは未だ有り得ないものであり、求められるものでなければならない。根源への問いである以上その解答は終わりとしての全解答でなければな らない。根源への問いは、全てのものがそこより出で来ったものとしてすでにありつ つ、問われるものとして未だあり得ないものである。根源は根源として一つでなけれ ばならない。根源が二つあれば根源ではない。而し問うということは問うものと問わ れるものに距離がある事である。私はここに人間の自覚的生命を見る事が出来ると思う。

 ありつつあり得ないものとは、自己の中に自己を見ていくものである。自己の中に自己を見るものに於いて、問いは根源への、始めへの問いである。始めへの問いが問 い自身の中に深まりゆくことが自己自身を見ることである。根源が自己自身を明かし ゆくのである。根源は何故に自己自身を明かさんとするのであるか。私は矛盾として の人間生命の存在形態なるが故であると思う。

 根源的なるものは、始めなく終わりなきものとして自己を見るのではない。始めが終わりであるとは、始めと終わりが一つでありつつ、既に始めと終わりを分かつのである。根源を問うものは根源ならざるものでなければならない。根源ならざるものが根源を問う事が、根源が根源自身を問う事でなければならない。根源を問うものは個としてのこの我であり汝である。この我は、無数の人々の中の一人として、宇宙の一微塵である。生死するものとして無限の時間の中の一泡沫である。

 而して我があるとは、一微塵として、一泡沫としてあるのではない。問うのは言葉をもってする。生きるのは技術によって物を作ることによってする。言葉、技術は一微塵、一泡沫を超えたものである。この超えたものへの問いが根源への問いである。根源が自己自身を問うとは、根源ならざるものが根源を問うことである。根源が自己自身を見るとは、生死するものが普遍的一者を見る事である。勿論根源でないものが根源を見る事は出来ない。根源的なるものが自己自身を見ることが、根源ならざるものが見るということは出来ない。そこには相互媒介的なるものがなければならない。相互媒介的とは、根源によって、根源ならざるものはあり、根源ならざるものによって、根源はあると言うことである。一者によってこの我はあり、この我によって一者はあると言うことである。そこに自覚がある。自覚はこの我の自覚である。而してこの我の自覚が根源が自己自身を見ると言うことである。

 古来幾多の哲学が語られて来た。今も多くの人々によって語られている。各々が完 結しつつ、各々が内容を異にして、これからも多くの人々によって語られ問われる根源は一者である。而しそれは多くの人々によって異なった内容に於いて語られるのである。

 全ての人は個性としてある。それは世界が矛盾的に自己自身を作ってゆくものとして、唯一のものとして現前する。この我は過去にあった事も、未来に現われる事もな いものである。斯る個に於いて根源への問いをもち得るのである。個としての人間は 生まれて死んでゆく、この唯一なるものの死が根源を求めるのである。生まれ来った 新しい個は、新しい状況の下で唯一の個を形成してゆく。この新しい個の根源への問 いが新しい哲学のスタイルである。哲学は個がその一々に於いて根源を問うのである。個の全への終わりなき問いである。そしてそれが始めに終わりがあり、終わりに始めがあるものの形態である。

 問いが根源の自己自身の問いであり、問うものが個としてこの我であるとき、永遠は常に現在にあるのでなければならない。而してそれは無数の個を包むものとして、 無限の過去と未来を包むものでなければならない。無限の過去、未来の一瞬一瞬を現在として、この我と対話さすものでなければならない。生者必滅の悲しみに於いて、 永遠に対面しつつ、私達は滅んでゆくのであると思う。而して無限の未来に於いての 現在として、語り続けるのであると思う。其処に根源を問う所以があると思う。全ては唯一者に於いてあるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

時間としての歴史の本質

 歴史は時間の学と言われる。時間の本質は歴史の本質と言い得ると思う。以下時 間の形相を考えそれと歴史の関聯を考えたいと思う。

 通常時間は無限の過去より、無限の未来へ流れると考えられている。而し少し立ち 入って考えて見れば斯る考えの如何に素朴なるものであるかを知るであろう。過去は 流れるとき、過去は過ぎ去ったものとして無いものである。未来はまだ来らざるもの として無いものである。現在は今と言った時すでに過ぎ去ったもので掴むべからざる ものである。斯るところに時間は見ることが出来ない。時間があり得るには過去、現 在、未来を包んだものがなければならない。時間は何ものかの時間であることによっ て時間である。過去、現在、未来を自己限定として、内にもつものによって時間は成 り立つのである。日本歴史というとき、日本は時間を超えて自己の中に過去、現在、未来を内にもつものでなければならない。小野市史というとき、小野市の自己限定とし過去、現在、未来を内包するのでなければならない。

 過去、現在、未来を内にもつとは個性的ということである。故に動物が親より生まれて、子を作って死ぬということは眞に時間をもったということは出来ない。過去、現在、未来をもつということは、過去を否定して新たな現在をもつということでなければならない。新しいものを作ることによって、有るものを過去とすることである。生まれて、子を生んで死んでいくというのは、既に自然のプログラムに組込まれているということである。過去を否定して新しい現在をもつとは、新しい物を作ることである。それは技術的である。環境を作り、環境に作られたものとして、今此処に物を作る処に個性はあるのである。

 エジプトが暦を作ったことによって、人間は時間を捉えたと言われる。それによって我我は時間をもったのである。それ以前に時間をもっていなかったのか。私は此処で有名な言葉を引例したいと思う。光りの中に七色はあったのか、あった。而しそれは分光器に解像されることによってあったのである。時間をもっていた。暦に表されることによって持っていたのである。そして暦に表されたものは時間の内容である。時間は暦に表された如き内容をもつことによって時間である。私は此処で暦について少し考察を加えてみたいと思う。

 私は経験の蓄積ということが暦が生まれるために必要であったと思う。経験とは生 命が内外相互転換的として生命圏を作っていくことである。生命は食物を外より攝っ て肉と化し、排泄して外と化す、此処に生命の原型がある。人間は自覚的、人格的と して無限に複雑である。而し何処迄も内外相互転換的に生命を形成していくのである。内外相互転換は刹那に現れ、刹那に消えていくものである。而し刹那に現れ、刹那に消えゆく処に暦はない。刹那、刹那を止めるものがなければならない。それが経験の蓄積である。刹那を永遠に映すのである。人間はそれを言葉にもち、文字に表すと思う。

 私は人間を自覚的生命と考える者である。自覚的生命とは内を外に表して、自己を見るものである。私は人間が暦をもつためには、身体がすでに時間的構造をもっていなければならなかったと思う。天工は人間を時間的形態に創り上げたのであると思う。構造の外化、自覚が暦であり、時計であると思う。内外相互転換としての身体は、暦や時計に表れた如き構造で時間をもっていたのであると思う。即ち瞬間としての行動と、行動を統一する身体である。

 人間は身体を外化することによって、生命圏を拡大するものとして、自覚的、技術的である。物を製作する生命である。製作とは刹那の内外相互転換を蓄積し、保持す ることによって、欲する時に同じ事象を出現せしめることである。暦とは身体の時間、 自然のプログラムに対して、自覚的、技術的なる時間、製作のプログラムである。エジプトの暦とは上述の自覚的生命の上に立った。エジプトの気象、ナイルの怒りと、恵み、植物、種族的特製の総計である。

 内外相互転換は常に刹那的である。自覚的生命の内外相互転換として、製作は常に今製作するのである。而し製作は単に刹那によってあるのではない。今見て来た如く刹那的なるものが永遠なるものを宿す、永遠なるものが刹那的なるものをもつところに製作があるのである。暦とは過去を負うものである。そして現在に働くものである。 そして来年も規定せんとするものである。時が消え、時が働き、時が生まれつつ全てのものがそこにある。そこに製作の今はあるのである。私は以降刹那としての現在 と斯る自覚的現在を分つために、便宜上後者を絶対現在と名付けたいと思う。

 歴史は常に斯る絶対現在が自己自身を見ていくところに成立するのである。農作業 が高度化すれば暦はいくつもの付け加えを必要としたであろう。その為に更に過去を 尋ねなければならなかったであろう。斯る意味に於いて我々は過去も亦作っていくの である。過去は過ぎ去ったものとして無いものでありつつ、絶対現在の自己限定とし 現在より作られるのである。私達は戦前と戦後の史的叙述の変化に瞠目する。勿論 そこには資料の充実といった事のあることを見逃すことは出来ない。而し資料の整備 は歴史的意味を変えることは出来ない。大なる変化の要素は絶対現在としてのイデオロギーの変化である。同じ資料を駆使しても、米国とソ連の歴史叙述はその構成を大いに異にしている。米国は米國の絶対現在より、ソ連はソ連の絶対現在より過去を作るのである。生命が内外相互転換的であるとは、生命は常に危機としてあるということである。危機としてあるということは、突破すべき課題をもつということである。斯る課題に於いて我々は過去をもつのである。突破すべき生命が世界を構成する過去 の方向に見たものが歴史である。歴史は常に書き換えられることによって歴史である。大東亜戦争は最近の事である。而して戦争の意味するものについて、戦中に書かれたものと、戦後に書かれたものを見れば変化は一目瞭然であろう。そこに歴史があるのである。

 勿論絶対現在が過去を作ると言っても、任意に過去が作れるのではない。任意に作 られるものは歴史ではない。過去、未来を内包するとは、永遠なるものが働くことで ある。永遠の形相をもつということである。物を作るということは、流れるものは此処に止まり、生命は完結をもつということである。物は一つの完結をもつたものである。それは生命の一々の時の完結を映すのである。一々が時の完結として、過去の一々絶対現在としての完結をもつのである。そこに歴史的事実が成立するのである。瞬間が永遠なるものが歴史的事実である。製作として物と人とが交叉するところに事実があるのである。歴史は事実より事実へとして、その一々が完結をもつのである。貞観佛、平安佛、鎌倉佛と言われる彫刻は各々他に代える事の出来ない個性として完結をもっており、室町時代の墨絵、大和絵はそれぞれ完結をもっており、刀剣は正宗に完成され、俳句は芭蕉に完成されたと思う。芸術品のみに非ず、日常使う碗類なども、縄文弥生の昔にさかのぼって、一々が完結していたと思う。一々が完結しているということは一々が変遷したということである。一々は個性的として動かすべからざるものである。

 過去は一々が完結する事実として、我々に対立し、今の我々の事実を否定してくる ものである。芭蕉は現在詩人の前に立ちはだかり、ミケランジェロは現在芸術家を叱 咤するものとして過去はあるのである。而して過去は斯るものとして現在より作られ るのである。もし過去が単に現在への過程であるならば我々は歴史を尋ねる必要をもたないであろう。対立するものに於いて対話し得るのである。否定し来るものに於い て肯定に転ずることが出来るのである。過去、現在、未来を内包するとは力をもつと いうことである。物とは力をもつことよって物である。力とは時間に於いて自己自身を維持することである。今物を作るとは既にある物を否定することである。そこに闘いがある。価値に於いて争うのである。我々はミケランジェロを超えと欲する。そのときミケランジェロは深淵の力をもつ、我々はその深淵を覗いて自己の深淵を知る。そこに対話があるのである。否定を介して対話はあるのである。絶対現在に於いて、否定されるものとして、逆に否定として迫ってくる、此処に対話があり、完結せる個性として過去は生きつづけるのである。私は歴史は絶対現在の自問的自己限定として、深く対話としてあるものであると思う。米国は米国の課題に於いて、ソ連はソ連の課題に於いて自己の過去を問う、そこに米国の史的叙述ソ連の史的叙述はあったと思う。私は歴史的にあるものは個性的であるといった。個性的にあるとは過去、現在、未来を内包し、それ自身に於いて完結するものであると言った。それ自身にあるとは連続を拒否するものでなければならない。而し時間は純なる流れであり、歴史は大なる生命の流れでなければならない。初めに書いた如く、日本史というとき、日本は過去、現在、未来を内にもつのでなければならない。日本的一者として、時に自己を限定するものでなければならない。而してその内容は一々が完結するものとして連続を拒否するものである。そのことは歴史とは完結するものは流れるものであり、流れるものは完結するものであるということである。斯るものは如何にして考えられるであろうか。

 私は斯るものを表現せられたものに対する表現するものの方向に求めたいと思う。 歴史は表現されたものを見ていく、而し表現されたものは歴史ではない。表現された ものを見ることは、表現するものが自己自身を見ることであるところに歴史はあるの である。歴史は主体の学であると言われる所以である。

 表現するものは身体としての生命である。身体は製作するものであると同時に生ま れ来ったものである。生まれ、大きくなり、子を生むものである。それは根源的生態である。我々が物を作るとは製作的身体として生まれたのである。何処迄も生まれた ものとして生命である。生命の自己限定として物を作るのである。私は物の個性と独 立は製作としての表現的方向に於いて、流れとしての連続は生まれるものとしての自 然的方向に於いて見られるのであると思う。生まれるものは同じ形相の反覆である。 作られるものは内外相互転換的として常に新たである。而して反覆として生まれ来っ た者は作るものとして常に新たなものである。作られたものは生まれ来ったものの表 現として反覆である。人生は日に新たにして、日々に新たでありつつ、日々は繰り返 しである。此処に完結せるものは流れるものであり、流れるものは完結する所以があ ると思う。次元を異にしつつ一つである。無限に動的である。

 歴史が身体的であるとは経験の蓄積は身体がもつということである。一瞬一瞬を身 体の持続に於いて蓄するのである。身体は種的、個的である。個的方向に内外相互転換があり、種的方面に蓄積があるのである。斯るものが一つなるところに製作があるのである。歴史は身体によってあるものとして飛躍的である。一つの身体が内包し、死して亦一つの身体が内包するのである。それを蓄積としての言葉によって繋ぐのである。非連続の連続である。時間とは流れるのではなくして非連続の連続として我々は時をもつのである。

 身体が種的、個的であり、刹那としての内外相互転換が永遠なるものの働きとして の、経験の蓄積によって物の製作があるということは、歴史とは個を包括するものよ り初まったということでなければならない。私は種族的、民族的なるものより表現としての製作は初まったと思う。全体が先ず自己を露はとしていくのである。個は物の蓄積、生産手段の発展の中より分化されて来たのであると思う。勿論最初より個がは たらくことなくして製作はあり得ないし、分化もあり得ない。而し最初の自覚に於いては個的契機を内包したという迄で、個の自覚は持ち得なかったと思う。民族の自覚として個はあったと思う。現在の我々の自覚も何処迄も永遠なるものに映すことによってあるのである。歴史の発展は外に物と生産手段の発展であると同時に、内に無限に分化と個の確立である。

 歴史に於いてあるものが個として完結するものであるということは、歴史的時とは流れるのではなくして変遷していくのでなければならない。それを流れると見るのは永遠に生滅を映すが故であると思う。歴史は人間生命の総合的時として時代より時代へと変遷していくのである。時代とは如何なるものであろうか。

 歴史は身体的として、外に物が蓄積され、生産手段が発展するということは、内に生産と配分の体制をもつということである。それは体制が生産手段をもつと共に、生産手段が体制を規定するものとして相互限定的である。斯る体制が社会組織である。 体制は常に種としての統一的方向と個としての拡散的方向をもつ、何処迄も我々の身体のあり方に於いてあるのである。而してその統一的方向に言葉としての知的なるものが成立し、個的方向に肉体としての労働が成立するのである。社会に於いて大衆とは肉体をもって生産するもののことである。生産手段が高度化し、複雑化して、従来の体制をもって最早対しきれなくなった時が時代の遷移である。生産手段はそれ自身の内面的発展をもつ、新しい言葉は管理する者ではなく生産するものが担うのである。それに伴って富の転移が行われ、大衆の中から新しい言葉をもって、新しい体制を組織する支配者が生まれるのである。時代は生成、爛熟、退廃を繰り返すという、私はそれは以上述べた如きものの人間的投影であると思うものである。

 大歴史家ランケは保守と革新の対立により時代は動くと言っている。対立により動くとは両者共に力をもつものが否定し合うことである。過去は単に過ぎ去ったものとして過去ではない、過去はその蓄積に於いて過去である。記憶とは蓄積の投影に外ならない。蓄積は力である。現在を限定せんとする力である。革新は動的なる生命の、 物と人とに内在する矛盾に於いて既存の体制を否定せんとする力である。一方は物の方向に、一方は力の方向に生きる者が否定として激突する処に時代は動くのである。生きる者が否定し合うとは戦うことである。時代は流血によって遷移したのである。単に時代が流血によって遷移したと言うのみではなく、私は歴史は生きる人間の舞台として、血と汗を流した痕跡であると思う。時間の最も具体的なるものとしてその 根底に歴史的時があると言われるとき、時間とは血と汗の上に築かれた金字塔であると思う。

 戦は万物の父であると言われる。我々はそこから世界を作ったのである。血風はより大なる中心へと歩を進める代償である。より大なる世界はそこから生まれるのである。より美しいもの、より善いもの、より眞なるものはこのより大なる世界への形象である。我々がもつ幾多の価値は全て過去の幾多の人が血涙をもって購ったものであ る。我々は価値の中に生まれて価値を作っていくのである。斯る意味に於いて歴史は 我々の存在の根源であり、歴史を知ることは自己の根源を知る事である。我々は自覚するものとして、歴史的創造的に永遠より生まれ、永遠の中に死にいくのである。物を作るとは永遠なるものとして働くことである。

 物の製作に於いて過去、現在、未来はあり、この我が物を製作するものであるとき、 この我は絶対現在としてあるのでなければならない。無限の過去を孕み、未来を哺む ものとしてあるのでなければならない。一人一人が絶対現在として働くところに世界 の絶対現在はあるのでなければならない。この一人一人が生死すところに世界は絶対現在より、絶対現在へと働いていくのである。我々は世界の絶対現在を映して絶対現在をもつものとして、永遠に映して自己を知るのである。而して永遠は無限に歴史的動的である。矛盾として、苦悩として我々は永遠に目見えるのである。永遠として歴 史の自己顯現である。眞の時間は神の内の内容である。神は血の犠を求める事によって我々の前に現れるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

歴史と身体について

 人間のみが歴史をもつ、他のものは歴史をもたないと言えば、或は鳥には鳥の歴史 があり、馬は馬の歴史をもつ、唯我々の窺い知ることが出来ないのみであると言う人 があるかも知れない。而し歴史は人間のみがもつのである。これを明らかにする為に 先ず歴史とは何かを問わなければならない。

 私は歴史とは生命が自覚的であることであると思う。自覚的とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。自己が自己を見、自己が自己を知るとは、自己の形相を外に打樹てることである。外に打樹てることによって自己が自己を見、自己が自己を知ることが出来るのである。外に打樹てるとは物を作ることである。製作的生命となることである。内外相互転換的としての生命は常に欲求的である。物を作るとは欲求的生命が自己を外とすることである。外を内、内を外とする生命が、内を外として自己を見るのが物を作るということである。物に映すことによって我々は自己を見、自己を知るのである。

 歴史とは斯る人類の生産と配分、生産物の所有と争奪の交叉である。生命は常に矛 盾的として生命である。生きているものは常に死を学んでいる。自己の内に自己を否 定するものをもつのが生命である。内を外とすることは外を自己の否定的要素とする ことである。外を内とすることはこの否定的要素を更に否定して自己とすることである。生産物の増加による人口の増加は自然の暴威を倍加せしめ、常に人間を危機の下に置かしめる。危機の克服へのより大なる力の結集の必要が主権者と服従者をうむ。内外相互転換はその無限なる幅輳の間に自然への対立と、人間と人間の対立をうんでいくのである。危機は生活圏と生活圏の闘争を生む。而して戦いは万物の父である。戦いの中からより大なるもの、美しいものが生まれて来る。それは戦いが生命の自覚の上にあるが故である。犬の喧嘩は歴史ではない。始と終を結び、より大なる世界への歩みをもつものとしてのみ戦いが歴史なのである。人類の闘争は常に何等かの意味に於いてるものをもつが故に歴史なのである。歴史的時は過去より未来へ流れるのではない。自己の奥底に深化していくのである。

 人間のみが歴史的であるということは、人間のみが自覚的であるということである。 而して我々は自己の身体を介して物を製作する、身体を介して物を製作するというこ とは、身体は自己自身を見る身体であるということでなければならない。自覚的身体 とは如何なるものであるか、以下斯るものを考えることによって歴史の内的なるもの 幾らかでも明らかにしたいと思う。

 私をして斯る考えを觸発せしめたものは祖父江孝男氏の「文化人類学入門」という本であった。以下少々長くなるが必要な処を引用させて戴いてその上に私の考えを展 開していきたいと思う。氏は第二章、人間は文化をもつに於いて斯く書かれている。

 人間を他の動物に比べてみたとき、其の特色は何んな点にあるのだろうか?ふつう、 まずあげられるのは二本アシによる直立歩行が可能になったということだ。この為に 人間は両手を自由に使えるようになり、その結果、種々の道具を作ったり使ったりす ることが出来るようになったのだ。ところがこの点については、いろいろな学者から批判が出た。類人猿の場合、とくに古くから研究の行われて来たチンパンジーの場合、 天井からつり下っている手の届かないところにある餌をみつけると、いくつかの箱を つみ重ねて台とし、その上にのぼってなんなく手に入れる。あるいはまた床にころがっ ている、いくつかの短い竿をつなぎあわせて長い棒を作り、これではたき落す、これ などひじょうに原始的な段階であるとはいえ、道具の製作、道具の使用に外ならない わけで、こうした能力は人間だけのものではない事がわかるのだ。中略

 そこで両者をはっきり分ける、もっと根本的で、まさに質的な相違点を探して見れば、それは人間の大脳における言語中枢(あるいは言語領域)の発生なのである。中 略、類人猿の中のチンパンジーに於いてはその萌芽的なものがみとめられるようだが、而しまだ言語中枢とまではいかず、これは矢張り人間特有のものだということになる。中略

 それでは人間の言語の発生の結果として、人間の社会にはどんな変化がもたらされ ることになったのか?、人間に於ける言語の発生ということをなぜそれ程重視せなけ ればならないのだろうか?

 この点をよく示してくれるのが、アメリカの心理学者クロウフォードが行ったチンパンジーについての実験だ。チンパンジーを二匹オリの中に入れ、その外に餌をのせた台をおいてロープを結びつけ、その端をチンパンジーの手の届くところにおいてやる。而しこの台は一匹では引けない位の重さにして、二匹が協力して引っぱらなければ食物が手に入らないよう台の重さを調節したのである。

 ところがこの二匹は協力して引っぱることにはなかなか気がつかない。各自が自分だけで餌をとろうとして、めいめい勝手に引っぱって見るばかりだ。そのうちに二匹の引く瞬間が偶然に一致することがあり、このときは餌が手もとに引き寄せられる。こうしたことをくり返すうちに、はじめてチンパンジーも互に協力することをおぼえるにいたるのだ。この訓練がさらに進んで来ると、台の上に餌がおかれるや、一方のチンパンジーは鳴き声やジェスチュアを使ってもう一匹に合図するのであって、二匹のあいだのコミュニケーションは完全に成立することになる。

 ところが次にこの二匹のうち一匹を外に出し、他の全く新しい別のチンパンジーと入れ換えてしまうとどうなるだろう?、餌が台の上に置かれると、前からいたほうのチンパンジーはいろいろと合図や身ぶりを使って、なんとか相手の注意をひき、自分といっしょにロープを引かせようとするのだが、新入りの方は少しもその意味を解さないので、協力はいっこうに行われず、食物も手に入らない。新入りの方は相棒の合図にはおかまいなしに、なんとか自分だけで餌を手に入れようとして単独でロープを引くことを何十回となくくり返す。こうしてたまたま二匹の引く瞬間が再び偶然にも一致したときに食物が手に入ることになり、ここではじめて協力ということに気がつき、食物の獲得が可能となるのである。

 しかしこの実験に於いてチンパンジーのかわりに主役が二人の人間であればどういう ことになるだろう?人間の場合に於いてはなにしろ言語がある。その為に前からいる 者は新入りに事情を口で説明することができるので、二人はただちに協力してロープ を引くことが出来る。かくて食物のほうも、次の瞬間からなんなく手に入れることができるにいたるのだ。

 つまりこの簡単な実験からわかるのは、人間の場合には言語があるため、新しい工 夫、新しい発明や発見を他の仲間やあとに続くものに何なく伝えることが出来るとい うこと、したがってあとに続くものは、もう一度はじめからやり直す必要は全くない。そのすぐ次の段階から出発すればよいわけだ。言いかえれば人間の場合には世代を重ねれば重ねるほど知識はどんどん蓄積されていく。文字通り加速度的に蓄積されていくのである。歴史をずっとさかのぼって、旧石器時代の人間のもつ知識や技術はきわめて乏しく、動物のそれとあまり大きく変ってもいなかった。而し人間の場合は言葉がある為、現代にいたるまでのあいだに大きく知識を増大した。それに対して動物の方は旧石器時代と比べて見ても、その知識はほとんど変わらない。人間が動物をはるかに追いぬくにいたったのは、ひとつにはこのためである。中略

 而し言語の発生の結果、生まれたものとして、ある意味ではもっと重要なのが、記憶とそしてさまざまにものを考える思考能力の著しい発達なのだ。ここでもチンパンジーの実験がヒントを与えてくれるのだが、アメリカの動物心理学者として有名なヤーキースらによって研究されたものである。チンパンジーの背丈ほどに作られた機械仕掛の箱に窓が小さくついており、そこに赤か緑の枝が不規則な順序であらわれるようになっているが、赤の板が出たときにそばのレバーを押すと彩色板は消え、一定時間がたってから餌が出てくるが、緑の板が出た時にレバーを押しても彩色板が消えるだけで、いつになっても餌は出てこないのである。

 この装置の前にチンパンジーをおいてみると、彩色板が消えてから餌が出て来るまでの時間を四~五秒以内であるように調節しておくと、チンパンジーは何回かの試行錯誤のあとで容易にこの仕組みをおぼえてしまい、楽に餌を手に入れるようになる。ところが餌の出て来る時間をこれより遅くすると、何回くり返しても決しておぼえられないのだ。というのは、彩色板が消えてから四秒以上たってしまうと、其処に出ていたのは何色であったか、チンパンジーは完全に忘れてしまうからなのである。

 この場合でももし主人公が人間だったらどうだろう。この際においても人間なら言語があるため、彩色板に出てきた色彩を「アオ」とか「ミドリ」とかのコトバに直し頭の中におぼえておくので、相当の長期にわたって記憶を保持することが出来る。もしかりに時間がひじょうに長くなった場合には、それこそ文字に直してメモにしておくのであろうが、短時間の場合には文学に書かないだけの違いで、当人はまったく意識していなくても、コトバに直して頭のなかにメモに書きつけているのである。

 以上の説はすこぶる興味深く、示唆されること多大であった。言語があるため、新しい工夫、新しい発明や発見を他の仲間やあとに続くものに何なく伝えることが出来るということ、したがってあとに続くものは、もう一度はじめからやり直す必要は全くないということは、言葉は自己と他者、前と後を超えたものであり、自己と他者、前と後を内容とするということでなければならない。内容とするということは言葉が働くことによって、自己と他者、前と後があるということでなければならない。我々が言葉をもつということは、我々を超えたものとしての言葉が働くことであり、我々を超えたものによって我々は物を作る者として製作的自己となるのである。勿論言葉が物を作ることは出来ない。生命が言葉をもつことによって物を作るのである。

 而して言葉が自己と他者を超えて言葉の内容として、個としての自己と他者を包むということは、言葉をもつこの我は自己の中に自己を超えたものをもつということでなければならない。我々は自己の中に自己を超えた言葉をもつことによって、前の者の発明や発見をはじめからやり直すことなく行為し、其処を出発として其処より新しい発明や発見へと進むことが出来るのである。超えたものによって自己を見るとは超えたものが働くことによって自己があることである、我々が製作的自己となり、製作生命に於いて歴史があるとすれば、我々を超えて働くものは歴史的世界でなければならない。私は人間が言葉をもつことによって歴史をもち、我々は言葉をもつ身体であることによって歴史を担うことが出来るのであると思う。

 記憶ということも、「アオ」とか「ミドリ」とかの言葉に直して色彩を長期に保存することが出来るということは、動物的感官を超えることであり、それを内容とすることでなければならない。更に言葉が自己と他者を超えて包むという意味に於いて、単にこの我の体験を記憶するというのではなく、この我を超えた全人類の過去を記憶するのでなければならない。私は過去として記憶するのみでなく、言葉によって過去を掘り起こし、過去を創造すらするのであると思う。

 言葉を作った人はないと言われる。而して言葉は常に語る者其の人の言葉であると いわれる。人は自分以外の者の言葉を語ることは出来ない。そのことは、この我とは 自分も知らない深い底をもち、深い底よりの限定としてあることであると思う。言葉を言葉を作った人はないと同時に、言葉は人の作ったものである。それは個々の人間を超えた無限の関り合いの中に作られたものである。我々も亦言葉の中に生まれたのである。言葉の中に生まれ乍ら、私の言葉は私以外の何ものでもないということは、私は私を超えた無限の関り合いの中にあり乍ら逆に無限の関り合いを自己の内にもつということでなければならない。無始無終なる宇宙時間を内にもつということでなければならない。対話は世界を内にもつものが世界の中にいるものとして出合うということである。

 言葉が個々の人間を超えるということは、言葉が世界として世界自身を創っていくということである。言葉の蓄積が加速度的に増大していくということは、言葉が言葉自身の内面的発展をもつことである。言葉が言葉自身の展開をもつのである。売言葉に買言葉という俗諺がある。言葉が言葉を呼ぶのである。斯るものとして私達が言葉 をもつということは言葉の内面的発展に運ばれることであり、言葉が内面的発展をも つということは私達が言葉をもつということである。

 自覚は生命が内に超越的なるものをもつことである。生命は自己矛盾的である。生きるものは死をもつ、生死するものが永遠なるところに自覚がある。斯る自覚は言葉 によって成り立つのである。言葉によって成り立つ製作的生命は個々を超え、個々を うむものとして永遠である。私達の身体は言われる如く手をもつものとして技術的製 作的である。それは個々の生命の生死を超えて無限の過去より承け継ぎ、未来へと伝えゆくものである。有限なるものが無限なるものであり、生死するものが永遠なるも のとして我々の身体は自己自身を知るのである。有限なるものは無限なるものではない。生死するものは永遠なるものではない。言葉が世界として世界自身の内面的発展をもつということは、個々としてのこの我を否定して来ることである。それが一つであるとは個としての生命は無限なる努力であるということである。無限なる自己否定 として身体より汗と血を流さなければならないということである。

 歴史の流れは単に直線的ではない。自然としての過去より未来への流れと、自覚的 意志としての未来より過去への流れの交叉として現在より現在へである。製作に於い 過去は与えられたものである。未来は実現すべきものである。過去も未来も製作行為が担うのである。行為的現在が担うのである。現在は過去よりと未来よりの流れが軋轢するところとして現在である。戦うところとして現在である。軋轢することによって現在より現在へと転じていくのが歴史である。

 歴史が直線的な流れではなくして、現在より現在へであるということは、歴史的時間は始めと終りを結ぶものがなければならないということである。全時間が一つの意味をもたなければならないということである。私は言葉が斯る永遠の意味を担うと思う。時間は変ずるが故に時間である。それが一つとは自己撞着も甚しい。而し斯るものなくして我々は歴史をもつということは出来ない。言葉をもつ生命が製作的として無限に蓄積的であるといわれる。蓄積の多様化が生産の変転である。歴史は其の上にあるのである。

 個々の人間が世界の部分であるところに歴史はない。この我も汝も言葉をもつもの である。言葉をもつとは個の中に世界をもつことである。個の中に世界をもつとは個 を介して世界が自己自身を実現することである。個々の人間が世界たらんとすることである。天下人たらんとすることである。中国に中原に覇を争うという言葉がある。自己が世界たらんとする人々が相競うのが歴史である。

 言葉は内面的発展をもち、我々を超えて自己の世界を展開する。而し言葉をもつものはこの我である。言語中枢は一人一人がもつ、私はこのことは一人一人の人に現れ、一人一人の形相は歴史の形相であると思う。歴史的現在が過去と未来を含むということも、この我、汝としての個々の人々が記憶と理想をもつことであると思う。我々 を一微塵として翻弄しつくす歴史の流れははかるべからざる深淵である。而しかえり みるときこの五尺の身体に潜む限りなさに畏敬の念をもたざるを得ない。品川嘉也教 授は、人間の脳髄は宇宙の自己認識であると言われる。この我が知ることは宇宙が宇宙自身を知ることであると言われるのである。私は歴史の無限の錯綜は斯る統一の上に立つと思わざるを得ない。初めに終わりがあり、終わりに初めがある最も端的なるものはこの身体である。我々の内なる声は歴史の底より聞こえるのである。歴史の声は流れる歴史より聞こえるのではない、永遠の円環より聞こえるのである。永遠に女性的なるものわれを誘うとゲーテの言った誘いを歴史も亦其の奥底にもつのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

霊魂について

 何時であったか竹内ひさゑ氏より「霊魂はあると思うか」と聞かれた事がある。私が霊魂とはどんなものかと聞き返すと、それは分からないとの事であった。スナック「カ」のママは「誰がなんと言おうとも私は霊魂の存在を信じる」と言った。よく聞くと霊魂とは死後の存在であり、死後の現世のままの生活であるらしい。

 昨日迄多くの人々を叱咤した人が、一本の脳血管が切れたが為に言葉も碌に言えず、食物を口に運んでもらい乍ら、唯寝ているといった姿をよく見かける。唯一本の血管が切れただけだそうである。まして死して全身が腐敗し、唯骨のみ地中に残って現世の感性生活をもつことのあり得ない事は論を俟たないと思う。而し我々が日々の生活に於いて欲望をおさえ、苦痛に耐えて業務に励むのは単にこの生命が死によって終るところよりは考えられないと思う。我々は限りない過去と、限りない未来を知る。生命は深く生死を超えたものであり、生死するこの我が直に生死を超えたものとして、我の存在を無限なるものの働きとする自覚を霊魂とするならば、私は霊魂はありと断ずるものである。

 自己があるとは世界の中に生まれたこの我が逆に世界を内にもつことである。世界 とは生産と、生産物を媒介として人間が関り合う相の展開である。世界を内にもつと は我々が技術を習得することである。技術を習得することは物を作ることであり、も のを作ることは世界を作ることである。私達はそれによって他者と関り、世界と関る のである。そして他者と関り、世界と関る事によって我々は自己となるのである。

 私達は最初に石を割って道具を作った人の誰なるかを知らない。火を目的的に生活 の手段としたのを何時よりかを知らない。測る事の出来ない時間の上に我々の技術はあるのである。測る事の出来ない時間の上に立つということは、我々は測ることの出来ない時間によってあることであり、測ることの出来ない時間を内にもつことによっ てあるということである。而して私達が物を作るとは単に過去を負うことによってのみあるのではない。かくありたい、赤は斯くあるべきであるという未来の先取りによってあるのである。未来よりの過去の否定が物を作ることであり、技術の進歩ということである。未来よりの過去の否定は、過去よりの未来の否定である。出来上った形は形の流動化を拒否するのである。現在は努力に於いてある。努力によって過去を未来に転ずるのである。転ずるとは無くなることではない。過去を内深く包むことである。このことは逆に過去が未来を孕んでいたということでなければならない。歴史としての動きは、動き自身の内に自己否定をもつのである。それなくして動きはあり得ない。過去は未来を孕むと共に、未来は過去を含むのである。それを転じていくのが我との努力なのである。我々が今働いているということは無限の過去と、無限の未来を内にもつということである。創造に於いて時間は無限の過去より、無限の未来に流れるのではない。努力によって現在を過去と未来に延展さすのである。現在の奥行きとするのである。其処に真の時間がある。現在は過去より未来へと、未来より過去への時間を包むものとして永遠の意味をもつのである。

 しかし永遠なるものは働くものではない。働くものは何処迄も矛盾的なものでなければならない。生きるものは死をもつものであり、死をもつものが死を克服せんとするのが働きである。克服すべき外をもつものとして働くということがあるのである。克服するとは外を内とすることである。外を内として新たな生命を見出す時に以前の自己はすでに自己に非ざるものとして外となる。外を内とすることは内を外とすることである。この外を内とし、内を外とするのが技術的ということである。我々が働くとは生死するものが永遠なるところにあるのである。我々が物を作り自己を知るのは、生死するこの我が永遠なる生命であることによってあるのである。

 自覚とは外に生命を見出でていくことである。自己を対象化することである。外に見るとは技術的として無限の過去と、無限の未来を内にもつことである。私達は働くものとして無限の過去と、無限の未来を内にもつ、無限の過去と未来を内にもつとは創造的として新たなものを作るということである。全ての人は個性的として独自のものを作る。過去と未来の転換は一人、一人に於いて成就するのである。それは常に独自なるものである。私達は世界を作る。そしてこの世界に於いて自己はあるのである。斯く自己の内に世界を見るものとしてあるということは、この我の死は絶対の死であるということである。眞に個としての生命をもたない犬は死への不安をもたない。其処に種的連続の一環としての犬の生命があると思う。無限の過去と無限の未来を内にもち、内外相互転換的なる自覚的、表現的生命としての人間に於いて死は絶対である。人間の不安は其処より来る。永遠なるが故に我々の死は絶対であり、絶対の死をもつ ものとして我々は永遠である。それは絶対の矛盾である。永遠は滅せざるものであり、 死するものは永遠ならざるものである。人間は斯る二律背反に於いて生きるのである。私は斯る二律背反の永遠の方向に霊魂と言わるべきものがあると思う。生死するものが永遠なるものを内にもつ、其処に自己があるのに対して、永遠なるものが生死するものを内に、其処に霊魂があるのであるとおもう。二律背反として絶対矛盾的にあるということは、働くということである。永遠なるものが働くものでないのと同じく、生死するものも働くものではない。生死するものが永遠なるものであり、永遠なるものが生死するものであるのが働くものである。働くとはこの矛盾の同一である。生死 するものが働くとは永遠なるものが働くのであり、永遠なるものが働くとは生死するものが働くのである。而してこの二者は何処迄も相反するものとして各々自己の方向 をもつのである。永遠の方向に我々は霊魂をみるのである。

 私は先に死は人間に於いて絶対の死であると言った。死は働きを失なったものであ る。自己を見出すことの出来ないものである。而し生死するものが働くとは永遠なる ものが働くのであり、永遠なるものが働くとは生死するものが働くのである時、永遠 なるものが働くとは我々を超えて働くのでなければならない。霊魂は働くものであり、 生死を超えて働くものでなければならない。斯るものは如何にしてあり得るのであろ うか。

 我々は我々の一々が無限の過去を孕み、無限の未来を望むのである。一人、一人が 全時間をもつのである。一々が個性的として自己の世界を創造しつつ、創造は世界の創造として全世界を内にもつのである。私はこの一々の全世界に於いて、我々は絶対に死にながら他者につながり、無限の未来に響きゆくのであると思う。歴史的社会に於いて、表現的世界に於いてつながるのである。例えば言葉は一人、一人の言う人の言葉である。私の言葉は私以外の如何なるものの言葉でもない。而し言葉を作った人はないと言われる如く、言葉は言葉をもつもの全てのものの内容である。我々は言葉をもつと同時に、言葉の働きによって自己を知るのである。そして知ることによって新たなものを生みゆくのである。一々の対話は世界の展開であり、貴き言葉は貴き世界の創造である。ゲーテは死した、而しゲーテの言葉はその包む世界の深さに於いて、我々の心底を動かして止まないのである。ゲーテを読むとはゲーテ其の人となることではない、私が私ならんとして読むのである。其処に世界があり、絶対の断絶と連続があるのである。一々を介して世界が働くのであり、言葉が働くのである。昔の人は言霊と言った。それは言葉の一面を深く捉えたものであるとおもう。勿論言葉は霊魂ではない。一人一人の働きが言葉の働きであり、一々が言葉によって露はとなる時に言葉は霊魂となるのである。言葉は人を活かしも殺しもすると言われる、この活かし自覚的生命は技術的表現的として無限の過去と未来をもつ、この過去、未来とは直線的な一つの流れを言うのではない。無数の過ぎ去った人々、無数の生れ来るべき人々をいうのである。一人、一人が生まれ、働き、死んで行った人々をいうのである。各々が喜び、悲しみをもつ数限りない人々をいうのである。我々が無限の過去と未来をもつとは、この我は斯る無数の人々の呼び声によってあるということである。永遠とはこの声を満たした世界としての一である。多の一の声である。私は霊魂はありと断ずるのは斯るものが我々の根底にあり、斯るものによって我々があると断ずるが故に外ならない。

 霊魂が語られる時に多く呪詛について語られる。呪詛とは何か、死に去った人々の 一々が過去と未来を内にもったものであり、歓びと悲しみをもったものであると言った。そして過去は未来を孕み、未来は過去を含むといった。人は各々夢をもち、夢を 実現せんとする。この夢の実現が人々相対する現実に於いて他者に砕かれた者の声である。活力と活力がぶっかって砕けたものの声である。永遠なるものが生死するものを包むとは斯るものを包むことである。もとより呪詛も霊魂の一面であるというのであって、霊魂は呪詛であるということではない。男子外に七人の敵ありと言われる如く、生死するものは矛盾的にあった。生きているものが死をもつこと自身が矛盾であるのみならず、面々相対するとは争いを内包するが故に相対するのである。而して争いの中から最も美しいものが生まれると言われる如く、争いは争いをなさしめるものがあり、争うことによって争いをなさしめるものが姿をあらわにするのである。

 対立は対立を包むものに於いて対立する。包むものが永遠である。眞、善、美は価 値として永遠なるものの姿である。永遠なるものが生死するものを包むものとして霊 魂は無限に価値実現的である。而して生死するものが働くものとして、価値は裏面に 争いをもって実現するのである。善、美は一面に呪詛の暗黒をもつことによって動的となるのである。永遠は生死するものを媒介として自己を実現する。この力が霊魂である。眞、善、美は顕れた霊魂の光であり、呪詛は顕はれざりし暗黒の声である。呪咀も亦生命が世界を形成せんとする自覚に於いてあるのである。顕はれざりし声の 故に顕はれんとする声は強い、其処に呪詛の多く語られる所以があると思う。顕はれ るものは少なく、顕はれざりしものは多い。顕はれし人は少なく、顕れざりし人は多い。其処に多くの人が呪詛への共感をもつ所以があると思う。呪詛の語られる深さが あるとおもう。而して呪詛は多く死者の声として語られる。私は前に死者は感性とし ての生をもたないと言った。感性としての生をもたないことは声をもたないことであ る。死者は声を発し得ないものである。呪詛が自覚的生命の一面としてある時、死者 は絶対の死であるはずである。それならば死者の声とは如何なるものであろうか。

 人間は手をもつことによって人間になったといわれる。私達の身体は蛙や犬と形態 を異にする。技術をもつとは身体が技術的なのである。外に見るとは表現的身体なの である。言葉をもつとは脳構造が言語的なのである。技術が無限の過去と未来をもつ というのは、身体が無限の過去と未来をもつのである。斯る身体の無限なるものが自 己を外に見出したものが歴史的世界である。我々が社会として実現するものである。

 世界は我々が生まれ、働き、死んでいくところである。而して斯る世界は我々がものをつくることによってつくっていくのである。世界は生産としてのものを介しての人と人との関り合いである。我々がものをつくるとは、逆に世界が我の内容となり、この我に包まれることである。この身体は全時間を内にもつものとして、働く身体であり、世界を作っていくのである、生まれ、働き、死んでいくところは我々を包むものとして絶対の外でなければならない。我々の身体はこの絶対の外を内にもつものとして、身体は身体自身の内に絶対の外をもつのでなければならない。我々は自己の中に生まれ、働き、死んでいくのである。私は死者の声は此処より聞え来るのであると思う。絶対の外に於いて出会うものは他者である。我々は世界に於いて他者として出会うのである。生死を超えた無限の過去と未来は絶対の外として我々に迫って来るのである。それが表現的世界として、この我が表現的生命としてこの我の内となるのである。死者の声は絶対の外として、この我の表現的生命に於いて我々に呼びかけるのであると思う。

 よく祖霊の声ということがいわれる。この祖霊の声とは何処から聞こえて来るのであろうか、私は祖霊の声が聞こえて来る為には、例えばこの私がこの我の歴史的形成としての我が家の繁栄を希う心がなければならないと思う。栄えゆく時に喜びの声が聞こえ、衰えゆく時に詛いの声が聞こえるのである。それは祖霊の情念ではなくして我の情念である。而し家というものを介在さす時にそれは祖霊の情念である。家は歴 史的表現的物として我の中に祖霊を生かし、祖霊の中に我を生かすのである。我々が働くとは斯るものとして働くのである。私は若し我々が歴史的表現的形成としての働きを捨てた時は、祖霊の声を聞く事が出来ないと思う。痴呆となり、或は自暴自棄となった者に祖霊の声はあり得ないと思う。

 それはひとりこの我、我が家というのみではなく、大和魂といわれるものもあるのであると思う。この国士実現的として、日本の国の興隆を希い働く人々がこの国に死んだ無数の人々、生まれ来る無数の人々と呼び交わすのが大和魂であると思う。ともあれ永遠なるが故に絶対に死する者、絶対に死するが故に永遠なるものとして我々は霊的生命であると思う。消えつつ歴史的表現的世界としての永遠の底に響きゆくの である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

文化について

 「砂漠の文化」という本を読み乍ら私は、オアシスとは砂漠に与えられた天恵の濕地帯ではなくして、人が砂との戦いに築き上げた歴史的産物である事を知った。用水溝を掘り、貯水池を作り、降雨の殆んど無い地域に於いての撓まざる利水への努力が 人間の生活を可能ならしめるのである。天山山脈の氷雪の融け水が河となって流れ、果てしない砂の乾きの中に消えてしまう迄の間の、利水の努力がシルクロードのオアシスとして点在したのであると言われる。

 人は手を持つ事によって人間となったと言われる。手とは物を作っていくものである。物を作るとは、欲求としての生命が外に自己を露はとする事によって自己を充足していく事である。物とは生命の外在の形相であり、物質の概念も近代的自覚の所産であるという事が出来る。

 物を作るという事は技術的となるという事である。我々が人類の特長とする、知るということも其処から生まれてくるのである。例えば水利の為の溝を作るとする、それがより大なる水の力の為に決壊する。すると前の技術を参考として新たな技術を案出する。技術は新しい状況の前に新しい技術が生まれて来る。技術は次の技術を呼ぶの である。それが技術の内面的発展であり、知るという事は斯る内面的発展を宿すとい うことである。前の技術と、現在の技術と、未来へ展開すべき可能としての技術を内 に持つということである。

 此処に文明の発端がある。文明とは環境として我々に与えられたものを、我々の欲求の秩序に再編する事である。欲求の外化としての商品の氾濫は文明の爛熟である。物として外化する事によって我々に新たなる欲求が生まれ、新たな欲求によって新たな物が生まれる。文明は斯る無限の進行である。

 而して外化はまた内化である。外に物を見るという事は内に自己を見るという事である。言葉を作ったものがないと言われる如く、技術は内外交換としての生命が人間に於いて自覚的であるところより生まれたものと思う。時間は操作の形式であると言われる如く、それは世界形成的として時間をも内に包むものであるという事が出来る。 時間を内に包むものとしてそれは伝統的である。技術的なるものは伝統的なるもので あり、伝統的なるものは技術的なるものである。それは世界形成的として歴史的なる ものである。私達は斯る世界に生まれ、技術を習得して自己となるのである。生産亦 は其の結果としての物に関る事によって世界に関り、世界に関る事によってこの我が あるのである。

 伝統はこの我を超えたものであることによって伝統である。技術は其の淵源するところを知らない。強いて求むれば人間生命が自覚的であるという以外にないように思 う。我々を超えた過去からあり、我々がそれによってあり、我々を超えた未来を生み ゆくこの歴史的世界、我々がつくりつつ我々を超えてその内面的必然を持つものでな ければならないと思う。それ自身の内面的必然をもつという事は歴史的世界は我々によってつくられつつ、逆に我々を歴史的世界の自己顕現の内容とする事である。時代の流れに勝てないとよく言われる。世界は世界自身の自己限定をもつのである。我々は世界の自己顕現の内容として、我々が自己を有限として過去、現在、未来を見るのは世界本来の内容となるものでなければならないと思う、世界は過去、現在、未来を内に包むのとして自己を限定していくのである。世界の中に時は生まれ、時は消えつつ世界として一つなのである。伝統は斯るものの上に初めて成立するという事が出来る。

 永遠とは過去、現在、未来を内に包み、其の中より時が生まれ、時が消えいくところである。静止しつつ無限に動きゆく永遠の形相は世界の自己限であるという事が出 来る。我々が伝統的技術的であるという事である。私は前に技術とは欲求としての生 命が外に自己をあらわにし、物を作っていく事であるといった。技術は斯る欲求的な るものに永遠なるものが働くということである。欲求的なるものが永遠の内容となり、 逆に永遠なるものを内にもつということである。時間は過去より未来への流れに対して、未来より過去への逆限定に於いて成立すると言われる。このことは永遠が働くも のであり、永遠が働くということである。

 生命は形相具現的である。私は前に欲求的生命の形相的具現としての物の生産が文明であると言った。そして斯る生産の根底には技術としての世界の自己創造があると言った。生命は形相具現的であるという時、生命はこの欲求的生命よりの方向と世界よりの方向の具現をもつ事によって自己の具体的な形相を顕現していくのである。私は欲求的生命よりの方向が文明であるに対して、世界よりの方向に文化が見られると思う。文化は文明の上に咲いた仇花ではなくして同時発生的である。生命の自覚の両面である。

 生命の自覚の欲求よりの方向と世界よりの方向というのは相反するものである。欲求は充足と共に消滅し、次の欲求が生まれてくるものである。物はその欲求を充たすと不用となり、次の欲求を充たすべき物が作られるのである。それに対して世界は時を包むものである。文化は時を超え、時を包む永遠の形相を志向するのである。物は技術的生産物として瞬間性と永遠性を有する。それが欲求的方向を志向する時実用 品として日々の生活を充たすものとなるのであり、世界顕現的なる時、永遠の形象と して精神を充たすものとなるのである。

 相反するものは単に対立するのではない。対立するものは否定し合うものである。 文化は文明の否定の上に成立するといわれる。物としての形相の日常性を否定して、永遠性の純なる造型を求めるのである。物は欲求充足の実現として形をもつ、その形をして形相実現の根底へと還らしめるのである。根底に還るとは日常性の否定でなければならない。哲学も詩も言葉に於いて日常性を超えるのである。色彩に於いても何かの目印は生活の必要である。而し絵画は日常生活の必要を超えたものである。

 日常性の否定と言えば、何か日常的なものが先ずあってそれを否定するものが現れ たと考えられるかも知れない。そうではないのである。其処からは否定の発生という ものを考える事は出来ない。物の出現という事がこの両面をもつことによってあるの である。自覚としての技術的製作は相反するものを内包することによってあるのである。物は矛盾的なる事によって形相をもつのである。その一つの方向を志向するのである。一つの方向の志向は他の方向を否定するのでなければならない。物は有限なるもの、相対的なるものとして物である。而しその具現は永遠なるもの形を超えたものが働くのである。そして形は生命の自覚的実現としてこの両面を持つのである。故に日用品も永遠の一面をもち、芸術品も商品の一面をもつ、唯その志向に於いて否定し合うのである。闘うのである。我々は日常として生活する。文明的展開に於いて生活する。文化は斯るものの否定として価値の転倒である。

 文化の創造を担うものはその無関心性がよく言われる。無関心とは何事にも関心を 持たないと言う事ではなくして、通常、日常生活に於いて持つ関心を持たないという 意味である。

 美衣、美食、名誉、権威等に無関心であるということである。永遠を見つめるものにとって平氏の栄華も槿花一朝の夢に外ならない。百万石も笹の露である。結ぶ草庵こそが安住の家である。価値は有るものにあるのではなくして、有るものの内深く見えて来るものである。日常生活者にとってそれは一つの狂者に外ならない。世界は日常的、有限的自己の達すべからざる深さである。世界が世界自身を限定するところに世界があるのである。この達すべからざる深さが現れる処に文化があるのである。故に文化の世界は啓示的であり、霊感的である。作ろうと思って作るのではない、現われるのである。創作は常に永遠の女神に呼ばれ招かれるのである。招かれて我々は知らざるところにいくのである。其処に世界は自己自身をあらわす、それが文化の内容である。斯る声を聞き、斯る御手を見た者が天才である。天才は努力すると言われる。而しそれは努力ではなくして斯る声、斯る御手の中にある自己が眞の自己として行かざるを得ないのである。ミケルアンジェロには鑿の先に目があると言ったという、一打が次の一打を呼ぶのである。形が次の形を見ていくのである。世界が永遠の形相を開顕していくのである。其処に何等この私を挟むものがない。絢爛たる文化の形象は斯る天才によって見出されたものである。

 文化は個的、世界的としてのこの我の世界的方向に見られる。而してこの我の世界的方向に見られるということが世界が世界自身を創るということである。我々の脳髄 の働きは宇宙の自己認識であると言われる如く、我があるということは全存在に於い てあるのである。個的、世界的ということは全人類的ということである。唯一生命に 於いてあるということである。ロダンが道を行く少女を指さし乍ら「あそこに全フラ ンスがある」と言った如く、全てあるものは全存在に於いてある。

 眞理を証するものは世界である。それは眞理が世界の展開なるが故に外ならない。 内なる良心の声は世界より聞こえて来る。エチオピアの飢餓より、東南アジアの虐殺より我々を呼ぶのである。美も亦我々の視覚の楽しみでなくして深く世界を表すと ころにある。我々は其処に文化を見るのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

般若心経私観

 何時であったか、ライオン藤本に般若心経について問われた事がある。また、ライオン林幸男が般若心経の本を取り出して、何時か解釈をしてくれと言われた事がある。書店の本棚にも最近心経の本がたくさん並んでいるように思う。並ぶと言う事は売れるという事であり、そこに一つの現代の要請があると言う証拠であると思う。もとより私は佛教について全くの門外漢である。而し佛教といえども人生如何に生くべきかの問より出でたものに外ならないと思う。以下私は私の立場から心経を考えて見たいと思う。

 手を持ち、物を作る事によって人間が誕生したと言われる如く私達は働くものである。働く事によって自分を見出してゆくものである。私は刃物を商う者であるが、刃物を作るには先ず鍛冶工に入門し、技術を取得しなければならない。その技術と言うのは数百年、祖先が研鑽し伝え来ったものである。即ち世界を自分の内容とする事によって我々は働くものとなるのである。そして鉄の性質に随って切るという目的にいそしむのである。私達はここで生命が一つの不思議な相を現すのに気付くであろう。昔職人気質と言うのがあった。何よりも自分の技術を自慢するのである。悪い品が出来た時或いは出来そうな時は仕事をしないのである。食う米がなくてもしないのである。よい品を作るには鉄と火に自己を忘れなくてはならない。無心にならなければならない。そしてそれが自慢となるのである。自己を忘れ無心となる所に、他人に示すべき確固たる自己が現れるのである。発明家とか芸術家とかはこの極限に見られると言い得るであろう。彼等は寝食を忘れて自己をあらわとするのである。確信は単なる自己にあるのではなくして、世界にあるのである。世界を自己の内容とする事によって、自己が世界を持つ事によって私達は他者に自己を示す事が出来るのである。今は職人気質と言うのは消えて仕舞った、しかしよい腕前が生きる自信となり、世間の尊敬を受けるのに変わりはない。

 睡眠欲、食欲、性欲は三大本能であると言われる。生命が自己を維持していく本源的欲求である。寝食を忘れると言う事はそれを否定する事であり、本源的欲求を超え た欲求を我々が持つと言う事である。そしてそれは人間が自分の世界を作ろうとする 欲求である。それはひとり芸術家、発明家にとどまらず、商人が早朝に仕入れに行き、役員が深夜に及ぶ会議を持つのも全てその現れである。シュバイツバー博士がアフリカの辺地へ行ったのも、僧が食を断って樹下石上に結跏趺坐を組むのもその現れである。

 心経に色即是空と言う。私は色とは本能を基体とするこの個的身体であり、空とは我々がその中に生き、それを実現すべき世界であると考えるものである。それは相反 するものである。芸術家、発明家に端的に示される如く、世界は自己の実現の為に固 体の徹底的な否定を要求するものである。仮借なく私心を排撃するものである。而し固体は斯る世界の否定の要求を退けて自分が世界を制覇し、世界の王者とならんと するものである。自己が世界の全てであろうとする者である。色と空は絶対に相反す るのである。而して自己であろうとするのも自己であり、世界であろうとするのも自己である。人間はその両端に神とけものを持つと言われる所以である。私達の生とは 斯る相反するものの対抗緊張をもつものとして生きるのである。それは単に私達は世 界に面してそのように生きねばならないと言うのみではない、私達の身体が相反する ものを内包するのである。細胞がそうなのである。身体が矛盾的である故に人間は働 くのである。苦しみと悩みはあるのである。即と言うのはこの相反するものが一つで あると言う事である。而し相反するものは一つならざる事によって相反するものであ る。これが一つであるとは如何なる事であろうか。

 自己が世界であろうとするこの我を根底より砕くものは死である。死は一切の栄華を露の命のはかなさとするものである。諸行無常と言う言葉がある。無限の世界の前に、死す身のはかなさを嘆いたものである。而し私達はパスカルも言う如く死を知るものである。私は前に我々はこの我を否定して世界に生きようとするものであると言った。世界に生きるとは既に述べた如く数百年の技術的過去を自己の内容とする事である。その技術的過去は亦限り無い技術的過去を持つのである。自然の生成をも技 術とすればそれは宇宙創成の始めまでさかのぼるのであろう。そしてそれは亦無限の未来へ伝えいくものである。世界に生きるとは永遠の一点として、永遠を内に持つと言う事である。知る事は働く事によって知る。かって日本経済新聞に品川嘉也教授が 「我々の脳髄は宇宙の自己認識である」と書いていた。私はその卓れた見解に感嘆したものである。知るとは永遠の鏡に映して見る事である。世界が世界を映すが故に我々は見た事もない豊臣秀吉の実在を信ずるのである。死を知るとは永遠の我が有限の我を映す事である。私は前に自己であろうとする我と、世界であろうとする我の矛盾的統一がこの我であると言った。世界であろうとする我に自己であろうとする我を映すのである。それを自己であろうとする我より見る時、それは悲嘆であるのである。而し我を永遠の一点とする時永遠は我々を超えたものでなければならない。達すべからざる深さでなければならない。而してこの達すべからざる深さが働く事によってこの我があるのである。其処に私達の回心が生まれるのである。色身としてのこの我を断じて世界としての空身に摂取されるのである。もとより色身を断ずると言っても色身がなくなるのではない。回心と言ってもこの我が消えるのではない。この我なくして世界はない。この我の苦しみ悩みが永遠の相として、世界の働きと悟る事である。世界となって働く事である。色即是空、空即是色とは諦観の論理ではなくして身を断じて働く創造の論理である。

 真理と言うも世界に証されて真理である。正義の声と言うも世界の底から聞こえて来るのである。エチオピアの飢餓から、東南亜細亜の虐殺から聞こえて来るのである。美も世界を見る事から生まれるのである。通常世界は我々の外にあると思われている。近代科学は物とし世界を示現した。物によって外と世界は引き離された。而し世界は深くモーゼがエホバの声を聞いた如き、佛師が一刀三拝した如きものの働きがあるのである。永遠の過去より永遠の未来へ唯一のものが働くのである。我の来る所は永遠であり、帰る所は永遠である。それを現するのは身の働きである。それは不生不滅である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

晩年作

 先日古美術商を営む某が、関雪の晩年作だと言って掛軸をもってきた。その話を沢近食堂で酒を呑み乍ら、主人の蕩翁と三人でしている裡に晩年作とは何かということ になった。晩年とは老境だ。死ぬ前だなぞ言い合った末、青くささのとれた円熟した境地だということに落ち着いた。

 私は別れてから青くささがとれるとは何ういうことかと考えた。たしか武者小路実篤氏も、鉄斎の六十才の頃の作品は見られない、而し八十頃の作品は驚く作りである、といったような事を書いておられたように思う。その円熟とは何ういうことなのであろうか。

 私達は目によって物の形を見る。而し目によって物の形があるのではない。物の形は目を超えたものである。私達は見る前から物があったと信ずる。目と物の形は相互に超越的である。而して物の形は目で見られる事によってあるのであり、目は物の形に対して働くのである。このことは目と物の形が更に高次なるものの内容としてあると言うことでなければならない。目を一方の極とし、物の形を一方の極として自己自身を創造してゆくものの内容としてあることでなければならない。私は断るものを我々の歴史的形成に求める事が出来ると思う。

 アンデスの山深く、今も原始的生活を営む人々は、白く輝く雪嶺を見ても、悪魔の棲家として恐怖の表情をもつそうである。我々はそれを壮麗と見る。この相違は何処から来るのであろうか。目に映るものは同じである。私はこの相違は、その背負う歴史の相違であると思う。私達の目は鳥羽僧上の目が、雪州の目が、応挙の目が、池大 雅の目が潜んで働くのである。私達の言葉には人麿の言葉が、紫式部の言葉が、芭蕉の言葉が潜んで働くのである。郷土が、祖国が創って来たものが働くのである。

 高次なるものとは、我々を超えたものであり乍ら、我々の目として働くこの生命であると思う。この生命が働くことによってこの私はあり、私の目はあり、そして物の形はある。ワイルドが「自然は芸術を模倣する」と言った如く、我々は作ることによって物の形を見てゆくのである。目と物の形が対立するのはこの限り無い歴史的時間より、生死するこの我を抽象して見るが故に外ならないと思う。物の形は人類的生命の見出でた形として、この我の目を超えるのである。而して目の奥底に還ることによって唯一生命に結び付くのである。生死するこの我を超えて、形が形を作ってゆく大なる生命の流れが真に働くものであり、大なる生命そのものとなることによって真個の自己はあるのである。

 形が形を作る大なる生命と言っても、生命一般というものがあるのではない。働くものはあく迄も個としてのこの我であり、汝である。私は青くさいとは、この我が自己の中に世界を見ようとする意志にあると思う。芭蕉が世界を見出だした如く、この我が世界を見ることなくして世界はない。而し自己は世界ではない。其処に創造者の苦闘はある。真に光を見んとする者程闇は深い。物の形をこの目で見なければならない。だがこの目は物の形ではない。而しこの苦闘は大なる生命が自己自身を実現せんとする意志である。深き生命の自己純化である。そして或る日、生命は自己純化を成し遂げ、この目は深大なるもの自身の目となるのである。私は晩年作はこの転換の日より としたいと思う。故に晩年作は人によって異なる。鉄斎は八十にして晩年作である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

心経私観補遺

 何時であったか、長野県の旅館に泊まった時に、箸袋に色即是空、空即是色と印刷 してあり、その横にこの世界は仮の世であり、苦しみや悩みは迷いに過ぎないと書い てあった。よく空や無という時に世界は無常であり、生まれては消えていくものであり、本来無いものであると言われる。

 果たしてこの世は仮のものであり、私達は本来無いものであろうか。本来無いものならば今この文字を書いている私の存在を如何に説明するのであろうか。仮の世に生きて本来無いものに何処から苦しみや悩みが来るのであろうか。心経にも五蘊皆空(ごおんかいくう)なりと照見して一切苦厄をし給うと書いてある。本来無いものならば皆空なりと照見する事はない筈である。五蘊はあるものであり、あるものは矛盾的にあり、苦を内包するが故に空と照見して苦厄を済したというのである。五蘊はあるものであり、空と照見する事によって自己自身を超越するものでなければならないと言い得ると思う。

 苦とは何か、それは有るものが無くなる事であり、かく有りたいと思う事が実現しない事である。生者必滅、会者定離であり、病、老、死である。生命は常に死と対面しているものである。斯る死を生に転換するのが私達の働きである。例えば稲に水をやらなかったら稲は枯死する。稲の枯死は亦農作者の死である。池を掘り、溝を作り、水を導入するのは生への転換である。生命が死を内包する事は矛盾であり、働く事は苦である。限り無い生死の転換は苦の海である。後の世であり、本来無いものであるならばこのように苦しむ必要はないであろう。

 斯る苦を救済するものは生命の永遠の自証でなければならない。私の苦しみは不死 であると知る事によって済度(さいど)されるのである。老、病は死の淡き影であり、亦然りである。働く事の苦も限り無い生死の転換としてではなく、永遠なるものの現れとなる時に歓びとなるのである。五蘊の無常の苦を度す空とは斯る永遠の形相を持つものでなければならないと思う。

 生死するものは永遠なるものではない。永遠なるものは生死するものではない。それは相反するものである。相反するが故に苦悩はあるのである。而し相反し、対立する処に救いはない。皆空なりと照見して一切苦厄をし給うには、生死するものが永遠なるものと一つとならなければならない。対立したものが寄り合うと言うのではなく、直に一つであるのでなければならない。色即是空である。この色と空は私達が日常使う身と心という言葉を使ってもよいと思う。身即心、心即身である。心は身に現れ、身は心を現わすのである。この言葉によっても明らかな如く、この相反するものが一つであるとは空が色を摂取する事によって一つとなるのである。それは捨身行に於いて一つとなるのである。佛陀五年の苦行によって人類はこれを得る事が出来たのである。

 私観に於いて言った如く永遠は世界として自己自身を実現する。而して世界は自己自身の動きを持つ、時代の流れという言葉がある如く世界の動転は我々を微塵の微少とするものである。無限の過去を含み、無限の未来を孕んで、この過去と未来の激突によって動いていくものである。而して無限の過去と未来を持つが故に世界史的現在として、永遠の今を実現するのである。歴史の本質は過去より未来へではなくして現在より現在へであると言われる所以である。捨身行とはこの我がこの永遠の今の具現者となる事である。私達は自分の中に永遠の過去、永遠の未来を照見して救われるのである。

 世界は全存在の具現者として世界である。それならばなぜ空というのであろうか。世界は自身形を持たない、色としてのこの我や汝が世界を作っていくのである。レーガンや中曽根は何処までも世界の流れに随う。而し中曽根、レーガン会談は世界を作っていくのである。リーダーは世界の目となる事によってリーダーである。リーダーの みではない、全ての人は世界の目となり、世界の身体となる事によって自己を持ち生きていく事が出来るのである。世界が自己を具現していくとは斯く具現していくのである。形なくして形を実現していく故に空と言うのである。形なくして形を実現していくが故に全存在たる事が出来るのである。

 心経の冒頭に観自在菩薩と書いてある。私達が宇宙の一微塵とも言うべき身に永遠 の全存在を持つ事が出来るのはこの観に於いてであると思う。人生観、世界観、宇宙 観、観に於いて私達は雑多なる世界を唯一者の相下に見る事が出来るのである。そしこの観とは無常なるものが永遠なるものを内に持つ処に成立するものである。迷い なくして悟りはない。迷いはまだ世界となっていないこの身が世界となろうとする陣痛である。

 もとより永遠を見る者も死ななければならない。生きる限り槿花一朝の悲しみを持たざるを得ない。而してこの悲しみが常に永遠への回心を呼ぶのである。色即是空、 空即是色の最も深い意味を私はここに見る事が出来ると思う。其処にあるのは哀歓を超えた静かな微笑である。ともあれ私は人間生命の深さ、不思議さに驚嘆の念を禁じ得ないものである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

般若心経について

 この間、内藤先生から、正法眼蔵を読むから来いと言われて二、三回お邪魔した。その前にも歎異抄や般若心経に招かれた事がある。私はその題目を聞いて意欲の凄まじさに驚いたものである。勿論史上稀有の大天才が全生涯を賭けたものばかりである。三月や半年の輪読位で解ける筈がない。而しその無謀と言える挑戦に敬意を表せざるを得ないと思う。

 宗教は存在の根源への生命の要求である。三者その表現が異なると言ってもその帰 する所は一つでなければならないと思う。歎異抄は他力と言っても悪人正機に於いて 自力の媒介を説き、眼蔵は現成公案に於いて、「自己をはこびて、万法を修証するは迷なり」と言っている。その根源と言えるものを心経によって私の尋ねた跡を少し述べて古来心経の要諦は五蘊は皆空なりと照見して一切苦厄をし給うに尽きると言われ ている。このことは心経の眼目は苦厄済度に外ならないと言い得ると思う。苦とは生 命が自己の否定に面することである。四苦と言われる生死老病が釈迦出家の契機と なったことは人の知る処である。生は他者の否定に面することであり死老病は生きて いることへの否定である。生まれて来たものは逃れる事の出来ない宿命として背負っ ているのである。その中で死が要約される最大の苦であると思う。死によって一切の 自己が無に帰するのである。五蘊とは必竟斯る苦をもつ身体の内容に外ならないと思う。これを皆空なりと照見して済度したと言うのである。

 人はよく全て形あるものは壊れる。生命あるものは死ぬと観念することによって救われると言う。而し生命あるものは死ぬというのは如何なる救済であるのか、それは救済ではなくして放棄であると言わざるを得ない否定が苦であればその救済は肯定で ある。死の救済は不死であり永遠の生でなければならない。一切が無に帰するのが苦であれば、その救済は一切有でなければならない。照見された空とは一切有として生命の不滅の形相でなければならない。そしてそれは死もそれによってある底のもの でなければならない。私はこれを解明するために自己は如何にあるかを把握しなければならないと思う。

 巨勢二号にも書いた如く私達はこの社会の中に言葉をもち技術をもって、人に交わ り物を作って生きていくものである。そして言葉も技術もこの我を超えた無限の過去 より、無数の人によって作られ、蓄積され、伝承されて来たものである。そして我々は未来へと伝達するのである。私達は言葉や技術の始まるところを知らない。言葉は過去を孕み未来を哺むものである。そして我々がそれによってあるものとして永遠の形相であると思う。そして私は前にも書いた如く、この形相を実現するものは全人類としての人間の種の生命であると思う。人類は世界として自己を実現するのである。私は色即是空とは斯る世界が世界自身を形造ってゆく論理であると思う。般若とは論理の意である。

 即とは相反するものが一である事である。相反するものが一であるとは相互媒介的 であることである。色即是空という時、色は空によってあり、空は色によってある事である。私は今言葉や技術をもつことによって自己があると言った。そして言葉や技術は世界の形相であると言った。この事は世界の中にある我々は逆に世界を内にもつ ことによって自己があることである。而してこのことは逆にこの我によって世界があるということである。誰の言葉でもない言葉はない。言葉は誰かの言葉である。相対する色身の苦しみ喜びが言葉となるのである。技術もまたこの腕の覚によって技術である。生死の関頭に立って、死を生に転ずるのが技術である。我々を超えたものは何処迄も我々の内容となることによって我々を超えるのである。それは矛盾である。而しこの矛盾的自己同一に於いて生命は無限に自己を創造してゆくのである。

 苦悩はまたここより生まれるのである。我々の苦悩は無窮の世界の前の朝露のはか なさにある。而してこの無窮の世界とは、超越として言葉や技術の歴史的形成を介し て見たものである。このことは死への苦悩は人間のみがもつことによってもあきらかである。而し今見た如く超越としての永遠はこの我の苦悩に於いてあるのである。空 とは超越者は自己の形相をもつのではなく、この生死する色身にのみ形相を表わし得るが故に空である。五蘊皆空とは生死するものが生死するままに永遠であるということでなければならない。この知見が救済なのである。

 私達は言葉を習い、技術を修めるのに努力する。この努力するということは世界が働くことである。それによって世界が世界自身を形成してゆくことである。それは常に我々に課題として迫って来るのである。世界は自身を形成する働くものとして世界である。時の流れとは世界が自己自身を見出してゆく相である。時の流れを自己の相とするものは時を超えたものである。それは過去現在未来を統一する絶対的一者でな ければならない。それは始めに終わりをあらしめ、終わりに始めをあらしめるものでなければならない。言葉と技術の無限の蓄積は斯る絶対的一者に於いて初めて可能で あると思う。絶対的一者に於いて全ての人生の価値は生まれて来るのである。我々の努力とはこの唯一者の声に呼ばれてあるのである。其処に全人類の生命がある。

 身体なくして生命はない。この我があるとは何処迄も知覚的として色身としてあるのである。斯る色身が世界を内にもつことによって自己を自覚する。永遠を見るものとなる。而し身体的である限り生死する生命である。有限なる生命である。世界の中の一人として宇宙の一微塵としての生命である。唯一者によりてありつつ唯一者たり得ないのは勿論、唯一者を見ることさえも出来ないのである。而して唯一者によりてのみ救済される、私は此処にこの我と唯一者の関係があると思う。この我の生きる姿勢が問われる根拠があると思う。

 無限なるものの内容として有限なるものはある。而し有限なるものより無限なるものに至る道はない。存在が無限と有限の綜合である時、無限への道は有限の放棄のみである。道元は、佛道をならうというは自己をならうなり、自己をならうというは自己 をわするるなり、自己をわするるというは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるいうは、自己の心身、および他己の心身をして脱落せしむるなりと言っている。心身を放棄して萬法としての存在そのものに純一になれと言うのである。親鸞は阿弥陀の名を唱えて全てを任せよと言う。任せてたとえ地獄に連れて行かれても気にかけるな と言う。其処に生死の救済としての永遠はあるというのである。私は五蘊皆空の至り つくところはここではないかとおもう。而し色身なくして生命はない。この時色身は如何にあるのであろうか。ルターは斯く言っているそうである。信仰は、人々がこれをもって信仰だと思うような、人間的な妄想や夢幻ではない。寧ろ信仰は、我々の内に働き給う神の業であり、我々を更えて新しく神から生まれらせ、古いアダムを殺し、我々を全く他の人となし、更に聖霊を伴い来らすことであると。禅家に於いても死の断崖に身を絶するとか、大死一番ということが言われる。脱落した心身は世界の呼び声に甦るのであると思う。官能の欲求を抹殺するのである。言葉と技術の導きに違うのである。救済とは本来の相の具現であり、色即是空は此処に完結すると思う。色即是空の世界は自己形成的であり、無限に動的である。日日是好日とは斯る心地の風景 である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

不安について

 心電計のかた、かた、かた、かたと言う音が聞こえて来る。手や、足や、胸なぞに貼りつけられている蛸の吸盤のようなものが信号を送り、それを受けて作動しているらしい。

 俺の心臓に何か異状があるのではなかろうかと思う、あれば仕方がないと思う。心臓麻痺、心筋梗塞の可能性も聞いて置こうと思う。

 やがて吸盤のようなものが外される。起き上がって機械の方を見ると、紙の上に波のようなものが描かれている。「どうですか」と聞くともう一度目をとおしてにっこり笑いながら「先生に読んでもらって下さい」と言って渡される。身体は私其のものである。而し私達はその身体について何も分かっていないのを今更のように思う。身体だけではない。商売についても、人の心についても私達は何も分かっていないように思う。

 不安は人間のみが持つと言われている。生命をもつと言っても植物や、外の動物は 不安を持たない。動物も死をもつ、而して死に直面して恐怖する。而し健康な時に不 安をもつ事はない。私はそれは植物や、動物が生命として一つの完結をもつが故であると思う。

 植物は芽生え、成長、開花、結実の循環が必然である。動物の生命も種族的である。種族保存として本能的である。種族的として固体の行動は生得的である。生死は種族の自己維持の循環としてある。自己完結を持つ、其処に生の不安はあり得ないと思う。それに対して人間は自覚するものとしての意識をもつ、意識を持つとは世界の中にあるものが逆に世界を自己の内容とする事である。生命が外に、対象的に自己を作っていく事である。世界として我と汝が相見え、相対する個的生命として、自己の個性の尖端に世界を作って行く、それが何処迄も表現的世界に於いて、歴史的表現的なるものを媒介するが故に世界の自己実現となるところに我々の意識が成立する。自覚とはこの働くもの、行為的表現的主体としての自己把握である。我々の自己とは、この働く事によって得た世界を内包するものとして自己である。私達は自己紹介をする時に、住所氏名と共に業務地位を言う。前者の自然的、所与的なのに対して、後者は世界に於いて、働く事によって如何に世界を内包せるかを示すものである。自己を明確に示すものはこの職業、地位であり、我々が通常自己と言う場合後者の立場に於いて言うのであると思う。而して斯る自己が生まれるのは表現としての歴史的世界である。ここに於いては子も親から生まれるのではない。各々が伝統的技術の中から生まれるのである。而しこの事は我々が身体的なるものから離れる事ではない。否それは何処迄も身体的なものである。手を持つ事によって人間が生まれたと言われる如く身体的なるものを外に表出するのが、働く事であり意識を持つ事がある。この個としての身体の表出によって自己がある。自己の中に世界を見るものとして我々の死は、動物 的、種的連続の意味を超えて絶対の断絶である。我々は無に帰しいくのである。其処は限り無く深い暗黒である。

 相対するものは相互否定的として相対するのである。物と我、汝と我は否定し合うものとして物と我、汝と我である。田園を耕さなかったら忽ち飢餓として我々に死を迫って来る、牧歌的として歌われる田園は決して我々に友好的ではない。汗の代償として我々に穀物を恵むのである。日々の新聞はあらゆる事業界の激烈な闘いを報ずる。 繁栄の裏には喰うか喰われるかの争いがある。それが現実の相である。そこは羨望と、嫉妬と、怨恨の渦巻く所である。我と汝は笑顔によってのみ相見えるのではない。ひきつる顔が常にかくされているのである。

 私は先に自己の意識は世界の自己実現の内容となる処にあると言った。この自己と しての個的生命は歴史的表現的なるものを媒介としてのみ自己を実現する事が出来るのである。この事はこの我が何処迄も自己実現的である事は、歴史的世界が自己実現的である事でなければならない。而して海に棲む魚が海を知らない如く、我々にとって歴史的世界の動きは知るべからざる深淵である。内容にとって形式は不可知者である。単なるこの我と言うのはない。我はあく迄汝に対する事によって我である。而してこの我は個の尖端に見出でた世界に於いてこの我である。この事は亦汝は汝の個の尖端に見出でた世界に於いて汝でなければならない。斯く各々の世界を持つ事にあるものとして、我と汝は絶対の深淵を距てるのである。唯歴史的表現的世界に於いて出合うものとして知る事が出来るのである。而して世界は無数の個的生命を内包するものとして、それ自身の限定を有するのである。

 喜怒哀楽を内包しつつ、喜怒哀楽を超えて動転するのである。この中に我々は無に 帰するのである。表現的世界に於いて限りなく深い暗黒があると言ったのは斯る歴史 の世界である。表現的なるものは歴史的なるものであり、歴史的なるものは表現的な るものである。而して斯く自己を超えたものの内容として、我々の存在は運命的である。物と我、汝と我の出会いも運命である。運命は自覚的表現的世界の底に見られるものであり、それは底知れぬ暗黒を潜めるものである。我々は運命的存在として日々の行行、歩歩は不安である。斯るものとして我々がこの我として歴史的世界に遭遇する時、唯虚無と絶望の鉄壁があるのみである。歴史的表現的世界に於いて、生は限りなき喜びであり、死は限りなき悲しみである。

 而し歴史は暗黒に於いてのみ歴史であるのではない。暗黒は明白に於いて見られる。表現的世界は展かれゆく光輝の世界である。不安は神に至る道であり、無常は涅槃に入りゆく道である。真にあるものは今この字を書ける我であり、語りいる汝であり、人間一般と言うのは何処にも有り得ない如く、世界も亦個的生命なくしてあり得ないものである。この我、かの汝が歴史的形成的として有する無限の底が、歴史の無限の底となるのである。限り無い暗黒は我の死である。我の死なくして歴史の深淵はあり得ない。而してこの我が伝統的技術の中に生まれ、其の上に新たな技術を展き、次代に伝える歴史的創造者となる時、人格としての生命は身体的生死を超えた所になり立つものとして、永遠の意味を持つのである。我々はこの永遠の目に於いて、生死する自己を有限と見るのである。自己が自己を見るのである。而して自己の中に見られた自己が自己である時、我々は絶望の淵に逢着せざるを得ないのである。目は目自身を見る事が出来ないと言われる如く、見るものは形象的に無である。而して見られるものとしてではなく、見るものとしてこの我はある。真個の我は見る我である。自覚的、表現的に自己があると言う事は歴史的形成の目として見ると言う事である。

 我々が自己自身を知るのは単にこの我が知るのではないと思う。我々は自己を知る ものとして生まれ来ったのである。人類の一人として、人間として知るのである。我を超えたものの内容として知る。この我が知ると言う時この我は我を超えたものとして知る事が出来るのである。この我を超えた我の見るはたらきが歴史的形成なのであ る。我々が真実の自己を求めるのはこの歴史的世界に於いてであり、真実の自己が重々無盡なのは自己を超えたものの内容としての自己が超越的根底に還らんとするが故に外ならないと思う。全歴史は自覚の内容であると言う事が出来る。我々は自覚するものとして、何等かの意味に於いて歴史は我の裡にあるのでなければならないと思う。歴史の内なるこの我の胸底に全歴史は流れるのである。斯るものなくして自覚的、表現的としての歴史的形成はあり得ないと思う。超越者としての永遠の目によって我々は自己を知る事が出来るのである。

 而し超越的無なるものは何処にも存在する事が出来ない。存在する自己は生死し、喜怒哀楽を持つこの我である。この我が生存せんとして働くのである。この身体の表 出として見るのである。この事は絶対の矛盾である。この身より出ずるものがこの身 ならぬものである。此処に我々の存在は無限の不安と迷妄となる。而し絶対の矛盾なるが故に廻心があるのである。其処に無明はそのままに生の完結を持つものとなるのである。知るものとして、身体的有としての我が、直に無として超越的自己としてある。世界の中の一人が、世界の底より働くものである時、そこに自覚的生命は初めと終わりを結ぶのであると思う。

 しかしこの事は言うは易くして、行うは難い。直に無となる事は、生きつつ死ぬ事で なければならない。佛教で言う大死する事でなければならない。有りつつ無くなる事 でなければならない。其は生の究極の世界である。

 世界の底より働くものとしての宗教の世界である。此処にあるものとあるべきものとが一つとなるのである。我々の不安は、ある我があるべき我でない処にあった。動物に於いて個体が直に種的生命である処に本能的欲求的生の完結がある如く、此処に 自覚的生の完結があると思う。見るもの働くものとして、この我が無となる時、外としての世界が我となるのである。そこに廻心がある。草木瓦礫悉皆成佛となるのであ る。世界は我を呑み込む処ではなく、我の内となり、深淵の暗黒は我の形相として無 限の光輝となるのである。

 完結を持つ動物に不安のあり得ない如く、我々は此処に不安なき生命を持つ事が出 来るのであると思う。種的生命として動物の個体が完結する如く、全人類として我々 の生は完結するのである。唯、「死の断崖に身を絶して絶後に蘇る、」と言った深大な 体験を持たない私は、その間の消息を語る資格を持たない。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

苦悩について

 生、病、老、死は苦ではない。鯉は背に庖丁を入れられても騒がない。犬は老いの 不安を持たない。かまきりの雄は雌に食われて死ぬのを当然とする。生物にとって生・老・死は形相維持の循環であって本然の姿である。其処に苦悩のあるべき余地はない。それが苦悩であるのは永遠の鏡に映して有限なるが故である。何故に永遠に映す事によって苦悩があるか、それは自己の来所が永遠であり、永遠は自己本来の面目なるが故である。苦悩とは自己か自己ならざる事である。努力とは自己が自己であろうとする事である。苦悩は生、死、老、病にあるのではなくして我々が自覚的自己である処によるのである。私達はよく脳溢血となって中風になり、生の意欲も死の恐怖もなく、よだれを垂らして唯其の日、其の日を生きているのを見る、自覚の喪失は赤苦悩の喪失である。

 しかし永遠が永遠である処も苦悩はない。苦悩は何処迄も生、病、老、死にかかわる のである。生、病、老、死なくして我々の苦悩はあり得ないと言っても過言ではない。槿花一朝の嘆きは文芸の素材となり、老醜無惨は老いゆくものの悲しみである。我々 は生、病、老、死をもつものとして苦悩するのである。壮健不死ならんと欲してならざるが故に苦悩するのである。

 自己が自己ならざる事が苦悩である時、苦悩をもつとは自己矛盾的にあると言う事 でなければならない。私が苦悩すると言う時、私は生死する生命と永遠なる生命とし ての相反するものの統一としてあるのでなければならない。それは二つの生命が合 さって一つとなったのではない。直に一つである。永遠なるものが生死し、生死する ものが永遠なるものである。生死を見るのは永遠より見るのである。永遠は生死する ものが見るのである。其処に自己が自己ならざる苦悩が生まれるのである。自己の中に絶対の懸絶を持つのである。我々の自覚は其処より生まれるのである。自覚に於いては、見るものが見られるものであり、見られるものが見るものである。自覚は単に知るのではなくして相反する自己が限定し合うのである。自覚は苦悩より生まれ来るのである。

 自己とは世界の中にあるこの我が逆に世界を自己の内容とする事である。世界とは この我が生まれ働き死んでゆく処である。それは我々が現れ来り、消え去る処として この我を絶対に超えたところである。斯る世界に於いて我々は働くものとして自己と なるのである。私達は名刺を刷る時に住所、氏名と共に職業、地位を記入する。其処 に私達の具体的な自己はあるのである。私達は職業に於いて限り無く関り会う、其処 に社会があるのである。そして社会は限り無い過去と未来を負う、それが世界である。私は鎌を商うものであるが、その淵源は遠く鉄の発見に遡り、更に石器、木器と遡らなければならないであろう。私は其の無限の時間を内容とする事によって私なのである。今商っているのはこの無限の時間を負う事によってあるのである。今此処に住むのも氏名を持つのも重々無盡の過去を持つのである。私が鎌を商うと言うのはこの無限の過去を内に持つと言う事である。そして現在に於いて働き、未来を望むと言う事である。

 我らの自己は斯く生死する生命を超えた処に成立するのである。生死する生命は斯 る世界に映す事によって生死はあるのである。若し私が生まれて直ぐに野犬の中に 育ったとすれば、私は私の死を知らないであろう。生物本然の死をもつのみであろう。 無限の時間に映して我々は無常の嘆きを持つのである。而して無限の時間とは全宇宙が、そして全宇宙の尖端として全人類が行為的に創造し来ったものである。世界は全人類の内容として、この我を超えたものとして無限に自己創造的である。時代の流れには勝てないという言葉がある。世界は個人を超えるのである。

 しかし亦個人なくして世界はない。あるものはこの我、汝として個々の人々である。個々の人々に背負はれる事によって世界はあるのである。個人とは身体的に行為するものである。世界の自己創造と言うも身体的行為な してはあり得ない。この事は身 体が無限の過去、現在、未来を内容として持つとゆう事でなければならない。身体は 生、死する身体である。生死する身体が無限の過去、現在、未来を持つのである。それは相反するものである。而して身体は一つである。相反するものが一つであるとは 身体に於いて一つであると言う事である。細胞そのものが自己矛盾的であるところに 無限に動的な生命があるのであり、我々の自己があるのである。身体の中に時間が生まれ、時間の消えゆく全存在があるのである。

 私達は世界の中にありつつ世界を内に持つものとして自分が世界であろうとする。全能と永生と自由を望んでそれを実現せんと欲する。而し生死するものとして我々は何処迄も有限である。あろうとする我とある我とは深淵を距てて乖離する。自己が自己ならざるとはこの乖離である。あろうとする我は世界よりの声として実現を迫るのである。自己の所在として実現を迫るのである。苦悩は此処に生まれるのである。人間にとって肉体的な死よりも社会的な死こそ真の死である。よく社会に参与し得ざるものが自殺するのはこれに因由すると思う。犬が死の不安を持たず、人間が不安をもつのは世界の実現として無限なるべきものが死によって絶たれるが故に外ならないと 思う。我々は苦悩を離脱せんと欲する、而し有限的、無限的としての矛盾的存在である限りそれは不可能である。離脱せんと欲する事愈々深くして、苦悩は愈々深まるば かりである。キエルケゴールの死に至る病は此処にあると言えるであろう。

 しかし翻って考へれば苦悩こそが永遠であると言う事が出来る。永遠は現前に於い 永遠である。形なきものは何ものでもない。生命に於いて現前するとは一瞬一瞬に 消えつつ現れる事である。單に個とゆうものはない。單に世界とゆうものはない。あるものは個と世界の矛盾としてあるのである。この事は世界の自己創造は刹那現成的 にある事である。生死するものに現前する事である。個と世界の矛盾の中に苦悩はあった。それは離脱せんとして離脱する事の出来ないものであった。而し斯る矛盾の中に世界は現前するのである。世界が現前する事は、世界を内にもつ事によってある自己も亦現前する事である。私達は自己が苦悩をもつのではなく。苦悩の中より現前し来るのである。唯現前し来った自己が世界を内包するものとして苦悩はあるのである。絶望は有限に於ける無限の喪失と、無限に於ける有限の喪失の二つがあると言われる。苦悩とは抽象的立場に立つ事である。永遠とは無限なるものと有限なるものが相互限定的に一つになる事である。生命が生命として自己完結を持つ事である。

 私達の苦悩は自己が世界たらんとして世界となり得ない処にあった。而し苦悩に於いてこの我と世界が現前する時、この我は直に世界であり、世界は直にこの我でなければならない。この我と世界の出で来る処として、この我と世界を離れて苦悩に直接する時、苦悩は苦悩を離れて一大生命の具現となり、大歓喜えと転ずるのであると思う。苦悩は自己ならざる自己が自己であろうとする努力であった。而して斯る努力は超える事の出来ない断崖に面せざるを得なかった。而し努力自身が本来の相として、行きつくべきものとしてあったのである。苦悩の克服ははるか彼方にあるのではなく、苦悩自身を観る所にあったのである。

 この我に世界を見る事によって自己であろうとする努力は、世界がその内容としての個的生命に於いて世界自身を実現しようとする事であるという事が出来る。若し野犬の中に育ったならばこの我の意識をもたないであろうという事は、この我は世界を映す事によって自己となると言う事である。この我が世界を映すとは、世界は個的生命に於いて顕はとなる事である。苦悩は其の接点にあるのでる。生命は矛盾としてあり、矛盾は苦悩である。この我の苦悩は世界の自己実現の形相である。自己ならん と欲して自己ならざる苦悩は、直ちにそのまま世界の実現である。

 私達は何処迄もこの我として生きる。死の悲しみは逃れ得ぬ運命である。而しこの 悲しみは永遠が自己自身を見ている相である。苦悩は、苦悩が世界の自己形相とし て苦悩を離脱するのである。其処に最も深いよろこびが生まれる。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

自覚について 其の2

 よく私の書いたものが解らないといわれる。而しそう言われる人は生命が矛盾であることを考えられたことがあるのだろうか。矛盾とは相反するものが一つということである。般若心経に於いて色即是空という如く何処迄も相反するものが一つということである。

 よく人は俺は大工の腕は誰にも負けない、庖丁を使えば俺は誰にも負けないという。 そしてその腕前を自己の支点とする。彼の存在を支えるものはその腕前である。彼等 が俺はという技術とは如何なるものであろうか。

 彼等はその技術を師匠は先輩より習ったのである。その師匠、先輩はその師匠、先輩えとさかのぼるものである。其処に俺と言うべきものはない。無限なる技術形成者の影があるのみである。而しその故にこの俺はと言い得るのである。一人だけの技 術であればどうして誰にも負けないと言い得るであろうか。一人だけの技術はあり得 ないものであるし若しあっても価値のないものである。何故ならば人類が必要とする ものであればすでに歴史の初めに其の萌芽があった筈である。技術は技術の上に築かれるのである。

 我々はこの自己が技術をもち、知識をもち、意志として世界を実現しようとする。行為者として自己から全てを律しようとする。而し上に見た如く自己とは無限なる人間連鎖の中の一つの輪に外ならない。世界の中の自己として、自己の腕前を誇ろうと思えば逆に自己を捨て行かなければならない。料理の腕を誇ろうと思へば自分の今迄の技術を捨てて古往の秘伝を尋ね、東西の味覚を較べて其の上に技術を築かなければ ならない。更に評価は客が定めるのである。

 自覚という時通常はこの我が自己を知ると思う。勿論この我なくして自己を知るものはない。而しこの我が知るという背後には更に深大なる生命の働きがあるのである。技術に於いて見た如く、師匠、先輩えと限りなくさかのぼるということは人類が限り無い年月に技術を築いて来たということである。言葉にしてもそうである。神代人は今のように豊饒な言葉をもっていなかった。それは永い間の多くの人の関り合いの中から生まれて来たものである。

 自覚とは人間生命が自覚的生命であるということである。生物の生命には個体保存 種属保存の二つの本能があると言はれる。人間も亦生物である。自覚的とは斯る生 命が自覚的ということである。犬は犬より生まれて犬を生んでゆく、個を超えて個に 形相を維持してゆくのが種の生命である。人間は自覚者として個人を超えた技術や言葉を内にもつ世界を形造ってゆくのである。世界とは人間の種の自覚的形相である。我々の自覚は世界を形造るものとしてあるのである。それでは矛盾とは何か。

 我々の生命は身体的として生まれて死んでゆく。有限なるものである。それに対し世界は個人がそれによってあり、それによって成り立つものとして永遠なるものである。而してこの生まれ死んでゆく身体は手をもち、言語中枢をもつ、技術をもち、言語をもつ。技術、言語は前に見た如く世界の形相である。世界の形相を身体がもつとゆうことは、この身体に於いて世界を実現せんとすることである。人はこの自己をして世界たらしめんとするのである。王者となって一切を自己の意志の下に統率せんと欲し、永遠の生命を得んと欲するのである。自己が神たらんとするのである。

 而し技術は環境に対する事によってあり、言葉は隣人に対する事によってもち得る ものである。環境に相対し死を生に転ずるのが技術であり、隣人に相対し、喜び、悲 しみをもつ処より言葉は生まれるのである。而してそれは人間は生死するものなると ころより生まれるのである。世界であろうと欲し、永遠たらんと欲するのは生死する生命であるところよりあるのである。我と世界とは絶対の深淵をもって距てるのである。超えることの出来ない懸絶をもつのである。

 矛盾とは一つたらんとするものが相否定し合うものである事である。前にも書いた如く環境の否定を肯定に転ずるのが技術である。相対する隣人と一つたらんとするのが言葉である。生命は矛盾に於いて生命である。矛盾によって無限に動的となるのである。而して最大の矛盾はこの我と世界との懸絶である。自己と神とを距てる深淵である。それは我々がそれによってあり、それの実現としてありつつ、達すべからざる彼岸である。我々は永遠なるものの形相としてありつつ、何処迄も生死するもの、有限なるものである。

 この問題は関心をもたざる人にとっては単なる閑人の遊戯とも見えるであろう。而しこれこそは自覚的生命にとっての生死の問題なのである。我々の自己成立の根源の問題なのである。身体は生死するものでありつつ、言語中枢をもつものとして永遠なるものである。そのことは世界と我、神と我との絶対の懸絶を身体がもつということである。而して身体は一つである。身体が一つであるとはこの相反するものが各々の自己を主張することでなければならない。生死する身体はその官能の充足に於いて自己を維持せんとするのであり、永遠の生命はその形相の実現の為に寝食を忘れることを要求するのである。相剋とは一つが身体を統べんとすることである。

 人間生命が自覚的生命である限り斯る相剋は永遠が自己を実現せんとするものであ る。それが絶対の懸絶である限り生死する身体としての目や耳によっては見ることも聞くことも出来ないものでなければならない。斯る意味に於いてそれは何処迄も否定されなければならない。斯る否定の深さが自覚の深さである。その極限に全てを失う時、大死一番とか、百尺竿頭更に一歩を進めるとか言われるものがあるのである。死の断崖に身を絶して絶後に蘇るといわれる如く、そこに於いて目は永遠を見る目とな り耳は永遠を聞く耳となってよみがえるのである。そこに自覚は完成するのである。全ての自覚は斯る自覚を分有するのである。

 生死するものが永遠なるものであり、永遠なるものが生死するものである時その限定の形式は歴史的形成でなければならない。我々は歴史の流れの一点として、全時間 としての永遠に面するのである。絶対の懸絶は歴史的時間としての懸絶である。一微 塵としての存在が限りない過去を承け、限りない未来をはぐくむものとして、今、此処に働くものとして神に面するのである。技術、言葉に於いて絶対に接するのである。 私は自覚の最も深いものを日常底に置いた東洋の先覚者に深甚なる敬意をもたざるを得ない。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

ある対話より、自己えの考察

 「あいつはじきに自分を失なうでのう。」「うん気の短い奴やさかいんのう。」「どない言うても堪えてくれへんねんやがい、困って仕舞うたがい。」聞くともなしに聞いていると、冗談に名前を呼び捨てにしたのを、怒ってからんで来て困った話らしい。私は聞き乍ら、自己という問題に対してこの話がもっている内容に興味をもった。怒りは言われる如く自己防衛の感情である。自己の一部は全てが奪われようとするときに現れる情緒である。恐らくその男が怒ったのは、呼び捨てにされることによって、自己の名誉が失われるのを感じたのであろう。相手が自分を同等以下に見ていると思い、猛然として同等の復元を要求したのであろう。

 私が此処で興味を感じたのは、この自己防衛が何故に、あいつはじき自己を失うでのうという自己喪失となるかということである。自己を保持しようとする行為が自己を失う行為であることは矛盾でなければならない。而してそのことが日常に於いて何の疑うこともなく対話されているのである。それはそのことが世の中に於いて自明の事として認められているということであると思う。血迷うといわれるのはそのような状態であり、怒りは常にこの様な状態を指向しているのであると思う。そうであるならば斯のような矛盾としての自己とは如何なるものであろうか。

 自己が自己であろうとすることが逆に自己を失うことであれば、自己が自己であるためには、自己であろうとする自己を捨てなければならない。何処え捨てるか、それは眞に自己であらしめてくれる処でなければならない。自己が自己の中に捨てるのである。自己ならしめるのも亦自己である。そのことは我々は自己の底により大なる自己をもつことでなければならない。このより大なる自己に映して、自己であろうとする自己は自己を失なった自己であり、血迷った自己なのであると思う。私達が読書するのも斯るものであると思う。読書するとは自己ならざるものの中に歩みを進めることによって自己を見出さんとするものである。歩みを進めるとは自己を否定して、自己をその中へ投げ込んでゆくことである。投げ込んでゆくところは我々を超えて、我々に否定を要求し、その呼び声によって、自己が露はとなり、眞個の自己となるのでなければならない。私は斯かるものを我々が生まれ働き死んでゆく全人類が形成し来った 歴史的世界に求めたいと思う。我々はこの世界に生きものとして、日常自己転換を行っているのである。この世界に生き、この世界を生かすべく我々の行為はあるのである。そこに自己を保持せんとすることが、自己を失うことの自明なる所以があると思う。我々は一人生きるのではない。全人類の連鎖の中に生きるのである。それが我々の平常底である。

 歌人は何処迄も歌の世界にこれを投げ入れて、他の歌人と面々相接することによって眞個の自己となるのである。全人類が作る世界とは個と個が相対する世界である。象徴主義と現実主義は相否定する。浪漫と写生は相争う。一つは未来よりの限定であり、一つは過去よりの限定である。而して争うことによって写生と浪漫は自己を明らかにするので瞬々止むことなき自己発展はここより生まれるのである。他者との相互否定を媒介とするのである。自己の停滞はマンネリ化として、自己の喪失である。自己をよしとするものは生ける屍である。而して相互否定を媒介として展開してゆくのが歴史的世界である。斯るものによって歴史は事実より事実へと転じてゆくのである。我々は歴史的世界の一要素として、各々が歴史的創造の創造的尖端に立つのである。それが否定を媒介するということである。我々は創造的尖端として世界を否定し、世界の一要素として世界に回帰するのである。私が写生の立場から浪漫を否定 することは、すでにある世の形を否定することであり、否定することによって写生を打ち樹てることは、新たな写生を見出すこととして世界を創造することである。斯くして世界は内に深まり、外に形を露はとするのである。否定と回帰は一つである。世界を否定することは努力である。相互媒介的として、否定することは否定されることであり、否定されることは苦痛である。世界に生きることは苦痛であり、努力である。我々は苦しむべく努力すべく生まれて来たのである。力の表出に於いてより大なる空間と時間をもつ。そこに我々は全人類と結合し、自己を見るのである。血迷うた自己は斯る自己から抽象された自己に外ならない。自己があるとは、他者の抵抗として、力の表出としてあるのである。私は今高遠な論理を語っているのではない。日常に於いて私がと言う時斯るものとしてあるのである。

 ロゴスとはこの自己に現れた世界の相に外ならない。世界は我々を超えた深さをもつ、我々を超えた深さに我々が生きるとは、我々は世界の呼び声に生きることである。ロゴスは我々に汝かくなせと命ずるのである。良心も真実も美もこの呼び声の中より生まれるのである。呼び声に生きるとは、眞個の自己は世界であるということである。そこに我々は回心をもつのである。平常底に翻るのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

自己があるということ

 物理学は筋肉覚、関節覚の無限な自覚的発展であると言はれる。科学の発展は巨大なる一人の人間の成長に例える事が出来ると言った人がいる。人間は世界を創っていく、それは内的なるものの外他として、人間に擬えて作っていくという事が出来る。世界とは人間の自己像であるという事が出来る。

 而し物理的法則に随う事なくして一塵をも動かす事が出来ないといわれる如く、我々は恣意によって世界を創る事は出来ない。内的なるものの外他として、筋肉覚、関節覚が自覚的発展をもつとは、我々が筋肉覚、関節覚を媒介として世界の奥深く入っ てゆく事である。この自己を否定して世界自身となる事によって我々は物理学をもつ のである。無限の自覚的発展とは自己の恣意を否定して世界そのものとなる事である。

 単一なる自己とゆうものは何ものでもない。例えば一人の生まれたすぐの子を無人島に捨てたとする、其処に如何なる自己があり得るであろうか、唯走り、唸る一つの動物があるのみであろう、食欲と性欲をもち、眠っては醒めるのみであろう。私達が今此処にこの如くあるとゆうのは限りない過去を背負うのである。無数の人々と関り合うとゆうことである。

 言葉を作った人はないと言われる。而して言葉によって我々は関り合い、自己となるのである。斯る言葉は何処から来たのであろうか、私は其処に生命の外他としての 物の生産があると思う。外に物を作るとゆう事は内に技術的となるとゆうことである。言葉は単なる音声ではない、表現的なるものである。意味を補うものである。その為 には言葉をもつものは創造的なるものでなければならない。価値の創出者でなければならない。価値の創出ということは、生命の外他ということである。物を作るという 事である。関り合うものには何かの媒介がなければならない。私達は物を介し、物を 作るものとして呼び、答えるのであると思う。

 斯るものとして言葉がその肇まる所を知らないとゆう事は、技術もはじまるところを知らないといわなければならない。はじまるところを知らないとゆうことは、我々は我々の知らない生命の具現としてあるとゆうことである。はじめを知るところに創造はない、知らざる生命の深さが自己を具現してゆくところに限りない創造はあるのである。無限の過去がよく、無限の未来を生むのである。

 何日であったか、人間の胎児の最初は幾つかの点があらわれている。それは人間が 大古水中で生活した頃の鰓の痕跡であると書いてあったのを読んだ事がある。そして 胎児の成長は両棲類に似、哺乳動物の姿となり、生まれて来た時は猿に似ている。歩き初めは類人猿に似、やがて人間の姿を完成するとあったと記憶する。私達は成長過程に於いて人類の全歴史を繰り返すのである。人間は無始、無終なるものを内蔵すると共に、個体も亦無始、無終なるものを内蔵するのである。人間は宇宙的生命の創造的発展の結実である共に、その結実は個体に於いて実現するのである。

 私達は生まれ働いて死んでゆく、せいぜい七十年か八十年の生命である。而しこの 生、死、する身体は無限なるものを蔵する身体として生死するのである。そして私は 我々の技術はこの無始無終なる生命の創造的発展の自覚としてあるのであると思う。斯るものとして我々の自覚も与えられたものである。作られたものである。作るものとして作られたのである。

 私は鎌を商うものであるが、この鎌を作る為には先ず熟練工の下に弟子入をしなけ ればならない。そして幾年間かの技術習得の後に一つの製品を作る事が出来るようになるのである。それを幾世代も繰り返して来たのである。技術をもつという事は私達 の生死を超えたものを自己の内容とするという事である。それによって私達は世界に関り、自己となるのである。生死を超えたものを内容とするということは世界を内にもつという事である。全時間がこの我の胸底を流れるということである。私達はこの全存在を内容としてもつ直覚が動かす事の出来ない自己の確信となるのである。

 世界は我々が其の中に生まれ、働き、死んでいく処である。何処迄もこの我を超えたものとして世界である。我々が其の中にあるものとして世界である。私達は世界の中にある事によって、逆に世界を内に持つ事が出来るのである。我々を超え、我々が其の中にあって技術的展開を持つという事は、技術は世界の自己創造としてあるということでなければならない。我々が技術的に世界を作っていく事は世界が世界自身を作っていくということでなければならない。誰も言葉を作った者はない、而して言葉によって我とは自己を見、世界を見ていくのは斯る世界が自己創造的としてあるが故に外ならないと思う。それなれば我々が世界を作っていく事が世界が世界自身を創っていく事であるとは如何なることであろうか。

 単なる世界というものはない。世界は我々が働く事によって世界である。私は前に個体は無始、無終なる宇宙的生命を宿すと言った。我々の働く事が世界の自己実現であるとは個体の斯る面が自己実現的であるのでなければならないと思う。個体の一々が無始、無終なるものをもつものでありつつ現在の対立、矛盾に於いて形相を実現していくのである。一々が時を生み、時が消えいくものをもちつつ自己が其の中に生まれ、消えていくのである。一人、一人が全宇宙的なるものを内包する、其処に一々が働く事が世界が働く事があり、世界が一つである所以があるのである。

 時を包み、其の中に時が生まれ、消えゆくものは永遠なるものである。形相は斯る永遠なるものが自己矛盾的であるところにあらわれる。矛盾とは個が全であるという事である。個が全であるとは個と個が対立するということである。これを言いかえれば個が対立することは個が全を担う事である。斯るものとして形相は常に永遠なるものの自己顕現であるということである。個が全を担うということは表現的であるということである。斯るものとして時は単に流れるものではない。一々が永遠として現在より現在へ動いていくのである。過去と未来を包むものとして、一瞬一瞬が完結をもつのである。

 矛盾するものとは闘うものである。対立するものは否定し合うものである。個物的なるものが全存在的なるものを内包するということは、我々は内に闘うものをもつということである。個が全を見るということは表現的ということである。私達は表現的世界に生きた人々が凄惨な霊肉闘争を体験したのを知る。技術的ということは世界形成的ということであり、世界が働く事によってこの我が見られる時、ある我は、あるべき我に否まれなければならない。我々は今ある我を否定することによって自己を見出していくのである。物を作る自己として、技術をもつ自己として我々はある。それは世界実現的として無限の自己否定である。其処に我々は生まれる。否定の肯定である。自己否定なくして自覚はない。瞬々の否定によってのみ、瞬々に新たな肯定は生まれる。無限に動的なるものとして世界が働くのである。この我より見れば否定は苦悩であり、否定の肯定は努力である。自己を忘じて我々は眞個の自己となる。永遠として具現するのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

名刺(神の存在の証明)

 歌会の後で雑談に耽っていると、一老婦人より突然「貴方は神があると思われます か。」と尋ねられた。私は「神は我々があるとかないとか言うものではなく、私達がそれによつてあるものです。」と答えた。そして後日私の考へを明にすると約束した。一体私達があるというのは何うゆうことであろうか。私達は初対面の人に自己紹介をする時に大い名刺を差出す。その名刺には住所、氏名、職業が記載されているのが通常である。この住所、氏名、職業とは如何なるものであろうか。住所とは私達の祖先が汗を流して拓いた土地である。そして住居を作った処である。氏名とは、はるかな過去より血の神秘に於いて連綿として一統を維持し来ったものである。限り無き栄辱を潜めるものである。職業は技術として、人間を人間ならしめたものとして、無限の過去より承継し来ったものである。私は鎌を商うものであるが、鎌は収穫器として石器時代以前より木の股になった処をうすくして、木や草の実などを採取したところに初まるであろうと言われている。私達が今手にもつ鎌は、幾万年の技術の承継と発展の成果である。

 私達が名刺を受け取って読むとき、はかり知れない時間の上に作られた一人の生命 を見ているのである。自己とはこの生死する身体としての生命を超えたものとして、無限の過去を孕むものとしてあるのである。この感情的自己を絶対に超えるものとして自己なのである。勿論この生死する身体なくして生命はない、生命なきところに自己はない。而して自己とは生死する身体を超えたものであるとは、生死するこの身体が生死するものを超えた無限なる時間を内にもつと考えられなければならない。永遠なるものを宿すと考えられなければならない。名刺は生死するこの我の名刺である。而してこの我を生死を超えたものとして呈示するのである。斯るものは如何なるものであろうか。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。生命は能く知られている如く、種的なるものと個的なるものとの綜合として成立する。種とは個を超えて個によって形相を維持してゆく力である。個とは種の要素として種の形相を実現してゆくものである。故に個は個に対するものとして集団し、出産、死亡によって連続する。人間は斯る生命の自覚として、種の方向に世界が形成され、個の方向にこの我があるのである。

 種と個とは単に共存するのではない。生死するものは永遠なるものではない、永遠なるものは生死するものではない。我々の身体は一つである。この一つの身体に於いて、生死するものと永遠なるものは各々の形相を実現せんとするのである。それは否 定し合うものである。私達の小さい頃、よく秋の稲田で雌に食われる雄かまきりを見たものである。背を反らして耐え乍ら、それでも抵抗することなく腹の半ば迄食われ た姿をみると、悲傷の思いに耐えられなかったものである。種が種を維持する為には、個への斯る惨虐を内包するのである。蜘蛛は無数の子を産む、それは殆んどを死なしめることによって、幾匹かを残すべく産むのである。それは死としての環境と闘い来った生命の摂理である。

 人間とは斯る生命の自覚的なるものである。世界とは常に我々に否定として迫って くるものである。而して斯る否定をとうして我々は生きるのである。我々は世界を作 ることによって生きるのである。世界を作るには努力しなければならない。努力する とは今の自己を否定してゆくことである。動物に於いても個の死が種属の生であった。我々は世界を作る為に官能的欲求を超えなければならないのである。暖衣飽食は人間の敵である。世界を作るとは身体的欲求的自己を殺すことによって、より大なる生命に生きることである。私は名刺に記載する自己とは斯かる自己であるとおもう。

 自覚とは自己が自己を見てゆくことである。種は個を超えて個を包むものとして、種の自覚とは人類の初めと終りを結ぶものでなければならない。私は言葉とは斯るものをもったものであると思う。私達は言葉によって自己を知る。それと共にスメル文字を解読することによって六千年前の人の生き態を知るのである。そこには全人類一なるものがあるのでなければならない。無限の過去と未来を包むものがあるのでなければならない。我々が種的、個的としてあるということは、斯るものとしてあるのでなければならない。名刺は永遠の上に記された文字としてこの我なのである。

 全人類一にして、我々に死を命じ、死を介して我々を甦らせるもの、その上にのみこの我があるもの、私はこれを神とするものである。眞、善、美とは永遠を実現したこの我に外ならないと思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

知るということ

 何日であったか、日本経済新聞の対談の切れ端があったので読んで見ると、品川と いう人が脳髄の働きは宇宙の自己認識であると言われていた。私達が知るということ は宇宙が自己自身を知ることであると言われるのである。意識をつきつめてゆくと、そういったものに行きつかざるを得ないように思う。

 もう二十年も前になるであろうか、新聞に狼少年のことが報道されたことがある。狼に拾われ育てられた少年が発見されて、捕えられた記事であった。彼は狼の如く手と足を用いて走り、人が近づけば唯唸るのみであったという。その後手なずけられてからも、遂に人語を解する事が出来なかったという。脳髄は身体が適応すべき世界を写すのである。

 商売は道によって賢しとか、餅は餅屋という言葉がある。私達は働くことによって知るのである。知るとは働く身体が、身体自身に刻んだ行履であると言い得る。この働きは限り無い過去の伝統を負うのである。身辺の一枚の紙、一本のペンといえどもはかることの出来ない過去の技術の集積によるのである。働くことによって知るというとき知るとは斯る永い時間を媒介とするのである。私達は身体の生死を超えた時間をもつことによって知ることが出来るのである。

 過去は過ぎ去ったもので働きではない。働くとはこの我が生を維持せんとすることである。常に死に面する個体が生に転ぜんと努力するのが働きである。しかし生の直接なるものも働きではない。働くとは物を作ることである。性欲、食欲といった生体維持の本能から技術は生まれて来ない。働くとはこの二つのものが一つであるということでなければならない。生死する身体は、生死を超えた身体である処に働きがあるのである。そこに我々の知るということが成立するのであるとおもう。生死を超えたものに生死を映すのである。それは生死するものが生死を超えたものをもつのである。

 よく芸術家や発明家は寝食を忘れて没頭すると言われる。そういう特別の人でなくても忙しくて飯を食うひまが無かったとか、帳簿の整理をしていて夜中になったということをよく聞く。食欲、性欲、睡眠欲は生体維持の三大本能であると言われる。生の本源的欲求である。それを忘れるとは、人はそれを忘れしめるものをもつということである。我々との身体は斯る相反するものをもつのである。そして寝食を忘れしめるとは働くことが我々にとってより大切な事であるということである。私達は物を作ることによってよりよき生を見出すのである。私達は本能的生を拒否し、物を作ることによって世界を出現せしめることを自己の眞個の生とするのである。世界は技術の無限の連鎖に於いて世界自身を作ってゆくのである。私達が過去の技術を自分の技術として、物を作ることによってある時、連鎖の一環として、世界が世界を作っていく内容となるのである。私達が働くとは世界の一要素となることであり、知るとは一要素として、世界を映し、世界に映されることである。自己を否定し、世界に生きるものとなることによってあるとは、働く事は安逸を拒否し、知ることは努力の中より生まれることである。

 個体が生を維持せんとするところに働きがあり、死を生に転ずることが働くことであるこの我が、生の維持本能を拒否することは、我々の身体が個体的、世界的、世界的、個体的としてあるということでなければならない。拒否するとは拒否することである。私達の身体は相反する二つのものをもつことによって身体である。相反するものをもつことによって、形相を形成してゆくのである。働くことは形相形成的であり、創った形相を見ることが知ることである。

 身体は一つである。それが相反する二つのものをもつということは、二つのものが一つであるということである。相反する二つのものが一つであるとは、闘うことである。闘うことによってあるとは、一方がなくなれば対手もなくなることでなければならない。個と世界、生死する生命と永遠なる生命は、相反するものが闘うものとして一なる生命として、生命は自己自身を限定してゆくのである。そこに生命の限りなき創造があるのである。

 闘うものは常に現在に於いて闘う、現在とは闘うものの在り処である。闘うものの創った時間である。而して個と世界が闘うことによって一つであるとは、永遠なるものは瞬間的なるもの、瞬間的なるものは永遠なるものでなければならない。此処に物の製作があるのである。無限の過去は現在の物の製作に於いて維持されるのである。前に芸術家や発明家は寝食を忘れるといった。それは永遠なるものが身体的なるものを否定すると言った。そこに製作があると同時に、製作は生死をバネとして新たな身体の形相を創ってゆくのである。そこは今この生きているいのちとして永遠は否定されるのである。斯くして永遠は否定を介して働くものとなり、生死するものは否定を介して、生死を超えた形相をもつのである。ここに世界は個に自己を現わすものとなり、個は世界を映すものとなるのである。

 製作に於いて過去が働くとは現在の中に消えてゆくことである。自己を否定して新たな物を生む事である。新たなものを生むことによって過去となりつつ生きつづけるのである。無限の過去が生きて、無限の未来を呼びつづけるのが永遠である。而して製作するものは技術者としての人である。生まれて死ぬものとしての人である。斯る人がより新たな、大なるものを作らんとして、過去を尋ねるところに過去は働くのである。斯る意味に於いて働く過去は現在より見出された過去である。永遠は製作としての現在に於いて一人一人が担うのである。一人一人に担われた永遠として、永遠は現在より現在へと動いてゆくのである。知るとは我々を超えたものを、我々が担うことである。一人一人が担うところに知ることがあるのである。

 働くとは時間、空間的に構成してゆくことである。時間、空間は無限なるものである。時間、空間的に構成するとは、時間、空間を内にもつものの自己限定でなければならない。無限なるものの自己構成でなければならない。それを一人一人が担う。而しそれは何処迄も一要素として担うのである。私は品川氏の脳髄の働きは宇宙の自己認識であると言われる宇宙とは、人間が働くことによって構成した時間、空間の形相としてあるものであると思う。斯るものとして宇宙は一人一人を介して無限に自己創造するものである。人類の創造的總体として人類の一を把持しつつ、一人一人に担われるものとして無限に動転するものである。一人一人がもつ脳髄は担うものとして宇宙の自己認識となるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」