乙「この頃駅のポスターなんかでよく、自然を求めて田舎へ、文化を求めて都会へと か、森林浴とか、青い空、澄んだ水とか言った、自然への誘いの言葉を見かけるんだ。そこに都会人の精神の衰弱のようなものを感じるんだが、さて自然とは何かと問うと釈然としないんだ。それで君に問いたいと思って来たんだ。」
甲「大きな問題だね。昔から問い続けられ、僕等も問い、そして未来の人々も問いつ づけるのだろうね。限りなき謎かも知れない。而し、言葉をもつものとして、僕等は僕等の言葉で表してゆくべきなのだろうね。その意味で考えただけ語ってみるよ。」
乙「僕も具体的な問いを用意せず、自然とは何かといった問いでは恐縮なんだが、君 の答えの中から新たな問いが生まれてくると思うから頼むよ。」
甲「和辻哲郎であったように思うんだが、昔読んだ本に、自然とは経験の露はなものであるといった意味のことが書いてあったと思うんだ。そのときはよく分からなかったんだが、そこに秘密の扉を開く鍵があるような気がしたんだ。君の問いに対してもそこから出発したいと思うんだ。」
乙「あの山や川が経験なんかね。」
甲「僕達の小さい時に兎を追いし山とか魚をとりし川とか言う歌があったね。水は渇 きを癒すものとして飲む水なんだ。歩み耕すところとして大地があるんだ。山は薪を 取り、登り越えるところなんだ。川は魚を追い、泳ぎ体を洗うところなのだ。山や川が自然であるのはこのような生の対応をとうして自然であると思うんだ。」
乙 「而し、生の対応が全て自然であると思えないが、」
甲「そうだね。経験は身体を経るということが必要だが、僕は人間の身体は相反する 二つのものをもっていると思うんだ。一つは物を作るものとしての方向だ。一つは生 まれ来たったものとして、作られたものの方向だ。君が前にポスターのスローガンに、 文化を求めて都会へ、自然を求めて田舎へ、というのがあると言っていたね。それはこの二重構造の表れであると思うんだ。生まれ来った生の対応として自然があると思うんだ。」
乙「生の対応関係というのを少し説明してくれないか。」
甲「僕達が生きてゆくには身体に攝食と排泄というはたらきがあるんだ。生きている ということは攝食と排泄をもつということなんだ。それは何故にあるかという問いを超えた、直接に与えられたものだ。食うというのは外を内とすることだ。排泄というのは内を外とすることだ。外というのは我でないもの、身体を離れたものだ。生きているということは、内外相互転換的にあるということだ。内は自宅ではない外を得るために、外へのはたらきをもたなければならない訳だ。そこに動物の行動というのがある。行動とは外を内にしようとするはたらきだ。そこに生命圏というのが生まれる。よく貴方の行動半径は広いですねと言われるとき、この生命圏を基準にしていると思うんだ。この生命圏に於いては生命は外と内をもつんだ。動物が行動をもつ生命であるとき、生命はこの生命圏に於いて具体的となるんだ。そして身体を内とし、外を環境とするんだ。外を内とするのは力だ。全て生命あるものは力の表出によって、努力によって生きるのだ。力の表出によって外を内にするとは、外は我々の否定としてあることだ。環境は死として迫って来るのだ。」
乙「環境は我々がそこに生きるところではないのかね。」
甲「そうだ。死として迫って来るのは、身体は努力しなければ生きていけないということなんだ。生命は生命を否定してくるものによって生きてゆくのだ。水や火が恐怖であると共に、恵みであるとはよく言われるところだ。生きる所であるが故に、それによってあるが故に死として迫ってくるのだ。」
乙「それではその内外相互転換が経験であり、死として迫ってくるものが自然なのか。」
甲「経験は内外相互転換的だ。而し死として迫ってくるもののみが自然ではない。カ の表出に於いて生を獲得した時、自然は恵みであるのだ。」
乙「経験があらわとなるとはどういうことなのか。」
甲「人間は言葉をもつことによって、自覚者として人間だ。言葉によって自己を外にし、外にすることに自己が自らを見るのが自覚だ。我々は言葉によって内に自己を見、外に環境を見るんだ。而して環境は既に人間の自覚的内容を含むものだ。人間が作って来たものだ。その作って来た方向に歴史が成立し、作られた方向、生まれ来った方向に自然があるのだ。あらわになるとは外に形に見ることだ。その形の極限に、相互転換を失った処に我等を包む山や川があるのだ。その相互転換を失うというのは、人間の自覚構造の内容としてあるのだ。そして相互転換の動的な方向に喜怒哀楽の情緒があるのだ。主体の方向が動的、客体の方向が静的だ。生命は否定に面した時、死の方向を向いた時に怒り悲しみ、肯定の方向、生の方向を向いた時に喜び楽しむんだ。静と動とは一つの形相の両面として、あの山、あの川と唄われる如く、山や川は我々の哀楽を住まわせることによって山や川なのだ。而し哀楽はその山や川によって具現したものとして哀楽なのだ。山や川も、喜怒哀楽も作られたものの方向にではなく、生まれ来ったものの方向にあるものとして、主体的、客体的な生命圏の形相が自然なのだ、あらわになるとは斯く捉える事だ。」
乙「君は前に経験は身体を経なければならないと言ったね。そうとすると経験は身体 がするんだね。」
甲「そうだ、生命圏の主体として、身体が経験するのだ。」
乙「身体は生まれて死んでゆく有限なものだ。それに対して自然は悠久なものだ。もし自然が経験の内容であるならば身体の死と共になくならなければならないと思うが。」
甲「死と共に感覚はなくなる。そこに経験のあり得る余地はない。而し自然はある。而し僕達はここで考えなければならないと思うんだ。君が死んだと仮定して、君の自然は何処にあるのだろう。あの山もこの川も君には存在しない筈だ。それがあると思うのは、君は君を超えた目で見ていると思うんだ。悠久の目なくして自然を見ることは出来ないと思うんだ。」
乙 「君のよく言う種的、個的なるものかね。」
甲「そうだ生命形成は種的形成だ。種は個的に形成するものとして、我々の目や耳は 人類の目や耳であるのだ。我々は我々を越えた目で見るのだ。そして前に言った如く言葉によってあらわとなる時、対象を悠久として見るのだ。」
乙「人類は限りないものかね。」
甲「人類の発生は何百万年か前だと言われているのを読んだことがあるが、その限り に於いて有限なものだ。而しその前の生命があった筈だ。僕はこの我を生の全体系から考えたいのだ。生命は炭素から生まれたといわれているが、その炭素から考えたいのだ。」
乙「それは大変な事で、とても田舎の片隅にいては出来難いのではないか。」
甲「勿論如何にして出現したかというような大それたことは思っていないよ、生命とは何かを問いたいのだ。」
乙 「どのようなものとして考えているのかね。」
甲「自己形成的であるということだ。アメーバより人間へと言われるが、機能を分化 せめてより大なる時間と空間の形相を創り上げてゆくということだ。自己形成的として、生命はそれ自体が技術体系であるということだ。人間も斯るものとしてあると思うんだ。時間は技術的として形相形成的なるときに見られるものだ。それ自体が技術的であるとは絶えず新たな形を創ってゆくことだ。今の形を否定してゆくことだ。生命が時間的であるとは、技術内在的であるということだと思うんだ。僕達は技術を介して無限の未来を見るね、それと同時に技術を介して無限の過去を見ると思うんだ。僕はね人間が物を作る技術も斯る生命の自己形成の自覚としてあると思うんだ。経験を蓄積することによって、自然の技術を言葉によって体系化することによって人間は技術をもち、文明を築き上げたと思うんだ。人間がその上に立って我々の現在を築き上げたものとして、僕は単細胞に迄自分の過去を求めなければならないと思うんだ。生命が現れてから四十億年とか言われているがそれは見る事の出来ない深さであると思うんだ。人間はその頂点に立つものとして、無限の時間を孕んでいるのだ。僕達の身体を形造っている何兆という細胞の機構は、四十億年の時間の集計なのだ。成程人 間は生まれて百年足らずで死ぬ、而しそれは四十億年の生命形成の集計の身体として死ぬのだ。経験は身体の斯る二重構造に於いてあるのだ。形成は常に生命圏的だ。悠久なる自然は、悠久なる生命の外的方向としてあるのだ。」
乙「自然は最大の教師なりとは、生命のその自己形成の上に立つということなのか。」
甲「僕はそう思うんだ。 生命圏的に自己を形成する生命は、外に悠久なるものをもつ と共に、内に変じて止まないものなのだ。身体は内外相互転換的として、両方向をも つものだ。内的、外的として身体はあるのだ。よく言われる如く、人間の自覚は表現 として、身体の外化であると思うんだ。内外相互転換的としての身体は自覚に於いて、外を身体を維持する食物的環境から、身体を外に表す表現的世界とするのだ。道具は手の延長と言われ、機械は道具の延長と言われるね。 湯川秀樹博士は、物理学は関節 覚と視覚の自覚であると書いておられたが、我々の技術は身体の外延的方向への形成としてあると思うんだ。極論すれば世界は人類の自覚的身体なのだ。身体はあくまでも生まれ来ったものだ、その延長として世界があるということは、自然の技術として生まれ来った生命が自己を見る生命であるということだ。人間社会の文明は空中に築かれた楼閣ではなくして、単細胞より形成して来た生命の技術の自覚としてあると思うのだ。自然はそこから出て来る母胎なのだ。四十億年の時の深さを思うとき、ニュー トンの言った如く、真理の海の浜辺にあって、一握りの小石を拾うものに過ぎないのではないか、最大の教師というよりは自然の底に入ることなくして新しい物を生むことが出来ないのではないか。自覚とは底に入ることによって、上に築くことだと思うんだ。」
乙「よく自然にかえれと言われるね。最初に言ったポスターなんかもそれに類すると 思うんだ。而し人間は自然の底に入り、上に築いて世界を作ったとすれば自然にかえ る必要はないのではないか。」
甲「いやそうではないよ、底に入り、上に築いたからこそ自然にかえる必要があると 思うんだ。例えば動物に於いては食物と動物は生命圏として一つだ。昔こういうこと を読んだ事があるよ、馬の左右に、等しい距離に同じ量と質の食物を置いたとすると、馬は何方も食うことが出来ず餓死しなければならないと。馬が求めるとは食物が誘うことであると。それに対して人間が自覚的であるとは物を作るということだ。自己を外にすることだ。自己を外にするとは、物が外なる自己となって、この我と否定し合 うことだ。歴史の無限なる闘争はここにあるのだ。物に重圧される主体、ここに文明 社会の生命の衰弱があるのだ。而し自己を外にするとはより深大なる生命圏の創造なのだ。生命は内外相反するものから生命圏としての一を回復しなければならないのだ。そこに自然にかえらなければならない意味があるのだ。」
乙「生命圏の一を回復するとはどのようなことなのか。」
甲「何処迄も僕はそう思うという答えなんだからそう思って聞いてくれ、いつであったかこうゆうのを読んだことがあるんだ。 大脳が欠損して鳥のような頭をした少女が いた。その少女は判断力は殆ど持たなかったが、全身をもって笑い怒り、情動は非常 豊かであったと、前にもいったが作られたもの、生まれたものとしての生命圏の内外相互転換は情緒的であると思うんだ。生命は情緒的に自らを現し、我々は情動に於 いて生命を感じると思うんだ。そこに働く力の根源があると思うんだ。或る人が浜田 庄次の処へ縄文時代の土器を持って来て、その複製を頼んだところ、氏はじっと見ていたがやがて、僕にはとても作れないと言って返したそうだ。それに対して著者は縄 文時代は体格がよくて、土器を作ったのは女性であるが、女性といえども六尺豊かな 浜田氏より力が強かったので、氏はその力の表現に及ばないものを感ぜられたので ろう、と書いていたが、僕はそうではなくて、原始人の情動の激しさが力となって現れたのではないかと思うんだ。ゴーガンがタヒチに行ったのも、生命の純なるものを求めてではないかと思うんだ。僕達は最早原始にかえることは出来ない。そこで理知と情念のバランスが必要となってくるんだ。情緒は活力だ。理性はその普遍性の故に活力を枯死せしめる。そこに山や川の野の声に呼ばれる所以があると思うんだ。生命は常に今を生きているのだ。そこに理性によって衰弱させられる所以があるのだ。大地を歩み、水に手を浸すのが生命の賦活につながる所以がそこにあるのだ。」
乙「それではある時間を理性に、ある時間を自然に使うのが自然にかえることか。」 甲「僕は残念ながら十八世紀の自然にかえれの大合唱につい殆ど知らないのだ。だから僕自身の考えをいうと、今言ったのは君の駅のポスターの意味だ。自然にかえれというのは既に自然ではないのだ、自然の否定として、自然の上に築かれた文化があった。更にこの文化を否定する深い自覚としてあるものだ。十八世紀の自然主義は単なる自然にかえろうとした錯誤に於いて挫折したのではなかろうかと思うよ。人間の自覚に於いて内外相分かれたのは、より大なる時間空間の創造だ。人間の自覚が自然の上に立った如く、文化を包んだ自然を見なければならないと思うんだ。僕は自然にかえれの奥底に、禅家の日日是好日のようなものがあると思うんだ。そこに生まれ来った時間と、創ってゆく時間の統一のようなものがあるように思うんだ。勿論深大な宗教的体験をもたない僕は、もやを距てて地平を見るようなものだがね。」
乙「そうすると我々人間は自然に対してどうすべきなんだろうね。」
甲「生命が身体的である以上、一つの生態系の発展は他の生態系の衰亡を意味するんだ。人間も亦身体的として、他の生態系を駆逐して生きて来たのだ。而し一つの生態系が無限に繁殖してよいというものではないのだ。地球的規模に於いて生態系は相互否定的であると共に相互肯定的なのだ。闘うものであると共に、依存し合うものだ。
四十億年の自然の技術はそこに均衡をとって来たのだ。他の生態系を全部駆逐したとしよう。そのとき人間はどうして生きてゆくのか、それは攝食のみではなく、排泄に 於いてもそうだ。均衡のとれた生態系の共存に於いては、排泄物は植物の成長を促し、水や空気は自浄作用をもつ、而し過剰な排泄は他の生態体系の死をもらすのだ。それははね返って人間の死でもあるのだ。新聞、テレビによく報ぜられる汚染がそれだ。而して生めよ、殖やせよ、地に満てよは生命の意志なのだ。他に打ち勝ち、己が生態系を拡大すべく生命はあるのだ。」
乙「そうすると知りつつ地獄への道を歩まなければならないのか。」
甲「いや僕はそう思わないんだ。人間が他の生態系に対して卓越したのはその技術 於いてだ。技術は経験の蓄積に於いてあると思うんだ。仮説と実験が物理学の基礎となっているのも、経験の延長線上にあると思うのだ。経験は自然にあり、技術は自然の把握だ。そして自然は闘いを媒介としつつ調和を保って来たのだ。僕は斯るものと して技術は必ず調和を志向すると思うのだ。人間も亦一生態系として、他の生態系を駆逐するだろう。そのことは人間の死として迫ってくるのだ。その危機に於いて人 間は調和へと目覚めるのだ。そこに自然の深さがあるのだ。四十億年があるのだ。技 術とは常に危機の超克であったのだ。生命は何処迄も自己限定的だ、自愛としてあるのだ。自己が世界によってあると知った時に愛他となるのだ。僕は必ず生命としての地球は救済されると思っているんだ。ある人から琵琶湖の汚染は元にかえらないと問いたことがあるんだ。恐らく現在の延長線からはそうであろう。而し危機をバネとし 技術は変革だ。生の快適なる姿になると信じるんだ。これは僕の詩的空想ではない と思っているんだ。本当の事を言えば僕は今の地上の生態体系を覆して、人間が自己の底につながる自然の相に作り変えるべきであると思っているんだ。人間が技術をもつ生命であることも自然が生んだものだ。人間の創造に於いて自然は自己を完成するのではないかと思うのだ。」
乙「それは大きな問題で簡単に結論は出せないだろうね、而し人間が技術をもって自 然に対するときそうならざるを得ないのだろうね。それはそうとしてよく自然は美しいと言われるが、それに対する君の考えを言ってくれないか。」
甲「幾回もいうとおり僕は自然を経験に於いて捉えようとするものだ。そこには美も 醜もない、あるとすれば快、不快のようなものだろう。美は価値として人間の創造の 内容だ。それは自然ではなくして歴史の世界に属するものだと思うよ。例に引くのだ が、今尚呪術社会に生きるペルーの山奥を尋ねられた佐藤信行氏の著書の一節にこういうのがあるんだ。悪霊が山の上に棲むと言はれ、後にこうした観念から、万年雪をいただくアンデスの白嶺も、インディオにとっては美しい姿として目に映じているのではなく、悪魔の棲家としておそれられているのだ。たかが村境の峠ですら百鬼横行しているのであるから、あの雄大なアンデスの白嶺には、この世のありとあらゆる悪霊の親玉がたむろしていると思いおそれられているのは、無理からぬことである。我々が絶景を賞でる白嶺の輝きもそこでは恐怖の対象に外ならないと言うのだ。而しそれを笑ってはいけないと思うんだ。若しそこに生まれ、そこに住んでいたなら我々も恐怖の目で見上げるのだ。我々がそれを美しいと思うのは限りない先人の創造の努力があったのだ。我々の目は無限の時によって創られた歴史的現在の目なのだ。今住んでいる社会が自覚的生命の形相として、無限の過去を孕んでいるんだ。我々が物を見るとはこの社会の奥から見ているんだ。未開人は未開社会の奥から見ているのだ。自然の形相は斯る主体との対応関係として、何処迄も経験的なのだと思うよ、ワイルドの言う如く自然は芸術を模倣するのだ。」
乙「有難う、僕は自然を聞きながら人間の底の深さをしみじみと感じたよ。」
甲「僕も君に答える事によって、考えを明らかに出来たよ、亦来給え。」
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」