孫の画を描くのを見乍ら

 仕事の都合上大阪に離れ住んでいる子等夫婦が、学会出席の為シンガポールに行くことになり、その間幼い孫を預ることになった。三才余りの子供は成長が早い。帰る度に見せてくれる変貌は楽しいものである。昨日も一寸抱いてやろうとしたら、「奈央ちゃんはねえ、もう赤ちゃんじゃないの、もうおねえちゃんなの。だからだっこはしてもらわないの」 と言って走り去った。私は苦笑して見送る外はなかった。併し私より妻の方に傍に置いて離し度がらない。この頃は悪戯が激しくなって手古摺ることが多いのだが、それでも傍に居ないと淋しいらしい。

 その孫が書斉にゐる私の所へ来て、「おじいちゃん一寸来て」と言う。「用事か」と聞 くと、「奈央ちゃんがねえ、画を描くから見ていて」と言う。丁度退屈していたところな ので、一度立ちるのも良いと思って従いてゆくと、妻が「昼の支度をするから、奈央ちゃんが画を描くのを見てやっとってえ」と言う。見ると描きかけの画用紙らしいものと、クレョンが散らばっている。クレヨンは私達の少年時代の六色か七色と違って、数十色もあろうかという豪華なものである。今更のように時代の推移を感じながら画用紙の方を見ると、円とも線とも角とも分ち難い線が、用紙一杯に引き散らされている。孫は新しい紙に描き初めたが図型は大同小異である。

 表現の形は手と目の協動から生れてくる。視覚と運動覚が一つになってはたらくところより生れてくる。幼児の表現はこの手と目のはたらきが未分化のようである。表われたものを見ていると、何うやら原始感覚としての運動覚の方が優先しているらしい。孫はためらわずに線を引いている。「何を描いとるのん」と尋ねると、「兎さん」と答える。併し何う見ても兎や犬と言えるものではなくして無茶苦茶の線である。幼児の頭の中の映像は何うなっているのであろうと思いながら、「上手やなぁ」と言うと、「うん」と答える。私は見ながら、やがて意識の発達に伴なって目と手が分化し、目と手が対立して目が優先となり、手を制約するときに本当の表現となるのだと思った。

 和辻哲郎はその著『風土』の中で、津田青風画伯が初心者に素描を教えているときのことを書いている。画伯は石膏の首を指しながら「諸君はあれを描くのだなどと思うは大間違いだぞ。観るのだ、見つめるのだ。見つめている内にいろんなものが見えてくる。こんな微妙な影があったのかと自分で驚く程、いくらでも新しいものが見えてくる。それをあくまで見入ってゆく内に手が動き出して来るのだ。此処では明らかに目が優先している。此処から本当の表現が初まるのであるとおもう。併し目と手が分れて対立しているあいだはまだ表現として未熟であるとおもう。目も手も一つの生命の構成としてある。表現が生命の表現となるにはそれが再び一つに還らなければならないとおもう。一旦相分れ、対立した手と目が一つにならなければならないとおもう。目が手となり、手が目となるのである。ミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言った如きである。開眼とか円熟というのは斯る渾然たる生命となったことを言うのであるとおもう。

 孫は相変らず無心に描いている。時にははげしく、時にはゆるやかに、私達には何うしても意味の分らない線を引いている。私は見ながら形の根源にあるものは、視覚よりは、運動覚にあるのではないかと思った。幼ない孫が訳の分らない線を夢中で引いているのは、そこに手の喜び運動覚の喜びがあるからであろう。そうとするとこの線は物の形以前の運動覚のよろこびの形であろう。そしてそのよろこびは表現愛の底に深く潜むのではあるまいか。私は考えながら昔読んだ本を思い出していた。それは或る芸術家が、「表現の形の根元にいくつかの幾何図型がある」というものであり、円とか、角とか、円錘等を挙げていた。併し記憶が余りに模糊としていて、何等考えを拡げることが出来なかった。

 小便がしたくなったので立上った。すると今迄私のことなど忘れたように描いていた孫 が「行っちゃ駄目」と言った。「おじいちゃん小便」と言うと肯いたが、私が外に出ると 描くのを止めて妻の傍に行ったようだった。そして私が戻って来ると描きはじめた。私は何うして私が居なくなったら描くのを止めたのであろうかと思った。私は思いながらこの問いが孕んでいる底の深さにおやとおもった。

 何故見る人がいなければならないのか、同じ行為でも飯を食うときは見ていてくれと言わない。私が居ない時に描くことを止めたということは、見ている人がいるということが表現意欲への重大な要素となるのでなければならない。それは何か。此処迄書いて私は坂田さんの言葉を思い出した。「何かやわらかい文章が欲しいのです。哲学理論は真平です」これから筆を進めるには推論しかない。真平の領域へ踏み込まなくては行き場がない。これで筆を擱いて後は読まれた方の思索に委ねたいとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

偶然

 日常を省るとき私達は余りにもその多くが偶然であるのに驚かざるを得ない。私が今此処にあるということにしてもそうである。塚本邦雄の歌に「父、母を娶らざりせばさわやかに我なし」というのがある。多くの男女の中から二人が結びつくのは偶然である。そし 若し母の腹に私が宿った日に、父に所用があったとすれば今の私はなかったと言い得るであろう。

 私は大東亜戦争に召命された。戦争は生死相接するところである。弾雨の中では一米の距離、一秒の遅速が生死を分つのである。天命に帰する外ないところである。

 二人となって以来時々近くの食料品店に買物にやらされる。目当のものがあるときや無いときがある。忘れていた好物や、外国の珍品に出合うことがある。思いがけなく声をかけられて、ふり向くと少年時代の友達だったりする。必然は食物を買いに来たということだけである。出会う人、物は全て偶然である。

 山に茸とりに行ってもそうである。一本も無かったのも、籠一杯になったのも偶然であ る。人に出会って、生えているところを教えてもらったのも、石に躓いて怪我をしたのも偶然である。偶然とは一体如何なることなのであろうか。

 私はそこに生命の営為がなければならないとおもう。私達が山登りをしているときに、 落石があって道が塞がれていた。それは偶然である。併しヒマラヤ山の山奥で、同 落石があって道を塞いだとする。それは私にとって自然現象であって、偶然でない。魚 取りに行く人にとって、そこにばったが居たことは偶然でも何でもないであろう。併し昆虫採取に行った人であったらそれは偶然であろう。

 生命は内外相互転換的である。私達は瞬時も休むことなく呼吸している。呼吸は空中の酸素を摂取して、炭酸ガスを空中に排泄することである。食物を摂取して老廃物を排泄する。食物も酸素も我ならざるものとして、外なるものである。外を内とし、内を外とすることによって、生命は自己を維持してゆくのである。外の欠乏は内の死である。私は偶然の根源を、内が外であり、外が内であり、我ならざるものが我に転換し、我が我ならざるものに転換するところに求めたいと思う。併し内外相互転換も未だ真に偶然であるということは出来ない。偶然には必然の成立がなければならない。必然の目をもって初めて、他者との転換は偶然となるのである。

 生命の営為とはより大ならんとする努力である。単細胞動物から、哺乳動物迄数十億年の生命の営為はより大なる時間、空間の保持者たらん事であったと言い得ると思う。人間の細胞は六十兆と言われる。分化と統一の下に生命は一大有機体を作り上げたのである。斯る生命の主体的構成は大なる客体の構成でなければならない。内外相互転換として、内を構成することは外を構成することでなければならない。内を組織することは外を組織することでなければならない。

 内とすべき外は、生命がそれによってあるものとして、環境の意味をもつものである。 蜘蛛や蜂は巣を営む、それは主体として組織化された生命が環境を造り、造った環境によって、より大なる集団化としての力をもち得たのである。内外相互転換とは生命の自己維持として、形相の実現として技術的である。内と外とが形成された技術に於て、形相を実現するのが必然である。而して生命が必然を内包し、環境をより大ならしめることは、内外相互転換としての外を、より大ならしめることである。偶然がなくなることではない、偶然を愈々多様ならしめることである。此処に偶然には必然の成立がなければならない所以があるのである。

 併し蜂や蜘蛛に於ては未だ必然が顕在したということは出来ない。必然が顕在する為には、意識の内容として意志による実現を俟たなければならない。即ち人間の自覚的表現的生命に於て、はじめて必然が顕在するということが出来るのである。

 自覚的生命とは時の統一者となることである。時を内にもつものとなることである。内 外相互転換としての一瞬一瞬を、内に蓄積するものとなり、著積を現在の自己限定とするものである。一瞬一瞬の異った転換を蓄積するとは、異った働きを構成することである。それを現在の自己限定とするとは、物を製作することである。物の製作に於て意志は合目的的となり、外と内とは必然の意識に於て結ばれるのである。自覚とは生命が内面的必然的となることである。人間は技術としての内面的発展によって、無辺の空間と無限の時間を見るのである。

 生命は何処迄も内外相互転換的である。内外相互転換とは内が外となり外が内となることである。他が我となり、我が他となることである。偶然は必然を生み、必然は偶然を生むのである。技術の集積である自動車は、我々に益々多くの出合いの機会と、事故死の機会を与えるのである。而して事故を媒介として車は愈々精密となり、精密となることによって普及し、事故は益々増大するのである。必然は環境を自然から歴史へと転移せしめる。自覚的生命としての人間は、歴史的環境としての、自己の製作的世界の中に生きるのである。

 自然的環境に生きる生命が与えられた身体として生きるのに対し、歴史的環境に生きる 生命は製作する身体として生きるのである。物に結合する者として社会に生きるのである。社会とは歴史的形成的世界である。

 製作する身体として生きるということは、自然として与えられた身体を超えるということである。言葉や技術は個々の身体の生死を超えて、はかり知れない伝統の上に成り立っているのである。我々は無限の過去より伝承し、無限の未来へ伝達するのである。私達が今自己というのは言葉や技術をもつものとして、無限の時の上に立っているということである。

 我々の身体が歴史的身体として、所与としての身体を超えたものであり、身体の生死を超えて伝承し、伝達する過去、現在、未来の統一者であることを知るとき、そこに我々は永遠を見るのである。永遠の相に自己が立つとき、偶然は外として、他者として主体の否定者として運命的となるのである。必然の目をもつことによって内外相互転換が偶然になるとは、偶然は運命として我々に迫って来るということである。自己の前後を俯瞰する目によって、一瞬一瞬に生死を見るとき我々は運命的にあるものとなるのである。

 蛆虫やとんぼは、離島に生れようと東京に生れようと大した差異はないであろう。併し 人間に於てはその文化度に於て、大なる運命を感ぜしめるのである。偶然ははかるべからざるものとして、理知の光りに照して運命は暗黒である。離島と東京に於てそこに出生の運命を感じるものは離島に於てより大である。

 我々は生れて、物を食って生命を維持し、そして死んでゆく限り何処迄も偶然的であると言うことが出来る。即ち運命的である。我々は常に暗黒の口の前に立っているのである。併し理知の光りに照して暗黒であるとは、理知の光りは運命の暗黒より生れ来るのでなければならない。偶然はそれ自体が機能的として、必然の母胎である。 必然は偶然に回帰することによって、新たなる形象を獲得し、無限に自己創造的となるのである。運命の暗黒 を見ることは、それ自体が理知の光明である。暗黒と知るのは、光明に照らさるべく暗黒と知るのである。私はそこに人間の営為があると思う。

 先日何でであったか忘れたが、輝く星は大宇宙の質量の10%程であり、後の90%は暗い空間に浮遊する微小物質である。そしてその微小物質の集合、拡散が宇宙創生の原動力であり、輝く星もこの微小物質の質量より生れたものである。世の中に神を惜定するとすれば、この微小物質の質量が神であると思うといった意味のことが書かれてあった。

 私は宇宙物理学については一丁字もなきものである。その真偽については何等語る資格を有しない。而して私は読み乍ら、人生の偶然と必然も亦斯くの如きではないかと思った。 我々の日常の大部分は偶然である。而して偶然は、偶然の故に意識に上ることは少ない。 併しそこに思いを致せば、偶然ははかるべからざる奥底をもつ。神が働くというのは或は斯るところからではないかと思う。運命の底に神はあるのではないかと思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

人格

 人格とは他の動植物に対する人間の生命の位置付けである。私は斯る位置付けを人間生命の自覚性に求めたいとおもう、自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは、自己の中に世界をもつことである、生命は内外相互転換的に自己形成的である、外を内とし、内を外とすることによって自己を実現してゆくのである。外を食物として、食物を身体に化してゆくのが生を営むということである、それが自覚的となるとは内によって外を作るということである 食物を摂取することに作られた身体によって外を作ることである。もともと内外相互転換とは内が外を映し、外が内を映すことであった、人間生命はそれが自覚的となったのである。内外相互転換としての生命が自己の中に自己を見たのである。無自覚としての生命に於ては相互転換が直接的であり、同一的であった。それが自覚的生命に於て否定的に対立するものとなったのである。外が物として、内が身体として否定を媒介して形成するものとなるのである。否定を媒介として形成するものとなるとは映し合うものとなることである。物は身体を映し、身体は物を映すものとなることである、食物は身体ならざるものであり、摂取に於て身体に化するものである。それをより容易に獲得し、より勝れた機能の身体に化せしめるのが物が身体を映すということである、環境適応的であった身体を、環境を身体に適応せしめるのである、外は身体に与えられたものではなくして身体が自己の延長として作るものとなるのである。内外相互転換が身体に直接なるものは未だ物ではない、製作に於て外は物となるのである。

 内外相互転換として、外を食物とする生命は欲求的である、欲求的であるとは内と外と が対立することである、我ならざるものを我となさんことが欲求である、そこに内外相互転換があるのである、そこにわれわれは身体を形作ってゆくのである。欲求やそれの充足としての行動は身体の形成のはたらきとしてあるのである、内外相互転換的に形成するとは、形成された身体は内外の統一としてあるということである。内外の統一としてあるということは、身体の形成は内にあるのでもなければ外にあるのでもない、内外相互転換的に自己を見てゆくものの自己形成としてあるということである。自覚とは自己の中に自己を見るものとして、この統一としての内外一なるものが露わとなってゆくことである。そこに製作があるのである、製作は一瞬一瞬の内外相互転換の蓄積が見出した形である、無限の経験が現在の行為にはたらくときに製作があるのである。製作は転換として内外相分れたものが一つとなることである、それは前に身体に直接なるものは未だ物ではないと言った如く初めから分れていたのではない、製作的生命として内外分れると共に一になるも のとなったのである。

 内外一なるものは物でもなければ我でもない、私はそれを宇宙的生命と言い、物を作ることによって見出してゆくのを世界と言うのである。

 生命が内外相互転換であり、物の製作が内外の統一であり、物の製作によってわれわれが自覚をもつとき、われわれの自覚は宇宙的生命の自覚と言わなければならない、宇宙的生命の自覚を映し、分有することによってあると言わなければならない。人間は手と言葉をもつことによって製作的生命となったと言われる、手と言語中枢は人間が作ったのではない、創世以来の生命の大なる形成の流れの中より出で来ったのである、生命が生命の中 に見出でた生命として現われたのである。

 斯る宇宙的自覚は宇宙がその唯一性に於て負うのではない、一人一人の人間がもつのである。内外相互転換は個個の生命が負うのである。個々の生命が欲求的自己として外を内に転換し、内を外に転換することによって自己を形成してゆくのである、それは無数の個として形成してゆくのである。単なる個は何ものでもない、言葉は対話としてあるのである、我と汝が対立するものとして一つの世界を形成するものである。対立するものとして一つの世界を形成するとは、我と汝はこの形成的世界に於て自己を見るということである。私は経験の蓄積も斯るところに於てもつとおもう、経験の蓄積としての記憶をわれわれは言葉にもつ、それは我と汝の対話に於てもつということである。物の出現に於て我と汝はあり、我と汝に於て物の出現はあるのである。そこに世界が出現するのである。対話とは世界がそこに実現するのであり、そこより我と汝が現われるとは、我と汝は世界を映すものとしてあるということである。世界を映すとは世界を我の内に在らしめることである。而して世界を内に在らしめることによって我と汝は対話をもつのである、我と汝が対話するとは我と汝が映した世界が異なるということである、我の映した世界以外に我に世界はなく、汝の映した世界以外に汝に世界はない、それが世界の形成であるとは対話とは世界実現の闘争である。我が世界を映すとはこの我の個をとうして世界を実現せんとすることである、世界実現的に世界を映したこの我が人格である。

 この我と汝は対立するものであり、対話するとは一なることである。対立するものが一であるとは、各々己が世界を実現せんとすることである。世界実現的に争うということである、斯く争うということは生命としての身体は個々として無限の陰影をもつということである。自覚的生命は直接的な本能性を超えるといっても食わずに居れるということではない、生命の中に生命を映すとはそれを包んでそれをより瞭らかにすることであって消えてなくなることではない、秩序に於てより大なる形をもつということである。食物は外としてならざるもの偶然としてあるものである、生存を至上命令とする生命の維持に我と争わなければならないものである。製作は偶然を必然ならしめるものとして、より大なる生命の形に向しめるものである、それが食糧の増大である。食糧の生産にはさまざまの技術が必要である、斯る技術は与えられた自然としての内外相互転換の条件を克服するということである、与えられた条件を克服するということは今迄以上の力が必要ということである、そこに多数の人の集合が要請されるのである、集団として多数の者が一つの力となるのである、多数の人が一つの力となるには統率者がなければならない、指揮するものと随従するものがなければならない。外の変革には内の組織が必要である、斯くして外の変革に向う内の組織に言葉が生れるのである。併しそれはまだ人格と言えるものではなかった、統率者は天の動きを見、地の動きを見、人の動きを見た、それは宇宙を映し、世界を映すものであった。併しそこには命令があって対話がなかった、人格の萌芽であって未だ実現ではなかったのである。

 自然を克服する集団の力は生産の大をもたらし、生産の増大は人口の増大をもたらした。それは更に大なる生産を要求するものであり、天変地異による災害をより悲惨ならしめるものである。それは集団と集団を闘争に赴かしめるものである。闘争は生死を賭けるものとして新たな技術を生み、勝者は敗者をれい属せしめることによって大なる地域を占有するものであった。そして新たな技術は多くの職能を生み、大なる地域は生産品の需要に於て職能を深化させていったのである。私は職能の深化は人にさまざまの徳を与えたとおもう、それは製作によって物に自己を映し、自己に物を映すものとして、宇宙的自己の把握をもったということである。普遍的人間につながるものをもったということである。私は私達の少時迄保持していた職人気質をそこに見ることが出来るとおもう。併しそれは人と物との関りであって、人と人とに関るものではなかった、私は一人の意志が万人を制するところに真に人格の成立はないとおもう。一人の意志が普遍的人間につながるとき、それは神格であって人格というべきものではなかったとおもう。人格は人として人格と人格が対するものでなければならないとおもう、人格と人格とが対するとは、統率者とその周辺のみがもっていた宇宙的生命の把握を多くの人々がもつものとなることである、言葉と手に於て自己の中に世界をもち、自己の世界を行為的に展開するものとなることである、一人一人が言葉をもつものとして、世界を映し、世界に映されるものとして、互の世界を認なる生命の形に向しめるものである、それが食糧の増大である。食糧の生産にはさまざま の技術が必要である、斯る技術は与えられた自然としての内外相互転換の条件を克服するということである、与えられた条件を克服するということは今迄以上の力が必要ということである、そこに多数の人の集合が要請されるのである、集団として多数の者が一つの力 となるのである、多数の人が一つの力となるには統率者がなければならない、指揮するも のと随従するものがなければならない。外の変革には内の組織が必要である、斯くして外 の変革に向う内の組織に言葉が生れるのである。併しそれはまだ人格と言えるものではな かった、統率者は天の動きを見、地の動きを見、人の動きを見た、それは宇宙を映し、世 界を映すものであった。併しそこには命令があって対話がなかった、人格の萌芽であって未だ実現ではなかったのである。

 自然を克服する集団の力は生産の大をもたらし、生産の増大は人口の増大をもたらした。それは更に大なる生産を要求するものであり、天変地異による災害をより悲惨ならしめるものである。それは集団と集団を闘争に赴かしめるものである。闘争は生死を賭けるものとして新たな技術を生み、勝者は敗者をれい属せしめることによって大なる地域を占有するものであった。そして新たな技術は多くの職能を生み、大なる地域は生産品の需要に於て職能を深化させていったのである。私は職能の深化は人にさまざまの徳を与えたとおもう、それは製作によって物に自己を映し、自己に物を映すものとして、宇宙的自己の把握をもったということである。普遍的人間につながるものをもったということである。私は私達の少時迄保持していた職人気質をそこに見ることが出来るとおもう。併しそれは人と物との関りであって、人と人とに関るものではなかった、私は一人の意志が万人を制するところに真に人格の成立はないとおもう。一人の意志が普遍的人間につながるとき、それは神格であって人格というべきものではなかったとおもう。人格は人として人格と人格が対するものでなければならないとおもう、人格と人格とが対するとは、統率者とその周辺のみがもっていた宇宙的生命の把握を多くの人々がもつものとなることである、言葉と手に於て自己の中に世界をもち、自己の世界を行為的に展開するものとなることである、一人一人が言葉をもつものとして、世界を映し、世界に映されるものとして、互の世界を認め合うものである。

 私は真に人格が成立するためには近代の産業革命がなければならなかったとおもう、産業革命は人間の労働を機械の生産に置き換えた、そしてそのことは専制君主より多くの 人民を解放することであった。人類は自然の暴威に一人の統率者による集合の力を必要としなくなったのである。分業による一人一人の能力こそ最大の力となったのである、さまざまの分野に個性が尊重されてきたのである。個々の分野に人々は創意をもち得たのである。勿論それは一挙になし得たのではない。機械生産には大なる投資が必要であった、それをなし得たのは支配階級であった。併し多くの人々は創意に於てそれを打破ってブルジ ョア階級を打樹てたのである。それは神権、王権に対する民権の確立であったとは多くの人の説くところである。それによって直に人権が普遍性を得たのではない、女工哀史は近々百年程以前のことであった。旧支配階級による主従関係が依然として続いたのである。これを打砕いたのは第二次世界大戦であったとおもう、私は人格形成の立場から見て、個性による世界形成への脱皮と今次大戦を位置づけたいとおもう。人類の全てが内在する能力を発揮すべくなったのである。宇宙的生命の個として世界を映し、世界に映すものとなったのである。

 人格は人格に対することによって人格であるとは対手の人格を認めることである、対手を人格として対することは我を人格とすることである、私は斯る意味に於て奴隷を認めた古代ギリシャの哲人や、帝王と民衆を是とした中国の古賢は人格というよりは神格と言うべきものであったとおもう、師の影三尺にして踏まずと言ったところには、教えはあっても対話はない、併し私はそのことは神格が人格より高いことではないとおもう。神格が内在的となったのが人格であるとおもう、内在的となるとは、言葉によって露わとなった天地の理法が人間の内なるものとしてはたらくものとなったということである。宇宙の創造を一人一人の人間が担うものとなったということである。言葉や製作として技術は本来斯るものであり、それが露わとなったということである。言葉が真に自己を露わにしない時に於ては人間は宇宙の内容であったのである。それが世界形成として逆に宇宙を内にもつものとなったのである。外に宇宙を見たことが神を見たことであり、内に宇宙を見ることが人格となったことである。全てのものは宇宙を映す、それが表現的にはたらくものとなったときに人格となり対話をもつのである。外を内として内が更に他となるの表現である。それは一々の人間が担うのである対話的に担うのである。

 胎児が形をもつ最初の時に八つ目鰻の斑点の如きものが現われると書いてあるのを読んだことがある。それは人類が未だ海中にいた時の鰓の跡だそうである、それから両棲類に似て来、哺乳類の形となり、出産の時は猿に似ているのだそうである。そして類人猿の歩行に似たる姿を経て人体となるのだそうである。私達が今この姿をもっているということは生命発生以来の全過程を体現した結果としてもつということであり、更に我々が学ぶということは、歴史的形成の全過程を内にもつことであるとおもう。われわれは意識下に魚類の、両棲類の、哺乳類の生命衝動をもち、原始人類の、縄文人の、弥生人の欲求を潜めるのであり、意識はその上に打樹てられたものである。生命は意識下と意識の綜合としてわれわれの行動はあるのである。意識は生命が自己の中に自己を見たものとしてその根源に情動を有するのである。自己の中に自己を見たとはそれを否定し、克服してきたことである。自己の中に自己を見るものとして否定し克服したとは、それが無くなったのではない、より大なる生命の内容としての機能をもったので、それが意識である、意識はより大なる時間・空間の意味をもつのである。意識としての形成が歴史的形成である、それは生物的進化しての生体的変化ではなくして、言葉による否定の努力である。身体をして言葉の内容たらしめる努力である、人格はそこに成立したのである。否定的形成として努力とは限りない克己である、克己とは生体的個としての形成的欲求を言語的普遍への形成へ転 換せしめることである、情動に理念の衣服を着せることである、肉体的形成ではなく、 界形成によろこびかなしみをもたせることである、世界形成としての汝との対話をものと なることである、他者を手段としてではなく、目的として対するところに人格はあると言われる所以である、手段とは他者を自己形成の内容とすることであり、目的とは共に宇宙形成の内容となることである。勿論生命が身体的形成である限り、共同社会を営むものと して相互手段的であるのは避けられないことである。相互手段的であるのが生きてゆくことである、それを目的とするとはお互が対手を利用してゆくことが世界の自己形成の内容となることである、自己を否定して自己も他者も世界の実現の内容とすることである、自己と他者が世界実現の内容となることが対話である、そこは他者に自己を見、自己に他者に映して自己があり、自己に映して他者があるのである、自己の存在の為に他者があるのではない、他者に生かされ、他者を生かして自己の存在があるのである、自己に映して他者があるのではない、過去・未来の無限の他者に映して自己はあるのである、われわれの生命の欲求としての無限の時間、無涯の空間は我より出ずるのではない、無限の他者に映しているということである、対話はそこより生れるのである、他者として互に無限の生命につながり合うところに対話はあるのである、そこに相互目的として人格となるのである。相互目的として手段は目的であり、目的は手段である、それは単にわれわれの意識が変ったというのみではない、手段はより大なる手段となったのである、無限の過去と無限の未来の陰影をもつものとなったのである。産業革命に人格の基盤を求める所以である。私は 産業革命以後の国家が多く正義・友愛・自由等を旗印に掲げ、建設の基本理念としたのもこれによるとおもう、人格と人格とが対話をもつ社会、そこに人格は真の自己を見、実現せんと望むのである。

 何処迄も生物的身体としての生命が他者に自己を見ることは絶えざる自己否定の努力が必要である、身体的充足は世界が自己に化すことである。食も性も自己の身体を中心に置き世界を転ぜんとする行為である、他者に自己を見るとはその根底に他者があるということである、欲求は世界や社会の中に於ての欲求であるということである。世界や社会なく して欲求は成り立たないということである。われわれの身体は生物的生命を超えて自覚的形成的生命となったということである、斯る自覚が自己否定としての努力をもつ生命である、このことはわれわれが自己否定の努力を失うとき、人はその人格性を失うということ である。身体的生命は絶えず自己充足を要求するのである、それを世界に転ずる努力に於 て人格性を保つのである、それは両者の闘争である、身体は肉体に於て絶えず利己ならんとし、言葉は絶えず利他ならんとするのである。肉体的欲求が優勢なるとき、言葉は肉体的欲求に従い、言葉の欲求が優勢なるとき、肉体は言葉の内容となるのである。それは手段と目的として、手段が目的であり、目的が手段である具体的世界に於て絶えざる対抗緊張である。斯る対抗緊張に於て人格は自己自身を見出でてゆくのである、それは生命形成の本源的形式である。目的が手段であり、手段が目的であるとは、目的は手段に自己を実現し、手段は目的によって自己を大ならしめるのである。個々の身体が自己の中に世界を見ることなくして世界はあり得ないのである。個としての身体が世界を包むということは世界を自己の意志の下におかんとすることである、斯る個的身体の根底にあるものは身体の充足的欲望である、それは反人格的なものである、手段は常に反人格的である。斯る自己が世界が世界を形成するところに見られるとするとき人格となるのである。神は反極に悪魔をもつことによって神となる、人格は神の内在である、何処迄も反人格的なものをもつことによって人格となるのである。私はキリストの原罪、親鸞の罪深重というのも斯かる人格の根源の自覚に於て成立したのであるとおもう。人格的に愈々深大となることは反人格的にも愈々深大となることである。斯る極はどうすることも出来ないものとして自己 放棄してそのままの受容に生きたところに成り立ったのであるとおもう。そのままの受容とは矛盾そのままを実在とすることである、闘うことそのままが根源的存在者の自己実現とすることである。そこに自己が摂取されることである。私は受容の世界に自己を放棄せず何処迄も世界実現的に克己に生きたところに人格があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

勿体をつける

 つぎつぎと車過ぎゆきはるかなる動かぬ山に瞳置きたり

 例によって零点の、みかしほ八月歌会の私の詠草である。内藤先生が「この歌には骨がある、長谷川さん勿体をつけなさい」とのことであった。私は本来自分の歌を語るのは嫌いである。併し考えてみると稀には自己弁護も必要のようにおもう。それで勿体をつけてみる。

 この歌にもし見るところがありとすれば四句動かぬ山であろう。山は信玄の風林火山にもある如く、通念として動かぬものである。動かぬものを動かぬというのは、写生として最も拙劣なものである。それを敢て言ったのは、そこに自己の内面を表そうとが故に外ならない。勿論そこには目のやすらぎというものがあった。而して作者は目のやすらぎの根底に、変ずるものに対する不変なるものへの心の憧憬を感じたのである。

 祇園精舎の鐘の音は諸行無常と響くなりという、それは無常に対す常住への憧憬である。一瞬一瞬の移り変りに対する、永遠なるものへの愛慕である。動かぬ山は永遠の象徴のつもりだったのである。併し表現技術拙劣にして、理解の届く言葉を撰択することが出来なかったのは申訳ないことである。以上一寸勿体をつけ過ぎたかという心配もある。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

偶然と必然

 私は前に人間が人間になり得たのは、言葉による経験の著積によってであると言った。そして経験とは生命が生死として、内外相互転換的にある事であると言った。私達は摂食と排便をもつものとして生命を維持する。その食物を取る所、排便する所が環境へしての外である。そして食物を摂るもの、排便するものが身体としての内である。そして食物が無い事は死として、我々に否定として迫って来るものが環境である。私は今食物のみを言った。その他自然の暴威、他の生物等全て我々に否定として迫って来るものが外としての環境である。死として迫ってくるものを生に転ずるのが営為である。それは常に力の表出を伴う。それは生命が本来的に宿さなければならないものである。この死生転換が人間に於て経験である。経験とは斯る様態をより高次なる立場より把握したものである。そのより高次なるものを私は人間の自覚的生命に於て捉えたいとは前にも書いた通りである。斯るものとして私は経験は偶然的であるとおもう。

 偶然とは何か。此処に石がある、それは偶然でも何でもない、唯ありのままである。 その石に私が蹴躓いたとする。その時その石は偶然其処にあったのである。私は否定に面したのである。赤犬が私を襲おうとしたとする。私がその石を掴んで投げて追っ払ったとする。私は否定を肯定に転じたのである。その時その石は偶然そこにあったのである。人に してもそうである。もし私が群集の中にゐたとする。それは偶然でも何でもない。そこで知った人に出会ったとする。するとその時、其処、知人、自分等全てが偶然となる。そして知った人とは、出会いたかった人か、出会いたくない人か、肯定か否定かの何方かの人である。その何方でもない人は知った人ではない。偶然とは生命がその時、その場所に於て死生転換する唯一点の事柄である。故に私は人間を除く生命は偶然的であり、人間も亦生命としてその多くを偶然にもつと思う。経験とは斯る偶然を把握したものである。把握するとは偶然としてあったものを繰り返すことの出来るものとするということである。言葉による蓄積である。そして言葉によって蓄積することによって偶然は経験となるのである。経験を蓄積するとは如何なることであるか。

 生命は種と個の綜合として生命である。個的生命は生死することによって個的生命であり、種的生命は個的生命の生死を内包することによって、自己を維持するものとして種的生命である。否定と肯定を内包することによって自己を維持するということは、種的生命は無限に技術的であるということである。環境との相互限定に於て、無限に適応的であるということである。如何なる小さな虫といえども、それ自身によって動くということははかり知れざる機構をもつものでなければならない。死生転換を介して種的生命はそれを構成して来たのである。偶然はその刹那に於ける外に対する内の対応があって偶然である。その対応の背後には限りない生命の技術的形成があるのである。

 死生転換に於て主体の客体化が死であり、客体の主体化が生である。環境が凛烈なる寒気をもつとき、身体がその寒気に閉さるる時は、主体の客体化として死にゆくのであり、体温を保持すべく環境を変換するときは、客体の主体化として生を見るのである。生命はその生きんとする意志に於て、常にその生の方途を見出してゆく、その方途を記憶によって再生せしめる事が出来るのが蓄積である。

 環境は我々に繰り返すものとして与えられている。日は繰り返し年は繰り返す。環境が 循環的にあるということは、方途が繰り返されるということである。再生とは繰り返し の中の無限の方途から最善の方途を撰び出せるということである。そしてその方途の上に新たな方途を積上げる事が出来るということである。

 私達は斯る蓄積を言葉に於てもつ、言葉を作った人はないと言われる。それは人間の呼び交わしの中から出で来ったと言われる。それは無限の人の交流の中より自から作られたものとして全人類の内容である。我々は世界の中に於て言葉をもつのである。言葉は内なるものを外に表わすものとして自覚的である。自覚は個を超えた全人類の内容として、世界形成的として種的生命が自覚するのである。蓄積は生死する生命を内包する種的生命に於てあり得ると思う。新たな方途も、一人の人がもつことは出来ないと思う。無数の人による無数の方途が、言葉によって結合するときに生れるのであると思う。

 環境の主体化とは物を身体の延長とすることである。環境という言葉は既に主体との交叉を意味するのである。巣を作り、塒を作るのも主体化である。それが人間に於ては自覚的である。自覚的とは本然的に具有するのではなくして、記憶と再生と他者との結合に仍て、其の時、その場所によって構図を画くことである。其処に人間の技術がある。構図を画くとは製作することである。

 私は必然とは人類が製作的、発展的となることであると思う。一つの製作としての形が 新たなる経験の形を加えることによって、より主体化されるのが必然であると思う。全人類の内容として、形が形を呼ぶのが必然であると思う。甲が作った形に、乙が自分の見出した形を附加してゆくのである。著積するとは単にあることではない。これによって生きよと呼び声をもつことである。そしてそれによって生きると共に我々は我々の製作としての経験を附加することによって、次の時代への呼び声とすることである。斯る時の連続附加が必然であると思う。

 私は偶然とは斯る必然への転化以前として偶然であると思う。偶然が言葉によって永遠の内容となることによって経験となり、経験が言葉によって統合整理されて技術的製作的として必然となるのであると思う。必然とは自覚的形成的ということである。偶然は必然の光りに照して偶然である。

 かつて何かの本で偶然は原因が複雑で究明し難い事柄であると言った意味のことを読んだ事がある。而し私は犬に吠えられた時に、其処に石があったということは、幾億光年の星の距離を測定するより複雑であるとは思われない。偶然とは言葉以前なるが故に偶然であると思う。

 勿論私は偶然が単純であると言わんとするものではない。我々が生命である限り我々の日常は偶然的である。主体化である限り主体は達すべからざる深さである。四十億年前に地球の誕生があったと言われる。その間生死を繰り返すことによって形成し来った機構は解くべからざる謎であると思う。唯生命として死生転換にその機微の一端を現わすのであると思う。我々は偶然に於て垣間見るのである。

 かつて何かの本で南方の未開人が酋長を決めるのに角力を取る所がある。その時に誰が見ても強く、酋長になると思っていた男が、偶然そこにあった木の根に躓いて負けとする。すると皆は勝った方を酋長にすべく、神がそこに木の根を置いたと信じて疑わないと書いてあるのを読んだ事がある。私はそこに偶然に対する最初の受取り方があると思う。そこは未だ偶然と必然は未分である。木の根は神の心に於て必然である。斯る必然が更に根源的な因果の必然の自覚によって、木の根は偶然となり、神の心の方向に力の必然が生れるのであると思う。木の根に躓いたということは経験となるのである。根源的なる必然の自覚は、言葉が時を内にもつことによって生れるのである。

 環境の主体化とは、環境を外的身体とすることでである。身体の延長として環境を変革することである。道具は物を手の延長とすることであると言われる。我々は道具によって対象を変革し、死としての環境を生に転じる。蓄積は身体によって、身体の外化として蓄積されるのである。外化に対応するものとして大脳の言語中枢の発展に於て蓄積するのである。故に蓄積とは無限に製作的である。而して製作の必然より見るとき、最初に道具の素材となったものは偶然である。其処に経験の蓄積がある。

 経験の蓄積は全人類的として、必然は人類の種の内容であると思う。それに対して経験は死生転換として、偶然は生死する個的生命としてあると思う。人間生命は自覚的として何処迄も必然化であると共に、個的身体的として、何処迄も偶然的であると思う。必然に於て人間の栄光をもち、偶然に於て豊潤なる質料をもつのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

 諸悪莫作、衆善奉行という言葉がある。私達はより善き世の中を作り、そのためにより善き人であらんと欲する、善とは何かは古来人間行為の基本的価値の問題として幾多の人によって求められて来た。併し浅学なる私は私の内面の要求に真に応えるものをもっていないのに気付く。以下私は私なりに自分の内面に入ってゆきたいとおもう。

 我があるとは生命としてある、この我が生きてゆくところにある、斯かるものとしてわれわれの問いの第一は我とは何ぞやであり、生命とは何ぞやである。私は善とは何ぞやの問いも断る問いの中に於て問われなければならないとおもう。生命は物質より生れたと言われる、物質は無限大のエネルギーの爆発より出現したと言われる、エネルギーより物質が出現し、物質より生命が生れたというとき、エネルギーも、物質も、生命も不可知者である。エネルギーも、物質も、生命も現存在としてあると言わなければならない。勿論現存在としてあるとはこの一瞬の現実としてあることではない、変化することによって自己を維持するものとしてあるということである。移るものとしてあるということである。力とは対立をもつことである、エネルギーはそのもつ対立に於て遷移をもつのである。対立に於て遷移をもつとは、形は常に対立するものによって限定されるということである。

 生命は三十八億年前に出現したと言われる。生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として、食物を摂取して身体を作ってゆくのである。内外は相互転換的として相互否定的である。有機体は食物を有機体にもつ、求むべき対象は個体として自己維持を図るものである。それは抵抗をもち、それに出逢うのは偶然である。生命の否定は死を意味する、内外の相互否定は死をもって対するのである、死に面して生への転換を図る努力から生命は身体にさまざまの機能を創り出すのである。人類の祖先も単細胞動物の項に、同じ単細胞動物に幾億年か食われ続け甲殻をめぐらす身体をもったと言われる、それが現在の骨格の基礎になったと言われる。新しく甲殻をもった生命の出現ということは既成の生命から考えられないことである。私は遺伝ということからも考えられないとおもう。それが考えられるのは生死を超えて、生死に自己を見てゆくものが自己自身を限定してゆくと考えられなければならない、私は突然変異が生命のより基礎的なものであるとおもう。光エ ネルギーより物質へ、物質より生命へと変じた宇宙の存在者は量るべからざる変化をもつのであるとおもう。それが生命に於て内外相互転換的に形成的として出現したのである。内外相互転換的に形成的であるとは欲求的ということである。欲求は内外が対立することであり、対立することは相互否定的として闘争することである。而して個体は斯る闘争に於てより大なる形相を実現してゆくのである、より大なる形相とは生命がその一を実現することである、宇宙的一を実現することである。個的生命は身体的形成として何処迄も欲求的であり、闘争的である、闘争的とは形相実現的として普遍的生命の実現することである。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは自己の中に自己を見るものである、本来の相が露わになることである。私はそれを形の創造に見たいとおもう、個体が何処迄も闘争的であり、闘争が形相実現的であるとは、対立は形相実現的にあるのでなければならない。形の創造とは何処迄も否定的対立としての闘争の陰にかくれ 形相を表現的に露わにすることによって内面的発展をもたしめることである。そこに私は経験の蓄積があるとおもう、経験の蓄積とは一瞬の内外相互転換を把持し、現在の行為を時の統一の内容とすることである。昔の農暦は播種、施肥、収穫等の日を経験によって定めたものであった。そこに内外は対立するものではなくして一なるものとなるのである。外は偶然的存在ではなくして内を宿すものとして必然となるのである、人と人とは闘うものではなくして協調するものとなるのである。より大なる生産の為に集合するものとなるのである。本来の相が露わとなるとは対立の根底の一が具現することであり、そこに生命の自覚があるのである。

 善への意志は私はここに生れるとおもう。自覚は経験の蓄積として一挙に現われるのではない、外を必然たらしめるとは外を変革することである。それは額に汗して働く努力で ある。力の表出は外を内とすることである、外を内ならしめるとは、自己の内にもつ力により食糧を多大ならしめることであり、それはより大くの人類を養い得ることであり、内を大ならしめることである。斯る努力の繰り返しの中に現在を未来に投影し希望をもつものとなるのである。私は希望をもつとは本来の自己を更に一歩踏み込んで露わにしたものであるとおもう。生命に具現した宇宙的生命は文に大なる形相を実現したのであり、更に大なる発展を内在せしめたのであるとおもう、善への意志は斯る希望がその形相を実現せしめんとするにあるとおもう。私はそこに善とは何かがあるとおもう、それは全身を挙げて宇宙的生命の形成に努力することである。この我は個体として無数の個体に対するものである、我は汝に対することによって我である、汝は亦我に対することによって汝である、汝に対することによって我であり、我に対することによって汝である個が全身を挙げて宇宙的生命の実現に努力するとは、宇宙的生命は我と汝が対するということでなければならない。個体の一々は宇宙的生命を担うものであり、対するということは宇宙的生命が実現したということでなければならない。一々の生命が宇宙を映す、それ以外に宇宙があるのではない、もしそれ以外に宇宙があるのであれば個が宇宙的生命の実現に全身を挙げるということはあり得ない筈である。而してそれが我と汝の対話によって実現するとは、宇宙的生命は我にあるのでもなければ汝にあるのでもない、宇宙が宇宙を見てゆくところにあるのでなければならない。個が全であり、全が個である、一即多であり、多即一である、そこに形成があり、形成は常に矛盾の自己同一である。私はそこに善への意志がある とおもう、そこは自己形成が世界形成であるところである。そこに善の直覚が生れるのであるとおもう。それは対話の底から、世界の底からこの我の自己実現として命令するものである。私はカントの無条件命令の声は宇宙創生以来の大なる形成の継承として捉えたいとおもう。良心の声は斯る形成に即するのであるとおもう、良心の声はそれによって自己がある世界形成の声である。

 善は反極に悪をもつことによって善である、単なる善というのがあるのではない、善は は悪に対することによって善である。善に対する悪とは如何なるものであろうか、私は善が世界形成から考えられる以上、悪も亦世界形成から考えられなければならないとおもう、世界形成に於て相対するのである。私達は世界を言葉によって見出す、人間が言葉をもつのは言語中枢をもつということである。言語中枢は人間のみにあると言われる、人間のみにあり、人間を万物の霊長とすることは、言葉は生命の発展の究極としてあるということである。生命は機能の複雑化とその統一として進化してゆく、後より現われたものはより大なる時間・空間の統一者として、その統轄は過去に形成された機能を従属せしめるものである、言葉は言葉によって全機能を指示するものとなるのである。言葉は己れの純なる形相を全機能に於て現前せんとするのである。 宇宙的一の形相たらしめんとするのである。それに対して従前の機能は身体的に個体保存的であり、種族保存的である。斯くして身体は二重構造的でありつつ行動的一である。二重構造でありつつ一であるとは如何にして考えられるのであるか、私はそこに個体保存的、種族保存的なものが自己の中に自己を見たところに言葉があるとおもう、自己の中に自己を見るとはより大なる空間、より大なる時間をもつものに転態したのである。言葉の内容となるとは個体保存的、種族保存的なものがなくなったのではない、より大なる力を獲得したのである。物の製作はより優れた個体、種族の具現としてあるのである。二重構造は斯るものとしてあるのである、何処迄も生命 は個体的としてこの我に見る方向と、世界の自己形成として見る方向である、それが動的 に一なるのが生命形成である。而して言葉はこれを分つものとして言葉である、分つものとして一方に世界を見、一方に自己を見るところに自覚があるのである。より大なる時間空間は分離と統一より生れるのである。分離と統一より生れるものとして、何れもそれは根源的である。この我や汝の個なくして世界はないと共に、世界なくしてこの我はない、ここに私達は個に執し、世界に執する所以があるとおもう。何れかを軸としてわれわれは行為をもつのである。そこに善と悪が生れるのであるとおもう、世界の自己形成に副うのが善であり、背くのが悪であるとおもう。

 世界は対話的形成であり、対話は我と汝である、我と汝が対話するとは、我は汝ならざるもの、汝は我ならざるものとして対話するのである。それが世界形成的であるとは、我は我の中に世界を映し、汝は汝の中に世界を映すものとして対するということである。世界を映すとは世界形成としての技術と物を自己の内容とすることである、技術と物を所有することにより我は我となり、汝は汝となるのである。対話するとは技術と物の所有に於て対話するのである、世界形成とはより大なる技術、より豊富なる物を産むことである。それは技術の蓄積が技術を産み、物の蓄積が物を産むのである。技術と物とは相互形成的に生産を増大してゆくのである、われわれは世界を映すものとしてより大なる技術と物の所有を世界より要請されるのである。要請されるとは世界を表現せんとすることである。我と汝は世界を表現するものとしてその技術と物に於て蓄積を争うものとなるのである。斯る争いが世界の要請として機能せず、この我の実現の欲求としてはたらいたときに悪が生れるのである。争いは建設の争いではなくして破壊の争いとなるのである。世界形成に背くものとなるのである。争いが世界形成に収斂されるとき和となるのである。それが善と言われるものになるのである。

 斯るものとして善悪はものの表裏である、悪なくして善はない、善なくして悪はない、 自己は何処迄も自己を見てゆくものである。而して見出でた自己は悪である、それが善であるためには見出でた自己は常に捨ててゆかねばならないのである、形の実現は常に我に見出でた世界の形であり、世界を映した我である。それは我として世界ならざるものである。それは知慧の果実を食ったことによって背負わされた人間の原罪である。形の実現は我の実現である。われわれは表現に於て自己を見るのである。而してそれは自己が世界を映したものとして世界の実現である。斯る世界の形に我を見るときそれは悪となるのである。私達は絶えず自己否定をもたねばならないのである、絶えず世界へ転ぜねばならないのである。休むことなき世界創造の内容となることが善である。世界創造は一と多、全個の否定的形成である、世界を否定して我を見るときに悪となり、その我を世界の中に転ずるときに善となるのである。斯る関係は逆説的である、私は親鸞の罪深重の自覚に真の善なる意志の成立があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

経験

 生命は身体的として、内外相互転換的である。食物を摂ることによって、細胞が増殖と死滅をもち、形相を維持してゆくのである。食物は摂取するものとして、我ならざるものであり、食物の欠乏は死として、外なるものである。食物は我々に必須なるものでありつつ、我ならざるもの、外なるものとして、その獲得に努力しなければならないものとして我々に対して環境となるのである。

 内外相互転換的として、生命は主体的、環境的である。環境は単に食物的環境として、我々に対するのみではない。食物を介して、他の生命と対するのであり、行動するものとして環境の状態と対すのである。対するとは否定し来るということである。環境は否定として、死をもって我々に迫ってくるものである。内外相互転換的とは、斯る死をもって迫ってくるものを生に転ずることである。環境は常に我々に対するものである。常に対するとは常に死をもって迫ってくることである。常に死をもって迫ってくるとは、生命は常に危機としてあるということである。

 我々の身体は幾億年前の生命発生以来、斯る否定を乗り越えて来たものとして、維持して来たのである。外を内にするとは、機能的であるということである。獲得するものとして、異質なるものを同質化するものとして、それは限りなく組織的統一体でなければならない。我々の身体には六十兆の細胞があるという。そして一日に何十億かが死滅し、新生するという。それが全て機能し、その統一的整正体に於て、死を生に転換するのである。新たな状況に対応する力となるのである。

 内外相互転換的として、環境が常に否定として迫ってくるとは、状況的として一々が新たなことでなければならない。身体が機能的であるとは、転換の経緯を身体の組織に於て蓄積することである。若し常に同じ状況がくり返されて、生の維持があるとすれば、それは危機でなくして楽園である。死は身体に内在的なものであって環境が死として迫ってくることはない。生物の身体は状況としての危機の中から無限の機能を作って来たのである 生体の進化とは、如何に多面的に危機に対応出来るかの機能を作って来たかにあるとおもう。

 一瞬一瞬に否定的転換として、機能がはたらくとき、それは反射的である。その反射作用は、その生体が数億年形成し、蓄積し来たった機能の全身的動作に於ける、死の生への転換である。私は経験とはかかる生命の営為の人間の自覚的把握であると思う。

 自覚とは生命が超越者に自己を映して、自己を見ることである。個が永遠を宿すことである。私達は斯るものを言葉にもつ、私達の先祖は、語部によって個を超えた民族の歴史を語り伝えた。言葉は時の変化を超えて、過去、現在、未来をその中に包むものである。私は、経験とは一瞬一瞬の内外相互転換の営為が、永遠に包まれたものと思う。

 一瞬一瞬の営為が包まれるということは、死生転換の機能のはたらきが蓄積されるということである。一瞬一瞬の、危機を超克した機能の技術が蓄積されるということである。

 私は前に身体が機能的であるとは、死生転換の経緯を、身体の組織に於て蓄積することであると言った。自覚とは断るものを、言葉に於て蓄積するのである。身体は生死し、亦変化する状況に対応する為に、前の事柄を忘れなければならない。身体の蓄積はその故に生得的機能の蓄積に限られて、習得的機能のはたらきは、その個体の消滅と共に消滅するのである。言葉に於て蓄積をもつとは、個体のはたらきを、個体を超えて蓄積するのである。それは限りない蓄積である。

 この頃の猫はねずみを取らないと言われる。聞くところによると、ねずみをとるのは、猫の本来的なものではなくして、親猫が教えなければいけないそうである。だから生れたすぐにもらって来た猫は、ねずみをとることが出来ないのだそうである。これが人間であったらどうであろうか。いつであったか、発見された図面によって、戦国時代の製鉄法の炉を築いたと書いてあった。幾世代を超えて過去の事物を現前せしめたのである。恐らくそれは長い経験の積み重ねであったであろう。そしてそれは言葉の延長としての文字と、図面によって伝えられたのである。そこに人間の蓄積があるのである。

 蓄積するとは、現在に於てはたらくということでなければならない。生命はどこ迄も死 生転換的である。転換の経緯が蓄積されるということは、現在の転換に応用出来るということでなければならない。

 死生転換とは、死を生に転換することである。環境としての死を生に転ずることである。それを蓄積するとは環境を変革することでなければならない。生体に於て転換は一瞬一瞬であった。其処に変革はない、状況の変化があるのみである。それを蓄積するとは持続することである。持続するとは環境を生の相に作ることである。そこに機能のはたらきの持続があるのである。はたらくとは環境を合目的的とすることである。

 環境を変革するとは技術的ということである。経験を蓄積する生命とは、多くのものを 包み、統一する生命である。無限の個の経験を一に結合する生命である。私は技術とは、無限の経験が現在に於て、一つとしてはたらくものであると思う。

 はたらくものは身体としてはたらく、身体としてはたらくとは、環境に身体の構構を投 影することによって、環境を生に転ずることである。人間は手の延長として道具を作り、道具を使うことによって物を作り、物を作ることによって人間になったと言われる。道具の使用が人間のあけぼのであると言われる。かくして経験の蓄積は、人間を表現的、製作的身体とし、経験は製作的経験となるのである。一瞬一瞬の相互転換を永遠なるものに於て包むとは、斯く製作的身体の行為としての経験である。

 湯川博士は、物理学は視覚と関節覚と綜合の発展であると言われる。斯る意味に於て音楽は聴覚の発展であり、絵画は視覚の発展であると言うことが出来ると思う。私は真理とは表現が、身体の機能のはたらきと一致したることの直覚であると思う。力とか、数とかの学の内面的必然も、数億年の組成を内として、それの外化として機能に添うものであると思う。視覚とか、関節覚の延長とは斯るところから見られるのであると思う。宇宙の大も、身体的構成の外化として、構成することによって見ることが出来るのである。最初の宇宙把握が擬人的であり、漸次身体の真に動くものへの把握はこれを証すると思う。

 蓄積するとは、はじめにおわりがあるということである。現在がはじめをもつというこ とであり、はじめが現在に働いていることである。はじめとおわりを包むものによって、 蓄積があるのである。

 而して蓄積するとは、何処迄も個が世界を破ってゆくことである。無限なる経験の著積は、金銭の貯蓄の如く、同質なるものの量的蓄積ではない。同質なる物の蓄積は、経験の蓄積の上に築かれたものである。死生転換として、環境的、主体的なる経験は一回的である。一回的なものとして過去にも、未来にも有らざるものである。一回的なるものの附加として過去の変貌を求めるものである。

 変貌を求めるとは、過去の蓄積の上に立つことである。而してそれを否定することである。永遠が現在に於てあることである。永遠の内容としての一点が、逆に永遠を内にもつことである。現在の経験が、経験の蓄積の上に立つとは、歴史的形成的ということである。我々は歴史的現在に生き、歴史状況に対する、否定即肯定として、内外相互転換として経験するのである。それは最早素朴なる自然の内外相互転換ではない。ワイルドが「自然は芸術を模倣する」と言った意味に於て、内外相互転換をもつのである。そこに永遠としての言葉が、経験を蓄積するの意味があるのである。

 経験が一回的であるとは、内外相互転換としての生命は、無限に多として自己を限定するものであるということである。内外相互転換として、否定として迫って来る環境は状況的である。否定として迫ってくる状況を、肯定に変えたということは、状況を変えたということでなければならない。即ち異った状況として、状況は我々に死として迫ってくるのである。生命は製作的主体として、環境は歴史的状況として、我々の経験はあるのである。

 個は個に対することによって個である。状況に対する主体は、無数の個として対するのである。言葉は我と汝が交すのである。此処に蓄積がはじまるのである。言葉をもつとは永遠を内にもつことである。一人一人が永遠を内にもち、永遠に於て対話するところに、経験は蓄積されるのである。変化する状況に一人一人が死生転換する。そこに蓄積があるのである。蓄積とは複雑化である。複雑なるものの統一である。そこに無限の個人が要求されるのである。

 変化する状況の中に生れて、死生転換する個人は、常に無として出現するのである。此処に無というのは、予め作るべき形相をもって生れて来たのではないということである。昔狼の中に育った少年が捉えられたことがあった。その少年は手足で走り、狼の如く吼えたそうである。即ち狠の状態に生きたのである。生れたものは生きる世界を映すのである。無として生れるとは、生れるものは現在に生れることである。現在とは生が対決すべき状況である。我々は限りない経験の蓄積としての、歴史的現在に生れたのである。而して現在の史的状況が抱える、課題の転換を担って生れたのである。

 刹那としての死生転換を、言葉として永遠の相下に捉えることは、自覚的ということで ある。自覚とは自己が自己を知り、自己が自己を見ることである。死生は我の状態である、そこに経験の蓄積は自己を知ることを要請する。知るものを知ることを要請する。

 我々は此処に不可知者に遭遇するのである。言葉に現前するのは内外相互転換に於てである。それは常に状況として、変化するものである。それを捉えるものは言葉であり、言葉をもつものである。知るものを知らんと欲することは、唯一者としての、不変なるものを知らんとする欲求である。而してそれは変化としてのみ現前するのである。内外相互転換として、状況は限りなく変じてゆくものである。その一々の否定即肯定として、言葉は常に異なった言表をもつのである。

 斯く我々の内深く、一としてありつつ、無限に変ずるものとして現われ、現在を否定よ り肯定に転じ、肯定より否定より転ずるものが神と呼ばれるものであると思う。それは現 実限定として直下に触れつつ、過去として過ぎ去り、未来として未だ来らざる、触るるべからざるものである。我々も亦一瞬一瞬の映像として、時の流れの中に没しゆくべきものである。而して没しゆきつつ、神の映像として時を超え、時を包むのである。私は経験は深く神の自己限定としてあるのであると思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

一首抄

 前にも書いた如く私は一首抄が苦手である。私は取り上げた作品が卓抜という確信がもてないのである。夫々に内容をもった歌が幾首かある。その撰択は優劣ではなくして私の好みのようなところがある。私はそれに怯むのである。

 寝ねぎはに続けて長きリハビリの吾が脚未だ人に後るる 小紫博子

 洗練された作品である。私がここに言う洗練とは文字の構成も勿論であるが、それと同時に歌境の洗練である。作者の長い作歌体験が作り上げた境地の深さである。

 本首は嘆きの歌である。作者は自分の病身に嘆息をもらす。併し下句の気息は単に嘆きに終るものではない。それを運命として大なる生命の流れに写した静けさがある。私が尊敬する西田幾多郎先生の短歌に「わが心深き底ありよろこびも憂ひの波もとどかじとおもふ」と言うのがある。観念的で作品としては優れているということは出来ない。併し内容には人生の至り着いた深さがある。静けさというのはこの深さより来るのである。私は作者がこの深さに至りついているとおもうものではない。唯その翳を宿しているとおもうのである。そして私の知る限りみかしほに於てその翳を宿す唯一人の人である。私が小紫さんの歌に魅かれるのはそこにあるとおもう。

 それは下句脚未だ人に後るるに見ることが出来るとおもう。そこには声の抑制がある。 嘆きはその抑制の中に沈んでゆく。その底に中宮寺の思惟像に見る如き、かなしみはかすかなほほえみをもつかなしみとなるのである。限りなきよろこび、限りなきかなしみは、よろこびなきよろこび、かなしみなきかなしみとなるのである。私はそのようなものの翳が見られるところに、前記の洗練があるとおもうのである。

 多くの人は声の大なるものに従いやすい。併し私は短歌表現に於て却ってそこに不毛の地が見られるのではないかとおもう。抑制することによって、抑制の背後に無限の陰翳が見られるのである。言ってしまえば読者はその言葉に対わなければならない。そこには読者は自分の個性の底に自分の言葉を組立てて作品に対するということが失われるのである。 そこに思いを述べることの不可なる所以があるとおもう。

 先日小野短歌教室の帰り道で藤木さんが「あの本論文があるかと思えば、短歌があって 何を書こうとしているか判らないと嫁が言っていた」と言われた。私の「始めと終りを結ぶもの」のことである。それから数日して三木の知人に出会ったところ「友人の大学教授が、あの本はいろいろの題があるが結局は一つのことを書いていると言っていた」と伝えてくれた。私は読む人によって正反対に分れるのだなあと思った。結局その人の力だけである。私の批評は私の力だけである。及ばぬところは御容赦たまわりたい。

 私は一首抄が苦手である。一首を描くからには一番い歌でありたい。併し私にはこれ が最も勝れていると決定出来ないのである。勿論私の力量不足による。

 クロバーの群落咲きて匂ふ道遠き記憶に花摘みしなり 井上徳二

 自覚的生命としての人間は主体と対象をもつ。そして主体的方向に生命を見、対象的方向に物を見る。詩は生命的方向に自己を見出すところに成立するのである。われわれは生命を身体としてもつ、この身体は生れ来ったものとして、百年足らずで多く死んでゆくものである。併しての身体は生命発生以来三十八億年の時間を以って作られたものである。人間は六十兆の細胞と、百四十億の脳細胞をもつという。その見事な統一がわれわれの身体である。今のこの身体は無限の時を宿すのである。われわれの一瞬一瞬の行為はこの統一の上に成立するのである。瞬間が永遠であり、永遠が瞬間であるところに身体は行為するのである。

 ゲーテはバラの花に過去を嗅ぐと言っている。詩は生命の表現として、身体の現在の一瞬に永遠を見ることである。生命がこの一瞬に自己を見るということが感動であり、美である。

 作者は今遠き記憶にクロバーの花を摘んだのであり、遠き記憶に花を摘まされたのである。花を摘む作者の手の動きは、遠き記憶が作者の手を動かすのである。ここにあるのは、遠い過去は作者の手を動かすものとして身体の現在である。そこに過去と現在を統一 した大なる現在がある。身体は新たなる自己を見る、そこに詩があるのである。上句と五句の的確な写生の間に、四句の茫漠としたものを入れたのはうまいとおもう。

 実はこの一首抄片山洋子さんの、

居並ぶを白線のあとにさがらせて特急電車がお通りになる。

を取り上げたいと思った。上手いというよりは、このようなスタイルのもつ短歌としての表現の位置を求めたかったのである。一時間程考えたがまとめ切れなかった。我な がら駄目なものである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

直観と反省

 全て生命が見るのは直観的である。直観とは生命が自己形成に於て物を見ることである。前にも書いた如く、生命は内外相互転換的である。我々は摂食と排泄に於て生きるのである。外を内とし、内を外として生きるのである。食物を摂らざることは死である。食物的世界は死として我々に対立し、対立することによって外となるのである。而してそれは単に対立するのではない。我々は外によって生きるのである。我々がそれによって生きるものとして、外は環境となるのである。死として迫ってくる外を内とするのが生である。内外相互転換とは死を生に転ずることである。そこに生命の営為があり、生命は努力によって生きるのである。

 外が死としてあり、それを常に転換して生きてゆくとは、生命は常に危機としてあるこ とである。我々が環境の中にあることは、常に死に面していることである。それを生に転ずるのが営為である。死生転換の一瞬一瞬の形相を実現せしめるのが直観である。それは偶然的である。而しそれは単に偶然的なのではない。死を生に転ずることは、対象を変貌せしめることである。それは技術的である。

 経験に於て書いた如く、我々の身体は無限に機能的である。その機能は何億年の生成の過程に於て、死生転換の経歴に於て組成されたものである。それは環境としての、自然の循環性に応じて組成されたものである。更に風土としての地理的条件に応じて組成されたものである。我々の身体は斯る基盤の上に組成された、能動的統一体である。死生転換の一瞬の偶然は、数億年の時間の背景をもつ行為なのである。

 人間の身体のみにあって、動物の身体にないもの、それは言語中枢であると言われる 言語によって経験を蓄積することによって、人間になったと言われる。昔時語部が語り継ぐことによって、先祖の事蹟を伝承したと言われる。言葉は個体を超えるのである。個体を超えることによって、個体を内にもつのが蓄積である。一瞬一瞬の内外相互転換が、永遠に映され、永遠の内容となるのが蓄積である。蓄積に於て内が主観となり、外が客観的世界となるのである。

 我々は一人一人が言葉をもつ。言葉は個体を超えたものである。個体を内にもつものである。一人一人が言葉をもつとは、個体は我を超えた世界を、逆に内にもつのでなければならない。一瞬一瞬の死生転換をもつのは個体である。経験が蓄積されるとは、個体が言葉をもつことによってはじめて成り立つのである。この我を超えたものを内にもつことによって、我々は自己の中に自己を見るのである。人間は自覚的生命である。

 言葉は語り合うことによって言葉である。独語の如きも、自己の中に他者を見、他者としての自己との対話という意味がなければならない。言葉は私の言葉という意味に於て、私の中にあり、語り合うと言う意味に於て、私は言葉の中にあるのである。言葉の中にあるとは無限の他者と連ることである。我々はそれによって、無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達するのである。私の言葉によって我々は個的生命を自覚し、語り合うことによって、種的生命としての全人類を自覚するのである。而してこの相反するものは常に一である。私の言葉は語り合う言葉であり、語り合う言葉は私の言葉をもって語り合うのである。私達は語り合うことによって世界を作る、世界とは種の生命の自覚の形相である。

 言葉が常に世界の実現でありつつ、言葉はこの我の言葉であるとは、この我に於て常に新たな世界が実現しているということである。世界は内に矛盾をもつということである。現在を否定し、自己を破ることによって、自己を維持するということである。無数の人々が対話によって生きているとは、世界が常に自己を破って、新たな世界を作っていることである。生産を背景に、それが一つの潮流をなすことが歴史の動向である。その否定と肯定が直観である。

 死生転換する生命は何処迄も生死する生命である。たかだか生きて百年の生命である。ある生命はその中に無限の蓄積をもつことは出来ない。無限の生命は、個でありつつ個を超えなければならない。私はそこに生れるということがあると思う。新しい生命が生れて新しい個性に於て死生転換をもつ、其処に蓄積をもつのであると思う。 死生転換の技術的蓄積は、死生転換の刹那刹那に於てのみ行持されるのである。技術は製作に於て維持されるのである。私は是を明らかにする為に、生れるとは如何なることであるかを立入って考えて見たいと思う。

 度々例に引くことであるが、私の若い頃狼に育てられた少年が捕えられたと、新聞に報ぜられたことがある。その少年は手足を用いて走り、狼の唸り声をもつのみであったと書かれていたように思う。記憶違いがあるかも知れないが、兎に角狼の習性に生きて、人語を教えようとしても、何うしても覚えることが出来なかったという。

 生れるとは主体的環境的としての状況の中に生れるのである。人間に於ては経験が蓄積され、形成された世界としての歴史的現在に生れるのである。史的状況に於て死生転換をもつのが生命形成である。生命は死生転換的に状況を映してゆくのである。映すとは自己の内容とすることである。生れたものは形成的世界を自己の内容として、歴史的現在の上に立ち、現在の状況としての、内外相互転換にそれ自身の言葉をもつのである。新たな状況に対する、新たな言葉をもつのである。而して言葉は個的世界的として、新しい言葉は 世界が世界自身を破り、新しく生れるのである。

 歴史はその内包する矛盾によって動いてゆく。矛盾とは世界が世界自身を破ってゆくことである。私は矛盾とは生命が自己と異なる生命を生んでゆくことであると思う。生れた生命は、生んだものならざる生命である。生んだものとは異なった主体として、異なった状況を映し、異なった言葉によって自己を形成してゆくものである。異なった世界を形成するものとして、生んだものと対立するものである。対立するとは否定関係をもつものである。生れたものが生んだものを否定するとは。新たな言葉を附加することによって、より大なる世界を形成せんとする努力である。

 此処に歴史的創造があるのである。歴史が創造であるとは、新しい個体が新しい世界を作ってゆくことである。個体と個体は否定関係として、他者としてあり、一つの世界より次の世界へは、他者の現前として飛躍である。蓄積の上に立つことは連続である。個より個は飛躍である。歴史的創造とは連続が飛躍であることである。そこに言葉に経験を見てゆく生命があるのである。

 何処迄も言葉に見てゆくものとして、歴史は世界の自己限定である。内外相互転換的として個体的である。斯るものとして、新しい個体が生れ、新しい個体が、新しい言葉をもつとは、現在ある世界を古い世界として、否定さるべき世界として見出すことであるとおもう。矛盾とは現在ある世界を新たなる個体が、より大なる創造への目をもって見るところにあるのであると思う。以下少し私の立場から歴史の矛盾を考えて見たいと思う。

 現代最も多く語られる矛盾は労使の階級的対立である。労使の対立は産業革命以後の、生産手段の工業化の所産である。而し産業革命の成立当時、果して斯る矛盾の自覚はあったのであろうか。生産手段の発展と、教会統治の矛盾の克服として生れた産業革命は、そのもつ可能性の輝きに陶酔したのではないかと思う。その中に対立を見たものは、産業革命を打樹てた当時者ではなくして、其の中に生れた新たなる個性であったと思う。新たに生れたものが、その上に立ってより大なる世界を築かんとする時、現在ある世界を克服さるべき古い世界として、克服さるべき与件として労使の対立を見出でたのであると思う。実際にも階級対立を見出したものは、抵抗するものとしての労働者の自覚ではなかったようである。階級斗争の演出者マルクス、ホロシア革命のレーニン、トロッキーは貴族の出であると聞いたことがある。フランス革命もそれを指導したものは一般大衆ではなくして有産階級としての知識人であったと聞く。 その中に生れたものが、其の状況の上に立ってより大なる世界を形成せんとする声をもったのである。

 この飛躍が直観である。故に常に新しい生命の生れ継ぐ世界は直観の世界である。 直観は生れ来った個体の担うものとして直観である。而して言葉によって露はとなるものとして、世界の自己限定である。蓄積された技術の上に言葉をもつとは、世界が世界自身を見てゆくことである。個体が言葉をもつとは、世界が自己を直観してゆくことである。その極限に天才がある。天才とは新しい言葉をもつことによって世界を過去とし、世界の中に矛盾を見出して、より大なる世界像を樹立するものである。

 世界は個体が担う直観に依て、世界自身を否定の肯定に於て維持してゆくのである。無限に動的なる歴史的世界は現在より現在へである。生死する身体の限定として、事実より 事実へである。

 直観と蓄積は相反するものである。蓄積は維持されてゆくものである。直観は否定する ことによって変革するものである。而して直観は内外相互転換として、生命の本来的なものである。斯る本来的なるものの蓄積によって人間は人間になったのである。我々の直観も前に書いた如く、蓄積の上に於て歴史的現在となるのである。斯る蓄積を直観に対する反省として、以下少し考察を加えて見たいと思う。

 私は前に人間は言語中枢をもつことによって経験を蓄積することが出来ると言った。言語は個体を超えて、個体を包むものであり、個がそれによってあるものとして、経験を内にもつものとなると言った。そしてそれは人間の身体のもつ個的性格と種的性格の二重構造の自覚にあると言った。

 人間の自覚は無限に自己を外に表わすことによって、自己が自己を見てゆくことである。無限に外に見てゆくとは、外を変革することである。生命創造と言っても、六十兆個の生滅する身体細胞と、百四十億個の不変なる脳細胞を有する身体構造は不変である。機能活動の密度が高まるのみであって、内外相互転換の蓄積は外としての環境の変革である。環境は我々がその中に生れ、営み、死んでゆく所である。内外転換として、否定として迫ってくるものであり、我々の生命は否定を否定して生くるものとして、我々は働くことによって生きるものである。働くとは言葉を生命が内外相互転換することである。

 我々は環境に於て言葉をもつ、言葉をもつとは対話をもつことである。我と汝が環境に於て関り合うところに言葉が生れるのである。言葉をもつとは、死生転換の死の方向を外とすることである。我々が内外相互転換というとき、既に言葉をもつものとして見ているのである。而して死の方向、外の方向に物を見、生の方向、内の方向に生命を見るのである。物は環境として、外として、死として迫って来るのである。斯くして我々は物の中に生れ、物の中に生き、物の中に死んでゆくものとなるのである。

 言葉を媒介したる内外相互転換としての外は物である。物は内に転換されたる外として製作物である。内に媒介されて作られた物は外として、我々はその中に生れ生き死んでゆくのである。それが世界である。そこに個を超えた言葉の、種の自覚があるのである。自覚とは世界形成的である。言葉をもつ生命がそこに働き死んでゆく処として、其処に普遍的世界があるのである。

 私は内外相互転換としての経験は物に蓄積されるのであると思う。物は自覚的生命の内外相互転換の内容として、内の外化方向に道具、機械に発展し、外の内化方向に消費物として顕現するのであると思う。斯く蓄積された世界の内容は、新しく生れ出でた生命の死生転換の立脚点となるものである。未来がその上に立つものとして、未来を限定せんとするものである。新しい言葉がその中に矛盾を見るとは、蓄積されたものが歴史的現実として、未来を決定せんとするのを、過去としてその延長を断ち切らんとすることである。反省とは斯る転換に介在して、蓄積より未来を限定せんとすることであると思う。

 蓄積より未来を限定せんとすることは、経験を組織し体系化してゆくことである。体系 化によって機能化することである。分化と統一をもつことによって合目的的となることである。斯る体系化が自覚的生命の内外相互転換である。相互転換は相互否定である。環境よりの否定は、身体が環境となることであり、身体よりの否定は、環境を身体化することである。技術的、製作的としての自覚的生命に於ては、物が人を作り、人が物を作るのである。反省は斯る形相を時間の流れを超えて樹立することである。それは何処迄も相互転 換的として、永遠が瞬間であり、瞬間が永遠である。永遠が瞬間であり、瞬間が永遠であるところに物の製作があるのである。和辻哲郎が倫理学で言っている如く、世界は人間の在り方の外化であり、ロダンが道行く一少女を指して「そこに全フランスがある」と言っ た如く、人間は環境の綜合である。斯かる綜合の立場より、一瞬一瞬の限定を綴ってゆくのが反省である。

 食うだけなら犬でもするという言葉がある。蓄積するとは余剰をもつことである。転換 しつつ転換の現在を超えることである。言葉によって蓄積するとは、言葉に映すことであり、言葉を映すことである。私は物を作るとは物は常に永遠の像の自己形成の意味をもつと思う。食物を蓄積すると言った事も、蓄積自身が時を超えると共に、超える生命が自己自身を見とする行為であると思う。例えば耕作に当って殻神を祭り、耕作行為を仮現して祈ると言ったことは常に見られた事であると言われている。それは耕作に対して必要以上の事である。而してこの必要以上の事が、必要な事よりも重要視されているように思う。勿論物を得ることが目的であろう。而し外に物を作るということは内も作られることである。物は自覚的生命の内外相互転換の一方の極に見られたものであり、一方の極に作るものの形が現前するのである。

 私は作るものの方向に、生命存在としての個と種の二つの面が見られると思う。個は生死するものとして身体維持的である。種は個を超えて個を包むものとして形相形成的である。個を超えて個を包むとは、個を成立せしめて、その統一の上に自己の形成作用をもつことである。儀礼とか、道徳とか、法律とかは、斯るものによって成立するのであると思う。芸術の如きも、身体が身体維持面を極小として、世界の形相の表象を見た処に成立するのであると思う。

 物は身体維持的である。私達は物を衣食住に必要なものとして製作する。而し製作された物は、単に身体維持的なるもの以上のものをもつのである。物は形をもつことによって物である。例えば茶碗の如きものであっても、食物を入れるという有用性の外に、安定、整正、美麗、繊細、清潔、重厚等其の他の感情を起させる。それは有用性と関りなき形の誘起する感情である。それは価値感情として、個を超えたものが、個に自己を見出でた感情である。超越者の自己表現として形はあるのである。物は常に斯る両極をもつことによって作られるのである。超越的なるものが個物的なるもの、生死するものが永遠なるものとして、稲の田植、収穫は亦神を祭ることであることによって、物の生産はあるのである。物は単に有用性によって生れたのではない。種と個、身体維持と形相顕現、永遠と瞬間の動的生命の自覚の一極として生れたのである。よく発明家が寝食を忘れて研究すると言われる。寝食を忘れるとは個体維持の否定である。彼は其処に底深き自己の、底なる自己としての人類の形相の実現を求めているのである。神の荘厳を見出さんとしているのである。而してそのことが物を作ることなのである。身体維持としての有用物を作ることである。形は永遠の内容として個を越えるのである。

 我々が自覚的生命として、環境を物として物の中に生れ、物の中に働き、物の中に死んでゆくとは、環境形成的ということである。それは製作的として世界を作る事である。而して世界は個的種的として、種の方向、永遠の方向に価値を見るのである。全て世界にあるものは、個の方向に生滅を映し、種の方向に永遠を映すのである。全て形あるものは壊れると同時に、全ての形は永遠である。我々が生死する世界は価値実現の場である。我々は世界の中に価値を見出すものとして自己である。世界は我々の価値実現を自己の創造とするのである。直観と反省は相反しつつ一つとして、世界は無限に自己を創造するのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

生命形成

 私達の身体を組成する物質は地表に存在する物質に比例するといわれる。身体の有する水分は約六十五%であり、それは地球上に占める水分の比率にほぼ等しいものであり、その他の物質も地球上に多く存在するものであり、その比率もほぼ等しいといわれる。私達の身体は外を環境として、環境を映す環境の凝縮物であるのである。私はそこに生命形成があるとおもう。外を宇宙と名付ければ身体は宇宙が自己の中に見出でた自己の形相である。生命は身体的に自己を形成してゆくのである。身体的に自己を形成し、身体は宇宙が自己の中に自己を見出した形相であるとすれば、生命は宇宙が自己の中に自己を見る無限のはたらきであると言わなければならない。生命は内外相互転換的である、内外相互転換的とは外を食物として、食物を摂取することによって身体を養うことであり、不用のものを排泄することによって身体を形成してゆくことである。斯る形成として環境は食物連鎖をもつのである、私は食物連鎖とは宇宙が自己の中に自己を見てゆく一環として捉えるべきであるとおもう。低次なる生物を捕食することによって高次なる機能を生む力を獲得するのである、否捕えるということが既に優越する力をもつということである。それは生存競争の中より生れるのである、形として生み出された生命は生存せんと欲する、生存と生存の対立するところ、対手を倒して己が生きんとするのが生存競争である。生命は常に死に取り囲まれているのである。生命の行為は対面する死を生に転ぜんとする努力である。 そこから身体により大なる機能が生れるのであり、より大なる機能による行動がより明らかな対象を生むのである。そこに宇宙の自己実現があるのである。生命に自己を実現した宇宙は生死に於て自己を発展させてゆくのである。

 生命が生死に於て自己を見出してゆくということは情緒的であるということである。生命は身体として自己を形成してゆく、それは一瞬も止まざる生死の転換としてあるのであり、転換の形象は情緒である。情緒の表出は生きている証しである。情緒は死に面し、生に面する身体の対応である。喜ばんとして喜ぶのではない、怒らんとして怒るのではない。対象に面して身体が躍り、身体が竦むのである、われわれは情動として自己をもつのである。われわれの生命が自覚的であるとは、斯る生命が自己の中に自己を見るということである。

 自覚とは生命の生死の転換による形成としての身体が、宇宙の自己形成の内容としてではなく、逆に宇宙の形成を内にもったということである、経験の蓄積をもったということである。身体が新たに手と言語中枢を加えたということである、一瞬一瞬に現われて消えてゆく生死転換の営為を統一する生命となったということである。そこに物の製作と言語がある、物の製作とは宇宙が自己の中に見出でた自己の形象としての身体が、その作られた宇宙の形象に於て逆に宇宙を作ることである。宇宙の創造をその転換に於て更に大なる創造点に立つことである。そこにわれわれの自己が成立し、世界が成立するのである、経験の蓄積として内外相互転換を統一し、宇宙を内に見るものが自己となるのである。

 製作とは内外相互転換としての生命の流れを形に表わすことである、そこに自己を確認し、世界を確認するのである。それは形より形へである、内が外を映し、外が内を映すのである。内が外を映すとは表象として世界をもつということである。外が内を映すとは物として生命を宿すということである。世界を内にもつとは、世界が内として次の世界を作る力となることである。物として生命を宿すとは、物は生命の表れとして次の形を呼ぶことである。製作することは内に力がつき、外に新たな形が生れることである。そこに自覚的生命の内外相互転換の必然があるのであり、生命の無限の形成があるのである。

 斯るものとして私は形は情緒が言葉をもつということであるとおもう。経験の蓄積は生死転換による生命形成である、それは宇宙が宇宙を見ることである。宇宙が宇宙を見ることがこの我が我を見ることである。私達の祖先が最初に見た形は宇宙としての世界表象であったとおもう。而してそれはそれによって我がある根源的存在である。私はそこに原始的イメージがあるとおもう。われわれは根源的存在の具現として存在する。併しわれわれは生死する。そこに根源的存在は超越者として絶対の力を有するものとなる。われわれはそれによってあるものとして、無限の形を生み継ぐものの内容となり、運命的となるのである。

 表象は一人一人がもつ、一人一人はその表象を生死に於てもつのである。而してその表象はわれわれに生死をあらしめ、われわれの生死に於て自己を見てゆく超越者の形象である、その形象は一人一人の生死を映すものとしてこの我に擬ふるものである。私は擬人ということが最初の世界表象であったとおもう。超越者は生と死の方向に分れて戦い、在る ものは喜び、悲しみ、怒り、怖れるものとしてあるのである。このことは私は宇宙は先ず情緒に於て自己を現わしたのであるとおもう。そして超越者としての一をあらしめるものは判断の概念的普遍ではなくして共感であるとおもう。共感は生死より来るのであり、生死は宇宙が自己の中に自己を見るより来るのである。普遍とは全てのものがそれによってあるものの自己限定ということである。私はそこに共感のもつ世界性、感情のもつ普遍性 があるとおもう。

 喜怒哀楽に時間はない、私はそこに最初の生命の形象があったとおもう、常に現在として喜び悲しみはあるのである。形は言葉より生れる、斯る言葉は生死より出るのである。死を生に転じ、生が死に転ずるところより出てくるのである。言葉は呼び応えるところにあるのである。呼びかけはより大なる生命を見んとするところより生れるのである、より大なる生命を呼びかけに於て見んとすることは、呼びかけるものと、呼びかけられるものがより大なるものの内容としてあり、呼び応えることによってそれが露わになるということであるとおもう。そこに継起はない、あるのはこの我の生死を介した超越者の姿である。生死を転換させる神の、若くは英雄の大力量の姿である。古代に於て神話は物語りではなくして現実を限定するものであったと言われるのもそこに所以をもつとおもう。神や英雄は実在した人物ではない、世界が自己矛盾的に自己を限定した姿である。それが個的行為の根底として、個的行為がそれによってあるものとして見られたのである。私は神話に生命の形成的真実があったとおもう。情緒として無時間的なる世界像は理性による我と世界の合一ではなくして、熱気と興奮の世界体験であったとおもう。

 言葉をもったときに人間が世界像をもったということは言葉によって世界像をつくったということではない、形成的生命が形象として自己を現わしたということが言葉をもったということである。ネアンデルタール人は曖昧な言葉をもったと言われる。それは情緒的表出より言語的表現に発展する過渡期としての形態であるとおもう。意味に訴えるよりも多く共感に訴えるのである。言葉は世界を自己の現れとして、更に自己の中に自己を見てゆくのである。そこに言葉が世界をつくるということが現れてくるのである、それが経験の蓄積として内外相互転換的に製作的となるということである。情緒は生命の死生転換の形成作用より来るのであり、言葉はその形の内面的発展より来るのである。情緒は既に形である。喜びは生の悲しみは死の形である。蓄積が製作であるとは、製作的生命になるということは、喜び悲しみも作られるということでなければならない。物の出現は喜びの出現と共にあったのである、そこに情緒は形である所以があるのである。情緒は既に形であるとは、形の発展は情緒が担うということである。生命が動的に形成的であるとは蓄積的であるということである。生命の形は無限の内外相互転換としての体験の蓄積をもつことによってあるということである。内外相互転換の表象が情緒であるとき、蓄積は形の発展であり、形が形を生むということは情緒が形の中に沈むということでなければならない。沈むとは形に消えて形に現われるということである。情緒が形である時は神話的であり、形の中に沈んで形に現われるとは理性的となったということである。そこに知の根底に情があるといわれる所以があるのであり、知は情に運ばれることによって生々たるのである。熱情なくして世界の如何なるものもあり得なかったと言われるのもここにあるのである。

 内外相互転換は一瞬一瞬の生命の行履であり、情緒は現われて消えゆくものである。併し単に現われて消えゆくものによろこびかなしみはない、そこにはよろこびかなしみを感じるものがなければならない、私はそこに生命の生死を見ることが出来るとおもう。生死は否定し合うものである、死は生の否定であり、生は死の否定である。 生命が内外相互転換的であるとは一瞬一瞬が死に面することであり、危機としてあるということである。それを生に転換することが形が生れるということである。形とは外が内に即するということである、無限に外を内とすることによって生命は形を維持するのである、そこに理性があるのである。理性とは真に形成するものを宇宙的生命として、内外相互転換的に宇宙的生命を露わならしめるものである。われわれの身体は宇宙的生命の自己形成として、宇宙的生命を内とするのである、全て生命の形は宇宙的生命の実現として外を転換的に統べる形 である。故に全ての動物は理性を潜在せしめるのである。唯形成が生存競争として個体維 持的であるため世界形成としての宇宙的生命の実現をもち得ないのである。対立するものは相互否定として、形の実現としての否定の肯定、対立の統一をもち得ないのである。それが人間に於ては経験の蓄積としての技術と言葉をもち、製作するものとして多の一をもつものとなるのである、私はそこに理性が出現するのであるとおもう。手が外部の理性であり、大脳が内部の理性と言われる所以であるとおもう。

 私は斯るものとして理性は外の方向に形の多様と統一をもち、内の方向に感情の抑制をもつとおもう、形の多様と統一は形が形の中に形を見るということでなければならない。見られたものが多様であり、見るものに於て一である。判断というのもそこにあるのであるとおもう。判断とは形を生んでゆくことである。新たな形が生れることである、理性とは生命が自覚的創造的となったということであるとおもう。新たな形が生れるということは、意識に於て自己ならざるものが自己になったということである。生命に於て隠れていたものが現われたということである。それは生命がより大なる自己をあらしめたということである。斯くより大なる自己の出現へ自己を運ぶものは何か、私はそこに喜び、悲しみ、 驚き畏れを見ることが出来るとおもう。感情は自己の根底の出現を指向するのである。

 内外相互転換としての生命形成は現在より現在へである。危機として死を生に転じ、生が死に転でられる生命は身体的事実として自己を形成してゆくのである。記憶も理想も身体がもち、身体が生むのである。理性も身体が危機の中より生み、危機に於て保持するものとしてはたらくものとなるのである。理性は時間・空間を超えて内にもつ、それは身体が時間・空間を超えて内にもつものとしてあるということである。時間・空間を超えた理性の内容として現在があるのではない、そこからははたらくものを見ることは出来ない、そこには理性というものも消えてしまわなくてはならない、現在ははたらくものとしてそこに形の実現するところである。形の実現として過去と未来が出合うところである。記憶と理想が否定的に一なるところにはたらくものとして現在があるのである、理性はここに生れ、ここに保持されるのである、現在に於て理性ははたらくものとして、判断として形を生み、概念として形を保持するものとなるのである。

 私は前にわれわれは形成的生命として生の方向によろこびを持ち、死の方向にかなしみをもつと言った。理性は身体に時間・空間を見出すことによってより大なる形相を見出したものとおもう。そこにはより大なるよろこびと、反面としてのより深きかなしみをもつのであるとおもう。身体のより大なる発現が理性なのである、それはより大なる身体としてより大なるよろこびである。その死はより大なるかなしみである。理性は生死を見るものとして永遠である。而して生死は如何にして見られるのであるか、私はそこに生死の自覚を見ざるを得ない、生死が生死の底に生死を超えて生死を映すのである。よろこびかなしみが自己の底に自己を映すのである。そこは全てがよろこびかなしみとして、よろこびなきよろこびであり、かなしみなきかなしみである、そこに最も深いよろこびかなしみがあると共に、永遠の形相をそこに獲得するのであるとおもう。私達は永遠を時間の無限の延長としてもつのではない、その過去と未来をもち、生れ死にゆく現在として永遠をもつのである。自覚的生命として身体を永遠の今として実現するのである。そこは生命の完結としての大なるよろこびである。永遠は理性によって把握することは出来ない、私はこのよろこびが自己に永遠の確信を与えるのであるとおもう。そこは過去と未来がそこに合い、そこに分れるところとして全てがあるところである。

長谷川利春「自覚的形成」

批評について

 先日井上徳二さんに出会ったら、九月号の私の一首抄に対する苦情が出た。その苦情が亦変っている。私の評釈によって氏の下手な作品が上手そうになったというのである。私はそんなことはないと言った。私は単に麗辞をのみ並べたのではない。評言が立脚すべき美の基準を設定して、氏の作品がそれに適合すると書いた筈である。それは併し氏が言いたかったのは、氏の作意が動いたのは、私の立脚点より次元が低かったということではないかと思う。

 昨日バスの時間に読むべく、オスカア・ワイルドの芸術論を持って出た。其の中に批 評に関する所があって、批評は作品が含んでいる世界を、作者の意図を超えて追求しなければならない。批評は評論家の創作であるといったようなことを書いている。そしてモナリザの例をあげている。それによるとダ・ビィンチは唯線と平面の或る種の按配と、青と緑の未だ曽ってなかったような配合について工夫を凝らしただけだと言っている。それは言外に永遠の微笑は評者の創作であると言っているのであるとおもう。

 全て表現は、人類が過去に創造して来た大なる生命に自己を写すことである。私達はその世界に入ることによって自己を見ることが出来るのである。作者は新たな個性として、状況は変化する歴史的状況として表現は一々異なる。併し全人類のこの大なる創造線に添うことなくして如何なる表現もあり得ないので 我々が如何なる表現にも共感をもち得るのはこの大なる生命の内容としてあるが故である。

 斯かるものとして月々のみかしほ幾百の作品の一々が深大なる世界の翳を帯びるものであその繫りに深浅がある。批評はこの深浅を明らかにすることによって次の創作の一つの礎石たらしめるものであるとおもう。以上井上徳二さんの苦情への答である。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

生命の目の出現について

 昔はクーラーが無かったと言うより扇風機のある家も稀であった。それに大方が人力に頼った労働は今よりも体のほてりが激しいものであった。夕飯がすむと大凡の家が庭前に床机を出して涼をとったものである。仰向けに寝て疲れを医しながら冷えた風が体の上を流れてゆくのは、この世ならざるところへ運ばれてゆくように快いものであった。現し身を忘れたような目に満天の星のきらめきが迫って来たものである。限りない視野に満ちた光りは少時の私達の目を奪って離さぬものであった。私達はそこで北極星や北斗七星を教わり、織女星の話を聞いたものである。昔の夕涼みは蚊との戦いであった。血をもつものの匂を嗅いだ蚊の来襲は凄いものであった。団扇で追払い、煙で退けながら私達は能う限り天恵の涼をとった。併しやがて負けて手や足のほろせを掻き乍ら暑い家内へと退散するのであった。今私の記憶には蚊との戦いは痒さと共に遠のいて、涼風の中に見た星の映像が鮮明である。それは限りない懐旧の念として私の心の中に住むものである。

 私は今目とは何か、如何にして目が出来たのであるかを問おうとしている。それは生命として生存に必要であるからであろう。それならば何故生命は生存の必要として目を形成 したのであろうか。ベルグソンは目は生命が身体より外に溢れ出る堀割であると言っているそうである。そうであるとすれば生命はどうして身体の外へ溢れ出ようとするのであろうか、目は光りによってはたらくとすれば、目は如何にして光りに関るのであろうか、目は身体に属し、光りは外界に存在する。目は光りによってはたらき、光りは目によってこの我に存在するということは、見るということは目と光りがはたらきに於て一であるということでなければならない。はたらきに於て一つであるとは、目と光りははたらきに於てあるということである、それは目からも光りからも捉えられるものではなくして、はたらきに於て一方の極に光りが見られ、一方の極に目が見られるのでなければならない。

 はたらくものは時に於てはたらくと共に、はたらくものに依って時は成立する、そこに形は生れるのである。全て形は時に於てあるものとして形である。時間とは形成作用である、私は目も亦生命の形成作用の内容として形相の成立を時の形成作用に求めなければならないとおもう。宇宙は爆発によって成り、生成の初めは超高温状態にあり、光りに満ちていたと言われる。物質は光りのエネルギーが物に転化したのであると言われる。そして生命は物質より生れたと言われる。私は全宇宙が光りであったとき如何なる様相を呈していたかを知らない。併し質を同じくするものとして全一的運動をもったであろうと想像するのは、もろもろの事象からして大して誤りではないとおもう。例えば火の如きも全一的運動をもとうとする習性をもつとおもう、断るものを前提として、物質に転化した光りのこの全一的なものは何うなったのであろうか、物質は相対的なものである。全一的なものは物質とは言い得ないものである。私は全一的なるものは相対的なるものの底に潜在したのであるとおもう。潜在する全一として物質の相対を成立さすものとなったのであるとおもう。相対を成立さすとは、相対としての運動が全宇宙一として運動をあらしめることである。全宇宙が光りとして全てが同質なるとき、個が全であり、全が個である。一の光子は全宇宙を表わすものである。私は生命も光より物質へ、物質より生命へと転じたものとしてこの原初のはたらきの上に立つとおもう。

 目は無限の遠くを見んことを欲する、それは光りが無限の運動であり、光りの運動を自己の内容とせんとすることであるとおもう、宇宙の微塵としてのこの我に全宇宙を映さんとするのである。私はそこに全宇宙が光りとして、一が全であり、全が一であったときの運動が潜在としてこの我にはたらき、潜在を顕現しようとするはたらきを見ることが出来るとおもう。私は目の形成をそこに見ることが出来るとおもう。光りから物へ、物から生命への形成は宇宙が自己を形成するということである。目は生命がもつ、併し目が生命としてのこの我が解くことが出来ないのは生命が宇宙の形成として作られたものであり、目も生命の内容として作られたものに外ならないからであるとおもう。生命が宇宙の形成であるとき、その形象は宇宙の形象を宿すのであり、宇宙の形象を実現するのでなければならない。全一体として全が個であり、個が全であった原形質を物として相対化した個に見出すのでなければならない、初めがはたらくものとして宇宙の形成はあるのである。私は目は個としてこの我が全空間と一なるところに出現したとおもう。外へ溢れ出る生命が肉体の一部を切り拓いたということは、宇宙がこの身体に於て自己を実現せんとしたことであるとおもう。私は斯る全と一との関係は単に動物のみではなく全物質にあるとおもう。よくこの頃新聞にフェライトとか水晶振動子というのを見かける、それは通信機、電子機器などに応用されて宇宙の他の物質との交渉をもつらしい。先日鉄が純分九九、九九九に精錬されると、それ迄と全然異なった性質をもってくると報じられていた。異なった性質とは他との関りに異なった性能を発揮するということであろう。純化されるとき、不純な分子によって遮られてきた性能が露わになるのであろう。私はそこに多様なる性能が現われるとは、その純なるものは原初の全と個の同一の潜在せるものが顕現すると思わざるを得ない、私はその純なるとき全ての物質は宇宙の全存在と呼応するものをもつのではないかとおもう。人間はそれを目に於てもつのであるとおもう。

 目が以上の如くあるとすれば生命は光りとして全一であった宇宙が運動に於て対立をもち、対立が常に全一に還り、全一を維持せんとするものであるとおもう。それは全物質に関るものであると言い得るであろう、唯物質と言われるものは単に宇宙の運動としてあるに対して、生命は自己の中に作用としてもつのである。作用をもつとは外に関ることによって内を変じ、内を変ずることによって外を変ずることである、生命は身体をもつものとして外を映して身体を作るのである。而して身体が外を映し作るということは外を身体を映すものとならしめることである、身体として外を映すには何等かの行動がなければならない、行動をもつとは外に身体を適応さすと共に外を変革することである。斯る外が宇宙である。私達の身体は宇宙の大より見れば一微塵に過ぎない、断るものをもってして自己の周辺を宇宙とするのはおこがましいと言われるであろう。併しそれが宇宙であり、それ以外に宇宙はないのである。外に適応し、外を変革するということは無限の展開をもつということである。人間も原初は単細胞動物であった、それが生死に於て外に適応し、外を変革することによって現在の人間を形成したのである、生死に於て外に自己を映し、自己に外を映して現在の世界を実現したのである。宇宙は身体の感官が拓いた世界である。斯る無限の展開は有限として生死する身体のよくするところではない。身体が生死に於て自 己を形成するとは、身体は生死しつつ生死を超えたものとしての二重構造をもつということである。死は消滅である、併しそれが形成であるとは実現であるということでなければならない、生死するわれわれは底に大なる生命を有するのである。私達の身体は六十兆の細胞を有すると言われる、それは単細胞としての生命が三十八億年の時間に於て生成したものである。私達は三十八億年の時間を内包するものとして、僅かな時間の中に次の生命を生んで死んでゆくのである。三十八億年の時間を内包するとは、人類が三十八億年の生死の経験をこの身体に蓄積するということである。われわれのこの一瞬一瞬は三十八億年の生命の蓄積がはたらく一瞬一瞬である、而してわれわれは生れ来ったものとしてこれを創り上げたのである、そこにわれわれは一挙手一投足に宇宙を見るのである、私はこの我を超えたところに我がはたらき、そこに宇宙が実現するということは、この我がはたらくということは宇宙が自己を実現することであるとおもう。この我も亦宇宙が自己の中に自己を見てゆくところに成立するとおもう。宇宙が光りとなり、物となり、生命が生れたということは宇宙が自己形成的であるということであるとおもう。このわれも亦宇宙の自己形成の内容としてあるのである。われわれが感ずるということも宇宙が自己を見るのであり、言葉も思考も宇宙が自己の中に自己を見ることであるとおもう。われわれが宇宙の中に現われ、現われたものが言葉をもち、思考をもつということは、私は斯く考えざるを得ないとおもう。全即個、一即多として無限の運動が形成的であるとき、其処に感覚が生れ、言葉が思考が生れるのである。目は対立する全と個、一と多を作用に於て結ぶ通路になるものであるとおもう。そこに生命の自己実現としての目の出現があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

弁明の記

 灰色に光りさへぎる雲こめて吹きくる風は耳を凍らす 長谷川利春

 一月の小野短歌会で一点であった私の作品である。下東条短歌でも一点か二点であった。 その前もその前も一点か二点であったように記憶する。採点なんかは何うでもよいのであるが、こう一点か二点が続くと、あの野郎禄な歌もよう作らんくせに文句ばかり達者だと思われそうな気がする。それで一寸弁明しておこうとおもう。

 この作品に対する第一の批評は内容がないということであった。併し私は一寸もそうは思っていないのである。内容とは何か、私は私の生命を形作っているものを言葉に表はすことであると思っている。日日の営みは私達が自分の生命を形作っているのである。よろこびかなしみは充分己を見出でたか否かにあるのである。私は斯る生命形成の最も深いものとして、環境と自己があるとおもう。私達の身体が環境適応的に作られたものであり、働くことは環境形成的に努力することであるとは、和辻哲郎が其の著「風土」で精緻な論理を展開するところである。私達の身体は環境の総計として風土的に作られ、歴史的に働くのである。雨の中を出でて田を植え、寒風をついて麦畑を打つことによって、我々の祖先は日本人の体型を作ったのである。日本の湿潤は日本人の団子鼻を作ったという。そしてそれは亦我々の嗅覚をも作ったのである。畑の土の粗々しい影は亦耕す人の心の襞である。或はそんなものは読みとることが出来ないと言われるかも知れないが、私は表しているつもりである。

 第二の批評は、光りさへぎる雲ではなくて、雲が光りをさえぎるのだから雲を上にもっ てこなくてはいけないとのことであった。併し私はこれも変えようとは思っていない。成 程物理的には雲が出て光りをさえぎるのである。併し私は照りがないとおもって空を見上げたのである。私は物の順序に従わず、心の動きの順序、動作の順序に従ったのである。そして私は日常と詩、散文と韻文の差違をそこに求めるものである。物の順序に従わないということは飛躍があるということである。非合理なものがあることである。私はそこに詩の韻律があるとおもう。勿論物から離れすぎると独善となる。而してそれは物をより明らかにするものでなければならない。何故なら物は人との関りに於て物だからである。

 私は自分の作品を語るのは嫌いである。この歌も名作などと毛頭思っていない。唯これからの歌会でたとえ〇点であっても私なりの観点をもっていると思って、妄言を容していただければ本文の目的は達したのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

内面的なるもの

 内面への探究という言葉がある。生命は創造的なるものであり、創造は内面的なるものの表出であると考えられている。内面的なるものの表出であるとは、内面的なるものは働くものとして、外に明らかになることは、内に深く還るということでなければならない。私達は直接働くものとして身体をもつ、身体によってものを作り外に自己を見るのである。身体によってものを作り、外に自己を見るとは、身体は創造的なものであり、創造的生命として身体があるのでなければならない。身体は何によって自己を外に現わしてゆくのであるか。

 身体は内外相互転換的であり、身体が生きているとは内外相互転換をもつということである。内外相互転換とは外を内とし、内を外とすることである。外を内とするということは、内が機能的構造的ということであり、内を外とするということは、内の機能的構造的 なるものの秩序に外を変えてゆくということである。生死というものもそこにあるということが出来る。内外相互転換とは相互否定的ということである。生物的生命に於て外としての食物の欠乏は死である。死の克服の為に努力が必要である。機能によって外を変えてゆくことは外の破壊である。生体維持には常に努力と破壊がつきまとうのである。斯る相互否定としての内が身体であり、外が環境となるのである。

 生命はアメーバーより初まったといわれる。その当否はしばらくおくとしても、現在こ の地上に見る複雑な生命の構造が最初からあったと考えることは出来ない。アメーバーから現在の生物の構造は如何にして出来たのであろうか、私はそこに生体と環境の限りない相互否定の闘争を思わざるを得ない。内外相互転換は状況的である。状況的とは常に新たな局面に対するということである。生命は新たな局面に対す機能をもたない限り死滅せざるを得ない。私は生命とは新たな局面に対して、対応する新たなる機能を生みゆく柔軟体であると思う。昔に於て激烈なる流行病にも人口の三分の一は残ったと言われる。人間の身体は対応する新たな物質を作ったのであるとおもう。アメーバーより現在の生物へ、それは限りない相互否定としての、生死の繰り返しの中から獲得して来た機能の集積としての形相であると思う。そのことは獲得した資質は、個体を超えた種族に於て維持されているということである。われわれの資質形相は種族の資質形相であるということである。創造とは獲得された資質形相が新たな状況に働き、新たな資質形相を獲得することである。そこに生死がある。個体に於て死とは個体の消滅である。併し種族に於て個体の消滅は、獲得した資質の遺伝に於て、新たなる資質の獲得の原動力となり、無限の底にひびきゆくものとして、新たな再生をもつのである。私は驚異すべき生物の構造と能力は、生物発生以来の環境との相互否定としての、生死の反復がもたらしたものであるとおもう。個体は形相完成的に成熟してゆく、成熟は資質獲得能力の喪失である。内外相互転換能力の完全な喪失が死である。斯くして生命的種が持続することは個体が生死することである。そしてそれが生命創造である。創造とは生死を内にもちつつ、生死を超えたものの生命の 形相である。

 私は人間を自覚的生命として捉えようとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。我々は自己を外とすることによって自己を見る、物を作ることによって、物に写された自己を見るのである。技術的製作的生命となることによって我々は自己を見、自己を知るのである。

 外に見るというとき、そこには見るものと見られるのがなければならない。物を作るとき、そこには作るものと作られるものがなければならない。作られたものは、外に見ら れたものとして我ならざるものである。我ならざるものとして、我に対するものである。 而してそれは我の外なるものとして、それによって自己を見てゆくものである。否定を介して肯定に転じてゆくものである。そこに於て内外相互転換は形相を内と外とに分つのである。そこに内と外との対抗緊張が生まれる。内とは見るもの作るものであり、外とは見られたもの、作られたものである。作るものとは如何なるものとして作り、作られたものは如何なるものとして作られるのであろうか。製作的生命として内外相互転換は如何なるものであろうか。

 私は自覚的生命とは、生物的生命が自己自身を見、自己を外に製作的に表現するものとなったと思うものである。生物的生命に於て内外相互転換は純一である。蜜蜂は花を求めて飛ぶ。而してそれは花が蜜蜂を誘うのである。花の色か香りか知らないが蜜蜂の官能と直ちに一なるものがあるのである。蜜蜂は飛ばんとして飛ぶのではない、飛ぶべくして飛ぶのである。人間が製作的生命であるとは、斯る一なる生命が道具をもつということである。道具をもつとは例えば手で物を壊す代りに、より大なる破壊力をもつ石を利用するが如きである。道具は手の延長であると言われる。石は手の延長となるのである。

 如何にして人間は道具をもったのであろうか、私はそこに内外相互転換としての偶然を集積したと思わざるを得ない。一瞬一瞬の営為をはたらくものとして蓄積したのであると思う。蓄積するとは過ぎ去ったものが現在に於てはたらくということである。内外相互転換の蓄積を生物ももつ、併しそれはいつ迄も偶然を超えることが出来ない。 製作とは偶然を時の統一に於て組織したものである。道具とは斯る組織に於て内と外を媒介するものである。

 自覚的生命に於て時を統一するものは、身体ではなくして言葉や技術となる。身体が身を超えるのである。身体を包むものとなる。身体を包摂するものとして、身体を見るものとなるのである。身体を見るとは、身体を外に表現することによって見るのである。製作とは身体が表現的に自己を見てゆくことである。我々が内的生命の意味を問うのは、斯る自覚生命として表現的にはたらくものである。製作的生命が外に表わすものである。

 生命は本来内外相互転換的である。内を外し、外を内とするものである。自覚的生命 とは斯る生命を自覚するものである。言葉や技術が時を統一するとは、内外相互転換的なるものを表現的に蓄積することである。蓄積するとは外を内としたものが、内として外に表われるものとなることであり、内を外としたものが、外として内に還ってゆくことである。内として外に表われるものとなるとは、未だ外ならざるもの、表われざるものとして、外と対立するということである。而してそれは表われるものとして内と外は一なるものである。斯かる対立をならしめる媒介者が道具であり、対立をならしめるものは努力である。私達は努力するものとして内面的なるものを問うのである。

 よくこの頃書道教室というのを見かける。行くと手本を傍に置いて一生懸命に真似ている。そして書き上げては教師に出して朱筆を入れてもらっている。各自が幾度もそれをくり返している。私はそれを見乍ら、その一々の繰り返しがその人の能力となってゆくのだ と思った。この能力が増すとは、手本の先覚や教師の力を習うことによって得るということである。

 先覚者や教師は他者である。私達は他者を学び、他者を自己とすることによって能力を得るのである。能力とは自己を外に表わし得る力である。表わす力が増したということは表わす内容が増したということである。表わす内容が増したということは他者を自己としたということである。私達は他者を自己とすることによって自己を外に表わすことが出来るのである。外に表わすものが内であるとすれば、我々の内なるものは我ならざるもの、絶対の他者にあるのでなければならない。若し私が生れたすぐに無人島に捨てられて育ったとすると、私に如何なる自己を表わすことが出来るであろうか。摂食と排泄の身体具有の本能のみであろう。そこに表わすべき内的なるものはない。

 先覚も教師もかっては習ったものである。淵源は重々無尽尋ねつくすことの出来ないものである。連綿として人より人へと伝えゆきつつ、何の人も学び伝えるものとして、その人を超えたものである。大きな流れの一滴として、人々をあらしめるものである。私達をして外に表したいと思わしめるものは、この大なる表現の流れに外ならない。内とはこの大なる流れである。外が内となるのである。獲得した形が次の形を呼ぶのである。

 形が形を呼ぶとは、今迄見えなかった微妙なものが見えてくることである。習字に於ては今迄見えなかった線が見えてくることであり、絵画に於ては今迄見えなかった色が見えてくることである。習熟とは無数の線、無数の色が見えてくることであり、引かれた一つの線、塗られた一つの色が、次の線或は色をその無数の線は色の中から唯一を決定してゆくことである。上手な字とか絵とかには、表わされた一つの線は色には、背後に無数の線は色をもつのであり、無数の線は色から決定された一なのである。斯る決定は形が形を呼ぶものとして決定してゆくのである。 習字に例をとれば、大の字を書くにあたっ 最初の一の線のあり方が、次の人の線のあり方を呼ぶのである。この呼びと応えのあり 方が字の完成度である。呼びと応えのあり方が内面的必然である。我々が表わすとはこの内面的必然をもつということである。

 形が形を呼ぶとは、最早我々を超えて形が形自身を決定してゆくことである。我々が形を決定するのではなくして、我々は形の中に深く入ってゆくのである。勿論線や色を見出してゆくのは目である。目は私の目である。而して私の目は私の恣意なるものとしてあるのではなく、対象を見る目として、対象の真実を見る目としてあるのであり、対象の真実は形が形を作るものとしてあるのである。

 線が線を呼び、色が色を呼ぶことが、形が形自身を作ることであるとは、最初から何か表現すべき形があったということではない。生命の内外相互転換の中からおのずから表れ来ったのでなければならない。死に面して生きんと努力の中から、おのずから結晶し来ったものであると思う。最初に表われた形が次の形を呼んだ時、動的生命としての無限の展開を孕んだのであると思う。

 生と死、対象と自己の矛盾的同一的に表われた形を、製作的に展開させたものとして、私達の生命形成は歴史的形成である。斯る生命形成として現われた形が、形成的世界を映してゆくのが内面的発展である。無限に生死を映し、哀歓を展開してゆくのである。形より形へとして、世界が世界自身を形成してゆく世界は、無限に生死を映し、哀歓を展開してゆくものとして歴史的形成的である。生死を超えたものが生死を含むものとして、生死するものが生死を超えたものに自己を表わすものとしてそれは歴史的形成的である。

 学問をし、絵を習い字を習うのは、単に形を見んとして習うのではない。形の中に深い時間の凝縮を見、我を超えた我の根底に接せんとして習うのである。そして時のもつ無限の発展に触れた思考の喜び、目の喜びに伴われていそしむのである。

 私は内面的なるものが表現するものであるとき、内面的なるものを歴史的形成的世界に求めなければならないと思う。私達は自分の内に表現すべきものがあるようにおもう。併し無人島の例に挙げた如く単なる我というのは何ものでもないのである。私達の表現的欲求は無数の人々の表現的努力を承継するところより来るのである。私は表現意欲はこの我が無限の創造的世界の創造的要素となったところより来るのであるとおもう。無限の過去を背負うところに我々の表現はあり、無限の過去の形象は世界である。而して世界の形象は歴史的形成の内容である。

 創造的世界の創造的要素となるということは、世界の歴史的創造の流れに入るということである。それは自己を滅して、世界に化すということである。歴史的創造の流れとは、無数の人が創造に参加したということである。ここに我と汝の呼び答えるということがあるのである。我々の表現意欲はこの我と汝の呼び答えるところより生れてくるのである。歴史的形成的世界とは、無数の他者の呼び声のこもるところである。この呼び声が死を生に転ぜんとする声である。この呼び声への我の応答が表現的努力であり、呼び声は創造線の自己形成であり、応答は創造線に添うということである。創造的生命に生きるということは永遠を見るということである。

 表われたものは内外相互転換の外として形をもつ、自覚者として製作的生命に於ては物として表われる。而してそれは内外相互転換として現われるものとして、滅びるものであり、壊れるものである。それに対して表わすものは始めと終りを結ぶものとして、一瞬一瞬の内外相互転換を蓄積し、統一することによって製作的にはたらくものである。内なるものとはこのはたらくものとしての一者である。

 生命は何処迄も内外相互転換的にある。内外相互転換的に一であるとは外を内とし、内を外とすることによって生きてゐるということである。外を内とし、内を外とすることが具体的一であるということである。それは一瞬一瞬に生れ滅び、作られ壊れるものが永遠であるということである。前に書いた習字の一筆一筆が永遠を宿すのである。私は今習字を例にとったが、日常の行為全てが人類の初めと終りを結ぶものに於てあるのである。内面への目とは、行為の一瞬一瞬を永遠なるものにつなぐ目である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

はじめに言葉ありき

 「細胞から生命が見える」という本によると、すべての細胞が個有の生命プログラムとしてのDNAという遺伝物質をもち、そこに生物が生きてゆく上で必要な情報が書きこまれている。細胞一個の中にある全DNAの文字数は非常に多い。生物種によって異なるが、数百万から数百億文字以上に迄達する。この全文字が遺伝情報の全てである。ヒトではざっと三十億文字のDNA情報が一個の細胞の中にある。その量はどれ位かというと平凡社の大百科事典の二十五セット分である、と書かれている。生命は必要に応じてこのプログラムを利用するのである。細胞が遺伝子をもち、遺伝子が文字をもち、細胞がそれを利用し、その指令によって動くとは、文字は生命の形成として、生命そのものとしてあるということである。生命としての細胞が形として出現するものであるとき、形は文字によってあるものとして文字は細胞であり、細胞は文字である、そこに形成ということがあり、出現ということがあるのである。私は生命としての細胞の形は、外としての環境との関りに於て如何なる文字を撰択したかにあるとおもう。生物の進化とは文字の構成の複雑化ということであろう。私は単細胞動物より多細胞動物への発展は環境に対す主体としての文字の高度化の要請があり、文字が細胞の自己形成の撰択をもったのではないかとおもう。利用するとは細胞が自己を現わすことであり、現われた細胞が更に外との関りに於て利用せんとするのである。それが撰択であり、構成である。私は三十億の文字をもつとは単に並立的にあるのではなくして構成的にあるのであるとおもう。一つの生命としての細胞を環境との関りに於てより強く、より大ならしめんとするところにあったとおもう。人類は近々千万年程前に出現したと言われる、千万年程前に出現したということは、それ以前の生命体の細胞は三十億の文字をもっていなかったということであろう。文字は常に外との関りに於て分化発展をもったのであるとおもう。私は如何にして単細胞動物が多細胞動物となったかを知らない。唯外としての環境の激変が細胞の結合による機能の発展を要求したのかとおもうのみである。併し細胞は多細胞となることによって多様なる機能をもつことが出来たとおもう、そして多様なる機能は文字の数を増大せしめたとおもう。多細胞と なることなくして人類の生誕はあり得なかったのではあるまいか、而して多細胞ならしめたものは文字のはたらきであったとおもう。生命がはたらくとは文字がはたらくのであるとおもう。

私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである、自覚とは自己の中に自己を見るものである。生命は外を内とし、内を外とする無限の形成である。自己の中に自己を見るとは外を内とし、内を外とすることであり、外は内を宿した外、内は外を宿した内となることである、外は内を宿して物となり、内は外を変革するものとして技術をもつものとなるとなるのである。自覚とは世界形成的に生命が形象を顕現させてゆくことである。われわれが自覚をこのわれに於て見るのははたらくものとしてこのわれに世界の出現を見るによるのである、それが物を作るということである。私達は物を作ることによって自己を知り、更に大なる物を作らんとして自覚の意識をもつのである。私は斯る物の製作を経験の蓄積に求めるものである。経験の蓄積とは昨日と今日、過去と現在の営為を統一するものである。われわれは生れ来ったものとして自然の内容である。営むとは自然の循環に随って営むのである、それが日日の行為である、営みは日日の繰り返しである、而して状況はその日その日異るのである、その日その日はくり返しつつ新しい営みの日である。私は斯る日日の異なる状況を生命形成に於て統一するところに製作があるとおもう。例えば大古の採取経済に於ては、食糧に出合うということはその日その日の偶然であった。実の成る木を知っていたとしても、風で落ちてしまったかも知れないし、誰かが先に採ってしまったかも知れない、それを自己の管理の出来る所に植えて偶然を克服するのが製作することである。それに水をやり、肥料を与えるのも経験の蓄積である。野生の収穫物と区別してわれわれはこれを作物とするのである。製作とは偶然を必然とすることであり、外を 映すものとしての身体の秩序に逆に従わせることである。そこに経験の蓄積が必要なので ある。日日の営みの上に製作は成立するのである。私達は斯る経験の蓄積を記憶にもつ、記憶を保持するものは言葉である。われわれは記憶を言葉にもつのである。私はわれわれの斯る言葉をあらしめるものは細胞のもつ三十億の文字であるとおもう。

 記憶によって製作があるということは、製作によって記憶があるということである。 字は細胞の機能の指令としてあった、それは細胞が自己形成的としてあり、文字が形成を担うということである、文字が細胞と別にあって、その形成を指令するというのではない、細胞は自己形成的生命として文字をもったのである。それは外を内とするはたらきの必然の内容としてもったのである。而して外を内とすることは、内を外とすることとして無限のはたらきである。外を内とならしめることは外の多様に於て機能を大ならしめるものである、大なる機能に於て摂取した内を外ならしめることは機管を複雑ならしめることである。それは細胞の進化であると同時に文字の発展であるとおもう。細胞は多様の統一とし文字の発展をもつのであり、文字が発展をもつことによって細胞は多様の統一をもつのである。私は記憶とは細胞が必要に応じて文字を利用するのみではなく、文字の指令が状況を超えて状況を創造するようになったことであるとおもう。必要に応じて利用することは適応することである、而して適応することは既に主体が環境を作り、環境が主体を作ることである。創造するとはそれが発展して互が超越し合い対立するものとなったのである。対立するとは否定しあうものとして在るということである、対立するものが一つとしてあったものが顕在化したということである。生命に於て主体と環境が直に一としてあった、それが否定的に対立するということは死を以って距たるということである。環境は直に我であり、我は直に環境であったものが、環境ならざる我としてあり、我ならざるものとしての環境となったということである。勿論それは主体と環境が無関係になったということではない、主体が環境を内にもち、環境が主体を内にもつものとなったのである。環境は主体の中に消えて現われることによって真に環境となり、主体は環境の中に消えて現われることによって真に主体となるものとなったのである。私はそこに製作があるとおもう。われわれは製作したものを物としてそれを使用し消費することによって生きる、それは自然としての環境ではない、環境としての外が主体としての身体の秩序に随って変革され、構成されたものである。自然としての環境は社会としての環境となるのである、そこに環境は主体の中に消えて現われることによって真に環境となるという所以があるのである。 環境が主体の中に消えて物となって現われる為には、主体は環境の中に消えて人格として現われなければならないとおもう。斯くして外に物としての世界が現れ、内に世界を作るものとしてのこのわれが現われることが自覚することである。

 自覚は経験の蓄積として、時の統一として成立する。時の統一とは過去、現在、未来を内にもつことである。それは記憶に見た如く言葉がはたらくということである。それは三十億の文字が必要に応じて起用され、指令するものとして、生命としての細胞が現在の営為に言葉として顕現したものであるとおもう。人間は生命発生以来三十八億年の歳月の上に、六十兆の細胞の統一体として出現したと言われる。私はそれを作り上げたのは細胞の文字がはたらいたということであるとおもう。生命が細胞としてあり、生命が形成としてあるということは、生命はその根源として文字としてあるということである。それが外と内とが対立し、内が外をもつものとして、人格として対立するとき、内は主体として我と汝として対立するものとなり、我と汝は共に世界を内にもつものとして、より大なる世界を構成するものとして呼び交すものとなるのである。人格として我と汝となるとは共に製作するものとして個性となることであり、我ならざるものとしての汝、汝ならざるものとしての我として、文字は形に出でて声となり、言葉となって形作るものとなるのである。聖書に「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神なりき。と書かれている。全ての形は言葉より生れたというのである、私は断る言葉を細胞の文字に見ることが出来るとおもう。私達は人間として、人間の細胞のもつ文字に神を見ることが出来るとおもう。全ての形は細胞のもつ文字の発現としてあるのである、製作すらも文字が自己の中に自己を見る自己構成として現われたのであるとおもう。

 三十億の文字とは一体如何なるものであろうか、状況に応じ指令するものとは、人間の 遭遇するであろう一切のものに対応するものでなければならない、生命は生死するものである。呼吸し、摂食して維持し形作るということは、それを失なうということは死ぬことである。生命を維持し、形成することは我ならざるものを我とすることである。我ならざるものによって我があるとは常に死に対面しているということである。指令とは生命として斯る死を排除してゆくことでなければならない、死を排除するためにさまざまの防御をなさなければならない、それは新たな構造を作り上げることである。本書の中に「シグナルの伝達」という項目がある。その内容はとても複雑であって非力な私が理解し、自分の思考の軌道に乗せ得るものではない。併し外に応じて細胞が自己を変化させ、新たな状況に新たな構造をもって対応してゆくのがわかる。死を以って迫る外は常に異る、その都度細胞は三十億の文字の中から最善の生存を撰択してゆくのである。そして外を自己の形相に転じてゆくのである。私は千変万化の外を転じて自己の形相に転ずるものは外を内に包むものでなければならないとおもう。外を内とし、内を外として無限の転換をもち、外を転じたものを自己の形相とするものでなければならないとおもう。斯るものとして三十億の文字は外としての万象を写しつつ、現実の生の唯一形相を打てるものであるとおもう。内外相互転換の軸としてはたらくものである、それは三十八億の年月に於て外と内が作るのである、私達は無数の個性としてある、無数の個性としてあるとは、多数の人々が異なった環境と歴史を負うて生きているということである、それによって人は様々の生死転換としての体験をもつのである。対話はその体験を集積せしめるものである。私は曽って物の製作は経験の蓄積であると言った。そしてその蓄積は記憶として言葉によると言った。その言葉は対話を生み、対話より生れるものとして世界が世界を見、世界が世界を作ると ころより生れるのである。記憶も構想も、製作も世界が世界を作るものとして世界がもつのである。世界としての社会の対話が維持し創造するのである、記憶や想像をこのわれが もつと思うのは、われわれがそれを映すことによって働くが故である。そこに三十億の文字は世界が細胞に自己を見出でたという所以があるのである。細胞は生命として存在が自己を見る一つの核である。斯る核は対話的に自己を見るものとして無数の核に対するのである。対話するとは他者があるということである。そしてその他者とは言葉を有するものであるということである。それがはたらくものとして過去、現在、未来をもつということは無数の他者をもつということである。世界は斯るものの対話として自己を構成するのである。曽って西哲の言った如く「世界は至るところに中心をもつ周辺なき円である。としてあるのである。

 「はじめに言葉ありき」のはじめとは根源の意である、そこから全てが生れてくるとい うことである。それではその生むものは何処から生れたのであるか、それは言葉を絶したものである。唯内即外、外即内、一即多、多即一として出現したという他はない、それが生命としての細胞であり、そのあり方が言葉としてあるのであり、三十億の文字はそのありようが形成し来った相である。全ての人間のもつ現象が三十億の文字の現れであるとは、全てあるものは自己同一としあるということでなければならない。変ずるものは変ぜらるものの上にあるものとして、時間は同時存在の上に成立するのでなければならない。変ずるものは機に応じて利用した文字の現れであり、変ぜざるものは機に応じて現われる三十億の文字である。時間は絶えざる状況の変化に出現する形として無限の流れである。併し単に流れるものは時間ではない。時間は過去、現在、未来の一つの統一をもつものでなければならない。私は斯る統一は三十億の言葉の現れであり、言葉が自己を見、自己を現わすものとして初めて捉えることが出来るのであるとおもう。しからば斯る同時存在は如何に現われるのであるか、私は斯るものを一瞬一瞬の時の完結に於て捉えることが出来るとおもう。一瞬が全時間をもつのである、一瞬は無限の過去より無限の未来への流れの一点である。全時間をもつとは、斯る一点が逆に過去、現在、未来を内にもつことである。私は斯る一点をはたらく現在に見ることが出来るとおもう。はたらく現在とは生が死に対面して、三十億の言葉の中に利用し得るものを撰択し、死として迫ってくるものを逆に生に転ずることである。即ち製作としてはたらく一瞬一瞬である。一瞬一瞬の時が完結すると は、出現した物の形が完結することである。過去、現在、未来を包んだ永遠の形相をもつ ということである。根源の出現であるということである。根源の出現であるとは外と内、環境と主体として文字をあらしめるものが具体として実現したということである。全てが現在に流れ入り、現在より出でてゆくのである。そこに全時間があるのである。生と死を含み、生と死がこの刹那に現わした形というのは常に形の究竟であり、形の本質はそれ以外にないものとして完結をもつのである。三十億の文字は形の現われるべき全てである一瞬一瞬の形の現われは斯る根源が自己を現わした形として完結するのである。

 われわれの生活は日日に複合化され、合理化されて便利になってゆく、人はそれを進歩という。併しそのことは昨日は今日のためにあったということではない。昨日は昨日の生きる営みとしてあったのである。今日は今日の生きる務めとしてあるのである。各々死に面するかなしみと、それに打ち克つよろこびを一日の確証とするのである。三十億の文字がはたらくことによってある一日である。私はそれは唯人のみではなく物にも言い得るとおもう。土鍋は鉄鍋の未完成品ではない、何方も調理具としてそのときそのときの用を果して来たのである。生命の形成としての外と内を一に見るはたらきをして来たものである。完結とは外と内とが一としてあるということである。私はそれを武器にも見ることが出来るとおもう。那須の与一が壇の浦に扇の的を射るべく選ばれたときに、「頼光の時ならば 空飛ぶ鳥を、三羽に二羽は射ち落すものが多かった、今では波にゆれいるあの的を射ち落せるものはないであろう。と言ったという。そのことは弓矢も弓術も頼光以前に完成していたことであるとおもう。ランケは詩はホメロスを超えたということは出来ないという。私は刀剣は正宗を、剣術は塚原卜伝を超えたということは出来ないのではないかとおもう。それはそれよりよいとか悪いとか、上手とか下手であるというのではない。形は内なるものの結晶として、一つの完結として出現するとおもうのである。一々が生死としての外と内の転換として、三十億の言葉が自己を実現したとおもうのである、世界が現われたのである。現われたということは、現われたものの中に世界があるということである、そこに完結があるのである。

 対話とは斯る完結と完結との対話である、完結と完結の対話に於て新しい形が生れるのである。完結から新しい形が生れると言えば矛盾であるが、言葉は斯る矛盾としてあるのである。斯る矛盾は言葉が指令として発現し、発現によって自己を維持してゆくことによるのである。指令の文字の撰択は生死転換の危機に於てその生存を図るのである。生命が生存すべくはたらくいくつかの文字を撰択するのである。故にその文字は全文字がはたらくものとしてのいくつかの文字である。全文字がはたらくものとして現われた形は全存在を負う一つの形である。そこに一つの形が完結をもつ所以があるのである。完結とは全ての現象がそこに見られるということである。全て現われるものがそこにあるということである、全てあるものは死生転換に於て文字が形を表わしたものとしてあるということである。私は人間が歴史をもつというのも断るものを根源的形相として成立するのであるとおもう。歴史は時の形相として過去、現在、未来をもつ。それは一瞬の過去にもかえることの出来ない無限の流れである、併し単なる流れであるときには過去、現在、未来というものを見ることは出来ない。単なる一点があるのみである、それが無限の流れと言い得るためには何等かの意味に於て流れを統一するものがなければならない。過去、現在、未来を一に於て見るものがなければならない、無限の過去より未来への流れは断るものに於てのみ見ることが出来るのである。斯るものに於て見ることが出来るとは、統一するものが自己に於て自己を見るということでなければならない。私は斯る一者として無限の流れを自己の中に於て見るものを三十億の細胞の文字に見ることが出来るとおもう。流れるものは 必要に応じて指令を発し、それによって出現する形である。それは三十億の文字が自己の中に自己を見るということである。三十億の文字は個々の細胞がもつ、而して人間は六十兆の細胞をもつと言われる、個々の細胞がもつとは六十兆の細胞が各々持つことであり、地球上には六十億近い人が住むと言われる。この全ての人が細胞と文字をもつものとしてあるのである。生命に於て同じ形をもち、同じ営みをもつものは何等かの意味に於てつながりをもち、一を実現しているものであるとおもう。同じ形をもち、同数の文字を有する ということは、照らし合って形を実現してゆくものであるとおもう。そのことは生命は世 界の自己実現としてあるということであるとおもう。

 多くの生命は多細胞動物として多くの細胞の統一体である。統一体とは多くの細胞が一 つの目的的行動をもつことである。統一行動をもつためには指令は一つでなければならない。そこに神経が生れ、神経中枢が生れなければならない。各細胞に指令を発せしめる統一的指令が生れなければならない。併しこれ等の形が現われるというには、何もないところから現われることは出来ない。形が現われるには胚種とでもいうべきものがなければならない、私は細胞のもつ文字が斯る形の根源とおもうのである。根源とは、細胞の文字が自己自身を見、自己自身を構成するということである。私は多細胞ということすら細胞の文字が内外相互転換的にはたらくところに出現したのであるとおもう。そして多細胞となることによって自己構成的となり、多細胞の統一体としての身体は幾多の性能を獲得したのであるとおもう。獲得したとは文字の撰択によって身体が形をもつと共に、その身体がはたらくものとなることである。身体としての形がより大なる生命形成のために更なる新たな文字を撰ぶことである。私は人間の歴史も斯る生命形成としてあるとおもう。歴史は自覚的生命としてあり、自覚的生命とは内外相互転換の外を物の製作に見、内を製作的主体として見ることである。それがはたらくものとして一であるところに歴史があるのである。はたらくものとして一であるとは、先ずあらわれるのは一が現われることである。一が現われるとは内外が未た混沌としてあるということである。それは世界としてあらわれる。併しそれはわれに対しわれを包む世界ではない未分の世界である。外が食物として、敵として漸く識別の段階である。鯛は深海にあってわれわれの五千倍の明らかな視覚を有する、併し見るのは敵と餌だけであるといわれる。それは反射的行動として生に直接的なるものである、鯛は敵と餌による行動に於て身体を形成してゆくのである。身体形成とし 生命の純一なるはたらきである。細胞の文字は斯る形成に向って自己を撰択するのであるとおもう。言葉は斯る細胞の文字の自覚として先ずあったのは集団的形相の実現ということであったとおもう、生存としての斯る集団が血縁的であったか地縁的であったか浅学にして私は知らない。恐らく両者の綜合としてあったのであるとおもう。生命的一の実現として、最初に言葉をもつことによって見出した形相は集団の情緒的興奮であったとおもう、そして斯る興奮は敵との戦いや食料の獲得によってもたらされたのであるとおもう。私は言葉の発展もここにあったとおもう、人間は経験を蓄積するものとして集団の闘争は愈々複雑化してくる。戦術・兵器の複雑化は統率者、指導者と一般戦闘員を必然的に生むものであったとおもう、そこには戦術・兵器に関る言葉と共に、上意下達・下意上達の言葉が生れるのである。食料の獲得は更に深大である。生命は生命を食物とする、光合成によって植物が形成した細胞を、食物連鎖によって高次なる形相を実現してゆくのがわれわれ動物の生命形成である。光合成は太陽と水として天と地に関るものである。経験の蓄積とは斯る食料の生産を人間の手によって行い、食物連鎖を人間の手によってもとうとすることである。勿論人間は植物にかえることは出来ない、そこに植物の養育があるのである。食物連鎖として必要とするものの栽培があるのである。そこを基点として更に滋養に富む動物を飼育し、自己の食物連鎖の円環を完成せんとするのである。その為に人間は幾多の克服すべき障害に打当らなければならない。天の太陽と地の水によって育つ植物は先ず早魃と水害に打克たなければならない。そのために天の理、地の理に深く入ってゆかなけれ ばならない。われわれはそれを、われわれも細胞によって成る生命として、自己の根底に深く還ることによって成就してゆくのである。天や地はわれではない、併しそれは細胞の出で来ったところであり、生命の根源である。三十億の文字もそこからと考えられるものである。われわれの言葉や技術が細胞の文字に根源を有し、全てがそこよりの現われであるとき、われわれの自覚は先ず、細胞の文字に自己を見た天地が形相として現われなければならないとおもう、ということは混沌の中から先ず現われたのは根源的存在としての神でなければならないということである。そして神とは生命がそこから出でくるものとしての天地であったとおもう。そのことは歴史は神を見ることより初まったのであり、神の創造として歴史の展開があったということである。併し神の創造は歴史ではない。歴史は何処迄も人間の歴史である。そのために人間は何処かで神と離別しなければならない、神の創造を人間の内面的発展としなければならない。私はそれを細胞が必要に応じて文字を撰択し、利用するところに求めたいとおもう。そこから形が現れ言葉が生れるのである。形が現れ言葉が生れたということは、形が言葉をもち、言葉が形を生んだということである。形は生命の出現として発展の欲求をもつ、更に言葉をもたんとし、言葉は更に形を生まんとするのである。私はそこに人間を見たいとおもう、形の出現とは現在の状況に撰択された言葉が出現したということである。生命がそこに自己形成をもったことである。形成されたものが更に新しい言葉をもち、新しい形を生むということは自己を否定することである。否定するとは自己が自己でなくなることである。私は現われた形は、形を維持せんとすれ決して自己を否定しようとしないとおもう。併しそれは一つの状況に現われたものであり、外と内の転換として絶えず動く新たな状況に耐え得るものではないとおもう。私は斯く新たな形に転じてゆくには常に言葉や形の出で来った根源に還らなければならないとおもう。細胞の言葉に還らなければならないとおもう。三十億の文字の撰択と出現に俟たなければならないとおもう。ここに人間は人間は神と離別するのであるとおもう。現 われた言葉や形が人間である。それを現わすものとして根源の文字としてあるのが神である。そこに有限と無限、相対と絶対がある。昔仏像を彫る人は一刀毎に三拝して仏の示現を祈ったという。西洋にも美神という言葉がある。美の神に呼ばれ、招かれてわれわれの創作があるというのである。それは現われた形、現われた言葉からは新たなものは生れないということである。想を潜めて形の根源、言葉の根源にかえることによってのみ新たなものは生れるということである。私はそれはひとり芸術的創作にかかわるものではないとおもう。私の知り合いの技術者が、新しいものを作るために今迄の形を全部捨てて、幼児の心になってイメージの創出に努めなければならないといっていた。幼児の心とは如何なるものか知らないが、新しい状況に触れて細胞の文字の出す指令の如きものではないかとおもう。生命として身体と対象がおのずから生み出す形の如きではないかとおもう。よく発明・発見などでも寝食を忘れるということを聞く。私は人間をここに見ることが出来るとおもう。撰択として生れ、無限なるものの発現として生れ乍らその形相の故に無限の喪失者としてあるのが人間であるとおもう。神に還り、神の中に自己を殺すことによってのみ生を維持してゆくのである。生命の形として生れたものは形より形へ転ずることによってのみ自己を維持してゆくのである。身体の消耗と充足はその欲求である。形より形へ転ずることは常に自己否定をもつことであり、自己否定は自己を超えたものが自己にはたら くことによってのみあるのである。私は人間が斯くあるということは歴史が斯くあるとい うことであるとおもう。

 歴史は形より形へと転じてゆく人間の営みである、人間は自覚的生命として形より形への推移を物を製作することによってもつ、即ち人間は作ることによって形を見、その形か次の形を生んでゆくのである。私は斯る物の製作が根源的な文字のはたらきとして、物の製作と同時に神を見、神を祀り、神への祈りをもったとおもう。私は前に最初の言葉は敵に対したり、食糧の獲得にあったであろう、そこから様々のものが発展したと言った。斯かる言葉も亦根源的なる文字の現れとして、根源的なものが自己自身を見るところにあるのであり、敵対も摂食も消滅するものであるに対して根源的なるものは不変なるものであり、根源の不変なるものを表わすことが逆に変ずるものを現わすものとして形の最初は神を現わすことにあったとおもう。内的なるものが外に形をもったということは歴史が始まったということである。そして神を見たということは人間が自己をもったということである。私は歴史の始まった人間の意識は全て神につながったとおもう、神につながったとは行為は全て神を表象してゆくことである。根源的なものが自己を現してゆくときに形が現われるとき斯く考えざるを得ないとおもう。形を現わすものは三十億の文字がもつ普遍性に於てそこに住む人々である。住む人々が現われた形、現わした形に於て凝集するとき一体感として民族の原形が出来るのである。一つの神を見、一つの神を祀るとき民族の原型が出来るのである。現われた形は風土としての特殊な環境と主体が生死として否定し合うところに成立する形である。死を生に転ずるということは否定として迫ってくるを摂取するということである。私は判断が包摂判断であるのもここに由来するとおもう。対象に自己を映し、自己に対象を映すのである。対象に自己を映すとはこの我が世界となることであり、自己に対象を映すとは世界がこの我となることである。この我が世界となるとは物を作ることによって世界を作り、世界を見るものとなることである。世界がこの我となるとは、作ることは無数の人々の無限の時間の声に呼ばれてあるということである。そこに形が形を生む創造の世界があるのである。私はそこに人間の自覚が生れ、歴史がはじまったのであるとおもう。それは神より離れたのではない、神はかくれた神として底深 くはたらくものとなったのである。本来根源としての文字は状況により利用されるもので あった、それは生命が死に面して生を獲得すべく撰択するものであった。斯くして現われた形は根源的なるものの出現である、根源的なるものが自己を見出したものである。そこに形より形への無限のはたらきがあるのである。併しそれは文字の全容ではない、神の現在の状況への現れである。神は死して唯一現在に現前したのである。勿論神は死んだのではない、唯一現前したものより見て神は死んだのである。神の全容は現われたものに対してかくれたものとなったのである。現前したものが自己に生を見たとき神は死んだものとなったのである。私は現在に現われたものがわれわれが自己とする人間であるとおもう。そしてこの現われたものとかくれたる のの関係が人間と神の関係であるとおもう。前にも書いた如く現われた形は新しい形を生むものではない、常に変化する状況に対して現われた形は応ずる術を知らないものである。人間は常に自己の無力感の上に立つのである。生命は生きるものとしてそれを克服せんとする、そしてそれは危機に於て形相の出現を撰択する根源的なものに回帰するということでなければならない、かくれた神の呼び声を求めるということでなければならない。かくれた神はどこに言葉をもつのであるか、私はそれを我と汝の対話に求めたいとおもう。我と汝が対話するということは我ならざるもの、汝ならざるものとしての新たな形が生れることである。そして斯る言葉は我も汝も共に根源的文字を有するものとして、死として迫って来るものへの生への転換としてもつのであ る。斯る転換としての言葉をもつものとして対話するということは共通の死として迫ってくるものに面しているということである。そしてこの共通の死として迫ってくるものを生に転じてゆくのが世界である。世界は無数の個を抱いた無限の動転である、無限の動転として形無くして形をあらしめるものである。死と生を陰影とする無限の形を生むものであり、形より形へと転じてゆくものである。斯かる形は映したものが映され、映されたものが映すものとして過去を包み未来を開くのである。そこにかくれたるものの声があるのである。無力なるこのわれは過去を蔵し、未来を孕むものとなることによって新たないのちを得るのである。かくれたる神は形として出現したこのわれの内としてはたらくものとなるのfである。

 形より形へとは、形が無限に転じてゆくことである、今の形を否定して新たな形となる ことである。私達はこのわれとして身体の形として出現する、この形を除いてこのわれは ない。そこにこのわれとしての身体に執着する所以がある。このわれは斯る執着を排して新たな形に転じてのみ真個の自己となるのである。勿論転ずるといってもこの形がなくなるのではない、無くなるところに形より形へ転ずるということはない。新たな言葉に生きるものとなるのである。新たな言葉とは内を映した外を更に映すことである。我と汝の対話によって出現した世界を更に我と汝が映し合うのである。形が次の形を作るのである。身体が新たな状況に対応し、新たな状況をつくるものとなるのである。自覚的生命として人間が新たな形をもつとは新たな技術をもち、新たな世界を構成するということである。私は身体がかく何処迄も世界を宿すところにこの我の成立があり、歴史があるとおもう。三十億の文字は個々の細胞がもち、人間は六十兆の細胞の統一体である。三十億の文字は世界として外に展開せんとする多数である。身体の形として現われ、身体が細胞としての文字をもつということは身体に世界が現れるということである。斯る形としての身体に於て形より形へと転ずることが出来るのである、形より形へとは身体が世界を作るものとなることである。身体が世界を作るものとなるとはこの身体より全世界を見んとすることである。世界形成の意志として全世界を跪ずかせんとすることである。個と個が対するとは斯るものに於て対するのである、我と汝は相互否定的に対するのである。身体の否定とは死である。対するとは死をもって迫り合うことである、食物連鎖はその原型である、対話するとは断る個として対話するのである。我と汝はその底深く死の深淵をもって距てているのである。われわれは自覚的生命として経験の蓄積をもち、物を製作する生命として世界形成的に我と汝は一である。併しそれは斯る深淵を底にもつものである。形が転ずると は対立によって転ずるのである。対立によって転ずるとは対立することは対手の形を自己の中に帯びることである。形は対手を宿すものとして転じてゆくのである。生は死を宿し死は生を宿すのが生命が転じるということである。内外相互転換的に生が死を映し、死が生を映すということはより大なる外、より大なる内となるということである。そこに蓄積として形成があるのである。外はより大なる死として迫ってくるのであり、内はより大な生として向うのである。転ずるとはより大なる死と生が相即として形に実現するところにあるのである。それはより大なるものとして前の形を承けつつ生死を経たものとして前の形を否定したものである。私はそこに歴史が成立するとおもう。内なる主体は複雑なる技術を有するものとなり、外は多様なるものの統一となるのである。

 前に書いた如く一度出現した形は自己を保持しようとして変革を欲しない、変革のないところに形の転換はない。そこに形より形へ転ずるということはあり得ない。それなれば形の変転としての歴史の転換は何処より来るのであろうか、私はそれを天才や英雄に求めたいとおもう。形の転換は生死としての内外の相互否定にあった。転換とは外が危機として迫ってくるときに内が逆に外を自己とすることによって自己を大ならしめることである。そこには新しい技術が生れなければならない。それは物に即した技術ではなくして、主体と環境を相即せしめる技術である。私はそこに有事にはたらく根源的のはたらきがなければならないとおもう。それは世界形成の根源として、根源的文字より生れたわれがもつ言葉にはたらくのである。世界がはたらくのである。生命発生以来三十八億年の歳月に形成し来った生命が全時間の深さに於てはたらくのである。全ての人間は斯る時間の上に斯る時間を包蔵するものとして生れる。併し前にも書いた如く現われた自己としての形に捉われて我を超えた世界表象を表わすことが出来ないのである。現われたものを保持せんとして表わすものを見ることが出来ないのである。私は天才や英雄は直に根源的な文字を三十八億年の時間の深さに於て声として聞き得るものであるとおもう。それはこの我の欲求、このわれの苦悩として出でくる声ではない、世界の苦悩、世界の欲求として生れてく る声である。ここにあるわれの声ではない、このわれをあらしめる声である、あらしめるものとして絶対の声である。世界表象として世界の一を実現させるものである。世界の一を実現するとは、形として現われ個々の保持せんとする形が一つの世界として見ることが出来なくなったということであり、対話が持ち得なくなったことであり、その一を回復せんとすることである。故に英雄や天才がもつ表象は部分があって全体が構成されるのではない、先ず全体があって部分を見出してゆくのである。世界としてのイメージを現実としてゆくのである。浮んでくる世界のイメージは既存の世界ではない、それを実現せんとすることは既存の世界を破壊することである。破壊することによってのみ新しい世界は打樹てられるのである。而して新しいイメージは世界像として世界が自己の中に見出でた自己である。併し過去の世界はその世界に生きた多くの人々が背負うものである。過去の世界を形成した人々の理解し得ざる世界である。そこに天才や英雄の悲劇がある、世界を実現せんとすることはそれを構成する無数の人々をその内容とすることである。併し多くの人々はそれを理解しないのである、理解しないということとはそれ等の人々を葬るものとして新しい世界に敵対するということである。斯くして新しい世界表象の実現は時の熟するのを俟たなければならないのである。新しい世界表象は天才や英雄を介して世界が自己を表現せんとする衝動である、それは史的形成の必然としてあるものである。実現しなければ止まないものである。私はそのために新しい世界表象を自己とする新しい生命の誕生を待たなければならないとおもう。過去に生きた人が死んで新しい人の生れるのを待たなければならないとおもう。然も新旧の交代は単に人の交代によって得られるものではない、社会制度その他のものも旧世界を背負うものである。そこには多くの人がそこに働き生きるのである、そこには必然軋轢が生れなければならない。時代の変革には常に戦がつきまとった所以である。変革は常に幾度かの挫折の上に成立するのである。併し斯る変革は何もかもが変ってしまうのではない、いつも言うとおり創造的発展として変化するのである。 新しい生命の誕生といってもホモサピエンスとして、六十兆の細胞と百四十億の脳細胞を もった生命が生れるのである。それが地球上の同じ所に生れてくるのである。新しいというのは人間が製作的生命としてあり、主体は物を映して愈々複雑な技術の所有者となり、物は更に複雑な技術を映すものとして多様なる物となるということである。それは内が外を映し、外が外を映すものとして根源的な文字が指令として常にはたらき、はたらくことによって自己を見てゆくものとして一である。理性を神としたヘーゲルは、理性を直接性の超出、直接性の否定及びそれによる自己内部への復帰と言っている。経験の蓄積ということも根源的な文字が指令を出すことによって形をもち、形が危機として指令を求めるところに成立するのである。それによって生命の形が自己構成的なるところに蓄積があるのである。私はヘーゲルの理性も斯るものでなければならないとおもう。形が転ずるとは現われて消えてゆくことである。歴史の変遷は現われて消えゆくことである。斯く現われて消えてゆくことは全て根源としての文字より現れ、文字の中に消えゆくのである。現われるものは消えた中から現れ、消えゆくものは現われるものの中に消えゆくのである。全て現われたものは永遠の底に響きゆくのである。永遠の声をもつのである。そこに根源の文字としての変遷を成立せしめる同時があるのである。ここに生命の一々が自己完結をもつ所以があるのである。自己完結とは生命として自己より展開する無限の空間、無限の時間を自己の形相とすることである。現われて消ゆるものとして泡沫にも比すべきものでありつつ、そこに全生命を見るものであることである。そこに絶対に他ならざる個性がある。言葉をもつものとして一人一人が個性をもち、民族が個性をもち、時代が個性をもつ、斯るものとして声は時を超えて交し合うのである。

 全ての形が根源の文字より来ったとすれば、根源の文字は何処から来ったのであろうか、私はそれを形となるべき全てのものと考える他はないとおもう。近代科学によれば生命は物質より出で来ったという。私達は生命と物質を対立概念として峻別する。併しそこよりは生命の出で来った物質を考えることは出来ないとおもう。生命が出で来るには無限に他者に関り、他者を包み、関係と包摂に於て自己の形を現じてゆく、形なくしてはたらくものが考えられなければならないとおもう。そしてその本質は現われたものによって見てゆくべきものであるとおもう。現われたものは生命と物質である。現われたものが生命と物質であるとき、そこに自己を現わしたものは生命でもなく物質でもなく、物質が生命であり、生命が物質であるものでなければならない。自己自身を見る物質であり、物質を変革する生命である。私達の身体とは斯る意味をもったものであるとおもう。生命が物であり、物が生命であるところに身体があるとおもう。生命が物であり、物が生命であるとははたらくものである。はたらくことによって内に生命を見、外に物を見るのである。生命を内とし、外として見出されたのが宇宙であり、世界である。そこに宇宙や世界はこの身体が切り拓いて行った所以があるのである。そのことは赤身体は宇宙が自己自身を見るものとしてあるということである。私は三十億の細胞の言葉はそこより生れて来たのであるとおもう。宇宙は一つの動的なるものであり、動くものが一つのものであるとは秩序をもつものであり、秩序をもつものは一即多としてそれが自己の中に自己を映すのが文字であるとおもう。文字がこのわれの存在の根源であるとは、赤文字は形成としての宇宙の根源であるということである。われわれは文字の発現を生死に於てもつ、宇宙は生死に於て自己の運動をもつのである。そこに神の言葉に随うものは生き、背くものは死するという所以があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

表現の形

 生命は身体的にある。身体的にあるということは、生命は身体的に自己を形作ってきたということである。私は人間が見出す全ての形の基礎となるものはこの人間の身体であるとおもう。形作られたものが形作るのである。形作られたものが形作るものとして、私は形成作用の純なるものを求めるとき、生命の始源に遡らなければならないとおもう。

 生命の始源を考えるとき、私は細胞という微小物の不思議に驚異と畏敬の眼をもたざるを得ない。もとより私は細胞について多くを知るものではない。唯読んだ本に、生命の源始は単細胞であり、何かのきっかけでそれが結合して複雑なる生命を構成していったと書いてあったのを知るのみである。私が驚くのは、その結合とは如何なるものであったかと問うことに於てである。

 もしその結合が同質のものであったとすれば、その結合は量的に大となるのみであって何等飛躍的なはたらきをもつことは出来ないであろう。結合そのものが一つのはたらきであるとすれば、そこから結合というものは考えられないと思う。それが異質のものであれば、矢張りそこから結合ということが考えられないと共に、もし結合したとしても一体としての統一ある行動が出来ないとおもう。そこには死滅あるのみである。生命が自己維持の意志であるとすれば、異質なるものの結合は考えることが出来ないと思う。結合が成り得るには同質なるものが異質なるものでなければならない。同質が異質であるとは矛盾である。あり得ないものである。あり得ないものがあり得るには、細胞は自己の中に変化を含むものでなければならない。自性をもつことなくして、その場に於て形質を実現するものでなければならない。

 結合するとは生命がより大なるはたらきをもつことであり、細胞はそれを本能的に知るものをもつのであるとおもう。より大なるはたらきをもつとは機能的となることである。機能的となるとは、一つの目的を実現するために、異なったはたらきが構成的となることである。結合した細胞は、潜在する生命の形相の実現に向ってはたらくのであり、結合によって生命の形相を実現し得るものを、内在したが故に結合をもったのであるとおもう。私は原始的生命として、単細胞と単細胞が結合したということは、無限の生命形成の展望をもったということであるとおもう。

 動物の多くは五感をもつ、生命の始原に於て五感をもったものが無かったとすれば、五感は細胞が自己を変化さすことによって実現したと言わなければならない。細胞は視覚を構成することによって十里の遠くを望み、聴覚を構成することによって千の音の分別を持ち、その他千差万別の身体の機能を構成することによって、整正たる行動を実現すべきものをもっていたということが出来る。単細胞は結合によって、斯るものを実現し得るものをもっていたのである。単細胞が単細胞であるときは何等区別すべきものをもっていなかったであろう 結合したときは視覚の細胞聴覚の細胞として結合したのではないと思う。生命の行動的統一の中より自ら自己を変化させて行ったとおもう。

 私はかって蛙の胎児の形成期の記事を読んだことがある。何でも胎児の初期に形成中の視覚系細胞を壊すか取除くかしても、別の細胞が視覚系細胞を補足して、生れた蛙はちゃんと目があるという内容であったと記憶する。これから類推すると、原始動物に於ては細胞の一々が未だ完全に特化せずして、全生命の記憶をもつと思わざるを得ない。言い換えれば細胞はその結合に於て、生命の統一行動に従って自己を特化し、生命を形象化していったのである。その原初に於ては部分が全体であり、全体が部分だったのである。蛙に於ては未だ全体と部分が真に機能化していないと言い得ると思う。併し私はそこに細胞のもつ本来の相を見ることが出来るとおもう。一々が如何なるものへも変じ得るのである。一々が宇宙を宿すのである。

 生命の機能構成が高度化するに従って、細胞の本来の相は失われてゆく、鳥やけものは最早生体器官の転生をもたない。併し私はそれは単に失われたのではないと思う。敏速なる行動、鋭敏なる感覚器官に特化することによって、統一体の能力に転化したのであるとおもう。鳥の飛翔、けものの嗅覚等に転化することによって失われたのであると思う。失われるとは無くなることではなくして、本来のものが形となって現われたのであり、現われることによって、無限の可能性として本来自性なきものは、自己決定に於て可能性を失なうのである。犬や鳥は人間に比べて傷病の治癒ははやい、そのことは私は人間はより高度な身体構造をもつに所以するとおもう。細胞のもつ本来のものがより高度なる生命展開に転化したものであるとおもう。

 生命は内外相互転換的である。内を外とし、外を内とすることによって自己を形成してゆくのである。動物に於ては斯る相互転換が行動的である。外を食物的環境として、食物を得るために行動しなければならない。細胞結合としての身体は斯る内外相互転換に於て形を決定してゆくのである。行動するために種々の器官と、器官の統一が必要であり、行動を容易ならしめるために特有の形態が生れてくる。

 内外相互転換的に形作るとは、内は外に適応することであり、適応することによって外を制することである。魚は円錘形をなし、鳥は羽根をもつ、それは水や空に生きるものの必然の体型である。その魚や鳥も場所と食物によって形態が実にさまざまである。細胞は或は甲殻となり、或は鱗となり、或は粘膜をもつ皮膚となり、その撰択は驚くばかりである。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己が自己を知ることである。自己が自己を知るとは、自己の中に自己を見ることである。自己は如何にして自己を見得るのであるか、私は人間は製作的生命として、外に物を作ることによって自己を見るのであると思う。製作は技術的であり、技術は伝統的である。それが現在の欲求と衝突するところに製作があるのである。斯る製作の一方の極にこの我が見られ、一方の極に物が見られるのである。我々が通常自己というのはこの見られた我である。

 而して見られた我は真の我ではない。生命は無限に動的として、自己ははたらく自己でなければならない。製作する我でなければならない。製作とは技術的として、物と我がここに消え、ここに生れることである。物と我とがここに消え、ここに生れるところは世界形成としての社会である。真の我とは世界我としての社会にはたらく我である。かかる我として見出された物と我の形が表現である。ここに私は細胞の無自性、動的な具現性が個的統一体としての人間の身体に、物と我の絶対否定をとおして世界への無自性として転化しているのを見ることが出来るとおもう。

 表現に於て常に問われる内と外の問題も私はここに解決の端緒をもつとおもう。はたらくものは無にしてはたらくものであり、内外相互転換的に自己を形相化してゆくものである。内外相互転換的に形相化してゆくとは、一瞬一瞬の相互転換が蓄積され、構成されていくということである。蓄積され構成されていくということは、外が内となり、内が外となることである。見られたものが見るものとなることであり、作られたものが作るものとなることである。獲得された形質がはたらくものとなるのである。そこに無にしてはたらく所以があるのである。私達はよく美術館へ絵画の鑑賞に行く。絵画を鑑賞するとは秀れた形、美しい色彩を見ることによって我々の眼の内容とならしめることである。先人の描 いた作品が見るものの眼の内容となって次に作品を見るときに、見て来たものが我の眼としてはたらくのである。芸術作品を見ることによって受ける感動とは、その作品に表わされたものが自己の内容となり、はたらくものとなったということである。見られたものが我の目としてはたらくものとなり、個性をとおして社会で行なう自己の内外相互転換に世界を見るとき、その形相化への衝動が創作意欲である。

 内とは外に表れんとするものである。形相化せんとするものである。それは無なるものでなければならない。木村素衛はその著『美のかたち』に於て、「内の形のなさはそれ故このようにして形の単なる否定ではなく、却って形の欠如なのである。欠如とは在るべきものの窮乏である。それは従って形への可能性に外ならない」私はこの論理に多くの未熟なるものを思わざるを得ない。その一つは内が欠如態であるならば、外に表われたものは 完結態であるかということである。若し完形態であるならば作品の優劣は何によって決めるのであろうか。又の一つは欠如態としてあるものが表われるのは創作と言い得るかということである。創作とは線が線を呼び、色が色を分つものである。それは欠如の充足ではなくして一瞬一瞬が新たである。今一つは創作が創作を呼ぶということである。表わされた形が次の形を呼ぶのである。呼ぶということは内としてはたらくということである。内が欠如態であるならば、表わされた形は欠如としてあるということが出来る。そこからは作品の独立性ということを求めることが出来ないと思う。更に秀れた作品程見る者をして創作への意欲を駆り立てるものである。そうとすると秀れた作品程欠如する作品と言わなければならない。

 私は氏の言われることが全面的に間違っているというのではない。私は氏の斯る欠点は創作としての内と外を平面的に捉えられたところにあるとおもう。創造としての歴史的形成に求められなかったところにあると思う。我々の創作とは深く歴史的時の自己形成を背負うのである。歴史的時の一瞬として創作するのである。創作されたものが創作を呼ぶのである。創作されたものが創作を呼ぶとは、外が内となることである。それは無限の転換である。それは歴史的形成的である。間断なき動転である。

 創作を呼ぶ創作されたものとは、それは最早作者を離れたものである。世界の内容とし 世界の形相となったものである。無の自己限定として、歴史的必然の体系に入ったものである。それが内なるものであり、外に表われんとするものである。我々の表現衝動は世界の深奥より生れるのである。我々が表現せんとするのは、世界が我々を自己の内容として、我々によって自己を表わさんとするのである。内なるものとは、我々があるとは、世界の深奥を宿すことによってあるのであり、表現によって真なるものに触れ得る自覚的捕捉である。見られたものが見るものであり、作られたものが作るものである。見るものの方向、作るものの方向が内なるものである。それは内が外を含み、外が内を含むことによって無限に深まりゆくものである。そこに歴史的形成があるのである。内面への道は外を明らかにすることによってのみ至り得る道である。

 ロダンは道行く少女を指差しながら友人に「あそこに全フランスがある」と言ったとい う。内外相互転換として外を環境とする生命の形は環境の綜合である。単細胞の結合より持続して来た生命の営みは、身体は環境の密像であり、環境は身体の投影である。道元の為水為命であり、為空為命である。生命の動的空間として一つの生命圏である。我々の身体の形は、生命圏に生きるものとしての、行動的生命の形である。

 表現は斯る身体が身体を破って外に流れ出たものということが出来る。身体を破ったとははたらく生命としての身体が身体を超えてはたらくものとなったということである。一瞬一瞬が時を統一するものの内容となったということである。時を統一するものの内容となったとは、身体を超えた外としての物を身体としたということである。手の延長として道具を持ったということである。物を身体の延長として、道具をもつことによって、身体は内と外に分れたのである。前に書いた内と外は斯るものが自覚的に深化したのである。

 道具をもつということは物を製作することであり、製作するとは技術的となることであ 一瞬一瞬が時を統一するものの内容となるとは技術的となることである。技術とは一 瞬一瞬の内外相互転換が経験として蓄積されることである。我々の身体は限り無い内外相互転換によって形成されたものである。そのことは身体が機能的構成的ということであり技術的ということである。身体は大なる化学工場であると言われる如く、外を内とし、内を外とすることは測り得ざる機能をもつのである。それは六十兆と言われる細胞がはたらく技術集積である。道具をもつとは、斯る技術集積が身体より溢れ出たということである。身体より溢れ出たということは、物を身体に模するということである。製作物は先ず身体の形を模するのである。椀は掌を窪ました形であり、槌は握りこぶしの形である。鎌は握り獲る指の形であり、剣は腕を伸ばした形である。それは単に道具のみではなく、機械も亦道具よりの延長として、身体の延長の意味をもつものである。湯川博士は「物理学は視覚と関節覚の発展したものである」と言われた。コンピュータは脳を模すと言われる、共に溢れ出た身体である。身体を溢れ出るとは外としての世界を内とした身体が、身体を外として世界を見るということである。物を作るとは身体を外として世界を作るということである。そこに物の形があるのである。

 斯かるものとして私は表現の形に二つの方向があるとおもう。一つは内外相互転換としての一瞬一瞬の用に供する形の方向である。一つは一瞬一瞬を統一するものの内的矛盾としての死を克服する形の方向である。勿論これは二つのものではない。縄文土器の紋様は悪魔を調伏する呪術の意味をもっていると言われる。内外相互転換そのものが形成作用であり、時の統一なくして一瞬一瞬はない。併しそれは技術の発展と自覚の深化によりやがて相分れるものである。永遠の目より見る生死の方向に祭器となり、一瞬一瞬の用に供する方向に食器となったのである。

 私は芸術の形の根源には永遠の内容としての生死の矛盾のはたらきがあるとおもう。而してそれが初めと終りを結ぶ生命の自覚としての、人間の最も深奥を露にするものであると思う。

 前にも言った居く、生命の形は太初よりの無限の営為を蔵するものである。虎、羊、鷲、鳩、鮫、鮒等各々その形を異にする、形を異にするとはそれぞれの意志をもつということである。見るからに怖ろしいのがいる。寄って行って撫でてやりたいのがいる。それは生きて来た証跡であり、生きてゆく姿勢である。渾沌に生きた古代人にとって、形とははたらく力であり、産む力であったであろう。パスカルが葦よりも弱いといった人間が、その持てる知に於て見出したのが力としての形であったとおもう。暴風雨も獅子も宇宙の力の現れであり、病魔も亦神の怒りである。力に於て宇宙は総括されている。それを宥め、打勝つためにはより大なる力をもたなければならない。私は形としての表現衝動を断るものに求めたいとおもう。自己救済として形を見出したものであるとおもう。

 南方土人の作る怪奇なる彫像は、それが悪魔を追払うと信ぜられているという。亦面はそれを被るとき、その目、その牙、その角等の破壊力がその人に備わり、悪霊に打克つと信ぜられているのである。フランスに於て発見された先住人クロマニョンの洞窟画は、狩猟の対象の繁殖を祈って描かれたものであろうと言われる。亦鹿踊りや猿楽は、鹿や猿の生態を模倣することによって、稲作の被害を免れようとした行為であると言われる。その限りに於てそれ等の表現は未だ芸術の内容ではない。併しそれと同時に生産物は人々の意識に於て物ではなかった。水戸光圀が諸国漫遊の途次、農家に立寄って米俵に腰を下ろ たところ、老婆にお米様に腰を掛けたと言って撲られかけたという話がある。勿論これは史実ではないであろう。併し当時の人々の意識を表わしているとおもう。徳川時代に於てさえそうである。古代に於て米は神の姿であった。道具に於てもそうである。『子午線』 の十四号に、収穫の終ったコンバインを洗ってお米を供えるという歌があった。全部が渾然たる一体の行為であり、姿であったのである。我も亦渾然たるものの一内容であったのである。それが芸術的表現となったとは如何なることであろうか。

 私はそれは多くの人々が、永い時間に於て繰り返すうちにそれ自身の展開を発見したことであるとおもう。例えば鹿踊りや猿楽に於て、模倣することによって身体がそれに適合する撓やかさをもち、撓やかさがより細かな動きを持ち得るのである。身体は新たなリズムを持ち、新たなリズムは動作の展望を開くのである。模倣や稲作を守るということを離れて動作が動作を呼び、新たな動作のよろこびが生れてくるのである。純なる生命のよろこびとなるのである。それは絵画に於ても同じである。繁殖を祈った動物の形態が、線が線を呼び、色が色を分つのである。繁殖への願いを離れて形のもつ無限の深さに、視覚の発展のよろこびをもつのである。

 芸術は感覚の純なる発展である。後で作られたものはより高い構成の密度をもつ、併し それは後のものの為に前のものがあったということではない。作品は一々の時点に於ての生命の自己救済として見られたものである。無にして形成する、初めと終りを結ぶ永遠の生命の表現として、それ自身の完結をもつものである。無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達する。併しそれは過去の相を表さんとしたのでもなければ、未来を尋ねんとしたのでもない。自己の奥底に形の光を当てんとしたのである。斯る意味に於て芸術的表現は現在より現在へである。柿本人麿やミケルアンゼロは、我々の創作を呼びかけるものである。過去と現在を包む時に於て対話するものである。現在より現在へとは永遠の時間の自己限定という意味である。それは過ぎ去ると共に過ぎ去らないものであり、来ると共に来ないものである。芸術的価値が技巧の巧拙よりもふかく其の時代の心の把握に求められる所以であるとおもう。

 勿論時代の心というのは求めて求められるものではない。我々は其の中に生きるのである。時代の心を知って表現するのではない。生きるとは内外相互転換的であり、内外相互転換的とは危機としてあるということである。明日を知らない生命としてあるということである。而して無にして形作る生命としてそれは世界形成的である。世界形成的として歴史は常に危機としてあるのである。危機の克服として歴史は動いてゆくのである。我々が世界に生きるとは、好むと好まざるにかかわらず歴史的危機に触れているのである。形成とは矛盾の克服として現われるのである。時代を先取りしようとして表わす形は、浮薄な小主観にすぎない。世界として無数の人々の営為が歴史的危機に一つの動向を持ち、その動向の形象的直観に於て時代の心は表わされるのである。

 危機とはその内包する矛盾によって既成の秩序が壊されんとすることである。それは壊さんとするものが新しい秩序を打樹てようとすることである。古い形が否定されて新しい形が生れることである。新しい形は矛盾の救済として現われるのである。斯る意味に於て現れる形は常に矛盾を包む同一の意味をもつ。芸術的表現の形も斯る救済として形を表わすのである。それは製作物としての形を物を超えた世界の形として見るのである。世界が世界を表わしてゆくものとして見るのである。店頭に溢れる物の形を、世界が世界を表わしたものとして、そこに世界の歴史的現在の範型を見るのである。雑多の底に眼を潜めることによって、危機として動きゆく一つの形を見るのである。

 熱情なくして世界の如何なるものもあり得なかったという言葉がある。熱情とは生得的身体を表現的身体に転じることによってもつ情緒である。自己を捨ててゆくことによって見出される新たな生の相への活動である。作られたものから作るものへと転じることによって展ける、世界への心情の高揚である。世界の中に死んでゆくのである。製作的表現的に死すとは、自己を世界に化すということである。世界に化すということは物に化すということである。物に化すとは自己を世界に実現するということである。 世界に実現するということは、歴史的創造体系に入るということである。過去と未来より呼ばれ呼ぶものとなることである。そこに形が生れるということである。

 死して生れるとは、芸術的表現に於て如何なる形が現われるか知らないということであ る。勿論過去に呼ばれるとは既成の形があるということであり、その形の上に立つということである。そういう意味で形はあったということが出来る。併し表現の形は作者の個性を通ることによって製作されるのである。知らないというのはその個性が、歴史的現在の底に深く潜み、歴史的現在の顕れとして、線が線を呼び、色が色を呼ぶということである。過去の形をとうして歴史的現在が相をあらわすということである。それは作者を超えて世界が世界を表わすのであり、作者にとってそれは霊感的である。のみの一打、筆の一線は知らざる声に導かれるのである。そこに無にして形造る生命の形の究極があるのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

日本的形成と世界

 生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として摂取することによって身体を作り、身体の不用となったものを排出して外となすのである。斯る外としての食物を行動によって獲得するのが動物である。外を内にし、内を外にするものとして生命は全て機能的である。動物は行動的として、空間的に身体を超えた機能をもつのである。身体に運動能力をもち、外に行動圏をもつのである。断る行動圏が環境であり、そこに生命は自己を見てゆくのである。

 内外相互転換的として、外を転じて身体を作ってとは身体は環境を映すものとしてあるということである。身体が環境を映すとは、環境は身体的にあるということである。動物は行動的に生命を形成するものとして、身体が作られるということは、身体が環境を作ってゆくということである。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは内外相互転換が蓄積的となることである。蓄積とは一瞬一瞬の相互転換が結びつくことである。無限の生命の営為としての経験が現在の行為に於て結びつくことである。私達はそれを記憶にもつ、記憶は現在の行為を成立させると共に、現在の行為によって維持されるのである。一瞬一瞬の内外相互転換として経験の結合とは物が生れるということである。木の皮などの間に魚が入って動けなくなっているのを捕えたとすると、動けなくなった構造を模擬するのが経験の蓄積であり、その構造を更に発展さすのが形の成立であり、形の発展である。形とはわれわれの意識に於て物が成立したということである。物は営為の蓄積として、生命形成の内容として現われるのであり、次の形を生むべき必然をもつのである。それは一面に主体の形を表わすものとして、一面に環境の象を表わすものとして、綜合的具体の意味を有するものである。そこに人間が見られ、環境が見られるものとして世界の意味を有するのである。物の生産に於てわれわれは世界をもつのである。

 私は斯るものとして世界形成に二つの方向を見ることが出来るとおもう。一つは環境的 方向であり、一つは主体的方向である。環境は身体に転化さすことによって身体があるものとして死を距てて対するものである。死をもって迫ってくるものとして大なる力である。われわれの機能はそれを転化さすべく現れ来ったのである。環境的方向とは死をもって迫ってくる大なる力を機能によって転化すべく捕捉解明する方向である。機能によって捕捉解明するとは、身体に適応さすべく環境としての生の対象を変革することである。機能によって対象を変革するとは、機能と対象は相即するものであり、対象の中に深く入ってゆくことが、主体による対象の捕捉解明であり、それによって環境を作るというのが変革するということである。そこにわれわれが持つ絢爛たる物質文明があるのである。

 主体的方向とは機能と対象の相即を機能の方向に徹底させてゆく方向である、機能が見出した対象を生命の影とする方向である、機能は対象との相即として生死に於て生命が作り出したものである。そこから対象が見出されるということは、対象は生命に回帰すべきものである。対象の多様は生命の一に収斂さるべきものである。そこに対象の多は生命の一に克服されなければならない。欲求は対象の奴隷である、それを殺して世界を自分の内容として見るのである。私は禅家の現成の如き斯る方向に成立するのであるとおもう。

 私は対象的方向に成立する世界形成を知的、主体的方向に成立する世界形成を情的と言い得るとおもう。物質の発展は何処迄も分別してゆくことである。新しい特性の発見が知的創造である。その統一は法則的・公理的である。それに対して身体に自己を現わしてゆく生命は世界を一としてあらしめるものであるとおもう。身体は行動的に自己形成的である。行動は不可分的である、不可分的とは一であるということである。身体は多くの機能を有する。それは行動体として一なのである。斯る一としての身体の表出は情緒である。斯るものとしてわれわれの世界形成は対象的知的方向に拡散し、生命的情緒的方向に収斂することによって無限の発展をもつのである。

 斯かるものとして私は文化の形成に二つの方向があるとおもう。一つは対象的方向であり、一つは主体的方向である。一つは物の方向であり、一つは生命の方向である。そして方向を決定するものは、対象としての環境と主体の関り方にあるとおもう。それは地理的歴史的である。苛酷なる気象、温順なる気象はそれぞれの生命の形象を生み出し、海洋、山岳、異民族との交叉はさまざまの形象を生み出してゆくのである。四方を海に囲まれて他民族と隔絶し、豊富なる食糧資源によって完結せる生活圏をもったと言われる日本民族は独自の生命形成をもったとおもう。

 日本経済新聞に連載の徳川吉宗の小説に、狩場で特に目立った者に着ている羽織を与え、もらった者は直に着込んだということが書いてあった。有名な菅原道真の御賜の御衣も帝が着ておられたものであるというのを読んだことがある。そこには身に着けているものはその人の生命を宿し、それを持ったり着けたりすることは、その生命を共有する思想があったと言われている。芝居や角力興行に於て贔の者に羽織や入れを投げたり、死者の形見分けとして身に着けていたものを遺族がもらうのも共通するものであるとおもう。生命を宿すものとして我と汝がそれによってつながり、そこに同一を実現するのである。そこに於ては世界は生命としての身体の拡大としてあるのである。

 私は短歌を作るものであるが、短歌も亦基盤を等しくするものの上に立つとおもう。曽って何かの本で「万葉集の中の見ても見飽かぬという表現は、作者はそれを見ていても見飽きないということではなくして、それは自分の生命の姿に接しているのである」と言った意味のことを書いてあるのを読んだことがある。私はそこには景色は対象としてあるのではなくして自分の生命の展開としてあるのであるとおもう。私は現代の短歌創作に於ても斯る原理が根元的にはたらいているとおもう。以下現在の代表的作歌と言われる小中英之と高野公彦を数首宛取り上げてみたいとおもう。

 小中英之

射たれたる鳥 食みて身の闇にいかばかりなる脂のきらめくや

月射せばすすきみみづく薄光りほほえみのみとなりゆく世界

遠景をしぐれいくたび明暗の創の如くに水動きたり

花びらはくれなゐうすく咲き満ちてこずえの重さはかりがたしも

 高野 公彦

あかあかと天ののみどを下りゆく落暉に向ひつつしみどする

喪の列はさみしく長し橋に出てひとびとの耳夕日に並ぶ

なきがらのほとりに重きわがからだ置きどころなく歩くなりけり

わが生と幾つかの死のあはひにて

 私達はここに短歌の創作とは、対象を如何に身体に於て見、身体との同一を実現するかにあることを見ることが出来るとおもう。対象を身体に於て捉えるということは、身体を対象に拡大してゆくことである。世界をこの我の実現とすると共に、この我を世界の実現とすることである。そしてこの我と世界の展開を根底に身体を置き、身体の延長に於て見たところに日本的特殊があるとおもう。

 身体は情緒に於て自己を露わにする、他と関る身体は情緒に具現するのである。身体に具現するとは情によってつながるということである。対象を身体の延長とし見るということは情に於て包むということである。私は私達の人間関係の根底に断るものがはたらくとおもう。我と汝は相対するものである。相対するものは否定し合うものである、否定しあうことが関係的同一をもつものである。併し私達の祖先は徹底的な否定をもたなかったと おもう。敦盛に哀れを感じた熊谷直実の如きものがあったとおもう。対立よりも深く情の一なるものがあるのである。我の延長として汝があり、汝の延長として我があるのである。我の身体の延長、汝の身体の延長が重なるのである。私は日本の社会は斯るものの無尽の 重なりであったとおもう。日本の社会は世間として成立した。私は世間とは法律や制度によって成立したものではなく、情誼によって結ばれたものであるとおもう。それは「頼めば越後から米を搗きにくる」と言われ、「渡る世間に鬼はない」と言われ、「世間情がな きや成り立たぬ」と言われた世界であるとおもう。

 理知の世界は判断の世界であり、情の世界は共感の世界である。共感の世界は涙を等しくし、ほほえみを等しくするものとして身体に即する、それだけに日本人は大なる形相を 生まなかったとおもう。身体を養うは日々の営みである。私は日本の形はそこより生れたとおもう。よく日本文化の形を言われるときに、生花・茶湯・盆栽が挙げられる。何れもその形の出現には海外渡来の理念がはたらいているとおもう。併しそれは日本的なものを渡来の理念によって洗練したものとして、日本の形と言ってよいとおもう。生花は体・用・相として、天・地・人を表わすと言われている。天・地・人は恐らく中国の概念であろう。そうとすると生花は草木に見出した宇宙の表象である。併し活けている人は果して花の形に宇宙を感得しているのであろうか。私は逆に形に花の命を感じているようにおもう。花の命を見、この我の命を見ているようにおもう。壮大なる形而上的形象を見ているのではなくして、花との一体感を楽しんでいるようにおもう。茶は私達の生活で最も一般化されているものの一つである。日常のことを喫茶喫飯という、その内茶は腹に軽いだけに飯よりも更に一般的である。よく人が来ると「お茶でも飲んでゆけ」と言う、茶湯とは斯るものに内面的なるものを見出した形であるとおもう。よく茶禅一味といわれる。併し禅が何処も我の底に徹して宇宙との結合を体験せんとするのに対して、茶湯は主客の動作である。主は客に応じ、客は主に応じる。そこに所作としての形を生み、世界を作ってゆくものである。その所作の内容が和敬静寂である。私はそこに日本的なものの表れを見ることが出来るとおもう。和敬は主客の内容であり、静寂は世界の内容である。敬は互が生命が延長としての世界をもつことを認めることであり、和はそれが一つの世界を実現することである。私はそのようなものを情としての身体の延長が重なり合うというのである。静寂そこから生れるのである。静寂とは音がなくなったことではない、対立するものが大きな形に包まれたということである。私は茶湯が禅につながるのはそこにあるとおもう。私は茶湯の如き身体によって見出して行った世界の典型であるとおもう。盆栽について私は 殆んど知るところがない。併しあの小さな盆景の中に古木の相を見るのだと言って、端然たる姿を作り出しているのは、時の壮厳としての老いのあるべき姿を写しているようにおもう。

 身体の延長として外をもったということは製作としての形をもたなかったことであるとおもう。製作としての形が成り立つためには外としての環境よりの否定がなければならない。否定を肯定に転ずるのが製作である、死として迫ってくる環境を生に変革するのが製作である。そこより形が生れるのである。勿論環境に生きることは環境と闘うことである。唯それが受動的であったのである。単一民族であり、豊葦原瑞穂の国と言われた環境に於て、それは闘争的よりもより多く親縁的であったのである。寒暑や飢餓もその時を過せば快適な恵みを与えてくれたのである。受動的とは身体を維持してゆく最小限の変革ということである。自然の恵みを享受するのは身体である。親縁的とは身体と環境が和合することである。ここに身体の延長として形を見出してゆく日本民族の基盤があったとおもう。

 斯るものとして祖先が見出した形は身体に即するものであったとおもう。身体に即するものとして歌唱や舞踊であったとおもう。今に残る田植唄や酒造りの唄、船頭の唄は働きが唄と共にあったことを物語るものである。私達の小さい頃伊勢参りの下向というのを見たことがある。私達が迎えに行ったのは浄谷の浄土寺の八幡神社の境内であった。そこで一旦落着きの飲食をして、それから四軒程の帰路を酒を飲み、大声に唄い踊り乍ら帰るのであった。私はその陶酔が神との一体感であったのであろうとおもう。身体は情緒に自己を露わにする、唄や踊りは情緒の自ずからな表れである。環境と身体の和合離反のそのままの現れである。そして身体としてのそのあり方は韻律的である。私はそれ等が今もわれわれの生命形成の底にはたらいているとおもう。情的・リズム的なるものが形成の根元と してあるとおもう。

 日本の文化を縮みの文化と言って一時よく語られていた。縮みとは小さく表わされているということらしい、私はそこにも身体を媒介とした形があるとおもう。理性によって把握された世界概念に対して、身体の及ぶ範囲は狭い、人間関係に於ても生れ来った結合の延長となって来たようにおもう。親分子分兄貴分弟分親方弟子と言った名称はそれを端的に現わしているようにおもう。それは他者を容れ得ないものである。私はそこからは真に世界への展開をもち得ないとおもう。縮みというとき盆栽などが典型として語られていた。併し私は天地を縮めて見ようとした気持があったと思うことは出来ない。手に触れて作ることによって生命の姿を感じようとしたのであるとおもう。居住空間としての家も私達の祖先にとって宇宙を現わすべきものであったようにおもう。飲食・起臥・糞便の用の室の外に、奥の間を設けて神仏を祀り貴賓の用に供し、庭園を作って天地を配したのはそこに存在の一つの完結の空間をもったということである。私はそこに身体に捉えた日本の形があるようにおもう。併しそのことは世界を世界、宇宙を宇宙の拡がりに於て見ること が出来なかったということである。

 日本人は摸倣に巧であると言われている。模倣に巧であるとは独創を持たないということである。私はそこに日本的創造があるとおもう。模倣が創造であるとはおかしいが、日本人が形に自己を見てゆくということである。身体は生れ来ったものとして、それにつながるものは所与としての自然である。そこからは自己を見る形というのは生れて来ない。私は日本人が製作としてもつ形は農耕をも含めて殆んどが渡来したものではないかとおもう。文物に驚異し崇拝して受入れたのではないかとおもう。それでは模倣が巧であるとは何ということなのであろうか。物の製作は道具を媒介とする。道具は手の延長といわれる。手は身体の一部として道具は身体の延長である。私は斯る意味に於て渡来文化も日本的形成もその根元を等しくするとおもう。唯その方向が対立するものとしての外の方に向うものと、包み合うものとしての内の方に向う差違があったのであるとおもう。身体は生命であると共に物質である。内外相互転換的に形成的であるとは、対立的で一であるということである。外食物として摂取するものとして内外は対立するのであり、それによって身体が作られるとして内外は一である。動物は行動することによって食物を獲得するもして対立が顕著である、対立が顕著であるものとして一も顕著である。私は斯る対立の方向に物が見られ、一の方向に生命が見られるのであるとおもう。対立の方向に於ては身体も物であり、一の方向に於ては食物も生命である。対立の方向に於て身体の延長は物としての道具となるのであり、一の方向に於て身体の延長は衣食も生命となるのである。私は西洋はその形成に於て外への方向を持ち、東洋は内への方向をもったとおもう。そして日本はその内への方向の純なものであったとおもう。而して対立するものは一をあらしめんが為に対立するのである。食物を獲るのは身体をあらしめんが為である。西洋文物の絢爛たるは、絢爛たるが故に尊いのではない、より深大なるよろこびかなしみを見せてくれるが故に尊いのである。私は内的なるものとして心情の方向に身体を見出して行った祖先は豊かな情緒の陰影を持ったとおもう。彩り豊かな四季の移りの中に鋭敏な調和の感覚をもったとおもう。奈良時代に仏教儒教等の高度なる文化を受入れた日本にはそれだけの素地がなければならなかったと言われる。私は身体的方向に重ね合う情として一つの世界形成をもっていたとおもう。それは物としての世界形成の方向を極小にした。併しそれは世界形成として軌を一にするものであるとおもう。而してそこには形の至り着くべきものがあるとおもう。私は前に対立の方向に物が見られ、 の方向に生命が見られるといった。物が形として実現するということは相対するものが一となったということである。それは生命の実現の意味を有するものである。その意味に於て如何なる形も芸術性をもつのである。私はわれわれの祖先が外来文化を受入れたとき斯る日本的形成の素地に於て受入れたのであるとおもう。それは物に生命を映す方向である。何処迄も分析と抽象を求める方向ではない、感覚の快適に於て身体との結合を求める方向である。直観の方向である。一刀三拝して形相の降臨を祈った残影を曳くのである。模倣が上手いとは単に伝来物と同じ物を作ることではないとおもう。更にそれを発展させ、物の出で来った本来の指向するものを完成させんとすることであるとおもう。それは新たな形に見出すことに於て二次的創造というべきものであるとおもう。ゲーテの創作を受胎的創造と呼んだ人があったが、私は日本のあり方をそこに見たいとおもう。自覚的製作的といっても生命が内外相互転換的であることを失なったのではない。内外相互転換的に自覚的なのである。製作は内外相互転換の行為的現前である。生命を身体的形成として、物に身体を映し、身体に物を映すところに新しい形が生れるのである。物は身体ではない、身体は物ではない。それが物に身体を映し、身体に物を映すということは、身体は物に消えることによって現われ、物は身体に消えることによって現われるということがなければならない。絶対否定を媒介するものとしてそれは直観的である。直観とはこの我が見るということが、この我と物を包んだものが自己を見るということである。この我が世界の内容として、世界が世界を見ることがこの我が見るということである。そこにわれわれは物となることが出来るのである。物を作るという行為をもつことが出来るのである。身体としてのこの我が物となり、物がこの我となるということは、物はこの我の身体に転ずることによって真の相をもつということである。この我の身体を媒介とすることによってより大なる形を実現し得るということである。私はそこに日本の模倣があったとおもう。日本人は繊細なる感覚に於て物の姿を見出して行ったのである。その行住坐臥に於てより相応する形を見出していったのである。

 私達は今や好むと好まざるとに関わらず世界に面している。世界に面しているとは世界歴史の中にあるということである。世界形成的にあるということである。日本の模倣は成 熟し切ったとおもう。成熟し切ったとは最早摸倣によっては展開をもち得ないことである。模倣の底から新しい形を見出さなければならないとおもう。外を転じて内とするということは、そこより形が生れ、形が来るものとして外は無限なるものである。それに対して身体は生れ来ったものとして形作られたものである。身体の延長として形を見るということは、身体に同化させることである。それは既にある形より脱け出せないということである。日本文化の因循姑息性はそこにあったということが出来る。それを打ち砕いたのは明治以来の西洋文物の輸入である。日本はそこに一応の世界性をもった。日本は飛躍的な国力の充実をもち、豊かな展望をもった。併しそれは西洋的なるものの追随の上に打建てたものであった。それは世界の近代を作ったのが西洋文物であるとして仕方のないことであった。西洋の模倣なくして近代の建設はあり得なかったからである。私は今転換点に立っているとおもう。一つは日本は近代化を完成したということであり、模倣によっては将来の展望をもてなくなっているということである。一つは西洋主導の歴史が行き詰っているということである。そして私は前者が後者に収斂されるものであるとおもう。西洋的なるものに随順するものが、西洋的なるものが行詰るときに共に行き詰るのは当然である。

 前にも書いた如く西洋文化は物として対象的方向に発展した。物は何処迄も相対的である、対立するものとして形をもつのである。対立するものは相互否定的である。物が対立するとは物を製作するものが対立することである。内外相互転換的として、外が死として迫ってくるとき、死を生に転ずるのが製作であり、物の出現である。物は死を生に転ずるものとして力である。製作するものは自己の生存をその力によって獲得するのである。物は外を内に転ずる努力によって出現するのである。断る努力は自己に世界を見、世界を実現しようとする意志より出で来るのである。自己に世界を実現しようとする意志は、自己が世界たらんとする意志である。生命は一つ一つが世界を映すところにあるのである。それが相対的方向に自己を見るとき、対立するものを否定して自己が世界たらんとするのである。私は物質に世界を見出した西洋が帝国主義に至り着かねばならなかった必然はここにあるとおもう。それを打破ったのは第二次世界大戦であった。二次大戦は帝国主義の先頭に立つものと遅れたものとの戦いであった。遅れたものは全体主義の名の下に、力の結集に於て立上った。併しそれは表面上のことであって、その裏には生産手段が帝国主義的対立を超えた世界を要請するべく発展していたのである。その世界性が各民族の自立への自覚を促していたのである。大戦は斯る矛盾に於て世界エネルギーが爆発したのである。この頃よく今次大戦に於ける日本の侵略と謝罪ということが新聞に載る。それは恐らく対戦国の政治運営の技術に関るのであろう。併しそのような目で見ることは正しい歴史認識 を誤るものであるとおもう。誤るとは未来への世界史的展望をもち得ないということである。世界は世界エネルギーの消長に於て捉えらるべきである。その消長に於て日本は如何なる位置を占めてゐたかが問われるべきである。私は謝罪しなくてもよいというのではない。お互いを巻き込んだ大なる流れがあると言うのである。そしてそれは向後もわれ等を押し流すであろうというのである。それは常に危機と救済に於て形より形へと転じてゆくのである。

 物の生産が世界性を要請するということは世界は運命的に一となったということである。私達はロンドンで今起っている事件を知ることが出来る。イギリスの服を着、イタリヤの靴をはく。地球の温暖化、砂漠化の防止を集って協議する。国家間の紛争を国連によって調停する等は、物の生産が一国の内容としての富国強兵を超えて人類の内容となったということである。ここに帝国主義の崩壊という歴史的必然があったということが出来るとおもう。世界は最早力の対立と均衡によって維持すべき世界ではなくなったのである。私は現在の矛盾は物の斯る世界性へ要求に対して主体としての人間の対応態勢のおくれにあるとおもう。われわれ人間は無限の過去を背負うことによって現在があるものである。過去の努力を財として現在の生活を営むものである。われわれの思考は斯る生活より生れるのである。そこに社会意識、ひいては社会態勢の遅れるべき理由がある。領土・民族・宗教等に絡まる紛争の多発は、物の生産の発展による世界自覚の要請に対して依然たる帝国主義的意識の矛盾の修正であるとおもう。地域的エゴが修正を迫られているのであるとおもう。勿論問題はこれに要約するには余りにも複雑であろう。併し世界の形成エネルギーは矛盾を自己を転ずる力として新しい形を生んでゆくのである。

 対立が否定されたとは、世界は新しい一の主体として実現するべく要請されたということである。世界は多くの主体の対立する世界ではなくして完結するものとなったということである。主体が対立する世界とは、民族とが国家とかが外との相互転換に於て自己の中に自己を見てゆく世界であったということである。発展を民族とか国家に置く世界であったということである。完結するものになったとは、それが地球的規模に於て為されなければならなくなったということである。民族や国家は狭溢なるものとして発展の障害となってきたということである。滔々たる国際化という言葉の氾濫は斯る流れを表わすものであるとおもう。内外相互転換として斯る物としての外の変化は、内としての主体の変化を求めるものである。民族的感覚・国家的思考を超えた世界人が要請されるのである。それは新しいタイプの創造である。私は現代の若人が落ち入っていると言われる虚無感・無力感・白けムードと言われるものも、世界の流れを把握し切れない主体の乖離にあるのではないかとおもう。私は斯る新しい人間像・世界観の形成に日本的なるものが要請される余地があるのではないかとおもう。

 私は前に日本は海を距てた島国として一つの完結せる生命体をもったと言った。そこに世界が地球的に一つの完結的営為を持たねばならないときに、日本的形態がモデルとして考慮さるべきではないかとおもうのである。それは生命形成として我と汝が重なり合うということである。重なり合うとは我が汝を包み、汝が我を包むことである。私はそこに新しい世界が見出されるのではないかとおもう。勿論私は日本が近代に於て克服した祖形を復活せよというのではない。見直すとは現在の矛盾を包むものとしてである。対立が否定されるとは、対立によって現在の形が作り出されたということである。その形の発展の内面的必然によって対立を超えようとするのである。見出すとは対立の成立する根底としてである。対立したものが一としてあるものとしてである。

 地球は地理的に無限の多様をもつ、そのことは地球上に住むものは各々異なる環境をもつということである。環境を映し、環境に映される生命形成は異質なるものをもつということである。そのことは地球は多様なる生命の形を生んだということであり、異質なるものの綜合として人類はあるということである。生命は環境と主体の相互限定として、映し映されることによって形をもつ、形は主体に対象を映し、対象に主体を映すことによって見られたものとして、主体と対象の相互限定を要求し、その内面的発展に於て自己を見るものである。そこに自己の相があるということは自己の内面的発展にあらざるものは理解出来ないということである。異質なるものは相互に懸絶し合うということである。環境と主体が内面的発展として、努力して築いたものに世界を見るとき、それが唯一の世界として全地球上に敷延し、実現せんとするのは意志の必然である。懸絶に於て否定し合うことは闘争である。懸絶するものは対手を仆すことに自己を拡大し発展させてゆくのである。人類が地球的に一になるとは斯るものを超克することでなければならない。私はその為に対立する形を超えて、形の根底に還らなければならないとおもう。形の根底に還るとは形を成り立たしめるものに還るということである。形を成り立たしめているものは内面的必然である。内面的必然に於て相互の接点を見るのである。お互が内面的発展に於て形を見出したものとして人類の同一を見るのである。私はそこに日本の重なり合いが見直されなければならないものを見るのである。勿論それは素朴なものであり、歴史的陶冶を経ていないものである。併しそのことは逆に還るべき原点であるとも言い得るとおもう。重なり合うとは如何なることであるか、私はそこに言われる出合いの如きものを見ることが出来るとおもう。我と汝があって出会うというのは日本的な出合いではない、重なり合いではない、我と汝がそこから見られるのである。出合いは事であり、事の内容として我と汝が あるのである。我の延長として汝を包み、汝の延長として我が包まれるとは事としてあるということである。我と汝を超えたものも動的として我と汝を見るということである。我と汝がつながり、動くところに我と汝があるのである。そこに頼まれば越後から米搗きに来るというのがあるのであり、茶の湯に主が客の心になり、客が主の心になるというのがあるのである。対立が調和としての生命形成がその完結性に於て対立が極小となり、調和が露わとなったのである。併しそれがそのまま世界に通用しないのは言う迄もなく、日本に於ても明治以降克服し来ったものとして、そこに還り得ないのは言う迄もない。

 世界が一つとなるとは一つの主体となることであり、環境が一つの環境としてそこに世界形成の内面的発展をもつことである。それが曽っての帝国主義的膨張の時代にあっては一つの特殊としての国家が他を征服し、従属せしめることによって実現せんとしたのであった。併しそれは真の世界の実現ではなかった。一つの特殊の拡大であった。覇道であり、覇権として他を失わしめるものであった。そこに帝国主義は世界の発展の実現であると共に発展の中に解消してゆかなければならない所以があったのである。世界が一つとして要請されるのは全人類の力の実現である。力の実現とは内在する力の遺憾なき発揮である。内在する力とは各民族が環境と主体の相互限定に於て内面的発展に努めた力であり、実現した形の中に蓄積し来った力である。世界理念は民族が各々の主体と環境の相互転換に於て実現し来った理念としての形相のより大なる発展を自己の理念とするのである。私は斯る世界形成の方向に於て日本の重なるというあり方が世界論理の基礎となり得るのではないかとおもうのである。重なり合うとは並存とか共存とかいうものではない、包み合うものである。我の延長として汝を見、汝の延長として我を見るとは、汝との出合いによって我は汝を摂取した新たな形をもち、汝は我を摂取した新たな形をもつことである。そのことは世界が新たな形をもったということである。

 歴史は常に危機とその克服と歴史である。世界が一つになったとは危機と克服を世界が担うということである。一部族の紛争も砂漠の拡大も、水の汚染も、酸性雨も世界の危機として世界が克服せんとすることである。そのために世界の学識者の必要なるは言う迄もない。併し更に必要なのは当面する人々の更なる努力であるとおもう。その地域に生きる人の身体は主体が環境を映し、環境が主体を映したものとして地域の綜合の意味をもつものである、時間・空間の相を宿すものである、身体はその環境よりの否定に耐えて生を維持してきたものである、それは独り人間のみではなく、草木禽獣全て生きるもののもった営みである。技術は身体の延長である。私は各地域の人がその環境との照応に於て更に深く近代科学を身につけるとき、技術は新たな展望をもち、地球は生々たる姿をもつのであるとおもう。包み合うとは各々の地域が環境と主体の内面的発展をもち、それが人類の危機に於て結合するということである。危機が地球的に捉えねばならなくなった現在に於てその結合が要請されるということである。私は断るものとしてこれからの世界形成は、その主体的方向に異質なるものとして理解を拒んできた特殊としての内面的発展を、内面的発展の普遍性に於て理解し合い、特殊理念を世界理念の一環として、新たな世界理念を作らなければならないとおもう。理念とは主体に環境を映し、環境に主体を映すことによって見出してきた形である。それは我と環境がそこにあるものとして世界である。全ての生命の声はそこから聞えるものである。全てがそこから出ずるものとして、全てに光被せ んとするものである。日本が曽って世界に進出せんとしたとき、八紘一宇の皇道理念をも って世界を光被せんとした、中国も自国を中華として四囲を未開視し礼楽の理念を宣布せんとした、近代に於ては西洋の科学の理念が世界理念であった、斯る理念が地域理念として否定されたのである。それは理念の世界性が地域性を遍狭として打破ったのである。世界の発展は地域を世界とすることを拒否したのである。併し世界は何処迄も主体が環境を映し、環境が主体を映すものとしてあるのである。そのことは新たな世界理念は地域の世界理念の上に打樹てられなければならないということである。地域の世界理念より新たなる世界理念へとは、理念ははたらくものとして自己を深化させたということである。私は日本の包み包まれるものに異質なるものを結合さすものがあるとおもうのである。

長谷川利春「自覚的形成」

形成作用

 生命の形とは何か、生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外として生命はあるのである。動物に於ては食物を摂り、酸素を吸い、老廃物を排泄する。外を内とし、内を外とすることは変化せしめることである。変化せしめるには変化せしめるはたらきがなければならない。はたらきをあらしめるには身体は機構的でなければならない。我々の有する臓器は精密なる化学工場であると言われる如く、機構的なることによって外なるものを内とすることが出来るのである。私は生命の形とはより早く、より確かに、より強く内外相互転換を行う。機構を作ってゆく生命の相であるとおもう。我々は一瞬一瞬内外相互転換的に生きるものとして、無限に生命形成的であり、形相形成の過程である。而してそれは終局なき過程である。斯る形成作用としての生命は如何なるものであろうか。

 内外相互転換は一瞬一瞬である。 この文字を書いている今も、胃は空腹に向って絶えざるはたらきをもっているのである。呼吸を止めれば数分にして死に至るのである。而して斯る一瞬一瞬の内外相互転換によって作られたものとして、内外相互転換を行う機構は一瞬一瞬をあらしめるものとして、一瞬一瞬を超えたものでなければならない。

 一瞬一瞬に形はない、それは何処より来り何処に去りゆくかを知らないものである。 に超越的なるものにも形はない。形は空間的、時間的制約をもたなければならない。瞬間的なるものが永遠なるもの、永遠なるものが瞬間的なるものにして、初めて形作るものとなるのである。瞬間的なるものは永遠なるものではない。永遠なるものは瞬間的なるものではない。それは何処迄も相反するものである。はたらくとはこの相反するものが直に一つということである。そこに瞬間的なるものと永遠なるものがあるのではない。はたらきの両方向に瞬間的なるものと、永遠なるものが見られるのである。内外相互転換とは斯る相反するものの一として、何処迄も自己を維持しはたら いてゆくのである。行為することによって形作るとは、斯く矛盾するものが一なるものであることによってのみよく能うことが出来るのである。

 相反するものとは何処迄も結びつかないものである。それが結びつくには媒介者がなければならない。直に一であるとは斯る媒介がはたらくものの自己媒介であるということである。自己媒介とは両方向が相互に媒介的であるということである。永遠なるものが瞬間的なるものを媒介し、瞬間的なるものは永遠なるものを媒介することである。永遠なるものは瞬間的なるものに自己を写すことによって、自己の形を実現し、瞬間的なるものは永 遠なるものに自己を写すことによって自己の形を実現することである。そこに直に一なるものがあるのである。生命が形作るとは斯る直に一なるものの純なる持続である。純なる持続とは、相反する方向に永遠なるものと、瞬間的なるものをもつものがはたらくという ことである。

 直に一なるものとして、相反する方向を相互媒介的に自己自身を限定するものは無にしてはたらくものである。永遠なるものが瞬間的なるものによって自己を露はとすることは、自己を否定して瞬間的となることである。瞬間的なるものが、永遠なるものに写して自己を見るとは、瞬間的なるものを否定して永遠の形相をもつことである。而して否定することが肯定することである。永遠なるものが瞬間的なるものとなることによって自己を露はにするとは、瞬間的なるものになることによって自己を見るということである。瞬間的なるものが永遠なるものに写し自己を見るとは、瞬間的なるものは永遠なるものによってあるのであり、自己の根源に還ることである。永遠なるものを求めるとき、何処にも永遠なるものはない、唯空を摑むのみである。瞬間的なるものに実在を求めるとき、それは唯現れて消える虚幻にすぎない。それが実在として形相をもつのは、相互媒介としての無限の動転に於てである。自覚的生命としての人間に於ては、それは制作的行為に於てである。何処迄も相反するものの中に消えゆくことによって、自己を実現してゆくものとして自性なきもの、無にしてはたらくものとしてものの形はあるのである。

 無にしてはたらくとは無いものがはたらくということではない。相反するものの中に己を見るということである。自己を消すことによって自己を見るということである。内外 相互転換としての自覚的製作的生命に於ては、外が作られたもの見られたものとなり、内ははたらくものとなる。作られたもの見られたものは、はたらくものの中に消えることによって、新たなものに生れるのである。はたらくものは、作られたものはたらくものの中に消えることによって、より大なるはたらく力を得るのである。外は内外相互転換の外として、より大なる内を孕む愈々明らかな形となるのである。

 外が内になるとは見られたものが見るものとなることであり、作られたものが作るもの となることである。それは形の持続、形の発展の世界である。内外相互転換としての内は無限の欲求としてあり、無限の欲求によって形作られる外は、その一々に於て完結しつゝ未完の形である。見られたものが見るものとなるとは、池大雅の画を見ることによって、大雅の目が、私達が物を見るときにはたらくということである。作られたものが作るものとなるとは、作られた二条離宮が家を建てるときに、その様子が構想の中に入ってくるということである。個物より個物へと転じつゝより複雑なる内容をもつ、より高度な形を作ってゆくのである。一つの形がより複雑なものを内包するということは、より機能的ということであり、内外相互転換としての形の進化ということである。

 見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなるとは、歴史的ということであり、形は内面的必然をもつということである。内面的必然をもつとは、形はそれ自 身が展開をもつということである。形が斯く内面的必然をもつということは、相互転換と しての内と外は、変じつつ変ぜざるものでなければならない。内に変化をもちつゝ 変化を統一するものでなければならない。それは時に於て変化を周期的にもちつゝ 周期を内にもつものとして不変なるものでなければならない。周期的とは繰り返すものであるということである。はたらくものも個性として一人一人異なりつゝ、ホモサピエスとしての同一をもつものでなければならない。変化の根底に同一があることによって形が生れ、変化と個性によって無限の進歩発展をもつことが出来るのである。堂々めぐりであることによって無限の多様をもつことが出来るのである。

 形の根底に同一があるとは、形は決定せられたものとしてあるということである。斉藤 茂吉という個性と、彼が学んで来た言葉、そして北上川の白浪を見たということの中に、詠わるべき内容はすでに決定していたということが出来る。茂吉は唯決定していたものを取出しただけだということが出来る。併し松尾鹿次さんによれば、茂吉は畔にうづくまって半日頭を抱えていたという。そこに可能性と現実性があるのである。可能性は如何に豊富な内容をもつとも次の形を呼ぶものとなることは出来ない。事実として実現したもののみが次の形を呼ぶことが出来るのである。彼の呻吟は過去が其処に没して、新たな現在が生れる陣痛だったのである。創造は回帰であり、回帰は創造である。根底としての同一が無限の個性を宿し、新たな個性に呼びかけるところに創造はあるのである。形成とは創造である。

 同一が個を宿し、新たな個に呼びかけるということは個が個を呼ぶということである。 個が個を呼ぶということが、同一がはたらくということである。斯るものとして個を呼ぶ 個は、創造としての世界を逆に内にもつものでなければならない。同一として無辺の空間と、無限の時間を内にもつものでなければならない。無辺の空間と無限の時間を内にもつものにして、はたらくものとして個が個を呼ぶことが出来るのである。製作的生命として個は製作するものである。製作するとは無限の過去と未来が現在に消えて生れることである。即ち個が世界を包むことなくして製作はあり得ないのであり、個が製作するとは世界を内に包むことである。製作に於てあるものは事実となり、個は製作に於て呼び交すものとなり、同一を実現するものとなることが出来るのである。勿論無辺の空間と無限の時間を内にもつということは、無辺の空間と無限の時間が身体にあらわれるということではない。製作とは無辺の空間と無限の時間が現在としてはたらくということである。それは個物を含んだものである。世界が個物を内にもつということが、個物が世界を内にもつことであり、個物が世界を内にもつということが、世界が個物を内にもつことであるところに製作があるのである。

 見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなる世界は初めなく終りな き無限の形成的世界である。而して見られたものが見るものとなるということは、初めがはたらくということでなければならない。初めが終りをもつということでなければならな い。それと共に見られたものが見るものとなることは、見られたものは一つの形を維持することではない。見るものとなるとは新しい形が生れることでなければならない。そこに は新しい形が見られたものを限定する意味がなければならない。未来が過去を作るという意味がなければならない。初めが終りをもつということは、終りが初めをもつということである。我々は初めと終りを結ぶものをもつものとして製作することが出来るのである。初めなく終りなきものは、初めと終りを結ぶものの自己限定としてあるのである。初めと終りを結ぶものは、自己の中に初めなく終りなきものをもつことによって、初めと終りを結ぶものとなるのである。

 製作とは新たな物を作ることである。それは無限の技術の蓄積の上に立つのである。技術の蓄積の上に立つとは、過去がここに消えて新たなものが生れることである。それは時がここに死んで新たな時が生れることである。それが現在である。内外相互転換として、人と物が否定的に転換することが物を作ることであり、現在として生きているということである。斯る製作が初めと終りを結ぶものをその根底にもつとは、現在の奥底は初めと終りを結ぶものであるといわなければならない。製作は永遠の今がはたらくといわなければならない。

 私達はここに絶対の矛盾の前に立つのである。永遠なるものは動かないもの、はたらかないものでなければならない。動くもの、はたらくものは変じゆくものとして永遠なるものではない。而して現在は転換として、製作として、無限に動きゆくものである。初めと 終りを結ぶものは、作りも作られもしないものでなければならない。而して初めと終りがあるということはその中間に無限の過程があることでなければならない。

 自己の形相を尋ねるとき、我々の推論はそこに至りつく、併しての矛盾は推論によって突破することの出来ない鉄壁である。全て相対的なるものは此処にあり、思考は此処より生れる。而して相対を絶し、思考の達すべからざるところである。それは相対は斯るものの形相であり、思考は斯るものの秩序であると言わざるを得ないものである。

 斯るものとして私は、生命は無にしてはたらき、無にして成就するものであると思う。 無にして成就するとは消すことによって実現してゆくことである。形成して来た全空間と 全時間は、内外相互転換としての今の一事にあるということである。このことを言い換えれば、我々の一瞬一瞬の行履は、全人類の生命がはたらいているということである。果てなきもの、底なきものにつながることによってあるということである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

呪いについて

 塚本国雄は曽って「斎藤茂吉の歌には呪力があると書いていた。また何時、誰が言ったのか忘れたが「柿本人麿の歌には呪がある」と書かれいるのを読んだことがあり、「源実朝の歌には呪がある」というのも読んだことがある。今日本棚から昭和五十年代の歌誌『短歌』を引っ張り出して開いたところに、山本健吉、岡野弘彦、前登志夫の鼎談の如きがあ り、冒頭に、

前「吉野万葉の根源というのは、呪なんですね。近代というのは、歌の根源に呪があるということを忘れているんですよ。呪だと、僕は思いますね、言問・聖なるもの。

山本「マジックね。

前 「バシュラールがそれを言ってるんですよ。」

山本「それは折口先生が言ってますよ。歌の根源は呪歌だということはね。」

前 「それはもう、折口説の一番根源ですね。」

山本「呪力というのは魔なんですよ。」

前 「ヨーロッパの偉い奴というのは、リルケにしても、ヘルダーリンにしても、全部東方のある根源みたいなものに触れていますね。」

―五行省略 –

山本「私の言っているのは魂論だもの。魂論をやらなくちゃ、死ねないわけだ。以下略。大歌人の創作の根底に呪力があり、作歌の根源に呪があるといわれる。呪とは一体如何なるものであろうか。

 広辞苑には、1.のろうこと。「一咀」 2.まじない。 「一文」 「-術」「巫ー」 3.[仏] 陀羅尼。真言。神呪。 と書いてある。更に陀羅尼の項には、だらに(陀羅尼)(梵語、総持、能持と漢訳。よく善法を持して散せず、悪法をさえぎる力の意) 梵文の呪文を翻訳しないで、そのまま読誦するもの。一字一句に無辺の意味を蔵し、これを誦すればもろもろの障害を除いて種々の功徳を受けるといわれる。私は以上から推して山本健吉氏の「呪力というのは魔なんですよ」と一概に言われないようにおもう。成程1の呪咀から言えば魔である 併し3の陀羅尼から言えば仏であるようである。両方にとれるということは私は両者を超えて両者を統一するものとして捉えなければならないとおもう。それは神として出現すると共に魔として出現するものであるとおもう。そこに短歌の根源となるべきものがあるようにおもう。短歌は神でもなければ魔でもない。相克の中から神の相貌が出現し、魔の相貌が出現するものである。私はそれを生命形成に求めたいとおもう。生命が自己の中に自己を見、自己を形作ってゆくところに呪があるとおもう。

 生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として、食物を摂ることによって身体を作ってゆくのが生命形成である。私達は斯る食物を有機体に求める。而してその有機体も他の有機体を食物として求める生命である。生命は食物連鎖として生命に対するのである。そこは弱肉強食の世界であり、自然淘汰の世界である。生命と生命は相互否定的に、生死をもって対するのである。斯く死を以って距てるものが他者であり、外である。生命が外としての環境をもつということは死に囲まれていることである。生命が内外相互転換的であるとは斯る死を生に転ずることである。死として迫ってくるものを生に転ずるのである。食物を摂るとは対手に打ち勝ち、対手を食物として食うことである。死として迫ってくる対手に打ち勝つことは、より大なる能力をもち、より大なる生命の形相をもつことである。そこに生命が内外相互転換的に形成的である所以があるのである。形とは死の底から見出した生の相である。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。われわれの自己とは形成し来った力であり、形である。斯る自己が自己の中に自己を見る生命であるのである。形や力は死生転換の中より生れてくるのであった。 斯るものが自己の中に自己を見るとは、一々の死生転換が蓄積的となることである。蓄積的となるとは昨日と今日、去年と今年の死生転換が一つの形に於て捉えられることである。昨日と今日を一の形に於て捉えるとは、例えば大水で木が倒れ魚が逃げ場を失って集っていたのを獲ったとする。すると今度は木を倒して魚を獲るが如きである。一々の内外相互転換が経験として蓄積されるのである。斯る経験の蓄積が製作である。倒した木から魚の逃亡を防ぐとか様々の工夫が生れるのである。そこからわれわれは形をもち、物を作るのである。そこから自己が生れ、対象を見るのである。

 私はそこにわれわれの生命は大なる飛躍をもつのであるとおもう。われわれの生命は身体的形成として一瞬一瞬の内外相互転換的である。斯る一瞬一瞬の内外相互転換を超えて昨日と今日を統一する生命となるとは、与えられた身体的生命を超えるということである。一瞬一瞬に消えていった生命が、一瞬一瞬をあらしめるものとして形をもつのである。製作は経験の蓄積として、形の中に形を見る内面的発展となるのである。より緊密なる内と外との形による一の実現として、外を内に映し、内を外に映して無限に自己を形成するものとなるのである。そこに生命は自己の存在の根源に還るのである。生命は前にも書いた如く生死する生命である。而して生死によって自己を形作ってゆく生命である。生死に於て形作ってゆくとは、生死は、生死を超えたものの現れとしてあるということである。私は製作に於て一瞬一瞬の営為を超えて時の統一をもつことは、斯る生命の根源がこの我に於て形に露わとなったということであるとおもう。斯くして私は製作は我をあらしめる宇宙を我とならしめることであるとおもう。製作は常に我を超えた大なる力をあらしめるものであり、大なる展望をもたしめるものであるとおもう。私は呪というものもここにあるとおもう。限りなき過去から限りなき未来へ我をあらしめるものが、今の我に対するときに呪があるとおもう。

 製作は生死する生命が生きんとして死を克服する努力より生れるのである。より大なる生命は外を内に転ずるところより来るのである。そのときわれわれはより大なる力を転ずべき外に見るのである。私は自覚としての製作に於て人類が無限の力を獲得することは、一面に於てこの我が無限に小さくなることであるとおもう。自覚としての内外相互転換に於て内と外は何処迄も対立するものである。有機的生命としての内外相互転換に於ては、外が内に転ずることは直に外が身体に転ずることである。併し製作に於ては物として、我ならざるものとして、我ならざるものが我の影を帯びるものとして出現させるのである。外が身体に転ずるとき、われわれの生命は身体を超えることが出来ない。製作は我ならざる物を作ることによって、われがその中に生きる世界を作るのである。而して身体的形成が時の統一であるとき、身体的形成はその根源に深く製作的生命をもつのである。製作はこの驚異すべき生命の根源を開示するのである。而してその開示が物として、世界として展開するとき、無限の空間・無限の時間の中に立つわれは宇宙の一塵の嘆き、うたかたの生命のかなしみをもつのである。

 生命は自覚に於て超越的なるものと内在的なものが対立するものとなるのである。 命が内外相互転換として形成的であるとは、本来外を超越として、身体を内在として断絶をもつものの交叉としての無限の運動であった。製作としての自覚はそれが顕在化したものである。死として、否定として迫ってくるものに無限の力を感じ、その力を映すことによって自己を見、自己の力をもつのが製作である。われわれは否定されるもの、殺されるものとして自己を何処迄も小さき存在とするのである。自己を小さき存在とするものは大なる存在を知るものであり、それは否定的転換に於て無限に大なる自己を見出させてくれるものである。私は呪とは斯る生命形成の自己直観であるとおもう。

 私はまじないとか、のろいというものも斯かるところに成立するのであるとおもう。原始社会の生態を求めて、ペルーの田舎に住み、其の土地の人々と深く交った佐藤信行氏は其の著『呪術の帝国』の中で「部落境の山道の峠や村境の山頂は、村へ災が入りこむ危険な場所である。アンデス山岳の山道を旅行すれば、処々に小石を積んだ塔を見かける。ときにはその上に十字架が立てかけてある。これはアバシュータと呼ばれるもので、峠には必ずといっていいほどである。旅人はここで精霊たちを拝んで道中の安全を祈願する。インディオは小石を一つその上に置き、「アベ・マリア」を唱える。これをおこたったり、積んであった石にけつまずいてけちらしたりすると天候が悪くなる。しかしこうしたことよりも村境の峠を聖なる場所としているのは、じつは、村に災の入るのを、ここで未然に防ぐための村の神、部落の神への奉斎の場所なのだ。と書いている。ここでは小石を積むことがまじないとなっている。小石とは一体何なのであろうか、私は小石に見出した力があるとおもう。山中にあって食物連鎖的に対立するけものなどに逢ったとき、最も素速く対応出来た武器は小石であったであろう。つい最近迄印字打ちといって礫は有力な戦いの武器であった。祝して他に木片位しか太古に於ては一撃よく敵を倒す礫は最も大なる武器であったとおもう。私はそこに古代人はわれわれを超えた石のもつ力を感じたのであるとおもう。それはわれわれをして死を生に転じさせる力であり、われわれの生死を支配する力である。われわれはその力によって生きるものとなるのである。われわれはそれによって生きるものとしていと小さきものとなり、石の力はいと大なるものとなるのである。われを超えてしめるいと大なるものは聖なるものである。石を積むとはその大なるめることである。積むという行為によって力のイメージを喚起し、悪魔退散のイメージを構成するのである。そして湧き出てくるイメージによってこの微小なる自己が大なる力と同一なることを感応し、そこに自己の生存を見るのである。

 私は前に呪の根底に製作的生命の自己形成があると言った。製作は経験の蓄積であり、経験の蓄積は外を内とすることである。敵に向って石を投げることは石を手の延長とし、拳の延長とすることである。無限の力は自己に環境を映し、環境を自己に映すところより生れ来るのである。石を積むということは単に石を集めたということではなくして、動きゆく全存在の自己形成力を見たということである。よく田舎に行くと『除蝗之害』といった貼紙がしてあったものである。いくら田舎だといっても、その貼紙によって蝗の害が除けると思っているものは居なかった。それでも貼っていたのは何によるのであろうか。私は文字を作り、文字に見出した大なる生命の一つとしての我が家、この我をそこに感じ、存在の根源に接する安心をもったのではないかとおもう。勿論自己の思考よりずれているものを何時迄も抱いているのは邪道であり迷信である。それなれば正しい思惟というのは何処から来たのであるか、私は内外相互転換としての生命が自己の中に自己を見たのであると思わざるを得ない、外を映したということは物として外を作ったということである。われわれが技術をもつ自己となったということである。作られた物を外として、技術的自己を内とするのである。斯くして作られた物と技術は相互否定的に無限に発展するものである。斯る無限の形成的発展は外としての偶然を必然に変えてゆく、そこに因果律が成立する。偶然としての内と外との転換は技術に於て必然となるのである。外を内に転ずることによって、外としての我ならざるものが、内としての我の秩序の内容となるのである。身体の秩序を宿すものとなるのである。斯く外を内に転じ、身体の生命形成の秩序に随わしめることは、経験の蓄積として時を包むことである。過去・現在・未来を包むことである。時の体系をもつことである。それが因果律である。正しい思惟とは製作的生命として因果の道理に随うことである。随わざるものを迷信とするのである。

 しからば斯る迷信というのは何処から来たのであろうか、生命に於て内外相互転換は休むなき無限のはたらきである。それを失なうことは死である、それによって自己を形成してゆくのである。製作的生命に於ては自覚的として無限に自己の中に自己を見てゆくのである。外を無限に自己の中に蓄積して新しい形を見出してゆくのである。製作したものを外として、それを映すことによって更に新しい形を見出してゆくのである。私は迷信とは未だ因果律の体系とならざる最初の内と外との転換が、必然としての因果の目より見られたときに成立するのであるとおもう。最初に於ては時としての過去・現在・未来の体系が未分化である。未分化であるとは内として身体の秩序が外化していないということである。生命の本能的欲求がそのまま露わになっているということである。身体の直接の表出は情緒である。喜怒哀楽に於てはその一々が完結して分つべからざるものである。情緒的表象に於てあるものは同時存在的である。 そこでは未だ現れざるものを現われた形に於て規定してしまうのである。時は無限の否定である、時に於て形が生れるとは前の形を否定して新たな形が生れることである。この新たに生れた形が既に未来の形として先取された形と対立するとき、先取された形は迷信となるのである。新しく生れた殺虫剤が『除蝗之害』 と書かれた守護札と対立するとき、守護札は迷信となるのである。

 迷信や咀いは克服されたものとして最早あるべきものではない。併し私はそれが曽って有ったものとして、克服さるべくあったものとしてその根源的なるものははたらきつづけ現在をもあらしめるものであるとおもう。それが克服されることによって新しい形が生れたということは、古い形が死んで新しい形が生れたということである。製作としてのそれは自己の中に自己を見たということである。生命は何処迄も内外相互転換的である。自己の中に自己を見たということは、内を媒介した外はいよいよ大なる外となるということであり、外を媒介した内はいよいよ大なる内となるということである。いよいよ大なるものとはそれを包んだ形が生れることである。私は合理的なるものは迷信の中より生れたのであるとおもう。それを貫くものは共に生命が内外相互転換的に自己の形を見出したものであるということである。そこに合理的なるものが迷信より生れ、迷信は合理的なるものに包まれる所以があるとおもう。私は断るものとしてまじないに現れ、咀いに現われ、芸術の創造的根源に現われる呪を求めたいとおもう。

 内外相互転換的に形成的であるとは、生死を超えて生死に自己の形を見てゆくものである。形は生死しつつ生死を内に包むものである。そこに生命の形がある、全ての生命の形は、生命発生以来の三十八億年の生死の上に成り立つものである。生死の上に成り立つとは生死を内に包むことである。生死の上に成り立つものとして、絶えず生死しつつ維持してゆくのである。維持してゆくとは三十八億年の上に現在を加えて包んでゆくということである。生死に於て自己の形を見るということは生に死を映し、死に生を映すことである。死は何処迄も我ならざるものとなることである。今生きているこの我が否定されることであり、無くなることである。而して死に生を映すということはそこに真個の生があるということでなければならない。死が絶対の無となることならば、そのことは絶対の形が現れるということでなければならない。私はそこにこの我の転回がなければならないとおもう。それは生死の矛盾を自己とするものである。それは今の喫茶喫飯を三十八億年の営為の上になす自己である。環境と主体、偶然と必然を自己となすことである。世界が世界を創り、宇宙が宇宙を見るのである。太初よりの無限の力がはたらくのである。そこに自己となるとは、このわれはその大なるものの現れであり、大なるものの現れとしてわれがはたらくということは大なるものがはたらくことである。このわれの生死をこの大なるものの現れと知るとき、絶対の無は絶対の有となるのである。道元は木も一時の位、灰も亦一時の位という。私は彼は斯る立場から語ったのであるとおもう。生も一時の位であり、死も一時の位であるのである。生を死に映し、死を生に映すときに形成があるのである。そこに生命は自己を見ゆくのである。

 外は何処迄も内ならざるものである。若し外が直に内であるならば内外相互転換のはたらきはなく、そこに形成作用を見ることは出来ない。内を映した外は内となるのではない、いよいよ大なる外となるのである。われわれが死を生に転ずべく努力した外はいよいよ大なる死をもって迫ってくるものとなるのである。矢は弾丸となり、重火器となり、爆弾となり、原子爆弾となるのである。敵を殺すものは自分をも殺すものである。そこに相互転換的世界があるのである。環境として否定して来るものを変革することは、亦われの変革を要求するものを作ることである。そこに技術としての無限の形の展開があるのである。よく言われる時代が違うという言葉はここより出てくるのである。外が何処迄も内ならざるものとして、環境が我ならざるものとあるということは、内と外、我と物との出合いは偶然ということでなければならない。太古に獲物を求めて山野を歩いた人々にとって木の実やけものに出逢うか出逢わないかは全く偶然であった。それはたまたまという言葉に言い表わされるものであった、経験の蓄積とはそれの蓄積である。私達は経験の蓄積によって自己の行動の体系の中に組込んでいった。内を外に映したのである、身体の秩序に随わしめたのである、そこに偶然が必然となったのである。併しそのことは偶然がなくなったのではない、偶然は必然に対するものとしていよいよ大なる偶然となったのである。生命は何処迄もわれならざるものに対するのである。

 われわれは単にわれならざるものに対するのみではない。われの出で来るところもまたわれならざるものである。私達は親より生まれる。親はわれならざるものである、われならざるものより生れ来ったものとしてこのわれの出生は偶然である。父と母の結婚も偶然である。私が母に受胎された日に若し父が所用があったとすれば、他日父母の間より生れたのはわれならざるものである、われと言えるものの存在は斯るあやうさの上にあるのである。偶然として、われならざるものとしてこのわれがあるということは、このわれはわれならざるものの現れとしてあるということである。われならざるものとしてこのわれをあらしめるものは、このわれを超えた大なるものでなければならない。このわれがそれによってあるものとして見るべからざるものでなければならない。併しそれが見るべからざるものであるとき、その現れとしてのこのわれはあり得ないものとならなければならない。そこに見るべからざるものが見られるという意味がなければならない。私はそこにこのわれの自覚があるとおもう。大なるものの現れとして、このわれが自己を見ることが大なるものを見るということなのである。このわれは生命として出現する、生命として出現したものとして生命維持の欲求をもつ、併しそこには未だ自己を見るということはない。自己を見るというには大なる生命に自己を映すということがなければならない。このわれがそれによってあるものとして見るべからざるものであるというのは、そこに自己を映し見るということがないからである。自己を見るということは大なるものに映したということであり、大なるものが現われたということである。それが前に書いた製作的生命である。製作的生命としての経験の蓄積はわれをあらしめるものが自己実現的にはたらくものとなったということである。このわれが見るのではない、大なる生命が自己を見るものとして、このわれに現われたのである。而してこのわれを大なる生命の現れとして、大なる生命が自己を見ることは、このわれが自己を見るものとして現われるのである。私はわれわれの自覚はそこに成り立つとおもう。自覚は大なる生命が自己を見るところに成立するのであり、それはこのわれの自己実現として、われわれは無限の努力をするのである。努力とはこのわれの欲求を超えて大なる世界を実現せんとする営みである。身を捨てて根源的なる ものを出現させんとするのである。そこに内外相互転換はあり、蓄積があるのである。 自覚的生命としてわれわれの営為は無限に自己の中に自己を見るはたらきである。自己の中に自己を見るとは見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなることである。私は曽って刃物を商うものであったが、作られた刃物は更に鋭利なる力能を呼ぶのである、更なる硬度を、更なる研磨を求めるのである。勿論一片の鉄が呼ぶのではない。人間がおれの生命の形相を発展させる営為としての、截断の能力に於て呼ぶのである。刃物の能力は生命の形相実現としてのこのわれの能力であり、その力が、力の中に更なる力を求めるのである。そこに刃物の呼び声があり、われわれはその所有する技術を切磋しそれに応えんとするのである。そこに作られたものが作るものとなり、見られたものが見るものとなるのである。私はわれと物はそこから現われるのであるとおもう。我というものがあるのではない、我は物によって現われるのであり、物というのがあるのでもない。物は我によって現われるのである。物が我によって現われ、我が物によって現われるということは、我と物はより大なるものの現われとしてあり、物と我はより大なる形相としてあり、より大なるものの形相実現的にはたらくものとしてあるということである。斯るものとしてより大なるものは全存在ということでなければならない。われわれの意識の上にあるもの、現れてくるものはより大なるものの形であり、より大なるものが自己の中に見た自己の姿でなければならない。自己の中に自己を見るとは、見られたものが見るものとなることとして、より大なるものが自己を見るとは全存在が自己を見ることである。全存在がはたらくものとなるのである。色が色の中に色を見、音が音の中に音を開くのである。距離が、土が、硬さが、重さが、森羅万象悉く自己の中に自己を見るものとなるのである。勿論土や鉄が内面的発展をもつのではない、われわれの製作を媒介として潜在す るものを露わにするのである。色彩は画家の目を通じて自己を露わにし、音響は音楽家の耳を通じて自己を露わにするのである。土は農夫によって、鉄は鍛冶工によって、木は大工によってそれぞれ自己を露わにしてゆくのである。世界は爪楊子のようなものから航空機のようなものまで数知れない種類の物があり、それを作る職業人がいる。それによって形が生れるのであり、それは全てより大なるものが自己を露わにしてゆく姿としてあるのである。この全存在がより大なるものによって統一されてゐるのが世界であり、より大なるものは世界が世界を見、世界が世界を作るものとして自己を実現してゆくのである。われわれもそこに見られるのである。私は呪とは斯くこのわれがはたらく根底に世界としてのより大なるものの自己実現のはたらきを見ることであるとおもう。

 このわれの根底により大なるもののはたらきがあるということは、このわれはより大なるものの現れとしてあり、現れとしてあるとは自己の中に見出でた自己として、このわれがはたらくことがより大なるもののはたらくということでなければならない。形成作用はそこにあるのである。自己の中に見出でた自己が、更に自己の中に自己を見るのである。そこにより大なるものは自己の形相を鮮明ならしめるのである。一本の爪楊子を削り、一 枚の鎌を鍛えることは、より大なるものが自己を実現する行為として世界を形作ることである。このわれは世界を実現するものとして、はたらくことは世界を内にもち、世界を見るものとなることである。このわれが世界を現わすものとなることである。前に書いた如く、このわれは宇宙の一塵にも比すべきものである。併しこの一塵ははたらくことによって全存在を自己の現れとするものである。

 併し全存在を一塵の現れとなすことは一塵が全存在となることではない。一塵は何処迄も一塵として、全存在の現れとなることが出来るのである。死するものが生きんとする努力に於て出現するのである。うたかたの命の悲しみの中より転ずるのである。生死する身体に具現するのである。生死する身体の具現として、絶対現在として具現するのである。内外相互転換としての生命形成に於ては、内外は常に対立しつつ一である。一即多・多即一として生命は形成してゆくのである。一の方向に世界が成立し、多の方向にこのわれが成立するのである。而して形成とは世界にこのわれを現し、このわれに世界を現わすことである。内外相互転換的に世界とわれが現われるのが今であり、今が生命形成の形として無限の過去と未来をもつのが絶対現在であり、永遠の今である。一を見るのでもなければ多を見るのでもない、一即多・多即一を見るのである。消えてゆくことが現われることである一と多を超えて包むものを見るのである。生死として自己を現わしてゆくものを見るのである。生死するこの我が一瞬一瞬の営に於て、生死として自己を現わしてゆくものに触れるのが絶対現在である。生死として自己を現わすものは全存在である。今に於て全存在がこのわれに現われるのである。私はそこに呪の実現があるとおもう。呪とは内と外、世界とわれとが動転しつつ絶対現在としての形を実現することであるとおもう。般若心経にも「故知般若波羅密多。是大神呪。是大明呪。是無上呢。 是無等等呪。」と説く。 色即是空としての有限が無限、刹那が永遠としての形相実現に呪を見るのである。それは対立するものが一として無限のはたらきであり、一なるものが自己を見るものとして形より形へである。そこに創造の根源があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

自由と必然

 生命は形成としてあり、形成は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とする限り ないはたらきによって、生命は自己を形作ってゆくのである。我々が物を作るのは斯る内外相互転換が自覚的となったということである。

 動物に於ては斯る内外転換が直に一である。直に一であるとは、生れ来った身体の機能のはたらくままということである。内外相互転換が一つの生命の機能として、無媒介的に はたらくということである。それに対して自覚的生命に於ては、内と外とが対立するもの となるのである。内は外を否定するものとなり、外は内を否定するものとなるのである。否定を媒介する一となるのである。もともと動物に於ても、内と外とは否定的契機をもつ対立するものである。食物を得るために努力と争闘をもたなければならない。それは苦患的である。併し動物に於てはそれは身体に具有的である。本能的動作の中に含まれている。それに対して製作に於ては、内と外とが対立するものとし学習的である。

 学習とは過去の内外相互転換を、現在の内外相互転換に応用することである。そこには無限の過去の内外相互転換の著積がなければならない。外を内に変じ、内を外に変ずるとは技術的ということである。身体は転換の実現者として無限に機構的である。製作は一瞬一瞬の内外相互転換の生命の営為を、一瞬一瞬を超えて、一瞬一瞬を包む生命の内容とすることである。学習は時を超えて時を包むものの、生産手段としての技術の確立がなければならない。我々は学習的に技術を蓄積し、新たなより大なる生産力とするのである。

 学習とは新たな個性が世界を内にもつことである。新たな個性が世界を内にもつとは、世界は無数の個性によって作られていることであり、無数の個性によって常に新たな転化をもつことである。個性と個性が製作を介して呼び応えるのである。内外相互転換の外は 学ばれるものとして、一瞬一瞬を超えた形相となるのである。一瞬一瞬としての内外相互転換が、一瞬一瞬を超えた形相となるとは、世界の無数の個性によって作られたものが、この我に於て作るものとして、はたらくものとなることである。新たな個性が世界を内にもつとは、作られたものとしての無限の過去の形が此の我の中に消え、新たに世界創造の力として生れることである。学習とは内外対立したものが、外としての凝固した形相を再び流動化せしめることである。見られたものが見るものに転生することである。

 過去として作られたものが、はたらくものとして作るものとなるとは、形相が形相を作 り生んでゆくことである。新たなる内外相互転換に自己を投影してゆくことである。無限の内外相互転換に於て外とは内の転じたものである。内の転じたものが外となるとは、転じるとは我に対立するものとなり、我を否定し来るものとなることである。形相としての物は我に死をもって迫ってくるものである。外が転じて内となり、はたらくもの作るものとなるとは、死として迫ってくるものが、新たな個性に於て自己自身を否定し、新たな生命の形相として装いを新たにすることである。死として迫ってくるものが生に転じる、そこに生命の創造があるのである。

 生が死に転じ、死が生に転ずるものとして世界は形より形へである。世界は物として自己を実現し、物は物が生んでゆくのである。そこに世界の必然がある。私は元鎌の販売業を営んでいたが、鎌は収穫器として、大古に於ては木の股の如きが使用されていたのではないかと言われている。それが鉄となり、鉄と鋼の接合物となり、現在は草刈機、稲刈機に転化している。それは一つの形としての物が死して、新たな形の物が生れた大なる流れである。 過ぎ去った形としての物は死んだものとして、捨ててかえり見られないものである。而して新たな形は過去の形が内包するものより生れ来ったものである。内包するものより生れ来ったとは、形が内包するものは無限の転化の呼び声をもつということである。内外相互転換の内容としてあるということである。必然とは形が次の形を呼んでゆくということである。

 内を身体とし、外を環境とすることによって内外相互転換はある。内を身体とし外を環 境とするものの転換として、身体は環境の凝縮したものであり、環境は身体の拡散したものである。身体は環境を映し、環境は身体を写すのである。写す行為は否定的転換より生れるのである。身体は死と対面することによって物を作ってゆくのである。外を内とするのである。製作的生命は製作物の中に生きてゆく、物の中に生きてゆくとは、物を環境とすることである。そこに物が物を生み、形が形を呼ぶのである。自覚的生命が生きるとは必然の世界に生きるのである。

 物の形は物が物を生み、形が形を呼ぶことによってあるとは、物の中に物を見、形の中に形を見ることである。初めに終りがあることである。新しい物を作るとは、何もないところに物が生れることではない。何もないところからは何物も生れることは出来ない。物を作るとは過去に現在を映すことである。内外相互転換としての現在の状況を過去に映すことである。伝統の上に製作はあるのである。過去に映すことによってあるとは初めがはたらくことである。はじめがはたらくことによって新たなものが作られるとは、物ははじめとおわりを結ぶものが、自己の中に自己を見てゆくことによってあるということである。必然もそこにある。はじめとおわりを結ぶものが自己の中に自己を見てゆくのが必然である。全ての物はそこより見られ、そこより作られたのである。我々はその究極に神を見るのである。

 内外相互転換をもつものは個体的である。個の生存に於て内外相互転換はある。個が内外相互転換をもつということは機構的であり、機構的であるとは身体的であるということである。我々は製作を身体に於てもつ、身体に於てもつと 内外相互転換的に物を作るということである。内外相互転換は外が内となり、内が外となることである。外が内となるとは、物が消えて身体となることであり、内が外となるとは、身体が消えて物となることである。外は内に消えることによって外であり、内は外に消えることによって内である。そこに無限の形成作用はある。形造るとは単に直線的にあるのではない。死して生れるところにあるのである。単に一つの形は何ものでもない。形は形成作用に於て形であり、形成作用は次の形を生むことによって形成作用である。次の形が生れることは、前の形が死して新たな形が生れることである。

 製作も亦斯る形成作用の延長として物を作るのである。作るとは、外を与えられたものとしてもつのではなく、言葉を介し意志によって変革することである。それは技術的である。意識することによって、身体を使うことによって、内を外とし、外を内とするのである。身体は意識的身体であり、技術的身体である。製作に於ては斯る意識的、技術的なる身体が死して物に生れゆくのである。製作は自覚的生命の死生転換としての内外相互転換である。

 死して生れるとは現在に生れるのである。現在が新たな生命であることである。製作に於て物が死ぬとは未来によって否定されることであり、生れるとは否定の底に甦るということである。死するとは無に帰することであり、生れるとは形が出現することである。自覚的生命に於てこの転換は意志によって行為的に実現するのである。それは無よりの構築である。そこに意志の自由がある。己れの生を構築してゆくのである。生死するものは個物であり、はたらくものはこの我であり、汝である。物の製作はこの我、汝が死生転換として自己を見出てゆくのである。

 自覚的生命に於て個とは全を内に包むものである。自己は世界を内にもつことによって自己である。私は前に学習によって自覚的生命を自己となると言った。学習とは世界を内とせんとする努力である。世界とは斯る我と汝によって作られているのである。世界を作る我と汝の死生転換は、亦同時に世界の死生転換でなければならない。この我の意志は亦同時に世界の意志でなければならない。我々の行為は世界の自己形成である。世界の自己形成はその一面に個の無よりの形成として、個の自由意志をもつのである。

 形より形への必然は、形の転換の断絶に於て自由意志の行為をもつのである。個は世界の中に死して生れる程より大なる個となり、世界は個の中に死して生れる程より大なる世界となる。必然がより大なる世界を形成するほど、意志は愈々自由となり、意志が自由となるほど、世界は愈々大なる形成をもつのである。死して生れるとは、死ぬことが生れることである。死ぬことは無となることであり、無となることが有となることである。無が有であるとは生命形成の初めにかえることである。無始無終の時に於て初めにかえるとは形成の根底にかえることである。そこに初まって、そこに終るもの、初めと終りを包むものにかえることである。自己が自己を見るが故に絶対の自由であり、自己の中に自己を見るが故に絶対の必然である。根底にかえることが死であり、そこより形造ることが生である。現在とは斯る創造点であり、世界は斯る生命形成の形象である。父母未生以前の自己として我々は無限の形成をもつのである。神は絶対の自由と必然である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」