眼晴

 正法眼蔵の第五十八、眼晴の中に天童和尚の「秋風清く、秋月明らかなり、大地山河露眼睛なり。」という言葉がある。私はこの言葉は見るとは何ういうことかという問いの解明に深い示唆を与えるものであるとおもう。眼睛とは瞳である。瞳とは光りを介してこの我が他と関るところである。斯る関りが見るということである。見るとは如何なることであるか、私は私達の見るということは生命の自己形成を背後にもつとおもう。生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とする無限の形成である。外を食物的環境として身体を形作ってゆくのである。内外相互転換とは摂取と排泄である。絶えざる摂取と排泄によってわれわれは身体を形成してゆくのである。斯る食物は食物連鎖的である、有機物は有機物を食うことによって栄養とするのである。光合成をもたざる動物は他の生命を捕獲することによって生長と生存を維持するのである。動物はその食の獲得に行動するものとして動物であり、その行動圏を自己の空間とするのである。目は斯る行動圏を空間とする機能として成立するのである。禿鷹は三千米の高所より地上をありありと見ることが出来るという。併し見るのは餌としての野鼠だけであると言われる。そこに動物の目があり、空間があるのである。食物連鎖は弱肉強食の世界である。それは常に生死を賭けた世界である。生命は斯る生死の中からより大なる機能を見出してゆくのである。捕えんとし、逃げんとするところより機能を発展させてゆくのである。感覚はより精緻となり、より大となるのである。私は生命は食物連鎖を内的矛盾としてより大なる形相を見出してゆく一大体系として把握したいとおもう。視覚というものも斯る生命形成の発展の内容として捉えるべきであるとおもう。生存競争は修羅の世界である。而して闘争なくして生命の形相はあり得ないとおもう。修羅に於て生命は自己を見出でてゆくのである。目は内外相互転換の外を拓いてゆく尖端として修羅の中に発展をもつのであるとおもう。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは見出した形が見るものとなることである。見出でた形がより大なる機能を有するものとして次の形を見出してゆくことである。そこに経験の蓄積があるのである。経験の蓄積とは過去と現在と未来を現在の行為に於てもつこ とである。外としての偶然を内としての必然に転化せしめることである、探すものより、作るものとなるのである。生命はここに百八十度の転回をもつのである、食物をもって距てられた個体は製作に於て協同するものとなるのである。人間が最初に作ったのは食物としての栽培であった。それは自然の力を人間が駆使しなければならないものであった。墾し、耕耘し、水利をもたなければならなかった。然も天災は人間の努力を絶えず無にしたのである。中国の王権は水利事業の上に成立したと言われる。そこには大なる集団の力が必要であった。多くの人々が一つの力となったのである。製作の発展はより大なる力を必要とした、そこに人類は個を超えた一として生存し、人類一の自覚をもったのである。私はそこに目も亦製作的生命の目とならなければならなかったとおもう。降雨、寒暖のために天文を知り、水利の為に地理を見る目となるのである。人類一の実現の為に鋭さの奥に柔和を湛えた目となるのである。

 生命が内外相互転換的に形成的であるとは内外をあらしめるものが自己を実現してゆくということである。枝穴にすむ蟹は偏平であり、泥中に生きる鰻に鱗が無い。空中と羽根は鳥に於て不可分である。形成的生命として形は機能であり、機能は形である。生命は内外相互転換的に内外一として自己を形成してゆくのである。自覚的生命とは斯るものが製作的になったということである。人間は手と言葉をもつことによって製作的となった、製作的となったとは表現的となったということである。外を物として、物の形に身体を見てゆくことである。製作とは物に自己を実現してゆくことである。物を作ることによって自己を見てゆくのである。物を作ることによって自己を見てゆくということが世界形成的ということである。

 物を作るとは如何なることであるか、物は私達が作る、併し私達は物の法則に随うこと なくして一物を動かすことは出来ない。物を作るとは物の中に深く入っていって物の性質を知ることによって可能である。物の性質に随って私達の生活に合う如く形を変じてゆくのが作るということである。私は鎌の販売に携わったものであるが、鉄というものは人間の製作的生命の翳を宿すとき無限の性質の奥行きをもつものである。鎌を作るというのは鍛造の温度、焼入れの温度によって千変万化する鉄の性質の中から、切味という唯一点を見出すことである。その為に作るものは切れるということを目指して鉄の化身となるのである。それは切れるという目的の実現としてこの我の実現であると共に、鉄の化身として鉄自身が何処迄も自己を展開してゆくものである。外が開けてゆくことが自己が展けてゆくことであり、自己がけてゆくことが外が開けてゆくことである。私は芸術の創造の如きも斯かるところから考えられるとおもう。画家は通常の人が見ることの出来ない美しい色を見ると言われる。描くことによってさまざまの色が現れてくるのである。さまざまの色が現われてくるとは、今迄見えていなかったものが見えてくることである。描くことによって目の中に色が色を分つのである。赤や緑が自己の中に無限の色の系列を見、画布にその一点を決定するのである。画家の目は色彩と化し、色彩の中に消えてゆくのである。色彩が色彩を見、色彩が内面的発展をもってくるのである。而して斯る色彩の内面的発展は画家が描くことによってあるのである。描く手を動かすものは作者の生命である。描くとは作者の生命の表出である。色彩が色彩を見るとは画家が自己を見ることであり、描かれたものは作者が見出でた自己の形象である。作者が対象に消えることは、対象が作者に消 えることである。形はそこに新たな形として生れるのである。そしてその形から対象が見 られ自己が見られるのである。生れ継ぎ、生み継ぐことによって対象があり、自己があるのである。そこは自己が対象の中に消えることによって自己があり、対象が自己の中に消えることによって対象があるのである。形が形を見、世界が世界を限定するのである。われわれの自己が対象の中に消えてゆくということは、製作する世界として開かれてゆく対象に招かれるということである。色彩が色彩を見る無限の深さに呼ばれるのである。そこにわれわれの行為があるのである。われがあるのでもなければ、対象があるのでもない。表現的世界の中から自己が見られ、対象が見られるのである、そして見られたものが見るものとして自己と対象があるのである。故にわれわれは表現的世界に還ることによって真個の自己に接するのである。自覚的生命として全てあるものは表現的にあるのである。私は斯るものを宇宙的生命が自己を見るというのである。目は見るものであり、対象は見られるものであるというところからは物の内面的発展ということは考えることは出来ない。目は製作の目として、宇宙的生命が視覚的に自己を露わにする器官である。絵画の如きはその最も純なる内容であるとおもう。

 「秋風清く、秋月明らかなり。大地山河露眼睛なり。」という言葉も斯るところより出てくるのであるとおもう。大地山河露眼晴とは大地山河が自己自身を見ることによってあるということであるとおもう。私はそれを尋ねるためにわれわれにとって山河とは何かを問いたいとおもう。私は生命は内外相互転換として、外があるためには内がなければならないとおもう。外の形が生れるためには内の形が生れなければならないとおもう。そこに生命の形成があるのであるとおもう。斯る形成の外の方向に物があり、内の方向に生命としての身体があるのである。その意味に於て空を飛ぶ鳥や、地を這う虫は山や河をもたないとおもう。人間にとって山や河は、行路を遮る山や河であり、幸としての生命を養う物を生み出し、恵んでくれる山や河である。行路の難渋はわれわれに強靭な四肢を育くんでくれるものであり、恵みの食物は豊かな身体を作ってくれるものである。それは同時に私達の情緒である。獲得した強靭な脚にとって峻険な山に登ることは喜びである。私達は大なる山に尊厳の情をもつ、私はそれは山を登る力の表出と無縁ではないとおもう。私達は雲に対して尊厳の情を抱かないのは力の表出を伴わないところにあるとおもう。

 全てあるものは生命の自己形成としてあり、生命の自己形成は宇宙の自己形成としてあるのである。山や河は生命形成の自覚の露わなものとしてあるのである。眼睛も亦そこより生れ、そこに働くのであるとおもう。木の実や薪、茸やけものを獲る山、脚力と山、魚を追う河、水浴をする河、我と山河は斯るものの自覚として出現するのであり、出現は我と山河が形成として自己自身を見ることである。「秋風清く、秋月明らかなり。は斯く見ることが成立する純なる情緒であるとおもう。純なる情緒とは、形成が形成自身を見ることである。茸やけものを獲ることや、魚を追い水浴することを離れて、山河と我が形に於て映し合うことである。欲求や生死を超えて形成の永遠の相に目を移すことである。山河の形に我を見、我の形に山河を見るのである。そこには我があるのでもなければ山河があるのでもない。山河は我であり、我は山河である。秋風清しは映し合う我と山河がそこに透明にしてありのままに一なるのである、月明らかなりは我と山河が明らかな形に映し出 されるのであり、その明らかな形は山河が山河を見るのであり、我が我を見るのであり、 生命が生命を見るのであり、宇宙が自己を露わにするのである。

長谷川利春「自覚的形成」

鑑賞、批評

 黄熟した柿の実が澄みとおった晩秋の光に輝いている。それを見ると時間は単に過ぎ去るものではなく、一日一日の一年一年のみのりをもつものであるとおもう。みかしほ一年の歌誌を積上げると分厚い。それは私達会員の哀歓と精進の蓄積である。一月余をもって平成三年を終る。私はこの充足の中から山本礼子氏の作品を取り上げて、本年の収穫の一つとしてふり返りたいとおもう。

 北斗星射たむばかりに夜の樹々の秀に水を打つ男孫生れたり

 高揚した心気を密度高く表現された作品、北斗星と個有名詞を出されたからには、北斗星の含むものを勿論意識されているのであろう。古来北斗星は天の中央にあり、宇宙の運行を司どるものとして星の中でも最も尊崇されたものである。作者は今男孫が生れた喜びを抱いて庭樹に水をやっている。併し作者の目は庭樹を越えて遥かに天に輝く北斗星に向いている。はるかなものに目を向けさせたものはよろこびによる心の高まりである。外は内にあり、内は外にある。この生命の真実を捉えて表現に過不足がない。生命は動的なるものである。動的とは内が外となり、外が内となることである。二句うまいとおもう。

 いねがたき宵を車の通り過ぐる音の変りて雨となるらし

 私達は環境を作るとともに、環境によって作られる。感覚が鋭いとは作り作られる営為がより微細となることである。より細かく見得るということは、より深い立場に立っているということである。作者は今車と雨の音に時の移りを見ている。それは車と雨に見出でた天地の移りである。そこに大きな静けさがある。作者の真質の遺憾なく表れた作品であるとおもう。

 野ぼたんが明日咲く色覗かせる娘よゆっくり大人におなり

 おのずからなるものへの信頼と、娘への愛情を渾然としてうたい上げた作品、人間も亦生れ来ったものである。草木が華麗な花を潜ませるように、無限の可能性を潜ませるものである。ゆっくり大人におなりには、生れもった豊かさを残らず表わしなさい。それにはあわててはいけませんという親心がある。ともあれ上句と下旬の自然と人間を結合させた力は非凡である。

 裸木に百舌の鋭く啼き声奈落の如き空に涯てたり 井上徳二

 心象詠。奈落は地獄であり、出でることのない地の底である。作者はそれを百舌の啼く 声によって空に見たのである。鋭きが故に絶望の声を聞いたのである。生きる者が必ずもつ死、真摯である程人間は底に奈落をもつ。作者はふと深淵の翳に怯えたのであろう。五句涯てたりは果てたりか?

 伽耶院を長く守護せし仁王尊露はなる木目に痩せておはしぬ 岡田みさゑ

 憤怒像なるが故に、木目が浮き出て痩せた姿は力の喪失を感じるのであろう。移りたりゆくものの寂穆が感じられる。作者は老いの共感をもったのであろうか。

 ガードルに腰しめつけぬもう楽にしてやったっていいのぢゃないの 片山 洋子

 一連を読み乍ら私は情念の解放ということを感じた。それは五常五倫によってがんじ搦めにされた封建的情念よりの脱出である。氏の韻律は軽快である。俵万智と一脈相通ずるようである。一首目、五首目、後にのこるものがないが読んでたのしい。この一首まだ腰をしめつけている自分を嘲けっていると共に、その嘲けりを楽しんでいる。こういうような自分を対象化出来るのは余程頭が良いのであろう。

 雲間より時折洩れくる冬の陽を裸木分け合ふひそやけくして 岸本艶子

 四句の把握を評価したい。五句息が切れているのが惜しい。

 深々と吸ひたる息がすぼめたる唇出づる時細く鳴りたり 小紫博子

 呼気の間に出た生命の証し。このかすかなものに自己の生存を捉えた目は深い。禅家に生命は呼吸の間にありというのがある。日常の哀歓はこの上を浮遊するのである。

 霧晴るる中すたすたと歩む人見えて冬野の午近きなり 服部かずゑ

 万物枯れて荒穆とした冬の日々、二、三句そこに見出でた健かな歩みは作者の、そして冬の救いである。五句一首を冗漫にしたのは惜しい。

 不注意をさとせば素直にあやまりて厨の孫は亦コップ割る 服部 徳子

 五句普通なら怒るところを作者はほゝえんでいる。哀歓を超えて枯淡の境に入った透明感がある。

 おだてあい男は酒をくみかはす互に傷を舐め合ふごとく 藤井みどり

 おだて合うことによって互の生の確認している。併し作者はおだて合わなければ見ることの出来ない生の基盤をふんでいるのである。言葉を止めれば崩れ去るようなもろさを見ているのである。

 「水をもうかへられないから切り花は要らない」と言ひて友の今日泣く 松本君代

 力の萎えた友の嘆きが切々として迫ってくる。五句の今日泣くを泣き伏すとでもしたいが、それでは類型的となるのでこれでもよいのであろうか。

 カラカラと音する豆木引きゆきぬ今年は大豆やや多めなり 藤井早苗子

 作るもののすこやかな歓びがある。大地への感謝の感じられる作品。下句転結の妙。末筆多年なじんで来た二部会員の方々の精進を祈って筆を擱きたい。

 病める今は妻が頼りと読み返し夫のはがきをポストに落す 岩城 和子

 頼られている自分、恐らく夫は頑固な人であったのであろう。それが今病に気が折れている。作者の複雑な心の動きがよく表われている。そして徹底した写生はそれを超えて作者の心は静である。岩城さんの病の歌、徳恵さんの牛飼の歌、一つのテーマを追求して透明度を増して来たようにおもう。透明を増したとは感覚の多彩な展開をもったということである。

 隅植ゑや箱洗ひ終え湯上りを孫に軟膏を貼りて貰ひぬ 岸本艶子

 ここに日々の暮しがある、それは取立ていう喜びや悲しみではない。併しここに人は作られてゆくのである。私は斯る充足感を捉えた目は深いとおもう。

 草のしきりに飛ばす風ありてひかる五月の野となりにけり 小紫 博子

 光りと草と風が展開する五月の風光は作者の感情の生動である。ここに詩がある。これを二首目「この顔が見たくて内職する吾と孫の笑顔にこづかひ渡す」と比較すると、後者の方が完成度も高いし、喜びの振幅も大きかったとおもう。併しそこに見出した自己というものがない、一般的な祖母像しか見ることが出来ない。そこに作品の質の差があるとおもう。尚五句窮屈である、「原となりたり」か。

 働ける人等帰りて工事場の足場の奥に闇が生れる 高橋史江

 闇を見る目は光りを見る目である。作者の目は深奥に向いている。簡潔な表現は手練である。

 カンボジアの浮浪児は軒に重なりて眠りゐるなり雨降り止まず 富田久子

 五句適切、限りない哀憐の心を誘う。

 風圧のかかりて重きドア押せば否応なしにあの記憶もどる 中北 明子

 情念の世界は混沌の世界である。それは終局なき動転の世界である。併し生命はそれによって自己を形作ってゆくのである。臆せず見つめるところに作者の高貴な精神がある。

 不順なる寒さ漸く過ぎ去りて家族の絆纏並び干されぬ 服部美千代

 繰り返しの中に惰性となり無意識の中に埋没した日常を堀起すには犀利な目が必要である。併しそこに目を置くことによって真に自己を作ってゆくものを見得るのである。この一首上旬と下句置き換えた方がよいのではないかとおもう。

 跳びそこね腹をかへせし雨蛙姿勢なおしてソロリと歩く 藤井早苗子

 生物の本能のもつ撰択、面白い。

 反抗期終えたるか子は命令を聞かざる犬に反抗期かと言う

 特異な素材、一挙手一投足にも子を見守る親の心が覗かれる。

 お土産と嫁の呉れたる鯛焼の掌に温かく文化祭終る 小紫博子

 四句迄嫁との交情の一首である。受取った鯛焼の温さは嫁の温さである、満たされた一瞬の幸せである。併し私はこの一首がそれだけで終っているならば平凡な詰らない作品であるとおもう。それが五句によって救われているとおもう。文化祭終るによって、鯛焼を呉れた嫁と、その温さを意識する自分も亦過ぎゆく時間の一駒となるのである。勿論それによって交情がうすれるのではない、深まりゆくのである、限り無い時間のひと時の故に縁の不思議の前に立つのである。有名な中宮寺の思惟像はよろこびなきよろこび、かなしみなきかなしみの姿をもつと言われる。

 私は以前に氏の作品を批評し乍ら、尼僧のようなしずけさがあると言ったことがある。 作品を読んで感じることは小主観と言われる思い入れのないことである。宗教家の言葉を借れば己れのはからいの少ないことである。これがはからいを捨てたときにあるのは我を包んだ大なる生命の流れである。私は氏のしずかさはこの流れに目を置くところにあるとおもう。掲出の歌のよろこびもしずかである。

 私は表現とは個体としてのこの我が世界の姿を表わしてゆくことであるとおもう。以前 に書いた如くわれわれの生命は瞬間的なるもの永遠なるものであり、永遠なるものが瞬間的なるものである。生死としてのよろこびかなしみの陰翳が永遠なるものに映されるときに芸術はあるとおもうものである。しずけさは永遠の影としてあるのであり、氏の歌の魅力は斯るものを宿すところにあるとおもう。

 勿論私は歌は斯るもののみとおもうものではない。瞬間を映す永遠が静なれば、永遠を映す瞬間は動である。近代は個性の発見にあると言われる。それは小紫さんの方向と逆の方向である、世界の中にあるのではない、世界を内にもつのである。個は対立としてある、対立するものは闘うものである。他者を否み己れを否むものである。そこに地獄を見、悪魔をもたなければならない。私はわれわれは歴史的現在に生きるものとして、現代短歌はその方向に生面を拓かなければならないと思うものである。併しそれは亦瞬間を映す永遠に即するものとして大なる静けさに至るのでなければならないとおもう。創造は常に否定を介しての肯定であり、死を介しての生である。

 尚この他に藤井早苗子さんの

 雨の降る休日は居場所なしといひ畑が一人一人来る

を取り上げたかった。下句の一人一人の言葉のふくらみがよい。それによる情感の奥

きを味わいたい。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

感情について

 生きているとは外を内とし、内を外とすることである。私達は呼吸をし、食物を摂るこ とによって生きているのである。呼吸とは空中の酸素を摂取することであり、体内の炭酸ガスを排泄することである。食うとは他の生命を奪うことによって、自己の生命とすることである。併して不用なるもの、死滅した自己を排泄するのである。

 斯るものとして生命は絶えざる内外相互転換である。内外相互転換として、内の働きの欠乏も死であると共に、外の物の欠乏亦死である。

 空気は常に与えられている。そこには我々の労力を要するものはない。併し食物は他の生命の奪取として、他者を殺すことによって自己が生きるのである。自己の身体に対する他者の身体を否定することによって、自己を維持してゆくことである。

 自己の身体に対する他者の身体として、この我が個有の内容を有する如く、他者も亦生命として個有の内容を有するのでなければならない。否定することは否定されることであり、生きるとは常に力の表出を伴う努力である。

 生命が常に力の表出を伴って自己を維持してゆくとは、生命は常に創造的であるということである。瞬間、瞬間が創造点として、新たな形相を作ってゆくのである。

 感情は通常快、不快に分けられている。私は快とは形相実現的としての身体がその肯定的方向として、充実してゆくときにもつ感覚的反応であると思う。不快は否定的方向として欠乏の感覚的反応であると思う。斯るものとして快、不快の感情は身体的であるとおもう。而してそれが身体的である限り私は真の感情とは言い得ないと思う。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは、自己が見る自己と見られる自己に分れることである。見る自己と見られる自己が分れるということは、見る自己は見られる自己を絶対に超越するということである。内外相互転換的として一瞬一瞬に生死の分岐点を歩む生命を包む生命をもつということである。永遠が瞬間であり、瞬間が永遠なる生命となることである。

 瞬間が永遠であるとは、現在の瞬間が無限の瞬間の統一としてあるということである。過去の時間を内包した瞬間であるということである。瞬間は内外相互転換として、死生転換として瞬間である。瞬間が時を包むとは、相手を否定する力の表出は技術的ということでなければならない。身体の否定の肯定としての、内外相互転換は技術的でなければならない。生命の営為とは斯る転換の無限の連続である。斯る転換は内的に一でありつつ外は無限の変化である。一瞬一瞬状況を異にするのである。この異なる一瞬一瞬の技術を体系化をし、蓄積するのが時を包むということである。これが自己の中に自己を見ることである。

 無限の内外相互転換としての技術の集積によって外に対するということは外を変革することである。生命は自然的生命を脱却して、製作的生命となることである。斯る累積は個人を超えた人類的なるものとして、歴史的に形造られることによって可能なるものであると思う。我々は斯る集積を言葉によってもつのである。ここに外なるものは食物的環境として対するのではなくして表現的物となり、主体的他者は人格として我に対するのである。世界形成的である。

 私は感情のよって来るものを断る人格的世界に求めたいと思う。ここに於て喜び悲しみは快不快とその様相を画然と截断する。快不快が身体の肯定的方向と否定的方向であるに対して、喜び悲しみは人格としての自己と他者の結合に最も深い根源を有するのである。歴史的創造的世界の内的方向として、我と汝の一の実現が最も深い喜びとなるのである。喜びはこの我を消しての世界の実現に見るのである。

 人格的となるということは、他の人格に対することであり、個的身体的なるものを超え たものとして、世界が世界自身を作ってゆくことである。この我を消して世界の実現に見るのは、この我の奥底に世界が世界自身を実現してゆくものがあるのでなければならない。身体は個と世界の矛盾的同一として、自己自身を限定するものでなければならない。自覚として自己の中に自己を見るとは、世界の中に自己を見出でてゆくのである。私は感情は此処より出でてくるのであると思う。我々の情熱は自己の中に世界を見んとする意志である。少女が昏れてゆく空に向って涙を流すのも、三蔵法師が死を決して印度に渡ったのも同一なる生命の噴出に外ならない。

 幼児のほほえみは直に我々のほほえみとなり、その昔ギリシャに流した悲劇の涙は我々の頬を伝って流れ落ちる。私は喜び悲しみは、古今東西を超えて直に一なるものがあると思う。世界が働くとは、多くの人が直に一なるものによって結ばれている事である。個的多が一である。そこに感情の現われ来る所以があると思う。

 喜び悲しみの何処より来り、何処に去りゆくかを知らないと言われる。それは我より出 ずるのでもなければ、汝より来るのでもない。我と汝の出合いの中より、我と汝に湧き来るのである。人とか物とかとの一々の出合いに如何なる表情をもつべきか、我々は予定するのではなくして、出合いに於ておのずかなる姿勢をもつのである。そこに感情は世界が世界自身を見る所以があると思う。

 世界が世界自身を見ると言っても一般としての世界が喜び悲しみをもつのではない。喜び悲しみをもつのは個としてのこの我であり汝である。個としてのこの我、汝が喜び悲しみをもち、喜び悲しみが世界が世界自身を見る所以である為には、この我亦は汝は内に世界をもつものでなければならない。

 個は個に対することによって個である。対するとは相否定することである。我と汝は否 定し合うものとして我と汝である。而してこの否定し合うことが結合することとして我と 汝はあるのである。例を国技としての角力に取れば、取組んでいる二人の内一人が勝って一人が負けなければならないのである。何方も相手を倒すべく渾身の力を振わなければならないのである。相手を倒そうとすることが角力をとるということである。否定し合うということが結合するということである。而してそれが角力の世界が世界自身を作ってゆくということなのである。喜び悲しみはこの否定し合うことが結合することであるところより出でてくるのである

 取り組む二人はそれぞれ習練と、習練より得た技術をもつものである。個的自己として内包をもつものである。個的なるものとして内包をもつということが人格的であるということである。人格的であることによる否定と結合が感情を生むのであると思う。友愛も憎悪も尊敬もここから生れるのである。

 技術も亦否定と結合の中より生れる。それは歴史的形成的である。自己の中に自己を見るとは過去が現在であるということである。無限の過去が現在の中に蓄積されているということは伝統的であるということである。伝統を踏まえていることである。踏まえるとは新たなるものを生むことである。新たなるものが生れるとは未来より呼ばれることである。過去を含み、過去を超えて新たなるものを見出すところに自己があり、自己を見出すことが自覚である。自覚とは歴史的形成的自覚である。

 私は感情も歴史的形成的であると思う。勿論何処より来り、何処に去りゆくかを知ら ない感情は形をもたない。それは瞬々に現はれて消えゆくものである。形のないところに形成ということはない。唯私は歴史的創造としての無限の世界の構築は、一瞬一瞬の喜び悲しみに無限の陰翳を宿すと思うものである。喜び悲しみは深まりゆくのである。我々は世界の深さに於て、深い喜び、深い悲しみをもつのである。よろこびという字に喜歓悦慶がある。これはそれぞれ個有の内容をもつ、私はこれは歴史的形成としての、世界の陰翳を宿すことなしには考えられないとおもう。感情は生命の結合が世界として、否定が個として、世界と個の無限に動的なる全存在の表出であると思う。生命は感情に於て全体像を現わすのである。我々は生命限定の深奥に感情をもつのである。感情に因て動きゆくのである。

 真は知に、善は意志に、美は感情に因ると言われる。感情が美であるとは如何なることであろうか。私は矢張り歴史的形成的生命を宿す感情の陰翳の中に求めなければならないと思う。否定が結合であり、結合が否定である生命創造を宿し、喜び悲しみが自己の中に新たなる陰翳を宿すこと自身が美なのである。生命形成は常に形相的である。而してその形相は動的である。形より形へである。感情はその動的方向として形をもたないのである。而してそれは形に即して形をもたないのである。形に即して形をもたないとは、形に即して現われることである。身体が時間と空間の矛盾的同一としてある時、空間が時間を宿す方向に物としての身体があり、時間が空間を宿す方向に感情があるのである。斯るものとして芸術の形相は常に韻律の翳である。韻律とは生命が自己の中に自己を見てゆく身体のあり方である。感情が物に即した形である。身体の中に見出でた身体が舞踊であり、色彩の中に見出でた色彩が絵画であり、音の中に見出でた音が音楽である。而してそれは各々即した物のあり方によって韻律を異にするのである。一々が歴史的現在の形相に結びつきつつ、それぞれの韻律をもつのである。

 私は前に古代ギリシャの人の流した涙は直に我々の頬に流れると言った。ホモ、サンピエスとして、身体の構造を等しくする我々は、古今東西を越えて直に結ぶ涙、響き合う血潮をもつのである。一瞬一瞬の歴史的形相は此処に陰翳を宿すのである。一瞬一瞬に異なる涙は其の深奥に大なる同一をもつのである。此処に我々は芸術的表現の衝動をもつのである。自己の生をこの大なる同一を通じて他者に呼びかけ、呼びかけられるのが表現である。芸術は永遠であると言われる。それは書いたものも、書かれたものも永遠であるのではなくして、それはこの大なる同一に宿された影として永遠なのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

魅力

 知れば知る程人間ほど不思議なものはないとおもう。この間も本を読んでいると人間の脳細胞は百四十億あり、その情報容量は百四十億の百四十億乗である。それは全宇宙の電子の数に匹敵すると書いてあった。一寸ぴんと来ない話である。兎に角途方もない数字である、一寸考えただけでも私達の身体は六十兆の細胞をもつと言われている、その細胞の一々が数多の電子をもつのである。人類の数は六十億に近いと言われる。その全人類をもってしても日本海を埋めることは出来ないであろう。人類は地球の極一部に過ぎない、その地球は太陽系の一微小物である。銀河系には太陽系のようなものが約一兆個あると言われている。更に宇宙には銀河系のようなものが約一兆系統あるそうである。その恒星が宇宙に占める質量は約10%であり、後の90%は目に見えない星間物質と言われるものだそうである。私の貧弱な頭では唯混絡むばかりであるがその電子量に匹敵するということは、私達の頭脳は宇宙にこれ迄起きたこと、これから起きるであろうことを内容とし得るということである。唯人の生涯にはたらくのはその十数%であるらしい。

 先日井上徳二さんが「以前は歌会に若い人が多数出席していたが今は殆んど見ない」と述懐していた。若い人を見ないということは、若い人を魅きつける力がないということであろう。それでは魅力とは何なのか、私は深大な力を宿す頭脳は世界を自分の内容としようとする要求をもつとおもう。世界を知り、世界を表現しようとするのである。私達は生命としてそれを生死に於て宿すのである。田を耕し、布を織り、家を建てる。それらは全て生きるために環境を適応さす努力である。努力とは環境を変化さすことであり、私達はそこに新しい力を獲得したものとなるのである。このように環境を作り、環境に作られるのが世界である。私達はその力を人類としてもつのである。私達ははたらくものとして自分の世界をもつ、それは人類の世界を分有するものである。分有するものとして絶えず世界に自己を映し、より大なる自己の世界を作ろうとするものである。私は魅力はそこから来るとおもう、自分の展いた世界から全世界を見、全世界に自分の世界を映す、そこに生命の躍動があるのである。生命の躍動は生命の実現である。

 歌が出来ないという嘆きをよく聞く。創作とは現われて消えてゆく日日の営みを、祖先以来の言葉の中に表現するということである。自分の営みを日本人が無限の過去から伝承し、無限の未来へ伝達する言葉の体系の中に入籍するということである。荒野を美田にするということである。努力を必然とするのである。ましてそれが自己の世界の表現を超え世界の表現となるには大なる力能が必要である。併し大なる世界を自己の表現に見出し、世界に自己を映してこそ他人を呼ぶことが出来、他人も応えることが出来るのである。

 生命は危機としてある、危機とは死と背中合せにあるということである。人間は物を作って生きるものとしてそれは常に課題をもつということである。よく新聞などで脱サラという記事を見る。それは自分の生に問題をもったということである。国家も世界も問題をもつことによって新しい形へと転じてゆくのである、それが世界を創るということである。世界を映し、世界に映さるとは危機と克服に於て世界が転じてゆく処に自己も亦転じてゆく処である。私はわれが表現すべきものは、世界と自分がそこから見られるものでなければならないとおもう。

 私は大正生れである。私の作品は大正的ロマンの残像を引摺っているようにおもう。みかしほの中には浪花節的情愛を多く見かける。それが悪いというのではない、唯未来を指呼する若い人を招き得ないだろうとおもうのみである。

長谷川利春「自覚的形成」

創造について

 近頃何処へ行っても書道教室とか、陶芸教室とかいうのが目につく。そしてそれは失われた人間性を、創作を通じて回復しようとすることらしい。私達はもともと人間である。それを失なったということは、人間は自分の中に自分を否定するものをもっていたということである。而して人間は自己の中に自己を否定し、自己を失なうものをもつことによって人間であるということが出来る。犬や鳥はその本性を失なうということはない。

 人間性の喪失が叫ばれてから久しい。人間性を失わしめたものは生産手段の発展である。巨大なる機械は分業を細分化し、人々はコンベア・ベルトの前に並べられた。そこにあるのは単調なる動作の繰り返しであった。製作する生命として人間はその背後に灰色の憂愁を宿していたのである。製作によって人間は、街頭に輝く商品を溢れしめた。而してその代償は単調な繰り返しによる感情の枯瘦であり、私有財産の争奪による精神の荒廃であった。巨大化する生産手段の中に人間は埋没したのである。 生命は本来創造的であり、創造に於て自己を充足してゆくのである。そこに人間性回復の声が生れ、書道教室や、陶芸教室の生れて来た所以があると思う。斯る創造とは如何なるものであるか。

 この間永井さんから葉書が届いて、家族で足立美術館に行った。素晴しい一日であった。子供等も何か得たようであると書いてあった。何か得たとは何ういうことなのであろうか。私は子供が次に画を見るときに、見て来たものが、見る目の中にはたらくものとなることであるとおもう。見て来たものが、見るものとなるのである。先覚の目が子供の目となるのである。色や形が子供の内部として、次のものを見るのである。それは書道や陶芸の製作に於て愈々明らかとなる。

 よく所用で内藤先生の書道教室を訪れるのであるが、多くの生徒が手本をそばに置いてたっぷりと墨を含んだ筆を慎重に動かしている。そして書き了ると朱筆で直してもらっている。直してもらい、次に書くということは、今書いたものが目の内容となって働いているということである。これ迄の書き上げた一枚一枚が力として、次の形を呼んでいるということである。作られたものが作るものとして、無限の内面的発展をもつ、それが創造である。そこに生命は自己を見、自己を充足するのである。見られたものが見るものとしてそこに形は常に新たである。

 毛筆を習う人は師をもち、空海とか良寛とかいった手本をもつ。習うとはこれ等先覚と の格闘である。それは他者として、習うものの前に立ちはだかるものである。而して格闘とは相対するものが否定に於て一つなることである。闘うことによって習うものの内面的発展があるとは、内面的発展は習う人を超えたより大なる世界の内容であると考えられなければならない。私はそれを歴史的形成的世界に求めたいと思う。

 足立美術館の画家も、空海も良寛も師を持ち、古蹟に学んだのである。見られたものが見るものとして、人類発生以来相伝して来たのである。人類の大なる創造線の一点として歴史的現在はあるのである。和歌を作り、土をひねり、墨書するとはこの創造線に添うということである。そこは見られたものが見るものとして、初めに終りがあるのである。芸術が永遠であるとは、ここに所以をもつのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

自然について

乙「この頃駅のポスターなんかでよく、自然を求めて田舎へ、文化を求めて都会へと か、森林浴とか、青い空、澄んだ水とか言った、自然への誘いの言葉を見かけるんだ。そこに都会人の精神の衰弱のようなものを感じるんだが、さて自然とは何かと問うと釈然としないんだ。それで君に問いたいと思って来たんだ。」

甲「大きな問題だね。昔から問い続けられ、僕等も問い、そして未来の人々も問いつ づけるのだろうね。限りなき謎かも知れない。而し、言葉をもつものとして、僕等は僕等の言葉で表してゆくべきなのだろうね。その意味で考えただけ語ってみるよ。」

乙「僕も具体的な問いを用意せず、自然とは何かといった問いでは恐縮なんだが、君 の答えの中から新たな問いが生まれてくると思うから頼むよ。」

甲「和辻哲郎であったように思うんだが、昔読んだ本に、自然とは経験の露はなものであるといった意味のことが書いてあったと思うんだ。そのときはよく分からなかったんだが、そこに秘密の扉を開く鍵があるような気がしたんだ。君の問いに対してもそこから出発したいと思うんだ。」

乙「あの山や川が経験なんかね。」

甲「僕達の小さい時に兎を追いし山とか魚をとりし川とか言う歌があったね。水は渇 きを癒すものとして飲む水なんだ。歩み耕すところとして大地があるんだ。山は薪を 取り、登り越えるところなんだ。川は魚を追い、泳ぎ体を洗うところなのだ。山や川が自然であるのはこのような生の対応をとうして自然であると思うんだ。」

乙 「而し、生の対応が全て自然であると思えないが、」

甲「そうだね。経験は身体を経るということが必要だが、僕は人間の身体は相反する 二つのものをもっていると思うんだ。一つは物を作るものとしての方向だ。一つは生 まれ来たったものとして、作られたものの方向だ。君が前にポスターのスローガンに、 文化を求めて都会へ、自然を求めて田舎へ、というのがあると言っていたね。それはこの二重構造の表れであると思うんだ。生まれ来った生の対応として自然があると思うんだ。」

乙「生の対応関係というのを少し説明してくれないか。」

甲「僕達が生きてゆくには身体に攝食と排泄というはたらきがあるんだ。生きている ということは攝食と排泄をもつということなんだ。それは何故にあるかという問いを超えた、直接に与えられたものだ。食うというのは外を内とすることだ。排泄というのは内を外とすることだ。外というのは我でないもの、身体を離れたものだ。生きているということは、内外相互転換的にあるということだ。内は自宅ではない外を得るために、外へのはたらきをもたなければならない訳だ。そこに動物の行動というのがある。行動とは外を内にしようとするはたらきだ。そこに生命圏というのが生まれる。よく貴方の行動半径は広いですねと言われるとき、この生命圏を基準にしていると思うんだ。この生命圏に於いては生命は外と内をもつんだ。動物が行動をもつ生命であるとき、生命はこの生命圏に於いて具体的となるんだ。そして身体を内とし、外を環境とするんだ。外を内とするのは力だ。全て生命あるものは力の表出によって、努力によって生きるのだ。力の表出によって外を内にするとは、外は我々の否定としてあることだ。環境は死として迫って来るのだ。」

乙「環境は我々がそこに生きるところではないのかね。」

甲「そうだ。死として迫って来るのは、身体は努力しなければ生きていけないということなんだ。生命は生命を否定してくるものによって生きてゆくのだ。水や火が恐怖であると共に、恵みであるとはよく言われるところだ。生きる所であるが故に、それによってあるが故に死として迫ってくるのだ。」

乙「それではその内外相互転換が経験であり、死として迫ってくるものが自然なのか。」

甲「経験は内外相互転換的だ。而し死として迫ってくるもののみが自然ではない。カ の表出に於いて生を獲得した時、自然は恵みであるのだ。」

乙「経験があらわとなるとはどういうことなのか。」

甲「人間は言葉をもつことによって、自覚者として人間だ。言葉によって自己を外にし、外にすることに自己が自らを見るのが自覚だ。我々は言葉によって内に自己を見、外に環境を見るんだ。而して環境は既に人間の自覚的内容を含むものだ。人間が作って来たものだ。その作って来た方向に歴史が成立し、作られた方向、生まれ来った方向に自然があるのだ。あらわになるとは外に形に見ることだ。その形の極限に、相互転換を失った処に我等を包む山や川があるのだ。その相互転換を失うというのは、人間の自覚構造の内容としてあるのだ。そして相互転換の動的な方向に喜怒哀楽の情緒があるのだ。主体の方向が動的、客体の方向が静的だ。生命は否定に面した時、死の方向を向いた時に怒り悲しみ、肯定の方向、生の方向を向いた時に喜び楽しむんだ。静と動とは一つの形相の両面として、あの山、あの川と唄われる如く、山や川は我々の哀楽を住まわせることによって山や川なのだ。而し哀楽はその山や川によって具現したものとして哀楽なのだ。山や川も、喜怒哀楽も作られたものの方向にではなく、生まれ来ったものの方向にあるものとして、主体的、客体的な生命圏の形相が自然なのだ、あらわになるとは斯く捉える事だ。」

乙「君は前に経験は身体を経なければならないと言ったね。そうとすると経験は身体 がするんだね。」

甲「そうだ、生命圏の主体として、身体が経験するのだ。」

乙「身体は生まれて死んでゆく有限なものだ。それに対して自然は悠久なものだ。もし自然が経験の内容であるならば身体の死と共になくならなければならないと思うが。」

甲「死と共に感覚はなくなる。そこに経験のあり得る余地はない。而し自然はある。而し僕達はここで考えなければならないと思うんだ。君が死んだと仮定して、君の自然は何処にあるのだろう。あの山もこの川も君には存在しない筈だ。それがあると思うのは、君は君を超えた目で見ていると思うんだ。悠久の目なくして自然を見ることは出来ないと思うんだ。」

乙 「君のよく言う種的、個的なるものかね。」

甲「そうだ生命形成は種的形成だ。種は個的に形成するものとして、我々の目や耳は 人類の目や耳であるのだ。我々は我々を越えた目で見るのだ。そして前に言った如く言葉によってあらわとなる時、対象を悠久として見るのだ。」

乙「人類は限りないものかね。」

甲「人類の発生は何百万年か前だと言われているのを読んだことがあるが、その限り に於いて有限なものだ。而しその前の生命があった筈だ。僕はこの我を生の全体系から考えたいのだ。生命は炭素から生まれたといわれているが、その炭素から考えたいのだ。」

乙「それは大変な事で、とても田舎の片隅にいては出来難いのではないか。」

甲「勿論如何にして出現したかというような大それたことは思っていないよ、生命とは何かを問いたいのだ。」

乙 「どのようなものとして考えているのかね。」

甲「自己形成的であるということだ。アメーバより人間へと言われるが、機能を分化 せめてより大なる時間と空間の形相を創り上げてゆくということだ。自己形成的として、生命はそれ自体が技術体系であるということだ。人間も斯るものとしてあると思うんだ。時間は技術的として形相形成的なるときに見られるものだ。それ自体が技術的であるとは絶えず新たな形を創ってゆくことだ。今の形を否定してゆくことだ。生命が時間的であるとは、技術内在的であるということだと思うんだ。僕達は技術を介して無限の未来を見るね、それと同時に技術を介して無限の過去を見ると思うんだ。僕はね人間が物を作る技術も斯る生命の自己形成の自覚としてあると思うんだ。経験を蓄積することによって、自然の技術を言葉によって体系化することによって人間は技術をもち、文明を築き上げたと思うんだ。人間がその上に立って我々の現在を築き上げたものとして、僕は単細胞に迄自分の過去を求めなければならないと思うんだ。生命が現れてから四十億年とか言われているがそれは見る事の出来ない深さであると思うんだ。人間はその頂点に立つものとして、無限の時間を孕んでいるのだ。僕達の身体を形造っている何兆という細胞の機構は、四十億年の時間の集計なのだ。成程人 間は生まれて百年足らずで死ぬ、而しそれは四十億年の生命形成の集計の身体として死ぬのだ。経験は身体の斯る二重構造に於いてあるのだ。形成は常に生命圏的だ。悠久なる自然は、悠久なる生命の外的方向としてあるのだ。」

乙「自然は最大の教師なりとは、生命のその自己形成の上に立つということなのか。」

甲「僕はそう思うんだ。 生命圏的に自己を形成する生命は、外に悠久なるものをもつ と共に、内に変じて止まないものなのだ。身体は内外相互転換的として、両方向をも つものだ。内的、外的として身体はあるのだ。よく言われる如く、人間の自覚は表現 として、身体の外化であると思うんだ。内外相互転換的としての身体は自覚に於いて、外を身体を維持する食物的環境から、身体を外に表す表現的世界とするのだ。道具は手の延長と言われ、機械は道具の延長と言われるね。 湯川秀樹博士は、物理学は関節 覚と視覚の自覚であると書いておられたが、我々の技術は身体の外延的方向への形成としてあると思うんだ。極論すれば世界は人類の自覚的身体なのだ。身体はあくまでも生まれ来ったものだ、その延長として世界があるということは、自然の技術として生まれ来った生命が自己を見る生命であるということだ。人間社会の文明は空中に築かれた楼閣ではなくして、単細胞より形成して来た生命の技術の自覚としてあると思うのだ。自然はそこから出て来る母胎なのだ。四十億年の時の深さを思うとき、ニュー トンの言った如く、真理の海の浜辺にあって、一握りの小石を拾うものに過ぎないのではないか、最大の教師というよりは自然の底に入ることなくして新しい物を生むことが出来ないのではないか。自覚とは底に入ることによって、上に築くことだと思うんだ。」

乙「よく自然にかえれと言われるね。最初に言ったポスターなんかもそれに類すると 思うんだ。而し人間は自然の底に入り、上に築いて世界を作ったとすれば自然にかえ る必要はないのではないか。」

甲「いやそうではないよ、底に入り、上に築いたからこそ自然にかえる必要があると 思うんだ。例えば動物に於いては食物と動物は生命圏として一つだ。昔こういうこと を読んだ事があるよ、馬の左右に、等しい距離に同じ量と質の食物を置いたとすると、馬は何方も食うことが出来ず餓死しなければならないと。馬が求めるとは食物が誘うことであると。それに対して人間が自覚的であるとは物を作るということだ。自己を外にすることだ。自己を外にするとは、物が外なる自己となって、この我と否定し合 うことだ。歴史の無限なる闘争はここにあるのだ。物に重圧される主体、ここに文明 社会の生命の衰弱があるのだ。而し自己を外にするとはより深大なる生命圏の創造なのだ。生命は内外相反するものから生命圏としての一を回復しなければならないのだ。そこに自然にかえらなければならない意味があるのだ。」

乙「生命圏の一を回復するとはどのようなことなのか。」

甲「何処迄も僕はそう思うという答えなんだからそう思って聞いてくれ、いつであったかこうゆうのを読んだことがあるんだ。 大脳が欠損して鳥のような頭をした少女が いた。その少女は判断力は殆ど持たなかったが、全身をもって笑い怒り、情動は非常 豊かであったと、前にもいったが作られたもの、生まれたものとしての生命圏の内外相互転換は情緒的であると思うんだ。生命は情緒的に自らを現し、我々は情動に於 いて生命を感じると思うんだ。そこに働く力の根源があると思うんだ。或る人が浜田 庄次の処へ縄文時代の土器を持って来て、その複製を頼んだところ、氏はじっと見ていたがやがて、僕にはとても作れないと言って返したそうだ。それに対して著者は縄 文時代は体格がよくて、土器を作ったのは女性であるが、女性といえども六尺豊かな 浜田氏より力が強かったので、氏はその力の表現に及ばないものを感ぜられたので ろう、と書いていたが、僕はそうではなくて、原始人の情動の激しさが力となって現れたのではないかと思うんだ。ゴーガンがタヒチに行ったのも、生命の純なるものを求めてではないかと思うんだ。僕達は最早原始にかえることは出来ない。そこで理知と情念のバランスが必要となってくるんだ。情緒は活力だ。理性はその普遍性の故に活力を枯死せしめる。そこに山や川の野の声に呼ばれる所以があると思うんだ。生命は常に今を生きているのだ。そこに理性によって衰弱させられる所以があるのだ。大地を歩み、水に手を浸すのが生命の賦活につながる所以がそこにあるのだ。」

乙「それではある時間を理性に、ある時間を自然に使うのが自然にかえることか。」 甲「僕は残念ながら十八世紀の自然にかえれの大合唱につい殆ど知らないのだ。だから僕自身の考えをいうと、今言ったのは君の駅のポスターの意味だ。自然にかえれというのは既に自然ではないのだ、自然の否定として、自然の上に築かれた文化があった。更にこの文化を否定する深い自覚としてあるものだ。十八世紀の自然主義は単なる自然にかえろうとした錯誤に於いて挫折したのではなかろうかと思うよ。人間の自覚に於いて内外相分かれたのは、より大なる時間空間の創造だ。人間の自覚が自然の上に立った如く、文化を包んだ自然を見なければならないと思うんだ。僕は自然にかえれの奥底に、禅家の日日是好日のようなものがあると思うんだ。そこに生まれ来った時間と、創ってゆく時間の統一のようなものがあるように思うんだ。勿論深大な宗教的体験をもたない僕は、もやを距てて地平を見るようなものだがね。」

乙「そうすると我々人間は自然に対してどうすべきなんだろうね。」

甲「生命が身体的である以上、一つの生態系の発展は他の生態系の衰亡を意味するんだ。人間も亦身体的として、他の生態系を駆逐して生きて来たのだ。而し一つの生態系が無限に繁殖してよいというものではないのだ。地球的規模に於いて生態系は相互否定的であると共に相互肯定的なのだ。闘うものであると共に、依存し合うものだ。

四十億年の自然の技術はそこに均衡をとって来たのだ。他の生態系を全部駆逐したとしよう。そのとき人間はどうして生きてゆくのか、それは攝食のみではなく、排泄に 於いてもそうだ。均衡のとれた生態系の共存に於いては、排泄物は植物の成長を促し、水や空気は自浄作用をもつ、而し過剰な排泄は他の生態体系の死をもらすのだ。それははね返って人間の死でもあるのだ。新聞、テレビによく報ぜられる汚染がそれだ。而して生めよ、殖やせよ、地に満てよは生命の意志なのだ。他に打ち勝ち、己が生態系を拡大すべく生命はあるのだ。」

乙「そうすると知りつつ地獄への道を歩まなければならないのか。」

甲「いや僕はそう思わないんだ。人間が他の生態系に対して卓越したのはその技術 於いてだ。技術は経験の蓄積に於いてあると思うんだ。仮説と実験が物理学の基礎となっているのも、経験の延長線上にあると思うのだ。経験は自然にあり、技術は自然の把握だ。そして自然は闘いを媒介としつつ調和を保って来たのだ。僕は斯るものと して技術は必ず調和を志向すると思うのだ。人間も亦一生態系として、他の生態系を駆逐するだろう。そのことは人間の死として迫ってくるのだ。その危機に於いて人 間は調和へと目覚めるのだ。そこに自然の深さがあるのだ。四十億年があるのだ。技 術とは常に危機の超克であったのだ。生命は何処迄も自己限定的だ、自愛としてあるのだ。自己が世界によってあると知った時に愛他となるのだ。僕は必ず生命としての地球は救済されると思っているんだ。ある人から琵琶湖の汚染は元にかえらないと問いたことがあるんだ。恐らく現在の延長線からはそうであろう。而し危機をバネとし 技術は変革だ。生の快適なる姿になると信じるんだ。これは僕の詩的空想ではない と思っているんだ。本当の事を言えば僕は今の地上の生態体系を覆して、人間が自己の底につながる自然の相に作り変えるべきであると思っているんだ。人間が技術をもつ生命であることも自然が生んだものだ。人間の創造に於いて自然は自己を完成するのではないかと思うのだ。」

乙「それは大きな問題で簡単に結論は出せないだろうね、而し人間が技術をもって自 然に対するときそうならざるを得ないのだろうね。それはそうとしてよく自然は美しいと言われるが、それに対する君の考えを言ってくれないか。」

甲「幾回もいうとおり僕は自然を経験に於いて捉えようとするものだ。そこには美も 醜もない、あるとすれば快、不快のようなものだろう。美は価値として人間の創造の 内容だ。それは自然ではなくして歴史の世界に属するものだと思うよ。例に引くのだ が、今尚呪術社会に生きるペルーの山奥を尋ねられた佐藤信行氏の著書の一節にこういうのがあるんだ。悪霊が山の上に棲むと言はれ、後にこうした観念から、万年雪をいただくアンデスの白嶺も、インディオにとっては美しい姿として目に映じているのではなく、悪魔の棲家としておそれられているのだ。たかが村境の峠ですら百鬼横行しているのであるから、あの雄大なアンデスの白嶺には、この世のありとあらゆる悪霊の親玉がたむろしていると思いおそれられているのは、無理からぬことである。我々が絶景を賞でる白嶺の輝きもそこでは恐怖の対象に外ならないと言うのだ。而しそれを笑ってはいけないと思うんだ。若しそこに生まれ、そこに住んでいたなら我々も恐怖の目で見上げるのだ。我々がそれを美しいと思うのは限りない先人の創造の努力があったのだ。我々の目は無限の時によって創られた歴史的現在の目なのだ。今住んでいる社会が自覚的生命の形相として、無限の過去を孕んでいるんだ。我々が物を見るとはこの社会の奥から見ているんだ。未開人は未開社会の奥から見ているのだ。自然の形相は斯る主体との対応関係として、何処迄も経験的なのだと思うよ、ワイルドの言う如く自然は芸術を模倣するのだ。」

乙「有難う、僕は自然を聞きながら人間の底の深さをしみじみと感じたよ。」

甲「僕も君に答える事によって、考えを明らかに出来たよ、亦来給え。」

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

不生不滅

 寄せて来る波が砂に伸びて消え、新たな波が寄せては消える。目を上げると重々無尽、視野果つる所より千万の波がたゆたい寄せている。私はそれを見ながら思いを過ぎゆくものに移した。太古より幾多の波が生れ消えている。それは人生の生死にも擬え得るものである。併し思えば太古の波も、今寄せている波も同じ海の水のたゆたいである。起伏変遷があるということは大なる同一をもつことである。人間に於ても同じである。生死を見るものは生死を超えたものをもつことでなければならない。全ての生死を自己のたゆたいとする如き、生命の海に於て生死を見ることが出来るのである。

 私はかかるものの端的な表れを言葉に見ることが出来ると思う。言葉を作った人はないと言われる。言葉は太古よりの人と人との関り合いの中から生れたものである。而して生んだ言葉によって私達は私となったのである。私達は他人の言葉を語ることは出来ない。私の言葉は何処迄も私個有のものである。人と人との間から生れたもの、私ならざるものによって私は私となるのである。

 私は今ゲーテを読んでいる。ゲーテは既に死んでいない。いない人の本を読むということは、ゲーテの言葉は私の中に生かされ、私の中に生きることによって生命を持続することである。併し私の中に生きるということは、私がゲーテに生かされるということである。読むことによってゲーテの言葉は私の言葉と化す。併し私に化した言葉は私の言葉であって、ゲーテの言葉は依然としてゲーテの言葉である。

 言葉は普遍のものである。一人のみがもつ言葉というのは言葉ではない。我々は解続することによって、六千年前のスメル人の思想行動を知ることが出来る。それは古今を通貫し、東西に敷延するものである。併し言葉一般というものはない。言葉は何処迄も私の言葉であり、君の言葉である。私達は自分の言葉をもつことによって、対話するものとなり、人類の一員となるのである。個が一般であり、個が一般であることは、一般が個であることである。

 人間の身体のみにあって他の動物にないもの、それは言語中枢であると言われる。 言語中枢は人類が、生命創造の究極に見出でたものである。それによって我々は言葉をもち、他の動物に卓越することが出来たのである。その言語中枢は一人一人がもつ、人類という抽象的普遍がもつのではなくして、今この字を書ける我、田を耕せる君がもつのである。而してそれはこの我や君がつくったのではない。人類の壮大な生命の流れがつくったのである。

 言葉は既に述べた如く、無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達するものである。身体の生死を超えたものである。而して言語中枢は生死するこの身体がもつのである。生死する身体は生死を超えたものをもつ身体である。生死する身体が生死を超えたものをもつとは、語られる言葉は生死に関るということである。そこに人間の懊悩がある。

 人間が言語中枢によって人間であるとは、我々の自己は我々を超えたものによって自己であることである。身体が身体を超えたものをもつとは、超えたものによって身体が見られているということである。私達は初見の人に自己紹介として名刺を出す。その名刺には住所氏名職業が記されている。これ等は全て身体の存在を超えたものである。住所は祖先が拓いた土地にあり、氏名は血脈の連続の上にあるものであり、職業は限りない技術の伝統の上に立つのである。それを言葉が写したものが自己である。

 不生不滅は周知の如く般若心経の中に書かれている言葉である。心経は五蘊は皆空なりと照見して一切苦厄を渡すと書く。五蘊は生死する身体の欲求として、ここに書く身体に比すべきものである。照見された世界を色即是空と説く。即とは相反するものが一ということである。色は何処迄も空ならざるものであり、空は何処迄も色ならざるものである。それが直に一ということである。相反するものが一であるとは、相互媒介的ということである。色は空によってあり、空は色によってあるのである。

 色が何処迄も空ならざるものであるとき、色が見ることの出来るものであれば、空は見ることの出来ないものでなければならない。見ることの出来ないものが、見ることの出来るものと一であるとは、見えないものははたらくものであり、見えるものは、はたらくことによって見出されたものでなければならない。前に言った如く一般が個であり、個が一般である。それは矛盾である。併して生命は矛盾として動きゆくのであり、矛盾は時間の論理である。

 言葉をもつということは自覚的ということである。自覚とは自己の中に自己を見ること である。空がはたらくものであり、色が見られたものであるとは、自己の中に見出でた自己として、空がはたらくとは色がはたらくことである。人間生命がはたらくものであるとは、この我、汝がはたらくことであり、この我、汝がはたらくことは、普遍的人間生命がはたらくことである。

 色は相対するものである。全て見出されたものは相対するものとして見出されたものである。右は左に対し、求心力は遠心力に対す、 我と汝があるということは、我と汝は相対するものとしてあるのである。相対するものは相互否定として相対するのである。右は左の否定としてあり、求心力は遠心力の否定としてある。我と汝も否定し合うもの、相争うものとして我と汝なのである。

 斯く否定し合うところが空である。空がはたらくものであることによって、空に於て我と汝は否定し合うのである。お互が身体を超えた世界をもつものとして、世界に於て我と汝は相対し、相はたらくのである。この我を色身として、この我と汝がはたらく処として、世界が空の意味をもつのである。

 はたらくとは否定し合うことである。否定し合うことは、はたらく世界が自己自身を見 ることとして否定し合うのである。世界は競争の場であり、人は競争に打勝たんとするのである。それは実業界であろうと、芸能界であろうと、人と人との関り合うところ例外はあり得ないものである。而してその競争をなすところとして必ず業界があるのである。我と汝の競争は業界の発展として、競争の裡に業界は新しい自己の相をもつのである。個が普遍であるとは常に斯る形に於て、現実として実現してゆくのである。否定し合う我と汝は業界の発展に於て結びつくのである。はたらくとは世界を内にもつことであり、世界を内にもつことによって、否定し合う我と汝は、お互に内にもつ世界によってつくられたものとして肯定し合うのである。否定が肯定であり、肯定が否定である。それは生死するものが超越的である我々の身体より出でるのである。

 生死する身体に写した超越的なるものが業界である。我々はことではたらくものとして 物を作るのである。それに対して超越的なるものに身体を映すとき、身体がそこにはたらく業界があると共に、業界がそれによってある世界があるのである。業界が自己自身を創っているものである如く、それは自己自身をつくってゆくものである。業界が生死する個を包むものとして、時の内容としてあるのに対して、時を包むものである。業界が個人の否定を媒介として自己創造をもち、自己創造に於て否定を肯定に転じた如く、業界の創造を、創造あらしめるものとして絶対普遍に転ずるものである。

 そこは究極的一として顕れも隠れもしないものである。一瞬一瞬にあらわれて消えつつあらわれ消えるものを自己の陰とする存在者である。それは恰も大海の水の如く、万波を自己の揺曳とするものである。業界は一つの湾に、個人は一つの波にも比せられるであろう。水は大なる力として、現われて消えるのは全て自己の中である。初めも終りもその中 のたゆたいである。

 般若心経は知見の書と言われる。知見とは言葉によって見ることである。言葉はそれによって我と汝を見、過去と未来を見るものとして超越的なるものである。我と汝、過去と未来はその中に見られるものとして、超越者のたゆたいの起伏に外ならないものである。この我がそれによってあるものとして、我をあらしめる超越者の大なる目となってこの我を見たのが不生不滅である。

 不生不滅の世界は一者として静寂である。併しそれは何もなき静寂ではない。無限の動きをもつものとしての一者であり静寂である。全てのものがそこに生れ、そこに消えゆく 一者として動乱と混迷を超えた大知見の静寂である。全存在への思量底の静寂である。

 色は空ならざるもの、空は色ならざるものとして相互媒介的にあるとき、色身としての この我が空に媒介されるとは、空によって否定されることでなければならない。空によって否定されるとは、色身がなくなることではない。無くなるところに相互媒介はない、 身が空の形相となることでなければならない。それは色身としての欲求的行動が言葉の内容となり、言葉によって新しき形相を得ることである。

 相互媒介的に否定されるとは死して生れることである。我々は日々の行々歩々、大なる生命の中に死ぬことによって生きるところに自覚があるのである。生き切るとは、死に切ることである。愛語よく回天の力を有すと、道元は言う。愛も慈悲もそこより生れるのである。

 色身の死に切ったところが、自覚的生命の生き切るところとして不生不滅はある。自覚的生命の大なる表現的世界は色身の生死を超絶するのである。自覚的生命としての人間はそこに生きるのである。 ロダンも道元も二宮尊もそこに生きるのである。不生不滅は冷岩枯木となることではない。言葉をもつことによって真に熱き血潮となるのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

人間回復としての文化

 文化とは生命がその形成作用に於て内面的必然をもったということである。私はその例を一番卑近なる食文化の中の漬物にとりたいとおもう。漬物は野菜の塩による保存食である。私はそれが塩と野菜の間は文化とは言われないとおもう。それが文化となるためには糠とか糀とかが加わらなければならないとおもう。糠とか糀とかが加わったということは 新しい形が生れ、新しい味が生れたということである。そしてその形が次の形を生むということが文化の創造ということであるとおもう。次の形を生むとは形の関り合いの中から新しい形が生れることである。或る家の漬物に昆布が加えてあったとする。或る家の漬物には柿の皮が加えてあったとする。その二つを関り合せることによって、新しい味の新しい漬物を作り出すことが、形の中より次の形が生れるということである。食物は一々が異なった味をもつ、それを組合せることによって無限の形が生れてくるのである。無限の形が漬物の世界であり、形の中から形を作ってゆくのが漬物の創造である。そして生れた形と、更に形が形を生んでゆくのが食文化の中の漬物の文化である。そしてこの文化を生んでゆくものは舌のよろこびである。

 何故に塩と野菜の食物としての結合は文化ではないのか、私はそこに生命形成があるとおもう。生命は内外相互転換的に形成的である。外とは我ならざるものである、我ならざるものとしてその獲得は偶然である。虎は一夜に千里を走ると言う、それはそれだけ走らなければ獲物に出会わないということであろう。人間はそれを経験の蓄積に於て必然に転ずるのである。蓄積するとは再現することである。例えば稲を山野に発見して持ち帰り、その時に忘れたか落とした統が芽生えたとする、それを播種することによって芽生えをもつのである。それは必然の原点である、併しそれだけに終るならば私は稲作文化とは言い得ないとおもう。生育の為に溝渠を作り、保水の為に曲を作り、収穫保存の為に容器を作ってゆくところに稲作文化があるとおもう。多くの経験を一つの行為的体系としてまとめるのである。偶然が形の内面的要求に於て必然となるのである。

 私は私達が偶然としてもつ対象は本来生命として主体となるものであったとおもう。 生命が内外相互転換的であるとは、転換的に一なることである。米は我ではない、我は米ではない、併し有機質として一つである。鉄分や燐分が無機質であるとしてもわれわれの身体の組成物質として一なるものである。われわれの身体が断る組成であるとは、われわれの形とは宇宙の見出でた宇宙の形であるということである。私は私達の内外相互転換とは、宇宙が見出してゆく宇宙の形としてあるとおもう。斯る宇宙を形成する一々の要素が宇宙を形成するものとして、宇宙の中心の意味を有し、一々が宇宙を映すところに一々は否定し合うものとして絶対の他となるのである。斯る一々の他者が形成するものとして一なるところに内外相互転換はあるのである。一々の他は多として、一即多、多即一なるところに形はあるのである。一即多、多即一とは形成的ということである。

 形成が一即多、多即一として、一々が世界を映すことが露わとなったのが生命である。多としての一々が世界を宿すのである。そこに身体が成立するのである。身体は無数の他者との関りを自己の中に蓄積し、統一するものである。無数の一々の関り合いが宇宙の姿である。その関りを多としての個が内容としてもつのが身体である。それは一瞬一瞬の関り合いの統一である。斯る統一が時間であり、身体は時間をもつものとして身体である。原子と原子の関り合いが宇宙の姿として、それを蓄積し統一することが宇宙を写すことであり、宇宙を写すとは宇宙がそれによって自己自身を見てゆくことである。

 身体が斯く宇宙の自己形成として、宇宙を写すことが身体の形成であるとは、身体は欲求的であるということである。身体は無限に他者に関ることによって宇宙を写し、自己が小宇宙たらんとするのである。他者と関ることが自己形成であるために、他者と関ることによって自己を作る機能が生れなければならない、生れた機能は更に他者を欲するのである。食本能と食物環境は斯る形成として見られるのであるとおもう。そして生物は如何なるものも宇宙を写すのである。

 宇宙を写すものとして生命が自己形成的であるとは自己維持的であり、自己保存的であ る。自己保存に於て一瞬一瞬の内外相互転換を蓄積し統一して自己であり続けることが出来るのである。自己保存とは宇宙の形成的意志である。而して多としての万物の一々が世界を写すことによって個があるということは、他としての個と個の関り合いはその一々が内包する世界と世界が衝突することである。食物的世界は奪い合う世界であり、本能の世界は闘争の世界である。個的身体は宇宙が一即多として自己を見、自己を実現した小宇宙としての世界である。併しそれが相互否定として闘争の世界であるとき未だ真に一即多、多即一の世界が現われたということは出来ない。世界形成的に一即多、多即一とは、一が多を成じ、多が一を成じる世界でなければならない。対立するものは相互に生かし合う世界でなければならない。多の対立は根底に一をもち、その一にかえることによって真個の自己を見るのである、それが相互に生かし合うことであり、多即一ということである。

 私は斯かるものを生命の自覚に求めたいとおもう、自覚とは自己を知るものとしてはたらくということである。自己を知るものとしてはたらくとは写されたものがはたらくものとなることである。身体はもともと宇宙を写し写されたものがはたらくものとして形成されたものであった。そして写されたものがはたらくとは内外相互転換的であった。内外相互転換的とは食物を摂ることによって身体に化すということである。併しそれは生来的として与えられたものである。身体に化すとは外が内となることである。自覚するとは斯く外を単に食物として対するのではなく、広く食物がそれに、よってある食物的環境に拡大するものである。それが写されたものがはたらくものとなることであり経験の蓄積である。それは無限に内と外とが写し合うものである。外的表象として環境に物が生まれ、内的表象として身体に記憶とか想像が生れるのである。そして記憶や想像は物を写し、物は記憶や想像を写すのである。斯る発展の内的表象の方に必然が生れ、外として物の偶然と対すのである。生命の形成的展開の肯定面に必然が生れ、否定面に偶然が生れるのである。故に必然の発展によって偶然がなくなるのではない、一つの偶然を必然の内容とすることはより多くの偶然を生むことである。私は偶然を必然の母胎と見たいとおもう。必然との交叉の底には必然によって達することの出来ないものがあるようにおもう。それは暗黒が同時明光なるものである。星は目に見えない暗黒の微粒子が集まり、集団となったエネルギーによって灼熱し光り輝く存在になったと言われる。私は偶然と必然に斯るものにも似た関係があるようにおもう。

 私は文化とは斯る必然としての内面的発展の形象であるとおもう。内面的発展は外と内とが映し合う無限の発展である。形が形を生んでゆくのである。外に物が形をもち、内によろこびが形をもつのである。記憶や想像は外に物を見出した内のよろこびの形である。そしてかなしみは外に物の消えた内の形である。私は前に漬物のさまざまの形を生んでゆくのは舌のよろこびであると言った。私は漬物のみではなくして全て人類が見出でた食物の形は舌が見出でたよろこびの形であるとおもう。そしてその形は記憶と想像が生み出したのである。よろこびかなしみは単一なる一つの感情ではなくして、外に形を見ることによって無限に深まりゆくものである。生命は無限の形成作用であり、それは内と外に無限の形を見てゆくものである。而して斯く二方向に形を見るということは形成的に一でありつつ異なった方向をもつということでなければならない。私はそれを一つは環境の方向に見、一つは身体の方向に見たいとおもう。一つを物の方向に、一つをよろこびかなしみと しての生命の方向に見たいとおもう。そしてよく言われる文明と文化もそこに分ちたいとおもう。勿論それは前に言った如く根幹に於いて一である。

 全ての生命は身体形成的であり、生命発生以来三十八億年の内外相互転換に於て作り出した形である。その内言語中枢をもつのは人間だけであると言われる。人間だけがもつということは、生命が内外相互的に宇宙を表わす最大最深のものとしての出現をもったということであるとおもう。それは三十八億年の生命形成を一望に見、形成的に操作する力をもったということである。私は生命はその三十八億年の内外相互転換に於て無限の層をなし、その層に於ておのずから表現に深さ、高さを異にするとおもう。後から出現するものは前の矛盾を克服したものとしてより大なるものである。

 形成としての感覚には二つの質の異なったものがあると言われる。一つはくり返すことによって鈍磨してゆくものであり、一つはくり返すことによって鋭敏となってゆくものである。前者の方向に嗅覚・味覚があり、後者の方に聴覚・視覚があると言われる。味覚は身体に対象が直接するものであり、嗅覚は近縁するものである。それに対して聴覚・視覚は遠くの対象に関るものである。事実私達はいくら美味しいてんぷらでも五日も続けて食わされると見たくもなくなる。好いにおい、悪いにおいでも時間が経つにつれて感覚が 鈍ってくる。それに対して聴覚・視覚は何の音・何の姿であるかを判別しようとする。それを持続することは微細精緻なるものに分け入ってゆくことである。

 生命の原初の状態に於て、内外相互転換としての外は身体と接触するものにあったとおもう、触覚が全ての感官であったとおもう。それが生命の発展により他の生命を捕捉して食用とするようになって行動が必要になり、さまざまの機能が生れたのであるとおもう。行動の拡大が空間の獲得であり、それに至る無限の内外相互転換が時間の創出である。より大なる時間・空間は生命の発展の様相であるとおもう。私は目や耳が何時如何にして出来たか知らない。併しそれは生命の形成的発展に於て機能し続けた感官であるとおもう。それに対して舌や鼻は生命形成の時間・空間の発展より取り残された感官であるとおもう。そこに質の異なる感覚系統が出来たのであるとおもう。

 芸術として表現される感覚はこのくり返すことによって鋭敏となってゆく内容であると言われる。見ることによって鋭敏になるとは形の中に形を見ることである。画家は私達の見ることの出来ない美しい色を見ていると言われる。色の中に色を見るのである。赤の中に赤を見るのである。色彩が色彩を分ってゆくのである。そこにわれわれの見ることの出来ない美しい色彩が生れるのである。そこに色彩の群が生れ、色彩が色彩を生む体系が生れるのである。目が色彩の中に色彩を見たとき、このわれの生命が生命の相を見たものとして、生命の中より溢れ出た生として表現衝動をもつのである。それが絵画である。音であるとき音楽である。

 目は最も広く対象に接するものとしてものの形は最も多く目が決定する。而してものの形は前にも言った如く無限の内外相互転換によってなるものである。無限の内面的発展を潜めるものである。生命はものの形を目をとうして決定するのである。併し目は対象を変革することは出来ない。目が形の中に形を見るとは手を加えた目となることである。そこに物の製作があり、生命の自覚的発展があるのである。形は斯る製作に於て自己の中に自己を見るのである。目は斯る製作的生命として形の中に形を見るのである。手を加えた目となるとは全身的となることである。それに於て対象を変革するとは自己を変革することである。物を作るとは自己を作ることである。そこに目は内面的発展を見る目となるのである。目は自己自身を見る目となるのである。私はそこに味覚・嗅覚のもつ表現内容と、視覚・聴覚のもつ表現内容が異なるとおもう。味覚は舌のよろこびであり、嗅覚は鼻のあらわれである。視覚は目のよろこびであり、聴覚は耳のよろこびである。共にその形の展開として文化である。併し視聴覚は自己の根底に還ってゆくのである。形の中に形を見るもの自身を見るものとして永遠の形相をもってくるのである。味覚・嗅覚が時間・空間の中に現われて消えてゆくのに対して時間・空間を包むものとなるのである。否味・嗅覚も形が形を生むものとして永遠を宿すものであった。併しそれは永遠を表わすものではなかった。それに対してくり返すことによって鋭敏になるものとは、永遠が自己の形を表わすということである。そこに絵画・音楽がより大なる文化とされる所以があるとおもう。絵画は内面を表わす形となり、音楽は創造の律動を表わすものとなるのである。そこに文化は真の具体をもつのであるとおもう。

 色彩が色彩を見ると言っても最初から色彩の中に色彩を見るものとして形が表われるのではない、製作的生命として形が表現されるのは物を写すということである。物を写すことによってわれわれは内なる力を見るのである。人間が最初に描いたものは狩猟の豊饒を祈っての鹿や猪等の姿でと言われる。それは必ずしも美しい色彩、微妙なる線を見ようとするがためではなかったであろう。併し一つの形は更に確かな形を要求する。最初は単純な色彩であり、単純な線であったであろう、それが更に鹿らしく、猪らしい色彩と線を要求するのである。それは描くことによって獲得した目によって次のイメージを創出することである。それは新しい色彩であり、新しい線である。そこに作者は新しい形と共に新しい自己を見るのである。そこに視覚は内面的発展をもつのである、目は深くものを見る目となるのである。それは更に的確に対象を把握することである。自己は新しい色彩、新しい線を見ることによって力をもつのである。斯くして目のよろこびは新しい色彩、新しい線へと向うのである。食文化が舌のよろこびに止まるのに対して、目のよろこびは全自我のよろこびとなるのである。描かれたものを視覚の世界として、描く力を世界の創造力とするのである。視覚は描くことによって無限の対象を自己に映し、自己を対象に映し、世界の自己形成を出現せしめるものとなるのである。

 併し絵画は尚真に自己を把握せしめるものではない、絵画に於ても自己はその表現力にあった、自我の把握はその表現力をあらしめたものを見るのでなければならない。私は斯るものを言葉に見ることが出来るとおもう、言葉は我と汝が意志の交換をするものである。意志の交換は何のためにあるのか、それは意志が世界を志向し、世界実現的に交換するのであると言わなければならない。世界の自己実現の手段として言葉はあると言わなければならない。我と汝は世界の自己実現として言葉をもち、言葉を交すのである。我と汝があって言葉があるのではない、言葉があって我と汝があるのである。太初にことばありき、ことばは神と共にありきである。言葉は世界の自己実現としてあり、われわれは世界の実現の中に我を見るのである。唯名論者は名をもつことにあるという。名の無いところは唯混沌の世界であるという。われわれは言葉によって自己を知るのである。そして知ることがあるということである。

 言葉は道具の使用と共に初まり、物の製作と共に発展してきたと言われる、内外相互転換の発展が新たな意志表示を求めたのである。道具の使用はこの我を主体として、対象を変革することである。一瞬一瞬の内外相互転換を生命の営みとして、一瞬一瞬を統一するものとなることである。経験の蓄積として道具の出現はあるのである。言葉がそれと初まるということは、蓄積は言葉に於て蓄積されるということである。叫びやその他の記号で動作していたものが言葉によって動作するものとなるということである。

 言葉が蓄積をもち、我と汝が対するところに言葉があるとは、蓄積は我と汝をつなぐものがもち、そこより我と汝が見られることによって我と汝があるということである。私はそこに社会があるとおもう。舌も目も耳もこの我がもつのである。この我がそれによってあるものは最も具体的なものである。最も具体的なものとは形がそこから現われる根源的なものである。私はそれを言葉が形の中に形を生む社会に見たいとおもう。言葉は我と汝がその中に見られ、我と汝がその中より作り出すものとて文化が担う究極のものであるとおもう。言葉は他の文化がそれによってあるとでも言うべき深大なるものをあらはすものであるとおもう。

 言葉が形の中に形を見出す社会とは歴史的形成的ということである、歴史は時間の形相として形の中に形を見たものである。私は文化とは歴史的形成の内容であるとおもう。而して形成は内外相互転換として、形成は外的方向と内的方向をもつのである。一つは内を映した外の方向であり、一つは外を映した内の方向である。生命を物に映す方向であり、物を生命に映す方向である。私は前者の方向に制度・法律等が成立し、後者の方向に詩・民話・小説等が成立するとおもう。前者が人間疎外の方向であり、後者が人間回復の方向である。勿論それは相即するものである。疎外があって回復があり、回復があって疎外があるのである。それは一つの形成運動である。而してそれは単に一つではない、疎外は疎外の方向に内面的発展をもち、回復は回復の方向に内面的発展をもつのである。法律は愈々法体系を整備し、詩や小説は愈々心の動きを深化してゆくのである。相即的に一であるとは法律は人間の幸福を内容とし、文芸は背反・矛盾の疎外を内容とするということである。法律は勧善懲悪に立脚し、文芸は悲劇に於てより深く表わされると言われる如く、対立・否定をより深く抉ってゆくのである。それでは何故に人間を内容とするのが疎外であるか、私はそこに法という一般観念に個性が収斂されるところにあるとおもう。没個性的なところにあるとおもう。それに対して文芸が見る矛盾は流す血潮であり、そそぐ涙である。生命に直接するものであり、身体に於てあるものである。

 このごろよく言われる文化都市の建設というのは、文化の形成運動を後者の方向より捉えんとするものであるとおもう。明治維新以来の積極的な近代化社会の建設はその機械化に於て無限の未来を拓くものであった。生産の増大によって全ての苦痛に終止符を打つものであった。併し生産の増大は欲望を充足さすものではなかった。生産の増大は亦欲望を肥大させるものであった。人々は斯くして無限に生産の増大を求めたのである。量産の結果人はコンベアベルトの前に並べられ、流れてくる物に自分の工程の責を果すべく思考と感情の余裕を失ったのである。出来上った品はその計算された劃一性に於て人々に、一の形の家に住み、相似たる服を着ることを強制するのである。人は暖衣飽食の一面に、自己の中に世界を見る心の要請を喪失したのである。ここに人々が求めたのは昔にかえることであった。短歌・俳句・茶の湯・生花・書道・陶芸・詩吟・歌謡・舞踊等々、今や文化活動の名に於て日本中それ等のことに励まぬ所はないと言っても過言ではないであろう。私はこれら文化といわれるものはその一々が完結をもつとおもう。完結をもつとは作者が全体像をもっているということである。例えば短歌に於て一字一句に苦しむことはその全体のもつ意味を実現せんがためである。書道に於ても今引きつつある線は既に書いた線と、これから書く線と如何なる形に於て関るかのイメージの創出に於て引くのであろう。そしてそのイメージの浮んで来ない線はその書を捨てる他ないであろう。形は無限の過去より生れ、無限の未来を生んでゆくものである。表現に於て無限とは、形がそこに消えてゆき、形がそこより生れるものとして形の創造面であり、永遠の意味を有するものである。 私達はその永遠に自己を映すことによって真個の自己を見るのである。そこによろこびがあるのである。勿論形の中に形を見るということは既成の形を変革して新たな形を見ることであり、公民館活動の如き先蹤の跡を習うのがやっとというものによって見得るものではない。それに上記の日本文化は高い形の完成をもつものであり、混沌の熔炉の中に投げ込んで新しい形を見出し得るものではないようである。併し斯く多くの人々がそれに向うということは巨大な力である。この巨大なるエネルギーが天才によって突然凝結することもないではないとひそかにおもうものである。勿論われわれの創作も過去に招かれて、未来に語りかけるものである。唯形の変革の自覚が呼びさまされる程強烈ではないということである。そしてそれは全ての人にそれを望み得ないということである。

 人間性の喪失と回復ということは文化内容によって見ることの出来ないものである。否文化内容に於ても言葉によってのみ見られるものである。言葉の形は前にも言った如く感覚の形を超えたものである。我と汝が其の中に見られる形である。我と汝がそこに成立する形である。世界が世界を見てゆくのである。感覚も亦世界限定の我の内容として世界を映すものとなるのである。そこに言葉による表現の根源性があるのである。言葉によって人間性の喪失と回復が見られ、さまざまの文化の形が呼び起されたということは、さまざまの形は言葉に根源をもつということである。

 私は文化の形は全て身体より生れるとおもう。内外相互転換は身体が形作ることである。言葉も亦言語中枢として身体がもつのである。言葉が他の感覚と異るところは言葉は自己の全存在を表現するということである。言葉が身体を深め、身体が言葉を深めるとき、それは単に身体を深めるのではなくして、世界を内にもつ我としての身体を深めるのである。併し短歌や俳句は直に身体を作るものではない、身体を作るには動作がなければならない。私は断るものとして日本の心を最も深く表現するといわれる能楽を例にとりたいとおもう。能は猿楽から発展したと言われる。猿楽は農作物を猿に荒されるのを防ぐために、祭りなどで猿を追い払う真似をした呪術に初まると言われる。併し私は唯真似をするだけでは能楽への発展の可能性をもたないとおもう。それが文化となるためには身振り手振りが人間のよろこびかなしみの翳としてさまざまの形が生れて来なければならないとおもう。感情の翳を宿すとは動作を誇張することである。誇張するとは感情による動作をもつことである。感情を映す動作となることによって感情は自己を明らめ、自己を作ってゆくのである。感情と動作が映し合うところよりさまざまの形が生まれるのである。それは恋のよろこび、死のかなしみの表現へとつながってゆくのである。恋や死につながってゆくとき、動作を主導するものは言葉となる。動作は言葉を表わす動作となるのである。能楽は幽玄の世界を表現すると言われている。私は斯る幽玄の世界は日本人が形の中に形を見ることによって見出した世界であるとおもう。言葉と動作を繰り返す中から現われて来たのであるとおもう。洗練によって身体の深奥が表れたのであるとおもう。幽玄の世界というのが別にあるのではない、表わすことによってあるのである。それは日本の生命形成の深奥として、私達はそこに自己の深奥を覗くのであるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」

神について

 乙 「大分前から神について考えたいと言っていたがその後どうなったかね。」

 甲「何しろ問題が大きくて、資料も少ないし、概観だけに止まっている状態なのだ。」

 乙「丁度僕も絶対と相対と言った問題に悩んでいるところなんだ。考えただけ話してくれないか」

 甲「いいだろう僕自身の考えをまとめるという意味で、考えながら話をしよう。」

 乙「では君は神をどういうものとして捉えようとしているのかね」

 甲「それは我々の存在の根源として、この我がそこから見られ、それによって成立し、 全ての価値がそこから出てくるようなものとして捉えたいと思っているのだ。」

 乙「根源へ要求というのはどういうところから生まれて来るのだろう。」

 甲「君が先に絶対と相対の問題に悩んでいると言っていたね、その根底には相対とし ての自己が、絶対として世界と一つになろうとする意志があると思うんだ。生死する 生命は永遠を求める生命なのだ。そこに根源を求める所以があると思うんだ。悩むと は自己が真個の自己ではないということなんだ。個と種として内に乖離をもつのが生 命なんだ。それが一として、その乖離を埋めようとするのが問いなんだ。」

 乙「我々の根源と言う時、それは我々より大きな、我々を越えた存在でないといけな いのではないのか。」

 甲「そうだ。」

 乙「そうすると君がかねがね言っている、人間が自覚的創造的として、自己が自己を作っていくというのと矛盾しないのかね。」

 甲「それは矛盾しないのだ。自分が自分を知る事が、自分を越えたものをもつことに よって初めて成立するのだ。」

 乙「具体的に言ってくれないか。」

 甲「生命は身体的にあるのだ。身体のない生命というのはない。自覚的創造というの も、この身体の活動に於いてあるのだ。内とか外とか、超越とか内在と言われるのも この身体を基準として言われるのだ。超越というのはこの身体を越えているというこ とだ。五尺の体と言われる如く、僅かな空間を有し、人生五十年と言われる如く、我々 の身体は生死する生命なのだ。而し我々が私という時、それは斯る事実的存在として の生命ではないのだ。何という名前の、何処に住み、どのような仕事をしているかと いう私なのだ。姓名は血族の無限の連続の上に成り立っているのだ。住所は先人が血と汗で拓いた処だ。職業は歴史の伝承を基礎としているのだ。それは何れもこの生死する身体を越えたものだ。そして私達は言葉と技術を用いてこの世の中で暮らすのだ。そして言葉も技術も我々を超え、我々がそれによってあるものだ。そして斯る越えたものに自分を見出してゆくのが自己創造ということなのだ。」

 乙「それでは世界が神なのか、」

 甲「そうとも言えるし、そうでないとも言えるね。」

 乙「というのは、」

 甲「普通考えているように、単に世界が我々の住む処、我々を包むものである時は、 それはまだ神とは言えないのだ。世界が自覚的創造者として、この我の自覚的創造に対する時に世界は神となるのだ。」

 乙「それはどういうことだろう。」

 甲「うん、ここは難しいところで、僕自身苦しんでいるんだ。而しここを抜いては前に進む事が出来ないので敢えて言うと、この我があるということは、何処迄も生死する身体を超えたものとしてあると同時に、何処迄も身体的にあるものとして生死するものなのだ。生きているものは死をもつものとして常に死に面しているものなのだ。生きているとは常に危機にあるということなのだ。我々は危機の克服に於いて生きているのだ。先に我々がそれによってあると言った言葉や技術も、人間が死を生に転ずる手段なのだ。この死として迫って来る力、我々の全てを一挙に無とする力に人は最初の神を見たのだ。」

 乙「それと自覚的創造とは何の関係があるのかね。」

 甲「我々が自己を見るというのは、自己を外に表して見るのだ。手の延長として物を 道具とし、道具を握って物を製作して、欲求を外に表した時から自己はあるのだ。前に言葉や技術によって自己となったという所以はそこにあるのだ。この製作的生命の 無限の発展が自覚的創造なのだ。人は製作に於いて死を超えようとして初めて世界を見たのだ。而し生きるものは死ぬのが宿命である以上、それはどうすることも出来ない巨大なものだ。そこでこの力の庇護を受けようとしたのが最初の神なのだ。」

 乙「而し人間がこの巨大な力を知るということは、何らかの意味でこの巨大な力をもっ ているということではないのか。」

 甲「そうだ、何等かの意味で持たない限り、驚く事も怖れる事も出来ないだろう。それは後で詳しく話す場合があると思うが、前にも言った如く、我々が見るというのは外に表して見るのだ。表したものの力を自己として見るのだ。」

 乙「そうとすると神は生産力の向上につれて変わってゆかなければならないと思う が。」

 甲「そうだ、新しい状況、新しい世界と共に古い神々は死に、新しい神が誕生するんだ。」

 乙「少し説明してくれないか。」

 甲「うん資料もないので僕の周辺を見ながら説明をしよう。その前に言っておかなけ ればならないのは、我々は生命としてあるということだ。生命が見るものは生命であ るということだ。作られた物も、生命の影として物であるということだ。そして生命が生命に於いて自己を見るとは生死に於いて見る事だ。世界を生死として、自己に於いて生を見、自己をとりまくものに於いて死を見たのだ。生は力だ、そして死はそれを否定するより大きな力だ。而し自覚が未だ初歩の時代は、生命が自己外化をなしていない。物も亦生命をもつものだ。物も亦生命である時、物が我々に死をもたらす所以がない。そこで死の使者として考えられたのが死んで行った人々であると思うんだ。死者がこの世に残した怨念によって、この世を亡くそうとするのだ。」

 乙「どうして死んで行った者が、この我々を否定する力をもつと思ったのだろう。」

 甲「僕はそこにも言葉や技術といったものが介在するのではないかと思うんだ。言葉 や技術をもったものとして、後世に伝えた者、そしてそのもった言葉や技術の超越的 力が死者に力をあらしめたと思うんだ。言葉や技術は物に関る。そこに死者と物力 が関る地盤があったと思うんだ。菅原道真が雷になったのも、根底にこのようなもの もあったと思うんだ。それで初めに還るのだが、一挙に人口の三分の二を奪い去る流 行病、あらゆるものを破壊し去る暴風雨、洪水その他兇事は死霊と結びついて最初の神となったと思うんだ。勿論死を運ぶものを拝むのは、拝むことによって死を免れんとしてだ。昔僕の家の近くに地神さんを祀る処があった。竹が密生していて、人々の通る道の反対側に切り込みがあり、その奥に何かがあるようであった。夕方になると祀る家の人が灯りを上げていた。竹群をとおして、小さな灯りが見えるのは宛ら幽鬼のようであった。村の人はそこを大変怖れていて、少し暗くなると通らないようであった。僕がその竹群に小便をした時、祖母は僕を連れて祀る家に行き、なにがしかの金を払っていたのを思い出すよ、今思えばあれはきっと拝み料を払って謝ってもらったのだろうと思うよ。或る日誰もいないのを見定めて、中に入って見たら、丸い石が二、三ヶとその上に瓦のようなものが置いてあった、僕はなんだと思ったのを記憶しているよ。而し今にして思えば石器時代は石が武器であり、生産の媒介者であった訳だ。戦国時代でも、印字打ちは闘争の有力な手段だったからね、大古にはそこに大なる霊力を見たのであろうと思うよ。その外、田の中や山に稲荷さんとか秋葉さんというのがあった。それはそんなに薄暗い処にあるのではなく、人々もそんなに怖れていな いようだったよ。夏の草取りの時なんか、稲荷さんの木陰でよく休んでいたものだ。恐らく地神さんは呪術に関係し、稲荷さんや秋葉さんは物そのものに関係するのでは ないかと思うよ。そして其処には生産手段の大きな変革があったと思うんだ。亦家の 中には神棚というのがあって、種々の神が祀られて鼠の巣となっていたものだ。その 中で一番力のあったのが三宝荒神であったように思うよ。飯をこぼしたり、残したりすると祖母から、荒神さんが睨んどってやと言われたもんだ。稲荷さんなんかと共に農耕社会の最初の神であったと思うよ、一番親しまれていたのが恵比須大黒の神だったよ、何しろあの笑顔だからね、而し僕は二神の本質は陸と海の生産と収穫の技術を司るものであると思うんだ。俵と鯛、そこに相当な生産手段の発展があったと思うんだ。それからあったのが氏神さんだ。それは勿論拝む神であったけれども、氏子が寄ってお祭りする神様だったんだ。そこには意志疎通と意志統一があったと思うよ、一緒に笑ったり、歓声を挙げたりする中から一体感が生まれて来るのだ。その背景に は水利とか開拓とか大規模な土木なんかが必要ではなかったかと思うんだ。」

 乙「君の言ったことは僕にも覚えがあるよ、而しそれは日本以外の国にも当てはまる」

 甲「うんそれを言われると弱いんだ。最初に資料が乏しいと言った中の一つでね。そ れでもいつか読んだ、ギリシャ、ローマの宗教、法律及び制度の研究という本には、 家族神より民族神、都市神へと新たな神が生まれてく過程が書いてあったよ、そして 後から生まれて来る神がより高次なる神として以前の神に優越するのだ。それは何も 神が優越するのではなくして、氏族は家族に優越し、都市は氏族に優越するのだ。優 越するとは内包してゆくことなのだ。外の国も同じような過程を踏んだのではなかろ うかとしか今では言いようがないんだ。」

 乙 「それで最初の死霊というのは氏神さんになってどうなったのかね。」

 甲「うんお祭りには神楽なぞというのがあってね、そこで悪霊としての大蛇退治など があったものだよ。それに祭神としての氏の上が死霊の意味をもち、その鎮めとして の面もあったようだよ。神の発展は結局生と死の弁証法的展開と言えるんではないか と思うよ。生を否定する死、死を否定する生、環境と主体の相互限定の形相が神の形相であると思うよ。」

 乙「農耕社会に於いては太陽崇拝が大変旺んであったと聞いているが、太陽神は矢張り死霊の意味をもっていたのだろうか。」

 甲「うん僕達の周辺には余り祀っているのを見かけないが、それは皇室が天照皇太神を祀られ、天皇自身が天っ日嗣として、現人神であらせられた処に原因があると思うのだが。古代文明には太陽の国と言われるところが多いね。そしてそれは恵みの神として崇敬を受けていたようだ。而し恵みとは何なんだろうか、僕は死を生に転ずる意 味がなければならないと思うんだ。死に面する我々に生を与えてくれるのが恵みであ ると思うんだ。」

 乙 「そうすると太陽神の巨大なる力も結局死霊の力ということかね。」

 甲「そう思うんだ。勿論太陽神が死霊ではなく、死霊に打克つものとしてだ。而し死は逃れる事は出来ない、そこに祈りがあるんだ。この永久に逃れる事の出来ないもの から逃れんとするところに巨大な力が生まれるのだ。時々内藤先生の古典を読む会に顔を出すのだが、その中に物忌みで外出を止めたといった記事の多いこと、古代人は死霊との関りに明け暮れたのではないかと思われる位だ。王権の巨大な力も、この死霊との関りから説明出来るのではないかと思うんだ。」

 乙「キリストの神もその延長線上にあるのかね。」

 甲「生死の問題なくして神はあり得ないと思うよ、キリストも悪鬼よ去れと言っているところから見ると、延長線上にあると言えなくもないよ、而し汝の敵を愛せよと言ったキリスト教は過去の神と截然と一線を劃しているんだ。過去の神は祀るものの神だったんだ。それは敵を滅して自分が生きる神だったんだ。キリストに於いて神は人類普遍の神となったのだ。」

 乙「そこには矢張り生産の発展があったのかね。」

 甲「あったと思うよ。」

 乙「その普遍の神とはどういう神なんだ。」

 甲「僕はキリスト教について多くを知らないし。殊に二千年に亘って数知れない人が、祈り考えた神をごうも説明する力がないよ。唯僕自身が求めた普遍なる神をあてはめて話をするだけだ。」

 乙「兎に角言ってくれないか。」

 甲「ヨハネ伝であったと思うが冒頭に、『太初(はじめ)に言(ことば)ありき、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。』とあったと思うんだ。これは前にも言った如く僕の出発点でもあるのだ。人間だけにあって他の動物に無いもの、それは言語中枢であると言われているが、人間は言葉をもつことによって人間になったのだ。昔語部によって歴史を伝承したという如く、言葉は生死するこの身体を超えたものだ。この言葉によって蓄積された経験が技術なのだ。この蓄積が世界であり、我々は自己の底に全人類を見るのだ。蓄積は世界としての社会によってなされるのだ。ここに全てがあるのだ。」

 乙「そうすると死霊はどうなったのかね。」

 甲「経験は生が死に面するものとして経験なのだ。生と死は常に闘いだ。それは常に 勝敗をもつ、その勝った集積が技術なのだ。だから逃れることの出来ない死をバネとして、言葉や技術はより大なるものとなってゆくのだ。死霊は否定として、神いよいよ大なれば、悪魔いよいよ大なるものとして、神の自己創造は亦悪魔の自己創造とし てあるんだ。」

 乙 「そうするとこの人間の行履の蓄積された世界、死をバネとして無限に創造してゆ く世界が神ということかね。」

 甲「僕はその深大なる世界に眩めく時、それが神だと思うんだ。無限の過去と未来が その中にあるもの、草木瓦礫もその目をとおしてあるもの、前に書いた言葉と技術を もつことによってこの我があるということも、斯る世界の前に立つと言うことなんだ。この底から汝斯く為さざるべからずという声が聞こえてくるんだ。」

 乙「そうすると普遍なる神というのは世界のことかね。」

 甲「神というのはこの世界の前にこの我が立つということなんだ。それによってあるもの、造られるものとして立つというとき、世界は神となるのだ。そしてこの我から世界を見るとき、氏神とか、福神とか、民族神が成立し、世界からこの我を見るとき、普遍なる神があると思うんだ。」

 乙「もう少し説明してくれないか、」

 甲「世界が経験を蓄積するといっても、世界が記憶機能をもっている訳ではないんだ。記憶をもっているのはこの僕であり君であるのだ。言語中枢は一人一人がもっているのであって、社会という普遍者がもっているのではないのだ。そして一人一人のもつ言語が生死する身体を超えて世界を構成するのだ。言語中枢も亦身体であるとき、我々の身体は生死する生命であると共に、永遠なる生命であるのだ。自己より見るとは、世界に生死する身体を見ることだ。世界より見るとは、自己に永遠なる生命を見る事だ。」

 乙「それはどう異なるのかもう少し具体的に言ってくれないか。」

 甲「世界に生死する身体を見るとは、欲求としての身体を世界に実現しようとするこ とだ。より長く生きたい。他人よりよい生活がしたいと願うことだ。民族神や都市神が戦う神であったのはそこに原因をもつんだ。俗神と言われるのは生死の相を超えないということだ。世界より見るとは、生死を超えたものによってこの我があるものとして、言葉や技術に自己を見るものだ。それは自己を消して物そのものとなり、世界となる欲求否定の世界だ。世界の声に呼ばれるのだ。物に自己を見ることによって世界によみがえるのだ。」

 乙「ものそのものになることによってよみがえるというのはどういうことなんだ。」

 甲「物は言葉と技術の所産として、言葉と技術をふくんだものだ。永遠の内容として それ自身の展開をふくんだものだ。我々は物自身の展開によって社会を形成してゆく んだ。科学も斯る地盤に於いて成立するんだ。例えば物理学なんかでも、物の中に無眼の秩序をふくんでおり、物理学者はその秩序に招かれて体系を打樹てると思うんだ。そしてそれこそが言葉の秩序なのだ。事業でもそうだ。一つ見ることによって次が見えるのだ。その呼声が神の声なのだ。僕は若い頃、名を忘れたが西洋の著名な物理学者が、有神論者であると聞いて奇異に感じた事があるんだが、彼は無限に展けてゆく 物の秩序に神を見たのであろうと思うよ。僕がよみがえると言ったのは官能的身体から創造的身体になったということなんだ。」

 乙「それでは物の内面的発展を見るのが、神に前に立つということかね。」

 甲「いや、それは神に於いてあることなんだ。神の前に立つとは、物や数や事業とし てではなく、生命として、生死の根源として、永遠として、全てをそこよりあらしめるものとして、言葉に於いて向はなければならないのだ。我をあらしめるものとして向はなければならないのだ。言葉が神であるとは、言葉によって自己を現わすものということだ。」

 乙「君は前に古い神は死んで、新しい神が生まれると言っただろう。それは俗神にの みあてはまるものなのかね。それとも普遍神も生まれ死んでゆくかね。」

 甲「そう思うよ。言葉は歓び悲しみから生まれてくるのだ。歓び悲しみは今の他者と の関りにあるのだ。永久不変の何処に言葉があるだろう。前に物自身の秩序の展開と言っただろう。展開とは古いものが死んで新しいものが生まれてくるんだ。キリスト 教神学は大きな曲線を描いて変化している筈だ。聖書という骨格だけ残して、肉も被服も変わっている筈だ。記憶があいまいなので確かなことは言えないが、ドストエフ スキーの小説だったと思うよ、再生したキリストをなじっているところがあるんだ。何しに来たんだ今頃、君はもう必要ないんだ。君がいたら邪魔になるんだ。帰ってくれと言った風にね、僕はこの中に深い洞察があると思うんだ。佛教にも刹那生滅というのが禅にあるが、これは釈迦も達摩も免れることが出来ないと思うんだ。そればかりでなく釈迦も達摩も殺すのが刹那生滅の本当の意味だと思うんだ。もし釈迦の言葉のみでよかったら道元や親鸞の出現はあり得なかっただろう。言葉は生きているものの対話だ、そこに何時も新たな神が生まれなければならない理由がある。

 乙「そうすると全ての神も佛も生まれて死んでいくものか。」

 甲「そうだ、死なない神は神ではない、今時分に千年前の経を繰り返しているような佛は博物館の隅に埃を被るべきだ。」

 乙「而し君は言葉は生死する身体を超えて永遠だと言ったね。」

 甲「そうだ、言葉は永遠の具現であり、神は永遠だ。」

 乙「永遠は生死を超えたものであり、キリストの言う如く、始めに終わりがあるものではないのかね。」

 甲「そうだ、始めに終わりがあるものとして、永遠なるものだ。」

 乙「それは矛盾ではないのか。」

 甲「そうだ矛盾だ、そこに神の本質があるのだ。それは何処までも深く神は生命としてあるということだ。生きているものは死をもつのだ。そして永遠の中に死んでゆくのだ。永遠の中に死ぬとは前にも言った如く、人間が言葉や技術で作り上げた世界の 中に死ぬのだ。国土、習俗その他諸々のものは言葉を持ち技術をもつものとしての我々の祖先が築き上げたものだ。我々は他の動物と異なって死を知り、死を悲しむ。それはこの人間が作り上げた世界に写して知るのであり、自分の見出した世界が消えることを悲しむのだ。そのことは未だ世界をもたない嬰児は死を悲しまないし、世界を失った痴呆は死を悲しまないのでも明らかであろう。僕はこの永遠と生死、世界と自己を人間生命の種と個の形相と見るのだ。種は個を超えて個に形相を維持してゆく。個は種によって形相を与えられる。この種と個の関係が、動物に於いては個は種より与えられたままに行動するのだ。自然のプログラムのままに生きるのだ。それに対して人間は言葉をもつ。言葉をもつとは自覚的ということだ。自覚的ということは作ることによって見るということだ。そして種的個的なる生命が作るということは、種的個的なる自覚として、種的個的に作るのだ。種的方向に世界を見、個的方向にこの我を見るのだ。自覚は種的個的として一つでありつつ、相反するものとして相対する所に成立するのだ。我々は世界の方向に永遠を見、自己の方向に生死を見るのだ。この矛盾に於いて世界は自己自身を創造していくのだ。この我は世界の中にあると共に世界を作っていくものだ。世界を作るとは、世界を自己の内にもつことだ。我々は世界としての言葉や技術をもつことによって世界を作るのだ、世界をもつことによって世界を作るとは、世界を自己の性格の相にあらしめようとすることだ。自己が神であろうと することだ。そこに我々の意志があり、意志は世界を自己の下にあらしめようとするのだ。そこに意志の自由がある。個は世界を否定することによって個なのだ。而し生死するものとして、人と人と相対し、世界によってある我々はどうしても世界となることは出来ない。世界とは絶対の懸絶をもつ、そこにキリスト教の躓きがあり、キエルケゴールの絶望があるのだ。世界は個の否定としてあるのだ。世界は到達することの出来ない唯一者としてあるのだ。世界は自己の中に自己を包むもの、自己を否定するものとしての個をもつことによって自己を突き破り、自己を創造するのだ。動的として変容してゆくのだ。而して唯一者としての神は変容に於いて自己を見るものとして、見るべからざるものとなるのだ。キリスト教のかくれたる神であり、佛教の空であるのだ。而してそれは自己の中に矛盾をふくむことによって自己を創造するものとして絶対の力なのだ。世界の形相として現れた神は否定をふくむものとして、すでにある形が死して、新たな形が生まれるのだ。単なる一は一でもなんでもないんだ。一は多の否定に於いて一なのだ。多は一の否定に於いて多なのだ。一は多の否定として多を維持する力なのだ。この力に於いて我々はゲーテや達摩と対話出来るのだ。斯る一者がはたらくところに我々の言葉や技術は成立することが出来るのだ。僕は数学の一については知らないが、生命の一者はかかるものでなければならないと思うんだ。かくれたる神であり、空であるのは時間の統一者だからだ。そこに見えざるもの、形なきものが絶対有である所以があるんだ。はじめに終わりがあり、終わりにはじめがあるんだ。我々は世界を否定して自己が世界であろうとして、世界より否定されて絶対の無となったときに、見るべからざる永遠を見、触るるべからざる神に触れるのだ。」

 乙「空として、かくれたるものとして絶対者があるとき、生まれて死ぬ神は最早いら ないのじゃないのか。」

 甲「いやそうじゃないんだ。自己の中に否定をふくみ、否定を媒介として自己を創造 する神は、現在に於いて働く神だ。形なき神は、形に現われることによって、形なき 神なのだ。否定を媒介として、形より形へと転ずるが故にかくれたる形なのだ。無限 に動的なるものの一として、時は現在より現在へだ。永遠なるものは常に働く現在が 担うのだ。二十一世紀を担う者は二十世紀の神を滅ぼして、担うもの等の神を打樹て ねばならないんだ。かくれたる神は働く神だ。」

 乙「はじめに終わりありとは、君の言うとおり現在が過去と未来をもつことであろう。 而し現在が過去と未来をもつことは過去が現在をもつことではないのかね。」

 甲「そうだ。釈迦の言葉の中に歎異抄や正法眼蔵がふくまれていたと言い得るし、聖 書は辯証法的神学を孕んでいたと言い得るんだ。而しそれは親鸞や道元が著はして あったんだ。彼等の苦節に於いてあったんだ。その意味に於いて最初に言葉があった 時に、既に現在の言葉の海があったと言い得るし、地上に初めて生命が現われた時に、既に現在の我々があったと言い得るんだ。生命ははかり知る事の出来ない深さだ。」

 乙「それは神の深さなのかね。」

 甲「そうだ、我々が知るとは自己が自己を見ることだ。無限の時間は我々の時間とし て、我々の身体であるが故に今我々は言葉に出し得たのだ。而し言葉となり得た自己は解っている。言葉を出している自己は永遠の謎だ。そのはかるべからざる謎に於いて我々は神の前に立つのだ。」

 乙「神が永遠の謎であれば、神のみちびきというのは何処から来るのか。」

 甲「それは交し合う言葉の中から出てくるのだ。今こうして君と話している、話しているうちに疑問が生まれ、解答が生まれる。ここにみちびきがあるのだ。そして深大なるものへの問い、根源への問いに於いて神の存在を知るのだ。神の声を聞くのだ。神の声を聞くことによって、全てが神のみちびきであったと知るのだ。」

 乙「君は前に個の否定を内にもつことによって神は自己を創造すると言っていただろう。そうとするとキリストの原罪というのはおかしいのではないのか。」

 甲「いや、その故に我々は罪をもつのだ。神が自己の内にもたない否定だったらどう して罪になるだろう。内なるが故に神を否定するものを、神は否定するのだ。個は救 済を求めるものだ、今の自己を真実ならざるものとして、奥底に真実の声を聞かんと するものだ。奥底に聞くとは、この我が死んで生きることだ、罪とは真実ならざることだ。自己否定をなさなければならないことだ。我々は言葉をもった時に罪人として神の前に立つのだ。そこに一切我今皆懺悔があるのだ。悔い改めがあるのだ。そして神の前に立つと知ることによって甦るのだ。言葉としての神は、言葉によって我々を救済するのだ。我々が知るということは神の救済なのだ。」

 乙「僕が絶対を何故求めるかということが解ったような気がするよ。まだいろいろ聞 きたいような気がするけれども、何を聞くか判らないのだ、今日はどうも有難う。」

 甲「僕もいろいろ言い足りないように思うのだが、何を言っていいのか判らないのだ。 亦来給え。」

長谷川利春「満70才記念、随想・小論集」

無について

 日本文化が問われるとき、常に出てくるのが無ということである。それは幾百年間問い直され、答え直された問題のようである。而して現在も尚、書店の棚に無を問う文字が背を並べている。私はそのことは無は西洋的な概念的定義をもち得ないことに由るのではないかと思う。

 無を問うということは、それ自身が矛盾である。無が単に無いということならば、そこ から問いの生れてくる所以があり得ない。問いが生れてくるのはそれが相反するものを含むが故である。有が無であり、無が有である、そこに無への問いが生れてくるのである。無が有であり、有が無であるとは、有も無も無いということである。併し有も無も無いところには有が無であり、無が有であるということは出来ない。あくまで有は現前するものであり、現前するものは無としての現前でなければならない。而してそれが人間生命のこの我の存在のしかたであるところに問いが生れるのである。

 生命は内外相互転換的である。生きているとは、外を内とし、内を外とすることによっ て形作ってゆくことである。斯る内と外とが転換的に純一であるということが、生命が内外相互転換的であるということである。動物は外として食物的環境をもち、内として身体機能をもつ、それは相互否定的である。動物は労力を費して食物を求めなければならない、それは苦である。併し動物はその特にすぐれていると言われる嗅覚に於て食物的環境と一体である。

 犬を散歩に連れて行っていると、突然草むらの中にかくれて何かを咥えてくることがある。どうして探したのであろうと思う。そこには犬とそのものの間に特殊な関りがなければならないと思う。咥えて来たものが、犬の嗅覚をとおして呼ぶということがなければならないとおもう。求められるものと求めるものが、誘い誘われる関係としてあるのである。私の家の裏庭の、コンクリートの裂目に咲いた二、三輪の小さな花に、密蜂の来ているのを見たことがある。花と言えばそれのみである。しかも家に囲まれているのである。そこには我々の思考を超えた生命空間とでも言うべきものがあると思わざるを得ない。それは花のにおいを介して、蜂と蜜が一なる動的空間である。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己が自己を見ることである。自己が自己を見るとは、自己を外に形に表わすことである。外に形に表わすことによって我々は自己を見るのである。外に形に表わすとは、内外相互転換としての動的一なる生命が、内的なるものと外的なるものに分れることである。それは外なるものを物として、内なるものをはたらくものとして、技術的製作的となることである。自覚的生命とは、技術をもって物を作ることによって自己を実現してゆく生命である。我々の自己とははたらく自己である。

 我々の自己がはたらく自己であり、外に物を作るとは、内と外とが分れることである。 分れることは対立することである。対立するとは相互否定的としてあるということである。動物に於ても内外相互転換的に一であるとは、相互否定的に一であるということであった。それが自覚に於て否定面が露はとなったのである。

 物を作るとは、外としての我ならざるものを、我の表われとすることである。外を否定 することである。それは同時に、物を作るとは我を外とすることである。この我が物に 化すことであり自己を否定することである。物に自己が表われることは生であり、自己が物に化すことは死である。斯くして表現的世界は生即死、死即生として無限の動転である。我の表われたものは我の化したものとして、外に我に対立するものとなるのである。我々は我の表現物を外として、更にその底に我を表はすべく努力するのである。外として死として迫ってくる物を生ずべく努力するのである。我々日常の営みとはる無限の経緯である。

 我と物が対峙するということは、生が死に対峙することであり、それは苦痛である。生 即死として外より自己が否定されるとき、そこに我々は自己を見る。死する自己、有限なる自己として我々は自己に目覚めるのである。斯る自己が死即生としての、有限なるものを超克せんとする、内よりのはたらきに自己を写すとき、無限の苦悩となるのである。死即生の方向に永遠なるものを見て、己れの生命の朝露のはかなさに悶えるのである。

 自覚的生命とは製作的表現的に自己を見てゆく生命であり、製作とは物を作ってゆくことである。物は内外相互転換の形相的実現として、何処迄も変転してゆくものである。我々が製作的生命として物を作ってゆくとは、物に自己を表わすことであり、物に自己を映すことである。何処迄も物に自己を映してゆくのが自覚的生命に生きることである。それは変転し生死しゆく有限相対の世界である。自己が物に即して自己を見る限り離れることの出来ない世界である。生きるとは苦悩に生きるのである。

 併し分れたものは一つのものが分れたのであり、対立するものはそれを包摂するものに於て対立するのである。苦悩は克服すべく我々に努力を強いるのである。そこに無の問わるべき所以がある。有限として変転し、生死するものの否定を問わなければならないのである。有の否定は無である。

 ここに如何に否定すべきかの問題がある。我々は生きるものとして、それはあく迄生命の営為に即して否定されるのでなければならない。自覚的生命の内外相互転換に即して否定されるのでなければならない。物は我の表われとして、自己を見るとは物に着すること である。物に着するとは、見出でた我に着することである。物に執し、自己に執するところに物と我とは相対し、有限として相互否定的となるのである。私は純一なる内外相互転換の自覚として見出でた物と我は、再び純一なる転換にかえるのでなければならないとおもう。否定したものによって否定されるのである。

 自覚的生命としての内外相互転換は製作であった、製作に於ては最早原始的生命の如く内と外と感官的に一であることは出来ない。物と我の対立するものが一なのである。人格的に一である。製作するとは、物と我とが行為に於てそこに消えるのである。消えて現われるのである。そこに有の否定がある。それは創造的否定である。我と物が無くなるのではない。我と物の根底に、我と物の消えゆく更に大なる生命の流れを見、我も物も断る 大なる生命の影と見るのである。

 ミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言ったとき、そこには自己も物もない 唯実現してゆく彫像あるのみである。発明家は寝食を忘れる。寝食を忘れるとは自己がそこに没することである。自己が没するとは無我であることであり、我のないところに物もない。そこに製作的生命の内外相互転換の純一がある。有限として相対するものはここに否定されるのである。而してここより物も我も生れるのである。無となるところより生れるのである。

 併しここよりまだ無への問いは生れない。製作的自己としての無我は、大なる流れの中にあるというのみである。無への問いとは斯る自己を無とならしむる大なる生命を真の自己として、その消息を問わんとすることである。行為するのではなくして、行為の根底を言葉によって捉えんとすることである。見られた自己を見るのではなくして、見る自己自身を見るのを真の自覚とせんとすることである。

 それによって我と物のある世界とは、物でもなければ我でもない世界でなければならない、その世界は物によって見られるのでなければ、我によって見ることの出来ない世界でなければならない。それは物と我とに自己を露わとしつゝ、否定的転換的に露わにするものとして見ることの出来ないものでなければならない。 我と物が否定転換的に露わとなることが、自己を露わとするものとして、私はそこに生命の初めと終りを結ぶものを見ることが出来るとおもう。

 初めと終りを結ぶ生命が内外相互転換的であるとは、創造的であるということである。創造的とは技術的に自己の中に自己を見てゆくことである。自己の中に見られた自己として、内外相互転換的に露わとなった自己が、初めと終りを結ぶ生命の表れとして、始めと終りを結ぶ生命に触れるとき、製作的自己を無我ならしめた絶対の無に接するのである。それは自己の中に自己を見るものとして、無限の活動であるとともに、見られたものは自己の中に見られたものとして無限の静止である。相互転換的に自己を限定するものとして、常に現前すると共に、一瞬も捉えることの出来ないものである。

 禅家に大死一番という言葉がある。見ることが出来ないということは、知見によって捉 えることが出来ないということである。物を捨て、自己を捨てて唯現前そのままとなるところに見られるものである。現前そのままとなることは原始的生に還ることではない。あく迄も製作的努力に生きるところである。製作的生命が真の自覚をもつのである。製作的努力の過程を経ずして至り得ない世界である。我と物なくして、我と物を捨てることはあり得ない。自覚的生命として、自己の中に自己を見るとは死して生きる道である。我と物がそこに死ぬとは、我と物が始めと終りを結ぶ永遠なるものの風景となることである。そこに我と物の真の姿が現前するのである。そこは我と物の相対的知見を捨て切ったところに見られるものとして絶対の無である。そこは全てのものがそこより生れるところとして絶対の有である。

 私は日々是好日と言った如きに斯る風景を求めたいと思う。これは我や物を介在させてもつことの出来ない世界である。知見によって捉えることの出来ない世界である。それは唯在る一日一日である。併しこれは大力量の士によってのみもち得る日々である。一瞬一瞬を常に大死出来るもののみが維持出来る日々である。悲しみ痛みを永遠なるものの影とし得るもののみがもち得る風景である。

 始めと終りを結ぶものが、自己の中に自己を見ることによって我と物があるとは、我と 物は始めと終りを結ぶものであることである。そこに無が自己の奥底への参見である所以がある。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

死について

 甲「やあよく来たね、今此の間の話をした神についての歴史的現在の側面として、死について考えていたところなんだ」

 乙「是非聞きたいね、昔からの最も大きな問題だからね。それでよく肉体は死ぬが霊 魂は不滅だと言われるが君はそれを何う思うかね」

 甲「うんそれはこの間も言ったように、初めて死を知った時に見出した不死なるものの相だね。時間を超越したものとして、兇時の根源としての巨大な力として、原始社会が見出したものだね。僕はそれは原始社会のトーテム意識に対応して生まれたもの だと思うんだ。近代の因果律は最早それを受け入れる事は出来ないと思うんだ。考え て見給え、頭を一寸打っただけで言葉に障害が起こり、脳内の血管が一本切れただけで記憶を失う人間が、肉体が全然腐乱して尚地下や天上に我々と同じ生活を続けると言う事がどうしてあり得るかね」

 乙 「それでは霊媒者なんかは何うなるんかね」

 甲「僕は霊媒なんか信じないが、若しあったとしてもそれは霊媒者の能力であって、 向こうが直接語りかけて来ない限り同じ生活をしているとは考えられないんだ」

 乙「それでは霊魂と言うのは他愛ない想像の産物と言う事かね」

 甲「いやそうじゃないんだ。何うして他愛ない想像が人類幾千年の行動を規定し、支 配する事が出来るかね。人間はそれ程馬鹿ではないよ。僕は人間は自覚的として、存在するものは全て存在の自己限定としてあると思うんだ。不滅の霊魂は、人間は本来永遠なるものであり、人間の本質の具現であったが故によく現実社会を支配する事が出来たと思うんだ」

 乙 「それでは霊魂を認める事ではないのか」

 甲「うん唯肉体を離れて霊魂があり得ないと言うのだ。霊魂が永遠なるものの別名で あれば霊魂こそ人間存在の根源的なものだよ。唯肉体が死したる後に遊離して地下や天上にあると言う事はないと言うのだ」

 乙「それではよく言われるエネルギー恒存律とか、物質不滅とかの如く一分子に霊魂 が宿り、生死は波の高低の如きものと言うのかね」

 甲「いやそうじゃないんだ。我々は一つの統一体として其の瓦解が死なのだ。一分子 に瓦解して、感覚も思考も持たないものが何うして自己を限定する事が出来るだろう。自己限定のないところに如何なる霊魂があると言うのだ。永遠と言うのは統一体それ自身が永遠でなければならないのだ」

 乙「それでは遺伝因子によって親から子へ、子から孫へと連続してゆく事かね」

 甲「いやそうじゃないんだ。遺伝因子による連続は草や虫にもあるからね。それは自 然現象として、自然の流転の変化の相に外ならないのだ。勿論草は枯れ、虫は死ぬ。併しそれはまだ本当の死ではないのだ。少なくとも今我々が一大事として問題にする死ではないのだ」

 乙「それでは本当の死と言うのは何ういうものかね」

 甲「それは不死なるものを見たものが自己の死に面した死なのだ」

 乙「もっと具体的に言ってくれないか」

 甲「それは自己が自己を知ったものの死なのだ。自己が自己を知るとは対象形成的に外に自分を投げ出し、外に自分を見出してゆく事なのだ。たとえば鏡に映して初めて自分の顔を知るようなものだ。世界を創ってゆくのだ。丁度鏡に映してより美しい自 分を創ってゆくように、世界を創る事によってより大きな自分を創っていくのだ。その事は世界の中にある我々は逆に世界を自分の中に持つと言う事なのだ。自然の連鎖 を断ち切って個的人格として個的人格が生まれる事なのだ。この我が成立する事なのだ。そしてこの前「神について」に言ったように世界は超越的として永遠の相を持つ のだ」

 乙「その個的人格の死が本当の死なのかね」

 甲「そうだ。自然現象を超えてこの我この君となった時、死は単なる流転を超えて絶 対の死となるのだ。我々は死を知るのだ。最早帰らないこの僕そして君として死ぬの だ。自然的なものが種と個が即自的なのに対して、我々は世界と個我として分離する ことによって死は絶対となるのだ」

 乙「それでは自覚以前は人間でも本当の死ではないのかね」

 甲「そうだ。今でも呪術社会以前の未開人がいるそうだが、生死に対して如何なる感 情も如何なる儀式も持たないそうだ。死を知らない処に本当の死はないのだ。現在で も植物人間と言われる人には本当の死はないのだ」

 乙「君はいつも呪術社会は人間の自覚の原初の状態だと言っているが、死んでから地下に生活すると言う考えも絶対の死と言い得るのかね」

 甲「うんその自覚の深さに対応して種々の現象が見られると思うんだ。その意味で呪 術社会はまだ本当の個的人格の自覚が生まれていないと思うんだ。真の自覚は種族的であり、家族、氏族的であり、其の対応として悪霊であり、祖霊であると思うんだ。 而し其の中にすでに絶対の死の影はあると思うんだ。君考えて見給え、霊魂が分れて地下は天上に同じ生活をすると言う事は、我々は本来の永遠の生活に入る事であり望ましい生活ではないのかね。それを何故に悪霊として恐怖の対象にしたのか。それに絶対の力を付与して、地上の制約者としたのか。それは絶対の死の背景なくして考えられないのではないのかね。」

 乙「うんそのとおりだと思うよ。而し君の言う事にはもっと深い矛盾があると思うよ。 君は人間は本来永遠なるものであると言っていたね。そして死は絶対の死と言うのは 何ういう事なのかね」

 甲「前にも言ったように我々は自覚的として対象形成的に世界を創っていく。我々が 人生のはかなきを思い、無常を嘆くのはこの世界を限りなきものとして、其の中に自己の泡沫を見るが故なのだ。其処に絶対の死があるのだ。我々が有限なるものとして無限なるものへ持つ憧憬と希求の無限は数学的な連続ではなくしてこの世界なのだ。神についてに於いて言ったように悪霊、祖霊を始祖とする神は世界の内容なのだ。其処に恐怖と祈祷があった。而し今我々が面している世界は人間の相互限定として内在的なものなのだ。人間の自己創造として歴史的なものなのだ。我々が内に真に人格になる事によって外に歴史的となったと言い得るのだ。そして歴史的世界こそ真に永遠なるものの相を現わすと思うのだ。西田先生がこれ迄の哲学の中心問題は神であった。これからは歴史となるであろうと言われた所以は此処にあると思うんだ。そして我我は尚素朴な連続性の残滓を持つ「死して護国の鬼とならん」と言った霊魂から解き放たれて絶対の死となるのだ」

 乙「そうすると我々は古代人が怖れた絶対の死の実現者としていよいよ不幸になったのではないのかね」

 甲「そうだ。我々は虚無と絶望の魂の放浪の旅へ出るべく余儀なくされたのだ」

 乙「而し古代人が祈りに於いて絶対への帰一をなしたように、我々が自己を他に見た ものが世界であるならば、何処かで世界と自己の一体が見られそうなものだと思うが ね」

 甲「うん相即的なるものは常に唯一者の自己限定でなければならないんだ。内と外は 一つでなければならないんだ。その意味で我々はこのまま救済されていなければなら ないんだ。而し我々は自覚的存在としてこれを知らなければならないとする時、この 乖離は無限の距離を持って来るのだ」

 乙「それについて君はどう言うふうなものを考えているのかね」

 甲「深い宗教的体験を持たない僕は此処迄は進んで来てもこの超越者と自己について本当に確信を持って語る事は出来ないのだ。唯僕は僕なりに考えていることがあるので語ってみよう。自覚について最も深く考えた一人と言われるアウグスチヌスの神の現前の唯一局面としての永遠の今の如きものを考えているのだ。唯一局面としての歴史的現前を永遠の今として捉えたいと思うのだ。無限の過去を含み、未来をはぐくんでゆく歴史的現在を、この僕、そして君、数多くの彼の創造として捉えたいと思うのだ。歴史は常に生きている人間が創っていくものとして、現在より現在へ動いてゆく ものとして、歴史的現在は全存在の意味を持つものとして、永遠の顕現として捉えた いと思うのだ。前にも言ったように我々は自覚的として対象限定的であり、世界形成 的である。世界の中の一微塵にすぎない我々は、其の形成者として世界を内にもつのだ。世界は逆に我々の胸底にあるが故に我々は世界を見る事が出来るのだ。斯る意味に於いて我々は全存在に直接するのだ。」

 乙「そうとすると絶対の死の意味がなくなるのではないだろうか」

 甲「うん世界の面より見ればあるものは全て永遠の風景なのだ。而し見るものと見ら れるものが分れる時、死は絶対として我々は限りない悲しみとあきらめをもつのだ」

 乙「而見るものと見られたものに分れたものが世界に直に一つなのだろう」

 甲「うんその意味で生命は矛盾であり、自覚は絶対の矛盾の自覚だと思うんだ。而し 生命は一つだ、絶対の矛盾は絶対の一でなければならないんだ。世界に永遠を見ると言う事は本来永遠なるもの自己顕現でなければならないんだ。そうとすると絶対の死 そのものが永遠でなければならないん だ」

 乙「それは何ういう事かね」

 甲「僕は其処にキリストの復活とか、禅家の死の断崖に身を絶して絶後に蘇ると言っ たものに深い意味があると思うのだ。 刹那生滅、心身脱落、脱落心身だね。唯僕は観 念としてそう思うだけで言った通り深い体験を持たないので心地の風光につい語る事 が出来ないのだ」

 乙 「そうかね」

 甲「うん、西田先生が無人島へ行くならば歎異抄と臨済録を持って行くと言っておら れるので臨済録を読んだが一行もわからなかったよ」

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

客観的世界

 生命は身体的であり、身体の維持発展は内外相互転換的である。外を食物として、摂取 した食物を身体と化し、無用となったものを排泄して、外となすのが身体の営みである。身体が内外相互転換的に自己を維持してゆくとは、身体は内的なるものを内包とし、外的なるものを外延とする、内外の統一としてあるのでなければならない。 求心的方向に意志をもち、遠心的方向に世界に生きるものでなければならない。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは自己が自己を知る生命である。自己を知るとは、自己が自己の中に自己を見るのである。内外相互転換としての生命が、内外相互転換を見るのである。内外相互転換は一瞬一瞬である。一瞬を包む一瞬となるのである。

 外が内になり、内が外になる。物が身体となり、身体が物となる。それは技術的という ことである。内外相互転換は技術的であり、身体は構成的である。一瞬を包む一瞬とは、現在が斯る技術的構成的な一瞬を包むものとなることである。現在は一瞬より一瞬へと移ってゆく、移ってゆく現在が移るものを蓄積してゆく、そこに自己の中に自己を見る自覚があるのである。現在が時の初めと終りをもつものとなるのである。我々は永遠に映した刹那として自己を知るのである。

 技術的構成的としての一瞬が一瞬を包むとは如何なることであるか、現在の相互転換に以前の相互転換が働くのである。それは前の相互転換の記憶によって、現在の相互転換の無駄が省かれるということである。合目的的となり、合理的となることである。構成的としての身体が愈々機能的となることである。投げつけた石によって偶然に胡桃の殻が割れたとする。次は殻を割るために石にてたたくのである。一瞬が一瞬を包むとは斯る生命となることである。胡桃を割るという現在の行為の中に、過去を重ねることによって偶然を必然に転換さすのである。私は物の製作を偶然の必然への無限の転換に求めたいとおもう。自覚的生命とは外に物を作ることによって、物に自己を見てゆく生命である。技術的製作的生命である。自己が自己を表わしてゆく生命である。

 内外相互転換が自覚の内容となることは、内と外とに分れることである。生命が内外相互転換的であるとは、内と外とが一であることである。若し馬に等質等量の餌を左右等距離に置いたとする。その馬は何方も食うことが出来ず、遂に飢死しなければならないということを何時か読んだことがある。馬の欲求は餌の誘いでもあるのである。 欲求と餌が感覚に於て一なのである。馬は嗅覚に誘われて行動を起すのである。内外相互転換に於て、内外はなるところに行動があるのである。自覚的生命に於ては過ぎ去ったものが現在として、現在の相互転換を限定してくるのである。現在は過去の相互転換と、現在の相互転換を包むものとなるのである。自覚とは高次なる現在をもつことである。過去と現在の対立を包むということが思考することである。ここに与えられたものを外として、欲求するものを内として内外相分れるのである。内外相分つことによって、馬なれば飢死するところを自由に撰択することが出来るのである。

 無限の内外相互転換を内包しつつ、現在の相互転換としての唯一生命を決定する。それは現在の唯一生命は無限に構成的であるということである。外としての物を構成することが技術的ということであり、技術によって唯一現在を決定することが製作する事である。内外相分れるとは、分れたものが一に回帰することによって現在の唯一形相を実現するものとなることである。一に回帰するとは、分れたものは何処迄も対立するものでなければならない。対立するものでなければ、それは単なる一であって、一に回帰すると言うこ とは出来ない。

 対立するとは各々が内面的発展をもつことである。外は外自身の自己構成をもち、内は内自身の自己構成をもつことである。物は物自身の構成として体系的発展をもち、内は身体的欲求を離れて創造的自由人格となることである。

 対立するものが一であるとは相互媒介的となることである。相互媒介的とは、内と外は絶対に対立しつゝ外は内によってあり、内は外によってあることである。物は人によってあり、人は物によってあることである。物は自由人格の創造によって構成をもち、人は物の内面的必然を見ることによって愈々自由な人格となるのである。物は人の中に消えゆくことによって、新たな物となり、人は物の中に消えゆくことによって新たな人となるのである。自覚的生命の内外相互転換は、物と人がそこに消えて新たに生れる刹那として製作的である。製作は過去がここに消え、未来がここに生れる行為的現在であり、過去は死して生れるものとしてここに働き、未来は形を呼ぶものとしてここに働くのである。対立する外と内、物と我が一となることが製作することである。

 対立するものは相互否定として対立するのである。物と我が分れるとは、否定し合うものとして分れるのである。物はわれを否定してくるものとして外である。否定とは生きるものとしての我に死をもって迫ってくることである。もともと内外相互転換が相互否定的であった。食物がないということは我の死として無に帰することであり、物を食うということは物が無に帰することである。物を得物を否定する我が力をもち、否定的転換に於て形相を実現するものとして、内容をもつものである如く、我を否定する物も、自己の形相を実現するものとして力をもつものでなければならない。斯る力によって我々は殺されると共に、生かされるのである。

 外は我を殺すものとしてはかり知ることの出来ない力である。それを我を生かす力として転ぜめるためには、物と我と相分れた自覚的生命に於ては、何処迄も物の中に消え、物となってはたらかなければならない所以がある。而して物となってはたらくことが、物を生むところに相互転換としての生命の営為があるのである。

 物に消え、物になって働くとは如何なることであろうか。生命は何処迄も内外相互転換 的一である。内が外を作り、外が内を作るのである。内は外を作るものとして内であり、外は内を作るものとして外である。 生命が風土的、歴史的に把握される所以である。自覚的生命に於て物と我が絶対の懸絶であるとは死することによって生きることである。それが転換に於て一なることである。

 我ははたらくものとして我であり、物は形あるものとして物である。物に消え、物とな ってはたらくとは形に実現してゆくことである。はたらくものは露はとなると共に、はた くものは消えてゆくのである。意志は遂行と共に消えるのである。而して形造られたも のの呼び声から、新たな決意が生れてくるのである。物ははたらくものに新たな決意を呼ぶと共に滅びゆくものとなるのである。そこに技術の発展があると共に、自覚的生命の内外相互転換があるのである。

 私は客観的世界をこの自覚的生命の内外相互転換的一に求めたいと思う。それは生命が物の中に没し、物が生命の中に没してゆく世界であると共に、物が形より形へとしてそれ自身の内面的発展をもち、生命は世界を形造るものとして絶対の自由を自覚するものである。物は何処迄も物でありつゝ、生命の翳を宿すことによって物であり、生命は何処迄も自由でありつつ、物に見出すことによって生命である。それは無限に動的である。

 私は斯る世界を歴史的世界に求めたいとおもう。無限に動的とは、現在より現在へと自己を形成することである。技術的とは時間を内包するものとして、歴史的時に於て技術はあるのである。伝統なくして技術はあり得ないと言われる所以である。歴史的世界とは生れ働いて死んでゆく世界である。無数の人が生れ、相対し死んでゆく世界である。我々がこの我というのも、この世界にあることによって言い得るのであり、物はこの世界に於て作られるのである。無限の過去より無限の未来へ流れつつ、無限の過去と無限の未来を現在とする世界である。

 客観的世界はそれに於てあるものとして、於てあるものの価値の決定者である。価値とは世界を実現しているということである。斯るものとして私は価値の決定者は歴史的現在に求めたいとおもう。人も物も世界形成に如何に働いているかによって決定されるとおもう。宝の持ち腐れという言葉がある。世界形成に参加し得るものが参加していないという ことである。

 自覚的生命の内外相互転換として、歴史は無限の推移である。歴史的現在は内包する外と内との矛盾によって、現在より現在へと移ってゆくのである。矛盾によって動くとは否定することである。動くものは相反する方向に動くと言われる如く、価値は絶えず変遷してゆくのである。昨日迄大なる人類の意志であったものが、明日は忘れられたる者となるのである人の魂を魅了した蓄音器は、今は古物商の店頭に見るのみである。

 併しそれは単に否定されたのではない、新しいものを産むことによって死んでいったのである。産むものとして永遠の底にひびきゆくのである。製作に於て無限の過去と未来が現在であるとは、形の変遷を超えてはたらくものとして一であるということである。我々の根底には全人類一なるものがあるのである。無数の過去の人、現在の人、未来の人が一なるものがあるのである。それは恰も大古の波も現在の波も同一の海の水のはたらきによるが如きものである。自覚的生命としての製作はここに見られるのである。私は仏教の弥陀の本願とか、キリスト教の最後の審判は斯る地盤に成立するものであり、歴史的現在は深く斯かるものをもつことによって、過去、現在、未来を包み得るのであるとおもう。いわば歴史的現在は一瞬一瞬に弥陀の本願をもち、最後の審判をもつのである。

 私は斯かるものの端的な表れが言葉であるとおもう。言葉を作った人はないと言われる。しかも言葉は常に語る人の言葉である。私達は言葉を解することによって、六千年前のスメル人の心や行動を知ることが出来るのである。言葉は現在によって生かされる。道元の言葉は我等に生かされてのみ言葉である。併し道元の言葉はこの我の中に消えるのではない。奪うべからざる道元の言葉として、我々に対するのである。対話するのである。我等に生かされるとは、我等を生かすものである。私は言葉は太初と終末を結ぶ生命の表れであると思う。意識の最深なるものは、言葉が太初と終末を結ぶことを知ることであるとおもう。

 初めと終りを結ぶとは、初めと終りがあるとゆうことである。一とは多ということであ る。大なる生命は我々を内に包みつつ、それ自身の動転をもつのである。我々はこの大なる生命の中に自己を消すことによって生かされるのである。私は客観的世界とは、はたらくものとしてのこの我が、我がその中にあり、それによって生かされるものとしての大なる世界に対し、大なる世界を見ることであるとおもう。

 対するとは否定することである。反逆することである。単なる内容は何ものでもない、対することによって偉大を知り、反逆することによって深淵を知るのである。内外相互転換するのはこの身体であり、製作するものはこの我であり、汝である。この我は逆に世界を包み、世界を作るものである。唯一世界といっても単なる唯一は何ものでもない。動転は否定するものによって動転するのである。

 我々が物を作るとは個性を媒介として、新たなものを作ることである。新たな状況を創 り出すことである。世界を否定して新たな世界を作ることである。世界の内容であるものが世界を内容とする。そこに客観に対する主観があるのである。そしてそこに小主観とか論理学に主語不当拡大と言われる、主観の誤謬が生れるのである。永遠に動転するものの前に生死するものは全て誤謬である。そこに我々の自己を死して生れさせなければならない所以があるのである。自覚的生命としての内外相互転換は常に努力である客観的世界は我々の主観がそこに成立するものとして、根源的主観の意味をもつものである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

おのずからとみずから

 坂田書店の本棚で『「無」の思想・老荘思想の系譜』という本を見出した。私は漢字の中に育ちながら中国思想に弱い。それなら何に強いかと言われると困るが、隣国であり乍ら殆んど知らないと言ってよい。特に老荘は何だか反文化的な感じがして拒絶反応というたものをもっていたようにおもう。所謂日進月歩とか、未来への展望とかいったものが欠除しているように思って、路傍の石として見ていたように思う。併し最近時間が成立するには時間を包むものがなければならないということ、即ち文化が発展し、未来への展望をもつには、初めと終りを結ぶものがなければならないということに考えが及んで、無の問題は非常に重大な意味をもって来た。私は一つは老荘、ひいては中国が自己の根底として見出した思想を学ぶためと、一つは私の思考の中から必然的に現われた、無の問題の検証と明確化のためにその書を買った。併しここに書くのは無についてではない。その上部構造としての自然についてである。老荘は知られる如く世界の大本を自然に見た人である。私は彼等を尋ねることによって私自身の自然を見たいとおもう。

 本書は最初に自然は「自」が主格であり「然」は助辞にすぎないと書いて、「自」には オノズカラとミズカラの二つの意味があると書いている。そしてミズカラのほうは、自分 で手を下して何ごとかをする場合に使う。これに対してオノズカラは、自分が手を下さないでも、そのことが自動的に運ぶ場合に用いられる。もう少し詳しくいえば、ミズカラには意識や努力がともなうのに対して、オノズカラはそうした意識や努力を必要としないことをさす。もしそうだとすれば、ミズカラとオノズカラは正反対の意味をもつことになる。ところが、この自はミズカラかオノズカラかという質問を中国人にすると、いくら日本語のうまいものでも、何のことやらさっぱりわからないのが普通である。つまり中国人はそのような区別をしていないのである。いや、中国人でなくても、少し広く漢文をよんでいると、ミズカラとよんでも具合が悪く、オノズカラとよんでも具合の悪いような「自」に出会うのである。つまりそれはミズカラでもなく、オノズカラでもないわけである。

 それでは「白」の本来の意味は、どのようなものであるのか。いちばん手っ取り早いの は、その反対語である「他」という言葉をおいてみることである。つまり自とは「他者で はない」ということである。もう少し親切にいえば、自とは「他者の力を借りないで、そ れ自身に内在する働きによること」であるはずである。これが自の第一義にほかならない。ひるがえって、さきのミズカラとオノズカラを、この自の第一義から見るとどうなるか、実はミズカラオノズカラも、自の第一義を共通の地盤としているのである。唯異なるのはミズカラでは自身に内在する働きがあらわれるときに意識や努力が伴い、オノズカラでは同じことが意識や努力を伴わないのである。もし意識や努力の有無ということを除外するならば、両者の区別はなくなってしまう。漢語の 「自」というのは、本来このような意味 のものである。 中略

 しかしここにあげた自然の第一義だけで、実際に使用されている自然という語の意味を完全に説明出来るかと言えば、それはそうではない。実は「他者の力を借りないで」というが、その他者が具体的に何であるかは、その場その場で異なっている。したがって自然の具体的な内容は、何を他者としておくかによって決定され、他者が変れば、自然の内容もそれにしたがって変わる。自然が多義であるのは、実はこれに対応する他者が動くためである。と書いてその多義として、無為自然と有為自然をあげ、各々其の中に見出でた諸家のさまざまの意見をあげている。

 私は読み乍ら、第一義があるのにその中に包摂出来ないというのは何うゆうことであろうかと思った。派生したものを統一することが出来ないのは第一義ではない。第一義は多義をして関聯あらしめ、それを結合してこそ第一義である。第一義は多義に対して根本義の意味を有するのでなければならない。私は第一義によって、多義が説明出来ないということは、第一義への徹底的な追求に欠けているのではないかとおもう。斯る観点から第一義を掘り下げることによって、無為自然と有為自然、オノズカラとミズカラの接点を求めてみたいとおもう。

 「他者の力を借りないで、それ自身に内在するはたらきによること」とは如何なること であろうか、はたらくとは形作ることである。形に実現してゆくことがはたらくことである。オノズカラもミズカラも形に出するということでなければならない。形に出するのに ミズカラとオノズカラとがあるのである。即ちオノズカラとミズカラは、形に出ずるあり 方が異っているということでなければならない。

 自身に内在するものによって、自己の展開をもつものは生命である。はたらくとは、生 命が自己の形を作ってゆくことである。ミズカラのはたらきが意識や努力をともない、オノズカラのはたらきが意識や努力をともなわないということは、ミズカラとしてはたらくものは、意識や意志をもつ生命であり、オノズカラとしてはたらく生命は、意識や意志をもたない生命でなければならない。

 生命が形作るとは時間的である。時間とは操作の形式であるといわれる。形作るとは無限の否定と肯定である。生命が育つとは一瞬も止むことのない摂取と排泄である。否定と肯定に於て生命は自己を形作ってゆくのである。生命形成が時間的であるとき、生命の形は時に於て現われるのでなければならない。ミズカラがオノズカラに対して、意識と努力をもつというとき、ミズカラはオノズカラに対して、時間的に後であらわれたということでなければならない。そこで私は先ず生命形成に於てオノズカラとは如何なるものであるか究明したいとおもう。

 生命は内外相互転換的である。動物に於て環境は、食物的環境であるといわれる如く、外を内とし、内を外とすることに自己を形作ってゆくのである。外を内とすることは物を身体とすることである。自己ならざるものを自己とすることである。変化せしめることである。変化せしめるということは、技術的ということである。技術的なるものが内在的であるとは、身体は機構的である。生命が形作るとは、機構的身体として形作るのである。機構的身体に於て、外と相互否定的に結びつくのである。環境と相互転換的に結びつくのである。

 動物の生態の本を読むと、動物と環境の結びつきは驚異的である。その動的なるものに於て、環境は動物の外であり、動物は環境の内である。私はそこにオノズカラがあるとおもう。環境が主体を作り、主体が環境を作る。そこに寸分のすきを見ることも出来ない。それ自身に内在するはたらきとは、身体がそれ自身機構的として、外を内に変化せしめ、自己を維持する営為をもつことである。オノズカラとは、生命形成に於て環境と主体の相互転換が純粋持続として、直に一なるものとしてあることであるとおもう。

 ミズカラが意識や努力をもつとは、生命形成の直に一なる転換が内と外に相分れることである。内と外とが対立するものとなるのである。直に一なるものがオノズカラであるとすれば、それはオノズカラの否定である。本書の最初にも「もしそうだとすれば、ミズカラとオノズカラは正反対の意味をもつことになる」と書いている。意識とは外を写すことであり、努力とは意識が写した外を、力の表出に於て変ぜんとすることである。直に一なるところに意識はない。内外相分れるとは、内外を相分つのである。それはオノズカラとしてはたらく生命に新しい生命が加わったのである。ミズカラは新しい生命の誕生としてオノズカラとしての生命のあり方を否定したのである。

 内外相対立するとは、純一なる内外相互転換の流れを断ち切ることである。断ち切るとは否定をもって相距てることである。外は主体を否定するものとして物となり、内は外を否定するものとして生命となるのである。物は生命の否定として、死として迫ってくるものとなり、生命は物の否定として、死を生に転ずるものとなるのである。そこに意識と努力が生れる。即ちミズカラとなる。

 物が我々に死として迫ってくるものであり、主体が物を否定して、死を生に転ずるとは 製作的生命となることである。物が死として迫ってくるとは、純一なる流れが断たれて固定することであり、死を生に転ずるとは、固定としての物を、新たな物を産む物として流動化せしめることである。そこに物の製作があるのである。生命とは内外相互転換としての、形成作用の純一なる流れであり、物とは外としての純一なる流れの停止の形相である。絶対否定を媒介しての流動をもつところにミズカラがあるのである。ミズカラとは外を製作としてもつことである。

 それでは製作とは如何なるものであろうか。製作とは技術によって、外を生命の内容に変革することである。斯る技術は何処から来たのであろうか。私は前に生命は内外相互転換的であり、外を内に転ずるのは技術的であるといった、技術的として身体は機構的であるといった。断る機構的なるものが、対立として、否定的として迫ってくる外に向ふとき道具となるのである。手は摑むもの、打つものとして、外の物を媒介するとき、延長として斧を見出し、槌を見出すのである。稲はそこにあったものではなく、水を引き、草を除いて作られるものとなったのである。斯くしてミズカラとしての生命は、転換としての外を飛躍的に大ならしめ、内を豊潤化していったのである。

 動くとは相反するものの方向に動くのであり、否定は相反するものとなることである。 オノズカラとミズカラとは正反対である。併し見て来た如くミズカラは、オノズカラより 出で来ったものである。出で来ったとは、出で来る前のものではないことであり、否定として正反対のものである。而して否定をもつとはその根底に深い同一をもつことである。ミズカラがオノズカラから出で来ったとは、ミズカラはオノズカラの否定であると共に、ミズカラはオノズカラの自己否定として出で来ったのである。即ち形成的飛躍として出で来ったのである。

 ミズカラはオノズカラの否定として、オノズカラが自然であるとき、ミズカラは自然であるということは出来ない。オノズカラは成るのであり、ミズカラは作るのである。そこには異った形成的系譜が成立する。オノズカラは生れ来ったものとしての身体に形成をもち、ミズカラは道具によって変革してゆく物に形成をもつのである。オノズカラは内在的なるものの発展であり、ミズカラは対象的として、世界形成的である。

 而してミズカラはオノズカラより出で来ったものとして、何処迄もオノズカラに即してあるのであり、オノズカラは、ミズカラが自己の内在的なるものより出で来ったものとし て、ミズカラを己れの飛躍的展開として、ミズカラを自己のより明らかな形相として、 ズカラより展望されるものとしてあるのである。それは動的生命の展開であり、形成としての否定が肯定であり、肯定が否定としてあるものである。そこに自然の多義性があり、多義性を摂取する一義性があるとおもう。

 非連続の連続である。非連続の連続とは生命が個体的であるということである。生命は生れることによって連続する。生れたものは親と異なったものである。それは其の中より生れたものとして同一でありつつ、それ自身の行動をもつものとして異なったものである。生命が自己形成的であるとは進化をもつことであり、進化は斯かる異なった個体を生むことによってもつことが出来たのである。その極限に成る生命より、作る生命があらわれたのである。多義性とは、否定が肯定であり、肯定が否定である否定の肯定の何処に視点をおくかにあると思う。

 ミズカラはオノズカラに対して、時間的に後に現れたものとして、形成的進化に於て優 越をもつものである。それなれば老子は何故に無為自然を唱えたのであろうか。その理由として老子の生きた殺伐たる千才の時代が言われる。それなれば何故その時代が過ぎ、平和を謳う時代が来ても読まれ続けたのであろうか、私はそこに単なる時代を越えた、人生の深奥への問いがあったとおもわざるを得ない。普遍なるものへの問いがあってこそ何時迄も読みつがれ、問い直されることが出来るのである。

 ミズカラとして、人為としての製作の世界は対立の世界である。ミズカラとは個体とし てのこの我である。個体が個性として技術をもつところに製作があるのである。技術は伝統に於て成立するものである。我々は何かの技術をもつ、その技術は師匠、教師亦は親より伝承したものである。師匠はその師匠その師匠へと無限にさかのぼるものであるそれは究めつくすことの出来ないものである。私がオノズカラとしての生命が技術的であり、構造的として、ミズカラの技術はそこより生れ来ったと言う所以である。ミズカラが製作的生命であるとは、斯る無限なるものによってある生命であることである。

 技術が無限なるものであるのに対して、技術をもつものとしての個体は生来ったもの である。それは死を対極に有する、死すべく生れ来ったものである。技術を有するものとして、無限なるものによって存在するミズカラは、露の生命として死んでゆく有限なるものである。即ち製作的生命としてのこの我は、我ならざるものとしての我なのである。矛盾として、苦悩としての生命なのである。それはこの我によって突破することの出来ない矛盾である。キェルケゴールの虚無や絶望につながるものである。

 私はそこにオノズカラの否定としてのミズカラが、ミズカラを否定しなければならない 所以があるとおもう。老子は斯る否定をふたたびオノズカラに帰ることに求めたのであると思う。ミズカラの有限性に対して、オノズカラ成るものは無窮の時間の上にある。否無為にして化すものは時なきものである。無為なるが故に、変じつつ変ぜざるものである。時の初めと終りをつつむものである。初めと終りをつつむものとして、永遠なるものである。而して前にも述べた如くオノズカラ成ったものは、環境と主体の寸分のすきもない一体としてあるものであった。そこにはオノズカラ成るとか、無為にして化すものに対する厚い信頼があったとおもう。文明の未だ幼稚なる時代に於ては、人間の製作の如きは、自然の大なる力の前に笑うべき一煩事であったであろう。

 併し老子の回帰した自然とは如何なるものであったであろうか。生命が形成的なる限りあるものは全て技術的にあるのである。オノズカラ成るも、無為にして化すも自然の技術である。人間が言葉をもち、手をもつのは物を製作すべく生れて来たのである。私は老子の無為にして化すという言葉も、人間の製作的生命を自然に投影したところより生れたものであると思わざるを得ない。そこに見出された無窮なるものも、製作としての操作的時を媒介として見出されたと思わざるを得ない。私は物を製作すべく生れて来たものが製作を放棄するのは真に生きる所以でないとおもう。オノズカラ成るものも、外を変革して内を形成するのである。製作がオノズカラなるものをミズカラに転じたとすれば、ミズカラはオノズカラの完成の意味をもつのでなければならない。製作する生命が額に汗して働かなければならなないのであれば、我々は惜しみなく汗を流すべきであるし、思考に沈面して苦悩しなければならないのであれば、我々は夜深く頭を抱えて机に呻吟すべきであるとおもう。そこからのみ新たな世界の光輝は生れてくるのである。

 私の言わんとするが如きは、老子は百も承知であろう。私は老子の無為自然の思想が、忽然として天に掛るが如く生れて来たとおもうことは出来ない。それ相当の苦悩と鍛練を経て来たものであるとおもう。そしてその結論であるとおもう。ミズカラとしての言語と思考の上に打樹てたものであるとおもう。ミズカラの個の相対性と有限性を、ミズカラの底に超えたのであるとおもう。唯私はミズカラを超えんがために、ミズカラとしての作為を捨ててかえり見ないところに釈然としないものをもつのである。オノズカラを超えたミズカラはオノズカラを踏まえてある。ミズカラを超えたオノズカラは、ミズカラを踏まえてあるべきだとおもうのである。

 我々は何処迄も生命としてある。親より生れたことによってあり、子を生んでゆくものである。製作的生命といっても生命を製作するのではない。生れた生命が物を作る生命であるのである。我々が製作として道具をもち機械をもつというも、生れ来った身体の機能を外としたのである。我々は時計をもつ、併し時計を、身体が時計を内にもち、内にもつ時計を外としたものである。斯る意味に於てオノズカラはミズカラを包むものである。併し時計を外とすることによってより正確なものとなるのである。オノズカラとしての身体が時計をもつことを知るのも、ミズカラとしての身体が時計を外につくることによってである。斯る意味に於てミズカラはオノズカラを包むということが出来る。

 オノズカラはミズカラの個としての相対性と有限性を包み、ミズカラはオノズカラの形 成作用に愈々明らかな形を与える。併しオノズカラによるミズカラの包摂は、ミズカラが製作する個性として、相対性と有限性をもつことによってあるのであり、ミズカラが愈々明らかな形を得るのは、オノズカラの始めと終りを包む無窮の形成作用に負うのである。老子の無為自然も言語による表現である限り、それは意識の内容でなければならない。それは自己の生としての自然を愈々明らかな形に於て捉えたものである。本書の中に無為自然と有為自然というのがある。恐らく人為の加わったというは、製作的生命の立場から見たとおもうが、真に対立したものとしてとらえず、オノズカラに摂取された人為としてとらえられている。そこに思考の甘さがあったとおもう。ともあれ正反対にあるとは否定的にあることであり、否定的にあることは相互媒介的にあることであり、相互媒介的にあるとは対者によってあることである。オノズカラはその底にミズカラに転じ、ミズカラはその底にオノズカラに転ずるのである。

 オノズカラがミズカラに転じ、ミズカラがオノズカラに転じるとは、元のオノズカラとなり、ミズカラとなることではない。オノズカラはミズカラの形相に生き、ミズカラはオノズカラの形相に生きることである。オノズカラがミズカラの形相に生きるとは、製作した物を生命の形象とすることである。生れて生むオノズカラなる生命のあらわれとする のである。物が情を宿すものとなるのである。ミズカラがオノズカラの形相に生きるとは始めも終りもなくして、始めと終りを包むものとなることである。始めも終りもなくして とは、無限に形成的であることであり、始めと終りを結ぶとは、第一義のそれ自身のはたらきによることである。それはミズカラとしての自己に、永遠を現前せしめんとすることである。

 私達はミズカラとしての自己であるとき、永遠なるものを愛して止まない。私はそれ はミズカラの基底にオノズカラがあり、それは絶対しつゝ相互媒介的にあるが故であるとおもう。相互媒介的にあるとは対立するもの動的に一であることである。形成的であることである。私はオノズカラがミズカラに転ずるときにこの我があり、ミズカラがオノズカラに転ずるとき、摂取するものとしての神が見られるとおもう。そしてそれは形成的尖端 に見られるのである。私達はミズカラとして、製作的生命として限りない努力をするところに、背後としての、転じるものとしての神が現われるのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

永遠について

 乙「何時であったか君は全てあるものは永遠に於いてあると言っていたね。僕にとっ て永遠はそれこそ永遠の謎なのだ。我々は死んでいくものとして、うたかたの生命で あり、この世の過客である思いを何うする事も出来ないのだ。全てあるものが永遠であるとすれば、僕も永遠の存在でなければならない筈だ。露と置き露と消えていく僕が何うして永遠なのかという事を聞かしてもらいたいと思って今日は出て来たのだ」

 甲「そう改まって言われると実は僕も困るんだ。そして僕の答えが果たして君に満足 してもらえるかと言うと全く自信がないんだ。唯僕の考えが至りつかねばならなかっ たものとして考えた跡を話して見よう。期待はしないで呉れ。僕の考えの基礎になっ ているのは生命それ自信に於いて完結していると言う事なのだ。例えば鯖を買って来 て置いていると何時の間にか猫が寄って来ている。それ迄見かけなかったのに何うして来たか不思議な位だ。臭覚を通じて猫が寄ったとも言い得る。鯖に誘われたとも言 い得る。動きと言うのは此処にあるのだ。猫と鯖、それはその時の一つの生命圏とし 完結するものと思うのだ。生命がそれを維持してゆく形相として一つの相と思うのだ。僕は本能と言うのはそうゆうものだと思っている。猫が動くのでもなければ鯖が動かすのでもない。主体と食物が一つの圏をなす時自ら動くのだ。樹と土もそうだ。根を張って成長要素を吸収し、不要となった枝葉を落として栄養として土壌に蓄積してゆく。それを吸収して更に成長してゆく。それは一つの圏を作ってゆくものとして完結を持つ事だ。そして具体的な生命とはこの全体の相だと思うのだ。この圏の形成にあると思うのだ。これによって生命は内外転換し、生々発展する事が出来るのだと思うのだ」

 乙「而し猫は死に、樹は枯れていく。何れも流転の相に外ならないではないか」

 甲「まあ聞いて呉れ。唯人間だけは違うのだ。内と外が相対すのだ。僕達は死を知る。知ると言う事は有限者であると言う事だ。そしてこの死は何うする事も出来ないのだ。有限者として無限の時間の前に唯嗟嘆の声を上げるのみなのだ。人は唯命もつ事を悲しむのみなのだ。

而し僕は思う。死を知る悲しみそれ自身が一つの完結ではないのかと」

 乙「僕はまだよく判らないのだ。其の完結と言うのが永遠と何う結びつくのかね」

 甲「人間は自覚的生命として、内外相分かれる事により、自己を有限として、世界を 無限とするのだ。自己を露命とし、世界を無始無終とするのだ。永遠とはこれの統一だ。有限なるものは無限なるものであり、無限なるものは有限なるものの相だ。そしてそれはより高次なるものとして生命の相でなければならないのだ。永遠は神の内容と言われる所以であり、神は生命の深奥であるのだ。即ち永遠とはこの内外相分れたものが一つとしてそれ自身の完結を持つ事なのだ」

 乙「而し君の説く所は唯問題を堂々巡りしているだけではないのか。有限なるものが 無限なるものであると言う事はこの僕が何時迄も生きていくと言う事ではないのかね。僕は何時かは死ぬのだ」

 甲「そうだ。我々は永遠であると言っても、真にあるのは人間一般ではなくして君で あり、この僕であるのだ。この君、この僕が直に永遠でなければ真に永遠であると言 事は出来ないのだ。全時間、全存在がこの僕、この君の中になければならないのだ」

 乙「その僕が有限であり、死ぬと言う処に問題の発端はあったのだ」

 甲「勿論僕達は死ぬ。而しも一度問題を問い直さなければならないと思うのだ。猫や 樹も有限であり、死に或は枯れる。それならば彼等は有限を問い、死に悩むかね」

 乙 「そりゃ問いも悩みもしないよ」

 甲「それは何故かね」

 乙「彼等に死はあっても死を知らないじゃないか」

 甲「そうすると有限も無限も、死も永遠も知る事の中にある訳だね」

 乙「そうだね。僕達も幼児の頃はこんな問題を持たなかった事を思えば知る事によっ て生まれたと言う外はないね」

 甲「人間は道具を持つ事によって知識を持ったと言われる如く、何等か外に自己を表わす事によって知るのだ。今こうして君と対話しているのも一つの表現だ。こうして僕達は愈々自分を明らかに知るのだ。そうしてこの対話が僕達の影である如く、外に 見ると言う事は内の現われと思うのだ。僕達は語り合う事によってより深い自分を見 ようとしている如く、外はより深い自己として外なのだ」

 乙「永遠は我々が求めるものとして或いは我々の深奥を外に見たものかも知れない。 而し我々の対話と永遠とは大変異なっているように思うのだが」

 甲「我々は今永遠を問うているのだから同じである筈がないよ。ついでだから永遠へ の問いと言うものを問うて見よう。僕達は今有限者の苦悩の下に永遠を探求しようと している。而しこの問いは僕達の発見ではなくして古今東西の全人類の問いであった 訳だ。今の僕達の苦悩は全人類の負うて来た苦悩として苦悩である訳だ。そして永遠は全人類的生命の外化なのだ。個々人を超えた全人類の深奥なのだ」

 乙「問題を元に戻そう。永遠が我々の内なるものの表出であり、外化であれば、永遠 は即自己として僕達の悩みの来る所はないのではないか」

 甲「僕は『神について』に於いて死を外に見る所に霊魂があり、神霊は我々を死とし 絶対に否定して来るものとして、其の絶対力を前に慴伏すると言ったね」

 乙「ああ覚えているよ」

 甲「生命は生きているものが死ぬものとして自己矛盾的なんだ。死と言うのは徹底的 否定として絶対矛盾なのだ。神霊が超越者として絶対の外であった如く、外は我々を 否定して来るものとして、超越的として絶対の外なのだ」

 乙「一寸待って呉れ給え。僕達は生命の外化として衣服や住宅を持つ。何れも我々を 保護しこそすれ否定して来るとは思えないが」

 甲「衣服は破れ建物は壊れる。外は否定として我々に迫って来るのだ。そして僕達は 働く事によって新しいものを生み出してゆくのだ。働く事は内なるものを外とし、外なるものを内とする無限の創造なのだ。働く時代に対す外としての物は生々として、我なく物なき唯一生命の相を現わすのだ。真に働く者に於いて我は世界の形相であり、世界は我の示現なのだ。新しいものを生み出すものとして形相より形相へなのだ。この我に於いて前の形が新しい形を決定して来るのだ。其の意味に於いて啓示的であり 示現的なのだ」

 乙「もっと具体的に言ってくれないか」

 甲「我々が対き合っている外と言うのは、長い過去に於いて人類が形造って来たもの なのだ。そしてそれは死を持つ生が死を克服しようとして作って来たものなのだ。矛 盾の自覚として見出されたものなのだ。外の形が複雑になるにつれて内の構造も複雑になっていくのだ。そして外の崩壊は生の崩壊につながるのだ。僕達は働く事によってこの崩壊を新しいより大なる生へ転じていくのだ。其の時外はより大なる形相に転ぜられるものとして生々たる生命の形相をもって来るのだ。その転換の行為者として我々は逆に全世界を我の胸底に見る事が出来るのだ。其処に自覚的生命は唯一の純なる流れとなるのだ」

 乙「そうとするとそれは我々の創造となるのであって、示現的、啓示的ではないではないか」

 甲「その創造的なるものが啓示的なものなのだ。外としての形がこの我々の生命を媒 介として新しい形を含んでいるのだ。生の外在としてのその形によってしか我々は次 の形を見出せないのだ。生命はその意味に於いて無にして働くものなのだ。その昔仏 像を刻んだ者は一刀三拝して慈顔の顕現を祈ったと言うし、印度のヴェーダの詩は霊感の作品だと言われている。発明と言うものもそういうものだと思うんだ。偉大な発 明家は狂人に似ているのも何かの力に動かされたからではないのかね。その力と言うのは巨大なる外の力としての歴史的創造の流れではないのかね。アイデアが浮かぶと言うのも何か啓かれたものだと思うんだ。よくあの人は感覚が優れていると言うのも対象に入り得る純粋度だと思うんだ。農家が其の年の天候によって種子を蒔くのも先祖代々の農作業の中に会得したものとして、其の全体像の直観としてあると思うのだ。この我が無となる事によって啓けて来るもの、この大きなるものが僕は最初に言った世界であり、無限とか無始無終と言うのは斯る世界の抽象としての時間的形象であり、有限とか露命とするのも無とする主体的方向の抽象としての時間的形象であると思うのだ。その統一として働く事があるのだ。この啓けて来るものの時間的形相が永遠なのだ。我々を超え我々に自己を顕現するものが永遠なのだ。僕達の日々の働きは其の奥底に於いて歴史的創造的にこの啓けて来るものにつながるのだ。そしてその事が我々が自己を見出していく事なのだ。僕が言った全てあるものは永遠に於いてあると言うのはそのような意味なのだ」

 乙「それならば僕達は働く時に永遠に結合している意識を持つ筈ではないのかね」

  甲「そうじゃないんだ。僕達は世界の内容として働く個として目覚めるのだ。世界は我々の全体として、絶対に懸絶するのだ。永遠は世界の形相として願望に於いて見るのだ」

 乙「よく判らなくなって来たよ」

 甲「そうだろう。言っている僕すら手さぐりで話しているのだから」

 乙「而し僕はおかしいと思うのだ。絶対の懸絶として至り得ないものならばどうして願望を持つ事が出来るのであろうか。啓示として我々は我々自身を見る事が出来るのであれば、啓示は即自己として何等かの意味でつながらなければならないと思うのだ。絶対の懸絶ならば願望すら持ち得ないのではないのだろうか」

 甲「その通りだ。而し働くものは世界を逆に自己の中に見る事によって働くのだ。即 ち個的人格の成立として働くのだ。而して個は世界の中に於いて働くのだ。個が個で ある故に世界は世界なのだ。而して個が個である限り世界は外として永遠は絶対の懸絶となるのだ。永遠に際会する為に僕達は自己を絶対に否定しなければならないのだ」

 乙「自覚以前に還る事ではないのか」

 甲「そうだ。前にも言ったように、其処には自己も世界も永遠もない。自覚的として見出てでた自己がさらに次の自覚として自己を消してゆくのだ。宗教と言うのはそのようなのだと思うのだ。キリスト教の神の前にと言うのも、佛教の空と言うのも、この絶対自己否定であると思うのだ。君が最初に言っていたね。「僕が永遠でなければならない」と。その事は君が不死である事を望んでいるのではなくして、全存在との一体を望んでいるのだと思うのだ。自覚的として外に自己を投げ出した自己が再び内へと還るのだ。啓示と言うものもそうだ。外に投げ出した自己が自己に還る事なのだ。此処に全人類は唯一の生命となるのだ。私達の魂はこの全人類唯一なるものの中に安らうのだ」

 乙「・・・・・・・・」

 甲「唯僕は佛の悟りを持った事もなければ、キリストの神を見た事もない。尚魂はさ すらい続けなければならないようだ」

 乙「分かったような分からないような気持ちだ。まだ疑問が一杯あるような気がする が、此処等で帰って一度整理するよ、有難う」

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

自然

 私は幼児の頃の思い出を殆んどもたないようである。目を閉じるとブリキで作って、色 を塗った太鼓を持って、坐っている自分の幼ない姿が模糊としてうかんで来る。余程長い間持っていたのか、大切なものであったのであろう。勿論年令も分らない。

 母の語ってくれたところによると、私は大変喋べりであったらしい。絶えず母に「これ は何」と言って聞いたらしい。余りうるさいので「黙っとり」と母が言うと、「うん」と 肯いておとなしくなるが、暫くすると「お母さんこれ何」と言ったらしい。

 近所のおじさんの話によると、毎日近くの小溝の石橋の下を覗きに行っていたそうで ある。「何をしとんのんどい」と尋ねると、「どんこ、どんこ」と答えたそうである。何でも少し前にその橋の下でどんこをみつけて取ってもらったらしい。勿論毎日といっても、 十日か長くて十五日位だろうと思うが、記憶にないので何とも言いようがない。

 私の村は田舎の例にもれず、四方が山で囲まれている。私が今でも明らかに覚えているのは、その見ゆる範囲内が世界であると信じていたことである。山の向うに親類があって叔父さんが居られると言われても、その有様を想像することが出来なかった。併し時々訪ねて来られる叔父さんの存在はすこしも疑っていなかったのである。唯その叔父さんも寝起きをし、耕すところが必要だということなどを思いもしなかったのである。山の向うにも家があって、人が住んでいると判ったのは、大分大きくなって連れて行ってもらってからである。そしてその村を囲んでいる山を見て、ああ彼処迄が世界かと思ったように憶い出す。併し我が家に帰ってくると、我が家から見える範囲が矢張り世界であって、叔父さんの家から見た世界は夢のようであった。それでも歩いて行って、帰って来た疲れがなまなましい間は実感が残っていた。日が経つにつれて淡くなってゆくのであった。在るものは感覚の事実であって、思惟の内容ではなかった。

 まえにも書いた如く、私は雑魚取りが天性好きだったようである。学校から帰ると、鞄を 放るのももどかしく、まえがきという網をもち出して近くの溝へと急いだ。そして草蔭や木の根の垂れ下った処などをすくった。獲れるのは三回に一回位であった。それでも鱗が銀色に光って跳ねるのを見ると、小踊りする心臓を覚えるのであった。あの頃よく替取りというのをやった。水をせき止めて替干しにして獲るのである。それはその中の魚を残らず獲れるということに於て、すこぶる満足すべきものであった。併しそれは水を替る、泥をかき分けてゆくという労力が必要であった。二時間もすると、幼ない腰が伸びない位であった。それでも泥の中で摑える、泥鰌や鮒の動く感触は私達を何時迄も飽きさせなかった。斯くして学校から帰ってから、暗くなる迄夢中になったものである。

 亦よく山の斜面になった所へ辷りに行ったものである。そこは丁度県道に面した所であった。土が崩れ落ちない対策であろうか、斜面は四十五度位な勾配になり、水の流れ落ちる浅い谷が幾筋かつけてあった。その谷の上から、尻に藁の束をあてがって辷り落ちるのである。その頃の綿布は弱かった。私達はたえずズボンの尻を破っていたようである。

 育ち盛りの少年にとって、自然とは躍動感を充足させてくれるところであったように思う。筋肉覚、関節覚に於て最も深く自然に関っていたように思う。幼少時の自然との交渉は楽しい思い出ばかりである。

 その頃小学校には毎学期遠足というのがあった。低学年は近くの寺へ行ったり、四K程離れた駅へ汽車を見に行ったりであったが、三年生、四年生になると、三木の城跡や、朝光寺に行き、高学年になると清水寺辺りへ行ったものである。いつの頃からであるか判らないが、山で囲まれている範囲が世界であるという観念は消えていた。それのみでなく、高い山から海の涯しないものを眺めた時に起る無限なるものへの思慕が生れていた。

 感覚だけではなく、地理などで教えられた世界なども、実在するのだという確信が生れて来ていた。それはコロンブスや、マゼラン等の冒険物語を読んだ、血の躍動が根源にあったように思う。血の躍動が知識を呼び、知識が血の躍動を呼んで、私の想念は果しなくふくらんでゆくのであった。

 それと同じ頃であったか。それより少しおくれた頃であったであろうか、太陽が落ち、 夕闇が草木を沈めてゆくのを見ると、言いようのないさびしさに襲われた。併し私は好んでと言えば語弊があるが、夕方になるとその寂寥に襲わるるべく、門前に出でて西の空を眺めた。その頃から私の心は哲学や宗教へと急速に傾斜して行った。私はこの寂寥の奥底に、天地を司る真理の予感をもっていたのである。

 亦自然科学は、自然が整正たる秩序をもつことを教えてくれた。雑然たるこの自然の動きが、全て厳密なる運動の法則によることを教えてくれた。併し私は物力の法則にあまり関心をもつことが出来なかった。私は唯一者を、生命の永遠を求めたのである。

 私は今自然とは何かを問おうとしている。私にとって自然は、与えられたものでも作ら れたものでもなかった。私の行動がそこにあるものであった。血が湧き、足が歩み出る身体の外延としてあった。そこにあるのは純一なる生命の流れである。

 人間とは斯る純一なる生命の流れの、初めと終りを結ぶ生命である。流れるとは矛盾をもつことによって流れ、行動とは矛盾に於て行動するのである。生命が矛盾であるとは、内外相互転換的であることである。動物に於ては、外に食物を摂ることによって、内に身体を養うことである。生命は内外相互転換的として、食物的環境と身体は動的一である。感官は身体が環境を内包するところにあり、環境が身体の外延であるところに成立する機能である。感官にとって環境とは呼ぶものであり、輝くものである。

 初めと終りを結ぶ生命とは、内外相互転換を節目として、流れを一々に断ち切り、断ち切った一々を蓄積することによって、より大なる形相を実現してゆく生命である。分断し蓄積してゆくのが理性であり、理性を実現するものは言葉である。より大なる形相とは製作的生命となることである。

 ここに於て生命は作るものと作られたものとの二重構造となる。人間は瞬間的なるものが永遠なるものとして、歴史的形成的となるのである。歴史的形成の世界に於て、与えられたものとして、質料として文化に対する自然が出現するのである。自然から文化が生れたのではない、純一なる生命の流れを分断されることによって、分断されたものの方向に自然が見られ、分断するものの方向に文化が見られるのである。自然とは自覚的生命の内容として見られるのである。

 私は前著に於て、自然とは経験の露わなものであると言った。経験とは一瞬一瞬の内外相互転換を、永遠なるものに映す行為である。内外相互転換的に行為する生命が、一瞬一瞬を永遠に映すのが経験である。自覚的生命が二重構造的であるとは、自覚的生命は相反する二つの自己限定の方向をもつということである。一つは理性の方向であり、一つは内外相互転換としての本能の方向である。一つは言葉の秩序による混沌の把握であり、一つは混沌の中よりの言葉の創出である。秩序の創出である。経験とは身体による理念の創出への行為である。

 内外相互転換としての生命の純一な流れは理性の光りに照して混沌の世界である。併し内外相互転換の世界は単に混沌ではない。外を内に転ずるというのは、機能的であり、造的であるということでなければならない。我々の身体は構造的機能的であるが故に食物を血肉化することが出来るのである。

 私は自然とは、山や川や草や木というのみではなく、深くこの我の身体というものがあると思う。内外相互転換としての生命の純一な流れは、この我の身体がもつのである。自覚的生命とは、身体が本能と理性の二つの相反する二つの方向をもつということである。本能が構造的機能的であるが故に、我々は自覚としての構想力をもち得るのである。

 身体は生れ出ずるものである。私はそこに自然の最も深い姿を見ることが出来るとおもう。生れ来ったものは生きようとする。身体を維持しようとする。本能とは身体維持の意志である。驚異すべき自然の精緻なる構造が理性にとって混沌であるのは、理性は他者と我の関りの秩序であるのに対して、本能は個維持の構造なるが故である。

 混沌は活力である。生きんとする力と力の表出が混沌である。よく駅のポスターなどで 『自然を求めて田舎へ』、『文化を求めて都会へ』と書いてあるのを見る。私は都会の人々が自然に求めるものは、生れ出で育ちゆくものの中に漬り、自己の生命の原型に触れる ことによって、新たな活力を呼び戻したいが為であると思う。自己の手や足によって、木の枝を掴み、岩の道を走った古代人のあらあらしい血を呼び戻したいがためであるとおもう。

 生命の流れとは矛盾に於て流れるのである。全て動きゆくものは否定をもつことによって動きゆくのである。併し単なる否定があるのではない。否定は常に肯定に転ぜられるものとして否定である。そこに内外相互転換としての生命がある。外は内の否定であり、内は外の否定である。内は外を内ならしめんとして内であり、外は内を外ならしめんとして外である。純一なる流れとは、生命が内外相互転換的として、内外相互転換的に一なることである。それが自覚的生命として内外相分つとき、外と内とは何処迄も否定し合うものとなるのである。

 自然の暴威という言葉がある。それは仮借なく生命を奪い去る、自然の絶大なる力に与えた言葉である。純一なる生命の流れが、自覚に於て自他相分ち、内が外に面したとき、外とは斯る絶大なる否定する力であったのである。暑熱、酷寒、暴風雨、大火、猛獣、細菌等の取巻く外界であったのである。縄文人は穴に難を避け、石や木をもってこれ等に対したのである。囲繞する鬼神・悪魔に対して呪文をもって対したのである。

 斯かる限りない死に対面しつつ生の営みを持ちつづけたのが我々の身体である。死に面して獲得して来た機能が創造的生命の内容である。我々の生命は一度獲得した能力を保持する性能をもつ、無限の生死の繰り返しの内に獲得し、蓄積して来た能力の集積が形相である。外が内の形を作るのである。我々の身体の形は、囲繞する外界の力の形である。身体の形は風土の投影である。生命発生以来幾十億年の否定と肯定と、死と生の闘争の中に獲得した機能の集積として、囲繞する世界を外の自然とし、身体を内なる自然として、内外相動転するのが自然である。

 機能とは否定を肯定に転ずる力である。肯定に転ずるとは死を媒介として、より大なる生を見出すことである。死として迫ってくる外的世界を力の表出に於て、内なる身体の秩序に変えてゆくことである。機能とは外を内なるものに変えてゆく生体の構造である。外的世界の投影である身体は、投影であることによって、外的世界を身体に馴化せしめるのである。内外相互転換とは内と外の力の相互転換として無限の動的緊張である。此処に内の身体に対して外は環境となる。

 私は自然という言葉が何時出来たか知らない。恐らく穴に住み、石を持って外敵に向った縄文時代にはなかったとおもう。自然とは人工とか文化の対概念である。人工の対概念であるとすれば、文化が余程進み、文化に疲弊症状が現れた時に、文化の基底として問われた言葉ではないかと思う。人工とは内による外の限定が製作的となったことである。製作は余剰価値という対象の肥大を招く、この肥大が文化として人間の優越であると共に、余剰によりかかることによって内と外の生命の対抗緊張を失わしめる。製作するとは、製作する生命として生れて来たということである。生れて来た生命とは幾十億年の内外相互転換を内にもつものとして生れてきたのである。時を背負う創造力として生れてきたのである。

 対立概念とは否定的に一なることである。自然は文化を否定し、文化は自然を否定してあることである。それが一なるとは文化は自然によってあり、自然は文化によってあるということである。

 文化とは自覚的表現的生命の形相である。表現とは何ものかが形となって表われることである。製作は身体によってなされる。私は身体によってなされるとは、身体の外化の意味をもつものであると思う。身体の外化とは幾十億年に亘って形成し来った、身体の秩序に於て構成することである。内なる自然が外の自然を変革することである。道具は手の延長であると言われる。道具は身体より見て外なるものである。それが手の延長となるとは、道具によって作られるものは、身体の外延となるものでなければならない。製作するとは、内外相互転換として相互否定としての外を、身体の秩序に随わしめることによって、内によって転じてゆくことである。

 併し作る身体を作ることは出来ない。身体は生れるものである。それは意志を超えた自然の延長としてある。而して身体の外化とは、自然の時間の蓄積して来た身体の構造機能の外化である。斯る観点からは製作も亦自然の内面的発展であると言い得る。自然は克服されたものではなくして、斯る深さに於て自然である。生れたものが作るものであるところに我々の身体がある。而して生れ来ったものが包蔵するところのものを表現するのである。斯る観点からは製作としての歴史的形成も、自然の生命創造の延長線上にあるということが出来る。

 身体が自然と歴史の交叉としてあるということは、歴史的形成は生命の自己形成として歴史の根底に何処迄も自然があることであり、世界は歴史的自然としてあるということである。私は自然という言葉が生れたのは、この歴史の根底としての自然の把握によるのではないかと思う。

 三輪神社の御神体は三輪山であるといわれる。山が御神体である時、山は自然なのであるか、私はそこに異次元に於て捉えられている山を見ざるを得ない。歴史は内面的必然をもつことによって歴史である。歴史的自然とは斯る内面的必然の目によって見られた自然である。それは自然が歴史の中に没し去ったということではない。自然が真に自然になったということである。自然が自己の中に内面的発展をもつということが、自然が歴史的自然となったということである。自然が内面的発展をもつということは、身体の外化を呼ぶものとなるということである。神体としての山が異次元と考えられるのは、それが内なるものの外化を呼ばないが故であると思う。

 内外相互転換としての生命が、主体的方向に機能的構造的であるとは、客体的方向にそれに対応するものをもつということである。それは法則的である。逆に言えば客体的方向が法則的なるものをもつが故に、主体的方向が機能的構造的であることが出来たのである。内外相互転換は対応的である。生れたものが作るものである自覚的生命に於ては、生れたものと作るものが対立する。作るものは生れたものを否定することによって作るものであり、生れたものは作るものを否定することによって生れたものである。その否定が内面的必然である。否定を介して歴史は歴史となり、自然は自然となるのである。神体としての山は、歴史と自然の未分以前としてあり、形相は歴史と自然の混融としてあるのであるとおもう。

 ふるさとの山にむかひて言ふことなしふるさとの山は有難きかなと詠われた山、清冽な流れのひびく小川、たたなわる峯、そこは超越者としての神の住み給うところではない。我々の身体と連り、情感の交うところである。私は斯る自然は、自然が無限の内面的発展をもつことによって見られたものであるとおもう。即ち一方に作るものとしての、歴史の内面的を、生れ生むものとしての自然が宿すところに見られたものと思う。山や川は生むものとしての大地である。もし生命を生むという意味がなかったならば、どうして我々は情感を交すことが出来るであろうか。茸が生え、わらびが生え、小鳥や兎が繁殖する山にして初めて我々は有難き哉と言い得るのである。そこは我々のいのちを養うところである。いのちはいのちあるものを資として生きる。大地は生むものとして、植物の生えるものとして、我々は植物によって生きるものとして、母なる大地である。自然の本源はそこにある。

 内面的発展とは自覚的生命となることであり、外を対象化することである。作られたも の、見られたものが逆にこの我を作るものとして包むものとなることである。無限に純一 なる流動を断ち切って、内外を対立せしめることである。内が外を作り、外が内を作るのである。私達は山や川を、我々の生死を超えた無限の時間の相に於て見る。私は斯る自然観の根底に、自覚的生命の無限の歴史的形成があり、歴史的形成の反極として見るのであるとおもう。祖先の無限の創造的努力があるのである。私達は深い山に静寂を見る、この静寂を見る目は、祖先の無限の生命創造の目を、この我の目が宿すことによって見ることが出来るのである。

 生れたものが作るものであるとは、作るとは与えられたものの否定であると共に、何処迄も与えられたものの底深く入ってゆくということでなければならない。作るものは、生れたものの根底に還ってゆくのであり、歴史は自然が自己の根底に還るということにあるのでなければならない。作るとは自己を外に見ることである。自己を模してゆくのである。作られたものを内として、外に表わしてゆくのである。それは身体的に創造し来った生命が自己をより露わとすることである。

 歴史的世界とは製作的であり、製作とは過去と未来が現在に於てあることである。過ぎ去ったものが現在として形相を実現してゆくことである。内外相互転換としての、無限の行為の蓄積が、現在の内外相互転換に働くのが製作である。無限の過去と未来が現在にあるものとして、永遠なるものが働くところに物は作られるのである。

 併し形あるものは壊れるという言葉のある如く、物は永遠なるものではない。物に映さ れた歴史の世界は何処迄も変遷の世界である。死の深淵に参会する世界である。物に於ては過ぎ去ったものが働くということがない。壊れた機械が働くには、今一度人間の脳髄の中を通って来なければならない。

 自然の世界は繰り返す世界である。日々歳々を繰り返り、生命は生死を繰り返す世界である。そこは初めなく、終りなき世界であると共に、初めが終りである世界である。私は永遠とは斯る世界が物を浮べるところにあると思う。斯る世界の自覚として、自己を外に見たものであるとおもう。内外相互転換の集積は繰り返す生命なくしてあり得ないものである。永遠の今とは変化が常に同一であるということである。それは行為的現在がくり返しの上にあるということでなければならない。自然が自己自身を見、製作的行為的に自己自身を見るのが歴史であると思う。歴史は初めなく終りなきところより出で、初めなく終りなきところに帰るときに救済をもつのである。一瞬の過去にも帰ることの出来ない時間の流れは、初めと終りを結ぶものに於て成立するのである。そこに歴史の奥底としての自然があるのである。

 あるものは相互媒介的にある。歴史の奥底に自然があるとは、自然の究極に歴史があることである。自然の上に歴史があるとは、自然は歴史によって現われることである。歴史が自然によって救済されるとは、自然は歴史によって永遠を露わとすることである。相互媒介的とは否定を媒介することである。かって「死について」に於て言った如く、永遠は絶対の死をもつことによって永遠である。 永遠とは無限の時間ということではない。流れて止まない歴史的時間が、日々の行持に実現されていることである。日々の行時は自然のもつ生命の反覆に於てあるのである。禅家に日々是好日という言葉がある。それは歴史を透過した自然の深い自覚としてあるものと思う。絶対死の底に見出した深い生命であるとおもう。

 文明が行き詰ると、自然に還れという声が何処からか起って来る。それは生れたものが作るものである必然の推移であるとおもう。生命としての自然は、作るものとなることによって何処迄も自己を深めてゆくものである。生れ来ったものを内として、外に表現してゆくものとして、生命に何処迄も深大なるものを見てゆくものである。作られるものの転換は作るものに求めてゆかなければならないのである。内外相互転換の原型に還らなければならないのである。

 それは最早自然ではないと言い得るであろう。歴史を否定する自然は、歴史によって否定されたる自然である。併しそれによって自然は純なる自然となるのである。歴史的自然として、自覚的生命に於て自然と歴史は対立する。対立するものは否定し合うものである。対立するものを否定するにはいよいよその本性が明らかにならなければならない。女性が男性に対することによって、いよいよ女性となる如きものである。

 我々があの山、この河として、踏破し水浴するのは最も表層的な自然に外ならない。 それ以前に薪する山、渇して水を飲む川があったのであり、以後に自然科学へと発展すべき自然があったのである。生存に即する自然があったのである。生存に即する自然が製作の内容へと発展し、歴史的自然となったのである。私は老子の大道すたれて仁義ありといった自然の如きも、歴史的自然に立脚点をもち乍ら、その歴史的方向を捨象したところに見られたものであるとおもう。

 本文の最初に私は経験として見出した自然を叙述した。自覚的生命に於ての内外相互転換は歴史的形成的である。併しその形成は何処迄も身体を媒介するのである。それは経験的である。内外相互転換は身体なくしてあり得ないものである。生れたものとしての自然の上になり立つのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

根源への問いを問う

 哲学は根源への問いであると言われる。この根源が問われると言うのは如何なるこ となのであろうか。根源と言う以上全てのものがそこから出て来た筈である。而し問われるものである以上、それは未だ有り得ないものであり、求められるものでなければならない。根源への問いである以上その解答は終わりとしての全解答でなければな らない。根源への問いは、全てのものがそこより出で来ったものとしてすでにありつ つ、問われるものとして未だあり得ないものである。根源は根源として一つでなけれ ばならない。根源が二つあれば根源ではない。而し問うということは問うものと問わ れるものに距離がある事である。私はここに人間の自覚的生命を見る事が出来ると思う。

 ありつつあり得ないものとは、自己の中に自己を見ていくものである。自己の中に自己を見るものに於いて、問いは根源への、始めへの問いである。始めへの問いが問 い自身の中に深まりゆくことが自己自身を見ることである。根源が自己自身を明かし ゆくのである。根源は何故に自己自身を明かさんとするのであるか。私は矛盾として の人間生命の存在形態なるが故であると思う。

 根源的なるものは、始めなく終わりなきものとして自己を見るのではない。始めが終わりであるとは、始めと終わりが一つでありつつ、既に始めと終わりを分かつのである。根源を問うものは根源ならざるものでなければならない。根源ならざるものが根源を問う事が、根源が根源自身を問う事でなければならない。根源を問うものは個としてのこの我であり汝である。この我は、無数の人々の中の一人として、宇宙の一微塵である。生死するものとして無限の時間の中の一泡沫である。

 而して我があるとは、一微塵として、一泡沫としてあるのではない。問うのは言葉をもってする。生きるのは技術によって物を作ることによってする。言葉、技術は一微塵、一泡沫を超えたものである。この超えたものへの問いが根源への問いである。根源が自己自身を問うとは、根源ならざるものが根源を問うことである。根源が自己自身を見るとは、生死するものが普遍的一者を見る事である。勿論根源でないものが根源を見る事は出来ない。根源的なるものが自己自身を見ることが、根源ならざるものが見るということは出来ない。そこには相互媒介的なるものがなければならない。相互媒介的とは、根源によって、根源ならざるものはあり、根源ならざるものによって、根源はあると言うことである。一者によってこの我はあり、この我によって一者はあると言うことである。そこに自覚がある。自覚はこの我の自覚である。而してこの我の自覚が根源が自己自身を見ると言うことである。

 古来幾多の哲学が語られて来た。今も多くの人々によって語られている。各々が完 結しつつ、各々が内容を異にして、これからも多くの人々によって語られ問われる根源は一者である。而しそれは多くの人々によって異なった内容に於いて語られるのである。

 全ての人は個性としてある。それは世界が矛盾的に自己自身を作ってゆくものとして、唯一のものとして現前する。この我は過去にあった事も、未来に現われる事もな いものである。斯る個に於いて根源への問いをもち得るのである。個としての人間は 生まれて死んでゆく、この唯一なるものの死が根源を求めるのである。生まれ来った 新しい個は、新しい状況の下で唯一の個を形成してゆく。この新しい個の根源への問 いが新しい哲学のスタイルである。哲学は個がその一々に於いて根源を問うのである。個の全への終わりなき問いである。そしてそれが始めに終わりがあり、終わりに始めがあるものの形態である。

 問いが根源の自己自身の問いであり、問うものが個としてこの我であるとき、永遠は常に現在にあるのでなければならない。而してそれは無数の個を包むものとして、 無限の過去と未来を包むものでなければならない。無限の過去、未来の一瞬一瞬を現在として、この我と対話さすものでなければならない。生者必滅の悲しみに於いて、 永遠に対面しつつ、私達は滅んでゆくのであると思う。而して無限の未来に於いての 現在として、語り続けるのであると思う。其処に根源を問う所以があると思う。全ては唯一者に於いてあるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

生死

 近頃は熟れた稲田の畦を歩いても、風が流れてさらさらと穂波を立てるのみである。 私達の小さい頃は、秋の稲田と言えば無数の虫の棲家であった。雑魚取りなんかで、畦にはみ出た穂を分け乍ら行くと、蝗やよこばいが縦横に跳び散ったものである。その中に混って少数乍らかまきりがゐた。あのやせたかまきりが大きな斧をふりかざして、果敢に迫ってくると、悪童どももたじろいだものであった。

 秋も終りに近くなり、稲を刈る頃になるとそのかまきりの、雄が雌に食われるさまがし ばしば見られたものである。雄かまきりの大きな腹が半分程なくなって、そのなくなった処より、雌かまきりの口が続いており、雄かまきりは苦痛に耐えているのであろうか、背を反らせるだけ反らして動かずにいるのを見ると、性を同じくするものとして、悲痛の感なくして見得なかったのを思い出す。

 食は個に関り、性は種に関ると言われる。生命は個的、種的である。個的方向と、種的方向をもつことによって生命は自己を維持してゆくのである。併してこの両方向は決して和平的な結合をもつのではないらしい。食われるかまきりや鈴虫がそうである。亦おたまじゃくしや蜘蛛の子は無数に生れる。それは全部が生きようと思えば、全部が死ななければならない数らしい。即ち彼等は殆んどが死んで、幾何かが残るべく生れて来たのである。種は斯る残酷をもつことによって生命を維持してゆくのである。

 生きているとは自己矛盾としてあることである。生きているものは死ぬ。生は死の対極をもつことによって生である。死の対極をもつことによって生であるとは、生は死すべく生れ来ったということである。生けるものは全て、生れ来った時より死への道を急ぐ旅人である。而しそれは滅亡への道ではない。種の形相を実現したものは、新たな環境適応をもつ生命に、種の形相実現を負託して死にゆくのである。個的種的なる生命は、個の生命が死ぬことによって種の生命を維持してゆくのである。

 私は自覚する生命として人間を捉えようとするものである。自覚とは自己が自己を見、自己を知ることである。自己が自己を見るとは如何にして可能であるか。私は自己が自己を見るとは、自己を外に表わす事であると思う。我々は形に表わすことによって自己を見るのである。形に表わすとは物を作ることである。自己を物となすことによって我々は自己を見るのである。外部知覚の内容は形成的物でなければならない。物を作ることによって、内外相互転換としての食物的世界は外部知覚的となり、製作するものとしてのこの我は内部知覚的となるのである。

 それは技術的である。技術的であるとは、長い歴史の集積であるということである。技術とは死を生に転ぜんとする本能の行為を、集積し、整理して現在の環境との対決に、生の形相を打ち樹てる力だと思う。それは始めが働き、終りが働くことである。人間はそれを言葉によってもつのである。私は人間が他の動物と異るところは、初めと終りを結ぶ力を有することであると思う。我々が今斯くあり、斯く働くということは、全人類の無限の経験の、言葉をもつことによる蓄積と整理によるのである。

 湯川秀樹博士が物理学は視覚と関節覚の発展であると言われた如く、外に見るとは、身体的なるものを物に表わすことである。身体は物に自己を表わすものとして、何処迄も内なるものである。而して物に表われるものとして何処迄も外なるものである。

 生命とは身体をもつことによって生命であり、身体は内外相互転換として身体である。禅宗でよく、生命は呼吸の刹那にあると言われるそうであるが、呼吸とは内を外とし、外を内とすることである。摂食と排泄も外を内とし、内を外とすることである。

 内外相互転換的とは、生命は常に死に面しているということである。摂食に於て食物の欠乏は死である。呼吸に於て酸素の欠乏は死である。生命は危機としてあり、危機の克服として生きるのである。危機の克服の蓄積と構成が技術であり、製作である。

 言葉をもち、物を製作する人間は、動物が食物的環境としてもつものを世界として形成する。それは最早食物としてのみの意味を有するものではない。言葉が言葉自身の展開をもち、物が物自身の発展をもつのである。それが世界を形成するということである。人間は動物が、生得的に与えられた所に生きるのに対して、瞬々環境と自己を改造するのである。創造に生きるのである。

 私は此処で自覚というものに一歩立入って考察を加えなければならない。自覚とは内外相互転換の自然の流れより、人間が初めと終りを結ぶ力をもつものとして、言葉に写すことによって内と外を分ち、自己を分たれた内と外の統一者とすることである。内部知覚と外部知覚の相即者として無限に動的となることである。自然としての、所与としての内外相互転換が立体的構成的となることである。製作的表現的であるとは、何処迄も身体を離れると共に、何処迄も身体を基盤にもつのである。自覚とは空中に楼閣を見るのではない。道具は手の延長と言われ、機械は道具の延長と言われる如く、表現は身体の発展である、日々の行為の上に成立するのである。

 内部知覚即外部知覚・外部知覚即内部知覚とは、生物的生命としての食物的な内外相互転換の発展として、常に死と背中合せにあり、自覚は亦危機の自覚として発展するのである。危機も亦自己形成的となるのである。

 初めに生命は個的種的であると言った。自覚とは斯る個的種的なる生命が無限に自己創造的となることである。創造とは、世界形成的に自己を見てゆくことである。技術的、言表的である。而して技術的言表的であるとは、この個としての自己を越えたものである。言葉も技術も生死するこの個を超えて、無限の祖先より継承し来ったものであり、子孫に達してゆくものである。言葉と技術は個を超えて世界として自己を見してゆくものである。生命に於て個を超えるものは種としての生命であった。私は自覚とは種の発展であり、世界とは歴史的形成的世界であると思う。

 生命は死をもつものであり、生物が死ぬとは種の中に死ぬのであった。種は個の生死 於て自己の連続をもつのであり、個は斯る連鎖の一環として、種の中に生れ、種の中に死ぬのである。連鎖の一環として死ぬということは、種に生きるということである。

 人間に於てはこの世界の中に生れ、この世界の中に死んでゆくのである。生物が生れて種の形相を実現してゆく如く、我々が生きるとは、よりよき社会を作ってゆく事である。より豊富な言葉と、より多様な技術をもつ社会を作ってゆくことである。

 生物に於て種は個に対して、残酷をもつことによって自己を維持してゆくと言ったごと く、人間に於ても世界と個は矛盾をもって対立する。個人は恣意を否定することによってのみ世界を実現するのである。世界は個人の恣意を抹消しようとするのである。 世界は法として個人にその従属を強制するのである。而して個的生命は恣意を否定してのみ、真の自己となることが出来るのである。生死する生物的生命を超えて、初めと終りを結ぶ世界に触れることが出来るのである。世界実現的として恣意は意志となるのである。斯るものとして克己を伴うことなくして、意志の実現はあり得ないと言い得るのである。

 雄かまきりが雌に食われてゆくのを見ると悲痛の感を持たざるを得ない。併しそれが種に生きる道である。人間は創造的生命となることによって世界を見る。そこには私は雄かまきりにも似た捨身がなければならないと思う。死して生きなければならないと思う。勿論自覚的生命としての人間は、生物の如く身体を殺すのではない。世界形成として、生死を超えた技術・言語に純一となるのである。本能的欲求を殺して、展けゆく世界そのものとなるのである。

附記

 先生から難しいことを書くなと言われた。それで私の文章の基礎となるものを記したい と思う。私は人間は生れて言葉を覚え、技術を習い、働いて物を作って、食って生きてゆき、そして死ぬ存在だと思っている。私はそれを究明しているだけである。唯それが如何なるものかと求めた時はかることの出来ない深さとなってゆくのである。残る生命を賭けて究め得るだけ究めたいと思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

情としての日本的形成

 古い本を引張り出して、ごろりと寝転んで読んでいると、こういう下りがあった。江戸 の或る豪商の家より出火した。折からの風に煽られて、火は見る見る内に街並へと拡がって行った。当主が茫然として火の行手を見ているところへ、息子が駆け寄って来て、「お父さん御安心下さい、土蔵の全ては完全に塞ぎました、これで大丈夫です。と言った。すると主人は、「馬鹿!!」と怒鳴って走り行き、土蔵のを全部開け放ち、塞いだ窓を尽く壊した。そして火の消え去った後、一物も残らず焼けた我家を眺めて、「これで世間様も許して下さるだろう。」と呟いた。というのである。

 世間様も許して下さるだろうとは、如何なることなのであろうか。私は世間とは、所謂 社会とは異なっているように思う。社会は我々を超えて、我々と対立する意味をもつのに対して、人と人とのつながり、関り合いの意味が大変濃いように思う。今此処に我と汝が関り合って生活をしているのである。世間知らずというのは、我と汝の関り合いを、上手に処理なし得ないものである。世間が狭いというのは、関り合う人が限られて少いということであり、理解してくれる人が少ないということである。私達は社会が許してくれるとか、社会が狭いという言葉をもたない。そのことは世間とは人と人との生活空間の意味をもつと思う。

 許してくれるとは、私は、それによってあるものがそれに背き、再びそれの中に容れら れることであると思う。この場合出火によって、多くの家を類焼せしめ、人々を困窮せしめたのが、世間をはみ出たことになるのであろう。そして着のみ着のままになったことによって惻隠の情をもち、怒りを少なくしてくれるであろうということであろう。

 世間を世間様というのは如何なることなのか。通常前にも書いた如く、世間知らずとか、世間が狭いとか、世間という言葉で表わされる。自分も其の中の一人である以 上当然の事である。而し世間様というのは自分と一線を画した言葉である。そしてそれは許して下さるにつながる言葉である。私は世間様というのは、其処に自分の存在の根元を見た言葉であると思う。世間は我と汝の無数の関り合いである。関り合いは我を超えて、無限の過去に遡り、未来に流れてゆく。我々はその中に生き、それによって生きる。其処に法が生れ、神や仏の出で来る地盤がある。併し世間様は神や法ではない。何処迄も人と人である。我と汝である。

 私は斯るものとして、世間とは心情的に形成せられた社会であるとおもう。心情と心情の結合から、新たな心情が生れる。そこに自ら全体的なものが生れる。全体とは秩序である。それは成文化されたものではない。お互いの心に流れ合うものであり、それによって我が生き汝が生きる心情のおのずからなる承認である。私は世間様とは、我々の心情の奥に出来た社会的心情とでも言うべきものではないかと思う。

 私が鎌の販売をしていた頃、出張先の宮崎市に吉田喜五郎商店というのがあった。その当主は古来の慣習を頑固に守り続ける人であった。他の人から聞いた話であるが、その主人はいつも、飯を食っている所を人に見せてはならない、もし見られてお客さんより美味いものを食っていたら、お客さんにすまない、と言っていたそうである。事実私も二、三度饗ばれたことがあるが、夏の暑い日でも障子が閉め切ってあった。この家は市内でも一、二を争う資産家として、当時の市長の娘を嫁に貰った程である。かくれて食う位ならどんな美味いものを御馳走して下さるのかと思ったら、味噌汁一椀に干魚の焼いたのが一匹であった。それを手拭片手に、汗を拭き乍ら食べるのである。私は戴き乍ら、資産をもつという意味を疑ったものである。

 併し彼は決して吝嗇ではなかった。寄附なんかは惜まず出していた。勿論まずいものを食うのが好みではなかったであろう。私は其処に情のつながりといったようなものが見られるのではないかと思う。客もその店に無ければ兎も角、他の店で買うことはしなかったようである。品物を通じての結合が一体感をもたらし、一体感が同一への欲求をもたらしたのではないかと思う。客よりうまいものを食っていてはいけないということも、この同一の欲求から来るのではないかと思う。

 世間知らずといわれる言葉も、この同一の感覚の欠除を言っているように思う。他者の気持をおしはかり、自己と他者の間に一つの状態を作り得ないものをいうように思う。あの人はまだ苦労が足らんと言われるのも、苦難の経験をもたないということでなくして、人との関り合いに圭角があるということのようである。

 私の住む田舎では、今では大分薄れてきたが裾分けという習慣がある。何か美味しいもの、珍しい食物が手に入ると近所隣へ少しずつ配るのである。貰った者は亦近所や知人に配るのである。私はそこに味覚に於て自己と他者の同一を実現しようとする、日本的あり方を見ることが出来るように思う。それは身体的であると共に、我の身体を超えて、我と汝の身体の同一をもとうとするのである。私は心情とは身体と身体が関り合う波動であるとおもう。

 一つ釜の飯を食ったという言葉がある。それは人と人との最も強い結合を表わす言葉である。私は日本人の結合は理念による結合ではなくして、より多く斯る身体的なものに根底を有するのではないかと思う。

 私達の若い頃、村には講というのがたくさんあった。伊勢講、お日待講、念仏講等である。それは多く血縁を基礎としているようであった。年に何回か講員が廻り持ちに講元となり、形式的な儀礼の後多くの時間を飲食に費していた。村には幾つもの講のグループがあり、大てい四、五人から七、八人位で構成されており、飲食はその紐帯を確めるものであった。盃のやりとりがはじまり、酔うて唄い、全員が体をゆすり乍ら唱和して、一同は満足して帰宅するのであった。

 私は日本の生命形成の根底に断るものがあるように思う。それは同一の体験亦は官能充足によって身体的一を実現するのである。伊勢講の行事として、四年目に一回のお伊勢参りがあった。私はその帰りを浄谷の浄土寺迄迎えに行った経験しかないのであるが、寺より村迄の間、酒を煽り、声張り上げて唄い、右に左に練って歩くのであった。それは多くの人ではなくて一つの波であった。おのずから波動が形造られてゆくのであった。

                                                                                                                                               波動とは多が動的に一ということである。この夏テレビで阿波踊りというのを見た。そ れは全く波であった。人の波というのではない。それは波を演出するのである。多数の人々が単純な動作を繰り返し繰り返し押し寄せて来るのである。人々は波の演出の中に陶酔してゆくのである。歌の囃しというのも斯かる波動を構成する一つの要素であった。祭りの太鼓なども波を描いて練られたようにおもう。そして私達もその練られることに興奮を覚えたものであった。

 汝は我に非ざるものであり、我は汝に非ざるものである。若しも我が汝であり、汝が我であるなれば我と汝というものはない。併し我と汝は人類として、他の動物と距てる同一をもつのでなければならない。人類は同一の生命機能をもつのである。斯かる同一に於て集団をもち得るのである。私は日本人は形相形成を自他分別の方向ではなく、同一の方向に見出して行ったのではないかと思う。自他分別の理性に於て世界を築くのではなく、汝が行為を介して身体的に繋がる方向に世界を見出して行ったのである。情念的な結合である。

 私は世間というのは斯るものに基盤を有するとおもう。世間様がゆるして下さるとは、 斯る結合の中に容れてもらえるということであると思う。昔私の村落でも村八分という制裁があったらしい。それは如何なる体罰でもなくて、結合の拒否だったのである。而してそれが最も苦痛を与える制裁であったということは、日本の社会構造が斯る結合の上に成り立っていたが故であると思う。世間とは斯る構造の拡散されたものであり、日本社会の特性は多く身体的結合の親縁性によるとおもう。

 身体は情緒的表出をもつ、身体的結合とは情緒的結合である。情緒的結合が強固であるためには、会食に於ては声が届き合い、盃を交す手が届き合い、鉢物への箸が届き合うところでなければならない。即ち講に見られた如く、五人乃至十人の小人数でなければならない。私はそこにおのずから世間の論理がはたらいているように思う。江戸時代に社会組織の下部構成として五人組が作られたというのも斯かるものに所以するとおもう。

 世間としての社会に最も尚ばれるものは当然人情であった。世間情がなきやなり立たぬと唄われ、人は情の下に棲むと言われ、情深い人は最も尊敬される人であった。逆に鋭い分別をもち、物事を組織づけてゆく人は冷たい人として敬遠された。冷たい、温いという身体感覚は、日本人にとって重要なる価値規準となったのである。私はここにも身体的なるものに基盤を有する日本的形としての、世間として展開して行ったものを見ることが出来るとおもう。

 南博氏はその著日本的自我(岩波新書)に於て、日本人の自我構造の一つのきわだった特徴として、主体性を欠く「自我不確実感」の存在ということを考えて来た。と書かれている。併し私は自我不確実感という言葉そのものが、西洋的自我の思考の上に立つものであって、日本的生命の形成の場に立って考えられたものではないと思う。そこには西洋的意味に於ける自我の不確実というのは避けることは出来ない。併し人間は自覚的生命として内面的発展をもつ、私は日本的自我を論ずる場合にも、日本人が形成し来ったものとの動的関係に於て捉えなければならないと思う。内面的発展はそれ自身一つの積極的意味をもつ、それは西洋的自我を逆に包み補完する意味をもったものである。全てあるものは一つの完結性をもつ。日本的形相は一つの完結をもつのであり、西洋的なるものの欠落としてあるのではない。日本的なるものが或る意味に於て、西洋的なるものの欠落としてあるのであれば、西洋的なるものは或る意味に於て日本的なるものの欠落としてあるのでなければならない。西洋的なるものが日本の停滞の救済であるのであれば、日本的なるものは、西洋の没落の救済でなければならない。交流は興隆である。

 情に於ての我とは他者との一体感である。自己があって他者と結びつくのではない。自他一なる中に自己があるのである。理性としての自己は、自己の中に世界をもつ、一体感に於ては世界の中の自己としてある。我と汝は対立するのではない。間柄として一つである。親の子、兄の弟、遊んでもらう人、教えてもらう人として一つである。理性に於ける我と汝は人格として対立する。それは一つの世界を形造るものとして対立する。それに対して結合として生命形成をもつ個我は無力である。而して一体感としての結合の燃焼は大である。そこが自己の存在根拠なるが故に身命を捨てゆくものをもつのである。私は近代日本の発展の底に斯る精神のはたらきがあったと共に、親分子分といった小さなやくざ的結合をもち易いものがあったと思う。

 西洋文化の論理的構成的であるに対して、日本は独自の文化を形成して来たと思う。それは何処迄も身体的一体感の方向に深めていったと思う。身体を物に表わす方向ではない、物の中に消してゆく方向である。与えられた身体の精妙を、物との動的な関りの中に見出すのである。物を外に見るのではない。いのちの現れ、いのちの関りとして動的な身体的生命に於て見るのである。馬術に於て鞍上人なく鞍下馬なしと言われた如く、剣術に於て無想剣と言われる如く、道具として離れたものが動きに於て一つとなるのである。自他不二として見られる心地の風景が神といわれるものであり、それに至る過程が道である。日本文化は道の文化であったということが出来るとおもう。それは作る文化ではなくして、修めておのずから成る文化である。

 東洋殊に日本に於ては飄逸とか無我ということを非常に重要視する。無我とか飄逸ということは、自我を捨て作為を捨てるということである。大きな宇宙的生命の中の一個として、その運びのままに生きるということである。勿論それは何も為さないということではない。我々の情熱努力も亦大なる生命の運びの中にあると観ずるのである。その実現の為に身を捨てるのである。飄逸とか無我とは遊離することではない。道の底に死するところにあるのである。死して生きたところが飄逸であり、無我である。我々の祖先は西洋的自我を小我として、相対立するものに地獄を見、解脱に極楽を見た。極楽は無我の風光である。無我は大我への参見であり、身体的一体的なるもの究極である。

 近代社会は個性として、自由意志としての西洋的自我を生んだ。それは新しい生産手段の発展に伴う必然の自覚であったということが出来る。個は個に対する、それは相互否定的である。相互否定的とは無限に動的であるということである。社会は否定の変革によって動いてゆくのである。個が個に対立するとは物を媒介とするということである。物の生産に於て我々は自由意志であり、物の所有、生産技術の所有に於て個は個に対する。私はそこに西洋文明が物質文明といわれた所以があると思う。而して人間は外に自己を物として表わしたものである。物の生産なくして社会はない。社会の発展とは物の生産の発展である。発展のサイクルに入った社会はその展開を止めようがない。近代社会は我々に西洋的自我への転生を要求するのである。個性と自由意志に立脚点を求めるのである。南博氏の自我不確実感とは、波動として、一体感として形成し来った日本的形成として生命が西洋的自我に転生せんとする軌りであるとおもう。我々は新たな社会構造の主体として生きねばないのである。西洋的自我を透過しなければならないのである。自我不在感としての軌りをもつということは、西洋的自我に生きねばならないということである。

 生命は永遠なるものが瞬間的なるものであり、瞬間的なるものが永遠なるものであり、全体的なるものが個的なるものであり、個的なるものが全体的なるものとして絶対の矛盾としてある。絶対の矛盾として一つの形相は行き詰らなければならない。全体的な形相はその極個的なるものを失なうことによって崩壊し、個的なる形相はその極全体的なるものを失うことによって崩壊するのである。前者に於ては無気力となり、後者に於ては無目的となるのである。物に媒介される個性として、自由意志としての西洋的自我は、自由の故に無目的的となるのである。物に対するものは身体的欲求である。そこに最大多数の最大快楽が人生の目的の如き考えが生れてくる。併し快楽は官能的瞬間的のものであり、人性の本源を見失わせるものである。瞬間的なるものは永遠に映すことによって瞬間である。永遠を見るなき瞬間は瞬間の喪失である。そこに退廃がある。私は近代社会の抱える問題とは斯る退廃であるとおもう。

 私は日本的一体感の中に断るものを救済する原理があるように思う。勿論それは伊勢講の如きものを復活させよというのではない。一体感は対立矛盾の否定である。前にも述べた如くそこには発展や変革はない。情的結合の社会は停滞社会である。我々が近代としての国際社会に生きるには、どうしても西洋的自我を獲得しなければならない。併し西洋的自我は今見た如く既に終末的である。単に西洋的自我の中に入ってゆく限り、我々は徒に崩壊の中に入ってゆくことになりかねない。私達が西洋的自我を獲得するとは、日本的形成の中に西洋的自我を宿すことでなければならない。そこに新しい世界創造の原理が生れるのである。歴史は常に一つの精神が発展し完成することによって崩壊し、それを継承した新たな精神が発展し完成する繰り返しであった。今や日本は新たなる精神に於て世界を発展さすべき使命を有すと言わなければならない。

 この頃よく人間性の回復とか研究とかという本が書店に見られ、絆とか出会いを大切にしようという標語が方々に掲げられている。出会いというのは刹那の交情である。我と汝の一体感の把握である。それは私達にとって忘れたものの呼び返しである。身体を直接与えられたものとして、身体と身体の関り合いに生活の基盤を据えようとするのである。そこにあるのは触れ合うぬくもりであり、情の結合の一体である。併し一度び西洋的自我の洗礼を受けた現代日本は最早再び旧に還ることは出来ない。私達はその形相の如何なるものかを知ることは出来ない。形相は世界が自己矛盾とその救済として世界自身が決定するものである。

附 記

 いつであったか新聞で校内暴力の座談会があった。そのとき学生は小グループに於ては強い結束をもつが、現在の学校の大組織には白けム-ドであると書かれていた。私は今これを書き乍ら日本人には抜くべからざる情的結合の習性があるように思う。これを如何に普遍社会に結合するかに解決があるとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

散り葉を見ながら

 折柄の風に公孫樹の葉が、光りを浴びて金色に輝き乍ら散り落ちている。思わぬ美しさに、私は近寄って一葉を拾い上げた。残りなく黄色と化した葉は一種の透明感さえもっている。而して見惚れ乍ら、今更の如く感嘆の思いをもったのは、その精緻を極めた葉脈であった。繊細な筋線は、複雑に織りなし乍ら整然としている。更に二、三葉を拾っても同様である。たった半年程梢にあるだけなのに、樹はこのようなものを作っているのである。私の心は名状しがたい感動につつまれていた。私は生命の不思議へ、思いをめぐらせていった。

 葉は芽吹いてたった半年梢にあっただけである。併しての複雑な構造は、半年や一年で出来たものではない。何億年、否何十億年を芽生えと枯死をくり返し乍ら形造って来たものである。乾燥に耐え、風雨と戦い、寒暑を凌いで形造って来たものである。単細胞より何十兆の細胞の構成へと成長して来たのである。

 生命は一瞬より一瞬へと動いてゆく。新しき生命は次々と生れ、生れた生命は刻々と死に近づいてゆく。動くとは相反するものに移ることである。生命は死をもつことによって生命である。ギリシャ神話に、不死を願って石に化せられたというのがある。生命にとって死は避くべからざる運命である。

 生命とは生きんとする意志である。生きるとは死を超克せんとする努力である。併し死は生命の竟の宿命である。如何なる苦闘をもしのび寄る老いは力を萎えしめ、黄泉へと赴かざるを得ない。追憶の中に露命の儚さを思い、槿花一朝の夢を嘆かざるを得ない。流汗浅血は唯淡き残像をもつのみである。

 併し半年で散りて消えゆく公孫樹の葉は、億年の長き歳月を潜めるものであった。 堆く散り積った葉は、半年の生きんとする力の集積である。散り落ちて来年亦、新しい葉が芽吹くことが出来るのである。木は枯れることによって、新しい木が成長するのである。この限り無い繰り返しがなかったら、単細胞より何十兆への細胞の構成がどうして可能であったであろうか。そして何億年の構成の成果に一枚の葉は今有るのである。

 全て生命が、主体的、環境的であるとは、環境の変化と共に変化するという事である。そこに生死がある。生死とは、環境を主体化し、主体を環境化することである。相互に否定しつつ動的一として形相を実現してゆくことである。

 限りない時間の前に、朝を葉末に置く一つの露と思える我々の生命も亦、量るべからざる深さをもつのである。人間には百四十億の脳細胞と、六十兆の身体の細胞があるといわれる。それが機能的に一つのものとして働くのである。私達は鮭の稚魚が大海を回遊すること五年にして、放流された母川に回帰するという事に驚嘆し、生命の不思議を感ぜざるを得ない。併し人類が養い来ったものは更に甚妙である。我々はこの限りない時間を潜めもつものとして、死んでゆくのである。死とは、死ない命が消えてゆくといわなければならない。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。我々は自己を、外に物を造ることによって知るのである。自己を表わすことによって見るのである。物を作るには、内外相互転換としての、生の営みの無限の蓄積がなければならない。過去が現在であり、未来が現在でなければならない。伝統がはたらくと共に、理想が働くのでなければならない。否現在の相互転換が過去を孕み、未来をはぐくむということが物を作ることである。伝統の技術は、今物を作ることによって伝統の技術である。理想は、物がその可能性に於て未来に投げかけた形相である。技術の先取である。

 人間は言葉をもつことによって人間になったと言われる。人間のみが言語中枢をもつと言われる。言葉は個の生存を超えて、過去を伝承し、未来へ伝達するのである。過去を伝承し、未来へ伝達するとは、言葉が過去と未来を内にもつということである。我々が言語中枢をもつということは、始めに終りをもち、終りに始めをもつということである。始めと終りを結び、時が現在に於てあるということである。

 人間は言葉によって経験の蓄積をもったと言われる。物を作るとは、過去と未来が結合し、自己と他者が一つなることである。人間はそれを言葉の使用によって実現したのである。自己を超えた過去と未来を、はたらく現在の両つの方向としてもつということは、永遠なるものを宿すということである。過去と未来が現在に於て結合するところに物の製作があるとは、物の製作は永遠なるものがはたらくということである。聖書に、初めに言葉ありき。言葉は神と偕にありき。言葉は神なりきとある。創造はここに初まったのである。我々が言語中枢をもつとは、絶対の超越が内在であるということである。絶対の外が内であることである。神が自己であるのである。それは矛盾である。我々は深き矛盾として、生命である。そこに種と個がある。種と個は各々の方向に自己の存在を主張するものとし相容れざるものである。否定し合うものである。種の自覚としての世界と、個の自覚としてのこの我は深淵を距てて対するのである。言われる歴史の深淵とは世界と我の相互否定としての動転である。而してこの動転に於て、世界は世界となり、この我はこの我となるのである。個は世界を写し、世界は個に自己を実現するのである。

 自覚的生命に於て死ぬとは、生物的身体的に死ぬのではなくして、表現的身体的に死ぬのでなければならない。言葉や技術はこの我にあるのではなくして、世界としてあるのである。我々はそれを習得することによって自己の内容とし、内容とすることによってこの我を確立するのである。名前は自己の名前である。併し他者によって名付けられたものであり、世の中に於て他者との関りの為に名付けられたものである。技術は先輩より教えられたものである。若し生れて直に無人島に捨てられたならば、我々は言葉も技術ももつことが出来なかったであろう。

 我々が言葉や技術の秩序に随うということは、自己の恣意を捨てて世界になるということである。世界の自己実現の内容となることである。世界創造の一要素となることである。表現的世界に入ることである。併しそこはまだ自己の為に世界をもつのである。表現的身体的に死ぬとは、転じて世界の為に自己がある ない。自己が物を作るのではなくして物に化すのである。物そのものとなるのである。物に化すことによって、物 は歴史的物として内面的発展をもつのである。自己構成的となるのである。世界が世界を 限定するのである。

 葉は幾億年を芽吹き散ることによって、精緻なる葉脈を構成した。人間は幾多の人々が世界に生れ、世界に死ぬことによって、物を多様ならしめ、文化の絢爛を実現したのである。応挙一人の絵画の世界はない。現在の世界とは、生れて死んでいった数知れない人々の努力の証跡である。

 葉は半歳に散る。併しその巧緻なる構造は幾億年の営為の成果であった。我々人間も百歳に満たずして死ぬ。それは無始無終の時の前には一瞬にも比すべきものである。併し我々も限りない人類の営為の成果としてあるのである。幾億年を宿すものとして、身体文化をけてもつのである。我々の一挙手一投足は、斯る身体と文化を享けたものとしてもつのである。而して葉が半歳をその精緻なる構造に於て同化作用をなす如く、我々は歴史的現在の事実として創造作用を行うのである。物に化すとは、有限なる感性的自己が死して、自己創造としての、世界の永遠に甦るのである。このことは、永遠に生きんと欲するものは、残りなく感性的自己を放棄しなければならないということである。其処に自覚的生命としての真個に逢着するのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

散り葉を見ながら

 折柄の風に公孫樹の葉が、光りを浴びて金色に輝き乍ら散り落ちている。思わぬ美しさに、私は近寄って一葉を拾い上げた。残りなく黄色と化した葉は一種の透明感さえもっている。而して見惚れ乍ら、今更の如く感嘆の思いをもったのは、その精緻を極めた葉脈であった。繊細な筋線は、複雑に織りなし乍ら整然としている。更に二、三葉を拾っても同様である。たった半年程梢にあるだけなのに、樹はこのようなものを作っているのである。私の心は名状しがたい感動につつまれていた。私は生命の不思議へ、思いをめぐらせていった。

 葉は芽吹いてたった半年梢にあっただけである。併しての複雑な構造は、半年や一年で出来たものではない。何億年、否何十億年を芽生えと枯死をくり返し乍ら形造って来たものである。乾燥に耐え、風雨と戦い、寒暑を凌いで形造って来たものである。単細胞より何十兆の細胞の構成へと成長して来たのである。

 生命は一瞬より一瞬へと動いてゆく。新しき生命は次々と生れ、生れた生命は刻々と死に近づいてゆく。動くとは相反するものに移ることである。生命は死をもつことによって生命である。ギリシャ神話に、不死を願って石に化せられたというのがある。生命にとって死は避くべからざる運命である。

 生命とは生きんとする意志である。生きるとは死を超克せんとする努力である。併し死は生命の竟の宿命である。如何なる苦闘をもしのび寄る老いは力を萎えしめ、黄泉へと赴かざるを得ない。追憶の中に露命の儚さを思い、槿花一朝の夢を嘆かざるを得ない。流汗浅血は唯淡き残像をもつのみである。

 併し半年で散りて消えゆく公孫樹の葉は、億年の長き歳月を潜めるものであった。 堆く散り積った葉は、半年の生きんとする力の集積である。散り落ちて来年亦、新しい葉が芽吹くことが出来るのである。木は枯れることによって、新しい木が成長するのである。この限り無い繰り返しがなかったら、単細胞より何十兆への細胞の構成がどうして可能であったであろうか。そして何億年の構成の成果に一枚の葉は今有るのである。

 全て生命が、主体的、環境的であるとは、環境の変化と共に変化するという事である。そこに生死がある。生死とは、環境を主体化し、主体を環境化することである。相互に否定しつつ動的一として形相を実現してゆくことである。

 限りない時間の前に、朝を葉末に置く一つの露と思える我々の生命も亦、量るべからざる深さをもつのである。人間には百四十億の脳細胞と、六十兆の身体の細胞があるといわれる。それが機能的に一つのものとして働くのである。私達は鮭の稚魚が大海を回遊すること五年にして、放流された母川に回帰するという事に驚嘆し、生命の不思議を感ぜざるを得ない。併し人類が養い来ったものは更に甚妙である。我々はこの限りない時間を潜めもつものとして、死んでゆくのである。死とは、死ない命が消えてゆくといわなければならない。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。我々は自己を、外に物を造ることによって知るのである。自己を表わすことによって見るのである。物を作るには、内外相互転換としての、生の営みの無限の蓄積がなければならない。過去が現在であり、未来が現在でなければならない。伝統がはたらくと共に、理想が働くのでなければならない。否現在の相互転換が過去を孕み、未来をはぐくむということが物を作ることである。伝統の技術は、今物を作ることによって伝統の技術である。理想は、物がその可能性に於て未来に投げかけた形相である。技術の先取である。

 人間は言葉をもつことによって人間になったと言われる。人間のみが言語中枢をもつと言われる。言葉は個の生存を超えて、過去を伝承し、未来へ伝達するのである。過去を伝承し、未来へ伝達するとは、言葉が過去と未来を内にもつということである。我々が言語中枢をもつということは、始めに終りをもち、終りに始めをもつということである。始めと終りを結び、時が現在に於てあるということである。

 人間は言葉によって経験の蓄積をもったと言われる。物を作るとは、過去と未来が結合し、自己と他者が一つなることである。人間はそれを言葉の使用によって実現したのである。自己を超えた過去と未来を、はたらく現在の両つの方向としてもつということは、永遠なるものを宿すということである。過去と未来が現在に於て結合するところに物の製作があるとは、物の製作は永遠なるものがはたらくということである。聖書に、初めに言葉ありき。言葉は神と偕にありき。言葉は神なりきとある。創造はここに初まったのである。我々が言語中枢をもつとは、絶対の超越が内在であるということである。絶対の外が内であることである。神が自己であるのである。それは矛盾である。我々は深き矛盾として、生命である。そこに種と個がある。種と個は各々の方向に自己の存在を主張するものとし相容れざるものである。否定し合うものである。種の自覚としての世界と、個の自覚としてのこの我は深淵を距てて対するのである。言われる歴史の深淵とは世界と我の相互否定としての動転である。而してこの動転に於て、世界は世界となり、この我はこの我となるのである。個は世界を写し、世界は個に自己を実現するのである。

 自覚的生命に於て死ぬとは、生物的身体的に死ぬのではなくして、表現的身体的に死ぬのでなければならない。言葉や技術はこの我にあるのではなくして、世界としてあるのである。我々はそれを習得することによって自己の内容とし、内容とすることによってこの我を確立するのである。名前は自己の名前である。併し他者によって名付けられたものであり、世の中に於て他者との関りの為に名付けられたものである。技術は先輩より教えられたものである。若し生れて直に無人島に捨てられたならば、我々は言葉も技術ももつことが出来なかったであろう。

 我々が言葉や技術の秩序に随うということは、自己の恣意を捨てて世界になるということである。世界の自己実現の内容となることである。世界創造の一要素となることである。表現的世界に入ることである。併しそこはまだ自己の為に世界をもつのである。表現的身体的に死ぬとは、転じて世界の為に自己がある ない。自己が物を作るのではなくして物に化すのである。物そのものとなるのである。物に化すことによって、物 は歴史的物として内面的発展をもつのである。自己構成的となるのである。世界が世界を 限定するのである。

 葉は幾億年を芽吹き散ることによって、精緻なる葉脈を構成した。人間は幾多の人々が世界に生れ、世界に死ぬことによって、物を多様ならしめ、文化の絢爛を実現したのである。応挙一人の絵画の世界はない。現在の世界とは、生れて死んでいった数知れない人々の努力の証跡である。

 葉は半歳に散る。併しその巧緻なる構造は幾億年の営為の成果であった。我々人間も百歳に満たずして死ぬ。それは無始無終の時の前には一瞬にも比すべきものである。併し我々も限りない人類の営為の成果としてあるのである。幾億年を宿すものとして、身体文化をけてもつのである。我々の一挙手一投足は、斯る身体と文化を享けたものとしてもつのである。而して葉が半歳をその精緻なる構造に於て同化作用をなす如く、我々は歴史的現在の事実として創造作用を行うのである。物に化すとは、有限なる感性的自己が死して、自己創造としての、世界の永遠に甦るのである。このことは、永遠に生きんと欲するものは、残りなく感性的自己を放棄しなければならないということである。其処に自覚的生命としての真個に逢着するのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」