新聞を読みながら

 十日程前になるであろうか、新聞を読んでいると、「フセインはアラブ世界不世出の英 雄である」という記事があった。勿論イラクが報道したというのである。私は読みながら懐旧の思いににやりとした。思えば私達の少年時代は英雄伝記の氾濫であった。プルターク英雄伝は必読の書の中に数えられ、ナポレオンや豊臣秀吉などを、文字通り肉躍らせて読んだものである。

 いつ頃からであっただろうか、英雄とゆう言葉が私の意識より薄れ、隠れていったのは、思い出が模糊としているのは既に久しいようである。思えば最近は書店の本棚にも英雄の文字を見かけないようである。私は書店の本棚は時代を映す鏡であると思っている。時代が何を求め、何に苦悶しているかが最も明らかに現われる所であると思っている。そこから姿を消したということは、英雄は最早現代に於て求められる人間像ではないが故であるとおもう。私の意識のうすれも抹殺される世界の人間像を写したものであろう。私がフセインの英雄ににやりとしたのは、その時代錯誤的なナンセンスとでもいうべきものを感じたが故であるように思う。アラブとはそれを真直目に掲げる程後進的なのであろう。英雄が否まれるとは、世界が如何なる質的変化をもったということであろうか。

 英雄の評価は人を何人殺したかで定まるという言葉がある。英雄とは大量の殺人者である。その大量の人命は版図の拡大に費されたのである。ドストエフスキーの罪と罰は、この大量の殺人者が賞讃されて、一人を殺した者が何故罰せられるかということへの問いから初まった。何故に賞讃を受けるか、私は版図の拡大の中に人類の意志とでもいうべきものが見ることが出来ると思う。人類が一つのものとして凝結しようとする意志が働いているようにおもう。

 言葉をもつ人間は、言葉を交し意志を疎通することによって、密度高い世界を築き上げることが出来るのである。大なる疎通は大なる文明を築き上げることが出来るのである。私は英雄は止むに止まれぬ人類の意志によってはたらいたのであり、止むに止まれぬ人類の意志は、斯るより大なる世界の展望にあったのであるとおもう。流血は人間が生きるものとして、身体をもつものとしての一つならんとする軌みであったと思う。英雄の殺人は斯る人類の意志の具現者として賞讃されるのであると思う。

 私は英雄伝が書店の棚より消え、英雄の時代が過ぎ去ったということは、地球的規模に於て人類の意志の疎通が出来るべき基盤が出来たということであると思う。よく街の辻で「暴力を止めて話合おう」といった標語を見かける。それは世界が力による角遂の時代が終り、対話による構築の時代に入ったということであるとおもう。

 対話による構築とは、お互が内にもつ力を引き出し合うことである。競争がなくなるの ではない。競争がより大なるものを作り出し合う競争となるのである。抹殺し合う競争ではなくして、共存する競争である。尖端に立つものは英雄ではなくして、天才である。ロゴスによる密度高い世界を作ることである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

自覚について 其の2

 よく私の書いたものが解らないといわれる。而しそう言われる人は生命が矛盾であることを考えられたことがあるのだろうか。矛盾とは相反するものが一つということである。般若心経に於いて色即是空という如く何処迄も相反するものが一つということである。

 よく人は俺は大工の腕は誰にも負けない、庖丁を使えば俺は誰にも負けないという。 そしてその腕前を自己の支点とする。彼の存在を支えるものはその腕前である。彼等 が俺はという技術とは如何なるものであろうか。

 彼等はその技術を師匠は先輩より習ったのである。その師匠、先輩はその師匠、先輩えとさかのぼるものである。其処に俺と言うべきものはない。無限なる技術形成者の影があるのみである。而しその故にこの俺はと言い得るのである。一人だけの技 術であればどうして誰にも負けないと言い得るであろうか。一人だけの技術はあり得 ないものであるし若しあっても価値のないものである。何故ならば人類が必要とする ものであればすでに歴史の初めに其の萌芽があった筈である。技術は技術の上に築かれるのである。

 我々はこの自己が技術をもち、知識をもち、意志として世界を実現しようとする。行為者として自己から全てを律しようとする。而し上に見た如く自己とは無限なる人間連鎖の中の一つの輪に外ならない。世界の中の自己として、自己の腕前を誇ろうと思えば逆に自己を捨て行かなければならない。料理の腕を誇ろうと思へば自分の今迄の技術を捨てて古往の秘伝を尋ね、東西の味覚を較べて其の上に技術を築かなければ ならない。更に評価は客が定めるのである。

 自覚という時通常はこの我が自己を知ると思う。勿論この我なくして自己を知るものはない。而しこの我が知るという背後には更に深大なる生命の働きがあるのである。技術に於いて見た如く、師匠、先輩えと限りなくさかのぼるということは人類が限り無い年月に技術を築いて来たということである。言葉にしてもそうである。神代人は今のように豊饒な言葉をもっていなかった。それは永い間の多くの人の関り合いの中から生まれて来たものである。

 自覚とは人間生命が自覚的生命であるということである。生物の生命には個体保存 種属保存の二つの本能があると言はれる。人間も亦生物である。自覚的とは斯る生 命が自覚的ということである。犬は犬より生まれて犬を生んでゆく、個を超えて個に 形相を維持してゆくのが種の生命である。人間は自覚者として個人を超えた技術や言葉を内にもつ世界を形造ってゆくのである。世界とは人間の種の自覚的形相である。我々の自覚は世界を形造るものとしてあるのである。それでは矛盾とは何か。

 我々の生命は身体的として生まれて死んでゆく。有限なるものである。それに対し世界は個人がそれによってあり、それによって成り立つものとして永遠なるものである。而してこの生まれ死んでゆく身体は手をもち、言語中枢をもつ、技術をもち、言語をもつ。技術、言語は前に見た如く世界の形相である。世界の形相を身体がもつとゆうことは、この身体に於いて世界を実現せんとすることである。人はこの自己をして世界たらしめんとするのである。王者となって一切を自己の意志の下に統率せんと欲し、永遠の生命を得んと欲するのである。自己が神たらんとするのである。

 而し技術は環境に対する事によってあり、言葉は隣人に対する事によってもち得る ものである。環境に相対し死を生に転ずるのが技術であり、隣人に相対し、喜び、悲 しみをもつ処より言葉は生まれるのである。而してそれは人間は生死するものなると ころより生まれるのである。世界であろうと欲し、永遠たらんと欲するのは生死する生命であるところよりあるのである。我と世界とは絶対の深淵をもって距てるのである。超えることの出来ない懸絶をもつのである。

 矛盾とは一つたらんとするものが相否定し合うものである事である。前にも書いた如く環境の否定を肯定に転ずるのが技術である。相対する隣人と一つたらんとするのが言葉である。生命は矛盾に於いて生命である。矛盾によって無限に動的となるのである。而して最大の矛盾はこの我と世界との懸絶である。自己と神とを距てる深淵である。それは我々がそれによってあり、それの実現としてありつつ、達すべからざる彼岸である。我々は永遠なるものの形相としてありつつ、何処迄も生死するもの、有限なるものである。

 この問題は関心をもたざる人にとっては単なる閑人の遊戯とも見えるであろう。而しこれこそは自覚的生命にとっての生死の問題なのである。我々の自己成立の根源の問題なのである。身体は生死するものでありつつ、言語中枢をもつものとして永遠なるものである。そのことは世界と我、神と我との絶対の懸絶を身体がもつということである。而して身体は一つである。身体が一つであるとはこの相反するものが各々の自己を主張することでなければならない。生死する身体はその官能の充足に於いて自己を維持せんとするのであり、永遠の生命はその形相の実現の為に寝食を忘れることを要求するのである。相剋とは一つが身体を統べんとすることである。

 人間生命が自覚的生命である限り斯る相剋は永遠が自己を実現せんとするものであ る。それが絶対の懸絶である限り生死する身体としての目や耳によっては見ることも聞くことも出来ないものでなければならない。斯る意味に於いてそれは何処迄も否定されなければならない。斯る否定の深さが自覚の深さである。その極限に全てを失う時、大死一番とか、百尺竿頭更に一歩を進めるとか言われるものがあるのである。死の断崖に身を絶して絶後に蘇るといわれる如く、そこに於いて目は永遠を見る目とな り耳は永遠を聞く耳となってよみがえるのである。そこに自覚は完成するのである。全ての自覚は斯る自覚を分有するのである。

 生死するものが永遠なるものであり、永遠なるものが生死するものである時その限定の形式は歴史的形成でなければならない。我々は歴史の流れの一点として、全時間 としての永遠に面するのである。絶対の懸絶は歴史的時間としての懸絶である。一微 塵としての存在が限りない過去を承け、限りない未来をはぐくむものとして、今、此処に働くものとして神に面するのである。技術、言葉に於いて絶対に接するのである。 私は自覚の最も深いものを日常底に置いた東洋の先覚者に深甚なる敬意をもたざるを得ない。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

心敬「真実の歌道」

 「真実の歌道は大虚の如く、個々円成の上なり、もとより証は他を俟たず」 和辻哲郎の 続日本精神史を読んでいると、上記のような心敬という人の文言に出合った。私は昔の人達も、真剣に文字の表現をもったのだと思って嬉しくなった。和辻哲郎によると、心敬は三井寺の僧であり、連歌の名手で禅に参じたらしい。

 大虚とはおおぞらとも読まれ、万物がそこに有り、それぞれがそのところを得る場所である。そこに於て個々円成しなければならないというのである。個々円成とは如何なることであろうか。円は禅僧の好んで描く図形である。円は描くのに初めと終りを結ぶ空間である。私はそこに無数のものを包むと共に、時間としての存在の初めと終りを結ぶものを表わしたものであるとおもう。

 我々は無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達する。それは技術的である。無数の過去の人々の努力の形象を自己の目として、自己の手として新たな形象を創造してゆくのが、自覚的としての人間の生命である。それは世界を作ってゆくことである。個々とはこの我である。天地間唯一個としてのこの我である。人類は唯一個としてのこの我を生んだ。そのことは唯一個としてのこの我は、逆に世界を内に包むものでなければならない。それでなければ唯一個の生れて来る所以があり得ない。ここに我々の目は無数の過去の目が自己の目となるのである。個々円成とは、この我の目は無限の過去のはたらきを宿し、この我の個性をとおして世界の新しい形が生れてくるということであるとおもう。限りない努力によって、自己を世界の自己実現の中に純化せしめることであるとおもう。

 他の証を俟たずとは、自己の中に見出でた自己の形象は、世界が世界自身に見出でた形象として確信をもてということであるとおもう。自己の目は世界の目であり、自己の底に展けてくる世界に生命の真実を見よということであるとおもう。それは他人に讃められてある世界でもなければ、けなされて無価値になる世界でもない。それは過去が我をとおして未来へ流れる生命である。それは作るときに自己を動かす強さによって、自己が把握出来るものである。展けてくる目が確信を与えるものである。内面的発展が信をもつのである。

 藤原彊氏が昔投稿歌人になるなと言われたことがある。私は氏の真意は展けてくる目への確信にあったと思う。個々円成にあったとおもう。勿論それは氏の如く深い歌境にはいり、内面的発展の目をもつ人に言い得る言葉であって、選者にとり上げられること喜びとし、作歌の励みとする初歩の人々は域を異にすると言わなければならないであろう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

ある対話より、自己えの考察

 「あいつはじきに自分を失なうでのう。」「うん気の短い奴やさかいんのう。」「どない言うても堪えてくれへんねんやがい、困って仕舞うたがい。」聞くともなしに聞いていると、冗談に名前を呼び捨てにしたのを、怒ってからんで来て困った話らしい。私は聞き乍ら、自己という問題に対してこの話がもっている内容に興味をもった。怒りは言われる如く自己防衛の感情である。自己の一部は全てが奪われようとするときに現れる情緒である。恐らくその男が怒ったのは、呼び捨てにされることによって、自己の名誉が失われるのを感じたのであろう。相手が自分を同等以下に見ていると思い、猛然として同等の復元を要求したのであろう。

 私が此処で興味を感じたのは、この自己防衛が何故に、あいつはじき自己を失うでのうという自己喪失となるかということである。自己を保持しようとする行為が自己を失う行為であることは矛盾でなければならない。而してそのことが日常に於いて何の疑うこともなく対話されているのである。それはそのことが世の中に於いて自明の事として認められているということであると思う。血迷うといわれるのはそのような状態であり、怒りは常にこの様な状態を指向しているのであると思う。そうであるならば斯のような矛盾としての自己とは如何なるものであろうか。

 自己が自己であろうとすることが逆に自己を失うことであれば、自己が自己であるためには、自己であろうとする自己を捨てなければならない。何処え捨てるか、それは眞に自己であらしめてくれる処でなければならない。自己が自己の中に捨てるのである。自己ならしめるのも亦自己である。そのことは我々は自己の底により大なる自己をもつことでなければならない。このより大なる自己に映して、自己であろうとする自己は自己を失なった自己であり、血迷った自己なのであると思う。私達が読書するのも斯るものであると思う。読書するとは自己ならざるものの中に歩みを進めることによって自己を見出さんとするものである。歩みを進めるとは自己を否定して、自己をその中へ投げ込んでゆくことである。投げ込んでゆくところは我々を超えて、我々に否定を要求し、その呼び声によって、自己が露はとなり、眞個の自己となるのでなければならない。私は斯かるものを我々が生まれ働き死んでゆく全人類が形成し来った 歴史的世界に求めたいと思う。我々はこの世界に生きものとして、日常自己転換を行っているのである。この世界に生き、この世界を生かすべく我々の行為はあるのである。そこに自己を保持せんとすることが、自己を失うことの自明なる所以があると思う。我々は一人生きるのではない。全人類の連鎖の中に生きるのである。それが我々の平常底である。

 歌人は何処迄も歌の世界にこれを投げ入れて、他の歌人と面々相接することによって眞個の自己となるのである。全人類が作る世界とは個と個が相対する世界である。象徴主義と現実主義は相否定する。浪漫と写生は相争う。一つは未来よりの限定であり、一つは過去よりの限定である。而して争うことによって写生と浪漫は自己を明らかにするので瞬々止むことなき自己発展はここより生まれるのである。他者との相互否定を媒介とするのである。自己の停滞はマンネリ化として、自己の喪失である。自己をよしとするものは生ける屍である。而して相互否定を媒介として展開してゆくのが歴史的世界である。斯るものによって歴史は事実より事実へと転じてゆくのである。我々は歴史的世界の一要素として、各々が歴史的創造の創造的尖端に立つのである。それが否定を媒介するということである。我々は創造的尖端として世界を否定し、世界の一要素として世界に回帰するのである。私が写生の立場から浪漫を否定 することは、すでにある世の形を否定することであり、否定することによって写生を打ち樹てることは、新たな写生を見出すこととして世界を創造することである。斯くして世界は内に深まり、外に形を露はとするのである。否定と回帰は一つである。世界を否定することは努力である。相互媒介的として、否定することは否定されることであり、否定されることは苦痛である。世界に生きることは苦痛であり、努力である。我々は苦しむべく努力すべく生まれて来たのである。力の表出に於いてより大なる空間と時間をもつ。そこに我々は全人類と結合し、自己を見るのである。血迷うた自己は斯る自己から抽象された自己に外ならない。自己があるとは、他者の抵抗として、力の表出としてあるのである。私は今高遠な論理を語っているのではない。日常に於いて私がと言う時斯るものとしてあるのである。

 ロゴスとはこの自己に現れた世界の相に外ならない。世界は我々を超えた深さをもつ、我々を超えた深さに我々が生きるとは、我々は世界の呼び声に生きることである。ロゴスは我々に汝かくなせと命ずるのである。良心も真実も美もこの呼び声の中より生まれるのである。呼び声に生きるとは、眞個の自己は世界であるということである。そこに我々は回心をもつのである。平常底に翻るのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

自己があるということ

 物理学は筋肉覚、関節覚の無限な自覚的発展であると言はれる。科学の発展は巨大なる一人の人間の成長に例える事が出来ると言った人がいる。人間は世界を創っていく、それは内的なるものの外他として、人間に擬えて作っていくという事が出来る。世界とは人間の自己像であるという事が出来る。

 而し物理的法則に随う事なくして一塵をも動かす事が出来ないといわれる如く、我々は恣意によって世界を創る事は出来ない。内的なるものの外他として、筋肉覚、関節覚が自覚的発展をもつとは、我々が筋肉覚、関節覚を媒介として世界の奥深く入っ てゆく事である。この自己を否定して世界自身となる事によって我々は物理学をもつ のである。無限の自覚的発展とは自己の恣意を否定して世界そのものとなる事である。

 単一なる自己とゆうものは何ものでもない。例えば一人の生まれたすぐの子を無人島に捨てたとする、其処に如何なる自己があり得るであろうか、唯走り、唸る一つの動物があるのみであろう、食欲と性欲をもち、眠っては醒めるのみであろう。私達が今此処にこの如くあるとゆうのは限りない過去を背負うのである。無数の人々と関り合うとゆうことである。

 言葉を作った人はないと言われる。而して言葉によって我々は関り合い、自己となるのである。斯る言葉は何処から来たのであろうか、私は其処に生命の外他としての 物の生産があると思う。外に物を作るとゆう事は内に技術的となるとゆうことである。言葉は単なる音声ではない、表現的なるものである。意味を補うものである。その為 には言葉をもつものは創造的なるものでなければならない。価値の創出者でなければならない。価値の創出ということは、生命の外他ということである。物を作るという 事である。関り合うものには何かの媒介がなければならない。私達は物を介し、物を 作るものとして呼び、答えるのであると思う。

 斯るものとして言葉がその肇まる所を知らないとゆう事は、技術もはじまるところを知らないといわなければならない。はじまるところを知らないとゆうことは、我々は我々の知らない生命の具現としてあるとゆうことである。はじめを知るところに創造はない、知らざる生命の深さが自己を具現してゆくところに限りない創造はあるのである。無限の過去がよく、無限の未来を生むのである。

 何日であったか、人間の胎児の最初は幾つかの点があらわれている。それは人間が 大古水中で生活した頃の鰓の痕跡であると書いてあったのを読んだ事がある。そして 胎児の成長は両棲類に似、哺乳動物の姿となり、生まれて来た時は猿に似ている。歩き初めは類人猿に似、やがて人間の姿を完成するとあったと記憶する。私達は成長過程に於いて人類の全歴史を繰り返すのである。人間は無始、無終なるものを内蔵すると共に、個体も亦無始、無終なるものを内蔵するのである。人間は宇宙的生命の創造的発展の結実である共に、その結実は個体に於いて実現するのである。

 私達は生まれ働いて死んでゆく、せいぜい七十年か八十年の生命である。而しこの 生、死、する身体は無限なるものを蔵する身体として生死するのである。そして私は 我々の技術はこの無始無終なる生命の創造的発展の自覚としてあるのであると思う。斯るものとして我々の自覚も与えられたものである。作られたものである。作るものとして作られたのである。

 私は鎌を商うものであるが、この鎌を作る為には先ず熟練工の下に弟子入をしなけ ればならない。そして幾年間かの技術習得の後に一つの製品を作る事が出来るようになるのである。それを幾世代も繰り返して来たのである。技術をもつという事は私達 の生死を超えたものを自己の内容とするという事である。それによって私達は世界に関り、自己となるのである。生死を超えたものを内容とするということは世界を内にもつという事である。全時間がこの我の胸底を流れるということである。私達はこの全存在を内容としてもつ直覚が動かす事の出来ない自己の確信となるのである。

 世界は我々が其の中に生まれ、働き、死んでいく処である。何処迄もこの我を超えたものとして世界である。我々が其の中にあるものとして世界である。私達は世界の中にある事によって、逆に世界を内に持つ事が出来るのである。我々を超え、我々が其の中にあって技術的展開を持つという事は、技術は世界の自己創造としてあるということでなければならない。我々が技術的に世界を作っていく事は世界が世界自身を作っていくということでなければならない。誰も言葉を作った者はない、而して言葉によって我とは自己を見、世界を見ていくのは斯る世界が自己創造的としてあるが故に外ならないと思う。それなれば我々が世界を作っていく事が世界が世界自身を創っていく事であるとは如何なることであろうか。

 単なる世界というものはない。世界は我々が働く事によって世界である。私は前に個体は無始、無終なる宇宙的生命を宿すと言った。我々の働く事が世界の自己実現であるとは個体の斯る面が自己実現的であるのでなければならないと思う。個体の一々が無始、無終なるものをもつものでありつつ現在の対立、矛盾に於いて形相を実現していくのである。一々が時を生み、時が消えいくものをもちつつ自己が其の中に生まれ、消えていくのである。一人、一人が全宇宙的なるものを内包する、其処に一々が働く事が世界が働く事があり、世界が一つである所以があるのである。

 時を包み、其の中に時が生まれ、消えゆくものは永遠なるものである。形相は斯る永遠なるものが自己矛盾的であるところにあらわれる。矛盾とは個が全であるという事である。個が全であるとは個と個が対立するということである。これを言いかえれば個が対立することは個が全を担う事である。斯るものとして形相は常に永遠なるものの自己顕現であるということである。個が全を担うということは表現的であるということである。斯るものとして時は単に流れるものではない。一々が永遠として現在より現在へ動いていくのである。過去と未来を包むものとして、一瞬一瞬が完結をもつのである。

 矛盾するものとは闘うものである。対立するものは否定し合うものである。個物的なるものが全存在的なるものを内包するということは、我々は内に闘うものをもつということである。個が全を見るということは表現的ということである。私達は表現的世界に生きた人々が凄惨な霊肉闘争を体験したのを知る。技術的ということは世界形成的ということであり、世界が働く事によってこの我が見られる時、ある我は、あるべき我に否まれなければならない。我々は今ある我を否定することによって自己を見出していくのである。物を作る自己として、技術をもつ自己として我々はある。それは世界実現的として無限の自己否定である。其処に我々は生まれる。否定の肯定である。自己否定なくして自覚はない。瞬々の否定によってのみ、瞬々に新たな肯定は生まれる。無限に動的なるものとして世界が働くのである。この我より見れば否定は苦悩であり、否定の肯定は努力である。自己を忘じて我々は眞個の自己となる。永遠として具現するのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

作歌の根底にあるもの

 歌を作るとは対象を、五七五七七の定型文字に捉えることである。定型によって見るということである。併し対象は三十一文字の定型としてあるのではない。若し対象が定型としてあるのであれば、自由詩や散文はあり得ないことになるし、同じく見られたものとしての絵画的表現は不可能である。

 私達短歌を作るものは、歌を作ることによって対象を明らかにし、対象に深く入ってゆ くと感じ考えている。作ることによって対象を明らかにしてゆくとは、対象は言葉に構成せられることによってあるという意味がなければならない。言葉の構成が対象の自己構成の意味がなければならない。対象が明らかになるとは、対象はそれ自身の自己明化をもち、展開をもつのである。斯る自己明化が言葉に拠るところに、我々の作歌があり、対象を明らかにする所以があるとおもう。

 私達は歌を作るとき多く目をもって見、見たものを言葉にする。断る目をもって見ると いうことは如何なることであろうか。犬や猫は同じく目をもって見る。併し歌を作ること は出来ない。犬や猫の見るものは多く餌と敵に関るものである。原始人は歌を作る。併し文明人の如く複雑な心の動きを宿すことが出来ない。目は深く主体の生命形成の表出としてあるのである。目の構造は同じである。併しそのはたらきは犬は犬の、烏は鳥の生命 成によるのである。

 他の動物になくて、人間だけにあるもの、それは言語中枢であると言われる。私達は言葉をもつことによって、壮大なる人類の文化の殿堂を打ち樹てることが出来たのである。多くの古文書に過去を見る如く、言葉は個々の生死を超えて、個々を包むものである。個々を包むとは、人類の初めと終りを結ぶものである。初めと終りを結ぶとは、無数の個々の営為がその中に蓄積されているということである。私は言葉によって人間が人間となったということは、言葉がはたらくことによって、我々は我々の目をもったということが出来るとおもう。言葉が見るということが出来るとおもう。

 言葉を作った人はないと言われるごとく、私達は言葉が何時初まったかを知らない。私というとき既に私は言葉の中にあるのである。淵源を求めるとき、それは生命の初まりと共にあったと思わざるを得ない。生命が機能的構造的であり、形成的であるとき既に言葉がはたらいていると考えざるを得ない。聖書に言える如く、太初に言葉があったのである。人間のみが言語中枢をもつとは、別の生命が現われたのではない。斯る生命が自覚的表現的となったのである。はたらいていたものが、働き自身を具現するものとなったのである。働きを具現することが製作することであり、製作は言葉が働くことによってあるのである。聖書は更に、「この言葉は太初に神とともにあり、萬の物これによりて成り、成りたるもの一つとして之によらで成りたるはなし。」と言う。言葉とは無限に動的なる生命の初めと終りを結ぶものである。全て生命は初めが終りを あり、人間はそれが自覚的である。

 我々が今もつ言葉とは、人類初まって以来無数の人々が、怒り悲しみ喜びつつ対話したものの綜合である。物は名をもつと言われる。名とは人間が製作物につけた符号である。言葉によって見出したもの、変革したものである。言葉が作り、作ったものに言葉が作られる。客体的方向に物があり、主体的方向に喜び悲しみがある。形成的世界の現在として我々は今の言葉をもつのである。言葉が見るというのは、斯る形成的生命の目として見るということである。

 私達はバラの花を美しいと見る。併し手にとっては唯食えるか食えないかを分るのみであろう。自覚的とは自己構成的ということである。バラの花の中にバラの花を見るのである。髪に挿し、胸に飾り、限りない人々の嘆賞に培われて美しいのである。詩人が唄い、画家が描いたものをとおして、美しいのである。此の間生花展を見に行った。私は踏み捨てていた野草の美しさに目を瞠らされた。その美しさは生花という構成によって見出され生命の美しさである。単に我々が見る目に無限に重ねられた野の草のいのちの形である。先人の表現したものが我の目となってはたらく、生花展に見たものが我の目となって野の草を見る。そこに自覚的生命としての人間の目があるのである。生花を習うとは斯る視覚の無限の創造的世界に入ることである。

 この表現されたものが自己の目となってはたらくときに言葉が生れるのである。新しい目となって、新しいものが見られるときに言葉が生れ、次の者にその目を伝えるときに言葉が生れるのである。それは単に目のみではなくして、全ての製作にはたらくものである。製作は無数の人々の交叉より生れる。交叉とは無数の人々が一なることである。無数の異なる人々を一ならしむるものが言葉であり、言葉をあらしめるものが物を作るということである。それは言葉が物を作り、物が言葉を作ってゆくことによって、人と人が限りない交叉をもつ世界である。斯るものとして私達がものを見るのは働く言葉が見るのである。はたらく言葉の目として見るのである。

 短歌を作るとは見たもの触れたものを言葉によって構成するということである。言葉に よって構成するとは、言葉によって見ることである。そのことは既に対象が言葉をもったものでなければならない。言葉によって構成される対象は名をもったものである。名をもったものとは、作られたものとして言葉によって見られたものである。言葉によって見られたものとして、対象は言葉をもつものである。対象が言葉をもつものであるとは、我々に呼びかけるものであることである。我々が春の野の光りを歌に作る時、春の野の光りが我々に呼びかける反面があるのでなければならない。我々は呼び応えるものとして表現をもつのである。

 言語中枢は人のみが言われる如く、言葉は人のみがもつものである。対象が言葉をもつとは、対象は無数の人々の呼び交しを担うものとしてあるということでなければならない。古今東西の人々が、それによって呼び交しを持つものでなければならない。私達は桜の花を見るとき、幾多詩人の喜び哀しみを見、幾多画人の色と形を見るのである。画人の目、詩人の情が我々に憑依するのである。我々の歌はそこから生れる。対象が呼ぶとは斯る無限の人々の声を宿すことによってである。私達は斯る呼び声によって、無限の形を見、無限の色彩を見るのである。対象の中に対象を見る。そこに我々の自己の底に触れた美意識が生れるのである。

 短歌作品の批評が行われるとき、よく観念的であるとか、物につき過ぎていると言われる。観念的とは言葉が物を作るはたらきを失なっているということであり、物につくとは物が言葉を生む力をもっていないということである。それは何方も真に生命を表現していないということである。生命は無限に動的である。動きを失なうことは死である。何方も真でないとは生命の自己限定力が失われているということである。言葉が物を作り、物が言葉を生むところは、言葉と物が其処に消えて新たな言葉と物がそこより生れるところである。この我が見るのではない。新たな物が見られるところは、新たなこの我の生れるところである。新たな言葉が見る目の自己となるのである。勿論新たなものが生れると言っても突然空中に楼閣が現われるのではない。新たな状況を介して、過去の無数の人々の呼び声にこの我が応答するのである。あるものは生命の自覚的営為であり、言葉と物はその両極に現われた形である。

 生命は形成作用であり、形に自己を見てゆくものである。その両極に言葉と物があるということは、形成作用とは言葉と物がはたらくということでなければならない。両極とは相反するものである。相反するものがはたらくとは相互媒介的ということでなければならない。私は斯るものとして作歌するものは、物か言葉か、何れか一つの形の立脚をもたなければならないとおもう。無数の先人の努力は言葉亦は物として結晶しているのである。この形がはたらくことが新たな製作である。我々が作るとはその形がはたらくことである。それは相互媒介的として一つのものである。而して相互媒介的にはたらくとは両者がせめぎ合うことである。私は短歌表現に於て物が言葉を介する方向に写生があり、言葉が物を介する方向に象徴があるとおもう。リアリズムとロマンチズムである。それは相互媒介的として、何方も世界を表現する。而しそれは一方は写生が象徴を哺むものとし、一方は象徴が写生を包むものとして何処迄も相対立するのである。何方も世界の自己表現としてありつつ、相否定し合うものである。斯る否定に於て表現は愈々多様となり、言葉は愈々豊潤となって、世界は自己自身を創造するのである。

 争うとは優劣を決することである。ロマンチズムとリアリズムは、何方かの優勢として 時は流れる。而して一方の優勢は相互媒介の喪失である。相互媒介の喪失は、自覚的生命の自己喪失であり、創造の衰退である。其処に自覚的生命は劣者の反逆を起す。ここに世界は革(あらた)まり、劣勢なるものは優勢となるのである。言葉が物を含み、物が言葉を含む具体的生命は、自己の中に無限に否定し合うものをもつことによって自己を実現してゆくのである。而してそこに実現するのは常に無限に動的な自覚的生命としての人間の形相である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

日常の言表としての短歌について

クロバーの茂れる堤釣る人の踏みたる跡の一すじ低し

 ながい間御無沙汰していたけるかも会に、先日たまたま行った私の作品である。このときの井上氏の評と、私の動機に食い違いがあるので少し述べて見たいと思う。

 井上氏によれば踏まれた草は低くなってゆくのは当然である。このように当り前のこと を表現したのはつまらない。もっと作者の目が働かなければならないとのことであった。尤もである。当り前のことは初歩的な意識であり、表現として価値の低いものである。併し私にとって踏まれた草が低くなってゆくのは当り前ではなかったのである。例えば茂ったクロバーを、わらび採りなんかで人が踏み初めると、踏まれた草は莖が曲り葉は萎えて伏す。そして次に出て来る草丈は低くなり、茎や葉は表皮を厚くして踏まれることへの耐性をもつ。それが繰り返されると遂に地にへばりつく。私はこの次に出てくる葉が低くなることに、生命のはかり知ることの出来ない微妙を感ぜざるを得ないのである。単に変化ということがある筈がない。それはいのちのはたらきである。いのちのはたらきには機能がなければならない。その機能はどのような組成をもち、どれほどの年月を経たのであろうか、私はそこに気の遠くなるような思いを抱かざるを得ないのである。

 私達の日常の世界は当り前の世界である。この当り前の世界とは如何なる世界であろうか、そこに奇異なるものはない。併し私はそこに深大なるものがないのではないと思う。日々の繰り返しの中に意識が埋没し、当然として深大なるものを安易ならしめているのであるとおもう。ニュートンはリンゴの落ちるのを見て、宇宙を統括する大なる力の体系を見出した。人の呼び声に人が答える。それは当り前のことである。併し人類の壮大なる文化の世界はその上に樹立されているのである。我々の日常は日々の繰り返しである。その繰り返しは如何にして可能であるか、私達は繰り返する為に昨日と今日、去年と今年、親と子、祖先と我を結ぶものを持たなければならない。無限の過去と未来を結ぶものがなければならない。日常とは永遠の今としてあるということである。

 泰西文芸はその究極に崇高なるものの表現をもつと言われる。そこに悲劇の尚ばれる所以があるといわれる。そこにあるのは強大なる英雄の精神である。それに対して短歌の見出すものは日常であり、常民の営為である。ありなれた心の流れである。併し私はそれだからと言って、西洋詩より短歌が劣ると思うことは出来ない。

 詩の価値は如何に深く存在の根底を言表し得るかにあるのでなければならない。在るものとは個が全体であり、全体が個であり、瞬間が永遠であり、永遠が瞬間としてある。全体より個を見るところに、法則や公理としての理性があり、瞬間が永遠を孕むところに、芸術としての美がある。詩の評価は一瞬より一瞬への具象の流れの中に、如何に深く永遠を宿すかにあるのであるとおもう。

 永遠なるものは如何にして表現出来るのであろうか、私はそこに言表があるとおもう。我々の行々歩々は無限の過去と未来をもつことによってあるのである。現在の我を言葉によって捕捉するということは、斯る無限の時を捉えるということである。言葉は斯るものの表現手段として我々を超えたものである。日常を言表するとは、一瞬一瞬の生れて消えるものを捉えるのではなくして、一瞬一瞬を見るものとして、時を統括するものとして、永遠を捉えることである。私は短歌とは、存在の根底に至らんとする表現の日本的方向であるとおもう。日常を言表するとは、日常の根底に至ることである。

 斯く言うことは頭書の私の歌が佳い歌であるということではない。と言うよりは表現の 未熟の故に、意図に反して内藤先生、小紫博子さん等の集中砲火を浴びた作品である。唯私は日常の奥底にあるものを言いたいのである。けるかも会の諸氏は未練がましいと思われずに諒とされたい。

 尚禅家に日々是好日という言葉がある。私はこれは永遠の目によって捉えられた日々であるとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

名刺(神の存在の証明)

 歌会の後で雑談に耽っていると、一老婦人より突然「貴方は神があると思われます か。」と尋ねられた。私は「神は我々があるとかないとか言うものではなく、私達がそれによつてあるものです。」と答えた。そして後日私の考へを明にすると約束した。一体私達があるというのは何うゆうことであろうか。私達は初対面の人に自己紹介をする時に大い名刺を差出す。その名刺には住所、氏名、職業が記載されているのが通常である。この住所、氏名、職業とは如何なるものであろうか。住所とは私達の祖先が汗を流して拓いた土地である。そして住居を作った処である。氏名とは、はるかな過去より血の神秘に於いて連綿として一統を維持し来ったものである。限り無き栄辱を潜めるものである。職業は技術として、人間を人間ならしめたものとして、無限の過去より承継し来ったものである。私は鎌を商うものであるが、鎌は収穫器として石器時代以前より木の股になった処をうすくして、木や草の実などを採取したところに初まるであろうと言われている。私達が今手にもつ鎌は、幾万年の技術の承継と発展の成果である。

 私達が名刺を受け取って読むとき、はかり知れない時間の上に作られた一人の生命 を見ているのである。自己とはこの生死する身体としての生命を超えたものとして、無限の過去を孕むものとしてあるのである。この感情的自己を絶対に超えるものとして自己なのである。勿論この生死する身体なくして生命はない、生命なきところに自己はない。而して自己とは生死する身体を超えたものであるとは、生死するこの身体が生死するものを超えた無限なる時間を内にもつと考えられなければならない。永遠なるものを宿すと考えられなければならない。名刺は生死するこの我の名刺である。而してこの我を生死を超えたものとして呈示するのである。斯るものは如何なるものであろうか。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。生命は能く知られている如く、種的なるものと個的なるものとの綜合として成立する。種とは個を超えて個によって形相を維持してゆく力である。個とは種の要素として種の形相を実現してゆくものである。故に個は個に対するものとして集団し、出産、死亡によって連続する。人間は斯る生命の自覚として、種の方向に世界が形成され、個の方向にこの我があるのである。

 種と個とは単に共存するのではない。生死するものは永遠なるものではない、永遠なるものは生死するものではない。我々の身体は一つである。この一つの身体に於いて、生死するものと永遠なるものは各々の形相を実現せんとするのである。それは否 定し合うものである。私達の小さい頃、よく秋の稲田で雌に食われる雄かまきりを見たものである。背を反らして耐え乍ら、それでも抵抗することなく腹の半ば迄食われ た姿をみると、悲傷の思いに耐えられなかったものである。種が種を維持する為には、個への斯る惨虐を内包するのである。蜘蛛は無数の子を産む、それは殆んどを死なしめることによって、幾匹かを残すべく産むのである。それは死としての環境と闘い来った生命の摂理である。

 人間とは斯る生命の自覚的なるものである。世界とは常に我々に否定として迫って くるものである。而して斯る否定をとうして我々は生きるのである。我々は世界を作 ることによって生きるのである。世界を作るには努力しなければならない。努力する とは今の自己を否定してゆくことである。動物に於いても個の死が種属の生であった。我々は世界を作る為に官能的欲求を超えなければならないのである。暖衣飽食は人間の敵である。世界を作るとは身体的欲求的自己を殺すことによって、より大なる生命に生きることである。私は名刺に記載する自己とは斯かる自己であるとおもう。

 自覚とは自己が自己を見てゆくことである。種は個を超えて個を包むものとして、種の自覚とは人類の初めと終りを結ぶものでなければならない。私は言葉とは斯るものをもったものであると思う。私達は言葉によって自己を知る。それと共にスメル文字を解読することによって六千年前の人の生き態を知るのである。そこには全人類一なるものがあるのでなければならない。無限の過去と未来を包むものがあるのでなければならない。我々が種的、個的としてあるということは、斯るものとしてあるのでなければならない。名刺は永遠の上に記された文字としてこの我なのである。

 全人類一にして、我々に死を命じ、死を介して我々を甦らせるもの、その上にのみこの我があるもの、私はこれを神とするものである。眞、善、美とは永遠を実現したこの我に外ならないと思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

言葉が整うということ

 先日天神の方へ行った序に湖内さんの見舞に寄った。顔の腫みは大分引いたようなので 「この頃歌の方は何うです」と聞くと、「ヘヘヘ」と笑っておられた。傍から奥さんが、「食欲の方は出て来たようですが、何もする気が無いんです」と言われた。氏は笑っておられた。「脳の意欲の座が冒されられたのでしょうか」と言うと、「お医者さんもそう言われるのです」との事であった。私はあの静かな中に潜められた、激しい表現意欲は何処へ行ったのであろうかと思った。

 二十数年前にもなろうか、私は湖内さんを訪ねては呑み且つ談じたものである。それは哲学、宗教にも亘ったが、概ね短歌に関するものであった。私が取材角度、発想を最も重要なる核心としたに対して、氏は文章が整っているということを重要視された。常に「言葉がちゃんとしていたら、それでよろしいやないかいな」と言われた。私は私の主張を今も捨てる気はない。併し今二部の撰評をしながら氏の言われたことの重要さを熟々と思っている。

 言葉は我と汝が交すものである。湖内さんとでもそうであったが、初めから何かを言おうとしたのではない。偶然にも似た話題の発端から、お互いの応答によって言葉が生れてくるのである。何かを言おうとして行った場合でも、一方的に自分の言葉があるのではない。相手の言葉によって自分に新たな言葉が生れるべく交すのである。我と汝が交すということは、我と汝によって言葉があるとともに、言葉によって我と汝があるということである。私の言葉は何処迄も私の言葉であると共に、この我を超えて、そこにこの我を映すことによってこの我があるものである。言葉はその秩序に於て、我と汝をあらしめるものである。

 我々は言葉によって無限の過去を伝承し、無限の過去へ伝達する。言葉とは生命が初めと終りを結ぶものとして、自己自身を表現するものである。初めと終りを結ぶとは、言葉をもつものが一であることである。言葉は一人一人がもつ。それは交すことによってあるものとして無数の人がもつ。言葉が一つであるとはこの無数の人が一であることである。時間は人の営為であり、初めと終りを結ぶとは、無数の人々が一であるとゆうことである。多くのものが一であるということが秩序があるということである。

 多が一として我々が対話することは、初めと終りを結ぶものの内容となることである。 初めと終りを結ぶものを実現してゆくことである。初めと終りを結ぶものが、はたらくも のとして自己を実現してゆくことである。無数の人々が一なるところが世界であり、我々は世界の自己実現の内容となることによって自己を見出してゆくのである。斯る世界の自己実現が言葉によって成就するのである。

 我々が世界の内容として自己があり、世界が言葉によって実現するとは、言葉の構成は我々の自己構成であり、言葉の秩序は自己の秩序であるということである。そこに私は言葉が整うということの重要さがあると思う。表現とは自己を外に見ることである。それが整っていないことは、自覚としての自己が破綻していることである。

 整っているとは、全文字が一つの主題、一つの感動を構成していることである。如何に長大な文章と雖一つの核がなければならない。その構成のあり方が表現の密度である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

知るということ

 何日であったか、日本経済新聞の対談の切れ端があったので読んで見ると、品川と いう人が脳髄の働きは宇宙の自己認識であると言われていた。私達が知るということ は宇宙が自己自身を知ることであると言われるのである。意識をつきつめてゆくと、そういったものに行きつかざるを得ないように思う。

 もう二十年も前になるであろうか、新聞に狼少年のことが報道されたことがある。狼に拾われ育てられた少年が発見されて、捕えられた記事であった。彼は狼の如く手と足を用いて走り、人が近づけば唯唸るのみであったという。その後手なずけられてからも、遂に人語を解する事が出来なかったという。脳髄は身体が適応すべき世界を写すのである。

 商売は道によって賢しとか、餅は餅屋という言葉がある。私達は働くことによって知るのである。知るとは働く身体が、身体自身に刻んだ行履であると言い得る。この働きは限り無い過去の伝統を負うのである。身辺の一枚の紙、一本のペンといえどもはかることの出来ない過去の技術の集積によるのである。働くことによって知るというとき知るとは斯る永い時間を媒介とするのである。私達は身体の生死を超えた時間をもつことによって知ることが出来るのである。

 過去は過ぎ去ったもので働きではない。働くとはこの我が生を維持せんとすることである。常に死に面する個体が生に転ぜんと努力するのが働きである。しかし生の直接なるものも働きではない。働くとは物を作ることである。性欲、食欲といった生体維持の本能から技術は生まれて来ない。働くとはこの二つのものが一つであるということでなければならない。生死する身体は、生死を超えた身体である処に働きがあるのである。そこに我々の知るということが成立するのであるとおもう。生死を超えたものに生死を映すのである。それは生死するものが生死を超えたものをもつのである。

 よく芸術家や発明家は寝食を忘れて没頭すると言われる。そういう特別の人でなくても忙しくて飯を食うひまが無かったとか、帳簿の整理をしていて夜中になったということをよく聞く。食欲、性欲、睡眠欲は生体維持の三大本能であると言われる。生の本源的欲求である。それを忘れるとは、人はそれを忘れしめるものをもつということである。我々との身体は斯る相反するものをもつのである。そして寝食を忘れしめるとは働くことが我々にとってより大切な事であるということである。私達は物を作ることによってよりよき生を見出すのである。私達は本能的生を拒否し、物を作ることによって世界を出現せしめることを自己の眞個の生とするのである。世界は技術の無限の連鎖に於いて世界自身を作ってゆくのである。私達が過去の技術を自分の技術として、物を作ることによってある時、連鎖の一環として、世界が世界を作っていく内容となるのである。私達が働くとは世界の一要素となることであり、知るとは一要素として、世界を映し、世界に映されることである。自己を否定し、世界に生きるものとなることによってあるとは、働く事は安逸を拒否し、知ることは努力の中より生まれることである。

 個体が生を維持せんとするところに働きがあり、死を生に転ずることが働くことであるこの我が、生の維持本能を拒否することは、我々の身体が個体的、世界的、世界的、個体的としてあるということでなければならない。拒否するとは拒否することである。私達の身体は相反する二つのものをもつことによって身体である。相反するものをもつことによって、形相を形成してゆくのである。働くことは形相形成的であり、創った形相を見ることが知ることである。

 身体は一つである。それが相反する二つのものをもつということは、二つのものが一つであるということである。相反する二つのものが一つであるとは、闘うことである。闘うことによってあるとは、一方がなくなれば対手もなくなることでなければならない。個と世界、生死する生命と永遠なる生命は、相反するものが闘うものとして一なる生命として、生命は自己自身を限定してゆくのである。そこに生命の限りなき創造があるのである。

 闘うものは常に現在に於いて闘う、現在とは闘うものの在り処である。闘うものの創った時間である。而して個と世界が闘うことによって一つであるとは、永遠なるものは瞬間的なるもの、瞬間的なるものは永遠なるものでなければならない。此処に物の製作があるのである。無限の過去は現在の物の製作に於いて維持されるのである。前に芸術家や発明家は寝食を忘れるといった。それは永遠なるものが身体的なるものを否定すると言った。そこに製作があると同時に、製作は生死をバネとして新たな身体の形相を創ってゆくのである。そこは今この生きているいのちとして永遠は否定されるのである。斯くして永遠は否定を介して働くものとなり、生死するものは否定を介して、生死を超えた形相をもつのである。ここに世界は個に自己を現わすものとなり、個は世界を映すものとなるのである。

 製作に於いて過去が働くとは現在の中に消えてゆくことである。自己を否定して新たな物を生む事である。新たなものを生むことによって過去となりつつ生きつづけるのである。無限の過去が生きて、無限の未来を呼びつづけるのが永遠である。而して製作するものは技術者としての人である。生まれて死ぬものとしての人である。斯る人がより新たな、大なるものを作らんとして、過去を尋ねるところに過去は働くのである。斯る意味に於いて働く過去は現在より見出された過去である。永遠は製作としての現在に於いて一人一人が担うのである。一人一人に担われた永遠として、永遠は現在より現在へと動いてゆくのである。知るとは我々を超えたものを、我々が担うことである。一人一人が担うところに知ることがあるのである。

 働くとは時間、空間的に構成してゆくことである。時間、空間は無限なるものである。時間、空間的に構成するとは、時間、空間を内にもつものの自己限定でなければならない。無限なるものの自己構成でなければならない。それを一人一人が担う。而しそれは何処迄も一要素として担うのである。私は品川氏の脳髄の働きは宇宙の自己認識であると言われる宇宙とは、人間が働くことによって構成した時間、空間の形相としてあるものであると思う。斯るものとして宇宙は一人一人を介して無限に自己創造するものである。人類の創造的總体として人類の一を把持しつつ、一人一人に担われるものとして無限に動転するものである。一人一人がもつ脳髄は担うものとして宇宙の自己認識となるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

命終を読んで

 読み了って最も感じたのは作者の人柄の分厚さである。それは何よりも人との出会いのあり方に端的にあらわれている。その第一は松村先生である。

立寄れば巨樹の蔭とまず恃(たの)み歌詠み初めし昭和十四年

 巨樹とは題名よりして松村先生であろう。その師に対する終生渝るなき敬慕と信頼は、松村英一歌集と題する中の末首、

今更に何をか言はむ歌詠む我松村英一の弟子の一人ぞ

 の一首を作さしめている。古来人生の最大の幸福は良き師に巡り会うことであると言われている。良き師とは深い言葉をもつ人である。それは我の奥底を照してくれる光りである。作者はその人を得たのである。

予約して出版の日を待ち兼ねしに今日手にしたり心躍りぬ

 一首作者の傾倒ぶりを表わしている。傾倒の深さは作者の深さである。

幽玄の極に至る歌の数一万首に及ぶ松村全歌集これ

 短歌表現の究極はわびさびにあるとは、常に作者の主張する所であった。筆者は必ずしもそれに同調するものではないが、作者が己の導きとしたのがよく表われているとおもう。その第二は友との出会いである。

生ける君に見すべかりしをみ墓辺の君に供へる歌集「櫃の実」

たもとほり立ち去りかねつ墓地の偶に彫り深きかも倶所一会と

 悵々として迫ってくる余情はその交友の如何に深かったかを示すものである。

兄弟と言ひ諍ひし仮屋君寄書にあり殊に嬉しも

 歌集より見る限り氏の交友は広くなかったようである。併しそれだけに深い友愛をもたれたようである。

 第三は奥さんとの交情である。奥さんに関する作品は、その死別に於て、悲しみ発して 光芒を放つの観があり、言葉よく玉となり、本書の一つの山を形造っているとおもう。取上げる人が多いとおもうので一首だけ抽出したい。

食の量次第に減りて今朝程は軽く首をば振りて背きぬ

 人生の成功には種々なるものが考えられるとおもう。富を積み名を成すのもその大なるものであろう。併し私は手を飜せば雲となり、手を覆えせば雨となる世の中に於て、一つの出会いを終生温め続け得たということもその一つに算えてよいとおもう。勿論そこには契合するものがあったのであろう。併し私は身に省みてその容易ならざるを知るものである。

 氏の歌にはけれんがない。足を大地に置いている。そこにはわび、さび、幽玄を追求する氏の方法的ものがあるであろう。併し私は其の根底に氏の重厚なるもの見たいとおもう。老来益々の創作を願って筆を擱きたい。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

明白

 何時しか電線からつばめが見えなくなっている。早いもので妻が顔をしかめ乍ら、糞受けを架けていたのがこの間のようである。最早太洋を越えたであろうか。遭難せずに着いたであろうかと思う。そしてあの小さい体の何処に、長い距離を飛ぶエネル ギーと、方向感覚があるのだろうかと思う。

 而し生の不思議と言えば、人間程驚異すべきものはないように思う。その昔石に一打 を加えて、道具として手の延長として物を作ったということは、身体をもって外に対した自然のプログラムを変更したということである。身体の直立と手の獨立、大脳の発生はこれ迄の生の形態を全く変えるものである。私はそこに生を表現する生命を見ることが出来ると思う。それは時のはじめとおわりを結ぶ永遠なるものとして、石に一打を加えた生命の外的方向には、現在の櫛比する摩天楼を胚胎し、内的方向に釈迦、キリストの深大なる思想を胚胎すると思うものである。それは渡り鳥や回遊魚と次元を異にした不思議である。

 私は生命は全て完結をもつと思う。完結をもつとは外と内とが一つであるということである。魚は水を切って外とする。而し水を離れて魚の生はない。泳ぐとは生のありようである。魚の器官は水に生きる器官であり、魚の生命は水との總体である。道元は以水為命という、鳥は以空為命という。つばめが太洋を渡るというのは如何なることなのであろうか、我々より見れば、餌さえあれば何も難儀して広い大海を渡らんでもと思う。而しつばめは飛んで行く、そこにつばめの以空為命はあるのであろう。

 自己が自己を作り、自己が自己を知る人間に於いて斯る生命の完結は、明々白々なるものとして我々の根底に於いて働くと思う。私があるとは斯るものの働きとしてあるのである。働くとは内を外にすることである。内を外にするとは、外に見ることによって内に還ることである。明白が自己を現わすことである。

 私達は論証の根底に疑って疑うことの出来ないものを求める。全てがそれに基礎をも つ明証を求める。私はそれは人間が自覚的生命として、自己の完結によらんとする欲求であると思う。物理や数理の展開の必然や、歴史的必然と言われるものも、自己明他として、明白なるものが外に露はとするところにあると思う。単に知的なるものの みならず、近代絵画が純粋視覚の発展であるとき、人間の完結へ欲求として、矢張り 明白なるものが働くのである。人間の以水為命とでも言うべきものに視覚が到達する のである。自覚とは自己が自己を見ると言う意味に於いて発展は常に回帰である。内 面的必然的である。而して内面的必然の根底には明白なるものが働かなければならないと思う。

 自己があるとは、世界の中にある自己が逆に世界を内容としてもつことである。より明らかな自己になるとは、より大なる世界に歩みを進めることである。より大なる世界に歩みを進めんとするとき、我と世界は乖離する。我々は意志的自己となる。意志とは自己の中に世界を実現せんとする欲求である。そこに世界は達すべからざる深さとなり、自己は一微塵となるのである。自己が世界を自己の中に見ようとする限り、唯我々は昏迷の中を彷徨せざるを得ない。明証を見んと欲するが故に暗黒に閉ざされ るのである。我々は自己の絶対の矛盾に撞着するのである。

 自己の中に世界をもつとは如何なることであるか。我々は言葉や技術をもつことによって自己となる。言葉や技術は人類がはかり知れない時間の上に築き上げたもので ある。我々は生きて百年である。そこに世界は達すべからざる所以がある。そこは単 に量的な差ではない。次元を異にするのである。越ゆべからざる懸絶をもつのである。キエルケゴールの言うごとく、死として、絶望として迫ってくるのである。世界は自 己創造的であり、我々は創造的世界の創造的要素として世界を内にもつのである。世界に運ばれてあるのである。我々が働くとは世界に呼ばれるのである。そこに翻りがある。明白とは世界の呼び声に於いて自己を見ることである。

 光りは闇を照らすという言葉がある。私は前に自己が自己を作り、自己が自己を知る人間の生命の完結はと言った。そこにはすでに作る自己と作られる自己、知る自己 と知られる自己との乖離がある。我々は何処迄も世界を内にもつことによって我であ る。自己が世界ならんと働くものである。常に暗黒に生きるのである。而してその故 にそれが世界の呼び声として明白に生きるのである。明白とは世界と我を結ぶ唯一者である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

みかしほ三年五月号一部鑑賞と批評

も一度とふりかへり見る運動場の桜あえかなりではさようなら

 艶もあり動きもある仲々の作品、結句別離の意識を絶えずもつものの悲しみが見えて好もしい。一首の構成もさらりとしている。

独り居の室のテレビも消しているこの静寂は今日のたまもの

 至りつきたる境地をしずかに受容している好感のもてる作品、下句言いたい言葉だけに言ってはいけないのではないだろうか。

ニトロ含ませ夫の呼吸の治まるを見届け入院準備急げり

 てきぱきとした処理は作者の知性の高さを示す。而し知的な面が前面に押出されて余情を失わしめているとおもう。嘆き、不安といったものへの傾斜が欲しい。

交錯せる電波もあらむ滑空の鳩たのしげに隊列を組む

 仲々の着想、鳥に塒ありされど人の子の休むときなし、知恵の果実を喰べた人間は、輳する世界に苦しまなければならない。連想に遊び勝な作者にあって、内容のある一首。

家族等の手足となれぬ老もどかし己が身めぐり整へ置かむ

 死は避け得ない宿命である。老いて死に面せんとする作者は、日常の行履の中にしずかに見ている。そのしずけさは作者の知性である。

肌寒き朝を辛夷白く咲く浮き出でて見ゆる塀の内側

 すぐれた観察が見事な対象の切り取りとなっている。塀の内側は作者の内側である。 他の六首も破綻なく詠まれている。

大津王子の嘆きや吐ける二上の花しんしんと散りとゞまらぬ

 優れた資性の故に、悲劇的な死をもたなければならなかった王子への作者の悲傷が、散りゆく桜と渾然一体になっている。二、三句作者の力量を示す作品である。

逆はぬ癖いつよりか性として会話乏しき老となりゆく

 嘆きに似て二、三句嘆きを超えて、深い自己凝視の作品となっている。尼僧のような静かな諦観は作者の魅力である。

空と海見分け得ざる日暮れ易く家々早く灯りを点す

 作者は自然と人間のみを見ているのではない。それによって生れる自己の心のかげりを見ているのである。抒情豊かな香気ある作品。

至難とゞ想ひし原稿書き終へし瞬間にして目の上を押す

 結句の把握鋭い。安堵にゆるんだ気持が、忘れていた目の疲れを覚えたようすが見えるようである。躍動感のある作品。

生卵忌みおりし子が嫁と共に飯にかけてはかきこみており

 嫁によって変質してゆく子への、淡い複雑な気持が過不足なく表わされている。

裏山に残し置きたる幼杉が延びて吾家の日差し遮る

 幼杉の伸びは自分達の老であろう。それを日差し遮るという対象に捉えたのはよい。 時の移りを静かな目で受止めている。斯く静かな目で捉え得るということも一つのちからである。

靴履けぬ程に酔ひます吾が上司家に送れば亦送るる

 平凡ではあるが、互が築いた信頼の強さが一首を捨てがたいものにしている。それは情念の深さであり、作者の深さである。

遅れたる人等を呼べばこだまする山の茶店に甘酒たのむ

 こだまに日常の喧騒を離れた自然の静けさ、大きさを捉えたのはよい。甘酒たのむにも自然に同化している作者が見える。滋味ある作品。

電線の下に建てたる鯉のぼりゆるる尾先が児の手に届く

 下句児童の生態がいきいきと想像されてたのしい。一、二句捨てたい。

永平寺へ再度来られぬと云ふ畑を時々待ちて階段めぐる

 一期一会という言葉がある。出会いを大切にする作者の豊かさが見えてすがすがしい一首となっている。結句の階段めぐるは他の言葉の撰択が欲しい。例えば僧堂とか。

土を出でし草花の芽の浅黄色例へば三月の少年のすね

 作者の才能を思わせる作品。ともすれば寄木細工となりそうなのを、よく溌剌とした生命の表現とならしめている。さわやかさを味う作品で、三月のすねとは何かと問うべきではない。抒情詩の新しい面を切り拓いたものとして、高く評価すべきである。

枕辺のあかりが作るわが影は巨人となりて服をつけゐる

 私達は自己の底に限り無い未知なるものを潜めている。その故に人間は不安としての存在である。作者は影に見出でた我ならぬ我に束の間走った不安と怯えを捉えている。常自己を凝視する目は深い。結句の収束よく一首を引きしめて老練である。

ちるものを撩乱と咲かす桜木のあはれ渾身の生としあふぐ

 表現とは対象に自己を見、自己に対象を見ることである。下句よく桜を自己とし、自己を桜となさしめている。下句作者の歌境の高さを示すものである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

芸術について

 同じ音でも列車の走る音は芸術ではない。而るにバイオリンを弾く音は芸術である。 私達は感覚をとおして外界を受入れる。而し匂いは芸術となり得ないのに対して、色 彩は芸術となる。即ち嗅覚は芸術となり得ないのに対して、視覚は芸術となる。言わ れる如く、芸術となる感覚は繰り返す事によって明らかとなってゆくものであり、繰り返す事によって失われてゆく感覚は芸術となり得ないのであると思う。高架鉄道の下に住んでいる人達が、初めはその騒音に悩まされて眠れなかったのがやがてなれて平気になったと言うのを聞いた事がある。如何によい匂いも繰り返すと感じなくなり、如何に美味しい食事も繰り返すと感じなくなる。音楽家がバイオリンを日夜弾く事によってよりよい音色が生まれ、画家が寝食を忘れて描く事によってよりよい形や色彩を見てゆくのと対照的である。前者の生存に直接するに因するのであろうか。

 果してそうであるならば感覚が繰り返す事によって明らかになるとは如何なる事であろうか。画家は描く事によって無限に多くの色を見ると言われる。私達の見ていない色彩を見ていくと言われる。赤の中に赤を分かつのである。私達が一つの赤を見て いるのに対し、無限の赤を見るのである。此処に無限と言うのは何処迄も赤を分かっ てゆく事を言うのである。私達が絵を美しいと言うのはこの見る事の出来ない色彩を 見ているが故に外ならないと思う。内藤先生がやっておられる書もそうであろう。書は線の芸術と言われるが、練習を繰り返すうちに幾多の線が見えて来るのであると思 う。斯る幾多の線からのみ今筆を動かしている線の必然が生じるのである。人前では筆を執ることも出来ない私がこのような事を言うのは、或は見当違いであるかも知れ ない。而し私は斯るものなくして書の芸術はあり得ないと思うのである。色彩に於け る如く視覚は自己自身を無限に分化する事によって自己自身を明らかにしていくので ある。よく創造という時、ゲーテの幼児の時の体験が語られる。今引用すべき典籍が ないので正確ではないが、何べんもバラの花を見ていると、花片の中から花片が生じ、視界が花片で埋まったと言った如きであったと思う。それによってバラの美はゲーテの内容となったのである。限りなく分かつことによって視覚は自己を実現するのである。限りなく溢れ出るバラの花片は、最早対象バラではなくしてゲーテの視覚的生命の内面的発展であり、自己創造である。この内面的発展が即ち美であり、芸術である。

 それならば、この無限に自己を分かち、自己自身を創造していくものは如何なるものであろうか。私はこれを最も深き意味においての質に求めたいと思う。愛とは何か。人間が世界形成的に自己を見ていく、人格の形相である。我と汝がこの世界を創っていく、相互の関わり合いである。お互いがこの世界を創っていくものとして認め合い、お互いが世界を創ろうとする意志である。私達は身辺的にも可愛い孫を見る時、他人に見る事の出来ない幾つもの孫の動きを見る事が出来るであろう。而しそれは未だ世界形成的ではない。本能的であって人格的ではない。よく孫の短歌が作られるがそれが芸術として深い感動を呼ばないのは世界形成的として無限の展開を持たない事に因すると思う。それが深い芸術となる為には他者として、共に世界を形成するものとして、人格の発見がなければならないと思う。私達はミケルアンゼロの作品の暗さを見る時如何に彼が人類を愛したかを思わざるを得ない。黒焰の渦巻く深い噴火口に臨むと評される彼の大なる力はそのまま彼の人類への愛の力である。レムブラントの作品も暗い、而しよく見ると其の色彩は大変美しいと言われる。好んで庶民を描いたと言われる彼は、共に世界を形造るものとしての限無き同情と愛がその作品を生んだものと思う。書に於いても其の線に書く人の人格を具現する事なくして芸術の意味があり得ないであろう。豊かさは他人を包み得る豊かさであり、きびしさは自己を律するきびしさである。其処に顔眞卿、王義之のリズムがあると思う。或は自人一体の飄逸であるであろう。線に主体が自己を見ていくのである。此処に線が次の線を生むのである。自己の奥所が現われるのである。表現に於いてはこの自己の奥所が世界の奥所である所に芸術としての美があるのである。芸術の根底には深く人格としての愛が働くのである。限り無く分化し、分化を自己の分化として深く統一するものは愛としての人格である。

 人格は主体の世界として我と汝の関わり合いである。我と汝の関わり合うのは社会であり、それの実現は歴史的である。この事は必然的に、芸術は歴史的具現の内容とならなければならないと思う。最近芸術論に於いて最も問題となるのは、近代絵画に於ける純粋視覚の問題であろう。視覚とは何か、私はかつて目とは生命が対象に向かって流れ出た身体の堀割であると書いてあるのを読んだ事がある。鯛は深海にあっては人間の五千倍の明らかさでものを見る事が出来ると言われる。而し見えるのは餌と敵だけであると言われる。禿鷹は千米の上空より地上をありありと見る事が出来るが見 るものは野ねずみだけだそうである。外が内であり、内外である。私達の目は自然として単に生まれたのではない。長い人類の歴史によって培われたのである。よく開眼と言う事が言われる。心を展く事によってこれ迄と異なった意味に於いて事象が見える事である。高次の形相に於いて物が捉えられる事である。そのような深いものでなくても、洋画に接する事によって日本人の目に一つのものが加わったのは確かである。

 ペルーの山奥の原始生活を営んでいる村落に行って、呪術社会を研究した人の著書 によると、アンデス山の美しい積雪の景色も彼等は悪魔の棲家として恐怖の対象であり、ことに吹雪ける日は、悪魔の怒りの鼻息として、見るのも怖れるそうである。私 達はそれを荘厳と見る私達の目と、彼等の目に介在する時間の長さに思いを致すべきである。私達も其処に生まれておれば恐怖しつつ見上げるのである。純粋視覚とは視覚的なるものを具体的世界より抽象するのではなくして、具体的世界にあるものの目として、具体的世界の根元に還るのでなければならないと思う。私達は世界を創ると共に世界に生まれるのである。 世界より作られるのである。先輩に向かって其の考えを古いと言い得るのは動きゆく世界の現在の確信を持つが故に外ならない。世界は私達が動かすと共に、世界自身の内在的矛盾によって動きゆくのである。私達が世界を動かすとはその内在的矛盾の内容となる事によって行為する事である。国乱れて忠臣出づと言われる如く、世界よりの声に呼ばれて我々はあると言う事が出来る。その時我々の目も耳も時の声に向かって開くのである。純粋視覚とはこの動く世界の歴史的現在の形相を見る目となる事でなければならない。

 斯る意味に於いて自己とは、自己の奥底に自己を越えたものを持つ事によって自己 となるのである。歴史が自己の内在的矛盾によって動き、その歴史的現在として我々 の目があると言う事は、我々の目は歴史が自己自身を見ていく目としてあると言う事 でなければならない。斯る内容として我々があると言う時、この我とは全人類的自覚 の内容としてあるのでなければならない。自覚は歴史を包む全人間的であり、その形 象は全人類的でなければならない。この全人類的なるものが一即多、内即外として動いていく時我々の目はあるのである。近代絵画に対する深い鑑賞眼を持たない私は一々具体的にこれを例証する事は出来ない。而し私は前衛と言われるのも斯るものでなければならないと思うものである。

 自己が自己を見、自己を表現する。外の物に内なる自己を露わにする。其処に歴史 は生まれ、世界は動く。時間、空間は人間の自覚の内容である。空間は自覚の中に展き、時間は自覚の中を流れるのである。斯るものとして自覚的生としての人間は無限であり、永遠である。而して斯る自覚は一即多、多即一、内即外、外即内として現在より現在へ、事実的に自己を実現していくのである。現在は無限の過去をはらみ、永遠の未来をはぐくむと言われる所以である。全時間が今の内容となる意味に於いて永遠の今である。芸術が刹那を露わにしつつ芸術は永遠なりと言われる所以は、この人間存在を形象的に映すと言う所にあるのでなければならない。

 而して現在が現在を越えて過去と未来を内容とすると言う事はこの我と汝が働き合うものとしてある事であり、働き合うこの我と汝は自己を見るものとして逆に世界を自己の内容とするものでなければならない。一々の私が過去をはらみ、未来をはぐくむのである。知るものとして永遠を宿すのである。斯かる我と汝が相対立しつつ世界を実現せんとするのが愛である。私達は斯る存在として歴史的現在の事実としてあるの である。この我が世界を実現せんとする時、世界は無限の陰翳をもって現われて来る。声が出、手が動く時詩が生まれ絵画が生まれる。この無限の陰翳が歴史的現在が自己自身を表す形象である。私は私達が作歌する時この世界実現として我と汝、我と対象が接する所を見なければならないと思う。我に対象を見、対象に我を見るのである。対象が我を作り、我が対象を作るものを見るのである。我を映す純なる目となるのである。

 この我が世界を包み、世界を作ると言っても、世界は深く且大である。歴史が歴史自身の内在的矛盾によって動きゆく時、よく一個の人間の補足し得る所ではない。而し歴史が動くとは何処かに自己を表していく事である。其処に天才がある。啓示とか天来を受くべき人間がいる。天才は歴史の自己実現である。個的意志を超えて深き世 界より呼ばれるものである。

 美の範型は「時代の様式的正」であると言われる。この事は歴史は時代的に自己自 身を限定していく事であると思う。歴史的現在が過去、現在、未来を包む永遠の今の 意味を持つ如く一つの完結を持つのである。大なる今の意味を持つのである。歴史は常に原初的な生とイデーの矛盾と統一である。新たな生命が生まれて新たな形象をつくる。新たな形象があるとは、形象が生と死を持つ事である。斯るものが知るものとして生死を超えるのである。時代に於いて歴史は最も具体的である。この形象は生を其の秘奥に於いて露はにするものであろう。時代の様式的正、それはこの我の最も深き自己の顔として、我々に対面さすものであると思う。歴史的創造的生命が自己自身の顔を見ていく、其処に芸術の最も根元的なものがある。

註)鳥やけものは孫を愛さない。歴史的、形成的の故に色々なものが見えて来るので ある。唯それが直接的な時は浅い。故に本能的と書いたのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

陳謝並に七月号より

 朝凪の庭は風鈴より下っている紙も止まったままである。私は思考を持たない目で見るともなくそれを見ていた。そしてふと動きのない庭が、動きのない私をあらしめているのではないかと思った。世界は一つであるという言葉がある。それは普通に考えられている以上に深いところをもつのではないかとおもった。そして傍を見るとみかしほ六月号があった。ぱらぱらとめくり乍ら、私の評のところへ来てその粗雑さに愕然とした。今書き改 めて陳謝の意を表したいとおもう。

永平寺へ再度来られぬと言う畑を時々待ちて階段めぐる

 私は評として、「一期一会という言葉がある、出会いを大切にする、作者の豊かさが見えてすがすがしい一首となっている。」と書いた。私はその大意を改める気はない。併し階段めぐるとは如何なることであろうか。階段はのぼるかおりるものである。めぐるとすると階段の周りをめぐることになる。階段は僧堂とか、堂塔とかにすべきではないか。

大津王子の嘆きや吐ける二上の花しんしんと散りとゞまらぬ

 私は古往今来変らぬ生のかなしみと書いた。併してこの一首このような一般的な言葉で捉えるべきものではなかった。優れた資性の故に悲劇的な死を遂げた王子への、作者の感慨が二句の悲傷の言葉を生んでいる。そこを突込んで作者の力量を賞むべきであった。快々たる思いで六月号を捨て、七月号を手にとった私はそこでやや明るい気持をもつこ とが出来た。

天敵のゐぬ水族館の魚たちの顔おだやかに近づきて来ぬ

 詩人は見えないものを見なければいけないと言われる。見えないものとは何か。我々の視覚を構成する重々無尽の過去と未来である。記憶と願望である。追憶と憧憬である。一、二句作者は眼前にないものを見ている。それによって読む者にいきいきと魚が迫ってくる。六月号で取り上げた作品の電波も見えないものであった。併し電波と鳥の繋りが観念的である。今回のは魚に即している。私はこの作の方が数段すぐれているとおもう。

 ベルグソンは意識の強度を説く中で「初めは全てが同じように見える。併し目が深くな るに随ってそれが奥行きをもって見えてくる」と言っている。私達も個々の作品を奥行きに於て見る目を養わなければならないと思う。孫がもの呉れたや、老母の手が細くなったなどとの差異を知るべきである。四首目、六首目等未熟という外ないが天恵の凛質を伸ばして欲しいものである。

コーヒーは混ぜないで思ひ出はスローモーションがいいから

 中北さんが喻を核とする口語体にもどって来た。暗喩は近代の錯輳した内面的なるものを表現しようとして、塚本、岡井なんかが取り上げて多くの追従者をもち、斉藤史や葛原妙子等に飜転しつゝ今や歌壇に定着したかに思われる。内藤先生が前衛を無視して現代短歌が語れないといわれる所以である。作者は多く内面の屈折をもつようである。私はそれを表現するのは喩による方が適切であるとおもう。田舎という故息なところ、それに自分が学んだものを金科玉条とする人々の住むところでは或は抵抗があるかも知れない。恐れずに進んで欲しいものである。

 尚初心者の人々の為に暗喩について少し説明しておきたいとおもう。喻はたとえである。喩はたとえるものの形だけが表わされてたとえられるものが見えないことである。具体例をあげたいとおもう。

夏の葉のなす蔭ふかきガラス戸に眼のにごり写していたり

 私の作品で恐れ入る。病院の待合室にいたときの作である。ガラスの向うの闇が深いときには、此方の姿をより明らかに映すものである。これはガラス戸がもつ葉蔭の闇ににごった目を写したのを詠ったのである。この作品がもし目のにごりというあらわれに、葉蔭の闇が生命の深淵という意味を帯びているととれるとすれば、二句のなす蔭ふかきは暗喻となるのである。

 中北さんの一首、あらゆる外の煩いを捨てて思い出に浸りたいというのであろう。そう すると一首全部が暗喩になるのである。それだけに暗喩として作品は、作るものも鑑賞するものも難しいとおもう。七月号も成功しているのはこの一首だけであるとおもう。一首目もいのであろうが片仮名に私は弱い。三首目面白い着想であるが今少しすっきりしたい。六首目ペルシャの迷宮のように多い素材は適せないのではないか。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

無題

 普通私達に目があり、向うに対象があって目は物を写すと思われている。併し少し考えればそれが如何に表面的なるかが判るであろう。豚は何故真珠を欲しないのか。人間は美を感じる目を創って来たのである。豚は豚の創って来た目に写し、人間は人間の作って来た目に写すのである。

 八月号の片山さんには参った。確にみみずに空の青が解るかと書いた記憶がある。併し決して「手前たちに判ってたまるか」と見得を切ったのではなかったのである。作った機縁は忘れたが、何時かの批評会で解らんと言われたのであろう。私は生命は創造的であり、人間は自覚的創造的であるとおもうものである。

 自覚的とは意識して、努力して作ることである。私達は歌を作る。歌を作るとは言葉によってものを見ることである。言葉によってものを見るとは、豚が胃腑の欲求によってものを見るのに対して、高次なる立場からさまざまのものが見えるということである。

 人間だけにあって他の動物にないもの、それは言語中枢であると言われる。人間の目は言葉をもつものの目となることによって、他の動物の見ることの出来ない世界を招いていったのである。言葉がもつものの目となることは、新たな言葉をもつということは、新たな世界が生れてくるということである。私達は対象を創ってゆくと共に目を創ってゆくのである。よくあの人はものを見る目を持っとってやとか、目の利く人やとか言う。それはものを創造のふかさに於て見ることが出来るということであるとおもう。私達が歌を作るのは作ることによって見るのであり、見ることによって作るのである。それは世界を創ることであると共に自己の目を創っていることである。

 以上のようなことを考えていたので無礼とも言うべき歌を作ったのであるとおもう。 御寛恕願いたい。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

初心の方への短歌評釈

 もう十三年前の雑誌「短歌」を開いていたら、現代ロマン短歌百選、杜沢光一郎選といのがあって、中にこういう一首がありました。

背広の殺伐たるもの身にまとう顔なき男の一人なるべし

 この歌は所謂写生というものと異なっているようです。 それならば物を見ていないのであるか、作者は見ています、洋服を着て歩いている一人の男を見ています。それなれば何故このような写生と異なった表現をしたのでしょうか。私はそこに目の置きどころの相違を見ることが出来ると思います。作者は対象に忠実になろうとせず、自己に忠実になろうとしているのです。対象の中に自分を見出そうとするのではなく、自分の疑問、自分の悩み、自分の痛みの先に目をつけて見ているのです。そういう観点からこの一首を解いて見たいとおもいます。背広の殺伐たるものとは何ういうことなのでしょうか。殺伐というのは闘争のことです。併し背広が闘争をすることはありません。とすれば殺伐は背広を見たときの作者の感じということになります。闘争を見たとき私達は何ういう感じをもつでしょうか。それは嫌悪、冷酷、虚しさというようなことであろうと思います。併し背広に私達はそのようなことを感じることはまあないとおもいます。そうとすれば背広が背負っている社会的意味ということになると思います。そこで私が思い出すのは、この頃よく言われている人間性の回復ということです。人間性の喪失について常に言われることは、合理性の追求による物の画一性ということであります。画一性は情感の豊かな流動を失わしめるということです。与えられたものであって、自分の中から湧き出たものでないことです。それで私は上句はこういうことであろうとおもいます。それは機械によって設計され、量産された背広を着ているということです。下旬の顔なき男は、背広を着ている男が顔がないということは考えられませんので、上句を承けての自分の顔をもたない、ひいては個性のない男ということであるとおもいます。従来の作歌法から行けば、

量産をされし背広を着けている個性なき男の一人なるべし

 ということになるのでしょうか。そうとすれば何うしてあのようにことごとしく作ったのでしょうか。ここは大事な所ですのでよく読んで下さい。それは作り変えた歌は私の方か ら見ているのに対して、取上げた歌は世界の方から見ているということなのです。私は初めに作者は自己に忠実になろうとしていると言いました。自己に忠実であることがどううして世界の目となるのでしょうか。それは自己の悩み、苦しみ、痛みというのは世界に面を向けていることことだからです。私達の動作は自分を世界に結びつけようとするところより起ります。それが何処迄も乖離をもつところに悩みがあります。小は隣人や異性の交際より、大は永遠への思索に至る迄絶対の断絶があるところに苦しみがあります。そこから見るということは世界からということなのです。この歌は一人の平凡な男を歌っているのではなく、画一性の中に失われた人間性への悲しみと怒りを表現しているのです。殊更に難しく作ったのではなくして、このように作ることによって、より明らかに内面を表わすことが出来るからなのです。殺伐、顔なき男といった衝撃的な言葉は、作者の感動の強さを表わすものであり、それを破綻なく使い得たのは作者の熟達を示すものです。

佐藤佐太郎の「茂吉の秀歌」を読んでゆく中に、左記のような歌に出合いました。

松風のおと聞くときはいにしえの聖の如くわれは寂しむ

 驚いたのはその評釈です。彼は「松風のおとを聞いていると昔の高僧のように寂しい思いがするというので、意味合は簡単だがこの一首からひびいてくるのは、身にしみるような遠く清いひびきである。松風などと言えば陳腐にひびくけれどもこの歌の感銘は新しい古いという境地をこえている。わずらわしい意味合いがないだけに純粋な情感がしみ渡ってくる。こういうものを第一等の短歌というのであろう。この作者一代の傑作の一つである。「ときは」「われは」の「は」の重用が何ともいいし、「聖のごとく」から「われは寂しむ」と続けた四五句が円滑でなくていい。しかしこの歌にはそれ以上の何かがある。以下略」と口を極めて賞めている。私達に親しい「赤茄子」や「動く煙」や「黒き葡萄」や「白桃」の歌もこんなに賞めていません。私は再度読み返したのですが、残念乍ら身にしみるような遠く清いひびきを感ずることが出来ませんでした。

 それでは責められるのは私でしょうか佐太郎でしょうか、これも残念乍ら私は私であるとおもわざるを得ません。佐太郎は生の沈潜に於て稀有の境地を拓いていった歌人です。しみじみとした味わいに於て独歩のものをもった作者です。彼はその沈潜の目の故に他の歌よりも秀れて見えたのだと思います。それだけに彼は私の感じることの出来ないものを感じたと思わざるを得ません。

 沈潜するとはものごとの奥底に入ってゆくことです。それは静かなもの、寂しいものに 入ってゆくことです。普通静かといえば音の無いことだとおもわれています。併しそれは静かではありません。少なくとも創作としての静かではないのです。創作としての静けさは、ものおとを包む自然の大きさ、生命の深さにあるのです。例えば鐘の音が渡ってゆくことによって、果てしない自然を知るが如きです。雑踏にいることによって、限りない生命のつながりを見るが如きです。唯包む大きさ深さに於て見るとき、ものの大小、猥雑は消えて、全てあるものは限りないもの、果てしないものの現われとなります。それが静けさであり、寂しさなのです。

 私は日本人の心はこのようなものを志向し、道というのはこのような心を実現しようと したことだと思います。近代は沈潜の方向ではなく、ものごとの輻輳する方向に進んでいます。実存はその至り着いた所であると思います。それは相反する方向です。併し文化は常に相反するものの統一として進んできました。私達は境地的なものの深さを忘れてはならないとおもいます。私はもとよりですが皆さんも、冒頭の歌に佐太郎のように讃嘆する 目を養って下さい。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

芸術の起源について

 一体私達が自己の情念を形に表現すると言うのは何処から起こったのであろうか。目に盛り切れない自然の美しさが、自ら絵筆を運ばしめたのであろうか。転転として夜を徹する異性への愛慕が思わず嘆声を発せしめて、凝って章句となったのであろう か。はつ夏の風に流れる新柳の枝が知らず人を舞踊に導いたのであろうか。

 歴史の教えてくれるところでは、其の何れでもないようである。人間は本来自分の欲求の中からは何等よりよい高次な形を生まなかったのではないかと疑われるばかり である、と言うよりは原初に人間が目覚めた時、対象に向かう人間の目は我々と著し く異なっていたのではないかと思う。私達が見ている自然は長い歴史によって洗練さ れた眼の対象となっている自然である。画家と材木商が同じ木を見る時、形が同じで あっても其の内容は異なると考えられるであろう。ロダンは前の道を行く少女を眺め乍ら、「此処に全フランスがある。」と言ったという。一人の少女、一本の木の形が定まるまでの永い歴史と風土への洞察を持つ者のみが発し得る言葉である。野卑な者には其処に肉欲の対象があるのみであろう。対象とは主体的深さの体験的全体である。それでは原始人の体験的全体とは如何なるものであったのであろうか。私達は最早原始人に還る事は出来ない。文化的遺産と、現存する原始的生活を営む者から推測するのみである。

 夏の夜を賑わす盆踊の由来は地獄の亡者が一日の休みに歓喜する状を現したものと言う。言われて見ると成程と肯ける動作であるように思う。それならば何故に地獄の 亡者の動作を模ねるのであろうか。其処には原始の霊魂の思想があると言われている。それはこの現象界とは別に霊魂が存在し、諸々の現象界の形象は霊魂によって起こるのである。同一の形は同一の霊魂によって起こるのであり、今我々が此処で地獄の所作を持つ時、亡者は地獄に於いて歓喜すると信ずるのである。そしてこの信ずると言うのは、我々が信ずるか、信じないかとの信ずるかではなく 存在其のものなのである。恰も我々が大地を歩むが如く、状態其ものなのである。私達が淡路で見た踊りも、其の動作をなす事によって、蛸の増殖、豊漁を祈ったらしい。人間の骨がな くなったかと思う迫真の技は、同じ神霊によって海中に蛸が生まれると信じたのであ る。獅子舞は悪霊を追払うのであり、田植踊りは稲の豊饒を祈るのである。南方の 土人は戦に出る前に敵を散々やっつける踊りをして勝利を軍神に祈ったと言う。そし て若しも敗北した時は味方の劣勢によってではなくして、軍神の障りによったのである。

 亦面は面の持つ威力が其の人にのりうつると信ぜられている。土人が怪奇な面を被 るのは其の目、其の牙、其の角等の破壊力が其の人に備わり、悪霊を退散せしめると信ずる故に他ならない。お多福の面は其の豊満、優美に於いて作られたのではなく、其の多産、其の健康に於いて作られたのである。そしてそれは作物の豊饒に関わる霊の作用の信仰によるものである。舞踊はまさに神霊への一致と其の発現として其の起源を持つと言い得るであろう。

 いきいきとした躍動感に於いて発見者を驚かしめたクロマニヨンの絵画は、彼等の生活の記録ではなく、恐らく彼等の狩りようの豊富なる事を祈った祭壇として描かれたものであろうと言われている。其の事は即ち蛸踊りと類型を同じくするものと言わなければならない。即ち描かれた動物の繁殖への呪術だったのである。

 弦楽の初まりも、出陣に際して弓の弦を鳴らして戦勝を軍神に祈ったによると言われている。

 詩も其の発生を同じくするようである。

 最古の詩と言われる、印度のヴェーダを紹介した辻直四郎の初章を借用して、論を進めてゆき度いと思う。『ヴェーダは「知る」を意味する語根から作られた単語で、宗 教的知識を表し、その知識を載せる聖典の総称となった。ヴェーダは本質的に宗教的文献であり、最初から祭式との関連に於いて発達したもので、協同して祭式に参与する祭官の職分に応じて、四種に区別される。神々を祭場に招き、讃踊によって神を称えるホートリ祭官に属するリグ・ヴェーダ、大部分はリグ・ヴェーダに属する詩節を一定の旋律にのせて歌うウドガートリ祭官に属するサーマ・ヴェーダ、祭祀の実務を 担当し、供物を調理して神々に捧げるアドヴァリウ祭官に属するヤジュル・ヴェーダ。 以上は古来三ヴェーダとして絶大の権威を享受した。最後にアタルヴァ・ヴェーダは これ等三ヴェーダと趣を異にする。災禍を払い、福利を招き、仇敵を調伏するなど、 本来主として呪法に関するものであるが、のち適当に補足されて第四ヴェーダの地位を獲得し、祭式全般を総監するブラフマン祭官に属するものとなった』即ち其の根源は神への讃歌なのである。而し多神論の印度に於いては、神とは諸々の現象が持つ霊である。古代に於いては言葉其のものも霊であり、言霊の働きによって讃辞其のものが直に神の威徳として備わると考えたのである。その事は「琉球おもろの研究」の中で鳥越憲二郎氏も言っておられる。天子即位の時、女神官の神迎えの歌によって天子たる徳が備わると考えたのである。古代に於いて詩人は神官であり、宮廷詩人であったのは、詩が斯く神霊との関わりに於いてあったが故と思う。

 生命は生存せんと欲する。人類が初めて知恵の目に自己を見出でた時、最も驚いたのは死であったであろう。生きているものが死ぬ、自己の内に存するこの自己矛盾は 大なる恐怖である。私はこの死を外に投げ出した時、即ち霊の存在があったと思う。霊とは人間が生命の自己矛盾に於いて自己を見出でた原初の相であると思う。死を外に投げ出したものとして霊の形相は悪である。霊は其の原型に於いて悪霊である。しかして一瞬の中に生けるものを絶対の無たらしめるものとして、無限大の力である。原始人はおおむね死は死者の霊の誘いによると信じている。暴風雨、地震、悪疫等は偉大なり人間の死霊であると信じている。生存を欲する生者はこれに如何にして 対うのであろうか、アンデス山脈の奥深く未だ原始的呪術社会を営む村落に潜入、生 活体験をした佐藤信行氏の記録を抜粋して見る。

 「此処で注目する事は、こうした病を人知れず村境の山頂から村外にむけて追い払う 観念である。アンデスの山道の峠が、山頂は村境、部落境になっている。ここは亦精霊達の住家にもなっている。村の中で起きた災いは全て山頂から捨てられるのである。インディオにとって村境は単なる土地のナワバリだけのものではない。彼等にとって最も恐れられている悪霊ニャーカが死後八日間生前の部落をさまよい、その後、白嶺の頂にいくと信じられている死霊も、すべて村境の山奥にいるのだ。こうした悪霊は 皆、村境の反対側に押し込められてしまうのだ。

 こうした観念から、万年雪をいただくアンデスの白峯もインディオにとっては美しい姿として目に映じているのではなく、悪霊の住家として恐れられているのだ。たかが村境ですら悪鬼横行しているのであるから、あの雄大なアンデスの白峯には、ありとあらゆる悪霊の親玉がたむろしていると恐れられているのは無理からぬことである」此処では山頂から捨てる事になっている。「部落境の峠や、村境の山頂は村へわざわいが入り込む危険な場所でもある。アンデス山岳の山道を旅行すれば処々に小石を積んだ塔を見かける。これはアパシマータと言われるもので、峠には必ずと言ってよい程ある。 中略 村境を聖なる場所としているのは、実は村に災いの入るのを、此処で未然に防ぐための村の神、部落の神の奉斎の場であるのだ」此処では奉斎によって、霊を鎮めようとする。

 そしてこの村には呪者がいて、秘密に白峯の大悪霊に仕え、交通して、その霊力に よって或者を呪い殺し、或は病者についた小悪霊を追払うのである。

 斯くして死霊の絶大な力は生へ転ずる力ともなる。そしてそれは生産力の発展と共に、さまざまな転生の力となるのである。私は荒魂に対して、和魂の顕れたのは農耕 の成立によるのではないかと思う。

 絶対的力としての超越者を外に見出したのは、人間の生存意志の自覚としてであり、 生存意志の自覚として、それは転じて生となるべきものである。

 私は情念が形を現して来たのは此処にあるのではないかと思う。西田幾多郎先生は、 神は生産に関わると言われる。より大なる生存への意志が神を樹てるのである。そして芸術は、死霊の絶対的力を、人間の自己矛盾の内容として、絶対生への転換を持つ時現われたのであると思う。前述の舞踊、絵画、彫刻等は、神霊に於ける死生転換の自覚的発端としての技術があると思う。

 我々の表現への意志は、対象の調和、主体の趣向より起きたのではなく、生死転換 の対抗緊張より生まれたのであると思う。自覚的生命として人間は、神霊的超越者を 持つ事によって、真に偉大なる生の第一歩を踏み出したのである。もとより自覚的と 言う無限に自己否定的と言う事である。形相を持った神霊は否定されなければならない。キリストが「悪鬼よ去れ」と言った如く、近世が神の否定によって成立した如く。而し神霊は個の自覚に対する全の成立の発端だったのである。神の系譜はそのまま人間の自覚的発展の軌跡であったと言う事が出来る。

 以上芸術の起源は、美の本質についても種々の事を示していると思う。先ずそれは超越的全体者の形相を個々に於いて見ると言う事である。ヴェーダの序文に「古来印度において、ヴェーダは人間の著作と考えられず、聖仙が神秘的霊感として感得した啓示を認め、これを総括して、天啓文学と呼び」と書かれている如く、霊感的であると言う事である。日本でも佛彫家が一刀三拝して、その顕現を祈った如く、知らざる深奥に誘われるのである。誘なうものは個々人を超えて、個々人を成立せしめる全体者である。西田幾多郎先生は、美は時代の様式的正であると言われる。芸術は何よりも全存在の形相をこの我に於いて明らかにするのであると思う。

 つぎにその形相は深く生存的であると言う事である。 死生転換的であると言う事である。

 涙を拭うて見る人生は美しいと言われる如く、矛盾の中に無限に形相の襞があると言う事である。ラルコリーニコフが娼婦ソーニャの前に跪いて、「全人類の苦痛の偉大さに跪づく」と言った如く、芸術の深さ、高さは人間矛盾の深さ高さである。勿論時代に於いてその形相は異なる。純粋視覚としての近代絵画は、何処に其の生存の翳があるかと言われるかも知れない。

 而し私は純粋視覚は近代的内面的必然と其の軌を同じくするものであると思うもの ある。芸術の永遠は全体者の時間的形相である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

芝田さんを偲ぶ

 みかしほに入って五、六年程経た頃であったとおもう。藤原優先生より歌論の雄として芝田すみれさんを訪うことを奨められた。私は早速自転車で、閑寂な方丈の山荘をおとずれたように記憶する。其の時に何を話したか忘れてしまったが、厚いもてなしを受け、翌月の美加志保に私を主題にした作品を発表されたのをおぼえている。私も余程気が合ったのであろうか其の後度々お邪魔をした。話題は歌よりは多く宗教的なものに関してであった。仏とは何か、悟りとは何か、絶対とは何かといったようなことをくり返し論じた。若い時より病に罹られ、山中にあって雲と鳥とを友とされた生活では、それは切実な問題であったのであろう。それに生れが仏門ということもあったのであろう。よく研究をしておられた。私も生死の問題を生涯の大事としていたので話は尽きることがなかった。主として芝田さんが問われ、私は答える方に廻った。当時まだ考えの未熟であった私は、エネルギー恒存律と、霊魂の不滅の相違について答えることが出来なかったのを思い出す。

 氏は斯る永遠なるもの、不滅なるものを思慕する高貴なる請神と、制御することの出来ない憎しみの情念をもっておられたようにおもう。それは何うすることも出来ない薄幸な運命が、突破口を求めて噴き出ているようであった。自分の非力に対する、自分への怒りが形を変えて出現しているようであった。私は氏が憎しみの相手を語られるとき、憎しみを糧として生きておられるのではないかと思ったことがある。高貴なるもの、低俗なるもの、全ての人間はこの二つを糧として生きているのかも知れない。

 晩年の氏はリルケに傾倒しておられるようであった。そして矛盾という言葉を愛用して おられるようであった。併し私は氏が真に矛盾が解っておられなかったとおもう。何故なら自分の矛盾に対する、痛切なる把握を見ることが出来なかったからである。内在する高貴なるものと、低俗なるものを一つに於て見ようとする努力がなかったからである。

 ともあれ私はこの相反する二つのものが共に、氏の運命の根底に関っているようにおもう。それだけにひたすらなるものであった。私の知る限り、氏は妥協を許さない精神をもっていた。そこには小児的なものさえ思わせるものがあった。氏の思い出には清純なものがつきまとう。それはそのひたすらなるものに関っているようにおもう。

 容易に他者の言葉を肯わない氏であったが、私にはよく耳を傾けて下さった。初めて訪ねたとき、氏は既に短歌草原に重きをなす人であった。私は天性の無礼者である。駆け出しの癖に、忌憚なき言葉を身上としていた。それを首をかしげ、手を耳に当て、顔を突き出すようにして聞いて下さった。それは真摯そのものであった。終生自己も他者も偽ることのなかった氏の思い出はさわやかである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」

リズムについて

 芸術を語る時によくそのもののもつリズムが言われる。リズムとは如何なるものであろうか。私自身判っているようで曖昧である。以下私自身に明らかにする意味に於いて考えて見たいと思う。

 生命は形をもつ。形をもつ生命がそれ自身によって動くのが動物である。動くとは、抵抗を克服するものとして飛躍的である。静と動の反復を繰り返す。私はそれがリズムの原型であると思う。例えば我々が歩く時に一方の足を出し、一旦下ろして大地の抵抗を克服してもう一方の足を出す。それを繰り返すことよって我々は動く。それがリズムの基本的なものであると思う。ぼうふらも尺取虫も斯る意味に於いてリズムをもつ。

 生命の動きは機能の複雑化に随って多様化する。ぼうふらは唯上下するのみである。

 尺取虫は屈進するのみである。蛙は歩み、跳び、鳴く。哺乳動物に至って快、不快の 表出をもつ。犬は見れないものに吠え、見狎れたものに尾を振る。軽い噛み合いの 戯れをなす。雌犬を見てはまっしぐらに走り出す。馬の疾駆は軽快である。而しそれ 等の動きは尚芸術のリズムではない。身体として与えられたものの直接の表出である。私はそれが芸術としてのリズムとなる為には自覚的、表現的とならなければならないと思う。身体の動作が芸術的リズムとなる場合にも、身体が身体を超えて、より大なるものを表すものとして、身体の外化がなければならないと思う。

 人間は自己を外に見る事によって自己を知る。外に見るとは物を作るという事である。物を作るという事は技術的ということである。手をもつことによって人間になったと言われる如く、我々は技術をもつ事によって自己を知るのである。物を作る事によって我々の動きは無限に複雑、多様となる。無限とは一つの物の形が次の形を呼ぶということである。技術が技術を生んでゆくことである。内面的発展をもつという事である。働くとは断るものを内包する人間の行為である。而し物を作ることは未だ芸術的創作でなければ、作られたものは芸術品ではない。私はそれが芸術の創作生命と なるには技術の根底に還り、作るもの自身を表現しなければならないと思う。

 一つの石を割って物を切る道具、戦う道具を作った時に人類の曙はあったといわれる。而しそれが何時、何処で始まったか知る由もない。技術ははかる事の出来ない過 去より営々として人類が自然と闘い、人間同志が戦った歴史の集積である。私達は先代より技術を習得した。先代はその先代、その先代とさかのぼって尽きる事を知ら ないものである。その技術の集積が世界であり、我々は技術をもつ事によって世界に 参加し、自己となるのである。私達は生まれて死ぬ。而し私達があるとはこの生死を 超えたはかる事の出来ない時間を内にもつことによって我となるのである。作られた 物は生死する我の生存の用に供する。その限り物は芸術品ではない。而し物は永遠なるものの働きより出で来ったものとして永遠の影をもつ、如何なる物の形も無限の過去より来り、無限の未来を呼ぶものとしての一面をもつ。私は我々が更に深い自覚として単に生死する我の用に供するのみでなく、永遠の面の純化に生きんとする時に我々の生命の働きは芸術を生むのであると思う。美のリズムとは永遠なるものに摂取された生命の自己実現であると思う。

 神の出生は生産に関わると言われる。神の超越は技術的形成の超越である。神の深さは技術のはかる事の出来ない時間の深さである。斯る意味に於いて芸術は神の顔を見んとする処より生まれたと言い得ると思う。弦楽は弓の弦を鳴らして軍神に味方の勝利を祈った事に始まると言われる。雨を乞うて蛙のしぐさを、猿や鹿の食害に対して追い払うしぐさを、戦に出でんとして敵を倒すしぐさを演ずるのが舞踊や演戯の始まりであると言われる。古代印度の詩の初まりは神に真の徳性を附与せんとするにあったと言われる。日本に於いても酒作りには酒作りの歌、田植には田植の歌が唄われた。そして田植も酒作りも神の行為であり、歌は神の言葉であった。私はこの神とは生死するこの我を超えて、我々がそれによってある技術的創造の世界の形象化であると思うものである。単に猿や鹿の真似をするのではない。生産活動のもつ時間の深さを介して人間の身体が持つ動き以上の動きをもつのである。唄うとは単に声が出たというのではない。稲作りなら稲作りの、無限の時間が生んだ言葉なのである。それ等は生存の用に供するものではない。時を超え、時を包むものが自己を現した姿である。人間の自覚とはこの深さに於いての自覚である。自覚は世界形成的である。私はこの動きが、世界の自己表現の動きがこの我の表現となる時芸術のリズムはあると思うものである。

 而し超越者が超越者である限り尚真の芸術はあり得ない。我々が近代的自覚という のは超越的なるものが内在的であるということである。我々の生死を超えた時間の深 さが直にこの我であるの自覚である。この我がそれによってあるとは、この我がそれをあらわにしてゆくことの自覚である。世界創造を神の手より、人間の手へと移らしめたのである。我々は神の僕ではなくして自由意志となったのである。超越的なるものが内在的なものであるとは、身体の有限性を超えた時間の深奥を我の内面として外 の形にあらわさんとする事である。我々の身体は単に生死する身体ではなくしてこの 深奥が働く身体であるの自覚である。私はこれは神の放逐を意味するのではなくして、我々が真の自己となることは神が真の神となった事であると思う。

 近代的自覚は表現に無限に変化を与えたという事が出来る。神の慈愛と威厳を表す のみではなくして、隣人の哀しげな目も永遠なるものの表象となった。人間の身体に無限の時間の形が見られた。裸体は最も美しいものの一つとなった。それは宇宙創 造の到達点として、宇宙創造の出発点としてあらわにすべきものとなった。亦我々の目の真実は何かということから新しい色彩、新しい線が作り出された。近代芸術は視覚の無限なる内面的発展であるということが出来る。視覚が無限なる創造的時間を 負うものとして、色彩が色彩を呼び、形が形を作るのである。自己を真実存在として 限りなく自己の深奥に還りゆく目となるのである。近代芸術のリズムとはこの内面的 発展のリズムであるということが出来ると思う。そして私はここにリズムの自覚があると思う

 本来技術は内面的発展的である。一つの技術が次の技術を生む。其処に技術の体系があり、知識が生まれる。唯それが我々の有限性を超えた時間の形相として成立つが故に、我として見る事が出来なかったのである。視覚の内面的発展とは斯る創造者の目となることである。近代的自覚の自己の発見とか、神の否定とかの根底に技術としての生命の自己創造の必然があるのである。内面的発展をもつ目とは、永遠の時の目となって働くことである。私は前にリズムが芸術的となるためには自覚的、表現的とならなければならないといった。それが内面的発展である。感覚の内容に、感覚をもつ身体の有限性を超えたものを見てゆくことである。感覚の内容自身が宇宙的生命の創造の内容としてあるものを、我々がより多様なる内容として作る事である。

 自覚に於いて外に自己を見てゆくとは、作るものとしての内をもつことである。働くものは内となり、作られたものは外となるのである。斯るものとして外を作ることは亦内を作ることである。外に無限の形を見てゆくことは、内に無限の感性を養ってゆくことである。深大なる情緒を生んでゆくことである。芸術的リズムとは形を生んでゆくこの情緒の抑揚である。我々は美術館に於いて近代作品に接する時、最早我々の感性より遊離してしまったかと思われる。而し遊離から表現は生まれて来ない。技術的展開としての、歴史的現在の感性の表現なるが故に我々の足を運ばせるのである。我々は我の心情に於いて作品を見るのではなく、作品に於いて我の心情を見るのでなければならない。我々は深く世界によってあるのである。

 私は初めにリズムは静と動の反復であると言った。そして生命の機能の複雑化と共 にリズムは多様化するといった。そしてその自覚的創造的なるところに芸術のリズム はあると言った。生命は形を持つものが動くものとして、空間的、時間的である。静として空間的であり、動として時間的である。時間と空間は相反するものである。間の否定として時間はあり、時間の否定として空間はある。動は静の否定であり、静は動の否定である。而して、動は静を含み、静は動を含む処に生きている生命があるのである。私は斯かるものの自覚としてその動的方向、静的方向に様々のリズムを見る 事が出来、様々の芸術の形態を見る事が出来ると思う。私に音楽を語る資格はない、音楽はその形の自由なる流動に於いて動的方向の極みにあるものと思う。声楽、舞踊の如きはその身体的の所与性に於いて制約される故に、音楽の如く純であるとは言えないが矢張り動的なるものと言い得るであろう。それに対して建築の如きはその実用性に於いて変化を拒否する。建築の美は静的なるリズムをもつと思う。陶器はその可塑性に於いて建築より自由である。而しそれは矢張り静的なるリズムの美であると思う。絵画、彫刻は客観的対象を写す、其の静、動は多くその民族に特性に関わるように思う。其の時代に関わるように思う。

 西田幾多郎博士は、リズムそのもの程、我々の自己そのものを表すものはない。リ ズムは我々の生命の本質だと言ってよいといわれる。リズムは生命の直接なるものであると思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」