聖霊について

 キリストは聖霊によって生まれ、救世主として生まれたという。而し人間の汚穢なくして如何にして人々を救い得たのであろうか。自ら汚穢としてありつつ汚穢を克服した者でなくして如何にして苦悩を鎮め得たのであろうか。而し考えれば汚穢は汚穢を克服する事は出来ない。聖霊なくして罪を救う事は出来ない。

 人間は自覚的生命としてこの両端をもつ。生死するものが永遠なるものであるところに自覚はある。私達は名刺に住所と氏名と職業を書く。これは全て歴史的なものである。住所は祖先が営々として拓いて来た土地である。氏名は血縁伝承としての姓名である。職業は技術的伝統として習得したものである。私達が自己とするものは、私達を超えたものが私達に働き、私達がそれを負うということである。私達はこの歴史的世界の中に生まれ、世界を逆に内にもつ事によって自己となるのである。私達が働くということは永遠なる者を見ることであり、永遠を見るということは、永遠なるものが働く事である。見るとは生死するものに映すという事である。

 働くという事はあるものを否定してあるべきものを実現してゆく事である。永遠なるものが働くとは生死する我を否定して、生死するものに永遠なるものを実現してゆく事でなければならない。其処に人間の原罪がある。我々が自覚的として自己をもつということは否定さるべくあるということである。否定さるべきものは罪である。汚穢である。あるべく働くものは聖霊となる。斯くして神は全てを捨てて我に来れと命令する。

 自覚は歴史的にある。前にも言った如く、自己は深い過去を背負うことによって自己である。自己は自己を超えた過去によって自己となるとは無数の人々が働いたということである。深い過去を背負うとは無数の人々を背負うということである。無数の人々を背負うとは人類唯一なる生命の働きに自己があるということである。唯一なるものが働いて自己があるとはこの我に全人類唯一なるものを示現せよということである。

 生命は欲求的である。我々は欲求的としてある。而し欲求的なるものから我々の人間の自覚的自己は生まれて来ない。自己を自覚するには無限の時が働かなければならない。無限の時を現す永遠なるものが働かなければならない。自己があるとは欲求的なるものが永遠なるものに自己自身を否定する事によってあるのである。生命は無限に動的なるものとして欲求を罪とし永遠を聖霊とするのである。

 全人類とは限無く多数の人によって構成される。それが唯一であるとは、唯一は形なきものでなければならない。唯一なるものが働くとはかくれたるものが働くということである。唯一なるものが働く事によって自己があるとは唯一なるものが命令する事である。「汝等斯くなす勿れ」「汝等斯く為せ」の声は此処より聞こえるのである。天上より聞こえるのである。

 歴史は多くの人を生んでゆく。一方に罪人を、一方に聖霊を生みつつ動転してゆく。キリストは人類がその唯一を見た処に生まれたのである。聖霊によって生まれたのである。而し純なる聖霊とは何ものでもない。聖霊は働く事によって聖霊である。キリストは血を流さなければならなかった。罪人として人類の罪を購はなければならなかった。それによって聖霊は自己を実現したのである。万人の血、万人の言葉として復活したのである。

 唯一なるものによって我々の自己があり得るとは、絶対の外として我々に命令し来る神の声は直下に己が声でなければならない。其処に信がある。己を忘じて赤子の如くなる時に信はある。而しそれは赤子となるのではない。捨身の努力である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

つとめ

 「まあこれ、あの家の一番しまいの子も某会社へきまったんやて。」 「そう、あの家もえらい事やったけどもう楽やなあ。」「そうだいなあ、旦那さんやろ、奥さん内職しよってやろ、上の子の姉さんも勤めとってやろ、中の子二人は外へ出とってやけんど、もう楽なもんだいなあ。何ぼ宛でも何ぼ何ぼやろ。これから残るばっかりだいな。」 聞くともなしに聞いていると、何でも子沢山のために苦労していた家の末子が勤めが決まったらしい。私もよく知っているが、よく米を一升買いしているとか、着せる服が買えないので奥さんの里からもらったとか、噂の出ていた家である。よかったなあと思い乍ら勤めという言葉からふと、「この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草取るなり」と言う歌を思い出していた。誦し乍らこの歌のつとめとその子の勤めが決まったと言うつとめと一寸ニュアンスの食い違いがあるように思った。

 その子の勤めは報酬が目的である。この歌の草取る人も勿論秋の収穫としての報酬が目的であろう。而し取れるか取れないか判らないのである。その子は報酬をくれるかくれないか分からなかったら勤めないであろう。勿論昔は他に働く所の無かったという事もあろう。而し今日の勤めと言う中には単に報酬によっては律し切れないものがあるように思う。分からないけれども今日は今日として働くと言うのである。草なんか取るのは一日位伸ばしても大した事はあるまいと思う。それなのに今日の勤めとして働くと言うのである。勤めとは本来何んな意味であったのであろうかと思って 一寸大言海を開けて見た。

 つとめ(名) 格勤 ツトムルコト。為すべき事 仁君ニ仕フルコト。役目。 職務 三毎日佛前ニテ誦経、礼拝スルコト。勤行。修行。以下略

 これでは私の問いに答えてくれない。仕方がないから自分で考える事にする。此の中で何かがあるとすれば仕える事であると思う。仕事の仕も仕えると言う字を使ってある事を思えば、人間の行為は何等かの意味で仕える事なのかも知れない。仕えると 言う意味があったのかも知れない。而しこの農夫に君への観念があつたと思えない。 それでは仕えるとすれば何に仕えたのであろうか。其処で思い出すのは和辻哲郎が書いていた事である。

 かつて自動車王フォードが南方でゴム園を経営した事があった。其の時に現地人を 使ったのであるが、其の勤労意欲の無さには閉口したらしい。それで給料を多くやって貯金でもし出すと勤労意欲が湧くかも知れないと思って給料を上げてやった。する と彼等は金のある間は休んで無くなると働きに来たと言う。西洋人の間で定説になっ ている土人の怠惰に対して和辻哲郎氏はその勤勉振りを強調される。氏は其の労働振りを詳細に書かれた上で、彼等は金銭や自己の生活のために働くのではなくして神の作業として働くのであると言われる。氏の書いておられた事が私達の小さい頃にもあった事の記憶がある。

 私の隣村に菅田と言う村落がある。其の菅田の人の麦を栽培されるさまが氏が書か れているとおりであった。うねには草一本も生やさず、土を微小に砕いてうねの肩に角をつけて其の整然たる有様は麦を収穫するというには余りにも丁寧すぎた。其の根 底に流れていたのは或は神の威儀の実現であったのかも知れないと思う。

 此処に私は今日のつとめの意味が明らかになると思う。神の前にとして、今日の神と我との姿を見出すのである。収穫も大切である。而し神の前に誠である事の方が大切なのである。収穫も亦其の結果としても大切なのである。其処に今日のつとめの根 本の意味があったと思う。

 現在に於いてもそのつとめの究極の意味は変わっていないと思う。唯我々は神の代りに世界を持つ、世界の前にとして、今日の世界に我の姿を見出すのである。報酬は神を世界に転換させた社会構造の変化の必然である。

 昔に於いて詩は頌歌(しょうか)であり、詩を作る事によって神に其の威徳を附加すると考えられた。私は全て神の前に作ると言う事は、神を作ると言う意味があったのではないかと思う。私達が今日勤めを持って働くのは世界を作ると言う意味があると思う。私達は報酬によって生きる。而し其のより奥底に世界に何かを附加する事によって生きるのであると思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」

心弱き人の為に

 或る日の歌会で、一老婦人が自分の作品を説明し乍ら「この間も小豆を煮ているの で、その煮方を説明してやったのですが、嫁は聞こえぬふりをして言うたとおりにしませんでした。何か言うと激しく口答えをするので、今では何も言わない事にしています。一緒に暮らそうと思えば何方かが辛抱しなければなりませんので。」と言っていた。孫子も言う如く一歩を譲ることは百歩を譲ることである。この婦人はやがて一家の片隅へ追いやられるであろう。気が弱いとは如何なることであるか。

 人間のみが言語中枢をもつと言われる。人間は言葉をもつことによって他の動物と人間を区別したと言われる。私達はスメル文字を解読することによって、六千年前と心を一つにすることが出来た。六千年を一つの時間としてもったのである。この一つにする力によって技術を蓄積して来たのである。木を削り石を磨いて道具とした古代より、近代の壮大な機械文明の構築はながい時間の蓄積なくしてあり得ないものである。この蓄積は言葉が、そして言葉の延長としての文字が担ったのである。そこに人 間の栄光がある。

 しかし栄光は同時に悲惨である。我々は我々の生死を超えた時間に於いて自己をも つ。自己を超えた時間によって自己があるとは、我々は自己を否定することによって 自己を見出してゆくことである。歴史の蓄積とは多くの人々によって作られたと言うことである。このことは他者によって自己があると言うことである。私達は自分の所在を己の技術に於いて見るとき、無限の過去・現在・未来の人々との関わりを見ざるを得ない。他人の人格を認めない自己の人格はあり得ないと言われる所以である。人格とは自己の中に世界を持つことである。偉大なる人格とは、自己を忘れて世界となっ て考え行う人である。

 しかし他の人格を認めるものと、認めないものが、一緒に暮らしたらどうであろうか。それは一目瞭然である。一者は他者の行為を尊重して譲歩するであろう。一者は他者の譲歩を自己の力の証しとして益々自己を主張するであろう。他者との関わりに於いて自己を見ることの出来ない下劣なる人格は、自己の中に世界を見るのではなく、相手の譲歩に自己の拡大を見るのである。一者は益々主張し、一者は益々譲歩する。一つの生活に於いて一者が自己の意のままにするということは、他の一者は自己実現の場所を失うことである。人間にとって自己を実現するところをもたない程哀れはない。河合広仙氏は機関誌「巨勢」の中で「恥を知らず、厚かましく、図々しく人を責め、大胆で不正なるものは生活し易い。恥を知り、常に清きを求め、執着を離れへり下り暮らす賢者は生活し難い」と佛教の原始経典にあると書いておられる。私は心弱いと言われるのは多く斯る人格的なるものに由来すると思う。例えば言葉にしてもそうである。一方が罵っても低劣なる言葉を出すことを理性が許さないのである。他人の座敷に土足で上がって襖を破って帰るような言葉は唯自己嫌悪におち入るのみである。斯くして唯その人格関係に無限の悲しみをもって黙しているほかはないのである。私は冒頭の老婦人と嫁との間にも斯る関係を見ることが出来るのではないかと思う。

 而し人間に於いて栄光が同時に悲惨であるとは、悲惨は亦栄光でなければならない。ゲーテはミニヨンの詩の中で盲目の竪琴弾きに、「涙もてパンを食みしことなく、 夜々の臥床を泣き明かさざりし者は、知らじいと高き御身のいますを―」と歌わしめている。魂は常に不死鳥である。それは死の灰の中より羽ばたくのである。譲歩は他者につながるところにあつた。人間は他者につながることによって、自己を超えた無限の生命を見ることが出来るのである。私は日常生活の弱者は自覚的生命の強者であると思う。キリストが地の塩と言った人であると思う。悲嘆に暮れる代わりに聖者の言葉を探すべきである。譲歩を突き進めて死に切るべきである。そこに人間本来の無限の過去と未来を包む永遠の世界が現われるのである。譲歩せざるを得ない心弱き者は、その奥にいと高き唯一者への通路を持つのである。そしてそこから日常生活を見るとき、譲歩なきものは逆に哀れなものとして、新しい生活風景が生まれてくるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」