遺歌集

商売で全国の得意先を回っている時に汽車から見える風景や人々との会話を題材に短歌を詠み、短歌という方法論を用いて、人生の喜び、悲しみ、楽しさ、苦しさといった人の生業、自然との触れ合い、さらに生命とは何か、永遠とは、など色んなことを鋭く洞察し、それを歌に託しています。
晩年には徐々に病気・死に対する不安や苦しみ、これまでの人生を振り返って、必ずしも明るくないものが多くなり、悲痛な叫びと思われる歌もあります。


遺歌集

水圧におもふ

水圧といふを見てをり樋を抜きし水は噴き出て光り躍らす
堪へゐて静かな池と見てゐしが抜かれたる樋に噴き出られる30
静かなる村の人等も密密と押し合ふ力の日々にあるべし
放たれしものの輝き抜かれたる樋よりはしれる水は躍りぬ
旅の恥かき捨てといふ言葉あり解放されしよろこびを言ふ
大きなる貯水は大きな圧力をもちたりダムのえん堤おもふ
かぎりなくふくれてゆける近代の耐へ得ぬ心生むにあらずや
足の爪も自由を与へてやらんかな靴を脱ぎてつっかけをはく
残りなき命と思ひ開きたる本は暫しに新聞寄せぬ
流れゐし輝く雲の消え去りて隈なく空の青澄みとほる

碁の本は若き名前の多くして歌は知りゐてながきが並ぶ
一時間幼が居りし跡として砂場に砂の橋のかかれり
お土産と砂で作りすぃ饅頭を手に載せ幼は帰ると言ひぬ
こめかみにふくれて来る血管あり内のこはれしものを循らす
秒針の代りに人形動きゐて文明とふは目を疲らせる
踏みつけし野径の花よふりかへり傷み抱ける歩みを運ぶ
のろのろと立ちたる猫はにらむ目に見返り急ぐにあらず去りゆく
領域を犯されし目が立上り猫はしばらくにらみて去りぬ
並び立つぜいをつくせし太柱われの祖先は柱担ぎし
夜の山は大きく黒く横たはり眠れる家の灯りを抱く
時折りに猫の日向に寝てゐしがおのが棲家の如き目となる
百年の木蔭は涼風運びゐてはるかに稜線青く連なる
斂葬に昭和終ると書かれをり香淳皇后一人の死去

信号の赤と時計をくらべつつ会場はもう開いたか知れぬ
針金に止められてゐる標本箱色鮮かに蝶は飛ばざり
鮮かに蝶が拡げし翅の色恫喝として見ねばならぬか
鮮かな模様は恫みし生きんため標本箱に蝶の並びぬ
そそり立つ木のいただきに羽根休めとびは飛翔の空を見廻す
天辺の枝に飛びゐし羽根休め鳶は力の限りを見渡す
足音にすばやく魚の沈みゆきこの池釣りに来る人多し
光る迄白く晒れたる枝萱の此処等で腐ねば障りとならん
くっきりと我と過去へと区切りゆくIT革命とふを読みをり
来るべきアイテイ革命に区切らるる如何なる姿勢我はもつべき
大学へ進むが既定のごと孫等我は鎌売と決められてゐし
暫し経て浮び来れる魚のあり水に振りゐるひれのしたしさ
浮び来し魚は動くとあらずしてひれをかすかに動かしてをり
魚が水泳ぐごとくに生れたる歌の一首の我にありしや
魚泳ぐ水とはなりて安らげる瞳となりし我に気付きぬ
うねりたる鱗に魚の泳ぎゆき掴みたる手の記憶鮮らし

はしる魚少年我の鼓動との動き一つにありたりし日よ
年々の力を今も蓄めてゆく大きなる木の芽吹きを仰ぐ
むくむくと擡げしゐくちのどうさい坊蹴る力失せて歩みゆくかな
言葉もて石に刻まるものの為路傍の石に両手を合はす
風の吹きくるままに葉を散らし大きなる木は晩秋に立つ
新しき知を容る体とならんため癒さん薬をのみ込みゆきぬ
力ある限りを学びそれを容る体とならん癒えゆく躯
死の灰の中より飛び立つ白き鳥束後は詩神の羽根が抱かん
点となりて飛びゆく鳶のあり瞳の遠くわれを立たしむ
谷鳴りに神去りゆきし空眺めしをれる葉は埃を被る
ピンと張る弦にいのちに生きたりと八十年を自負もちて立つ
するめ噛む歯応へのみが確にて今日一日の終らんとする
入道雲わが家の上迄伸びて来て稲田に乾く亀裂の入る
映像は思ひ出写しわが脳の新作とぼしくなり来るらし
真直ぐに向けぬ瞳は包みごともつらし孫の肩まるまりぬ

憎まれてげじの走れり憎めるは人の勝手とげじの走れり
刺す針をもちて生れれば刺すことの正義にあらん輝く蜂は
足多きげじの走れり足多き故に箒もて殺されにけり
石垣に大きな石の積まれをり運びし人は眠りてゐしや
影深き草より夏の羽虫飛び野より生れたるわれとなりゆく
今日の記事載る新聞をたたみゆく明日は如何なる記事をもつ
仮借なく枝を落としてより多き結実はかる剪定終る
配られし朝の新聞たたみをり読みしニュースは最早要らざる
烈日を反せる黒と黄のひかり蜂は灼けたる屋根に飛び交ふ
殺傷の無残の記事を読みおへて靴下をはき会ふ人浮ぶ
読みし後は他人の事とほうりゆき保険代金に思ひめぐらす
雨降りし朝の草は天を向き日照りのながく続きてゐたり
渇水の池の堤に人集ひ行きつ戻りつ指を指しをり
如何に自己の売込みなすがセールスの要諦具に説かれてゆきぬ
自己を売れおのれも亦魅力あるとなれとセールス??として

商品とおのれがなる術説かれ終へセールスマンの会場を出ず
商品になりきり販売はじまると新入社員耳をそばだつ
商品となりきりはじめて勝ち抜けるとかくて人間より疎外されゆく
南北の朝鮮対話をはじめたるこれもITのつくる世界か
日日に水の減りゆき水なくて行き得ぬ魚の並びあぎとふ
照りつづき生きる水域狭まるを魚にてあれば狂はずにをり
照りつづき生きゐる場所の狭まるをゆるゆる泳ぐ魚にかへれ
悪童を斬る舞伝へ開拓は蝮とたたかふ業にてありき
雑事より放れたる目は夏の木の重なる影にいこひゆきたり
日本の湿地は蝮多かりき拓きて何処も蛇神祀る
人間は胎児の時に尾をもつと雄の心の竟に消えざり
数知れぬ蝮を殺し数知れぬ人殺されて田畑拓きし
蛇神の祀りにうめし数知れぬ消えてゆきたる命を思へ
三十五度の気温予報見しのみに気たゆき体の思ひのありぬ
尻餅を今日はつきゐて弱れるを老ひゆくものの正常とする

殺さねば殺さる戦生きゐるはおのれ生きゆく手足の動く
蝿一つ夜のたたみに止まりゐて近しき命分ちあへるも
蝿一つたたみの近きに止まり来て更けゆく夜はそのままにをへ
かつてわが走りし記憶青年の躍れる腿と木蔭に消えぬ
伸ばしゐる青ひたすらに稲の葉は降りくる夏の日差しに向ふ
携帯を出してながなが語りをり公衆電話と変らぬ笑ひ
置き去られる情報社会と思ひしが携帯電話の笑ひ変らぬ
われと子のグラス合せり離れゆく過去と未来の鳴る音立ちぬ
離れゆく親子の世界充たされしビールのグラスが触るる音立て
全員死亡予想なしゐし事ながら発表されし記事読みふける
類人猿樹より降りたる日の如くどんぐり坂を転がり来る
草ら皆枯れて沈みし水おもて白く?めたる波生れつづく39
切線のなきところより椀かれたるちり紙をしばし黙して眺む
子は親を離れゆくべく生れたり帰省せる子とグラスを合はす

若き日は考へさらし運命が思ひの中にのしかかり来る
偶然の思ひが老ひと増して来て生まれしことに思ひの至る
偶然の生と思へば神の他至りつき得ぬ命なりけり
何ものの運びて今日のありたりし酔ひたる夕の躯を任す
影の下に影あり光りの上に光りあり波紋は水の底にゆれゆく
闇に目の押れて来りてそれぞれにおのが形をもちてをりたり
水底にゆれゐる影と光りあり風に起れる波の届きぬ
目が覚めて痛み癒へたる手を振りぬ眠りて体は己れ整ふ
目が覚めて差し入るさやかな光り見あり眠りて体は己を癒す
背のこごみそりかへり亦こごみゆき薬かかりし蟻の死にたり
遠くより来りしものに騒ぐ血の未だ残りて小包み受くる
遠方と言ひける未知をひざにのせ包のひもを鋏に切りぬ
はるかなる距離を縮めて小包の結びしひもを切りてゆきをり
どの頬もふくらみ豊かに写されて不幸の歌を詠むとは見えず
不幸なる我と言はんにベルトの穴一つ増やせる腹をもちたり
幾世代人の生き死ぬ二千年大賀の蓮はピンク鮮らし

休もうと思ふ短歌のうかび来て幾多郎開きしままに進まず
夜の間に出でたる稲穂休むなくおのれはぐくむものを見てをり
多すぎし肥料に実入り拒みたる稲なり白穂直ぐく並びぬ
乾きたる砂より水を集めゐて咲きたる百合の白く艶もつ
水の気のあらぬ砂地に艶をもつ真白き花を百合の掲げぬ
咲くために乾く砂より集めたる水が真白く百合の咲きたり
真白なる小さき花を一つ着け乾ける砂に百合の咲きたり
全てなど安易に言へる男あり耳の底ひの澱と沈みぬ
反りくる谺を応ふる声として昔の人は山を怖れき
一粒の砂なる我と思ひ見る積みしダンプの木蔭に曲る
下の葉は枯れつつ乾く砂に伸び百合は真白き花を着けたり
歩みゐる背中の撓ひおのずから猫は繁れる木の間過ぎゆく
入道雲山を離れて白く浮き吹きくる風のややに冷えたり
草の根はからまりあひて土深く負けてはならぬ伸びを競へり
幼少壮老と過してわが命完成せざる不束にして

長生きをせよと言ひをり幼少壮老と過して完結成らず
幼少青壮老を生きて残がいの惨を過ごせと人の言ひをり
似たような歌を毎月並べゆき長谷川利春ポストに入れる
脱ぐ殻の下に生えゐる羽根のあり蝉は飛翔の変身をもつ
殻脱ぎし蝉は生えゐる羽根をもち空の高きへ飛びてゆきたり
這をりし蝉と殻脱ぎ飛翔する蝉を結ばん思ひ至らず
疑はずバス停迄を急ぎをり人が構へし世の中として
飯を食べ排便終へて新聞読み篭へと捨てて靴をはきたり
脱がむ殻我も持ちゐて果しなき空へ飛翔の瞳を向けたり
久し振りに幾多郎を読む光明を放ちて並ぶ一粒の文字
世の中を己が思索の体系に見んと幾多郎死ぬ迄努む
一章を漸く読みぬ渾身の力で向ふことの清しさ
わが命開きてくれる一々の文字に呼吸整ひてゆく
幾重にも脱ぐべき殻をもちゐると過ぎたる人の労苦のありぬ
幾重にも脱ぐべき殻は先人の労苦の跡ぞ守りゆくべし
蝉脱と悟りを言ひをり如何ならん変化を裡にもちゐる人ぞ

沢近氏病む

病惨を見らるは家族だけでよし見舞断るはがき来りぬ
やつれたる姿見らるを断りし君が心は瞼を閉す
奥さんが見せて下さる病床記文字乱れぬは心しずけし
読み進む病床日記ときおりに大きな文字に書きつけたるは
綴られし病とたたかふにちにちの文字の乱れの増して来りぬ
端正に書かれし文字の時として乱れ見ゆるは迷ふこころか

常日頃語られざりし奥さんにかけし労苦も返し記さる
削れれし山に思ひ出重ねゆき鳥鳴く声に歩みとめたり
外燈の明りの中に動き出て蛙は集ふ虫をくはえぬ
美しく花咲く草を育てんと周りの草の取り除かれぬ
たどたどとむく皮らしき見ておりし女はむいてあげると言ひぬ
しずしずと陽は西山に沈みおゆ雲に茜の色移りつつ
春となる光りの呼べる原の声土筆は土を被ぎもたぐる
雲の割る光りの差して紫のすみれの花のありたりしかな
醒めてゐるひとりの瞼を閉ぢており風鳴る音は夜底に消ゆる

掌に種子まろばせば色刷りの袋の赤きはなびらありぬ
明かに水に梢の写れるをときに乱してふ小魚泳ぐ
風にまろぶ紙を子犬の追ひ走り畦のよもぎの緑増しゆく
明かに松の緑の写りゐて堤に一人の歩みなりけり
草枯れし池の堤の風冷ゆる冷ゆる瞳にながく立ちたり
背の温む光りとなりて冬眠の虫ひそみゐる土に泌み入る
頬撫でる風の出で来て小波の池のたひらなおもて渡りぬ
さきがけてすみれの白き花の咲き髪をなぶりて風過ぎゆきぬ
疲れ来しあくび押へつ百貨店歩き足らざる妻にしたがふ

浄土寺 

中世のひとみしずかに浄土堂ふきたる屋根のながくのびたり
ゆるく反りひとみ果てゆく展び長き屋根は静かな息に見るべし
光り入る化粧屋根裏塗れる朱の限りもあらぬ高き翳なす
かなしみの底ひにすまふ目の細く阿弥陀如来は立ち給ひたり
喜びも悲しみも底深くしてあるともあらぬ笑まひをふふむ
印相は如何なる意味をもつ知らず結べる指のふくよかにして
死するべき肉に見出しとこしえの笑まひかすかに立ち給ひたり
生き死にを越えしししむら刻みたるいにしえ人にかへりゆくべし
肉丸き指のしなひにそう瓶をもちたる像は雲に乗りたり
一刀に三拝したるいにしえの人を顕たせる仏像の前
とこしえのすがた願ひし一度の刻みは三度伏して祈りし
ひと度の刻みに三度拝めるを我こそ思へとこしえ思へ
雲に立つ三尊像の背後より我等に射さん光り入り来る
肉親が殺し合ひたる鎌倉の冥想ふかし菩薩の面は
父子背き干か交ふるかなしみに内を見つむる菩薩彫りたり

清死す 

残りなく生きたるもののほほえみに遺影は我の顔を見てをり
兄貴から死んでゆくのが順当と言ひて居りしが先に死にたり
子や孫も大きくなりて商売も順調なればよしとなさんか
いきいきと受註の電話受けてをりやすらかに永き眠りにはいれ
いつにても明日を望みて生きてゆく長谷川の血の伝へしものぞ

無題 (5)

飛ぶ雲の岐れて空を走りゆき枯葉捲かれて土に狂ひぬ
神装束なして鉄打つ鍛冶なりき破れて黒き に残さる102
打つ鎚と受ける鎚とに向ひゐて鉄を鍛ふる二人は黙す
胸撮りし断層写真は如何ならんうつし絵もつか我は寝ねつつ
黄葉を生み赤き葉生みて秋来る画匠の彩管揮はさんため
夕鳥は言葉さらひて飛びゆけり瞼を合はす闇迎ふ故
白き紙振りて豊饒祈りゐる宮司未明の水を浴びたり

呻きゐし声も眠れるいびきとなり朝の空は明け初めてゆく
呻き声出して一夜を過したる疲れに朝を眠りゐるらし
思ひ出に辿るいのちは限りなし収めてしずかな老ひの日ならん
朝もやに茜の渡り病みて臥す瞳を開く光り差しくる
戦中と戦後を生きて来りしと点滴受くるやせし手は見つ
原なりしところに密々家の建ち光る車の出でて来りぬ
手術するせぬは家族に任せゐてわれは点滴の歌考へる
杉の秀の伸びゆく晴れし青き空我を呼ぶ声そこより来る
見舞客帰りて声のなくなりし室にしばらく何すとあらず

あめんぼがかすかな波を起しゐて昼が落せる葉蔭のふかし
片かなの工場の文字より朝明けて車の出入りは人の営む
工場の片仮名の文字明らかに見え来てはたらくひと日初まる
白く映ゆ壁となりきて光り差し閉せる窓は人まだ眠る
払はるる霧の中より一つづつ象現はれ来るたのしさ
一つづつ異なる象に現はれて山に生ふ木に霧はれてゆく
炎をなすと見上る楓の紅の情緒過剰に虫の這ひをり
ドア閉ぢて寒気断ちたる室となり病みて生きゆく空間ありぬ
ゆれ止まむ体重計の針見をり知らざるおのが体をもてば

喉の下に肉衰へしくぼみ出来ながき安静の時の過ぎたり
安静の体に臥して懸命に己れいやせる循る血のあり
転々と寝返り打つ日日寝台の小さくなりしに体順う
曇り来し窓に安静の目はゆきて重なり来るこめる雲あり
一日に癒ゆるならずと胸に置く手を本棚に伸ばしゆきたり
挟みたる豆が箸よりすべり落ち生きる力の指に失せゆく
澄む水と泥とに分れ溢れたる昨日の雨は一夜過ぎたり
幼らはひそみて闇を見つめをり闇を見る目の光り増しつつ
今撮りしネガを眺むる医師の目の動かぬものを我は見てをり

生まれしは全て死するとおもうとき舗道に人は溢れて歩む
病める身は医師に委せて起き伏しの湧ける思はいは文字に托しぬ
安静の医師の言葉に臥してをり縛らる服を壁に向けゐて
するするとカーテン上りて人の居ず自動といふを我は見てをり
わが体を他人に尋ね知るを得るこの不可思議に病みゐるなり
順調の言葉がありて開きたる安静の目を亦閉じてゆく
広き空の広きを眺め安静の今日いち日も暮れてゆきたり
夏の用終へたる布の千切れゐて案山子は畦にほうられてをり
大きなる緋色の鋏ふりかざしざり蟹激つ水さかのぼる

いそしみて紅き葉をなす庭の見え罪のごとくに臥してこもりぬ
老ひし木も紅葉なしゆく一斉を見つつこやりて今日も過ぎゆく
渇きたる口をうるほす湯のあるを何に向ひて感謝すべきか
十二時となれば食事の運ばるる恵みを我は受取りてをり
窓開けてひと日増したる紅を見てをり楓に臥せる目やしなふ
錠剤が一つふゆると卓に置きナースは安静告げて去りゆく
点りゆく灯りは高く階昇るビルの象となりて昏れゆく
各々のビルの形に整ひて闇に灯りの増して来りぬ
ひょうひょうと鳴りゐる風の耳を研ぎ一夜研がれし耳に寝ねをり

しわくちゃの手と思ひしがいつの間にかやせたるままに艶をもち来ぬ
夜の駅を降りたる人等いち日の疲れもてるはひたすら歩む
赤きもの見れば血として歌に書く戦し日をながく離るも
仔犬らは生れしものの当然の如く朝の光り浴びをり
母よりも悲しく生きしものありやことごく我を原因として
一日をたしかに満せし紅に楓は秋を輝きてをり
走りゆく落葉となりて風の吹き襟を押へて人歩みゆく
同じ程老ひたる人がひさぎゐて買はねばならぬ物のあらざり

風神は大きな袋担げると夕飯はやく食ひをはりけり
医師の言葉ひたすら守り過ぐる日日命令は死に関り生まる
計りたる体の数値メモをして我に告げず医師の去りゆく
薬包やみかんの皮など一人臥す室のくず篭もいくらか溜る
窓下に紅葉増しゆく一樹あり無視せる群をわれは眺めつ
開け口と書きあるところ開けられず力任せの力失せたり
屋上に赤き灯ともり迫りくる夕の闇を統べてゆきをり
更けてゆく夜のしずけさに読み居りし本を閉して坐り直しぬ
照り残る茜の雲も沈みゆき蒔に帰る鳥も絶えたり

無題 (6)

湧き上る霧が押し上ぐ山の峯一すじ青く天に遊べり
比えい山焼打したる信長は下天は夢を常うたひしと
欲しきものなきかと見舞に来り言ふ欲しきは大方禁制にして
追憶は母が大方占めてをり幸せなりし記憶なきため
けん命に血を循せる心臓など更けゆく眞夜に思ひてゐたり
八十のおきなのためにナース等の若きが眞夜を走る音聞く
朝の日が運ぶ新たも臥せる目に押れてわずかに頭回らす
葉の落ちて樹液少なく乾く幹露に並ぶ道となりたり
眞夜中のかすかな音に目のゆきて便を捨て呉るナースの動く

寝台にひとでの如くはりつきて旬日経たり明日も然らん
葉の散りてあらはな幹が乾きたる白き光りを返し並びぬ
昼も夜もいつとはなくて過ぎてゆき入院十日の検査するとど
照り出でて秋山紅き恍惚に向ひてゆける歩みなりけり
くれなひの樹液登りてゐるならん秋の山路の葉を分け登る
うすずみに暮れてゆきゐる夕山のなずみていつとはあらぬ淋しさ
ブルガリアヨーグルトとふを食べ終へて唇なめて夕食終る
幽鬼など作りて昔の人あれば静かならざる夜の雨そそぐ
静脈の青く夜の灯に浮びゐて安静ながく病みて臥しをり

交し合ふ枝に競へる紅葉に昼の陽差しは澄みとほりつつ
重なれる山の奥処に墓建ちていのち継ぎゆく人の住みたり
しっ黒の闇のカンバス七彩の花火を人は展げゆきたり
遠く飛ぶ翼をもてば高き木の梢に鳶は眼置きたり
つひ一つ食べし豆菓子レントゲン撮らるることを忘れてゐたり
夕闇に靴音生れ歩みゐる我の姿の消えてゆきをり
食べるなと言はれし故の腹空きぬ治りゆきゐる我にてあらん
差出してかざしゐる手に並ぶべく焚火の群に入りてゆきたり
生れたるいのちにこの世の声挙げて燕のひなは巣より乗り出す

賜りし花の蒼の開けるを瞳尋ねて朝の明けたり
ほつほつと緑の若芽吹き出でて古木乍らの今年新らし
輝きてカーテンのすきを日がもるる開けと呼べる声をひそめて
口開けて深き陰あり生涯を食ひて養ふいのちの底ひ
時が来て便意に立ちし腹腔の暗き底ひの秩序もちたり
寝台の狭きにいつしか順ひて伸ばせる脚のつかえ失せたり
大別山駆けて登りて敵追ひし脚にてありきベットにすがりつ
木枯しに吹き散されて転ふ葉の枯れて落ちしは行方を知らず
手を足をベットに投げて臥してをり癒えゆきゐるか医者が知りゐて

お通じがありましたかとナース問ふ弁証法より緊急にして
たわふだけたわひて柿の実りをり継ぎて栄へん必然にして
みとる媼みとらる翁病室の中はテレビが音なく写る
限りなくおや等仰ぎし星かげを仰ぎて夜の道かへりゆくかな
ながき時地中に距ていにしえの乙女は墓の壁に新らし
木の下に赤きポストのあることを見つけてあたり暫く見廻す
朝の口漱げる水に仰向きて今日も底なく晴れし空あり
忘れたる古き歌集の出で来りよみがへくる文字の新らし
吹き溜る落葉の量に足止めて並木は激しき夏の日経たり

夜の空を赤く点りて統べゐしが消されてビルの角に小さし
小さなる注射の針の刺さるるを怖れて皮ふは体を包む
蛆よりもたやすく人を殺す文字人なる故の憎しみもてば
鉄板を敷く一ところ音高く足踏みしめてわれの渡りぬ
聴診器胸に当てられ皮ふが包むわが暗黒の計られてゐる
死ぬべしと思ひ定めし体にて布団にひざを揃へ坐しをり
六つの管に採られたる血が並べられ各々異なる検べを受くる
冬の夜の眼は冷えに澄みとほり天を渡れる月と向き合ふ
身をつくし傷き生きし母なりき与ふるのみの一世にありき

神の御名遺りて草生ふ小道のあり人等つつしみ歩みし跡か
萎へ初めし早さに瓶の花りて臥しゐる床に旬日過ぎぬ
断っ立てて高く建ちゐるビルとなり果なく青く空の晴れたり
うつむきて来りし花と朝見みしに花びらいくつ卓に散ばる
人間が建てたる故に仰ぎをり空貫きてビルの輝く
巨きなるビルと思ひて仰ぎしがビルの中なる人間となる
天渡る茜の空に満つるとき染まれる我となりて仰ぎぬ
夜の灯に降圧剤の白く照り水をくむべく我を立たしむ
昼の陽のさんさんと照る山の道紅葉は己れに酔ひてゆきたり

幾年かすれば居らざるこれの世に怒れる我の声がひびきぬ
愛想笑ひなしたるわれのあるなれば人居る所を離れゆきたり
ひろげたる翼に空を従へて飛びゐる鳶は見ても見飽かぬ
音ありて耳あることを耳ありて音あることを臥して思ひぬ
窓渡る小鳥の声の入り来りしばらく空の青きに遊ぶ
朝の薬数確めて服みをへて病みゐる我のひと日初まる
蜜々と凝りて集る天心のしたたる原を歩みゆくかな
泳ぎゐし泥鰌も泥にもぐりゆき草枯る水は澄みて来りぬ
死にし故謝るすべをもたざれば言葉の荊負ひてゆくかな

下からは上は見へぬと常に言ふ小金を儲けて蓄めたる奴が
与へられし薬服みをへ用終るものの如くに横たはりゆく
すこやかな若物網に昇り来て臥しゐる我と向ひ窓拭く
病む胸に朝の光りの直ぐくして生きねばならぬ我となりゆく
ながながと足を伸ばして寝るとき生きる命のありたりしかな
伝へたる播州ひでりに米買ふな水に争ひおや等生きたり
萎へて来し花殻捨てて残りたる咲く花見つつ緊る瞳は
湧き上る雲を眺めつわが血潮応へぬ冷えをもちて循れり
ふくらめる霧が写せし天と地の伸びゆきはらりと落ちてゆきたり

無題 (7)

八十を楯にあやまち庇ひゐて今日も過ぎたり明日からも亦
さまざまの医療具とつなぐベットにて使はれざるが良しと備はる
ひるがへる自在に鳥の飛びゐるに安静の眼窓を距てつ
変身の誘ひしきりに透く服のショウウインドウにぶら下りたり
鎌で草刈りゐる顔が先ず浮ぶ男にありて病みて臥せると
羽重き唸りに蜜蜂飛びゆきぬ耐へて生くべき性に生れし
暮れて来て点れる店に人並び鉢食ふさまにラーメンすする
左手に串焼持ちてコップ酒飲みをり今日を働きし声
星辰とつなぎて夜の眼ありしみじみ人に生れけるかな

それぞれの室のもちゐる断絶に大きなビルは並び建ちたり
公民館に明る過ぎゐる灯の点り唯事ならぬしずけさに照る
得たるものに執着少なき我の性握力弱きに関るらしき
一輪の花がもちゐる完結を屈み眺めて問ひつめ飽かず
照り出でて窓の紅葉に光り透き抹茶を点せる手許明るむ
吹き来る風に再び転びゆき落葉に安らぎ与へられゐず
泥と水分れて上の水の澄み豪雨止みたる一夜明けたり
吹き溜るくぼみのありて転びゐし落葉はそこに重なり合ひぬ
くり返し倒産の話してくれぬ高き笑ひの声も混へて

脚の力弱くなりゐて幼な日に心かえれる歩みなりけり
転び来し葉は翻り転び去る枯れきて枝を離れ落ちしは
窓開けて吾の吸ふべき新たなる空気流れて室を満しぬ
枯草に雨降る言葉紡ぎゆき紡ぐ言葉に雨降りつづく
青亦の電飾空を占めてゆき闇を拓けるいのちの動く
電飾のめぐれる下を歩みゆき原色渦巻く肉体をもつ
安静の二旬が過ぎて唯に臥す己が在り処の言葉をさがす
地下の水涸れたる木々の肌乾き吹きくる風に枯葉を落す
明日ありと眠りしならず横たへし瞼に意識うすれ来りし

黄葉紅葉燃え立つ木木の開きたる瞳となりて歩みゆくかな
風船に針を刺したる如き萎え我は病床に横たはり居り
もう死ぬと思ひたりしが癒えの見へ今暫くを生きて居らんか
書き綴るペンの先より生れくる言葉に動く指となりゆく
ふり向きてわが顔ありし窓ガラス眠らん今日の闇ふかまりぬ
子の恩師岡田先生いちはやくリボンを結び花を賜る
晴れたりと思ひし空の亦時雨る秋の天気の如く病み居り
花びらを落せる花に算えられわが入院の半月過ぎぬ
考へて成ることならず食ひをへし休みの時の体横たふ

泥の手に顔振り汗を落したる男再び屈まりゆきぬ
勝敗のその簡潔の好ましくテレビに相撲のスイッチ入れぬ
われの意志超えゐて事の進みゆき無力の腕に頬を支へぬ
安静に臥せてゐる身は暮れなずむ秋のもやひに瞳置き居り
にちにちの臥して過ぎゆく病める身の今日の曜日を問ひ糺したり
濡れし羽根しばしば振ひ落しゐし鳩もいつしか消えゆきたり
ふくらます羽根に振ひて雨落し鳩は飛立つ羽づくろひなす
びっしりと車の駐まる広場にち変りて居りて街の明けちゅく
蹴るボール追ひて走れる人の群シャツに光りの流れゆきつつ

霞み来て摸糊と拡がる街となり球形タンクの簡明が顕つ
若物は夏を走れり雫なす汗流るるを恩恵として
羽根打ちて鳥の飛びゆき大空は果しのあらぬ青となりゆく
ながながと寝て思へり結局はこの安らかにかへりゆかんか
明けてゆく道にライトの増し来り競ふ早さに走り過ぎゆく
紅に一葉一葉を染めたるを散りて跡なく裸木立ちぬ
億年の光りの届く夜の空に悲しみ小さし捨てて歩まな
読みしだけ書きたるだけの我なると残さる日日の灯りを点もす
刃なす氷の光り万の虫眠れる土を覆ひ張りたり

限りなく虫潜ませる冬の土夕影ひきて帰りゆくかも
奔流の如くライトの走りゆく暗き闇へと眼いこはす
振り合へる手を引き離しエレベーター閉ゆき一人の歩みを返す
窓に置くびんに日差しの及び来てびんがもちゐる緑を散らす
らんらんと窓を点して夜のビル競ふ高さに立ち上りたり
萎れつつ残る蒼の開きゆきびんに挿したる花房ありぬ
如何ならん数値出るかと血圧計見てをりわれの体を知らず
腰痛み動き得ぬ迄歌会の作品集め刷りてくれたり
アパートの窓に干物溢れさせ日差しは背中暖めて照る

隣床の人は鼻より管差すを退院の足罪にも似たり
夜の水は光り集めてしろしろと迷ふ眼を照してゐたり
行方なき一人の歩みとなれるとき白く輝く雲の生れたり
落ちる陽は今日を茜に輝きて蝉のむくろを照してゐたり
同化作用失せゆく固き葉をそよがす風の冷えもち初めぬ
おのずからほほえみ生れて記憶もつ人の瞳と瞳出合ひぬ
軒下の草のいつしか緑増しそよがす風のひかりふふみぬ
わたくしの知らぬわたしの事を問ひ知らぬと言へば隠すなと言ふ
照り出でてアパートの窓のすすぎもの色それぞれの光りを返す

昨日読みしところを忘れ進まざる本を開けり飽きてはならぬ
砂に水かけるが如く読みしときのみを覚えて本をめくりぬ
つぼみまだ半ば残りて花房の枯れをり天に向ひしままに
月光を登れば月に至るべし冬の夜冴えて裸木に掛る
たわふだけ風にたわひて折れし枝掻き寄せられて火にくべられぬ
開きたる目より涙の溢るるを溢るるままに傍に立ちをり
大き間口小さき間口に並びゐて営む人の出でて入りゆく
プリズムに分ちし色どり撒き散らし花園に花咲きて満ちたり
背の温む光りの沁みてたんぽぽの花より春を掲げ来りぬ

たんぽぽの花と差しくる光りとの交せる中を歩みゆくかな
光り射す紫集めて咲き出でしすみれの花を嗅ぎて寝るべし
立つ爪に飛びゐし鳶はわが言葉さらひて山に消えてゆきたり
深き穴掘られてをりぬいにしえにけもの陥して獲りし暗さに
光り増す風となりゐて地低くたんぽぽの花は開き初めたり
店頭に強き陽射しを集めたる南国の花飾られありぬ
打つ波がやしんふ脚の赤銅の猟師大股に歩みて来る
注ぐ湯に開く桜の花びらの春行楽の友を浮べつ
いくつにも裂けゆく花火乱れ滅ぶもの美しく展きゆきたり

時ながき煙にくすむ巨きなる煙突が統ぶる空間のあり
ノストラダムスの予言の年の来るれば次の終末生まねばならぬ
肩に手に触れて散りくる花びらのひける光りに包まれてゆく
艶をもつ細き緑の密々と草は田の面を覆ひ来りぬ
照り出でて透くあさ緑春となる田の面に草は競ひ萌えたり
竹の子の伸びる芽地中に調ふを掘り居り金に代へんがために
薬戴せるワゴンを押して夜を廻り看護婦は何時眠るとあらず
雪もよふ空を渡れる雁の群くずれぬ列に山を越えたり
冬ながく乾きし土に竹の葉の色は褪せつつ伸ばす根をもつ

振る腕にたすき受ると待つ走者足を上げ初め駅伝熱し
色褪せし竹の葉打てる細き雨春を待ちゐるつぶやきをもつ
はなびらに山盛り上げて花咲きぬ統べねばならぬいのち持たり
切尖に土を開きて筍は伸びねばならぬこの世に出でぬ
夜を降れる雨に舗道の濡れ来り点る灯りを集めて光る
われの目を開きて朝の明け来たり雀生きゐる鳴く声伝ふ
死者をして死者葬らしめわれ生くるああ戦に死にたる友よ
このここに道に迷ひし人ありき右じょうどじ左うれしの
手術するかせぬかの検査何事と思へど口のしきりに乾く

夕闇を鎧ひて迫る山となり一夜こもらん窓を閉しぬ
地の中に調ふ新たな芽のあらん竹の葉褪せて寒風に鳴る
なびく葉の緑褪せたる冬の竹乾ける庭を影の掃きゆく
何事のありてナースの走り過ぎわれは己れの首廻し居り
巻く渦の空洞作り空洞の巻きつつ水の流れ出でゆく
漂へる小舟の如く検査受く明日待つ体を床に横たふ
明日の検査如何になるかと無駄なこと亦も思ひて時過ぎてゆく
生かされてゐると言ひつつ悪口を言はれたと怒る声を出し居り
影として霧の中より現はれて影とし人は去りてゆきたり

飛ぶ声の突き出す頭の先端に尖るくちばし神はつけたり
溜飲を下げたき万の目を集め打者はバットを上げて構へぬ
フェンスを越へゆくボール数万の溜飲下げゐる眼が追ひぬ
道乾き木の幹乾き我の目の乾きて冬の風の吹きをり
めぐらせる思ひに明日は恐ろしき顔をもちゐて立ち上りたり
雨防ぐ構へし屋根を仰ぎをり縄文展を見ての帰り路
ねぐら指す鴉窓を過ぎてゆき夕餉の灯り人等点もしぬ
けだものの眼となりて飲食の鉢の並べる前に立ちたり
ガラス戸の向ふの闇にわれのあり昏るる深さに現れゆきて

無題 (8)

目を閉ぢて己れを知らざる己れあり今亦一人の訃報がとどく
光紋が壁に映せる裏の庭このしずけさも動きて止まず
青深く澄みて見えざる山池の底ひと老ひし息を沈ます
そよ風の送れるままに水光る山の小さき池に出でたり
手の玉と書かれし神札祀られて睦月の池の水はしずまる
提げてゐるランプのひかりに現はれて虫は眞直にとびて来りぬ
灯を映し動かぬ虫の目を見れば棲みゐし闇の深かりしかな
手を温む光りの原に満ち亘り彼拠我が家の梅の花咲く
ぴったりと足に馴れたる古き靴歩こう会の空晴れ渡る
平らかな水に家並の鮮に写りて春陽原に亘れり
むき出しに削りとられし埴土見えて山の残りは若葉芽吹けり
春の陽に吾も生れしと思ふ迄芽吹きたる葉の光りを透かす

集ひたる人等に今日の晴れ渡り赤き白きの服を顕たしむ
産土の恨の魂は虫に枯る太しき杉の幹のみ立てり
太き枝幹の残りて杉の枯れ芽吹かぬものは光り返さず
草未だ枯れゐる原に牧草の新たな緑が風になびけり
乳牛の並びて枠より覗かせるうす桃色の鼻と出会へり
うす暗き牧舎に乳牛並びゐて一つ一つと目を交したり
芽吹きゆく山に虫喰ふ杉ありて枯れゆくものに眼は至る
点々と家が建ちゐて野の展け菜の花が見ゆ櫻咲く見ゆ
重なれる山をまたぎて舗道つき此処も分譲の看板掲ぐ

山槌に人家が見えて木の間より水の流るる音の聞ゆる
飛び立ちし蜂が落せる紅の蘇芳に庭の時移りゆく
竹群の直ぐく伸びゐる青き幹あきらかに見えて山の音無し
よごれなき毛をもつ猫が横に来て縁側に坐す吾と並びぬ
訪れし我に眼を光らせて己が領域猫ももつらし
すずらんの今朝もひと日の青さ増す若き葉群の露を置きたり
玉きはる今朝のいのちぞ熱き粥口とがらして吹き冷ましおり
継ぎて来しうす桃色の鼻の先乳牛は草食む顔を上げたり
書斎より出で来て音なき裏庭の縁に腰掛け眺むともなし

午後の影濃く落せる裏庭のつつじの朱はきはまりにけり
一夜経て開き切りたるてっせんの青き花ある庭とはなりぬ
コーヒーに落せし練乳歓声の如く揆くを見定めており
昼凪の庭に蘇芳の紅こぼし蜂あきらかに光りて飛びぬ
水を打つ庭暮れてゆき朝顔のつぼみはぐくむ闇が覆ひぬ
出でてゆく戸を引き寄せる音聞えひと日一人の静けさとなる
葉の厚く光り透さぬ社の葉の古りたるものを見さけつ過ぎぬ
庭の木に鳴きつぐ鵙の固き声も今は一人の留守居にて聞く
水底に動く眞砂のあきらかに寄せ来る波は足下に伸ぶ

ほのほがほのほを煽り燃ゆる火の一とき過ぎてしずまり初めぬ
燃え上る炎は風を呼び込みて逆巻きあふりて炎昇れり
関りのあらぬ瞳は動くなし病室に入る我を見てゐる
飯二杯と小児の如く答えおり医師の前なる我の素直に
サルビヤの緋のきはまりに澄みとうりひと年逝かむ庭の冷たり
設けたる足場の未だ架かりゐて新たなビルは空を区切れり
赤き土未だ新しく道のつき杉の林をつらぬき消ゆる
積み上げし工事残土の影粗く安全章旗風にはためく
降り出して散歩さす事出来ざれば罪もつ如く犬と向き合ふ

無題(1)

山裾に沿ひて流るる水清く人等貧しく生きて来りぬ 
山裾に幾軒新たな家建つはゴルフ場にと土地を売りたり
冬の日にホースリールの忘られてここのみ赤き光りを返す
爪赤き女が一人老人の間に掛けて山の駅あり

無題(10)

七百年過ぎにし時は石にさびはだらに落す冬陽の淡し
吠ゆること忘れし犬と差し来る冬の陽光を分ちてゐたり
熱りもつ吾子の寝息のやや高く灯り消したる闇に聞ゆる
行き違う列車待ちゐる窓に見え遠き灯りが一つ消えたり
威勢よく魚取出す行商の寒風にひびの入りし指もつ
夜の道に縄一匹の蛇と見えさびしや常に死の翳を負う
平らかな水に写れる裸木のこの簡潔に老ひてゆくべし
草原にあまねく降りゐる日の光り蝶々は黄の翅をひろげぬ
一むらの枯草に光りしずもりて開墾田の土くれ粗し
石曝れし開墾田に風すさび冬の野径は人影を見ず
鮮かな黄色と思うごみ箱にみかんの皮を捨てんと持ちて

野を行けば緑の炎君の脚夏の光りに直ぐく立ちたり
湯槽より溢れ出る湯をおごりとし大つごもりの体浸しぬ
迷はざるものの逞し草の上に寝たる土工の胸盛り上る
呼び声を止めし売り人歩み去り駅舎は午前三時の黒さ
一匹の蛙に見たる偶然死吾が影誰の影にもあらぬ
鋸の粗き切口に樹液出で惨もたざれば人生きられぬ
吸ひさしの煙草を土にたたきつけ土工は始業のつるはしをとる
我が影の伸びゆき闇につながるを踏みて昨夜の道かへりゆく

軒先に干魚吊されありしかば背後の闇に瞳移しぬ
脱ぐ服に白き埃のつくが見え宿の灯りは一人を照らす
草の道下りし所に家ありて冬の陽差しに大根つるす
凱々の雪の景色の一ところ家にて屋根の雪かきおろす
水害の跡の礫に陽の返り昨年はここに家建ちゐたり
向岸にとどきし波紋見とどけて再び一人の歩みもちたり
ひらめきてライト過ぎたる夜深く再び窓はしっ黒の闇
葉先迄登し虫は暫し経て頭回らし降りはじめたり
売らるべく篭に入れられし鶏の荒くなりたる呼吸が聞ゆ

投げし石すでに底ひに沈みゐて面は波紋が呼びゐる波紋
一すじのひびの入りたるコップあり透きたる冬の光りを立たす
いくすじの枯れたる草が残りゐてかすかな風にふれ合ひて鳴る
霜置ける凍てし土にて芍薬の萌えて出ずべき芽をひそませる
発芽弱き種子を選り分け落し捨つ血潮循れる掌の上
白きうなじひくつき泣ける傍に男は遠き瞳を落す
生きてゐる限りは持てる影にして壁の歪みに歪みて過ぎぬ
くず買の篭にヒルライの本が見ゆ淋しき人は何処にありし
歪みつつダイヤガラスの千の翳窓に一人の通りすぎたり

灯に狂ひ舞ひて止まざる虫なりき朝の机に小さく死にぬ
眠りゐるひまもいちじく熟れゐたりその確さに大地は生くる
吹く風に放れゆきたるたんぽぽのわたは落ちずに池を越えたり
昏れてゆく夕闇の中吾が姿見えずなる迄立ちておりたり
読みおへて暫しを夜の壁による窓を出でゆく蚊の羽音あり
灯をしたひガラスに動かぬ白き蛾の負ひゐる闇の深さがありぬ
差し来る朝の光りに葡萄房一つ一つの紫透きぬ

小蛙を喰へし蛙が泳ぎおり水平かな池の面に
去年より吊りておりたる風鈴をぬくくなりたる風に聞きおり
誰も皆死にてゆかんを慰めとなして我等の英雄ならず
幼なるをしばし英雄となさしめて掌の中鮒のおだしき
口堅く閉して直ぐく鮎並ぶ美しき死を我は見しかな
帰る人の車の傍に寄り立ちてながく笑まふは女房に任す
洪水に打ち伏したりし草群の一夜過ぎたる げありたり
宿の灯に一人食みゐるお茶漬の沢庵漬ははりはりと鳴る

何の部屋も団体客にて声高し早々蒲団を被りて寝る
手洗ひの小さき灯り点る故吾背のまとふ厚き闇あり
走りゆく列車の一人と坐るとき天涯澄みて夏柑甘し
どぶ川の泥に生きゐる赤き虫夜半醒めたるときに思へり
一様に風に伏しゆくすすき原風にむかへば繁るまみあり
雨止みし雫間遠となりゆくを聞きおり夜を一人覚めゐる
部屋の中に落葉が一つ転び来て一つといふは自己を問はしむ
バス停に出ずるに近き畑の畦草の低きは吾も踏みたり
山黒き彼方に一つの灯り消え寝るべき今宵の本を閉しぬ

貝殻の七色の内部夕光に乗りし栄光の使者馳せ来る
敗れたるものは即ち裁かるる捕虜連なりて頭垂れおり
パックして笑ひ堪えゐる女あり汝と何の関りあらんや
開きゆく吾が口腔の暗ければ人にこびたる言葉の出でぬ
いつはりの優しき言葉に罪犯す女となりてつながれてゆく
幾万の飢餓を強ひ来て一人の帝が作せし仏像仰げ
干されたる菜はにちにちに水気失せ老ひし手首の如く並びぬ
平凡に生きゐることを幸せとなさむと永く勤め来りぬ
妥結せむ一線すでに定まるを机たたくは弁明のため

バイブルと利殖の本を傍に置き男変型の靴をはきたり
枯れし葉の不意に散り来て忽ちに風は宿屋のガラス戸鳴らす
そばを売る笛の細まり消えゆきて聖者の文字に瞳を返す
夜の窓を幾つか音の過ぎゆけり机に白磁の簡潔ありて
これだけと出されし金は予定よりはるかに少なく黙し肯ずく
まとまらぬ思考となりてペンを置き壁に向ひて影を動かす
覆ひ来る闇に埋まる我あれば背すじを直ぐく伸ばし立ちたり
ひき寄せる思ひに待ちしこの会ひも会へは語らん事のすくなし
ふかぶかと頭を下げる銀行員の押されたるを不意に疎みぬ

ふと投げし石に生れつぐ百千の波紋しばらく離れ難かり
ふと投げし石が砕きししずけさに百の波紋は生れて相打つ
ふと投げし石に生れつぐ百の波紋一つ一つが岸に向へり
消えてゆくものの悲しさ見むとして水澄む池に石をほうりぬ
ほうりたる石はゆらめき水深き青にそまりて消えてゆきたり
砕きたる水に光り散乱す冬の路上の絢爛として
下りたるつらの先の雫して冬の光りをふくらませゆく
成るときの人の寄る辺は忘却か窓の柱に目を閉ぢてゆく
競ひ合ひ争ひ合へる家々の屋根見下せる山の澄みたり

枯れし葉と淡き光りの囁ける冬野の声を聞きて帰りぬ
生涯をかけて記すと告げて来し君も悩める一人にあらむ
執念の悲しき文字を君の書く今玲瓏と語り合へるに
憎しみし君への思ひも淋しかり見違ふ迄に写真に老ひる
犬小屋の前に密度を増せる闇我を見る目を犬は閉せり
ゆるゆると肩迄風呂に沈めおえ瞼を閉ぢて一日をおはる
頬にかかる細き氷雨のいくすじに我あり首をすくめて歩む
ストーブに寄りてかかぐる掌の温もりし後の思ひはもたず
松尾さんの車があると思ひしが左程の用もなくて過ぎゆく

藤原つよし老を養ふ屋のさび姿見えぬは見返りて過ぐ
母逝きて二た冬を経ぬアネモネの草に紛れて萌し小さし
あはただしく看護婦数人駆けて過ぎ待合室は話を継がず
唐突にサイレン響きあごに手を当てゐるのみの我がありたり
幼な日に此処にどんこをとりたりき跳ねる感触今も手のもつ
ようやくに葉を開きたる五つ六つ林に降れる光り染めたり
遠山に光りのさしてさし交す梢けぶるは若芽萌え出ず
ひしめきておたまじゃくしの游ぎおり裡幾匹が蛙に育つ
豌豆の莢実となりし浅みどり一夜を経たるふくらみをもつ
20
よべの雨をつゆに置きたる鈴蘭の一夜のみどろ増せる葉をなす
ずりさがりたくなるズボンにのろのろとガラス戸の中我歩み来る
しぎ二羽が庭に啄ばみ歩めるを押へておりし咳の出でたり
信号が赤となり来て停車する死に関るは素直なりいて
足音に蛙幾匹逃げゆきぬひしめきおりしおたまじゃくしは
呼び交す工事する声今朝のなく太き電線空に架かりぬ
ぴったりと皮膚に付きたる吸盤に我が心臓の計られている
幾つかの吸盤体に付けられて計られて知る心臓をもつ
グラフ紙にあらはとなりし鼓動にて読み得ぬものを吾は見ており
正常です医師に言はれて異状なしこのあやふさに出でて来りぬ
      

無題(11)

従客たる死の難ければ吹く風のままに流れる綿雲ありぬ
吹く風にうねりもつとき輝きて秋の尾花の原はありたり
五十軒の内十軒は空家とぞ出合へる人の多く老ひたり
目のかすみ耳鳴り疲れ動悸など薬舗のポスター見覚えのあり
鬼鐘鬼般若お多福いにしえの人等は面に托し作りき
いにしえのいのち定かに神楽面裡なるものを露はとなしぬ
鬼の面般若の面を作りたる心の修羅も継ぎて来りぬ
吾の死の既に定まりあるべしと一人の室に掌紋見入る
箸折れし事の不運に連なるる祖母の言葉も棲むはせており

巣立ちたる子つばめ低く飛び交し梅の実の尻丸くなり来ぬ
はりはりとらっきょう漬を食みており好み変りし歳月知らず
定まりてあると思へば掌紋の如何なる修羅も静かにあらん
金を包みお布施と書きぬいにしえゆ伝へてくれば当然として
夕雲のくれなひ帯びて来るより水の面に魚とび初めぬ
くれなひに光り差し来て跳ね上る魚に乱るる水となりゆく
水面に映りし茜掻き乱し魚は競ひ跳ね上りゆく
くれなひの光をしたふ魚群れて水の面を乱しつつ跳ぶ
夕光は空より水に赤くして魚跳び初めぬ数を増しつつ

茜さす光りに魚の跳ねておりもてる力の限りの高く
跳ねるべきいのちにありと夕茜亘る水面魚の繁し
夕茜水に亘れり今は唯光りに向ひひたすらに跳べ
葉の濃く花の小さき朝顔が畦に咲きおり野の花として
炎天に競ひ伸びゐる稲見えて水奪ひ合ふ白き根をもつ
荒廃をしたる山峡の田の見ゆる祖先が流せし汗の量(かさ)見ゆ
もぎて来し茄子をくりやに腐らしめ老ひし二人のたつきの続く
行き着きて終らぬ水や悲しみしはるかな人の声をのせたり
その指を反らして見つつこの反りの如何なる性を棲はせてゐる

掌に葡萄の房を載せており一粒一粒円らかにして
朝顔の花の萎びる十一時この炎熱を屋根に働く
口開き寝ゐしならずや乾きゐる舌の覚えにあたり見廻はす
深く反る指は如何なる性棲ふ一人留守居の部屋に坐しおり
ぬば玉の闇はありけり戸を開けて今より吾の踏み出すところ
若き日にいのちを捨てん戦を持ちたることの今をも充たす
弾雨の中いのち捨てんと進みたる若かりし日を今も肯ふ
死するとも惜まぬ命知ることのなき若き等はさかしく動く
栄ゆべき祖国の為に戦ひき若かりし脚すこやかなりき

祖国ありき戦に出でてゆきたりき若き血潮に激ちゐたりき
不機嫌をそのまま出してもの言ひき母故その母今はあらざり
流れいる水の生みゆく風ありて夏のたかむら深く澄みたり
この種子の紫の花秘めゐると今掌の上を転ばす
排気ガスに黒く汚れし並木道歩める人等足早にして
風化せる石に幾すじのみの跡見えて野の花供えられおり
草原に寝たる牛は大ひなる地と一つの如く動かず
頭欠けし野の石仏の苔むしぬ此処に願ひをかけし人あり
戸を開けて今日はてっせんの花ありぬにちにちの我が庭と思へり

幼な手をつなぎ抱へし住吉の宮居の松も枯れて跡なし
朝顔の花にちにちに小さくて秋となる空高く澄みたり
耕転の土返さるる田のめぐり白鷺いつか来りて立ちぬ
耕転の土返されて出る虫か白鷺群れて上を飛び交ふ
明くるとは物の象のあきらかになり来る事と朝に立ちおり
駅口をなだれ出でたる夜の影相似て吾は吾にて歩む
盛り上るコップの酒に笑ひ声挙げて居酒屋人の群れたり
盛り上るコップの酒を一息に呑み干し笑まふ顔となりゆく
二杯目の酒のコップを持ちしより話しを交す人となりゆく

コップ酒立ちて呑みゐる人見えて夜の灯りに濃き影をもつ
手にもてるコップに酒の注がれいて溢るるときに笑まひもちたり
爆竹の音の聞えて立上る休みの午後の肘枕より
かげり来る光りとなりてかますだれ花びら閉ぢてゆくべく立ちぬ
花半ば開きしのみのかますだれ朝より雲の雨をふくみて
昼前の光りとなりてかますだれ開き切りたり一斉にして
音立てて蝶とび来り夜々を宿屋異なる我のありたり
燈し火に音立て蝶のとび来り峡の旅館に今日は泊りぬ
廃屋はくされてかびてゆく臭ひバスを待つ間の雨の醸せり

細き雨直ぐく降りゐる肩の冷え草の枯れたる冬原広し
砂を巻き吹き来る風に肩屈むみちのくは冬の来れる早し
おろしたる篭に りゐし行商婦やがて寝息を立てはじめたり
藁屋根の傾く軒に吊されてとうもろこしは秋の陽返す
実の熟れて葉の散りゆくと柿の枝渡れる風の吾には告げよ
空を飛ぶ鳥一羽のさびしさに旅ゆく吾となりてゐるかな
朝々にふくらみ増せる鶏頭の花の真紅を庭に見ており
昨夜より数へておりし朝顔の花のむらさき先ずは眺むる
ふるとなき雨が濡らして黒竹の艶も庭となりにけるかも

いつよりか降り初めおりし雨細く濡れて明るき庭となりたり
うすべにの秋海どうの花つぼみ掲げて庭の軒蔭澄みぬ
咲き初めしうすくれなひの花明り秋海どうは軒蔭にして
むらさきのうすく匂へる花並びリボスは茎を長く伸ばせり
うつむきて少女の胸に鳴る動悸秋海どうははじらへるごと
単線の止まりながき乗る列車地ひびかせて特急越しぬ
素焼の壺土より出でて千年の時より今の声交す中
水深み水すきとをる湖の底ひぞ神をすまはせたりき
捨てられし缶に雨降り百の波百の修羅をぞ立たせていたり

思ひ出の悔しきものに声出でて何事なるかと妻の問ひたり
ガラス戸につきたる霧の寄り合ひてふくらみ露となりて流るる
重なれるかなしみに似てガラス戸に付きたる露は寄りて流るる
一片の葉とはこの木に何なりし裸の梢に風の鳴りゐる
木枯が吹きて散らせる万の葉の一つ一つぞ夜半に思へり
盛んなる同化作用を営みし葉ぞいさぎよく散り落ちゐるるは
夕風の膚に冷えて夏移り朝顔は種子を充たし来りぬ
障子開けて机に読みゐる本の見ゆ即ち我は帰り来しなり
朝顔のつぼみ開きてゆくふるえあかとき何処か祈られあれば

ねむの葉の合さりゆけばとうき日の母の腕もすでに忘れぬ
蒸気抜く列車の音に目が覚めて深夜の駅の広さがありぬ
草原に寝転び仰ぐ大空の広さに腕を拡げゆきたり
店前に送りし品の並びゐず売り切れたるか荷ほどきせぬか
目の合ひし店主のかかすかに笑みふふむこの度注文多きか知れぬ
他店より新たに入りし品並ぶ如何なる言葉の店主より出ず
眠りゐる鼾聞こゆる夜を覚めて我がすぎこしは争はざりき
墓原に花溢れいる彼岸会の石碑はるけき名を刻みたり
ふと出でし卑屈なる語が地にひく己れの影をじっと見ており

拡大鏡かざして新聞読むことも当然としてにちにちの朝
我の名もやがて刻まれ忘られん蕭条として墓石立ちたり
何の墓も花のさされて刻まれし石碑の名前大方知らず
石階に屈まり曲る影となる即我は登りゆくなり
何を指し空の深さに入りゆける鳥は鋭き声を残して
きはまりて紅き楓もかたはらの枯れたる草も昏れてゆきたり
利を求めめぐれる旅に老しるく疲れて今宵酔ひ深まりぬ
野火赤く映ゆる農夫の手の指の土とたたかふ節立ちゐたり
燃しゐる火に照されて顔深く土とたたかふしわを刻めり

幼な子が手を引きに来し溝澄みて鮒幾匹が泳ぎていたり
朝顔を引かんとせしが明日開くつぼみ見えいて一日のばす
スコップを入れて争ふ千の根が土の中にて交叉なしゐぬ
土の中に争ふ千の根がありぬ穴を掘らんとスコップ入れしに
亡き母が植えし水仙夕闇に顕ちいて白き花を咲かせり
食はぬ方が体によしと思ひつつ置かれし饅頭一つを取りぬ
C型のブロック並べる溝となり淀まぬ水は魚の住はず
背の灼けてパンツのみなる運転手ドア開け大きな声を出したり
急坂に後進なせるトラックの音ひびかせて砂礫摘まるる
積みおへし合図に手を挙げトラックは石伐り砕く山を降りゆく
網をもち足しのばせしこの堀も 場整備に埋められてゆく
茜空映せる水を掻き乱しまいまい虫は舞ひつぎゐたり

無題(12)

のぼりたる体重計の針の先生きるいのちの揺れいて止まず
置かれいるガラスの瓶の半ば程区切りて水は明るさをもつ
右足の指に歪みし靴拭きぬ明日より長期出張に出る
根を伸ばすガラスの瓶のヒヤシンス水のふふめる光りに白し
雑草のはげしき萌しをくり返し妻にこの夏過ぎてゆきたり
ゆるゆると風を孕みてカーテンのふくらみ来る涼しさにおり
陽の亘る庭となり来て鶏頭の真紅の花が庭を統べたり
ふくらめるカーテンの裾より流れ来て風は読みゐる瞳を冷す

釘打ちし鉄の臭ひの洗ひたる手に残りゐて夕餉に並ぶ
ホースよりほとばらしめる打水のとどく限りの口を絞りぬ
ホースの口絞りて水のほとばしる唯それのみに吾が背の直ぐし
卓に置くガラスの瓶の水満ちて涙と同じ密度に光る
涙のごとガラスの瓶の水満ちて昨夜一人の卓にありたり
設計の紙に引かれし直ぐき線山を貫くトンネルにして
朝顔の葉の枯れ来り吹く風の瞳締まれる冷えをもちたり
ひしの実を採りし童は爪をあて歯をあていしが遠くへ投げぬ
残りたるいのちは赤き鶏頭の花の炎に瞳置きたり

彼処より一人とならん岐れ道見えいて変らぬ歩ゆに歩む
手を振りて岐るる道を過ぎしより我の歩みの少しく早し
走り寄る途中に切れし電話器の我に関る何のありたる
いちにちをおへて門辺に見はるかす住み在りなれし山亦草木
客の背の消えゆきしを見定めて我となりたるあくびをなしぬ

出合ふ人何の人も知る人にして村一軒の店にと通ふ
大方は老人にして村の店ながくかかりて物を撰べり
殺意なぞ誘ひもちて三日月は細く鋭く冬空に研ぐ「光りを研ぎぬ」
何買うたん買物袋をのぞき見て出合ひし人は挨拶とする
挨拶をされて出来ゐし歌一首思ひ出し得ずかへりゆくかな
遺伝子の不思議を読み居りわれが持つ遥かなる過去はた亦未来
身がもてる過去と未来の果しなし読み了へてわがおごそかに坐す
果しなき過去と未来を包みもつ我と思ひぬ今と思ひぬ
大寒の氷重なり刺し合へる光りを見つつ家路を辿る
曝ひ切りて白く光りを交しゐる草の堤を再び歩む
濡れてゐるところは青き苔保ち冬の小川の杭の立ちをり
耐へ生きて何のあらんと言ふならねストーブに掌かざしゆきつつ
大きなる声に吐きたき思ひあり記憶は恥の多く残りぬ
虚ろなる言葉の交しに移りゆき残る記憶は恥の多くして
照らしたるライトに振り向き輝きし顔をしばらく保ちてゐたり

灯を消して寝床の中に背を丸め眠りを待てるわれとなりたり
山際に日を溜めてゐるなだり見え曝れたる草の光りを返す
忠霊碑風に冷えゐて弾丸に死ぬ痛みを知るは減りて来りぬ
不思議なるものの一つに裸にて走り居りしが口紅をぬる
おとがひの角の張りきし女にて如何なる由の移りもちたる
一すじの髪の乱れに目を止めし女は亦も櫛を出したり
数多き髪の乱れの写りたる少女は亦も梳き直したり
飴なめて無 の時を満しをり包みもはぎし手の皮たるみて
枯草に火を放ちたり地の中に新たな春を待つもののため
炎あげ枯れたる草は燃へてをり新草育つ灰と化しつし
灰となり新たな草の肥となる命か野焼の炎爆ひつつ
おれの悪口当然言ってゐるだろうおれも他人のあらが見えゐる
みどりごは固く握りて泣きゐたり掌紋如何なる運命をもつ
腹満たし一人の室に戻りしが机の菓子に手を伸ばしたり
八つ橋の歯に立つ音に一人なる時をしばらく充たしめてゐつ

鳥の声何処かへ去りて降る雨の音も閉せし室に届かず
根を伸ばし枝を拡げて松のありひたすら己れの大を励みて
沈丁花咲かせて厠ありたりき竹の蔭より人入りたりき
拡げたる翼のままに飛ぶ鳶を眺めてゐしがとぼとぼ歩む
テレビにて体によしと報ぜると納豆売場に人の集ひぬ
テレビにて体によしと報ぜられ鯖買ふ人の朝より多しと
八つ橋が一枚多く包みあり笑うてはならぬ頬のゆるみぬ
自転車を押して登れる老人の登り切る迄眺めて居りぬ
犬連れて歩みし土にのこりゐる二本の脚の大き足裏
伸びてゆく夕の影の頭のあたり闇に消えゆき我は歩みぬ
草の枯れ水枯れ大きな水管が地の堤に口開けてをり
犬の声止みたる夜中亦鳴きてうつろとなり闇を満たしぬ
針尖かに突きたき乳房のふくらみにゆれつつ女通り過ぎたり
ペンをもち頬杖つきてゐたりしがせんべいかじりて立ち上りたり
生きものの眠りに入らん闇の中背中丸めて我の寝ねをり

開きたる眼に魚の並べられ泳ぎて見ざりし天に向ひぬ
あごの骨動きて噛みし幾億回一人の男生きて来りぬ
葉のみどり縫ひて下れる光る条仰ぎて眺むるものはかしこし
降り止みし溜りの澄みゐて光陰の流るる雲を映してゐたり
水管に流れの絶えて冬久しゴム手袋が泥に乾きぬ
戴くといふ字をおもう与へたる童は掴み走り去りたり
海に迄かへらん水が降る雨の流れて草にかくれゆきたり
出会ひしは尊かりしと過ぎし日の還りて来るこの頃にして
落ちし葉は風に走りて消えゆきぬ知らざるいのち運ぶ夕暮
落ちし葉は風に走りて消えゆきぬ夕は知らざるいのちを運ぶ
こまやかに空に競ひて立つ梢白きもまじり冬の陽の差す
枯れし草映れるかげと照らし合ひ澄みたる冬の池の明るし
秋の水冷えたる風に澄みとほり我は洗はん頭蓋もちたり
羽博きて羽ばたき帰る鴉ありなへて夕日に向ひゆきたり
夜の灯に鎌を研ぎゐる人が見ゆ指当て透かし亦も研ぎたり
赤き顔灯りに照し飲居りし人等次第に声高となる

無題(13)

網囲ふ中にはまちの泳ぎゐて海の青きを背に移しゆく
洋文字に吾児は対ひて過しゐん若葉そよかぜ風吹く時も
読みし本のイメージが寝て過ぎし日のイメージといろいろ重なり合ふも
次々と浮ぶイメージ霊前にありて亡き母わが内にすむ
跳び込みし蛙の音に足を止め山峡の池木蔭の青し
休みなく蟻の動けりこれの世にあること少なき命をもてば
四、五人の男が散りて集まりて池の堤に田植近づく
友を呼ぶ乙女の声もよみがへり大賀の蓮はうす紅に咲く
帰り来し鳥等のくくみ鳴ける声眠りて明日の命養ふ
溝さらえなしたる水の淀みなし早苗を植うる田を満しゆく
泥泡の車輪にまつはり植うる稲我等の命これに養ふ
南国の激しき日差しまざまざとサボテン真紅の花を開きぬ
南国の豊かな日差しを伝へ来て黄の大輪の花弁の厚し
大輪の黄の弁厚くサボテンははつ夏の庭を制して開く
半袖となりたる腕の新しく若葉を揺らし風流れゆく

鮒の振るひれに幼き日のありて足弱まりし歩みを止む
草を擦り素早く泳ぐ鮒のあり追ひ得ぬ足となりて立ちたり
梅の実のかくや大きくなりて落ち花より後は見ることなかりき
その日その日を生きるだけです新記録問はれしイチロー表情変へず
怯だとなる心が怯だを呼べるとき大和武尊は父を恨みき
老人は帽子のひさし少し下げ真白きシャツに歩み出でたり
花着けし重さに土に着きゐるとわが愛情は斯くの如きか
命まだ白鮮かな雪柳急ぎ散りゆき土に積りたり
行く春の木蔭深まり飛びて来し蝶はひっそり翅をたたみぬ
緑蔭が分ちて冷へたる風のあり歩み来りしほてりを直す
折合へる葉裏の白く風はしり面を上げて山路を歩む
朝シャンに出でゆく娘土のつくもんぺの母が一つ家に住む
整然と並び植へらる田の稲の青さ増しゆき根付きたるらし

魚影と沈む朽木を見究むる瞳こらして山池青し
こめ来る霧の中なる我のあり定かならざる姿に立ちぬ
雨蛙敷居の上にちょこなんと坐れり今日もしとしとと雨
実習をなしゐる男の中学生肩いからせてコーヒー運ぶ
その昔てかもの食ひと言ひたりき老ひ来て室に甘き菓子置く
目が覚めて昨日と同じ日差しあり碁を打ち食べて一日過ぎむか
吊縄をはずせし眼窩の大きくてめざしは海の青き色もつ
窓に置くコップの紅し閉されて室内の闇背後につづく
居らざりし鷺群がりて耕転機耕す後をつきてゆきをり
耕転機耕す後を忽に群る鷺となりてつきゆく
何処より来りし鷺が群がりて耕す機械に競ひつきをり
葉脈が赤さ増し来てその先につけし蒼のふくらみ来る
急激に障子の明り増し来り降りゐし雨は止みたるらしき
目が覚めて先ず小便に起き出でぬ老ひては何なす予定をもたず

小さなる争ひ無数の町抱き播磨山脈稜線青し
夕風は冷えを携へ本を読むほてれる我を訪ねて来る
チョコレートの融けて固まり歪みたる包紙はぎをり暑さの続く
べったりと融けて包紙にひっつきし飴はがしをり炎暑のつづく
朝早き山の舗道を歩みをりむかでの轢死なども見るべく
葉の数の少なくなりて黄変す水を求むる必死の声だ
炎熱をむしゃくしゃ食ひてひまわりは首太く黄の大輪を掲ぐ
青竹は炎熱吸ひて青さ増し冷えもつ風を生みて通はす
炎熱をむさぼり養ふ太き首ひまわりの花に我ふと来る
かぶりたる西瓜が満たす甘き露わかち食ふとき祖はるかなり
人が来れば矢張り逃げをり数?たれしか一羽となりて泳ぎゐし鳩92
澄みとふる山の蔭路あじさいの碧に歩みの運ばれてゆく
菓子にとまる蝿に下せし一撃に菓は砕けて蝿見当らず
クーラー無き暮しに祖等耐へたりき消ししクーラー亦もつけたる

あじさいの咲きたる青に澄みとほり寺の参道木蔭に消ゆる
生と死を分つ微光に昏れてゆき瞳は究めん緊りもちたり
吹く風に若木撓ひて戻りつつありしが夕少し曲れり
二本の手ポケットに入れて千の手に道具を握る仏見てをり
鈴虫の今を限りを鳴くを聞けば灼くる暑さも短き夏ぞ
わが生きる姿尋ねん短歌にて文法論ずる歌会に黙す
水草の垢を小突きて波を立つ営む魚はひたすらにして
幼な日の足のよろこびかへりきて老ひの歩みを運びゆくかな
騒ぎたる風に飛びたる鳥ありて揉まるる羽根に山にかくれぬ
腕の時計刻むはわれの時間にて過ぎてゆきしを大方知らず
繁りゐる葉を押しのけて咲く花は真紅の己が領域つくる
光り透くうすき花びらしげりゐる葉を押しのける力に咲きぬ
亦しても泳げる鮒を眺めをり水と魚とのつきぬかかはり
突張れる足に曳く犬立止まり草むらに臭ふものあるらしき

帰りにも魚居し所に寄りて見ぬ命親しく老ひて来るなり
残るものを作り置かむとハガキ来ぬ近づく終りは切々として
潅がいに日々に減りゆく水に住む魚あり人なら耐へ得ぬものを
この脚に生きる外なき我なりと坂の途中に腰を下せり
灯の照らす窓を囲みて闇迫り追はれて我はものを書きをり
腰上げてペダル踏みゐる少年と坂の半ばにすれ違ひたり
炎熱に農薬撒ける男居て露あるときは駄目と答ふる
円型に梢の元に向きたるは陽を受くためと若葉萌しぬ
草の葉の揃ひ空向きよべ降りし露宿らせて朝の明けたり
草青く雲桃色に明けてゆき我に見る目を与へられたり
水のある惑星なると青々と向へる草を分けて行きつつ
美しと眺むる天地億年の生命営む瞳を向くる
分けて来し尾花の原も輝ける遠景としてふりかへりたり
重ねたる月日に耳の遠くなる我はしずかに忘らるるべし
世を離れ己が心の果しなきものを尋ねん生きんと思ふ
寄りゆきし木蔭に冷ゆる風ありて恨む心を払ひて過ぎぬ

赤緑闇を開きし花火消へ夜の深さを帰りゆきをり
池に水湛へて田の稲育ちゆく人が作りしものを見てをり
降る露を迎へし草の天を向き交す光りに朝の明けたり
重なりし山はもやひに消へてゆき峠の上に我の立ちたり
包丁の刃先に指の腹当ててニュース賑はす殺意に触るる
釣りし魚池に戻して遠くより来りし人等帰りゆきたり
飲む水は直に汗に噴き出でて背に張つきしシャツを脱ぎたり
通る度に歩き足らざる犬の声繋がるものと老ひの向き合ふ
音立てて落ちて来れる剪定の我も余剰の枝かも知れぬ
余剰の枝切られて落つる音立つをポケットに手を入れ眺めてをりぬ
葉の落ちて花を掲ぐる草のあり種子を結ばん必死の様ぞ
大判の陵を駆けたる足なりき坂の途中に腰かけ撫でる
貫きて航跡雲の渡れるをわれは制することの無かりき
取出して短歌のノート見てゐしが過去に向きゐる吾に気付きぬ
足投げて呼べど応へず犬寝ねぬ老ひの衰へ我と分ちて

ちょう罰に抑止されゐる人殺し人の尊厳の虚像を言へり
夕闇は庭の草木を沈めゆき眠る外なき目を開きをり
包みくる夕闇の中を帰りをり竟にもつべき一人の歩み
生き来しは何にありしや夕闇の中を一人の歩みもちつつ
明日行かん見舞の額を話しをり死に関れる用のみ増へて
缶ビール一つに減らさる晩酌も押れきて眠らん歩みを運ぶ
出会ひたる友は指折り生きてゐる同窓生を数へて去りぬ
折る指に足りて残れる同級生語りて友と別れゆきたり
立つ翅をふるはせ鳴ける鈴虫の声は星フル天に渡りぬ
りんりんと鳴きゐる虫の声渡り老ひし眼を空に向けたり
半袖となりたる腕に歩みをり艶の失せしを現実として
この口を出でたる言葉は重からん唇厚き写真の掛る
削りゐる鉛筆の芯出でて来ぬ言葉に鋭く光りてをりぬ
幼子は各々自分に遊びをり手に砂掴み放せるのみに
残りゐる同窓生を数へ了へ元気でと友は別れゆきたり

時折りに人行き違ふ商店街うつむきしまま通り過ぎたり
つり上げし魚を戻して帰りゆく程に過ぎたる一日なりけり
柿の実の尻円かに育ちゐて荒れたる風にいくつ落ちたり
しろがねの鱗ひからせ遡る魚は岩間を競ひ合ひたり
紅を刷く熟れに結べる実もありて原は亡びの秋へなさるる
台風の過ぎたる魚はまだ水のそこひに潜みゐるらし
さかのぼる魚は波立て激に入りてきらめく鱗を競ひ合ひたり
複数の花掲ぐるはまれにして百合は乾燥の夏を営む
億年の光がつなぐ星見をり我は眼の来所問ひつつ
宇宙問ふ言葉の来所をたずねをり宇宙の中なる一塵として
見上げゐる宇宙の中なるわが在り処我が目に収まる宇宙を問ひをり
投げ出せる足に寝ねたる老ひ犬は近寄る我に細く目を開く
光りもつ原となりゐて草の立ち歩み来りし径のふりかへる
散り落ちし花の紅滅びゆくもの鮮かに地に置きたり
静かなる老ひにあらんと思へるに残生少なしと内より声は

群れをなし魚泳ぎをり群れてゐる安きを離れわれの見てをり
開きたる窓に枯れたる葉の舞ひて風は滅びの冷えを増したり
一望に青く草木の地を覆ふ日本と思ひ坂下りゆく
知る人の逝きしを歎く歌並び世は密密と繁りてあり
出でてくる言葉はつづまりおのれにて腰掛け並び空を見てをり
遠くより継ぎし歎きか知る人の逝きしを憶ふ歌の並びぬ
平安と平成の死の作品が並べてありて等しいかなしみ
われはまだ若さもつかな照り来り暗む木蔭に瞳はしりぬ
いつよりか憂ひとなりて未来あり艶の失せたる手の指伸す
背中より押されるごとく日々の過ぎ返り見すれば何事もなし
平安の歎き平成の歎きあり韻律違へて逝きしを歌ふ
光る眼眉間に寄せる深きしはテレビに殺人始まらんとす
新聞にテレビに報ずる日々の量取り残される我かも知れぬ
藷を掘る人の傍へをリュック負ふ自然探訪の群過ぎてゆく

一日を藷堀り自然体験の人等はバスにて帰りゆきたり
一日を藷堀り自然体験の人等は農を讃へ帰りぬ
火に飛びてをりたる虫は群りて狂ひて舞へる面となる
流したる涙が洗ひし心らしいきいきとして劇場出ずる
劇場に泣きたる人等はればれとしたる顔もて帰りゆきをり
溜りたるかなしみなどを劇場の涙に流し出でて来りぬ
点もりゐし灯りの下に虫の死の重なり昨夜狂ひ舞ひゐし
舞ひゐしは命賭けたる飛翔にて灯火の下にむくろの散りぬ
舞ふ虫は舞ひゐることが命ならん灯りに舞ひし骸を曝す
流れきし水に登れる魚のあり水の動けば自らにて
物産むは労働ならす研究の設備と操る頭脳にして
記号化し記号が記号を生みゆくを眺めゐるより外に術なし
手の技術追ひたる機械、機械追ふ頭脳の技術眺めゐる間に
人間の頭脳に物のかへりしを我の頭脳は間尺が合はぬ
にちにちに離れて進む生産のはかり難なき世界に対ふ

冠毛の映へゐる鳥が降り立ちてゆるりと歩み運びゆきたり
如何なる波われは立たせてゐるかなと思ひ泳げる魚を見てをり
如何ならん世界を我の作り得るや歎きばかりを言っては居れぬ
求め来し世界の中に今の世を組込みゆかん思索追ひゆく
遠代より伝へし世界の一駒に今の世ありと思ひ定むる
遠代より築きし世界を内に見る我と思ひてペンを置きたり
ほうりしは石にありしか将怒り池の最中に波を立たせり
研げる目に服を手に載せゐたりしが袋を提げて女かへりぬ
赤黒く銹沁み入りし柱並び注文絶へて鍛冶場音無し
罪常に憧れられて婦人誌の表紙に不倫の文字の輝く
憧れを秘めもつなれば婦人誌の表紙に不倫と大きく刷らる
亦一つ山を消したる雨足は荒き音立て襲ひ来りぬ
ほうりしは石にありしか拡がれる波紋の岸をひたひたと打つ

熱風が展げゆきたる海岸の人等は波を抜手に越ゆる
舌を出し犬の死に居りこれの世の末に何を味はひたらん
死んでもよいと言ひたる言葉鮮明に記憶の中に瞳を住はす
多目的ホール建ちをりそれぞれの個性が己れ見つむるところ
目の眩む深さに谷の削られて大きな岩の支へ合ひたり
うがちたる時の永さに谷のあり交せる岩の底ひを知らず
緑濃き谷間光らせ音立てて夏の時雨の過ぎてゆきたり
校庭より流るる歌の日を変り老ひたる我の声を競ふ
集ひ来る車窓に歌友の顔のありほほ自らゆるみゆきたり
自動車のライトが開く夜の闇一すじわが家を目指して返し
全盲にならぬと医師に言はれしが日々におとろふ視力を思ふ
虫が食ひて葉脈ありぬ一葉の成りし精緻のおごそかにして
この下に埋立てられし沼ありがとりて食ひたる魚の親しさ
目を病みて目を病む人の多かりき霞む光によりて生きゆく

無題(14)

克明に見へざる世界は渾然と一つの像に迫りて来る
酸素吸ひ炭酸瓦斯吐き自ら命作れる不思議に生きる
わが命に宇宙が一つを成してゆく不思議さに目を閉じてゆく
読みすぎて網膜失せし過ぎし日を思へり内なる生の命令
盲ひゆくも神の姿と思ひつつ日頃の用に少々困る
脱けし字を補ふ行の曲りゆき消して一首を改め作る
ルノアールは病みて新たな視覚像もしと思惟像作らねばならぬ
ぶっすりと歯を立て朝のいちじくの露けく甘きを口に広ぐる
過ぎし日の熱く生きたる記憶をかへる術なく寝台に居り
ところ天おやつに出でていくつかの食ひたる峠の茶屋呼びくる
ところ天おやつに出でて峠茶屋冷たき夏の水を恋ふかな
共に病むことの不思議や突然に出会ひ大きな?に笑へり
真夜に置く露の如くに結びゐて朝の光を映しゆかんか
黄と黒の翅に頭上を飛び周り大きな蜘蛛の縄張りらしき
老犬は尾の先のみを振りてをり撫でるを止めれば即ち止めて
生きてゐる証とは何ぞ書きてゐる文字に詰りて不意に思へり
ペダル踏み一気に京都へ走りたり憧れたりし若き力は
自爆テロと細胞自死の相似形追ひ求めゆきひと日傾く
盲ひてゆく目に白秋は何見しや盲ひてゆく目に歌集を撰す
移民とふ移住なせしは四千万一億二千万のは今人足りぬ
廊を掃く木影となりて白雲は秋澄む空を走りゆきをり
残りゐし網膜も血が出てゐると医者と茶碗を見闇残れ
どんよりと頭の底の血が暮れて八十半ば何うにもならぬ
後五分思ひ出したように瞼閉ぢごろりと横たわりてゆきたり
自在なる飛翔つばめの傍へ過ぎ我は草踏む歩みを運ぶ
なるようになりゆく世界にと知性の後れ締めつけ来る
わが母はドストエフスキーを愛読すひそかに懐かしき思ひ出に持つ
八十を過ぎたる母はゲーテーを読みておりたり記憶に刻む
反りし木の椀がれたる葉は宙を飛び風何時止むとも見へず

寝台に真夜を座したる八十五唯口中に飴のとくるのみ
君のことばかり聞きをり語りたき世界のことは話に出でず
水草は根を張る水にたゆられ亦寄せられて浮きつ沈みつ
透明の金色の液盛り上りコップに朝のお茶注がれる
かはきたる喉を流るる水の冷へ胃より体へ拡がりてゆく
断崖に御堂の建ちて古の人等は祈り持ちたり
生命に自が出来初めしその時も微かな光りでありしと思ふ
屈せざる我と思ひてゐたりしがおとろふ光に頭垂れをり
去年の葉を落せし梢は空を指し葉を出すべき日差受けをり
人間の指の?きは指の間の細胞自殺なせしが故と
いも虫の細胞一変蝶になるを一瞬働く永き時間
美しく飛びゐる蝶は円型の細胞自ら死して整ふと

残りたる視力は光りかき集め新聞大文字目を通しをり
人生を意識の深さに求めたりひたすら己にかへりゆくべし
たずぬれば果を知らざる大きさに我の意識の広がりてゆく
黄熟の稲穂の照り返りゆき杜の聖明るくゆれる
意識とはホモサピエンスが生れもて得たる経験の全てなるべし
意識はと尋ねてゆきて誰知らずこれの偉大に照らされる
高く低くつばめ飛び交ひ海越へて帰りゆくべき翅調ふらしき
死なさへん一人となりて寝台に坐り直して見廻してをり
体けいの施設浜辺に閉されて今年の水の津も冷へたり

すず虫のなく声せぬは雄食は雌はよへともぐりたるらし
かけられし言葉にぽろぽろ涙せしこの女会ふを忘れ立ちをり
我といふ不思議の生に数へきて知らむと努めし生涯なりき
はけば吸ふおのずからなる呼吸にて我の命を保つと思ふ
黄熟の稲穂?りつたひ秋の空は一日の明るさ増してゆきたり
黄熟の稲穂刈られて葉散りて細くなりたる裸木立ちたり
咳押へ歩める夜の廊にしてゴキブリ素早く横切りてゆく
大きなる山の緑のなす起伏に生るる言葉が歩み運ぶ

陽に透ける若葉の輝りを携へて風はカーテン捲上げて入る
休みなく時計は時を刻みをり人の作りし時計の針の
枯れたりと諦めをりしいくつかの芽を吹き来しは亦も眺むる
黒雲の先端分れて走りゆき青葉散らして雨ふりたりし
なべて皆宇宙の今を作りゐる顔と歌会に並ぶは眺むる
うす桃に時にゆれつつ咲くつつじ木蔭深きは止まりて見る
八十老藤原優と名を書きて床に墨幅掲ぐは眺む
残されまいとり残されまい移りたる書話の棚をめぐりゆきつつ
百年の時に成りたる奇しき枝競ひて京都街路樹ありぬ
縁側に入り来る人に沈黙あらしめて竜安寺石庭のあり
簡潔に組まれし石は常の日のせわしき心断ちて据はりぬ
ながながと探りてをりし女等は顔晴れ晴れと別れゆきたり
隣人の恵み大地のめぐみにて甘き苺を舌につぶしぬ
石組を見る目は己に帰りゆき石庭に人の沈黙ながし

蜘蛛の目の光り巣を振り裏山の入口草木の生ひ茂りたり
入りゆく道も茂りて蜘蛛の目の光れる山となりにけるかも
孫の顔早く見たしと言ひてをり己の老ひて死に近ずくを
伏せし種子芽生へたるかと覗きをり待ちゐて死する時の近ずく
ほめられし言葉に浮び探らるる言葉に沈みぼうふらに似る
地虫鳴く声耳底に棲まへるは愈々他人と離るるならん
ゲノムにて歌作れぬと人間の底なきもに思ひ運びつ
我は我他人と比ぶる卑しさを時にもちゐつ事に気がつく
草蔭にすみれが開く紫の恍惚ありて春盛りゆく
黄に赤に運べるいのち年々の春の野原の妍鮮やかとして
教養人と言はるを否みしニーチェの生き態肯ひ過し来りぬ
つんぼにて人中に出るは嫌なれど退屈よりはと靴を出したり
内部より開く力の輝きてチューリップ朝を並び咲きたり
細菌と同じ祖先を持ちたりとひととなりしは死をもちし故
日々に見る野径の草が育みしわれの眼と老ひて来りぬ
死のゲノム持ちたるのみが繁栄をなせると生き死に問ひ直さるる

新しきウエイトレスの緊張も舌にまろばせコーヒーすする
橋の上に橋のかかりて走りゆく車が黒きガスを降らしぬ
白き足水にゆらめきこの辺り女等喋りて灌ぎゐたりき
少年はひたすら自転車漕ぎゆけりひたすら動くものは見守る
バス降りし人等それぞれおのが行く道に分れて消へてゆきたり
地の中に如何なる時の移りゐて近年庭の蟻の減りたる
これからは自己責任の時代とふ福祉おんぶの脚細りたり
舗装路に鋸目二条切り込まる亦堀り返し工事するらし
掘り返し埋設工事の加へられ舗道は幾つの機能をかくす
少子化増税などと疲労する日本まざまざと時移りゆく
豊かさが運びし肥満と筋肉の弱さに人のひしめき合へる
少子化老齢化に喘ぎつつ敬老なぞを言はねばならぬ
がむしゃらに生きし戦後のはるかにて肥満の体に車走らす
校庭に藷を植へしははるかにて鉢植の花妍を競へり
放たれし犬は躍れる四肢となり背を波打たせ走りゆきたり

緑まだ浅き楠葉の日に透きて道は朝の歩み誘(いざな)ふ
展かるる期待に笑みの自から旅行のバスのくるを待ちをり
粗い壁と眺めてゐしが静かなる波表はすと説かれて恥じぬ
拡大鏡かざしたりしが一点の曇り拭くべくちり紙とりぬ
国債の評価が南アと並べると唇固く暫く閉ざす
すばしこく這ひて居りしが指先に押へつぶしぬ命と言へり
鋼線の堅さに降りゐる白き雨少し濡れむと歩み出でたり
埋め得ぬ空げきの尚しんしんと母の死にたる齢となりぬ
枯るる草茂りゆく草晩春の野辺を弱りし足運びゆく
移れゆく秒進分歩の世の流れ時に顔上げ抜手切りつつ
葉となりて毛虫の糸引き下りをり来年咲く迄忘られてゐよ
補聴器を買へよと言へり年老ひて聞へ難きも利点の多く
口を開け泡を吹きゐし酸欠の魚等もぐりぬごめんごめん
来年の種子を調ふ菜の花の春行く光に閉し初めたり

小さなる波紋ひろがり翻へるつばめは水をくくみたるらし
一羽ゐし枝に一羽の飛び来り大きくゆれて二羽去りゆきぬ
見当らぬ時計探しをり身につけし時計のなければならぬが如く
もう探すところのあらず片づけし跡をつらつら眺めてハテナ
夕風は室にこもりし暑気払ひ栞挟みし本を開きぬ
身に合へる穴掘りけものの眠りもつやすらぎも知る此頃にして
哀歓のいくつしまひてポストあり入れたる人の姿の見へず
常日頃下夫は夢と唄ひつつ阿修羅の如き振舞をもつ
出でてきて見ゆる限りを空眺む視野狭窄を避けんむなしさ
轢かれたる百足の骸いくつ見え山路に木蔭深まりゆきぬ
南天の赤く色付き空を飛ぶ鳥の眼を研ぎてゆきたり
草の垢小突ける魚の波立ちていのち親しき歩み寄せゆく
夕風は冷へを携へて入り来りしをり挟みし本を開きぬ
手帖出し次の土曜は空いてます世俗びっしり詰めし男よ
血圧の薬を怠惰の所以にして午後を碁打ちに出でてゆきをり

一通のハガキをポストに入れてより明日は得たる我の日となる
一本の舗装道路の貫きて人の統べたる原野となりぬ
労務費が一割未満の中国とたたふ眼ぞ顕微鏡見つむ
ハンマーと汗に生きしははるかにて物は顕微鏡の先に作らる
舗装路に二すじ鋸目入れられて如何なる変ぼう初まらんとす
伸びてゆく朝顔の蔓咲かすべき紅を育む光りそそぎつ
線無数交叉なしゐる青写真拡げて堤に男立ちをり
後悔の山程あれどわが力あらん限りを生きしとおもふ
曲りつつ生きる限りの実を結び胡瓜大方葉の枯れゆきぬ
松下は何を作るかではなくて何を創るを考へゆくと
暮れて来て長く伸びたるわが影の頭より闇に呑まれてゆきぬ
解ろうと勤め来りぬ結局は解らぬと言ふことが解りぬ

売りし株が値上りせるを読みてをり心静かな笑にありしか
こんこんと湧き出る水の究まりなし柄杓をとりて喉を潤す
半日を闇に還りし静けさにさやかな朝の空気吸ひをり
祈祷とふ笑ひを殺す顔をもち立てる男を我は笑ひぬ
一生を尋ねて遂に解らざりき解らぬものの力に生きる
相ぼうを極まる一に表さん歌ぞ仏頭刻まれてゆく
アフガンの貧を講演せし男五十万円取りて帰れり
のろのろと亀の這ひをり人間の一日と代へ得ぬ万年の生
来世を透みし眺むる眼鏡などついに持たざり目薬を差す
人生の終りに近づき迷あり迷ひも人の豊かさとする
かげり来て栞挟みをり夜を徹し読み了へたるは遥となりぬ
年を経し思考の弛み皮膚の弛み曝きて夏の鏡立ちたり
末期がんの便り来りて千万の人が嘆きし嘆きを記す
はりはりと噛む歯に鳴れる青胡瓜もろみを塗りて朝を養ふ
瞼なき魚は如何なる眠りもつ入りゆく深き静かなる闇

世の中に永遠とふがありとせばわが身体の外にはあらず
細胞の六十兆を調へし時を思へば眼の眩む
机の前に眼を閉ぢて己が身の荘厳を見る果しのあらず
来りたる所を知らず去る所を知らず机の前に坐しをり
問ひ問ひて究め得ざりし人間とふこの不可思議に唯に坐しをり
学び来て得たるもののみこの我といふ古住今来唯々問はむ
細胞の六十兆をあらしめし四十億年われの齢ぞ
目は絵画耳は音楽芸術の永遠とふは身体にこそ
茜差す光と映へ合ふ赤とんぼ数減りたるは農薬の故
愛されて花の咲きたり黒き影ひきたる我の暫し立ちたり
憎まれて伸びゐる草も天と地の摂理に生きる抜きて捨てたり
映りたる空にも鴉飛びてをり堤が囲む水の小さく
今暫しせねば書き得ぬことのありわが過ぎ○しの拙なくありし
足が土踏みゐることの充足に峠の上に出でて来りぬ
朝の廊に蝉仰向に死にてゐて祈り求めし心を探る

太陽の光りが成れる葉の緑大きな空を仰ぎゆきたり
蓋をせし碗にも入りし虫の居て暑さは日々の盛り増し来ぬ
鋸形の鱗をもつは蝮にて暫く息をひそめ眺むる
朝々の轢かれしむくろ異形なるものを棲はせ山蔭ふかし
朝早き山路に鴉歩めるは轢かれて死にしむくろ啄む
撲り返せば殺すが故に耐へゐると空手五段の男の嘆く
小さなる蛙が跳びて引きをりし犬は俄に英雄となる
手を伸べて届く青にはあらねどもとんねる出でし峯に差し出す
木とのみを前に佛を問ひてをり木にものみにも我にもあらず
加へたるのみ一打に佛顔の現れ次の一打を導く
みひらきて尋ねゆく空杉ほこを越へて一羽の消へてゆきたり
ホッケーに国際的興奮の中に入り終りて如何なる国際人ぞ
ひたすらに残る疑問に残りたる命つくさん擬げあるな
我は唯己が命を問はむのみ人に教ふるものにはあらず
愚かにて八十余才の求と得ぬ疑問をもてば問はせ給へ

一夜寝し闇が養ひし眼にて朝のみどりのあきらけくこそ
千の弟子万のファンをもつ幾多郎知りくる者なしと記す
大きなる鳥の目の絵をぶら下げて鳥を追へよと持ち来下さる
挙げてゐる声が感情たかぶらせたかぶる声となりてゆきたり
自らを制御なし得ぬ声響く聞くものを制す愚かなる声
蛇百足朝の山路に轢かれゐてこの辺多く夜を生くらし
歩みつつ幾首か歌の浮び来て詩想の脈の涸れ居らぬらし
?願と威嚇の混る声響く力量足らぬ言葉もつ故
不孝なりし故に八十の半ばにてお母さんと時折叫ぶ
次々と信長書かれ切り張りの像輝きて歴史はありぬ
中世史新たに出され中世の人の中世史埃積みたり
マルクスは地下にふん装変へてをり出番の来る予感もちつつ
歌作るは驚け何でもないことに庭に草が生へ来しことに
記号にて動く世となり富を生む力は頭脳のみとなりゆく

むかし昔稼ぐ追付く貧乏なしの言葉がありきいつしか聞かず
人見へぬ工場に袋に詰められて箱に詰められ倉庫に送らる
青光る苔を育てて水落つる所の岩は夏を潜まる
亦はめの轢かれてをりぬ暑き陽は毒もつものを育てたるらし
万の露光りを交し逢日の日照りに耐へしか皮ふの救はる
修羅のなき山と思ひて休めるに小さなる蚊の来りてたたく
挙げてゐる声の次第にたかぶりて汝も迷に生きゐる一人
しずかなる山と思ひて休めるに血を吸ふ小さき蚊をたたきをり
蟻が来て蝶の来りて犬の餌落ちし所の夏の賑はし
昨夜(よべ)の雨涼風生みてごみ壕に運ぶ歩みをさやかならしむ
立つフォーム風を流して汗乾き山に暫しのいこひと終る
情念の泉涸れしか鉛筆を握りしままに言葉とならず
つながれし鎖引っ張り立ち上り前肢およがせ寄らんとなしぬ
枯れし草が先ず目に入り萌へ出ずる春の堤を歩みゆくかな

のみ先に大悲の相彫り出すと井上昇佛頭を刻む
木の中に在す佛頭彫り出すと井上昇暑く語れり
降臨の気分暫く味はひて犬引く山坂下りてゆきぬ
朝起きて一日を如何に過さんか炎暑に萎へし頭と手をもつ
源は此処にあらんか水澄みて山褪に浴ひ絶ゆることなし
涼しき風吹きゐる今日も目の重し長き炎暑の借をもつらし
暮れてゆく舗道に二すじ蒼深み車輪の音の暫し絶へたり

無題(15)

年々に人の寿命の伸びてゆき溝に跳びゐる蛙減りたり
花の上に花咲き花の盛りをり朝の光りはさんさんと降る
警戒の耳を立てれば悪事犯そこここにゐる音の夜に立つ
サイレンの音消へゆきししばらくを死の影淀む夜の闇あり
流れしはわれの言葉が水管の空涸として冬の野にあり
歳月は肉を削りて脚細く裏山の坂立止まるかな
突然に大きな声の聞へ来て水引草のくさむらにあり
青空を高く舞ひゆくとびのあり老ひたる今日も心養ふ
寿の穂の伸びて来りて空耳に雲雀は声を雲に昇りたり
一日を寝て思へばまがまがしあると言ふこと食ふのいふこと
たんぽぽの黄の花かすかに首を振り春の光りはなざれて来る
昨日もぎし畑より茄子を今日ももぐ天の手呂は解く街のなし
水に映る白鷺貴くあらしむと神は堤の草を植しぬ
柿の葉に移れる茜の限りなく肩にふれしを掌に持つ
水口に水注がれて土黒く命養ふ変貌遂ぐる
仮借なく殺す己れの声砕き爆撃は日々に激しさを増す
研がざりし錆の浮びて包丁の厨の棚にかけられてあり
生れきて死んでゆくのを謎として脚の細まりしはもち来る

少年はうつむき石を拾ひたり殺めん礫となさんがために
しめ切りし筈の廊下に雨蛙跳びて夏への心構へる
脳検査なしたる医師は盲目となる運命を惜しみられたり 
書きし人刷りたる人等びっしりと並びし本を読めぬか知れぬ
盲目となりて如何なる明日の来る今日の思ひは今日にて足れり
枯れし木に肥料与ふる如くにて目の栄養剤を買ひて来りぬ
雨に濡れ柿の若葉の明るくて呼びたき人の影を見廻す
全盲になるかも知れぬと風前の灯火のごとし医者の診立ては
全盲になるかも知れぬと医者のいふ対応咄嗟に浮び来らず
見る力使い果して眼底の毛細管より血の沁み出でゐると
鑑真や秋成白秋などの名が一瞬胸に去来なしつく
右の目の毛細管の出血が赤く画面に写し出されぬ
詠むことを禁じられたる目を持てば切々文字に命生きたり
何処にも文字の氾濫読むことを禁じられたる眼持ちたり

素晴しき頭脳をもつとCTの検査データ告げて言ひしと
少年等つぎつぎ駆けて過ぎゆけり明日へと伸びる淀みなき足
登りゐし車眼下に千尋の万緑の谷を展げてゆきたり
一望に収むる万緑山頂に立ちて吸ひてははき出したり
幾曲り登れる道の途中にも家や田のあり人の生き継ぐ
後にてと思ひしことは皆忘れ呼びゐる声に立ち上りたり
目の力使ひつくしておとろへし網膜より血の滲み出ずると
全盲の可能性あり風前の灯火のごとと医師の見立てぬ
ことごとく空気をはきて深く吸ふ風は深まる緑運べり
這ふ蟻の姿の見へず地上より生命消へゆく我が庭となる
谷川のせせらぐ音に歩み寄せ今日の透明眺め来りぬ
透明のガラスの窓に立ちてをり過ぎゆくものはふり返り見ず
窓開けて緑を早苗田競ひをり病める眼よ暫くいこへ

目界の暗くなり来て幽玄の世界に遊ぶ日々と思ひぬ
朝納豆に入れる朝のきざみ葱鼻つき上げて土の新し
厳粛な顔して誰も噛みてをり思へば食ふは神聖にして
眠るごと死ぬると医師の言ひたるをときに思ひ出生きてゐるなり
呼びてゆく風は早苗を渡り吹く空の熱気をさらひゆきたり
小波を立てゐし夕の風止みて山明らかに水に映りぬ
生れしより定まりゐたる今日の老ひ澄む緑陰に歩み運びつ
病める目にめぐりの暗さ増してゆき降りゐる雨の音立ち初むる
白鷺は羽根ゆるやかに飛び立ちて降りゐる原に人影を見ず
大きなる山が養ふ大きなるいのち見開く眼に立ちぬ
個性追ふ短歌呼ばれ幾年か孫子夫婦の傾斜強まる
窓開ける度に田の水波の立ちおたまじゃくしはかへりたるらし
汗拭ふ涼しさ風の入り来り椅子に体を?らせゆきぬ
ほうりやりしパンを目に追ひをりし犬跳び上り口に咥へ捕りをり
雲白く雨降り止みて幾羽かの鳶飛交はす空となりたり

きっちりと覚へてゐるは食事にて大方忘れこの頃生きる
小ねずみが動いたと思ふ錯覚に病みの深まる吾の目のあり
昼凪に夏の暑さのどっと寄せ再発したる去年の記憶をただす
逞しき腕となりゐて井戸掘の工事の指揮をとりてをりたり
世を生むは鎌やつるはしの先ならず顕微鏡の映す中にて
新たなる技術に鎌やソロバンの生産遂はれ絶へてゆきたり
中国や新たな技術に生産を遂はれてほそぼそ年金に生きし
新たなる技術の生るる速くして職追はるを傍観するのみ
株投資のみが直接生産に関りて他は徒に眺めゐるのみ
株式と生産のつながり知らざれば日本の生産資金の足らず
その昔貯蓄は国のためなりき株式投資と今は移りて
幼な児は足踏み出せり世の中に出でねばならぬ第一歩にて
設備より研究費用上廻り日本先導の形を整ふ
いやなもの問ひつめゆきて我に帰り椅子に頭を?らせゆきぬ
退屈と思ひて壁を見廻して己の怠惰に突き当りたり

下手ながら懸命の気魄伝へくるみかしほこれでいいのだと閉す
窓前を過ぎてゆく声秋に入り食欲戻りし声の聞こゆる
網膜を緑に染めて山行けば緑波立ち人の出でくる
露を集め飲水つくる如くにて失ふ明りに文字を集める
定やかに見へねど爪を的確に切りをり永き体験として
くり返し読みてをりしが読み終へて亦読みを考へると定むる
もう一行と腰を浮かして読みてをり先の短きどんらんとして
朝窓に早も巣を張る蜘蛛の居て黒と金との体光らす
太陽と土の力に育ちたる葱青々と刻みゆきをり
刻々と亡びへ時の移りつつ待たれて明日といふ日のあらぬ
さぐる目に犬はしばらく見てゐしが何もくれぬと離れて行きぬ
年々が初体験にて生きるべき八十四の調和を知らず
舌先につぶす皮より夏の陽のなれるジュースの流れ中に拡がる
甘きジュースつくるブドウを作りたる人の技術に思ひを致す
取り出せし麺棒の軸歪み見ゆ目を病むこの淋しさとして

綿棒の軸歪めるはわが目病む世の歪めるも斯くの如きか
メガホンを当てゐる群れ熱狂に飢へたる怒号空駆け廻る
足の靴腕の時計も見直して用足す外へ出でてゆきたり
暮れてゆく空に群れゐて高く飛ぶ鳥あり北へ帰りゆくらし
侯鳥は帰りゆくらし残暑まだきびしき空に高く群れ飛ぶ
過ぎし日は捨てねばならぬ新聞のひと月余りの量を抱へぬ
ひと月の世界の興亡伝へたる新聞の量たかきを捨てる
秋成は金無き故に無理に書き雨月物語世に現はれぬ
いる時があるかも知れぬと取り置きしものを捨つべくまとめてをりぬ
自分より高い処にゐる者を引き摺り降し並ぼうとする
自分より高いところにゐる者に登ってゆきて並ぼうとする
時永く築きし声の呼びゐるを聞き得し者のしあはせにして
すきとほるコップの水は仰向ける命を作る喉に入りぬ
刻々とあかねの色の移りゆきひと日全く夕暮れゆく
全盲かも知れぬと言はれて蒼月光り入りくる眼を開く
有に非ず無にあらずとど絶対の死を超へたるを真人といふ

わが肉となりゐて過ぎし日々のあり追憶は全て甘美なるもの
ぼくのやと幼児泣きをりぼくのやの言葉何時より生れて来る
もの全てぼくのものらしかき寄せて入り来しものに幼な対へり
輝ける蜘蛛を浮べて青ふかし大きな空はそこひのあらず
稲の熟れいつしか風の冷へをもち本を読まむと窓開け放つ
甘さ増し熟れたるいちじく戴きて潜める舌の躍りありたり
網膜が衰へきりをり眼鏡など掛けても無駄と医師のいいたり
水草の茎につきたる垢小突く魚に小波渡りゆきをり
背広着て頭しずかに下げてゐる最早隣の童にあらず
背広着て襟首清く立つ男最早隣の童にあらず
背広着て見へし隣の男見つつ人は今より今に生きゆく
背広着て挨拶に来し青年の今日より新たな瞳を開く
幾度か断層持ちし生涯を最後の老ひに締め括るべし
徒に通り過ぎたる断層と机の前に瞼を閉す
何となく大きくなりて何となく結婚をして死へと向ひし
目より入る文字が視覚の細胞となるべし幾多郎全集を読む

生死する命過ぎゆく生命は己れ否むを生みて死にゆく
死の口を開く時行く生命の四十億年の演出として
人生を意識の深さに求めたり捨てて現はれ来れるところ
増へてゐる数字見をいこれのみに営もてる如き淋しさ
至り得る限りを究め死にゆかん我の命の望めるところ
おとろふる視力を愚痴る我のあり東条川にまとめ捨てたり
買物に行きゐる足の確かさに人を追ひ越す歩みもちたり
無理すなと子に叱られて早々に寝床に入り舌を出したり
貴方等は世界の中に生きてゐる私は世界が中にある
古への王侯超へし径の有など膳に並べて箸をとりをり
動きゐる時計の針も我を追ひ来らん人への返事を考ふ
何がなし暮れてゆく陽に歩み出で過ぎてゆきたる今日を眺むる
無精髭生やしてをりし田中才三あごを撫でる時に思へり
記念写真撮りしズボンの襞の蔭が脚細くなりしものかな
斉唱は一つの声となりてゆき杉立つ谷を越へてゆきたり
昨日より聞きゐし言葉白鷺の羽根に乗りゐて超へてゆきたり

地を潜り水清らかに湧くものを再びの言葉我にあるべし
飛ぶ鳥は自在に空を飛び交ひぬ言葉を探す見上げゐる上
タクト振る弧線は自在に空流れ斉唱は一つの声となりゆく
飛ぶ鳥が運ぶ言葉の自在など晴れたる空を見上げをりつつ
母鳥きて空晴れわたり日本の養ふ来りし言葉を探す
並びゆく黒人の目と見へてゐる違いを思ふ歴史を思ふ
遊ぼうかと幼は門より呼びてをり集合は人のおのずからにて
葉をもるる森の光りの寂けさが生みし瞑想なども思ひつ
我が宇宙宇宙が我と確めて世を去ることができると思ふ
這ふがごと出で来し顔にまだ失せぬ神気ありて暫く話す
それぞれに待つ運命を思ひやる子等は漫画を笑ひ読みをり
湖の渚に鴨の眠りゐて吹雪の怖れなしと報ずる
ふり向けば今来し方に草紅葉夕の光りに透きて照りたり

貫きて口より尻への管のありそこのみ生きる我と思ひぬ
何のその百万石も葉露乞食も憐れむ一茶詩ひし
白鳥が運び来りし空の晴れ窓を開きて本を開きぬ
一刀に三拝したる抜心生きゐてハイテク群を抜けると
一刀に三拝したる日本の心が一丁抜きんじゆくらし
それぞれの己に生きし高底に波打ち人の動きゆきをり
誰も皆宇宙の今を生きてをり比較するより不幸は生る
白鷺が運び来りて窓際に今日晴れたる光を満たす
ほほえみを運びて幼なが道曲る角より歩み早めて来る
その昔辻斬りありき誰にてもよかりし人を殺したる祖
呟きし今宵の?徹は血に飢へてゐる近勇覆面被る
早々に訪ひてくれしはギックリ腰寝床を這ひてお迎へ申す
衰へし体力まざまざひきつれるこの痛みに屈みて耐へる
この痛み一切空と言へるにあらず神の怒りに近しと思ふ
自ずから体そりくる痛みにて絶対αの有として我に迫りぬ
恐れつつ体漸くにじらせる漸く癒への兆し初めたり
絶対有絶対無のここに戦ふが癒へて来りて何事もなし
絶対空は絶対有より現はるが宇宙は充実し活動なすなり

無題(2)

山青く空気うましと掲げゐてこの村多く老ひと行き合ふ
愛郷のポスター掲ぐ駅前の店閉されて扉錆びたり
こころざし遂ぐを得ざれば昏れてゆく光りあつめて湖白し
空とつち別るるところに葬らる我なれ若き瞳とどきし
プラットに春光わたり脚白き女は脚を見せて過ぎたり
採石の山見え急坂登り行くトラックは山の蔭に消えたり
急坂を上るトラック岩蔭に消えてゆきしが出でて来りぬ
戦跡と書かれし標柱文字うすれ叫喚ここにありたりしかな
うまきもの食ふが生きゐる口銭と言へり唇あぶらに濡らし

これからが生きどくなりと友の言ふ唯飲食にすきてゆかんを
つねにつねに光りは影を伴へり土堤より橋の裏側が見ゆ
食堂に並びて食へる何の顔も唯一様のひたすらにして
留守居する妻に電話をかけおへて眠りゆくべく灯りを消しめぬ
灰色の空に影なき電柱のありて一人の朝餉に向かふ
炎がよぶ炎のたけり激しくる情に似ると思ふさびしさ
枯原に畝作られて人植えし甘藍の葉のみどりがありぬ
アパートの窓に吊るされ灰色のシャツは男一人が住まふ
このところ村を見下す松ありき朽ちたる後の何も残らず

団員が二人になりしと山峡のこの村今日より青年団のなし
愛の字をふれあひであひなぞに附す易き心も我は読みいつ
席を求め車内をゆききする人等我はかかはりあらぬ目をもつ
生活の手助けなどと高利貸の看板立つを都会といはん
ガラス一つ距てて雪に肩すくめ着ぶくる他者の歩みすぎゆく
憎しみて死にゆきたりと憎しめる力をもちていたるしあはせ
作られし菊の華麗に目の疲れ素直な畦の花と思ひぬ
口開けて眠りおりしか目が覚めて腔内いたく乾きておりぬ
目が覚めて口角濡るるに手の触れぬ涎たらして我は寝ねいし

汲取りの蛇腹のホース蠕動なしこの家の人生きのたくまし
工夫等は出でてゆくらし階段に乱るる音のしばらく続く
潮ひきし岩にとび来し数十羽千鳥は穴をつつきはじめぬ
魚を売る女等喋りつ乗り来り一人の旅は瞼を閉す
一掴み出してくれたるペーペーを分けおり戦時経て来し我は
山なみのなざれて ひく中腹に村あり後に墓を並べる
貨車が過ぎ特急過ぎてわが乗れる列車はドアを閉しゆきたり
板距て底ひ知らざる海の水白き漁船は出でてゆきたり
日の当る石に坐りて母親は背の子を抱き替え乳房出したり

差し交す枝に小暗き峪となり岩間を水の激ちて白し
この山に執念く生きて枝継ぎし木地師と言へる人等もなしと
冬眠の虫は今日より出でくるといにしえ人は暦にしるす
室の掃除これからするとふ妻の声庭吹く風へ出でてゆきたり
月宮に姫住まはしめいにしえの人等は天を仰ぎ見たりき
自転車の幾台並び酒店に立呑む人等灯りに赤し
酔へる顔灯りの照し一日の仕事を了へし人等立呑む
仕事了へ帰りに寄れる酒店にコップの酒を一息に呑む
二杯程コップの酒を立呑みて充ちたる顔に出でて来たりぬ
いちにちを働き寄れる酒店のコップの酒に眠らむ人等は
夏の夜の明けて死にゐる虫無数虫は虫にていのち継ぎきし

無題(3)

平らかな池の面に撃ちたるは鴨か堤に薬莢散りぬ
解体の柱に煤の黒くしていぶける中に祖母炊ぎたり
白鷺は日に輝きて飛びゆけり水に映りて渡りゆきたり
梢ややけぶるはふくらむ芽にあらん歩みゐる背の日に温かし
小波のおさまり了へし水となり細き梢を木陰もちたり
小波の凪ぎたる水を白鷺の陽に輝きて渡りゆきたり
魚の骨昨日見つけし場所目差し放ちし犬は走りゆきたり

道もせに茂るクロバー人の踏む一すじ低く山に消えたり
ただよひて来る香りに見廻して白く先たるくちなしありぬ
漂ひて来るかほりにおのずから吸ふ息深く沈丁花咲ありぬ
にちにちに青さ増しゆく畦道の今日はげんげの花が開きぬ
灰色に朝より雲の低くこめたんぽぽは今日の花弁を閉じぬ
餌は妻運動は我の犬の世話二人で寄れば妻にとびつく
枯れし草萌しゐる草たたずめるまみ締まらせて吹ける風あり
スピードをあげし車の走り過ぎげんげの花はそよぎていたり
にちにちに堤の草の青さ増し連れ来し犬は風と走りぬ

吹き来る風に目を上げ山と空分かるるところのすみとうりたり
限りなく残るものなどあらざれば無縁仏は親しく立ちぬ
いのち終る唯それのみの清しさに無縁仏は墓隅に立つ
地の色なべて消えゆく夕まぐれのみどに熱き酒を欲せり
おとなしき男が酔ひて呼べるも我の裡なるさびしさにして
白く塗るガードレールの輝けば裡に唄へる死者のあるべし
枯るるべく伸びゆく草と思ほへば暫らく風に共に揉まるる
暴動の南アのニュース見来し目を池の面の平らに置きぬ
平らかな水に突き出る葦の葉の日日に領域増して来りぬ

冬原の草の枯れいて露はなる土にもいつしか押されししずけさ
万の花透かして点る電燈の百の明りに桜花咲く
枯れし草白く伏しいて量低く池の堤は移りてゆきぬ

無題(4)

杉の秀の光りし緑映しゐて山に囲まる池しずまりぬ
平らかな池の面に輪を描く虫のうごきて山しずまりぬ
あるだけの声挙げ幼の走り寄り帰れる母の脚を抱きたり
目の は大きく暗し鮓にする鯖くり抜かれ並べられをり
回る砥に当てし鉄より火花散りものを切る刃の形なりゆく
しろがねの露を置きたる万の葉の原は一つに光りを交す
救はれん魂ここに眠れると地蔵の掛けたる布のあたらし
日本の危機など記せし新聞をまとめ括りて納屋隅に置く
飯を盛る碗の形の簡潔をいつくしみゐて老ひ来るなり
美しく塗られし故に剥落の壁もつ堂を廻りゆくかな
剥落の姿の故の慈悲の顔まさり来れる仏に向ふ
もの掴む形に波の立ち止り砕けて泡に消えてゆきたり

鈴虫の鳴きゐる声の渡るとき怠惰に過ぎしにちにちのあり
岩の間に一つ生えたるりんどうの守れる青に咲きてゆきたり
金色に全身装ひ逝く秋の光りを浴びて公孫樹立ちたり
台風がゆさぶり菜の葉の萎へゐしが一夜過ぎたる張りを持たり
幼子は危く階段登りをり迷はず出せる小さなる腕
街に住む孫に送れと柿の実の熟れしを交互に持ち来下さる
竹の幹直ぐく並べる影黒く透かして夕の茜かがやく
すさびたる昨夜の風のまざまざと倒れし稲は縦横にして
賞められし言葉に我の声の浮き厭へる我となりてゆくかな

台風を防ぐと打ちし板外す音そこここに晴れ上りたり
同じ時間指せる時計はさまざまの装ひもちて並べられをり
殺すべく双のてのひら上げてをり這ひゐる黒き蝿の背の上
村人は眠りゆくらし亦一つ灯りの消へて黒き家並
月の差す白さに家並の瓦照りもの皆眠りに入りたるらしき
刈られたる後の稲田の草細く蔭に育ちしものは眺むる
昼食を告げたる孫は扉押へ出でくる我を待ちてをりたり
食ふために分けてゐる声捕へ来し魚は篭に黒き目をもつ
水を押し鴨ゆるゆると泳ぎをり猟解禁の始まるは明日

霜置けば枯るるひこばえ命ある限りの青葉伸ばしゆきをり
輪を作る少女等空へ響きゆく声の陶酔深みゆきをり
肺洗ふ空気しばらく吸ひ蓄めて本を読むべく窓を閉しぬ
鎖よりのがれんとして引っ張りし犬は素直な肢に戻りぬ
うすれゆく霧の中より紅き葉の先ず現はれて秋ふかまりぬ
おのがごとのみを語れるかたはらに疎み増しつつ肯きてをり
灯したる我が家のたたみにあぐらかき茶碗と湯呑手に取ゆきぬ
向けてゐる母の瞳に手を挙げて幼な童は歩みゆきたり
おとがひの肉の力の衰へて垂るるが映り店の明るし

苔さびし墓に向ひて君問ひぬ耐へ生くとは如何なる事ぞ
足音のわれに還りて冬原はいとなみおへししずけさにあり
めぐりゆく時計の針に廃屋とならんが為に建ちし家見ゆ
石垣の間に根差し育ち来て一輪の小さき花を掲げぬ
両手上げ泥より足抜き倒れたる稲を起して刈取りてをり
ひとかたと言へるは暗くにんぎょうと言へば明るき歴史もちたり
曇り来て光り沈める水の青そこより原の黙ふかし
誰が為といふにはあらず熟睡する裸女豊満の白きししむら
次々と霧の中行く人の影朝の歩みは淀みのあらず

集めても飛ばん術なくむしられし鳥の羽毛が散ばりてをり
支柱より伸びたる蔓は蔓と蔓巻き合ひ天に向ひてゆるる
はいりたる蟹は出られぬ構造の箱を沈めて人去りゆきぬ
ぐさと刃を刺し入れ柿のへた取りて女は皿に出してくれたり
誰も見ぬ故闇のやさしかり涙の頬を伝ひ来りて
開きたる朝顔青く日に澄むを領ちて朝の門を出でたり
おごそかに昇る朝日に背の直ぐき我となりゆき迎へてをりぬ
今日生きるならはしとして目覚めたる朝の口をすすぎゆくかな
すすぎたる朝の口に味噌の香の今日新しく啜りゆくかな

密々と木を組み交し建つ塔の匠の深き翳を仰ぎつ
夕闇に沈みてゆける目の冴へて光りあつめる水の白あり
耕して死にたる親に似て来り隣のをきなしわの増しゆく
掴むべきものあらざれば双の手をポケットに入て歩みゐるかな
ずり下るズボン露はに映りゐて旅する駅に鏡立ちたり
実の成るが神秘にあればくずるるも神秘にあらん熟柿落ちたり
柿の実のなべてもがれて黄に映ゆる光り失せたる畑となりたり
木の上に鳥の止まれり目の届く限りを見渡す頭を上げて
腰低く脚やや開き一輪車押せるは重きものを積むらし

落つる葉に肩を打たしめ秋の逝く林の中の我となりゆく
しべもたげ花びら垂るる野の草の滅びの中を歩みゆくかな
スタンドを埋めし人等こうふんに飢えたる声の応援送る
大空に球はしりゆき熱狂に渇ける声のドームゆるがす
せめぎ合ふ雨紋となりて飛沫立ち池の平らに雨の募りぬ
にらみ合ふ女の開く大きな目われはテレビを消して寝たり
木の蔭のなす幽晴に入りゆきて人に疲れし我のありたり
開きたる窓に入りくる風のあり動けるものはさはやかにして
重ね合ふ葉蔭を通ふ風冷へて長き山坂登り来りし

亦前のページに戻り読みてをり解きがてなるをよろこびとして
水落つるところに集ひ小魚は生きゐるものの動きを競ふ
見のかぎり稲葉のみどりゆれてをり遠きおやより耕しきたる
退院して日が浅いから暑いから読まざる口実次次ともつ
にじむ血に縮みて肉の焼けてゆき食ふべくたれの中につけたり
ごきぶりをたたき殺して口の端の歪める我となりて立ちをり
笑ひ声挙げたるときに思ひ出す名前となりて話はずみぬ
脱がされて自由となりし手や足に親の手を抜け幼はしりぬ
大きなるごきぶり茶色の背の光り人居ぬ卓を領じてをりぬ

耳動く猫との音の違ひなぞ思ひ追ひゆき日向にながし
山陰に舞ひ交ふ鳶の高くなり気流はそこに昇りゐるらし
熱き血の循りし記憶戦ひは愚かなりきと人の言ふとも
沸る血が全てでありし青春のわれは戦に出でてゆきたり
ボール蹴り転びし後を追ふ童一人遊びて休むことなし
柿の種切られて白き胚が見ゆ育ちて胚を作らん胚は
勾玉と胎児の形似てゐると遺跡展示をめぐりゆきつつ
休みなき活動として蟻の這ひ暮れてゆく日と姿消したり
地を灼く日差しの庭にふりそそぎ蟻はひたすら動きてゐたり

いにしえは賊の棲家の峠にて車窓に紅葉眺め過ぎたり
水かめの水を覗きて我を見る我の眼と向ひ合ひてをり
水草の朽ちて沈める底黒く冬池の水澄みとほりたり
目の合ひし雀飛び立ち残されて枯れたる原の広きがありぬ
行届く世話に育ちし大根の白つややかに洗はれ並ぶ
テレビには若き女が騒ぎをり亡き母に斯る日のありたりや
掻き上げて僅に残る髪の毛の多く見ゆるを写し出でゆく
引き捨てしカンナの株の根付きゐて命もちゐる領域拡ぐ
手袋が水の流れに沈みゐてものを摑まんゆらめきをもつ

生え継ぎて永き時間を展ぐると切られし胚は白く小さし
新たなる命を生まん白き胚胚に潜める胚限りなし
生まれたる時より見たる前山を退院したる瞳に眺む
もがれざるままに柿熟れ先祖らの植えし心もありてきたりぬ
鑑真の歌作らんと書いて消し大きな心至り難しも
風に乗る羽を拡げしおのずから鳶は大きな空に遊べり
己が弾く音に振りゆく首となりオーケストラはテンポを早む
水冷えて魚等しずめる冬の池澄みたる青の深さに湛ふ
湯気の立つ煮へし大根やはらかく息を吹きつつ舌に載せゆく

吹く風にはしれる紙を追ひかけて躍れる肢を犬の愛せり
大根の熱く煮へしを食べをりし人等次第に饒舌となる
大方は断りを言ふ人にしてベル鳴る音に立上りたり
病むは医者死ぬれば坊主後えんま委してわれは読むと定むる
死にたるが楽屋に入りて煙草吸ひ次に死ぬるが舞台に立ちぬ
美しく歩く練習などをして女は高き笑ひもちたり
誤ちてゐたかも知れぬ墓の前ひたすら己れに生きんとせしは
枯れ草の間に紅き葉のありて斜となりし光りが透かす
死にしもの病みたる者を数へ合ひ久方ぶりの出合ひ終りぬ

霜に萎へ地にはりつける葉となりて草は緑を保ちてをりぬ
くら闇の中に太れる憎しみの体を溢れ寝返りを打つ
芽生へたる双葉に水をそそぎをり赤き大輪信じられゐて
艶失せし手に支へゐる夜のあご思ひの痩せて追憶多し
吹く風枯葉散り落ち年老ひて言葉失せたるわが目の追ひぬ
電柱の一すじ並び枯れし草低くそよげる冬原となる
照したるライトの過ぎて夜の道の更なる深き闇を歩みぬ
生きし日の生活地下に作られて遺跡は上なるおごりを伝ふ
死して尚万の人をば酷使せし遺跡で塚は高く盛らるる

万の人苦しめ一人の王ありき埋めて高く土を盛らるる
人が人打ちて作りし塚高く王と呼ばるる人を埋むる
雲の間を流れて光り差し来り杉の秀光は天に鋭し
赤き花赤きに咲けり一年をいとなむ命しんともえ立つ
大きなるロマンも埋め土高き墳墓の主はここに眠りぬ
ここに沼ありて魚等も埋められし記憶うすれて舗道の広し
夜を待ち出でて来りしごきぶりの営みながき果にてあらん
移りつつ回りゐし独楽は一点の軸心となり回り澄みゆく
杖を突きよろよろとして歩みをり退屈とふより逃れんがため

湾曲の細さに月の光り冴え冷えたる冬の空裂き渡る
二千年一月八日まっさらの八十一翁胸張り歩む
赤き服着たる女が草枯れし冬の野原を歩みゆきたり
葉の散りて軒の露はに家並び冬は田に出る人影を見ず
ましぐらに猫は樹上に登りゆき喉もどかしく犬吠へ立てぬ
白鷺は水に映りて立ちゐたり草なき冬の池のしずけさ
いつまでも生きよと友と言ひ交しはかなき思ひ沸きてきたりぬ
死にしもの互に数へいつまでも生きよと言ひて友と別れぬ

狂ひたる女の舞が見せつけし命よ終りて帰る夜の道
夕茜うつろひ早く暮れてゆきひたいひたと寄る草蔭の闇
草枯れてユー型溝の白く照り冬の野原を分ちゆきたり
朝早き葉末に結ぶ露無数集ふは円を原型とする
征服をせしは英雄されたるは鬼と歴史は記し伝へる

無題(9)

枯れて伏す株の間より土もたげ新芽は確かな青さに出ずる
道に影ひかざる事も旅なればさびしき瞳となりておりたり
風塵を捲ける車の過ぎて去り再びもとの歩ゆとなりぬ
葉の間にしべの枯れいて櫻立つ風に老ひたる瞳研がれつ
一人の嘆きといふは如何程のものかと肩並む雑踏の中

原中に一人の男見えおりて鍬急がぬは年の経りたり
尖りたる鉄柵囲ふ家見えて廃れし家を見るよりさびし
離りゐる小野の柳も芽ぐめると伝へて耳吹く風やはらかし
売店の女も本を読み初め単線の駅停車のながし
はりつきしさまに曇れる空の下葡萄一粒舌につぶせり
赤き杭区画をなして打たれいる如何なる工事初まらんとして
流れたる血量思へ戦史には死者三千と半行記す
註文のあらずといはれて出で来しが頭を直ぐく保ちて歩む
きびきびと田植なせるを見ておれば減反拒む思ひも知りぬ

落苗を植えゐし老女顔を上げ腰を伸ばして胸を反らしぬ
足音に蛙つぎつぎ水に消え池の堤の陽炎ゆるる
伸ばしたる腰をたたける二つ三つ老女は再び落苗植える
並行して走る車の幼な児は手を振りており目の合えば吾に
伸びて来し茎にバラの葉五つ六つ幼なき刺は指にふれみる
血圧の薬をしまふ宿の室一人を照す灯りありたり
差し交す若葉に光り透きとうりかすかな緑道にありたり
さわに花咲かせし街路この国の平和を我は歩みゆきおり
八重櫻咲ききはまりて散りゆけり今の平和のあやふさはある

てっせんの蔓先ふるひ朝凪の庭に生れ初む風のあるらし
寸ばかり揃ひ萌せるあさみどり杉草未だ雑草ならず
ながながと工場の壁のつづく道いつより頭垂れておりたり
報ひらる日のあらむかと思ひしが今を生きゐる鞄を提げる
血圧の薬とり出す宿の灯に我あり開くる口腔くらし
隣室のおらぶ宴の聞えいて一人と言へるすがしさに寝る
何ものも過ぎ去りゆけば煌々と夜汽車の窓に我の目のあり
宿帳の兵庫県を探せるに松尾鹿次の名前に出合ふ
宿帳を再び見つつ松尾鹿次数日前に此処を過ぎにし

注ぎ交す酒にいつしか花を見ず光りつつ席に落つるいくひら
枯れ初めて黄に移りゆく秋草の降りゐる雨に濡れて明るし
註文の今年も減りし店を出ず廃業の方途めぐらしゐつつ
職人の暮しを思ひ廃業を考へ決断つかざるがまま
夢に見し母の言葉の明るくて覚めたる吾の慙愧と並ぶ
年々に売れなくなると言ひゐつつ見えたしるしと註文くれぬ
切味は良いが何しろ使はぬと言ふを肯ずき金を受取る
在庫の残調べに行きしが註文は後程電話で報せると言ふ
貧しくて生きるすがしさ言ひたるを一言にして斥けられる

緑濃くかさなる木曽の山見えて百草丸の看板掲ぐ
掲げたる乗って残そう飯田線重なる山に雲の流れつ
小便をなしゐる間にタクシーの無くなり灼けし舗道をあゆむ
高遠は雲湧く彼方仰ぎつつ幾たび過ぎき今日も過ぎゆく
従業員募集の看板掲げしまま閉ざす扉のノブの錆びたり
かにかくに今日いち日の過ぎたりと酒はのみどを熱して下る
玄関を出でて頬吹く寒き風一夜の宿を見返りて去る
この宿で風邪ひかれてはならざると羽織をもちて走り寄り来る
盆栽に鋏を入れる老ひのゐて激しき爆音振り向かぬまま

きはまりて赤く柘榴の輝けばかへらぬ月日我のもちたり
去りゆきし月日をもてばきはまりて赤く輝く柘榴にむかふ
渾身の思ひに生きし事のなき我にむかひて幸せと言ふ
道端の草といえども身を渾て咲かせ来りし花と思ひぬ
我がさがを露はにすべく生きゆくと定まる運は異なる如し
とる人のなきうれ柿を惜しめるは大正八年に生れ出でたり
郊外に新たな駅の出来ており無人となりし駅過ぎ来る
電飾の循る光りに囲まれて吾は田舎に住めるものなり
足音に散ばりゆける金魚あり立たせる波に緋色歪みつ

むかれたる裂目に歪みごみ箱にみかんの皮の捨てられており
いちにちのセールス終へて登りゆく宿の階段歩みに軋む
英辞典読める少女と並びおりかぼそき首をのぼる血をもつ
庭隅に小さき蟻の穴のあり夕べ昏れ来て出入りをもたず
文字を離れしばらく蝿の遊ぶさま見ており午後の室のひととき
乾きたる高き台地に生え来り水を吸ふ根の何処迄伸ばす
鳴りゐるは我にあるかな夜の底ひ眼つむりて渡る風聞く
おぼおぼと歩める我がもつ鎖背をしなはせて犬の歩めり
どぶ泥に赤き虫棲み流れくる水に頭を振りていとなむ

しろがねの光り乱るる映る月水にむかひて虫とびゆけり
つながれし船べり打てる波の音かすかに高く夜となりゆく
今日ひと日足りるとなして床に入る百合は孤りのために咲たり
オルゴール電話の中に聞え来てもちゐしみじめな言葉を匿す
照らす灯のわずかに分つ古宿の階段ぎしぎし鳴らして登る
夕闇に死魚の眼として立てるガラスに我の顔写りおり
見上げては何に生きゐるいち日のゆるゆる空を鳶わたりゆく
平凡の言葉を拒む口もてば会欠席を○にて囲む
みずからを煽る言葉も逞しき脚もつよりとこのごろにして

ともしびに手影さけつつ書き入れる数字は今日の無能を曝らす
雲行けば雲を映して庭前の溜りし雨の水の澄みたり
ガラス戸に並ぶ水滴寄り合ひて成し重さに動き初めたり
各池の草なき面平らにて流る雲と吾をうつせり
狂ひたる夕べの虫の死にて落ち動かぬものにしじまの深し
夜の闇を裂きて気笛の音流れ吾は一日の頭垂れおり
そそり立つ岩に注連張り小さなる魚船を浜に並べておりぬ
山蘭の真白き花の挿してあり旅の一夜の血を眠らしむ
空に向くカンナの花を剣とせん明日の可能に夕日燃え立つ

草の種子落ちてひそまる冬原の凍てたる工に浅き日の差す
地の中に数限りなき虫卵のひそみて冬の原平らなり
食卓にあるは食え得ぬものとして犬は揃へし足に待ちおり
うたげなす声の乱れの聞えいて宿屋の窓の夕闇ふかし
マルロオは従軍志願をなしたりき祖国を己が全てとなして
すみとうる心あらんと来し宿の闇の深さに閉されてゐる
一軒の湯宿のみある山峡の泊りし窓に茜がきえゆく
苔の秀の青ほつほつとはぐくみて岩の襞より水したたりぬ
月光は死者のごと差し幼な子は規則正しき寝息を立つる

嵐めく夕の窓の鳴り止まず商ふ明日の手帳を開く
サンプルを返し見てゐる商店主のつらつらなるは買くるるらし
草原に春の光りの満ち亘り山羊は異性を呼びて えたり
干く潮にもまれて躍りゐし砂が干泥となりてしずまりありぬ
草青く分けゆく春の風ありて山羊は生きゐる声を挙げたり
掴み合ふ議会のさまを亦写す選びし人の代表として
戦争をはげしく憎む声聞ゆこのはげしさが戦いたりき
あかあかと野火の燃ゆれば戦に友を焼きたる若き日のあり
殻を脱ぎ這ひゆく蝉は濡れており目にほのぼのと飛びてゆく空

色未だ透ける幼きかまきりの吹き来る風に斧をかまえぬ
トランプを並べて一人占へる女かすかな笑ひもちたり
無精卵産むといえども鶏の頭を高く挙げて鳴きたり
みずからが作りし巣より出で得ざる蜘蛛あり深く雲閉す下
山際にともし火ひとつ点きしより我を囲める闇となりたり
揆けざりし草の実夾の黒く枯れ其処より冬の夕は昏るる
野に亘る陽は早春を伝えいて転ばす種子に花の眠れり
まな板に割かるる鯉の静にて刃金の光り室を走れり
ひっそりと吾が横歩む乙女子の頬よ月光の標的となる

番号制

前肢が手となり言語中枢が出来たる事の必然にして
精神と物質とふ語の生まれしより番号制へと向ひてゐたり
物質の一面持ちて精神のあり得る命の働きなれば
何年生何組といふ学校の仕組も初まる番号制にて
国際化へ肥大なしゆく世の中の番号制は必然にして
人格を否む番号制を打越へる大なる情念創りゆくべし
旺んなる短歌や書道記号化へ対ふ日本の情念として
番号制素直に入れて内面の道へ力を?しゆくべき129
誰ももつ歓び悲しみ各々の特異の内面究めゆくべし
網戸越しに見ゆる知人のぼやけゐて愛憎淡く来り去りゆく
人類がながくかかりて見出でし個性あくまで究めゆくべし
環境の悪化を日々報ずされど年々寿命の伸びてゆきをり
冷ゆる風渡れる彼方稜線の起伏藍濃く空を分てり
米の飯葉へると立ちぬ伝へ来し労苦の歴史頭かすめつ
腕に針鼻に管さし累々とベッドに横たふ文化と言へり
土担ふと糞に耐へるを競ひたる日本の神のおかしさ愛す

枯れたりし花殻落ちて緑照り充ちてゆく空の現れ来たる
仰向きて両手にまぶた開けてをり目薬差せし後のしばらく
転作の大豆畑に鳩群れぬ枯れて撥けて落ちゐるらしき
怒りゐる女の顔を眺めをり角張る頬の歳露はにて
目薬を差して読みをりしばらくは蒼穹に目を放ちてやるか
人の顔変りてゐるは内面の変りてをりて言葉を交す
咲きし花眺めて居りぬ残りなく承けたる性を露はしゆけり
人が言よると告げられてをりぬ対手なき故の不安がひろがりぬ
浮びゐる蜘蛛の白さよ秋となる空気は日々に澄み徹りゆく