随筆集

父は、独学で哲学や短歌を勉強していました。父の短歌を作る情熱は、内部からの要求(内部急迫)に従って起っていたようです。

なぜ短歌を作るのか「 私達は何故作るのであるか、その根底には大なる呼声があるようです。斎藤茂吉は内部急迫と言っています。 短歌も俳句も抒情詩として喜び、悲しみを言葉にします。
喜びは生きる影を宿し、悲しみは死の影を宿すものです。生命は生きるものが死を持つものです。そして生きるということは死を越えようとする努力です。言葉というのはその努力が生み出した形です。私達は言葉によって死んでいった祖先の声を聞き、生れて来る者に声を伝えようとします。そこに私は大なる呼声があると思うのです。見出した形に於いて呼び交すのです。
過去と未来を一つとする呼び交しを持つのです。私はそこに私達を呼ぶ声があると思います。そしてそれはそれによってのみ私達が真の自己となる道だと思います。歌が出来ないとよく言われます。しかしそれはこの大 なるものに生れようとする努力であると思います。明日からも頑張りたいと思います。」

【 「満七十才記念 随想・小論集」「初めと終わりを結ぶもの」「自覚的形成」「自己の中に」】

随筆

文化とは何か

文化祭ですので文化とは何かを申上げたいと思います。この頃よく食文化とかグルメとか言われておりますし、女の人が多く見えておられますので、食事につきものの漬物を例に申上げます。漬物は野菜の塩による保存食です。私はそれが塩と野菜の間は文化とは言えないと思います。それが文化となるためには とか とかが加わらなければならないと思います。それはどういうことかと申しますと、舌が喜びを求めて色々の形を生み出したということなのです。そしてその形が次の形を生むということが文化の創造ということなのです。それは一つの漬物に昆布の味が加えられているとします。亦一つのものに柿の皮の味が加えられているとします。それを合わせて次の漬物を作るということなのです。多くの味の組合せから無限の形が生れて来ます。それが漬物の世界であり、食文化の中の漬物の文化なのです。

見ることは目の喜びであり、聞くことは耳の喜びです。目の喜びが形を生むところに絵画があり、耳の喜びです。目の喜びが形を生むところに絵画があり、耳の喜びが形を生むところに音楽があるのです。そしてこの見出された形が世界の形なのです。私達は世界の中に生れたものとして、生れた身体によって物を作っていきます。その作った物の形が世界の形であり、文化なのです。

私達は音楽や絵画が食物よりは高い内容をもっていると感じます。私はそこに感覚の発展ということがあると思います。よく言われるように私達の感覚には、繰り返すことによって鈍くなっていくものと鋭くなっていくものがあります。いくら美味しい天婦羅でも十日も続けて食えば見るのも嫌になります。嫌な臭いでもしばらくすると感じなくなります。それに対して絵描きは何ヶ月も向い合って完成すると言います。繰り返すことによって鋭くなるとはより深くより明らかに世界の形を表わすということです。そこに私達はより高い文化をもつのです。

日本文化の最も深い一つと言われる能狂言は猿楽から生れたと言われております。猿楽は農作物を猿に荒されるのを防ぐために、祭りなどで猿を追う真似をした呪術に始まると言われております。私はこの真似だけでは文化と言えないと思います。それが文化となるためには身振り手振りが身体の喜びとして、様々の形が生れて来なければならないと思います。形が形を生み、恋の喜び、死の悲しみへと展いていかなければならないと思います。能は幽玄の世界を現わすと言われております。それは何処かに幽玄の世界があるのではなく、私達日本人が身体の動きを何処迄も洗練して行った処に現われた身体の深奥であると思います。私達の深奥である故に私達は共感をもつのであると思います。

人間だけにあって他の動物にないものは言語中枢であると言われております。言葉をもつことによって人間になったとは、世界の深く明らかなものは言葉によって生れるということです。言葉が形をもつことによって文化の全体が現われるということです。

短歌や俳句は言葉が見出した形として、その形の中に言葉が言葉を見出していくのです。私達の一首一句は世界の創造に参加することなのです。それが今日作って明日捨てるとも世界の創造面に自分を映したということであり世界を作ったということなのです。私達がもつ作品の出来た喜びはこの世界の深さより来るのです。私達はそこに自分を見るのです。明日からも共に頑張りたいと思います。それではこれで閉会します。

感動への断想

新聞を開いていると「捨て身も完敗、感動した」という見出しが目についた。始まってまだ二日目の大相撲東京場所で、舞の海が貴乃花に負けた記事である。歌を作るものとして、感動ということに関心を持つ私はどのような事が書いてあるのだろうと思った。読むと、「捨て身の下手投げも自ら素っ飛ぶようにつぶされた」。舞の海は「感動した。強い横綱『貴乃花』とやれて良かった。やめても思い出になります」とのことであった。私は読みながら負けて感動したというのは珍しいと思った。普通負けたら口惜しい思いをするものであろう。そして励ましやら慰めの言葉に感動するものであろう。しかし私はこの記事の中には感動への真実があると思った。

感動とは何か。私は対象に触れて新しい、より大なる自分を見出すことであると思っている。この場合より大なる自分とは如何なるものであろうか。彼は負けたのである。勝負の世界で負けたということは収入を少なくし、名を低くすることである。個人的にも社会的にもプラスになるものは一つもない。亦それによって彼が開眼し、一挙に強くなった自覚もないようである。強くなることは倦まざる鍛錬の上に成るものだからである。私は彼が感動したのはそのような彼の世の中のあり方に関るものではなかったと思う。貴乃花の圧倒的な強さに力の世界の深さを感じたのであると思う。相撲は二人による格闘技である。それは筋肉覚、間接覚による身体の形の表現である。そこに力はさまざまの形を持ち、自己を深めていくのである。それが相撲の世界である。今この一点に於いて如何なる形が勝敗を決めるか、両者の力の集中が如何なる形を生むか、そこに相撲は人の興を呼ぶのである。斯く無限の形が生れるところに相撲があり、無限の形を内に持つことによって心・技・体の三位一体としての人格が生れ、人間の行為となるのであると思う。この世界に自己を映すことが自己を完成していくものとしての感動であると思う。舞の海はそれを垣間見たのであると思う。

表現は全て感動である。私達は生命として外を内とし、内を外とする。斯かるものとして私達の目や耳は絶えず外に向かっている。斯かる外として我々の対象となるのは人間が作って来た世界である。私達の欲するのは自然ではなくて物である。気にかかるのは鳥や犬ではなくして他人の目である。私達は物や他人と関ることによって生きるのである。物を作ることによって性格を作られ、自己を他人に映し、他人を自己に映して自己を作っていくのである。他人や物は自己ならざるものである。自己ならざるものに関ることによって自己があるとは、我とは自己と他者と物を包む大なるものの現われとしてあることである。而して大なるものの現われは他人に自己を映し、自己に他人を映すことによってあり、物を作り、物に作られることによってあるのである。それはこの我が働くことである。この我が働くことが大なるものが現われることであり、大なるものの現われるのは、この我が働くことであるところに生命形成があるのである。この我に大なるものを現わすのが表現であり、働くことに大なるものに出合うのが感動である。私達の心が動くということは斯かる生命形成を求めているということである。生命は常により大ならんと欲するのである。

この我と、我ならざるものとしての物や他者をつなぐものは言葉である。私達は言葉によって記憶として無限の過去を持ち、想像によって無限の未来を持つのである。大なるものとは言葉によって現われる世界である。大なるものは言葉によって自己を露わにするのである。私達は短歌を作る。短歌とは日本という特殊風土に於いて、そこに生きる人間が風土を外として言葉に見出して来た生命の相である。大なるものがここに見出した生命として、無限に働くものである。過去を持ち、未来を持つとは働き生んでいくものである。短歌は斯かる形として日本の歴史的創造の中に出現したのである。勿論環境として外は変転する。近代の交通・通信の発展は日本を一特殊風土として閉じ込めておくことを許さない。今や外は全地球上の外である。しかし内が外を作るというとき我々は何を足場にするのであるか、私は無限の歴史的創造を負う日本的性格による以外、他はないと思う。そして短歌は日本の感動の発現として多く すべき世界原理を持っていると思う。

無題

私達は何故作るのであるか、その根底には大なる呼声があるようです。斎藤茂吉は内部急迫と言っています。短歌も俳句も抒情詩として喜び、悲しみを言葉にします。喜びは生きる影を宿し、悲しみは死の影を宿すものです。生命は生きるものが死を持つものです。そして生きるということは死を越えようとする努力です。言葉というのはその努力が生み出した形です。私達は言葉によって死んでいった祖先の声を聞き、生れて来る者に声を伝えようとします。そこに私は大なる呼声があると思うのです。見出した形に於いて呼び交すのです。過去と未来を一つとする呼び交しを持つのです。私はそこに私達を呼ぶ声があると思います。そしてそれはそれによってのみ私達が真の自己となる道だと思います。歌が出来ないとよく言われます。しかしそれはこの大なるものに生れようとする努力であると思います。明日からも頑張りたいと思います。

九月号一首抄の釈明

私の書いた九月号一首抄について疑義を抱かれた方があるようである。それは岩城和子さんの歌を例に挙げ、日常の中に埋没していく自己であり、後川さんのを日常を包む自己であると言ったことについてである。以下それについて少し釈明をしたいと思う。

鯛は深海にあって人間の五千倍の明るさでものを見ることが出来ると言われる。しかし見るのは餌と敵だけであると言われる。感覚は生存のためにのみ働くのである。生物は生存すべく感覚の対象をもつのである。而して斯かる対象に反応することによって生命を形成していくのである。形成していくことが自己を持つことであり、そこに自己を持つのである。私達の身体は斯かる形成の無限の蓄積である。私達は生れて幼・少・青・壮・老と身体を形成していく。身体の形成は食物を摂り、敵と戦う日々の蓄積である。食物を獲得し、敵と戦うのが我々の日々の営みである。斯かる営みはその時その時に現われて消えていくものである。而して斯かる営みの蓄積として、時の統一として形成した身体は営みを内容とするものとなるのである。

私は人間は斯かる生命が自覚的となったものであると思う。自覚的になったとは、外に物を作り、内に意識をもつ身体となったということである。身体が言葉を持ったとき、日々の営みは日常となり、時の統一としての身体は、過去を記憶とし、未来を希望とする無限の創造として永遠となるのである。日々の営みが尚生物的なるに対して、神の自己創造の姿として、神の摸像となるのである。取上げた作品の指紋は生存の働きに無縁である。そこに純なる生命としての身体に対している作者がある。

私は自覚的生命としての人間の働きは、以上述べたような二重構造に於いて自分を見ていくのであると思う。色即是空とか、瞬間即永遠と言われる所以がここにあると思う。

名歌鑑賞

冬のしわ寄せゐる海よ今しばし生きておのれの無残を見むか 中条ふみ子

そこに生ける屍がある。作者は凄惨な運命に対面しているのである。斯かる生の深淵にもがきつつ、作者の表現意欲を盛り上げた精神は何処から来たのであろうか。

キェルケゴールは其の著「死に至る病」に於いて「絶望したか」と問う。絶望は精神の死に至る病である。しかし精神においては病む者が健康であると説く。生命は死を持つものが死に打克つ努力である。釈迦も苦悩した如く、生・病・老・死は、どうすることも出来ない生けとし生けるものに負わされた運命である。それはあらゆる人間の希望を打砕く屹立する鉄壁である。我々の生涯はこのどうすることも出来ないものに打ち当って砕けていく営みである。而してこの打ち当って砕けた営みの蓄積が歴史であり、痕跡が文化である。斯かるものとして我々は悲しみの上に喜びを打ち立てていくのである。而してその極鉄壁によって自分を見出す自分を見るのである。回心である。鉄壁に生きるのである。生・病・老・死に対するのでなく、それをあらしめるものに生きるのである。回心とは自己を無にして自己をあらしめるものに摂取されることである。斯かるものとして大なる苦悩に生きるものは、大なる力量をもつものである