随筆集

父は、独学で哲学や短歌を勉強していました。父の短歌を作る情熱は、内部からの要求(内部急迫)に従って起っていたようです。

なぜ短歌を作るのか「 私達は何故作るのであるか、その根底には大なる呼声があるようです。斎藤茂吉は内部急迫と言っています。 短歌も俳句も抒情詩として喜び、悲しみを言葉にします。
喜びは生きる影を宿し、悲しみは死の影を宿すものです。生命は生きるものが死を持つものです。そして生きるということは死を越えようとする努力です。言葉というのはその努力が生み出した形です。私達は言葉によって死んでいった祖先の声を聞き、生れて来る者に声を伝えようとします。そこに私は大なる呼声があると思うのです。見出した形に於いて呼び交すのです。
過去と未来を一つとする呼び交しを持つのです。私はそこに私達を呼ぶ声があると思います。そしてそれはそれによってのみ私達が真の自己となる道だと思います。歌が出来ないとよく言われます。しかしそれはこの大 なるものに生れようとする努力であると思います。明日からも頑張りたいと思います。」

【 「満七十才記念 随想・小論集」「初めと終わりを結ぶもの」「自覚的形成」「自己の中に」】

随筆

  感銘歌評釈

「今どこにいるの」と電話をかけている女ありここはどこなのだろう 松村由利子

昨年の入院中に見舞ってくれた誰かが、短歌研究の平成九年十月号を置いて行ってくれた中の一首である。私はそのときからこの結句のもつ含蓄に深い興味を覚えたのであるが、この度失くしていた雑誌が出て来たので一寸書いて見たいと思う。

戦後は私達にいろいろなものを与えてくれた。併し与えられたということは亦失ったことである。寺山修司の歌に「マッチ擦る束の間海の霧深し身を捨つ程の祖国はありや」というのがある。与えられた自由と引換えに、行動規範の根源であった国家の規範性が音立てて崩れたのである。それは封建社会の否定として、血族の主体としての家庭も一蓮托生の運命であった。私達は東方の君子国として、君の臣、親の子、夫の妻、兄の弟として家族の 帯に生き、そこに知・情・意を養ったのである。私達はその上に自分を見築いたのである。自分の過去も未来もそこにあったのである。歴史の奔流は一気にそれを押し流したのである。私達は行動の拠点を失ったのである。「ここはどこなのだろう」、私はそこに自己の展望の中に過去と未来を収め切れない作者の不安を見ることが出来ると思う。作者は途方に暮れているのである。そしてそれは作者一人が抱いている問題ではなくして、日本人全てが背負っている課題であると思う。社会倫理、家庭、教育等日々に報ぜられる世の中の乱れの大凡はそこに根幹をもつと思う。勿論それは世界の退化ではない。自由は与えられたものではなくして世界がわれわれに要求してくるものである。世界の中にあったこの我が、逆に世界を包むものとしての人格の樹立を要求してくるものである。併しその径庭は永い。私は作者の心情はその直観の上に立つものであると思う。この一首に共感した所以である

短歌表現に於ける主観について

二月号の井上実枝子氏の一首の中に「先月号のH氏の一首抄の中に」と書いて主観の問題が取り上げられていた。H氏とは前後から押して私のことであろうと思うので、私が何故に主観を不可とするかを論じて皆様の批判を仰ぎたいと思う。

私は短歌が抒情詩である限りよろこびかなしみの表現であり、主観としての観念の把握でなければならないと思う。観念とは世界の求心的把握として、われわれはそれによって自己を確立していくのである。言葉による表現として短歌も亦自己発見をその根源にもたなければならないと思う。斯かる自己発見をわれわれは観念にもつのである。

唯私が言いたいのは嬉しいという言葉は、嬉しいということではないということである。幾度も言う如くわれわれの生命は内外相互転換としてある。外としての米や野菜を食べて身体を形作っていくのである。斯かる生命形成の充足が喜びであり、欠乏が悲しみである。外はわれならざるが故にその獲得は喜びであり、欠乏は悲しみであるのである。

勿論我々の喜び悲しみはそれに尽きるものではない。人間は言葉をもつことによって食・性・自己防衛の本能の根元に還り、永遠の前に立つことによってさまざまの哀歓の襞をもつ、個性・愛・聖等を生命形成の内容とするものとなるのである。併しそれが生命である限り充足と欠乏を喜び悲しみの原型としてもつことに変りはないと思う。

故に喜び悲しみを表現しようとすれば、その充足や欠乏の状態を言えばよいのである。例を俳句にとれば「大晦日隣は餅搗く杵の音」これで悲哀は表現されつくしているのである。若しこれに「子等は如何なる思ひに聞くらん」と主観を加える如きは詩性を殺すことに他ならないのである。

人間が社会生活を営み、言葉によって意志交換を行う限り、観念の根底に事実があり、事実の根底に観念があるのである。事実はわれわれが其の中に生き、それに面するものとして短歌に言われる具象であり、具体である。観念はその根源としての具体の中に消え、具体の中より生れることによって溌溂たる清新さをもつことが出来るのである。観念は形成的生命の内容として、無限に動的でなければならない。世界形成的でなければならない。それは創造的転身をもつことである。

私が具体で捉えなければならないというのは、観念が具体の中に消えよということであり、それは亦具体の中より生れることである。そして私はそれが観念を更に深めていくものであると思うものである。観念樹立とは初めに言った如く自己の樹立であり、観念の深化は自己の深化であり、そこに真の詩精神を見んとするものである

五月号批評

 うらうらと春陽浴びるもうれしきに桃咲くが見え試歩を延ばしぬ  石井文子

病後の歩みをおのずから誘われる姿が見える。そこに自然と人生がある。但し表現として三句捨てたい。詩は頭脳に訴える以前に心臓を動かすのでなければならない。三句は一首を殺すものである。

風花に枯れしかと思う万作の黄を点したり庭先明るく   井上ふくゑ

明確な感動の把握は迫力をもつ。万作の黄は作者の胸に点ったのである。初句と結句捨てたい。特に結句は四句と重複している。

父逝きて一年過ぎし職場には使ふことなき前掛けありぬ   大久保公江

よい素材を捉えている。四区更に父との関りを追求したい。このままでは感動が希薄である。

わが内に長逗留の風神よお出かけ召され春はうらうら  片山洋子

風神は所謂風神雷神の風神ではなくして風邪の神であろう。自己を外に置いた作品で面白い。苦患を離れて苦患を言葉で遊ぶ余裕は豊かな人間性に裏付けられた知性である。但し、一首目と二首目、手の内が見えすいて強い作りされた感がある。

耳澄まし待ちゐる吾に子の来れば必ず吠ゆる犬しづかなり   小紫博子

氏の作品には世界の中の自分を見ている静けさがある。 長流に言えば己のはからいを捨てている。或は三十五Kという病弱の故であるかも知れない。併し嘆きを超えて自己を充足させているのは立派である。

目覚めよき朝なり凛と巨大(おおい)なる白菜一つ両断にせり    しつかわ碧

爽やかさの感じられる作品。切られたのは白菜であると共に迷いであり、妄念であり、ストレスである。若さとは年令ではない。爽やかさである。過去を裁断して未来に生きる力である。成功した一首。博識な作者は兎もすれば舞文となり勝ちのように思う。

人影の絶へし桜の葉の下をひたすら前向き歩幅を伸ばす   田村喜久子

上句を受けての下句の前向きに伸ばす歩幅は自分の内面に向かっている。自分の世界の拡大への歩みである。聡明さの感じられる作品。二首目も二句もたついているが佳品。

小魚を商う女一人居て路上は暫し賑はひとなる     松尾鹿次

よく見る田舎の風景。三句やや難あるも繁雑に疲れた心が洗われるような感じは捨て難い。

逢はばやと思ふ一人還らざり烏賊の臓抜きて吾は生きゐる   藤木千恵

三月号の作品であるが誰も取り上げなかったし、感銘したのでゆるして戴きたい。運命を超えて運命を受用し、静かに自己肯っている作品。芭蕉の名作「秋深し隣は何をする人ぞ」の一歩手前迄来ているように思う。

 茂吉の実相観入について

三浦謹一郎の著書「DNAと遺伝子情報」という本を読んでいると「シャルガフはDNAの規則性に気づいたときの思い出を『この相補的な規則性はまるでボッティチエリの貝殻から生れたヴィーナスのように見事な秩序が姿を現した』と言っている」という一章があった。私はそれを読んで目の眩むような思いがした。そして目を閉じていると、身体の中に光りが満ちてくるように思った。人間には六十兆の細胞があると言われる。その細胞の一々が遺伝子をもつのである。その遺伝子の一々が、天才の創造と等しい感動を呼ぶ整合をもつのである。生命は発生以来三十八億年の時間を経過したと言われる。六十兆の細胞はその時間の上に形成して来たものであり、われわれの身体はその見事な統一である。私は人間の三十八億年の努力はこの細胞のもつ整合の表現への努力ではなかったかと思う。

私の「初めと終りを結ぶもの」と言うのは斯かる生命の整合の自己形成をいうのである。形に自己を表していくのである。表わしていくとは内に感官を創り、外に物を作っていく事である。三十八億年の時間を斯かる形成の内容としてあるのである。私はアウグスチヌスの三位一体や、道元の草木瓦礫悉皆成仏といった深大な世界の姿も斯かるものであると思うのである。唯私は初めと終りを結ぶものをヴィーナスの光輝に於いて捉え得なかったことを告白しなければならない。私の感激はこの光輝より ったのである。併し思えばそれは私の菲才のしかしむるところで、仏教の極楽浄土の如きはそのような姿をもっているのかも知れない。併しその為には浄土は唯あるのではなく、自己実現的に働くものでなければならない。

私は短歌も亦斯かる生命の顕現として日本の風土の上に出現したものと思う。その意味に於いて私は斉藤茂吉の「大却運」に深い共鳴をもつものである。私は彼の「実相観入」もこの大却運の実践にあるのではないかと思う。それは人と物、我と他者、生と死としての現実の対立、矛盾を整合調和としての一つの姿に於いて見んとすることである。詩は歓び哀しみの言葉による把握である。その内容は矛盾・対立である。而してそれを一首の作品とすることは、一つの生命の自己実現として、一つの整合をもつことである。生命は生み、働くものである。生むとは自己でないものを作ることである。働くとは対象と戦うことである。それは矛盾である。併しそれによって生命は持続していくのである。斯かる時の統一として存在することが調和である。生れた子供によって自己があるのが調和である。故に矛盾が大なる程調和が大である。私は実相観入とはこの矛盾を直視することであると思う。その時矛盾は自己の内容として生命は大なる整合をもつのである

井上実枝子著 歌集草の雫評

この歌集を読んで第一に感じたことは、より大なる生の相(すがた)を見ようとする作者の純なる魂である。渾身の力をもって、如何に生きるべきかを問い、自己の根底に至ろうとした努力である。氏の作品はみかしほでも特異のスタイルをもっていると思う。それは氏の作品が日常から生れるのではなくして、見出したより大なるものをもって日常を光被しようとするところにあると思う。観念先行と言われるものである。作品に多く思い入れから始まるのはそれによると思う。表現は本来観念の創出である。具象とは日日の営みの中に現われ消えるものである。それを統一するものが観念である。希望、理想、愛、神、永遠等、それの反(はん)としての絶望、不安、悪魔等がそこに見られるのである。それによってわれわれは自己を見、自己を実現するのである。その観念を具象の構成によって表わすのが写生である。観念によって具象を切り取り、直下に表わすのが象徴である。私は作者は深大なるものの直下の啓示を求めて象徴的手法へ傾斜して行ったものと思う。併しそれは観念と具象との結びつきが飛躍し易い、素晴しい作品が生れると共に、言葉が空転したり、意味不明となりやすいと思う。併しそれは亦本書の魅力であるかも知れない。以下いくつか好感のもてる作品を取り上げて短評を加えたいと思う。

嫁菜草野蒜(のびる)も萌えば苦がかりし記憶の中の煮浸しの味

苦がかりし煮浸しの味というとき、当時の生活に読む者の思いを至らしめる

仁清の茶碗の絵の具に触るるときさかしき女を席に振るまう

人は神の前に無である。束間心によぎったさかしらを捉えている。その自省に作者の深さがある。

わが欲りしモヘヤのコート得たる娘の背の柔らにも撫でて足らうも枝の華やぐ

あれか、これか、迷いは近代知性の所産と言われる。枝の華やぐは作者の心象を捉えて遺憾ない。掌は手であろう。

つづまりは吾のペースぞ得体なき鳥を五色に飛ばすチギリ絵

奔放にイメージを飛翔さす作者が見える。ペースは適切でない。更な言葉の選択を

スプレーに落ち来し夜の冬蝿の動かずなりしまでを見定む

動かずなりしまでと間を置いた時間、そこに読者をさまざまの思に誘う。高度な技巧である。

孤独なる胸のうつろに聞きたがえ癒えのうちそと夫の声なし

痛切な追慕の情、私は家族的なものの中に閉息した感情は余り好きではないが矢張り心動かされざるを得ない。一句の孤独なるは捨てたい。

武器にせし竹の謂(いわ)れの藪見えて水戸邸の門朽ちて蔦生ふ

は進む竹である。武門の覚悟も時の移りに朽ちなければならない。唯対象を捉えることは、自己を捉えることに比べて易い。それだけに感動は浅い。

花のレイ健気な頬にやさし過ぎ汝は今日より看護婦となる 

社会への首途を見送る作者の安心がある。

オウム教昂り見せしテレビ消しわれはわが身にひとさしの美酒

私達は世界の中に生きる。併し世界は私ではない。私は私に生きるのである。この人間構造をよく捉えている。余り長くなると岩城さんに叱られそうなので、もう少し取り上げたいがこの辺で打切る。