随筆集

父は、独学で哲学や短歌を勉強していました。父の短歌を作る情熱は、内部からの要求(内部急迫)に従って起っていたようです。

なぜ短歌を作るのか「 私達は何故作るのであるか、その根底には大なる呼声があるようです。斎藤茂吉は内部急迫と言っています。 短歌も俳句も抒情詩として喜び、悲しみを言葉にします。
喜びは生きる影を宿し、悲しみは死の影を宿すものです。生命は生きるものが死を持つものです。そして生きるということは死を越えようとする努力です。言葉というのはその努力が生み出した形です。私達は言葉によって死んでいった祖先の声を聞き、生れて来る者に声を伝えようとします。そこに私は大なる呼声があると思うのです。見出した形に於いて呼び交すのです。
過去と未来を一つとする呼び交しを持つのです。私はそこに私達を呼ぶ声があると思います。そしてそれはそれによってのみ私達が真の自己となる道だと思います。歌が出来ないとよく言われます。しかしそれはこの大 なるものに生れようとする努力であると思います。明日からも頑張りたいと思います。」

【 「満七十才記念 随想・小論集」「初めと終わりを結ぶもの」「自覚的形成」「自己の中に」】

随筆

 心眼

みかしほ九月号に片山洋子さんが「心の眼を開けば、歌の材料は目の前にいくらでもある。『目に入るものを何でも歌にしてやろう』という程の意欲をもちたいと思う。」と書いている。この何でも歌に出来る魔法の杖とでも言うべき心の眼とは如何なるものであろうか。肉体とは別に心といいうものがあって、それが眼をもつのであろうか。併し目に入るものは何でもというとき、この肉眼に見えるものということでなければならない。この目が心の眼となることでなければならない。心の眼となるとは如何なることであろうか。私はその為に見るとは如何なることかを問わなければならないと思う。

生命は内外相互転換としてある。食物を摂って身体に化していくのが生命である。食物を外として身体を内として形成していくのである。それが生命形成である。禿鷹は三千米の上空から地上をありありと見ることが出来るそうである。併し見るのは野鼠だけであると言われる。鯛は深海に於いて人間の五百倍の視力をもつと言われる。併し見るのは餌と敵だけであるそうである。目は身体としての生命形成に於いて外を内とせんとする機能である。

人間に於いては内外相互転換として形成が技術的である。技術的とは一瞬一瞬の内外の転換が経験として蓄積をもつことである。例えば狩猟に行った時に鹿が穴に落ちて容易に捉えられたとする。すると鹿を捉える為に穴を掘って仕掛を作るのが技術である。昨日の経験によって現在の行為があり、明日を期待するのである。そこに過去現在未来が生れ、人間は時間をもつものとなるのである。時間をもつとは無限の形を生むものとなることである。

人間が時間をもつものとして技術的であるとは製作するものとなることである。製作に於いて動物に於いて一であった内と外とは対立するものとなるのである。製作するとは外を変 することである。変 することは作った物が外となりそれが内に対するものとなるのである。作られた物と作るものが対立し、そこに主体と客体が成立するのである。私達が生活を営むものとして外とするのは全て何らかの意味で作られたものである。変革するとは形が変ることである。単に形があるのではない。形は機能の現れである。生命の働きの具現である。斯くして生命は形に死して形に生れるのである。常に新たなものが求められる所以である。

物と作ることによって主体と客体、物とこの我が見られるちいうことは、物も我もこの我やこの物を超えた大なるものの内容としてあるということである。製作というものを問うとき、私達は遥かな祖先を尋ねざるを得ない。祖先の淵源を尋ねるとき全生命に至らざるを得ない。この我があるとは全生命の現在の発現としてあるのである。我々が見るとは斯かる生命の自己形成として自己を見るのである。私は心眼とは自己の眼が斯かる大なる生命の目となることであると思う。

作ることによってこの我と物が現れ、それが大なる生命の現れであるとき心の眼を開く方法はひたすら作ることでなければならない。無限に形が現れて来るときにそこに真の自由を見、大なる生命の働くのを知るのである。そこは身体的欲求を超えた形が形を生む世界である、そこに真善美としての価値が生れるのである。

作歌について

先般岡野弘彦氏が来られた。私は耳が遠いので邪魔になると思って行かなかったのであるが、その後松尾さんが紹介された記事の中に私と見解を異にすると思われるものがあったので少し書いてみたいと思う。

氏は短歌は訴えるものと言われたという。私はそこに疑義を抱くのである。私は全て形を表現として捉えんとするものである。表現とは内なるものを外に形において見ることである。内なるものとは何か。私は内を外と別にあるのではないと思う。私達は生命として、食物を摂ることによって身体を形作っていくものである。斯かる形作る働きにおいて食物を外とし、身体を内とするのである。形成作用において外と内があるのである。内と外とをもつものとして、内としての身体を形作るために外としての食物を獲得するのは努力である。外を内とする機構を身体はもつのである。そこに生命の発展があるのである。外を内とし、内を外とする機構の形成が生命の発展である。身体と食物として対立しつつ、内と外は一として形を見出していくのである。生命形成は内外相即としてあるのである。

私は人間生命を自覚的生命として見んとするものである。自覚的生命とは内と外とが対立を超えて、世界として一つの発展をもつことである。身体が技術的身体となり、物が製作物となることである。私は芸術も斯かる自覚的形成の一環として捉えんと思うものである。そして発展の方向を身体がもつ情緒の表出が、身体のもつ欲求を超えて純なる情緒の発展を見たところにあると思うのである。色が、音が、涙が、ほほえみが身体の隷属を放たれてそれ自身のよろこびかなしみの形相を展開するのである。

生命の形成は内と外の一として風土的である。私は日本の芸術は日本の風土に生命を映し、生命に風土を映した無限の形成であると思う。短歌も亦斯かる形をもつものとして成立するのであると思う。稲を植え酒を造り、領ち食べ、乏しきを嘆いた喜び悲しみが個個の事象を超えて言葉につなぎ、消えゆくものを内にもつ大きな生命を共有したところに成立したのであると思う。

私は斯かる共有は全ての人間が生命の完結をもつところにあり得ると思う。私達はホモサピエンスとしての百四十億の脳細胞と六十兆の細胞をもつと言われる。全ての人が同一の人体の構造をもつのである。斯かる同一の上に遺伝子の文字の差異をもつのである。それは一つの世界の個性としてあるということである。全ての人が生命の完結をもつということは、全ての人が自己完成をもつということが世界が自己完成をもつということである。私は全ての人が世界を映すところに短歌の発展があると思う。訴えるのではなくして共感し、相照らすのである。単に人に対すのではない。我の根底に還ることによって人に対するのである。

生甲斐 (巨勢教室)

巨勢誌も発刊以来早 号になるらしい。先日次回発行の原稿を書けと言われて、改めて幾冊かをぱらぱらとめくってみた。目に止まったのは、各号とも巨勢教室に学ぶよろこびを綴り、それを生涯の生甲斐としたいということが散見されることであった。私は読み乍ら生甲斐とは如何なるものであろうかと考えた。

生甲斐をもつとは充実感をもつことであろう。生涯の生甲斐とは、それによって死ぬ迄日々に張りをもたせたいということであろう。斯かる充実感は何処から来るのであろうか。私はそこにわれわれがそれによってあるものに触れるということがなければならないと思う。われわれがそれによってあるものとは何か、人間のみによって他の動物にないものは言語中枢であると言われる。言葉をもつことによって人間は人間になったのである。言葉は一々の行為を超えて、一々の行為を蓄積する。言葉は一々の行為のみではなく、この現身の生死を超えて人間の行為を蓄積する。私達は電燈を点すとき、見たこともないエヂソンの居たことを確信する。更に私達は化石の系譜を辿ることによって、人類が嘗て単細胞動物であったことを知る。これ等は全て言葉をもつことに由るのである。言葉をもつことによってわれわれが一々の生死を超えた大なる生命の存在を知ることは、これを逆に言えば大なる生命が言葉によって本来の相を露わにすることである。私は斯かる大なる生命がわれわれをあらしめるものであり、われわれは斯かる大なる生命の一端を担うことによって生の充実感をもつのであると思う。

生命は内外相互転換的である。外の酸素を吸って打ちの炭酸ガスを吐き、外より食物を摂って、内の老廃物を排泄するのであり、それによって生命を維持し、形作ってゆくのである。行為を蓄積するとは、死を生に転換することである。食物の欠乏は死を意味する。それを以前の経験を参考として、より大なる取得を持とうとすることである。斯かる経験の蓄積が技術である。私達は社会生活を営む。社会とは斯かる蓄積によって構成された技術の一大体系である。政治も生産も芸術も技術的であり、会話も社交も技術なくしてはあり得ないものである。

生命が内外相互転換的であり、技術が内外相互転換の上に立つとすれば、私達の今持っている技術は、生命発生以来の生命の進化によると言わなければならない。更にそれが言語中枢をもつことによって経験の蓄積をもち、技術的生産的になったとすれば、技術は歴史的創造的であると言わなければならない。歴史的創造的とは作られたものが作るものとなることである。

藤幸雄先生の所に行くと、よく多くの児童が毛筆の墨字を習っている。そして一枚書くと先生の許に持って来て「此処の力は弱い」とか「此処はもっと力を入れて」とか言って朱筆を入れておられる。亦書いて持って来ると「うん此処はよくなったが此処がまだ駄目だ」と言って別な所に朱筆を入れておられる。児童はこの まぬ一筆一筆によって上達していくようである。一筆一筆によって上達するとは、今引いた新しい線が次の線を呼ぶ力となることである。今獲得した力が新しいものを生む力となるのである。読書にしてもそうである。今読んで得た感動が次の書物を理解する力となるのである。そこに創造がある。創造とは今迄無かったものが突然現れるのではなくして、無限の過去を背負うものが一度この我の中に消え、この我の中から新しい形として生れることである。作られたものより作られたものになるとは、われわれは生れ、学ぶことによってあると共にそれが今のこの我のはたらきの中より世界の形として現れることである。そこに真の自己をもつ。この真の自己をもつことがわれわれのよろこびである。世界が技術の一大体系であり、創造の世界であるとはこのような自己によって構成されていることである。そうであるならば何故われわれは生甲斐を見出さなければならないのであろうか。

私達の日々の営みは無数の雑事の処理である。次々と現れては消えていく仕事に忙殺される毎日である。その一々が歴史的形成としての技術内容を有するといっても、それに深い査察を加えるどころではない。一日が終って心身共に疲れ、湯上りのビールに安堵の思いをするのがやっとである。われわれが充実感をもつのは、自己を形作っているものとしての世界の根源に触れることであった。その日その日の明け暮れに追われるというのは、世界が一大技術体系であるだけに却って自己喪失感を持たざるを得ないものである。喪失感とは気力を失うことである。

私はそこに生甲斐を見出さなければならない所以があると思う。そして其処に巨勢教室の意味があると思う。現代の複雑な社会に於いて世界の根源に触れるには日常の雑事から離れて、一つの技術体系に取り組むということがなければならない。内藤先生はその場所と技術を提供して下さっているのである。作られたものより作るものへとは、作られたものとして世界の中にあるものが、逆に世界を内にもつことである。毛筆が一線を引くことは、過去の世界を内容として、一つの新たな世界を作ったことである。

世界の変化とは価値観の変化であり、近代社会の急激な変化は世界と個人の離反を来らしめたようである。そこに現代の精神の荒廃を呼ばしめるものがあると思う。しかし変化は過去の消滅ではない。過去なくして現在はない。過去の上に立ってより大なる世界を作るのが変化である。変化は現在に於ける過去と未来の矛盾の上に生れるのである。そのためには失われた自己を回復するためにはより深く過去に沈潜するのでなければならない。私は近代社会に無用と思われるような書道や短歌がブームとでもいうべき状況を呈しているのは、深く斯かる要請をもつが故であろうと思う。一人一人の充実感が世界の充足をもつのである。新しい世界は常に荒廃の救済としてあるのである。そしてそれは一人一人が担うのである。

新聞によると欧米諸国の人心の荒廃はひどいものらしい。荒廃とは刹那的なものに落ち入ったということである。其の点私はわれわれの祖先が書道や短歌を作ってくれたのを感謝したいと思う。私は西洋文化が理念の顕現と言われるのに対し、日本文化は日常の洗練であると思う。私が所属している短歌部門にしても表現の目指す所は特別の詩世界を作ることではない。日々のよろこびかなしみを深めていくことである。ふかめていくとは言葉によってより細微なものを見ていくことである。洗練とは反復することによって永遠に映し、永遠の姿を帯びてくる事である。我と汝を、過去と未来を包む形を見出でていくことである。そこに私達は真個の自己に接し、充実感をもつことが出来るのであると思う。私は思いを此処に置くとき、めまぐるしい変化の中に起きるべき精神の荒廃を救うこと如何に大なるかを感ぜざるを得ない。

巨勢教室の如きは世界に於いて一微塵にも比すべきものであろう。併しそれはキリストの言う地の塩である。世の中に美しい味わいをつけてくれるものである。内藤先生の労を多としたいと思う。

 

 

短歌と身体について

ロダンは、ギリシャの彫刻は、両肩と両足に於いて四つの面をなしている、それは生命の調和の姿である、それに対してミケランジェロの作品は二つの面である、それは苦悩の姿であると言っている。そしてミケランジェロに深く傾倒した彼は作品「考える人」に於いて、上体を深く折り曲げた姿勢によって、人生の苦悩を徹底的に追求している。

短歌とは抒情詩である。感情による生命の表現である。感情とは何か、私達は生命であり、生命は身体的に自己を形作る。私は生命が自己を形作っていく動的なるものが感情であると思う。私達はその激情に於いて身体を忘れる。そして最も静的な睡眠に於いて感情を失う。身体が動く時、身体は情緒としてあるのであると思う。顔の動きは表情としてあるのである。それは顔の動きは感情の動きとしてあることである。

私達は生命として生きているものが死を持つものである。そして身体は力として、力の表出に於いて死を克服して生の姿を打樹てんとするものである。そこに生は喜びとして、死は悲しみとして現れ来るのである。力の表出に於いて死を克服する時に私達は意識を持つ。そして意識に映すことによって世界は無限の展開を持つのである。愛憎はそこに生れるのである。斯かる無限の展開に於いてより深大なる喜び悲しみを見出すのが芸術である。意識に再生させることによってこの我の内容となるのである。それが芸術である。例えば舞踊の如きも、体験した動作が意識の再生に於いて、間然することなき感情の秩序を持つのであると思う。短歌の如き詩は意識の内容としての言葉による表現としてより高次なるものであると思う。言葉は記憶と想像を持つものとして、身体の瞬間性に対して、永遠として時間を包むものである。そこに文字による表現の苦しみがある。併しそれによって深き喜び悲しみに接し得るのである。

お伽噺 (意識の原型)

「その昔その又昔を聞かされぬ老母が話は生き生きとして」。みかしほ四月号の中北明子さんの作品である。これを取り上げたのは、この歌が良いとか悪いとか言うのではなくして、私はそこに意識の原風景があるのではないかと思ったからである。以下それを書くことによっていくらかでも明らかにしたと思う。
私達は古代の伝承を神話や伝説やお伽噺として持つ。それ等は何れも有り得なかったことか、あり得たものとしても非常に歪曲されたものである。殊にお伽噺は荒唐無稽とでも言うべきものである。どうして実際にあったことが記述されなかったのであろうか。私はそこに最初の意識を見ることが出来るように思うのである。結論から先に言えば私達の根底に世の中があるといいうことである。そのことは世の中の意識が根底にあり、私達が持つ自己意識はその上に成り立っているということである。
お伽噺では大概正直と意地悪との対立となっている。そして正直者が幸せになり、意地悪が不幸になってめでたしめでたしとなっている。それは果して昔の現実であったのであろうか、私は意地悪じいさんや、欲張りばあさんの方が物を蓄めて威張ったように思えて仕方がない。それなれば何故正直じいさんが幸せになったのか、私は世の中を維持していくために正直という骨格が必要であったがためであると思う。そういう意味で正直は当時の世の中の律法のような意味を持っていたのであると思う。お伽噺は規範として人々の行為の中に働き続けたのであると思う。私はお伽噺が語り継がれたのは世の中の自己維持としてであると思う。
お伽噺は個々の生活を映すものではない。併しそれは生活に形を与えるものである。私はお伽噺を生んだものは全体表象とでも言うべきものであったと思う。フロイドやユングを待つ迄もなく私達の意識は深い。私たちの意識は生命発生以来の三十八億年の蓄積の上にあるのである。少し考えれば記憶も想像も個体としてのこの我を超えたものであることが判る。私達は人類の一人として記憶や想像を持つのである。表現というのもそこにあるのである。私達が短歌を作るのも、祖先が作った世界の中に自分を映し、世界と自分を見出していく行為である。そこに見られた形が創造の内容である。
その昔その又昔は現在に比べて世界と自分が未分化であった。私は花咲じいさんや舌切り雀は自分が世の中から充分に分離していない時生れたイメージであると思う。彼等はそこに表現として世の中と自分とが混合している形像を見出したのである。それは自分の営為よりも深い真実を見出したのである。お伽噺は自分等がそれによってあるものとして語り継がれたのであると思う。老母はそこに生き生きとして語るのである。