随筆集

父は、独学で哲学や短歌を勉強していました。父の短歌を作る情熱は、内部からの要求(内部急迫)に従って起っていたようです。

なぜ短歌を作るのか「 私達は何故作るのであるか、その根底には大なる呼声があるようです。斎藤茂吉は内部急迫と言っています。 短歌も俳句も抒情詩として喜び、悲しみを言葉にします。
喜びは生きる影を宿し、悲しみは死の影を宿すものです。生命は生きるものが死を持つものです。そして生きるということは死を越えようとする努力です。言葉というのはその努力が生み出した形です。私達は言葉によって死んでいった祖先の声を聞き、生れて来る者に声を伝えようとします。そこに私は大なる呼声があると思うのです。見出した形に於いて呼び交すのです。
過去と未来を一つとする呼び交しを持つのです。私はそこに私達を呼ぶ声があると思います。そしてそれはそれによってのみ私達が真の自己となる道だと思います。歌が出来ないとよく言われます。しかしそれはこの大 なるものに生れようとする努力であると思います。明日からも頑張りたいと思います。」

【 「満七十才記念 随想・小論集」「初めと終わりを結ぶもの」「自覚的形成」「自己の中に」】

随筆

観念と具体、並びに批評について

前三月号に於いて私は観念は具体を根源に持ち、具体は観念を根源に持つと言った。根源に持つとは、それによってあるということである。今一度別の角度から観念と具体を考えてみたいと思う。そしてその立場から批評ということを考えてみたいと思う。

過日二、三の友人と画の展覧会を見に行った。帰りに誰かが「久し振りに目の正月をした」と言っていた。目の正月をしたとは、見ることによって楽しみを味わったということであろう。見ることは視覚がさまざまの内容を加えることであり、それが見るものの命のよろこびである。展覧会に於いて華麗を感じ、豪壮を感じて、我々は内面に更に大なるものを加えたと感じたのである。併し画家は華麗を描き、幽玄を描き、豪壮を描いたのではない。花を描き、山を描き、滝を描いたのである。対象の筆意を動かすものを色彩と線に追い求めたのである。私はここに観念と具体の真実を見ることが出来ると思う。製作の方向に具体があり、鑑賞の方向に観念があるのである。それは亦表現の動的方向と静的方向であると言い得ると思う。具体と観念が相互根源的であるとは、具体と観念は根源を表現的生命に持ち、表現的生命は具体と観念の動と静に自己を実現することである。

私はここに批評の成立があると思う。静とは写すものである。理性の永遠の鏡に写すところに鑑賞があり、批評があるのである。製作は観念に写して、具体は愈々精緻となっていくのである。表現は歴史的創造的に深化していくのである。観念はその主体的深さを担うのである。相互限定的として作品の価値は観念の深さを宿すところにあるのである。斯かるものとして私は批評とは表現の具体的面が宿した観念を、その観念の深さに於いて露わとすることであると思う。表現的生命は無限の過去を背負うと共に無限の未来への芽を持つ。その全てを露わにすることは恐らく不可能であろう。併しそれに何処迄も入っていくのが批評家の仕事であると思う。それは製作が具体の未知の世界に入った如く、主体の未知の世界に入っていくことであると思う。オスカー・ワイルドの「批評も亦創造である」という言葉に私は深い共感を持つものである。

よく短歌で「それは読者の領域である」と言われる。それは作品の中に主観的側面として観念語の使われている時である。作品の具体による表現が失われた時である。それは観念を内に潜めるものとして具体は具体の発展を持つのであり、それが観念が表に出ることによって理性の世界に転落したということであろう。製作と批評は懸絶を持ちつつ表現的世界を構築するのである。

男と女  <知る>

歴史を知る会の研修旅行の時であったかと思う。男が四五人集まった時に中の一人が「わしらは女の体にならへんから、絶対に女を知ることは出来へん」と言った。誰も反論するものの無かったし、私もそのように思った。併し、考えてみると何か不思議である。それなら女は生れつき女体であるから女が解っているのであろうかと思うと、どうも肯き難いものが残っているようで仕方がない。例えば女が生れてすぐに無人島に捨てられたとする。そしてそこで成長するとき如何なる意識を持ち得るのであるか、生きているものとして食欲と性欲の発現はあるであろう。併しそれは無意識のものであって、如何なるものかを知り得ないであろう。ましておのれが女性であることを知ることはないであろう。そのことは、身体を持つことは直に知ることにつながらないということであると思う。それなれば、身体なくして知るということがあるのであろうか。それは不可能である。女性の身体なくして何処に女性があるのであろうか。あるものは全て形に於いてあるのである。形に於いてあるものとして、私は知るとは形が形を見ることであると思う。形が形を見得るためには、形は自分自身を見るものであり、形は見るものと見られるものとしてあるのでなければならない。私はそこに形成作用というものがなければならないと思う。即ち無限に自己の形を作っていくものにして初めて自己を知るということが出来るのであると思う。私はそこに生命があるのであると思う。

生命は激しい生存競争によって自然淘汰として自己を形成して来たといわれる。それは環境との戦いであり、環境に生きるものとしての主体と主体との戦いである。他に打勝つことによって存在し得るものとして、より大なる能力の獲得に絶えず努力するものである。斯かる努力が男女に於いてはより勝れた異性の獲得である。私はそこに女が形の中に形を見るということがあると思う。私はそれは生命が異性として自己の生命を展開したとき、それに内在せしめた能力であると思う。異性は相引くものとして我々は出現したのである。相引くとは結合せんとする意志であり、結合することによって完結としての形相を持ち得る表示であると思う。動物の雄は雌の性ホルモンの臭いに魅かれて寄っていくという。生命はその形成に於いて雌に性ホルモンの臭いを発する機能を、雄にそれを受け取り行動する機能を与えたのである。雌はそれによって結合への発信を持つ身体を持ち、雄はそれを受けて実現への動作を行う身体を持つのである。人間の男女は動物の雌雄よりの発展である。

私は男は女の身体を持ち得ない、女は男の体を持ち得ないというのは無関係ということではなくして、結合によって一を成就するものとして異なる機能を持つのであると思う。相互補完的として一つの完結を持つのである。相手を得ることによって自己の完成があるのである。相手を魅くべき努力がそこに生れる。努力するとは相手の中に消え去ることではない。女性が愈々女性となることである。男性が愈々男性となることである。そこに女性が露わとなり、男性が露わとなるのであると思う。私は知るとはこの女性が愈々露わとなり、男性が愈々露わとなることであると思う。女性は愈々男性ならざるものとなり、男性は愈々女性ならざるものとなるのである。身体的に愈々距離を持つ不可思議者となるのである。而してそのことが女性が露わとなることであり、形に実現したものとして知るものとなることである。私達はここに知るべからざるものとなることが、知り得ることであるという矛盾に撞着しなければならない。而して私はこのことが真に知り得ることであると思わざるを得ない。

私は相互補完的に一なる生命は対象的に 相手を知り得ないと思う。男と女、我と汝に分かれるのではなく、その根底に補完的に一なる生命の働きがあるのであると思う。女性を知るのは高鳴る胸に於いて知るのであると思う。ベアトリーチェに電撃の如きものを感じたダンテはそこに女性を知ったのであると思う。彼はベアトリーチェの才能を知ったのでもなければ、肉体を知ったのでもない。ゲーテの言える如く、「永遠に女性的なるもの我を誘いてあらしむ」の「我をあらしむ」もものに出会ったのである。異性を統一する根底的に一なるものに出会ったのである。私は斯かるものは絶対に我ならざるものが我であるところより生れてくるのであると思う。男性より見て、女性が我ならざるものであることは、女性より見て、男性が我ならざることである。胸が高鳴るとは斯かる我ならざるものが直に一であるということである。異なる身体が、それによって同一を見ることによって自己を完結するのである。目が身体を超えて結ぶごとく、身体を超えて鼓動が相搏つのである。

生命は形成的である。形成とは形に自己を実現していくことである。それは常に実現すると共に、形を実現せんとする働きを持つことである。形は働きを持ったものであり、働きは形の働きである。私は斯かる形成は分離と統一として自己を実現していくのであると思う。分離の方向に身体があり、統一の方向に感情があるのである。それは母と子の如きものである。子は母より分かれたものである。各々異なった身体としてあるものである。各々自己の身体を養うものである。而して両者は切っても切れない結合を持つのである。その切っても切れないものは情愛として働くものである。男女の分離はそれと事情を異にする。併し分離と統一としての形成として一である。身体は自己の身体を養うものとして、分離は益々分離を要求するものである。愈々女性ならんとし、愈々男性ならんとすることは絶対の懸絶を持つことである。而して斯かる懸絶が補完的としてより大なる形成を持つのである。それはより大なる統一であり、一ならしめるものとしてのより大なる感情の出現があるのであると思う。距てることが大であるとは、相魅く力の大なることである。相魅く力に於いて懸絶するのである。その深淵を埋めるものは胸の鼓動であり、電撃の如き明光である。懸絶はより大なる鼓動となり、より強き明となるのである。私は斯かる感情の表出は判断ではなくして表現であると思う。因果を求めるのではなくして、高鳴りや明光そのものに迫っていくのである。思慮を捨てて生命が開示するものを仰ぎ見るのである。そこに私は知るべからざる女体を知るのであると思う。勿論表現への努力は判断に於いて知るのではない。古今の詩人は飛翔して捉えることの出来ない女性を謳った。画家は描き切れない微妙を描いた。そして謳い、描くことによって高鳴りを増幅し、明光を強大ならしめることによって知ったのである。相互補完的として生命形成の不思議に於いて知ったのである。高鳴りに於いて、明光に於いて不思の底に奏で合うものとして知ったのである。私達は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と阿倍仲麻呂が謳ったのを読む時、故郷を望んだ彼の思いに涙の出で来るのを感じる。千年の時間を距てて、彼の流した涙は私の目に流れるのである。距てた身体は直に一つである。私はベアトリーチェを知らない。併しダンテを読む時、世界の風光を一変せしめる電撃の如きものがわが身を走るのである。そこに感情があるのである。身体と感情、懸絶と統一としての生命形成があるのである。

斯かる身体と感情、懸絶と統一としての生命形成は如何なるものによって成立することが出来るのであるか、私はそれは一々の個体が世界実現的にあることであると思う。世界実現的にあるとは各々個体が自己を実現しつつ根源的同一を有するということである。根源的同一を持つことによって形成的であるとは、身体は同じ状況に於いて同じ形象を生み出すということである。我々はホモサピエンスとして、百二十億の脳細胞と六十兆の細胞を持つと言われる。更に形成物質としての蛋白質も等しいと言われる。私は斯かるものとして人類は同一の形質において時とところに応じた形象を現すのである。故に喜怒哀楽は同じであり、それを生起せしめた状況を異にするのである。斯かる時とところを超えて、そこに時とところが成立するのが永遠である。時とところに距てられて、異なった形象が同一を感ずるのが共感である。仲麻呂の流した涙がこの我々の目より流れる時、そこに我々は永遠を知るのである。永遠を形象化するのが表現である。永遠を形象化するとは、生死する身体を超えることである。言葉が言葉を生み、形が形を生むものとなることであることである。詩が生れ絵画が生れるのである。女性は詩に作られ、絵画に作られるものとなるのである。そこに女体はその神秘を開いていくのであり、そこに私達は女性を知るのであると思う。しかしてそのことは愈々深き神秘のベールをまとったということであると思う。

表現は時を超えて時を包むものとして、世界が世界を見るものである。世界の自己限定の形式である。それは男性や女性を超えたものである。詩や、絵画や、音楽によって女性が愈々賢くなり、愈々美しくなるということは、世界が自己を深めるということが女性が深まるということでなければならない。女体の本能的欲望を超えたものが、女体を包むことによって女性は自己形成を持つのである。斯かる無限の形成に於いてゲーテの「我を誘いてあらしめる」永遠に女性的なるものがあらわれるのであると思う。

具象と観念について

表題は、具象と抽象についてとするのが妥当かも知れない。しかし、私達の「みかしほ」歌会に行くと、具象的であるとか、観念的であるとか言われるので、このようにした。この言葉は、一応表現の両極として対立するものとして受け取られている。そして、具象の方向に写生歌が言われ、観念の方向に象徴歌が言われているようである。しかし、多くの人の言われていることを聞くと、短歌という一つの表現世界の形成として、何処に乖離をもち、何処に接点をもつかが曖昧なように思う。そしてそれを明らかにすることなくして、真に批評や鑑賞が出来難いと思うので、その根源を考えてみたい。
 よく観念は主観的、具象は客観的と言われる。観念は我に、具象は物に即するのである。私は、このことは両者は生命形式の両極としてあると思う。生命はその形成において内外相互転換的である。外を食物とし、食物を摂ることによって身体を形作っていくのである。身体を内として、摂取して不用となったものを排泄するのである。そこに内と外が成立する。食物は我ならざるものである。それを摂取することは、我ならざるものを我とすることである。我ならざるものが我となるものとして、食物は我をとり巻くものである。とり巻くものとして雑多としてあるものである。環境はさまざまのものとしてある。それはまず我々の食物としてあるのである。私達はそれを摂ることによって身体を形作るのである。身体として形作るとは有機的統一体となることである。環境の多に対して、形作るものとして一の実現となるのが、生命であり身体である。

私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るという時、西田博士の言われる自己においてということが必然的に見られなければならないであろう。しかし、今はそれを問わないことにする。私は斯かる自覚を物の製作において見ることが出来ると思うのである。内外相互転換としての生命は、外をより大ならしめることが内をより大ならしめることである。生命は形成作用としてより大ならんとするものである。それを内外相互転換の働きにおきて実現するのである。より大なる生命の実現は古い生命の形を超えて、それを包んだ新しい形が生まれることである。私はそこに自然にある生命から、製作する生命を見るのである。製作的生命になるとは、環境が物としてこの我が主体となることである。物と我が対立することである。製作において物と外が対立するとは、自然においては対立を持たなかったことである。嗅覚において、視覚において外と内とが直に一つであったということである。人間は額に汗して生きるものとなったのである。内外相互転換は額に汗することによってあるものとなったのである。行動が反射として感覚が直に動作なる時、私達はそこに具象も観念ももつことは出来ない。対立が生まれたとは相互否定的にとして自己を見てゆく生命となったということである。食物がなければ我々は生きて行けない命であり、食物は食べればなくなるものである。その食物を単に外として偶然に任すのではなく、働くことによって作り出して、自己の内容とするのが製作することである。私はそこに具象と観念を持つのであると思う。製作するとは物と主体に分かれた形成作用が、主体に物を映し、物に主体を写すものとして一となることである。そこにこの我はより大なるものとなるのであり、物はより豊富なものとなるのである。
例えば私達は米を作る。米は有機的生命のこの我に化すものとして有機物である。斯かるものとして米は直接獲得するのではなくして、稲を栽培することによって獲得することが出来るのである。そのために太陽の恵みの豊かな所を選び、水利の便をはからなければならない、私達はそこに天を知り、地を知るのである。そして、それは風雨を防ぎ、水路を作る労働の中より生まれるのである。そして斯かる製作の中から言葉が生まれるのである。大なる自然を目的によって変革するということは、個々の力のなし得るところではない。生命は本来種として集団的である。手振りや鳴き声など、他者への信号を持つということは、既に集団的であるということである。外に物を作る時働くものは先ず集団としてあるのである。物に対する主体は先ず集団が担うのである。私は斯かるものとして、物の製作は世界形成的であると思う。私とか物を超えて生命が世界形成的となる時に製作があるのであり、自覚とは世界形成的に自覚するのであると思う。世界形成とは生命の自覚として具体的であり、全存在である。私はここに観念と具象があると思う。観念と具象は自覚ではない、自覚を担うものとなるのである。観念と具象は対立しつつ一なるものとして自覚の実現者となるのである。而して対立しつつ一なるとは物と主体の構図であった。私はそこに具象と観念の成立があると思う。即ち製作されたものの方向に具象があり、製作するこの我の方向に観念が成立するのである。物のあり方が具象のあり方であり、この我のあり方が観念のあり方である。

前に書いた如くこの我は対象の雑多なるものを内とする統一者とあるのである。斯かる統一は消耗を充足する身体を持つものとして絶えざる努力である。製作は内を外とし、外を内とする絶えざる努力である。斯かる努力が製作であるとは、製作は内が外を映し、外が内を映す無限なる発展であることである。内が外を映すとは、水が低きに流れる性を捉えて水路を作る如きであり、外が内を映すとは石に手を写して石器として使用するが如きである。手の延長として道具を作ることである。道具を作ることは対象を作り、対象を作ることは道具を作ることである。自覚的生命として内に転換すべき外は製作された物である。我々は製作した物によって生命を養うものとなるのである。そのことは亦道具を介して自己を見るものとなることである。そしてこの我は道具を作り、物を作るものとして世界を実現する統一者となるのである。

観念がこの我のあり方であるとは、生命の形成作用は世界実現的であるということである。主体としての集団とは個を内に持つものである。個を内に持つものとして集団である。集団とは同一の体制を持つものである。それが対象が発展して様々の物の作ることは個への分化を持つことである。道具の多様化として個人が生まれてくるのである。斯かる多様化は世界の実現として統一者が求められなければならない。而してそれは世界を実現するものとして大なる力能者でなければならない。私はそこに神の誕生があったと思う。神は実体ではない。製作に於いて現れた作るものと作られたものの根源としての統一である。この我と物を内容とするものである。それが内容の実現者として、内容に望むとき神は観念となるのである。万事を制約する無制約者として出現するのである。私は観念はここに出現し、全ての観念はこの光被を持つものとして出現したのであると思う。そして具象も亦ここに出現したのであると思う。

製作が内を外とし、外を内とする無限の努力であるとは、我を物と化し物を我と化することである。我を物とすることは物が実現することであり、物を我とすることは我が実現することである。物と化するといってもこの我が物となることではない。物を働きに於いて内包するものとして技能者となることである。技術を持つものとなることである。道具を持つということは物の形相を内に持つということである。物の形相とはこの我が生存すべく、身体の用に作られたものである。木は家を建てるものとして物である。木は家ではない。我々はそれを身体の延長としての道具を用いることによって実現してゆくのである。道具を用いて作るとき、家は身体の用として我々は家のイメージを持ち、イメージを持つことによって実現していくのである。一度作り出されたイメージは脳の中に記憶され、働くものとして次の建築を先導するものとなるのである。ここに世界が形成されるのである。私は愛は斯かる生命の形成の感情であると思う。この形成に於いて、木を愛し、道具を愛し、我を愛し、弟子を愛し、手伝い人を愛するのである。愛とは生命の同一を創出することであり、この創出された同一が価値感情として観念である。具象は斯かる世界形成の手段として出現するものであると思う。木を削り、石を担ぎ、組み立てるのが具象である。愛が観念として、働くものとして不滅なるものに対し、現われて消えゆくものである。愛は生死を超えて全ての人が持つのに対して、人は死に、家は壊れる。併し、削り運ばれることによって世界が実現していく如く、此処から愛が生まれて来るのである。汗から、力の表出から一つの形を生み出してゆくのであり、形の実現が一のものとして愛が生まれ、はぐくまれるのである。削られ現われた木肌、一つの構想の下に据えられていく礎石等一々が愛惜の情を担うのである。愛の観念はその一々が担うのである。愛は具象に出現するのである。具象の一々を失った愛の観念は何ものでもない空虚なものである。物に主体を映し、主体に物を映す無限なる働きとしての生命は、具象は観念の光りを受けて出現し、観念は具象に担われるものとして世界を形成していくのである。

私は、短歌は生命の表現としてここに二つの道を持つものと思う。一つは具象より観念を見出す道であり、一つは観念より具象を見出す道である。一つは写生の道であり、一つは象徴の道である。写生の道とは具象は観念を担い、世界を実現するものとして現実の姿を追求することである。一つは働くものが自己を表すのが世界であるとして、具象を主体の陰として見ようとする立場である。一つは物の事実より世界の展開を見ようとする立場であり、一つは感情の事実より世界の展開を見ようとする立場である。それは相反する立場である。併し私は生命形成が主体に物を写し、物に主体を写すものとして、この相反する両方向を持つと思わざるを得ない。世界形成に於いて外は物に発現し、物は感情に発現するのである。内外相互転換の形成として物が身体の発現となる時に感情が生まれ、身体が物の発現となる時に具象が生まれるのである。そして発現する物は一方を内に含む物となるのである。前者に於いて感情は物を含み、後者において物が感情を含むのである。世界形成的に内が外を含むとは、内が愈々大となることであり、外が内を含むとは外が愈々大なることである。物を作るということは身体を作ることであり、身体を作るということは物を作ることである。身体に感覚を愈々精緻ならしめるのである。精緻ならしめるとは多様なる物を感受し、表現する機能を持つことである。世界形成的生命として主体はそこに自己を見出していくのである。そのことは必然的に物が多用なる物として出現することである。

表現するとは自己を露にすることである。露にするとは外に見ることである。外に見るとは自己ならざる物とすることである。自己ならざる物として自己と対立するものとなることである。言われる如く機械は逆に人を使うものとなり、商品は対価を払うことなくして使用し得ざるものとなるのである。併し外は内に転化するものとして外である。内を映した外として、それを更に内とすることは更に大なる我となることである。外を益々多様として、その多様を内に包むものとなるのである。生命はそれを喜びとして直観するのである。そしてそれを失うことが悲しみである。そこに耐えざる外化と内化を要求するのである。物の出現が喜びを生み、喜びが者の出現としての製作へと駆り立てるのである。感情は働く主体の純なる流れである。形作られる身体の表出である。それが外によって養われたものとして働く形を持つのが観念である。故に愛も神も感情として出現するのである。外の多を一として実現する身体の表現は感情である。斯かるものとして生命形成は、具象と観念の無限の交叉である。一即多、多即一、内即外、外即内として世界は相即的に形成するのである。これをたとえば瓜の栽培をする時我々は豊かな食生活を期待する。この期待はこの我が持つのである。併し別の言葉で言えば期待は瓜の中に棲むのである。種子を蒔くと共に希望が生まれるのである。瓜苗の生長は希望の成長である。そこにこの我に愛の感情が生まれるのである。栽培はこの我がする時、愛によって瓜が育ち、瓜によって愛が育つのである。これを瓜の育つ側から見れば具象であり、愛の育つ側から見れば観念である。外に物が形を成し、内に身体が機能を持つものとして形を成すのである。これが世界が世界を作り、世界が実現することである。而してこの世界形成は相即の世界として、事より事への世界である。見るべからざる世界である。それを見るには何れか一つの立場に立つということが必要である。そこに写生と象徴の立場に分かれるのである。併し生命形成は何処までも内外相互転換的である。詩が生命の形を追求するものである限り、一つの立場は行き詰まらなければならない。

写生が写生の立場に固執し、観念が観念の立場に固執する時に袋小路に入らざるを得ない。それがマンネリである。生命の内外相互転換は短歌の表現に於いて具象と観念の交叉である。それは相互否定的に一ということである。私は一つの立場を取りつつ相互否定的であるということは、或る時は観念が優勢となり、或る時は写生が優勢となることであると思う。観念が優勢となってその方向に突進む時に目指したものが一つの熟成を持ちマンネリとなるのである。そしてそれを打ち破る具象の立場が現われるのである。そしてそれが新しい世界を負うものとして目覚しく展開し、熟成していくのである。そしてそれを観念が打ち破っていくのである。それは前の形を破った物として一つの形であり、無限に動的な生命の一の形として打ち破られるべく現われたものである。併しそれは単に打ち破られたのではない。打ち破るのはより大なる力の出現でなければならない。具象は既成の観念の形を内に含むものとして新たな形を持つのであり、観念は更にその形を包むものとして時間の上に現われるのである。斯くして停滞は過去の形相を陰影とする多彩なる展開となるのである。そこに創作は無限となるのである。

 

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