作歌に即しての芸術表現の考察

私の所属するみかしほ短歌会では年一回の吟行旅行を行う。日常の中に埋没して鈍磨しがちな感覚を、新しい風物に触れることによって鋭くし、創作力を高めようとすると共に会員相互の親睦を計ろうとするの狙いである。併し目に新しい景色に嘆声を発しながら即詠というのは中々難しいようである。私たち山中に住む者が海辺に出ると果てしない紺碧の広がり、鳥の緑を縫って走る白塗りの船など全てが詩のように思える。誰も同じ思いなのであろう。ノートとペンを持って思い思いに逍遥している。「出来たか」と尋ねると大概の者が「いや一首も出来へん」と答える。それは何時の旅行も大同小異である。それでは吟行旅行は無為な企画かと言うとそうではなくて、翌月のみかしほには皆さんの堂々たる作品が並んでいる。直接に目に触れる時よりも家に帰ってからの方が歌が作れるようである。それは何うゆことなのであろうか。私はこの問題を追及する前に、見るとは何うことかをたずねてみたいと思う。

禿鷹は三千来の高所にあって地上をありありと見ることが出来る。併し見るのは野ねずみのみであると言われる。鯛は深海にあって人間の五千倍の明らかでものを見ることが出来ると言われる。併し見るのは敵と餌となるものだけであるそうである。生物の機能は生存すべくはたらくのである。生命は内外相互転換的である。外を食物的環境として収穫し、喰うことによって身体と化し、生命を形成してゆくのである。環境は収穫によってわれわれが生きる所として我ならざるものである。それをわれとすることによって生きるのである。私は目とは斯かる内と外、我と食物を繋ぐ生命の機能であると思う。内外相互転換としての内の身体が外との関わりを持つべく身体を切り拓いたものであると思う。外はそこより流れ入り、内はそこより流れ出るのである。そこに生命形成のはたらきは生まれるのである。『心そこにあらざれば目前にあるとも見えず』という言葉がある。私たちが見るとは漠然と見るのではない。注意作用に於いて見るのである。注意作用は生命形成の内的欲求より生まれるのである。内的欲求とは身体よりの要求である。動物はそれを個体保存としての食、種族保存としての性に持つ。それに対して人間は丁吏的形成である。技術的である。技術的とは無限の過去の経験が現在に蓄積されていることである。われわれの身体は手を持つ身体であり、言葉を持つ身体である。言葉は記憶として無限の過去を持つところより生まれ来たったのである。手は経験の蓄積として物を製作するところより現れ来たったのである。われわれが見るとは、斯かる身体の要求として見るのである。無限の時間を内に蔵し、制作するものとして見るのである。無限の時間はその一々に表象を有し、製作はその表象より現在の要求に於いて選択し結合することによって新たな現在の表象を樹立するのである。われわれが見るとは単に対象を見るのではない。現在の形相を見るべく注意作用を持つのである。否対象そのものが内外相互転換の内容として、現在の生命形成に参与するものとしてあるのである。

私は短歌の創作も斯かるところにあると思う。見るとは現在の表彰形成として見るのである。現在の表象形成には無限の過去の表象の選択と結合を持つのである。それが短歌に於いては万葉であり、古今であり、新古今近であり、字生であり、象徴である。人麻呂であり、赤人であり、実朝であり、定家、俊成であり、子規、茂吉、白秋、佐太郎であり、更に無数の古今、現在の歌人である。更に縁暈として西洋語であり、漢詩であり、世界各国の詩、哲学、小説、宗教、随筆である。あらゆる文字、思潮、社会形態である。或は私はその中の一つも知らないと言われる方もあるであろう。もちろん誰もその全てを知るものではない。併し世界はその全てを包含するものとして、その動転に於いてわれわれに生存の対決を迫ってくるのである。われわれは世界の中に生き、世界を映すことによってあるものとしてそれに対するのである。われわれの意識は世界意識を映すことによってあるのである。世界の現在の動きを映すことによって現在の行為を決定するのである。見ることも斯かる行為の中の一つとして見るのである。注意作用は行為に於いてあるのである。見るとは自己の現在が世界の現在として、世界の現在が自己の現在として自己形成的に見るのである。製作的生命として社会活動的に見るのである。短歌を作るのも短歌の世界の中の一人として面々早退するところより作るのである。我と汝そして無数の彼の作歌するもの歌の世界を作るのである。そしてそれは現在の世界を作り丁史的現在を現すということである。

私は吟行旅行に於いて様々なものを見ながら歌が作れないと言うは本当に見ていないのであると思う。本当に見ていないとは自己形成としての目がはたらいていないということである。家に帰って暫くすると歌が出来るというのは真に見るということが熟成されたのであると思う。対象を離れて一人となることによって、無限の表象が対象に集合し、取捨選択されて結像を持ったのであるとおもう。もちろんそれは直観的である複雑な過程を経るのではなくてイメージとして現前するのである。イメージとはこの我に現れた世界像である。それは世界像としてこの我ではない。而してこの我によってのみ現れるものとしてこの我である。それは無限の過去の蓄積を持つものが現在の内外相互転換の一時点に於いて出現した世界像である。私はそこに見るということの完成があると思う。短歌は文字によって表現されるが故に選択は言葉によってされ、文字によって結実するのであると思う。歌人は作歌に於いて見ることを完成するのである。作品は凝固せるイメージである。一人居るときに作品が出来るというのは、素材に面している時は素材に目が奪われて無限の過去の表象を有する自己の生に表象の結集として選択が出来ないのである。素材を離れて一人になった時自己の生による素材の展望をもつのである。展望をもつとあh、過去の無数の歌人のイメージの結像としての作品、過去の自己の作品が表象として結集し選択されて素材と自己の唯一結像が実現するのである。斯かる実現が作品である。故にわれわれが歌を作るとはこの我が作るのであると共に、無数の過去の家人への応答として作るのである。イメージは無数の表象の呼び文として生まれるのである。斯かる応答は一人となることによって持つのである。素材としての外に向かっていた目は、一人となることによって内に向くのである。内に向くとは過去の無数の表象の統一体としての自己に向くことである。そこに内と外が一つになるのである。イメージが生まれるのである。作品としては現在の内外相互転換を素材として一体としての自己に摂取したということである。それは飯を食って身体を作ると軌を一にするものである。

私は斯かるイメージは内面的発展をもつものであると思う。イメジには内外相互転換の結像としてあるものであり、転換は一つの完結体でなければならない。そのことはイメージもまた完結体でなければならないことである。それに対して発展は次のものへの連続をもつことである。斯かる発展は如何なるものであるか、私はそこに呼ばれるということがあると思う。多くの人々は同一の環境、風土の中にあって集団生活を営むものである。技術は集団の中より出で来たったのである。技術は環境を人間の生存に合わせて変革するものである。環境の変華はまた人間の間柄の変革を伴う。情緒は身振りとして身体の行動に相即するものである。内外相互転換の身体の現われが情緒である。間柄の変革は新たな情緒が生まれることである。それが人間の生存に合わせて変革するとき、その行動を多様にあわせてより大なる情緒をもつのである。変革を担うものは前にも述べた如く言葉であり手である。より大なる情緒が言葉に現れた時に詩が生まれるのである。それは一人の天才に形成的生命がおのずから具現するのである。世界の底から湧き出てくるものが一人の天才を衝き動かすのである。呼ばれるとは同じ風土、環境にあるものとして、その詩を聞くことによって自己の内深きものの目覚めをもち、自己の情緒による世界表象をもつのである。自己のイメージを持つのである。情緒に於いてより大なる生命に参加せんとするのである。動物に於いては一匹がよく全種を代弁する。併し技術的形成としての人間に於いては一々がその端末を有するのみである。而してイメージは一端末が世界に繋がるところより出てくるのである。呼ばれるとは他社の異なった自己が同じ世界の形成者であるところより来るのである。私はそこにイメージの内面的発展があると思うのである。短歌は日本的風土に生まれたイメージの発展である。古今は万葉の連続ではない。変革された社会の世界感情によるイメージの出現である。古今的イメージを万葉的イメージより喚起されるのである。斯かるものとしてイメージの内面的発展は植物の成長の如き形をとるものではない。多様の統一の形をとるのである。

ホモサピエンスとして現在の人類は全て六十兆の細胞と百四十億の脳細胞を持つと言われる。人類は幾万年に亘って同一の構造をもつ生体である。風土としての自然も長年月に亘ってほぼ同一の構造を持つのである。われわれの営みは斯かる構造をもつものの日々の繰り返しである。われわれの営みの根底には大なる同一があるのである。技術をもつとは斯かる繰り返しが蓄積として変革を持つということである。繰り返しが変革を持つとは、営みが営みの中により大なる営みを持つということである。斯かるより大いなる営みにイメージが生まれるのである。私たちは日本人的特質と、日本風土に営みをもち、はたらくことによってより住み良い世界を作るところにイメージがあるのである。内に新たな映像を作ることが出来るのである。同一なる主体と環境が否定と肯定によって新たな自己像をもつそれがイメージである。故にイメージの根底にはより大なる世界への歩みというものがなければならない。そこには常に同一なる主体と環境が、主体と環境の対立に於いて新たな相に転じてゆくということがなければならない。斯く転じてゆくものが経験の蓄積としての技術的製作である。世界が自己の中に自己を見て行くのである。そこに内面的発展があるのである。

私は作歌ということも斯かるものであると思う。明石の浦の歌は柿本人麻呂がもったイメージを言表したものである。私達ははその歌を読んで明石の海に対したとき、海は単に眺めた時より深い情緒の内容となる。航く船、霞む島に対して様々の感慨が生まれる。言葉を加えた目となるのである。併しそれは人麿の持ったイメージと同じではない。距てた時間の持つ変容に於いて生まれたイメージである。喚起されることによってわれわれは現在に生きるイメージを持つのである。否イメージとして現在の自己が顕現するのである。もちろん喚起されるということはそれによって内なるものが覚まされるということである。そこには人麿のイメージの再生ということがなければならない。作品の言葉が宿すイメージの追体験ということがなければならない。併し距た時間はわれわれの目を人麿の目とならしめることは不可能であると思う。もし人麿と同じ目を持つことが出来るとしてもそれは唯、形成的生命の無駄に過ぎない。私は過去のイメージによって新たなイメージが喚起され、喚起されたイメージが更に次のイメージを喚起するのをイメージの内面的発展というのである。

イメージが内面的発展をもつには現れるものが全て異なったものでありつつ一なるものがなければならない。呼び呼ばれるのは一つの共通の世界にあることによってのみ可能である。一つの世界を作るところにわれわれは呼び交わすのである。私は斯かる同一が前に書いた根底的同一であると思う。根底的同一の上にあるとは、根底的同一の現れであるということである。呼び交わすとは根底的同一が自己の中に自己を見てゆくのであり、内面的発展とは根底的同一の自己形成である。われわれは斯かる根底的同一を日本的特殊として持つのである。呼び交わしは世界がするのではなくして我と汝がする。それは形成として空間を持つ。それが日本的風土に生きるわれわれの形成である。同一の風土、同一の生体のもつ営みは無限の繰り返しである。日々、年々の繰り返しである。蓄積は斯かる繰り返しの上にもち得るのである。イメージは繰り返しのもつ蓄積の映像である。呼び呼ばれる形成の声は斯かるイメージより出てくるのである。それは変化に於いて根底的同一が自己が自己を見る現われである。時間、空間は根底的同一が自己を見る内容である。一々のイメージは根底的同一の顕現として時間、空間を超えるのである。超えるとは内に持つことである。そこに永遠があるのである。イメージがイメージを喚起するとき、そこには時間、空間を超えた同一があるのである。縄文土器がわれわれのイメージを喚起する時、縄文土器は永遠の現在として生命の息吹を持つものとなるのである。

イメージがイメージを呼ぶとは、一つの形を決定することである。風土と人間が内外相互転換的にあるということは形を持つということである。風土と人間と言うことすら自己が見出た自己の形としてあるのである。風土と人間が内外相互転換的に形成するということは、風土と人間が映し合うことである。風土が環境として、人が環境を映し、環境が人を映すということがものの形が生まれるということである。製作的生命として獲る、争うといったことに古来より幾多の形が生まれたであろう。その中から最も合理的なもの、簡単にして効果的なるものが選択されてきたのであろう。斯かる形は二つの方向をもつということが出来ると思う。一つは環境的方向としての物の形成である。一つは人の方向として主体の形成である。人は環境を映し、環境は人を映すものとして、物の製作は新たな主体の組織を要求するのである。新たな組織に生きる者は新たな行動を持つものとして新たな感情が生まれてくるのである。そこに新たなイメージが生まれてくるのである。斯かる組織が無限に内と外を映し合うものとして発展を持つとき、そこにおのずから言表の衝動が生まれてくるのである。斯かる言表が主体の形である。形は固定されたイメージとして新たなイメージを呼ぶものとなるのである。

最古の残された文字は詩であると言うのを読んだことがある。昔宮廷詩人というものがあった。宮廷詩人とは、帝王の徳を作るために詩ったと言われる。詩うことそのままが帝王の徳になったと言われる。帝王とは新しい生産体制の統率者である。帝王を詩うことは生産社会の主体を見出すことである。詩はれた様々の徳は生産の発展が主体に要求するものである。そこに沸き出でてくる無限のイメージがある。生産の増大は帝王の威徳の増大である。もちろんこの場合、帝王とは一個人としての人間ではない。生産の主体面を象徴するものである。見出された形は生産の増大と共にイメージを生み、イメージは形へと転化されて更にイメージを生むのである。私は二本の短歌も斯かる展開を持つのであると思う。帝王の徳は更に拡大されて自然も亦其の徳を帯びることとなり、人間全てが愛を持つものとなったのである。私は斯かる生命を育てるものが日本に於いては和歌であったと思う。それは初め誰かが作った。そしてその型式は日本の風土に生きるものの情感を最も表しやすいものだったのである。最も豊かにイメージを生み、育む型式だったのであると思う。イメージより生まれた形は逆にイメージを生むのである。斯かるものとしてわれわれは歌を作り、歌はわれわれの心を作るのである。形は根底的同一が自己自身を見るのである。

イメージは内的表象であって物ではない。それは内外相互転換としての内の方向の展開である。具体的生命形成が内が外を映し、外が内を映すものであるとき、何処までも外を映す内としてあるものである。内が外を映し、外が内を映すのが、無限に蓄積的であるとき、内の無限の発展が外となり、外の無限の発展が内となるのである。外が内の無限の発展をもつとき物が生まれ、内が無限の発展を持つときイメージが生まれるのである。世界形成は外によってあるのでもなければ内によってあるものでもない。何処までも内外相互転換としてあるのである。相互転換とはお互いが自己自身の発展をもちつつ、自己自身の発展がお互いの発展となるのである。物が物を作り、イメージがイメージを生むのである。而して物が物を作ることがイメージが生まれる基盤となり、イメージがイメージを生むことが物が物を作る基盤となるのである。イメージは歴史的形成の根底的同一が変化を映す方向に、物は変化が根底的同一を宿す方向に成立するのである。

故に歴史はその本質に於いて、物の形成にあり、変化、変遷にあるのである。過去の中に葬られてゆくのである。それに対してイメージは呼び合い、語りかけるものとして時を超えるのである。物が朽ちてゆくのに対し、イメージは生に連なるものとして、生まれ来るものと呼び合うのである。何万年か前にネアンデルタール人が墓前に初めて花を捧げたときより人間は人間になったというのを読んだことがある。涙に於いて、微笑みに於いて、われわれは時を超えた直接のイメージを交わすのである。呼び交わすことによってわれわれはより明らか、より深いイメージを持つ。他者の涙、他者の微笑みを見ることによって。涙や微笑が自他を超えた全人類の深さより来るのを知るのである。そこに自己の内より情感は溢れるのである。それが表現であり芸術である。私は芸術は歴史の変遷に対して朽ちざるものとして、時の変化を永遠より裏打ちするものとして物と共に歴史的形成を担うものであると思う。

 

創作の価値の基礎について

よく「好きな歌がよい歌である」と言う人がある。その論旨の不可なることは少し考えれば判ることである。甲の人がこの歌は好きであると言い、乙の人が同じその歌は嫌いであると言った場合、我々はその歌の評価に対する何等の基準を持たないことになる。何等の評価も持ち得ないということは惚けた老人の独語と変らないということである。そこには創作ということもあり得ないことになる。言葉は対話として世界を表象するものである。我と汝がそこにある世界の形象を見出すものである。評価とは如何に世界に参与し、如何に世界を形作ったかを定めるものであり、次の世界を拓く踏み台となるものである。そこに創作があるのである。

しかし「それならお前のよい歌というのはお前の好きな歌ではないのか」と反問されたら答えに窮する。広辞苑に好きとは「気に入って心がそれに向うこと」と書いてある。撰歌を依頼されたときもざっと目を通して気に入ったものに印を付けていく。更に印を付けたものに精密な考察を加える。撰ぶのは好きな歌である。注意するということが既に気に入ったということである。作歌するのもそうである。心の向うことなくして作歌はあり得ない。参考となるのは常に心気を高揚させてくれる歌である。即ち好きな歌である。そしてそれがよい歌であると言わざるを得ない。私達はそこに好きな歌がよい歌である、しかし好きな歌がよい歌の基準になることは出来ないという難問に当面せざるを得ない。私はこの問題のよって来るところは感情は個人に関り、価値は世界に関るところにあるように思う。個人は世界ではない。世界は個人ではない。而して世界は個人によってあり、個人は世界によってあるのである。個人と世界は相反するものであると同時に直に一つのものである。私はそこにこの問題を解くべきものが潜んでいると思う。

生命は内外相互転換的に形成的である。外を内とし、内を外として自己の形を作っていくのである。外を食物的環境として、食物を摂ることによって内としての身体を形作っていくのである。私は斯かる生命の自覚として人間があると思う。自覚とは相互転換としての形成が内面的発展を持つことである。形成としての生命が内と外としての、身体と環境により大なる形相を見出していくことである。生命は働きと形、時間と空間の統一としてある。生命は生存としてより大なる形相とは、より長く生き、より大なる場所を持たんとすることである。斯かるより大なる形相を内と外とを見ることによって形作っていくのが内面的発展である。私は斯かる内面的発展を経験の蓄積に見ることが出来ると思う。経験の蓄積とは一瞬一瞬の内外相互転換を時間の持続に於いて見ることである。一瞬一瞬の内外相互転換が、一瞬に消えて一瞬に生れるのではなく、前の一瞬の働きが今の一瞬の働きの力となることである。前に現われた形が今の形を生む力となることである。例えば野菜を植えているところにごみを捨てたとする。そしてそれによって成長が早められたとする。すると次に野菜にごみを施すごときである。そこに時間と空間が現われるのである。野菜畑にごみを捨てたら野菜が早く大きくなったのが過去であり、ごみを肥料として施しているのが現在であり、野菜の成長と収穫を予測するのが未来である。そして野菜の栽培の場所が空間である。時間・空間は製作によって出現するのである。

技術的製作的になるとは形が無限に生れることである。外とは我ならざるものである。内外相互転換とは内としてのこの我が外としての我ならざるものに出合うことである。相互転換とは外としての我ならざるものを身体としての内に転換することである。それを蓄積するということは、我ならざるものを我とする手段を持つことである。そこに必然が成立するのである。我ならざるものとして出合の偶然であった野菜は栽培に於いて必ず出合えるものとして必然となるのである。その必然の体系が技術である。生命の必然の体系に組込まれた野菜は、何処迄も外として、身体ならざるものとして、身体の欲求に従ってより美味に、より多量にとして形相の大を求めるのである。そこから様々の形の分化が見られるのである。斯くして偶然と必然の交叉の中から創造として無限の形が生れてくるのである。

内外相互転換は生命の基本である。基本として生命発生以来の全ての生命が持って来たものである。内外相互転換が生命形成であるとは、全ての生命が転換を持ち、転換に於いて生命と生命が食物の所有を争い、そこより形が生れたということである。有機体に於いて外とは敵である。内外相互転換とは闘いである。闘いは個体が死を超えようとする努力である。そこから個体としての形が生れて来るのである。動物の世界は闘争の世界であり、自然淘汰の世界である。私は人類の製作に於いて自他を統一する大なる世界の展望を持つことが出来たのであると思う。製作は前にも書いた如く偶然としての外を必然としての内に組み込むことである。斯かる外は私一人の環境としてあるのではない。この我も亦生れ来ったものとして、無数の人々が生まれ、育ち、死んでいくところとして環境である。生まれ死んでいくところとして環境は大なる力である。製作は変革することであり、環境の変革はよく一人の力のなし得るところではない。それは全人類の無限の努力の上に成り立つのである。経験の蓄積というのも全人類の内容としてあるのである。蓄積を記憶として持つ。我々が記憶を持つのも全人類の内容として、全人類の形相を宿すということである。人類が形成してきた世界の一点として記憶を持つのである。

製作は形の無限の発展である。私はそこに芸術の萌芽があると思う。無限の発展とは見られたものが見るものとなることである。作られたものが作るものとなることである。蓄積としての獲得した力が働くものとなるのである。作られたものが我と対し、我に対するものを外として更に大なる内面的必然の体系の中に組み込んでいくのである。即ち更に合目的的な物を製作していくのである。製作として物は人を映し、技術として人は物を映すのである。内と外とは相互否定的に一として発展していくのである。形より形へである。製作は身体の形成として、身体の用のために始まった。而して形より形へは身体の用の中に消えゆくのではなくして物自身の発展を持つものである。勿論基本としての身体の用が消えるのではない。人類の内容として個体の用を超えた形を持つのである。社会の内容として商品となるのである。勿論商品は芸術ではない。商品は尚個体の欲求に即するのである。私はそれが芸術となるのは個体の用としての欲求的内容より転じて、人類が自己の形相を見るということであると思う。形より形へとしての製作は前にも書いた如く、瞬間としての内外相互転換を超えて過去・現在・未来を内に持つことである。過去は帰り尽くせないものとして無限であり、未来は到り尽せないものとして無限である。それは全人類の持つ無限である。それは個を超えたものとして個を内容とするものである。私はここに現われる形は世界の形相であると思う。私はこの個を超えて過去・現在・未来を統一する生命として、世界が世界を見ることによって生れる形が芸術であると思う。そこは形が形を生む根源として純なる形である。

生命は生きるものが死を持つものであり、死にゆくものが新しい生命を生んでいくものである。営みは一瞬一瞬の内外相互転換であり、内外相互転換は形成作用として過去・現在・未来を統一するものである。永遠が瞬間であり、瞬間が永遠なるものとして営みを持つのである。製作も亦生命の自己表現として瞬間即永遠・永遠即瞬間として形を実現するのでなければならない。私は作られた形の全ては日常の用としての瞬間的な方向と形の実現として永遠の方向を有すると思う。そして日常の用の方向に物としての器具が見られ、時を包む形の方向に美としての芸術品が見られるのであると思う。茶碗の破片も時を包むものとして美の内容であり、飾り皿も果物を載せれば器物である。勿論碗の破片が美術品であるというのではない。最初に人類が物を作った時に用の方向と形の方向があったと思うのである。縄文土器につけられた紋様は神の形象であると言われる。天地を写すのである。そこから種々の形が生れるのである。しかしそれはまだ芸術品ということが出来ないと思う。それが芸術品となるには用から離れなければならないと思う。用から離れて世界の形を表わすものとなるのである。最初の形は用として現われるのである。永遠なるものが初めに形を持つのは瞬間的なるものとしてである。瞬間的なるものとして身体に即して現われるのである。身体の行動的直感として現われたものが次の形を生むとき、そこに時の統一が現われ世界が世界を見る形となるのである。私は芸術とは形が斯かる方向に内面的発展を持つことであると思う。この問題を解くために更に形とは何かについて踏込んでみたいと思う。

私は前にも書いた如く、死をもつ生命は生きんとするものであり、死の克服として現われた生命の相が形であると思うものである。初めに形が現われてそれが死を持つのではない。生れることが死ぬること、死ぬることが生れることとして形が現われてきたのである。形が現われることによって生と死が否定的に対立するものとなったのである。私は生命は生死の統一として初めて具体的な存在であると思う。具体的な存在とは形を持つことである。斯く生死を持つということが内外相互転換的であるということである。外を死とし、内を生とするのである。外は環境として死を以って迫ってくるものとなり、内は身体として努力によって環境を身体に転じて生を維持し発展させるものとなるのである。そこに外は世界として形を持ち、内は身体として形を持ってくるのである。斯かるものとして形は相互限定的である。身体は環境を映し、環境は身体によって変革されるのである。形の成立は環境に作られ、環境を作るということである。斯くして生命の営為は環境と主体が映し映される無限の形成の働きとなるのである。村里と山家・大河と小川・温暖地と寒冷地等々一木一草に至る迄、我々はそこに生き、それによって生きるものとして形を作っていくのである。生きるものとしての形を作っていくとは感情・意志・知識を作っていくことである。そこに生きるものは生れ変り、死に変り一つの形に生き、形を発展させていくのである。斯くして生きるとは先人の形を学び発展させていくこととなるのである。ここに於いて私達は形に生き、形によって生きるのである。経験の蓄積はここに成立するのである。経験の蓄積は外が身体の用を離れて形が形を生み、生命形成の内奥を露わにすることである。身体を超えた形として世界が現われることである。

用を離れ、身体を超えると言っても進退がなくなることではない。内外相互限定としての内の身体を失うことは形がなくなることである。唯用としての内外相互転換は身体が重心を持つのに対して、形としての内外相互転換は世界が主となるのである。前者に於いては世界は感官的欲求の内容となるのに対して、後者に於いては身体は世界の内容として、世界の形を現わすものとなるのである。身体はもともと無限の奥行を持つものである。但しそれは内外相互転換的に外を映し、外を映したものを自己とすることによってである。無限の創造的発展を潜めるものとしてである。身体が奥行を持つとは外を映すことに無限の形を持つことである。そしてそのことは亦内外相互転換として外に無限の形をあらしめることである。ここに我々はこの我をあらしめ、物をあらしめるものに逢着するのである。この我をあらしめ、物をあらしめるものは我でも物でもなくして我と物を超えたものでなければならない。超えたものとして物に移して我をあらしめ、我に映して物をあらしめるものでなければならない。而して我と物をあらしめるものとして見出された形は超越者の姿でなければならない。超越者が自己自身を見るものとして形成があるということでなければならない。そのことは我が物を作り、物に我を見るということは超越者の自己創造ということである。私は形が実用を超えるというのはそこにあると思う。そこに物は身体の用を超えて超越者が自己自身を見るものとなるのである。我々が物を作るのは本来超越者が自己自身を見ることであり、身体の用はその手段となり、その陰翳となるのである。斯くして超越者の内容としてのこの我が超越者を宿すのが価値としての表現であり、芸術も亦そこに生れるのであると思う。短歌も亦芸術として日本的特殊に於いて超越者を表わすところにあり、評価の生れるところもここにあると思う。

日本的特殊とは日本の風土である。そこに生れて働き死んでいく自然である。生きて死んでいくということは内外相互転換的に環境と主体が映し映されて形作ってきたということである。そこに我々は自分の形を作ると共に日本の形を作ってきたのである。自分の形を作ることが日本の形を作るものとして生きてきたのである。私は斯かる形成作用の日本の形を作る方向のひとつとして短歌が見られると思う。それは身体の用としての物の方向ではなくして、対立の統一としての言葉の方向である。物が身体の生死を映すものとして現われて消えていくのに対し、それを超えてそれをあらしめる言葉の方向である。それは対象を映し、対象に映されて自己を明らかにしていく創造的一者の形成作用である。私は短歌は斯かるものとして、日本の風土に生きる生命が風土と生命の相互否定的転換に於いて世界を形成し、世界を明らかにしていく一つの手段であると思う。それは無限の転換である。外を映したということは外をイメージとして自己の形を作ったということである。内を外に映すということは、外を獲得した新たな力によって更に大なる世界を作ることである。更に大なる世界を作るとは超越者が自己自身を現わし切ろうとすることである。而してそれは無限者として無限の働きである。無限なるが故に超越者なのである。私達は斯かる世界の内容として、働くということは無限の姿を見るということである。実現するということである。私は斯かるものとして良い歌とはどれ程世界を映し、我を実現したかにあると思う。映し映されることによって世界を形作り、形作ることによって見ていくのである。それは映し映されたものとして無限の過去を内に見るものであり、無限の未来への呼びかけを持つものである。良い歌とはより明らかにより大なる世界を開いたものとして、この己により明らかなより大なる内容を持たしてくれるものであると思う。そしてそれは映し映される、無限の努力の中より生れてくるのである。努力するとはより明らかなより大なる世界を求めていることである。求めているものが与えられた時、より大なる光りを与えられた目の如く知るのである。そこに形成的生命の自己直観があるのであり、生命は直観的に自己を形成していくのである。目から鱗が落ちたという言葉がある。より大なる世界に接して、より大なる形を見、形を作る目となったということである。私はそこに芸術の世界が成立し、客観性はそこに求められると思う。日本の自然と人間が映し映されるときに和歌という形に結晶したのである。作品を介して主体と対象、我と世界は明らかな形を持ってくるのである。映し合う主体と対象は作品によって自己を明かにしていくのである。恰もそれは鏡の如きものである。鏡に映して自己の姿を知ると共に、ありたき姿とある姿の乖離を埋めんとしてより美しいより大なる自己の姿を作っていくのである。乖離をもたらすのは世界としての他者の目である。斯くして自己をより美しくより大ならしめるものは重々無尽の世界である。勿論作品は鏡ではない。単に写されたものではなくして実現したものである。逆に世界を作るものである。作られた世界として次の創造を呼ぶものである。私達の無限の努力はここより生れるのである。我々の働くことが呼ばれるものであることによって限りなき努力をするのである。

私は良い作品とは我と対象としての世界をより明らかにし、その明らかにしたものに於いて創作を呼び続けるものであると思う。創作を呼ぶということは好きということである。そこに好きな歌が良い歌であるということのよってくる所以がある。しかし好きというのは自己に関るものである。自己に関るとは他者に関らないということである。そこに世界形成はない。世界形成のないところに自己は消失しなければならない。好きということの上に立って自己を見るとき、自己とは唯世界形成より他者を捨象して見られた抽象物に過ぎない。自己に世界を映すのみにて、世界に自己を映すという意味が失われたところにあるものとなるのである。そこから新しい形としての自己を生むことが出来ないと思う。勿論内外相互転換としての現実にはこのような一方的なものはない。好きは他者に関るのである。唯好きという時他者の中に自己を消していく真の形成はないと思うのである。呼ぶというのは内外一としてこの我を超えた形としての世界より我をあらしめる声である。好きというのも我をあらしめる世界の中により真実の我を見出した感情である。世界が自己を運ぶところに生れるのである。それを評価に於いて逆に我よりとするところに誤謬が生れるのである。

形は何処迄も内と外とが作品を介し自己を明らかにするところより生れるのである。現われた形が世界である。この現われた形以外に世界があるのではない。そしてそれをあらしめるのが内と外として無限に映し合う主体としての人間と対象としての物である。この世界の内容として現われたこの我々と物以外に物や我があるのではない。この我や物が評価を持つということは、映し映された世界の明らかさをどれ程深く大きく担っているかということになければならない。映し映されることによって明らかになるとは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは初めと終りを結ぶものが自覚的ということである。初めに終りがあるのである。初めに単細胞として地球の一点に生れた生命は無限に自己を複製し、内外相互転換として形の中に形を見出していくのであったのである。そこに新しく生れることは初めに帰ることである所以があるのである。最初の生命が内外相互転換として新しい形に転じていくのである。しかしそれが単に転じていくのは形成ではない。過去を包むものとして、蓄積するものとして転じていくのである。そこに新しいものを見るとは初めを見ることであり、発展することは根元に帰ることである所以があるのである。創造は宇宙唯一生命が自己を見るところに成立するのである。宇宙唯一生命は初めと終りを結ぶものとして自己の中に自己を見る生命でなければならない。学ぶとは真似ぶであると言われる。大なる過去に還ることが大なる未来に至ることである。私は斯かる創造的世界が自己がその中にあり、自己がその中に見られるものとして自己に対するとき客観的世界が生れるのであると思う。作品の評価はどれ程深く大きく世界を明らかになし得たかにあると思う。それは内と外が深く大きく映し合ったものとして、どれ程深いところ、高いところから読者に呼びかけ、読者の目を開いたかにあると思う。そこに作品の価値は世界の真実となるのである。好き嫌いは個人意識、時代意識に左右されることが大である。勿論個人意識、時代意識なくして意識はない。唯私はその根底に世界意識とか、宇宙意識とかがあり、個人意識や時代意識はその上に成り立つと思うのである。そしてその根底に還ることによって個人意識や時代意識はより明らかな形を持っていくと思う。呼びかけ目を開かしめるものはここより働くのである。それは個人意識や時代意識にも働きかけるのである。意識がより明化を求める限り働きかけるものであり、意識は明化を求めるものである。個として意識は無限の深化を求めるのである。そしてより深い世界の呼び声を持つのである。そしてより深い世界に立った時、前の良い歌が詰まらん歌になり、新しく良い歌が見えてくるのである。新しく良い歌と言っても何か素材が新しいのではない。新しい素材を求めるとき逆に自己の中に自己を見るという意味が失われなければならない。旅行詠なんかに案外良い歌が出来ないのはそこに原因を持つと思う。私達の営みは日々の繰り返しである。而して繰り返しであるが故に形が生れて来るのである。経験の上に経験を重ねていけるのである。経験の上に経験を重ねるのが世界形成であり、その形成を呼ぶのが世界意識であり、宇宙意識である。私は短歌の評価もそこにあると思う。創作したものが如何に深く世界から呼ばれ、如何に明らかに自己を表わしたかにあると思う。身体に映し、対象に映すことによって無限に働くものを如何に露わにしたかにあると思う。

無題

生命は他者を食うことによって自己を形作るものである。それは絶対に自己ならざるものである。食うとは他者の生命を奪って自己を形成することである。他者を殺すことによって、その肉によって自己をあらしめることである。生きるとは弱肉強食であり、自然淘汰の世界である。而して全ての生命の形はそこより生れてくるのである。鯛は深海にあって人間の五千倍の明らかさで物を見ることが出来ると言われる。しかし見るのは餌と敵だけであると言われる。禿鷹は三千メートルの上空からありありと地上を見ることが出来ると言われる。しかし見るのは野鼠だけだそうである。全て生命の持つ機能は、自然淘汰の中に於いて自己の生存のために生れたのである。目は敵や餌を早く発見するために生れたのである。遅いことは死である。生死の中から視覚は発展していったのである。かつて読んだ本に、動物に頭が出来たのは、生存闘争により、敵や餌に対して先端に機能が集った結果であるというのがあった。全て生命は食物連鎖を環境として自己の形を持つのである。食物連鎖に於いて全ての生命は、全ての生命に対するのである。その激烈な競争の中から大なる能力が生れて来るのである。目は愈々明らかに遠くを見、肢は愈々速く走るものとなるのである。而してそれは愈々大なる地獄絵図を見ることである。苛烈なる闘争を持つことである。しかし私は神の創造をそこに見ることが出来るのであると思う。生命は出現した形を何処迄も維持し、発展させようとする。生命の出現は個体的である。個体としての生命は死としての個体の消滅に至る迄同一の形相を持つことによって個体である。生命は摂食によって形相を完成させる。しかし二人の人間が同じものを食っても同じ人間になることはない。それぞれ自分の形を成長させていくのである。自分ならざるものを食って自分を形成させていくのである。自分ならざるものを食って自分を形成しようとするとは如何なることであろうか。私はそこに自己の出で来った根源を自己に於いて実現しようとする生命の意志を見ることが出来ると思う。他者を食って自己を形成するとき、他者がある限り際限なきものである。全ての生命は自己の根源に向って際限なき形成力を持つということが出来る。個物は自己が世界たらんとすることによって個物であるということが出来る。闘争は個物が世界たらんとするより来るのである。而してそれは亦他者を食って自己を形成すべき生命の宿命とでも言うべきものである。

斯かる生命に対して人間は物を製作する生命である。物を製作するとは如何なることであろうか。物は生命の対象となるべきものである。物以前に於いて生命の対象となるべきものは直に殺して食うべきものが、食われるべきを避けて逃げるべきものであった。作るとは殺す前に育てることである。育てるとは如何なることであろうか。他者を我となすべく食うべきものは絶対に我ならざるものである。それがたとえ育ったものであっても、食うときには絶対我ならざるものである。しかし育てるというとき何等かの意味に於いて他者が我となるということが無ければ育てるということはあり得ないと思う。私はそこに主体としての生命の飛躍がなければならないと思う。そして私はその飛躍を生命の未分以前の根源への回帰に求めたいと思う。根源への回帰とは、我が絶対の他となり、絶対の他が我となることである。それは論理的にあり得べからざるものである。それは無よりの出現である。斯かる飛躍は如何にして成立するのであるか、我々は絶対の他者を食うことによって自己を形成するのである。絶対の他者は我々の成立の基底にあるものである。我々は斯かる基底の出現としてあるものである。絶対の他者とは、斯かる基底の上に死を持って対立するものである。対立の根底に深大なる統一があるのである。死は生を絶対に無ならしめるものである。そこに絶対の他者ならしめるのである。殺すものとして対立する生命の絶対の対立的他である。絶対の他が我となり、我が絶対の他となるとは斯かる生の基底が我々の自己限定として出現するということである。それは新たな生命の誕生である。対立が一となるとはより大なる生命の誕生である。死として対立していたものが一つの生を実現するものとなるのである。勿論そこに対立が消滅するのではない。対立が統一となり、統一が対立となって無限の生の形相が生れるのである。死が生に転じ、生が死に転じて無限の形成となるのである。例えば野生の稲を見つけたとする。一度獲って食ってしまえば終りである。それを栽培すれば大量に収穫し、亦次への蓄積も出来る。食糧をより多く収穫すれば、より多大の生命を養い得る道理である。そこにより大なる生を見得ると共に、天変地異等により収穫が絶えた時には凄絶な争いと、多数の悲惨なる死を見なければならないのである。そしてそこより大なる収穫が図られるのである。より大なる収穫はより大なる生である。そこに死が生に転じ、生が死に転ずる所以であるのである。より大なる立場と言っても絶対の他、絶対の死が無くなるのではない。それを包む生命が出現するのである。斯かる生命の内容が技術である。技術とは他を作ることである。斯かる技術は何処から来るのであろうか。そこに私は物に死んで他に化すということがなければならないと思う。勿論この我が死んでは何もない。我が死ぬとこの世に出現する我の力を他者の出現に代えることである。他者を我の基底として、他者を作ることが自己をつくることとならしめることである。本来我も亦他の中より出現したものであった。それを再出現せしめることである。斯かる出現が死して生きることである。米を作ることは己が生きる力を費やして用地を作り、水路を作らなければならないのである。米となって雑草を除き、虫を除かなければならないのである。斯く我の力を否定して他者となって生れるのが技術である。自らを殺して達する外は至り得ざる深さである。それは我を殺しているが故に見ることを得ざるものである。それは死して生れたものとしての出現である。斯かる技術は内外相互転換的である。我を殺すことは生かすことであり、生かすことは食うものとして殺すことである。対象がより大なる生産としての技術を要求し、主体は自己の生きる力を傾注するのである。大なる生産は大なる力を産み、大なる力は大なる生産を生むのである。生産が力を生み、力が生産を生むとは技術は現在より現在へということである。生産物は生産された力を内包することによって物である。技術の成果を内包することによって、生産物として実現したものである。それは主体の無限の努力を宿すものである。無限の努力とは努力の繰り返しであり、経験の蓄積である。斯かる経験の蓄積に於いて、自己を他者の中に殺し、他者となって蘇ったものが自己の身体を他者として、手足を物として操作するとき、手足は道具の原型となり、他者の中に死して新たに生きる身体の機構となるのである。斯かる機構がより大なる生産を求めるとき、手足の延長を見出したのが道具である。道具は他者の中に死して生くべき生命の当然の機構である。他者の中に死ぬとは自己を物として見ることである。そこに死を越えた無限の生命が成立するのである。製作的生命とは斯かる方向に無限の自己となることである。無限の形成は形成の蓄積力である。それは外を作ることが内を作ることであり、内を作ることが外を作ることである。内を外に宿し、外を内に宿すのである。外を宿す内とはより大なるものとなった内である、その内を外は宿すことによってより大なる外となるのである。外は愈々質量の高い物となり、内は愈々複雑な技術を持つものとなるのである。

斯く外が愈々大なるものとして内の形成を迫るとき外は神となるのである。内は外を映すことによってのみあり、内が外を映してより大なるものとなったとき、外は亦その内を映して更に大なるものとして内の前に立つのである。神の無限はそこにあり、人の努力はそこにあるのである。映し映されることは愈々密接となると共に、愈々距離の大となることである。神と人とは一体となると共に、無限の距離をもつこととなるのである。外と内の無限の相互転換に於いて、人は製作を自己の行為とするのである。世界を我の自覚に於いて捉えんとするのである。そこに無神論が生れてくるのである。しかし我は我によって生きるを得ざるものである。何処迄も他者を食うことによって自己の形成をもつことによってのみ生きるものである。その他者とは自己に死を以って迫るものである。内を宿して大となった外である。斯くして愈々大なる生の創造は愈々大なる死の創造である。我々の生命は愈々大なる悪魔を持つことによってのみ、愈々大なる神の国を建設し得るのである。教会の隣に魔窟を持つことによって世界はより大なる展開を持つのである。神と悪魔が対立を持つことは闘争としてあることであり、神の国は努力によってのみ打ち樹てられるのである。文明は常に退廃によって滅び行くのである。

日本の形としての「間(ま)」について

日本の芸術は間が重要な要素を持っているとか、日本の表現は間の表現であるとか言われる。間の表現とは如何なることなのであろうか。そのために先ず間とは何かを問うて見たいと思う。広辞苑を開くと「①物と物、または事と事とのあいだ。あい。間隔」と書いてある。しかしこれだけではとても芸術として美的表現を担うとは考えられないと思う。表現となるためにはこの上何等かの意味が付け加えられなければならないと思う。

何時何処で読んだか忘れたが、私達は手の届く範囲に知らない人が来ると不安を感じ、警戒心を持つと書いてあったのを思い出す。そう言われてみるとそのように思う。私達の生存は他者と関り、環境と関るのである。他者や環境は否定的に対するものとして死を持って距たるのである。そこにはおのずから生の姿勢の発現があると思う。手の届く所に来た時に警戒心を持つということは距離と発現に様々の比例関係を持つということであると思う。そこに情緒は無限の陰影を持つのであると思う。西洋舞踏の如く動的なるものを本来とするものはさて置き、動きの一一が完結としての形を持つと言われる日本舞踏に於いては間というのは重要な要素をもつと思う。形の完結とは対立するものがひとつの情緒に統一されることである。手の届くところに知らない人が来た時に警戒心が起きるとは、知る人が来た時には親愛感が起きるということであろう。そしてそれが離れて行く時、前者に対してかすかな安堵感を持ち、後者に対してかすかな淋しさを感ずるのであろう。形の完結というのは警戒心・親愛感・安堵・淋しさをその一点に表して次の動作に転ずるということである。動きが線ではなくして点より点へ転ずるのである。一点一点が内と外との統一としての形を現わしていくのである。そこに間の出現があるのである。感情を軸として間が身体をあらしめ、身体が間をあらしめるものである。以上を表現に於ける空間的な間とすれば、間を持たすというのは時間的な表現であると思う。そしてそれは感情の強度に関ると思う。強烈な情調による密度高い形の成立は、それが観客に十分沁み入ることを要求する。山場とか、見せ場と言われるものである。そこに持続が要求せられる。それが愛とか死の場面であったら容易であろう。それは本性的にもつものである。しかし万感を胸に抱いて一人立っているような時持続は演技力を要すると思う。間抜けという言葉があるが間の持続の途中で力の抜けたことであろうか。

剣道に於いては間というのは決定的な重要性を持つと思う。試合などの本を読むと十分に間合いを取ると言った言葉に出合う。私は剣道について知るところは一つもないが、間合いは相対する人の力量によって定まるのではないかと思う。恐らく当事者の脳裏にはその狭い空間には剣の乱舞があるのであろう。自分の跳躍力、剣の長短が決定するのであろう。舞踏や芝居の間が情動の空間であれば、剣の間の空間は力動の空間であると思う。剣を構えて静止する空間は無限の動を孕んで静止する空間である。一寸の間の取り違えは生死を分つのである。剣を表現の形とするのは無理かも知れない。しかし剣が剣の道となり、剣褌一致となったのは剣が間を介して発展していったところに遠由を有するのではないかと思う。間を置いて自己をはかり、他をはかるところに普遍の道が展かれるのである。形が世界として様々の形が生れるのである。そして目が世界に転じ、活人剣が生れるのである。

墨絵は描かれていない所が描かれているという。それが墨絵の味わいの極致であるというのである。描かれていない所が描かれているとは、描かれているものがその対置に於いて空白の部分を生動あらしめているということでなければならない。しかし描かれているものが描かれていないものを生動あらしめることは出来ない。そのことは逆に描かれているものは相対するものであり、描かれていないものはそれを包んでそれをあらしめるものであり、包んでいるもの、即ち描かれていないものの生動の影として描かれているものが生動をもつのであり、それを返照して描かれていない所が生動をもってくるのであると思う。ここに描かれているものに対して描かれていないところは天地の意味をもってくるのである。私は斯かるものとして描かれていないところは描かれているものの根元といった意味を持っていると思う。描かれているものがそれによってあるものである。それは宇宙とか全存在とでも言うべきものである。私は文人画といったものでも余白を描くものは全て斯かる意味を持つものであると思う。そして間としての表現の至りつくところはそこにあると思う。

全能について

神は万物存在の根源であり、全てあるものは神によって創られ、全ては神の内容であると言われる。神は創造主として、自己に摸して世界を作ったと言われる。神の第一義は全能であると言われる所以であると思う。斯かる全能の意識は何処から生れたのであろうか。神が全て創造者であるとき、それは神の自己省察からというに他ならないであろう。しかし意識は既に形として出現したものであり、神の自己創造という場合にも、それが出現すべき所以のものがなければならない。無よりの創造と言っても出現した形が無かったのであり、それに転じ、出現すべきものがあったのでなければならない。新たな内包と外延を有する形に転ずるものがなければならないと思う。

生物の本を読んでいると細胞の全能性というところがあり、「細胞が成体を形成するすべての組織や器官に分化できる能力で、分化全能性ともいう、動物では、受精卵は全能性を持つが、発生が進み、細胞が分化するに伴い全能性が失われる。以下省略」と書かれていた。即ち細胞において全能性とは、細胞がその属する生命形態の組織や器官の何にでも成れる能力であり、その能力を分化以前に於いて所有するということらしい。未分化の状態に於いては、その全体が一つの生体の完結を持ち、各細胞はその何れにでも成れるということらしい。各細胞がその何れにでも成れるということは、各細胞が成体像を持つということである。各細胞が成体像を持つということが全体が完結像を持つということである。斯かる成体像を持つものが、その有する成体像への発現を見るときに、一々の各細胞は成体像を失うのである。手は手、足は足の細胞に特化して、手の細胞は足の細胞にならないというのである。

私は神の全能と言われるものも、斯かる生命細胞の上に成り立つものではないかと思う。私達は全てを世界として持つ。全てを創ったとは、神は世界を創ったということである。世界創造の神話は殆どがその原初を混沌に置く。それは暗い液状のようなものの中から生命が形として生れたということである。混沌とは何か。単なる液体は混沌ではない。亦既に形を成すものも混沌ではない。私はそれは生命質とでも言うべきものであると思う。卵の細胞が成体の何にでも成れる素質を潜めつつ、まだ器官の如何なる形をも持たないと言うが如きが混沌であると思う。それは単なる漂いではない。その中に生と死を潜めた漂いである。混沌というのは既に、その中に生と死の暗闇を持つものであると思う。それが分化によって全能性が失われるとは、分化による特殊化に於いて、特化されたる器官の発展の方向に可能性の無限が転移したものであると思う。全能性が器官の発展に転化したのである。それは生命の全能性の消失である。しかし私はそれは全能性の消失ではなく真の神の全能性になったのであると思う。生命に於いて全能性はそこに死ぬことによって新たな全能性として生れ代わるのである。成体は形の完成によって衰えて死んでいく。而して全能性を捨てて成体化した生命は新たなる生命を生んでいくのである。新たなる生命は全能性を持つものとして生れるのである。

生命は環境に作られ、環境を作るものとして自己を形成していく。生れるものは先人の作った環境の中に生れるのである。環境は死を以って迫るものであり、絶えず変化するものである。環境を作るとはそれを生に適合させることである。食料を栽培し、衣服を織ることである。環境の変革は技術である。環境の変化に対応する技術は、作られた環境の中に生れた全能性が成体となることによって形成していくのである。創造は常に混沌への回帰と形相の発展と死によってもたらされるのである。生れるとは混沌からの出現として形相的に零からの出発である。それが常に生れた世界の形相を受けて新たなものをつくり、新たな世界を創っていくのである。全能性の無限は消えて新たな世界形成力として働くのである。世界は無数の生命の出現に於いて世界である。斯かる無数の生命の形成力として、全能性と形成力は矛盾しつつ相即するものとして世界は形成されるのである。私はここに神の創造があると思う。全能とは世界の自己創造ということである。

私は斯かるものとして、人間は人間の自己形成力、蜂は蜂の自己形成力に神の全能を見たいと思う。環境を変革して主体化し、身体の延長として環境をあらしめることは、環境を身体に於いて見ることである。身体に於いて環境を統一することである。環境を身体に於いて見る時に、環境は整正たる統一体として我々の前に示現するのである。それが主体化であり、そこに環境は世界となるのである。人間が環境を主体化するのは製作的である。環境を物として、物に自己を見ることによって主体化していくのである。物に自己を見ることが整正たる統一体となることである。而して環境を統一体ならしめることによって主体も亦自己の統一を確立するのである。斯かる究極にあるものは、身体の統一が世界の統一と相即し、身体即宇宙となるのである。創造は全能性と形成力の矛盾的一として動転し、全存在の根源となるのである。

文化とは何か

文化祭ですので文化とは何かを申上げたいと思います。この頃よく食文化とかグルメとか言われておりますし、女の人が多く見えておられますので、食事につきものの漬物を例に申上げます。漬物は野菜の塩による保存食です。私はそれが塩と野菜の間は文化とは言えないと思います。それが文化となるためには とか とかが加わらなければならないと思います。それはどういうことかと申しますと、舌が喜びを求めて色々の形を生み出したということなのです。そしてその形が次の形を生むということが文化の創造ということなのです。それは一つの漬物に昆布の味が加えられているとします。亦一つのものに柿の皮の味が加えられているとします。それを合わせて次の漬物を作るということなのです。多くの味の組合せから無限の形が生れて来ます。それが漬物の世界であり、食文化の中の漬物の文化なのです。

見ることは目の喜びであり、聞くことは耳の喜びです。目の喜びが形を生むところに絵画があり、耳の喜びです。目の喜びが形を生むところに絵画があり、耳の喜びが形を生むところに音楽があるのです。そしてこの見出された形が世界の形なのです。私達は世界の中に生れたものとして、生れた身体によって物を作っていきます。その作った物の形が世界の形であり、文化なのです。

私達は音楽や絵画が食物よりは高い内容をもっていると感じます。私はそこに感覚の発展ということがあると思います。よく言われるように私達の感覚には、繰り返すことによって鈍くなっていくものと鋭くなっていくものがあります。いくら美味しい天婦羅でも十日も続けて食えば見るのも嫌になります。嫌な臭いでもしばらくすると感じなくなります。それに対して絵描きは何ヶ月も向い合って完成すると言います。繰り返すことによって鋭くなるとはより深くより明らかに世界の形を表わすということです。そこに私達はより高い文化をもつのです。

日本文化の最も深い一つと言われる能狂言は猿楽から生れたと言われております。猿楽は農作物を猿に荒されるのを防ぐために、祭りなどで猿を追う真似をした呪術に始まると言われております。私はこの真似だけでは文化と言えないと思います。それが文化となるためには身振り手振りが身体の喜びとして、様々の形が生れて来なければならないと思います。形が形を生み、恋の喜び、死の悲しみへと展いていかなければならないと思います。能は幽玄の世界を現わすと言われております。それは何処かに幽玄の世界があるのではなく、私達日本人が身体の動きを何処迄も洗練して行った処に現われた身体の深奥であると思います。私達の深奥である故に私達は共感をもつのであると思います。

人間だけにあって他の動物にないものは言語中枢であると言われております。言葉をもつことによって人間になったとは、世界の深く明らかなものは言葉によって生れるということです。言葉が形をもつことによって文化の全体が現われるということです。

短歌や俳句は言葉が見出した形として、その形の中に言葉が言葉を見出していくのです。私達の一首一句は世界の創造に参加することなのです。それが今日作って明日捨てるとも世界の創造面に自分を映したということであり世界を作ったということなのです。私達がもつ作品の出来た喜びはこの世界の深さより来るのです。私達はそこに自分を見るのです。明日からも共に頑張りたいと思います。それではこれで閉会します。

感動への断想

新聞を開いていると「捨て身も完敗、感動した」という見出しが目についた。始まってまだ二日目の大相撲東京場所で、舞の海が貴乃花に負けた記事である。歌を作るものとして、感動ということに関心を持つ私はどのような事が書いてあるのだろうと思った。読むと、「捨て身の下手投げも自ら素っ飛ぶようにつぶされた」。舞の海は「感動した。強い横綱『貴乃花』とやれて良かった。やめても思い出になります」とのことであった。私は読みながら負けて感動したというのは珍しいと思った。普通負けたら口惜しい思いをするものであろう。そして励ましやら慰めの言葉に感動するものであろう。しかし私はこの記事の中には感動への真実があると思った。

感動とは何か。私は対象に触れて新しい、より大なる自分を見出すことであると思っている。この場合より大なる自分とは如何なるものであろうか。彼は負けたのである。勝負の世界で負けたということは収入を少なくし、名を低くすることである。個人的にも社会的にもプラスになるものは一つもない。亦それによって彼が開眼し、一挙に強くなった自覚もないようである。強くなることは倦まざる鍛錬の上に成るものだからである。私は彼が感動したのはそのような彼の世の中のあり方に関るものではなかったと思う。貴乃花の圧倒的な強さに力の世界の深さを感じたのであると思う。相撲は二人による格闘技である。それは筋肉覚、間接覚による身体の形の表現である。そこに力はさまざまの形を持ち、自己を深めていくのである。それが相撲の世界である。今この一点に於いて如何なる形が勝敗を決めるか、両者の力の集中が如何なる形を生むか、そこに相撲は人の興を呼ぶのである。斯く無限の形が生れるところに相撲があり、無限の形を内に持つことによって心・技・体の三位一体としての人格が生れ、人間の行為となるのであると思う。この世界に自己を映すことが自己を完成していくものとしての感動であると思う。舞の海はそれを垣間見たのであると思う。

表現は全て感動である。私達は生命として外を内とし、内を外とする。斯かるものとして私達の目や耳は絶えず外に向かっている。斯かる外として我々の対象となるのは人間が作って来た世界である。私達の欲するのは自然ではなくて物である。気にかかるのは鳥や犬ではなくして他人の目である。私達は物や他人と関ることによって生きるのである。物を作ることによって性格を作られ、自己を他人に映し、他人を自己に映して自己を作っていくのである。他人や物は自己ならざるものである。自己ならざるものに関ることによって自己があるとは、我とは自己と他者と物を包む大なるものの現われとしてあることである。而して大なるものの現われは他人に自己を映し、自己に他人を映すことによってあり、物を作り、物に作られることによってあるのである。それはこの我が働くことである。この我が働くことが大なるものが現われることであり、大なるものの現われるのは、この我が働くことであるところに生命形成があるのである。この我に大なるものを現わすのが表現であり、働くことに大なるものに出合うのが感動である。私達の心が動くということは斯かる生命形成を求めているということである。生命は常により大ならんと欲するのである。

この我と、我ならざるものとしての物や他者をつなぐものは言葉である。私達は言葉によって記憶として無限の過去を持ち、想像によって無限の未来を持つのである。大なるものとは言葉によって現われる世界である。大なるものは言葉によって自己を露わにするのである。私達は短歌を作る。短歌とは日本という特殊風土に於いて、そこに生きる人間が風土を外として言葉に見出して来た生命の相である。大なるものがここに見出した生命として、無限に働くものである。過去を持ち、未来を持つとは働き生んでいくものである。短歌は斯かる形として日本の歴史的創造の中に出現したのである。勿論環境として外は変転する。近代の交通・通信の発展は日本を一特殊風土として閉じ込めておくことを許さない。今や外は全地球上の外である。しかし内が外を作るというとき我々は何を足場にするのであるか、私は無限の歴史的創造を負う日本的性格による以外、他はないと思う。そして短歌は日本の感動の発現として多く すべき世界原理を持っていると思う。

無題

私達は何故作るのであるか、その根底には大なる呼声があるようです。斎藤茂吉は内部急迫と言っています。短歌も俳句も抒情詩として喜び、悲しみを言葉にします。喜びは生きる影を宿し、悲しみは死の影を宿すものです。生命は生きるものが死を持つものです。そして生きるということは死を越えようとする努力です。言葉というのはその努力が生み出した形です。私達は言葉によって死んでいった祖先の声を聞き、生れて来る者に声を伝えようとします。そこに私は大なる呼声があると思うのです。見出した形に於いて呼び交すのです。過去と未来を一つとする呼び交しを持つのです。私はそこに私達を呼ぶ声があると思います。そしてそれはそれによってのみ私達が真の自己となる道だと思います。歌が出来ないとよく言われます。しかしそれはこの大なるものに生れようとする努力であると思います。明日からも頑張りたいと思います。

九月号一首抄の釈明

私の書いた九月号一首抄について疑義を抱かれた方があるようである。それは岩城和子さんの歌を例に挙げ、日常の中に埋没していく自己であり、後川さんのを日常を包む自己であると言ったことについてである。以下それについて少し釈明をしたいと思う。

鯛は深海にあって人間の五千倍の明るさでものを見ることが出来ると言われる。しかし見るのは餌と敵だけであると言われる。感覚は生存のためにのみ働くのである。生物は生存すべく感覚の対象をもつのである。而して斯かる対象に反応することによって生命を形成していくのである。形成していくことが自己を持つことであり、そこに自己を持つのである。私達の身体は斯かる形成の無限の蓄積である。私達は生れて幼・少・青・壮・老と身体を形成していく。身体の形成は食物を摂り、敵と戦う日々の蓄積である。食物を獲得し、敵と戦うのが我々の日々の営みである。斯かる営みはその時その時に現われて消えていくものである。而して斯かる営みの蓄積として、時の統一として形成した身体は営みを内容とするものとなるのである。

私は人間は斯かる生命が自覚的となったものであると思う。自覚的になったとは、外に物を作り、内に意識をもつ身体となったということである。身体が言葉を持ったとき、日々の営みは日常となり、時の統一としての身体は、過去を記憶とし、未来を希望とする無限の創造として永遠となるのである。日々の営みが尚生物的なるに対して、神の自己創造の姿として、神の摸像となるのである。取上げた作品の指紋は生存の働きに無縁である。そこに純なる生命としての身体に対している作者がある。

私は自覚的生命としての人間の働きは、以上述べたような二重構造に於いて自分を見ていくのであると思う。色即是空とか、瞬間即永遠と言われる所以がここにあると思う。

名歌鑑賞

冬のしわ寄せゐる海よ今しばし生きておのれの無残を見むか 中条ふみ子

そこに生ける屍がある。作者は凄惨な運命に対面しているのである。斯かる生の深淵にもがきつつ、作者の表現意欲を盛り上げた精神は何処から来たのであろうか。

キェルケゴールは其の著「死に至る病」に於いて「絶望したか」と問う。絶望は精神の死に至る病である。しかし精神においては病む者が健康であると説く。生命は死を持つものが死に打克つ努力である。釈迦も苦悩した如く、生・病・老・死は、どうすることも出来ない生けとし生けるものに負わされた運命である。それはあらゆる人間の希望を打砕く屹立する鉄壁である。我々の生涯はこのどうすることも出来ないものに打ち当って砕けていく営みである。而してこの打ち当って砕けた営みの蓄積が歴史であり、痕跡が文化である。斯かるものとして我々は悲しみの上に喜びを打ち立てていくのである。而してその極鉄壁によって自分を見出す自分を見るのである。回心である。鉄壁に生きるのである。生・病・老・死に対するのでなく、それをあらしめるものに生きるのである。回心とは自己を無にして自己をあらしめるものに摂取されることである。斯かるものとして大なる苦悩に生きるものは、大なる力量をもつものである

湖内さんの思い出

初めて湖内さんに出会ったとき、私の脳裏に寒山寺の五百羅漢のイメージが重なった、そしてその印象は後々迄も変わることのないものであった。私はよく天神に氏を訪ねた。共に酒を好み、その量の匹敵していたことも原因であるが、何よりも話していて楽しかったのである。氏はよく勉強をしておられた。その常識の徹底に於いて、私の知る限りみかしほの人々に其の比を見ないものであったと思う。氏の知識には曖昧さがなかった。私が最初に驚いたのは草木に対する深い知識である。しかしそれは植物学者のそれではなく、私達の身辺に関るものであった。一緒に歩いていて、目に留った草を「これは何か」と聞くと大概的確な答が返って来た。しかしその知識をひけらかすような事はなかった。唯聞かれた時に答えられるだけであった。中国や日本の古典もよく読んでおられた。仏典なんかも目を通しておられたようである。

訪ねると表具の糊付けをされているのが多かったように思う。大きな刷毛をもっておられた指の太かったのを思い出す。私が来たからと言って慌てる風もなく「一寸これだけ片付けまはな」と言って同じ姿勢で刷毛を動かしておられた。私はそれを見ながら道元が船中に出会ったという典店を思い出したものである。それは表具を自分の天職とするゆるぎない姿であった。そこに生きるものの姿であった。奥さんの言われるには「表具の仕事の他は何もしやしまへんねん」とのことであった。それだけに出来た作品には自信をもっておられたようであった。

呑みながらの話は大概短歌の事であった。氏は佐藤佐太郎に傾倒しておられるようであった。氏の根底にあるのは日本の伝統的形成としての「わび」「さび」であり、それをアララギ的な写生に於いて実現しようとされているようであった。それに対して私の持論は私の思索の中より生れて来た「歴史的現在」を根幹に置くものであった。それは我々人間は社会を作って生きてゆくものであり、社会の変化に応じて我々の姿勢は変るものである。喜び悲しみも亦そこにあるとするものである。そこから私は短歌表現の根源は発想にあると主張した。それに対して氏は言葉が調うということを重視された。「言葉がちゃんとしとったらよろしやおまへんかいな」と常に言われたものである。事実氏の作品は言葉が調うという意味に於いてよく彫琢の行き届いたものであった。氏の作品は多く人に高く評価されていたのはそこに原因があったと思う。私は氏の作品の完成度の高さを認め乍らも一様の乖離を持ち続けたものである。しかし今にして思えば一つ立場の完結はそれはそれとして評価すべきで、自分の立場からの尺度をもって否むことは自分の未熟さであったと思う。自分を捨てて作者の中に入って味到すべきが鑑賞の王道であると思う。

汝であったか飲んでいる最中に私が「二人で歌集を出してやおまへんか」と言った。すると「本にするような歌なんかなんぼもおまへんがいな」と言って渋られた。それを「出したい歌だけ出したらよろしいがいな」といって説き続けた。それからしばらく経って訪れると「わしも貴方と同じ数だけ出しまはな」と言われた。撰んでいるうちに思ったより多く自信作があったのであろう。後記に私の姿に偽りはないと書いておられる。出版してから数ヶ月目に記念歌会をしてやろうとの事であった。席上湖内さんの歌を藤原つよし氏が激賞された。私の作品は担当の芝田すみれさんより「前の歌集『蝸牛吼ゆ』より悪い、どうして下手になったのか」と言われて返事に窮したのを思い出す。思えばこの歌集が唯一の遺歌集となったようである。

往時天神は歌のメッカとでも言うべく多士済々であった。しかし才逸氏・藤治氏・すみれさんが逝かれ、今亦氏を失った。俄かに距離を増したような寂寥感を抱かざるを得ない。

永嘆

私は八月号で岸田さんより指摘されたしんしんの釈明をした。そのときに感じたのであるが、重ね詞というのは永嘆ではないかと思う。ますますとか、いよいよとかいうのは心情に関わる主観的なものであるが、あかあかとか、あをあをというのも単なる字生ではないように思う。重ね言葉は非常に強い言葉であるといはれる。例えば青いと青青は何の違うのであろうか。強いとは何うゆうんとなのであろうか。私は青いは単に対象の視覚的映像であるに対して、青青は映像の青が青自身を深めてゆくものがあるように思う。ゲーテがバラの花を見ていると花びらの中から花びらが生まれたというように、青の中に青を生んで視野を青で溢れさすような力があると思う。私は永嘆というのはそのようなものではないかと思う。ソレは例えば青い草の命の力であると共に、作者の言葉として作者の命の表れである。そこに対象のより明らかなるものを見ると共に作者はより深い自分に至るのである。私は短歌が永嘆であると言はれるとき、永嘆とはそのようなものでなければ鳴らないと思う。製作に於いて対象と作者は唯一生命を見出してゆくのである。対象を見ることが自己を見ることであり、自己を見ることが対象を見ることである。対象をより明らかに、より深く見ることである。対象をより明らかに、より深く見ることが、作者がより明らかに、より深くなってゆくことである。それは無限のはたらきである。それは対象を見ることが自己を見ることであり、自己を見ることが対象を見るものとして自己の想意によるのではない。世界が世界を見るのである。はたらくとは世界がはたらくのである。そこからの永遠の呼び声が永嘆であると思う。永嘆というものがあるのではない。創作の底に現れてくるのである。そして底に現れたるものとして底より我を呼ぶ声となるのである。

勿論、重ね詞が永嘆を表すといっても、重ね詞を使えば直ちに永嘆としての短歌が出来るものではない。強い言葉を使うにはそれだけ対象への目の透徹が必要であるかと思う。見るということは視覚の構成である。私達は同じものを見ても表現を異にする。一つのリンゴを描く十人の画は異なり、作る歌は異なる。それは一人一人が視覚を構成するかこの丁吏を異にするからである。重ね詞が永嘆であるとき、目は個個のものを超えた個個のものを見るものとならなっければならないと思う。人類の目として、全生命の目として見るものでなければならないと思う。全生命のよろこびかなしみの目とならなければないと思う。一匹の蟻の生命もそこより見るのである。流るる水もそこより見るのである。私は重ね詞は強い詩的表現の手段であると思う。唯それが適切なる場合に於いてである。そのとき重ね詞は内より口を衝いて出てくるであろう。

言葉が整うということ

短歌を始めた頃、私はよく天神へ行ったものである。当時東条には藤原優、藤原彊、湖内隆次、松本才逸、西中藤冶、芝田すみれ等の諸氏が居られ、歌会に研究会に動きが活発であった。それぞれ一家としての識見を持っておられ、語り合って飽きないものであった。殊に湖内さんは行き勝手がよく、酒量も同じ程であったので一升瓶を携げて行っては夜の一時、二時迄語り且飲んだものである。その時私は作歌の第一条件として変遷の激しい時代に生きるものとして、現在を如何に表現するかに置かなければならないと言った。それに対して湖内さんは言葉が整うと言うことを第一義とされた。よく「言葉がちゃんとしておればよろしいやないか」と言われた。それだけに氏の作品は言葉の構成に隙がなく、何を歌っても高い抒情の質を示すものであった。氏が病まれてから久しい。自分の思索にみ急な私は訪ねることも稀となってしまった。今氏を思い出すに連れて言葉が整うとは如何なることであるかを考えてみたいと思う。

言語中枢は人間のみが持つといわれる。そして人間は万物の霊長であるといわれる。言葉を持つことによって霊長になったとは、言葉は現在の生命の最も深大なるものであるということである。生命は時間に於いて複雑なる機能とその統一をもつきたのである。生死を介してより大なる生命を形成してきたのである。言語中枢が出来たということは今までの生命が言葉を持ったということではない。言葉がはたらき、言葉によって成る新しい生命が出現したということである。私たちは言葉によって記憶を持つ。記憶は時間の統一として経験の蓄積である。経験の蓄積とは過去によって現在があるということである。それは言葉がはたらくことであると同時に、言葉は経験の蓄積の表出であるということである。経験の蓄積が言葉であるということである。

経験の蓄積は過去に現在にはたらくことであることは、それによって生命の新しい形成が生まれることである。過去の形が現在を創るものとして、現在の形に転じてゆくものである。それは新しい経験の獲得として新しい形が生まれることである。蓄積された経験が新しい経験を獲得によって新しい形が生まれるとは、形が形の中に形を見てゆくことである。そこに生命形成があり。その内的方向に言葉が生まれ、その外的方向に物が出現するのである。私たちはその内外対立の内的方向として言葉を捉えるが故に、言葉によって見るとか、言葉によって作ると言えば奇異に感ずるのであるが、言葉と物は生命形成の内と外として、内が外を映し、外が映すところにその具体を持つのである。色彩が色彩の中に色彩を見、力が力の中に力を見る、それが言葉としての生命がはたらくということである。そこに絵画が生まれ、物理学が生まれるのである。新しい色彩と新しい言葉が生まれ、新しい力と、新しい言葉が生まれるのである。生命が言葉を持つとは、生命が自己の中に自己を見る生命となったということである。私たちが力を知るのは天地の運行によってで身なければ、物体の落下によってでもない。大地を掘り、木を伐り倒すことによってである。更に列車を操り、クレーンを使うことによってである。それは言葉と物が映し合うことによって新たな物と新たな言葉が出現したのである。色彩にしてもそうである。飾ることによって、描くことによって、新しい色彩と言葉が生まれてくるのである。

私は言葉が整うこともここにあると思う。新しい形の出現によって生まれた言葉を明らかにすることであると思う。新しい物が現れ、新しい言葉が生まれたということは、新しい世界が出現したということである。そこにわれわれは自己を見るのである。形成的生命として世界出現的に自己を見るのである。ものが現れることは言葉が現れることであり、言葉が現れることは物が現れることでありそこに自己がある。斯る自己を言葉の方向に於いて捉えるのが言葉が整うことであると思う。それは言葉が現れることは者が現れることであるとしてどこまでも物に即してゆくのである。言葉は単なる既成の観念である。それをどこまでも新たに現れた物に即せしめるのである。物は亦、言葉によって見出されたものとして、既成の観念を新たなものの秩序に組換えるのである。それが言葉が新しいということである。

万物は流れると言われる。一つとして同じものの出現はないと言われる。日々の生活の一々は新たな言葉の出現を要求するのである。私は表現と斯かる要求を現実のものとするところにあると思う。それは世界史の動向であるかも知れない。自然であるかも知れない。汝としての愛憎の対象であるかも知れない。私たちは斯かるものを既成の観念の中より生まれ来たったものとして、既成の言葉を組換えることによって新しい形象を出現せしめんとするのである。対象尾を言葉において捉えんとする時、対象は無限の緑暈をもつ繁雑である。そこから現在の我と物の形成体を把握するのが言葉が整うということであると思う。例えは春の野に咲き満ちた花に生命の躍動を覚えたとする。躍動は原全体にあると共にそれを担うものは一木一草である。原全体というのは捉えきれるものではないと共に、真に自己の生命感に対するものではない。一草のもつ息吹に原全体を表されるのである。生命は一木一草が持つのである。一草は全ての春を担うものである。そしてそれは生命の躍動に於いて我と繋がるのである。私はそこに言葉が整うということがあるのであると思う。整わないとは他の草が入ったり必要で無い陽光が入って来て、そこにこの我の把握を散漫ならしめ、或いは拒否するところにあると思う。内と外が相即し、内が明らかになることが、外が明らかになるとは、生命が自己の世界を出現させたことである。言葉が整うとは生命がそこに自己を実現させたことであると思う。外に空間を拓き、内に時間を包むものとして現在に宇宙の完結を持つものとなったのである。言葉が整うとは、表現的に自己を見てゆく生命が、表現するのもと表現されるものの一を見出したものであると思う。

しんしんについて

みかしほ七月号で岸田玲子さんより私の作品、「しんしんと降りいる日差し萌え出て直ぐき緑にアスパラガスは」 のしんしんを指摘された。この問題に対しては辞書と同行二人と言うべき松尾さんに依頼する方が適当かも知れないと思う。併し犯人として先ず私が出頭するのが本筋と思うので釈明した。

筆を起こす必要から私は何ヶ月かぶりに重い広辞苑を棚から下ろした。津津、振振、深深、森森、蓁蓁、駸駸、私は字を知らない自分に驚いた。知っているのは津津、深深、森森、の三つだけである。この内、私の作品に当てはまるのは深深である。読むと夜の静かにふけてゆくさま。寒気の身にしみる様と書いてある。そう言うと昔夜はしんしんと更けてゆきという映画の名台詞があったように思う。それでは何故夜が静かに更けてゆくのを深々と書くのであろうか。私はそこに静けさの深まりというのがあると思う。深深は静けさの深まりゆくことであり、夜はその代表例なのであるとおもう。岸田さんが言われている次に来る名詞は雪ではないかの雪も、音無く

として降る雪が万物を一ならしめ、静けさを増幅するが故に氏のイメージとして浮かんで来たのではないかと思う。私は夜にも雪にも増して万象動かず音無き昼に静けさを感じるのである。それは私だけではないようで、俳人なんかも昼無音といった言葉で昼の深い静けさを表はしているようである。この作品は音無き昼が育ちいるアスパラカスの直ぐき緑に目を遣らしめ、アスパラガスの直ぐき緑が昼の静けさをあらしめる。そこにアスパラガスは愈愈緑の直ぐく、天地愈愈静かならしめんとしたのである。そこからしんしんと降りいる日差しという言葉が生まれてきたのである。唯下手糞のために共感を得ることが出来なかったが意とするところは諒を得たいとおもう。

私は本分を書きながらおもったのであるが、静けさの深まりゆくということは動くものを包んでゆくのがあるように思う。昼無音というとき昼は万象が明らかである。形象は対立するものである。万の音を蔵するのである。万の音を蔵してひそまり返っている、そこに限りない深まりがあると思う。雪は雪自身が動いている。故に降り始めはしんしんと言わないようである。万象を白一色に覆うて降るときにしんしんと言うのであると思う。万象を覆うとは対立を失はしめることである。対立なきことは争ひなきことである。人は

と降る姿に安らぎと清らかさを見るのである。そこにしんしんとがあると思う。それに対して夜のしんしんは違っているように思う。昔は夜は魔の棲む世界であった。台詞の夜はしんしんとふけてゆきに続いて軒下三寸下るとは、丑満時は狂宴のために全ての悪魔が屋根に集る時であり、その重さで軒が三寸まで下るというのである。私たちの小さい時に裏の八女で与平鳥というのが夜になると鳴いていた。湖内さんによればふくろうかみみずくかであった。それが「よへーもうってねんころせ」と鳴くのである。すると祖母は「与平鳥が鳴いたら皆早う寝よ」と言って寝床に入るのであった。与平鳥は悪魔の使いであり呼び集める声だったのである。夜のしんしんは息を潜めて自己を無とするしんしんであったし、その残像を引くものであると思う。夜を歓楽の時間とする現代に於いては夜はしんしん、の言葉は私語となったのではあるまいか。

 大却運

本箱を見ていると「現代日本文学全集」の中に斎藤茂吉の名が見えたので取出した。私は茂吉を尊敬している。他の人の歌は私でも作れそうな気がする。しかし読んで氏の歌はとても出来ないと思う。そういう割に私は茂吉を知らない。歌集も読んだことがあるが忘れてしまった。覚えているのは十首程である。文章も凄く精力的だなあと思った位である。だからと言って私は氏の著書を全部読み、全部の歌を暗記している人より理解が足りないと思っていない。理解とは知識より来るのではなくして心気契合より来るのである。

その中に「予が歌を作るのは作りたくなるからである。・・・・この内部急迫から予の歌が出る。如是内部急迫の状態を古人は『歌ごころ』と称えた。『このせずには居られぬ』とは大きな力である。同時に悲しき事実である。方便でなく職業でない。かの大却運の中に有情往来し死去するが如き不可抗力である」と書いている。この大却運とは何なのであろうか。広辞苑を調べてみたが無い。しかし大体解るような気がする。曾って何かの本で印度にしゅみ山という仙人の棲む世界一の高い岩山があり、天女が年に一回降りて来て羽衣でその岩に触れ、山が磨滅するのを一却というというのを読んだことがある。大却とは天地の始まった時よりの時間ということであろう。運とはその生命の運びであると思う。茂吉は作歌へと動かすものは此処より来ると言うのである。亦「予は予等の祖先の命を尊び味わい常に感謝しているものである。予が創造という語を用いて予の信念を表わすに当って常にこの深大深遠なる因縁の上に立脚しての論である。この点は貴君とは違うのである。」と書いている。即ち歌を作るのは却初よりの生命の働きであり、それが日本民族としての我々の祖先に働き、祖先の見出したものを承けることによって自分の創作があるというのである。勿論それは歌体を模倣するのではない。精神を承け継ぐのである。彼は「私の歌は出鱈目の歌である」と言っている。出鱈目とは如何なることであろうか。私はそこに作歌に当って如何なる構えも持っていない氏を見ることが出来ると思う。対象に対面して純一であることである。純一とは対象と自己が其処より出で来ったものを掴もうとすることである。却初より働く力が形作っていくものをさながらに表現せんとすることである。したこと見たものをどのように表現しようとするかにあるのではない。行為を起さしめ、見ることを要求せしめる生命を表そうとしたのであると思う。逆白波の歌、冬原の歌、一本の道の歌等々限りない力の働きを見ることが出来ると思う。形象が時間の深さに於いてあるのである。そこに「この点は君と違うのである」と言った所以があると思う。時間に於いて全て形あるものは移っていく。移っていくとは形が現在に消え現在に生れるということである。この我に消えてこの我に生れるのである。全宇宙は現在として実現し、この我に具現するのである。彼の歌は自己の行動、亦は人間の行動に於いて捉えたものが多い。それは今のこの我が大却運によってあり、今のこの我を把握することが生命普遍の実相を明らかにすることであったのであろう。私達が捉えれば一私事になるところを全生命の韻きをもつのは天 とより言い方がないと思う。

昨日の新聞に全て金属は純粋になるという性質を一変し、鉄も純度九九点九九九%となると が出なくなり貴金属の如き輝きをもつと書いてあった。氏の脳細胞は天によって純化されていたのかも知れない。松尾鹿次さんが氏は北上川の畔に平日頭を抱えて歌一首を作ったと言われていた。我々の到底なし得るところではない。その差が氏との歌の差であると思う。

作品の独立

みかしほ八月号の『ひとこと』と題した中で山本年子さんは「歌は発表された時点で作者を離れ、読者にどう解釈されても致し方のないことと思います」と書いている。発表された時点で作者を離れるということは表現の本質の問題である。表現ということは個としてのこの我を人類普遍の中に見ることである。一瞬一瞬の現われては消えるこの我の行履に、人類が人類が時間を超えて見出した形を宿せしめることである。それを担うものが言葉である。

私は作品が作者を離れることは作者を超えることであり、それは亦読者を超えることであると思う。それは作者が独善的な作品が許されないと共に、読者の独善的な解釈は許されないものであると思う。即ち読者にどう解釈されても致し方がないということはあり得ないとことであると思う。言葉とか文字とかいうのは一語一句が特有の意味を担うのである。独自の内容をもつのである。創作とは斯かるものによるイメージの構築である。意味をもつものを素材として構築することによって更に大なる意味の実現をもつものである。一語一句が意味をもつということは、それを離れては理解することが出来ないということでなければならない。山本さんはどのように解釈されても致し方ないと言う。しかし私は一語一句が特有の意味をもつ時、作品はこのように解釈されなければならないという要求をもつと思う。そのことは亦読者が字句の意味、亦それによって構築された意味を取り違えた時に作者は訂正を要求し得るものでなければならないと思う。作品の独立とか、作者を離れるということは、字句が固有の意味をもち、作品を鑑賞評価するのはその意味に随わなければならないことであると思う。斯く随わなければならない意味が創造の内容であり、人類普遍の形象であると思う。私達は永遠の生命をそこに見出していくのである。

私は一語一句が特有の意味をもちつつ一つの文章が構成されるということは人間の身体に似ていると思う。人間は六十兆の細胞により成るという。その細胞は一々が生命の完結体である。一々の細胞が完結体であることによって多細胞動物はより高い機能をもつことが出来るのである。そしてより高い機能をもつ統一体より一々の細胞の特質が決定されるのである。或いは肝細胞となり、或いは脳細胞となるのである。そして身体は世界を知り、世界を作るものとなるのである。文章もそのように思う。一語一句が特有の意味をもつということは、文章の成立の中から決定されるのである。文章の成立は統一体である。それは世界の実現である。そして斯かる世界は一語一句によって構成されるのである。私は私達の身体は無限の陰影を宿すと思う。そして世界は斯かる陰影の実現であると思う。短歌の表現も亦そこよりであると思う。

表現としての私について

私達は他者の言葉を語ることは出来ない。私の言うのは何処迄も自分の言葉である。私達は自分の言葉で自己を見、自己を創って行くのである。藤木さんは「私は私、人は人、歌いたいものを歌い残すしかない」と書いている。それは誰も同じであって、言葉のもつ必然としてそれしかあり得ないものである。しかし私とは何か、言葉とは何かと問う時、私も言葉も抽象的な個としてのこの我を超えたものであり、私はこの大なるものとの関連に於いて捉えられなければならないと思う。

言葉を作った人はないと言われる。言葉は我と汝の呼び交しの中からおのずと生れて来たものである。四万五千年前人類が初めて死者に花を供えたと言われるクロマニョン人の時代は言葉がまだ明白でなかったと言われる。人類は永い時間の中に、無数の人々の対話によって現在の言葉を作り上げて来たのである。私達にしてもそうである。生れた時から自分の言葉をもっていたものはない。父母を真似、友を映し、学舎に学んで今の言葉をもったのである。私達は言葉を無限の時間、無限の人々が見出した形としてもつのである。世界が世界を見るのである。私達はそれを写して自分の言葉をもつのである。世界に作られて世界を作るものとなるのである。

斯かるものとして私は我々は何処迄も世界の中に消えていく意味がなければならないと思う。学ぶとか写すというのは自分を無にして世界の中に入っていくことである。それと同時に私は世界が自分の中に流れ入り、自分の中より流れ出る意味がなければならないと思う。私達が学ぶとはより大なる生命とならんとして学ぶのである。生命は外を食物として内に身体を作る。より大なる生命となるとは、身体の目的に適合させるために環境を変革することである。それがものを製作するということである。私達はこの我の身体を除いて環境を変革し、適合させるべき身体はない。そこに私達は自分の言葉しかもち得ない所以があるのである。環境を変革することは世界を作っていくことである。而して世界は無数の人の変革としてあるのである。私達はより大なるものとならんが為に絶えず自己を消さなければならないのである。それがより大なる生命実現の方法である。

私は「私の歌」というのも絶えず世界の中に消え、世界の中に現われるという意味がなければならないと思う。私達は作るものとして世界の基底に立つのである。一首の創作は世界の実現として、歌の世界が一つの事物を介し自分の中に流れ入り、自分の中より流れ出た意味がなければならないと思う。創作に於いては世界は絶対の個に自己を表わし、絶対の個に直接世界の自己創造に参画するのである。

風流

今ではあまり言わないが、私達の小さい頃は短歌や俳句を風流の道と言い、作る人を風流人と言ったものである。風流とは如何なるものであろうか。私はそこに日本の生命形成の特質の一つがあるように思う。短歌や俳句は外国語に翻訳することが出来ないと言われる。それは日本人が日本の風土に於いて形成し来った独特の美ということである。そこに我々は生命の形をもったということである。それを要約し、言表したのが風流であると思う。

日本人の繊細な感覚は四季の鮮かな推移によって養われたと言われる。短歌や俳句は移りゆく微妙を人に映すときおのずから言葉に凝固したものであると思う。私は斯かる四季の推移を祖先は風に見たのであると思う。風は形無きところより現われて来る形である。そしてそれは四季を超えたものである。風は四季ではない。しかし最も鋭く、最も繊細に四季を伝えるものである。寒風が漸く頬に和み出してくると、野に浅緑の毛 となり春風が花を運んで来る。それも束の間に吹雪となって散る花は過ぎ行く季と共に春愁の思いを呼ぶものである。春が過ぎると陽の透く若葉をそよがせて吹き来る風が半袖となった腕を洗ってくれる。私達は身を吹き抜けて地平に走る風に初夏の爽快を満喫するのである。それが過ぎると地を灼く熱風に猛々しい夏を知るのである。猛暑に悩まされた皮膚は秋風の僅かな冷えに敏感である。冷えがもたらした透明な風が青空を何処迄も高く押上げて行く時、私達は秋を感じ救済を見るのである。そして野分に草が枯色となり、木枯しに一年の滅びを見る時我々は悲傷の思いに言葉を失うのである。

私達は四季の現われとして春の花、秋の月、冬の雪を語る。しかしそれは四季の特殊な内容として、四季を網羅するものではない。私は風に日本の生命形成の心を見たのではないかと思う。四季を映し、映すことによって感覚を養い、生命の形を見出したものとして、形なくして形に出で、四季をあらしめるものとしての風は形の根元の意味をもったと思う。私達は四季の鮮やかな色彩を愛すると共に移るものを風に見立てた飄然たるものを愛するのである。四季を見る目の我の飄然たるを愛するのである。そこにそこより対象と我が生れる世界がある。私は風流という言葉はここより生れたのではないかと思う。

平常底としての短歌

私は十二月号の一首抄で禅家の平常底と短歌を言った。今朝正法眼蔵を読んでいるとそれに適切な例があったので書いてみる。原文は慣れないと読み辛いので私なりの解釈とする。

雪峰の直覚大師の近くに一人の僧が草庵を作って住んでいた。年月が過ぎても髪を剃らず、どのようにして生活しているのか誰も知らなかった。自分で一柄の木杓を作って、渓ほとりに行って水を飲んでいた。

だんだんと日が経つにつれてその人のことが人の口にのぼるようになってきた。ある日僧が来て、庵を結んでいる僧に「いかにあらんかこれ祖師西来意」と尋ねた。祖師西来意とは、達磨大師が苦難を侵して印度から来た志は何であったかということである。庵主はそれに「渓深くして杓柄長し」と答えた。尋ねた僧は意味が解らなくて礼もせずに帰って行った。そして山に登って雪峰に尋ねた。雪峰は「大変に良い。言葉に言い難い迄に良い。それであれば自分が行ってみよう」と言った。それから雪峰が行って道得の深奥を開演するのであるが、本論に関わりがないのでここで打切る。

水を汲むものにとって渓が深ければ柄杓の長いのは当然である。何故に雪峰はそれを激賞したのであろうか。私はそこに生命の大用の現前とでも言うべきものを見ることが出来ると思う。砂地に生えた草木は根を長く伸ばすと言われる。水の保有力の少ない砂地の水のある所に届かんが為である。柄杓の長いのはそれと同じ原理である。日蔭の草は太陽を求めて長く伸びる。私達の働きは斯かる大用の無限の内面的発展の上にあるのである。日日の働きは斯かる大用の現前にあるのである。私達が当然とするのは大用の現前なるが故である。

私は短歌とは斯かる日常の底に流れる代用を言葉に捉えることにあると思う。言葉に捉えることはそれを発展せしめ、豊潤ならしめることである。流した涙を言葉に捉えることは心をより深くあらしめ、交した微笑みを言葉に表わすことは内面をより豊かならしめることである。白菜を漬けた、畑の土に鍬を打ち下ろした等、全て言葉に捉えることは喜び・悲しみをより大きく開いていくことである。呼び交すことによって根底に入っていくのである。

庵主は唯「渓深くして柄杓長し」と言った。私はそこに東洋的把握がると思う。僧は解らず、雪峰は讃えた。境地に至ることによって感応道交するのである。全生命に於いて会得するのである。感応道交は短歌に所謂共感である。私は短歌とは斯かる東洋的把握に於いて日本語がその調べに於いて形をもった表現形式であると思う。判断によって会得するのではなくして体得する世界である。勿論知識を軽視するのではない。知識も亦そこから来るのである。体得の世界は冷暖自知の世界であるつねって痛さを知る世界である。私は短歌も亦そこに系譜をもつと思う。感情とは湧く涙であり、出でくる微笑みであり、躍る血潮である。嬉しいとか悲しいとかはそれを記号で捉えたものである。抒情とは斯かる感情の出で来ったものを生命の営みの中より放り出してより豊かな感情を見出そうとすることである。それは事実として具体である。短歌の表現が何処迄も具体に即さなければならない所以である。嬉しいとか悲しいという言葉は結んでしまう言葉である。観念は感動の生動をそこに断ち切るのである。「渓深うして柄杓長し」である。

付記 本文は正法眼蔵三十三、動得を読んで書いたものである。深大な宗教的体験をもたない私が果して正しい理解をなし得たか疑わしい。唯私は上述の如く解釈し短歌に結びつけたのである。知見の方の御叱正を賜らば幸甚である。

定型と自由

コップの中に水を入れて塩を加えていき、一定の濃度を越えてくると結晶を作り始めるそうである。そしてそれは塩の形以外の何物でもないそうである。私は現れ来ったものは全て斯かる結晶作用によると思う。人間の創作の如きも斯かる形の自覚として、斯かるものの上に築かれたものであると思う。

私は短歌の五七五七七の三十一文字による定型も斯かる結晶作用に於いて捉えたいと思うものである。それは叫びと言葉の境も定かでなかった太古より環境と対峙し、恐怖と安堵、喜びと悲しみの中に熟成・発展して行った声であると思う。戦争やら耕作、集団と個の分化による感情の飛躍の中からおのずから構成され、調ってきた言葉であると思う。結晶作用とは斯かる経緯を介して一つの形を成就していくことである。環境と対峙するものとしてそれは風土的形成である。私達を取り巻く山河風水の中に生きるものとして、最も緊密なる姿を作り上げていくことである。私達の身体は日本の風土を衣食住の環境として、最も緊密なる身体を作り上げているのである。外遊したら日本の食事を恋うと言われる所以である。私は前に生命の静的なるものが身体であり、動的なるものが情緒であると言った。私は日本の生命の無限なる活動を短歌の定型に捉えたいと思う。私はそこに日本の感情を飛翔し、沈澱するのであると思う。

昔小野十三郎という詩人がいて「定型は奴隷の韻律である」と言っていた。しかし私はそう思うことは出来ないと思う。私達はホモサピエンスとして同一の身体を共有する。私は人類の普遍の根 をそこに求めるものである。人類的普遍を有するものとして、自由とは自己の内面を最もよく表現することが出来るところにあると思う。私は国際化の進むところ、特殊なるものの深奥が照らし合うところに世界詩が成立すると思う。日本も、アメリカも、中国も、ドイツも特殊である。

 

短歌や俳句を作るとはどういうことか、私の考えを申し上げたいと思います。私達は生れてきたものです。生れてきたとは生きるべく現れたということです。生きるとは死をもったものが死と戦って自分を現わすことです。営みとは死に打克つ努力です。私達はそこに死の方向に悲しみをもち、生きる方向に喜びをもちます。この喜び悲しみを言葉に表わすのが短歌や俳句であり詩であると思います。それではこの言葉に表わすとはどういうことであるのか。例をとって申し上げますと「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」という短歌があります。私達はこの歌を読みますと故郷を眺めて流した仲麻呂の涙が私達の目に湧いて来ます。千年の時間を越えて涙が直につながるのです。私は人類が一つのものであり、その現われであると思います。そしてこの人類の一つの命に於いて私達があることだと思います。仲麻呂の涙が私達の目に湧いたように、私の涙が私でない人の目に湧くのです。流れ合う涙があり、交し合う微笑みがあるのです。そこに私達はあるのです。ゲーテは「永遠に女性的なるものわれを導きてあらしむ」と言っています。私はこのわれをあらしむものを人類一つの命に見たいと思います。流れ合う涙、交し合う微笑みに見たいと思います。そしてそれは言葉に表わすことによってあるのです。お互いに明日からも作りたいと思います。