湖内さんの思い出

初めて湖内さんに出会ったとき、私の脳裏に寒山寺の五百羅漢のイメージが重なった、そしてその印象は後々迄も変わることのないものであった。私はよく天神に氏を訪ねた。共に酒を好み、その量の匹敵していたことも原因であるが、何よりも話していて楽しかったのである。氏はよく勉強をしておられた。その常識の徹底に於いて、私の知る限りみかしほの人々に其の比を見ないものであったと思う。氏の知識には曖昧さがなかった。私が最初に驚いたのは草木に対する深い知識である。しかしそれは植物学者のそれではなく、私達の身辺に関るものであった。一緒に歩いていて、目に留った草を「これは何か」と聞くと大概的確な答が返って来た。しかしその知識をひけらかすような事はなかった。唯聞かれた時に答えられるだけであった。中国や日本の古典もよく読んでおられた。仏典なんかも目を通しておられたようである。

訪ねると表具の糊付けをされているのが多かったように思う。大きな刷毛をもっておられた指の太かったのを思い出す。私が来たからと言って慌てる風もなく「一寸これだけ片付けまはな」と言って同じ姿勢で刷毛を動かしておられた。私はそれを見ながら道元が船中に出会ったという典店を思い出したものである。それは表具を自分の天職とするゆるぎない姿であった。そこに生きるものの姿であった。奥さんの言われるには「表具の仕事の他は何もしやしまへんねん」とのことであった。それだけに出来た作品には自信をもっておられたようであった。

呑みながらの話は大概短歌の事であった。氏は佐藤佐太郎に傾倒しておられるようであった。氏の根底にあるのは日本の伝統的形成としての「わび」「さび」であり、それをアララギ的な写生に於いて実現しようとされているようであった。それに対して私の持論は私の思索の中より生れて来た「歴史的現在」を根幹に置くものであった。それは我々人間は社会を作って生きてゆくものであり、社会の変化に応じて我々の姿勢は変るものである。喜び悲しみも亦そこにあるとするものである。そこから私は短歌表現の根源は発想にあると主張した。それに対して氏は言葉が調うということを重視された。「言葉がちゃんとしとったらよろしやおまへんかいな」と常に言われたものである。事実氏の作品は言葉が調うという意味に於いてよく彫琢の行き届いたものであった。氏の作品は多く人に高く評価されていたのはそこに原因があったと思う。私は氏の作品の完成度の高さを認め乍らも一様の乖離を持ち続けたものである。しかし今にして思えば一つ立場の完結はそれはそれとして評価すべきで、自分の立場からの尺度をもって否むことは自分の未熟さであったと思う。自分を捨てて作者の中に入って味到すべきが鑑賞の王道であると思う。

汝であったか飲んでいる最中に私が「二人で歌集を出してやおまへんか」と言った。すると「本にするような歌なんかなんぼもおまへんがいな」と言って渋られた。それを「出したい歌だけ出したらよろしいがいな」といって説き続けた。それからしばらく経って訪れると「わしも貴方と同じ数だけ出しまはな」と言われた。撰んでいるうちに思ったより多く自信作があったのであろう。後記に私の姿に偽りはないと書いておられる。出版してから数ヶ月目に記念歌会をしてやろうとの事であった。席上湖内さんの歌を藤原つよし氏が激賞された。私の作品は担当の芝田すみれさんより「前の歌集『蝸牛吼ゆ』より悪い、どうして下手になったのか」と言われて返事に窮したのを思い出す。思えばこの歌集が唯一の遺歌集となったようである。

往時天神は歌のメッカとでも言うべく多士済々であった。しかし才逸氏・藤治氏・すみれさんが逝かれ、今亦氏を失った。俄かに距離を増したような寂寥感を抱かざるを得ない。

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