「その昔その又昔を聞かされぬ老母が話は生き生きとして」。みかしほ四月号の中北明子さんの作品である。これを取り上げたのは、この歌が良いとか悪いとか言うのではなくして、私はそこに意識の原風景があるのではないかと思ったからである。以下それを書くことによっていくらかでも明らかにしたと思う。
私達は古代の伝承を神話や伝説やお伽噺として持つ。それ等は何れも有り得なかったことか、あり得たものとしても非常に歪曲されたものである。殊にお伽噺は荒唐無稽とでも言うべきものである。どうして実際にあったことが記述されなかったのであろうか。私はそこに最初の意識を見ることが出来るように思うのである。結論から先に言えば私達の根底に世の中があるといいうことである。そのことは世の中の意識が根底にあり、私達が持つ自己意識はその上に成り立っているということである。
お伽噺では大概正直と意地悪との対立となっている。そして正直者が幸せになり、意地悪が不幸になってめでたしめでたしとなっている。それは果して昔の現実であったのであろうか、私は意地悪じいさんや、欲張りばあさんの方が物を蓄めて威張ったように思えて仕方がない。それなれば何故正直じいさんが幸せになったのか、私は世の中を維持していくために正直という骨格が必要であったがためであると思う。そういう意味で正直は当時の世の中の律法のような意味を持っていたのであると思う。お伽噺は規範として人々の行為の中に働き続けたのであると思う。私はお伽噺が語り継がれたのは世の中の自己維持としてであると思う。
お伽噺は個々の生活を映すものではない。併しそれは生活に形を与えるものである。私はお伽噺を生んだものは全体表象とでも言うべきものであったと思う。フロイドやユングを待つ迄もなく私達の意識は深い。私たちの意識は生命発生以来の三十八億年の蓄積の上にあるのである。少し考えれば記憶も想像も個体としてのこの我を超えたものであることが判る。私達は人類の一人として記憶や想像を持つのである。表現というのもそこにあるのである。私達が短歌を作るのも、祖先が作った世界の中に自分を映し、世界と自分を見出していく行為である。そこに見られた形が創造の内容である。
その昔その又昔は現在に比べて世界と自分が未分化であった。私は花咲じいさんや舌切り雀は自分が世の中から充分に分離していない時生れたイメージであると思う。彼等はそこに表現として世の中と自分とが混合している形像を見出したのである。それは自分の営為よりも深い真実を見出したのである。お伽噺は自分等がそれによってあるものとして語り継がれたのであると思う。老母はそこに生き生きとして語るのである。