うらうらと春陽浴びるもうれしきに桃咲くが見え試歩を延ばしぬ 石井文子
病後の歩みをおのずから誘われる姿が見える。そこに自然と人生がある。但し表現として三句捨てたい。詩は頭脳に訴える以前に心臓を動かすのでなければならない。三句は一首を殺すものである。
風花に枯れしかと思う万作の黄を点したり庭先明るく 井上ふくゑ
明確な感動の把握は迫力をもつ。万作の黄は作者の胸に点ったのである。初句と結句捨てたい。特に結句は四句と重複している。
父逝きて一年過ぎし職場には使ふことなき前掛けありぬ 大久保公江
よい素材を捉えている。四区更に父との関りを追求したい。このままでは感動が希薄である。
わが内に長逗留の風神よお出かけ召され春はうらうら 片山洋子
風神は所謂風神雷神の風神ではなくして風邪の神であろう。自己を外に置いた作品で面白い。苦患を離れて苦患を言葉で遊ぶ余裕は豊かな人間性に裏付けられた知性である。但し、一首目と二首目、手の内が見えすいて強い作りされた感がある。
耳澄まし待ちゐる吾に子の来れば必ず吠ゆる犬しづかなり 小紫博子
氏の作品には世界の中の自分を見ている静けさがある。 長流に言えば己のはからいを捨てている。或は三十五Kという病弱の故であるかも知れない。併し嘆きを超えて自己を充足させているのは立派である。
目覚めよき朝なり凛と巨大(おおい)なる白菜一つ両断にせり しつかわ碧
爽やかさの感じられる作品。切られたのは白菜であると共に迷いであり、妄念であり、ストレスである。若さとは年令ではない。爽やかさである。過去を裁断して未来に生きる力である。成功した一首。博識な作者は兎もすれば舞文となり勝ちのように思う。
人影の絶へし桜の葉の下をひたすら前向き歩幅を伸ばす 田村喜久子
上句を受けての下句の前向きに伸ばす歩幅は自分の内面に向かっている。自分の世界の拡大への歩みである。聡明さの感じられる作品。二首目も二句もたついているが佳品。
小魚を商う女一人居て路上は暫し賑はひとなる 松尾鹿次
よく見る田舎の風景。三句やや難あるも繁雑に疲れた心が洗われるような感じは捨て難い。
逢はばやと思ふ一人還らざり烏賊の臓抜きて吾は生きゐる 藤木千恵
三月号の作品であるが誰も取り上げなかったし、感銘したのでゆるして戴きたい。運命を超えて運命を受用し、静かに自己肯っている作品。芭蕉の名作「秋深し隣は何をする人ぞ」の一歩手前迄来ているように思う。