具象と観念について

表題は、具象と抽象についてとするのが妥当かも知れない。しかし、私達の「みかしほ」歌会に行くと、具象的であるとか、観念的であるとか言われるので、このようにした。この言葉は、一応表現の両極として対立するものとして受け取られている。そして、具象の方向に写生歌が言われ、観念の方向に象徴歌が言われているようである。しかし、多くの人の言われていることを聞くと、短歌という一つの表現世界の形成として、何処に乖離をもち、何処に接点をもつかが曖昧なように思う。そしてそれを明らかにすることなくして、真に批評や鑑賞が出来難いと思うので、その根源を考えてみたい。
 よく観念は主観的、具象は客観的と言われる。観念は我に、具象は物に即するのである。私は、このことは両者は生命形式の両極としてあると思う。生命はその形成において内外相互転換的である。外を食物とし、食物を摂ることによって身体を形作っていくのである。身体を内として、摂取して不用となったものを排泄するのである。そこに内と外が成立する。食物は我ならざるものである。それを摂取することは、我ならざるものを我とすることである。我ならざるものが我となるものとして、食物は我をとり巻くものである。とり巻くものとして雑多としてあるものである。環境はさまざまのものとしてある。それはまず我々の食物としてあるのである。私達はそれを摂ることによって身体を形作るのである。身体として形作るとは有機的統一体となることである。環境の多に対して、形作るものとして一の実現となるのが、生命であり身体である。

私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るという時、西田博士の言われる自己においてということが必然的に見られなければならないであろう。しかし、今はそれを問わないことにする。私は斯かる自覚を物の製作において見ることが出来ると思うのである。内外相互転換としての生命は、外をより大ならしめることが内をより大ならしめることである。生命は形成作用としてより大ならんとするものである。それを内外相互転換の働きにおきて実現するのである。より大なる生命の実現は古い生命の形を超えて、それを包んだ新しい形が生まれることである。私はそこに自然にある生命から、製作する生命を見るのである。製作的生命になるとは、環境が物としてこの我が主体となることである。物と我が対立することである。製作において物と外が対立するとは、自然においては対立を持たなかったことである。嗅覚において、視覚において外と内とが直に一つであったということである。人間は額に汗して生きるものとなったのである。内外相互転換は額に汗することによってあるものとなったのである。行動が反射として感覚が直に動作なる時、私達はそこに具象も観念ももつことは出来ない。対立が生まれたとは相互否定的にとして自己を見てゆく生命となったということである。食物がなければ我々は生きて行けない命であり、食物は食べればなくなるものである。その食物を単に外として偶然に任すのではなく、働くことによって作り出して、自己の内容とするのが製作することである。私はそこに具象と観念を持つのであると思う。製作するとは物と主体に分かれた形成作用が、主体に物を映し、物に主体を写すものとして一となることである。そこにこの我はより大なるものとなるのであり、物はより豊富なものとなるのである。
例えば私達は米を作る。米は有機的生命のこの我に化すものとして有機物である。斯かるものとして米は直接獲得するのではなくして、稲を栽培することによって獲得することが出来るのである。そのために太陽の恵みの豊かな所を選び、水利の便をはからなければならない、私達はそこに天を知り、地を知るのである。そして、それは風雨を防ぎ、水路を作る労働の中より生まれるのである。そして斯かる製作の中から言葉が生まれるのである。大なる自然を目的によって変革するということは、個々の力のなし得るところではない。生命は本来種として集団的である。手振りや鳴き声など、他者への信号を持つということは、既に集団的であるということである。外に物を作る時働くものは先ず集団としてあるのである。物に対する主体は先ず集団が担うのである。私は斯かるものとして、物の製作は世界形成的であると思う。私とか物を超えて生命が世界形成的となる時に製作があるのであり、自覚とは世界形成的に自覚するのであると思う。世界形成とは生命の自覚として具体的であり、全存在である。私はここに観念と具象があると思う。観念と具象は自覚ではない、自覚を担うものとなるのである。観念と具象は対立しつつ一なるものとして自覚の実現者となるのである。而して対立しつつ一なるとは物と主体の構図であった。私はそこに具象と観念の成立があると思う。即ち製作されたものの方向に具象があり、製作するこの我の方向に観念が成立するのである。物のあり方が具象のあり方であり、この我のあり方が観念のあり方である。

前に書いた如くこの我は対象の雑多なるものを内とする統一者とあるのである。斯かる統一は消耗を充足する身体を持つものとして絶えざる努力である。製作は内を外とし、外を内とする絶えざる努力である。斯かる努力が製作であるとは、製作は内が外を映し、外が内を映す無限なる発展であることである。内が外を映すとは、水が低きに流れる性を捉えて水路を作る如きであり、外が内を映すとは石に手を写して石器として使用するが如きである。手の延長として道具を作ることである。道具を作ることは対象を作り、対象を作ることは道具を作ることである。自覚的生命として内に転換すべき外は製作された物である。我々は製作した物によって生命を養うものとなるのである。そのことは亦道具を介して自己を見るものとなることである。そしてこの我は道具を作り、物を作るものとして世界を実現する統一者となるのである。

観念がこの我のあり方であるとは、生命の形成作用は世界実現的であるということである。主体としての集団とは個を内に持つものである。個を内に持つものとして集団である。集団とは同一の体制を持つものである。それが対象が発展して様々の物の作ることは個への分化を持つことである。道具の多様化として個人が生まれてくるのである。斯かる多様化は世界の実現として統一者が求められなければならない。而してそれは世界を実現するものとして大なる力能者でなければならない。私はそこに神の誕生があったと思う。神は実体ではない。製作に於いて現れた作るものと作られたものの根源としての統一である。この我と物を内容とするものである。それが内容の実現者として、内容に望むとき神は観念となるのである。万事を制約する無制約者として出現するのである。私は観念はここに出現し、全ての観念はこの光被を持つものとして出現したのであると思う。そして具象も亦ここに出現したのであると思う。

製作が内を外とし、外を内とする無限の努力であるとは、我を物と化し物を我と化することである。我を物とすることは物が実現することであり、物を我とすることは我が実現することである。物と化するといってもこの我が物となることではない。物を働きに於いて内包するものとして技能者となることである。技術を持つものとなることである。道具を持つということは物の形相を内に持つということである。物の形相とはこの我が生存すべく、身体の用に作られたものである。木は家を建てるものとして物である。木は家ではない。我々はそれを身体の延長としての道具を用いることによって実現してゆくのである。道具を用いて作るとき、家は身体の用として我々は家のイメージを持ち、イメージを持つことによって実現していくのである。一度作り出されたイメージは脳の中に記憶され、働くものとして次の建築を先導するものとなるのである。ここに世界が形成されるのである。私は愛は斯かる生命の形成の感情であると思う。この形成に於いて、木を愛し、道具を愛し、我を愛し、弟子を愛し、手伝い人を愛するのである。愛とは生命の同一を創出することであり、この創出された同一が価値感情として観念である。具象は斯かる世界形成の手段として出現するものであると思う。木を削り、石を担ぎ、組み立てるのが具象である。愛が観念として、働くものとして不滅なるものに対し、現われて消えゆくものである。愛は生死を超えて全ての人が持つのに対して、人は死に、家は壊れる。併し、削り運ばれることによって世界が実現していく如く、此処から愛が生まれて来るのである。汗から、力の表出から一つの形を生み出してゆくのであり、形の実現が一のものとして愛が生まれ、はぐくまれるのである。削られ現われた木肌、一つの構想の下に据えられていく礎石等一々が愛惜の情を担うのである。愛の観念はその一々が担うのである。愛は具象に出現するのである。具象の一々を失った愛の観念は何ものでもない空虚なものである。物に主体を映し、主体に物を映す無限なる働きとしての生命は、具象は観念の光りを受けて出現し、観念は具象に担われるものとして世界を形成していくのである。

私は、短歌は生命の表現としてここに二つの道を持つものと思う。一つは具象より観念を見出す道であり、一つは観念より具象を見出す道である。一つは写生の道であり、一つは象徴の道である。写生の道とは具象は観念を担い、世界を実現するものとして現実の姿を追求することである。一つは働くものが自己を表すのが世界であるとして、具象を主体の陰として見ようとする立場である。一つは物の事実より世界の展開を見ようとする立場であり、一つは感情の事実より世界の展開を見ようとする立場である。それは相反する立場である。併し私は生命形成が主体に物を写し、物に主体を写すものとして、この相反する両方向を持つと思わざるを得ない。世界形成に於いて外は物に発現し、物は感情に発現するのである。内外相互転換の形成として物が身体の発現となる時に感情が生まれ、身体が物の発現となる時に具象が生まれるのである。そして発現する物は一方を内に含む物となるのである。前者に於いて感情は物を含み、後者において物が感情を含むのである。世界形成的に内が外を含むとは、内が愈々大となることであり、外が内を含むとは外が愈々大なることである。物を作るということは身体を作ることであり、身体を作るということは物を作ることである。身体に感覚を愈々精緻ならしめるのである。精緻ならしめるとは多様なる物を感受し、表現する機能を持つことである。世界形成的生命として主体はそこに自己を見出していくのである。そのことは必然的に物が多用なる物として出現することである。

表現するとは自己を露にすることである。露にするとは外に見ることである。外に見るとは自己ならざる物とすることである。自己ならざる物として自己と対立するものとなることである。言われる如く機械は逆に人を使うものとなり、商品は対価を払うことなくして使用し得ざるものとなるのである。併し外は内に転化するものとして外である。内を映した外として、それを更に内とすることは更に大なる我となることである。外を益々多様として、その多様を内に包むものとなるのである。生命はそれを喜びとして直観するのである。そしてそれを失うことが悲しみである。そこに耐えざる外化と内化を要求するのである。物の出現が喜びを生み、喜びが者の出現としての製作へと駆り立てるのである。感情は働く主体の純なる流れである。形作られる身体の表出である。それが外によって養われたものとして働く形を持つのが観念である。故に愛も神も感情として出現するのである。外の多を一として実現する身体の表現は感情である。斯かるものとして生命形成は、具象と観念の無限の交叉である。一即多、多即一、内即外、外即内として世界は相即的に形成するのである。これをたとえば瓜の栽培をする時我々は豊かな食生活を期待する。この期待はこの我が持つのである。併し別の言葉で言えば期待は瓜の中に棲むのである。種子を蒔くと共に希望が生まれるのである。瓜苗の生長は希望の成長である。そこにこの我に愛の感情が生まれるのである。栽培はこの我がする時、愛によって瓜が育ち、瓜によって愛が育つのである。これを瓜の育つ側から見れば具象であり、愛の育つ側から見れば観念である。外に物が形を成し、内に身体が機能を持つものとして形を成すのである。これが世界が世界を作り、世界が実現することである。而してこの世界形成は相即の世界として、事より事への世界である。見るべからざる世界である。それを見るには何れか一つの立場に立つということが必要である。そこに写生と象徴の立場に分かれるのである。併し生命形成は何処までも内外相互転換的である。詩が生命の形を追求するものである限り、一つの立場は行き詰まらなければならない。

写生が写生の立場に固執し、観念が観念の立場に固執する時に袋小路に入らざるを得ない。それがマンネリである。生命の内外相互転換は短歌の表現に於いて具象と観念の交叉である。それは相互否定的に一ということである。私は一つの立場を取りつつ相互否定的であるということは、或る時は観念が優勢となり、或る時は写生が優勢となることであると思う。観念が優勢となってその方向に突進む時に目指したものが一つの熟成を持ちマンネリとなるのである。そしてそれを打ち破る具象の立場が現われるのである。そしてそれが新しい世界を負うものとして目覚しく展開し、熟成していくのである。そしてそれを観念が打ち破っていくのである。それは前の形を破った物として一つの形であり、無限に動的な生命の一の形として打ち破られるべく現われたものである。併しそれは単に打ち破られたのではない。打ち破るのはより大なる力の出現でなければならない。具象は既成の観念の形を内に含むものとして新たな形を持つのであり、観念は更にその形を包むものとして時間の上に現われるのである。斯くして停滞は過去の形相を陰影とする多彩なる展開となるのである。そこに創作は無限となるのである。

 

2015年1月7日