創作の価値の基礎について

よく「好きな歌がよい歌である」と言う人がある。その論旨の不可なることは少し考えれば判ることである。甲の人がこの歌は好きであると言い、乙の人が同じその歌は嫌いであると言った場合、我々はその歌の評価に対する何等の基準を持たないことになる。何等の評価も持ち得ないということは惚けた老人の独語と変らないということである。そこには創作ということもあり得ないことになる。言葉は対話として世界を表象するものである。我と汝がそこにある世界の形象を見出すものである。評価とは如何に世界に参与し、如何に世界を形作ったかを定めるものであり、次の世界を拓く踏み台となるものである。そこに創作があるのである。

しかし「それならお前のよい歌というのはお前の好きな歌ではないのか」と反問されたら答えに窮する。広辞苑に好きとは「気に入って心がそれに向うこと」と書いてある。撰歌を依頼されたときもざっと目を通して気に入ったものに印を付けていく。更に印を付けたものに精密な考察を加える。撰ぶのは好きな歌である。注意するということが既に気に入ったということである。作歌するのもそうである。心の向うことなくして作歌はあり得ない。参考となるのは常に心気を高揚させてくれる歌である。即ち好きな歌である。そしてそれがよい歌であると言わざるを得ない。私達はそこに好きな歌がよい歌である、しかし好きな歌がよい歌の基準になることは出来ないという難問に当面せざるを得ない。私はこの問題のよって来るところは感情は個人に関り、価値は世界に関るところにあるように思う。個人は世界ではない。世界は個人ではない。而して世界は個人によってあり、個人は世界によってあるのである。個人と世界は相反するものであると同時に直に一つのものである。私はそこにこの問題を解くべきものが潜んでいると思う。

生命は内外相互転換的に形成的である。外を内とし、内を外として自己の形を作っていくのである。外を食物的環境として、食物を摂ることによって内としての身体を形作っていくのである。私は斯かる生命の自覚として人間があると思う。自覚とは相互転換としての形成が内面的発展を持つことである。形成としての生命が内と外としての、身体と環境により大なる形相を見出していくことである。生命は働きと形、時間と空間の統一としてある。生命は生存としてより大なる形相とは、より長く生き、より大なる場所を持たんとすることである。斯かるより大なる形相を内と外とを見ることによって形作っていくのが内面的発展である。私は斯かる内面的発展を経験の蓄積に見ることが出来ると思う。経験の蓄積とは一瞬一瞬の内外相互転換を時間の持続に於いて見ることである。一瞬一瞬の内外相互転換が、一瞬に消えて一瞬に生れるのではなく、前の一瞬の働きが今の一瞬の働きの力となることである。前に現われた形が今の形を生む力となることである。例えば野菜を植えているところにごみを捨てたとする。そしてそれによって成長が早められたとする。すると次に野菜にごみを施すごときである。そこに時間と空間が現われるのである。野菜畑にごみを捨てたら野菜が早く大きくなったのが過去であり、ごみを肥料として施しているのが現在であり、野菜の成長と収穫を予測するのが未来である。そして野菜の栽培の場所が空間である。時間・空間は製作によって出現するのである。

技術的製作的になるとは形が無限に生れることである。外とは我ならざるものである。内外相互転換とは内としてのこの我が外としての我ならざるものに出合うことである。相互転換とは外としての我ならざるものを身体としての内に転換することである。それを蓄積するということは、我ならざるものを我とする手段を持つことである。そこに必然が成立するのである。我ならざるものとして出合の偶然であった野菜は栽培に於いて必ず出合えるものとして必然となるのである。その必然の体系が技術である。生命の必然の体系に組込まれた野菜は、何処迄も外として、身体ならざるものとして、身体の欲求に従ってより美味に、より多量にとして形相の大を求めるのである。そこから様々の形の分化が見られるのである。斯くして偶然と必然の交叉の中から創造として無限の形が生れてくるのである。

内外相互転換は生命の基本である。基本として生命発生以来の全ての生命が持って来たものである。内外相互転換が生命形成であるとは、全ての生命が転換を持ち、転換に於いて生命と生命が食物の所有を争い、そこより形が生れたということである。有機体に於いて外とは敵である。内外相互転換とは闘いである。闘いは個体が死を超えようとする努力である。そこから個体としての形が生れて来るのである。動物の世界は闘争の世界であり、自然淘汰の世界である。私は人類の製作に於いて自他を統一する大なる世界の展望を持つことが出来たのであると思う。製作は前にも書いた如く偶然としての外を必然としての内に組み込むことである。斯かる外は私一人の環境としてあるのではない。この我も亦生れ来ったものとして、無数の人々が生まれ、育ち、死んでいくところとして環境である。生まれ死んでいくところとして環境は大なる力である。製作は変革することであり、環境の変革はよく一人の力のなし得るところではない。それは全人類の無限の努力の上に成り立つのである。経験の蓄積というのも全人類の内容としてあるのである。蓄積を記憶として持つ。我々が記憶を持つのも全人類の内容として、全人類の形相を宿すということである。人類が形成してきた世界の一点として記憶を持つのである。

製作は形の無限の発展である。私はそこに芸術の萌芽があると思う。無限の発展とは見られたものが見るものとなることである。作られたものが作るものとなることである。蓄積としての獲得した力が働くものとなるのである。作られたものが我と対し、我に対するものを外として更に大なる内面的必然の体系の中に組み込んでいくのである。即ち更に合目的的な物を製作していくのである。製作として物は人を映し、技術として人は物を映すのである。内と外とは相互否定的に一として発展していくのである。形より形へである。製作は身体の形成として、身体の用のために始まった。而して形より形へは身体の用の中に消えゆくのではなくして物自身の発展を持つものである。勿論基本としての身体の用が消えるのではない。人類の内容として個体の用を超えた形を持つのである。社会の内容として商品となるのである。勿論商品は芸術ではない。商品は尚個体の欲求に即するのである。私はそれが芸術となるのは個体の用としての欲求的内容より転じて、人類が自己の形相を見るということであると思う。形より形へとしての製作は前にも書いた如く、瞬間としての内外相互転換を超えて過去・現在・未来を内に持つことである。過去は帰り尽くせないものとして無限であり、未来は到り尽せないものとして無限である。それは全人類の持つ無限である。それは個を超えたものとして個を内容とするものである。私はここに現われる形は世界の形相であると思う。私はこの個を超えて過去・現在・未来を統一する生命として、世界が世界を見ることによって生れる形が芸術であると思う。そこは形が形を生む根源として純なる形である。

生命は生きるものが死を持つものであり、死にゆくものが新しい生命を生んでいくものである。営みは一瞬一瞬の内外相互転換であり、内外相互転換は形成作用として過去・現在・未来を統一するものである。永遠が瞬間であり、瞬間が永遠なるものとして営みを持つのである。製作も亦生命の自己表現として瞬間即永遠・永遠即瞬間として形を実現するのでなければならない。私は作られた形の全ては日常の用としての瞬間的な方向と形の実現として永遠の方向を有すると思う。そして日常の用の方向に物としての器具が見られ、時を包む形の方向に美としての芸術品が見られるのであると思う。茶碗の破片も時を包むものとして美の内容であり、飾り皿も果物を載せれば器物である。勿論碗の破片が美術品であるというのではない。最初に人類が物を作った時に用の方向と形の方向があったと思うのである。縄文土器につけられた紋様は神の形象であると言われる。天地を写すのである。そこから種々の形が生れるのである。しかしそれはまだ芸術品ということが出来ないと思う。それが芸術品となるには用から離れなければならないと思う。用から離れて世界の形を表わすものとなるのである。最初の形は用として現われるのである。永遠なるものが初めに形を持つのは瞬間的なるものとしてである。瞬間的なるものとして身体に即して現われるのである。身体の行動的直感として現われたものが次の形を生むとき、そこに時の統一が現われ世界が世界を見る形となるのである。私は芸術とは形が斯かる方向に内面的発展を持つことであると思う。この問題を解くために更に形とは何かについて踏込んでみたいと思う。

私は前にも書いた如く、死をもつ生命は生きんとするものであり、死の克服として現われた生命の相が形であると思うものである。初めに形が現われてそれが死を持つのではない。生れることが死ぬること、死ぬることが生れることとして形が現われてきたのである。形が現われることによって生と死が否定的に対立するものとなったのである。私は生命は生死の統一として初めて具体的な存在であると思う。具体的な存在とは形を持つことである。斯く生死を持つということが内外相互転換的であるということである。外を死とし、内を生とするのである。外は環境として死を以って迫ってくるものとなり、内は身体として努力によって環境を身体に転じて生を維持し発展させるものとなるのである。そこに外は世界として形を持ち、内は身体として形を持ってくるのである。斯かるものとして形は相互限定的である。身体は環境を映し、環境は身体によって変革されるのである。形の成立は環境に作られ、環境を作るということである。斯くして生命の営為は環境と主体が映し映される無限の形成の働きとなるのである。村里と山家・大河と小川・温暖地と寒冷地等々一木一草に至る迄、我々はそこに生き、それによって生きるものとして形を作っていくのである。生きるものとしての形を作っていくとは感情・意志・知識を作っていくことである。そこに生きるものは生れ変り、死に変り一つの形に生き、形を発展させていくのである。斯くして生きるとは先人の形を学び発展させていくこととなるのである。ここに於いて私達は形に生き、形によって生きるのである。経験の蓄積はここに成立するのである。経験の蓄積は外が身体の用を離れて形が形を生み、生命形成の内奥を露わにすることである。身体を超えた形として世界が現われることである。

用を離れ、身体を超えると言っても進退がなくなることではない。内外相互限定としての内の身体を失うことは形がなくなることである。唯用としての内外相互転換は身体が重心を持つのに対して、形としての内外相互転換は世界が主となるのである。前者に於いては世界は感官的欲求の内容となるのに対して、後者に於いては身体は世界の内容として、世界の形を現わすものとなるのである。身体はもともと無限の奥行を持つものである。但しそれは内外相互転換的に外を映し、外を映したものを自己とすることによってである。無限の創造的発展を潜めるものとしてである。身体が奥行を持つとは外を映すことに無限の形を持つことである。そしてそのことは亦内外相互転換として外に無限の形をあらしめることである。ここに我々はこの我をあらしめ、物をあらしめるものに逢着するのである。この我をあらしめ、物をあらしめるものは我でも物でもなくして我と物を超えたものでなければならない。超えたものとして物に移して我をあらしめ、我に映して物をあらしめるものでなければならない。而して我と物をあらしめるものとして見出された形は超越者の姿でなければならない。超越者が自己自身を見るものとして形成があるということでなければならない。そのことは我が物を作り、物に我を見るということは超越者の自己創造ということである。私は形が実用を超えるというのはそこにあると思う。そこに物は身体の用を超えて超越者が自己自身を見るものとなるのである。我々が物を作るのは本来超越者が自己自身を見ることであり、身体の用はその手段となり、その陰翳となるのである。斯くして超越者の内容としてのこの我が超越者を宿すのが価値としての表現であり、芸術も亦そこに生れるのであると思う。短歌も亦芸術として日本的特殊に於いて超越者を表わすところにあり、評価の生れるところもここにあると思う。

日本的特殊とは日本の風土である。そこに生れて働き死んでいく自然である。生きて死んでいくということは内外相互転換的に環境と主体が映し映されて形作ってきたということである。そこに我々は自分の形を作ると共に日本の形を作ってきたのである。自分の形を作ることが日本の形を作るものとして生きてきたのである。私は斯かる形成作用の日本の形を作る方向のひとつとして短歌が見られると思う。それは身体の用としての物の方向ではなくして、対立の統一としての言葉の方向である。物が身体の生死を映すものとして現われて消えていくのに対し、それを超えてそれをあらしめる言葉の方向である。それは対象を映し、対象に映されて自己を明らかにしていく創造的一者の形成作用である。私は短歌は斯かるものとして、日本の風土に生きる生命が風土と生命の相互否定的転換に於いて世界を形成し、世界を明らかにしていく一つの手段であると思う。それは無限の転換である。外を映したということは外をイメージとして自己の形を作ったということである。内を外に映すということは、外を獲得した新たな力によって更に大なる世界を作ることである。更に大なる世界を作るとは超越者が自己自身を現わし切ろうとすることである。而してそれは無限者として無限の働きである。無限なるが故に超越者なのである。私達は斯かる世界の内容として、働くということは無限の姿を見るということである。実現するということである。私は斯かるものとして良い歌とはどれ程世界を映し、我を実現したかにあると思う。映し映されることによって世界を形作り、形作ることによって見ていくのである。それは映し映されたものとして無限の過去を内に見るものであり、無限の未来への呼びかけを持つものである。良い歌とはより明らかにより大なる世界を開いたものとして、この己により明らかなより大なる内容を持たしてくれるものであると思う。そしてそれは映し映される、無限の努力の中より生れてくるのである。努力するとはより明らかなより大なる世界を求めていることである。求めているものが与えられた時、より大なる光りを与えられた目の如く知るのである。そこに形成的生命の自己直観があるのであり、生命は直観的に自己を形成していくのである。目から鱗が落ちたという言葉がある。より大なる世界に接して、より大なる形を見、形を作る目となったということである。私はそこに芸術の世界が成立し、客観性はそこに求められると思う。日本の自然と人間が映し映されるときに和歌という形に結晶したのである。作品を介して主体と対象、我と世界は明らかな形を持ってくるのである。映し合う主体と対象は作品によって自己を明かにしていくのである。恰もそれは鏡の如きものである。鏡に映して自己の姿を知ると共に、ありたき姿とある姿の乖離を埋めんとしてより美しいより大なる自己の姿を作っていくのである。乖離をもたらすのは世界としての他者の目である。斯くして自己をより美しくより大ならしめるものは重々無尽の世界である。勿論作品は鏡ではない。単に写されたものではなくして実現したものである。逆に世界を作るものである。作られた世界として次の創造を呼ぶものである。私達の無限の努力はここより生れるのである。我々の働くことが呼ばれるものであることによって限りなき努力をするのである。

私は良い作品とは我と対象としての世界をより明らかにし、その明らかにしたものに於いて創作を呼び続けるものであると思う。創作を呼ぶということは好きということである。そこに好きな歌が良い歌であるということのよってくる所以がある。しかし好きというのは自己に関るものである。自己に関るとは他者に関らないということである。そこに世界形成はない。世界形成のないところに自己は消失しなければならない。好きということの上に立って自己を見るとき、自己とは唯世界形成より他者を捨象して見られた抽象物に過ぎない。自己に世界を映すのみにて、世界に自己を映すという意味が失われたところにあるものとなるのである。そこから新しい形としての自己を生むことが出来ないと思う。勿論内外相互転換としての現実にはこのような一方的なものはない。好きは他者に関るのである。唯好きという時他者の中に自己を消していく真の形成はないと思うのである。呼ぶというのは内外一としてこの我を超えた形としての世界より我をあらしめる声である。好きというのも我をあらしめる世界の中により真実の我を見出した感情である。世界が自己を運ぶところに生れるのである。それを評価に於いて逆に我よりとするところに誤謬が生れるのである。

形は何処迄も内と外とが作品を介し自己を明らかにするところより生れるのである。現われた形が世界である。この現われた形以外に世界があるのではない。そしてそれをあらしめるのが内と外として無限に映し合う主体としての人間と対象としての物である。この世界の内容として現われたこの我々と物以外に物や我があるのではない。この我や物が評価を持つということは、映し映された世界の明らかさをどれ程深く大きく担っているかということになければならない。映し映されることによって明らかになるとは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは初めと終りを結ぶものが自覚的ということである。初めに終りがあるのである。初めに単細胞として地球の一点に生れた生命は無限に自己を複製し、内外相互転換として形の中に形を見出していくのであったのである。そこに新しく生れることは初めに帰ることである所以があるのである。最初の生命が内外相互転換として新しい形に転じていくのである。しかしそれが単に転じていくのは形成ではない。過去を包むものとして、蓄積するものとして転じていくのである。そこに新しいものを見るとは初めを見ることであり、発展することは根元に帰ることである所以があるのである。創造は宇宙唯一生命が自己を見るところに成立するのである。宇宙唯一生命は初めと終りを結ぶものとして自己の中に自己を見る生命でなければならない。学ぶとは真似ぶであると言われる。大なる過去に還ることが大なる未来に至ることである。私は斯かる創造的世界が自己がその中にあり、自己がその中に見られるものとして自己に対するとき客観的世界が生れるのであると思う。作品の評価はどれ程深く大きく世界を明らかになし得たかにあると思う。それは内と外が深く大きく映し合ったものとして、どれ程深いところ、高いところから読者に呼びかけ、読者の目を開いたかにあると思う。そこに作品の価値は世界の真実となるのである。好き嫌いは個人意識、時代意識に左右されることが大である。勿論個人意識、時代意識なくして意識はない。唯私はその根底に世界意識とか、宇宙意識とかがあり、個人意識や時代意識はその上に成り立つと思うのである。そしてその根底に還ることによって個人意識や時代意識はより明らかな形を持っていくと思う。呼びかけ目を開かしめるものはここより働くのである。それは個人意識や時代意識にも働きかけるのである。意識がより明化を求める限り働きかけるものであり、意識は明化を求めるものである。個として意識は無限の深化を求めるのである。そしてより深い世界の呼び声を持つのである。そしてより深い世界に立った時、前の良い歌が詰まらん歌になり、新しく良い歌が見えてくるのである。新しく良い歌と言っても何か素材が新しいのではない。新しい素材を求めるとき逆に自己の中に自己を見るという意味が失われなければならない。旅行詠なんかに案外良い歌が出来ないのはそこに原因を持つと思う。私達の営みは日々の繰り返しである。而して繰り返しであるが故に形が生れて来るのである。経験の上に経験を重ねていけるのである。経験の上に経験を重ねるのが世界形成であり、その形成を呼ぶのが世界意識であり、宇宙意識である。私は短歌の評価もそこにあると思う。創作したものが如何に深く世界から呼ばれ、如何に明らかに自己を表わしたかにあると思う。身体に映し、対象に映すことによって無限に働くものを如何に露わにしたかにあると思う。

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