冬のしわ寄せゐる海よ今しばし生きておのれの無残を見むか 中条ふみ子
そこに生ける屍がある。作者は凄惨な運命に対面しているのである。斯かる生の深淵にもがきつつ、作者の表現意欲を盛り上げた精神は何処から来たのであろうか。
キェルケゴールは其の著「死に至る病」に於いて「絶望したか」と問う。絶望は精神の死に至る病である。しかし精神においては病む者が健康であると説く。生命は死を持つものが死に打克つ努力である。釈迦も苦悩した如く、生・病・老・死は、どうすることも出来ない生けとし生けるものに負わされた運命である。それはあらゆる人間の希望を打砕く屹立する鉄壁である。我々の生涯はこのどうすることも出来ないものに打ち当って砕けていく営みである。而してこの打ち当って砕けた営みの蓄積が歴史であり、痕跡が文化である。斯かるものとして我々は悲しみの上に喜びを打ち立てていくのである。而してその極鉄壁によって自分を見出す自分を見るのである。回心である。鉄壁に生きるのである。生・病・老・死に対するのでなく、それをあらしめるものに生きるのである。回心とは自己を無にして自己をあらしめるものに摂取されることである。斯かるものとして大なる苦悩に生きるものは、大なる力量をもつものである