風流

今ではあまり言わないが、私達の小さい頃は短歌や俳句を風流の道と言い、作る人を風流人と言ったものである。風流とは如何なるものであろうか。私はそこに日本の生命形成の特質の一つがあるように思う。短歌や俳句は外国語に翻訳することが出来ないと言われる。それは日本人が日本の風土に於いて形成し来った独特の美ということである。そこに我々は生命の形をもったということである。それを要約し、言表したのが風流であると思う。

日本人の繊細な感覚は四季の鮮かな推移によって養われたと言われる。短歌や俳句は移りゆく微妙を人に映すときおのずから言葉に凝固したものであると思う。私は斯かる四季の推移を祖先は風に見たのであると思う。風は形無きところより現われて来る形である。そしてそれは四季を超えたものである。風は四季ではない。しかし最も鋭く、最も繊細に四季を伝えるものである。寒風が漸く頬に和み出してくると、野に浅緑の毛 となり春風が花を運んで来る。それも束の間に吹雪となって散る花は過ぎ行く季と共に春愁の思いを呼ぶものである。春が過ぎると陽の透く若葉をそよがせて吹き来る風が半袖となった腕を洗ってくれる。私達は身を吹き抜けて地平に走る風に初夏の爽快を満喫するのである。それが過ぎると地を灼く熱風に猛々しい夏を知るのである。猛暑に悩まされた皮膚は秋風の僅かな冷えに敏感である。冷えがもたらした透明な風が青空を何処迄も高く押上げて行く時、私達は秋を感じ救済を見るのである。そして野分に草が枯色となり、木枯しに一年の滅びを見る時我々は悲傷の思いに言葉を失うのである。

私達は四季の現われとして春の花、秋の月、冬の雪を語る。しかしそれは四季の特殊な内容として、四季を網羅するものではない。私は風に日本の生命形成の心を見たのではないかと思う。四季を映し、映すことによって感覚を養い、生命の形を見出したものとして、形なくして形に出で、四季をあらしめるものとしての風は形の根元の意味をもったと思う。私達は四季の鮮やかな色彩を愛すると共に移るものを風に見立てた飄然たるものを愛するのである。四季を見る目の我の飄然たるを愛するのである。そこにそこより対象と我が生れる世界がある。私は風流という言葉はここより生れたのではないかと思う。

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