時局と短歌

三十年程も前になるであろうか。松本章さんがみかしほに居られた時のことである。私が「あそびと短歌」というテーマで文章を書いて出した。昔は上流社会に於いて、「遊ばせ」と言う言葉が普通であった。「お帰り遊ばせ」、「お帰り遊ばせ」と言ったものである。労働が物を作るのに対して、遊びは神の内容を創ることであったのである。それを松本章さんが「働くものの歌でないと駄目だ」と言って返された。

当時は丁度、終戦の混乱が漸く秩序を取り戻そうとしてゐる時であり、マルクス主義が新しい社会の担い手として、世界を席捲している時であった。資本主義社会をブルジョアジーとし、帝国主義として資本家と労働者、搾取者と被搾取者の階級に分ち、労働者専制の呼称の下に世界革命を実現せんとするときであった。「蟹工船」や「女工哀史」が読まれ、街には赤旗が林立し、知識人は競って「帝国主義打倒」を叫んだ時代であった。歌人の多くも自分で如何に過酷な労働に生き、搾取されるものとして、如何に悲惨な生活を送っているかを表現しようとした。貧乏・失恋・病気が短歌の三種の神器であると聞いたのもその頃である。その悲惨を新たな社会建設の起爆力にさせようとしたのである。そこに働くものの歌の時代的要請があったのであると思う。

共産主義の大本山ソ連は崩壊した。倒れてみると真にお粗末なものであった。労働者専制として無限の富を生み、地上の楽園を樹立する筈であったが見るも無残なものであった。

生産は労働ではなく、創意と工夫だったのである。筋肉と汗ではなく頭脳だったのである。ノルマではなくして競争だったのである。機械の発展は人間を労働より解放した。農業すらも園芸化したと言われる。歌会でも働く苦痛を歌うものは少ない。短歌は「神あそび」に帰っているように思われる。

2015年1月8日

杳、顕、響、著

先日の歌会で松尾鹿次氏が『丹生の田中義昭氏は国語学者であり、

杳の字をはるかと読み、亦とうしと読ませるものがあるがあれは間違っている。また顕つと書いてたつと言うのもいけないといはれた』と述べられた。私は斯る言葉の使用を肯定するものである。肯定するものとしていけないと言われただけで、はいそうですかと言う訳にはいかない。勿論言葉には論理がある。論理があるとは何かの根底に何故にがあるということである。私が何故に肯定するかを述べ、田中氏が何故にいけないかと述べられて、氏の論理の方が透徹していると思った時は潔く私の主張を撤回するつもりである。私はまだ氏の何故にを聞いていないので私の理由だけを申し述べることにする。

よく人間は手をもつことによって人間になったと言われる。手を持ったことは人類の祖先が敵より逃げて樹上生活を持つようになり、樹を握る行動によって指が伸びたことによると言われる。もちろん猿が何時迄も猿であるのはそれのみではないということである。人間は手の出現と同時に言語中枢の出現によって人間となったのである。掴むことによって得た屈身自在な指の操作性が言葉と結びつくことによって物を作る生命となったのである。人間が物を作る姓名となったとき、樹上は最早真に機能を発揮できる所ではなくなり、且つ又多くの敵に対峙して優位を保ち得る確信が沸き来ったのであろう。即ち地上の生活者となったのである。

言葉の発展は物の発展と共にあったと言われる。物とは製作物である。物を作ることによって人間は言葉をもったのである。物が言葉を生み、言葉が物を生んでゆくのである。人間を定義するときによく手でも動物であるとか言葉をもつ動物であると言われる。手と言葉を持つ動物として人間は社会を作り、生命を他の動物と異なった軌道に於いて発展させて来たのである。斯く物の出現を担い、社会の発展を担うものとして言葉は無限に動的なるものでなければならない。人間の生命を表現するものとして、物や社会と共に生きるものでなければならない。新しい物、新しい社会と共に新しい言葉が生まれ、古い言葉は死んでゆくものでなければならない。

私達は短歌を作る。短歌を作るとは日本が形成し来った社会の内的表象としての心象を表現するものであるとおもう。心象を表すものとしてそれはイメージの創出である。言葉によって絶えず日本のイメージを創出することが歌を作るということであると思う。言葉は斯るイメージを創出することによってわれわれの言葉なのである。ここに私はわれわれ歌を作るものの言葉であると思う。よい言葉とはより瞭らかなイメージを作り出すことが出来る言葉である。私の経験で言べ、杳をはるかともくらしとも書く。このはるかは時間的、空間的な距離であると共に、それを越えた混沌の意味を含む場合に用いるのである。原初である。くらしは物未だ分かれざるくらしである。はるかはわれわれがそこから現れ来った距離である。響(な)るは単に聴覚のみではなく、水の落つる音のような重量感を伴った、筋肉覚を混ぜた聴覚の内容である。顕(た)つは単にあきらかになったのではなく、心に大きな比重を占めた場合に用いるのである。

感性の豊かさとは、現代の世界を感覚に表す力である。感覚は様々の表象を複合することによって複雑な現在を表象しようとするのである。そこにイメージがある。われわれがもつイメージは無限の複合表象より現れ来った世界像である。私は上記の言葉は近代的な複合表象の記号として、豊かなイメージ創出力を胚胎するものであると思う。私達は捜索するものとして何よりも生命に忠実でなければならない。固定された既成観念に執するものは言葉の木乃伊を抱くものである。思いを同じくされる方は大いに使っていただきたいと思う。

2015年1月8日

桜花と作歌

正月なので美しいことを書いてみたいとおもう。岩波書店の戦後五十年の『世界主要論文選』を読んでいると、大岡信の『言葉の力』の中に面白い文章があった。少々長くなるが引用したいとおもう。

 

『京都の嵯峨に住む染色家、志村ふくみさんの仕事場で話していた折、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかでしかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。「この色は何から取り出したのですか」。「桜からです」と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいゴツゴツした桜の皮からこの美しいピンク色がとれるのだという。志村さんは続けてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮を貰ってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。』

私はこれを読み乍ら、思いを短歌の創作に結び付けて行った。桜の花は雄花だけで営みではなく、木の全体生命の営みによって現はれるのである。木の全てがあの美しい花の色を創出してゆくのである。私達はよく歌の出来ない悩みを聞く。この悩みとは何なのであろうか。私は言葉が現はれんとして、言葉が全生命たらんとする内奥の努力ではないかとおもう。歌を作るものにとって出来た歌は花である。そこに私は皮膚の下から血の中迄、言葉を循らさなければならないのだとおもう。目も手も言葉と化すのである。斯くして出来るのは歌だけではなくして、その人の匂ひとか気品といったものが同時に備はってくるのであるとおもう。禅宗の坊さんは座禅を組むことによって一つの境地に達した時に、体にアルファ線とかいうものが生まれてくると言はれる。私は私達が全身を言葉とする時、表現としての言葉を持つ時、身体は新しいものを加えているのであるとおもう。身体は常に内が外に現れ、外が内を作るのである。そこから自己への信が生まれるのである。

生命は全て自己の形を実現しようとする。それが止まったとき、それは死である。私達は人間である。人間とは言語中枢を持つ動物である。言葉による新しい形を生んでゆくのが生命形成である。新しい形を生まない言葉は駄辯である。新しい形を生むためには苦悩と努力が必要である。美しい自分を作るために今年もお互いに頑張りたいとおもう。

2015年1月8日

年末も迫ってから村の役員が「来年のお頭を勤めて欲しい」と言って来た。聞くと当番の家の血縁に死者が出来たので、再来年に受ける私の家に廻って来たらしい。当日の一月四日はみかしほの新年宴会なので嫌であったが、仕来りの順序を変へることは難しいらしいので受けることにした。

その神は神殿は既に無くなり、その跡に地名だけが残っている、世間に疎い私はその神の祭祀がまだ遣って続いているのを知らなかった。「何うして祀るか」と聞くと、「私がご神体を作るのだ」と言う。一月四日になって初参の場所である公会堂に来てみると、成程正面に机が置かれて、中央に小さな木が立てられ、紙で作った幣が下げられ、その前に酒を入れた銚子が置かれている、そしてその横に、幾百年も経たであろう黒くなって、今にもこわれそうな箱が二つ重ねて置いてある。これが伝えられて当番が護持するものらしい。中には恐らくお札の如きが入っているのであろう。この前で氏子は一年の行事を謀るのである。恐らくは昔の様々の神意を問ふきびしい行事があったのであろう。そして五穀豊穣を祈ったのであろう。私はここで不意に一つの疑問が浮かんだ。栽培は私達人間がする、収穫は人間の努力に関わるのである、神の観念は何処より来たのであろうかということである。そして私はそこに人間の自覚の深い形相があるよう思ったのである。

自覚は全生命的である、生命は対象に自己を見ると共に主体が形成してゆくのである。対象を作ることが主体を作ることであり、対象とは身体の外化としての物である。身体は主体の実現としての物である。そこに稲を作るということには、単に稲作以上のもののはたらきが無ければならない所以があるとおもう。物を作るには先ず身体の製作的身体の出現がなければならなかったのである。斯かる身体として人間の前肢は手となり、脳に言語中枢が出現したのである。稲を作るには様々の経験の蓄積としての技術が生まれなければならない。斯かる技術は体に自己を見る根源的主体の自己実現であることによって働くものたることが出来るのである、栽培するときに人は先ず、生育に太陽と水が関わることを知るのである、そしてそれが人間を超えた深大な力であることを知るのである、その力を制御せんとして血から及ばぬ知り、その大なる力によって生育したものを食物として事故があるのを知るとき、自己も亦その大いなる力の内容として生きるのを知るのである。そしてその大なる力に順(したが)うことに万物の生育があると知る時に、天文地理が生まれてくるのである。天の運行を知り、気性の変化を知るのである、それはわれわれを超越すると共に、われわれがそれによってあるものである。その大なるものがわれわれの言語中枢に写されるとき、その量るべからざるものは驚異と畏怖である。斯かる驚異と畏怖は単に感情としてあるのではない、そこにわれわれが生死を見るものとしてあるのである。そこに日輪が天の表象となり、竜が光の表象となるのである。われわれがそれらを表象とすることは、表象は生死をもってわれらに対するものとして表わされたのである。生死をもって対するとは、われわれは生死に於いてあるものとして、天そのものであり、水そのものとしてあることである。私はそこに神の出現があったとおもう。背くものは死に、順うものは生きるのである。祀るとは順う意志の表示である。順うとはそれによって生き、それに従うと共に、それが自己であることである。それが自己であるが故に、それによってあり、それによって生きるのである。知るとは意識の内容となるものとして、この我の内にあるものとなることである。

自覚とは過去を包むより大いなる統一の立場に立つことである。過去を包むことによってより大なる自己を見出してゆく生命となることである。より大なる事故を見出すものとして、生命は形作る働きである。生命は形作るものとして外に食物を求める、即ち内外相互転換として生命形成をもつのである。それが過去を包んでより大なる統一の立場に立つとは、物を製作する生命になったということである。意識の内容となるとは製作することである。そして製作とは天が開け、地が拓けゆくより大なる生の地盤に立つことである。言語中枢をもち、手をもつとは斯かる生命の具現である。この生命の深大なる生成をこの我の立場より見るときに製作があるのである。斯かるものとしてこの我は、この深大なる生命のゆらぎの影である。ここにそれによってあるものとして、より深大なるもの回帰への強い要請が生まれる。そこに私は神を祀ると言うことがあったとおもう。

それなれば何故に最初に記した如き祭祀の衰退ということがあったのであろうか。私はこの現象は発展的解消として捉えるべきであるとおもう。神は無限なるはたらきである。私達に写された影とははたらくものの形として、この我の実現として写されるのである。はたらく形とはこの我に環境を写し、環境にこの我を写す内面的発展である。そこに神が現れるのである。現われたものは形として、無限のはたらきとしての神の本質が失われることである。生まれた形に即してはたらくものとなることである。時間的、空間的に現われたものとして、有限的存在となることによってはたらくものとなることである。生あるものは死に、形あるものはこわれるものとなってはたらくのである。而してそこに眞の無限のはたらきは生まれるのである。死することによって新しきものが生まれ、こわれることによって新しきものが作られるのである。新しいものの出現をもたないものははたらきではない。はたらくとはより大なる形の実現をもつことであり、もとうとすることである。より大なる形とは、今ある形を否定することであり、新たな形を構築することである。それは有限なるものの上に構築されるのである。而してそれがはたらくものとして構築されるとき、有言なるものの自己構築として、内面的発展として構築されるのである。そこに有限なるもののはたらくもの、自覚的として自己構築をもち、人間が神を想うものとなるのである。物として有限なるものであり、内面的発展として無限なるものとして、神を実現するものとなるのである。有限なるものとは自己の中に変化を含んだ無限なるものである。はたらくもののじつげんとして有限なるものである、神の実現として形をもったものである。変化するものとして、否定として実現するものとして、神を現わすのである。有限なるものは実現された神の姿である。斯く有限なるものが自己実現としてはたらくものが人間の営為である。私はそこに幣や神殿を神とすることを捨てた所以があるとおもう。人間の営為が紙を想うことは、作りとげた社会の形象が神の姿であるということである。そこに特別の表象をもつことは無意味となるのである。

われわれが製作するということは超越が内在となり、内在が超越となったことである。併しそのことは内が直に外となり、外が直に内となったことではない。内が煎と内となり、外がいよいよ外となることによって、絶対矛盾を媒介することによって一なるものとなるものとなったのである。人間がはたらくことによって、外の方向と、内の方向に形がいよいよ明らかになるものとして、一になったのである。私はそこに神は死んだのではなくして、いよいよ深大なるものとして背後よりはたらくものとなったのであるとおもう。はたらくことによって外の方向と、内に方向にいよいよ明らかになることは、このわれを超えたものとなることである。外は何処迄も内ならざるものである。物は何処迄も我ならざるものである。それが物が明らかになることによって我が明らかになり、我が明らかになることによって物が明らかになるとは世界を形成することであり、世界は我と物のはたらきによる統一として、我と物を形に明らかにしてゆくことである。否定的に実現されたものとして、人は死ぬものであり、物はこわれるものである。それを形成的に維持発展させてゆくものがはたらきである。われわれはそこに神を見るのである。世界現前を神とするのである

2015年1月8日

短歌や俳句の背景

短歌や俳句は日本語特有のものとして他に類を見ない詩型であると言われる。詩は民族の生命形成の表現である。各民族はそれそれ特有の詩をもつ。生れたところを環境としてそこに働き死に、環境に作られ、環境を作った限りない過去からの情緒的結晶が詩である。その意味に於いて詩は他の民族の理解を拒むものをもっていると思う。それが短歌や俳句に於いて特に言われるのは何によるのであろうか。

私は短歌や俳句が生れたのは日本の自然にあると思う。日本程四季の移り変りの鮮やかなところはないと言われる。移り変りとは何か、生命は生死に於いて生命である。私は今ある生命が滅んで新たな生命が生れてくることであると思う。死にかなしみ、生によろこぶのである。鮮やかであるとは敏くなることである。一陽来復と共に野に緑が溢れ、花が咲き満ちる。人はそこに花と歌い、花と踊って命のよろこびを分ち合う。併しそれも束の間に花は散り春草は枯れる。そこに共に生きたが故の悲しみが生れ、それに自己の生死の影を宿し見るのである。年年歳歳のよろこびかなしみの反覆は生に死を宿し、死に生を宿しゆくのである。咲き盛る花に命のはかなきを思い、散りゆく花に爛漫たりし日を偲ぶのである。そこに感覚の無限の分化が生れる。僅かな色の変化、形の変化の中に生の影を見、死の影を見るのである。形とはよろこびかなしみに映された生の影、死の影を対象がもつことである。斯くして対象は生の影、死の影を映して無限の分化をもつものとなる。それが感覚が鋭くなり繊細となることである。斯かる無限の対象の分化を生死をもつものとして統一し、分化と統一を自己の働きとするものが心である。人格としてのこわれである。

私は短詩型としての短歌や俳句は斯かる生命形成の分化・統一の洗練の中から生れたのであると思う。鮮やかな四季は一瞬一瞬の移ろいの中に生死を宿すのである。一瞬の生の影に一つの形を見、一瞬の死の影に一つの形を見るのである。そのときどきに自己を対象に映し、対象を自己に映すのである。そこに如何に短い言葉によって対象と自己が形を生み、自己と対象が形の中より生れるかということが問われると思う。斯くして短歌や俳句は日本的形成の必然であったと思う。

私は抒情詩はその本質に於いて短詩であり、長詩は叙事詩か亦は思想詩であると思う。日本にも昔長歌があった。私は読んだことがないので語る資格がないが叙事的亦は思想的でなかったかと思う。今はそれを歌う人はいない。いないということは日本の心の形成を指向していないということであろう。私は日本的形成が叙事的ではないということは日本民族が他民族との激しい対立を持たなかったことに因ると思う。亦自然も対立的ではなかった。そこに見られるものは対立の根底に大きな一があるということである。営みの根底にこの一が働くということである。それが共感である。聖書などでは斯かる一が契約として現われる。併し日本では直接の事実として現われるのである。そこに刹那としての現在に形を見ていくのであると思う。

2015年1月8日

  感銘歌評釈

「今どこにいるの」と電話をかけている女ありここはどこなのだろう 松村由利子

昨年の入院中に見舞ってくれた誰かが、短歌研究の平成九年十月号を置いて行ってくれた中の一首である。私はそのときからこの結句のもつ含蓄に深い興味を覚えたのであるが、この度失くしていた雑誌が出て来たので一寸書いて見たいと思う。

戦後は私達にいろいろなものを与えてくれた。併し与えられたということは亦失ったことである。寺山修司の歌に「マッチ擦る束の間海の霧深し身を捨つ程の祖国はありや」というのがある。与えられた自由と引換えに、行動規範の根源であった国家の規範性が音立てて崩れたのである。それは封建社会の否定として、血族の主体としての家庭も一蓮托生の運命であった。私達は東方の君子国として、君の臣、親の子、夫の妻、兄の弟として家族の 帯に生き、そこに知・情・意を養ったのである。私達はその上に自分を見築いたのである。自分の過去も未来もそこにあったのである。歴史の奔流は一気にそれを押し流したのである。私達は行動の拠点を失ったのである。「ここはどこなのだろう」、私はそこに自己の展望の中に過去と未来を収め切れない作者の不安を見ることが出来ると思う。作者は途方に暮れているのである。そしてそれは作者一人が抱いている問題ではなくして、日本人全てが背負っている課題であると思う。社会倫理、家庭、教育等日々に報ぜられる世の中の乱れの大凡はそこに根幹をもつと思う。勿論それは世界の退化ではない。自由は与えられたものではなくして世界がわれわれに要求してくるものである。世界の中にあったこの我が、逆に世界を包むものとしての人格の樹立を要求してくるものである。併しその径庭は永い。私は作者の心情はその直観の上に立つものであると思う。この一首に共感した所以である

2015年1月8日

短歌表現に於ける主観について

二月号の井上実枝子氏の一首の中に「先月号のH氏の一首抄の中に」と書いて主観の問題が取り上げられていた。H氏とは前後から押して私のことであろうと思うので、私が何故に主観を不可とするかを論じて皆様の批判を仰ぎたいと思う。

私は短歌が抒情詩である限りよろこびかなしみの表現であり、主観としての観念の把握でなければならないと思う。観念とは世界の求心的把握として、われわれはそれによって自己を確立していくのである。言葉による表現として短歌も亦自己発見をその根源にもたなければならないと思う。斯かる自己発見をわれわれは観念にもつのである。

唯私が言いたいのは嬉しいという言葉は、嬉しいということではないということである。幾度も言う如くわれわれの生命は内外相互転換としてある。外としての米や野菜を食べて身体を形作っていくのである。斯かる生命形成の充足が喜びであり、欠乏が悲しみである。外はわれならざるが故にその獲得は喜びであり、欠乏は悲しみであるのである。

勿論我々の喜び悲しみはそれに尽きるものではない。人間は言葉をもつことによって食・性・自己防衛の本能の根元に還り、永遠の前に立つことによってさまざまの哀歓の襞をもつ、個性・愛・聖等を生命形成の内容とするものとなるのである。併しそれが生命である限り充足と欠乏を喜び悲しみの原型としてもつことに変りはないと思う。

故に喜び悲しみを表現しようとすれば、その充足や欠乏の状態を言えばよいのである。例を俳句にとれば「大晦日隣は餅搗く杵の音」これで悲哀は表現されつくしているのである。若しこれに「子等は如何なる思ひに聞くらん」と主観を加える如きは詩性を殺すことに他ならないのである。

人間が社会生活を営み、言葉によって意志交換を行う限り、観念の根底に事実があり、事実の根底に観念があるのである。事実はわれわれが其の中に生き、それに面するものとして短歌に言われる具象であり、具体である。観念はその根源としての具体の中に消え、具体の中より生れることによって溌溂たる清新さをもつことが出来るのである。観念は形成的生命の内容として、無限に動的でなければならない。世界形成的でなければならない。それは創造的転身をもつことである。

私が具体で捉えなければならないというのは、観念が具体の中に消えよということであり、それは亦具体の中より生れることである。そして私はそれが観念を更に深めていくものであると思うものである。観念樹立とは初めに言った如く自己の樹立であり、観念の深化は自己の深化であり、そこに真の詩精神を見んとするものである

2015年1月8日

五月号批評

 うらうらと春陽浴びるもうれしきに桃咲くが見え試歩を延ばしぬ  石井文子

病後の歩みをおのずから誘われる姿が見える。そこに自然と人生がある。但し表現として三句捨てたい。詩は頭脳に訴える以前に心臓を動かすのでなければならない。三句は一首を殺すものである。

風花に枯れしかと思う万作の黄を点したり庭先明るく   井上ふくゑ

明確な感動の把握は迫力をもつ。万作の黄は作者の胸に点ったのである。初句と結句捨てたい。特に結句は四句と重複している。

父逝きて一年過ぎし職場には使ふことなき前掛けありぬ   大久保公江

よい素材を捉えている。四区更に父との関りを追求したい。このままでは感動が希薄である。

わが内に長逗留の風神よお出かけ召され春はうらうら  片山洋子

風神は所謂風神雷神の風神ではなくして風邪の神であろう。自己を外に置いた作品で面白い。苦患を離れて苦患を言葉で遊ぶ余裕は豊かな人間性に裏付けられた知性である。但し、一首目と二首目、手の内が見えすいて強い作りされた感がある。

耳澄まし待ちゐる吾に子の来れば必ず吠ゆる犬しづかなり   小紫博子

氏の作品には世界の中の自分を見ている静けさがある。 長流に言えば己のはからいを捨てている。或は三十五Kという病弱の故であるかも知れない。併し嘆きを超えて自己を充足させているのは立派である。

目覚めよき朝なり凛と巨大(おおい)なる白菜一つ両断にせり    しつかわ碧

爽やかさの感じられる作品。切られたのは白菜であると共に迷いであり、妄念であり、ストレスである。若さとは年令ではない。爽やかさである。過去を裁断して未来に生きる力である。成功した一首。博識な作者は兎もすれば舞文となり勝ちのように思う。

人影の絶へし桜の葉の下をひたすら前向き歩幅を伸ばす   田村喜久子

上句を受けての下句の前向きに伸ばす歩幅は自分の内面に向かっている。自分の世界の拡大への歩みである。聡明さの感じられる作品。二首目も二句もたついているが佳品。

小魚を商う女一人居て路上は暫し賑はひとなる     松尾鹿次

よく見る田舎の風景。三句やや難あるも繁雑に疲れた心が洗われるような感じは捨て難い。

逢はばやと思ふ一人還らざり烏賊の臓抜きて吾は生きゐる   藤木千恵

三月号の作品であるが誰も取り上げなかったし、感銘したのでゆるして戴きたい。運命を超えて運命を受用し、静かに自己肯っている作品。芭蕉の名作「秋深し隣は何をする人ぞ」の一歩手前迄来ているように思う。

2015年1月8日

 茂吉の実相観入について

三浦謹一郎の著書「DNAと遺伝子情報」という本を読んでいると「シャルガフはDNAの規則性に気づいたときの思い出を『この相補的な規則性はまるでボッティチエリの貝殻から生れたヴィーナスのように見事な秩序が姿を現した』と言っている」という一章があった。私はそれを読んで目の眩むような思いがした。そして目を閉じていると、身体の中に光りが満ちてくるように思った。人間には六十兆の細胞があると言われる。その細胞の一々が遺伝子をもつのである。その遺伝子の一々が、天才の創造と等しい感動を呼ぶ整合をもつのである。生命は発生以来三十八億年の時間を経過したと言われる。六十兆の細胞はその時間の上に形成して来たものであり、われわれの身体はその見事な統一である。私は人間の三十八億年の努力はこの細胞のもつ整合の表現への努力ではなかったかと思う。

私の「初めと終りを結ぶもの」と言うのは斯かる生命の整合の自己形成をいうのである。形に自己を表していくのである。表わしていくとは内に感官を創り、外に物を作っていく事である。三十八億年の時間を斯かる形成の内容としてあるのである。私はアウグスチヌスの三位一体や、道元の草木瓦礫悉皆成仏といった深大な世界の姿も斯かるものであると思うのである。唯私は初めと終りを結ぶものをヴィーナスの光輝に於いて捉え得なかったことを告白しなければならない。私の感激はこの光輝より ったのである。併し思えばそれは私の菲才のしかしむるところで、仏教の極楽浄土の如きはそのような姿をもっているのかも知れない。併しその為には浄土は唯あるのではなく、自己実現的に働くものでなければならない。

私は短歌も亦斯かる生命の顕現として日本の風土の上に出現したものと思う。その意味に於いて私は斉藤茂吉の「大却運」に深い共鳴をもつものである。私は彼の「実相観入」もこの大却運の実践にあるのではないかと思う。それは人と物、我と他者、生と死としての現実の対立、矛盾を整合調和としての一つの姿に於いて見んとすることである。詩は歓び哀しみの言葉による把握である。その内容は矛盾・対立である。而してそれを一首の作品とすることは、一つの生命の自己実現として、一つの整合をもつことである。生命は生み、働くものである。生むとは自己でないものを作ることである。働くとは対象と戦うことである。それは矛盾である。併しそれによって生命は持続していくのである。斯かる時の統一として存在することが調和である。生れた子供によって自己があるのが調和である。故に矛盾が大なる程調和が大である。私は実相観入とはこの矛盾を直視することであると思う。その時矛盾は自己の内容として生命は大なる整合をもつのである

2015年1月8日

井上実枝子著 歌集草の雫評

この歌集を読んで第一に感じたことは、より大なる生の相(すがた)を見ようとする作者の純なる魂である。渾身の力をもって、如何に生きるべきかを問い、自己の根底に至ろうとした努力である。氏の作品はみかしほでも特異のスタイルをもっていると思う。それは氏の作品が日常から生れるのではなくして、見出したより大なるものをもって日常を光被しようとするところにあると思う。観念先行と言われるものである。作品に多く思い入れから始まるのはそれによると思う。表現は本来観念の創出である。具象とは日日の営みの中に現われ消えるものである。それを統一するものが観念である。希望、理想、愛、神、永遠等、それの反(はん)としての絶望、不安、悪魔等がそこに見られるのである。それによってわれわれは自己を見、自己を実現するのである。その観念を具象の構成によって表わすのが写生である。観念によって具象を切り取り、直下に表わすのが象徴である。私は作者は深大なるものの直下の啓示を求めて象徴的手法へ傾斜して行ったものと思う。併しそれは観念と具象との結びつきが飛躍し易い、素晴しい作品が生れると共に、言葉が空転したり、意味不明となりやすいと思う。併しそれは亦本書の魅力であるかも知れない。以下いくつか好感のもてる作品を取り上げて短評を加えたいと思う。

嫁菜草野蒜(のびる)も萌えば苦がかりし記憶の中の煮浸しの味

苦がかりし煮浸しの味というとき、当時の生活に読む者の思いを至らしめる

仁清の茶碗の絵の具に触るるときさかしき女を席に振るまう

人は神の前に無である。束間心によぎったさかしらを捉えている。その自省に作者の深さがある。

わが欲りしモヘヤのコート得たる娘の背の柔らにも撫でて足らうも枝の華やぐ

あれか、これか、迷いは近代知性の所産と言われる。枝の華やぐは作者の心象を捉えて遺憾ない。掌は手であろう。

つづまりは吾のペースぞ得体なき鳥を五色に飛ばすチギリ絵

奔放にイメージを飛翔さす作者が見える。ペースは適切でない。更な言葉の選択を

スプレーに落ち来し夜の冬蝿の動かずなりしまでを見定む

動かずなりしまでと間を置いた時間、そこに読者をさまざまの思に誘う。高度な技巧である。

孤独なる胸のうつろに聞きたがえ癒えのうちそと夫の声なし

痛切な追慕の情、私は家族的なものの中に閉息した感情は余り好きではないが矢張り心動かされざるを得ない。一句の孤独なるは捨てたい。

武器にせし竹の謂(いわ)れの藪見えて水戸邸の門朽ちて蔦生ふ

は進む竹である。武門の覚悟も時の移りに朽ちなければならない。唯対象を捉えることは、自己を捉えることに比べて易い。それだけに感動は浅い。

花のレイ健気な頬にやさし過ぎ汝は今日より看護婦となる 

社会への首途を見送る作者の安心がある。

オウム教昂り見せしテレビ消しわれはわが身にひとさしの美酒

私達は世界の中に生きる。併し世界は私ではない。私は私に生きるのである。この人間構造をよく捉えている。余り長くなると岩城さんに叱られそうなので、もう少し取り上げたいがこの辺で打切る。

2015年1月8日

 心眼

みかしほ九月号に片山洋子さんが「心の眼を開けば、歌の材料は目の前にいくらでもある。『目に入るものを何でも歌にしてやろう』という程の意欲をもちたいと思う。」と書いている。この何でも歌に出来る魔法の杖とでも言うべき心の眼とは如何なるものであろうか。肉体とは別に心といいうものがあって、それが眼をもつのであろうか。併し目に入るものは何でもというとき、この肉眼に見えるものということでなければならない。この目が心の眼となることでなければならない。心の眼となるとは如何なることであろうか。私はその為に見るとは如何なることかを問わなければならないと思う。

生命は内外相互転換としてある。食物を摂って身体に化していくのが生命である。食物を外として身体を内として形成していくのである。それが生命形成である。禿鷹は三千米の上空から地上をありありと見ることが出来るそうである。併し見るのは野鼠だけであると言われる。鯛は深海に於いて人間の五百倍の視力をもつと言われる。併し見るのは餌と敵だけであるそうである。目は身体としての生命形成に於いて外を内とせんとする機能である。

人間に於いては内外相互転換として形成が技術的である。技術的とは一瞬一瞬の内外の転換が経験として蓄積をもつことである。例えば狩猟に行った時に鹿が穴に落ちて容易に捉えられたとする。すると鹿を捉える為に穴を掘って仕掛を作るのが技術である。昨日の経験によって現在の行為があり、明日を期待するのである。そこに過去現在未来が生れ、人間は時間をもつものとなるのである。時間をもつとは無限の形を生むものとなることである。

人間が時間をもつものとして技術的であるとは製作するものとなることである。製作に於いて動物に於いて一であった内と外とは対立するものとなるのである。製作するとは外を変 することである。変 することは作った物が外となりそれが内に対するものとなるのである。作られた物と作るものが対立し、そこに主体と客体が成立するのである。私達が生活を営むものとして外とするのは全て何らかの意味で作られたものである。変革するとは形が変ることである。単に形があるのではない。形は機能の現れである。生命の働きの具現である。斯くして生命は形に死して形に生れるのである。常に新たなものが求められる所以である。

物と作ることによって主体と客体、物とこの我が見られるちいうことは、物も我もこの我やこの物を超えた大なるものの内容としてあるということである。製作というものを問うとき、私達は遥かな祖先を尋ねざるを得ない。祖先の淵源を尋ねるとき全生命に至らざるを得ない。この我があるとは全生命の現在の発現としてあるのである。我々が見るとは斯かる生命の自己形成として自己を見るのである。私は心眼とは自己の眼が斯かる大なる生命の目となることであると思う。

作ることによってこの我と物が現れ、それが大なる生命の現れであるとき心の眼を開く方法はひたすら作ることでなければならない。無限に形が現れて来るときにそこに真の自由を見、大なる生命の働くのを知るのである。そこは身体的欲求を超えた形が形を生む世界である、そこに真善美としての価値が生れるのである。

2015年1月8日

作歌について

先般岡野弘彦氏が来られた。私は耳が遠いので邪魔になると思って行かなかったのであるが、その後松尾さんが紹介された記事の中に私と見解を異にすると思われるものがあったので少し書いてみたいと思う。

氏は短歌は訴えるものと言われたという。私はそこに疑義を抱くのである。私は全て形を表現として捉えんとするものである。表現とは内なるものを外に形において見ることである。内なるものとは何か。私は内を外と別にあるのではないと思う。私達は生命として、食物を摂ることによって身体を形作っていくものである。斯かる形作る働きにおいて食物を外とし、身体を内とするのである。形成作用において外と内があるのである。内と外とをもつものとして、内としての身体を形作るために外としての食物を獲得するのは努力である。外を内とする機構を身体はもつのである。そこに生命の発展があるのである。外を内とし、内を外とする機構の形成が生命の発展である。身体と食物として対立しつつ、内と外は一として形を見出していくのである。生命形成は内外相即としてあるのである。

私は人間生命を自覚的生命として見んとするものである。自覚的生命とは内と外とが対立を超えて、世界として一つの発展をもつことである。身体が技術的身体となり、物が製作物となることである。私は芸術も斯かる自覚的形成の一環として捉えんと思うものである。そして発展の方向を身体がもつ情緒の表出が、身体のもつ欲求を超えて純なる情緒の発展を見たところにあると思うのである。色が、音が、涙が、ほほえみが身体の隷属を放たれてそれ自身のよろこびかなしみの形相を展開するのである。

生命の形成は内と外の一として風土的である。私は日本の芸術は日本の風土に生命を映し、生命に風土を映した無限の形成であると思う。短歌も亦斯かる形をもつものとして成立するのであると思う。稲を植え酒を造り、領ち食べ、乏しきを嘆いた喜び悲しみが個個の事象を超えて言葉につなぎ、消えゆくものを内にもつ大きな生命を共有したところに成立したのであると思う。

私は斯かる共有は全ての人間が生命の完結をもつところにあり得ると思う。私達はホモサピエンスとしての百四十億の脳細胞と六十兆の細胞をもつと言われる。全ての人が同一の人体の構造をもつのである。斯かる同一の上に遺伝子の文字の差異をもつのである。それは一つの世界の個性としてあるということである。全ての人が生命の完結をもつということは、全ての人が自己完成をもつということが世界が自己完成をもつということである。私は全ての人が世界を映すところに短歌の発展があると思う。訴えるのではなくして共感し、相照らすのである。単に人に対すのではない。我の根底に還ることによって人に対するのである。

2015年1月8日

生甲斐 (巨勢教室)

巨勢誌も発刊以来早 号になるらしい。先日次回発行の原稿を書けと言われて、改めて幾冊かをぱらぱらとめくってみた。目に止まったのは、各号とも巨勢教室に学ぶよろこびを綴り、それを生涯の生甲斐としたいということが散見されることであった。私は読み乍ら生甲斐とは如何なるものであろうかと考えた。

生甲斐をもつとは充実感をもつことであろう。生涯の生甲斐とは、それによって死ぬ迄日々に張りをもたせたいということであろう。斯かる充実感は何処から来るのであろうか。私はそこにわれわれがそれによってあるものに触れるということがなければならないと思う。われわれがそれによってあるものとは何か、人間のみによって他の動物にないものは言語中枢であると言われる。言葉をもつことによって人間は人間になったのである。言葉は一々の行為を超えて、一々の行為を蓄積する。言葉は一々の行為のみではなく、この現身の生死を超えて人間の行為を蓄積する。私達は電燈を点すとき、見たこともないエヂソンの居たことを確信する。更に私達は化石の系譜を辿ることによって、人類が嘗て単細胞動物であったことを知る。これ等は全て言葉をもつことに由るのである。言葉をもつことによってわれわれが一々の生死を超えた大なる生命の存在を知ることは、これを逆に言えば大なる生命が言葉によって本来の相を露わにすることである。私は斯かる大なる生命がわれわれをあらしめるものであり、われわれは斯かる大なる生命の一端を担うことによって生の充実感をもつのであると思う。

生命は内外相互転換的である。外の酸素を吸って打ちの炭酸ガスを吐き、外より食物を摂って、内の老廃物を排泄するのであり、それによって生命を維持し、形作ってゆくのである。行為を蓄積するとは、死を生に転換することである。食物の欠乏は死を意味する。それを以前の経験を参考として、より大なる取得を持とうとすることである。斯かる経験の蓄積が技術である。私達は社会生活を営む。社会とは斯かる蓄積によって構成された技術の一大体系である。政治も生産も芸術も技術的であり、会話も社交も技術なくしてはあり得ないものである。

生命が内外相互転換的であり、技術が内外相互転換の上に立つとすれば、私達の今持っている技術は、生命発生以来の生命の進化によると言わなければならない。更にそれが言語中枢をもつことによって経験の蓄積をもち、技術的生産的になったとすれば、技術は歴史的創造的であると言わなければならない。歴史的創造的とは作られたものが作るものとなることである。

藤幸雄先生の所に行くと、よく多くの児童が毛筆の墨字を習っている。そして一枚書くと先生の許に持って来て「此処の力は弱い」とか「此処はもっと力を入れて」とか言って朱筆を入れておられる。亦書いて持って来ると「うん此処はよくなったが此処がまだ駄目だ」と言って別な所に朱筆を入れておられる。児童はこの まぬ一筆一筆によって上達していくようである。一筆一筆によって上達するとは、今引いた新しい線が次の線を呼ぶ力となることである。今獲得した力が新しいものを生む力となるのである。読書にしてもそうである。今読んで得た感動が次の書物を理解する力となるのである。そこに創造がある。創造とは今迄無かったものが突然現れるのではなくして、無限の過去を背負うものが一度この我の中に消え、この我の中から新しい形として生れることである。作られたものより作られたものになるとは、われわれは生れ、学ぶことによってあると共にそれが今のこの我のはたらきの中より世界の形として現れることである。そこに真の自己をもつ。この真の自己をもつことがわれわれのよろこびである。世界が技術の一大体系であり、創造の世界であるとはこのような自己によって構成されていることである。そうであるならば何故われわれは生甲斐を見出さなければならないのであろうか。

私達の日々の営みは無数の雑事の処理である。次々と現れては消えていく仕事に忙殺される毎日である。その一々が歴史的形成としての技術内容を有するといっても、それに深い査察を加えるどころではない。一日が終って心身共に疲れ、湯上りのビールに安堵の思いをするのがやっとである。われわれが充実感をもつのは、自己を形作っているものとしての世界の根源に触れることであった。その日その日の明け暮れに追われるというのは、世界が一大技術体系であるだけに却って自己喪失感を持たざるを得ないものである。喪失感とは気力を失うことである。

私はそこに生甲斐を見出さなければならない所以があると思う。そして其処に巨勢教室の意味があると思う。現代の複雑な社会に於いて世界の根源に触れるには日常の雑事から離れて、一つの技術体系に取り組むということがなければならない。内藤先生はその場所と技術を提供して下さっているのである。作られたものより作るものへとは、作られたものとして世界の中にあるものが、逆に世界を内にもつことである。毛筆が一線を引くことは、過去の世界を内容として、一つの新たな世界を作ったことである。

世界の変化とは価値観の変化であり、近代社会の急激な変化は世界と個人の離反を来らしめたようである。そこに現代の精神の荒廃を呼ばしめるものがあると思う。しかし変化は過去の消滅ではない。過去なくして現在はない。過去の上に立ってより大なる世界を作るのが変化である。変化は現在に於ける過去と未来の矛盾の上に生れるのである。そのためには失われた自己を回復するためにはより深く過去に沈潜するのでなければならない。私は近代社会に無用と思われるような書道や短歌がブームとでもいうべき状況を呈しているのは、深く斯かる要請をもつが故であろうと思う。一人一人の充実感が世界の充足をもつのである。新しい世界は常に荒廃の救済としてあるのである。そしてそれは一人一人が担うのである。

新聞によると欧米諸国の人心の荒廃はひどいものらしい。荒廃とは刹那的なものに落ち入ったということである。其の点私はわれわれの祖先が書道や短歌を作ってくれたのを感謝したいと思う。私は西洋文化が理念の顕現と言われるのに対し、日本文化は日常の洗練であると思う。私が所属している短歌部門にしても表現の目指す所は特別の詩世界を作ることではない。日々のよろこびかなしみを深めていくことである。ふかめていくとは言葉によってより細微なものを見ていくことである。洗練とは反復することによって永遠に映し、永遠の姿を帯びてくる事である。我と汝を、過去と未来を包む形を見出でていくことである。そこに私達は真個の自己に接し、充実感をもつことが出来るのであると思う。私は思いを此処に置くとき、めまぐるしい変化の中に起きるべき精神の荒廃を救うこと如何に大なるかを感ぜざるを得ない。

巨勢教室の如きは世界に於いて一微塵にも比すべきものであろう。併しそれはキリストの言う地の塩である。世の中に美しい味わいをつけてくれるものである。内藤先生の労を多としたいと思う。

 

 

2015年1月8日

短歌と身体について

ロダンは、ギリシャの彫刻は、両肩と両足に於いて四つの面をなしている、それは生命の調和の姿である、それに対してミケランジェロの作品は二つの面である、それは苦悩の姿であると言っている。そしてミケランジェロに深く傾倒した彼は作品「考える人」に於いて、上体を深く折り曲げた姿勢によって、人生の苦悩を徹底的に追求している。

短歌とは抒情詩である。感情による生命の表現である。感情とは何か、私達は生命であり、生命は身体的に自己を形作る。私は生命が自己を形作っていく動的なるものが感情であると思う。私達はその激情に於いて身体を忘れる。そして最も静的な睡眠に於いて感情を失う。身体が動く時、身体は情緒としてあるのであると思う。顔の動きは表情としてあるのである。それは顔の動きは感情の動きとしてあることである。

私達は生命として生きているものが死を持つものである。そして身体は力として、力の表出に於いて死を克服して生の姿を打樹てんとするものである。そこに生は喜びとして、死は悲しみとして現れ来るのである。力の表出に於いて死を克服する時に私達は意識を持つ。そして意識に映すことによって世界は無限の展開を持つのである。愛憎はそこに生れるのである。斯かる無限の展開に於いてより深大なる喜び悲しみを見出すのが芸術である。意識に再生させることによってこの我の内容となるのである。それが芸術である。例えば舞踊の如きも、体験した動作が意識の再生に於いて、間然することなき感情の秩序を持つのであると思う。短歌の如き詩は意識の内容としての言葉による表現としてより高次なるものであると思う。言葉は記憶と想像を持つものとして、身体の瞬間性に対して、永遠として時間を包むものである。そこに文字による表現の苦しみがある。併しそれによって深き喜び悲しみに接し得るのである。

2015年1月8日

お伽噺 (意識の原型)

「その昔その又昔を聞かされぬ老母が話は生き生きとして」。みかしほ四月号の中北明子さんの作品である。これを取り上げたのは、この歌が良いとか悪いとか言うのではなくして、私はそこに意識の原風景があるのではないかと思ったからである。以下それを書くことによっていくらかでも明らかにしたと思う。
私達は古代の伝承を神話や伝説やお伽噺として持つ。それ等は何れも有り得なかったことか、あり得たものとしても非常に歪曲されたものである。殊にお伽噺は荒唐無稽とでも言うべきものである。どうして実際にあったことが記述されなかったのであろうか。私はそこに最初の意識を見ることが出来るように思うのである。結論から先に言えば私達の根底に世の中があるといいうことである。そのことは世の中の意識が根底にあり、私達が持つ自己意識はその上に成り立っているということである。
お伽噺では大概正直と意地悪との対立となっている。そして正直者が幸せになり、意地悪が不幸になってめでたしめでたしとなっている。それは果して昔の現実であったのであろうか、私は意地悪じいさんや、欲張りばあさんの方が物を蓄めて威張ったように思えて仕方がない。それなれば何故正直じいさんが幸せになったのか、私は世の中を維持していくために正直という骨格が必要であったがためであると思う。そういう意味で正直は当時の世の中の律法のような意味を持っていたのであると思う。お伽噺は規範として人々の行為の中に働き続けたのであると思う。私はお伽噺が語り継がれたのは世の中の自己維持としてであると思う。
お伽噺は個々の生活を映すものではない。併しそれは生活に形を与えるものである。私はお伽噺を生んだものは全体表象とでも言うべきものであったと思う。フロイドやユングを待つ迄もなく私達の意識は深い。私たちの意識は生命発生以来の三十八億年の蓄積の上にあるのである。少し考えれば記憶も想像も個体としてのこの我を超えたものであることが判る。私達は人類の一人として記憶や想像を持つのである。表現というのもそこにあるのである。私達が短歌を作るのも、祖先が作った世界の中に自分を映し、世界と自分を見出していく行為である。そこに見られた形が創造の内容である。
その昔その又昔は現在に比べて世界と自分が未分化であった。私は花咲じいさんや舌切り雀は自分が世の中から充分に分離していない時生れたイメージであると思う。彼等はそこに表現として世の中と自分とが混合している形像を見出したのである。それは自分の営為よりも深い真実を見出したのである。お伽噺は自分等がそれによってあるものとして語り継がれたのであると思う。老母はそこに生き生きとして語るのである。

2015年1月8日

観念と具体、並びに批評について

前三月号に於いて私は観念は具体を根源に持ち、具体は観念を根源に持つと言った。根源に持つとは、それによってあるということである。今一度別の角度から観念と具体を考えてみたいと思う。そしてその立場から批評ということを考えてみたいと思う。

過日二、三の友人と画の展覧会を見に行った。帰りに誰かが「久し振りに目の正月をした」と言っていた。目の正月をしたとは、見ることによって楽しみを味わったということであろう。見ることは視覚がさまざまの内容を加えることであり、それが見るものの命のよろこびである。展覧会に於いて華麗を感じ、豪壮を感じて、我々は内面に更に大なるものを加えたと感じたのである。併し画家は華麗を描き、幽玄を描き、豪壮を描いたのではない。花を描き、山を描き、滝を描いたのである。対象の筆意を動かすものを色彩と線に追い求めたのである。私はここに観念と具体の真実を見ることが出来ると思う。製作の方向に具体があり、鑑賞の方向に観念があるのである。それは亦表現の動的方向と静的方向であると言い得ると思う。具体と観念が相互根源的であるとは、具体と観念は根源を表現的生命に持ち、表現的生命は具体と観念の動と静に自己を実現することである。

私はここに批評の成立があると思う。静とは写すものである。理性の永遠の鏡に写すところに鑑賞があり、批評があるのである。製作は観念に写して、具体は愈々精緻となっていくのである。表現は歴史的創造的に深化していくのである。観念はその主体的深さを担うのである。相互限定的として作品の価値は観念の深さを宿すところにあるのである。斯かるものとして私は批評とは表現の具体的面が宿した観念を、その観念の深さに於いて露わとすることであると思う。表現的生命は無限の過去を背負うと共に無限の未来への芽を持つ。その全てを露わにすることは恐らく不可能であろう。併しそれに何処迄も入っていくのが批評家の仕事であると思う。それは製作が具体の未知の世界に入った如く、主体の未知の世界に入っていくことであると思う。オスカー・ワイルドの「批評も亦創造である」という言葉に私は深い共感を持つものである。

よく短歌で「それは読者の領域である」と言われる。それは作品の中に主観的側面として観念語の使われている時である。作品の具体による表現が失われた時である。それは観念を内に潜めるものとして具体は具体の発展を持つのであり、それが観念が表に出ることによって理性の世界に転落したということであろう。製作と批評は懸絶を持ちつつ表現的世界を構築するのである。

2015年1月7日

男と女  <知る>

歴史を知る会の研修旅行の時であったかと思う。男が四五人集まった時に中の一人が「わしらは女の体にならへんから、絶対に女を知ることは出来へん」と言った。誰も反論するものの無かったし、私もそのように思った。併し、考えてみると何か不思議である。それなら女は生れつき女体であるから女が解っているのであろうかと思うと、どうも肯き難いものが残っているようで仕方がない。例えば女が生れてすぐに無人島に捨てられたとする。そしてそこで成長するとき如何なる意識を持ち得るのであるか、生きているものとして食欲と性欲の発現はあるであろう。併しそれは無意識のものであって、如何なるものかを知り得ないであろう。ましておのれが女性であることを知ることはないであろう。そのことは、身体を持つことは直に知ることにつながらないということであると思う。それなれば、身体なくして知るということがあるのであろうか。それは不可能である。女性の身体なくして何処に女性があるのであろうか。あるものは全て形に於いてあるのである。形に於いてあるものとして、私は知るとは形が形を見ることであると思う。形が形を見得るためには、形は自分自身を見るものであり、形は見るものと見られるものとしてあるのでなければならない。私はそこに形成作用というものがなければならないと思う。即ち無限に自己の形を作っていくものにして初めて自己を知るということが出来るのであると思う。私はそこに生命があるのであると思う。

生命は激しい生存競争によって自然淘汰として自己を形成して来たといわれる。それは環境との戦いであり、環境に生きるものとしての主体と主体との戦いである。他に打勝つことによって存在し得るものとして、より大なる能力の獲得に絶えず努力するものである。斯かる努力が男女に於いてはより勝れた異性の獲得である。私はそこに女が形の中に形を見るということがあると思う。私はそれは生命が異性として自己の生命を展開したとき、それに内在せしめた能力であると思う。異性は相引くものとして我々は出現したのである。相引くとは結合せんとする意志であり、結合することによって完結としての形相を持ち得る表示であると思う。動物の雄は雌の性ホルモンの臭いに魅かれて寄っていくという。生命はその形成に於いて雌に性ホルモンの臭いを発する機能を、雄にそれを受け取り行動する機能を与えたのである。雌はそれによって結合への発信を持つ身体を持ち、雄はそれを受けて実現への動作を行う身体を持つのである。人間の男女は動物の雌雄よりの発展である。

私は男は女の身体を持ち得ない、女は男の体を持ち得ないというのは無関係ということではなくして、結合によって一を成就するものとして異なる機能を持つのであると思う。相互補完的として一つの完結を持つのである。相手を得ることによって自己の完成があるのである。相手を魅くべき努力がそこに生れる。努力するとは相手の中に消え去ることではない。女性が愈々女性となることである。男性が愈々男性となることである。そこに女性が露わとなり、男性が露わとなるのであると思う。私は知るとはこの女性が愈々露わとなり、男性が愈々露わとなることであると思う。女性は愈々男性ならざるものとなり、男性は愈々女性ならざるものとなるのである。身体的に愈々距離を持つ不可思議者となるのである。而してそのことが女性が露わとなることであり、形に実現したものとして知るものとなることである。私達はここに知るべからざるものとなることが、知り得ることであるという矛盾に撞着しなければならない。而して私はこのことが真に知り得ることであると思わざるを得ない。

私は相互補完的に一なる生命は対象的に 相手を知り得ないと思う。男と女、我と汝に分かれるのではなく、その根底に補完的に一なる生命の働きがあるのであると思う。女性を知るのは高鳴る胸に於いて知るのであると思う。ベアトリーチェに電撃の如きものを感じたダンテはそこに女性を知ったのであると思う。彼はベアトリーチェの才能を知ったのでもなければ、肉体を知ったのでもない。ゲーテの言える如く、「永遠に女性的なるもの我を誘いてあらしむ」の「我をあらしむ」もものに出会ったのである。異性を統一する根底的に一なるものに出会ったのである。私は斯かるものは絶対に我ならざるものが我であるところより生れてくるのであると思う。男性より見て、女性が我ならざるものであることは、女性より見て、男性が我ならざることである。胸が高鳴るとは斯かる我ならざるものが直に一であるということである。異なる身体が、それによって同一を見ることによって自己を完結するのである。目が身体を超えて結ぶごとく、身体を超えて鼓動が相搏つのである。

生命は形成的である。形成とは形に自己を実現していくことである。それは常に実現すると共に、形を実現せんとする働きを持つことである。形は働きを持ったものであり、働きは形の働きである。私は斯かる形成は分離と統一として自己を実現していくのであると思う。分離の方向に身体があり、統一の方向に感情があるのである。それは母と子の如きものである。子は母より分かれたものである。各々異なった身体としてあるものである。各々自己の身体を養うものである。而して両者は切っても切れない結合を持つのである。その切っても切れないものは情愛として働くものである。男女の分離はそれと事情を異にする。併し分離と統一としての形成として一である。身体は自己の身体を養うものとして、分離は益々分離を要求するものである。愈々女性ならんとし、愈々男性ならんとすることは絶対の懸絶を持つことである。而して斯かる懸絶が補完的としてより大なる形成を持つのである。それはより大なる統一であり、一ならしめるものとしてのより大なる感情の出現があるのであると思う。距てることが大であるとは、相魅く力の大なることである。相魅く力に於いて懸絶するのである。その深淵を埋めるものは胸の鼓動であり、電撃の如き明光である。懸絶はより大なる鼓動となり、より強き明となるのである。私は斯かる感情の表出は判断ではなくして表現であると思う。因果を求めるのではなくして、高鳴りや明光そのものに迫っていくのである。思慮を捨てて生命が開示するものを仰ぎ見るのである。そこに私は知るべからざる女体を知るのであると思う。勿論表現への努力は判断に於いて知るのではない。古今の詩人は飛翔して捉えることの出来ない女性を謳った。画家は描き切れない微妙を描いた。そして謳い、描くことによって高鳴りを増幅し、明光を強大ならしめることによって知ったのである。相互補完的として生命形成の不思議に於いて知ったのである。高鳴りに於いて、明光に於いて不思の底に奏で合うものとして知ったのである。私達は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と阿倍仲麻呂が謳ったのを読む時、故郷を望んだ彼の思いに涙の出で来るのを感じる。千年の時間を距てて、彼の流した涙は私の目に流れるのである。距てた身体は直に一つである。私はベアトリーチェを知らない。併しダンテを読む時、世界の風光を一変せしめる電撃の如きものがわが身を走るのである。そこに感情があるのである。身体と感情、懸絶と統一としての生命形成があるのである。

斯かる身体と感情、懸絶と統一としての生命形成は如何なるものによって成立することが出来るのであるか、私はそれは一々の個体が世界実現的にあることであると思う。世界実現的にあるとは各々個体が自己を実現しつつ根源的同一を有するということである。根源的同一を持つことによって形成的であるとは、身体は同じ状況に於いて同じ形象を生み出すということである。我々はホモサピエンスとして、百二十億の脳細胞と六十兆の細胞を持つと言われる。更に形成物質としての蛋白質も等しいと言われる。私は斯かるものとして人類は同一の形質において時とところに応じた形象を現すのである。故に喜怒哀楽は同じであり、それを生起せしめた状況を異にするのである。斯かる時とところを超えて、そこに時とところが成立するのが永遠である。時とところに距てられて、異なった形象が同一を感ずるのが共感である。仲麻呂の流した涙がこの我々の目より流れる時、そこに我々は永遠を知るのである。永遠を形象化するのが表現である。永遠を形象化するとは、生死する身体を超えることである。言葉が言葉を生み、形が形を生むものとなることであることである。詩が生れ絵画が生れるのである。女性は詩に作られ、絵画に作られるものとなるのである。そこに女体はその神秘を開いていくのであり、そこに私達は女性を知るのであると思う。しかしてそのことは愈々深き神秘のベールをまとったということであると思う。

表現は時を超えて時を包むものとして、世界が世界を見るものである。世界の自己限定の形式である。それは男性や女性を超えたものである。詩や、絵画や、音楽によって女性が愈々賢くなり、愈々美しくなるということは、世界が自己を深めるということが女性が深まるということでなければならない。女体の本能的欲望を超えたものが、女体を包むことによって女性は自己形成を持つのである。斯かる無限の形成に於いてゲーテの「我を誘いてあらしめる」永遠に女性的なるものがあらわれるのであると思う。

2015年1月7日

具象と観念について

表題は、具象と抽象についてとするのが妥当かも知れない。しかし、私達の「みかしほ」歌会に行くと、具象的であるとか、観念的であるとか言われるので、このようにした。この言葉は、一応表現の両極として対立するものとして受け取られている。そして、具象の方向に写生歌が言われ、観念の方向に象徴歌が言われているようである。しかし、多くの人の言われていることを聞くと、短歌という一つの表現世界の形成として、何処に乖離をもち、何処に接点をもつかが曖昧なように思う。そしてそれを明らかにすることなくして、真に批評や鑑賞が出来難いと思うので、その根源を考えてみたい。
 よく観念は主観的、具象は客観的と言われる。観念は我に、具象は物に即するのである。私は、このことは両者は生命形式の両極としてあると思う。生命はその形成において内外相互転換的である。外を食物とし、食物を摂ることによって身体を形作っていくのである。身体を内として、摂取して不用となったものを排泄するのである。そこに内と外が成立する。食物は我ならざるものである。それを摂取することは、我ならざるものを我とすることである。我ならざるものが我となるものとして、食物は我をとり巻くものである。とり巻くものとして雑多としてあるものである。環境はさまざまのものとしてある。それはまず我々の食物としてあるのである。私達はそれを摂ることによって身体を形作るのである。身体として形作るとは有機的統一体となることである。環境の多に対して、形作るものとして一の実現となるのが、生命であり身体である。

私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るという時、西田博士の言われる自己においてということが必然的に見られなければならないであろう。しかし、今はそれを問わないことにする。私は斯かる自覚を物の製作において見ることが出来ると思うのである。内外相互転換としての生命は、外をより大ならしめることが内をより大ならしめることである。生命は形成作用としてより大ならんとするものである。それを内外相互転換の働きにおきて実現するのである。より大なる生命の実現は古い生命の形を超えて、それを包んだ新しい形が生まれることである。私はそこに自然にある生命から、製作する生命を見るのである。製作的生命になるとは、環境が物としてこの我が主体となることである。物と我が対立することである。製作において物と外が対立するとは、自然においては対立を持たなかったことである。嗅覚において、視覚において外と内とが直に一つであったということである。人間は額に汗して生きるものとなったのである。内外相互転換は額に汗することによってあるものとなったのである。行動が反射として感覚が直に動作なる時、私達はそこに具象も観念ももつことは出来ない。対立が生まれたとは相互否定的にとして自己を見てゆく生命となったということである。食物がなければ我々は生きて行けない命であり、食物は食べればなくなるものである。その食物を単に外として偶然に任すのではなく、働くことによって作り出して、自己の内容とするのが製作することである。私はそこに具象と観念を持つのであると思う。製作するとは物と主体に分かれた形成作用が、主体に物を映し、物に主体を写すものとして一となることである。そこにこの我はより大なるものとなるのであり、物はより豊富なものとなるのである。
例えば私達は米を作る。米は有機的生命のこの我に化すものとして有機物である。斯かるものとして米は直接獲得するのではなくして、稲を栽培することによって獲得することが出来るのである。そのために太陽の恵みの豊かな所を選び、水利の便をはからなければならない、私達はそこに天を知り、地を知るのである。そして、それは風雨を防ぎ、水路を作る労働の中より生まれるのである。そして斯かる製作の中から言葉が生まれるのである。大なる自然を目的によって変革するということは、個々の力のなし得るところではない。生命は本来種として集団的である。手振りや鳴き声など、他者への信号を持つということは、既に集団的であるということである。外に物を作る時働くものは先ず集団としてあるのである。物に対する主体は先ず集団が担うのである。私は斯かるものとして、物の製作は世界形成的であると思う。私とか物を超えて生命が世界形成的となる時に製作があるのであり、自覚とは世界形成的に自覚するのであると思う。世界形成とは生命の自覚として具体的であり、全存在である。私はここに観念と具象があると思う。観念と具象は自覚ではない、自覚を担うものとなるのである。観念と具象は対立しつつ一なるものとして自覚の実現者となるのである。而して対立しつつ一なるとは物と主体の構図であった。私はそこに具象と観念の成立があると思う。即ち製作されたものの方向に具象があり、製作するこの我の方向に観念が成立するのである。物のあり方が具象のあり方であり、この我のあり方が観念のあり方である。

前に書いた如くこの我は対象の雑多なるものを内とする統一者とあるのである。斯かる統一は消耗を充足する身体を持つものとして絶えざる努力である。製作は内を外とし、外を内とする絶えざる努力である。斯かる努力が製作であるとは、製作は内が外を映し、外が内を映す無限なる発展であることである。内が外を映すとは、水が低きに流れる性を捉えて水路を作る如きであり、外が内を映すとは石に手を写して石器として使用するが如きである。手の延長として道具を作ることである。道具を作ることは対象を作り、対象を作ることは道具を作ることである。自覚的生命として内に転換すべき外は製作された物である。我々は製作した物によって生命を養うものとなるのである。そのことは亦道具を介して自己を見るものとなることである。そしてこの我は道具を作り、物を作るものとして世界を実現する統一者となるのである。

観念がこの我のあり方であるとは、生命の形成作用は世界実現的であるということである。主体としての集団とは個を内に持つものである。個を内に持つものとして集団である。集団とは同一の体制を持つものである。それが対象が発展して様々の物の作ることは個への分化を持つことである。道具の多様化として個人が生まれてくるのである。斯かる多様化は世界の実現として統一者が求められなければならない。而してそれは世界を実現するものとして大なる力能者でなければならない。私はそこに神の誕生があったと思う。神は実体ではない。製作に於いて現れた作るものと作られたものの根源としての統一である。この我と物を内容とするものである。それが内容の実現者として、内容に望むとき神は観念となるのである。万事を制約する無制約者として出現するのである。私は観念はここに出現し、全ての観念はこの光被を持つものとして出現したのであると思う。そして具象も亦ここに出現したのであると思う。

製作が内を外とし、外を内とする無限の努力であるとは、我を物と化し物を我と化することである。我を物とすることは物が実現することであり、物を我とすることは我が実現することである。物と化するといってもこの我が物となることではない。物を働きに於いて内包するものとして技能者となることである。技術を持つものとなることである。道具を持つということは物の形相を内に持つということである。物の形相とはこの我が生存すべく、身体の用に作られたものである。木は家を建てるものとして物である。木は家ではない。我々はそれを身体の延長としての道具を用いることによって実現してゆくのである。道具を用いて作るとき、家は身体の用として我々は家のイメージを持ち、イメージを持つことによって実現していくのである。一度作り出されたイメージは脳の中に記憶され、働くものとして次の建築を先導するものとなるのである。ここに世界が形成されるのである。私は愛は斯かる生命の形成の感情であると思う。この形成に於いて、木を愛し、道具を愛し、我を愛し、弟子を愛し、手伝い人を愛するのである。愛とは生命の同一を創出することであり、この創出された同一が価値感情として観念である。具象は斯かる世界形成の手段として出現するものであると思う。木を削り、石を担ぎ、組み立てるのが具象である。愛が観念として、働くものとして不滅なるものに対し、現われて消えゆくものである。愛は生死を超えて全ての人が持つのに対して、人は死に、家は壊れる。併し、削り運ばれることによって世界が実現していく如く、此処から愛が生まれて来るのである。汗から、力の表出から一つの形を生み出してゆくのであり、形の実現が一のものとして愛が生まれ、はぐくまれるのである。削られ現われた木肌、一つの構想の下に据えられていく礎石等一々が愛惜の情を担うのである。愛の観念はその一々が担うのである。愛は具象に出現するのである。具象の一々を失った愛の観念は何ものでもない空虚なものである。物に主体を映し、主体に物を映す無限なる働きとしての生命は、具象は観念の光りを受けて出現し、観念は具象に担われるものとして世界を形成していくのである。

私は、短歌は生命の表現としてここに二つの道を持つものと思う。一つは具象より観念を見出す道であり、一つは観念より具象を見出す道である。一つは写生の道であり、一つは象徴の道である。写生の道とは具象は観念を担い、世界を実現するものとして現実の姿を追求することである。一つは働くものが自己を表すのが世界であるとして、具象を主体の陰として見ようとする立場である。一つは物の事実より世界の展開を見ようとする立場であり、一つは感情の事実より世界の展開を見ようとする立場である。それは相反する立場である。併し私は生命形成が主体に物を写し、物に主体を写すものとして、この相反する両方向を持つと思わざるを得ない。世界形成に於いて外は物に発現し、物は感情に発現するのである。内外相互転換の形成として物が身体の発現となる時に感情が生まれ、身体が物の発現となる時に具象が生まれるのである。そして発現する物は一方を内に含む物となるのである。前者に於いて感情は物を含み、後者において物が感情を含むのである。世界形成的に内が外を含むとは、内が愈々大となることであり、外が内を含むとは外が愈々大なることである。物を作るということは身体を作ることであり、身体を作るということは物を作ることである。身体に感覚を愈々精緻ならしめるのである。精緻ならしめるとは多様なる物を感受し、表現する機能を持つことである。世界形成的生命として主体はそこに自己を見出していくのである。そのことは必然的に物が多用なる物として出現することである。

表現するとは自己を露にすることである。露にするとは外に見ることである。外に見るとは自己ならざる物とすることである。自己ならざる物として自己と対立するものとなることである。言われる如く機械は逆に人を使うものとなり、商品は対価を払うことなくして使用し得ざるものとなるのである。併し外は内に転化するものとして外である。内を映した外として、それを更に内とすることは更に大なる我となることである。外を益々多様として、その多様を内に包むものとなるのである。生命はそれを喜びとして直観するのである。そしてそれを失うことが悲しみである。そこに耐えざる外化と内化を要求するのである。物の出現が喜びを生み、喜びが者の出現としての製作へと駆り立てるのである。感情は働く主体の純なる流れである。形作られる身体の表出である。それが外によって養われたものとして働く形を持つのが観念である。故に愛も神も感情として出現するのである。外の多を一として実現する身体の表現は感情である。斯かるものとして生命形成は、具象と観念の無限の交叉である。一即多、多即一、内即外、外即内として世界は相即的に形成するのである。これをたとえば瓜の栽培をする時我々は豊かな食生活を期待する。この期待はこの我が持つのである。併し別の言葉で言えば期待は瓜の中に棲むのである。種子を蒔くと共に希望が生まれるのである。瓜苗の生長は希望の成長である。そこにこの我に愛の感情が生まれるのである。栽培はこの我がする時、愛によって瓜が育ち、瓜によって愛が育つのである。これを瓜の育つ側から見れば具象であり、愛の育つ側から見れば観念である。外に物が形を成し、内に身体が機能を持つものとして形を成すのである。これが世界が世界を作り、世界が実現することである。而してこの世界形成は相即の世界として、事より事への世界である。見るべからざる世界である。それを見るには何れか一つの立場に立つということが必要である。そこに写生と象徴の立場に分かれるのである。併し生命形成は何処までも内外相互転換的である。詩が生命の形を追求するものである限り、一つの立場は行き詰まらなければならない。

写生が写生の立場に固執し、観念が観念の立場に固執する時に袋小路に入らざるを得ない。それがマンネリである。生命の内外相互転換は短歌の表現に於いて具象と観念の交叉である。それは相互否定的に一ということである。私は一つの立場を取りつつ相互否定的であるということは、或る時は観念が優勢となり、或る時は写生が優勢となることであると思う。観念が優勢となってその方向に突進む時に目指したものが一つの熟成を持ちマンネリとなるのである。そしてそれを打ち破る具象の立場が現われるのである。そしてそれが新しい世界を負うものとして目覚しく展開し、熟成していくのである。そしてそれを観念が打ち破っていくのである。それは前の形を破った物として一つの形であり、無限に動的な生命の一の形として打ち破られるべく現われたものである。併しそれは単に打ち破られたのではない。打ち破るのはより大なる力の出現でなければならない。具象は既成の観念の形を内に含むものとして新たな形を持つのであり、観念は更にその形を包むものとして時間の上に現われるのである。斯くして停滞は過去の形相を陰影とする多彩なる展開となるのである。そこに創作は無限となるのである。

 

2015年1月7日